【追悼】ジャズの巨匠「ウェイン・ショーター」

【追悼】ジャズの巨匠「ウェイン・ショーター」 LAの自宅に何枚もあった肖像画に描かれていた人は
https://www.dailyshincho.jp/article/2023/03111000/?all=1

 ※ 今日は、こんな所で…。

 ※ ウエザー・リポートの解散後、ザビヌエルとショーターは、何枚かのアルバムをリリースしている。

 ※ オレが、聞いたもの(CD)を、貼っておく…。

 ※ 聞いた感想は、「ウエザー・リポートは、唯一無二のバンドだったな…。」「ウエザーの前にウエザー無く、ウエザーの後にウエザー無し…。」

 ※ それでも、ショーターの2枚は、「中くらいの名作」だとは、思う…。

 ※ 大体、「フュージョン・シーン」なるものは、1990年代に「崩壊」してしまっているような状況だ…。

『日本では、ジャズをメインテーマとしたアニメ映画「BLUE GIANT」のヒットが話題となっている中、世界的なジャズ・プレイヤー、ウェイン・ショーターの訃報が伝えられた。長年にわたって第一線で活躍してきたレジェンドだが、私生活では事故で妻を亡くした失意の時期もあった。ちょうどその頃、自宅でのインタビューをしたという音楽ライターの神舘和典氏に、当時の様子や発言、そして彼の偉業について寄稿してもらった。

 ***

【貴重写真で振り返る】ビートルズを始めて取材した日本人が明かす「4人の秘話」

 サクソフォンプレイヤーで、作曲家、ウェイン・ショーターが、3月2日にアメリカ、ロサンゼルスの病院でこの世を去った。89歳だった。

 ウェインはグラミー賞を13回受賞したジャズのレジェンド。1950年代から半世紀以上、第一線で活躍し続けた。最初に注目されたのは、アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ在籍時。ずば抜けた演奏能力と作曲能力で、オーケストラの音楽監督になった。

 1959年には初リーダー作「イントロデューシング・ウェイン・ショーター」を発表。そして、マイルス・デイヴィス(トランペット)のグループに参加。メンバーは、トニー・ウィリアムス(ドラムス)、ロン・カーター(ベース)、ハービー・ハンコック(ピアノ)そして、ウェインとマイルス。この時期が“帝王”マイルスの黄金期と言われている。強力なメンバーのなかでウェインは次々と新曲を生み出し、マイルスもリスナーも驚愕させた。

 そして1970年、ジョー・ザビヌル(キーボード)らとジャズ・フュージョンを象徴する伝説のバンド、ウェザー・リポートを結成。「ウェザー・リポート」「ブラック・マーケット」など名アルバムを録音した。その後は、自分のクインテットやハービーとのデュオで、活動をしてきた。

飛行機事故で妻を亡くす

 ウェインに初めてインタビューしたのは1999年。取材を申し込むとロサンゼルスの自宅に招いてくれた。当時、ウェインは活力を失っていると言われている時期だった。

 1996年にウェインは飛行機の墜落事故で妻、アナ・マリアを失っている。アナはサプライズでウェインのツアー先を訪れようとして、事故に遭った。それ以降外出を好まなくなったとうわさされていたのだ。

 余談になるが、ウェインのインタビューの1か月前、サックスプレイヤーのブランフォード・マルサリスにニューヨークでインタビューした。そのときブランフォードに「ウェインに会ったら、僕の気持ちだと言って抱きしめてほしい」と言われた。ブランフォードは「レクイエム」というアルバムで、ウェインに捧げる「サウザンド・オータムズ」という曲をレコーディングしている。最愛の人が亡くなったとき、亡くなった本人と、残された者、どちらが多くの苦しみを背負うのか――。そのテーマを“千の秋”と表現して演奏した。』

『マイルス・デイヴィス、ジャコ・パストリアスについて

 当時のウェインの自宅があったのはハリウッドの近く。サウンドシティという緑豊かな街の小高い丘の上だった。恐る恐るインターフォンを押す。すると思いもよらず、2階のほうで大きな返事が響いた。勢いよく玄関ドアが開き、満面の笑みのウェインが迎えてくれた。ブランフォードの話とは様子が違う。千の秋のイメージとはほど遠い、子どものような笑顔だった。

 仕事部屋に通されると、何十メートルもの、巻紙のような譜面を見せられた。大作だ。

「ロサンゼルスとニューヨークのフィルハーモニーとジャズミュージシャン、総勢100人で演奏するために書いた譜面だよ。2000年のメモリアルに間に合うように、今は毎朝3時から16時間仕事をしている。これはジャズともクラシックとも違う、新しい音楽だよ」

 ウェインは胸を張った。彼が自宅にこもっているのは悲しみのせいではなく、創作に没頭しているからだと思った。こんな大作をつくっていたら、家からは出られない。

 部屋の壁には、マイルスのクインテットにいたときの写真やウェザー・リポート時代の写真が飾られていた。その1枚1枚をていねいに説明してくれた。

 マイルスの写真を見ながら言った。

「できると自分で思えたら、それは絶対にやれる。誰がなんと言おうとやれる。それをマイルスから僕は教えられた。マイルスはいつも僕にひと言だけ言った。やれ! とね」

 ウェザー・リポートの写真を見ながらも言った。

「世の中にいるすべてのベーシストの中で最高なのはジャコ(ジャコ・パストリアス)だ」

 ラックには、レーザーディスクがぎっしり。

「子どものころ、僕は映画の仕事に就きたかった。でも、あのころ、映画界は黒人にとっては狭き門だった。だから、僕は仲間がたくさんいる音楽の世界に入った。今でも僕は映像に思いがある。音楽で映像のような世界をつくり上げたい。ちょうど『スター・ウォーズ』がそうであるように、永遠につづくストーリーをつくりたい」

