タイ憲法政治の特色と国王概念

タイ憲法政治の特色と国王概念
一比較文明論的な視点を交えてー
下條芳明
http://repository.kyusan-u.ac.jp/dspace/bitstream/11178/82/1/shimojo54-1.pdf

 ※ 今日は、こんな所で…。

『 1.はじめに
一般に君主制の近代史について論じる場合、「君主制」と「民主制(民主主義)」とは対
抗関係に置かれ、民主主義の発展に伴い、君主制は弱化し、やがて消滅して共和制へと移
行するのが近代憲法史の必然であり、しかもそうなることが歴史の進歩、発展であるとい
う思考法が支配的である。我が国の憲法学界でも、天皇制の否定は日本国憲法の制定時の
趣旨ではなかったはずなのに、「君主制の減少・弱体化が歴史の趨勢」という通念は依然と
して根強く、その風潮は君主制および天皇制研究の前提となって広まっている⑴。

ところが、現代タイの君主制は、第一次大戦期以降の「君主制の凋落」という世界的な
趨勢②にもかかわらず、とくに20世紀後半には、西欧・北欧の立憲君主制あるいは日本国
憲法の象徴天皇制とならんで、プーミポン現国王(在位1946ー現在)の治世下において注目
すべき発展を遂げてきた。

1932年の「立憲革命」に始まるタイの立憲君主制では、後に詳
しく述べるように、1949年王国憲法以来、いずれも「国王を元首とする民主主義」(各王国
憲法2条)というこの国独自の統治形態を採用して、とくに民主化の動向が顕著となる

1970年代以降、タイ王制は、「国王」、「宗教(仏教)」、「民族」を三位一体の秩序とみなす
「ラク・タイ」の原理に基づき民主政治の重要な理念的基盤となるだけでなく、憲法政治
上、国王は調整権者として民主政治の行き詰まりを打開するという高次の統治作用を発揮
してきた。

とりわけ1973年の「10月14日事件」および1992年の「5月の’惨劇事件」の際、
軍部と政党•市民•学生など民主化勢力との激しい政治的対立がプーミポン国王の調停と
勧告により速やかに解決されている⑶。

そもそも、現代アジアの近代化、民主化、さらには立憲化の問題を考える場合、王制、
宗教(儒教、仏教、イスラム教など)、家族、慣習といったアジアに固有の文化的な価値は
どのように位置づけられ、また、どのような機能を果たすことが期待されているのだろう
か。

かってM.ウェーバーは、彼のプロテスタンティズム論の反面、たとえば中国のように、
「超越的なものをもたず、現世の人間関係の調整のみを原理とする倫理」としての儒教倫
理の下では、資本主義は決して成功しないと主張した⑷。

しかし、21世紀のこんにち、ア
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商経論叢 第54巻 第1号
ジア諸国における著しい経済的•政治的•立憲的な発展の現状を顧みるとき、このウェー
バーによる“西洋独善的な’’命題は、逆に、アジア文明の側から果断な挑戦を受けている
といわなければならない。

こうした問題意識を前提にして、本稿では、タイ憲法における君主制の特色を概観した
うえで、その思想的基盤となっている仏教王権の伝統などについてアジア文明論的な視点
を交えて考察したい。

2.タイ憲法政治の基本的特色

1932年に始まるタイの憲法政治には、次に見るように、民政と軍政の「変動性」と王政
(王制)の「恒常性」という二つの基本的特色がある。

⑴ 軍政と民政の「変動性」

タイでは、プラチャティーポック国王(ラーマ7世/在位1925-1935)の治世下である!932
年6月24日、ヨーロッパ留学の体験がある人民党の軍人および文官が、後に「立憲革命」
と称されるクーデタを成功させる⑸。

これを受けて、同年6月27日、国王は人民党によっ
て提示された「シャム国暫定統治憲章」を公布し、さらに同年12月には、最初の王国憲法
である「シャム王国憲法」が制定される。ここに、それまでの絶対君主制は終焉し、近代
立憲君主制の時代を迎えるのである。

