旧日本陸軍の軍靴(編み上げ半長靴?)が、細部すみずみまですばらしいデザインだと激賞されている。
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『2022-8-30 にUpされたユーチューブの「You’ve never seen a boot like this WW2 Japanese boot」という動画。
旧日本陸軍の軍靴(編み上げ半長靴?)が、細部すみずみまですばらしいデザインだと激賞されている。見えないところに手間がかかっているが、素材に無駄がなく、修理し易い。
皮革は豚革を使っている。他国軍では牛が多数派なのに。豚レザーは、薄いから軽量。よって疲れない。
※いやこれどう考えても明治の「お雇い外国人」の設計だろ。というのは以下の事実列挙で納得できるはず。
イザベラ・バードは、鶴形の縁日で、羊と痩せ豚が見世物になっているのを目撃。東日本ではこれらの動物は珍しかったのだ。
福沢諭吉が緒方塾にいたころ、難波橋の牛鍋屋に頼まれて、生きた豚を、水殺してやり、その謝礼として、豚の頭をもらって、それを解剖したあとで煮て食った。
西南戦争で北海道からやってきた官軍部隊は軍靴を支給されておらず、未だ草鞋だった。
日露戦争では部隊は現地の牛豚を徴発したはいいが、誰も調理法を知らず、兵も味を好まぬので「脂肪積て山を為し内臓頭部、舌、骨等の処置に苦み至る処に放棄せられた」。
明治初年、豚コレラが東日本で猛威をふるって、半分絶えたことあり。
当初は、牛革主義だった。横須賀海軍工廠造兵部『新式皮革技術ニ関スル一資料』によると、明治4年に陸奥宗光がドイツ人技師4名を招聘し、ミネラル・タンニン法を導入。和歌山に皮革伝習所をおこし、陸軍用皮革を創製させている。素材原料は神戸牛。
日露戦争中は、大倉組のNY支店から皮革を日本へ輸出していた。
戸山学校編の明治45年の『剣術道具ノ手入保存法』によると、豚革は、毛孔が深く、3本づつ毛が配列しているので、牛と区別ができる。革で最も頑丈なのは、野猪。ついで水牛であった。
豚箱という言葉は大6-2からある。
S6時点で、学習院では、豚の屍体の試し斬りが恒例行事であった。※始めたのは明治末の乃木院長。
海軍兵学校では、棒倒し以前は「豚追ひ」だった。紅白2組で 定まった区域に生きた豚をおいこむ。一方はこれを妨害する。最後には豚は蹴り殺されてしまう。
鹿児島には幕末にすでに「豚汁」があった。
肉屋から牛豚の骨をもらってその骨ガラ・スープを子供に飲ませれば子供の背が高くなるといわれて実践した人があり、それは本当だったと。
戦間期のドイツは皮革需要の6割を輸入に頼る。その大宗は南米産。
支那事変中、戦地から負傷で一時帰ったりすると、郷里の者たちは、すきやき、豚、トリでもてなしてくれようとする。が、これは有り難迷惑だった。なぜならシナ大陸では豚と鶏はありふれており、喰い飽きていたから。兵たちはむしろ魚と野菜を欲した。
昭和24年時点でも、日本の家畜の首位は和牛で、170万頭。
朝鮮では日本占領時代、牛>豚>鶏>狗の順でよく食べられていた。
明治18年1月、三多摩壮士団は、血のしたたる豚の頭を竹槍につらぬき、あるいは鶏を竿上に懸けて銀座までデモ行進。これはシナ・朝鮮を征伐せよという寓意であった。
『三井――日本における経済と政治の三百年』によると、敗戦後の20年間は、コークス用石炭、繊維原料、皮革、獣脂、穀物、大豆は、すべて戦前の支那からアメリカに、供給元が交替した。
こうした資料から考えて、旧軍のブーツ用の豚革は、多くは大陸、一部は米国から輸入したものではなかったかと想像できる。』