朝鮮戦争

朝鮮戦争
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%88%A6%E4%BA%89

 ※ あまりに長いので、「機動戦」「消耗戦」に関係すると思われる部分だけ抜粋して、紹介する。

 ※ 大体の経過は、北朝鮮軍の奇襲侵攻 → 国連軍(韓国軍、米軍)の敗退・後退 → 仁川上陸作戦の成功による国連軍の攻勢・北朝鮮軍の敗退・後退 → 中国義勇軍(と、称するもの)、ソ連軍の参戦による国連軍の劣勢・後退→38度線近辺での膠着状態…、と言った感じのものだ…。

 ※ 『毛沢東は、一時的に撤退した中国軍を国連軍が深追いしてくれることを望んだが、マッカーサーは毛沢東の目論み通り、中国の本格介入に対しては即時全面攻撃で速やかに戦争を終わらせる他ないと考え、鴨緑江に向けて進撃競争の再開を命じると共に、統合参謀本部に対し、中国軍の進入路となっている鴨緑江にかかる橋梁への爆撃の許可を要請した。その際マッカーサーはトルーマンに宛てて「北朝鮮領土を中共の侵略に委ねるのなら、それは近年における自由主義世界最大の敗北となるだろう。アジアにおける我が国の指導力と影響力は地に墜ち、その政治的・軍事的地位の維持は不可能となる」と脅迫じみた進言を行い、トルーマンと統合参謀本部は従来の方針に反するマッカーサーの申し出を呑んだ[136]。

マッカーサーは中国の罠にはまる形で鴨緑江に向けて軍を進め、中国軍はその動きや部隊配置を全て認識した上で待ち構えていた[137]。アメリカ軍の前線部隊の指揮官らは迫りくる危険を充分に察知していたが、マッカーサーは自分の作戦の早期達成を妨げるような情報には耳を貸さなかった[138]。その作戦はマッカーサーの言葉によれば、第10軍団が鴨緑江に先行した後に、第8軍で一大包囲網を完成させ万力の様に締め上げるというものであったが、その作戦計画は机上の空論であり、中朝国境付近は山岳地帯で進軍が困難な上に、半島が北に広がり軍は広範囲に分散すると共に、中国軍の目論見通り、第8軍と第10軍団の間隔が更に広がり、第8軍の右翼が危険となっていた。その右翼には先日中国軍の攻撃で大損害を被った韓国第2軍団が配置されていたが、最もあてにならないと思われていた[139]。』

 ※ 『11月24日に国連軍は鴨緑江付近で中国軍に対する攻撃を開始するが、11月25日には中国軍の方が第二次総攻撃を開始した。韓国軍第2軍団は中国軍との戦闘を極度に恐れており、あてにならないとの評価通り中国軍の最初の攻撃でほとんどが分解して消えてしまった。とある連隊では500名の兵士のほとんどが武器を持ったまま逃げ散った[140]。韓国軍を撃破した中国軍は国連軍に襲い掛かったが、山岳地帯から夥しい数の中国軍兵士が姿を現し、その数は国連軍の4倍にも達した。あるアメリカ軍の連隊は10倍もの数の中国軍と戦う事となった。第8軍の第24師団は清川江の南まで押し戻され、第2師団は右翼が包囲され大損害を被った[141]。』

 ※ 『中国軍の大攻勢が開始されたのは明らかであったのにマッカーサーはその事実を認めようとせず、11月27日、第10軍団のアーモンドに更なる前進を命じている。マッカーサーを尊敬するアーモンドはその命令に従い配下の部隊に突進を命じた。この当時のGHQの様子を中堅将校であったビル・マカフリーは「そのころ、司令部内は完全に狂っていた・・・我々は無数の部隊によって何回も攻撃されていた。唯一の実質的問題は兵士を脱出できるかどうかということだったのに、それでも命令は前進しろと言っていた。マッカーサーは仁川の後、完全にいかれていた」と回想している[142]。しかし実際には前進どころか、第10軍団の第1海兵師団は包囲され、第7師団は中国軍の人海戦術の前に危機的状況に陥っていた[143]。』

