封建制・郡県制・郡国制の違いが結局わからない人に解説

封建制・郡県制・郡国制の違いが結局わからない人に解説
https://simpleworld00.com/2021/05/19/worldhistory-4/

 ※ スゲー役に立つことが、書いてある…。

 ※ 『①名前で区別をつける
    ②制度の移り変わりを、法則化する

まとめと、これからの世界史の戦い方
パターンを他の地域にも応用してみる』…。

 ※ 結局、「法則を抽出して」「応用してみたモン勝ち」「やったモン勝ち」「まとめたモン勝ち」なんだよね…。

 ※ そのためにこそ、このサイトを「運営」している…。

 ※ つまり、「投稿」というのは、「発見した法則」の「応用」の一つに過ぎんわけだ…。

 ※ 「他流勝つべきにあらず。昨日の吾に、今日は勝つべし。」…。
 
 ※ 「昨日の吾に、今日は勝っているのか」…。問うべきは、その一点のみ…。

『こんにちは。
Naganomayuiです。

私は高校教員でしたので、
YouTubeで、【5分で世界史】という動画を作っています。

今回は、古代中国の支配体制です。

封建制・郡県制・郡国制・・・。
ええ、どれがどれだか、すぐわからなくなりそうです。

現に、動画撮影中に、私も間違えました。
(ほんと中国、似たような制度多すぎ・・)

このページで言いたいことは、
「歴史の暗記なんか最小限でいいんだよ」
ってことです。

この3つを暗記で乗り切ろうとしていた人や
この3つに限らず、
膨大な単語をひとつひとつ覚えようと苦労している人は、
ぜひ、読んでみてください。

世界史の攻略法が暗記なのは、
平成初期のセンター試験の名残りですよ。

センター試験の過去問を解いていて、
「うっわ、つまんない問題だな」
って思うやつ、大体2000年代の問題です。(私見)

令和の受験生は、共通テストですから、
暗記以外の勉強法を知っていきましょう。

さて、中国の3つの支配体制。

区別するためには、
・どういう体制か
・どうしてその体制が採用されたのか
これらが分かればいいのです。

実は、
支配体制の変遷には一定の法則があります。

この構造を理解すると、
他の地域にも応用できるようになります。

解説していきます。
動画はこちらです↓

【5分で世界史】封建制と郡県制と郡国制の違いが、結局わからない人向け解説
ここからは、
動画の内容を深掘りして、

国が遠隔地を支配するときのパターンを解説していきます。

動画を見ても、見なくても、
わかるように書きますね。

目次

基本情報:封建制・郡県制・郡国制

①名前で区別をつける
②制度の移り変わりを、法則化する

まとめと、これからの世界史の戦い方
パターンを他の地域にも応用してみる

基本情報:封建制・郡県制・郡国制
まずは基本情報を確認しましょう。

封建制

封建制という言葉じたいは、
いろんな地域で出てきます。

ヨーロッパや日本でも見られますが、
これらは中国の封建制に形態が似ていることから付けられた訳語です。

だから同じ名前でも、それぞれの場所によって少しずつスタイルが違います。

ただし、全体的に共通しているのは、
王と地域の有力者が、契約で主従関係を結んでいる状態です。

中国では、
殷や周の体制を封建制といいます。

周では、血縁者に土地を与えて、
その一族に代々地方を支配させました。
つまり、親戚運営です。

各地はそれぞれの諸侯が治めるけれども、
諸侯からみたら周王は本家なので、
みんな周王に従うわけです。

郡県制

秦の始皇帝が制定したものです。
始皇帝は「中央集権体制」を作りたかったのです。

地方を、各地の諸侯に任せてしまうのでなく
中央から派遣した長官に治めさせます。

そうすることで、
中央の方針を地方にダイレクトに伝えることができるわけです。

郡国制

前漢の初代、高祖劉邦が制定したものです。

先ほどの郡県制は、
領地全部に、中央の役人を派遣することで治めていました。
急激に広大な土地を支配しようとして無理が生じ、秦は滅んでしまったわけです。

だから劉邦は、
都に近いところと遠いところで
支配の仕方を変えます。

遠く:周のように、諸侯に統治を任せる
近く:直接支配できるので、郡県制のまま

つまり、
近くには秦スタイル、遠くには周スタイルを使ったわけです。
これが郡国制です。

※その後

ただしこれには続きがあります。

地方の諸侯に力を持たせたままだと、反乱を起こす可能性がありますよね。
実際、呉楚七国の乱が起こっています。

ですので乱の鎮圧後(〜武帝の頃)には、
地方にも中央から長官を派遣するかたちに変わります。

実質的な郡県制です。

以上、簡単に整理しましょう。

封建制:殷や周
    地方を候に任せる
郡県制:秦
    地方に直接役人を派遣
郡国制:前漢
    近くは直接治め、
    遠くは候に任せる
さて。
こうやって流れを確認しても、なかなか区別はつけにくいですね。
どれがどれだか分からなくなりそうです。

令和の受験生は、暗記でなく理解で戦うべきですので、

ここからは、
理屈や法則で覚えていきましょう。

①名前で区別をつける
まず、混乱しやすいのは名称です。

郡県だの郡国だの、似た名前だからですね。

郡・県・国などの文字がどこを指すのか。
これを視覚的に確認してみると、覚えやすくなります。

郡・県

秦や漢のころは、地方を2つ〜4つのレベルに区切っています。
大きいものから、郡、県、郷、里。

郡県制っていうのは、ここから来ています。

郷と里にも聞き覚えがあるでしょう。

役人の選び方に、
郷挙里選というのがありました。

前漢で採用されたものです。
各地方の有能者を、地方長官が推薦します。

この区分のうち、郷とか里とかの地方レベルで選んで、推薦したってことですね。

郡県制の郡と県、郷挙里選の郷と里は、
それぞれ、この区分をもとにした制度です。

郡県制では、この区分の全てに、中央から役人を派遣します。
そうすると、隅々まで中央の方針が行き渡ります。

それに対して、国というのは、この地域とはまったく別のエリアです。

支配を侯に全面的に任せてしまった領域を、国といいます。

国って聞くと、「秦」「漢」のような王朝を思い浮かべがちですが、
中国史では、もっと小さいです。
江戸時代の藩のことを「お国」って表現したりしますけど、
そんなイメージです。

国では、政治の方針も、役人の任命も、侯が決めます。
(役人の任命を誰がするかって、ほんとうに重要なんですよ。
詳しくは別のページ(教皇と皇帝)でお話ししています)

郡、県、国
それぞれ、どんな場所か、イメージができたでしょうか。

郡と県は、中央の決めた区画、
国は、諸侯に任せてしまった地方です。

②制度の移り変わりを、法則化する
次に、バラバラに見える三つの制度に、
法則を見つけていきます。

具体的には、
どういう流れで制度が変わったのか、見てみるのです。

今からの話は、中国史だけでなく
世界史全体に応用できる考え方です。

広い地方を治める政府が取る戦略には、法則性があります。
それさえわかれば、どんな事例を見ても、
何が起こっているのかわかると思います。

まず、この2パターンを知ってください。

支配体制のパターン

地方は有力者に任せ、かわりに有力者を自分に協力させる方法
遠くの地方も直接治める方法
これはそれぞれに、メリット、デメリットがあります。

1. 地方を有力者に任せ、かわりに有力者を自分に協力させる方法

メリット:
中央の目が届きにくい遠隔地でも、有力者が治めてくれるので安心

デメリット:
その地域は、中央のルール以外で動くので、方針が食い違う
ちゃんと有力者をコントロールしないと、力をつけた有力者が反乱を起こす

2. 遠くの地方も直接治める方法

メリット:
全ての地域に、中央の方針を浸透させられる

デメリット:
全土に及ぶ力とシステムがないと、国全体を管理しきれない

統治者はこのバランスをとりながら、政治をしていく必要があります。

そのバランスの取り方の一つとして、
「遠くは1、近くは2」みたいな折衷案(1.5とします)があります。
今回の例でいうと、これが郡国制ですね。

(まあ、ある意味では、完全な「1のパターン」はない、ともいえます。
なぜなら、王や皇帝は少なからず直轄地を持っているから。
首都とか、普通に自分たちで治めてるでしょうし。

でも、直轄地を例外とすると、「1のパターン」は珍しくないです。
江戸幕府は、まさにそんな感じですよね。)

では、どのバランスで治めるのがいいか?

これは、その時代や場所、
王朝の特徴や、成熟度などによります。
支配者は、そのときどきにもっとも適したスタイルで、国を治めようとします。

例えば、政府を作った直後は、
全土をいきなり運営するのは難しいです。
ですから、地方は有力者に任せたほうが早いですよね。(1or1.5パターン)

でも、ある程度安定してきて、
遠くまで目が届くようになってきたら、
地方勢力は削いでしまった方がいいですね。(2パターン)
反乱の危険がありますし、国家の方針が一貫しませんから。

もちろん、一筋縄ではいきません。

最初に「支配を任せるよ」って言った以上、
地方有力者たちは、権利を取り上げようとすると抵抗します。

それを、あの手この手で乗り越えて、
安定した国を築くのです。

漢の劉邦→武帝の流れは、まさにこれです。
作ったばかりの頃は1.5→安定すると2、の流れです。

武帝の先代(景帝って言います)の頃から、直接支配を狙っています。
王や侯の治める国に対しても、役人を派遣しようとしたり、
国の範囲を狭くしようとしたりするのです。

すると、王・侯は反乱を起こします。
まあそりゃそうですね。自分たちの権力が奪われてきますから。
これが呉楚七国の乱。
呉や楚など七つの国が起こした乱、です。
(うわ、超わかりやすい名前)

それを鎮圧して、武帝の頃には、
国の役人も、中央から派遣するようになるのです。

同じパターンは
さまざまなところで見られます。

最後の章で、色んな例をあげますが、
ここではまず最初に、中国の他の時代で探してみましょう。

清の時代に、ちょうど、全く同じ例が見つかります。

清朝は征服王朝ですから、首都(北京)は北の方にありますよね。

最初の頃は、
南まで支配する余裕はないですから、
南部は、明代からの有力者に治めさせます。
これを三藩と言います。

しかし安定してくると、この三藩を廃止しようとします。

抵抗した藩王たちは、
三藩の乱を起こしますが、
鎮圧して、直接支配を実現させます。

ほんっとに、全く同じですよね。
これだけで、世界史がずいぶんシンプルに見えるでしょう。

さて、国を安定させるときの例として、
1→2を見ていきましたが、

逆に国が衰退するときは、
2→1というのも、よくあるパターンです。

これまで安定していた国の力が弱まると、遠くを管理できなくなります。
すると、遠くの地方の役人が力を持ち始めて、
自治を獲得したり、独立したり、
場合によっては、王朝そのものを倒してしまうこともあるでしょう。

この辺の具体例は、最後の章で探してみましょうね。

まとめと、これからの世界史の戦い方
このように構造からみると、
周→秦→漢(劉邦)→漢(武帝)で統治体制が移り変わる順序が、
きれいに整理できます。

周の封建制:地方を有力者に任せる「1パターン」
秦の郡県制:全土を郡や県で支配する「2パターン」
漢の郡国制:遠くだけ諸侯の領地にしてしまう「1.5パターン」
→実質的な郡県制:遠くも直接支配する「2パターン」

「郡県」と「郡国」間違えやすかったと思います。
でも、今回
諸侯に政治を任せている遠くの地域を「国」というのだと分かったので、

郡県制:「郡」と「県」という、中央が区切った地方区分で治める
郡国制:中央は「郡(以下、県郷里)」地方は「国」の二週類で治める
と判断できるでしょう。

名前だけで区別しようと思うと、
世界史はとても大変です。

でも、ほとんどの人が
そうやって頑張っています。
だから「世界史は暗記科目」なんて言われるのです。

いや、暗記なんか最小限でいいんですよ。
全体の構造を掴めば、枝葉は勝手に覚えられます。

それに最近の入試は、
全体的な理解を試すものが増えています。

平成末期のセンター試験や、共通テストは
細かいところ出さずに、むしろ
「全体の構造とか流れを理解してますか?」
みたいな問題が多いです。

特に共通テストは(1年目しかデータがないですけど、それだけでも)
構造理解の問題が増えているなあ
と感じます。

私はこのブログでは、
全体に応用できることばかり書いています。

そうじゃないと意味がないと思うからです。

このブログのコンセプト
「世界をシンプルに理解する」ですからね。

色々と読んでみてください。

とりあえず、次の項目では、
さっき見つけたパターンを、別の時代や地域で探してみましょう。

パターンを他の地域にも応用してみる
ここからは、今回見つけた法則を、
別の場所にも応用しましょう。

このブログ、一応世界史の解説ってことになってますけど、日本史の例も出します。

日本史も同じことですし
これからは歴史総合の時代ですからね。
(※令和4年度から、まず日本史も世界史も地理も一気に勉強して、その後どれかを選ぶ、というカリキュラムに変わります。それが歴史総合と地理総合。)

今回理解した構造は、これです。

支配体制のパターン

地方は有力者に任せ、かわりに有力者を自分に協力させる方法
遠くの地方も直接治める方法
これを、世界中で探してみましょう。

いや、まず自分で考えてみてもいいですね。
思いつく限りあげてから、この続きを読んでみてください。

さて。
大量にあげていきますが、規模の大きいものから、小さいものまで、沢山あります。

なぜなら、
中央が末端をどう処理するか、という問題は
世の中どこにでもあるからです。

もう腐るほど見つかると思いますから、
一部だけ紹介します。

1パターン
広い地域を支配しているけれど、各地に自治を委ねているというパターン
征服地に自治を与える場合と、
そもそも小国が、何らかの形でまとまった結果である場合とがある

もちろん首都や直轄地、共通したルールなどはあるので、
「完全な1パターン」は存在しない

アケメネス朝(納税と軍役を遵守すれば自治OK)
イスラーム系王朝(納税すれば改宗しなくても良い)
周の封建制(諸侯に土地を与えて治めさせる)
神聖ローマ帝国(領邦のまとまりで形成、領主から君主を選ぶ)
江戸幕府(藩の権力をギリギリまで削いで、幕府に従わせる)
アメリカ合衆国(州の権限が強く、州ごとに法律が違う)
2パターン
隅々まで中央が統制しているパターン

実際はどこでも、その地方にあった政治を容認しているので、
「完全な2パターン」も存在しない

律令体制(中国、日本ともに)
近代国家(基本的に領域がはっきりしており、価値観や方針が統一されている)
1.5パターン
遠隔地に自治を与えているパターン
もともとの国内と征服地とで、別の政治体制を取っている場合や
地方勢力の権限が強くなってきた場合などがある

実際はどんな国も、1と2の間でバランスを取っているから、
全部1.5とも言えるが、わかりやすいものだけ

郡国制(中央は郡国制、地方は封建制)
ローマ帝国(直轄地と属州)
欧米列強の植民地経営(本国と植民地)
清(直轄地と藩部)
さて、次に、変遷していく例も考えましょう。

1or1.5→2のパターン
地方の自治から直接支配に移行するパターン

安定するまで地方勢力を認めていた場合や、
征服するまでの段階として、まず懐柔し、のちに完全支配するという場合などがある

漢の郡国制→実質的な郡県制(今回の例)
清の三藩→その廃止(既出)
植民地形成過程(保護国化→植民地化)
ソヴィエト政府(周辺諸国を社会主義化→ソヴィエト政府が監視・統制)
2→1のパターン
直接支配から地方の自治を容認するパターン

地方長官の権利を拡大していく場合や、
遠隔地すぎて自立させる方が得である場合などがある

そのまま別の国として独立されることもある

唐の動揺(節度使の権力拡大→五代十国時代)
モンゴル(ユーラシアを一つに→ウルスに分割)
アッバース朝(アミール(総督)の権力拡大→大アミール)
オスマン帝国(地方総督→エジプト総督が自治獲得→独立)
ムガル帝国(地方勢力の台頭)
イギリスの植民地運営(南アフリカやオーストリアなどを自治化/アメリカの独立)
日本の律令体制(国司の権限拡大)
鎌倉前期→室町(守護の権限拡大→守護大名の形成)

めちゃくちゃ見つかるでしょう。

多くの人が、言語化してないだけで、
地方と中央のパワーバランスが大事
ってことは、わかっていたはずです。

でも、それをパターン化すると、
一気に理解が楽になります。

これは重要なので、
ちゃんと言っておきますが、

正解とか間違いとかはありません。

私があげた例と違った理解をしていても、
それは、私と着眼点が違うというだけです。

なぜなら、分類っていうのは、
どこに着目するかで変わってくるからです。

大きな視点で見たら、1だけども、
細かい状況を見たら2、
みたいなことはいっぱいあります。

どっちとも言える、みたいなものもたくさんあります。

じゃあ、なぜこんな作業をしたかというと、

普遍的な構造を理解してもらうため

です。

世界にはあらゆる国があって、
あらゆる体制があって、
その一つ一つは、土地や時代の状況によって
本当にさまざまです。

でもそんなのをいちから覚え込んでいたら、
世界史全部なんか理解できません。

世界史を勉強するときは、
パターンを見つけ、具体は適度に無視すべきです。

それは世界を抽象的に見るということです。

世界は人間の集まりなので、
ありがちな構造はいくらでも見つかります。

身近な日常と共通するところも、たくさんあるでしょう。

パターンを見つける、というのは、
全ての勉強、活動、生活に応用できます。

上手い人の共通点を見つけたり、
たくさんの仕事の中から要点を見つけたり、
自分と周りの関係を、俯瞰的に見たりすることです。

だから、いろんな視点で、世界史を解説しているのです。

今回の構造の理解も、ぜひいろんなことに活用してくださいね。

世界史の説明は、そのうち、一つのページにまとめる予定です。
わからない単語があれば、ぜひ色々と読んでみてくださいね。』

自分の物語でなく、東京という物語を生きることの功罪

自分の物語でなく、東京という物語を生きることの功罪 – シロクマの屑籠
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20230307/1678181885

