マレーシア
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 ※ 一部を抜粋して、紹介する。

マレーシアの歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

『先史

前5000 - 3000 東南アジア島嶼部でオーストロネシア語化が進行。
1世紀頃 航海術が発達し、アジアの海上交易が活発化する。

古代

4 - 5世紀 東南アジアのインド化が進展。
7世紀頃 マラッカ海峡経由ルートがアジアの海上交易の主要ルートになる。
670頃 スマトラ南部にシュリーヴィジャヤ王国が成立。

中世

13世紀 アラブ商人やインド商人と共にイスラム教が伝来し、仏教とヒンドゥー教の時代が終わった。

1400年 マラッカ王国成立。1408年 マラッカ王国の独立を当時の明が承認。

近世

15世紀、日本と交易関係があり、日本から銀、刀、漆器、屏風を、東南アジアの象牙、スズ、砂糖、鉄、を、取引していた。歴代宝案には東南アジアの王国と琉球王国間の公式な船の行き来は、1424年から1630年の間で、全部で150回にのぼり、そのうち61回はシャム行きのもの、10回はマラッカ行のもの、10回はパタニ行きのもの、8回はジャワ行きのものだったという記録が残っている。[1]

1511年 ポルトガル、マラッカを占領
1542年 マラッカからポルトガルの鉄砲が日本に伝来した。(鉄砲伝来)
1549年 イエズス会のフランシスコ・ザビエルがマラッカを出発し、日本到着。
1641年 オランダ、マラッカを占領

1777年 隣国シャム (現在のタイ) のソンクラー国主に福建省漳州府海澄県出身の華僑・呉譲が就任。以後、ソンクラー国を拠点としてシャム軍がパタニ王国、クダ・スルタン国への侵略の動きを見せ始める。

1786年 シャムの攻撃を恐れたクダ・スルタン国は、非常時におけるイギリスによる兵力援助の約束と引き換えに、イギリス東インド会社にペナン島を賃貸した。イギリス東インド会社は、中国やインドからの移民増加政策を行った。

1791年5月1日 シャムが隣国のパタニ王国 (現在のタイ深南部三県) まで攻めて来たため、イギリスに派兵を要求したが断わられた。ここにクダ・スルタン国はフランシス・ライト(英語版)に5年間騙されていた事が発覚した。クダ・スルタン国は10,000人からなる大軍によるペナン島回復戦を計画したが、事前にフランシス・ライトに察知され、ペナンを取り返すどころか対岸の拠点セベラン・ペライを奪われてしまい、ペナンを正式にイギリスに明け渡した (ペナンの歴史)。

近代

イギリスによる植民地統治時代

1795年 イギリス、マラッカを獲得。
1805年 トーマス・ラッフルズがペナンに派遣され、ペナンで積んだ経験が後のシンガポール建設の参考となった。
1819年 トーマス・ラッフルズがシンガポールの地政学上の重要性に着目、ジョホール王国の内紛に乗じてシンガポールを獲得した。
1821年 クダ・スルタン国はシャムに征服され、統治された。
1824年 イギリス・オランダ両国にて、マレー半島 (マラッカ海峡) を中心とする地区の勢力範囲を定めた英蘭協約を締結 イギリスはスマトラ島西海岸のベンクーレンとオランダのマラッカを交換し、ペナン・シンガポール・マラッカのマレー半島に英領植民地を得る。
1826年 イギリスとシャムがバーニー条約を締結し、イギリス領マラッカ海峡植民地成立
1836年 フランシス・ライトの息子でペナン出身のウィリアム・ライトが南オーストラリアのアデレード建設を開始
1840年 ジェームズ・ブレマー率いる英国極東艦隊が海峡植民地シンガポールから阿片戦争へ出撃。ジェームズ・ブルックがサラワクの反乱の鎮圧に協力
1841年 サラワク王国がブルネイ・スルタン国から独立
1842年 ジェームズ・ブルックがサラワク王国の国主となる
1855年 イギリスとシャムが通商貿易に関するボーリング条約 (不平等条約) を締結。
1874年 イギリス領マラヤ成立
1882年 阿片戦争で有名なランスロット・デントのデント商会のデント兄弟がイギリス北ボルネオ会社による北ボルネオ (スールー王国とブルネイ王国) の統治を開始
1888年7月 イギリス北ボルネオ会社により統治されるイギリス保護国北ボルネオが成立
1909年 英泰条約によってクダ・スルタン国はイギリスに移譲されイギリス領マラヤになる。Unfederated Malay States

