アメリカ人とは何かについて考える-歴史的流れと展望

アメリカ人とは何かについて考える-歴史的流れと
展望・
著者 矢ケ?停十
雑誌名 明治大学法学部創立百三十周年記念論文集
巻 130
ページ 367-392
発行年 2011-11-01
URL http://hdl. handle, net/10291/17780
367
明治大学法学部創立百三十周年記念論文集(二〇ーー ・ーー ・一)
【論説】
アメリカ人とは何かについて考える
——歴史的流れと展望——
矢ヶ崎 淳
目次
! はじめに
πアメリカへの移民の流入
π社会進化論と文化相対主義
W アメリカ人のアイデンティティ
Vおわりに

明治大学法学部創立百三十周年記念論文集
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! はじめに
アメリカ合衆国は移民たちから成る国家である。ヨーロッパからの初期の入植者たちは先住民であるネイティブ・
アメリカンを駆逐し、「建国の父」を中心としてアメリカを作り上げていった。建国以来、問われている「アメリカと
(1)
は何か」という問題に答えることは非常に難しい。しかも、アメリカは絶えず変化し続けている。先進国では珍しく
増加を続けている国であるアメリカの人口は、二〇ー〇年の国勢調査で三億人を超えたことが判明した。多様化が進
みマイノリティ(少数派)人口が増加し続けており、二〇五〇年の国勢調査では非ヒスパニック系白人がマイノリティ
(2
になるだろうという指摘もある。
若い頃からわたしは、滞在、留学、旅行を繰り返しながらアメリカとつきあってきたが、良いところと悪いところの
両方を見た上でもアメリカはとても面白い国であると思う。従来の国家とは異なる過程を経て作られ、多様な人々を包
含しながら絶えず新しい実験を続けているように思われるアメリカは、わたしにとって大変興味深い研究対象である。
アメリカ独立戦争(一七七五—一七八三)は、近代史上最初の成功裏に終わった反植民地戦争であった。イギリス
からの独立を勝ち取ったアメリカ(東部ニニ州の植民地)は、その当時ヨーロッパにおいて国家であるための必要条
件と考えられていた要素、つまり実在する領土の境界線や歴史、共通の民族、宗教、民俗などを持たない新しい国家
を作り上げた。わたしたちは何かあるとすぐ日本とアメリカを比較するが、アメリカはいろいろな意味で世界の中で
も特殊な国である。
アメリカ人とは何かという問いに対して、アメリカ建国の父たちも抽象的、観念的にしか答える事ができなかった。
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——アメリカ人とは何かについて考える——
むしろ、 観念的である方が良かったのかもしれない。アメリカの広大な土地を開拓していくためには、多くの労働力
と資本が必要であり、それを移民に頼る以外に道はなかった。アメリカを発展させるためには移民の力が必要だった
のである。当時のアメリカ人にとって大事なことは、先祖がどこから来たかという具体的な事実よりも、彼らが何を
信じるかという理念、理想を共有することだった。アメリカ合衆国は、当時、ヨーロッパで広がりを見せていた啓蒙運
動 (ehe En 一 ighgnmea) の支持する価値の具現化された理想であったわけだが、独立運動に賛同したアメリカ人たち
はアメリカ建国の理念の素晴らしさに大いなる自信を持っていたので、それを移民たちと共有する事を恐れなかった。
アメリカ人の定義が観念的であったが故に、より多くの移民たちをアメリカ人として取り込んでいくことができたの
だろう。アメリカ合衆国国璽 (ehe Greae+seal of fhe us.eed seags) の裏面に書かれたラテン語Novus 〇rdo sec~OTUm
(すnew order of-he agesごが示すように、移民たちはアメリカとい、つ新天地で新しい時代の新しい秩序に自らの将来
を託して行く事が求められ、それが一番重要な点であったのである。
アメリカ人とは何かを理解するためには、アメリカを作り上げてきた人々である移民たちを、アメリカがどのよう
にして国家の構成員として取り込んできたかを知ることが必要になる。この小論では、その観点からわたしなりにア
メリカの歴史を振り返り、アメリカ人とは何かという壮大な問いについて、ささやかなとりくみではあるが、現在わ
たしが感じ、考えていることをまとめてみたいと思、つ。
π アメリカへの移民の流入
アメリカで最初に国勢調査(census)が行われたのは、独立後間もない一七九〇年で、その当時のアメリカの人口
明治大学法学部創立百三十周年記念論文集
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は三、九二九、ニー四人であった。この初回のセンサスにおいては先祖の由来を尋ねる質問項目はなかったが、当時
のアメリカの民族構成は、最多はイングランド系で五三%、二番目に多いのがアフリカ系でー九%、残りの約三分の
一は、北アイルランド、ドイツ、スコットランド、オランダ、フランス等のヨーロッパからの移民たちとその子孫で
(3)
あった。イングランドから来たイギリス人たちが初期の移民の中心になっていたとはいえ、イギリス人であることが
アメリカ人であるための必要条件ではなかった。
流入の変遷
独立後の一七九〇年の最初の連邦議会において、帰化法(NamraKzaeion Ag) が制定され、「善良で道徳的な性格
(good moral characeer)」で自由身分の白人 (free whs-‘e persons) に、申請があれば市民権を与えることになった。社
会的逸脱者の性格を持たないことを証明するために、二年間の居住要件が定められた。アメリカ国内で誕生しなかっ
たアメリカ市民の子どもたちにも市民権は与えられたが、それは父親のみを通して可能とされた。その後、居住要件
は一七九五年に五年に引き上げられ、一七九八に一四年に延長されたこともあったが、一ハ〇二年に五年に戻された。
ー八五五年にアメリカ市民の外国人妻には自動的に市民権が付与され、一八七〇年に帰化の申請がアフリカ系の出自
を持つ人々にも開かれるなどいくつかの修正もあったが、一八〇二年の改訂版帰化法は現在も有効である。
アメリカへの移民はー九世紀に入ると急増する。ー九世紀末から二〇世紀初頭にかけて、新たに大挙して流入して
きた新移民と位置づけられる東欧、南欧からの移民が、数の上で従来の旧移民といわれる西欧、北欧からの移民をし
