パレスチナ問題の経緯
https://ccp-ngo.jp/palestine/palestine-information/
※ 一読して分かるように、「親パレスチナ」側からの記述だ。
※ しかし、「経緯」としては、よくまとまっていると思われるので、紹介する。
『 1993年にイスラエルのラビン首相とPLO(パレスチナ解放機構)のアラファト議長の間で交わされたオスロ合意に基づき、 翌年、ヨルダン川西岸地区は、ガザ地区と共に「パレスチナ自治区」になりました。
しかし、ヨルダン川西岸地区は面積の60%以上がイスラエルの軍事支配下に置かれ、常に厳しく監視されています。 また、各地に多くのイスラエルの入植地が作られています。
パレスチナ問題の経緯
パレスチナ問題とは
「乳と蜜の流れる大地」パレスチナ
聖書で「乳と蜜の流れる土地」(肥沃な大地)とたたえられ、十字軍やナポレオンの遠征など世界史の舞台にもなってきた パレスチナ。16世紀以降この地はオスマントルコ帝国の一部として、アラビア語を共通言語とし、 イスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒が共存していました。 しかし19世紀、西欧帝国主義諸国が中東に進出し、オスマン帝国は崩壊の危機を迎えます。
同じころ、オスマン帝国からの独立を目指すアラブ人の民族主義の動きが活発化します。 またヨーロッパで差別や迫害を受けていたユダヤ人の間では、パレスチナに民族国家建設をめざす「シオニズム」が生まれます。 19世紀末、ロシアでのユダヤ人の迫害を背景に、ユダヤ人のパレスチナ移住が盛んになりはじめ、 ユダヤ系資本によるパレスチナの土地の買い占めが始まりました。
第一次世界大戦とイギリスの「三枚舌外交」
第一次世界大戦中、イギリスは戦争資金を調達するためユダヤ人コミュニティに協力を仰ぎ、 「パレスチナにユダヤ国家建設を支持する」と表明した書簡を送りました(「バルフォア宣言」)。
しかし同時に、オスマン帝国からの独立をめざすアラブ民族主義をも利用すべく、 メッカの太守フセインに対してイギリスへの協力の代わりに「アラブの独立支持を約束する」という書簡も送ります (「フセイン・マクマホン協定」)。
そしてさらに同盟国であるフランスとは、戦争終結後は分割するという協定(「サイクス・ピコ協定」)を秘密裏に結びます。
戦争終結と英仏同盟国側の勝利により、パレスチナとヨルダンはイギリス、レバノンとシリアはフランスの委任統治領になりました。
イギリスがアラブとユダヤ双方に対し相反する約束をしたことが、二つの民族主義の衝突の芽となりました。
「パレスチナ分割決議」とイスラエル建国宣言
1930年代以降ナチスによるユダヤ人迫害の嵐が吹き荒れ、第二次大戦後、世界は凄惨なホロコーストの事実に衝撃を受けました。 その影響で「ユダヤ人国家建設」というシオニズムの主張が力を持つようになります。
1947年、国連はパレスチナの土地にアラブとユダヤの二つの国家を作るという「パレスチナ分割決議」を採択します。
しかしその内容は、パレスチナに古くから住む多数のアラブ系住民に43%、 新しく移住してきた少数のユダヤ系住民に57%の土地を与えるというもので、アラブ系住民とアラブ諸国から猛反発が起こります。
パレスチナを統治していたイギリスは、アラブ民族主義とシオニズムの対立の激化になすすべなく、 一方的に撤退し、アラブ・ユダヤ双方の武装対立と緊張関係のなか、1948年にユダヤ側はイスラエル建国を宣言しました(※ 1948年5月14日、イスラエル建国)。
「ナクバ(破局)」 そしてパレスチナ難民の発生
イスラエル建国宣言を受け、第一次中東戦争(1948年~1949年)が勃発します。
この戦争で70万人のパレスチナ人(パレスチナに住むアラブ系住民)が居住地を追われ、 ヨルダン川西岸地区やガザ地区、そしてヨルダン、シリア、レバノンなど近隣諸国に逃れました。 住民がいなくなった町や村は完全に破壊されるか、ユダヤ系住民が住むようになりました。
一方、難民となったパレスチナ人は、難民キャンプの粗末なテントや洞窟などで困窮を極めた生活を強いられます。