戦争とマラヤ危機

マラヤ連邦

1941年 日本軍がコタバル近郊に上陸 (マレー作戦)。太平洋戦争の開戦。
1942年 日本軍がマラヤ(日本占領時期のマラヤ)及び北ボルネオ(日本占領時期のイギリス領ボルネオ)全域を占領。クダ王国はシャムの占領下、その他の地域は日本軍の軍政下に入る。
1945年 太平洋戦争の終結に伴い、マラヤ・北ボルネオがイギリスの支配下に復帰。
1946年 イギリスがマラヤに有するクダ・シンガポール以外の植民地の集合体としてマラヤ連合が発足。北ボルネオのサラワク王国がイギリス領サラワクになる。
1948年マラヤ連合の再編とクダ王国の加入によってマラヤ連邦が発足。連邦発足直後からマラヤ危機が発生 (1948年 – 1960年)。
1957年 マラヤ連邦 (初代国王トゥアンク・アブドゥル・ラーマン、初代首相トゥンク・アブドゥル・ラーマン) が独立。

「マレーシア」の成立

マレーシア

マハティール・ビン・モハマドは、1981年~2003年の前在任期間中、日本を手本に国の開発を進める「ルックイースト政策」を採用し、自国を「東南アジアの優等生」と呼ばれるまでに成長させた

1962年 - 1966年 インドネシアとマレーシアの対立。
1963年 シンガポール、イギリス保護国北ボルネオ、イギリス領サラワクがマラヤ連邦と統合し、マレーシアが成立。
1965年 シンガポールがマレーシアから追放される形で分離独立。
1968年 - 1989年 共産主義者の反乱。
1969年 5月10日、1969年総選挙実施。5月13日、マレーシア史上最悪の民族衝突であるマレー人と中国人の間の衝突5月13日事件が起きる。
1970年 7月緊急条例発布。9月、ラーマン首相辞任。第2代首相にアブドゥル・ラザク就任。
1974年 クアラルンプールを連邦の首都に定める。
1975年 ラザク首相、急死。フセイン・オン、首相に昇格。第3代首相に。
1981年 マハティール首相就任 ( - 2003年)
1981年 マハティール首相がルックイースト政策を提唱。
1984年 サバ州沖合のラブアン島が連邦直轄領になる。
1991年 ワワサン2020の開始。
1999年 首相官邸がクアラルンプール郊外の新行政都市プトラジャヤに移転。首都機能が2010年までに移転される。
2003年 アブドゥラ・ビン・アフマッド・バダウィ首相就任
2009年 アブドラ首相は、2008年3月の総選挙で国民戦線が3分の2議席を確保できなかったため、二期目の任期4年を残し首相を退任。4月にマレーシア与党連合・国民戦線の中核政党統一マレー国民組織(UMNO)のナジブが首相に就任した。
2013年2月11日、en:2013 Lahad Datu standoff。
2015年7月2日 国策投資会社1MDBからナジブ・ラザク首相の個人口座へおよそ7億ドルが振り込まれた公文書記録をウォール・ストリート・ジャーナルが報じた。下旬、会社幹部が逮捕者を出す一方、内務省は経済紙に発禁命令を出した。
2018年 2018年マレーシア総選挙 』

『政治

詳細は「マレーシアの政治(英語版)」を参照

政体は立憲君主制である。また、小選挙区制をとるが、都市部と農村部の間の一票の格差は最大9倍に及び、農村部の票が強い状態となっている[10][11][12]。

元首

「マレーシアの国王」を参照
マレーシアの国王の官邸

国家元首たる国王(アゴン)は13州のうち9州にいるスルタン(君主)による互選で選出され(実質的には輪番制)、任期は5年。世界でも珍しい、世襲ではなく選挙で選ばれる、任期制の国王である(選挙君主制)。

