1990年代、予算上の米軍の弾薬要求量の基準は、2方面の戦域での本格的な交戦を…。
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『Jennifer Stewart 記者による2023-8-16記事「NDIA POLICY POINTS: Shifting Munitions Requirements for Great Power Competition」。
1990年代、予算上の米軍の弾薬要求量の基準は、2方面の戦域での本格的な交戦を同時に支えるに足りるものであることが、念頭されていた。〔常に意識されていた1つの想定戦域は、「対イラン」であった。〕
ところが急速にソ連=ロシアは弱勢力化したと見られて、中共も暫く米国に対して下手に出て様子を見ていた間、米軍が念頭する「地球規模作戦構想」が変化した。
弾薬準備は、とりあえず1方面の戦域での本格的な交戦を支えられれば十分だろう。そのあいだ、もう一方の戦域では「抑止」だけしておけ。そして、1方面の戦域を片付けてしまったあと、おもむろに、その弾薬兵站を他方の戦域へ振り向けて、そっちの敵も片付けてしまえばいいのだ、と。〔この時期はまだ、「対北鮮」があり得ると考えられていた。〕
ところが続けざまにその構想も変更された。大戦争はもう起きない。対処しなくてはならないのは、ゲリラや後進国の歩兵が相手の「低烈度紛争」なのだと。
そうなると、こっちの長射程の砲兵が一斉に戦線に展開してバカスカと弾薬を消費しまくるというシチュエーションが、ほとんど考えられなくなった。
〔この時期は、イラクとアフガンの泥沼にはまっていた時期であろう。〕
弾薬予算は、米国にあっては、伝統的に「要求ベース」である。つまり使用部隊から《これだけ必要になります》と要求して、それを連邦議会が予算化したものである。
ところが、いったん低烈度戦争の時代に入ると、連邦議会が弾薬要求には鷹揚ではなくなった。というのも弾薬費の総額はとにかく巨大なのだ。それをちょっとばかり減らすことができれば、別な新事業へ大金を投入することができる。それは関係者と議員にとってはおいしい利権だ。いつしか、要求ベースであるべきはずの弾薬予算は、「これだけなら出してやるよ」と、支出上限を先に決め、その金額内でなんとかやりくりしなさいと突き放す、そんな費目に変貌してしまった。
その結果ついに、議会の側では「これだけの弾薬があれば訓練には十分だろう」という量を以て、十分量と看做すに至った。またありとあらゆる種類の弾薬が、少量ずつ調達されることにもなっていった。そのどれか1種類のストック量は、ひとつの本格紛争にも堪えないレベルに低下したのである。
いよいよ大戦争になったら、そのときに、必要な弾薬を増産させればいいじゃないか――と、メーカー以外のみんな、甘く考えていた。
だが、弾薬の生産事業というものは、複数年度の長期安定した契約がガッチリと「官」との間に結ばれていることで、初めて前へ進んで行く話なのだ。国防総省の若造の高官がプレス発表で「増産」を急に呼びかけたって、それに工場が即応することなど不可能なのである。
二次産業の全体も見回してほしい。今、どの業界であれ、「増産せよ」と言われて「ホイ増産」と応じられるセクションはないのである。
工場労働者も奪い合い。チップも奪い合い。設備投資の工事にしたって、それをやってくれる土建業者を奪い合わねばならんのである。
砲弾工場を中心に米国経済は回っていない。自動車産業やIT産業と、かぎられた生産資源を奪い合いながら、企業はかろうじて利潤を出してサバイバルしている。
だからこそ、政府は長期の安定契約で、砲弾メーカーの製造能力――それには熟練工の保持も含まれている――を温存せしめる努力義務があると言えるのだ。
さもないと、砲弾のサプライチェーンが破綻するのはあっという間。そしてそれを再建するのには最短でも2年かかってしまうのだから。』