トマス・ホッブズ

トマス・ホッブズ
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 ※ 昨今の「情勢」は、どうも、「むき出しの力」が猛威を振るっている感がする…。
 ※ それで、この人のことを思い出した…。

『トマス・ホッブズ(Thomas Hobbes, 1588年4月5日 – 1679年12月4日[1])は、清教徒革命(イングランド内戦)から王政復古期にかけてのイングランドの哲学者。

17世紀の近世哲学にあって、ルネ・デカルトなどと共に機械論的世界観の先駆的哲学者の一人であり、バールーフ・デ・スピノザなどとともに唯物論の先駆的思索を行った哲学者の一人である。

政治哲学者として側面は広く周知され、人工的国家論の提唱と社会契約説により近代的な政治哲学理論を基礎づけた人物として一般的に知られる。王太子時代のイングランド王チャールズ2世の家庭教師でもあった。 』

『概要

イングランド国教会の聖職者の子として生まれる。

1588年、スペインの無敵艦隊襲来というニュースにショックを受けた母親は産気づき、予定より早く出産した。このため「恐怖と共に生まれた」といわれる。

1608年にオックスフォード大学を卒業[2]した後、デヴォンシャー伯爵家(後のデヴォンシャー公家)に家庭教師として仕える。

1610年から1630年代にかけて貴族の子弟とともにヨーロッパ大陸へ三度旅行し、フランスやイタリアの哲学者や科学者と交流した[2]。

清教徒革命前の1640年に自分の身を案じてフランスへ亡命[2]し、後に国王となったチャールズ2世の家庭教師を務める。

最もよく知られる著作『リヴァイアサン』は、イングランド内戦が終結してオリバー・クロムウェルの統治下にあったイングランド共和国に帰国した1651年に刊行された。ベーコンやガリレオ、デカルトらと交友があった。

1655年に出版した『物体論』(De Corpore)内で円積問題の解を見つけたと公表し、数学者のジョン・ウォリスとの論争に発展した。

ホッブズの哲学は公理系を元に構築する幾何学的な考え方を元にしていたが、円積問題については終始、本質を理解することができず、誤りを自覚できずに死ぬまで激しい論争を続けた(ホッブズとウォリスの論争(英語版))[要出典]。

形而上学においては唯物論の立場に立ち、その考えは『物体論』において展開された。

また、デカルトから『省察』の批判を書くよう頼まれた時はその立場から批判を行なったが(デカルトは他の哲学者や神学者にも批判を頼み、ホッブズのそれは第三論駁と呼ばれる)、自身の哲学への不理解と解したデカルトからの反応は冷淡であった[3]。

年譜

1588年 - 4月5日、ウィルトシャー州マームズベリー近郊のウェストポートにて、イングランド国教会牧師トマス・ホッブズの次男として誕生。
1592年 - ウェストポートの教会学校入学。
1600年 - 父の死に伴って叔父フランシス・ホッブズに引き取られる。ロバート・ラティマーの私立学校に入学。
1603年 - オックスフォード大学入学。
1608年 - 2月5日にオックスフォード大学卒業[4]。第2代デヴォンシャー伯爵ウィリアム・キャヴェンディッシュの家庭教師となる
1620年 - ベーコンの助手として彼の口述筆記をしたり、著作をラテン語に訳したりする。
1629年 - 自身の手によるトゥキディデスの『戦史』の翻訳を公表。
1631年 - 第3代デヴォンシャー伯爵ウィリアム・キャヴェンディッシュの家庭教師となる。
1636年 - ガリレオを訪問。
1637年 - 感覚について小論文(Little Treatise)発表。
1640年 - 5月9日に『法学原理』(The Elements of Law)発表。短期議会(4月13日 - 5月5日)の進展に伴ってイングランド内の政情が不安定化したため、フランスの首都パリへ亡命。
1642年 - 『市民論』(De Cive)を匿名で発表。
1645年 - イングランド王太子(後のチャールズ2世)がパリに亡命。ホッブズが彼の数学教師となる。
1647年 - イングランド国教会の洗礼を受ける。
1651年 - 『リヴァイアサン』を出版。
1655年 - 『物体論』(De Corpore)を出版。
1656年 - 『自由、必然、偶然に関する諸問題』を発表。
1658年 - 『人間論』(De Hormine)を出版。
1668年 - 『ビヒモス』(Behemoth)を出版
1674年 - 『イリアス』と『オデュッセイア』の翻訳を発表。
1679年 - 12月4日に死去。

人工的な国家理論

『リヴァイアサン』は、ホッブズの代表的な著作であり、17世紀ヨーロッパにおける国家理論の白眉である。

この著作によって、王権神授説に立つ同時代のイングランドの王党派からは無神論者であるとされ、共和派からは専制政治擁護者と見られた。

現代に至るまでホッブズの評価は屈折しており、相反する立場から全く異なったホッブズ観が提示されている。

概要

この著作は、権威(Authority)を「いかなる行為でもなしうる権利」と定義づけており、国家の権威主義(独裁主義、専制主義、全体主義)を擁護した論説であるという側面がある。

ホッブズは前提として、人間の自然状態は闘争状態にあると規定する。

彼はまず、生物一般の生命活動の根元を自己保存の本能とする。

その上で、人間固有のものとして将来を予見する理性を措定する。

理性は、その予見的な性格から、現在の自己保存を未来の自己保存の予見から導く。

これは、現在ある食料などの資源に対する無限の欲望という形になる。

なぜなら、人間以外の動物は、自己保存の予見ができないから、生命の危険にさらされたときだけ自己保存を考えるからである。

ところが人間は、未来の自己保存について予見できるから、つねに自己保存のために他者より優位に立とうとする[5]。

この優位は相対的なものであるから、際限がなく、これを求めることはすなわち無限の欲望である。

しかし自然世界の資源は有限であるため、無限の欲望は満たされることがない。

人は、それを理性により予見しているから、限られた資源を未来の自己保存のためにつねに争うことになる。

またこの争いに実力での決着はつかない。

なぜならホッブズにおいては個人の実力差は他人を服従させることができるほど決定的ではないからである。

これがホッブズのいう「万人は万人に対して狼」「万人の万人に対する闘争」である。ただしこの前提は、友枝高彦らの批判もある(「#批判」を参照)。

ホッブズにおいて自己保存のために暴力を用いるなど積極的手段に出ることは、自然権として善悪以前に肯定される。

ところで自己保存の本能が忌避するのは死、とりわけ他人の暴力による死である。

この他人の暴力は、他人の自然権に由来するものであるから、ここに自然権の矛盾があきらかになる。

そのため理性の予見は、各自の自然権を制限せよという自然法を導く。

自然法に従って人びとは、各自の自然権をただ一人の主権者に委ねることを契約する。

だが、この契約は、自己保存の放棄でもその手段としての暴力の放棄でもない。

自然権を委ねるとは、自然権の判断すなわち理性を委ねることである。

ホッブズにおいて主権は、第一義的に国家理性なのである。

また以上のことからあきらかなように、自然状態では自然法は貫徹されていないと考えられている。

その影響と解釈

ホッブズが展開した国家理論は、キリスト教会社会のカルヴァン主義のそれに似た自然状態を想定し、そこから人工的に国家モデルをつくりあげたという点では近代国家理論のさきがけであった。

前提の自然状態を措定した上に契約神学が設定されたように、現実の国家社会との間に社会契約を設定するという理論が発展する。

このことはホッブズ以前の社会契約が既成国家の説明原理にとどまり、基本的に「支配=服従契約」と見ているのに対し、平等な個人間の社会契約による国家形成という新しい視点を開いた。

またこのような社会契約の要因として、人間の自然理性を重視していることから啓蒙主義的な国家理論であるということができる。

ホッブズの理論を批判的に継承したのは、ジョン・ロックとルソー(社会契約論)であるが、両者とホッブズとの決定的な違いは、ホッブズが自然状態において自然法が不完全であるとするのに対し、両者は自然状態において既に自然法が貫徹されていると想定していることである。

