東南アジアと中東、米中新冷戦で接近するミドルパワー
編集委員 高橋徹
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD250OD0V20C22A9000000/
『30余年もの「外交空白」を埋める作業が急ピッチで進んでいる。
タイのプラユット首相がサウジアラビアを電撃訪問し、1990年から続く事実上の断交状態に終止符を打ったのが1月。以降、3月にピパット観光スポーツ相、5月はドーン外相、そして8月末にはチュリン商務相が、経済人らを伴って続々とサウジ入りした。
成果は積み上がる。両国を結ぶ直行便が32年ぶりに復活。サウジはタイ産鶏肉の輸入を解禁し、タイもサウジ人観光客のビザを免除した。サウジ中心の湾岸協力会議(GCC)6カ国とタイとの自由貿易協定(FTA)の締結に向けた協力でも合意した。
断交の発端は1989年の「ブルーダイヤモンド事件」だ。サウジ王室の門番だったタイ人労働者が、世界的に希少な50カラットのダイヤを含む2000万ドル(約29億円)相当の宝石類を盗み出し、持ち帰ったとされる。90年にはタイで事件を追っていたサウジ外交官3人が殺害された。怒ったサウジが国交を縮小し、関係が冷え込んだ。
ブルーダイヤの行方はいまも知れず、タイ当局が殺人容疑で逮捕・起訴した元警官らは2014年に証拠不十分で無罪となった。それでもサウジが国交正常化に動いたのは、15年に事実上の最高実力者となったムハンマド・ビンサルマン皇太子の存在を抜きには語れない。
16年にバンコクの国際会議へ当時のジュベイル外相を派遣したのが合図だった。外交筋によれば、19年に大阪での20カ国・地域首脳会議(G20サミット)に出席した皇太子が、同年の東南アジア諸国連合(ASEAN)議長として招かれていたプラユット氏に「リヤドに来ないか」と持ちかけたのだという。新型コロナイウルス禍を経て2年半後に実現し、雪解けが始まった。
なぜいまだったのか。皇太子は石油依存からの経済多角化を図るため、16年に策定した国家戦略「ビジョン2030」を指揮する。使えるものは使いたい野心家の37歳にとって、タイとの確執は単なる昔話にすぎないのだろう。18年に起きた自国記者の殺害事件を巡り、米欧との関係が悪化したなかで、広範な国との関係改善に目が向きやすい状況もあったようだ。
加えてGCCの盟友・アラブ首長国連邦(UAE)への対抗意識も透ける。こちらは近年、ASEANの盟主であるインドネシアへの急接近ぶりが際立つ。
ハリファUAE大統領の死去で弔問に訪れたインドネシアのジョコ大統領㊨を、弟でアブダビ首長国のムハンマド皇太子が出迎えた(5月15日、アブダビ)=via ロイター
19年にアブダビ首長国のムハンマド・ビンザイド皇太子がインドネシアを訪れ、返礼としてインドネシアのジョコ大統領も20年1月、21年11月にUAEを訪問した。今年5月に死去したハリファUAE大統領の弔問に駆けつけると、ロシアのウクライナ侵攻後、アジアの首脳で初めて両国を訪れて注目を浴びた7月も、帰路にUAEへ立ち寄った。短期間に4度もの訪問は極めて異例だ。
この間、UAEはインドネシア初の政府系ファンドへの出資や港湾開発、世界最大の浮体式太陽光発電所の建設協力を決め、ジャカルタに代わる新首都「ヌサンタラ」への投資参画にも前向きな反応を示す。7月のジョコ氏の訪問時には経済連携協定(EPA)に署名した。過去に目立つ交流がなかった両国間の経済協力が一気に深まる。
石油依存からの脱却は中東産油国に共通する課題だ(サウジアラムコの貯蔵タンク)=ロイター
東南アジアからみた中東は従来、およそ原油の買い付け先にすぎなかった。昨年のタイの原油輸入先でサウジは2位、インドネシアにとってUAEは15位。最近の関係強化を通じ、自国の製品・サービスの輸出拡大やオイルマネー呼び込みに期待が高まる。
対する中東側のメリットは何か。それは「石油の終わり」をにらんだパートナー探しであり、互いが接近を競い合う理由もここにある。