のぐよ、つになるのである。ヨーロツパからの移民流入のピークといわれたー九〇七年には、西欧、北欧といった旧地
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——アメリカ人とは何かについて考える——
域からの移民の数と東欧、南欧といった新地域からの移民の数が一対四にまでなっていた。そうなる兆候が現れ始め
4j
た四半世紀前にはその割合は四対ーであり、二五年という短い間に新旧移民の流入数が逆転したのであった。
東欧、ロシアからの、イディッシュ語(アシュケナジム系ユダヤ人の話す言語)しかできない貧しいユダヤ人たち
が、繰り返されるポグロム(ユダヤ人大虐殺)から逃れようと、一八八〇年から第一次世界大戦の始まるー九一四年ま
でに、約二〇〇万人もアメリカに流入した。彼ら新移民は、同じユダヤ人でもそれ以前にアメリカに到着し、すでに
経済的基盤も整えて地位を築いていた旧移民である西欧出身のドイツ系ユダヤ人とは大きく異なり、英語も解さず貧
しかったため両者のあいだには軋礫が生じる。しかし、どの民族集団もその内部は決して一枚岩ではなかったが、お
(5)
互いに助け合いの組織を作り上げながらアメリカ社会の一部に組み込まれていった。
法律で定められたことは無かったが、アメリカの建国の理念は、アメリカ合衆国国璽の表面にラテン語で刻まれた
(6)
E pe-a.rsgmijn (Koue of many peoples oneness) が示すように、様々な移民たちを含む「多数から一つに」まとまつ て団結して行くことであったと言っても良いだろう。第四四代アメリカ合衆国大統領のオバマも、大統領に選出され る前の二〇〇四年の民主党大会基調演説や、つい最近の二〇ーー年五月一〇日テキサス州エルパソでの演説で、この -oue 0f many- onesのフレーズを使用している。 S?礫と不協和音 しかし、アメリカは建国当初から決して一枚岩の状態ではなかった。プロテスタントの白人が中心となって建国さ れたアメリカでは、イギリス本国からもたらされたともいえる反カトリツク感情が絶えず存在した。また、旧世界ほ 明治大学法学部創立百三十周年記念論文集 372 どでは無かったが、反ユダヤ主義 (aner-semMsm)も根強くあったし、アメリカ先住民であるインディアンたちへの差 (7) 別、国を二分する内戦(南北戦争)の原因にもつながる黒人奴»への差別の問題もあった。その他、建国の父の一人 (8) – であるベンジャミン・フランクリンも持っていたらしいが、第一次世界大戦中に燃え上がった反ドイツ感情、ー九世 紀後半からカリフォルニアでみられた中国人移民、その後日本人移民にも向けられた反黄色人種感情(黄禍論)など、 様々な不協和音があった。第二次世界大戦中には、敵国につながる者として裁判も無いままニー万もの無実の日系人 がすべて強制収容された。また、南北戦争終了後に南部で作られた白人至上主義者の過激な秘密結社であるクー ・ク ラックス・クランや、その他の類似の差別主義的な団体も存在する。二〇〇一年九月ーー日のアメリカ同時多発テロ 事件以後は、特にアラブ系の人々への差別感情が拡大している。 どの国、どの社会においても程度の差こそあれ見受けられる事だが、アメリカの歴史においても、よそもの(strangers) である移民や外国人を排斥する排外主義 (naehdsm) が存在してきた。外国とつながりのある「非アメリカ的な」国 内の少数派や、カトリツクや急進主義への反感である。それに加えて、建国以前から主流であったアングロ ・サクソ 9) ンの伝統が、一九世紀末から二〇世紀にかけて外来者恐怖症の流れを作って行く。特に、一九二〇年代はアメリカの 歴史の中でも、民族主義的 (fhe-riba二weneies) な偏狭で人種差別的な逆戻りの時代とされた。 そのようなアメリカ社会の中へ、それぞれ固有の歴史を持つ様々な民族集団からなる移民たちが流入したわけだが、 彼らは他の国における同民族の集団とはある意味異なっていた。例えば、ソビエト連邦、チェコスロバキア、ユーゴ (〇) スラビアなどといった国々は様々な民族集団の連合体であったが、アメリカ合衆国はそうではなかった。 373 アメリカ人とは何かについて考える—— 内なる外国 アメリカは、各民族集団にそれぞれの小さな祖国をアメリカ国内に作る事を認めなかったのである。つまり、本国 から離れてアメリカに暮らす各民族集団固有の、内なる外国とも言える文化的な飛び地 (culfural enclave)をアメリ カ国内に作らせなかったのだ。 アメリカ議会は、ー八一八年に、ニューヨークとフィラデルフィアといった東部の都市部にあるアイルランド系組 織から出されたイリノイの土地供与申請を却下した。アイルランド系移民は、西部に小さなアイルランド(Erm)を作 る事ができなかったのである。この却下処分は前例となり、他の民族集団からの同様の申請も認められる事はなかっ た。これを認めれば、アメリカは「外国人居留地の継ぎはぎ細工の国 (^patchwork of foreign se球一emenf%)」になっ (1) てしまうと議会は考えたからである。その結果、連邦国家であるアメリカ合衆国は、チェコスロバキアやユーゴスラ ビアなどのような諸民族の連合体になることはなかった。現在、これらの諸民族の連合体だった国家は崩壊して、国 家としての形をとどめていないことは、非常に示唆的であると思う。 フランスでは、つい最近、二〇ーー年四月ー一日からブルカ禁止法が施行されて物議をかもしている。二〇一〇年七 月一三日にフランス下院がこの法案を可決したその翌日に、アメリカ国務省は、宗教的信念に基づく衣服の着用を法 (2) 律で定めるべきではないという異例の非難を行なった。フランス国内の民族状況は、アメリカ国内のそれよりもヨー ロッパの他の国々と共通点が多いと思われるが、国内に内なる外国を作らせ、このような禁止法を作らなければなら ない状態にまでしてしまったことの方が問題であるように思う。 明治大学法学部創立百三十周年記念論文集 374 フランスのイスラム人口三五五万人に比べれば少ないかもしれないが、ー、五五万人のイスラム系住人を擁するイギ リスにおいても、特に二〇〇五年のロンドン同時爆破テロ事件以後、彼らが英国社会の中で混ざり合わずに孤立を深 (3) めるにつれて「イスラム恐怖症」が問題化してきている。「英国をイスラム国家に」という理念を持つイスラム過激派 聖職者組織までも国内に許容する寛容さを持つイギリスであるが、前労働党政権下で不法移民をも流入させてきた寛 大な移民政策も終わろうとしている。