ところカヾ、その後、タイ憲法政治史の歩みは目まぐるしい変動の経過を辿ることになる。

最初の憲法である1932年6月の「シャム国暫定統治憲章」から現行の2007年8月に成立
した「タイ王国憲法」に至るまで、制定された憲法典の総数は18編を数える。

タイ各憲法の成立年月日(仏歴・西暦)と条文数は、次の通りである。

① 仏暦2475年シャム国暫定統治憲章(全39条)1932年6月27日公布
② 仏暦2475年シャム王国憲法(全68条)1932年12月10日公布
③ 仏暦2489年タイ王国憲法(全96条)1946年5月9日公布
④ 仏暦2490年タイ王国憲法[暫定版](全98条)1947年11月9日公布
⑤ 仏暦2492年タイ王国憲法(全186条)1949年3月23日公布
⑥ 仏暦2495年改正2475年タイ王国憲法(全123条)1952年3月8日公布
⑦ 仏歴2502年タイ王国統治憲章(全20条)1959年1月28日公布
⑧ 仏歴2511年タイ王国憲法(全183条)1968年6月20日公布
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⑨仏暦2515年タイ王国統治憲章(全23条)1972年12月15日公布
⑩仏歴2517年タイ王国憲法
(全238条)1974年10月7日公布
⑪仏暦2519年タイ王国憲法
⑫仏暦2520年王国統治憲章
[暫定版](全29条)1976年10月22日公布
(全32条)1977年11月9日公布
⑬仏暦2521年タイ王国憲法
(全206条)1978年12月22日公布
⑭仏暦2534年王国統治憲章
⑮仏暦2534年タイ王国憲法
(全33条)1991年3月1日公布
(全223条)1991年12月9日公布
⑯仏暦2540年タイ王国憲法
(全336条)1997年10月11日公布
⑰仏暦2549年タイ王国憲法
⑱仏暦2550年タイ王国憲法
[暫定版](全39条)2006年10月1日公布
(全309条)2007年8月24日公布

このようにタイ憲法史において数多くの憲法が制定されてきたのは、憲法政治の過程に
おいて軍部が強力な地位を占めてきたことに大きく起因する。すなわち、タイの軍部は、
周期的に到来する「政治危機」に対応して、クーデタを実施し、それが成功すると直ちに
既成の憲法を廃止し、軍事政権の下で「暫定憲法」、新しい「正規憲法」の制定が実施され
てきたからである。

とくに第二次大戦後には、戦後最初に制定された1946年憲法が翌年11
月のクーデタで廃止されて以降、クーデタと「正規憲法」の廃止一軍事政権下での「暫定
憲法」の制定一「暫定憲法」の手続による「正規憲法」の制定一民主的選挙の実施と議会
政治の復活•政治危機の到来、そして、クーデタへの回帰、という憲法体制の周期的循環
が今日まで少なくとも七度にわたり繰り返されてきた⑹。

こうした歴史的経緯を振り返るならば、18編にも及ぶタイの各憲法は、「暫定憲法(ある
いは、臨時憲法)」と「正規憲法(あるいは、恒久憲法)」というニ類型に分類できる。


般に「暫定憲法」と「正規憲法」とは、次のような基準により区分されている⑺。

「暫定憲法」の場合、クーデタにより樹立された軍事政権により超法規的措置として制定
され、「統治憲章(thammanun kanpokkhrong) Jの名称で呼ばれることが多い。

暫定政府
の政策目標、暫定的な統治の枠組み、新憲法の制定手続を主な内容とするが、一般には人
権規定は含まれていないため条文数はきわめて少ない。

国会は政府による任命議員により
構成される一院制を設置し、立法議会としての機能のほか、憲法制定会議としての役割が
与えられるのが通例である。

これに対して、「正規憲法」はクーデタ後の軍事政権の支配が一応安定した段階で、臨時
的に設置された議会や「暫定憲法」による一院制の国会により制定される。

すべてが「タ
イ王国憲法(ratthathammanun) Jの名称を持ち、国民の権利・義務、国家政策綱領、統治
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商経論叢 第54巻 第1号
機構に関する具体的な規定を含むため、条文数はきわめて多く、正常な議会政治、政党政
治を予定した内容となっている。