ウクライナ危機に伴う原油高で一息ついてはいるが、脱炭素の潮流は中東にとって不安でしかない。国内総生産(GDP)に占める石油産業の割合はサウジが4割、UAEが3割。経済多角化の取り組みでは、中東随一の商業都市ドバイを擁するUAEが一歩先行するものの「裏で絵を描いているのはどちらも欧米系のコンサルティング会社。戦略自体に差はない」と日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア経済研究所の斎藤純・中東研究グループ副主任研究員はいう。
必然的に、必要な人材や資本、技術は奪い合いとなる。サウジが昨年7月、GCC域内産の製品に優遇関税を適用する際の原産地規則を厳格化し、また24年1月から中東統括拠点を他国に持つ外資とは国営企業の契約を認めない方針を打ち出したのは、中東のビジネス・ハブ争奪戦のライバルであるUAEを狙い撃ちにした動きといえる。
経済多角化のパートナーでは中国が圧倒的な存在感を放ってきた。ここにきて東南アジアへ接近する背景に、過度の対中依存へのリスク認識があるのは見逃せない。
英調査会社のアジアハウスが昨年まとめた報告書によると、新型コロナウイルス禍前の19年のサウジの貿易相手として、中国は723億ドル(約10兆円)と圧倒的な首位で、UAEに対しては502億ドルでインドに次ぐ2位だった。広域経済圏構想「一帯一路」の一環で、インフラや再生可能エネルギーなどの分野を中心に中国からサウジへの投資は19年に55億ドル、UAEへは18年に80億ドルでピークに達した。
資金だけではなくヒトやモノ、技術を一括提供できるのが、中国の魅力である。
7月にサウジを訪問したバイデン米大統領㊧。サウジ人記者殺害に関わったとされるムハンマド皇太子とのあいさつの様子が波紋を呼んだ=ロイター
サウジやUAEにとり、以前は安全保障だけでなく経済でも最大のパートナーは米国だった。ところが2000年代初頭の「シェール革命」以降、米国にとって原油調達先としての中東の価値は薄れ、09年に発足したオバマ政権が中東からアジアへと外交の重心を移すきっかけとなった。その隙を埋めるように貿易・投資で台頭したのが中国だ。安保ではなお米国に依存するものの、経済は中国との関係の方がより密になった。
「民主主義VS専制主義」という国家観がぶつかるいまの米中対立下で、そんな都合のいい「政経分離」は難しくなった。サウジやUAEの安保上の最大の脅威は、非アラブの地域大国イランであり、対抗する基軸は対米協力だ。中国は昨年、イランと安保分野を含む25カ年の包括戦略協定を結んだように、米国の代わりにはなり得ない。
「対中接近で経済的な実利を追いつつ、中国カードをちらつかせて米国の関心を引くのがサウジやUAEの戦術だった。近づきすぎて対米関係を損ねては元も子もない」と中東外交筋が指摘する。ウクライナに侵攻したロシアに対し、米欧が石油より人権を優先して経済制裁に動いたことは、専制国家のサウジやUAEには衝撃だったろう。
アジアハウスによれば、GCCと新興アジア34カ国(日韓やシンガポールなどの先進国を除く)の貿易は10年の2470億ドルから19年に3360億ドルへ急増した。30年までに4800億ドルに達し、米欧や日本など先進40カ国・地域との貿易を上回ると予測する。
ただし「安保やサイバー、軍事装備品、原子力、通信など特定分野の中国との協力は、米欧などの抵抗を生む可能性がある」と同社のフレディ・ニーブ上級中東アソシエイトは指摘する。中国との関係は深めても、深入りしすぎてはいけない。米国との安保協力を中国が代替できないように、中国との経済協力を東南アジアでは取っては代われないが、「アジアとの関係多角化」を通じたリスクヘッジにはなり得る。
アジアでは中国主導の一帯一路と、米国主導の「インド太平洋経済枠組み(IPEF)」の2つの経済圏のせめぎ合いが始まった。政経一体化が進むなか、米中間のバランスに腐心するのは、インドネシアやタイも同様だ。リスク低減のため、互いに引かれ合うミドルパワー同士。米中新冷戦で地政学と地経学が重なり合っていくなかでの、新しい潮流といえるだろう。
=随時掲載
高橋徹(たかはし・とおる) 1992年日本経済新聞社入社。自動車や通信、ゼネコン・不動産、エネルギー、商社、電機などの産業取材を担当した後、2010年から15年はバンコク支局長、19年から22年3月まではアジア総局長としてタイに計8年間駐在した。論説委員を兼務している。著書「タイ 混迷からの脱出」で16年度の大平正芳記念特別賞受賞。』