〔西サハラ問題、西サハラの歴史、イベリア半島の歴史…。〕

西サハラ問題
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E3%82%B5%E3%83%8F%E3%83%A9%E5%95%8F%E9%A1%8C

西サハラの歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E3%82%B5%E3%83%8F%E3%83%A9%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

『西サハラの歴史(にしサハラのれきし)は、紀元前5世紀のカルタゴの冒険者であった航海者ハンノの時代まで遡ることができる。それ以前にも僅かに歴史的記録は見られるものの、西サハラに於ける近代的な意味での歴史のルーツはベルベル人部族の支配下にあったいくつかの遊牧民にあり、イスラム教とアラビア語の導入は8世紀からである。

西サハラ地域は現代の言葉でいう意味の「国家」を形成した経験がない。古代にはフェニキア人が植民していたが、彼らは姿を消し痕跡もほとんど残っていない。イスラム教は8世紀にこの地域に達したが、砂漠化に悩まされていたこの地域では、ほとんど発展せずにいた。

1884年にスペインはボハドール岬(スペイン語版)からブラン岬(スペイン語版)(現ヌアウディブ岬)までの海岸を保護領と主張し、この領域は後に拡張された。1958年にスペインはそれまで別個であった地区を統合してスペイン領サハラとした。

1975年の国際司法裁判所による西サハラの地位についての勧告では、一部の部族がモロッコとの歴史的な繋がりをもっているが、それは西サハラとモロッコの間に”領土主権の繋がり”をもたらすには足らないと看做していた。

この1975年の11月、非武装のモロッコ人30万人がタルファヤに集結し、国王ハサン2世の合図を待って西サハラへ進入し、緑の行進が始まった。最終的に、スペインは1975年11月14日に西サハラを手放し、スペイン人の遺体を墓から掘り出しさえもした。モロッコは1976年に実際に西サハラの北部2/3を併合し、 モロッコと同様に西サハラの領有権を主張していたモーリタニアの撤退後、1979年に残りの部分を併合した。

1976年2月27日、ポリサリオ戦線はサハラ・アラブ民主共和国建国を正式に宣言してアルジェリアに亡命政権を樹立し、モロッコに対してゲリラ戦を開始した。この西サハラ紛争は1991年の停戦まで続いた。この停戦の合意の一部として、独立かモロッコへの併合かを選択する住民投票が固有の住民の間で行われることになったものの、有権者の数が正確に把握できないため、未だ実施されていない。』

『序説

11世紀から19世紀にかけ、西サハラはブラックアフリカと北アフリカの間にあった。11世紀にサンハジャ部族連合(英語版)はラムツナ部族(英語版)と同盟し、ムワッヒド朝を立てた。ムワッヒド朝の征服範囲は大モロッコと呼ばれる、マグリブの一部を含む現在のモロッコの大部分とトレムセン(現在のアルジェリア西部)、北はイベリア半島(現在のスペイン、ポルトガル)、南はマリ帝国、ガーナ王国(現在のモーリタニアやセネガル)まで達していた。

16世紀にモロッコに成立したサアド朝は1591年にニジェール川を基盤としてたソンガイ帝国を征服した後、西サハラはマリのトンブクトゥとモロッコのマラケシュの間のキャラバン隊の戦略的交通路となり、サハラ交易が活発となった。17世紀と18世紀には奴隷貿易が一般的となった。

西サハラ地域は19世紀末の列強によるアフリカ分割についてのベルリン会議にてスペインに与えられたことにより、1884年にスペインの植民地となった。その結果、西サハラはスペイン領サハラと呼ばれることとなった。

1975年11月6日、モロッコは緑の行進を組織した。これは、非武装民間人35万人がモロッコ全土から後に南部諸州と呼ばれるようになった地域[注釈 1]へ移動するという大規模デモである。その数日前(10月31日)に、モロッコ王立軍(英語版)は北西より侵略を行っていた。この結果、スペインはモロッコとモーリタニアと共にマドリード協定に調印しこの地域を放棄した。

西サハラにはモロッコとポリサリオ戦線との間の係争地域が1975年より残っている。モロッコは歴史的な繋がりに基づく統治権を要求し、一方ポリサリオ戦線は脱植民地化と国家の独立を求めている。この係争はマンハセット交渉によって解決を保留している。

西サハラには主にアラビア語ハッサニヤ方言を話すサハラウィー人(英語版)に加えて、シルハ語(ベルベル語)を話す北部の少数民族がいる。』

レコンキスタ
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