国会は、通例、任命制の上院と公選制の下院から成る二
院制である。

例外として、1932年12月憲法およびその改正憲法である1952年憲法は民選
議員と任命議員という二種の議員から構成される一院制国会を採用していた。

また、1997
年憲法では上下両院とも公選制を採用したのに対して、現行の200?年憲法の上院は公選制
と任命制を併用する。

この区分に従って、先に列挙した18編のタイ各憲法を分類するならば、

「暫定憲法」と
しては
、@1932年6月統治憲章、@ 1947年憲法、⑦1959年統治憲章、⑨1972年統治憲
章、⑪1976年憲法、@1977年統治憲章、⑭1991年3月統治憲章、⑰2006年憲法が該当す
る。一方、「正規憲法」としては、②1932年12月憲法、③1946年憲法、⑤1949年憲法、
⑥1952年憲法、⑧1968年憲法、⑩1974年憲法、⑬1978年憲法、⑮1991年憲法、⑯1997
年憲法、⑱2007年憲法が挙げられる。

このようにタイの憲法史は、民政から軍政へ、そし
て、軍政と民政へとダイナミックな周期的転換を繰り返してきたといえるが、その変動の
政治過程は、クーデタを転結点として「暫定憲法」と「正規憲法」との相互交替により展
開してきたと特徴づけることができる。

もっとも、近年では、1970年代まで頻繁に断行されてきたクーデタの回数が減少する傾
向にある。

1970年代には三件のクーデタの成功例(1971年11月、1976年10月、1977年
10月)があったが、1980年代は二件のクーデタ未遂事件(1981年4月、1985年9月)は
あるが成功例はなく、1990年代には一件(1991年2月)、2000年代には一件の成功例(2006
年9月)があるだけである。

こうしたクーデタの減少傾向の主要な原因としては、1980年代後半以降における急速な
経済発展と都市中間層の伸長を社会的背景として、1992年の「5月の惨劇事件」を転機と
して、政治勢力としての軍部の社会的地位が大きく低下していることが考えられる。

タイ
憲法政治における軍部の役割と影響の問題はさらに憲法政治学的な考察を必要とすると思
われるが、従来のクーデタを転結点とするタイ固有の憲法体制の周期的循環は、21世紀初
頭のこんにち、大きな転換点に差し掛かっていることだけは確かであろう。

⑵ 王政(王制)の「恒常性」

以上に見たような「正規憲法」(民政)と「臨時憲法」(軍政)との周期的転換という「変
動性」とは対照的に、タイ憲法における国王の地位は、きわめて強大であり、不変にして
不動である⑶。

タイの各憲法は、1932年12月の王国憲法以来、国王は神聖かつ不可侵の地
タイ憲法政治の特色と国王概念
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位にあること、国王は仏教徒として宗教の擁護者であること、タイ国軍の総帥であること
について常套的規定を置く。

この点、現行の2007年憲法は、「国王は崇敬にして神聖な地位にあり、何人も侵すこと
ができない。何人も、いかなる方法によっても国王の責任を問い、もしくは訴訟を提起す
ることはできない」(第8条)とし、「国王は仏教徒であり、かつ宗教の擁護者である」(第
9条)とし、また、「国王はタイ国軍の総帥の地位にある」(第10条)と定める。

「暫定憲
法」の場合でも、たとえば2006年憲法は、「国王は元首であり、タイ国軍総帥の地位にあ
る。国王は神聖な地位にあり、何人も侵すことができない。また、何人も、いかなる方法
によっても国王の責任を問い、もしくは訴訟を提起することはできない」(第!条)とする。

また、ほとんどのタイ憲法は、国民主権を宣言する一方、国王は主権の代行者として、
国民に由来する主権を、国会、内閣および裁判所の三部門を通じて行使する旨を明記する。

「正規憲法」の例としては、1978年憲法、1991年憲法、1997年憲法および2007年憲法で
は、「主権はタイ国民に帰属する。元首である国王は、本憲法の規定に従って、国会、内閣
および裁判所を通じてこの主権を行使する」(各第3条)と定める。

「暫定憲法」の場合で
も、1932年6月統治憲章および1959年統治憲章にはこの趣旨の規定は欠如しているが、た
とえば、1991年3月統治憲章では、「主権はタイ国民に帰属する。元首である国王は、本憲
法の規定に従ってこの主権を行使する」(第2条)とする一方、