 ※ 今日は、こんな所で…。

 ※ 人は、必ず老いて、衰えて、死んでいく…。

 ※ そういうことから、逃れられる人は、存在しない…。

 ※ その逃れられない「真実」から、逆算して、人生設計した方がいいぞ…。

 ※ 授かった、この生命(いのち)の、使い道…。

 ※ そこを、考えた方がいい…。

 ※ 「自分は、なんで生まれたのか。自分とは、なんであるのか。この先どこへ行くのか。」…。

 ※ そんなことは、誰にも分かりはしない…。

 ※ そういう「分かり得ない」ことの「追求」に、自分の「生命」を消耗するなんてのは、馬鹿馬鹿しい話しだ…。

 ※ やるべきことを、やり、やるべきでないことは、やらない…。

 ※ そうやって、与えられた「生命」を、使い果たして、死んでいく…。

 ※ ただ、それだけの、話しだ…。

『「東京をやっていこうとしている」人たちの一喜一憂 | Books&Apps
 
昨日、books&appsさんに「東京をやっていこうとしている」人たちについての文章を寄稿した。「東京をやっていく」という表現は不自然かもだが、東京のイメージに沿って生きようとしている人、東京からイメージされるライフスタイルを追いかける人ってのは実際存在している。そうした人たちを「東京をやっていこうとしている」人たちと呼ぶのはそんなに的外れでもないだろう。
 
と同時に、「東京をやっていこうとしている」こと自体は悪いことではない、はずだ。
 
リンク先でも書いたように、東京をやっていこうとしていること自体はプラスにもマイナスにも働き得る。ツイッターでぶんぶん唸り声をあげているタワマン文学的・東京カレンダー的文章に感化されると、つい、それが執着無間地獄への片道切符のようにみえるかもしれないが、タワマンに住む人が皆そうなるわけでも、上京する人が皆そうなるわけでもない。東京をやっていこうとしていて、まんざらでもない人生を歩む人もそれなりいる。
 ただ、そういう人はツイッターでぶんぶん唸り声をあげているような、いわばタワマンの上層階を見上げて首が痛くなってしまうようなライフスタイルと自意識を持っていないだけのことだ。
 
もちろん東京という街は、住まいもファッションもホビーもなにもかもヒエラルキーづける・差異化づけられる街で、ぎょろぎょろと見ている人は見ているだろう。しかしこれだって程度問題だ。タワマンの上層階を見上げて心が頚椎症のようになってしまう人もいれば、ときどき意識して、ほんのり羨ましいと思って、でもその程度で済んでしまう人もいる。羨ましいと意識にのぼることがほとんどない人だっているだろう。
 
ファッションや趣味についてもそうだ。東京では、ヒエラルキーや差異化の視点でみるなら、上を見ても下を見てもきりがない。そうしたなか、首がもげそうなほど他人を見上げたり見下したりしていれば、どうあれ、まともな精神でいられるとは思えない。
 
実のところ、本当に肝心なのは「東京をやっていこうとしている」か否かではない。その、上を見ても下を見てもきりがない環境のなかで、タワマンの上層を見上げたり下層を見下げたりして心の頚椎症になってしまうようなメンタリティ、あるいはそれに関連した自分自身のありようこそ、肝心なのだろう。
 
 自分の物語が見えてこない状態

 では、心の頚椎症になってしまうメンタリティと、それに関連した自分自身のありようとはどういったものか。
 
一言にまとめるなら、「自分の人生を生きているのでなく、『東京』という物語を生きている人」という表現になるだろうか。もとより、これで言い切れたわけではない。けれども「東京をやっていこうとしている」人が執着無間地獄に落ちてしまうストーリーに触れる時、自分の人生を生きているというより、東京という物語を生きようとしていたり、東京という物語に生かされようとしていたりするさまを連想せずにいられなくなる。
 
ここでもう一度、『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』から引用してみよう。
 
この部屋から東京タワーは永遠に見えない (集英社単行本)

作者:麻布競馬場
集英社

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 多少お金があると、人は文化と子育てにお金を使うようになるんです。僕にはそれがセットで来ました。お絵描き教室に通わされたり、市民ホールで興味のない歌舞伎を観させられたり、わざわざ車を出して隣の県の美術館に連れて行かれたり。特に母は、僕が美大にでも進むことを期待しているようでした。
 うつくしいものを注がれ、うつくしくないものは取り去られました。けろけろけろっぴのマグカップ。みんなと同じイオンのランドセル。仮面ライダーの変身ベルト。欲しかったけど買ってもらえなかったものたち。母は僕の持ち物だけでなく、まだ子どもで、友達と同じものばかり欲しがる僕の感性も完全にコントロールしようとしていました。

『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』所収、「うつくしい家」より

 
この短編集の短編それぞれの主人公たちは、「東京をやっていこうとしている」という言葉があてはまるだけではない。彼/彼女らは東京という物語を生きようとし、それが上手くいっていない。そして自分の物語を生きているという感覚がどこか薄い。
 
引用の人物などは、当人の人生に親の願いが覆いかぶさり、それが人生に染みついていてとれなくなっている。しかし同短編集で描かれているのは親の願いばかりではない。生まれた土地や継承した遺伝的形質、そういったものも自分の人生を生きることを困難にしているようにみえる。それとも、自分にはないものを持った他者を羨むあの目線。誰かをロールモデルとし、そのロールモデルに沿った価値観を内面化すること自体は構わない。しかし自分が幸福になれっこないような誰かをロールモデルとし、そのロールモデルを羨望したり嫉視したりして生きるのはいったい誰のための人生なのだろう。
 
そうしたわけで『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』には、自分の物語を生きている主人公がいないようにもみえる。主人公たちは、他人のことをよく見ていて、他人を見上げたり見下したりしている。自分自身のことも冷ややかに見ている……ようにみえるが、実際のところ、この登場人物たちは自分自身が本当に欲しいものがなんなのか、目星がつけられていないようにもみえる。「東京」をやっていく能力や背景が足りなかったのが表向きの躓きにみえて、実のところ、自分の物語、自分の執着についてこの人たちは把握できていないのではないだろうか。その結果として、東京という物語に人生を乗っ取られたマリオネットのように欲しがり、行動してしまう。
 
他人をじろじろ見るばかりで、「東京」という物語に人生を乗っ取られたかのような人物は、現実にも案外存在する。もちろん『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』の登場人物たちほど甚だしいことは稀だが、自分の物語がみえなくなって東京という物語に乗っ取られたような、それか東京という物語に依存しているような状況は珍しくない。そうした人々のすがる東京という物語にもさまざまなバリエーションがある。港区だけがその舞台なわけでもない。中央線沿線、小田急沿線でもそれは起こり得る。
 
 自分の物語をどうやって確保すればいいのか

 人間は社会的生物だから、ある程度までは社会や世間の物語を、他人の物語を生きてみたってかまわない、と私は思う。タワマンに夢を託したり、東京ならではの活動にアイデンティティの置きどころを見出したりするのも人生だ。それで自分の人生の物語を上手につくっている人などごまんといる。
 
しかし自分の物語ががらんどうのまま、東京という大きすぎる物語を生きる時、人という器は壊れてしまいやすいのだろうとも私は思う。人によっては「人という器が先に壊れていたのでしかない」と指摘するだろうし、そういう事例もあるだろうけど、皆が皆、そうというわけでもあるまい。なぜなら大学進学や就職あたりまでの時期は、自分の物語が自分でもわからなくなりやすく、社会や世間や他人の物語をレンタルせずにいられない時期でもあるからだ。
 
もし、そうした多感で曖昧な時期を東京で過ごすとして、東京の物語のマリオネットにならないためには何が必要なのだろう?
 
強いエゴパワーがあればいいのかもしれない。自分がどう生きたいのか見えていたらいいのかもしれない。もっと間近で尊敬に値する人生のロールモデルとの縁があればいいのかもしれない。それとも友達関係こそ、東京という物語を直視しすぎないために必要な秘訣だろうか。
 
わからない。
しかし間違いなく言えるのは、東京というあまりにも大きい街の、あまりにも大きすぎる物語に真正面から対峙するのはなかなか大変だということだ。東京という物語に過剰適応し、自分という物語を見失ってはならない。東京という物語に飲み込まれないまま東京に住んでいる人たちにとって、それは呼吸するのと同じぐらい簡単なことと思えるかもしれない。が、そうでない人にはまったく難しいことなのだろう。
 
シロクマ (id:p_shirokuma) 16時間前 』

〔「金融と社会」第12回 デフレと非伝統的金融政策、紹介する。〕

 ※ 実は、去年の夏に、「衛星放送」導入した。

 ※ 「遅ればせながら」なんだが、これが非常に役に立つ。

 ※ 特に、「放送大学」は、ためになる。

 ※ 今さら、「大学生」になって、「単位」取ったりするつもりは、さらさら無い。

 ※ しかし、録画しておいて、暇なときに(メシ食いながらとか)、再生して視る分には、何の支障も無い。

 ※ 当代一流の先生方の「名講義」を、寝転がりながら、拝聴しても、問題は無い。

 ※ 調べたら、「印刷教材」(講義のテキスト)も、市販されているんだな。

 ※ 本格的に、学習するんだったら、そういうものを購入して、深く学ぶのも、いいだろう。

 ※ そういうことで、その一端を、紹介する。

※ 毎回、その回のポイントを、初めに示してくれる。

※ 日本のバブル崩壊後、日本経済は低迷し、「デフレ」と判断されるような状態に陥ったわけだが、その原因の考察だ。

※ ここでは、「貨幣乗数の低下」という観点から、説明している。

※ まず、GDPというものの概説から、説明している。

※ 「物価」の代表的な指標である「消費者物価指数」の推移だ。

※ 政府の定義では、「2カ月以上連続して、どうなったか」という観点で見るらしい…。

※ 過去の借金の、名目額は、変化しない(1000万円の借金の名目額は、1000万円のまま)。

※ しかし、デフレで「物価が下がる」≒「貨幣価値は上がる」だから、過去の借金の「実質負担」は増大する。生活実感としては、「生活がジワジワ苦しくなっているのに、借金返済額は重くのしかかる。」というような感じになる…。

※ 実質利子率という観点からも、同じ。

※ デフレが景気悪化を引き起こし、その景気悪化はさらなるデフレを呼ぶという「悪循環」に陥る…。

※ 「経済成長の、エンジン」という観点からの考察だ。

※ さまざまな「経済活動のリソース」を、効率よく「配分」する必要があるのだが、その「資源(リソース)の移動」が、妨げられる。

※ デフレの原因の考察。

※ よく言われるのが、供給過剰+需要不足。

※ 供給過剰の主因は、バブル期の「過剰設備投資」だろう、と言っていた。

※ マネタリスト的な観点からの、考察。

※ 本当に、貨幣流通量は、「少なかった」のかの考察。

※ このグラフによれば、「バブル期の7割」くらいの「貨幣量」は、供給されていた。

※ コールレートも、「1%」以下に引き下げられていた。

※ それでも、「デフレ傾向、物価の低迷傾向」は続いたんで、さらなる「緩和策」を模索することになる。

※ 従来からの「伝統的な緩和策」では、あまり効果が出ない原因の考察。

※ ここで、登場する「分析ツール」が、「貨幣流通速度」というものだ。

※ 「1万円」の貨幣を発行した場合、それが「1回」しか使用されない、というわけでは無い。

※ 例えば、4回使われたとすれば、結局、「4万円」の取り引きに使用されたという「計算」になる。

※ 名目GDPを、マネーストックM1で割ったものを計算すれば、大体、総計でどれくらいの「経済取引」に使われたのか、という「総量」を割り出すことができるだろう。

※ ごらんの通りの、低下傾向だ。

※ 「流動性の罠」≒通貨当局が、必死で「緩和策」を取り、貨幣をジャブジャブ流し込んでいるのに、さっぱり「物価上昇」が起きない現象、の原因の考察。

※ 「貨幣需要」と言っているが、「貨幣選好」だな。

※ 人々は、貨幣を獲得しても、それを物やサービスを購入したりする「経済活動」に使うことよりも、それを「貯め込んで」、胎蔵する方を選んでしまうという行動に出る。

※ そういう「人々の行動」を変えるための「政策」について、エライ学者先生であるポール・クルーグマン大先生(ノーベル経済学賞の受賞者だ)の「ご託宣」が、あったわけだ。

※ そういうことで、06年頃までゼロ金利政策を、続けたわけだ。

※ それを、やめたのは、GDP成長率がちょっと上向いたのと、こういう「未経験の政策」をずっと続けることを、「危惧する声」が上がったからだ、と言っていた…。

※ 政策目標と、その達成度合いの検証。

※ 金融システム不安の解消は、まあまあ、達成されただろうと言っていた。

※ 確かに、「金融機関」の大型倒産は、無かったからな…。

※ まあ、「金融再編」は、随分なされたようだが…。

※ 貨幣総量とか、コールレートとかは、日銀が操作しやすいもので、これは「短期金利」の低下に効果がある。

※ そういう「操作しやすいもの」に働きかけて、さらには「長期金利」の低下も狙っていく。

※ 長期金利は、国債や、株式、不動産なんかの「資産」へと「資金」の導入を誘導する側面がある。

※ 人々に「インフレ期待」を起こさせるために、日銀が「○○までは、この緩和策を続ける。」とアナウンスすることで、人々の「意識」を変えようとした。

※ 日銀当座預金については、ちょっと話しが複雑なんで、ここら辺でも見て( マイナス金利も関係する日銀当座預金とは?この仕組みをわかりやすく https://greenapple-investment.com/currentaccount-of-boj.html ) 

※ いずれ、市中銀行が日銀に積み立てを要する「準備金の口座」みたいなもので、その額や「金利」を操作することで、世の中の金融の状況を、コントロールしていこうとするもの、のような感じのもののようだ…。

※ そういう目的で、「日銀当座預金」を操作したから、上記の図にある通り、「日銀当座預金」が増大すると、マネタリーベースも増大するという関係性が、見て取れる。

※ アナウンスメントの方も、「デフレ懸念が払しょくされるまで」というような、「あいまいな表現」から、さらに踏み込んで、「消費者物価指数の前年比上昇率が、安定的にゼロ以上となるまで」と、明確な基準を呈示した。

※ しかし、そういう「非伝統的な緩和策」を、長く続けることに「不安を覚える」声の方も、根強く存在した…。

※ それで、少し「上向きかげん」になったら、「ここで、打ち止めしといた方がいい。」となった…。

※ ここで、目を転じて、サブプライムショック後の、欧米の金融当局の非伝統的金融政策を見てみよう。

※ ご覧の通り、短期間で、ともかく短期金利を、限りなくゼロに近づけた…。

※ こういう「急激な政策」は、日本のバブル崩壊後の「デフレ没入経験」が、教訓となったと言う話しだ…。

※ 一旦、デフレに陥ると、そこから脱却するのは、あらゆる「緩和政策」をもってしても、「容易なことじゃない」ということを、各国の中銀首脳たちが深く学習していた、という話しだ…。

※ 金利の操作だけでなく、「資産の買い入れ」も行った。

※ MBSは、モーゲージ・バックト・セキュリティー(抵当担保証券?)、不動産関係会社が所有している資産性の証券だろう。

※ CPは、コマーシャルペーパー。企業の短期社債だ。

※ 日銀の言ってた、「時間軸効果」は、「フォワード・ガイダンス」と名前を変えて、行われた。

※ そういう欧米の緩和策も参考にして、2010年10月からは、「包括的な金融緩和政策」という名前の、「資産買い入れ策」も実施された。

※ ETFの買い入れは、証券市場に資金を流し込むことになり、REITの買い入れは不動産市場に資金を流し込むことになる。

※ 非伝統的金融政策とは、まとめると、上記の3つに要約される。

※ 物事には、必ず功・罪の両面がある。

※ こういう「超金融緩和策」にも、「負の側面」は、必ずある。

※ その一つが、ハイリスクハイリターン運用の傾向の増大だ。

※ 低金利になると、一般大衆から「巨額の資金」を集めても、伝統的な「貸し出し」策では、「利ザヤ」が稼げなくなる…。

※ それで、勢い、「利を追求する」ためには、「非伝統的な、危ない貸出先に貸したり」、「リスクを厭わずに、利を取りに行く」行動が誘発される…。

※ どうせ、「首脳部は、知らなかった。現場のファンド・マネージャーが、勝手に暴走した。」ということで、済まされる…(これは、オレの独り言)。

※ マクロプルーデンス政策とは、こういう金融危機への対処は、一国だけでは難しい。むしろ、各国が、初めから、「金融全体、世界の金融秩序全体」のことを考えて、「協調姿勢・共同歩調」を取って行くべきだ、というような話しのようだ…。