国連総会は1948年12月に決議194号を可決し、「故郷に帰還を希望する難民は可能な限り速やかに帰還を許す、 そう望まない難民には損失に対する補償を行う」としました。
しかしイスラエル側は社会的・政治的不安定を招くとして、一貫してこれを否認してきました。
1950年、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)が設立され、パレスチナ人への簡易住居の建設、 教育や医療といった基本的なサービスの提供を開始しました。
第三次中東戦争 軍事占領の始まり
1967年、イスラエルとアラブ連合(エジプト・シリア)の間で第三次中東戦争が勃発します。 この戦争で圧勝したイスラエルは、ヨルダン川西岸地区と東エルサレム、ガザ地区、 シナイ半島及びゴラン高原を軍事占領下に置きました。国連安全保理事会は決議242号を採択し、 イスラエル軍の西岸及びガザからの撤退を求めますが、イスラエルはこれに応じませんでした。
軍事占領下では、パレスチナ人の基本的人権は保障されず、社会・経済の発展も阻害されました。 また難民キャンプでは基本的な生活インフラも整備されず、生活環境は劣悪なまま放置されました。 1970年代に入るとイスラエルによる西岸・ガザ地区への「入植地」建設の動きが強まります。 90年代までには25万人以上のユダヤ人が入植し、パレスチナ人の危機感が高まりました。
「インティファーダ」とオスロ合意
1987年、パレスチナ人の不満が一挙に爆発し、 ガザ地区の難民キャンプから「インティファーダ」と呼ばれる反占領闘争が広がります。 デモやストライキ、子どもの投石、イスラエル製品の不買などの抵抗運動は世界中に占領の実態を知らせ、 イスラエル国内でも占領の是非に関する議論が起こりました。
こうした状況を受け、1993年にノルウェーの仲介により、 イスラエルのラビン首相と PLO(パレスチナ解放機構)のアラファト議長の間で「西岸及びガザで5年間のパレスチナ暫定自治を 開始する」という暫定合意条約(オスロ合意)が米国で調印されます。
しかし、パレスチナ難民の問題や国境の確定などについては、暫定自治の時期中に協議されるとして解決は先送りにされました。
パレスチナ自治の開始
1994年以降、ガザとヨルダン川西岸でパレスチナ自治が開始されました。 外国の援助による難民キャンプのインフラ整備も徐々に進み始めました。 しかし、細分化された「自治区」の多くは依然としてイスラエル軍の占領下にありました。 そして、自治政府の腐敗や非効率性がパレスチナ経済の発展を阻害しました。
一向に変わらない状況への強い不満を背景に、武装組織によるイスラエルへの攻撃が続けられました。 それらに対し、イスラエル側は激しい報復措置とさらなる自治区封鎖を行いました。 多くのパレスチナ人が刑務所に収容され、入植地の建設はさらに活発になっていきました。
和平の破綻とイスラエルの大侵攻
2000年、PLOのアラファト議長とイスラエルのバラク首相によるキャンプデービット会議が不調に終わり、 パレスチナ人の間に失望感が広がります。
同年、イスラエル右派のアリエル・シャロン元国防相が一団の武装集団を引き連れてエルサレムのイスラム教聖地を強行訪問し、 パレスチナ人の怒りが再燃しました(「第二次インティファーダ」のはじまり)。
イスラエル側は重火器を投入して一般市民を攻撃し、パレスチナ側では自爆攻撃が相次ぎました。
イスラエルでは2001年にシャロン政権が誕生し、2002年4月にはパレスチナ自治区への武力攻撃がかつてない規模で開始されます。
戦車や戦闘機が大量投入され、多数の非武装市民が犠牲になりました。 2000~2005年の間の衝突による死者は、パレスチナ側3,339人(うち子ども660人)、 イスラエル側1,020 人(うち子ども117人)にのぼりました。
自治区封鎖の強化と「隔離壁」の建設
2005年、ガザ地区からイスラエル軍・入植者が撤退しました。 しかし同地区は依然イスラエル軍に包囲され、封鎖が続いています。 2007年の選挙結果によって、ガザにそれまでのPLOではなくイスラム政党ハマス主体の政府ができて以降は、 封鎖は更に強化されました。