「国王は、国家立法議会を
通じて立法権を行使し、内閣を通じて行政権を行使し、裁判所を通じて司法権を行使する」
(第3条)と規定する。

次に、タイ各憲法は、これまで「国王を元首とする民主主義政体」というこの国独自の
立憲君主制の政体を堅持してきた。

1949年憲法以降、1968年憲法、1974年憲法、1978年
憲法など多くの「正規憲法(王国憲法)」は、「タイ国は民主主義政体であり、国王を元首
とする」(各第2条)と定めてきたが、その後、1991年憲法、1997年憲法、2007年憲法で
は、伝統的王制と近代的民主制とを結合するような表現において、「タイは、国王を元首と
する民主主義政体である」(各第2条)と明記する。

先にも述べたように、1973年の「10月
14日事件」あるいは1992年の「5月の惨劇事件」の際には、国王による調整権の行使にょ
り、軍部と市民勢力との政治的対立が速やかに解決されているが、これは憲法が標榜する
「国王を元首とする民主主義政体」という立憲君主制の理念が「調整権的君主制」として
具体化されたものと評価できるだろうゆ。

とくに1990年代以降のタイ王国憲法を見ると、そこでは国王の調整権者としての権限に
ついてきわめて詳細かつ網羅的に定めている。

ここでも2007年憲法を例にとるなら、下院
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の解散権(第!08条1項)、立法拒否権(停止的拒否権)(第151条)、内閣総理大臣および
国務大臣の任命権(第171条1項)、国務大臣の罷免権(第183条)、宣戦布告権(第189条
!項)、講和条約など条約締結権(第!90条1項)、恩赦権(第191条)、栄典の授与(第11
条)、栄典の取消および剝奪権(第192条)、上級職にある文官•武官の任免権(第193条)
といった国王の大権事項を定める。

さらに、国家緊急事態に対処するために、国王には、
緊急命令権(第!84条1項)、緊急財政命令権(第!86条)、勅令権(第!87条)、戒厳令の
公布(第188条)といった権限が認められている。

もっとも、このうち宣戦布告権(第189条2項•3項)や条約締結権(第190条2項)
は、国会の承認を要件としているし、また、緊急命令権は、「国家安全保障、公共の安全、
国家経済の安定、災害の防止」などを要件として、内閣が緊急かつ不可避的に必要性があ
ると判断する場合にのみ行使することができ、法律と同様な効力を有するが、内閣は事後
に国会の承認を得なければならない(第184条2項•3項)。

以上のような強大な権限に加えて、1997年憲法と2007年憲法では、各種の憲法上の独立
機関が創設され、それらの機関の任命権の多くが国王に賦与されたために、国王の地位は
さらに強化されているα°)。

このうち1997年憲法は、タイ憲政史上初めて軍部の直接的な関
与を排除して、国民的な民主化運動と政治改革への要請の所産として誕生した憲法であった。

そこでは、とくに「監視民主主義(supervise democracy) Jという立憲主義的観点か
ら、国会議員、内閣総理大臣および国務大臣、政治職公務員、裁判官、さらに政党などに
よる不正な国家権力行使を監督・統制するために、従来の司法裁判所に加えて、憲法裁判
所(第255条ー第270条)および行政裁判所(第276条ー280条)を導入し、また、選挙委
員会(第136条ー148条)、国会オンブズマン(第196条一198条)、国家人権委員会(第199
条ー200条)、国家汚職防止取締委員会(第297条一302条)、国家会計検査委員会(第312
条)など、憲法上の政治監視機関が創設された。

これに伴い、国王は、いずれも上院の助言に基づき、憲法裁判所の長官および裁判官の
任命(第255条1項)、選挙委員会の委員長および委員の任命(第136条1項)、国会オン
ブズマンの任命(第196条1項)、国家人権委員会の委員長および委員の任命(第199条1
項)、国家汚職防止取締委員会の委員長および委員の任命(第297条1項)、国家会計検査
委員会の委員長および委員の任命(第312条2項)といった権限を保持する。

そして、こ
のように1997年憲法に創設された国王の任命権は、現行の2007年憲法にほとんどそのま
ま継承されている。

これまでに見たような国王の強力な憲法上の地位および権限とも関連して、1932年以来
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のタイ憲法政治では「ラク・タイ」(タイ的原理)と呼ばれるタイ独特の統治原則に基づき、
「国王」、「宗教(仏教)」、「民族」という三つの文化的価値が何よりも尊重され、重視されてきた。

