東南アジアの王朝史(再掲)

東南アジアの王朝史(再掲)
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『(1) はじめに

 東南アジアには、アンコールワット、バガン、ボロブドール、アユタヤ、スコータイ、チャンパなど多数の遺跡がある。これらの遺跡を造った王朝の栄枯盛衰について考察する。 

(2) 海のシルクロードによる東南アジアでの国家形成

 紀元前後になると、インド人の航海者たちは、地中海地方の国が買い上げてくれる黄金、香料などを得るために、モンスーンを利用して東南アジアの群島部(現在のインドネシア、マレーシア)に来航していた。

 一方、中国人商人は、絹や黄金を持って、東南アジアを経て南インドに向かい、帰りには宝石やガラス製品を持ち帰った。

 このため、南インド、ベンガル湾、マラッカ海峡、インドシナ半島の湾岸に沿って海のシルクロードが完成していた。

<8世紀から9世紀頃の東南アジア>

 インド、東南アジア及び中国を結ぶ海上交易ルート(海のシルクロード)の途中に位置する現在のベトナム南部に、各地の港湾都市の連合体のようなチャンパ(2世紀末~17世紀)が興った。

 7世紀頃になると、東南アジアに来航したインド人航海者たちは、帰航のため又は中国に向かうためのモンスーンの時期が到来するまで、東南アジアに滞在する必要があった。
このため、居住用の設備、食料、物品の入手や、自分たちを警護してもらう目的で、現地の首長たちと結びついた。

 そのうち、富や武力などの支配力に抜きんでた首長が現れ、ついに、インドネシアのジャワ島にシャイレーンドラ朝(750年~832年)が成立した。

 シャイレーンドラ朝はジャワ島に大乗仏教の遺跡であるボロブドゥールを建造した。

 また、7世紀頃になると、帆船(ダウ)が大型化したため、インド人航行者は中国の絹織物などを求めて、マラッカ海峡を通過し、中国に向かうようになった。

 このため、マラッカ海峡の周辺のところどころに、モンスーン待ち、物産の集積、真水の補給などの要求を満たす機能を備えた都市国家が誕生した。

 このようにして、インドネシアのスマトラ島に、海のシルクロードの中継基地としての役割を担うシュリヴィジャヤ王国(7世紀半ば~9世紀)が登場した。

 なお、シャイレーンドラ朝とシュリヴィジャヤとの関係については、同一の国家であるか異なる国家であるかよく分からない。

(3) 中国南部からインドシナ半島にかけての民族の大移動

 7世紀頃から、中国の南部の人口が増加したため、中国南部に住んでいた、クメール人、ヴィエトナム人、ビルマ人、タイ系諸族の人々が、民族毎に時代を異にしながら南下した。

前アンコール朝(~802年)

 クメール人は、チャンパサック地方(現在のラオス南部でワット・プー遺跡の近く)に国家を建てたが、統一と分裂が繰り返された。
 
ピュー人国家(~832年)

 ビルマ人は、多数の村落を造り、村毎に精霊信仰「ナッ」を祀っていた。多数の村落をまとめ上げた王は、ポッパ山にナッ信仰の総本山を建てたが、832年頃に消滅した。

<11世紀頃の東南アジア>

(4) 群島部の衰退

 中国において勢力を誇っていた随・唐帝国が907年に滅び、中国が分裂すると、海のシルクロードを航行する船が減少したため、港湾都市国家は衰え始めた。

 そこに、926年ムラピ火山が大噴火を起こしたので、ジャワ島にあったシュリヴィジャヤ王国は完全に崩壊した。また、ボロブドールも19世紀まで火山灰の下に眠る。

(5) 半島部の繁栄

ヴィエトナム(李朝)
(1009年~1225年)

 中国南部から南下してきたヴィエトナム人は、中国の影響下で国家を存続させていたが、李朝は中国から独立した安定王朝を築いた。

バガン朝(1044年~1299年)

 9世紀前半にピュー人国家が忽然と消滅した後、ビルマ族による最初の統一国家であるバガン朝が興った。

 バガン朝は、王都バガンにおいて極めて多数のパゴダ(仏塔)と寺院を建てた。

アンコール朝の勃興及び隆盛
(802年~1432年)

 ジャヤバルマン2世は、802年に群雄割拠状態の国内を統一してシェムリアップ近郊のアンコールに王朝を興した。

 アンコール朝の歴代の王は、勢力範囲をインドシナ半島(現在のカンボジア、タイ及びラオス南部)に拡げると共に、アンコール・ワットやアンコール・トムなどの寺院を次々に建設した。

<13世紀頃の東南アジア>

(6) 半島部における栄枯盛衰

 アンコール朝の衰退

 アンコール朝は、雨期にメコン川を流れてくる多量の水をトンレサップ湖及び巨大な貯水池に貯えると共に、灌漑用水路網を完成させたため、この周辺では1年に3回も田植えができたので繁栄した。

 灌漑とは、泥土を含む水が土壌を再生させる働きであるが、シェムリアップ近傍は高低差が少ないため、多量の沈殿物が貯水池や灌漑用水路に堆積してしまう。

 このため、堆積された沈殿物を取り除く保守作業が必要になるが、年月の経過と共に多量の沈殿物が堆積し、ついに貯水池や灌漑用水路の保守作業ができなくなって、アンコール朝は衰退していく。

スコータイ朝
(1220年~1438年)

 アンコール朝の勢力が衰えると、現在のタイ国領内では、タイ系民族がスコータイを占拠して、タイ人最初の国家であるスコータイ朝を興した。

<14世紀頃の東南アジア>

(7) 半島部における大変動

 13世紀後半になると、中国の元朝(モンゴル)がインドシナ半島に対して数回にわたって軍事行動を起こした。

 ヴィエトナムは持ちこたえたが、多数のパゴダや寺院の建設により財政が疲弊していたバゴン朝は滅ぼされてしまった。

 アユタヤ朝
(1351年~1767年)

 現在のタイ国領内では、元軍の攻撃を受けたスコータイ朝が衰退し、代わりにアユタヤ朝が興った。

 アユタヤ朝は、チャオプラヤー川など河川の交通の要衝に建国されたため、貿易を通じて繁栄し、1432年には、ついにアンコール王朝を壊滅させた。』