このホッブズの政治理論の性格および歴史的意義については、現在4つの主要な解釈がある。

絶対主義の政治理論説 - 以下の3点を主要な根拠として、ホッブズの政治理論が絶対主義王政を支持するものであるとする説。

    ホッブズが社会契約を服従とみなしていること。
    主権者が一者であり、主権が国家理性であること。
    主権者が国内の宗教を含めてあらゆる国内的、国際的政策を統制できるとしていること。

近代的政治理論説 - 以下の2点を主要な根拠として、ホッブズの政治理論が近代的で民主主義的な国家理論であるとする説。

    無神論的、唯物論的世界観、また理性主義に基づく平等思想を唱えていること。
    分析的に導き出したアトム的人間から構成的に人工の国家を導き出すという科学的手法をとっていること。

伝統的政治理論説 - 以下の2点を根拠として、ホッブズの政治理論が伝統的なキリスト教倫理思想に則っているとする説。

    ホッブズの自然法思想がデカルト思想に影響される前から既に形成されていたこと。
    宗教に対する言及が、無神論的立場ではなく信仰によっていると考えられること。
自然状態的政治理論説 - 以下の2点を根拠として、ホッブズの政治理論が究極的に自然状態の理論であり、闘争の政治理論であるとする説。

    自然法が個人規模での闘争を止揚して国家規模の闘争を導いているにすぎず、本質的に闘争状態であることが変わっていないこと。
    国家状態が自然法に基づくとされていること。

この中で、1.と2.の見方が古典的で、現在でも有力な説である。

著述
「w:Thomas Hobbes#Works (Bibliography)」も参照

邦訳書

選集『世界の名著28 ホッブズ』永井道雄責任編集、中央公論社・中公バックス、1979年
選集『世界の大思想13 リヴァイアサン 国家論』水田洋・田中浩訳、河出書房新社、1966年
『リヴァイアサン』水田洋訳、岩波文庫(全4巻)、1992年
『ホッブズの弁明/異端』水田洋編訳、未來社<転換期を読む>、2011年
『哲学原本』(『哲学原論』とも訳される、ラテン語:Elementa Philosophiae、英語:Elements of Philosophy)
    『物体論』『人間論』『市民論』本田裕志訳、京都大学学術出版会、各・2015年、2012年、2008年
        ラテン語原文に基づく初めての完訳で、『哲学原本』の第一部「物体論」、第二部「人間論」、第三部「市民論」を個別の単行本での出版。
    『哲学原論/自然法および国家法の原理』伊藤宏之・渡部秀和訳、柏書房、2012年
        同じく完訳だが、原文はラテン語であるが、上記版は英語版での用語表現に基づき翻訳された。
『哲学者と法学徒との対話』田中浩・新井明・重森臣広訳、岩波文庫、2002年
『ビヒモス』山田園子訳、岩波文庫、2014年
『法の原理 人間の本性と政治体』田中浩・重森臣広・新井明訳、岩波文庫、2016年
『法の原理 自然法と政治的な法の原理』、高野清弘訳、ちくま学芸文庫、2019年
『リヴァイアサン』、角田安正訳、光文社古典新訳文庫(Ⅰ・Ⅱ)、2014-2018年

批判

イギリスの思想家でケンブリッジ大学教授のアクトン卿(1834 - 1902年)は、「偉大な人物を悪者に変貌させる極めて有害なエネルギーが権力である」とし、「権力の重要性を強調する論説には非常に長い系譜があるが、政治思想史から見れば、マキャベリまたはホッブスの説の焼き直しの域を出ない」と批判している[6]。

日本の倫理学者で東京高等師範学校教授・東京帝国大学助教授の友枝高彦(1876 - 1957年)は「正義といい人類愛といい、人類の間の最も望ましい美徳であることは、昔から宗教でも道徳の方でも高調されているところである。…この事実に対する解説として自然性論というべき一派がある。それは人類は本来利己的であって同胞と協同するも親和するも畢竟利己の為に外ならないようにいうのである。…人類は互いに狼であるとホッブスのいったのは、全く利己的見地から解釈するのであって、国際間には道徳なく、ただ欺瞞、暴力あるのみと考えたマキャベリも同じ考であるといわねばならぬ」として、ホッブズの説を拒んだ[7]。

ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの機関誌『エコノミカ』は1929年に「現代のホッブス批評家たち」を特集した号を出版した[8]。

政治学者でハーバード大学教授カール・ヨアヒム・フリードリッヒ(1901 - 1984)は、ホッブズ自身は『リヴァイアサン』で権威を「いかなる行為でもなしうる権利」と定義づけたが、その後にさらに「いかなる人も自分がその当事者でない契約には縛られない」と付け加えていることを指摘し、その権威の捉え方は、政治の基礎としての権力をあまりに強調しすぎた点に限界があったとしている[9]。

哲学者でフロリダ国際大学名誉教授B. W. Hauptliは『ホッブズと倫理的利己主義に対する批判集』を編纂している[10]。』

儒教

儒教
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%92%E6%95%99

 ※ やれやれ、やっと読んだよ…。

 ※ 随分時間を食われた…。

 ※ しかし、「一度は自分の中で、概略をつかんでおこう。」と思っていた…。

 ※ 東アジア(及びアジア)の国家の問題、国家制度の問題を考える上で、不可欠の「論点」だからな…(最後の方で、リー・クアンユーの言説も出てくる)。

 ※ ベトナムが、「儒教文化圏の国家」とは、知らんかったよ…。

『儒教(じゅきょう)は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系。

紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上に亘り強い影響力を持つ。

その学問的側面から儒学、思想的側面からは名教・礼教(中国語版)ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。』

『概要

定義

中国やその周辺の東アジア諸国で信仰・研究されていた宗教、または学問。

一般に孔子が創始者と目されるが、古代から伝わる神話や制度、習俗などの集合体である。孔子以後は経書の解釈を行う学問、または社会規範や習俗として行われた。
 
略史

アニミズムやシャーマニズムを背景に成立し、東周・春秋時代に魯の孔子やその後の儒者によって自覚された。

主な教義として、堯舜・文武周公の古の聖賢の政治を理想として[1]「周礼」を復活させることや、家族や君臣の秩序を守ることなどが挙げられる(#教義・学説を見よ)。

孔子やその弟子たちの教団は儒家と呼ばれ、諸子百家の一つに数えられる。

また、儒教を自らの行為規範にしようと、儒教を学んだり、研究したりする人のことを儒学者、儒者、儒生などと呼ぶ[注釈 1]。

孟子は徳によって天下を治め(王道政治)、武力による覇道を批判し、禅譲と放伐により歴史が推移してきたとする徳治主義を主張した。

時の為政者に法家、老荘思想や道教などが信仰されたこともあり、儒教は弾圧されることもあったが、前漢になると保護され、新・後漢で国教とされた。

唐代には仏教が広く信仰され、再び影を潜めた。

宋代には朱子学が起こり、より哲学的な宋明理学体系が生み出された。

朱子学は政治と密接な関係を持ち、「修己治人」(有徳者が為政者となる)や「修身・斉家・治国・平天下」(自分・家・地方を治め得る人物が天下を握る)「経世済民」(世を治め人々を救う)といった教えがあり、科挙受験のために必要不可欠となった。』

『教典

詳細は「経書」を参照

五経

儒教の経典は『易』・『書』・『詩』・『礼』・『楽』・『春秋』の六芸(六経)である。
春秋時代になり、『詩』・『書』・『春秋』の三経の上に、『礼』・『楽』の二経が加わり、五経になったといわれる。

『詩』・『書』・『礼』・『楽』の四教については「春秋を教うるに礼楽を以てし、冬夏は教うるに詩書を以てす」、『礼記·王制』における「王制に曰く、楽正、四術を崇び四教を立つ。先王の『詩』・『書』・『礼』・『楽』に順いて以て士を造()す」という記述がある。

