ウィーン会議
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E4%BC%9A%E8%AD%B0
※ 何の脈絡も無いように感じるかもしれないが、ナポレオン戦争後の「混乱」を、「勢力均衡」の理念で、「一定の秩序」を構築したのが、この「会議」だ…。
※ 前記「パンノニア」地域の「線引き」も、中心議題となっている。
※ これを「主宰」したのが、メッテルニヒだ…。
※ 先頃亡くなったキッシンジャーが、「お手本」とした政治家だったという話しだ…。
※ パンノニア → 勢力均衡 → ウイーン会議 → メッテルニヒ → キッシンジャー…。オレの頭の中では、みんな「繋がっている」んだよね…。







『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曖昧さ回避 「ウィーン宣言及び行動計画」とは異なります。
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: “ウィーン会議” ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2016年2月)
ヨーロッパで国境を再描画(1815年)。ウィーン会議の後
ウィーン会議の条約(1815年)
ウィーン会議(ウィーンかいぎ、ドイツ語: Wiener Kongress、フランス語: Congres de Vienne、英語: Congress of Vienna)は、1814年から1815年にかけて、オーストリア帝国の首都ウィーンにおいて開催された国際会議。
オーストリアの外相クレメンス・フォン・メッテルニヒが議長を務め、ヨーロッパ諸国の代表が集った。会場はシェーンブルン宮殿。
概要
ウィーン会議は、フランス革命とナポレオン戦争終結後のヨーロッパの秩序再建と領土分割を目的として、オスマン帝国を除く全ヨーロッパ各国代表が集まり、1814年9月1日から開催された。
会議を主導したのは議長国オーストリアのほか、イギリス、プロイセン、ロシアである。
中でも議長メッテルニヒとイギリス代表カースルレー子爵が中心的な役割を果たした。
この会議には、ナポレオン戦争に敗れたフランスも招待されており、その代表タレーランも会議において活躍した[1]。
1792年より以前の状態に戻す正統主義を原則としたが、各国の利害が衝突して数か月を経ても遅々として進捗せず、「会議は踊る、されど進まず」と評された[注釈 1][2]。
しかし、1815年3月にナポレオンがエルバ島を脱出したとの報が入ると、危機感を抱いた各国の間で妥協が成立し、1815年6月9日にウィーン議定書が締結された。
このウィーン議定書により出現したヨーロッパにおける国際秩序は「ウィーン体制」とよばれる。
基本原則
大国による「勢力均衡」と「正統主義」がウィーン会議の基本原則であった。
正統主義とは、フランス革命・ナポレオン戦争によって混乱したヨーロッパにおいて、それ以前の「正統な」統治者を復位させ、旧体制を復活させることを目指した理念である。
この理念は、フランス代表タレーランによって主張され、国内に多くの民族を抱えるオーストリア帝国の外相メッテルニヒが支持した[1]。
しかし、ウィーン会議ではフランス革命以前の体制の完全な復活ではなく、大国による「勢力均衡」を踏まえた形での正統主義の実現が目指された。
例えば、革命によって神聖ローマ帝国が解体しナポレオンが整理・統合したドイツ諸国は、オーストリアとプロイセンの二大国を中心としたドイツ連邦として再出発することとなった。
これによって勢力均衡を維持し回復する力を有した大国同士が相互に均衡を維持し合う国際秩序(ウィーン体制)が構築され、ヨーロッパにはおよそ30年間の平和がもたらされた。
主な各国代表
ジャン=バティスト・イザベイの絵画に基づくエングレービング。下記のウィーン会議出席者が描かれている:
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国 初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー
ポルトガル 第7代オリオラ伯爵ジョアキン・ロボ・ダ・シルヴェイラ
ポルトガル ポルト・サント伯爵アントニオ・デ・サルダーニャ・ダ・ガマ
スウェーデン カール・レーヴェンイェルム伯爵(英語版)
フランス復古王政 第5代ノアイユ公爵ジャン=ルイ=ポール=フランソワ(英語版)
オーストリア帝国 クレメンス・ヴェンツェル・フォン・メッテルニヒ
フランス復古王政 アンドレ・デュパン(英語版)
ロシア帝国 カール・ロベルト・ネッセルローデ伯爵
ポルトガル 初代パルメラ公爵ペドロ・デ・ソウザ・ホルステイン
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国 カースルレー子爵ロバート・ステュアート
フランス復古王政 ダールベルク公爵エメリッヒ・ヨーゼフ・フォン・ダールベルク
オーストリア帝国 ヨハン・フォン・ヴェッセンベルク=アンプリンゲン男爵(英語版)
ロシア帝国 アンドレイ・キリロヴィチ・ラズモフスキー公爵
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国 初代ステュアート男爵チャールズ・ステュアート
スペイン ラブラドール侯爵ペドロ・ゴメス・ラブラドール(英語版)
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国 第2代クランカーティ伯爵リチャード・ル・プア・トレンチ(英語版)
ニコラウス・フォン・ヴァッケン(ドイツ語版)(記録官)
オーストリア帝国 フリードリヒ・フォン・ゲンツ(英語版)(会議秘書官)
プロイセン王国 ヴィルヘルム・フォン・フンボルト男爵
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国 初代カスカート伯爵ウィリアム・カスカート(英語版)
プロイセン王国 カール・アウグスト・フォン・ハルデンベルク
フランス復古王政 シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール
