移民国家アメリカ 同化主義から文化多元主義へ

移民国家アメリカ 同化主義から文化多元主義へ
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『2016年11月19日 / 3.社会
同化主義から文化多元主義へ

 アメリカ合衆国が、多層な移民から成り立った国であればあるほど、国民統合をどう達成するかが、国家的な課題であったことは言うまでもない。

移民がアメリカに帰化を果たして国民になった以上、彼らをどう「アメリカ人」にしてゆくかが大きな問題であったが、19世紀に主流であった国家統合のイデオロギーは、同化主義である。

同化主義は、インディアンを「文明化」する政策において、充分に実験されていたと言ってよい。おもに教育を通じて実施された同化政策は、インディアンの子弟を家族から引き離し、寄宿学校に入れて、母語と部族習慣を捨てさせ、キリスト教化することだった。有名な寄宿学校、ペンシルヴァニアのカーライル校の入り口には、「インディアンを殺し、人間を救え」という標語が掲げてあった。インディアン文化を捨てて、アメリカに同化することが、人間になることを意味した。

 移民たちのアメリカヘの同化は、「アングロ・コンフォーミティ」を基礎とした。

アメリカ文化が、イギリスからの植民者によって形成されたものである限り、後からやってくる移民たちは、アングロアメリカ的な制度や慣習を全面的に受け入れて、それに順応(コンフォーム)すべきだという考えだ。

それによって移民たちは、母国の伝統文化、母語や生活習慣を捨て去らなければならない。

だがこの考えは、ワスプ的な単一の価値を押し付け、外国系のもの、異質なものを排除しようとする排外主義と背中合わせの偏狭なイデオロギーだった。

 20世紀になると、「メルティング・ポット論」が台頭した。

人種のるつぼというイメージは、18世紀末に、クレヴクールの『アメリカ人の農夫からの手紙』に提示されていた。

彼は、アメリカ人とはなにかと問い、ヨーロッパからやってきた人々が、アメリカという育ての母の元で交じり合い(混血して)、アメリカ人という新しい人間になると述べた。
だが、この言葉が広く使われるようになったのは、ユダヤ人作家イスラエルーザングウィルの戯曲『メルティング・ポット』が、1908年に上演されたことが契機になっている。

ポグロム(ユダヤ人に対する迫害行為)で家族を殺されたロシア系ユダヤ人が、ポグロムの指揮官の娘と恩讐を超えて結ばれる話であるが、作中、主人公デヴィッドが建物の屋上からニューヨークを見渡しながら、恋人ヴェラに言う。

  ここには偉大なルツボがあるのだ。どよめき、ブツブツとたぎるルツボの音が聞こえないかい? ケルトも、ラテンも、スラブも、チュートンも、ギリシャ人もシリア人も、黒人も黄色人種も、ユダヤ人も非ユダヤ人も、イスラム教徒も、練金術師たる創造主が清めの火をもって溶かし融合させているのだ。

 メルティング・ポット論は、現実的な要請から意外なところで実践された。

それは、移民たちが働く産業の現場である。

自動車メーカーのフォードは、いち早く工場内に移民のための英語学校を設立した。

移民たちが、班長の指示を理解しないと、工場のアセンブリーライン(流れ作業)に支障をきたすからだ。英語学校には、舞台がしつらえてあり、中央に大きなルツボ(物資を溶解するための容器)が置いてあり、生徒(工員)たちがつぎつぎに入ってゆく。ルツボには、はしごがかかっており、はしごのてっぺんでは、生徒の一人が長い棒を持って、ルツボをかき回しながら、言っている。「溶けろ、溶けろ、溶けて一つとなれ、溶けてアメリカ人になれ」。そうしてしばらくすると、それぞれの民族衣装で入っていった工員たちが、こざっぱりした作業員服で、ルツボから出てくるのである。