 ※ 『ようやく、状況の深刻さを認識したマッカーサーはトルーマンと統合参謀本部に向けて「我々はまったく新しい事態に直面した。」「中国兵は我が軍の全滅を狙っている。」と報告し[141]、またマッカーサーは自分の杜撰な作戦による敗北を誤魔化すために、今まで共産軍を撃滅する為に鴨緑江目がけて突進を命じていたのに、これを攻勢ではなく『敵軍の戦力と意図を確定させる為の威力偵察』であったとの明らかな虚偽の説明を行った。これは無謀な北進が、散々警告されていた中国の本格介入を呼び込み、アメリカに国家的恥辱を与えた事に対する責任逃れであった[144]。』

 ※ 『中国軍の攻勢が始まって3日経過した11月28日の夜に東京でようやく主要な司令官を召集し作戦会議が開かれた。マッカーサーが一人で4時間以上もまくしたて中々結論が出なかったが、翌29日に前進命令を撤回し退却の許可がなされた[145]。しかし前線より遥かに遠い東京の司令部で虚論が交わされている間にも、国連軍の状況は悪化する一方であり、既に包囲され前線が崩壊していた第8軍の第2師団は中国軍6個師団に追い詰められわずかな脱出路しか残っていない状況であった[143]。

マッカーサーは第8軍に遅滞行動を取らせている間に第10軍団を敵中突破させ撤退させることとした。各部隊は中国軍の大軍と死に物狂いの戦いを繰り広げながら「アメリカ陸軍史上最大の敗走」を行った[146]。退却した距離は10日で200kmにもなり、1940年のフランス軍やシンガポールの戦いのイギリス軍の崩壊に似たとも評された[147]。撤退は成功し国連軍は壊滅を逃れたが、受けた損害は大きく、もっとも中国軍の猛攻に晒されたアメリカ軍第2師団は全兵員の25%が死傷するなど、国連軍の死傷者数は12,975名にも上った。しかし中国軍の人的損害はその数倍に及んだ[148]。』

 ※ 『リッジウェイはすぐに東京に向かいマッカーサーと面談したが、マッカーサーは「マット、第8軍は君に任せる。一番よいと思うやり方でやってくれ」と部隊の指揮を前線のリッジウェイに任せることを伝えた[177]。リッジウェイはウォーカーと異なりアーモンドの第10軍団も指揮下に置くことができた。マッカーサーはウォーカーの事故死の直前にあと4個師団の増援がないと前線を安定できないとワシントンに要求していたが、リッジウェイは現状で朝鮮半島にいると予想される共産軍48万名を現在の国連軍36万名で十分処理できると考えていた[178]。

リッジウェイは12月26日には朝鮮半島入りし、西部の第1軍団と第9軍団に小部隊で偵察させたが、水原以南に中国軍の大部隊は存在せず、小部隊に遭遇しただけであった。そこでリッジウェイ中将は漢江以南の地域の威力偵察を目的としたサンダーボルト作戦を命じた[175]。

1951年1月25日、第25師団と第1騎兵師団を基幹とする部隊が北上を開始した[175]。中国軍の抵抗は微弱で同日夕方に水原-利川の線に進出した[175]。1月27日、リッジウェイ中将は漢江南岸の中国軍を一掃するため、第一線部隊を5個師団に増加させ、威力偵察から大規模な攻勢に発展した[175]。北上するにつれて第50軍と第38軍の抵抗を受け、第8軍の進撃は遅々としたものになった。第8軍は、10日間の激戦の末に中国軍を撃退し、2月10日には一部の陣地を残して漢江の線をほぼ回復した[175]。

西部でサンダーボルト作戦を行っている頃に中東部戦線の国連軍は偵察活動によって洪川付近に中国軍が集結していることを掴んだ[175]。その報告を受けた第8軍は、サンダーボルト作戦の成果を東部にも拡張し、洪川付近の中国軍を包囲してその後の本格的な攻勢を行うためのラウンドアップ作戦を発動させ、アメリカ第10軍団と韓国第3軍団、第1軍団に洪川-大関嶺-江陵の線に進出するように命じた[175]。2月5日から北進を開始し、順調に進展していたが、横城付近で強力な抵抗を受けたため北進は停滞した[179]。

