【解説】 イスラエル・ガザ戦争 対立の歴史をさかのぼる

 【解説】 イスラエル・ガザ戦争 対立の歴史をさかのぼる
https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-67123651

『2023年10月18日

パレスチナのイスラム組織ハマスは7日朝、前例のない規模の攻撃をイスラエルに対して開始した。何百人もの戦闘員が、パレスチナ自治区ガザに近いイスラエル領内に侵入したのだ。

イスラエル政府によると、これまでに少なくとも1300人の死亡が確認された。200人近い兵士や民間人(女性や子供を含む)が拉致され、人質にされてガザ地区へ連行された。

この攻撃を受けてイスラエル軍はガザ空爆を開始。パレスチナの保健当局は17日、これまでに約3000人が死亡したと発表した。

イスラエルはガザ地区を完全封鎖し、食料や水やエネルギーなど生活必需品の供給を遮断した。

イスラエル軍は3万人以上の予備役を招集し、大部隊をガザの境界線沿いに集結させた。地上部隊のガザ侵攻は必至とされる中、イスラエルはガザ北部の住民110万人に対し、ガザ南部への退避を通告。このため、一気に避難民が押し寄せた南部では、寝泊まりする場所や物資が欠乏し、人道危機状態が発生した。

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1948年以前のイスラエルとは バルフォア宣言とは

Jerusalem skyline in 1870

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1870年のエルサレム

中東でパレスチナと呼ばれる地域は長年、オスマン帝国が支配していた。第1次世界大戦でこのオスマン帝国が敗れると、パレスチナはイギリスが支配するようになった。

この土地には当時、ユダヤ人が少数派として、アラブ人が多数派として暮らしていた。ほかに、さらに少数の民族集団もいた。

ユダヤ人の「ナショナル・ホーム(民族的郷土)」をパレスチナに作るするよう、国際社会がイギリスにその役割を託したのを機に、ユダヤ人とアラブ人の緊張は高まった。

British politician Lord Arthur Balfour (1848 – 1930) points out a feature of the Church of the Holy Sepulchre to Governor Sir Ronald Storrs during a visit to Jerusalem, 9th April 1925. The city’s Arab residents were on strike as a protest against the Balfour Declaration supporting plans for a Jewish homeland in Palestine. (Photo by Topical Press Agency/Hulton Archive/Getty Images)

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1925年4月にエルサレムを訪れたバルフォア卿。聖墳墓教会で右手を上げ、隣のロナルド・ストーズ総督に何かを示している

これは1917年の「バルフォア宣言」に端を発している。当時のアーサー・バルフォア英外相は、イギリスに住むユダヤ人の団体に対する書簡で、「パレスチナにおけるナショナル・ホームの設立」に賛成し、約束したのだった。

この宣言をもとにイギリスはパレスチナ統治を開始。イギリス委任統治領パレスチナは1922年設立の国際連盟で承認された。

ユダヤ人にとってパレスチナは先祖の土地だった。しかしパレスチナのアラブ人も、ここは自分たちの土地だと主張し、ユダヤ人の国をパレスチナに作ることに反対した。

Haganah (Jewish Underground) fighter just before the start of the Israeli War of Independence 1948, wearing a hat and glasses, pointing a gun

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1948年のイスラエル独立戦争(第1次中東戦争)の開始直前に撮影された、ユダヤ人軍事組織(非公式)ハガナの戦闘員

1920年代から1940代にかけて、パレスチナ地域へ流入するユダヤ人は増え続けた。大勢が欧州での迫害、とりわけナチス・ドイツによるホロコーストを逃れて、パレスチナに入った。

ユダヤ人とアラブ人の間の暴力、そしてイギリスの支配に対する暴力も、増え続けた。

1947年になると国際連合の総会が、パレスチナを分割しアラブ人とユダヤ人の国をそれぞれ作り、エルサレムはそれとは別の国際都市にするという決議案を可決した。

ユダヤ人団体の指導者たちはこの国連総会決議を受け入れたが、アラブ側は拒否。この決議は実施されずに終わった。

The soldiers of allied Arab Legion forces fire, 06 March 1948 from East sector of Jerusalem on Jewish fighters of the Haganah, the Jewish Agency self-defence force, based in Jemin Moshe quarter of the West sector of the city during during the first Arab-Jewish conflict.

