



『◇トランプ退場で右往左往するイスラエル
11月末、イランの核開発の要であった科学者ファクリザデ氏がテヘラン郊外で暗殺された。このようなオペレーションを実行する能力と動機を有する国は他になかろうということで、直後からイスラエル諜報機関の関与が囁かれている。
イランは報復を声高に叫び、米国の政権移行が完了する前に中東で新たな戦争が始まるのではないかと一時は騒然となった。しかし当面、大きな軍事衝突には至らないだろうという見方が支配的だ。(東海大学平和戦略国際研究所・客員教授 新谷恵司)
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トランプ米大統領は、中東各国の指導者とその政策運営に極めて大きな影響を与えていた。その大統領の退場が確実になったことで、右往左往している人々がいる。その代表格はイスラエルのネタニヤフ首相であろう。バイデン氏が政権を握れば、オバマ民主党政権時代からの対イラン融和政策が復活しかねない。科学者暗殺という先制攻撃でイランをリング上に引きずり出せば、いかに平和主義者のバイデン氏といえども、制裁緩和を決定することは難しくなるという指摘には説得力がある。また、真犯人がイスラエルであれば、トランプ大統領は事前に知らされていただろうと見る向きもある。
しかし、イランはこの挑発には乗らないというのが、中東観測筋のほぼ一致した見方だ。あと数週間も辛抱すれば、バイデン政権がより親和的な政策を示すとことが分かっているのに、その可能性を摘むような「報復」を敢行することは、テロであれ、正規の軍事行動であれ、自らの首を絞めるだけだからだ。また、対岸のサウジアラビアとアラブ首長国連邦(UAE)が、この暗殺を非難する声明を出したことも、新しい時代を見据えた動きとして注目されている。「イスラム教徒の科学者の死は、イスラム共同体にとっての損失だ」と述べて、イランとの連帯を示したのは他でもないサウジの国連大使だった。
これは、今年1月に米国がイラン革命防衛隊コッズ部隊のソレイマニ司令官を殺害した時とは対照的だ。このとき、サウジ外務省は米国の作戦を非難せず、「われわれが警告してきたイランのテロ行為や、緊張の高まりの帰結だ」と嘲笑していた。実はサウジもトランプ大統領の強硬政策を頼みの綱としていた国である。時代の変化を敏感に捉えている。
◇イラン、米の融和政策転換に期待
「トランプという後ろ盾」を頼りにしていたサウジ、UAE、エジプトとバーレーンは、カタールに13項目の要求を突きつけ、断交という名の経済封鎖を実施してきた。この関係にも急激な変化が訪れようとしている。
トランプ大統領の女婿クシュナー上級顧問がサウジを訪問し、何をささやいたのかは不明だが、その直後にアラブ同胞間の仲介をしていたクウェートが、断交問題は解決する見通しになったとして、クシュナー氏の努力に感謝する声明を出した。サウジとUAEはイエメン内戦に軍事介入し、大きな人道危機が生じているが、この問題にも、おそらく展開があるだろう。米議会(民主党)や欧州の一部の国は、このアラブの富裕国が非人道的行為に武器を供与しているとして、売却しないよう求めている。
このように、米国の政権交代を前に、中東世界は失望と期待が入り混じりながら物事は急速に動き始めている。なかでもトランプ政権が一方的に核合意から脱退し、イランが対抗措置としてウラン濃縮活動を加速化させている問題は、バイデン次期政権のみならず、国際社会全体がハンドリングを誤ることのできない重要案件だ。
イランの期待は、次期米政権が対イラン融和姿勢に転換し、経済制裁を緩和することだ。バイデン氏はかねてから「核合意への復帰」を明言しているため、その祈りに似た期待は理由のないことではない。しかし、イランは欧米諸国が条約上の義務を果たしていない(制裁を課している)ことへの対抗措置として、ウラン濃縮作業を活発化させている。低濃縮ウランの貯蔵量は9月の段階で既に合意枠の10倍を超えている上、最近では、ナタンツの核施設に高性能遠心分離機3基を設置すると発表し、トロイカ(英、仏、独3国)を激怒させた。
このように、欧米の当事国とイランの間では既に信頼関係が崩壊しているため、旧来の核合意がそのまま復活する可能性は乏しい。また、トロイカは、現行の核合意がイランによる弾道ミサイル開発活動について一切言及していなかったことと、イランが中東域内において民兵組織などを通じて近隣国に安全保障上の脅威をもたらしている問題を取り扱っていなかったことは片手落ちだったとして、再交渉を求めている。
ただ、この後出しじゃんけんのような欧米の要求にイランが強く反発するのは無理もない。いったん成立した合意を誠実に実行していたのに、一方的にこれを破棄したのは米国なのだ。その上で、これまで合意順守を呼びかけてきた欧州諸国までが、新たな条件を持ち出すとは何事かと、これまで複数のイラン高官が「再交渉はしない」との立場を表明した。
元をただせば、当時のオバマ政権がレガシーづくりを急ぐがあまり、これらの肝心な問題を脇において合意成立を優先させてしまったことが、トランプ政権による一方的脱退に理由を与えたのである。