孔子は老聃に次のようにいったとされる。孔子は詩書礼楽の四教で弟子を教えたが、三千人の弟子の中で六芸に通じたのは72人のみであった[2]。

漢の武帝のとき、賢良文学の士で挙げられた董仲舒は儒学を正統の学問として五経博士を設置することを献策した。

霊帝のとき、諸儒を集めて五経の文字を校訂、太学の門外に石経を立てた。

このとき作られた熹平石経は183年(光和6年)に完成し、『易経』『儀礼』『尚書』『春秋』『公羊』『魯詩』『論語』の七経からなった。

経 伝 記 注疏
易経 周易正義
尚書 尚書孔安伝 尚書正義
詩経 毛詩 毛詩正義
楽経
儀礼 礼記 儀礼注疏、礼記注疏
周礼 周礼注疏
春秋 春秋公羊伝 春秋公羊伝注疏
春秋左氏伝 春秋左氏伝注疏
春秋穀梁伝 春秋穀梁伝注疏
論語 論語注疏
孝経 孝経注疏
孟子 孟子注疏
爾雅 爾雅注疏
四書

朱熹

宋代に朱熹が『礼記』のうち2篇を「大学」「中庸」として独立させ、「論語」、「孟子」に並ぶ「四書」の中に取りいれた。

「学問は、必ず「大学」を先とし、次に「論語」、次に「孟子」次に「中庸」を学ぶ」。これを道統説という。

朱熹は、「『大学』の内容は順序・次第があり纏まっていて理解し易いのに対し、『論語』は充実しているが纏りが無く最初に読むのは難しい。『孟子』は人心を感激・発奮させるが教えとしては孔子から抜きん出ておらず、『中庸』は読みにくいので3書を読んでからにすると良い」と説く[3]』

『教義・学説

儒教は、五常(仁・義・礼・智・信)という徳性を拡充することにより五倫(父子・君臣・夫婦・長幼・朋友)関係を維持することを教える。


人を思い遣る事。白川静『孔子伝』によれば、「狩衣姿も凛々しい若者の頼もしさをいう語」。「説文解字」は「親」に通じると述べている。
「論語」の中では、さまざまな説明がなされている。孔子は仁を最高の徳目としていた。


利欲に囚われず、すべきことをすること。


仁を具体的な行動として、表したもの。もともとは宗教儀礼でのタブーや伝統的な習慣・制度を意味していた。のちに、人間の上下関係で守るべきことを意味するようになった。


ただ学問に励むだけでなく道徳的認識判断力であることともされている[4]。智は『論語』では知と表記され意味としては聡明、明智などの意味がある[5]。


言明を違えないこと、真実を告げること、約束を守ること、誠実であること。

この他にも、忠義、孝、悌という教えもある[6]。

人性論
天人の辨
義利の辨

名分論
命定論
形神論
正統論
復讐論
道統論
理気論
儒仏道論争
朱陸論争
格物致知
未発已発
良知
無善無悪
万物一体論
井田論
封建論
今文・古文
道器論 』

『制度・習慣

礼儀

子曰く、「詩に興り、礼に立ち、楽に成る。」孔子曰く、「礼に非ざれば視ること勿かれ、礼に非ざれば聴くこと勿かれ、礼に非ざれば言うこと勿かれ、礼に非ざれば動くこと勿かれ。」

周礼は五礼て、つまり吉礼、凶礼、賓礼、軍礼、嘉礼です。

吉礼によって国家の天神、祖霊、地神を祭り、凶礼によって国家の苦難を哀憚し、救う。
賓礼によって周王室と他国あるいは国家間を友好親善たらしめ、軍礼によって国家同士を協調させ、嘉礼によって万民を互いに和合する[7]。

五礼のうち、とくに吉礼(祭祀)、凶礼(喪葬)、嘉礼(冠婚)などを中心として取り上げ、殷周信仰や古来の習俗。

周礼 解説 名系
吉礼 天地鬼神の祭祀(邦国の鬼神につかえる) 郊祀、大雩、朝日、夕月、祓禊
凶礼 葬儀・災害救済(邦国の憂いを哀れむ) 既夕礼、士虞礼
賓礼 外交(邦国に親しむ) 士相見礼、燕礼、公食大夫礼、覲礼
軍礼 出陣・凱旋(邦国を同じくする) 大射、大儺
嘉礼 冠婚・饗宴・祝賀(万民に親しむ) 飲食之礼、婚冠之礼、賓射之礼、饗燕之礼、脤膰之礼、賀慶之礼

冠服制度

『論語』に「顔淵、邦を為めんことを問う。子曰く、夏の時を行ない、殷の輅に乗り、周の冕を服し、~(顔淵は国の治め方について聞いた。孔子は言った、夏王朝の暦を使い、殷の輅と呼ばれる車に乗り、周の冕という衣装を着て、~)」という記述がある[8]。

孔子が、周の冕(祭礼用の服)を模範としているのだ。

また、同じ論語の泰伯篇には、普段の衣服を質素にする代わりに祭礼用の衣服(黻冕)を豪華にした禹王を褒めている[9][出典無効]。

易経に、「黄帝堯舜衣裳を垂れて天下治まるは、蓋し諸を乾坤に取る(黄帝と堯と舜が天下を治めた時は、その衣装のデザインを天地の色に倣った)」[10] とある。

乾とは天、坤とは地の事であるから、乾坤とは天地を意味している。

では天地とは何色であるのだろうか。

『周易』坤卦に「天は玄にして地は黄」とある。

つまり、天の色は赤黒(玄)く、地の色は黄色いとされていたのだ。

ゆえに、祭礼用の衣装である冕服(袞衣)の衣(上半身)は赤黒く、裳(下半身)は黄色くされていたのである。

また、『書経』には虞皇の衣服についても書かれている。日 月 星辰 山 龍 華虫 宗彝 藻 火 粉米 黼 黻の十二である。それが『輿服制(車に乗る時用の衣服)』の始まりである。

この冠服制度は“礼制”に取り入れられ、儀礼の表現形式として中国の衣冠服制度は更に複雑化していく。

衛宏『漢旧儀』や応劭『漢官儀』をはじめとして、『白虎通義』衣裳篇や『釈名』釈衣服、『独断』巻下、『孔子家語』冠頌、『続漢書』輿服志などの中に、漢代の衣服一般に関する制度が記録されているが、それらはもっぱら公卿・百官の車駕や冠冕を中心としたものである。

『儀礼』士冠礼・喪服や、『周礼』天宮司裳・春宮司服など、また『礼記』冠儀・昏儀などの各篇は、周代の服装に関する制度である。

孔子廟

詳細は「孔子廟」および「日本の儒教#関連史蹟」を参照

中国では現在においても、孔子を崇敬する人は多い。

中国の各地に孔子を祭る廟がある。これを文廟といい、孔子廟・孔廟・夫子廟ともいう(特に魯の故地の孔子の旧居跡に作られた孔廟が有名)。

中国国内の孔子廟の多くは文化大革命時に破壊されたり損傷を受けている。

日本でも、江戸時代に、幕府が儒教(特に朱子学)を学問の中心と位置付けたため、儒教(朱子学)を講義した幕府や各藩の学校では孔子を祀る廟が建てられ崇敬された。

湯島聖堂が、その代表である。』

 ※ 湯島の聖堂も、「孔子廟」の一つか…。

『歴史(古代・中世)

起源

儒(じゅ)の起源については、胡適が「殷の遺民で礼を教える士」[11] として以来、様々な説がなされてきたが、近年は冠婚葬祭、特に葬送儀礼を専門とした集団であったとするのが一般化してきている。

東洋学者の白川静は、紀元前、アジア一帯に流布していたシャーマニズムおよび死後の世界と交通する「巫祝」(シャーマン)を儒の母体と考え、そのシャーマニズムから祖先崇拝の要素を取り出して礼教化し、仁愛の理念をもって、当時、身分制秩序崩壊の社会混乱によって解体していた古代社会の道徳的・宗教的再編を試みたのが孔子とした[12]。

孔子とその時代

詳細は「孔子」を参照

顔回

春秋時代の周末に孔丘(孔子、紀元前551年‐紀元前479年)は魯国に生まれた。

当時は実力主義が横行し身分制秩序が解体されつつあった。

周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて孔子教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。

