※引き続き、「くすぶる火種 「中東有事」を占う10のデータ チャートは語る
【10】イランに24カ所の世界遺産、攻撃の的?」( https://r.nikkei.com/article/DGXMZO5432724011012020000000?disablepcview=&s=5 )から、考える…。

「世界遺産」が24個もあるんだそうだ…。

これは、ちょっと聞いたことが無いな…。

これは、世界史で出てきた記憶がある…。「ペルシャ帝国」時代の都だったハズだ…。「王の耳、王の目」とか、懐かしいな…。

「イスファハン」は、あまりに有名なんじゃないか…。亡き王妃だったかを、弔うために作った「廟」だったか…。違った!そっちは、「タージマハル」だ…。インドの世界遺産だ…。(「ムガル帝国の威信をかけ亡き妻のために建てた白亜の霊廟!タージ・マハル」 https://skyticket.jp/guide/123657 )

『エスファハーン(ペルシア語: اصفهان; Eṣfahān) は、イランの都市。エスファハーン州の州都。テヘランの南約340kmに位置する[1]。日本語では、慣例的にイスファハン、イスファハーンとも表記される[2]。古くからの政治・文化・交通の拠点であり[3]、16世紀末にサファヴィー朝の首都に定められ発展した。当時の繁栄は「エスファハーンは世界の半分(Esfahān nesf-e jahān ast、エスファハーン・ネスフェ・ジャハーン)」と賞賛され[4][注 1]、この街を訪れたヨーロッパの商人も繁栄の記録を残している。イラン人にとってエスファハーンは歴史的・文化的に重要な町であり[5]、町の美しさは「イランの真珠」と例えられる[6]。町は16世紀以前に建設された旧市街と、サファヴィー朝の王アッバース1世が建設した新市街で構成される。有名なイマーム・モスク(王のモスク[注 2])などがある新市街のイマーム広場(王の広場[注 2])は、ユネスコにより世界遺産に登録されている。』と言うものだ…。
どちらも、「半球状」の塔の形が特徴的なんで、混同していた…。