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ユダヤ人武装組織ハガナと戦うアラブ軍団の戦闘員(1948年3月、エルサレム東部)

イスラエル国家はなぜ、どのように作られたのか

問題が解決できないまま、イギリスは1948年にパレスチナから撤退した。ユダヤ人指導者たちはただちに、イスラエル建国を宣言した。

この新国家は、迫害を逃れるユダヤ人の安全な避難先となると同時に、ユダヤ人にとっての民族的郷土となるべきものとされた。

こうした中、すでにユダヤ人とアラブ人の軍事組織の戦闘は激化していた。イスラエルが建国を宣言した翌日、アラブ連盟に加盟するシリア、レバノン、ヨルダン、イラク、エジプトの5カ国がイスラエルを一斉攻撃した。

Palestine and Israel

何十万人ものパレスチナ人が、自宅を追われるか逃げるかした。パレスチナの人たちはこれを「アル・ナクバ(大災厄)」と呼ぶ。

翌年に停戦が実現するまでの間に、イスラエルは領土のほとんどを支配するようになっていた。

ヨルダンは「ヨルダン川西岸」と呼ばれるようになった地域を支配し、ガザ地区はエジプトが支配した。

エルサレムは、イスラエル軍が西側を、ヨルダン軍が東側を支配した。

和平協定のないままの停戦だったため、この後も何十年にわたり戦争や戦闘が続いた。
Palestinian refugee camp

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イスラエル建国によって、多くのパレスチナ人が故郷を追われた。写真はパレスチナ難民キャンプ

1967年の第3次中東戦争を経て、イスラエルは東エルサレムとヨルダン川西岸、シリアのゴラン高原の大半とガザ地区、そしてエジプトのシナイ半島を占領した。

シナイ半島については、1973年10月の第4次中東戦争の後、1978年のキャンプ・デイヴィッド合意でイスラエルが返還に合意。翌年のエジプトとイスラエルの平和条約調印を経て、1982年4月までにエジプトに返還された。

Israeli military commanders arrive in East Jerusalem, after Israeli forces seized East Jerusalem, during the Six Day War 1967

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1967年6月5日~10日の「6日間戦争」(第3次中東戦争)の渦中、東エルサレムに到着したイスラエル軍の司令官たち

パレスチナ難民とその子孫のほとんどは現在、ガザ地区とヨルダン川西岸地区、並びに近隣のヨルダン、シリア、レバノンに住む。

イスラエルは、パレスチナ難民の帰還を認めていない。それを許せば、イスラエルはパレスチナ人であふれかえり、ユダヤ人国家としての存在を脅かされてしまう――というのが、イスラエル側の言い分だ。

イスラエルは今なおヨルダン川西岸地区を占領し、エルサレム全体が自分たちの首都だと主張している。これに対してパレスチナ人たちは、いずれ建国されると期待し続けるパレスチナ国家では、東エルサレムが首都になると主張している。国際社会においては、エルサレムをイスラエルの首都と承認する国はアメリカ、ホンジュラスなどごく一部に限られている。

過去50年の間にイスラエルは、ヨルダン川西岸と東エルサレムに入植地を作り続け、そこに住むイスラエル人は70万人以上に達した。

国際法上、こうした入植地は違法だというのが、国連安全保障理事会やイギリス政府などの立場だが、イスラエルはこの判断を拒否している。

map of the region

ガザ地区とは

ガザ地区は、イスラエル、エジプト、地中海に挟まれた全長41キロ、幅10キロの領土。約230万人が暮らし、世界で最も人口密度が高い地域の一つだ。

1948年から1949年までの第1次中東戦争の後、ガザ地区は19年間、エジプトに占領された。

1967年の第3次中東戦争を経てイスラエルはガザを2005年まで占領し、その間、ガザにイスラエル人の入植地を作り続けた。

イスラエルは2005年にガザから軍と入植者を撤退させたが、上空と境界線、ならびに海岸線を支配下に置いている。国連は依然として、ガザはイスラエルの占領下にあると位置付けている。

イスラエル人とパレスチナ人――主な争点

双方が長年にわたり合意できずにきた争点は、いくつかある。その一部は――、

・パレスチナ難民の処遇は?
・ヨルダン川西岸地区内のイスラエル人入植地の扱いは?
・双方がエルサレムを共有すべきか
・そして何より難しいのが、イスラエル国家と併存する形でパレスチナ国家を樹立すべきか

諸問題の解決へ向けた取り組みは

Yitzhak Rabin and Yasser Arafat shake hands as US President Bill Clinton looks on – 1993 picture

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1993年にホワイトハウスの庭で、クリントン米大統領を挟み、イスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長が握手したころには、外交を通じた和平が可能だと思えていた

イスラエルとパレスチナの和平協議は1990年代から2010年代にかけて、とぎれとぎれに続き、その合間に衝突が激化するという繰り返しを重ねた。

1990年代には、外交交渉による和平の実現は可能かもしれないと思われていた。ノルウェーで続いた秘密協議はやがてオスロ和平交渉となり、1993年にビル・クリントン米大統領が見守る中、ホワイトハウスの庭で調印式が行われた。