2月11日夜、中朝軍が横城正面に第40、42、66軍の3個軍を集中して攻勢に転じ、助攻として西方の第39軍で砥平里の第23連隊を包囲し、東方では北朝鮮軍3個軍団が平昌方向に進撃した[179]。横城の韓国軍3個師団は撃退されたが、砥平里の第23連隊は陣地を死守した[179]。

攻勢開始から1週間ほど経つと衝力は衰え始め、2月18日には後退の兆候も見られるようになった[180]。国連軍は中朝軍に立ち直りの余裕を与えず圧迫を続け、漢江-砥平里-横城-江陵に進出して中朝軍の撃滅を図るキラー作戦を発動した[180]。2月21日、国連軍は全線にわたって北進を開始した。豪雨と中朝軍の抵抗を受けながらも3月初めには漢江南岸-砥平里-横城-江陵に進出し、キラー作戦の目標を達成したが、中朝軍の撃滅はかなわなかった[180]。

リッジウェイ中将はキラー作戦の成果を不十分と考え、引き続き中朝軍を圧迫するためのリッパー作戦を命じた[180]。3月7日、アメリカ第9軍団、第10軍団、韓国第3軍団、第1軍団が北進を開始した[180]。中朝軍の抵抗を受けながらも16日には洪川を、19日には春川を奪回した[180]。一方、西部では韓国第1師団が15日に漢江を渡河しソウルを収復した[181]。

4月9日、ラギット作戦が開始され、アメリカ第1軍団と第9軍団、韓国第1軍団はカンザス・ライン(臨津江-全谷-華川-襄陽)を越えて進出し、4月20日には次の目標線であるユタ・ライン(臨津江-金鶴山-広徳山-白雲山)を占領した[182]。中東部の第10軍団と第3軍団は険しい地形と補給に悩まされながらもユタ・ラインに進出した[182]。各軍団は21日からワイオミング・ライン(漣川-鉄原-金化-華川)を目指して北上した[182]。

4月22日夜、中朝軍の4月攻勢が開始された。4時間に及ぶ攻撃準備射撃に続き、全戦線にわたって攻勢を開始した[182]。中国軍は11個軍をソウル攻略に向かわせた[182]。国連軍は空軍と砲兵の支援で中朝軍に損害を与えつつ逐次にノーネーム・ライン(ソウル北側-清平南側-洪川北側-襄陽北側)まで後退した[183]。新たに第8軍司令官として着任したヴァンフリート中将は400門の火砲を集め、海軍と空軍に協力を要請して、中国軍を火力で撃滅した[183]。第8軍は中朝軍に休む暇を与えないため、直ちに反撃を命じ、5月初めには4月攻勢で失った土地の半分を回復した[183]。ここでヴァンフリート中将は、再びカンザス・ラインに向かう攻勢を計画した[183]。

国連軍の偵察部隊が北進したが、5月10日頃になると激しい抵抗を受けるようになり、中朝軍の攻勢を予感したヴァンフリート中将は全軍に進撃を停止させ、中朝軍の攻勢に備えさせた[183]。5月15日夜、中朝軍による5月攻勢が開始された。西部に第19兵団、東海岸沿いに北朝鮮第3軍団をもって牽制させ、中東部戦線に第3兵団と第9兵団、北朝鮮軍3個軍団の総計は30個師団であった。そして北朝鮮軍は半島東部の太白山脈沿いの韓国第3軍団に攻撃の矛先を向けた。韓国第3軍団(ROK III Corp)が強力な防衛線を張る国連軍の弱点と見抜いていたのである。攻撃を受けた韓国軍は戦うことなく砲、重火器を放棄しただけでなく敵の目につきやすい輸送トラックもあきらめ、携帯武器も捨てながら山岳地帯を南に逃走。将校には捕虜になった際の用心として階級章をもぎ取る者が続出した[184]。去る11月の鴨緑江の再現である[185]。17日に韓国第3軍団は崩壊し、東部戦線は崩壊の危機に瀕した。ヴァンフリート中将はアメリカ第3師団と韓国第1軍団に反撃を命じた。第3師団と第1軍団は中朝軍の進出を阻止し、やがて反撃に転じた[185]。5月末に各軍団はカンザス・ラインを回復した[185]。