孔子の弟子は3000人おり、特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいた[13]。

そのうち特に優れた高弟は孔門十哲と呼ばれ、その才能ごとに以下の四科に分けられている。

徳行 - 顔回・閔子騫・冉伯牛・仲弓
言語 - 宰我・子貢
政事 - 冉有・子路
文学(学問) - 子游・子夏

その他、孝の実践で知られ、『孝経』の作者とされる曾参(曾子)がおり、その弟子には孔子の孫で『中庸』の作者とされる子思がいる。

孔子の死後、儒家は八派に分かれた。

その中で孟軻(孟子)は性善説を唱え、孔子が最高の徳目とした仁に加え、実践が可能とされる徳目義の思想を主張し、荀況(荀子)は性悪説を唱えて礼治主義を主張した。

『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』といった周の書物を六経として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『礼記』や『易伝』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』といった注釈書や論文集である伝が整理された(完成は漢代)。

焚書坑儒

性悪説を唱えた荀子。その思想は法家の韓非子や同じく法家で秦の丞相である李斯に批判的に継承された

秦は商鞅の変法によって伝統で氏族社会を解体し、韓非子に代表される法家思想によって中華統一の基盤を整備した[14]。

始皇帝が六国を滅ぼし中国を統一すると、法家思想を尊んでそれ以外の自由な思想活動を禁止し、焚書坑儒を起こした。

ただし、博士官が保存する書物は除かれたとあるので、儒家の経書が全く滅びたというわけではなく、楚漢の戦火を経ながらも、漢に伝えられた。

また、焚書坑儒以降にも秦に仕えていた儒者もおり、例えば叔孫通は最初秦に仕えていたが、後に漢に従ってその礼制を整えている。

国教化

董仲舒

陳勝・呉広の乱後、項羽を倒して中華を再統一した劉邦は、漢(前漢)を建国した。

そして地域差のある氏族制解体に対応するため、郡国制を採用し、黄老思想(黄老刑名の学)によって民力の休息を図った。

この政策は文帝・景帝にも引き継がれた[14]。

道家系の黄老思想が流行る中で、叔孫通が漢の宮廷儀礼を定め、陸賈が南越王を朝貢させ、伏生が『今文尚書』を伝えるなど、秦の統治下にありながら儒を保管していた学者たちが活躍した。文帝のもとでは賈誼が活躍した。

武帝のとき、漢は匈奴から河西四郡を奪うなど積極的な政策に転じ、無為を尊ぶ黄老思想は衰退し、代わって儒者が重用された。

班固『漢書』によれば儒者・董仲舒は五経博士を設置することを献策した。武帝はこの献策をいれ、建元5年(紀元前136年)、五経博士を設けたという(ただし、『史記』には董仲舒が献策したとの記述がなく、儒家思想が国家の学問思想として浸透して儒家一尊体制が確立されたのは前漢末から後漢初にかけてという説もある)。

武帝のときに儒学者が台頭したのは事実であり、儒者で初めての丞相の公孫弘のように、武帝の好む法家思想を儒教でコーティングする者が登用された[15]。

また、五経博士が設置されたことで、儒家の経書が国家の公認のもとに教授され、儒教が官学化した。同時に儒家官僚の進出も徐々に進み、前漢末になると儒者が多く重臣の地位を占め、丞相も儒者が独占する状態になる。

前漢の経学は一経専門であり、流派を重んじて、師から伝えられる家法を守り、一字一句も変更することがなかった(章句の学)。

宣帝のときには経文の異同や経説の違いを論議する石渠閣会議が開かれている。この会議で『春秋』では公羊家に対して穀梁家が優位に立った。

董仲舒ら公羊家は陰陽五行思想を取り入れて天人相関の災異説を説いた。

前漢末には揚雄が現れ、儒教顕彰のために『易経』を模した『太玄』や『論語』を模した『法言』を著作している。

こうして儒教は権力にすり寄り、天という人格的な主催神を持つ宗教へと変貌した[15]。
前漢末~後漢、災異思想・神秘主義により経書を解釈した緯書が流行した(「経」には機織りの「たていと」、「緯」は「よこいと」の意)。緯書は七経(六経+孝経)に対して七緯が整理され、予言書『讖書』『図讖(としん)』と合わせて讖緯が成立し、新の王莽も後漢の光武帝も盛んに利用した。

一方、桓譚・王充ら無神論者の思想家を唱え、合理主義的な立場から讖緯を非難した。

古文学と今文学

前漢から五経博士たちが使っていた五経の写本は、漢代通行の隷書体に書き写され『今文経』と言われる。

これに対し、孔子旧宅の壁中や民間から秦以前のテキスト、『古文経』が発見された。

前漢末、劉歆が古文経を学官に立てようと、今文経学と学派争いを引き起こした。

平帝のときには『春秋左氏伝』『逸礼』『毛詩』『古文尚書』が、新朝では『周官』が学官に立てられた。

後漢では、古文経が学官に立てられることはなかったものの、民間において経伝の訓詁解釈学を発展させて力をつけた。

章帝のとき、今文経の写本の異同を論じる白虎観会議が開かれたが、この中で古文学は攻撃に晒されながらも、その解釈がいくらか採用された。この会議の記録は班固によって『白虎通義』にまとめられた。

古文学は、今文学が一経専門で家法を頑なに遵守したのに対し、六経全てを兼修し、ときには今文学など他学派の学説をとりいれつつ、経書を総合的に解釈することを目指した。
賈逵は『左氏伝』を讖緯と結びつけて漢王朝受命を説明する書だと顕彰した。

その弟子、許慎は『説文解字』を著して今文による文字解釈の妥当性を否定し、古文学の発展に大きく寄与している。

馬融は経学を総合して今古文を折衷する方向性を打ち出した。その弟子、鄭玄は三礼注を中心に五経全体に矛盾なく貫通する理論を構築し、漢代経学を集大成した。

今文学では古文学説の弱点を研究して反駁した。

李育は『難左氏義』によって左氏学を批判し、白虎観会議に参加して賈逵を攻撃した。

何休は博学をもって『公羊伝』に注を作り、『春秋公羊解詁』にまとめた。

『公羊墨守』を著作して公羊学を顕彰するとともに、『左氏膏肓』を著作して左氏学を攻撃した。一で『周礼』を「六国陰謀の書」として斥けた。

何休は鄭玄によって論駁され、以後、今文学に大師が出ることもなく、今文学は古文学に押されて衰退していった。

三国時代・晋代

魏に入ると、王粛が鄭玄を反駁してほぼ全経に注を作り、その経注の殆どが魏の学官に立てられた。

王粛は『孔子家語』を偽作したことでも知られる。

西晋では杜預が『春秋左氏伝』に注して『春秋経伝集解』を作り、独自の春秋義例を作って左伝に基づく春秋学を完成させた。『春秋穀梁伝』には范寧が注を作っている。

玄学

この時代老荘思想と『易』に基づく玄学が隆盛した。

玄学の側からも儒教の経書に注を作るものが現れ、王弼は費氏易に注して『周易注』を作り、何晏は『論語集解』を作った(正始の音)。

呉には今文孟氏易を伝えた虞翻、『国語注』を遺した韋昭がいる。

西晋末には永嘉の乱が起こり、これによって今文経学の多くの伝承が途絶えた。

東晋になると、永嘉の乱で亡佚していた『古文尚書』に対して梅賾が孔安国伝が付された『古文尚書』58篇なるものを奏上したが、清の閻若璩によって偽作であることが証明されている(偽古文尚書・偽孔伝という)。

この偽孔伝が鄭玄注と並んで学官に立てられた。

南北朝時代・南学と北学

南北朝時代、南朝の儒学を南学、北朝の儒学を北学という。南朝ではあまり儒教は振るわなかったが、南朝梁の武帝のときには五経博士が置かれ、一時儒教が盛んになった。

南学では魏晋の学風が踏襲され、『毛詩』「三礼」の鄭玄注以外に、『周易』は王弼注、『尚書』は偽孔伝、『春秋』は杜預注が尊ばれた。

あまり家法に拘ることもなく、玄学や仏教理論も取り込んだ思想が行われた。

この時代、仏教の経典解釈学である義疏の学の影響を受けて、儒教の経書にも義疏が作られはじめた。

ただし、儒教では漢魏の注についてさらに注釈を施すといった訓詁学的なものを「疏」と呼ぶようになっていった。

南朝梁の費甝の『尚書義疏』や皇侃の『論語義疏』があるが、『尚書義疏』は北方に伝わって北学でも取りあげられ、唐の『尚書正義』のもとになり、『論語義疏』は亡佚することなく現在まで伝えられている。

