Linuxはどのようにして生まれたのかをリーナス・トーバルズの述懐から紐解く – GIGAZINE

Linuxはどのようにして生まれたのかをリーナス・トーバルズの述懐から紐解く – GIGAZINE
https://gigazine.net/news/20150826-linus-told-how-linux-born/

 ※ 一般に流布している話しでは、「Linux」とは、「リーナスのUnix」ということだった…。

 ※ 真相は、「リーナスのMinix」ということだったのか…。

 ※ いずれ、この人が、「貧乏」だったおかげだな…。

 ※ 単なる「移植」だけではなく、「オープン・ソース」という「文化」をも、切り拓く「画期」となった、エポックメーキングなでき事だった…。

 ※ フィンランド在住だったことも、大いに影響したと思われる…。

 ※ これが、米国在住でもあったなら、たちどころに「メジャーな企業どころ」が、アプローチして、たちまちの内に、「取り込まれた」ところだったろう…。

『 By Krd

無料の一般向けOSとしてだけでなくスーパーコンピューター用のOSとしても広く利用されている「Linux」は、オープンソースソフトウェアとして最も成功した傑作と言われています。

そのLinuxの生みの親であるリーナス・トーバルズが、1996年に受けたインタビュー内で、Linuxが誕生するまでのいきさつについて述べています。

How Linux was born, as told by Linus Torvalds himself | Ars Technica UK
http://arstechnica.co.uk/business/2015/08/how-linux-was-born-as-told-by-linus-torvalds-himself/

フィンランド・ヘルシンキで生まれたリーナスは、1988年にヘルシンキ大学に進学し、コンピューターサイエンスを専攻しました。

当時、大学には1986年にリリースされたUNIXを搭載としたMicroVAXが16ライセンス分しかなかったこともあり、UNIXを学習するコースは順番待ちの生徒であふれ返っていたとのこと。

「『UNIXは複雑だ』と一般的に言われていますが、実のところ、とてもシンプルです」と、リーナスは述べています。

アンドリュー・タネンバウムの著作「Operating Systems: Design and Implementation」に書かれていた「Minix」と呼ばれる学習システムのソースコードを学習教材にしていたリーナスは、忌み嫌っていたIntelの8088CPUの後継である80386CPUのパフォーマンスに満足を覚え、80386チップ搭載の自分専用のコンピューターをゲットしています。

これは、コンピューター用チップが急激に安くなってきたことと、リーナスが実家住まいでかつフィンランドの奨学制度の学生ローンを活用することができたという出来事が重なったおかげだとのこと。

元旦もアルバイトで小遣い稼ぎをしたリーナスは、PCを手に入れた1991年1月5日のことを鮮明に覚えていると述べています。

念願のPCを手に入れたリーナスでしたが、Minixのフロッピーディスクを手に入れるまで時間がかかり、UNIXプログラミングの世界にすぐに突入することはかなわず。仕方なしにMS-DOSのゲームで時間をつぶすこともあったとのこと。

手持ちぶさたのリーナスは80386アーキテクチャについて学習するために、タスクを切り替えるタイマー付きのタスク切り替えプログラムのテストを実行していたそうで、このシンプルなタスク切り替え用プログラムは、Linuxカーネルの「芽」として後に花開くことになったとリーナスは振り返っています。

Minixを自分専用に改良していたリーナスは、そのOSをLinus’s Minix(リーナスのMinix)の造語として「Linux」と命名。

同じころPOSIX標準規格に関する情報をニュースグループ内で求めていたリーナスは、ヘルシンキ大学のスタッフであったアリ・レンクにPOSIXが有料であり無料では手に入れられないということを教えられます。

OSやカーネルに関心があるとリーナスに話したレンクはLinuxに関心を示し、貧乏だったリーナスのためにFTPサーバーを提供すると申し出てくれたそうで、そのときに「/pub/os/linux」というディレクトリを作成してくれたとのこと。

当初、リーナスにとって「Linux」という名前は完全にプライベートだったソフトに対してつけた愛称であり、オープンな場面で使用することは想像していなかったそうで、後にFreeのUnixという「Freax」という名前に変更するほうが良いのではないかと考えたこともあったとのこと。

しかし、レンクが頑としてディレクトリ名を変更してくれなかった結果、Linuxという名前が存命することになったそうで、「FreaxではなくLinuxになったことは、結果としてラッキーだった」と述べています。

レンクもLinuxの開発に参加して、1991年4月にオープンソースでソフトウェアを開発するというプロジェクトが誕生。

最初のバージョンのLinuxはごく一部の知人に対してメールで紹介されただけで、数週間後にできたバージョンはできも良かったことから、Minixのニュースグループcomp.os.minixに対して公開されることになりました。

1991年8月25日、リーナスは以下のテキストを添えてソフトウェア「Linux」をニュースグループcomp.os.minix上で公開しました。

今振り返るとこのテキストは、その後のLinuxという偉大なソフトウェアを紹介する最初の文として、後世まで多くのコンピューターファンに読まれる歴史的な一文と言えるかもしれません。

こんにちは。MINIXを使っているみなさん。
386(486)マシン用のフリーOSを作っています(GNUのような大きくて専門的なものというわけではなく、あくまで趣味で楽しめるものです)。4月から計画していたのですが、ついに準備が整いました。 』