行政

「マレーシアの首相」を参照
マレーシアの首相の事務所
アンワル・イブラヒム首相

行政府の長は首相であり、国王は内閣の補佐を受けて行政を担当する。
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立法

「マレーシアの国会」を参照
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マレーシアの国会

元老院 - マレーシア議会上院
代議院 - マレーシア議会下院

司法

「マレーシアの司法(英語版)」を参照
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『列柱社会

「ブミプトラ政策」も参照

マレーシアは、人口の6割をマレー系、3割を華人系、1割をインド系が居住する国家である。居住の形態は、伝統的にはそれぞれのエスニシティが集団で居住する形式をとっていた経緯があり、また政治の支持基盤も民族毎であるという特色がある。

与党勢力

国民戦線 (Barisan Nasional) (BN)
    統一マレー国民組織 (UMNO) (マレー系)
    マレーシア華人協会 (MCA) (華人系)
    マレーシア・インド人会議 (MIC) (インド系)

国民同盟 (Perikatan Nasional) (PN)
    先住民族団結党 (PPBM/BERSATU)
    マレーシア民政運動党 (グラカン/GERAKAN)
    全マレーシア・イスラーム党 (PAS)

野党勢力

希望同盟 (Pakatan Harapan) (PH)
    民主行動党 (DAP)
    人民正義党 (PKR)
    国民信任党 (AMANAH)
    統一パソクモモグン・カダザンドゥスン・ムルト組織 (UPKO)

「マレーシアの政党」も参照

セグメントごとの支持基盤、エスニシティ間の対立を回避するために、国民戦線では、エスニシティのリーダー間の協調が図られている。先述の5月13日事件がその契機となった。 』

『地理

詳細は「マレーシアの地理」を参照
マレー半島地形図

マレー半島南部(国土の4割)とボルネオ島北部(同6割)を領土とする。マレー半島でタイと、ボルネオ島でインドネシア、ブルネイと接する。領海はシンガポール、フィリピン、ベトナムと接する。

インドネシアとはボルネオ島で広く隣接する。ほぼ同じ言語の国であり、ともに最大の宗教がイスラムである(ただし、マレーシアではイスラムは国教となっているがインドネシアではそうではない)。なおボルネオ島はインドネシアではカリマンタン島と呼ばれている。

シンガポールとはジョホールバルの南からコーズウェイ(土手道)で、またジョホール州西部からはセカンドリンクと呼ばれる大橋で結ばれており経済的なつながりが強いが、政治的には衝突することが多い。

ブルネイとはボルネオ島のサラワク州で国境を接し、同じ言語、宗教の国である。なおブルネイには飛地があり、マレーシアとの国境線は2本ある。

フィリピンとは海域で接している。フィリピン諸島とボルネオ島の間に連なるスールー諸島にかつては王国が存在した。

一般的にはマレー半島の部分が「半島マレーシア(地区)」(Semenanjung Malaysia)、ボルネオ島の部分は「東マレーシア(地区)」(Malaysia Timur) と呼ばれる。

東マレーシアのサバ州および、サラワク州は独立性が高く、ほかの州(サバ州、サラワク州との相互往来を含む)との往来はマレーシア国民であってもパスポートを必要とする。
マレー半島部分は南北740キロ、東西320キロで、ティティワンサ山脈が走る。

ボルネオ島のキナバル国立公園にはUNESCO世界遺産に登録され、マレーシア最高峰のキナバル山(標高4,095メートル)がそびえる。

熱帯気候だが海に囲まれるため気温はあまり高くなく、湿度は1年を通じて高い。4月から10月の南西モンスーンと11月から3月の北東モンスーンの影響で年間降水量は2,500ミリに達する。マレー半島をカバーする山地はテナッセリム丘陵と呼ばれ、北はタイまで延びる。半島には南北に伸びる東西2列の山地があり、東側はビンタ山脈、西側はティティワンサ山脈と呼ばれる。最高峰は東側のタハン山(標高2,187メートル)と西側のコルブ山(標高2,183メートル)である。』