2015年にこの合意が成立した時のパラドックスを筆者は昨日のことのように覚えている。イラン側交渉責任者だったザリフ外相は鬼の首をとったかのように満面の笑みをたたえ、一方、サウジやイスラエルなどのイラン敵対国は強い言葉で失望を表明、中東の更なる不安定化を警告した。そしてその懸念は現実のものとなり、サウジの首都には、イラン製の弾道ミサイルがイエメン(イランが支援する反政府武装勢力・フーシ派)から飛来し、サウジアラムコの石油施設はドローン攻撃によって深刻な破壊に晒されてしまった。
シリアの状況もひどい。イスラエルが国境近くの「敵」を爆撃するとき、それはシリア政府軍が問題なのではない。そこに同居しているイラン革命防衛隊の兵士を含む、親イランの民兵たちが深刻な脅威をもたらしているのだ。
◇重いオバマ民主党政権のツケ
トランプ政権の外交・内政政策に世界は驚かされ続けたが、対イラン政策に限って言えば、物事の本質を見極めていたのはどちらか?ということになる。核合意はオバマ政権が安易にイランに与えた中東混乱行動への青信号だったと考えてよいだろう。その結果、中東は大いに傷んだ。それだけに、バイデン次期政権が合意への復帰を図ろうにも、それが簡単に実現する情勢にはないことに留意すべきだ。
米中東外交の民主党政権への回帰は、より根本的な問題を抱えている。エジプト政府系アルアハラム紙のイブラヒム編集長が指摘するのは、2009年、就任直後にオバマ大統領がカイロに舞い降りて行った「新しい中東」を目指す名演説の後、中東世界がどれほど破壊されたかという厳然たる事実である。
オバマ前政権は、中東の民主化を推進する立場から「穏健な」イスラム過激主義を容認した。エジプトにおいては、それはムスリム同胞団にフリーハンドを与えることと同義だ。基本的に独裁者しかいない中東で、民主政治を標榜することが何をもたらすのか?それは体制転覆、すなわち2010年末にチュニジアから野火のように広がった「アラブの春」の騒乱だった。
「革命」がチュニジア、リビア、エジプト、イエメン、そしてシリアで立て続けに起こり、独裁者は逃亡したり、逮捕されたり、リビアのカダフィ大佐のように暴徒に囲まれて惨殺された。シリアのアサド大統領も一時は敗色が濃くなったが、ロシアとイランの後ろ盾を得て復活し、反乱者たるスンニ派イスラム教徒を惨殺した。560万人以上の難民が流出し、約1200万人が住む家を追われたシリアの悲劇は、今世紀最大の人道危機として現在も続いている。またイエメンでは、内戦にサウジアラビアとUAEが軍事介入し、新型コロナが発生する何年も前から各種の伝染病や飢餓が広まるという非人道的光景が繰り広げられている。
エジプトでは、「同胞団」幹部のモルシ大統領が歴史上初めて投票箱によって選出されたが、その大統領が仮面を脱ぎ、神の名による独裁に着手したところで市民が再び立ち上がったのだと前出イブラヒム編集長は言う。そんな市民の声の後押しで軍部出身のシシ国防相(当時)がクーデターを起こし、現在のエジプトがあるわけだが、シシ政権成立の当初、オバマ政権は非常に冷たかったという恨み節である。
◇バイデン政権に求められる慎重な対応
オバマ民主党政権には、新しい中東、民主的な中東という漠然としたスローガンはあっても、政治の現実に即した確固たるビジョンが希薄だった。また、そのためか、イスラム過激主義を容認した。
そのことが、今日の中東の大混乱をもたらした原因であり、イスラム過激主義は1インチ足りとも許してはならないという基本姿勢を貫いているのがエジプト、UAE、サウジなどだ。これらの国では人道状況はさておき、比較的安定した国家運営が可能になっている。
これらはまた、奇しくもトランプ政権を後ろ盾に頼んでいた国々であり、イスラエルのネタニヤフ政権とも蜜月を共にしている。また、各国がカタールとの断交に踏み切ったのも、後者がイスラム過激主義を利用した外交政策を進めてきたことを危惧したからに他ならない。
イブラヒム編集長はコラムで、バイデン次期大統領に「中東の問題を扱う上では、これまで以上に慎重に行ってほしい」と希望した。社会経済インフラが破壊され、テロ組織との戦いも続いている、破壊し尽くされた中東世界と向き合うのは、民主党政権であれ、共和党政権であれ、非常に困難な仕事だ。
トランプ大統領は、乱暴ではあったが、中東においてはイランを含むイスラム過激主義に対して厳格で、これに対峙する独裁的色彩の濃い政権に肩入れし、一定の方向性を見せていた。確かに人権蹂躪(じゅうりん)等の問題があるが、8年間のオバマ政権の間に生来した混沌(カオス)の歯止めにはなっていた。バイデン次期政権がまさかこの路線を180度転換することはないと祈りたい。
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新谷恵司(しんたに・けいじ) 1959年生まれ。早稲田大学法学部卒。外務省勤務を経てアラビア語同時通訳者。中東情勢研究家。2016年より現職。』