カンザス・ラインを確保した第8軍は、同ラインに防御陣地を構築し、さらにこの陣地戦を完全なものにするために前方20キロに連なるワイオミング・ラインを占領して防御縦深を確保すべく、パイルドライバー作戦を発動した[185]。各軍団は北進を続け、6月11日には鉄原、金化を占領した。東部では亥安盆地(パンチボール)南側まで進出したが、同地に北朝鮮軍が堅固な防御陣地を築いていたため、それ以上の進撃を控えた[185]。

7月29日、国連軍は東部戦線で限定目標に対する攻勢を開始した[186]。しかし6月中旬から防御を固めていた中朝軍の陣地は強固で、第10軍団正面の蘆田坪、血の稜線、亥安盆地では激戦となり、数キロ前進するのに約3千人の死傷者を出した[186][187]。10月初旬に国連軍は再び攻勢を開始した。アメリカ第1軍団は10キロ前進して漣川-鉄原の兵站線を安全にし、アメリカ第9軍団は金城川南側高地、韓国第1軍団は月比山、アメリカ第1軍団は断腸の稜線、1211高地を占領して陣地戦を推進した[186]。』

『膠着状態に

中国軍は日中戦争や国共内戦における中華民国軍との戦いで積んだ経験と、ソ連から支給された最新兵器や日本軍の残して行った残存兵器をもとに、参戦当初は優勢だった。だが、この頃には度重なる戦闘で高い経験を持つ古参兵の多くが戦死したことや、補給線が延び切ったことで攻撃が鈍り始めた。

それに対し、アメリカやイギリス製の最新兵器の調達が進んだ国連軍は、ようやく態勢を立て直して反撃を開始し、3月14日にはソウルを再奪回した[188] ものの、戦況は38度線付近で膠着状態となる。

中朝軍は占領地域に大規模な築城を行い、全戦線の縦深20-30キロにわたって塹壕を掘り、西海岸から東海岸までの220キロに及ぶ洞窟陣地を構築した[189]。さらに1951年冬から1952年春にかけて、中朝軍は兵力を増加し、86万7000人(中国軍64万2000人、北朝鮮軍22万5000人)に達し、国連軍の60万人を凌駕した[189]。

1951年冬から両軍は越冬状態で過ごした。しかし第一線では偵察や警戒行動が昼夜を問わず行われ、死傷者が1人も出ない日はなかった[189]。また両軍とも大規模な作戦行動を採らなかったものの、最も防御に適した地形の確保をめぐって、両軍による高地争奪戦が繰り広げられた[189]。』

 ※ 『マッカーサー解任
マッカーサー解任・リッジウェイ着任を報じる新聞(世界通信)
「ダグラス・マッカーサーの解任(英語版)」を参照

リッジウェイは現有通常戦力でも韓国を確保することは十分可能であると判断しており、実際にマッカーサーから指揮権を譲り受けると、中国軍の攻勢を押しとどめて1951年3月には中国軍を38度線まで押し返した。しかし、昔から自己顕示欲が強く部下の活躍を素直に評価することができないマッカーサーはそれを不服と思っていた。マッカーサーは自分が指揮全権を委ねたはずのリッジウェイの戦いぶりを批判し始め、「これはアコーディオン戦争に過ぎない」と侮蔑的な評価をマスコミに対して公言していた。リッジウェイは少ない戦力で最大限の効果を上げるために、前進に拘ることはなく、戦力に勝る中国軍の攻勢を誘発して大損害を与えるという地道な作戦を繰り返し、着実にキルレシオ10~15:1と圧倒的に大きい人的損害を中国軍に与えていたが、この作戦に対してマッカーサーがケチをつけたものであった[190]。