歴史的には「ラク・タイ」原理が構築されたのは、20世紀初頭のワチラウット王
(ラーマ6世/在位1910 —1925)の時代のことである⑴>。

「ラク・タイ」の考え方によれば、「国王」、「仏教」、「民族」という三要素が密接不可分
に結合した“三位一体’’の秩序こそがタイ固有の歴史を形成したとされる。

すなわち、「国
王」、「仏教」、「民族」の相互連関について、タイの民族的一体性が歴史的に検証・確認さ
れ、民族的結合の共通項としての仏教の存在が強調されたうえで、民族的一体性と仏教的
共通あるいは共属の現実的象徴として国王の権威が留意される<辺。

つまり、「ラク・タイ」
においては、「民族」と「宗教」は「国王」によって集約されているのである。

このような「ラク・タイ」原理は、タイの近代成文憲法の前提をなし、その導入と受容
に際して、いわば「固有法」として、不文憲法的な機能を果たしてきたといえるが、単に
不文憲法の状態にとどまってきたのではない。

この点、通例、タイの各憲法では、「ラク・
タイ」原理の重要性に鑑みて、タイ王国が「一体不可分の王国」(各憲法第1条)であると
して民族の統一を宣言するとともに、先にも見たように、「仏教徒にして、かつ宗教の擁護
者」としての国王の地位を明示することにより、「ラク・タイ」の立憲化を試みている物。

また、1970年代以降の各憲法では、たとえば、1974年憲法(第54条)、1976年暫定憲法
(第9条)、1978年憲法(第46条)、1991年12月憲法(第50条)、1997年憲法(第66条)
などにおいて、国民の義務として「ラク・タイ」の擁護が盛り込まれるようになった。現
行の2007年憲法にも、第4章「タイ国民の義務」の冒頭で、「何人も、この憲法に基づき、
民族、宗教、国王および国王を元首とする民主主義政体を擁護し維持する義務を負う」(第
70条)として、「国王を元首とする民主主義政体」とともに「ラク・タイ」の擁護を国民に
義務づけている。

3.タイ国王概念の習合性と近代性

これまでに、1932年以来のタイ憲法政治の基本的特色について、民政と軍政の「変動性」、
王政(王制)の「恒常性」という二つの側面から考察してきた。

タイの各憲法における君
主制の構造を見る限りでは、国王の地位あるいは権限がきわめて強力で、かつ不変、不動
であることは疑う余地はない。

そこで、次には、現代タイ君主制の思想的•文化的・宗教
的基盤を成している伝統的な国王概念について紹介しておきたい。様々な類型化が可能で
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商経論叢 第54巻 第1号
あるが、一般にタイ国王概念は次の三つに区分することができる。

(1)「正法王」としての国王

第一は、古代インドの理想的国王とされるアショカ王(在位紀元前268-232)に由来する
「正法王(タンマラーチャ)」(あるいは転輪聖王[チャクラバット])としての国王観念である。

「正法王」とは、上座部仏教における「正法(すなわち、ダルマ)」に従って、”慈悲
の心”をもって統治を行う王であり、人々の公正な支配者であることを意味する。”。一般
に、タイ人は’’慈悲の心’’とそれに従った行動の結果が権力をもたらすという考え方を持つ
ており、現世の「正法」の権化としての国王の支配には人々は喜んで服することになる。
っまり、国王は、前世において慈悲の行為を積み重ねたから、現世において仏教の最高道
徳律の体現者であると考えられ、その最高支配者とみなされるのである俄)。

このような「正法王」の理想像を基礎づけている古法が、タイ族の先住民族である古代
モン族が残した『タマサート法典(プラ・タマサート)』である3)。

『タマサート法典』は、
タイの伝統的法体系にあっては実定法秩序の頂点に位置づけられている。

それによれば、
国王が守るべき最も重要な倫理規範は、「王者の十徳(トツサピット•ラーチャタム)」と
呼ばれる十の徳目である。すなわち、国王は、①布施、②戒律、③捨離、④正直、⑤柔和、
⑥修養、⑦自制、⑧不害、⑨忍辱、⑩滅私という十の徳目に従い、