※ 第12回では、上記の3つを解説した。

※ 毎回、このように「まとめ」で、締めてくれる。

※ ありがとうございました。

アングロサクソン・モデルの本質

アングロサクソン・モデルの本質
https://1000ya.isis.ne.jp/1366.html

 ※ 松岡正剛という人の、「千夜千冊」という「書評サイト」における書評だ。

 ※ この本、前々から読みたいと思っていた…。

 ※ 身辺が、やや落ち着いてきたんで、久々で「紙の本」だが、最近購入した。
   とっくに絶版になっているんで、古本でしか、手に入らない。
   なるべく「良品」を購入したかったんで、探したら、けっこうな値段した…。

 ※ しかし、ちょっと、期待した内容とは違っていた…。
   「アングロサクソン・モデル」という語から想像していたものは、もっと「社会システム全般」「政治システム」「思考の枠組み」みたいな内容だったんだが…。

 ※ ここで言っている「アングロサクソン・モデル」とは、英米系の「グローバル企業」における、「企業の利益獲得モデル」の話しだった。

 ※ まあ、「アングロサクソンの資本主義モデル」くらいには、広がっているが…。

『なぜイギリスに世界資本主義が集中して確立し、
そこからアングロサクソン・モデルが
世界中に広まっていったのか。

英国型コモンローと大陸型ローマ法の違い、

エクイティやコーポレート・ガバナンスの違い、

とりわけアメリカ的株主主権型資本主義との違いなど、

いろいろ考えなければならないことがある。

 数年前、ぼくは『世界と日本のまちがい』(その後『国家と「私」の行方』春秋社)のなかで、イギリスを悪者扱いした。イギリス人が嫌いなのではない。ジェントル然としながらもシャカリキにしゃべるところ、オックスブリッジの学究力、コッドピース(股袋)を発明するところ、エスティームでエスクワイアーなところ、男色やギャラントな性質を隠さないところ、大英博物館が自慢なところ、そのほかあれこれ。付き合うかぎりは、むしろ喧しいフランス人や無礼なアメリカ人よりずっと好ましく思っているほうなのだが、そういうこととはべつに、歴史にひそむ「イギリス問題」を看過してはまずいと思ってきたからだ。

 この本には「自由と国家と資本主義」というサブタイトルをつけた。それは、ヨーロッパにおける都市国家・王権国家・領主国家・植民地国家などと続いてきた「国家」の歴史が、近代においてネーション・ステート(国民国家)に向かったところで、その隆盛とともに「自由」と「資本主義」をいささか怪しいものにしたと言わざるをえないからだ。

 ぼくがそのことに関する「まちがい」をどのように描いたかは、あらためて読んでもらうこととして、さて、この「イギリス問題」を現代資本主義のしくみのほうから見たときに、しばしば「アングロサクソン・モデルの問題」というふうに議論されてきたことを、今夜は考えたい。いったいアングロサクソン・モデルって何なのか。むろんイングリッシュ・モデルということだが、ではそれって「イギリス問題」なのかどうか、そこを本書に追ってみた。著者は一橋大とロンドンビジネススクールをへて、野村総研のワシントン支店長やNRIヨーロッパ社長を務めたのち、法政大学で教鞭をとっている。

 イギリスがイギリスになったのは、ヘンリー8世がルターの宗教改革に反対し、とはいえローマ教会のカトリックの支配にもがまんがならず、一挙に英国国教会という独自路線を打ち立てたとき、それからエリザベス女王と東インド会社が世界資本主義のセンター機能をアムステルダムからロンドンに移したときからである。このときイギリスは「アングリカニズム」の国になった。大陸ヨーロッパとは袂を分かち、あきらかにブリティッシュ・ナショナリズムに立ったのだ。ナショナリズムとは自国主義のことをいう。これはカトリックの普遍主義(ユニバーサリズム)とはずいぶん違う。

 その後、イギリスはクロムウェルのピューリタン革命を通してピューリタニズムを生んだかに見えたのだが、それは「エミグレ」(移住者)とともに新大陸アメリカに渡り、いささか姿と信条を変えてアメリカン・プロテスタンティズムになっていった。そのどこかであきらかに資本主義とピューリタニズムあるいはプロテスタンティズムが結びつき、イギリスには「コンフォーミズム」(順応主義・承服主義)が残った。歴史的には、それらの前期資本主義・国教会・ピューリタニズムを含んで、アングロサクソン・モデルがつくられていったはずなのである。

 本書でアングロサクソン・モデルと言っているのは、むろん英米型の資本主義のモデルのことを言う。いまではまとめて「株主資本主義」とか「新自由主義的資本主義」と呼ぶか、もしくはそれをイギリス型のアングロサクソン・モデルとアメリカ的でWASP型のアングロアメリカン・モデルとに分けるのだが、本書では一括されている。

 この見方そのものは新しくない。旧聞に属する。しかし旧聞に属したモデルから出発してそのヴァージョンを説明したほうがわかりやすいこともある。本書はその立場をとる。英米のアングロサクソン・モデルとしての株主資本主義、ドイツの社会民主主義的な銀行資本主義、フランスのエリート率先型の国家資本主義、日本の経営者従業員平均型の資本主義というふうに、とりあえず出発点を分けるのだ。

 古典派経済学は、自由市場原理(マーケット・メカニズム)によって、個人と自由と社会のつながりがほどよく鼎立すると考えた。そう考えることで、たとえ個人が利益追求をしても「見えざる手」のはたらきによって経済社会は相互的な向上を生むという確信を樹立できた。

 ところが20世紀に入って2つの大戦を経過し、そこに政治と企業と大衆と個人の分離がいろいろ生じてくると「個人の自由」と「社会の連帯」とが合致しなくなってきた。そのうち、政治のほうがこのどちらかを重視するようになった。

 市場と「個人の自由」を連動させて重視したのは、その後は市場原理主義とも新保守主義ともよばれている「新自由主義」(neo-liberalism)である。新自由主義は、もともとイギリスのコモンローの伝統やそれを補正するエクイティ(道徳的衡平)の考え方にひそんでいたイデオロギーやスタイルを生かし、これをマーガレット・サッチャー時代に強化したものだ。

 これに対して、市場の力をなんとか「社会の連帯」に結びつけようとしたのが「社会民主主義」(social democracy)で、こちらは大陸ヨーロッパに普及していたローマ法などの伝統にもとづいてラインラント型に組み立てられ、ドイツを中心に労使共同決定スタイルをもってヨーロッパ大陸に広まっていった。

 これらのうちのイギリス型がアメリカに移行して、WASP的な資本主義となり、もっぱら株主重視の強力な自由市場的資本主義になったわけである。しかし、なぜそんなふうになったのかということをリクツをたてて説明しようとすると、これが意外に難問なのだ。アメリカ人が「人生は深刻だが、希望もある」と言うのに対して、イギリス人は「人生には希望はないが、それほど深刻でもない」と言いたがるといった程度の説明では、あまりにも足りない。

 アングロサクソンという民族は一様ではない。源流は大きくはゲルマン民族に入るし、イングランドに渡ったアングル人とサクソン人は最初は別々だった。

 アングル人はその後にイングランドの語源になり、サクソン人のほうもサセックスとかエセックスといった地名として各地に残った。エセックスは「東のサクソン王国」、ウェセックスが「西のサクソン王国」である。ウェセックス王国の首都がウィンチェスターで、9世紀にそのエグバート王がそれまでの七王国を統一し、イングランドの最初の覇権を樹立して、それをアルフレッド大王が仕上げていった。

 しかし、それでイギリスという原型ができたわけではない。1066年に北フランスのノルマンディー公ウィリアム1世がヘースティングズに上陸してイングランドを征服し、ロンドンを拠点に中央集権を敷いて、ここに多民族を配下とした「ドゥームズデー・ブック」(土地台帳)にもとづく封建制を施行したとき、やっとイギリスの原型が誕生し、ここからコモンローの伝統が育まれていった。このあたりのことは、『情報の歴史を読む』(NTT出版)にも書いておいた。

 その後、エリザベス時代やヘンリー8世時代をへて、大英帝国の規範としてのイギリスがしだいに形成されていった。そのわかりやすい頂点は、ナポレオンがヨーロッパ中を戦争に巻き込んだときイギリスがこれに抵抗し、ナポレオンもまた大陸封鎖によってイギリスを孤立化させようとしたことにあらわれた。

 以上のように、イギリスは大陸ヨーロッパとの関係で大英帝国になっていったわけだが、当然、その内的歴史にもアングロサクソン・モデルの胚胎があったとも言わなければならない。その大きな下敷きにコモンロー(commonlaw)がある。

 コモンローは、中世イングランドの慣習法にもとづいて積み重ねられていった法体系である。教会法に対して世俗法の意味で、こう呼ばれるようになった。

 イングランド王国を征服したウィリアム1世が「ドゥームズデー・ブック」によってイギリスの土地と人間のつながりをまとめていったとき、税金が確実に王国の金庫に納付されているかどうかをチェックするための大蔵省(Exchequer)が設置され、納税事務とともに民法や刑法にあたる管轄権をもった。

 これを背景に、12世紀に国王裁判所(Royal Justice)が生まれ、巡回裁判(travelling justice)の制度が確立した。不法行為法、不動産法、刑法などの封建制の基幹をなす諸法がこうして整えられていった。この巡回裁判によってあまねく浸透していったのがコモンローなのである。

 そこにはほぼ同時に、「信託」(trust)や「エクイティ」(equity)の概念が芽生え、そのまま定着していった。コモンローは成文法ではない。制定法ではない。国王をも律する「王国の一般的慣習」としての判例の集合体である。そこには権威によって書かれた文書(法典)はない。

 なぜそのようなコモンローがアングロサクソン・モデルの基本となったのか。なぜコモンローがローマ法やカノン法の継受を必要としなかったのか。3つの理由がある。

 第一には、ノルマン人によるイングランド統一以降、国王裁判所が巡回的に全土に判例を積み重ねていったため、国内の地方特有の規則や法が淘汰されていったことだ。これが多民族多言語の大陸系のヨーロッパにあっては、ローマ法などを導入して成文的統一をはかるしかなかった。

 第二には、法律家はすべて法曹学院(Inns of Court)という強力な法曹ギルドによってかためられていた。イギリスの法モデルは、大学でローマ法を学んだ者が管理するのではなく、法曹学院の成果をその出身者たちが管理するものなのだ。いまでもイギリスのロースクールは大学とは独立していて、バリスターとよばれる法廷弁護士が所属する法曹団体(Bar Council)がこれをサポートしている。

 第三には、そうした封建制がくずれて近代化が始まったのちも、大法官府裁判所がコモンローを補完するエクイティ(衡平法)という体系を接合してしまったからだった。以降、アングロサクソン・モデルはコモンローとエクイティの両輪によって資本主義ルールを確立することになっていく。

 アングロサクソン・モデルにおけるコモンローとエクイティの役割は、まことに独特だ。コモンローが支配的ではあっても、会社法・為替手形法・商品販売法といった制定法(statute law)はその後に次々に加えられていった。

 これを促進したのは「最大多数の最大幸福」を説いたジェレミー・ベンサムで、コモンローだけではあまりに合理的な解決が得られないことを批判したためだ。1875年に裁判所法がコモンローとエクイティの統合をはかったのが、その大きな転換だった。それでも、包括的な家族法、相続法、契約法、民事訴訟法などはいまなおコモンローの判例にもとづいている。

 こういう変成的なことがアングロサクソン・モデルに入りうるのは、イギリスの議院内閣制では行政府と立法府はほぼ一体になっていて、意外にも三権分立が必ずしも確立していないせいでもあろう。イギリスの議会は与党内閣の政策意思を受けて、なかば受動的に立法機能をはたしていることが多いのだ。それゆえ、内閣の意思に反して党籍を除名されれば、その議員が日本の政治家のように、政党を変えて再選に臨むなどということはまずおこらない。イギリスの政治家は党籍剥奪とともに政治生命をおえる。日本にはイギリス的な意味での本格的な政党政治家はほとんどいないと言っていい。

 では、「エクイティ」とは何なのかというと、ここでもちょっとした歴史認識が必要になる。

 今日のアメリカ型の株主資本主義では、株式のことをエクイティとかエクイティ・キャピタルと言い、株主資本をシェアホルダーズ・エクイティと言っている。けれどももともとのエクイティの意味とは衡平法から生まれた「信託」のことだった。

 エクイティという言葉も、委託者(受益者)の権利を公平に守るという意味から生まれた新概念なのである。14世紀には明確な意味をもちはじめ、ヘンリー8世の1535年に信託法(ユース法)が確立すると、大法官が「エクイティによる救済」を施すようになって、その判例がしだいに集合してエクイティの概念を普及させた。コモンローが基本的な決め事の本文(code)だとすれば、エクイティは付属文書(supplement)にあたるもの、ざっとはそのような価値観の関係だと見ていい。

 こうしてイギリスに、法律上の所有権(legal ownership)と、土地などの所有権(equitable ownership)とを区別する、汎用的なエクイティの考え方が浸透し、これがその後の株式会社における有限責任制の保護や、さらにはアングロサクソン・モデルにおける経営者の株主に対する受託者責任の重視につながっていった。

 すでによく知られているように、アングロサクソン・モデルにおいては、法人化された株式会社(共同出資企業)では、経営者(取締役と執行役員)は受託者で、会社と株主の利益に対しての忠実義務(duty of loyalty)と注意義務(duty of care)を負っている。そのぶん、広範な裁量権(執行権限)も与えられている。今日の取締役や役員の行動基準はここから発してきたものなので、ここから受託者が委託者(株主)に説明する(account for)という、いわゆる「説明責任」(accountability)も生まれた。

 こういうことはすべてコモンローとエクイティの考え方から派生したものだった。しかし、そんなことはイギリス人の自分勝手だったのである。

 以上のような特異なアングロサクソン・モデルの基本を理解するには、いったん、それとはいささか異なる大陸ヨーロッパ型の資本主義がどのようなものであるかを知っておいたほうがいい。

 そもそも「ヨーロッパ」という概念は、今日のEUに見られるごとく、地域や民族や人種や言語の実体をあらわしてはいない。古代ギリシア、ローマ帝国、ガリア地方、フランク王国、ライン川諸国(ラインラント)、イベリア半島勢力その他の、さまざまな社会経済文化が離合集散する共同体群が、あるときローマ・カトリック教会によって“統一体としてのひとつの規範”をもったことから、「ヨーロッパ」という超共同体が認識されてきたものだった。

 なかで、大陸ヨーロッパで法的な規範として重視されていったのが「ローマ法」である。風土も慣習も言語も異なる複数民族のヨーロッパ社会では、これらを統括する法典が必要だったからだった。そこはイングランドとは決定的に違っていた。いや、イングランドが変わっていた。

 たとえばドイツだが、ドイツは神聖ローマ帝国の昔から連邦制の分権国家群として成り立っていた。それが19世紀まで続いた。なぜそうなったかというと、有名な話だろうが、次のような変遷があった。

 962年にザクセン朝のオット11世が神聖ローマ帝国皇帝として戴冠したとき、いったんローマ・カトリック教会の世俗社会に対する権威が失われた。それまではキリスト教の聖職者が王国内部の大公や伯を牽制し、その力が王国ガバナンスの要訣となっていたのが崩されたのだ。しかし11世紀になって、ローマ・カトリック教会は中央集権的な教会体制を再構築し、教会の司祭職の叙任権を奪回する試みに出た。

 この叙任権問題をめぐっては激しいやりとりがあった。挙句、ローマ法王グレゴリウス7世がドイツ国王ハインリッヒ4世を破門し、1077年にハインリッヒ4世がイタリアのカノッサで法王の許しを乞うことになった。これが教科書にも有名な「カノッサの屈辱」だが、これを機会にローマ・カトリック教会はゲルマン系の諸国家を布教するにあたって、諸侯には自治権を、庶民には生活上の自由を認めるようにした。

 こうしたことがしだいにヨーロッパ各地におけるローマ法の定着を促した。加えてこの事情のなかで、そのころ成立しつつあった大学の教職者たちがローマ法を研究し、その影響をその地にもたらすという制度ができあがっていった。ドイツでは大学の教科書こそが法律になったのだ。イギリスが法曹団体によって外側から法をコントロールしたこととは、ここが大いに異なっている。

 ヨーロッパの資本主義は、12世紀の銀行業の確立から14世紀の小切手の利用や複式簿記の実験をへて、15世紀にはほぼその前提的全容が姿をあらわしていた。いわゆる商業資本主義の世界前史にあたる。

 この史的世界システムとしての資本主義が産業革命を促し、やがて強度のアングロサクソン・モデルと軟度のドイツ・イタリア型とアメリカ型などに分化していったことについては、また、それとは別に日本モデルやブリックス・モデルが登場してきたことについては、ましてそのおおもとのアングロサクソン・モデルがいったんサッチャリズムやレーガノミックスでそれなりの絶頂期を迎えながら、どうにも不具合を生じてしまったことについては、アナール派以降の説明でもウォーラーステインの説明でも必ずしも充分なものになっていない。

 そうなのだ、アングロサクソン・モデルはしばしば限界状況をきたし、それをそのたびなんとかくぐり抜けてきたというべきなのである。それがついにはエンロン事件やリーマン・ショックにまで至ったのだ。

 古い歴史の話はともかくとして、その後の現代資本主義における「イギリス問題」を見てみても、アングロサクソン・モデルがしばしば限界状況をきたすということは、決してめずらしいことではなかった。たとえば多国籍企業の時代でも、70年代から80年代にかけてのスタグフレーション(景気停滞とインフレの同時進行)の時代でも、もっと言うなら大恐慌の時代でも、そういう症状はあらわれていた。

