攘夷思想を燃え上がらせた幕末のコレラ

※ 日本も、昔(むかし)から渡来の「感染症」と闘ってきた…。「鎖国政策」は、そういう「感染症対策」の側面も、あったのかもしれないな…。

※ 幕末の「コロリ」が、攘夷思想を燃え上がらせて、「討幕運動」を盛り上げる一因になったことは、知らんかった…。

攘夷思想を燃え上がらせた幕末のコレラ  疾病の日本史(3)
磯田道史・国際日本文化研究センター准教授に聞く
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO60970790Q0A630C2BC8000/

『江戸時代、人々を苦しめた感染症は主に5つあった。皮膚病の疥癬(かいせん)、性感染症の梅毒、はしか、天然痘と、江戸後期に海外から来たコレラだ。種痘を伝えた西洋医学を含め、感染症は海外との関係性や距離感に大きな影響を与えたといえる。

16世紀末の朝鮮出兵をきっかけに広がったのが梅毒だ。海外の性感染症が日本に入った経緯は諸説あるが、豊臣秀吉が集めた軍勢のなかでまん延し、全国に散らばった。京都のある墓所では、埋葬された男性の人骨の約半数に梅毒痕が見られたという研究もある。

その後の鎖国は、感染症の抑止に一定の効果があった。それでも、はしかは数十年ごとに流行した。有効な治療薬もなく、今回の新型コロナウイルスのように経済にかかる負担も重かった。』
『そのなかで江戸後期、1810年には画期的な予防思想が現れていた。提唱したのは甲斐出身の橋本伯寿(はくじゅ)だ。長崎で西洋医学を学び、「断毒論」をまとめた。そのなかで橋本は梅毒、天然痘、はしか、疥癬を感染症と見破り、接触や食べ物を介した感染を戒めた。さらに消毒を勧め、「伝染」という言葉まで用いていた。幕府に隔離の法制化を請願しようとしたが理解は得られず、逆に版木は一時押収された。

だが英医師ジェンナーが開発した牛痘による種痘が日本で普及し始めると、西洋医学に対する幕府の姿勢が軟化していく。蘭学医を召し抱え、江戸に種痘所を設けるなど手厚く支援しており、西洋学への信頼と期待が高まったといえよう。』
『まず1822年、原因不明の病が九州で広まった。オランダ商人が持ち込んだ感染症とわかり、「酷烈辣(これら)」「狐狼狸(ころり)」と称された。海外窓口の長崎から広まったのだ。1858年には江戸で流行し、ペリー艦隊から感染が広がったと信じられた。人々はコロリとペルリを、セットで解釈した。

西洋医学もコレラには歯が立たなかった。大坂で緒方洪庵が開いた適塾では、弟子たちが往診に奔走した。しかし有効な治療法はなく、医者自身も感染して犠牲となった。それを「討ち死に」と表現した手紙が残る。

幕府が有効な対策をとれないなか、怨恨は黒船や異国人に向けられた。開国が感染症を招いたとして、攘夷(じょうい)思想が高まる一因となったのだ。日本史を動かす大きなエネルギーになったといえるだろう。』
『現在の新型コロナ禍でも、国際的な信頼関係の揺らぎが見え隠れする。「排除の論理」が台頭するのは洋の東西を問わない。しかし多くの病を乗り越え、西洋の知識を取り入れてきた江戸時代、状況は異なるが、庶民の感染症に対する姿勢と幕府の対応から学べるものがあるはずだ。

(国際日本文化研究センター准教授、近世・近代史)

=聞き手は篠原皐佑』