北朝でも仏教・玄学が流行したが、わりあい儒教が盛んであり、特に北周ではその国名が示すとおり周王朝を理想として儒教を顕彰し、仏教を抑制した。

北朝では後漢の古文学が行われ、『周易』・『尚書』・『毛詩』「三礼」は鄭玄注、『春秋左氏伝』は後漢の服虔の注、『春秋公羊伝』は後漢の何休の注が尊ばれた。

その学風は保守的で旧説を覆すことなく章句訓詁の学を墨守した。

北魏には徐遵明がおり、劉献之の『毛詩』を除く経学はすべて彼の門下から出た。その門下に北周の熊安生がおり、とりわけ三礼に通じて『礼記義疏』などの著作がある。熊安生の門下からは隋の二大学者である劉焯・劉炫が出た。

隋代

北朝系の隋が中国を統一したので、隋初の儒学は北学中心であったが、煬帝のとき、劉焯・劉炫の二劉が出、費甝の『尚書義疏』を取りあげたり、南学系の注に義疏を作ったりして南北の儒学を総合した。

劉焯の『五経述義』、劉炫の『春秋述義』『尚書述義』『毛詩述義』は唐の『五経正義』の底本となった。

在野の学者に王通(文中子)がいる。彼は自らを周公から孔子への学統を継ぐものと自認し、六経の続編という「続経」を作った。偽作・潤色説もあるが『論語』に擬した『中説』が現存している。唐末、孔孟道統論が起こる中で再評価され韓愈の先駆者として位置づけられた。その儒仏道三教帰一の立場、みずからを儒教の作り手である聖人とする立場がのちの宋学に影響を与えた。

隋の文帝は初めて科挙を行い、従来の貴族の子弟が官吏となる体制から、試験によって官吏が選ばれるようになった。これにより、儒学者がその知識をもって官吏となる道が広がったのである。

唐代

唐が中国を再統一すると、隋の二劉が示した南北儒学統一の流れを国家事業として推し進めた。

隋末混乱期に散佚した経書を収集・校定し、貞観7年(633年)には顔師古が五経を校定した『五経定本』が頒布された。

さらに貞観14年(640年)には孔穎達を責任者として五経の注疏をまとめた『五経正義』が撰定された(二度の改訂を経て永徽4年(653年)に完成)。

永徽年間には賈公彦に『周礼疏』『儀礼疏』を選定させている。これにより七経の正義が出そろい、漢唐訓詁学の成果はここに極まった。

こうして正義が確定される一方、中唐(8世紀中葉)になると注疏批判の動きが生じた。

『春秋』では啖助・趙匡・陸淳が春秋三伝は『春秋』を注するものではないと懐疑を述べ、特に『左伝』を排斥した。『周易』では李鼎祚が王弼注の義理易に反対して鄭玄を始めとする漢代象数易を伝えた。『詩経』では韓愈撰と仮託される「詩之序議」が「詩序」の子夏制作を否定している。

唐代は一概に仏教隆盛の時代であったが、その中にあって儒教回帰を唱えたのが、韓愈や李翺たちである。

韓愈は著書『原道』で、堯舜から孔子・孟子まで絶えることなく伝授された仁義の「道」こそ仏教・道教の道に取って代わられるべきものだと主張している。

李翺は『復性書』において「性」は本来的に善であり、その性に復することで聖人になれるとした。

その復性の教えは孔子から伝えられて子思が『中庸』47篇にまとめ、孟子に伝えられたが、秦の焚書坑儒によって失われ、道教・仏教が隆盛するにいたったのだと主張している。
彼らの「道」の伝授に関する系統論は宋代の道統論の先駆けとなった。

彼らは文学史上、古文復興運動の担い手であるが、古文運動家のいわゆる「文」とは「載道」(道を載せる)の道具であり、文章の字面ではなく、そこに込められた道徳的な精神こそが重要であるとして経文の一字一句にこだわる注疏の学をも批判した。このことが宋代の新しい経学を生む要因の一つとなった。

また、唐代は儒教・仏教・道教の三つが鼎立していることから、三教鼎立時代とも呼ばれており、劉禹錫(772年-842年)は仏教・儒教の教養を併せ持った詩僧との交流が深かったことや、当時の朝廷では道教が優遇政策がとられていた

が、玄宗は道教の『老子』仏教の『金剛般若経』儒教の『孝経』の注釈書を著するなどをしたことから、この三教鼎立時代は人的にも思想的にも実り多い交流が行われていた時代であったと言える[16]。』

『歴史(近世)

宋代

宋ははじめ唐の継承を目指し、儒学でも注疏の学が行われた。

聶崇義の『三礼図』、邢昺・孫奭らの『孝経疏』『論語疏』『爾雅疏』がある。

南宋になると、漢唐の注疏にこの三疏と『孟子疏』が加えられて『十三経注疏』がまとめられた。

また、宋代では『周礼』が過去の王朝と比較しても知識人たちの関心を惹いた。宋初三先生の一人の石介は『周礼』を大義名分を解く『春秋』とともに「万世の大典」とした。また『周礼』は科挙制度の改善にも利用された。唐宋八大家の一人であった欧陽脩は『周礼』の「教民、興学、命士の法」に対して深い共感を持った[17]。

道統論

しかし、宋の天下が安定した仁宗のときになると、唐末の古文復興運動が共感され、漢唐時代は否定されるようになった。

漢唐時代には細々と伝承されてきたとする孔子の道に対する系譜が作られ、自己をその最後に置く道統論が盛んになった。

例えば、古文家の柳開は「孔子 – 孟子 – 荀子 – 揚雄 – 韓愈」の系譜を提出し、石介はこれに隋の王通を加えた。

ここに孟子の再評価の動きが起こった。

宋初、孟子を評価するものは少なく宋代前期の激しい議論を経てその評価が確定された。
王安石は科挙改革で従来の『孝経』『爾雅』に代わって『孟子』を挙げ、南宋になると孫奭撰と仮託されて『孟子注疏』が編まれている。

人性論としても伝統的な性三品説から性善説が主張されるようになっていく。逆に性悪説の荀子や性善悪混説の揚雄は評価の対象から外されていった。

漢唐訓詁学の語義のみを重視する解釈学を批判し、その中身である道徳精神を重視する学問が打ち出された。胡瑗・孫復・石介は「仁義礼楽を以て学と為」し、後に欧陽脩によって宋初三先生と称されている。

新学

神宗のときになると、このような前人の主張を総合し、体系的な学問が新たに創始された。

その代表が王安石の新学である。

王安石は『周礼』『詩経』『書経』に注釈を施して『三経新義』を作り、さらに新学に属する学者たちが他の経書にも注を作った。

これら新注は学校に頒布されて科挙の国定教科書となり、宋代を通じて広く読まれた。

王安石は特に『周官新義』を重んじ、『周礼』に基づく中央集権国家の樹立を目指し、さまざまな新法を実施した。

新学に異議を唱えたものに程顥・程頤らの洛学(道学)、蘇軾・蘇轍らの蜀学、張載らの関学があった。

12世紀を通じてこれらの学派は激しく対立したが、南宋になると、新学優位から次第に道学優位へと傾いていった。

天論

この時代、「天」をめぐる考え方に大きな変化が現れた。

それまでの天は人格的であり意志を持って人に賞罰を下すとされたが、宋代以降、天は意志をもたない自然的なものであり、天と人とを貫く法則にただ理があるとされた。

その先鞭をつけたのは中唐の柳宗元の「天説」・劉禹錫の『天論』であり、北宋においては欧陽脩の『新唐書』五行志・王安石の『洪範伝』・程頤の『春秋伝』などに見られる。
程頤の理・程顥の天理は後の朱熹に影響を与えた。