保守党政権のキャメロン首相は、二。 ーー年四月一四日に、これまでの寛容な 移民政策を転換し、EU諸国以外からの移民の受け入れに上限を設けて制限し、優秀な移民のみを歓迎する方針を発 表した。 移民受け入れの最大の要因は労働力不足であろうが、国内における民族関係と将来の国のあり方を熟慮し、議論し ておく必要があるだろう。ビジョンもなく、起こりうる問題への対策も考えずに、目先の利益だけを考えて安価な労 働力としての移民の流入を政策とすることには問題があろう。アメリカとヨーロッパの国々の前例から日本は多くを 学ぶべきである。 In社会進化論と文化相対主義 様々な地域からの移民で作られた国とはいえ、建国当初からアメリカの主流となる人々は白人でプロテスタントで あった。本人たちが自らをそう呼ぶことはないが、通常、彼ら以外の人々からWASP (whig Anglo’saxon proeeseane) と呼ばれるエリート集団である。言語は英語、英国志向で英国本位の文化パターンを維持するアングロ •サクソンの 伝統が、アメリカ社会の主流であり基本となっていた。 375 ——アメリカ人とは何かについて考える—— アングロ・サクソン優越主義 ー九世紀の終わりから二〇世紀の初頭にかけて強まった、アングロ・サクソンの人々とその文化を他よりも優れた ものとするアングロ ・サクソン優越主義 (Anglo’saxon superiority)を理論的に支えたのは、当時アメリカで流行し、 大きな影響力を持っていた社会進化論の思想であった。社会進化論はー九世紀のヨーロッパにおいていろいろな分野 に影響をあたえたが、「適者生存」というフレーズを最初に提唱し社会進化論の思想を広めたハーバート・スペンサー (4) は、母国イギリスよりもアメリカでの方が有名だったという。 社会進化論はタイラー、モーガンなどの人類学者にも大きな影響を与えた。しかし、社会も進化の過程を経るもの であり、最も進化した社会は当時の大英帝国であるとする思想は、かなり人種差別的であったと言える。進化論に影 響を受けた社会科学が学問分野として成立していくのが同時期であったため、人類を外見や形態的特徴から「科学的」 に分類し、序列化することが正当化されていったのだった。アメリカ人の祖先の集団の序列化は、大雑把に言えば、ア ングロ ・サクソンと北欧、西欧の北方系を頂点にして、その下に南欧、東欧系、その次に東洋系、そして黒人を最下 位に置くとい、つものであった。 もちろん、学問的なお墨付きを得る以前から、このよ、つな序列認識は存在していた。例えば、ベンジャミン・フラ ンクリンはー八世紀半ばに、何故、アメリカ合衆国は「アフリカから黒人たちを連れてくることでアメリカを黒くし なければならないのか?アメリカはすべての黒人や黄褐色人 (=Tawneysご(アジア人のこと)を排除することによつ (5) て、美しい白人や赤銅色人 (ーーRedu)(アメリカ先住民のこと)を増やすことができる機会が折角あるのに(筆者訳)」 明治大学法学部創立百三十周年記念論文集 376 と書いている。フランクリンはここではインディアンたちを肯定的に受け止めているように見えるが、「われわれの地 球を磨き(白人以外を排除すること)、アメリカから(インディアンが住んでいる)森を取り除くことによって、われ われの地球上の(白色になった)アメリカの存在する側面を、火星や金星の住人たちの目により明るく光り輝いてい るよ、つに見せる(Kscourmg our planer by clearing America, oi wbod«and so makingrt-hls Side of our Gio De reflect; a brighter Lighc-f-eo-he Eyes of Inhabs-‘anes in Mats or Venus-)(筆者訳)」とも書いているので、人種差別的であったこ とは間違いないだろう。身晶Mであるかもしれないがそれが人間の常だと断りながら、「白人」の意味を限定的に狭く とらえていたようであるフランクリンは、アメリカは浅黒い肌の色でない白人種であるアングロ・サクソン人のもの であるべきだとしている。フランクリンにとって、殆どのヨーロツパ人はサクソン人を除いて、スペイン人、イタリ ア人、フランス人、ロシア人、スウェーデン人なども浅黒い肌の色 (swarehy complexion) の人々だった。 差別的な移民法 このアングロ・サクソン優越主義の流れの延長線上に、偏狭で人種差別的な後戻りの時代である一九二〇年代があ り、一九二四年移民法 (Johnson,Reed Ace) がある。この移民法はアメリカへ流入してくる新参者を国籍別に分類し、 アジア人移民の入国を全面的に禁止し、東欧、南欧出身者にはわずかな、西欧、北欧からの移民にはより大きな、そ してイギリスと北アイルランドからの移民には一番大きな人数枠を割り当てるというものだった。差別的な序列に対 応して、アメリカへ入国する移民の数を定めようとしたのである。 それまでの大規模な移民の流入が止まり、その状態がしばらく続いた。その後、大恐慌や第二次世界大戦などを経 377 ——アメリカ人とは何かについて考える—— た後に成立したー九五二年移民国籍法 (Mccarran’waleer Ace)においても、出身国による割当人数枠はそのまま残さ れた。カトリツク教徒で生粋のアイルランド系の初めての大統領に選出された第三五代大統領ジョン・F •ケネディ がその廃止を約束していたが、ー九六三年に暗殺され果たすことができなかった。その後、彼の後継大統領ジョンソ ンがリバティ島の自由の女神像の下で署名し成立に至ったー九六五年移民国籍法 (Harrce 一ler Ag)によって、ー九 二四年以来続いた出身国別の移民人数割当(quoeas) は撤廃される。 第三六代大統領リンドン・ジョンソンは一九六五年一〇月三日にこの法案に署名する際、差別的な出身国別人数割 当は「人間を、その資質によって評価し、報いるというアメリカの民主主義の基本原則を犯していた。このシステム は、われわれが建国する以前でさえ、何千もの人々をこの国にもたらした信念に背くことになるので、非アメリカ的 (umAmerican) であった。(筆者訳)」「アメリカは再び本日、素晴らしい伝統に回帰する。無制限の移民の時代は過去 のものになった。しかし、アメリカに来る人々は、彼らの出身国に依拠してではなく (-ooe because of-he land from which -hey sprungご、 彼らが持っている資質を根拠として(ー『because 0f what; ehey are) 入国するのである。(筆者