そのようなマッカーサーに対してリッジウェイは、部下の兵士たちがかなりの成功を収めていると士気も上がっている中で、最高司令官がそれを貶してるのであれば、もはや味方の最高司令官であるはずの人物が、前線で戦っている兵士の士気を挫こうと画策しているのに等しいと憤慨し、マスコミに対して「我々は中国征服に乗り出したわけではない。我々は共産主義を食い止めようとしたのである。我々は戦場における我が兵士の優位を立証した。中国が我々を海に追い落とすことができなければ、それは中国にとって計り知れないほどの敗北である」という見解を発表し、真向からマッカーサーに対抗した[191]。のちにリッジウェイはマッカーサーに対して、自伝で「自分でやったのではない行為に対しても、名誉を主張してそれを受けたがる」と評している[192]。

しかしマッカーサーはリッジウェイからの批判を意に介することはなく、自分の存在感をアピールするために「中国を1年間で屈服させる新しい構想」を主張し始め、さらに「最長でも10日で戦勝できる」と嘯くようになった[193]。その構想とは、満州国建国後に行われた日本の多額の投資により一大工業地帯を築き、第二次世界大戦と国共内戦終結後もそのほとんどがそのまま使われていた満州の工業設備やインフラストラクチャー施設を、ボーイングB-29とその最新型のB-50からなる戦略空軍によって、50個もの原子爆弾を投下して壊滅させた後、アメリカ海兵隊と台湾の中国国民党兵力合計50万名を共産軍の背後に上陸して補給路を断ち、38度線から進撃してきた第8軍と包囲して朝鮮半島の共産軍を殲滅し、中国と北朝鮮国境に放射性コバルトを散布して放射能汚染させて、共産軍の侵入を防ぐというもので、マッカーサーはこの戦略により60年間は朝鮮半島は安定が保てると主張していたが、実現性の怪しいものであった[194]。リッジウェイはこのマッカーサーの計画に対しては「マッカーサーは、中国東北部の空軍基地と工業地帯を原爆と空爆で破壊した後は残りの工業地帯も破壊し、共産主義支配の打破を目指していた」「ソ連は参戦してこないと考えていたが、もし参戦して来たらソ連攻撃のための措置も取った」と朝鮮戦争の解決から逸脱して共産勢力の減殺を目論んでいたと推察していた[195]。』

 ※ 『一方でトルーマンは、この時点では朝鮮半島の武力統一には興味を示しておらず、むしろ、リッジウェイが戦況を挽回したことで停戦の機が熟したと考えて、アメリカ軍部隊を撤退させられるような合意を熱望しており[196]、自らの計画を実行するために原爆の使用許可を求めてくるマッカーサーをずっと黙殺していた。さらにトルーマンは、朝鮮問題解決の道を開くため、1951年3月24日に「停戦を模索する用意がある」との声明を発表する準備をしており、事前の3月20日に統合参謀本部を通じてマッカーサーにもその内容が伝えられた。トルーマンとの対決姿勢を鮮明にしていたマッカーサーは、この停戦工作を妨害してトルーマンを足元からひっくり返そうと画策、3月24日のトルーマンが声明を出す前に、一軍司令官としては異例の「国連軍は制限下においても中国軍を圧倒し、中国は朝鮮制圧は不可能なことが明らかになった」「中共が軍事的崩壊の瀬戸際に追い込まれていることを痛感できているはず」「私は敵の司令官といつでも会談する用意がある」などの「軍事的情勢判断」を発表したが、これは中国へ「我々が中国を破壊する前に、今すぐ戦争を止めろ」と迫った実質的な「最後通牒」に等しく[196]、中国を強く刺激した[197][198]。