「常日には五戒を守り、
仏日には八斎戒を守り、生きとし生ける者すべてに憐れみの心を抱き、『プラ・タマサート』
の学習に精励する」。

さらに、とりわけ「王に対する奉仕•非奉仕の行為について正邪を判
別すること」、「正しく戒を守護する人を励まし助けること」、「公正な方法によってのみ国
富を増大させること」、「公正な方法によってのみ王国の安寧を図ること」、という四つの法
の実践を国王に義務づけることにより、あるべき仏教王の姿を提示している。

また、『タマサート法典』によれば、国王は「正法王」として、『タマサート法典』に従
い、人民の訴訟を公正に裁定しなければならない。

裁判実務に携わる裁判官については、
もし彼が「貪り」「怒り」「恐れ」「愚かさ」という「四種の非道」に陥るならば、その名声
は「黒分の月のごとく日ごとに萎える」が、その逆に、この種の非道を回避し、「正法」に
基づき裁判を行うならば、彼の名声は「白分の月のごとく」日増しに高まるはずであると
説く助。

こうした「正法王」の伝統を受けて、現代タイの各憲法では、先に述べたように、国王
のみを仏教徒の地位に置き、また「宗教(仏教)擁護の第一人者」として、国王にタイの
伝統的価値の中核にある仏教の擁護を義務づけている(各憲法第7条あるいは第9条)。


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っての開発独裁期のサリット政権時代には、とくに1960年代に入り、「国の開発(パッター
ナ•チャート)」と称される「国家経済開発計画」が積極的に推進されるが、これと歩調を
合わせる形で、保健衛生、道路、灌漑、土地改良、農牧畜教育、水資源の確保、森林の保
護、社会福祉事業など、きわめて広範な社会的•経済的分野において「ロイヤル•プロジェ
クト」と称される国王主導による数多くの開発事業が実施されるようになる岡。

今日でも、
国民生活の改善と向上を目指して「ワーキング・ロイヤル」として精励するプーミポン現
国王の姿勢は、”慈悲の心”による正法(ダルマ)の実践者である「正法王」の現代版を目
指したものだといえるだろう3)。

(2) 「国父」としての国王

二番目に挙げられるのは、13世紀中葉に創設されたスコータイ王朝(1240頃ー1438)の
家父長的王権に由来する「ポークン(慈父)」としての国王観念である¢。)。

スコータイ王朝
の第三代ラームカムヘーン王(在位1275 — 1299ないし1317)は、国民から「ポークン・ラー
ムカムへン」、つまり「父たる指導者•ラームカムへン」と称されていたが、この国王観念
では、国王と国民の間を「父(ポークン)」と「子(ルーク)」の関係として捉える。

ここ
での国王は、民衆の困苦を除き、その幸福をつねに念願する”温情ある父”であり、民衆
の直訴を取り上げて裁定し、「子」同士の争いを調停する裁判官であり、また、戦時におけ
る軍の最高指揮官ということになる。

ラームカムへン王の事績を記した「ラームカムへン王碑文」には、民衆の国王への直訴
について、次のように刻まれているという。

「国王はかなたの門に鐘を吊す。もし悩みを宿
し心を痛めた者は、その痛みを王に伝えたいと思うならばいと易い。王が吊された鐘に近
づいて、これを打つだけでよいのである。鐘の音を耳にした国王ラームカムへンは、直ち
にその者を呼び出し、事を詳らかにしたうえで、正しい裁きを行う。かくしてスコータイの民は国王を讃えるのだ〇J(21>

また、スコータイ王朝初期の頃までのタイでは、実態は必ずしも明らかではないが、国
王を人民によって直接選出するという選挙王制の制度が採用されていたといわれる。

この
点、綾部恒雄教授は、古代タイの選挙王制について、「タイ族王制の初期には、王は人民に
よって選挙されて王位についたものであるという。この場合、人民による選挙の実態は明
らかでないが、いずれにしても人民の意向がかなりの程度に王の施策に反映していた時代
があったに相違ない」皿)と指摘される。

このような選挙王制の伝統があるため、現在でも、
タイ国王には、政治的混乱を収拾し、秩序を回復するために人民が選んだ王という側面が
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商経論叢 第54巻 第1号
あり、国王は『人民の同意によって選ばれた王(Anekchonnikon Samoson Sommot) J
という名称で呼ばれている¢釘。