このような天観の変化によって『易経』を中心として新しい宇宙生成論が展開された。

邵雍は「先天図」を作って「数」で宇宙生成を説明し、周敦頤は「太極図」に基づいて『太極図説』を著し、「無極→太極→陰陽→五行→万物化生」の宇宙生成論を唱えた(朱熹は無極=太極と読み替えた)。

また張載は「太虚即気」説を唱え、気が離散して流動性の高いあり方を「太虚」、気が凝固停滞してできているものを「万物」とした。

この気には単なる宇宙論にとどまらず道徳的な「性」が備わっており、「太虚」の状態の性を「天地の性」として本来的な優れたものとし、「万物」の状態の性を「気質の性」として劣化したものとした。

こういった唐宋変革期のパラダイムシフトは南宋になると体系的な思想として総合され、朱子学が形成されることになる。

南宋時代

宋代は北方を金代に占領され、南渡することになった。

この時代、在朝在野を問わず新学と洛学が激しく争った。

南宋初、程頤の直弟子である楊時は北宋亡国の責任は王安石の新学にあるとして科挙に王安石の解釈を用いるべきではないと高宗に進言し、『三経義辯』を著して『三経新義』を批判した。

程頤に私淑した胡安国は『春秋』に注して『胡氏春秋伝』を著し、『周礼』に基づく新学を批判した。

謝良佐の弟子である朱震は邵雍の『皇極経世書』、周敦頤の『通書』といった象数易と『程氏易伝』や張載の『正蒙』といった義理易を総合して『漢上易伝』を著し、王安石や蘇軾の易学に対抗した。

新学を重んじた重鎮秦檜の死後、高宗によって新学の地位は相対化された。

朱熹

孝宗のときには、後に朱子学と呼ばれる学術体系を構築した朱熹が現れる。

洛学の後継者を自認する朱熹は心の修養を重視して緻密な理論に基づく方法論を確立した。

彼は楊時の再伝弟子という李侗との出会、胡安国の子の胡宏の学を承けた張栻(湖湘学派)との交友によって心の構造論・修養法(主敬静座)への思索を深め、40歳の時、張載の言葉という「心は性と情とを統べる」と程頤の「性即理」による定論を得、一家を成して閩学(びんがく)を起こした。

宇宙構造を理気二元論で説明し、心においても形而上学的な「理」によって規定され、人間に普遍的に存在する「性」と、「気」によって形作られ、個々人の具体的な現れ方である「情」があるとし、孟子に基づいて性は絶対的に善であるとした。

そして、その「性」に立ち戻ること、すなわち「理」を体得することによって大本が得られ万事に対処することができるとし、そのための心の修養法に内省的な「居敬」と外界の観察や読書による「格物」とを主張した。

経学では、五経を学ぶ前段階として四書の学を設け、『四書集注』を著した。

さらに『易経』には経を占いの書として扱った『周易本義』、『詩経』には必ずしも礼教的解釈によらず人の自然な感情に基づく解釈をした『詩集伝』、「礼」には『儀礼』を経とし『礼記』を伝とした『儀礼経伝通解』を著した。

『書経』には弟子の蔡沈に『書集伝』を作らせている。

朱熹の弟子には、黄榦・輔広・邵雍の易学を研鑽した蔡元定と『書集伝』を編纂した蔡沈父子、『北渓字義』に朱熹の用語を字書風にまとめた陳淳などがいる。

同時代、永康学派の陳亮や永嘉学派の葉適(しょうせき)は、聖人の道は国家や民衆の生活を利することにあるとする事功の学を唱えて自己の内面を重視する朱熹を批判した。江西学派の陸九淵は心の構造論において朱熹と考えを異にし、心即理説にもとづく独自の理論を展開した。朱熹・陸九淵の両者は直に対面して論争したが(鵝湖の会)、結論は全く出ず、互いの学説の違いを再確認するに留まった。

また、朱熹は経書を用いて科挙制度を批判した人物としても知られていることから教育分野にたいして積極的に取り組んでいた人物であるといえる。

朱熹は科挙をただ暗記するだけの学問であると批判した。

というのも当時の科挙は『五経正義』という唐代に成立した国の注釈書を暗記することが科挙の対策であったためである。

朱熹は学問には過程があるとして、「日常的しつけ」から「理論および社会的行動」へという過程をさだめさらにそのためのテキストもさだめた。

その内容は8歳で学ぶ段階では『小学』を15歳以降は『四書』と『五経』を定めた[18]。

道学

陸九淵の学は明代の王守仁によって顕彰され、心学(陸王心学)の系譜に入れられた。

この時代、洛学の流派は朱熹の学を含めて道学と呼ばれるようになり一世を風靡した。一方、鄭樵・洪邁・程大昌らが経史の考証をもって学とし、道学と対峙している。

寧宗の慶元3年(1197年)、外戚の韓侂冑が宰相の趙汝愚に与する一党を権力の座から追放する慶元の党禁が起こり、趙汝愚・周必大・朱熹・彭亀年・陳傅良・蔡元定ら59人が禁錮に処された。

その翌年、偽学の禁の詔が出され、道学は偽学とされて弾圧を受けることになった。

朱熹は慶元6年(1200年)、逆党とされたまま死去した。偽学禁令は嘉定4年(1211年)に解かれた。

理宗はその廟号「理」字が示すとおり道学を好み、朱熹の門流、魏了翁・真徳秀らが活躍した。

真徳秀の『大学衍義』は後世、帝王学の教科書とされている。度宗のときには『黄氏日抄』の黄震、『玉海』『困学紀聞』で知られる王応麟がいる。いずれも朱熹の門流で学術的な方面に大きな役割を果たした。

元代

従来、金代では道学は行われず、モンゴルの捕虜となった趙復が姚枢・王惟中に伝えたことによって初めて道学が北伝したとされてきたが、現在では金でも道学が行われていたことが知られている。

元代、姚枢から学を承けた許衡が出て、朱子学が大いに盛んになった。

元は当初、金の継承を標榜しており南宋は意識されていなかった。

許衡はクビライの近侍にまで至り、朱子学を元の宮廷に広めた。

南人では呉澄が出て朱子学を大いに普及させた。彼は朱子学にも誤りがあるとして理気論や太極論の修正を行い、陸九淵の学の成果を積極的に導入している。

許衡と呉澄の2人は後に元の二大儒者として北許南呉と称された。

元代、科挙で一大改革が起こった。

漢人採用の科挙において依拠すべき注釈として『十三経注疏』と並行して朱子学系統の注釈が選ばれたのである。

これによって朱子学の体制教学化が大いに進んだ。

また、金代(1115年-1234年)に成立した全真教においては、儒教道教仏教の一致を唱えており、儒教的な徳目をも取り込んでいった。このような宗教が広まることで庶民の間にもその宗教は広まっていく[19]。

明代

明を興した太祖朱元璋のもとには劉基や宋濂といった道学者が集まった。

劉基は明の科挙制度の制定に取り組み、出題科目として四書を採用し、また試験に使う文章に後に言う「八股文」の形式を定めた。

宋濂は明朝の礼制の制定に尽力した。宋濂の学生には建文帝に仕えて永楽帝に仕えることを潔しとしなかった方孝孺がいる。

永楽帝は胡広らに道学の文献を収集させて百科事典的な『四書大全』『五経大全』『性理大全』を編纂させ、広く学校に頒布した。

この三書はその粗雑さが欠点として挙げられるが、一書で道学の諸説を閲覧できる便利さから科挙の参考書として広く普及した。

『四書大全』『五経大全』の頒布により科挙で依拠すべき経羲解釈に『十三経注疏』は廃され、朱子学が体制教学となった。

明代前期を代表する道学者として薛瑄・呉与弼が挙げられている。

薛瑄は、朱熹が理先気後とするのに対して理気相即を唱え、また「格物」と「居敬」では「居敬」を重んじた。

呉与弼は朱熹の理論の枠内から出ず、もっぱらその実践に力をそそいだとされるが、その門下から胡居仁・婁諒・陳献章が出た。

胡居仁は排他的に朱子学を信奉しその純化に努めた人物である。

婁諒は、居敬と著書による実践を重んじたが、胡居仁にその学は陸九淵の学で、経書解釈も主観的だと非難されている。

陳献章は静坐を重んじたことで知られており、胡居仁からその学は禅だと批判された。陳献章門下には王守仁と親交が深かった湛若水がいる。

王陽明

明代中期、王守仁(号は陽明)は、朱熹が理を窮めるために掲げた方法の一つである『大学』の「格物致知」について新しい解釈をもたらした。

朱熹は「格物」を「物に格(いた)る」として事物に存在する理を一つ一つ体得していくとしたのに対し、王守仁はこれを「物を格(ただ)す」とし、陸九淵の心即理説を引用して、理は事事物物という心に外在的に存在するのではなく、事事物物に対している心の内の発動に存在するのだとした。

