「プーチン」「習近平」も「キッシンジャー氏」を追悼、徹底した“現実主義”外交の功罪
https://www.dailyshincho.jp/article/2023/12191100/?all=1
『長く厳しい“コロナ禍”が明け、街がかつてのにぎわいを取り戻した2023年。侍ジャパンのWBC制覇に胸を高鳴らせつつ、世界が新たな“戦争の時代”に突入したことを実感せざるを得ない一年だった。そんな今年も、数多くの著名人がこの世を去っている。「週刊新潮」の長寿連載「墓碑銘」では、旅立った方々が歩んだ人生の悲喜こもごもを余すことなく描いてきた。その波乱に満ちた歩みを振り返ることで、故人をしのびたい。
(「週刊新潮」2023年12月14日号掲載の内容です)
***
【写真を見る】絵沢萠子さん、ジェフ・ベックさん、のっぽさん……激動の2023年にこの世を去ったあの人この人を、在りし日の素敵な笑顔で振り返る
その動きは「忍者外交」と呼ばれた。1971年、米国のリチャード・ニクソン政権の国家安全保障問題担当の大統領補佐官、ヘンリー・キッシンジャー氏は訪問中のパキスタンで姿を消す。体調を崩して静養するとはうそ。実は北京に飛び、周恩来首相と会談していた。
国交のない中国との関係改善を大統領から指示されると、外交を担当する国務省に相談せずに中国と水面下で交渉を続け、翌72年、ニクソン訪中を実現させた。
外交評論家の田久保忠衛氏は振り返る。
「キッシンジャー氏は中国通ではなく、ソ連問題専門家としてニクソン大統領から高く評価されていました。当時の中ソ対立に注目し、米中が近づくことで最大の敵ソ連をけん制したのです」
狙い通り米中接近の影響で米ソの緊張緩和が進む。キッシンジャー氏は複数の大国が力の均衡を保つことで世界は安定すると考えた。
「国際的に政治力を行使するには、背景に軍事力が必要だと考えていた。その点で日本は軽く見られていた面があります」(田久保氏)
23年、ドイツ生まれ。ユダヤ人の家系である。ナチスの迫害を受け、38年に米国へ。工場で働きながら高校に通う。43年に帰化。第2次世界大戦では欧州戦線で諜報部隊に所属した。ハーバード大学に進み54年に博士号を取得。
ノーベル平和賞受賞
ニクソン大統領の求めで69年、補佐官に就任、最初の大きな成果が大統領の訪中である。この動きは日本に事前に知らされなかった。72年に就任した田中角栄首相は日中国交正常化を急ぎ、同年、米国の交渉を追い抜く形で国交を樹立する。
共同通信のワシントン支局長などを歴任した春名幹男氏は言う。
「米国の公文書を読み解くうち、キッシンジャー氏が田中首相に“上前をはねた”などと強い不信感をいだいていたことがわかりました。ロッキード事件で田中氏が76年に逮捕された背景に、贈賄先を記した内部文書が日本側に渡るようにしていたキッシンジャー氏の動きがあることも取材でつかんだ。田中氏は米国外交を邪魔した者として復活できないよう葬り去られたのです」
ベトナム戦争の和平協定をまとめたとして73年、ノーベル平和賞受賞。大国優先で人権軽視とも批判された。77年に国務長官を退任。』
『訪中は100回超え
国際関係学研究所の所長、天川由記子氏は思い返す。
「80年、ミズーリ大学に留学中にキッシンジャーさんの講演を聞く機会に恵まれました。外交は取り引き、駆け引き、綱引きで、現実から離れてはいけないというような内容でした。質疑応答の時間にシーレーン防衛について持論を展開しながら質問したところ、21歳の小娘の意見を正面から受け止めて下さった。人を育てる教育者でもあると感じました。後で握手を求められ、外交の分野に進んではどうかと声をかけてくれました」
氏の知られざる一面だ。コンサルティング会社を設立。講演しつつ世界を回り、政界の実力者と関係を築く。
「91年、キッシンジャー氏は中央政界に出る前のプーチンに会った。彼がかつて情報機関で働き東ドイツにいたことを知ると、“まともな人はインテリジェンスの仕事から始める。私もそうだ”と答えた。以来、信頼関係を保ちました」(春名氏)
新しい変化への関心は失わず、自律的に動くAI兵器に警鐘を鳴らした。一方、
「柔軟な態度で接すれば、中国も現実的に相応の対応をするはずとの氏の見方は崩れています」(田久保氏)
その中国を100歳を迎えた後の今年7月に訪問、習近平主席と会談している。訪中は100回を超えた。
11月29日、逝去。
「晩年は提言が米国政権に採用されたかどうか。それでも世界の政権中枢と会い続けたのは、インテリジェンスの仕事が原点だからでしょう。何げない言葉や対応から情報を直接取ろうとしていたのです」(春名氏)
デイリー新潮編集部 』
「プーチン」「習近平」も「キッシンジャー氏」を追悼、徹底した“現実主義”外交の功罪