17)
訳)」と述べている。
ジョンソンもこのスピーチの中で再確認しているが、初期の入植者たちがアメリカを開拓して行くときに大切だっ
たのは、彼らの出身国ではなくて、彼らが我慢強く、その身体が厳しい仕事に堪えられるほど頑健であるかどうか、必
要とあれば自由のために命をかけられるほど勇敢であるかどうか、ということだった。建国の理念もそこにあると言
える。建前とも言える理念と現実あるいは本音が歴史を通して錯綜しているのは、理念が理想であり、現実となるに
は崇高すぎたということなのかもしれない。
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ボアズと文化相対主義
前述したように、社会文化進化論の考え方は様々な文化の間に進化の度合いに基づく優劣があるとし、大英帝国の
白人の文化が他よりも優れているとみなした。この思想はー九世紀に一般的だったフィールドワークを行なわない安
楽椅子学派の人類学者たちに大きな影響を与えた。しかし、二〇世紀に入ると、アメリカでパパ・フランツと呼ばれ
アメリカ人類学の父と称されたフランツ・ボアズは、この立場に真つ向から反対した。社会進化論はその人種差別的
な考え方に加えて、実証性に乏しいこともあり説得力を欠いていたからである。
ボアズはその語を案出した訳ではなかったが、文化相対主義 (cultural relativism)という新しい概念を押し進めた。
単一の基準で人類の文化や社会をとらえるという進化論的な考え方を退け、ボアズは人類の文化を一つ (culture」単
数)ではなく、複数(cultures)であるとし、それぞれの文化はその文化の内側から理解すべきだとする立場を提唱
した。文化に優劣といった価値を付与して序列化することを否定したのである。この考えから人類学の調査の基本が
フィールドワークになっていく。
ボアズはー九世紀末にアメリカに移民してきたドイツ生まれのユダヤ人であった。アメリカ移住後は、自らをユダ
ヤ系アメリカ人ではなくドイツ系アメリカ人と位置づけるなど、ユダヤ人としてのアイデンティティに否定的な感情
を持っていた。人間の柔軟性を信じていたボアズは、ユダヤ人はアメリカでるつぼの中に消滅して行くだろうと期待
(8)
していた。しかし、同時に彼はそれぞれ個々の文化の完結性に敬意を示して、文化相対主義の立場もとったのである。
ボアズの提唱する文化相対主義の背後には、彼の背景であるユダヤ文化とユダヤ人集団に対する彼の誇りが感じられ
379
アメリカ人とは何かについて考える——
る。ユダヤ性への否定と誇りとい、つアンビバレントな感情が、ボアズの中に存在していたのだと思う。
ボアズのよ、つに移民からアメリカ人になっていった人々にとって、アイデンティティの問題は複雑なものだった。
アメリカ人という共通のアイデンティティのほかに、自らが所属する民族集団への帰属から生じるエスニック・アイ
デンティティが併存するかたちになっていたからである。両者の折り合いをど、つつけるか、自らをどのように位置づ
けるかは、民族集団によっても異なり、また個人によっても異なっていた。
M アメリカ人のアイデンティティ
どの国、どの社会に住む人間についても、個人の持つアイデンティティが一つということはあり得ないだろうが、ア
メリカ人の場合は特にそれが複雑だと言えるだろう。アメリカの社会学者ゴードンは、アメリカ人の多層化したアイ
デンティティについて、自己を核とすると、その周りに出身国、宗教、人種、国家(国籍)つまりアメリカ人としての
アイデンティティが取り巻いているとしている。あなたは何者かと問われれば、「アメリカ人だ」「白人/黒人/黄色
人種だ」「プロテスタント/カトリツク教徒/ユダヤ教徒だ」「ドイツ系/イタリア系/アイルランド系/イギリス系
(9)
などだ」という複数のアイデンティティが、答えとして必要になるのである。
アメリカ社会が移民をどのように取り込んで行くかとい、つ「哲学」について、ゴードンは三つの主要なイデオロギー
(〇)
的な立場があるとした。「アングロ化(アングロ・コンフォーミティ)(Ango—conform<)」「るつぼ (mewing pof)」
「文化多元主義 (cultural pluralism)」である。アングロ ・コンフォーミティ論は、移民祖先の文化を完全に捨てて主
流集団のアングロ ・サクソンの人々の文化を取り入れ、それに融合することを求める立場である。るつぼ理論は、ア
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ングロ・サクソンも含めた移民すべてがアメリカ社会の中で混ざり合い溶け合って、新しいアメリカ人のタイプを作
り上げるとする考え方だつた。文化多元主義は、移民たちがアメリカ市民となり、政治的、経済的にアメリカ社会に
統合されて行く際に、自分たちが祖国から持ち込んだコミュニティの生活と文化をかなり多くの部分で保持すること
(21)
を前提とする立場であった。
アングロ•コンフォ|ミティ
イギリスを母国としてアングロ・サクソン文化へ融合して行くことを理想とするアングロ・コンフォーミティ論の
背後には、前述したアングロ ・サクソン優越主義の考え方があったと言える。しかし、この概念自体は幅の広いもので
比較的穏健なアングロ ・コンフォーミティの立場が、アメリカの歴史を通して最も広く行き渡ったイデオロギーだっ
22)
た。つまり、移民とその子孫たちが標準的なアングロ ・サクソンの文化的パタ—ンを採用している限り、彼らに反感
や敵意を持たないという立場である。
移民たちは自ら進んで自分の意思でアングロ ・サクソン化することが望ましいとされた。第六代アメリカ合衆国大
統領となったジョン・クインシー・アダムズは、その前のモンロー大統領の下での国務長官時代に、ドイツ貴族から
の移民についての問い合わせ受けた。それに対するー八一八年の返信で、移民がアメリカで求められる性格に適応で
きないならばいつでも本国にお帰りいただいてよい、新天地アメリカで幸せを見つけたいのであればヨーロッパの皮
を脱ぎ捨てて(男爵の身分を捨て)アメリカ人になり、決して古い皮を再び着用しないと決心することが必要だと述
(3)
ベている。また、移民の子孫がアメリカに対して好感情を抱くようにするために、アメリカの考え方や行動様式につ