「致知」については『孟子』にある「良知」を先天的な道徳知とし、その良知を遮られることなく発揮する「致良知」(良知を致す)だとした。

そこでは知と実践の同時性が強調され、知行同一(知行合一)が唱えられた。致良知の工夫として初期には静坐澄心を教えたが、ともすれば門人が禅に流れる弊があるのを鑑み、事上磨練を説いた。

道学の「聖人、学んでいたるべし」に対し、人は本来的に聖人であるとする「満街聖人」(街中の人が聖人)という新たな聖人観をもたらした。

王守仁の学は陽明学派(姚江学派)として一派をなし、世に流行することになった。

この時代、朱熹の理気二元論に対し異論が唱えられるようになり、気の位置づけが高められ、理を気の運行の条理とする主張がなされた。

道学的な枠組みに準拠しつつこの説を唱えた代表的な人物として羅欽順がいる。

王守仁などは生生の気によって構成される世界を我が心の内に包括させ、世界と自己とは同一の気によって感応するという「万物一体の仁」を主張した。

さらに、このような気一元論を徹底させたのは王廷相である。

彼は「元気」を根元的な実在として朱熹の理説を批判し、「元気の上に物無く、道無く、理無し」として気の優位性を主張し、人性論においては人の性は気であって理ではなく、善悪を共に備えているとした。

理に対する気の優位性が高まるなか、気によって形作られるとされる日常的な心の動き(情)や人間の欲望(人欲)が肯定されるようになっていく。

王守仁も晩年、心の本体を無善無悪とする説を唱えている。

弟子の王畿はこれを発展させて心・意・知・物すべて無善無悪だとする四無説を主張したが、同門の銭徳洪は意・知・物については「善を為し悪を去る」自己修養が必要とした四有説を主張してこれに反対している。

以後、無善無悪からは王艮の泰州学派(王学左派)で情や人欲を肯定する動きが顕著になり、明末の李贄(李卓吾)にいたっては「穿衣吃飯、即ち是れ人倫物理」(服を着たり飯を食べることが理)と人欲が完全に肯定された。

さらに李贄は因習的な価値観すべてを否認し、王守仁の良知説を修正して「童心」説(既成道徳に乱される前の純粋な心)を唱えることで孔子や六経『論語』『孟子』さえ否定するに到った。

東林学派

社会・経済が危機的状況に陥った明末になると、社会の現実的な要求に応えようとする東林学派が興った。

彼らは陽明学の心即理や無善無悪を批判しつつも人欲を肯定する立場を認め、社会的な欲望の調停を「理」としていく流れを作った。

彼らが行った君主批判や地方分権論は清初の経世致用の学へと結実していく。

その思想は東林学派の一員である黄尊素の子で、劉宗周の弟子である黄宗羲の『明夷待訪録』に総括されることになる。

朱元璋の六諭

明代は儒教が士大夫から庶民へと世俗化していく時代である。

朱元璋は六諭を発布して儒教的道徳に基づく郷村秩序の構築を目指し、義民や孝子・節婦の顕彰を行った。

明代中期以後、郷約・保甲による郷民同士の教化互助組織作りが盛んになり、王守仁や東林学派の人士もその普及に尽力している。これにより儒教的秩序を郷村社会に徹底させることになった。

一方、王守仁と同時代の黄佐は郷村社会で用いられる郷礼を作るため朱熹の『家礼』を参考に『泰泉郷礼』を著した。

朱熹の『家礼』は元から明にかけて丘濬『家礼儀節』の改良を経ながら士大夫層の儀礼として流行していたが、明末、宗族という家族形態とともに庶民にまで普及した。

王艮の泰州学派には樵夫や陶匠・田夫などが名を連ねており、儒教が庶民にまで広く浸透した姿が伺える。

明代は史書に対する研究が盛んな時代であったが、中期以後、経書に対する実証学的研究の萌芽も見られる。梅鷟は『尚書考異』を著し、通行の「古文尚書」が偽書であることを証明しようとした。陳第は『毛詩古音考』を著し、音韻が歴史的に変化していることを明言し、古代音韻学研究の道を開いている。

清代

明朝滅亡と異民族の清朝の成立は、当時の儒学者たちに大きな衝撃を与えた。

明の遺臣たちは明滅亡の原因を、理論的な空談にはしった心学にあると考え、実用的な学問、経世致用の学を唱えた。

その代表は黄宗羲や顧炎武、王夫之である。

彼らはその拠り所を経書・史書に求め、六経への回帰を目指した。そのアプローチの方法は実事求是(客観的実証主義)であった。彼らの方法論がやがて実証的な古典学である考証学を生む。

一方、顔元は朱子学・陽明学ともに批判し、聖人となる方法は読書でも静坐でもなく「習行」(繰り返しの実践)であるとする独自の学問を興した。

「格物」の「格」についても「手格猛獣」(手もて猛獣を格(ただ)す)の「格」と解釈して自らの体で動くことを重視し、実践にもとづく後天的な人格陶冶を主張した。

顔元の学は弟子の李塨によって喧伝され、顔李学派と呼ばれる。

こういった清初の思想家たちは理気論上、一様に気一元論であり、朱子学や陽明学の先天的に存在するとした「理」を論理的な存在として斥け、現実世界を構成する「気」の優位を主張して人間の欲望をも肯定している。

このように明代中期以後、気一元論の方向性で諸説紛々たる様相を見せている理気論はその後、戴震が「理」を「気」が動いた結果として現れる条理(分理)とし、気によって形成された人間の欲望を社会的に調停する「すじめ」と定義するにいたって一応の決着を見る。

考証学

清の支配が安定してくると、実学よりも経書を始めとする古典を実証的に解明しようとする考証学が興った。

毛奇齢は朱子学の主観的な経書解釈を批判し、経書をもって経書を解釈するという客観的な経書解釈の方向性を打ち出し、『四書改錯』を著して朱熹の『四書集注』を攻撃した。
閻若璩は『尚書古文疏証』を著して「偽古文尚書」が偽書であることを証明し、「偽古文尚書」に基づいて「人心道心」説を掲げる朱子学に打撃を与えた。

胡渭は『易図明弁』を著し朱子学が重視した「太極図」や「先天図」「河図洛書」といった易学上の図が本来、儒教とは関連性がなかったことを証明した。

彼らの学は実証主義的な解釈学たる考証学の礎を築いた。

乾隆・嘉慶年間は考証学が隆盛した時代である。

その年号から乾嘉の学と呼ばれる。

顧炎武の流れをくむ浙西学派がその主流であり、恵棟を始めとする蘇州府を中心とする呉派、徽州府出身の戴震らの影響を受けた皖派(かんぱ)がある。

彼らは音韻学・文字学・校勘学や礼学などに長じていた。

特に後漢の名物訓詁の学を特徴とする古文学に基づいており、漢学とも呼ばれる。

一方、黄宗羲の流れをくむ浙東学派は史学に長じ、その代表である章学誠は六経皆史の説を唱えて、経書の史学的研究に従事した。やや後れて阮元を始めとする揚州学派が起こり、乾嘉漢学を発展させている。