 それらの症状が90年代以降は、たんにディレギュレーション(規制緩和)とリストラクチャリング(事業再編)とグローバリゼーション(経済管理の標準化)によって、乗り越えられようとしていたか、あるいはごまかされていたとも言えるわけである。ということは、ディレギュレーションとリストラクチャリングとグローバリゼーションの掛け声は、アングロサクソン・モデルの“ぼろ隠し”だったとも言えるわけだった。

 1993年に書かれたハムデン=ターナーとトロンペナールスの話題の書『七つの資本主義』(日本経済新聞社)には、資本主義をめぐる七つの対立が明示されていた。古くなった見方もあるが、いまなお参考になる対比点もあり、本書も踏襲しているので、あらためて掲示しておく。

①普遍主義(universal)と個別主義(particular)

 カトリックとプロテスタントに普遍主義があった。ラテン系やアジア諸国は経済的には個別主義を重視する。このいずれをもグローバリズムが覆ったのだが、その一方では地域ごとの普遍主義と個別主義の抵抗に遇った。

②分解主義(analytic rational)と総合主義(synthetic intuitive)

 要素に分解したがるのが分解主義である。つまりはスペシフィック(関与特定的 〈specific〉)にものごとを見たり、アンバンドル(切り離す)しながら事態を進めたりする。証券化のプロセスで、要素価値とリスクをアンバンドルするのがその例だ。総合主義は統合したがり、バンドルしたがりだが、ときに関与拡散(diffuse)になる。ネットワーク主義がこの傾向をもつ。

③個人主義(individualistic)と共同体主義(communitarian)

 個人主義はアングロサクソン・モデルの根底にある。ドイツ・イタリア・日本は共同体的であろうとすることが多い。このあたりのこと、エマニュエル・トッドの研究がある。しかし、ここでいう共同体主義(コミュニタリアニズム)については、いまはかなり深化し、また多様になっている。

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エマニュエル・トッド著『新ヨーロッパ大全Ⅰ』より作成

遺産相続に際して財産が平等に分配されるかどうかによって①と②に分類し、
さらに、大家族制度が支配的か、各家族制度が支配的かによって③と④に分けている。
こうして欧州諸国を4つのタイプに分類したもの。

④自己基準(inner directed)と外部基準(outer directed)

 アングロサクソン・モデルは株主や企業が自己基準をもってコーポレート・ガバナンスとコンプライアンスに当たることを前提とし、アジア型企業の多くは状況判断や社会変化に対応しようとする傾向をもつ。

⑤連続的時間(sequential)と同時的時間(synchronic)

 野球やアメフトはシークエンシャルに時間秩序が整っているスポーツゲームで、サッカーやラグビーはシンクロニックなゲームである。連続時間的な価値観は継続事業的な判断(going concern)をし、たとえばM&Aにおいても、M(merger)は合併によって新会社を設立する一方、A(acquisition)によって株式の一部取得を通して事業を継続させるという方法をとる。同時間主義はドイツや日本の徒弟制や、マンガ制作やアニメスタジオに顕著だ。

⑥獲得主義(achievemental)と生得主義(ascriptive)

 フランスではエリート養成学校グランゼコールの同窓生、なかでもENA(国立行政学院)の卒業生が高級官僚から天下って民間会社の経営者となり、政財界を牛耳ってきた。日本ならば東大法科にあたる。これが獲得主義だ。一方、生得主義は生まれながらの才能をどう伸ばすかという方向になっていった。

⑦平等主義(egalitarian)と権威主義(hierarchical)

 とくに説明するまでもないだろうが、これにタテ型とヨコ型が交差するとややこしい。たとえばフランスやドイツはヨコ型権威主義、スペインやシンガポールはタテ型平等主義の傾向がある。

 これらの対比特色のうち、アングロサクソン・モデルがどこを吸着し、何を発揮していったかというと、たとえば「分業」の思想や「株主重視」の発想は分解主義と個人主義がもたらした。「複利」の発想は連続時間的価値観から生まれた。株主資本主義は分解主義がもたらしたのである。一方、アメリカ型は保守もリベラルも自己基準的なので、集団に奉仕しながらも、個人がその集団に埋もれてしまうのを嫌うため、プロテスタントな自立性を組織的に求めようとしていく。

 これに対してドイツや日本は同時間主義的で、状況的な外部基準をおろそかにしないので、ついつい労使共同決定的になっていった。ドイツや日本にいまでも多数の中小企業群(Mittelstand)があって、それぞれが専門技術やノウハウをもって食品から自動車までを支えているのは、かつてはそれぞれのハウスバンクが機能していたせいだ。いいかえれば、ドイツや日本では、労使共同的であるから経営の透明性や説明の明示性が劣り、そのかわりに親方日の丸や業務提携が発達したということになる。逆にアングロサクソン・モデルでは、事態と機能を分解したのだから、それならつねに経営者や担当者の説明責任(アカウンタビリティ)が求められるわけである。

 こういった特色があるということは、アングロサクソン・モデルにおける「会社という法人」が、きわめて擬制的であるということを物語っている。ハイエクやフリードマンを擁したシカゴ学派などでは、会社というものははなはだフィクショナルなもので、取引関係者相互の「契約の束」(nexus)にすぎないという見解さえまかり通っていた。
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ハムデンターナーとトロンペナールス著『七つの資本主義』より

 アングロサクソン・モデルがつくりあげたしくみのなかで、無節操に世界に広がり、はしなくも価値の毀誉褒貶が激しく、最も説明がつかなくなったものがある。それは何か。会社ではない。議会や政府でもない。貨幣や通貨というものだ。

 そもそも社会は物々交換の経済をもって始まった。そこでは互酬的で互恵的な交換が通例になっていた。そこに、共同体ごとに原始的な貨幣が使われるようになった。それでもそれらはいわば「内部貨幣」であったのだが、やがてそのような貨幣に「交換手段」(medium of exchange)と「計算単位」(unit of account)があらわれてきた。そうなると、人々の異時点あるいは異地点のあいだでの消費と支払いのズレを、貨幣がしだいに保証するようになり、そのうち貨幣に「貯蔵手段」(store of value)が派生した。
 それだけならまだしも、生産に従事する労働の対価を貨幣で支払うようになって、貨幣は「もの」にくっついて動くだけではなく、「ひと」にくっついて労働や生活にも所属することになった。こうして貨幣は法律や言語に匹敵するパワーの象徴になっていったのである。

 そうした貨幣の本質をどのように議論するかということは、とんでもなく難しい。これまでもその議論をぞんぶんに組み立てたという思想はきわめて少ない。近々、ゲオルグ・ジンメルの『貨幣の哲学』(白水社)などを通して、そのあたりを千夜千冊したいと思うのだが、それはそれとして、今夜は、今日の貨幣の問題で、次のことについて言及しておかなければならないだろう。

 第一には、貨幣は地球上のいろいろな場所で発行され、使用されてきたにもかかわらず、これを通貨とし、世界通貨として金などの金属価値から切り離して不換紙幣にしてしまったのは、ひとえにイギリスとアメリカの事情によっていたということ、つまりはアングロサクソン・モデルがもたらした出来事だったということだ。明治日本が列強に伍するために「円」をつくらされたのも、イギリスの画策だった。

 第二に、今日の貨幣は政府と銀行などの「取り決め」(agreement)によってのみ、その価値が裏付けられているにすぎないということだ。これを「貨幣法制説」というのだが、そのことによってだけ、ポンドやドルや円や元やフランという「国民通貨」が成り立っているわけである。

 この国民通貨には、現金通貨と預金通貨があるのだけれど、今日ではそのいずれもが「信用通貨」とみなされている。信用通貨というのは銀行の債務としての銀行信用によって裏付けられているという意味である。これは、通貨は銀行の与信行為によって生まれ、それが同時に銀行にとっての負債に相当するということを意味する。

 第三には、貨幣が利子を生むようになったということだ。この習慣が本格的に生じたのは、イギリスが三十年戦争後のウェストファリア条約以降、国家が保有していた通貨発行権を民間銀行に委譲したことからおこった。戦費を調達するためである。このとき例のジョン・ローが大活躍したということについては、1293夜のミルクス・ウェイトらの『株式会社』(ランダムハウス講談社)でも詳しく述べた。問題は、そのとき、国家が戦費調達の代償として国債を発行し、それを銀行に引き受けさせることの見返りに、通貨発行権とともに利子を付ける権利を認めたということなのだ。

 ちなみに、この利子をこそ問題にしたのがシルビオ・ゲゼルの自由貨幣論やイスラーム経済というもので、いまでも独特の経済価値論を発揮しつづけているので、これについてもいずれ千夜千冊したいと思っている。

 第四に、通貨は世界資本主義システムが進展するなかで、しだいに為替相場と密接な関係をもつようになり、やがて固定相場制から変動相場制に移行したとき、一方では「基軸通貨」の思想をもたらし、他方では「無からつくる通貨」(fiat money)の可能性を開いてしまったということだ。

 そして第五に、ここが今夜の一番の眼目になるのだろうが、通貨の歴史は、株式が「擬似貨幣」の役割を担うことを許したということである。エクイティの発想は、ここからは金本位制でも不換紙幣制でもなく、株式本位制としての資本主義に達したということなのだ。株式は計算単位としての役割をもちえないにもかかわらず、その他のありとあらゆるパワーを吸収することができるようになったのだった。

 株式は国民通貨ではないし、銀行の負債でもない。また確定的な利子も付かない。それなのに現代の資本制は名状しがたい情報価値の評価の変動を媒介に、現代貨幣の本質である「無からつくる通貨」の可能性をもってしまったのである。

 ここにこそ、アングロサクソン・モデルがつくりだした最も強力で最も理不尽な「株式資本主義」と「市場原理型資本主義」の特徴があらわれていた。

 とりあえずの結論ではあるが、ぼくとしては以上のような見方がいいと思っている。日本のビジネスマンは、そろそろアングロサクソン・モデルに代わるモデルを構想するか、もしくはエクイティの英米的ロジックに明るくなるべきなのである。

【参考情報】
(1)本書の著者の渡辺亮は一橋大学とロンドン・ビジネススクールの出身。野村総研で企業財務調査、為替予測、アメリカ経済予測に携わったのち、ワシントン支店長をへて、ヨーロッパ社長となっている。1999年、いちよし経済研究所の社長となり、2002年からは法政大学経済学部教授になった。『ワシントン・ゲーム』(TBSブリタニカ)、『英国の復活・日本の挫折』(ダイヤモンド社)、『改革の欧州に学ぶ』(中公新書)などの著書がある。

 本書はテーマが章立てで分けられているわりに、さまざまに重複していて、実はそこがおもしろい。本来なら未整理な原稿ということにもなるのだが、それがかえってネステッドな解説の複合性を発揮したのだ。これは「ケガの功名」なのだけれど、ときに読書にはこういう僥倖をもたらすことがあるものなのである。

(2)本書に先行する本も後追いする本もいろいろある。先行例としてはハムデンターナーとトロンペナールスの『七つの資本主義』(日本経済新聞社)、ミシェル・アルベールの『資本主義対資本主義』(竹内書店新社)、ブルーノ・アマーブルの『五つの資本主義』(藤原書店)、ピーター・ドラッカーの『ポスト資本主義社会』(ダイヤモンド社)などが有名だ。後攻例はいくらでもあるから省くけれど、たとえばアラン・ケネディの『株式資本主義の誤算』(ダイヤモンド社)などはどうか。

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2010年6月11日

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世界資本主義
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ジョン・ミクルスウェイト
アルフォンス・トロペンナールス
チャールズ・ハムデンターナー

アングロサクソン・モデルの本質―株主資本主義のカルチャー 貨幣としての株式、法律、言語

ダイヤモンド社
七つの資本主義―現代企業の比較経営論

日本経済新聞社
資本主義対資本主義―フランスから世界に広がる 21世紀への大論争

竹内書店新社
五つの資本主義―グローバリズム時代における社会経済システムの多様性

藤原書店
ポスト資本主義社会―21世紀の組織と人間はどう変わるか

ダイヤモンド社
株主資本主義の誤算―短期の利益追求が会社を衰退させる

ダイヤモンド社
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“コスパ・タイパ重視で、SNSに若い頃から慣れ親しんで「成功者」への憧れが人一倍強いZ世代が最終的に行き着く先が…。

 ※ 今日は、こんな所で…。

“コスパ・タイパ重視で、SNSに若い頃から慣れ親しんで「成功者」への憧れが人一倍強いZ世代が最終的に行き着く先が…。
https://orisei.tumblr.com/post/707477337048055808/hkdmz-%E3%82%B3%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%91%E9%87%8D%E8%A6%96%E3%81%A7sns%E3%81%AB%E8%8B%A5%E3%81%84%E9%A0%83%E3%81%8B%E3%82%89%E6%85%A3%E3%82%8C%E8%A6%AA%E3%81%97%E3%82%93%E3%81%A7%E6%88%90%E5%8A%9F%E8%80%85%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%86%A7%E3%82%8C%E3%81%8C%E4%BA%BA%E4%B8%80%E5%80%8D%E5%BC%B7%E3%81%84z

 ※ デジタル化、IT化、ITリテラシーの発達、SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)…。

 ※ これらは、全て、人の価値観を、「プロセス(結果に至る過程自体)」軽視・無視の方向へと向かわせる…。

 ※ AIによる、人の思考の「確率論」への変容もそうだ…。

 ※ そして、これでもかと流通する「煌びやかな成功者」「夢のような成功体験」の洪水のような流通が、人の「欲望」だけを肥大化させる…。

 ※ 社会は、「手っ取り早く、結果だけを手に入れようとするヤカラ」で、溢れかえる…。

『“コスパ・タイパ重視で、SNSに若い頃から慣れ親しんで「成功者」への憧れが人一倍強いZ世代が最終的に行き着く先が「パパ活」「闇バイト」「強盗殺人」なの、当然の帰結感あって最悪すぎる”』

外国による偽情報見破りなど認知戦への対応急務=松野官房長官

外国による偽情報見破りなど認知戦への対応急務=松野官房長官
https://www.epochtimes.jp/2022/12/127854.html

 ※ あぶねー、あぶねー…。

 ※ この世の中、流通している「情報」は、何らかの「バイアス」が掛かっていると見た方がいい…。

 ※ このサイトの情報もな…。

 ※ だから、重要なのは、「どんな情報を、摂り入れるのか」では無い…。

 ※ 接した「情報」を、冷静・沈着に「解析・分析」できるのか…。そういう、「解析・分析能力の基盤」を、自分の中に「構築」できているのかだ…。

 ※ 「情報」とは、そういう「基盤」を構築していくための、「材料」に過ぎない…。

『[東京 12日 ロイター] ? 松野博一官房長官は12日午後の会見で、日本の防衛政策との関連で偽情報を見破るなどの「認知領域」を含めた情報戦への対応が急務であるとの見解を示した。

松野官房長官は、ロシアによるウクライナ侵略を踏まえ「わが国の防衛の観点から、諸外国との関係で偽情報の見破りや分析、迅速かつ適切な情報発信を中心とした認知領域を含む情報戦への対応が急務である」と指摘した。続けて「偽情報発信の無力化や適切な情報発信を実施するための所要の能力・体制を整備していく」と語った。

一方、一部で防衛省が人工知能(AI)技術を使い、交流サイト(SNS)を使って国内世論を誘導する工作の研究に着手した、と報道されたことに対し、松野官房長官は「報道には事実誤認があり、政府として国内世論を特定の方向に誘導するような取り組みを行うことはあり得ない」と述べた。

共同通信は今月9日、インターネット上で影響力があるいわゆる「インフルエンサー」が、防衛省に有利な情報を無意識に発信するように仕向け、防衛政策への支持を広げたり、有事で特定国への敵対心を醸成したりすることを目標にした工作の研究に着手したと伝えた。』

管理社会は、共産国家特有の現象ではない。

管理社会は、共産国家特有の現象ではない。 : 机上空間
http://blog.livedoor.jp/goldentail/archives/30320875.html

 ※ 今日は、こんな所で…。

『私は、このブログで、武漢肺炎を発端にした、中国共産党が目指す、高度な管理社会について、いろいろと批判気味に書いてきました。健康バーコードを利用して、都合の悪い人間を強制隔離したり、監視カメラの顔認証システムと紐づいた、個人単位の社会信用システムの活用。デジタル人民元の普及による、個人の資産や購買履歴を丸裸にする試み。特に、社会信用システムで、中国政府が共産党にとって、有用か害かを点数で評価する「信用スコア」は、点数が悪化すれば、その個人は、公共サービスから排除される事で、一生に渡って不利益を被る事になります。例えば、公職から排除。高速鉄道や飛行機での移動禁止。親族の大学進学の取り消し。現在の職から失職。特定の場所への出入りの禁止。共産党にとって、危険分子である人間が、社会に影響を及ぼす手段を排除する事で、将来のトラブルの芽を摘むわけです。そして、立ち寄った場所などの履歴から、反共産党的な集会などに参加していれば、その組織ごと壊滅させる事を狙っています。

とても判り易い例で言うと、冬季・北京オリンピックが開催された時に、人民に交通信号を遵守させる為に行った事例があります。横断歩道で信号を無視すると、近くに設置された大型のモニターに、その人間の個人情報と、顔写真が表示されて、「この人物は、信号を無視しました」と表示されるのですね。そういう罰則を即時に与える事で、交通信号を遵守する習慣を強制的に定着させたのです。全人民の個人情報を管理し、監視カメラの顔認証システムと紐づいているからこそできる事です。