 多様な民族が融解されて、アメリカ人という新しい国民が形成され、移民がもたらす多様な文化が合成されて、「アメリカ文化」ができるという考え方は、一つの範型に移民を押し込めるアングロ・コンフォーミティとは、一見異なるようにも見える。

だが、移民の文化が溶けてなくなる(しかも急速に)ということは、アイデンティティの喪失を意味しており、これも形を変えた同化主義と言えるのである。

 メルティング・ポット論を超克する理論として登場したのが、文化多元主義である。

哲学者ホレス・カレンが初めて提唱したその言葉は、「人は自分の宗教や哲学をかえることが出来るが、祖父をかえることはできない」という彼の主張に基づいている。

彼はアメリカを、「人類のオーケストラ」に喩えた。

それぞれの民族集団が、オーケストラの各楽器となって、調和して美しいハーモニーを奏でる。これこそが、アメリカの望むべき国の姿である。

彼の考えは、現在の多文化主義の種子として、大変重要な意味を持つ。

だが、20世紀初頭においては、知識人の理想論として影響力を持だなかった。実際この時期、移民政策は多様性を否定し、それを制限する方向に動いたのである。

多文化主義のゆくえ

 1965年の新移民法は、それまでの移民制限を撤廃する画期となった。

ジョンソン政権下、公民権法が成立し、アメリカがこれまで黙認してきた黒人やインディアン、その他マイノリティ集団に対する差別や不公正をただす時代的機運が高まった。

旧ソビエト連邦と対抗する冷戦下、「自由と民主主義の盟主」を謳うアメリカは、襟を正してその理念を点検する必要に迫られた。人種主義を根幹の枠組みとした移民割当法は、当然撤廃されなければならなかった。

 1960年代、70年代のリベラリズムのなか、多民族・多文化国家アメリカの検証が、活発に行なわれるようになった。

日系二世の歴史学者ロナルド・タカキは、『多文化社会アメリカの歴史』を著し、アメリカを構成する多様な人種・氏族集団の歴史が、いかに密接に絡み合っているか、またいかにアメリカの歴史がこうした多様な集団が寄り集まって、新しい社会をつくろうとしてきた歴史であるかを示し、今後のアメリカでの多民族・多文化の共存に、この認識を欠くことはできないことを明らかにした。

 大学では、エスノ・ヒストリー、エスニック・スタディーズのコースやプログラムが展開し、これまでのワスプ中心の歴史観は相対化された。

移民の子孫の民族集団では、エスニック・リバイバルが起こり、民族固有の文化遺産に改めて光をあて、自らのエスニックの出自、エスニック・アイデンティティに誇りを持つ大きなうねりがアメリカ社会を覆った。

Japanese-American、Chinese-American、Italian-American など、いわゆるはイフォンつきアメリカ人が、自らの出自を誇った。

彼らの多くはすでに移民1世ではなかった。3世や4世、あるいは祖先がいつアメリカにやってきたかも明らかでなく、母語もとおに失った人が大多数であった。

マーカス・ハンセンの法則は、「子供が忘れたものを、孫が思い出す」と言う。

移民1世の子供は、同化に苦労する親を見て育ち、自らの民族的・文化的出自を捨てようとする。

孫の世代は、そういう親に育てられ母語も話せず、アメリカ化しているにも関わらず、自らの出自を探ろうとする。

エスニックーリバイバルで起きたことは、まさにこういうことであったろう。

移民の子孫たちは、先祖が故国から持ちこんだ文化伝統を再学習し、アイデンティティの礎にしようとしたのである。

 エスニック・リバイバルを、民族の拡散と捉えて警鐘をならした学者もいた。

アーサー・シュレジンガー・ジュニアは『アメリカの分裂』のなかで、多文化主義が行き過ぎて、それぞれのエスニック集団が自己主張をぶつけ合うようになれば、アメリカは分裂しかねないと危惧した。

 それぞれの民族集団の多様性を維持しながら、どうやって一つにまとまってゆくのか、「多から一ヘ」は移民国家アメリカの永遠の課題なのかもしれない。』