これも、あまり聞いたことが無いな…。

『多くの学者の説によれば、ペルセポリスの主要な用途は帝国の新年祭を執り行う場であり、諸民族からの貢納を受け取り、アケメネス朝の王権が神から与えられたことを確認する聖域であったと言われている。また、天文観測所としての機能も持っていたといわれており、暦の制定に重要な役割を持ったと考えられている。時代を経るごとにペルセポリスが実際の政治から遠ざかっていったことは、王城内部にアルタクセルクセス2世やアルタクセルクセス3世の墓が作られていることからも推察され、更に新年祭などの儀礼行為も次第にスサやバビロンに場所を移すようになってペルセポリスでは行われなくなったと言われている。にもかかわらず、ペルセポリスはアケメネス朝の滅亡の時まで首都と見なされていた。これはアケメネス朝を滅ぼしたアレクサンドロス大王に纏わる諸記録からも明らかであり、またペルセポリス攻略の際に彼は12万タラントン[4]の黄金を手に入れている。これは彼がスサで獲得した黄金の3倍にも上る量であり、これだけの財宝が保存されていたことは、アケメネス朝最末期においてもペルセポリスが重要な都市であったことを証明する。だからこそアレクサンドロス大王もわざわざこの都市を訪れ、そして破壊していったのである。
紀元前331年、アレクサンドロス大王の攻撃によって破壊され、廃墟となった。以後、この都市は今日に至るまで廃墟であるが、その壮大な遺構は残され、イスラーム時代の記録にはマルアブ・スレイマン(ソロモンの遊技場)、ハザール・ストゥーン(千の柱)、チヒル・ミナール(40の尖塔)などと言う名で言及されており、現在のイランではタフテ・ジャムジード(ジャムシードの玉座[5])の名で知られている。(「ペルセポリス」( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%B9 )』と言うようなものだ…。アレクサンドロス大王の東方遠征の時に、既に破壊されていたんだな…。
それで、こういう「世界遺産」みたいなものを保護する条約を、ネットで調べたら、3個ヒットした。
1、ハーグ陸戦条約( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B0%E9%99%B8%E6%88%A6%E6%9D%A1%E7%B4%84 )
※『第56条:市区町村の財産ならびに国に属するものといえども宗教、慈善、教育、技芸及び学術の用途に提供される建設物は私有財産と同様にこれを取扱うこと。
前述の様な建設物、歴史上の記念建造物、技芸及び学術上の製作品を故意に押収、破壊または毀損することはすべて禁止され、かつ訴追されるべきものとする。』
重要なことが、書いてある…。それは、『日本においては、1911年(明治44年)11月6日批准、1912年(明治45年)1月13日に陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約として公布された。他の国際条約同様、この条約が直接批准国の軍の行動を規制するのではなく、条約批准国が制定した法律に基づいて規制される。』と言う部分だ…。
よく誤解があるが、「国際条約」の効力は、直接に締約国の国民に及ぶものでは無い…、と言うのが通説だ。あくまでも、制約は、国家と国家の間の「約束」にとどまり、「締約」、即「その国民を制約する」と言う効力は無い…、と言うのが通説だ…。
2、「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約(仮訳)」
https://www.mext.go.jp/unesco/009/003/013.pdf
第6条
3(項) 各締約国は、第1条及び第2条に規定する文化及び自然の遺産で他の締約国の領域内に存在するものを直接又は間接に損傷するおそれがある措置を、故意にとらないことを約束する。
『1973年にアメリカが最初に条約を批准し、1975年に締約国が20か国を超え発効を迎えた。1978年には40か国以上が締約するに至った。日本は1992年6月30日に125番目の締約国として受諾書を寄託し、同年9月30日に発効した[1]。これは国内での態勢が未整備だったためとされるが、他方で世界遺産基金の分担金拠出などに関する議論が決着しなかったためとも指摘されている[2]。2016年の第40回世界遺産委員会終了時点での締約国は192か国である。』と言うようなものだ…。
世界遺産条約 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E9%81%BA%E7%94%A3%E6%9D%A1%E7%B4%84
3、「武力紛争の際の文化財の保護に関する条約」( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%8A%9B%E7%B4%9B%E4%BA%89%E3%81%AE%E9%9A%9B%E3%81%AE%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1%E3%81%AE%E4%BF%9D%E8%AD%B7%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%9D%A1%E7%B4%84 )
『第二次世界大戦では、武力による文化遺産の破壊行為のみならず、占領国が被占領国の文化遺産を強制的に買い取るという事実上の組織的略奪が行われた。文化遺産の略奪禁止は1907年に作成されたハーグ陸戦条約でも規定されていたが不十分であった。こうした反省に基づき、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の主導のもとで「武力紛争の際の文化財の保護に関する条約」が作成された。