中国共産党の監視社会は、国の治安の安定をかけたガチのシステムなので、欧米の基準では考えられない程に個人のプライバシーに踏み込みます。独裁政権下では、それが許されるのです。

では、民主主義社会では、そのような事が起きないかと言えば、実は人間社会を管理する方法論というのは、思想ごときでは左右されなかったりします。形と程度は違えど、中国のような監視社会というのは、別の必要性から結果として似たような制度として出てきます。このブログの以前の投稿でも、数回取り上げましたが、ロシアとアメリカというのは、まったく社会体制の違う国として認識されていますが、社会に起きている個々の現象を観察すると、原因は違えど、双子のように似ています。つまり、問題に対応する人間の行動・想像力というのは、思想ごときでは変えられないくらい、限界があり、起きている現象だけ見れば、似ているというわけです。

では、アメリカで起きている監視社会制度とは何かと言うと、城塞街と呼ばれる、そこに住むには、一定額以上の年収を得ている富裕層しか許されない、常に警備員と周囲を取り囲む高いフェンスに守られた住宅区画全体が城塞と化した街です。城塞街が出来た原因は、アメリカの全体的な治安の悪化・犯罪の増加です。その為、街の区画全体を高いフェンスで囲み、24時間、専属の警備員が、区画に出入りする人間を監視して治安を保証する住宅地が、全米各地に出現しています。

行政が市民に押し付けたわけではないですが、セキュリティーに多額の出費を容認できる富裕層が、自らの判断で、外界と仕切られた治安の良い区画を作り出し、その中で生活を始めたのです。人によっては、プライベート・ジェットを持っていて、区画内にある飛行場から、出勤する人もいます。つまり、犯罪が存在する外界と、一切の接触なしに生活ができるわけです。

さて、ここまで裕福ではないが、上級階層に属する市民は、市の行政を乗っ取って、自分達で管理する事を始めています。そこそこ上流の人にとって、必要の無い公共サービスというのが存在します。例えば、図書館・公民館・公立病院・・・。上流の人にとって、教育も治療も、プライベートな出費で賄えます。それよりも、重要なのは、自分の財産を犯罪から守る為の警察力です。その為、そこに住む市民全体の福祉を考える市から独立して、自治管理をする新しい行政区画として独立し、そうした福祉の予算配分を思いっきり減らして、警察も民営化する事で効率化し、自分達に住みよい環境を作るというブームが起きています。

こういう行政が行われると、収入の低い層にとって、その行政区画自体が、とても住みにくくなります。安く利用できる施設が閉鎖されたり、貧民向けの救済サービスが廃止されるからです。それに頼る必要の無い、上流層にとって、そういう支出は無駄に過ぎません。結果として、低所得者が区画からの転出を余儀なくされ、残った上級市民にとっては、治安の良い街が自動的に実現できるという仕組みです。治安が良くなれば、その区画の地価も上がり、再開発も進むでしょうから、二度と戻ってこれなくなります。

国家が問答無用で人民に押し付ける監視と、市民が自由意志で創り上げた監視とでは、根本的な意味合いが違いますが、結果で見ると、その気持ち悪さは、とても似ています。アメリカでも、自身の財産と生命を守るという名分の元に、緩やかな個人の監視と、市民の選別が始まっているのです。』

〔資本主義というものに対する理解〕(再掲)

〔資本主義というものに対する理解〕(再掲)
https://http476386114.com/2020/07/07/%e7%bf%92%e8%bf%91%e5%b9%b3%e3%81%af%e3%81%aa%e3%81%9c%e9%a6%99%e6%b8%af%e5%9b%bd%e5%ae%b6%e5%ae%89%e5%85%a8%e7%b6%ad%e6%8c%81%e6%b3%95%e3%82%92%e6%80%a5%e3%81%84%e3%81%a0%e3%81%ae%e3%81%8b%ef%bc%9f/ 

『「資本主義」ということが言われているので、オレの理解を語っておく…。

 「資本主義」とは、「資本自由主義」ということで、「生産手段」「利益を産出するもの」である「資本」の、自由な活動を「国家として」「法秩序」として「認める」ものだと、考える。平たく言えば、「自由に利益を獲得すること」を認める、「獲得した利益を、自分のものにする(私有する)こと」を、国家として、法秩序として認めるという制度だ、と考える。

 その前提として、人間の生存・生活にとって、「私有財産(自分のものである財産)」は、必要欠くべからざるものだ…、という認識がある…。

 そのさらに前提として、そういう「私有財産」は、「人間としての尊厳」には、必要欠くべからざるものだ…、という認識が横たわっている、と考える。

 しかし、現実社会においては、こういう「自由」を制度として肯定すると、「格差」が拡大してしまう…。「自由競争」の名の下に、「利益を獲得していく」能力に差異がある以上、それに長けている者とそうでない者の差異が生じてしまうからだ…。

 その「弊害」「問題点」を鋭く抉り出したのが、カール・マルクスの「資本論」なんだろう(全部を読んではいない)…。

 「人間としての尊厳」に資するものだったはずの制度が、結局は「人間としての尊厳」を破壊してしまうことになるという、大矛盾だ…。

 さりとて、この「私有財産」を否定して、「共産革命」なるものを起こして、資本家・大地主を打倒し、彼らからその「私有財産」を実力で奪取したところで、次の問題が生じる…。

その「財産」を、どう「管理」していくのか、「誰が」管理していくのか、という問題だ…。

「国有財産」「公有財産」「共有財産」と呼称を変えたところで、「どのように・誰が管理していくのか」という問題は、消えて無くなるわけじゃない…。

 「財産」というものが、「人間の生存」にとって必要不可欠であるということは、消えて無くならないし、数が限られている以上、それの争奪戦、あるいは、「その管理権」の争奪戦は、消えて無くなるものじゃない…。

 人は、永遠にそういうことを、争っていく存在なんだろう…。』

詐欺になぜだまされる 脳の構造と対策、専門家が解説脳科学者に聞く「脳」の活性化術

詐欺になぜだまされる 脳の構造と対策、専門家が解説脳科学者に聞く「脳」の活性化術https://style.nikkei.com/article/DGXZQOUC10BFU0Q1A211C2000000?nra 

 ※ 『前頭前野のメモリのことを「ワーキングメモリ」と言います。訳すると、作業記憶。ちょっと前にしていた作業を記憶し、再び必要になったときに取り出すというもの。私はこれを「脳のメモ帳」と呼んでいます。このメモ帳の枚数は、年齢とは関係なく、誰もが3~4枚しか持っていません。私たちは、「あれ」「これ」「それ」くらいしか同時に処理できないのです。』…。

 ※ これは、もう、「確立された知見」のようだ…。

 ※ 同時に、並行して処理できるのは、「3個まで」か…。

 ※ 1個に集中していても、昨今は処理が怪しくなって来てるな…。

『誰でも年齢を重ねると記憶力が低下したり、素早い判断ができなくなってきたりするもの。脳の活動が低下しているのではないかと不安になっているときに、ちまたで横行するオレオレ詐欺や還付金詐欺などの「特殊詐欺」の話を聞くと、なぜそんなことになるの? どうしてだまされるのか信じられないと思う人も少なくないだろう。年を取って脳が老化すると、本当にだまされやすくなるのだろうか。公立諏訪東京理科大学工学部教授で脳科学者の篠原菊紀さんに聞いた。

年齢は関係ない? だまされるときの脳の仕組みとは

――今回は「だまされやすさ」について教えてください。ニュースなどで特殊詐欺の被害に遭った人のエピソードに接すると「ええっ、どうして疑わなかったの?」と思う一方、「いや、自分だってその場になればどうなるかわからない」と不安になったりもします。

年齢とともに脳の判断力も衰えてくるわけですから、やはりだまされやすくなってしまうものなのでしょうか。

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篠原さん まず、脳の特性から考えると、高齢者であることを抜きにしても、「そもそも人の脳は、複数のことを同時並行処理できない」ということが前提となります。

人を人たらしめているのは脳の「前頭前野」という部分。知覚・言語・思考など知性をつかさどる部分です。

前頭前野は、脳の別の場所に格納されている記憶や情報を意識に上げてきて、何かのミッションがあるとそのたびあれこれ検討します。この機能があるからこそ、人類はどんな状況に置かれても柔軟に適応し、あらゆる環境下で生き抜いてきました。

このように優れた働きをする前頭前野ですが、ここはコンピューターのキャッシュメモリのように必要な情報を一時的に保存して情報処理をするところ。実は、その性能には限界があるのです。

前頭前野のメモリのことを「ワーキングメモリ」と言います。訳すると、作業記憶。ちょっと前にしていた作業を記憶し、再び必要になったときに取り出すというもの。私はこれを「脳のメモ帳」と呼んでいます。このメモ帳の枚数は、年齢とは関係なく、誰もが3~4枚しか持っていません。私たちは、「あれ」「これ」「それ」くらいしか同時に処理できないのです。

ですから、いくつもの情報をどんどん入れられ、その全部が重要だ、と言われてしまうと脳のメモ帳では処理が追いつかなくなるのが当たり前です。

――ああ、特殊詐欺の加害者はその脳の仕組みをまさに利用しているわけですね。

篠原さん そう。ある人がこう言い、次に違う人から電話がかかってきてこう言い、指示される…と、情報過多にして、脳のメモ帳を使い切らせる状態を意図的に作っているのです。

詐欺の手口を考えてみてください。どれも、「大変な一大事」というインパクトの強い情報をぎゅっと詰め込みます。

・孫や息子が事故や事件を起こした。だから、示談金が大至急必要(オレオレ詐欺)

・あなたの口座が犯罪に利用されている。だからすぐにキャッシュカードを交換しないと危ない(預貯金詐欺)

・未払いの料金があるという架空の事実を口実にし、金銭を脅し取る、だまし取る(架空料金請求詐欺)

失恋をしたときだって、仕事が手につかなくなります。悲しみや後悔、その人と思い描いていた未来が失われるという喪失感。脳のメモ帳はあっという間に4枚のうち3枚が使い切られてしまう。脳の余裕がなくなってしまいます。

だから、特殊詐欺の加害者は「ストレスフルな情報や人をたくさん入れる」ことで一気に圧をかけてくる。高齢であろうとなかろうと、このテクニックのもとでやられると、人は普段通りに思考できなくなり、稚拙な判断しかできなくなります。

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『不安をあおられても、うれしいときも、だまされやすくなる

――なるほど、だます側の巧妙な手口は、脳のメモ帳の余裕をなくす手口なのですね。

一方で、脳の前頭前野は年齢とともにその働きが低下する、と前回(「人事異動は好機!ミドルも脳はアップグレードしまくり」)伺いました。高齢だからこそのだまされやすさ、というのもあるのでしょうか。

篠原さん ワーキングメモリの力は、18歳から25歳をピークに低下する傾向があります。だから高齢になるほど狙われやすい、引っかかりやすいと言えるでしょう。だます側からすると「落としやすい」ターゲットです。

ただ、高齢者一般というよりも、だます側は無数の対象に電話をかけています。おそらく、その大多数の中でも、急にストレスをかけられることに脆弱な人、ワーキングメモリの力が落ちている人が引っかかりやすいということです。

――メディアなどでは、「相手と話してしまうとだまされてしまうから、留守電にしておくことが一番」と言われています。やはり、受け答えしてしまうなかで、怪しいぞ、と我に返るのは難しいのでしょうか。

篠原さん 怪しい、と思う人のほうが多いはずですよ。でないと詐欺被害はもっと爆発的に増えているでしょう。だます側からしたら、無数の電話をかけ続けるなかで相手は、たまたま引っかかってくれた希少な人。だから、同じ人が繰り返し狙われたりするのです。
――詐欺の話で言うと、「過払い金があったのでお金が戻ります」といった還付金詐欺や、ネット上で疑似恋愛の関係を作ってお金を要求する「ロマンス詐欺」など、一見するとうれしいことと組み合わせるようなだまし方もありますよね。

篠原さん ストレスフルなことだけでなく、うれしいことも脳のメモ帳を食うのです。例えば、うつ的になりやすいイベントとして、つらい出来事だけではなく仕事の昇進などプラスの出来事でもプレッシャーになる、ということは心理学でも知られています。

――ワーキングメモリはいろんな要因で食われやすいのですね。

篠原さん その場限りのキャッシュメモリですからね。

ちなみに、だまされるときだけではありません。日常的にこんなことがありませんか。人との約束が3つ、4つ重なると最初の1つがきれいに頭から飛ぶ。2階に上がったのに、「なぜ自分はここに来たんだっけ」と用事が抜ける。会話中にいいことを思いついたのに、話し出すと内容が飛んでしまう、とか…。

――ありますあります。私は料理中に調味料のメモを見ているときに横から話しかけられるとその分量をすっかり忘れてしまいます。

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『だまされにくい判断力=ワーキングメモリを鍛えるには?

――だまされにくくするためにも、また、日々の判断力の低下に歯止めをかけるためにも、何らかの工夫をしたいのですが、おすすめの脳のトレーニング法はありますか。

篠原さん 認知症の疑いがある方の認知機能を調べる際に、ワーキングメモリの働きをテストする項目があります。そのテストを紹介しましょう。

脳のメモ帳を何枚か使う感覚を感じてもらうためなのですが、これを脳科学では「ワーキングメモリの多重使用」と呼びます。

これから言葉を1つずつ出します。そのあとちょっとした知的作業をしてもらいます。

机 ユリ 氷

この3つの言葉を覚えてください。

富士の山

この言葉も覚えてください。

では、富士の山を逆から言葉にして呼んでください。

はい、では最初の3つの言葉を思い出してください。

どうですか? 意外と出てこないでしょう? これが、脳のメモ帳を複数使う、ということです。何かを覚えて、余計なことをやって、また思い出す、というもの。このような、ちょっと「面倒くさいな」という作業を脳に課している最中に前頭前野が活性化します。

――まさに記憶と作業の組み合わせ、ワーキングメモリなのですね。

篠原さん もう一つ、人と話をする、というのも脳のネットワークを広げやすくする大切な行為です。脳には「出力依存性」という特性があります。

入力しよう、覚えよう、と思ってもさほど新しい情報ネットワークは作られないのですが、出力しようとしたときに、記憶の引き出しである「海馬」がその情報を「必要なもの」と判断し、情報ネットワークを構築しやすい状況にするのです。

面白い、と思ったこと、今日あった出来事を人にしゃべってみる。伝えてみましょう。話すのはもちろんですが、文字で起こす、というのもいいですよ。

――インプットも大事だけれど、アウトプットをすれば、よりいっそう脳が活性化するのですね。今回のお話も、読者のみなさんに「こんな面白いことが書いてあった」とSNSで広めてもらいたいですね! 

◇   ◇   ◇

次回は、話題になった「スマホ脳」。生活に欠かせなくなったスマホは果たして脳の老化につながるのか、篠原さんの意見を聞く。

(ライター 柳本 操)

篠原菊紀さん

公立諏訪東京理科大学工学部情報応用工学科教授。医療介護・健康工学研究部門長。専門は脳科学、応用健康科学。遊ぶ、運動する、学習するといった日常の場面における脳活動を調べている。ドーパミン神経系の特徴を利用し遊技機のもたらす快感を量的に計測したり、ギャンブル障害・ゲーム障害の実態調査や予防・ケア、脳トレーニング、AI(人工知能)研究など、ヒトの脳のメカニズムを探求する。

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ひらめきは一人では生まれにくい 巻きこむのが大事脳科学者に聞く「脳」の活性化術

ひらめきは一人では生まれにくい 巻きこむのが大事脳科学者に聞く「脳」の活性化術
https://style.nikkei.com/article/DGXZQOLM311ZG0R31C22A0000000?channel=ASH00002?n_cid=TPRN0016

 ※ たぶん、「ひらめき」というものは、「今までは、全く関係ないと認識されていた事がらと事がら」が、実は「深くつながっていた」ということを、発見することなんだろうと思う…。

『新たな市場ニーズを探ったり、これまでにない企画を求められたりするとき、「いいアイデアをひねり出したい」「ひらめきたい」と強く願うほど思考が硬直し、何もできなくなるといった経験は誰しもあるだろう。

公立諏訪東京理科大学工学部教授で脳科学者の篠原菊紀さんは、「自分の脳だけでひらめこうと思いすぎていませんか?」と話す。

私たちの脳は広く世界に開かれた「情報器官」である、という発想に切り替え、人と話すなどどんどんアウトプットすることも効果的だという。篠原さんに新発想の「ひらめく方法」について聞いていこう。』

『たくさん情報を入れれば、ひらめきの元は勝手に生まれてくる

――前回(「『ひらめき脳』は『居眠り』と『ながら』で作られる?」)は、「ひらめくための秘策」として、「ぼーっとすること」「まどろむこと」が効果的であるということや、ひらめくためには神経ネットワークがつながりあうための素材(情報)を入れる作業も不可欠である、ということを教えていただきました。

資料を読み込んだり、ああでもないこうでもない、と頭を抱えるプロセスも避けて通ることはできないのだなと納得するとともに、もう一つ伺いたいことがあります。「資料も読んだ。とことん考えた。けれども、いいアイデアが出てこない。最初の1行がどうしても書けない」というときがかなりの頻度であるのですが……。

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篠原さん それは、ひらめくための素材がそろいきっていないためかもしれません。

また、「これを書いたら、いいことが起きる」という達成への予感が出来上がっていたなら、あれこれ考えなくても自然と「書きはじめる」ことが起こります。その達成への予感が未完成だったという可能性もありますね。

というのも、脳科学でいうと、「やる気は行動と快感の結びつきによって起きる」からです。そのためには、「行動をしたら快感を得た」という体験を繰り返すことが重要です。体験の繰り返しによって、「まず1行書く」ことがさほど負担感なくできるようになってきます。

そして1行書いてみると、足りない情報は何かがわかり、再びリサーチする、この繰り返しで、いわゆる「脳の拡張作業」が行われていきます。

――「脳の拡張作業」。わからないことを繰り返し調べると脳の拡張が起こっていくのですか?