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——アメリカ人とは何かについて考える——
いての教育に強調をおく必要があるとアダムズは考えていた。教育が多様な人々を同質化に向かわせるための鍵とな
り得ると考えたのである。
るつぼ理論 (メルティング•ポット)
アングロ ・コンフォーミティと競合する、より寛容で理想主義の含みを持つ同化についての考え方を支持する人々
がー八世紀から存在していた。クレヴクール(注1参照)もその一人であった。彼は「アメリカ人とは何か」について
自らの考えを述べた手紙の中で、移民たちは「アメリカという慈しみの母『AlmaMaerご に受け入れられてアメリ
力人になる。ここアメリカではあらゆる国から到着した個々人が溶け合ってひとつの新しい人間になり(すre mel-ed
s-eo a new race of men)、彼らの働きが、そして彼らの子孫たちがい つの日か大きな変化を世界にもたらすことになる (5) だろう(筆者R2)」と書いている。また、アメリカにいる人々は「イギリス人、スコットランド人、アイルランド人、フ ランス人、オランダ人、ドイツ人、スウェーデン人の混合したものであり、この無差別な血の混ざり合いの中から、今 日アメリカ人と呼ばれている人間が生まれたのである.From Chis promiscuous breed】ー haf race now called Americans (6) have〔原文のまま〕arisen.)(筆者訳)」とも述べている。ここに、るつぼの理論の基本的な考え方があると言えよう。
この理想的な考え方が、絶えずアメリカの中には存在した。移民に広く門戸を開く政策がー九世紀の末までとられ
たのも、このような理念が根強くアメリカの中に存在した証拠であろう。アメリカの歴史学者タ—ナーは、苦難に満
ちた西部フロンティア開拓が、アメリカ人にとっての複合された国民意識の形成を促したと考える。「移民たちは辺境
というるつぼの中でアメリカ化され、解放され、国籍の上でも性格の上でもイギリス人ではない、一つの混合された人
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間へと融合されてレ った(Ain -he cmclze 〇 二 he froaIerfhe imimgranfs were Americanized” liberated】 and fused igo
(7)
a mixed race】 English in neither nabionaliCy nor characgriseics.)(筆者訳)」と彼は書いている。これは明らかにるっ ぼ理論の考え方である。 メルティング・ポットという言葉は、エマーソンなどによっても使用されたが、この語を広めたのはイギリスのユダ ヤ系作家ザングウィルが書いた劇The Me賈P。二初演はー九〇八年)であった。最初はUhe Crucible (るつぼ)» という題名にするつもりだったというこの劇は、アメリカでヒットした。主人公はポグロムを逃れてアメリカに移住 したロシア系ユダヤ人作曲家で、アメリカという「神のるつぼ CCGOdwcnlcible二」の中であらゆる人種、宗教、出 (8) 身国の人々が溶け合い、神がアメリカ人を作るのだと主人公に語らせている。 しかし、アングロ・サクソン優位の社会においては、移民たちがるつぼの中で溶け合った結果、それらの文化がアン グロ・サクソン的なものに収斂していくという考え方につながり得る。ここで、るつぼ理論はアングロ•コンフォー ミティ(アングロ化)に容易に結びつくと言えよう。移民たちをアメリカという巨大なるつぼの中で、アングロ ・サ クソン化というかたちで同質化することが、アメリカ化することと同義になるのである。 フォードの英語学校 自動車会社フォードの設立者であるヘンリー・フォードは、高い評価を受けた貧しい少年たちのための職業学校 (Henry Ford Trade school)の他に、移民従業員のためにフォード英語学校を創設した。ー九一四年から一九二ニ年 まで存続したこの学校で、自社の移民従業員に英語と行動様式や価値観などアメリカ文化を教え、彼らをアメリカ化 383 ——アメリカ人とは何かについて考える—— しようとしたのである。その卒業式では、舞台上に設置されたエリス島に着いた汽船から祖国の衣服を着て降り立つ た移民たちが、出身国の書かれた札を持ち「フォード英語学校メルティング•ポット『Ford English Schoo- Melttng ps.ご」と書かれた巨大な大釜に入っていく。数分後、彼らはアメリカの衣服に身を包み、新しい機会に顔を輝かせて (29) アメリカ国旗を振りながら釜から出てくるのだった。卒業式におけるこの儀式により、移民従業員たちはフォード英 語学校のるつぼの中でアメリカ人に生まれかわっていったことを表現したのであった。 (30) ヘンリー・フォードは、自らを「自動車の製造者というよりは人間の製造者 (da manufacturer of men)」だと語っ
たというが、彼はアングロ ・サクソン的な人間を作り上げることを望んでいた。二〇世紀初頭にフォードが考え実践
しょうとしていたるつぼ理論は、一八世紀にクレヴクールが語っていた本来のオリジナルのるつぼの考え方とは大き
く異なっていたと言えよう。
しかし、一ハ世紀のるつぼの考え方を提唱した人々にとって、その後アメリカに大量に流入してくる過激なまでに
多様な移民たちの存在は、想定を超えたものであったのかもしれない。その当時、るつぼの中で溶け合うのは、ヨー
ロッパの中の比較的類似した人々だったと言えるだろう。その後、数を増す多様なマイノリティに対して、アングロ ・
コンフォーミティ的るつぼ理論を当てはめるのには問題があった。アジア系、ネイティブ・アメリカン、黒人のよう
な人種的マイノリティにとっては、外観特徴が非常に異なることから、身体的な観点からもアングロ ・サクソン化は
困難であった。また、ユダヤ教、カトリック、イスラム教など宗教を生活の中心に据えている人たちにとっては、信
仰を捨て去ることは容易なことではなかった。
二〇世紀に入ると、前述した文化相対主義の考え方が人類学の立場から提唱された。アングロ ・サクソン優越主義
の文化観ではなく、個々の文化をその内側から理解しようとする動きである。この時代の流れの中で、アングロ ・コ