先に見たように、1932年以来のタイ各憲法では、「主権はタイ国民に帰属する」として「国
民主権」を宣言したうえで、「元首である国王は、本憲法の規定に従って、国会、内閣およ
び裁判所を通じてこの主権を行使する」(各第3条)として、国王を国民に由来する主権の
代行者として位置づけている。また、1949年王国憲法以来、タイ独自の国家形態として「国
王を元首とする民主主義政体」(各王国憲法第2条)を堅持してきた。

この立憲君主制に関
する原則的な政体規定は、一見、伝統的王制と近代的民主制との調和と融合が図られているように見えるが、それにとどまらず、タイ古代における選挙王制に由来するスコータイ王朝的な国王観念が反映されているともいえるのである伽)。

(3) 「神なる王」としての国王

三番目として、14世糸己中葉に開闘したアユタヤ王朝(1350-1767)における神聖王権の思
想を根拠とする「神なる王(テーワラーチャ)」としての国王観念が挙げられる。

この国王
観念は、東隣のクメール文化の強い影響の下で形成されたものであり、国王は、ヴユシュヌ神やシヴァ神などヒンズー教における神々自体あるいは神々の化身とみなされる的)。

先に述べたように、1932年12月憲法以来、タイ各憲法は、「国王は崇敬にして神聖な地
位にあり、何人も侵すことができない」(1932年12月憲法第3条、1949年憲法第5条、1968
年憲法第4条、1977年統治憲章第4条、1978年憲法第6条、1991年統治憲章第4条、I991
年12月憲法第6条、1997年憲法第8条、第2007年憲法第8条など)として、変わらず「国
王の神聖不可侵」を定めるが、これは単に国王の政治的無答責を意味するのではない。


代のタイ国民にとって、国王は疑いもなく「聖性をもつ存在」であり、国王の「玉体」は
不可侵であり、これに触れることは許されないというのは、アユタヤ王朝に由来する「神
なる王」の教義が命じるタブーなのである伽)。

今日でも、王室の儀式はヒンズー教様式に
従うものが多く、たとえば、国王即位式ではバラモンによる「降神の儀礼」が執行され、これにより国王は「聖なる存在」として絶大な権威が賦与されることになる。

以上に、タイに伝統的な三つの国王観念を見てきた。ここで注意しておきたいのは、夕
イの王制においては、これらの国王観念のうちどれかーつが優越的な地位にあるわけではないということである。

これらの三つの国王観念は相互に共存し、また、融合し、習合し
た結果、タイ固有の国王概念が歴史的に形成されたのである。

そして、これらの三つの国
王観念は、とくに1932年以来のタイが西洋立憲主義を移植し、受容するに際して、不文あ
タイ憲法政治の特色と国王概念
—11—
るいは成文の「固有法」として重要な機能を果たしてきた点も留意しておきたい。

4 .文明論的にみた現代タイ君主制の意義

20世紀の君主制憲法史の中で考えると、冒頭でも述べたように、現代タイの君主制は、
第一次大戦期以降の「君主制の凋落」という一般的趨勢にもかかわらず、とくに20世紀後
半には、イギリス、オランダ、ベルギー、デンマーク、スペインなどヨーロッパ地域にお
ける立憲君主制や戦後日本の象徴天皇制にまさに匹敵する発展を遂げてきた。

いま、「文明
の衝突」(サミュエル・ハンチントン教授)の時代にあって、学問的な作業として必要なの
は、「日欧亜三点交叉」の視点を確立することだと思われる。

君主制憲法の研究分野でも、
近年における「君主制の復活」の傾向を念頭に、日欧の君主制の比較考察にとどまらず、
タイに代表されるアジア君主制の憲法史的位置付けについて、文明論・風土論的な視野を
交えて解明することが望まれる。

【注】
⑴ 小林昭三『日本国憲法の条件」(成文堂、昭和61年)15頁。拙稿「象徴君主制憲法の現代的展開一象徴的国家
元首論の観点から見た日本とスウェーデンとの比較考察一」憲法学会編『憲法研究』第38号(平成18年6月)
32頁。