篠原さん 統計処理をするのだって、結局のところデータを集めて脳の拡張を行っているわけです。それを行ううちに「つながり」が自動的に生まれ、ひらめくときがやってきます。

一方で、私は最近思うのですが、「ひらめかない」「アイデアが浮かばない」「書けない」と行き詰まる方の多くは、脳を「固定的にとらえてしまっている」状態ではないかということです。

――脳を固定的にとらえる――。それはどういうことですか。

篠原さん 脳って、どんなものだと思いますか? 自分の頭蓋骨の中の臓器、とだけ思っていたら、それは違います。

脳は頭蓋骨の中だけにある「固定的なもの」ではなく、一種の「情報処理器官」であって、その情報ネットワークは世界とつながっています。インターネットしかり、SNSしかり。星空や月を眺めることによっても何らかの情報が入ってきています。

脳から始まる空間的広がりは無限である、と考えてみませんか。

何かが足りていないと思えばその情報にアクセスすればいいのです。「1行目が書けない」、すなわち情報のつながりがまだ見えてこないのなら、たくさん情報を入れれば、何らかのつながりが「勝手に」出来上がっていく。それが脳の良さなのです。』

『ひらめきに固有性や所有権を持とうとしないほうがいい

――脳はいろいろな情報処理をする「頑張り屋」だと思っていたのですが、確かに世界中の情報とやりとりしているという面もあるのですね。とても新鮮なことを聞いたような気がします。

確かに脳を固定的にとらえ、「とにかく自分の頭で思いつこう」としていたのですが、もっと他の情報ネットワークに頼っていいということですね。

篠原さん 例えば今こうして僕とあなたが話しているときにも互いに情報ネットワークをやりとりしていて、どこかでひらめきが起こり、それが伝播していくわけです。自分の脳の中で必ずしもひらめく必要はなく、ネットで気軽に情報を求めることだって「集団知」を生かすということですよね。

よく、「トップクリエーターの頭の中ではつねにひらめきが起こっている」なんて思われがちですが、そんなことはない。

個体の持っている影響力なんてそんなに大きくないのです。広くつながりあう情報ネットワークのたまたまの結節点が自分の脳で、同じようなひらめきを持つ人はそこら中にいて当たり前なのです。

――例えるなら、パソコンであってもスマホであっても、内蔵メモリにデータを詰め込むのではなく、クラウド上に保存したり、ネットワークを広げる、というようなことでしょうか?

篠原さん その通りです。

AI(人工知能)には、「教師あり学習」という、正解を教えるシステムがあります。「これはブタであり、イヌではない」というような情報の学習をとにかく数多くやっていくと、AIの中に新たなカテゴリー判断が生まれます。

最近の脳科学の見方からすると、「カテゴリーを覚えるのではなく、カテゴリーを作ることこそ脳の働きの根幹である」、ということ。となると、外界とつながり、ネットワークを広げ、情報をさかんにやりとりしないでいると脳はどんどん固定化し、ひらめきにくい脳になってしまいます。

写真はイメージ=PIXTA

僕たち学者の感覚から言っても、「発見は自分の手でしなければ」という気分にとかくなりがちなのですが、そもそも科学だって先人の知恵の蓄積を受け継ぎながらどこかの段階で誰かがひらめく、という連続で成り立ってきたわけで、もともとそういった仕組みであったことが今の時代になり顕在化してきたのだと思います。

このような考え方はこれからの企業にも必要です。市場ニーズに合わせる、というよりもニーズを新たに作り出さないといけない時代ですからね。ひらめきに固有性や所有権を持とうとするのはナンセンス。やめたほうがいいと思います。』

お坊さんも悩んでいた 寺の掲示板に何を書く?国葬の日に

お坊さんも悩んでいた 寺の掲示板に何を書く?国葬の日に
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220927/k10013839121000.html

 ※ 今日は、こんなところで…。

『寺の掲示版が話題です。

「大丈夫。」

「仏の顔は何度でも」

「コロナよりも怖いのは人間だった」

心にスッと入り込み、じわっとくることばの数々。世相を反映することばも目立ちます。
では国葬の日に何を書くのか?

掲示板の中の寺の人たちも頭を悩ませていました。
(ネットワーク報道部 高杉北斗 鈴木彩里 名古屋局 三野啓介)

心にしみることば

寺の掲示板はネットでも話題です。

さまざまなことばを自由に書いて広く教えを伝える場とされ、「掲示伝道」と言われています。よく考えられた「じわっ」と来るものが多く、話題になるのです。

「大丈夫。」

新型コロナが広がった2年前から太く大きく書かれたこの文字を掲げているのは東京・八王子市にある延立寺。

読み取り方は人それぞれですが、コロナ禍の不安の中でも、前に進もうよと背中を押しているようにも感じます。

社会の動きをとらえて

そう、「仏教伝道協会」によると掲示板は明治時代にはあり、かつてはお経の一節や当時の天皇が詠んだとされることばなどを掲げるのが主流だったとされています。しかし最近は世相や社会の動きをとらえてことばを選ぶケースも結構あるのです。

エリザベス女王が亡くなった際に、女王が話したことばを掲げたのは東京・台東区の金嶺寺です。

「行動と熟考。そのあいだで上手くバランスを取らなくてはいけません」

住職を務める末廣正栄さんは、このことばが仏教の教えにも通じると思って選んだそうです。

住職 末廣正栄さん

仏教には対立する立場を離れ、どちらにも偏らない中道という考え方があります。対立や戦争がやまない時代、女王のことばがバランスを大事にする教えに通じると思えたんです。
国葬の日、掲示板は

そして、安倍元総理大臣の戦後2回目となる国葬が行われたきょう(27日)。

ふだん、世相をとらえたさまざまなことばを考える寺がどんなことばを掲載するのか。

熊本県湯前町にある明導寺は悩みました。

この寺が毎月2回、掲載することばの中には「輝け!お寺の掲示板大賞」(公益財団法人 仏教伝道協会主催)で賞をとったこともあり、ハッとさせられるものがあります。

自分の煩悩を見つめ直してほしいと、主催者が2020年の大賞に選んだのが明導寺の「コロナよりも怖いのは人間だった」。

ほかにも「真似をするときにはその形ではなくその心を真似するのがよい(渋沢栄一のことば)」などその時々に大事だと思ったことばを掲げています。

住職の藤岡教顕さんは国葬が行われるきょう、皆が共感できる新たなことばがないか、何か張り出せないか考えましたが、悩んだ末、掲載をやめたといいます。

国葬をめぐって賛否が分かれる中では、慎重にならざるを得なかったということです。

藤岡さん自身が、銃撃の事件の日に安倍元総理大臣の地元の山口県にいて、ショックを隠せない人の姿を見たことも理由のひとつといいます。

明導寺住職 藤岡教顕さん

住職 藤岡教顕さん

賛成の人も反対の人も、立場にかかわらず納得できることばを書きたいと思いました。

お経の中にもそうしたことばがないかと、探したのですが、なかなか難しいと感じて、今回は見送りました。

きょう何か掲載できることばはないか、考えを巡らせたものの、そのことばが見つからず新たな掲載をやめた寺は他にもありました。

毎日更新する寺は?

考えに考え抜いて、ことばを紡ぎ出した寺もあります。

広島市の中心部にある超覚寺。毎朝、新しいことばを張り出しているのは住職の和田隆恩さんです。

コロナ禍で、人と接する機会や直接、説法をする場も減る中、みずからの発信を増やそうと2年前の4月から週1回だった掲示板の更新を、増やしました。

「仏の顔は何度でも」

仏の顔も3度まで、ということわざがありますが、“仏の慈悲深さは限りない”との思いで書いたそうです。

和田さんはプロ野球・広島カープのファンで、今シーズンの交流戦で最下位となった時には「カープファンでいることは荒行です」とか、長く続くコロナ禍での生活についても「ウイルス止めるマスクでも、愚痴と文句は止められぬ」とウイットに富んだことばを載せていました。

さらに8月6日の原爆の日には「核兵器がある限り、人間は絶滅危惧種です」

筆が…進まない…

日々のできごとに関連したことばを書くことも多い和田さん。

世の中の流れを踏まえながら、新しいことばを張り出すことで、込められた思いが伝わりやすいと感じています。

国葬に関連したことばも書こうと筆を執りましたが、思うように進みません。世論も分かれています。

どんなことばを伝えればいいのか、考えあぐねました。

超覚寺住職 和田隆恩さん

住職 和田隆恩さん

いつも日曜日にまとめて1週間分書くのですが、今回、初めは国葬に触れないでいたんです。

考えたことばは

毎日、新しいことばを張り出してきた和田さん。

きのう(26日)、改めて筆を執り悩みながらしたためました。

「必要なものはもうあったのに。不要なものを欲してしまう」

ことし1月に父を亡くし、家族葬を執り行った際、思い出を語り合い、知ることのできなかった父の一面に触れ心が温かくなり、気持ちも穏やかになったそうです。

本来の葬儀はそうしたものだと改めて感じました。

その経験も踏まえ和田さんは賛否の立場ではなく、ひとりの宗教家として考えたことが掲示板のことばになったといいます。

住職 和田隆恩さん

一宗教家として、葬儀で必要なもの、それは故人を静かに温かく見送ることができることだと思っています。でもそうした状況になっていないように感じ、抱えている複雑な思いをことばにしたんです。

書けなかった人、考えあぐねて書いた人、掲示板の中の人たちもさまざまな思いが交差する1日でした。』

時代は「自分のアタマで考えるな」だと思う

時代は「自分のアタマで考えるな」だと思う – シロクマの屑籠
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20220926/1664193445

 ※ 「自分のアタマで考えるな」って、そりゃ無理だ…。

 ※ なぜって、「自分のアタマで考える」とは、オレが「生きている」ってことと、「等価」だからだ…。

 ※ オレは、この年(とし)になるまで、ずっと「生きてきた」が、「自分以外のもの」だったことは、「一度も」無い…。

 ※ ずっと、一瞬たりとも、「自分そのもの」であり続けて来たんだ…。

 ※ 確かに、入院した当初は、「身動きしなくて」「死んでるかのよう。」だったらしい(後から、看護師から、そう聞いた)…。

 ※ しかし、そういう「状態」でも、オレとしては、「あー、頭イテー。ガンガンする…。」「なんか、ボンヤリ、点滴袋が二つ(止血剤と、栄養剤)下がってるなー。」という感想抱いて、「自分のアタマで、ボンヤリと、ものを考えていた」んだ…。

 ※ だから、人間生きてる限り、「自分のアタマで、ものを考える」存在なんだと思う…。

 ※ 「自分のアタマで、ものを考え」なくなったとき、それは、もう、「生きている」とは言えない存在になった…、という意味だろう…。

『今の世の中、自分のアタマで考えないほうが良いターンになっていると思いませんか。
 
 犬も歩けばフェイクに当たる

  これはアウト。
物理的にありえない水の動き、現実的ではない家の配置、画質と画像サイズ。AIが作成した写真です。
熊本地震の際にライオンが逃げたとフェイクニュースを流した人と同様で、災害時に不安を煽るデマを流している。通報しました。
なお、ライオンの件投稿した男性は後に逮捕されています https://t.co/WRRKb1xrWy
— なかむらすばる🌻紅楼夢【き03-b】 (@subaru_chen) 2022年9月26日

先日、静岡県の水害のフェイク画像がツイッター上に流された。ある者はそれを本物と思って拡散し、別の者はフェイクだと疑って拡散を思いとどまったり、疑問の声をあげたりした。自分のタイムラインではこれに引っかかる人はいなかったように見えたけれど、皆が皆、引っかからずに済んだわけではなかった。
 
のみならず、今のインターネット上には、広告にもタイムラインにもグーグルマップにもフェイクなメッセージが存在していて、その成否を判断するのが難しくなっている。そのうちあるものは(例えば健康法のように)高度な専門性なしに正否を判断するのが難しいものだったり、もし間違っていないとしても、そのメッセージをどこの誰に・どこまで適用していいのかわかりづらかったりする。また別のあるものは、(例えばウクライナでの戦況のように)事実を確認する手段が素人には限られていて、しかも国家規模のプロパガンダが混じっている可能性のあるものだったりする。
 
こんな具合に、今のインターネット上には、正否を、真贋を判断しづらいメッセージが溢れている。自分自身のアタマで考え、それをインフォメーションと呼べる水準にまとめあげるのが大変難しくなっている。
 
しかもクソ忙しいご時世じゃないですか。

そのうえ、私たちの可処分時間はどんどん少なくなり、と同時に、私たちが正否や真贋を判断しなければならないことは増え続けている。
 
「時は金なり」というけれど、実際、効率性や生産性に重きを置くいまどきの資本主義社会では、可処分時間はたいへん貴重なものだ。仕事だけでなく、キャリアのための勉強・人脈の形成・リラクゼーション・エンタメといったものも可処分時間を必要とする。そうやって現代人は忙しく日々を過ごしている。
 
忙しくなればなるほど、メッセージの正否や真贋を判断するのは難しくなる。誰かの書き込みや画像がフェイクかどうかを判断するにあたって、1時間費やして構わない場合と、10分費やして構わない場合と、10秒しか費やせない場合では、フェイクに乗せられる確率は同じ人でもかなり違う。時間的余裕がなくなるほど、人はフェイクに対して脆弱になる。
 
例えば、ラッシュアワーの埼京線で通勤しているサラリーマンが、くだんの水害フェイク画像をスマホで見た場合、しかも見たタイミングが乗換駅まであと10秒のタイミングだったら、フェイクに乗せられてしまう確率は高くなるだろう。同じサラリーマンでも、ゆとりのある時間にゆとりのある体勢でそれを見かけたなら、乗せられずに済む確率はだいぶ上がる。が、スケジュールに追われれば追われるほど、私たちはフェイクに乗せられやすくなるし、ともすれば、そのフェイクの拡散に手を貸してしまうかもしれない。
  
 だったら自分のアタマで正否や真贋を考えないほうがいいのでは

 こんな具合に、インターネットに正否や真贋の定まらないメッセージが溢れていて、しかも私たちに時間的余裕が乏しいとしたら、もう、下手なことは自分のアタマで考えず、誰かに考えてもらうのがいいんじゃないだろうか。この場合の誰かとは、ツイッターのインフルエンサーなどではなく、新聞やNHKニュースなどのことだ。雑誌も含めていいかもしれない。
 
もちろん、そういうマスメディアだって間違えることはあるし、マスメディアがフェイクに乗せられたりプロパガンダに加担したりする可能性もゼロではない。それでも、ツイッターのインフルエンサーなどに比べればその頻度と程度は信頼できるように思う。まして、生兵法にも自分のアタマで考えるよりは信頼できるんじゃないだろうか。
 
かつて、アルファブロガーのちきりんさんは「自分のアタマで考えよう」という本をリリースしたことがあった。
 
自分のアタマで考えよう――知識にだまされない思考の技術

作者:ちきりん
ダイヤモンド社

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ちきりんさんのように考える力があり、この本のとおりに思考するメソッドがあり、考える時間もたっぷりあるなら、これでいいのだと思う。2011年のインターネットの状況にも合っていたかもしれない。
 
けれども私たちの大半はちきりんさんと肩を並べるほど考える力があるわけではない。思考するメソッドを磨く暇すらなく、効率性や生産性にこづきまわされ、リラクゼーションとエンタメを天秤にかけながら可処分時間の短さを嘆いているような身の上だ。そして2022年のインターネットは2011年のソレに比べてずっと難しくなった。嘘を嘘と見抜けない人には(インターネットは)難しいというけれども、いや、今のインターネットでフェイクを見抜くのは簡単じゃないでしょう。
 
だとしたらだ。
もう、私たちは自分のアタマで考えるをやめたほうがいいんじゃないだろうか。
 
や、もちろん個々人の専門領域、職業人としての領域では大いに考えなければならない。しかし専門家にしたって専門領域を一歩出てしまえば素人、へたをすれば平均的な素人よりも性質が悪いことだってある。それならネットに氾濫するメッセージについて正否や真贋を判断するのはもうやめてしまって、なんなら隙間時間にスマホを覗くのもやめてしまって、新聞やNHKニュースなどに目を通すだけにしてしまったほうが安全安心確実ってものだ。新聞やNHKニュースでは味気ないって人はワイドショーでもいいかもしれない。「ワイドショーなんてあてにならない」という人がいるだろうし、その気持ちもわからなくはない。でも、私たちが個人としてツイッターやインスタグラムに貼りついてメッセージを授受し、みずから判断するよりは、まだしも打率がいいんじゃないだろうか。
 
人間は、しばしば間違う。
忙しかったり、疲れていたり、余裕がなかったりすれば尚更だ。
そのうえ情報の正否や真贋を判断すること自体、可処分時間や可処分認知を消耗する行為なわけで、それなら(多少、情報の流通タイミングが遅いとしても)新聞社や放送局のフィルタに通した後の、インフォメーションとして加工された後のものをファクトとみなしたほうが間違いが少なかろう。万が一、新聞社や放送局が間違ったのなら、まあその……仕方ないのかなとも思う。
 
繰り返すが、新聞社や放送局だって稀には間違うこともあるし、それこそ戦争中の国のマスメディアなどは、しばしばプロパガンダを流す。いや、戦争していなくてもマスメディアにプロパガンダ的なものはどこかに混じっていると見たほうがいいだろう。理想論として「民主主義国家の個人たるもの、自分のアタマで判断する能力を涵養すべき」ってのもそのとおり。
 
そして10年以上昔は「インターネットにはメディアとは違った真実がある」などとも言われていた。ですが今のインターネットって難しくないですか。これほどまでに正否や真贋のわからない今日のインターネットにおいては、マスメディアの出してきたものを鵜呑みにするほうが、自分のアタマで考えながらインターネットと向き合うよりも、まだしも確実度が高いのではないかと思う。
 
インターネット上で「自分のアタマで考えよう」って言葉が適用できる時代は遠くなった。少なくとも、それは万人に勧められるものではあり得ないし、いまや、ほとんどの人に勧められるものとも思えない。ネットリテラシーなど午睡の夢。ブロガーとしてのちきりんさんのように振舞い、ちきりんさんの勧めるように考えることは、今、とても難しい。 
ところで

ところで、自分自身のブログに「新聞を読め、NHKニュースを見ろ、ネットはあんまり見るな」って書くの、すごく萎える。ブロガーとしてのちきりんさんが活躍していた頃と現在ではインターネットの時勢が違ってきているのだから、それは仕方のないことではあるけれども。』

厚切りジェイソン、ツイート全消し

厚切りジェイソン、ツイート全消し 米国株下落で非難殺到か?
https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2205/13/news094.html

 ※ 信者になるな!権威を疑え!