2008年、2012年にはイスラエルによる大規模な軍事侵攻が行われ、多数の一般市民が犠牲になりました。 人や物資の移動も制限され、ガザ地区では深刻な物資不足や生活環境の悪化、経済・社会活動の停滞が起きています。
西岸地域では、2002年から巨大な「隔離壁」(西岸とイスラエルを隔てるコンクリートや鉄条網の壁)建設が開始されました。
隔離壁は1949年の停戦ラインを超えて建設され、ユダヤ人入植地や入植者専用のハイウェイも組み込まれたため、 パレスチナ自治区は飛び地状態になっています。
国際司法裁判所は、この隔離壁がパレスチナの自治を阻害し、生活圏を分断するものであり国際違反と裁定を下しましたが、 壁の建設は続行されて西岸は取り囲まれ、人々の移動が制限されています。
かなわぬ平和への願い
国際社会では2012年、パレスチナの国連へのオブザーバー加盟が圧倒的多数で承認され、 パレスチナは国家としての存在を認められました。
2014年は国連パレスチナ連帯年とされました。
しかし、パレスチナの状況は大きく改善されてはおらず、パレスチナ人の独立・平和への強い願いはかなえられていません。
2014年夏には再びイスラエル軍によるガザへの大規模な軍事侵攻が勃発し、450人の子どもを含む、 2,200人以上の人々が犠牲となり、 2021年5月には11日間にわたって空爆が続き、民間人や子どもを含む約2,500人が死傷しています。
イスラエル国内では、パレスチナとの和平や交渉を望まない人が増え、排外的な政治がますます強まっています。
国際社会はこうした状況に有効な手が打てておらず、犠牲は増える一方です。 また、イスラエルとパレスチナという二つの独立国家が隣り合わせで共存するという構想もとん挫したまま、 残念ながら展望はみられません。
パレスチナ・イスラエル略年表
1947年11月
国連パレスチナ分割決議採択
1948年5月
イスラエル独立宣言・第一次中東戦争勃発、難民の発生
1967年6月
第三次中東戦争勃発・イスラエルが東エルサレム、ヨルダン川西岸、
ガザ地区、ゴラン高原を占領、新たな難民の発生
1982年6月
イスラエル軍によるレバノン侵攻
1987年12月
ヨルダン川西岸地区とガザ地区でインティファーダ(抵抗運動)始まる
1991年1月
湾岸戦争、湾岸諸国でのパレスチナ人の迫害
1993年9月
PLOとイスラエルが相互承認(オスロ合意)・パレスチナ暫定自治協定調印
1994年7月
ガザ・エリコでパレスチナ自治政府が活動を開始
1995年9月
暫定自治拡大協定調印
1996年1月
パレスチナ評議会選挙実施
2000年9月
第二次インティファーダ始まる
2002年
ヨルダン川西岸地区で分離壁建設開始
2005年1月
パレスチナ自治政府議長選挙実施
2005年8~9月
ガザからイスラエルの入植者・軍撤退、ガザ封鎖開始
2006年1月
パレスチナ評議会選挙実施、ガザでのハマスの支配が強まる
2006年7月
第二次レバノン戦争勃発
2008年12月
イスラエル軍のガザ侵攻
2011年 ~ 2013年
シリアでの民主化運動・内戦の激化、シリアのパレスチナ難民がレバノンに流出
2012年11月
国連総会がパレスチナを「オブザーバー国家」として承認
2012年12月
イスラエル軍のガザ爆撃
2014年7月
イスラエル軍のガザ攻撃
2018年5月
トランプ米大統領が、米大使館をテルアビブからエルサレムへ移転
2018年8月
米国、UNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)への拠出金停止
2020年1月
トランプ米大統領「新中東和平案」発表
2021年5月
イスラエル軍のガザ攻撃
「パレスチナ」はどんなところ?
封鎖された「ガザ地区」
巨大な壁で分断された地域「ヨルダン川西岸」
そもそも「パレスチナ難民」とは?
「パレスチナ問題」はどのようにして起きたのか?
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