 ウェインの音楽は立体的に響く。音が景色を描き、物語を感じさせる。その理由がわかった気がした。ちょうどその前日、近くのチャイニーズ・シアターで、「スター・ウォーズ エピソード1 ファントム・メナス」が世界に先駆けて公開されていた。

 映像のような音楽――ウェインがサクソフォンを選んだ理由もそこにあった。

「トランペット、ストリングス、木管楽器、肉声……。そのすべてを1つの楽器で表現できないだろうか。オーケストラに近い響きにならないだろうか。その思いで、アドルフ・サックスという人がつくった楽器がサクソフォン。だから、僕はこの楽器を選んだ。音楽を奏でるとき、僕は僕自身が主人公の物語の映画監督で、プロデューサーで、主演男優。そのためには、サクソフォンが必要だった」

部屋の中にあった肖像画

 ウェインに会うと、とてもシャイな印象を受ける。しかし、なにかのきっかけでスイッチが入ると、とても陽気になり、饒舌になる。あの日も、部屋の中を歩き回り、話し続けた。

 帰り際、玄関横の部屋のドアが半開きになっていた。何枚かの油絵が見えた。僕の目線を察したウェインが、部屋に案内してくれた。そこには何枚もの画が置かれていた。描きかけもあった。すべて肖像画。同じ女性が描かれている。アナ・マリアだった。

「全部僕の妻。写真を見て描いた」

 そう言って、ウェイン・ショーターは静かに笑った。

神舘和典(こうだてかずのり)
1962(昭和37)年東京都生まれ。ライター。音楽をはじめ多くの分野で執筆。『墓と葬式の見積りをとってみた』『新書で入門 ジャズの鉄板50枚+α』など著書多数。

デイリー新潮編集部 』

いま、ウクライナの国家指導部は、作曲家のチャイコフスキーをどう扱うべきかで、悩んでいる。

いま、ウクライナの国家指導部は、作曲家のチャイコフスキーをどう扱うべきかで、悩んでいる。
https://st2019.site/?p=20946

『Rostyslav Khotin 記者による2023-3-4記事「The Rumble Over Russian Composer Tchaikovsky At An Elite Ukrainian Conservatory」。

   いま、ウクライナの国家指導部は、作曲家のチャイコフスキーをどう扱うべきかで、悩んでいる。

 じつはチャイコフスキーは、ひいじいさんがウクライナのクレメンチュク出身。もちろんロシアの作曲家だと世界的にも認定されている。ならば「チャイコフスキー国立音楽大学」は「キーウ音楽大学」に改称するべきなのか?

 「非ロシア化」は開戦後に各都市で実行されている。たとえばプーシキンの銅像は複数が撤去されている。

 もともと音大の創設時には「キエフ音大」だったのである。それは1863年だった。
 それが1940年に、「チャイコフスキー国立音楽大学校」と改名された。チャイコフスキーの生誕百周年だった。

 今回の改名問題は、中国と関係がある。じつは中国には、「チャイコフスキー国立音楽院」の海外キャンパスがあるのだ。
 そして中国人の音大学生たちの間では、「チャイコフスキー音楽院」の名前に、「モスクワ音楽院」と並ぶステイタスがあった。
 その名前が「キーウ音大」に変われば、中国人学生から見たときの、学校の価値が下がってしまう。

 中国人の学生があつまらなくなれば、本校の収益とステイタスに悪影響があるだろう。さりとて、露軍を後援している中国人にそんな気兼ねをしている場合かという非難もあるだろう。というわけで、ウクライナの文化大臣は、悩みちゅう。

 チャイコフスキーは、生涯に二度だけ、キエフにやってきたことがある。1890と1891だ。そこで地元の作曲家のミコラ・リセンコに会い、サンクトペテルスブルグの劇場でリセンコ作のオペラ「タラス・ブーリバ」を上演しないかと働きかけた。だがリセンコが、歌詞と台詞をロシア語に直すことを拒否したために、この企画は実現しなかった。

 チャイコフスキーの第二交響曲は、別名「ウクライナ交響曲」という。ウクライナ民謡のモチーフが使われているので。当時のロシア人は、ウクライナのことを「小ロシア」と呼び、この第二交響曲も、そのように呼ばれていた。

 チャイコフスキーのオペラ「マゼッパ」は、プーシキンのロシア帝国主義むきだしの詩作「ポルタワ」に基づいている。ウクライナのコサックにイワン・マゼッパという親分がいたのは史実である。

 しかしチャイコフスキーがパトロンのフォン・メックに宛てた1878の書簡では、じぶんは全きロシア人だと強調している。1891の知人宛ての手紙でも、同様に。

 なお、日本の複数のプロ交響楽団は、チャイコフスキーの『1812序曲』の演奏を、今次開戦以降は、拒否し続けている。』

ロンドンのウェンブリー・スタジアムにこの夏(6月24日)、ローリングストーンズ、U2などのビッグネームがあつまる。

ロンドンのウェンブリー・スタジアムにこの夏(6月24日)、ローリングストーンズ、U2などのビッグネームがあつまる。
https://st2019.site/?p=20946

『Amelia Wynne 記者による2023-3-6記事「The Rolling Stones, Pink and U2 to perform at ‘Lviv Aid’: A-list music stars ‘asked to take part in Live Aid-style concert for Ukraine at Wembley this summer to pile pressure on Putin’」。

   ロンドンのウェンブリー・スタジアムにこの夏(6月24日)、ローリングストーンズ、U2などのビッグネームがあつまる。1985の「ライヴエイド」のスタイルのチャリティで、収益をウクライナ難民の救恤に投ずるのだ。

 テレビ中継もされる予定。
 この第一報は『ザ・サン』紙である。

 1985の「ライブ・エイド」も同じコンサート会場だった。このときはエチオピア飢饉災害の救恤金を募ったのである。』

ウェザー・リポート

ウェザー・リポート
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%88

 ※ 今日は、こんな所で…。

『ウェザー・リポート(Weather Report)は、ジョー・ザヴィヌルとウェイン・ショーターの2人が中心になり、1970年に結成されたエレクトリック系サウンドをメインとしたアメリカのジャズ、フュージョン・グループである。 

