1973年9月にキッシンジャーは、2期目のニクソン政権の国務長官となった。

1973年9月にキッシンジャーは、2期目のニクソン政権の国務長官となった。
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『Edward Luttwak 記者による2023-12-1記事「The two faces of Henry Kissinger」。

    シチリア育ちのルトワックがジョンズホプキンス大の博士課程に入るために渡米したのは1972年で、すでに27歳の子持ち。ロンドンの現代史学者の知人が、まず、ヘルムート・ゾンネンフェルトを紹介してくれた。彼はキッシンジャーが率いるNSCの古株だった。

 1973年9月にキッシンジャーは、2期目のニクソン政権の国務長官となった。ゾンネンフェルトはその補佐官に就いた。

 補佐官の仕事は何か? ボスを国内の役所から防衛すること。特に、同じ国務省内が、敵だらけであった。

 キッシンジャーのマフィアには共通項があった。ドイツ系のユダヤ人で、無類の「ブンデスリーガ」ファンであること。もちろん、ドイツ語が話せなくてはいけない。ルトワックは話せた。

 キッシンジャーは、適切な短い英単語の相応物がないドイツ単語を、そのまま使うことがあった。
 たとえば「Hochstapler」……身分詐称者。
 たとえば「Betruger」……ペテン師、騙し屋。

 キッシンジャーは、必要があれば嘘をつき、その嘘を維持できた。

 キッシンジャーの嘘の最大の被害者は、ジェームズ・シュレジンジャーだったろう。もともとRANDのストラテジストで、1973-10にニクソン政権の国防長官に就任した。まもなくルトワックはその下でストラテジストを努める。

 ちょうどそのとき、第四次中東戦争だった。10月6日にエジプトとシリアが同時にイスラエルを奇襲挟撃した。シュレジンジャーは空軍の空輸コマンドに命じた。すぐに軍需品をイスラエルへ送る準備を整えよ、と。
 C-5輸送機がドーバーの基地で待機した。

 然るにニクソンは、アラブ諸国からの石油の禁輸発動を恐れて、緊急空輸のゴーサインを出さない。

 キッシンジャーは数日間、ボスの説得を試みなかった。彼は肚の中でこう考えていた。エジプトは1967の第三次中東戦争(六日戦争。イスラエルから奇襲されてコテンパンにやられた)の恥を雪ぎたいと念じているのだ。だからまずその欲求を満たさせてやれ。そのあとでなら、休戦交渉に応ずる気にもなるだろう。

 じっさいその通りになったのだが、米国は開戦から数日間、イスラエルがやられ放題になることを敢えて座視した次第。これがキッシンジャーのリアルポリティクスだった。

 そのうえキッシンジャーは、C-5をなかなか出さなかったのはシュレジンジャーがそうさせたのだというルーモアをワシントンに流布させ、それは定着してしまった。

 キッシンジャーに嵌められて名声をおとしめられたシュレジンジャーは、1975にフォード大統領から御役御免を申し渡されている。

 C-5の問題は小さなものだ。

 大きな対立は、対ソのデタント政策の是非だった。これはキッシンジャーが絵を画いた。シュレジンジャーは大反対だった。

 1974-11のウラジオストクにおけるフォードとブレジネフの会談。あきらかにブレジネフは、グロムイコ外相よりもキッシンジャーを信頼しているように見えた。
 その場のフォードの発言は、すべてキッシンジャーが書いていたのは明白だった。

 その時がキッシンジャーの絶頂期だった。フォードは、選挙戦でカーターに敗れるよりも前から、キッシンジャーを切った。大統領選に勝った場合でもキッシンジャーには国務長官を続投させないよと通告していた。時代潮流は、対ソ宥和よりも、人権外交だったのだ。キッシンジャーのリアルポリティクスは退場させられた。

 秘話をひとつ。キッシンジャーは1982-2に心臓バイパス手術を受けている。そのとき外科医は、余命は10年ありますよ、と告げていた。』