IT化に遅れたツケを払う 経営者ブログ 鈴木幸一 IIJ会長
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO58926250R10C20A5000000/
『ずいぶんと昔、20年も前のことになるのだが、森政権の頃、IT戦略会議というのが発足した。小泉政権になって、毎月、全閣僚、経済界の有識者が集まっては、ITに関する議論をしていたことがある。私は、数少ない専門家として、長いことそのメンバーとなって議論に参加をしていたのだが、私の率直過ぎる意見や提案は、「へぇーっ」という感じでしか受け取られず、ほぼ、反論のない言いぱっなしのまま、ほとんどの提案は無視されるだけだった。』
『そもそも、インターネットがどのような技術で、ネット社会が何を意味するのか、コンピューター関連の経営者以外は、ほとんど理解できなかった。良識派の大企業のトップにとっては、議論の核心がなんであるのか、理解のしようがなかったのである。』
『国家がITという巨大な技術革新を積極的に利用していくという前提で、国家戦略を再構築し、その実現に向かうとすれば、世の中のあらゆる仕組みそのものが変わるわけで、いかに革命的な大きな変化が起き、民間企業もその対応は深刻なものになるかという基本的な認識に欠けていたわけで、私の提案する案など、無視を決め込むしかなかったのだろう。』
『そもそも、ITという技術革新が、いかなるものかについて、何はともあれ理解しようという精神がなかった人々にとって、国が主導する国家のIT戦略が、いかに重要な課題なのかを理解するのは難しかったのである。結果として、会議で話される内容は、スタッフが用意した、当たり障りのない文章を読み上げるといった域を出ない会議となった。』
※ 「さもありなん。」という話しだ…。
この「デジタル」とか、「IT」とかの話しで、思うことがある…。
それは、世の中の「頭のいい人」「優秀な人」の中身のことだ…。
上記でも出てきているが、「全閣僚」「経済界の有識者」「良識派の大企業のトップ」を務めている人達は、言わば「粒よりの」「頭のいい人」「優秀な人」のはずだ…。
そういう「粒よりの人材」においても、「ほとんど理解できない」「議論の核心がなんであるのか、理解のしようがない」という事態に陥るのは、なぜなのか…。どこに、問題があるのか…。そういうことを考えることこそ、「核心」なんじゃないのか…。
一つには、上記の「優秀さ」の中身が、一定の内容を「素早く」「記憶できること」に偏っている…、ということは無いのか…。
昔(むかし)、同期のやつで遅くパソコンなんかを始めたやつと関わったことがあった…。そいつは、「このパソコンって、何か文献は無いのか。それ1冊を読めば、大体のことは分かるというマニュアルみたいなものは無いのか。」って言うんだよ…。「そういうものは、無い…。それぞれについての、専門的な文献はあるがな。」そう答えると、「ちぇっ。どいつも同じこと、言うんだな…。」と舌打ち…。どうも、パソコン買った家電量販店で、店員さんに同じことを聞いたらしい…。そして、オレと同じ答えを返されたらしい…。
世の中の一般の人は、この世の中のすべてのことに「教科書」みたいなものとか、「体系書」みたいなものがあると、思っているらしい…。
そういうことは、無い…。むしろ、「教科書」や「体系書」の無いことの方が、多いんだ…。
大人になったら、「手取り足取り教えてくれたり」、毎日「宿題」を出してくれたり、「懇切丁寧に説明してくれたり」、「時々テストをやって、理解度を試してくれたり」してくれる人は、どこにもいなくなる…。
全部、自分で自らに課して行くしか無いんだ…。
そして、「記憶すべき対象」ですら、自分で「資料」の中から、抽出していく他はなくなる…。いや、まず真っ先に、そういう「資料」を見つけ出すことから、始めないとならない…。
そういう「何が重要で」「何が核心に関わること」なのかを、発見し選り分けていく行為こそが、「知的活動」の中心となる…。
誰かが「選り分けて」「整理して」「お膳立てしてくれた」ものを、素早く、効率的に「記憶する」というフェーズじゃ無いんだ…。
今般のコロナは、そういう「自ら参考資料を探し出して、抽出していける人材」と、「誰かが整理し、お膳立てしたものを記憶するだけの人材」との差異を、クッキリと炙り出して行くことになるだろう…。