概略

結成まで

ジョー・ザヴィヌルとウェイン・ショーターは1959年のメイナード・ファーガソン・ビッグ・バンドに2人とも在籍していたことがあり、その後、ジョー・ザヴィヌルはキャノンボール・アダレイのグループに加入した。ウェイン・ショーターは第2期マイルス・デイヴィス・クインテットに加し、1963年から1970年までマイルス・デイヴィス・グループに在籍、アコースティック・サウンド時代からエレクトリック・サウンド時代まで関与していた。

一方のジョー・ザヴィヌルは1969年のアルバム『イン・ア・サイレント・ウェイ』で、マイルスがジャズに初めてエレクトリック・サウンドを導入した作品に「イン・ア・サイレント・ウェイ」という曲提供及びオルガン奏者で参加し、1970年のアルバム『ビッチェズ・ブリュー』では「ファラオズ・ダンス」という曲提供及びエレクトリック・ピアノでチック・コリアと共に参加するなど、ジャズに対して積極的にエレクトリック・サウンドが導入され始めた時期に、新しいジャズ・サウンドの構築などで貢献し、その時期にウェイン・ショーターとスタジオで再会することになった。

その2人が1970年に自分らのグループを結成する運びとなり、ドラマーにアルフォンス・ムゾーン、パーカッショニストにアイアート・モレイラとドン・ウン・ロマン、ベーシストにミロスラフ・ヴィトウスを迎えて結成された。

初期の作品はマイルス・デイヴィスの『ビッチェズ・ブリュー』の延長線上にあり、それを意識したサウンドになっていた。デビュー・アルバムの『ウェザー・リポート』はアコースティックベースと生楽器が主体でシンセサイザーはまだ使用せず、後の作品に比べるとソフトなサウンドが聴ける作品で、『ダウン・ビート』誌では1971年の「アルバム・オブ・ザ・イヤー」の栄誉を与えられるなど、注目を集めた作品になっていた。

セカンド・アルバムの『アイ・シング・ザ・ボディ・エレクトリック』からはシンセサイザーやサウンド・エフェクト類が多用されるようになった。そして、このアルバムの一部分には日本公演時のライブ演奏テイクが使われていて、後に2枚組の『ライヴ・イン・トーキョー』としても日本公演時の音源は発売されることとなった。

ファンク・グルーヴの導入

アルバム『スウィートナイター』の時期から、ウェザー・リポートのサウンドにファンク・グルーヴの要素が採り入れられるようになり、ミロスラフ・ヴィトウスもアコースティックベースに加えてエレクトリックベースも頻繁に使うようになり、曲によってはインプロヴィゼーション・セクションになると曲中でエレクトリックベースに持ち替えるなど、1曲の中でも多彩なサウンドを要求されるようになってきた。

ウェイン・ショーターは以前、自分のアルバム『ノン・ストップ・ホーム』の最後の曲で、当時チャック・マンジョーネ・グループに居てフレットレス・エレクトリックベースを弾いていたアルフォンソ・ジョンソンに参加してもらったことがあり、そのベース・サウンドをウェザー・リポートでも活かしたいと思い、彼をウェザー・リポートに呼び入れることにしたため、1974年のアルバム『ミステリアス・トラヴェラー』制作途中でベーシストがミロスラフ・ヴィトウスからアルフォンソ・ジョンソンへと交代することになり、新たなグルーヴとサウンドがもたらされた。

固定ドラマーの不在

ファースト・アルバムの『ウェザー・リポート』から『ヘヴィ・ウェザー』までの8年間、ウェザー・リポートにとっては、ほぼ1年ごとにドラマーが変わってしまうなどウェザー・リポートに定着したドラマーを探すことが困難な時期でもあった。

初代ドラマーのアルフォンス・ムゾーン、エリック・グラヴァット、グレッグ・エリコ、イシュマエル・ウィルバーン、スキップ・ハデン、ダリル・ブラウン、レオン・チャンクラー、チェスター・トンプソン、そしてアレックス・アクーニャなど、ジャコが1978年にピーター・アースキンを見つけてくるまでの間には目まぐるしくドラマーが交代する状況が続いていた。

そしてピーター・アースキンとオマー・ハキムだけが3年以上在籍したドラマーとなるなど、ウェザー・リポートにとってはドラマーとの組み合わせが難しい一面もあった。

中期のウェザー・リポート

ウェザー・リポートがブレークする切っ掛けとなった1974年の『ミステリアス・トラヴェラー』の時期、アコースティック・ベースの代わりにエレクトリックベースがほぼ全曲で使用されるようになっていたが、ジョー・ザヴィヌルによるシンセサイザーも多用されるようになってきたため、宇宙的で幻想的なサウンドも目立つようになってきた。

このアルバムではそういった新しいジャズへのアプローチが評価され、再び『ダウン・ビート』誌の「アルバム・オブ・ザ・イヤー」の栄誉を得るなどの評価を得ていた。

1975年のアルバム『テイル・スピニン (幻祭夜話)』の頃には、シンセサイザーの技術革新や新機種の登場などにより一層シンセサイザーの比重が高まっていたが、このアルバムでは他のアルバムにはないほど、ウェイン・ショーターのサックス・ソロがフィーチャーされたアルバムにもなっていて、このアルバムでも『ダウン・ビート』誌の「アルバム・オブ・ザ・イヤー」の栄誉を得ることになった。

ジャコ・パストリアス加入

ファンキーなベース・リフを弾いていたアルフォンソ・ジョンソンに代わり、1975年に自身のソロ・デビュー・アルバムを発表したばかりのジャコ・パストリアスが、翌1976年のアルバム『ブラック・マーケット』の制作後半から参加し、ジャコも「バーバリー・コースト」を提供した。

