政治が「結果責任」である事には、理由がある。

政治が「結果責任」である事には、理由がある。
http://blog.livedoor.jp/goldentail/archives/32383674.html

『 人間の能力には限界があり、未来を見通す事などできません。それは、理性的な頭のある人なら判っています。その為、権力者による独裁が、いずれは高い確率で社会に害を及ぼすと判断し、民主主義という代理制の政治制度を生み出しました。人間にできる終点は、ここまでです。森羅万象を支配できる超人でも産まれない限り、正しく運用された民主主義(制度というのは、運用とセットで評価です。例え制度が整っていても、司法と立法を乗っ取って独裁を布いている国は腐るほどあります)以上に、生存する可能性が高い社会制度は、ありません。

このあたりの事は、過去の投稿で詳しく解説しています。人間が未来を確実に予知する能力でも持たない限り、これ以上の社会制度は理論的に生まれません。物事を抽象化して考える能力をつける事ができた、ホモサピエンスが、他の亜人類を絶滅させて唯一生き残った、最強の武器の完成形でもあります。しかし、一つの弱点があります。それは、抽象化する能力と密接な関係があるのですが、思想や宗教といった偏った考え方に影響されやすいという事です。

政治というのは、理想や思想と現実のバランスを取る能力が前提になっていて、そういう能力のある人物が代表として執行権を付託されて運用する事になっています。しかし、選挙によって選ばれる以上、世論の影響を受けます。もちろん、世論を政治に反映させるのも民主主義の重要な役割ですが、問題なのは、その程度が、しばしば現実離れしてしまう事があります。最終的に責任を取る必要の無い世論というのは、夢想に近いような非現実的な事を目標にしてしまう事が起きます。なので、「その国の民度以上の政治は行われない」という言葉も生まれます。突出した能力を持った政治家が生まれても、民主主義である以上、世論を完全に無視するわけにもいかず、常に合理的な判断ができるわけでもありません。それが、独裁を牽制する事だと言われればそうなのですが、以前の投稿で、私が「思想政治」と呼んだように、政治に対して支配的な圧力をかけるようになると、社会が壊れ始めます。

ニューヨーク市の市長である民主党のエリック・アダムズ氏は、テキサス州の移民受け入れに消極的な姿勢を猛烈に批判していました。テキサス州は、メキシコに隣接しているので、不法移民の侵入に直接晒されている地域です。余りにも口汚く罵るので、テキサス州は、「そこまで言うなら、ニューヨークで受け入れろ」と言って、シャトルバスを出して、不法移民をニューヨークに搬送して、置き去りにするという事をやりました。ニューヨークは、既に条例で移民・難民の生活を保障し、住居を提供する事を定めている為、彼らに支援を与える義務があります。

この結果、テキサス州だけではなく、支援目的でアメリカ中の不法移民や難民がニューヨークに集まり、年間で10万人規模になっています。そして、支援の為に費やされる費用は、1兆円を超える事が予想されていて、3年でニューヨーク市が財政破綻する勢いです。既に、住居として提供できる施設は、満杯で、災害用のシェルターまで開放していますが、まったく足りず、路上で寝起きする人も出ています。場所がないので、セントラル・パークに簡易施設を建設して、難民居住区を作る案も出ています。これ、臨時という話をしていますが、移民の居住地を確保できていない以上、恐らく永久に居住区として定着して、セントラル・パークは消滅する事になります。

この事態になって初めて事の重大さに気がついたようで、この市長は「このままでは移民のせいでニューヨークは破壊される!」と言い始めました。本来、政治の役割とは、こうならないように、現実と理想のバランスを取る事です。聞いてて気持ちの良い言葉など、いくらでも無責任に言う事はできます。実際に、それをやったら、甚大な犠牲が出る事を、阻止しつつ、キャパシティーの範囲で実現に努力する為に政治家がいます。世界的な大都市の首長が、この程度なのが、今のアメリカ社会の悲劇です。

この市長が選挙で選ばれるには、「移民・難民をドンドン受け入れろ」という民主党支持者の支持があったはずです。なので、この市長は、実害がでないうちは、テキサス州を攻撃し、「難民歓迎」とか言っていたわけです。それは、ある意味、世論を政治に反映させていたわけで、民主主義の一つの役割が果たされた結果です。しかし、理想は無制限に実現できません。物事には、程度というものがあります。思想が先行して、政治が正常に機能しなかった結果、おそらくニューヨークに住んでいる全ての人が、移動してきた難民も含めて、不幸になる方向に全力疾走しています。これを、不評を買っても調整するのが、また、政治の役割でもあるのです。

未来が予測できない以上、常に最善手が打てないのは、政治家も同じです。その為、政治が引き起こした結果において、責任を取る事が重要になります。無責任に心地よい理想論をぶっていれば良いならば、何も政治家は要りません。常に正解が導けない中で、起こしてしまった事について責任を取る事で、違う道を選択する機会が生まれます。それを、クーデター以外の方法で、制度の中でする事が宣言されているのが、民主主義です。

自分が責任を取らされる事のない様々な願望や思想を取りまとめ、現実との調整を取り、社会が壊れないように調整するのが民主政治であり、政治の都合を無理やり市民に押し付けるのが独裁で、思想や宗教を政治より高い位置において、社会が壊れても強行する事が「正義」とするのが思想政治(私の造語)です。この中で、結果に対して責任を取る事を是としているのは、最初に述べた「民主政治」のみです。他の2つは、一部の既得権者を生み、社会と道徳を破壊し、市民を不幸にします。同じ、民主主義というカテゴリーの中でも、これだけの幅があり、今は思想政治の時代です。そして、一部の共産国が独裁をやっています。そして、「結果」を見る限り、どちらの市民も不幸そうに見えます。 』