ロシア帝国 グスタフ・エルンスト・フォン・シュタッケルベルク伯爵(英語版)
オーストリア帝国
君主:皇帝フランツ1世
全権:外相メッテルニヒ公爵クレメンス・ヴェンツェル・ロタール
ロシア帝国
君主:皇帝アレクサンドル1世
首席全権:国務長官ネッセルローデ伯爵カール・ロベルト
プロイセン王国
君主:国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世
首席全権:宰相ハルデンベルク侯爵カール・アウグスト
グレートブリテン及びアイルランド連合王国
首席全権:外相カースルレー子爵ロバート・ステュアート
首席全権代理:駐仏公使 初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー(内閣改造によりカースルレー子爵が会議途中で本国へ帰国したため)
首席全権代理:駐蘭公使第2代クランカーティ伯爵リチャード・トレンチ (en) (ナポレオンの百日天下を撃滅すべくウェリントン公爵が南ネーデルラントへ出陣したため)
フランス王国
首席全権:首相ベネヴァント公爵シャルル・モーリス・タレイラン
ローマ教皇領
首席全権:国務長官枢機卿エルコール・コンサルヴィ
議定内容
下記にウィーン議定書の内容を示す。なお太字は神聖同盟の原加盟国、下線は四国同盟の原加盟国を示す。
参加国 議定内容
オーストリア帝国
旧神聖ローマ帝国領の大部分にあたる35君主国と4自由市でドイツ連邦を構成、オーストリア皇帝をその盟主とする。
イタリア北部のロンバルディアと旧ヴェネツィア共和国領を獲得、オーストリア皇帝が王を兼ねるロンバルド=ヴェネト王国とする。
ロシア帝国
ロシア皇帝が大公を兼ねるフィンランド大公国が承認される。
オスマン帝国からベッサラビアを獲得する。
ワルシャワ公国の大部分をポーランド立憲王国とし、ロシア皇帝が王を兼ねる事実上のロシア領にする(第四次ポーランド分割)。
プロイセン王国
ザクセン王国の北半分、ラインラント、旧ルクセンブルク公領の一部、オラニエ=ナッサウ家のドイツ内の所領などを獲得する。
ワルシャワ公国の一部をポズナン大公国とし、プロイセン王が大公を兼ねる。
スウェーデンから西ポンメルンを獲得する。
イギリス連合王国
フランスからマルタ島を獲得する。
オランダからセイロン島とケープ植民地を獲得する。
イオニア諸島(現ギリシャ)の宗主権を獲得し、イオニア諸島合衆国を成立させる。
フランス王国
セネガルを植民地にする。
ルイ18世が即位してブルボン朝が復活、フランス革命前の状態を回復する(フランス復古王政)。
オランダ(ネーデルラント)
旧ネーデルラント連邦共和国領に加え、オーストリアから旧ルクセンブルク公領の大部分を含む南ネーデルラントを獲得、新たにオラニエ=ナッサウ家の王を戴くネーデルラント連合王国に再編する。
旧ルクセンブルク公領は新たにオランダ王が大公を兼ねるルクセンブルク大公国とし、ドイツ連邦に加盟する。
南ネーデルラントの大部分は1830年に独立してベルギー王国になる。
スウェーデン王国
デンマークからノルウェーを獲得、スウェーデンとの同君連合下に入れる(スウェーデン=ノルウェー連合王国)。
サルデーニャ王国
旧ジェノヴァ共和国領を獲得する。
ナポリ王国
フェルディナンド4世が復位してシチリア・ブルボン朝が復活。
翌1816年にシチリア王国と正式に合併して両シチリア王国が成立する。
スペイン王国
フェルナンド7世が復位してスペイン・ブルボン朝が復活。
スイス連邦
新たに5つのカントン(州)を加え、永世中立国として承認される。
脚注
[脚注の使い方]
注釈
^ リーニュ侯爵シャルル・ジョゼフの言葉「会議は舞踏会ばかりで、先には進まない」(Le congres danse beaucoup, mais il ne marche pas)。舞踏では一般にステップを踏みながら円を描くように動くので、その決してA点からB点に位置を移動するようには動かない「堂々巡り」の状態を、実際に外交交渉よりも連夜の舞踏会の方が目立った会議にかけている。
出典
^ a b 小川浩之、板橋拓己、青野利彦『国際政治史-主権国家体系のあゆみ』有斐閣、2018年4月10日。
^ “産経抄 会議は踊る 8月4日”. 産経新聞 (2015年8月4日). 2018年1月21日閲覧。
関連図書
Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Vienna, Congress of" . Encyclopadia Britannica (英語). Vol. 28 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 53?55.
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、ウィーン会議に関連するカテゴリがあります。
ウィーン議定書
アントナン・カレーム - この会議で料理を提供した料理人
アーヘン会議 (1818年)
ラシュタット会議
キール条約
パリ条約 (1814年)
パリ条約 (1815年)
『会議は踊る』
表話編歴
ナポレオン戦争
表話編歴
ドイツ統一
典拠管理 ウィキデータを編集
カテゴリ:
ウィーン会議1814年のヨーロッパ1815年のヨーロッパ国際会議オーストリア帝国ハプスブルク帝国の国際関係イギリスの歴史ドイツの歴史 (1806年-1870年)ロシア帝国の外交フランス復古王政スウェーデン=ノルウェー連合王国サルデーニャ王国ネーデルラントポーランドの歴史 (1795?1918)スイスの歴史北欧史教皇権の歴史ウィーンの歴史ナポレオン戦争ユネスコ記憶遺産クレメンス・フォン・メッテルニヒアレクサンドル1世フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)アーサー・ウェルズリーシャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴールカール・ロベルト・ネッセルローデ
最終更新 2023年12月2日 (土) 11:22 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください。』