また、アルバム全体でファンク・ジャム・セッションが繰り広げられていて、よりオリエンタルなメロディー・ラインへと変わっていった。

その後、『ブラック・マーケット』ではパーカショニストとして参加していたチェスター・トンプソンに代わり、プエルトリコ出身のマノロ・バドレーナを迎え入れ、またアレックス・アクーニャがドラマーとなった。

1976年のモントルー・ジャズ・フェスティバルへの出演なども含めて、ウェザー・リポートは頂点の時期を迎え始めることとなった。

1977年のアルバム『ヘヴィ・ウェザー』ではジャコのベース・ソロとドラミングが炸裂する「ティーン・タウン」が収録され、一躍ベーシストからの注目を集めることとなり、「バードランド」ではベースによるピッキング・ハーモニクスなどの斬新な手法でリフを弾くなど、ポップなサウンドはジャズ・ファン以外にもフュージョン・ファンへも層を広げ、支持されるようになっていった。

『ヘヴィ・ウェザー』発売後、ドラマー及びパーカショニストとして在籍していた アレックス・アクーニャとパーカショニストのマノロ・バドレナがグループを離れてしまい、一時期メンバーは過去最少の3人になってしまう。

そして1978年のアルバム『ミスター・ゴーン』では、まだ正式メンバーになる前のピーター・アースキンと、トニー・ウィリアムス、スティーヴ・ガッドらの参加で、当時のフュージョン界でのトップ・ドラマー参加などでも話題を呼び、アルバム・サウンドの方はジョー・ザヴィヌル色が強いシンセ・サウンドとシークエンスが多用されたものになったが、ジャコは「パンク・ジャズ」という曲を提供し、コンポーザーとしての存在感も徐々に示すようになっていた。

ワールド・ツアー

ピーター・アースキンが正式加入して4人編成となったウェザー・リポートは、この時期になると世界各国へのツアーに出るようになり数多くのライブをこなすグループになっていた。

1979年には、アメリカ公演などから厳選されたテイクが2枚組LPとなったアルバム『8:30』に収められ、LPの4面目には最新のスタジオ録音が入っていて、ライブ盤とスタジオ盤での差が余りないアンサンブルとなっていった。

ハバナ・ジャム

1979年の3月2日から3月4日にわたってキューバで行われたハバナ・ジャム (Havana Jam) に出演することになり、この大規模なイベントにアメリカ側からは、スティーヴン・スティルス、CBS ジャズ・オールスターズ (CBS Jazz All-Stars)、トリオ・オブ・ドゥーム、ファニア・オールスターズ、ビリー・スワン (Billy Swan)、ボニー・ブラムレット (Bonnie Bramlett)、マイク・フィネガン (Mike Finnegan)、クリス・クリストファーソン、リタ・クーリッジ、ビリー・ジョエルらが参加し、キューバ側からも、イラケレ、パッチョ・アロンソ (Pacho Alonso)、タータ・ギネス (Tata Güines)、オルケスタ・アラゴン (Orquesta Aragón)などが参加していて、共産圏で行われた初の共同イベントとして歴史的な物となった。

この模様はカステラノス (Ernesto Juan Castellanos) によって『ハバナ・ジャム ’79 (Havana Jam ’79)』として記録されている。そして、ウェザー・リポートの黄金期と言われている1976年から1981年の間は世界各地の大規模なジャズ・フェスティバルへ参加することが多くなり、ウェザー・リポートが出演するとなると観客動員数も鰻登りになる人気を誇っていた。

ナイト・パッセージ

アルバム『ナイト・パッセージ』発売前年の1981年ワールド・ツアーではパーカショニストにロバート・トーマス・ジュニアが参加して再び5人編成になり、グループとしてもメンバー各々の実力が均衡してきたため、脂がのりきった状態になっていた。

1981年のツアーでは未発売の曲が大半を占めていて、それらの曲は次作アルバム収録曲のリハーサルも兼ねていた。1982年、『ナイト・パッセージ』の制作は、ロサンジェルスにあったA&Mスタジオ の体育館のように巨大なルーム・サイズを持つAスタジオで行われ、クインシー・ジョーンズなどの音楽業界人も含む沢山のオーディエンスが居る状態でスタジオ・ライブ・レコーディングされたため、1981年のツアーは未発表曲のお披露目的意味合いもあったが、「マダガスカル」だけは、大阪フェスティバル・ホールで収録されたコンサート音源がそのままアルバムにも採用されることになった。

黄金期 – 解散まで

アルバム『ウェザー・リポート’81』が発売される前年の1981年暮れには、黄金期を築いたメンバーだったジャコ・パストリアスが自己のバンド結成のために脱退することになり、それに続きピーター・アースキンもジャコのバンド加入のため脱退してしまった。

ジャコは自分のバンド以外にもジョニ・ミッチェルのアルバムやツアーをこなすなど、多方面で活躍するようにもなっていた。

そして、ウェザー・リポートは新たなリズムセクションとしてオマー・ハキムとヴィクター・ベイリーを迎えて活動を続けることになった。

そのころから世界的にはジャズ/フュージョンに対して1970年代後半のような盛り上がりを見せなくなってきており、混迷する時代へと入っていった時期でもあった。

当然、ウェザー・リポートの音楽性もそれに応じて様々に変化し、ゲスト・ミュージシャンに「バードランド」を自分たちのアルバムでもカバーしていたマンハッタン・トランスファーを招くなど、よりポップな路線も見せ始め、新たなリズム・セクションによりジャズ面よりもフュージョン面が押し出たサウンドになっていった。

そして、1986年、ジョー・ザヴィヌルとウェイン・ショーターが、新たなサウンドを求めてそれぞれのバンドを作ることとなり、ウェザー・リポートは解散することとなった。