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ンフォーミティは否定されて行く。また、メルティング・ポットの考え方にも限界があった。ここで、三つの考え方
の中で一番新しい立場である文化多元主義が台頭してくる。
文化多元主義
ユダヤ系アメリカ人哲学者であるカレンは、その概念をー九一五年にネーション誌 (Nas-.tm)に発表していたが、ー
(1)
九二四年に発表した本の中で初めて、「文化多元主義(cultural pluralism)」という言葉を使用した。移民たちは、前
述したように、法的には、内なる外国となる各民族の共同体を作ることを認められなかったが、実質上は、それぞれ
の民族集団がかたまって共同体を形成していた。移民たちは外的には変化したかもしれないが、内的にはそれぞれの
民族性を残したままであり、メルティング・ポツトは起こらなかったとカレンは考えた。文化多元主義の父とも言、え
るカレンは、るつぼではなく、調和のとれたオ—ケストラという比喩を用いてアメリカ社会をとらえよ、っとした。ー
九一六年に「〃超国家的 (erans-nauonal)”アメリカ」とい、つ立場を提唱したボーンも、カレン同様、メルティング•
(32)
ポツトを否定した。
一九六八年にはニカ国語教育法(Bengual Education Ag) が制定され、アメリカ史上初めて連邦政府がニカ国語に
よる教育を認めた。教育の平等をはかるため、英語を話せない移民の子どもたちに母国語でも教育を受けることを認
めたのである。それぞれの民族集団の言語を尊重するという考え方は素晴らしいが、別の見方をすれば、いつまでも英
語が上達しないため、低賃金で働かざるを得ない移民の集団の存在が固定化され、彼らが社会のはしごを上って行く
ことを阻止することにもつながり得る。安価な労働力を持続的に供給する手段にされてしまう可能性があるのである。
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——アメリカ人とは何かについて考える——
文化多元主義には、個々の文化の尊重という側面の裏側に、社会の流動性を停滞させるという側面も併せ持つこと
を忘れてはならないと思う。連邦法によって定められたことはないが、善し悪しは別として、英語がアメリカの公用
語であると広く人々に信じられている。アメリカ社会の中で、経済的、政治的に地位を上昇させ文化的にも認識され
るためには、言語が決定的な要素となる。つまり英語を使えるかどうかが鍵となるのである。
草の根でアメリカをまとめるもの
アングロ・コンフォーミティはアングロ•サクソン優越主義的で問題があった。本来のるつぼ理論は理想的過ぎた
し、アングロ・コンフォーミティ的メルティング・ポットの考え方も差別的だけではなく根本的に無理があった。ー
番新しく、また好ましいと考えられた文化多元主義にも問題点があり、アメリカ人とは何かという問いに対して納得
できる答えを提供してくれない。
カレンはアメリカがそれぞれの民族が持つ文化の連合体への道を歩むことを望んでいたが、実際にはそうはならな
かった。そうならなかったのがアメリカという国のユニークさなのではないだろうか。多元主義を急進的に進めてそ
れぞれの民族が各々の文化を固持しすぎれば、アメリカはバラバラになってしまうだろう。しかし、 そうならないの
は、アメリカが持つ人々をひとつにまとめる求心力のよ、つなものが存在するからだとわたしは思う。
昔、カリフォルニア大学ロサンゼルス校 (UCLA) に留学していた頃のことだが、住んでいたドミトリーの学生
のたまり場だったラウンジに一人の学生が飛び込んできて「わたしは今日アメリカ人になったI」と誇らしげに公言
したことがあった。彼女は一〇歳で両親とともに韓国から渡米し、その後アメリカ人になることを夢見てきたとのこ
明治大学法学部創立百三十周年記念論文集
386
とだった。周りのアメリカ人学生たちは、口々に「おめでとう!」と声をかけた。移民たちが自らの祖先の文化に誇
りを持ちつつも、アメリカ人になりたいと思わせる何かがアメリカにはあるのだろう。
また、学業を終えて帰国の日が近づいていたころのことである。住んでいたアパートへ修理に来たガス会社の人に
帰国することを話すと、何故アメリカに残らないのかと彼は大層驚いた。アメリカは誰にとっても素晴らしい所で、
みんなが住みたがる国なのだと彼は信じていた。
このような真摯で無邪気とも言えるアメリカ礼賛を草の根レベルで人々が持っていることで、アメリカという国は
まとまっていられるのだと思う。そこに、アメリカ人とは何か、アメリカとは何かを解く鍵があるのではないだろう
か。多元主義に基づく個々の民族の独自性の存在と同時に、様々に異なるアメリカ人を結びつける共通なものがある
のではないかとい、っことである。
アメリカの歴史学者ハイアムは、同化のモデルと多元主義のモデルを折衷して、より穏健的な「多元的統合(成目a 一 iss-.c
(3)
一 neegraEr.onご」という新しい立場を提唱している。これまでに提唱されてきたものの中では、このモデルが最も現実
を反映していると言えるかもしれない。
アメリカは、移民たちに自主的にアメリカの主流文化に同化するよ、っにしむけてきた。彼らは母国語を捨てるよう
に強いられることはなかったが、「郷に入っては郷に従え」を基本姿勢として、自ら英語を修得しアメリカ社会に溶け
込もうとしてきた。移民の二世代目である子どもは、外国生まれの一世代目の親よりも言語面のみならず、あらゆる
点でよりアメリカ的になった。このことは、旧世界で一般的だった子が親に従うという従来の親子関係の図式を覆す
ことに寄与したと言える。アメリカには常に新しい価値観が存在した。その新しい価値観と、古い慣習、考え方が生
み出す息苦しさからの解放、自由といったものが人々を惹き付けた一因であっただろう。また、その自由さが、ある
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——アメリカ人とは何かについて考える——
いは自由なのだとい^’イメージが、アメリカをまとめる求心力の一つになっているのではないかと思う。
紙面の都合があるので別の機会に論じたいと思うが、アメリカにおける異民族•異人種間結婚の増加により人々が
生物学的に混ざり合い、その結果、人々のアイデンティティがさらに複雑化していることも忘れてはならない。前述
したように、ー九六五年の移民国籍法での出身国別人数割当廃止により差別的な要素が払拭され、アメリカ国内の多
様性はさらに進んだ。また、公民権運動以後はマイノリティに開かれた機会の向上のため、民族、人種の壁を超えて