歴史に残る瞬間だった。パレスチナ解放機構(PLO)はイスラエル国家を認め、イスラエルは長年敵対してきたPLOを、パレスチナ人の唯一の代表と認めた。このオスロ合意をもとにできたのが、パレスチナ自治政府だった。

しかし、間もなくして合意にひびが見えるようになった。当時イスラエルの野党党首だったベンヤミン・ネタニヤフ氏は、オスロ合意がイスラエルの存続を危うくするものだと非難した。イスラエルは、占領を続けるパレスチナ自治区で入植活動を加速させた。

このころになって登場したパレスチナ武装勢力ハマスは、戦闘員をイスラエルに送り込んでは自爆させ、大勢を殺し、新しい合意成立の可能性を踏みつぶした。

イスラエル国内では反パレスチナの風潮が高まり、激化し、遂に1995年11月4日には、オスロ合意の当事者だったイツハク・ラビン首相が同じイスラエルの過激主義者に暗殺される事態にまで至った。

2000年代になると、和平交渉を復活させようとする取り組みが続いた。たとえば2003年には「2国家共存」という究極的な目標に向けた、アメリカをはじめとする世界の主要国が編み出したロードマップ(行程表)というものもあったが、これも結局は実施されなかった。

2014年にワシントンでイスラエルとパレスチナの交渉が破綻したのを境に、中東和平協議はいよいよ頓挫(とんざ)するに至った。

ドナルド・トランプ政権のアメリカは2020年初めに、中東和平案を発表した。しかし、当時のネタニヤフ首相が「世紀の取引」とたたえたこの提案を、パレスチナ側は一方的すぎると一蹴。結局は何の成果も出さずに終わった。

イスラエルとガザ地区はなぜいま争っているのか

Israel flags flying and a Palestinian scarf with “Palestine” written on it

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ガザは現在、イスラム武装組織ハマスが実効支配している。ハマスは、イスラエルの破滅をその目標として掲げ、イギリスをはじめ多くの主要国からテロ組織として指定されている。

ハマスは2006年1月、パレスチナ立法評議会の選挙で過半数の議席を獲得し勝利。ヨルダン川西岸を基盤とする穏健派ファタハを率いるマフムード・アッバス自治政府議長を追い出すことに成功した。

それ以来、ハマスはイスラエルとの戦いを繰り返している。イスラエルはエジプトと共に、ガザを部分的に封鎖し、ハマスを孤立させ、イスラエル都市へのロケット弾発射など攻撃をやめさせようとした。

2023年10月7日以降、ガザに対するイスラエルの部分封鎖は完全封鎖となり、イスラエルは空爆を続けている。ガザ地区のパレスチナ人は、ハマスの侵攻に対するイスラエルのこの措置は、ガザに住むパレスチナ人全員に対する集団的報復に等しいと抗議している。

現在の紛争に至る前から、今年になるとヨルダン川西岸と東エルサレムでは対立が悪化し、パレスチナ人の死傷者数は過去最多を記録した。イスラエルによる取り締まりと武力行為の激化も、かねて指摘されていた。

この緊張悪化が、ハマスが今回イスラエルを攻撃した理由の一つだったのかもしれない。
他方、ハマスは今回のイスラエル攻撃を通じて、パレスチナの一般市民からの支持を拡大しようとしていた可能性もある。イスラエルに侵入し、人質を取ることで、イスラエルの刑務所に収監されているパレスチナ人4500人(推定)の一部でも交換で釈放されれば、自分たちの人気はあがると、ハマスは考えていたのかもしれない。

現在の紛争でだれがイスラエルを支持し、だれが支持していないのか

アメリカや欧州連合(EU)など、西側諸国はいずれもハマスの攻撃を非難している。

イスラエルに最も近い同盟国のアメリカは、これまでに計2600億ドル以上に相当する軍事・経済援助をイスラエルに提供しており、現時点でも追加の装備や砲弾など軍事支援を約束している。

アメリカはさらに、空母打撃群を地中海東部に派遣している。

これに対してロシアと中国は、ハマスを非難せず、紛争の双方と連絡を取り続けているという。

ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は、中東に平和が実現していないのはアメリカのせいだと非難した。

中東で影響力を持つイランは、ハマスにとって重要な後ろ盾のひとつだ。同時に、イスラエルと対立するレバノンの武装勢力ヒズボラも、イランは支援している。

ハマスによるイスラエル攻撃開始に先立ち、イランが事前に承認していたとの情報もある。イラン政府は一切の関与を否定した。しかし、イランのホセイン・アミル・アブドラヒアン外相は14日、ハマスの指導者イスマイル・ハニヤ氏が拠点としているカタールの首都ドーハを訪れ、ハニヤ氏と会談している。

(英語記事 Israel Gaza war: History of the conflict explained / Palestinian territories – Timeline)』