決まらぬタイ首相、牙をむく「司法クーデター」
編集委員 高橋徹
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD153IX0V10C23A7000000/
『案の定の迷走である。タイ国会が13日に行った指名投票で新首相は決まらなかった。
5月の総選挙(下院選、定数500)で第1党に躍り出た革新系の前進党は、第2党でタクシン元首相派のタイ貢献党などと8党での連立枠組みを整え、満を持してピター党首を首相候補に押し立てた。他に候補者は出馬せず、事実上の信任投票となった。
8党は下院で6割超の312議席を持ち、総選挙が示した民意を背負う。だが首相指名は非民選…
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『5月の総選挙(下院選、定数500)で第1党に躍り出た革新系の前進党は、第2党でタクシン元首相派のタイ貢献党などと8党での連立枠組みを整え、満を持してピター党首を首相候補に押し立てた。他に候補者は出馬せず、事実上の信任投票となった。
8党は下院で6割超の312議席を持ち、総選挙が示した民意を背負う。だが首相指名は非民選の上院(定数250、欠員1)との合同投票。ピター氏への賛成票は324で、上下両院の過半数の375に届かなかった。前進党が公約した「不敬罪の改正」がボトルネックとなり、焦点だった上院議員の支持がわずか13人にとどまったのが響いた。』
『前進党は19日に予定する再投票で改めてピター氏を推す一方、上院から首相指名への投票権を取り上げる憲法改正案を国会へ提出した。1回目の投票で上院議員の3分の2が「棄権」を選び、与えられた責務を果たしていない、という理由からだ。上院を排して下院単独の採決なら、ピター氏は文句なく宰相の座に就ける。
ただし改憲も「375」のハードルは同じ。要件は首相選出よりさらに厳しく、うち上院議員83人、下院の野党議員75人の賛成が必須だ。現状では突破は難しい。
ピター氏は15日、「2回目の指名投票でも支持されず、改憲も成就しなければ、8党連立の首相候補をタイ貢献党に譲る」と話した。不敬罪改正に賛同していないタイ貢献党を前面に立て、政権交代を優先する戦術だ。だが上院はタクシン派への不信も強く、連立政権に残る前進党への警戒も消えない。375票に届くかは心もとない。』
『今後の展開は波乱含みだが、国会での攻防とは別の策謀もうごめき始めた。タイ政治の悪弊といえる、憲法裁判所の力を頼った「司法クーデター」の兆候である。
案件は2つある。国会議員に心理的な圧力をかける効果を狙ってか、いずれも首相指名投票の前日を狙い撃ちした事実が、政治的な背景を雄弁に物語っている。
第1に、ピター氏と前進党が「立憲君主制の転覆を企てた」とする申し立てを憲法裁が受理した。第2に、ピター氏が違法と知りながらメディア株を保有したまま下院選に出馬したとして、選挙管理委員会が憲法裁に判断を仰いだ。
いずれも前進党を目の敵にする守旧派からの告発を受けたものだ。そして独立機関のはずの憲法裁や選管が、実際には国軍の影響下にあるのは公然の秘密である。今後の審理で違憲判決が出れば、ピター氏や党幹部の議席?奪と公民権停止、さらには前進党への解党命令に発展する可能性がある。』
『客観的にみて、2つの告発は首をかしげざるを得ない。
前者は不敬罪改正の公約を掲げたこと自体を標的にした。1956年施行の刑法112条は「国王、王妃、王位承継者、折衝を侮辱・軽蔑する行為は3?15年の禁錮刑に処する」と規定する。前進党の主張は、量刑が重すぎるとして1年以下に軽減し、乱用を防ぐために告発の権利を「被害者」たる王室事務局に限る内容だ。賛否はともかく「国体転覆」は飛躍がすぎる。
後者では、政治家がメディアの報道に影響を与えるのを防ぐため株式保有を禁じる規定が、2007年から憲法に盛り込まれている。ピター氏の場合、17年前に死去した父から放送局「iTV」の株を相続。下院選への立候補時や、前進党の首相候補を受諾した時点でも、自分名義で保有していたという。
問題はその実情だ。iTVは07年に放送を停止している。機器のリース事業などで存続しているものの、もはや国民に影響を与え得る「メディア」ではない。しかもピター氏の保有する4万2千株は発行済み株式の0.0035%にすぎない。バンコク・ポスト紙が「ピター氏がiTV株から直接利益を得ているわけではないことは、幼い子供でも理解できる」と論評したのはうなずける。