レコーディング・メンバー

担当楽器 担当者 原語表記 所属時期 参加アルバム
キーボード ジョー・ザヴィヌル Joe Zawinul 1971年-1986年 全作品
サックス ウェイン・ショーター Wayne Shorter 1971年-1986年 全作品
ベース ミロスラフ・ヴィトウス Miroslav Vitouš 1971年-1974年 Weather Report 1971, I Sing The Body Electric, Live in Tokyo, Sweetnighter, Mysterious Traveller
アルフォンソ・ジョンソン Alphonso Johnson 1974年-1976年 Mysterious Traveller, Tale Spinnin’, Black Market
ジャコ・パストリアス Jaco Pastorius 1976年-1982年 Black Market, Heavy Weather, Mr. Gone, 8:30, Night Passage, Weather Report 1982
ヴィクター・ベイリー Victor Bailey 1983年-1986年 Procession, Domino Theory, Sportin’ Life, This is This
ドラムス アルフォンス・ムゾーン Alphonse Mouzon 1971年 Weather Report 1971
エリック・グラヴァット Eric Gravatt 1972年-1973年 I Sing The Body Electric, Live in Tokyo, Sweetnighter
イシュマエル・ウィルバーン Ishmael Wilburn 1974年 Mysterious Traveller
レオン・チャンクラー Leon ‘Ndugu’ Chancler 1975年 Tale Spinnin
チェスター・トンプソン Chester Thompson 1976年 Black Market
アレックス・アクーニャ Alex Acuña 1976年-1977年 Heavy Weather
ピーター・アースキン Peter Erskine 1978年-1982年、1986年 Mr. Gone, 8:30, Night Passage, Weather Report 1982, This Is This
オマー・ハキム Omar Hakim 1983年-1986年 Procession, Domino Theory, Sportin’ Life, This Is This
パーカッション アイアート・モレイラ Airto Moreira 1971年 Weather Report 1971
ドン・ウン・ロマン Dom Um Romão 1972年-1974年 I Sing The Body Electric, Live In Tokyo, Sweetnighter, Mysterious Traveller
アリリオ・リマ Alyrio Lima 1975年 Tale Spinnin
アレックス・アクーニャ Alex Acuña 1975年 Black Market, Heavy Weather
マノロ・バドレーナ Manolo Badrena 1976年-1978年 Heavy Weather, Mr. Gone
ロバート・トーマス・ジュニア Robert Thomas Jr. 1980年-1982年 Night Passage, Weather Report 1982
ホセ・ロッシー Jose Rossy 1983年-1984年 Procession, Domino Theory
ミノ・シネル Mino Cinelu 1985年-1986年 Sportin’ Life, This Is This

主なゲスト・ミュージシャン

アルフィー・サイラス (Alfie Silas) - ボーカル
アンドリュー・ホワイト (Andrew White III) - ベース、Eホーン
バーバラ・バートン (Barbara Burton) - パーカッション
ボビー・マクファーリン (Bobby McFerrin) - ボーカル
キャノンボール・アダレイ (Cannonball Adderley) - アルトサックス
カール・アンダーソン (Carl Anderson) - ボーカル
カルロス・キャベリーニ (Carlos "Omega" Caberini) - ボーカル
カルロス・サンタナ (Carlos Santana) - ギター
チャップマン・ロバーツ (Chapman Roberts) - ボーカル
チック・コリア (Chick Corea) - エレクトリック・ピアノ
コリーン・コイル (Colleen Coil) - ボーカル
ダリル・ブラウン (Darryl Brown) - ドラム
ダリル・フィネシー (Darryl Phinnessee) - ボーカル
デイヴ・ホランド (Dave Holland) - アコースティックベース
ディー・ディー・ベルソン (Dee Dee Bellson) - ボーカル
デニース・ウィリアムス (Deniece Williams) - ボーカル
ドン・アライアス (Don Alias) - パーカッション
エリッヒ・ザヴィヌル (Erich Zawinul) - パーカッション
グレッグ・エリコ (Greg Errico) - ドラム
ハービー・ハンコック (Herbie Hancock) - エレクトリック・ピアノ
ハーシェル・ドゥウェリンガム (Herschel Dwellingham) - ドラム
ヒューバート・ロウズ (Hubert Laws) - フルート
ジャック・ディジョネット (Jack Dejohnette) - ドラム
ジョン・マクラフリン (John McLaughlin) - ギター



ジョン・ルーシェン (Jon Lucien) - ボーカル
ジョシー・アームストロング (Joshie Armstrong) - ボーカル
マンハッタン・トランスファー (The Manhattan Transfer) - ボーカル
モーリス・ホワイト (Maurice White) - ボーカル
マルンゴ (Marungo) - Israeli Jar Drum
マーヤ・バーンズ (Marva Barnes) - ボーカル
マイルス・デイヴィス (Miles Davis) - トランペット
ムルガ・ブッカー (Muruga Booker) - パーカッション
ナラダ・マイケル・ウォルデン (Narada Michael Walden) - ドラム
ナット・アダレイ (Nat Adderley) - コルネット
ラルフ・タウナー (Ralph Towner) - 12弦ギター
レイ・バレット (Ray Barretto) - パーカッション
ロイ・マッカーディ (Roy McCurdy) - ドラム
サイーダ・ギャレット (Siedah Garrett) - ボーカル
スキップ・ハデン (Skip Hadden) - ドラム
ソニー・シャーロック (Sonny Sharrock) - ギター
スティーヴ・ガッド (Steve Gadd) - ドラム
トニー・ウィリアムス (Tony Williams) - ドラム
ウォルター・ブッカー (Walter Booker) - アコースティックベース
ウエスト・ロサンゼルス・クリスチャン・アカデミー・チルドレンズ・クワイア (West Los Angeles Christian Academy Children's Choir) - ボーカル
ウィルマー・ワイズ (Wilmer Wise) - Dトランペット、ピッコロ・トランペット
ヨーランド・バヴァン (Yolande Bavan) - ボーカル