条約は1954年5月14日にオランダのハーグで採択され、1956年に発効した。同時に「武力紛争の際の文化財保護議定書」(第一議定書)が作成された。1999年には規定が見直されて「武力紛争の際の文化財保護第二議定書」(第二議定書)が作成され、2004年に発効した。2017年10月時点で条約の締約国は129か国である[1]。2017年9月12日にイギリスが批准をし、安全保障理事会常任理事国5カ国すべてが批准をしたこととなった。
日本は1954年に条約に署名したが、保護の対象となる文化遺産と軍事目標となる施設との間に距離を置かねばならないという規定により京都や奈良の文化遺産が条約による保護(この枠組みは「特別保護制度」と呼ばれる)の対象とならない可能性があったこと、また平和憲法の下で武力紛争を前提とした条約への加盟が途惑われた等の理由により、長らく未批准にとどまっていた。しかし第二議定書において距離制限が撤廃された「強化された保護」と呼称される制度が導入されたこと等の理由により、2007年5月に国会で承認され、同年9月に批准書を寄託し117番目の締約国となった[2]。批准に伴い、国内法として武力紛争の際の文化財の保護に関する法律が制定された。』
『1990年代には、武力紛争の主要な原因が民族紛争や宗教対立へと変化したことに伴い、文化遺産は敵対する民族の象徴として、より積極的に攻撃目標とされるようになった。ユーゴスラビア紛争では、世界遺産の暫定リストに登録されていたクロアチアのドゥブロヴニク旧市街やボスニア・ヘルツェゴビナのモスクなどの文化遺産が破壊される行為も起きた。
こうした国際情勢を背景に、ユネスコでも武力紛争時の文化遺産の破壊防止の取り組みが積極的に考察され、条約の再検討の機運が高まった。こうして第二議定書が1999年に作成され、2004年に発効した。第二議定書は、締約国間の武力紛争時のみならず平時および非国際的武力紛争にも適用される。また、強化保護、刑事責任と管轄権、国際援助の枠組み等に関しても規定された。』 と言うようなものだ…。
「トランプ大統領、イラン文化施設への攻撃に改めて言及」(2020.01.06 Mon posted at 13:04 JST)
https://www.cnn.co.jp/usa/35147629.html 『トランプ米大統領は(※1月)5日夜、米国がイランを攻撃する場合、同国の文化施設を標的とする可能性に改めて言及した。休暇先のフロリダ州から首都ワシントンへ戻る大統領専用機内で、同行記者団に語った。
トランプ氏は「イランが米国人を殺し、拷問して重傷を負わせ、路肩に爆弾を仕掛けて吹き飛ばす行為は許されるのに、私たちはイランの文化遺産に手を触れてはいけないのか。そういうわけにはいかない」と発言した。
司令官殺害でイラン側が報復する可能性を問われると「起きる時は起きる」と返答。イランが何らかの動きに出れば大規模な報復で対抗すると、改めて警告した。』
「アメリカによるイラン文化施設攻撃を牽制。ICOMやゲティ財団が声明」(2020.1.7)
https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/21144
『トランプ大統領は4日、米軍によるイランの司令官殺害に対し、イランが報復に出れば52の目標を攻撃すると発表。によると、5日夜にもアメリカがイランを攻撃する場合、イランのの文化施設を標的とする可能性について改めて言及したという。
この状況に対し、ユネスコはアズレー事務局長がイランの担当大使と会談。アメリカとイラン両国が武力紛争時の文化財保護条約と世界文化遺産および自然遺産の保護に関する条約を批准していることを指摘するとともに、アメリカは2017年の国際連合安全保障理事会における文化財保護のための決議にも署名していることにも言及。文化遺産と自然遺産が対話の媒介となることを強調したという。
またアメリカのゲティ財団は、理事長ジェームス・キュノの名義で「Getty Stands against Threats to Cultural Heritage」とした声明を発表。アメリカの名前は出していないものの、「今日、文化遺産のさらなる破壊について脅威があることは悲劇だ」とし、文化財について「私たちはその存在を祝福し、保護を強化し、国際法を強化するために働き、世界の古代文化について、よりきめ細かい理解に向かうべきだ」と暗にアメリカの攻撃を牽制している。
加えて、世界各地の美術館・博物館関係者4万人以上が加盟する、世界で唯一のグローバルな博物館組織ICOM(アイコム、国際博物館会議)は6日、「ICOMとICOMOS(国際記念物遺跡会議)は、文化遺産の意図的な破壊を共同で強く非難する」という声明を発表。このなかで武力紛争の際の文化財の保護に関する条約(1954年ハーグ条約)に触れつつ、次のように指摘した。「我々はすべての当事者に対し、宗教的信念または政治的意図にかかわらず、武力紛争を支配する国際協定を尊重し、世界の文化遺産がどこにあってもそれを保護することを求める」。』
※ 条約を「批准」したところで、何か強制的な遵守義務みたいなものが生じるわけでは無い…。「世界政府」は、未だ成立していないし、「主権国家」のその「領土」内における「国家による強制力」を、超えるようなものは、成立していない…。「各国」の「自制」による程度のものなんだ…。
だから、トランプ氏が、「アメリカは、国際的な条約上の約束よりも、米国人の生命を守ると言う価値の方を優先する。世界遺産の保護と言うことには、限界があってしかるべきだ!米国人の生命の前には、優先順位は、ずっと低いものだ!」と言って、米国民も「そうだそうだ!いいぞ、トランプ!」とか賛成すれば、それまでの話しだ…。
国際法上の「義務」とか言うものは、その程度のものなんだ…。