 ※ 自分の頭で考えることができるヤツだけが、生き残っていける!

 ※ 「事態の急変」に冷静に対処できる「眼力」と「胆力」を、鍛錬しろ!

 ※ この局面で、「レバナス」とか、最悪だぞ…。

 ※ 信者になって、「外した時」、「教祖さま」を非難しても、呪っても、「あとの祭り」だ…。

『タレントの厚切りジェイソンさんが、運営するツイッターの投稿をすべて消したことが話題になっている。22万人あまりのフォロワーを持つ人気アカウントであり、影響力は大きかった。削除の理由は明かされていないが、同氏が推奨してきた米国株投資に逆風が吹いているためではないかと見られる。

22万フォロワーを持つ厚切りジェイソンさん、ツイートを全消し

 厚切りジェイソンさんは2021年末に書籍『ジェイソン流お金の増やし方』を上梓。累計38万部を超えるベストセラーとなっている。書籍内では、「投資先は米国株がおすすめ!」「米国株を推しにするには訳がある」など、米国株投資を推奨している。

 一方で、激しいインフレとそれに対峙する米中央銀行に当たるFRBの利上げを背景に、米国株式は激しい下落に見舞われている。直近1カ月で、厚切りジェイソンさんが推奨する米国ETF VTIが12.6%下落(ドル建て)した一方で、日経平均は2.2%の下落にとどまった。
厚切りジェイソンさんが推奨する米国株は1カ月で12.6%下落

 もっとも全米株式に分散して投資するVTIの下落はまだ穏やかだ。ナスダック総合指数は同期間の下落が16.5%となっており、さらにレバレッジをかけるレバナスは1年間で半値あたりまで下落している。

 ネット上では今回の株価下落に際して「インフルエンサーの勧める通り投資したら資産がなくなった」「許さない」といった声も多数出ており、逆恨みによる非難からツイートの削除に至ったのではないかと推察されている。

 ここ数年は米国株が日本株などに比べて高いパフォーマンスを出しており、また若年層が投資するにあたり参考にする情報が大きくネットにシフトした。テレビや金融機関の営業担当といった伝統的な情報源ではなく、ネット上のインフルエンサーの情報をうのみにする人も多かった模様だ。

厚切りジェイソンさんのベストセラー『ジェイソン流お金の増やし方』

 もっとも、厚切りジェイソンさんは基本的な投資方法として、インデックスファンドによる「長期・分散・積立」投資をうたっており、極めて堅実な投資方法だといえる。書籍内でも、「危機が起きても積み立てたファンドを取り崩さないような準備を」と、今回のような事態が起きても慌てず淡々と投資を継続することを説いていた。

 それでも短期的な値動きに翻弄(ほんろう)されるのが投資家であり、またうまくいかなかったら誰かのせいにしたいと思う気持ちもあるものだ。「13日の金曜日」となる5月13日は、タレントの厚切りジェイソンさんにとっても不吉な日なのかもしれない。』

時間泥棒の話・・・「モモ」 : 机上空間

時間泥棒の話・・・「モモ」 : 机上空間
http://blog.livedoor.jp/goldentail/archives/29390985.html

『ドイツ人作家のミヒャエル・エンデ氏の書いた「モモ」という児童書を、ご存知だろうか。1973年に発刊され、翌年にドイツ児童文学賞を受賞しています。私が、この本を買ったのは、学生の時でした。「ネバー・エンディング・ストーリー」(原作・はてしない物語)の映画が公開されて、ストーリーは、ともかくとして、その絵本の挿絵のようなビジュアルを、そのまま映像化した、映像としての完成度に当時、やられてしまいまして、その原作者の作品という事で購入しました。書評も高評価で、大人が読んでも面白い作品として紹介されていたのですね。当時は、ハードカバー版しか販売されてなくて、そこそこ高かった記憶があります。

人々から時間を奪う「時間泥棒」というキャラクターを設定して、主人公のモモとの対決を描いた物語で、かなり寓話的な物語です。モモというのは、まるで当時、世界的に流行していた、怒れる若者を代表するような浮浪者の少女です。従来からの価値観や大人の言う事に対して、それが真実なのか、正しいのかという疑問を持つ若者が、アメリカでも、ヨーロッパでも誕生して、彼らはお仕着せの価値観を否定し、いわゆる「ヒッピー」という自由主義者的なライフ・スタイルを啓蒙します。ウーマン・リブとか、フリー・セックスとか、マリファナとか、サイケデリックとか、精神の開放とか、型にはまらないのが新しいスタイルだとして、実際に、そういう生き方をした世代が誕生した時期ですね。

彼女は、今は廃墟と化した円形劇場に住み着いていて、見た目は小学生くらい。生まれてから、一度もクシを通した事も無いような真っ黒な巻き毛で、裸足で歩くせいで、足の裏は真っ黒。服のサイズも、まったく合っておらず、ツギハギだらけという風体です。モモという名前は、自分で付けたと言い、その他の事は、判らず、ただ、ここに住みたいと言います。周囲の住民たちは、相談して、モモの面倒を見る事にしました。

正体不明の風来坊の彼女ですが、モモは人の話を聞く才能に優れていて、心の問題を抱えた人が、彼女と会話をすると、その負担が軽くなるという極めて優れた特性を持っていました。こうして、心の安定でお返しする事で、モモは無くてはならない存在になって行きます。

しかし、そこへ「灰色の男たち」と呼ばれる存在が介入してきます。鉛のような灰色の書類カバンを持ち、灰色の煙の出る葉巻をくゆらせる、紳士のような出で立ちの男たちです。彼らは、人生に不満を抱える人間と会い、いかに時間を無駄にしているかを秒単位で説きます。そして、節約した時間を、彼らの運営する「時間貯蓄銀行」に預ければ、利子を乗せて支払うと営業を仕掛けます。

その話に乗った人々は、一秒たりとも無駄にできないと、イライラしながら働くようになり、それでも、時間はあっという間に経過してしまうので、もっと倹約しなくてはと、怒りっぽくなっていきます。こうして、灰色の男たちは、人々から時間という財産を奪って、世界を侵食していきます。

やがて、モモの元には、人々が寄り付かなくなるようになりました。時間を倹約する事に価値を見出すようになった親達が、モモが、ぐうたらの怠け者で、時間を無駄に浪費させる人間だと、会う事を禁止するようになったのです。やがて、灰色の男の一人が、モモのところにもやってきて、成功する事が大事であり、その他の事は価値が無いし、役に立たないと説得しに来ます。しかし、モモは屈する事無く、反論し、やがて、議論に詰まった灰色の男は、平常心を無くして、自分達が、人間から時間を奪う事を目的にしていて、その正体を秘密にしている事などをバラしてしまいます。

この後も、物語は続いて、時間の国の長老であるマイスター・ホラなど、キャラクターも出てきて、話は、より観念的になり、結構、子供が読むにはハードルが高い展開になっていきます。また、灰色の男たちが、人々から奪った時間は、時間の花を育成する養分になっていて、その花びらを乾燥させて巻いた葉巻が、彼らが普段から吸っているものなのでした。この辺りは、いかにもマリファナ的で、時代を感じさせます。葉巻から出る煙は、死んだ時間で、生きている人間が、この煙を吸うと、やがて灰色の男たちになってしまいます。この病気の名前が、致死的退屈症です。

この物語は、当時の風俗を取り入れながら、資本家と労働者という関係を寓話的に示しています。一般的に、資本家VS労働者というと、賃金の話になりがちですが、実は資本家が買い取っているのは、労働者という契約で縛りを課した他人の時間です。個人が持っている時間は、有限ですが、報酬を支払って、仕事として他人に任せる事で、成果は何百倍にも増やす事ができるのです。規模を大きくすれば、買い取った時間で成し遂げる成果も大きくなりますから、資本家の元には大きな対価が入ってきます。それを効率的に労働者に割り振る事で、更に事業は拡大するわけです。時間というのは、それを増やしたり減らしたりできませんが、他人の時間を報酬と引き換える事で、時間あたりの成果を増やす事はできるのです。

つまり、この物語は、チャップリンの「モダン・タイムス」と同じで、機械的に効率化の進んだ工場労働などの非人間性に対する寓話的な批判です。そして、労働の本質が、賃金の問題ではなく、時間の拘束である事に着目した、初期の作品の一つです。

この作品の時代では、労働集約化と、そこで推進させる極限までの効率化を、余りにも非人間的なモノとして批判しているわけです。しかし、今は、それよりも、たちの悪い形で、「時間泥棒」達は、我々の生活に入り込んでいます。

現在のアメリカは、GDPが世界一の最も豊かな国家のはずです。しかし、アンケート調査によると、世界平均よりも、日々、常に心配事を抱え、多くのストレス持ち、決して幸福とは言えない環境にあります。物質的には豊かになり、多くの作業が自動化されて、開放された代わりに、自分で時間をコントロールできなくなったのです。

資本主義を代表する工場労働を考えてみましょう。確かに、工場で労働している時間、最大の作業効率を求められ、しばしば、その労働は非人間的です。前述の「モモ」が寓話としていたのは、まさに、その時代の労働と時間の関係です。しかし、終業時間になれば、労働から開放され、プライベートと労働の区別は、はっきりと分かれていました。しかし、1950年代と違って、労働の主軸は、よりクリエティブな頭脳労働に移行しています。

製造ラインに、いない時には、労働の事を考える必要が一切無い、工場労働と違って、プロジェクトやマーケティング、クリエイターの仕事は、労働と時間の明確な区切りがありません。今は、スマホやタブレットなど、事務所の外でも仕事をサポートし、成果を送信したり、情報を得るツールが豊富にありますから、どこで何をしていても、仕事ができないという言い訳がたちません。つまり、フリーランスなど、場所や時間に縛られない働き方が増えたのですが、時間を自分でコントロールする事が、生産性の向上という呪文の前では、難しくなったという事です。

時間に縛られないというのは、労働をする時間が決まっていないというだけで、自炊で調理中でも、深夜に目が覚めてしまった時でも、入浴中でも、トレーニング中でも、頭で常に仕事の事を考える事は可能ですし、それをサポートするツールもあります。つまり、取り組んでいる問題を解決できない限り、我々は時間をコントロールするのが難しくなっているのです。まさに、時間泥棒に取り憑かれている状態と言って良いでしょう。

我々にとって、リラックスして、目標を持たない時間というのは、「幸福な経験・体験」に繋がる重要なものです。実際、幸福というものを、可視化するなら、過去に起きた幸せな体験の記憶であり、それは、多くの場合、自分のコントロール下にある時間において起きた事でもあるはずです。それが、仕切りの無い労働と、それを可能にするツールの発達によって、自分の制御に置けなくなってきています。

つまり、豊かさとは、高価なモノに取り囲まれる事ではなく、自分でコントロールできる時間の多さであり、その環境を作る為には、資産形成が必要だという事なのです。もし、幸福を基準に人生を過ごしたいのであれば、労働を賃金で計るのではなく、自分で時間を制御する為の手段として捉え、何者にも介入されない、自分の思い通りの時間を作る事こそが、精神的な幸せに繋がると認識するのが重要です。そして、労働における搾取とは、自分の時間を、格安で他人に売り渡す事に他ならないのだと認識するのが重要です。』

学問のすすめ 福沢諭吉

学問のすすめ 福沢諭吉
https://www.aozora.gr.jp/cards/000296/files/47061_29420.html

『「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。

されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。

されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。

その次第はなはだ明らかなり。

『実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。

されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。

また世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。

すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役はやすし。

ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし。』

 ※ 中、略。

『学問とは、ただむずかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。

これらの文学もおのずから人の心を悦ばしめずいぶん調法なるものなれども、古来、世間の儒者・和学者などの申すよう、さまであがめ貴むべきものにあらず。

古来、漢学者に世帯持ちの上手なる者も少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人もまれなり。これがため心ある町人・百姓は、その子の学問に出精するを見て、やがて身代を持ち崩すならんとて親心に心配する者あり。無理ならぬことなり。畢竟その学問の実に遠くして日用の間に合わぬ証拠なり。

 されば今、かかる実なき学問はまず次にし、もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。

譬えば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言、帳合いの仕方、算盤の稽古、天秤の取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条ははなはだ多し。

地理学とは日本国中はもちろん世界万国の風土道案内なり。

究理学とは天地万物の性質を見て、その働きを知る学問なり。

歴史とは年代記のくわしきものにて万国古今の有様を詮索する書物なり。

経済学とは一身一家の世帯より天下の世帯を説きたるものなり。

修身学とは身の行ないを修め、人に交わり、この世を渡るべき天然の道理を述べたるものなり。

 これらの学問をするに、いずれも西洋の翻訳書を取り調べ、たいていのことは日本の仮名にて用を便じ、あるいは年少にして文才ある者へは横文字をも読ませ、一科一学も実事を押え、その事につきその物に従い、近く物事の道理を求めて今日の用を達すべきなり。
右は人間普通の実学にて、人たる者は貴賤上下の区別なく、みなことごとくたしなむべき心得なれば、この心得ありて後に、士農工商おのおのその分を尽くし、銘々の家業を営み、身も独立し、家も独立し、天下国家も独立すべきなり。』

夫れ兵の形は水にかたどる。

孫子 6 虚実篇  7/7、軍隊の形は水のようなもの
http://sloughad.la.coocan.jp/novel/master/achaina/sonshi/sonsh067.htm

『夫兵形象水、

夫れ兵の形は水にかたどる。

軍隊の形は水のようなものである。

水之形、避高而趨下、兵之形、避實而撃虚、

水の行は高きを避けて下きに趨く。 兵の形は実を避けて虚を撃つ。

水は高い所から低い所に流れていく。 軍隊の形は敵の守りの固い「実」の部分を避けて守りの薄い「虚」の部分を攻撃する。

水因地而制流、兵因敵而制勝、

水は地に因りて行を制し、兵は敵に因りて勝を制す。

水は地形によって流れを決め、軍隊は敵の形によって勝利を制する。

故兵無常勢、水無常形、能因敵變化而取勝者、謂之神、

故に兵に常勢なく、常形なし。 能く敵に因りて変化して勝を取る者、これを神と謂う。
軍隊に決まった勢いというものは無く、決まった形も無い。 敵の出方次第で柔軟に対応し、勝利を得る。これこそ神妙というものだ。

故五行無常勝、四時無常位、日有短長、月有死生、

故に五行に常勝なく、四時に常位なく、日に長短あり、月に死生あり。

木火土金水の五行のうち、これだけで勝てるというものはなく、春夏秋冬の四季は絶えず移り変わり、日の長さだって長短があるし、月にも満ち欠けがある。』

あふれる「思想なき保守」

あふれる「思想なき保守」 宇野重規・東京大学教授
 「シン・保守」の時代(中)
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD04CUW0U2A700C2000000/

『「保守主義」は政治的な立場を論じる際に用いられるが、真意を理解して使われる例は昨今ほとんど見られない。男女平等や外国人との共生に抵抗するネット右翼、古いものを無批判に賛美する精神性とは無縁なのに、それらと同一視する言説が流布している。現代は「曖昧な保守論がインフレした時代」と定義できる。

起源は18世紀半ばまで遡る。欧州で絶対主義や封建主義を打倒する市民革命が起こり、「社会は理想の未来に向けて邁進(まいしん)する」という進歩主義が興隆した。フランス革命が顕著な例で、既存の制度一切を白紙に戻し、望ましい社会をゼロから再構築することを目指した。

模範を過去ではなく未来に求める進歩主義は楽天的で傲慢だとも言える。歴史や伝統には知恵や配慮が込められているし、私たちの理想通りに人類社会が発展するわけでもない。急進的な進歩主義を批判して、自由を守る伝統的な制度や習慣を守り、漸進的な改革を求める立場として保守主義の思想は生まれた。