さらにマッカーサーは、野党共和党の保守派の重鎮ジョーゼフ・ウィリアム・マーティン・ジュニア前下院議長に対し、トルーマン政権のヨーロッパ重視政策への批判の手紙を出していたことが発覚、マーティンがその手紙を議会で読み上げたことで、一軍司令官が国の政策に口を出した明白なシビリアン・コントロール違反が相次いで行われたことが判明した。トルーマンは一瞬にして講和交渉をぶち壊されたのに続き、大統領の自分に対して叛旗を翻すマッカーサーに対し「もはや我慢の限界かもしれない。とんでもない反逆だ」と激怒した[199]。またこの頃になるとイギリスなどの同盟国は、マッカーサーが中国との全面戦争を望んでいるがトルーマンはマッカーサーをコントロールできていない、との懸念が寄せられ、「アメリカの政治的判断と指導者の質」に対するヨーロッパ同盟国の信頼は低下していた。もはやマッカーサーを全く信頼していなかったトルーマンは、マッカーサーの解任を決意した[200]。

4月6日から9日にかけてトルーマンは、国務長官ディーン・アチソン、国防長官ジョージ・マーシャル、参謀総長オマール・ブラッドレーらと、マッカーサーの扱いについて協議した。メンバーはマッカーサーの解任は当然と考えていたが、それを実施するもっとも賢明な方法について話し合われた[201]。4月10日、ホワイトハウスは記者会見の準備をしていたが、その情報が事前に漏れ、トルーマン政権に批判的だった『シカゴ・トリビューン』が翌朝の朝刊で報じるという情報を知ったブラッドレーが、マッカーサーが罷免される前に辞任するかも知れないとトルーマンに告げると、トルーマンは感情を露わにして「あの野郎が私に辞表をたたきつけるようなことはさせない、私が奴をくびにしてやるのだ」とブラッドレーに言い放って、公表を急ぐこととし、急遽4月11日深夜0時56分に異例の記者会見を行ってマッカーサー解任を発表した[202]。』

 ※ 『日本時間の午後には日本にも第一報が届いた。マッカーサーはそのとき妻のジーンと共に、来日した上院議員ウォーレン・マグナソンとノースウエスト航空社長のスターンズと会食をしていたが、ラジオでマッカーサー解任のニュースを聞いた副官のシドニー・ハフ大佐は電話でジーンにその情報を伝えた[203]。周囲にいた日本人、アメリカ人を問わず、ほぼ全員がその知らせを聞いて動揺したが、当のマッカーサーは冷静に受け止めた[204]。翌12日に、トルーマンから発信された「将軍あての重要な電報」が通信隊より茶色の軍用封筒に入った状態でハフの手元に届いた。その封筒の表には赤いスタンプで「マッカーサーへの指示」という文字が記してあった。ハフはマッカーサーが居住していたアメリカ大使公邸にこの封筒を持って行き、昼食中のマッカーサーに泣きながら封筒を手渡した。マッカーサーは感情を表に出すことはなくその封筒を開けてトルーマンからの指示を読んだ[205]。

大統領として、そして合衆国軍の最高司令官として、誠に遺憾ながら、貴殿を連合国軍最高司令官、国連軍最高司令官、極東方面軍最高司令官、アメリカ陸軍極東司令部総司令官の職から解く。貴殿の指揮権を、速やかにマシュー・リッジウェイ中将に移譲されたい。

マッカーサーはトルーマンからの指示を読んだ後もなんの感情を見せることなく、しばらく沈黙した後に夫人に向かって「ジーニー、やっと帰れるよ」と言った[206]。

解任されたマッカーサーは、4月16日に専用機「バターン号」で家族とともに東京国際空港からアメリカに帰国し、帰国パレードを行った後にアメリカ連邦議会上下両院での退任演説をし、退役し軍歴を閉じた。』

 ※ 『韓国軍の強化

1951年5月末、カンザスラインをほぼ確保した時点で、再び機動戦が展開されることはないと判断され、第8軍と韓国陸軍本部は協議して韓国軍の再訓練に取り掛かった[207]。