『民族間の経済格差

マレーシアは人種別に一人当たりのGDPが異なる。

2012年の統計の民族別の世帯平均月収は、華人が6,366リンギ、インド系が5,233リンギ、マレー系が4,457リンギだった[30]。

華人がもっとも豊かなのは、マレーシア経済において支配的な立場にあるためだが、ペトロナスやプロトンといった政府系企業においては、ブミプトラ政策の影響でマレー系が独占的な立場[31] を有する。

ただし、縁故採用の常態化といった問題から、すべてのマレー系住民が同政策の恩恵を受けているわけではない。結果として、マレー系コミュニティにおける経済格差は他民族と比較して極端に大きく、経済格差の規模は東南アジア最大である[32]。

都市部と農村部の経済格差問題もあり、マレーシア国内で月収が1,000リンギ以下の世帯が全体の8.6%にあたる49万8,800世帯に上っているという[33][34]。政府は、2013年より最低賃金制度を導入し、低所得者層の収入の増加を図ろうとしている[35]。

マレーシアで有力な経済人は華人系が圧倒的に多く、個人総資産額の上位の大半が華人系で占められている[36]。

代表例としては、製糖事業で財を成したケリーグループを率いるロバート・クオック(郭鶴年)やパーム油(マレーシアの主要輸出品)関連事業を手がけるIOIグループの最高責任者リー・シンチェン(英語版)、シンガポールに拠点を持つ不動産業大手ホンリョングループ総帥クェック・レンチャン(英語版)が挙げられる。

また、華人系実業家の多くは、シンガポールや香港と関係が深く[37]、マレーシア政府との結びつきが弱いことに特徴がある。マレーシア企業でありながら拠点が国外(シンガポールや香港など)にあったり、事業の主要な収益源が海外である場合も少なくない。

一方、マレー系実業家の多くは政府と癒着関係にあり、官製企業の主要役職を務めていることが多い。たとえば、プロトン社長のサイド・ザイナル・アビディンや、ペトロナスCEOにして原油輸出に関する国営企業AET(英語版)の会長を務めるシャムスル・アズハル・アッバスなどである。

インド系は概して貧しい傾向にあるが、通信大手マクシス・コミュニケーションズの買収に成功した投資家にして国内第2位の富豪であるアナンダ・クリシュナン(英語版)のような例外も存在する。また、印僑の父とポルトガル系マレー人(マラッカの少数民族)の母を持つトニー・フェルナンデス(エアアジア代表)のような人物も存在する。 』

『国民

マレーシアの人々
詳細は「マレーシアの人口統計(英語版)」を参照

多民族国家・民族構成

マレー半島は海のシルクロードと呼ばれており、中世の頃に中国、インド、中東そしてヨーロッパからも貿易商人が訪れた。

3つの主要民族と地域の歴史が複雑に入り混じって並存するマレーシアは、民族構成がきわめて複雑な国のひとつであり、多民族国家である。単純な人口比では、マレー系(約65%)、華人系(約24%)、インド系(印僑)(約8%)の順で多い。

マレー系の中には、サラワク州のイバン族、ビダユ族、サバ州のカダザン族、西マレーシアのオラン・アスリ (orang asli) などの先住民も含まれ、各民族がそれぞれの文化、風習、宗教を生かしたまま暮らしている。

マレー半島北部(タイ深南部の国境周辺)では、かつてパタニ王国が存在したことから、同地域にはタイ系住民のコミュニティが存在する。ただし、これらの住民は「タイ王国に出自を持つマレー人」といった存在であり、一種の政治難民である(パタニ連合解放組織など)。もっとも、隣国同士だけに一般的な人的交流も盛んであり、主な大都市に存在するタイ系コミュニティは上記の歴史的経緯と特に関係はない。

ほかにも、先住民ではない少数民族として民族間における混血グループが複数存在し、華人系の混血(ババ・ニョニャ)やインド系とマレー系の混血(チッティ)、旧宗主国などのヨーロッパ系移民とアジア系の混血(ユーラシアン)が少数民族集団(マイノリティグループ)を形成している。

華僑系住民

マレーシアの華人の歴史は、主に広東省などから貿易業の移住者が始まりとされ、英国植民地時代には錫鉱労働者、清朝崩壊(あるいは中国国民党の追放)後の政治難民もいる(浙江財閥など)。