⑵ カール・レーベンシュタイン『君主制』秋元律郎・佐藤慶幸訳(みすず書房、昭和32年)13頁以下。

⑶ 拙稿「『タイ式立憲君主制』の形成と特質一憲法政治史的およびアジア風土論的考察一」憲法学会編『憲法研究』
第42号(平成22年6月)176-177頁。

⑷ 長尾龍一「アリストテレスと現代」同『争う神々』(信山社、平成10年)295頁。なお、キリスト教の「絶対神」
に対応する儒教の「天」の概念については、吉川幸次郎『論語について』(講談社学術文庫、昭和51年)47頁以
下、溝口雄三•丸山松幸•池田知久編『中国思想文化事典』(東京大学出版会、平成13年)3頁以下、土田健次
郎『儒教入門』(東京大学出版会、平成23年)61頁以下など。

⑸ 村嶋英治『ピブーンー独立タイ王国の立憲革命ー』(岩波書店、平成8年)142頁以下。

⑹ 憲法体制の周期的転換という観点から、タイ憲法政治史の特色を解明したものとしては、村嶋英治「タイにお
ける政治体制の周期的転換一議会制民主主義と軍部の政治介入一」荻原宣之・村嶋英治編『ASEAN諸国の政治体
制』(アジア経済研究所、昭和62年)138頁以下。末廣昭『タイ 開発と民主主義』(岩波新書、平成5年)11-12
頁。

⑺ 今泉慎也「タイの憲法制度」作本直行編『アジア諸国の憲法制度』(アジア経済研究所、平成9年)120-121頁。

⑻ 擾原猛『君主制の比較憲法学的研究』(有信堂、昭和44年)436頁以下。西修『憲法体系の類型的研究』(成文
堂、平成9年)281頁以下。

⑼ 前掲拙稿「『タイ式立憲君主制』の形成と特質」176頁以下。
(10)前掲拙稿「『タイ式立憲君主制』の形成と特質」164-165頁。

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商経論叢第54巻第1号

(11) 吉川利治「国民統合の政治文化ータイ国王の文化論一」土屋健治編『東南アジアの思想[講座東南アジア学/第
6巻]』(弘文堂、平成2年)221-225頁。

(12) 小林昭三「“タイ魂洋才”の憲法史」同『比較憲法学・序説』(成文堂、平成11年)235頁。

(13) 小林昭三『前掲書』235頁。
(14) 中村元『インド思想史』[第2版](岩波書店、昭和43年)72-74 M〇
(15) 安田靖『タイ 変貌する白象の国』(中公新書、昭和63年)60頁。
(16) 石井米雄『上座部仏教の政治社会学一国教の構造ー』(創文社、昭和50年)266頁。
(17) 石井米雄『前掲書』267頁。
(18) 林行夫「『王』・功徳・開発一現代タイ王権と仏教一」松原正毅編『王権の諸相』(弘文堂、平成3年)157-158
頁。
(19) 林行夫「前掲論文」159頁以下。
(20) 石井米雄「タイ国王をめぐる言説」『王権と儀礼』[岩波講座・天皇と王権を考える/第5巻]』(岩波書店、平成
14 年)304 頁。
(21) 石井米雄「前掲論文」304頁。
(22) 綾部恒雄『タイ族ーその社会と文化一』(弘文堂、平成16年)77頁。初期タイ王制に影響を与えたと思われる
古代インドの選挙王制については、中村元『インド古代史(上)』[中村元選集/第5巻](春秋社、昭和38年)102-103
頁。また、中世ヨーロッパ(とくに、スウェーデン)の選挙王制については、拙著『象徴君主制憲法の20世紀的
展開一日本とスウェーデンとの比較研究一』(東信堂、平成17年)91頁以下参照。
(23) 綾部恒雄『前掲書』77 頁。Kobkua Suwannathat-Pinan, The Monarchy and Constitutional Change since
1972,Duncan MaCargo(ed.),Reforming Thai Politics(Copenhagen, Nordic Institute of Asian Studies,2002),
p. 64.
(24) 赤木攻「『王政』と正当性一タイ政治の核心一」東アジア地域研究会/赤木攻・安井三吉編『東アジア政治のダ
イナミズム』[講座東アジア近現代史5](青木書店、平成14年)124-126頁。
(25) 石井米雄「前掲論文」305頁。
(26) 石井米雄「前掲論文」305-306頁。

【追記】
本稿は、比較文明学会九州支部編『文明研究•九州(第7号)』(2013年7月30日発行)
所載の同題の拙稿に若干の加筆・修正をして再掲したものである。』