人々が交流する場が飛躍的に増加した。それに加えて人々の平等意識が高まってきたことも、異民族・異人種間結婚
の増加の原因となっているだろう。
これはアメリカ社会で多元主義が市民権を得た結果とも言える。自らに自信を深めた人々の民族や人種の枠を超え
た人間同士の交流が増した結果、異民族•異人種間結婚が増えたからである。逆説的なことだが、民族集団の独自性
はそれに反比例して希薄化していくことになる。アメリカ社会の構成員の平等意識の高まりとそれがもたらす混ざり
合いの状態がさらに進展していくことが、多様化の進むアメリカ社会の中でアメリカ人を一つにまとめていくカとな
り得ると田5、つ。
前述したように、クレヴクールが「無差別な血の混ざり合い」の中からアメリカ人が生まれたと述べたことが、本
当の意味において今、起こりつつあるのではないだろうか。クレヴクールはその「混ざり合い」の中に黒人やアジア
人等の存在を含めていなかったと思われるが、今日のアメリカでは彼らも含めての混ざり合いが進みつつある。その
結果、アメリカ人の民族的、人種的な帰属が複雑になり、自らのエスニック・アイデンティティを一言では表現でき
ない人々が確実に増えている。そのことが、個々の人間あるいは民族がその独自性よりも共通部分に目を向けるとい
う傾向に拍車をかけることにつながってきているのではないかと思う。
明治大学法学部創立百三十周年記念論文集
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V おわりに
アメリカ社会には、国家の成り立ちの性質上、歴史的に各民族集団が固有の文化を保持しようとする力学と、アメ
リカをひとつにまとめよ、っとする求心力という二つの相反するベクトルが絶えず存在した。その両者の間でバランス
をとることが必要になるが、そのバランスをどのようにとるかは、各民族集団によっても個人によっても異なる。こ
のバランスが全体としてうまく保たれているとき、アメリカ社会は最も輝き、力を発揮できるのではないだろうか。
このバランスの問題は、人間の地理的移動が活発化した現在、アメリカのように移民国家ではない国においても、程
度の差はあるかもしれないが重要な要素になってきている。イスラム教徒を例にとってみると、今日、世界各地の非
イスラム社会の中でのイスラム教徒集団の孤立化が問題になっている。二〇〇一年九月ーー日のアメリカ同時爆破テ
口事件以来、イスラム教過激主義者に対する反発が穏健なイスラム教徒にまで向けられるようになった。非イスラム
社会で生活するイスラム教徒たちは、自らのイスラム文化を保持しつつも、移民先の受け入れホストである非イスラ
ム社会への同化という、二つのベクトルの間でバランスをとる必要があるだろう。それに加えて、過激なイスラム原
理主義者たちに対して、アメリカを筆頭とした外部からの圧力ではなく、イスラム内部の穏健なイスラム教徒からの
内省的な提案が必要だと思う。民族意識の強い集団は外部からの声を聞く耳を持たないからである。
これを書きながら、恩師の故我妻洋先生のことを思い出していた。長期に及ぶアメリカ生活を終えて帰国なさった
先生は、わたしが先生と同じようにフルブライターとしてアメリカへ留学し、ph・D・を取得することを強く望んで下
さった。高等遊民のようだと先生に称された暢気なわたしの大学院生生活も一変し、怒濤のようなアメリカの大学院
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——アメリカ人とは何かについて考える——
での留学生活が始まることになったが、幸いにも先生のご希望通りにできたことを嬉しく思う。留学への出発直前に、
先生は惜しくも亡くなられた。しかし、先生はわたしとアメリカの関係を語る上で忘れることのできない存在である。
ある時、UCLAの図書館には、自分よりも父である我妻榮先生の蔵書の方がまだ多いのだとぽつりとわたしにおっ
しやったことがあった。どこか偉大な父への尊敬の念が感じられた。法律の道へ進まれなかった我妻洋先生の弟子の
わたしが、今、法律を志す学生たちを教えていることに不思議な運命を感じる。先生がわたしの背中を押してくださっ
たよ、つに、わたしも法学部の学生たちが異文化への興味の扉を開けて自らの世界を広げ、世界へ羽ばくために尽力し
たいと思う。
善し悪しは別として英語はもはや世界言語となっており、それを使用することで自らの世界が飛躍的に拡大する。
わたしが若かった昔、スペインで出会ったクウエート人女性と夜を徹して語り合い、モロッコを一緒に旅したフラン
ス人女性と話し合えたのも、お互いの母国語ではない英語を使ってのことであった。学生たちには、言語を手段とし
て、究極的な目標をその背後にある文化の理解に置き、それを楽しめる所まで至って欲しいと思う。その先の判断は
各個人によって異なるだろうが、これまでの経験から、わたしは文化の違いを超えて様々な人々に共通する人間の本
性 (human naeure) の普遍性が存在するように感じている。
昨今は人間の地理的移動が激増し、地球上のあらゆる情報が瞬時に世界を駆け巡っている。共通の言語を介して交
流する機会も増え、数十年前に比べて様々な文化的背景を持つ人々の間の垣根が低くなり、人間としての共通部分が
強調されてきているように思う。そのような世界の流れに先んじて、アメリカは自らの社会の中で試行錯誤を繰り返
しながら様々な移民たちの間で折り合いをつけようとしてきた。アメリカの実験とも言えるようなこれまでの実践を
吟味しアメリカ人とは何かを考えることが、アメリカ人以外の我々にとっても有益であると思える日がいつか来るの
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ではないだろうか。

(1) 一七六五年にフランスからアメリカへ農業経営者として移住したクレヴクールが一七八二年に書いた『アメリカ農夫からの
手紙』のニー通中の第三番目の手紙で、「アメリカ人とは何か」を論じたのが、この永遠なる問いかけの最初であると言われ
ている。彼はアメリカ独立戦争には反対であったが、アメリカ人とは、新しい原則、新しい考え、新しい意見に基づいて行動
する「新しい人間(a new man)」であると述べている。HHecsr sf・ John de crevecoeur1Lexers from an American
淨rms London: J.M, Denf^sons,1971】p?39168.)