華人系マレーシア人の多くが話す中国語は、広東語や福建語、客家語、潮州語(まれに上海語)といった南方系方言であり、中国本土で一般的に使われる標準中国語の普通話(北方系方言由来)とは異なる。

ただし、多くの華人系の子女は中華系の学校に就学し、標準中国語(Mandarin) を学び、標準中国語と普通話は差異が小さいため、普通話との意思疎通は可能である。

一方、プラナカンのように中国語がまったく話せない華人系住民も少なくなく、また中国語での会話はできるが漢字が読めない華人系は多数存在する。

ちなみに、かつてマラッカ海峡を拠点とした海賊(後期倭寇)の末裔もいるとされるが、統計的に言えば「華人系」のカテゴリに吸収される。華人系には極少数であるがイスラム教徒もいる[39]。

イギリス統治下において奴隷的な立場で連れられてきた賃金労働者の子孫(苦力など)[40] も多数存在している。

プラナカン(海峡華人)

華人系の中には英語のみを母語とする家系が存在する。

これら英語話者の華人系住民は、英国統治下の時代に「英国人」として海峡植民地(ペナン、マラッカ、シンガポール)において支配階層(英籍海峡華人公会[41])を形成していた華僑の末裔であり、錫鉱労働者などの(出稼ぎ)労働者として移り住んだグループ(トトックと呼ばれる[42])と区別してプラナカン(海峡/英語派華人[43])と呼ばれる[44]。

その多くが旧宗主国に忠誠を誓ったため、故郷(中国本土)との関係が希薄となった。

現在でも本土との関わり合いはほとんどなく、逆にシンガポールやインドネシアに住む華人グループとの結び付きが深い。

たとえば、シンガポールの人民行動党は、独立以前のシンガポール周辺地域におけるプラナカン系の民族政党という出自を持ち、現在でもマレーシアの華人系政党(民主行動党)と友好関係にある[45]。

ちなみに、シンガポールの初代首相リー・クアンユーは、プラナカンの代表的な人物である。

プラナカンとマレー人や英国人などの他の民族との混血のことをババ(男)・ニョニャ(女)と呼ぶ。いずれも華人系であり、混血化が起きてからかなり経つ場合もあるため、プラナカンとババ・ニョニャの区別は曖昧[46] なこともある。

インド系住民

「印僑」とも呼ばれることのあるインド系は南インド出身者(タミール人)が多く、マレーシアにおけるインド文化もタミール人の風習を色濃く受け継いでいる。

ただし、かつてはアーリア系の北インド出身者も少なくなく、高い社会的地位を享受していた[47]。

しかし、70年代を通してマレー系の地位が飛躍的に向上したことから、富裕層であった北インド出身者の帰国が相次ぎ、結果として貧困層が多い南インド系が主流となったといわれる[48]。

現在はサイバージャヤといった地域でIT系の技術者として働くために本土から移民してきた新世代も増えつつある。ごく小規模だが、パンジャーブ人(シク教徒)のコミュニティも存在し、弁護士・会計士などの職業についているものも多い。

タミール系移民がイスラムに改宗した「ママック(英語版)(あるいはママッ)」と呼ばれる民族グループもある。

ママックは「ママック・ギャング(英語版)」で知られる通り、インド系に横たわる貧困問題を背景としてマフィア化が進んでいる[49]。「ママック」は蔑称とされることもある[39]。

なお、マハティール元首相は母親がマレー系、父親がインド南部のケーララ州からの移民であり、「マレー系」であるのか「インド系」であるのか出自問題が議論されたこともある。

混血系住民

ユーラシアンとは「ヨーロッパ (Euro-) とアジア (Asian)」を意味する少数民族のことであり、旧宗主国からやって来たヨーロッパ人とアジア系移民との混血系を指す。

ほかに、ポルトガル系とマレー系の混血をクリスタン(英語版)と呼称し、オランダ系あるいは英国系との混血のみをユーラシアンとする考え方もある[50]。これらユーラシアン系の大半はマラッカおよびペナン周辺に居住区を構えている。