コンサートツアー時のメンバー変遷

1981年6月11日、新宿厚生年金会館
画像左から Wayne Shorter, Peter Erskine, Robert Thomas Jr., Jaco Pastorius
年 キーボード サックス ベース ドラムス パーカッション
1971年 ジョー・ザヴィヌル ウェイン・ショーター ミロスラフ・ヴィトウス アルフォンス・ムゾーン ドン・ウン・ロマン
1972年 エリック・グラヴァット
1973年 グレッグ・エリコ
1974年 アルフォンソ・ジョンソン ダリル・ブラウン
イシュマエル・ウィルバーン
スキップ・ハデン 不在
1975年 チェスター・トンプソン アレックス・アクーニャ
1976年 ジャコ・パストリアス アレックス・アクーニャ マノロ・バドレーナ
1977年
1978年 ピーター・アースキン 不在
1979年
1980年 ロバート・トーマス・ジュニア
1981年
1982年 ヴィクター・ベイリー オマー・ハキム ホセ・ロッシー
1983年
1984年 ミノ・シネル
ディスコグラフィ
アルバム
アルバム・タイトル 原題 発売年 種類
ウェザー・リポート Weather Report 1971年 スタジオ・アルバム
アイ・シング・ザ・ボディ・エレクトリック I Sing the Body Electric 1972年 スタジオ + ライブ・アルバム
スウィートナイター Sweetnighter 1973年 スタジオ・アルバム
ミステリアス・トラヴェラー Mysterious Traveller 1974年 スタジオ・アルバム
テイル・スピニン (幻祭夜話) Tale Spinnin’ 1975年 スタジオ・アルバム
ブラック・マーケット Black Market 1976年 スタジオ・アルバム
ヘヴィ・ウェザー Heavy Weather 1977年 スタジオ・アルバム
ミスター・ゴーン Mr. Gone 1978年 スタジオ・アルバム
8:30 8:30 1979年 ライブ + スタジオ・アルバム
ナイト・パッセージ Night Passage 1980年 スタジオ + ライブ・アルバム
ウェザー・リポート’81 Weather Report 1982年 スタジオ・アルバム
プロセッション Procession 1983年 スタジオ・アルバム
ドミノ・セオリー Domino Theory 1984年 スタジオ・アルバム
スポーティン・ライフ Sportin’ Life 1985年 スタジオ・アルバム
ディス・イズ・ディス This Is This! 1986年 スタジオ・アルバム
ライブ・アルバム
アルバム・タイトル 原題 発売年 種類
ライヴ・イン・トーキョー Live in Tokyo 1972年 ライブ・アルバム
ハバナ・ジャム Havana Jam 1979年 オムニバス・ライブ・アルバム
(「Black Market」を収録)
ハバナ・ジャム II Havana Jam II 1979年 オムニバス・ライブ・アルバム
(「Teen Town」を収録)
ライヴ&アンリリースド Live and Unreleased 2002年 ライブ・コンピレーション・アルバム
レジェンダリー・ライヴ・テープス1978-1981 The Legendary Live Tapes: 1978–1981 2015年 ライブ・コンピレーション・アルバム
コンピレーション・アルバム
アルバム・タイトル 原題 発売年 種類
フォアキャスト・トゥモロウ Forecast: Tomorrow 2006年 3枚組CD+DVD
ビデオグラフィ
タイトル 原題 発売年 備考
フォアキャスト・トゥモロウ Forecast: Tomorrow DVD 2006年 1978年9月29日、オッフェンバッハ・アム・マインでのコンサートを収録
ライブ・アット・モントルー 19
76 Live at Montreaux 1976 DVD 2007年 1976年7月6日、スイスで行われた「Montreaux Pop Festival」出演時のライブ演奏を収録 』

ジャズ界の巨匠 ウェイン・ショーターさん死去 89歳

ジャズ界の巨匠 ウェイン・ショーターさん死去 89歳
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230303/k10013996941000.html

 ※ ついに、亡くなったか…。

 ※ 89歳だから、「年に不足は無く、天寿を全うした」類いだろう…。

 ※ 確か、娘さんが障碍者と聞いたことがある…。

 ※ 「ジャズ界の巨匠」とあるが、日本では、むしろ、「ネイティブ・ダンサー」が一番有名かもしれないな…。
 ミルトン・ナシメントの「MPB(Musica Popular Brasillien=直訳すれば「ブラジルのポピュラー音楽」)」がフューチャーされてるアルバムだ…。

 ※ ジョー・ザビヌエルは、2007年9月に亡くなっているから、大分長生きだったな…。

 ※ ジャコ・パストリアスは、1987年に死亡した(ヤク中だったとの、噂あり)…。


 ※ また一つ、「青春のよすが」を失くしたな…。

レゲエ界に革命を起こしたリズム「スレンテン」は日本人女性が生み出した

レゲエ界に革命を起こしたリズム「スレンテン」は日本人女性が生み出した:カシオ開発者・奥田広子さん
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g02027/

 ※ 今日は、こんなところで…。

 ※ ジャコ・パストリアスは、とっくに死んだ…。

 ※ ヨゼフ(ジョー)・ザヴィヌエルも、とっくに死んだ…。

 ※ ウエイン・ショーターは、未だ「訃報」を聞かないんで、まだ存命なんだろう…。「ネイティブ・ダンサー」、今でも時々は聞いてるよ…。

 ※ 確か、娘さんが「障碍者」と聞いたが…。

 ※ 「レゲエ」とくれば、ボブ・マーリー、「ブラック・ウフル」「スティール・パルス」あたりか…。

 ※ ここいらの年代物は、「レコード」で保有しているんで、もう、めったに「針を落とさなく」なった…。

『80年代半ば、レゲエ音楽にデジタル革命をもたらし、“モンスター・リディム”と称される「スレンテン」。その誕生の裏側には、カシオ計算機(本社:東京都渋谷区)の電子キーボードと新卒の女性開発者の存在があった。スレンテンのルーツ・奥田広子さんが、初めてベールを脱ぐ。』