(2) ー九七〇年には非ヒスパニック系白人が一億七〇〇〇万人で全人口の八三%を占めていたが、二〇一〇年の調査では、非ヒス
パニツク系白人が一億九七〇〇万人で全人口の六四%以下になった(実際は六三・七% 」筆者)。過去四〇年間でアメリカの人
口は一億六〇〇万人増加したが、その増加分の、つちの七四% (七八〇〇万人)はマイノリティ人口であるという。«ASMingwy
Population Grow%by Edward Glaeser) GHmp Professor of Economics Harvard unlversiey»The Nein szmey Aprilダ 22L (3) Interluniversiey consortium for POHrt-ical and Social Research】 Ann Arbor” Michigan (2009)によるデータ。 (4) Arthur Manp#From Immigration fo AccuPturatiionr m Making 4me’ZCR The Soci鬢 昌d CMSe 0fc+he Unifed suites»Liifher s・!jiie<一tkp ed こ Washington】 D-c:.Umfed Sfates slormaflon Agency】 Forum senes】 1987、pp・ 68—80. (5) 例えば、現在アメリカの大手銀行のひとつであるバンク・オブ・アメリカは元々の名称はバンク・オブ・イタリーであり、イ タリア系移民のための銀行としてー九〇四年にサンフランシスコに設立されたものである。 (6) sc+ewart G, CO5RrMildred Wiese cole) Mmorfsles and fhe American Promise: The conAicfof principlpnd practice. N.Y’ Harper 昔 Brothers】 publisher™1954>V160. (7) 一八六一年にロンドンで出版された、黒人女性ジェイコブスが書いた本を読むと当時の黒人のおかれた状況がよくわかる。 Harriet; Jacob? Incidents ぎ (he Life of p s~QA}e Girl ヽ VTHSS by HeTses】 N.Y•: Penguin Books) 2000, (8) ドイツ人は英語を解さず、排他的でかたまっていること (clannishness) にフランクリンは不信感を抱いていた。しかし、 彼は完全にドイツ人の入国を拒否した訳ではなく、より分散することとイギリス人と混ざり合うことを主張した。Maurice 391 ——アメリカ人とは何かについて考える—— R Davie” WoMd Immigration: With speeded RefeTencesfhe United SSLest N.Y•: The Macmillan company” 1949 (1936)“ p.36. (9) John Higham” strangers 多 (he Lpnd,: pasems of 4me3.ccm NaMssm 186011925. Mass’ Afheneum”1963】pp 3—1L Highamは歴史家でもNaMvismを定義する事は難しいとしている。 (10) Arthur Malm” op cirp.75, (11) Marcus Lee Hanse?The Irrvmigmnt in 4me3.ccm Hisfory。N.Y” Harper^Row) publisher5°194pp,132- (12) Newsweek日本版、二〇一〇、七月二八日、ジャン・レッシューの記事。 (13) 日野壽憲、「ロンドン同時爆破テロをめぐる英国イスラム事情」明海大学外国語学部論集、第一八集、二〇〇六参照。二〇〇 五年七月七日の自爆テロ犯がイスラム系英国人であった事が判明して以来、それまで人種差別主義者と呼ばれる事を恐れて黙っ ていた人々が、公然とイスラム住人の「不寛容」な姿勢を批判し始めたという。 (14) 一九世紀の最後の三〇年とーー〇世紀初頭のアメリカは進化論の国であったという。R・ホフスタタ—「アメリカの社会進化 思想」研究社、ー九七三。 (15) Benjamin FrankH?Obseruafums Concern3g the Increase OJ Peopling 0j countries】 復 c.(1751)»Bosfom priged ◎ Sold by s. Kneeland” Queen—screee”1755】pup (16) Op cic+・訳は筆者による。 (17J pressene Lyndon B・ Johnsorfs Remarks at fhe Signing of -he Immigrationwmp Liberty Island) New vbrKOcfober 3】 1965・ Lyndon Bames Johnson Library and Museum) Naxional Archives and Records Admsls賞%101I・ (18) Leonard B- GKCK=Types Dlsescc hrom Our Owru 3anz Boas on Jewisn IdenuEy and Assimilation ヽ^TnencaTl AnthTOPO~ogi^19823 84″ w- pp.545—565, (19) Mmon M, Gordon” 4 Ss0m&afs-7l in -Ames.ccm L 席e“ The Rede of Race»Religio? and Nafs-na~ 02.g号・ NY: Oxford university press】1964• pp.26127• (20) この語はゴードンではなく、コールによって案出されたものである。seewareG・ Cole and Mildred Wiese coyMmoriMes emd fhe American Promise: The Ctmfhcf of principle emd practice- NY” Harper &; Brothers publishers»19543 pp・ 1351140 • 明治大学法学部創立百三十周年記念論文集 392 (21) Gordon) op cirpp 84—159。 22) 〇P cirpp, 881890 (23) Lawrence w・ Levpe” The Opening 0f f he American MmABosgm Beacon press”19969p10 9, (24) op・ cirp•ーー0• (25) crevecoeur】 op・ elー・ p 43, (26) op, cirp.41. (27) Frederic Jackson Turner】77le 耳£??:$§•American Hisfory” N.Y•: Henry Hole and COJ 19203 p.23, (28) Gordon】 op・ cirpp 120-121• (29) David E” Nye】 Henrj/ Ford Algnortme IdeaHfiM N.Y.” Kgs.kae press)19792 p.71・フォードはアメリカの移民たちだ けではなく、世界中の人々の均質化(アングロ・サクソン化)をもメルティング・ポットの比喩の視野に入れていたようである。 (30) Jonathan schwarezLCHgry FbrdmMelfing por5oso FemsEei?edj Efhnic Grtrups m^e cit^Cwtt写 了 sf&esos孕 tmd POU3 Lexington” Heath Lexington Books»19719 pp・ 1911198・ (31) カレンはー九一五年に発表した論文を一九二四年出版の本に再録した。Horace M・Kalle?Cuぎre 3d Democracy§手e ur^ted, sfafes」The Group Psychology 0frt-he 4merzccm Peo5Zes) N.Y•: Bom and Llverlghr-1924. (32) Gordon” op, cirpp,140—144, (33) John Higham) Send These ~〇 Me” Jews ofheT Tmmzarasfs s Urban 4me»N.Y, Aeheneum-1.979