https://www.dailyshincho.jp/article/2023/12191100/?all=1
『長く厳しい“コロナ禍”が明け、街がかつてのにぎわいを取り戻した2023年。侍ジャパンのWBC制覇に胸を高鳴らせつつ、世界が新たな“戦争の時代”に突入したことを実感せざるを得ない一年だった。そんな今年も、数多くの著名人がこの世を去っている。「週刊新潮」の長寿連載「墓碑銘」では、旅立った方々が歩んだ人生の悲喜こもごもを余すことなく描いてきた。その波乱に満ちた歩みを振り返ることで、故人をしのびたい。
(「週刊新潮」2023年12月14日号掲載の内容です)
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【写真を見る】絵沢萠子さん、ジェフ・ベックさん、のっぽさん……激動の2023年にこの世を去ったあの人この人を、在りし日の素敵な笑顔で振り返る
その動きは「忍者外交」と呼ばれた。1971年、米国のリチャード・ニクソン政権の国家安全保障問題担当の大統領補佐官、ヘンリー・キッシンジャー氏は訪問中のパキスタンで姿を消す。体調を崩して静養するとはうそ。実は北京に飛び、周恩来首相と会談していた。
国交のない中国との関係改善を大統領から指示されると、外交を担当する国務省に相談せずに中国と水面下で交渉を続け、翌72年、ニクソン訪中を実現させた。
外交評論家の田久保忠衛氏は振り返る。
「キッシンジャー氏は中国通ではなく、ソ連問題専門家としてニクソン大統領から高く評価されていました。当時の中ソ対立に注目し、米中が近づくことで最大の敵ソ連をけん制したのです」
狙い通り米中接近の影響で米ソの緊張緩和が進む。キッシンジャー氏は複数の大国が力の均衡を保つことで世界は安定すると考えた。
「国際的に政治力を行使するには、背景に軍事力が必要だと考えていた。その点で日本は軽く見られていた面があります」(田久保氏)
23年、ドイツ生まれ。ユダヤ人の家系である。ナチスの迫害を受け、38年に米国へ。工場で働きながら高校に通う。43年に帰化。第2次世界大戦では欧州戦線で諜報部隊に所属した。ハーバード大学に進み54年に博士号を取得。
ノーベル平和賞受賞
ニクソン大統領の求めで69年、補佐官に就任、最初の大きな成果が大統領の訪中である。この動きは日本に事前に知らされなかった。72年に就任した田中角栄首相は日中国交正常化を急ぎ、同年、米国の交渉を追い抜く形で国交を樹立する。
共同通信のワシントン支局長などを歴任した春名幹男氏は言う。
「米国の公文書を読み解くうち、キッシンジャー氏が田中首相に“上前をはねた”などと強い不信感をいだいていたことがわかりました。ロッキード事件で田中氏が76年に逮捕された背景に、贈賄先を記した内部文書が日本側に渡るようにしていたキッシンジャー氏の動きがあることも取材でつかんだ。田中氏は米国外交を邪魔した者として復活できないよう葬り去られたのです」
ベトナム戦争の和平協定をまとめたとして73年、ノーベル平和賞受賞。大国優先で人権軽視とも批判された。77年に国務長官を退任。』
『訪中は100回超え
国際関係学研究所の所長、天川由記子氏は思い返す。
「80年、ミズーリ大学に留学中にキッシンジャーさんの講演を聞く機会に恵まれました。外交は取り引き、駆け引き、綱引きで、現実から離れてはいけないというような内容でした。質疑応答の時間にシーレーン防衛について持論を展開しながら質問したところ、21歳の小娘の意見を正面から受け止めて下さった。人を育てる教育者でもあると感じました。後で握手を求められ、外交の分野に進んではどうかと声をかけてくれました」
氏の知られざる一面だ。コンサルティング会社を設立。講演しつつ世界を回り、政界の実力者と関係を築く。
「91年、キッシンジャー氏は中央政界に出る前のプーチンに会った。彼がかつて情報機関で働き東ドイツにいたことを知ると、“まともな人はインテリジェンスの仕事から始める。私もそうだ”と答えた。以来、信頼関係を保ちました」(春名氏)
新しい変化への関心は失わず、自律的に動くAI兵器に警鐘を鳴らした。一方、
「柔軟な態度で接すれば、中国も現実的に相応の対応をするはずとの氏の見方は崩れています」(田久保氏)
その中国を100歳を迎えた後の今年7月に訪問、習近平主席と会談している。訪中は100回を超えた。
11月29日、逝去。
「晩年は提言が米国政権に採用されたかどうか。それでも世界の政権中枢と会い続けたのは、インテリジェンスの仕事が原点だからでしょう。何げない言葉や対応から情報を直接取ろうとしていたのです」(春名氏)
デイリー新潮編集部 』