『スレンテンのルーツはカシオトーンの音源

ジャマイカのシンガー、ウェイン・スミスの『Under Mi Sleng Teng(アンダ・ミ・スレンテン)』は、レゲエの世界に革命をもたらしたと言われる。友人のノエル・デイヴィーと2人で、カシオの電子キーボードを使って作曲したダンスホール・レゲエだ。1985年に大ヒットすると、デジタル音の心地よく、常習性のあるリズムは、またたく間に世界中に広がっていく。

レゲエでは、ドラムとベースのリズム体を「リディム」や「バージョン」、「オケ」などと呼び、これを繰り返すことで曲に鼓動を生む。同じリディムで複数のアーティストが曲をリリースするのも特徴だ。曲名にちなみ「スレンテン」と名付けられたリディムは、次々と新しい曲を生み出し、その数は通算450曲にも及ぶという。その影響でレゲエ界にデジタル革命が巻き起こり、ダンスホールの隆盛を生んだことで「モンスター・リディム」とも称される。

リリースから35年以上が経過した今、スレンテンの生みの親は、ウェイン・スミスや発売元のレーベル「ジャーミーズ」だと定着している。しかし元々は、1981年に発売した「Casiotone(カシオトーン) MT-40」に入っていたリズムパターンだ。スミスらは、そのプリセット音源を鳴らして、曲に仕上げたのである。

定価3万5000円で発売された「Casiotone(カシオトーン) MT-40」。写真は奥田さんの私物

つまり、電卓でおなじみのカシオ計算機が、世界の音楽シーンを変えたのだ。しかも、カシオトーンに組み込まれたリズムパターンを作曲し、スレンテンを生み出したのは、入社1年目の女性開発者だった。

そのことは、一部の音楽マニアの間でのみ、伝説のように語り継がれていたが、これまで詳細なプロフィールが公開されることも、顔を出して取材に応じたこともなかった。MT-40の発売から40年を経て、開発者・奥田広子さんが初めてベールを脱ぎ、インタビューに答えてくれた。

カシオの電子ピアノを演奏する奥田さん

新入社員がいきなり任されたMT-40のリズムパターン

世界初のパーソナル電卓「カシオミニ」(1972年)、世界初の名刺サイズ電卓「カシオミニカード」(78年)と、70年代の“電卓戦争”をリードする存在だったカシオが、80年1月、スピーカー搭載の電子キーボード「Casiotone 201」を発売。楽器業界に参入した。

奥田さんがカシオに入社したのはその3カ月後。新人研修を終えるとすぐに、MT-40のプリセット音源の制作を任されたのである。

カシオ本社のショールームに飾られる電子楽器第1号の「Casiotone 201」。29種類もの楽器の音を奏でることができる

カシオは自動伴奏機能付きの商品を開発中だったが、商品化が実現するまでの “中継ぎ” 商品 として、ミニ鍵盤キーボードにリズムパターンを搭載することになったという。奥田さんは「開発部の音大出身者は、新卒の4人だけ。しかも、みんなクラシックが専門で、ポピュラーミュージックに明るいのは私だけだった」と振り返る。

当時はMIDIという統一規格もなく、デジタルの音楽制作環境が現在のように進んでいない。楽譜をプログラムコードに変換し、それを焼き込んだROMを専用の機械に差し込んで、初めて入力したリズムパターンを聴くことができた。手間と時間の掛かる作業を、完成までには何度も繰り返すため、外部の作曲者などに発注するのは難しかったのだ。

取材はカシオ本社で行ったが、普段は羽村技術センター(東京都羽村市)で開発にいそしむ
レゲエに没頭した大学時代、カシオとの出会い

奥田さんは、子どもの頃からピアノを習っていたが、中学時代に全盛期だったブリティッシュロックに目覚め、後にレゲエにはまっていく。「レゲエは、ヒップホップやラップ、DJなどのルーツとも言われ、ブリティッシュロックにも大きな影響を与えていた。何よりも、メッセージ性の強い重い歌詞を、いとも軽やかにさらりと歌ってしまうことに引き込まれた」という。

音楽高校を卒業後、国立(くにたち)音楽大学に進学。演奏家を目指すのではなく、あらゆる音楽のベースとなる楽理(がくり)を専攻し、音楽史や社会学、作曲の基礎となる和声などを学んだ。それでも、あくまでも研究対象はレゲエ。当時の日本の音大は、クラシックを専攻する学生がほとんどで、奥田さんは異色の存在だった。「卒論のテーマもレゲエ。指導教官がいなかったので、バロック専門の教授に無理やり読んでもらい、『文章的には問題ないね…』と無事卒業できた」と笑う。

卒論に取り組み、レゲエを聴きまくっていた1979年、ボブ・マーリーが最初で最後の来日を果たしている。公演会場に何度も足を運んだ奥田さんは、その少し後に、カシオが初めて音大に出した新卒社員募集に目を留めた。「開発者募集」の文言が魅力的だったのだ。面接試験の際に見せられた発売前のカシオトーンの初号機は完成度が高く、電子楽器に大きな可能性を感じる。そして、決め手となったのは、世界市場を視野に入れた、その理念だった。

楽器部門を率いたのは、創業者の樫尾四兄弟の次男・俊雄氏。計算機の発明家として知られ、楽器にも造詣が深い俊雄氏は、「すべての人に音楽を奏でる喜びを」というスローガンを掲げていた。楽理を学び、洋楽に親しみ、楽器開発への興味も強かった奥田さんは、自分にぴったりの仕事だと確信する。

入社半年足らずの奥田さん。この直後にMT-40の開発に携わる(本人提供)