1951年7月、野戦訓練団が束草の南側に創設され、アメリカ軍から第9軍団副軍団長のトーマス・クロス准将をチーフとする教官、助教あわせて150人が派遣された[208]。訓練期間は9週間を予定し、各個教練、小銃射撃、分隊訓練の基本から師団司令部の幕僚勤務まで、あらゆる訓練をやり直した[209]。最初の訓練対象は第3師団となり、9週間後の検閲で合格し、アメリカ軍第10軍団に編入されて第一線に復帰した[210]。1952年末までに全10個師団が訓練を受けた[211]。

既存部隊の再訓練と並行して各兵科の専門教育の充実も計られた[210]。何千人もの将校、下士官がアメリカの陸軍歩兵学校や砲兵学校などの実施学校で受け、高級幹部はアメリカ陸軍指揮幕僚大学にも留学している[212]。5 – 10ヵ月の短期課程を終えて帰国した要員は、17の各種実施学校の教官、助教となった[212]。済州島に開設された第1訓練所には負傷して前線勤務が出来なくなった者を教官や助教に充て、新兵には16週間の基本教練が行われ前線に補充された[213]。

1952年1月に正規4年制の陸軍士官学校が鎮海で開校され、4月から教育を始めた。また1951年12月には大邱に幕僚学校が開設されて参謀の育成も始まった[213]。

戦線では再訓練の効果が現れ、東部戦闘地区と中央東側戦闘地区における国連軍の攻撃作戦の多くは、ほとんど韓国軍の部隊で実行された[214]。

将来予想される休戦線の長さ、韓国の国力、期待できる軍事援助などを考慮し、20個師団が必要と算定し、1952年11月から新師団の編成が始まった[215]。1952年末の時点で前線部隊の4分の3近くを韓国軍が占めるようになり、前線に配備された16個師団のうち、11個師団は韓国軍、3個師団は米陸軍、残りの2個師団はそれぞれ米海兵隊と英連邦軍であった[216]。他の韓国軍部隊は、韓国海兵連隊をアメリカ軍第1海兵師団に編入させるなどして、いくつかのアメリカ軍師団を補強した[216]。またヴァンフリートは予備として韓国軍1個師団とアメリカ軍3個師団を用意した[216]。20個師団体制は休戦後の1953年11月に確立した[217]。』

 ※ 『停戦
詳細は「朝鮮戦争休戦協定」を参照
休戦会談を行う両陣営(1951年10月11日)

この後、1951年6月23日にソ連のヤコフ・マリク国連大使が休戦協定の締結を提案したことによって停戦が模索され、1951年7月10日から開城において休戦会談が断続的に繰り返されたが、双方が少しでも有利な条件での停戦を要求するため交渉は難航した。
休戦協定

アメリカの空爆と核攻撃の脅威にさらされた金日成は休戦を望んだが、毛沢東は一切譲歩しようとせず、「金日成同志よ! 休戦は敗戦につながる一歩だ。我々は、戦争のおかげで鍛えられ、アメリカ帝国主義と戦う貴重な経験を得ているではないか」と休戦を拒否した[21]。金日成はスターリンにも直談判を試みたが、スターリンは「我々は中国の代表団とこの問題を討議し、休戦には応じないという結論に達した。以上だ」と取り合わなかった[21]。

しかし1953年に入ると、アメリカでは1月にアイゼンハワー大統領が就任、ソ連では3月にスターリンが死去して両陣営の指導者が交代して状況が変化し、共産主義陣営を主導してきたスターリンが死去したことで残された毛沢東は、ようやく戦火を収めることに同意した[21]。

1953年7月27日に、38度線近辺の板門店で北朝鮮、中国軍両軍と国連軍の間で休戦協定が結ばれ、3年間続いた戦争は一時の終結をし、現在も停戦中である(調印者:金日成朝鮮人民軍最高司令官、彭徳懐中国人民志願軍司令官、M.W.クラーク国際連合軍司令部総司令官。なお「北進統一」に固執した李承晩大統領はこの停戦協定を不服として調印式に参加しなかった)。

停戦協定は結ばれたものの、板門店がソウルと開城市の中間であったことから、38度線以南の大都市である開城を奪回できなかったのは国連軍の失敗であったとされる。』