ある思想に対するブレーキ役となり、20世紀でも価値を持ち続けた。ロシア革命で実現した社会主義や、「大きな政府」の下で福祉国家を目指す米国リベラリズムの対抗軸になり得たからだ。

現代では進歩主義の存在自体が危うくなっている。労働者による革命や計画経済を目指した社会主義や、大きな政府による社会改良を信じたリベラル派が大きく衰退したからだ。理想の社会像を失った結果、保守主義も対抗軸を見失い迷走する事態が起きている。

保守主義は日本に存在したのか。戦後を代表する2人の知識人、丸山真男と福田恆存は、1960年の安保闘争の頃にはすでに「保守主義の不在」を指摘していた。

丸山は、現行の政治体制を自覚的に守る立場は現れなかったという。欧米から新しい思想や制度を輸入することにあくせくする日本の伝統は、保守主義を何かと関連付けることもなく受容した。その結果、ズルズルとなし崩し的に現状維持を好む「思想なき保守」ばかりが目立つようになった。

福田は、日本における2つの断絶を指摘した。江戸時代以前の制度や慣習を捨て欧米化に走った明治維新と、事実上の征服を経験させられた第2次世界大戦での敗戦だ。過去との連続性が絶たれた社会では、何が自分たちに大切かを共有できず、保守主義を確立させるのは難しいといえる。

デジタル空間も議論の場に

現代の日本で以前のように保守と進歩を対比して語ることが有用かは分からない。政治家や政党の間ですら保守主義は誤用されるし、かつて進歩主義が唱えた社会の展望は全く見えないからだ。

だが、今後も保守主義に意味を持たせ続けるには、一人ひとりが「本当に大切なもの」「保守したいもの」を自発的に問い直し、他者と共有して行動することが必要だ。地域社会に目を向ければ、祭りや芸能、自然と密着した暮らしが受け継がれている。こうした財産が、守るべき歴史や伝統だと考えることもできる。

若者の政治離れも指摘されるが、政治や社会との関わり方は古典的な選挙運動やデモ活動に限定しない方がよい。SNS(交流サイト)などのデジタル空間を活用し、「守りたいもの」を共有する他者と関わり、それに向けて議論することも一つの社会参加ではないか。
今後はオタク文化や特定の商品や人物に熱狂した人同士の集団(ファンダム)を取り込むことが保守にとっても重要になりそうだ。現代的な通信手段を前提に「保守」をよりダイナミックに捉えることが求められている。

(聞き手は渡部泰成)

うの・しげき 1967年生まれ。専門は政治思想史。著書に「トクヴィル 平等と不平等の理論家」(サントリー学芸賞)、「保守主義とは何か」、「民主主義とは何か」など。

【「シン・保守」の時代】

(上)「愛国」への誤解乗り越える 将基面貴巳オタゴ大学教授 』

「不惑」の意味は年齢のこと?孔子の論語との関係や使い方も解説

「不惑」の意味は年齢のこと?孔子の論語との関係や使い方も解説
https://biz.trans-suite.jp/19048

『「不惑」は日常的によく見聞きする言葉で、年齢を話題にした会話にもしばしば登場します。また、有名な孔子の『論語』とも深い関係があるようです。この記事では「不惑」の意味をはじめ、孔子の『論語』との関係や、熟語の使い方が理解できる例文なども解説しています。

目次 [非表示]

1 「不惑」の意味や由来とは?
    1.1 「不惑」の意味①”心が乱れたりすることがない”
    1.2 「不惑」の意味②”数え年の40歳”
    1.3 「不惑」の由来は孔子の『論語』

2 「不惑」と孔子の論語との関係
    2.1 孔子の教えは「生涯成長すべし」
    2.2 「不惑」以外にもある年齢の異称
    2.3 孔子とは程遠い現代人の「不惑」以降

3 「不惑」の使い方や例文とは?
    3.1 「不惑」は40歳のことを指して使うのが一般的
    3.2 「不惑」を使った例文

4 まとめ

「不惑」の意味や由来とは?

「不惑」の意味①”心が乱れたりすることがない”

「不惑」の意味は、“心が乱れたりすることがない・超然とした悟りの境地”です。「ふわく」と読み、熟語を読み下した「惑わず」がそのまま意味となっています。この世に生きていると、さまざまな煩悩に心を乱されます。欲しいものは手に入らず、人間関係にも疲れ果て、悩みは尽きません。

「不惑」は心が乱れたり悩んだりするようなことがない、超然とした悟りの境地のことですが、凡人がそのような境地に至ることは大変困難です。

「不惑」の意味②”数え年の40歳”

「不惑」のもうひとつの意味は、“数え年で40歳のこと”です。数え年とは、現在の満年齢とは異なる年齢の数え方で、生まれた年を1歳として新年を迎えるごとに1歳年をとるという方法です。つまり数え年では、大晦日に生まれた子供は翌日になると2歳になってしまう計算です。

ちなみに40歳には「不惑」以外にも異称があり、四十路(よそじ)のほか、最近ではアラウンドフォーティを略したアラフォーという言葉も登場しています。「初老(しょろう)」も数え年40歳のことを指した言葉で、長寿祝の最初の年齢です。

また「不惑」と同じように、異称を持つ年齢があります。現在でもよく知られている「還暦」は数え年で61歳、「白寿」は数え年で99歳のことを指していますが、趣のある呼び名です。
「不惑」の由来は孔子の『論語』

「不惑」は、儒家の始祖である孔子(紀元前551年 – 紀元前479年)の『論語』が由来です。『論語』は孔子の言行録のような書物で、孔子の教えがよく理解できる一書であり、現代人にとっても学びの多い必読書となっています。

「不惑」は、『論語』の「為政篇」のなかの「子曰 吾十有五而志乎学 三十而立 四十而不惑 五十而知天命 六十而耳順 七十而従心所欲不踰矩」にあります。

現代語に直すと「子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う(したがう)。七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えず(こえず) 。」です。

「不惑」と孔子の論語との関係

孔子の教えは「生涯成長すべし」

孔子は自身について、「15歳で学問を志して30歳で独立、40歳で迷うことがなくなり、50歳で天から授かった使命に目覚めた。60歳で人の意見を素直に受け入れられるようになり、70歳で自分の思い通りに行動しても人の道から外れることはなくなった」と語っています。

つまり孔子ほどの偉人であっても、人間が完成するまでには長い年月が必要だったということです。

孔子の教えから分かるのは、人間は年齢を重ねならが成長していかなければならず、短期間で完成するようなものではないということと、節目ごとに成長のステップがあり、そのひとつひとつを順に完成させていくことが人間形成への道筋だということです。

「不惑」以外にもある年齢の異称

『論語』の「為政篇」で登場したのは「不惑」の40歳だけではありません。15歳から70歳までの間に6つの区切りを設け、以下のようにそれぞれの年代での努力目標としての目指すべき姿が、年齢をなぞらえる呼称となっています。

15歳:志学(しがく)
30歳:而立(じりつ)
40歳:不惑(ふわく)
50歳:知命(ちめい)
60歳:耳順(じじゅん)
70歳:従心(じゅうしん)

孔子とは程遠い現代人の「不惑」以降

現代でも、高校受験を迎える15歳頃には自分の進路を真剣に考え始めます。また、30歳頃になると社会人として自立できるようになります。

けれども孔子の時代より社会が複雑になったためでしょうか、40歳でも迷いが多く、50歳でも目の前の仕事に追われ天命に気づくゆとりはなく、60歳になっても我が強く、70歳で思い通りに行動して警察のお世話になるというありさまです。

また超高齢社会の到来により寿命は100歳近くまで延びましたが、80歳・90歳・100歳についての孔子の教えはありません。現代人は30歳からの生き方を、もっと真剣に考える必要がありそうです。

「不惑」の使い方や例文とは?

「不惑」は40歳のことを指して使うのが一般的

「不惑」には迷いがないという意味と40歳という意味がありますが、40歳のことを指して使うことが一般的です。ここでは40歳の異称という意味での「不惑」を用いた例文を提示し、熟語の使い方への理解を深めます。

「不惑」を使った例文

「不惑」を使った例文をいくつかご紹介しましょう。

四十路を迎え「不惑」と言われると面映く感じるが、初老と言われると面白くない。
人生50年時代の「不惑」は、まだ折り返し点にも達していない現代とは全く別モノだっただろう。
40歳はまだ迷いが多い年代だからこそ、自戒を込めて「不惑」と呼ぶようになったのかもしれない。
「不惑」に入ってにわかに英語熱が再燃し、TOEICを受験してみることにした。

まとめ

「不惑」の意味のほか、孔子の『論語』との関係や使い方が分かる例文などを解説しました。平均寿命が50歳に満たない頃には、15歳で一人前の大人として扱われていました。一方、現代の15歳はまだ義務教育を終えたばかりで、長い人だとあと10年近くも学生時代が続きます。

社会人としてのスタートが遅くなり寿命も長くなった現在、「不惑」となる年齢はどんどん先送りになりそうです。

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投資の世界で、答えは「過去」に存在しない。 : 机上空間

投資の世界で、答えは「過去」に存在しない。 : 机上空間
http://blog.livedoor.jp/goldentail/archives/29195955.html

 ※ 『私達は、テストで学力を計られるのに慣れているので、問題には答えが用意されていると思いがちです。こういう聞き方をすれば、「そんな事は無い事ぐらい知っているよ」と答える方が大方でしょうが、習慣というのは恐ろしいもので、「正しい答えと点数」で評価される事に慣れていると、全てにそれがあると無意識に考えてしまうのです。』…。

 ※ ここは、よくよく傾聴しておいた方が、いい…。

 ※ さらに付け加えれば、オレらは「教科書」と「先生」で「勉強する」ことに、慣れすぎているので、あらゆることにそういう「教科書」みたいなものがあると、無意識に思い込んでいるところがある…。

 ※ また、あらゆることに、「解決方法や、勉強のやり方」みたいなものを、「伝授」してくれる「先生」みたいなものがあると、無意識に思い込んでいるところがある…。

 ※ そういう「便利なもの」は、無い…。

 ※ そういう「便利なもの」は、存在しないんだ…。

 ※ 何を読んだら、どういうものから「情報取ったら」、自分の「目的」が達成できるのか…。そういう「踏み出すべき第一歩」を考えることから、始めないとならないものなんだ…。

『このブログで、既に何回も述べているので、耳タコな方も多いと思いますが、「他の大概のスキルと違って、金融の世界では、経験の蓄積や技術の研鑽が成功を保証しません」もちろん、まったく関係が無いと言いませんし、金融の世界においても経験や研鑽は大事です。しかし、結果として、それが成功を保証するかと言えば、それは無いのです。そこが、他とは違う特異な点です。

大概のスキルというのは、1000時間も費やせば、仕事として成立するくらいの安定した技術が身につきます。その程度で凡庸であるか、職人レベルであるかは別にして、技術としては身につきます。しかし、世の中の出来事が全てがチャートに織り込まれる金融の世界では、どんなに過去のデータを揃えたところで、どんなに経験を積んだところで、どんなに分析を繰り返しても、安定した成功は保証されません。

投資初心者の方のは、ここを間違えがちです。何かしらの努力で克服できると考えてしまうのです。他のスキルが、そうだからです。なので、うまくいかないのは努力が足りないからだと考えてしまいます。しかし、「この世界では、前例のない出来事が常に起きている」のです。冷戦時代に、誰がソ連の崩壊を予見できたでしょうか。東西のドイツが再統一される事も、武漢肺炎のような世界的なパンデミックが発生する事も、ロシアがウクライナに侵攻する事も、それが起きる事を完全に予想できた人などいません。しかし、起きた事で市場は動きます。つまり、過去に答えがあると考える事自体が誤りなのです。

私達が過去から学べるのは、似たケースでの対処法だけです。もしかしたら、それを知っている事で、傷を致命傷にせずに済むかも知れないし、大躍進する機会を掴むかも知れません。しかし、それは、期待値の高い方へ賭けるというだけの話で、確実な答えは、どこにも無いのです。この事を、市場に参加する前に「理解」しておく事が大事です。私達は、テストで学力を計られるのに慣れているので、問題には答えが用意されていると思いがちです。こういう聞き方をすれば、「そんな事は無い事ぐらい知っているよ」と答える方が大方でしょうが、習慣というのは恐ろしいもので、「正しい答えと点数」で評価される事に慣れていると、全てにそれがあると無意識に考えてしまうのです。

こうした不確定な未来の事変に加えて、市場を形成している人間の感情も、とても遷ろう存在です。お金に対して人間を、もっとも強く突き動かす、人々が信じているストーリーや、モノやサービスに対する嗜好も、永遠に変化しないわけではありません。文化や世代によっても変化しますし、今後も常に変化し続けるものです。つまり、答えを求める事が、いかに無意味かという事です。

何かに失敗した時、何か過ちを犯した時、人は「もう二度と同じ過ちを繰り返さない」と、心に誓います。世の中の大概のケースにおいて、こうした真摯な反省というのは、尊いものですし、必ず糧になります。しかし、投資の世界では、そうではありません。投資で失敗した時に得る教訓は一つだけです。「世界で起きる事を予測するのは難しい」それだけです。同じ過ちを繰り返さないという行動は、問題と答えが紐づいている場合にのみ有効です。そうではない投資の世界では、そもそも同じに見える問題が発生した時に、結果として正解だった行動自体が変化します。問題を定量化できないのです。あくまでも、結果として正解なだけで、それが永遠不変の定理には、なりえません。

つまり、得られる教訓は、「予想外の事は、常に起きる。その時に、致命傷を負わないように、市場から退場しないように、常に誤りを許容する余裕を確保しておこう」という事だけです。我々が市場に対して、できる対策は、実はこれだけなのです。市場に対して、正しい行動と安定して得られる結果があると考えているうちは、貴方は市場を理解していません。今まで、どれだけの天才トレーダーと言われた人が、市場から退場していったかを見れば解ります。それは、その人の手法が、市場のある時期に抜群に機能していたという事でしかありません。市場の変化を見誤れば、一回の取引で数十年の実績が水疱に帰すのです。

史上屈指の投資家との呼び声も高く、「賢明なる投資家-割安株の見つけ方とバリュー投資を成功させる方法」という名著を表したベンジャミン・グレアム氏のエピソードを紹介します。この本、曖昧な投資理論ではなく、具体的な計算式で株で成功する方法を解説した、ある意味勇気のある一冊です。しかし、現在では、この通りに実践して、勝つ事は不可能です。

現在の複雑化した企業運営の世界では、グレアム氏の最初の著書で説明された計算式で、当てはまる企業を見つけるのが、まず至難のワザです。そして、ピッタリの企業を見つけて、投資をしても、おそらくは成功しません。

しかし、この本の著者のグレアム氏は、投資家として大成功を収めています。では、彼は嘘を書いたのでしょうか。それは、違うのです。グレアム氏は、市場が一定の法則で動いているものではなく、手法というのは、必ず陳腐化するのを理解していました。グレアム氏は、1934年、1949年、1954年、1965年と、4回の改訂版を出版していますが、書かれている内容は、違う本かと思うくらい変化しています。これを持って「主張に一貫性が無い」と考えるのが、一般人ですが、そもそも市場というのは、一貫性の無いものです。グレアム氏は、その時々で、有効に機能すると思われる具体的な手法を紹介しただけなので、内容が変化するのは、当たり前なのです。

グレアム氏は、既に他界しておられますが、生前のインタビューで、彼が好んで用いていた個別銘柄の詳細な分析方法について、今でも活用しているかと聞かれて、こう答えています。
「全般としては、もう好んでいない。私はもう、価値ある機会を見つけるための入念な証券分析の実践は提唱していない。これは、今から40年前、私達の投資の教科書が出版された頃には、価値のある方法だった。だか、その後、状況は大きく変わったのだ」

この「状況は大きく変わった」というのは、投資先の企業のあり方だけではありません。投資に参加する敷居は下がりましたし、プレイヤーの層も拡大しました。テクノロジーの進化によって、金を払って得ていた情報が、変わらないスピードで一般にも周知されます。つまり、環境も変わっているのです。変化した投資環境では、それなりの新しい対峙の仕方が必要で、古い考え方が、いつまでも通用しない事は、自明の理です。そして、投資本を書いているグレアム氏は、自身が、それを理解していて、古いやり方を次々と捨てて、新しい方法を見つける事を当たり前にしていたので、偉大な投資家として、生涯を全うできたのです。

では、経験や研鑽が、投資において、最も役立ち、決して疎かにして良い事ではない理由は何か? それは、「一般論」を知るのに必須だからです。何が起きるかは予想できません。しかし、何かが起きた時に、「一般的に、どういう行動が起きるか」は、学ぶ事ができます。これは、答えを知る事ではなく、期待値の高い、より確実な未来に賭ける為に、必要な判断ができる為に役立つという事です。あくまでも、答えではありません。

市場では、経験則を無視した、突発的な変化も「良く起きます」。そうした時に、損をしたり、勝負に負けるのは、避けられません。その後で、どう行動すれば、傷を浅くして、挽回のチャンスを掴む事ができるのか。それを知る為には、経験の蓄積と、技術の研鑽が必要なのです。また、チャンスが来た時に、取り逃さずに掴む為にも、それは必要です。ただし、「答え」知る為ではありません。ここを理解して、分けて考えて市場に立ち向かうかどうかで、投資の成功確率は大きく違います。』