リズムに込められた思いと開発秘話

入社すると間もなく、プリセットの音源制作の仕事が始まった。rockやpops、sambaなど6種類のリズムパターンと、それぞれメジャーとマイナー、セブンスの3つのコードタイプに応じたベースラインを作り、曲調の変わり目などに変化を付けるフィルインも2種類追加した。

スレンテンは、rockとして作曲したリズムだ。それがレゲエの世界で流行した理由を、奥田さんは「当時、頭の中はレゲエ一色。ロックのリズムを考えながら、自然とレゲエに通じるものになったのだと思う」と説明する。

この時代には機能や音数に制約が多く、プリセット音源に使えたのはドラムとベース音のみで、長さも2小節。ドラムに変化を付けるのは難しいため、いかにベースラインを仕上げるのかがポイントだった。

プリセット音源の操作部分。スイッチの数にも制約があるため、その設定にも苦労したという。ノエル・デイヴィーは作曲時に「一度、リズムを見失った」と語っているが、再生までの操作が複雑なせいだろう

コアな音楽ファンの間では、スレンテンの元ネタは、エディ・コクランやセックス・ピストルズだという説が広まっているが、奥田さんは否定する。「ブリティッシュロックを聞いていたので、インスパイアされた曲があるのは確か。でも、それとも別物の完全オリジナル」と付け加える。

レゲエのリズムは特に意識していなかったが、「トースティングが乗せやすいように」とは心掛けたという。レゲエのトースティングとは、リズムに乗って語り掛ける行為で、ラップやDJスタイルに大きな影響を与えたもの。あまり音を詰め込み過ぎないように単純化したことで、アレンジがしやすく、レゲエ独特のコードパートも入れやすかったのだろうと奥田さんは推測する。

スレンテン・ブームを知るが、仕事に没頭

カシオの楽器事業は滑り出しから好調で、新商品を出せば世界中でドンドン売れた。常に複数の開発案件を抱えていた奥田さんは、「とにかく忙しかった」ため、レゲエとも縁遠くなっていく。営業部から「MT-40が中南米で人気だ」と聞いても、それがジャマイカと関係があるなどとは全く想像しなかった。

雑誌『ミュージック・マガジン』の1986年8月号を読んでいると、「スレンテンの氾濫~」と副題がついたレゲエの記事に「カシオトーンのビートが延々と続く」と書いてある。その音を文字で「ブブブブ、ブブブブ、ブブブブ、ブッブ」と再現しているのを見て、自分が産み落としたrockのリズムがジャマイカのみならず、世界の音楽シーンでブームになっていることを知った。

すぐに『アンダ・ミ・スレン・テン』のレコードを購入。「まさにカシオトーンのプリセットのリズム。ある程度は予想していたが、曲のイントロまでフィルインの音がそのまま使われていた」と、驚いたそうだ。そして、同時に「そうだよね」と妙に腑に落ちた。

「レゲエを聴き続け、卒論まで書いた私が生み出したリズムを、レゲエの音楽と共に暮らすジャマイカの人がちゃんと見つけて、受け入れてくれた。でも、それは輸出企業のカシオが楽器開発を始め、新入社員に大役を任せてくれたから。全ては偶然ではなく、必然だったのかもしれない」

スレンテン・ブームを知った頃。勤務先の羽村技術センターで(本人提供)

奥田さんが制作したリズムが大ブームを巻き起こしたと分かっても、会社での日常に変化はなかった。「カシオ計算機」の社名が示す通り、保守本流は電子機器の開発であり、楽器部門は傍流にすぎない。特許取得は評価されても、音楽の世界に革命を起こし、文化を生み出したことが社内的に注目されることはなかった。奥田さん自身も、そんなことを気にする余裕がないほど開発に没頭。スレンテンに関する記事などを目にする機会があれば、ひそかに誇りに思うだけだった。

著作権を申告した方が良かったのではないかとの意見もあったが、「多くの人に使ってもらうことで、カシオトーンを有名にする」ことの方が大切だった。そして、世界中の人がカシオトーンで気軽に音楽に触れ、簡単にレコーディングできるようになってほしいと願っていた。最近でも、スレンテンのオリジナルはMT-40の音源だと探し当て、わざわざカシオに使用許諾を申請する音楽関係者がたまにいる。その場合も、「自由に使っていいので、クレジットには『MT-40の音源を使用』と入れてほしい」と伝えるだけだ。

そして奥田さんは、何度も「少しでもレゲエに恩返しができたとしたらうれしい」と繰り返す。

現行の「Casiotone ミニキーボードSA-76」には、「MT-40リディム」が組み込まれており、rockのリズムパターンを聞くことができる(写真提供:カシオ計算機)

すべての人に音楽を奏でる喜びを

現在、奥田さんが開発に力を注いでいるのが「Music Tapestry」という技術。楽器の演奏の強弱や曲調を解析し、リアルタイムで絵に変換しながら、最後は1枚のアートに仕上げる。ピアノを弾いたことがない人でも、どんな絵ができるかと鍵盤に触れ、少しでも音楽を楽しんでほしいという思いで取り組んでいる。今でも創業者の「すべての人に音楽を奏でる喜びを」という理念が、奥田さんの中に生き続けているのだ。

「MT-40のリズムが世界中に広まり、いまでも愛され続けていることは、自分の子どもを産んだことに匹敵するぐらいの喜び。最初に生み出した子の出来が良すぎたので、なかなか超えることができてない。でも、電子楽器が演奏者を助けられることは、まだまだあるはず」

奥田さんは新しい音楽文化を生み出すため、まだまだ開発者人生を歩むようだ。

Music Tapestryでの演奏後に生まれるアート作品
Music Tapestryのデモ演奏後に生まれたアート作品。公式インスタグラムでは、多彩な作品が見られる(写真提供:カシオ計算機)

写真・動画=ニッポンドットコム編集部 』