また、華人系とインド系の結婚もみられ、両民族間で生まれた子どもをチンディアン[51] と呼ぶ。

民族対立

マレーシア史上最大の民族対立事件である5月13日事件以降、華人系とマレー系の対立構造が鮮明となった。

詳細は「5月13日事件」を参照

マレー系の保守政治家の一部が「他民族が居座っている」または「間借り人である」といった趣旨の差別発言をすることがあるが[52][53]、マレーシア建国時(憲法上「マレーシアの日」と呼ぶ[54])の協定(1957年制定マレーシア憲法第3章[55])において、マレー半島およびボルネオ島の該当地域で生まれたすべての居住者に国民となる権利が認められているため、正確な理解とは言えない。

この発言にも見られるように、マレーシアは多民族社会とはいえ、その内情は必ずしも平和的なものではなく、民族間の関係は常に一定の緊張をはらんだものとなっている。

実際、各民族の居住地域は明らかな偏りがあり、たとえば華人系はジョホール・バルやクチン、ペナン(ジョージタウン)、イポー、コタ・キナバルといった都市部に集団で居住していることが多く、インド系は半島南部やボルネオ島西部の農村部、あるいは大都市圏のスラム化した地域に多い。

唯一、最大都市クアラルンプールのみが国全体の民族比率に準じているが、生活習慣の違いといった理由から、民族間の交流はあまり盛んではない。

2008年には、住民を起訴なしで無期限拘束できる国内治安法に対する大規模な反対集会が開かれ、翌年にも同様のデモが行われた[56][57]。』

『言語

マレー語、英語、中国語、タミル語で書かれた看板
「マレーシアの言語(英語版)」を参照

公用語の名称は「マレー語」か「マレーシア語」であるかの議論が今も続いている。

広義の「マレー語」はインドネシア語などを含む場合があるため、政府が「マレーシアの国語としてのマレー語」を「マレーシア語 (Bahasa Malaysia)」と呼ぶことを定め、この呼称が2007年より正式に使われているとの説を採る一部の学者に対して、憲法第152条の明記やら大学教育機関での名称を考慮して、あくまでも「国語はマレー語 (bahasa Melayu) である」とする多数の学者がマレーシア国内外に存在する。

1967年まで公用語であった英語は、現在は準公用語として広く使用され、マレーシア語とともに各民族間の共通語の役割を担っている。

マレー人はマレー語を母語にしているが、東マレーシアのサバ州・サラワク州ではイバン語、ビダユ語、カダザン語などを母語とする先住民もいる。

またマレー半島でも東海岸では、少ないながらもアスル語(先住民オラン・アスリの諸言語)話者も存在する。

マレー語は固有の文字を持たなかったため、アラビア文字を改良したジャウィ文字が使用されていた。

現在ではローマ字表記が用いられているが、ジャウィ文字もごく一部で使用されている。
一部のマレー系民族主義者のグループから道路標識などを全面的にジャウィ文字にすべきなどといった主張もされることもあり、中華系からの反発を呼んでいる。

華人は、かつて中国南部から移ってきた人々が多く、広東語、福建語(閩南語)、潮州語、客家語、福州語などの地方語が母語になっているが、中国語の学校教育は標準中国語(華言)で行われているのでこれが共通語になっている。

漢字の字体については、学校教育など公的な場では簡体字が使われるが、商店や商品包装などでは繁体字が使用される場面もある。

インド系住民は多くがタミル語を母語としている。

英語を母語とするマレー人、華人、インド人が多い。また中国地方語の種類も多く、世界でも有数のマルチリンガルが多い環境となっている。

近年、華人以外も中国語教育が盛んで、少なくともホテルや観光地、ビジネスでは中国語だけで事足りるほどであり、これは同じく華人の多い隣国タイとは大きな違いである。ただし、中国語がかなり話せても漢字はほとんど書けないという人も多い。 』

『宗教

プトラ・モスク
「マレーシアの宗教(英語版)」を参照

イスラム教が国教であり、マレー系を中心に広く信仰されている。

中国系は仏教、インド系はヒンドゥー教徒が多い。

また、イギリス植民地時代の影響でキリスト教徒もいる。

2010年の国勢調査によれば、イスラム教61.3%、仏教19.8%、キリスト教9.2%、ヒンドゥー教6.3%、中国民俗宗教1.3%、その他2.1%、とほぼ民族人口比を表すような構成比になっている[58]。