政敵を追い落とすためとはいえ、なぜ守旧派はこうした過大解釈や重箱の隅をつつく「揚げ足取り」に血道を上げ、憲法裁や選管もまともに取り上げるのか。』
『前進党の改憲動議が不発に終わっても、首相指名選挙に非民選の上院が加わるいびつな仕組みはあくまで経過措置で、24年5月に廃止されることになっている。遅くとも27年までに実施される次期総選挙後は、首相選びの権限は下院だけの手に戻る。
急進的な政策を掲げる前進党がいま政権に就くのを阻止するだけでなく、どうせならこの先も国会から排除しておいた方がいい。守旧派が上院という「盾」だけでなく「矛」である司法まで担ぎ出してきた理由だ。』
『興味深いのは、ピター氏を追い詰めるメディア株問題は、過去の民主化のつまずきや政争の延長線上にあることだ。
かつてタクシン元首相を巡る政争の舞台となった「iTV」は、今回のピター氏のメディア株問題で再び脚光を浴びた(07年当時)=ロイター
iTVの「i」は英語のindependent(独立)の頭文字だ。1992年、国軍主導のスチンダ政権の居座りに抗議する市民に軍が発砲した「5月の暴虐」をきっかけに、政府系か国軍系しかなかった地上波テレビで客観的な報道を求める声が強まり、新聞社や銀行が出資して95年に初の民間テレビ局として開局した。実業家だったピター氏の父は、そんな志に賛同して後にiTV株を購入したのだろうか。
ところが視聴率低迷で経営危機に陥り、2000年にタクシン氏の一族企業に救済買収された。同氏は自身の宣伝を放映させ、気に入らない番組の内容を変更させるなど、放送現場へ露骨に介入し、翌01年の総選挙で圧勝して首相へ駆け上がる一助とした。
06年のクーデターでタクシン氏が失脚すると、政府に資産と放送免許を接収され、07年に放送停止に追い込まれた。放送権は公共放送のタイPBSが引き継いだ。同年、憲法に政治家のメディア株保有禁止を盛り込んだのは、同氏のような政治利用を防ぐためだ。iTVの「亡霊」がいまごろ民主化の旗手を追い詰めるのは、何の因果だろうか。
付け加えるなら、iTV株問題でピター氏を告発したルアンクライ・リーキットワタナ元上院議員は08年、タクシン派の当時のサマック首相を失職に追い込んだ人物だ。玄人はだしの料理の腕を持つサマック氏は、首相就任以前から料理番組にレギュラー出演していた。これが閣僚の兼業禁止を定めた憲法の規定に違反すると告発し、憲法裁が違憲判断を下したのだ。「料理番組に出たからといって首相をクビにする国なんて聞いたことがない」と日本の外交筋が絶句していたのを覚えている。』
『サマック氏の件に象徴されるように、時に軽微と思える罪状でタクシン派はこれまで3人の首相が失職し、3政党が解党に追い込まれてきた。その教訓から、党首と首相候補を同一人物にはせず、また今回の下院選も首相候補を3人届け出るなど、司法クーデターへの備えを怠ってこなかった。
前進党も、たとえばピター氏のiTV株の名義を他者へ変更したり、他にも首相候補を登録するなどの対策をなぜ講じなかったのか。ましてや前身の新未来党が20年、結党時に当時のタナトーン党首から受けた融資が過度の個人献金を禁じる法律に違反したとして、解党処分とタナトーン氏ら幹部の公民権停止を食らったのに、だ。
闘っている相手が、そうした横車を平気で押す守旧派であることを考えれば、前進党はあまりにも脇が甘かった。大方の予想を覆した、総選挙での第1党への躍進は、前進党自身にも望外の結果だったに違いない。その意味では政権担当は準備不足だったと言わざるを得ない。
それにしても守旧派は、「無理が通れば道理が引っ込む」という手口を、いつまで繰り返すつもりか。上院の力でピター氏の首相就任を阻むによせよ、何度目かの司法クーデターで前進党を排除するにせよ、1票の権利を踏みにじられた支持者の激しい抗議活動を呼び起こし、若い世代を中心に第2、第3のピター氏や前進党が立ち上がるのは確実だ。つける薬がないのは、時代の流れに逆らう守旧派である。
=随時掲載 』
『高橋徹(たかはし・とおる) 1992年日本経済新聞社入社。自動車や通信、ゼネコン・不動産、エネルギー、商社、電機などの産業取材を担当した後、2010年から15年はバンコク支局長、19年から22年3月まではアジア総局長としてタイに計8年間駐在した。論説委員を兼務している。著書「タイ 混迷からの脱出」で16年度の大平正芳記念特別賞受賞。』