東アジアの非イスラム教国に住むムスリム(イスラム教徒)は、一般にマレーシアの見解に従うことが多い。

なお、マレーシア政府は先住民族を原則としてムスリムとして扱い、イスラム以外の信仰を認めていない(ブミプトラ政策の影響)。しかし、実際には無宗教であったり、伝統宗教(アニミズム)やキリスト教を信仰する先住民も存在する。

イスラム教徒と婚姻関係を結んだ場合、イスラム法の関係で非ムスリムも必ずイスラムへ改宗し、イスラム風の名前を名乗らなければならないため、ムスリムであることが法的義務とされるマレー系住民と結婚する他民族は少ない[59]。

ただし、オラン・アスリと呼ばれる先住少数民族は、登録上はマレー人とされるが必ずしもムスリムではない[60] こともあり、特にサラワクでは華人系との婚姻が珍しくない。

なお、マレーシアにおいては、婚姻時、姓が変更されることはなく、夫婦別姓である[61][62]。 』

『教育

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出典検索?: “マレーシア” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2013年1月)

マラヤ大学
「マレーシアの教育(英語版)」を参照
「マレーシアの大学」も参照

マレーシアの公用語はマレーシア語であるが、タミル語と中国語、英語も教授言語となっている。

小中学校では、民族別にマレーシア語、中国語、タミル語が教える学校によって異なって使用されており、いずれの学校でもマレーシア語と英語が必修科目になっている。

教育制度はかつてイギリスの植民地であったことからイギリスとよく似ている。

教育制度は小学校6年(primary school、またはSekolah Rendah Kebangsaan・Standard 1~6)、中等学校3年と高等学校2年(secondary school、またはSekolah Menengah Kebangsaan・Form 1~5)、大学進学課程2年(Lower 6とUpper 6)、大学3年~6年。

マレーシア教育省は学問修了の国家的な試験を実施しており、小学校修了時はUPSR、中等学校Form 3でPMR、高等学校Form 5でSPM、その後の高等教育過程学年のLower 6にてSTPM、Upper 6にてSTTPMなどの試験を受ける。

複雑なのは、マレー系の小学校を修了しUPSRを受験した者は、試験の結果に関わらずそのまま中等学校のForm 1に進級できるのだが、中国系またはインド系の小学校の修了試験でマレー語の科目で成績が悪い場合はForm 1に進級することはできず、1年の予備学年 (Peralihan/Remove Class) を履修してからでなければ、Form 1には進級できない。Form 5終了時のSPM試験の成績優秀者は、新聞の全国版に大々的に発表される。

公立の中国語学校は小学校までしかなく、卒業後は一般の(マレー語主体の)公立学校や、私立学校に進むことになる。

公立の学校の中には、数は少ないが中国語を課外授業として選択できる学校や、正規の授業として中国語を取り入れている学校(華中と呼ばれる)もある。現在、華中は人気があるため、UPSRの結果がよくなければ入学も困難である。

中国系の私立学校は独立中学校 (Chinese Independent High School) と呼ばれ、マレー風の名前のつく私立学校の5年間のKBSMとは別の6年間の中国語を主体とした教育を行っており、そこに通う子供たちはSPM PMRの中国語版とも言える「独立中学統一試験」を受けることになる。

この試験は台湾や日本やアメリカなどマレーシア以外の国で高校の卒業資格として認められるため、卒業後は台湾をはじめとする海外の大学に留学する子供の割合が多い。

華僑には教育熱心な家庭が多く、シンガポールに隣接するジョホールバルでは、より高度な教育を受けさせるために、子弟をシンガポールに越境通学させる家庭もある(朝夕にはシンガポールに通う学生のための通学バスや、学生専用の税関レーンまで存在する)。

主な高等教育機関としては、マラヤ大学(1949年設立)、マレーシア国民大学(1970年設立)、マレーシア工科大学(1975年設立)、マレーシア科学大学(マレーシアサインズ大学)(1969年設立)などが挙げられる。』