道光以降になると、常州学派の前漢今文学が隆盛した。

彼らは今文経(特にその中心とされる『春秋公羊伝』)こそ孔子の真意を伝えているとし、乾嘉の学が重んじる古文経学を排除して今文経、ひいては孔子へと回帰することを目指した。

その拠り所とする公羊学に見られる社会改革思想が清末の社会思潮に大きな影響を与え、康有為を始めとする変法自強運動の理論的根拠となった。 』

『歴史(近現代)

洋務運動

アヘン戦争の敗北により西洋の科学技術「西学」を導入しようという洋務運動が興った。
洋務派官僚の曽国藩は朱子学を重んじて六経のもとに宋学・漢学を兼取することを主張し、さらに明末清初の王夫之を顕彰して実学の必要を説いた。

張之洞は康有為の学説に反対して『勧学篇』を著し、西学を導入しつつ体制教学としての儒教の形を守ることを主張している。

孔教運動

康有為

変法自強運動を進める康有為は、『孔子改制考』を著して孔子を受命改制者として顕彰し、儒教をヨーロッパ風の国家宗教として再解釈した孔教を提唱した。

康有為の孔教運動は年号紀年を廃して孔子紀年を用いることを主張するなど従来の体制を脅かし、清朝から危険視されて『孔子改制考』は発禁処分を受けた。

変法派のなかでも孔教運動は受け入れられず、これが変法運動挫折の一因となる。

しかし、辛亥革命が起こると、康有為は上海に孔教会を設立して布教に努め、孔教を中華民国の国教にする運動を展開した。

彼らの運動は信仰の自由を掲げる反対派と衝突し、憲法起草を巡って大きな政治問題となった。

その後、1917年、張勲の清帝復辟のクーデターに関与したため、孔教会はその名声を失った。

康有為が唱える孔子教運動には、弟子の陳煥章が積極的に賛同し、中国・アメリカで活動した。この他に賛同した著名人として厳復がいる。

現代

新文化運動

1910年代後半になると、争いを繰り返す政治に絶望した知識人たちは、文学や学問といった文化による啓蒙活動で社会改革を目指そうとする新文化運動を興した。

雑誌『新青年』を主宰する陳独秀・呉虞・魯迅らは「孔家店打倒」をスローガンに家父長制的な宗法制度や男尊女卑の思想をもつ儒教を排斥しようとした。

一方、雑誌『学衡』を主宰する柳詒徴・呉宓・梅光迪・胡先驌ら学衡派は、儒学を中心とする中国伝統文化を近代的に転換させることによって中西を融通する新文化を構築することを主張している。

清末から隆盛した今文学派による古典批判の方法論は古籍に対する弁偽の風潮を興し、1927年、顧頡剛を始めとする疑古派が経書や古史の偽作を論ずる『古史弁』を創刊した。

顧頡剛は「薪を積んでいくと、後から載せたものほど上に来る」という比喩のもと、古史伝承は累層的に古いものほど新しく作られたという説を主張し、堯・舜・禹を中国史の黄金時代とする儒教的歴史観に染まっていた知識人に大きな衝撃を与えた。

さらに銭玄同は六経は周公と無関係であるばかりでなく孔子とも無関係である論じ、孔子と六経の関係は完全に否定されるに到った。

新儒家
    熊十力
    梁漱溟
    牟宗三
    唐君毅
    杜維明

中華人民共和国時代

マルクス主義的無神論を掲げる中華人民共和国が成立すると、「儒教は革命に対する反動である」として弾圧の対象とされた。

特に文化大革命期には、批林批孔運動として徹底弾圧された。

多くの学者は海外に逃れ、中国に留まった熊十力は激しい迫害を受け自殺したといわれる。儒教思想が、社会主義共和制の根幹を成すマルクス主義とは相容れない存在と捉えられていたためとされる。

なお毛沢東は『三国志』を愛読し、曹操をとりわけ好んだといわれるが、曹操は三国時代当時に官僚化していた儒者および儒教を痛烈に批判している。

再評価と「儒教社会主義」

だが、21世紀に入ると儒教は弾圧の対象から保護の対象となり再評価されつつある。

孔子を、その思想を別論として、国際的に著名な教育者と評価し、2004年、中国国外の大学などの教育機関と提携し、中国語や中国文化の教育及び宣伝、中国との友好関係醸成を目的に設立した公的機関を孔子学院と名付け世界展開を進めている。

また、2005年以降、孔子の生誕を祝う祝典が国家行事として執り行われ、論語を積極的に学校授業に取り入れるようになるなど儒教の再評価が進んでいる。

文化大革命期に徹底的に破壊された儒教関連の史跡及び施設も近年になって修復作業が急速に行われている。

ほかにも改革開放が進む中で儒学や老荘思想など広く中国の古典を元にした解釈学である国学が「中華民族の優秀な道徳倫理」として再評価されるようになり国学から市場経済に不可欠な商業道徳を学ぼうという機運が生まれている。

国家幹部は儒教を真剣に学ぶべきだという議論も生まれている[20]。

ダニエル・A・ベル(Daniel A Bell)北京清華大学哲学教授によれば、近年、中国共産党は「儒教社会主義」または新儒教主義(宋の時代にもあった)を唱えている[21]。』

『東アジア周辺諸国の儒教

朝鮮

詳細は「朝鮮の儒教」を参照

朝鮮の儒学者

朝鮮は本家中国以上に儒教文化が深く浸透した儒教文化圏であり、現在でもその遺風が朝鮮の文化の中に深く残っている。

それだけに、恩師に対する「礼」は深く、先生を敬う等儒教文化が良い意味で深く浸透しているという意見もある。

李氏朝鮮の統治階層であった両班は自らを儒教の継承人と見做し、儒教の浸透に深く関わった。

李退渓:嶺南学派
李栗谷:畿湖学派

ベトナム

19世紀末の科挙の風景

漢王朝(北属期)の時代に儒教が伝播したが、当地から著名な儒家を輩出することはなかった。

10世紀に李朝が成立すると儒教制度が本格的に導入され、政治領域をはじめ教育、学術、文芸、文化風俗などにおける影響力が強くなった。

しかしながら、仏教や道教と比較して絶対的優位とはならなかった。

15世紀に後黎朝が成立すると、仏教・道教に対する儒教の優位性が確立され社会の各階層に浸透した。

これに伴いベトナムは東南アジア的な性質を徐々に失い、中国文化圏としての色彩を強めるに至った[22]。

18世紀から19世紀にかけては儒教の影響が最も強くなった。

17世紀から19世紀にかけて馮克寛・黎貴惇・呉時任・阮文超・嗣徳帝などの著名な儒家を輩出した。

琉球

「Category:琉球の儒教」を参照
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日本における儒教

「日本の儒教」を参照

日本では儒教は学問(儒学)として受容され、国家統治の経世済民思想や帝王学的な受容をされたため、神道や仏教に比べても、宗教として意識されることは少ない(次節を参照)。

ただし、年賀状のような儀礼がほぼ「儒教文化圏」に限られるように、自覚されない文化的行為の中に儒教的な考え方(価値観・社会規範などの広義の宗教)が東アジア共通のものとして基底的にあると考えられる。

儒学の伝来

日本に儒教が伝来したのは、5世紀の五経博士によってである。

朱子学は漢籍に紛れて輸入され、僧侶に学ばれた(五山文学)。

藤原惺窩と林羅山は仏教から朱子学に転じ、徳川幕府に仕えた。

近世の代表的な朱子学者として、谷時中・南村梅軒・野中兼山・新井白石・室鳩巣・雨森芳洲などがいる。

新井白石や荻生徂徠は政治にも深く関与した。

朱子学は寛政異学の禁により官学化された。

朱子学は庶民にも広く学ばれ、大坂では町人により懐徳堂が開かれた。

朱子学批判

山崎闇斎や貝原益軒は朱子学を学びながらもそれに疑問を呈するようになっていった。

中江藤樹は陽明学に転じ、道学を教え近江聖人と呼ばれた。

弟子の熊沢蕃山は農本思想を説いた。

山鹿素行は聖学を創始し、孔子本来の教えに立ち戻ることを主張した。

伊藤仁斎は道徳とは性即理(本然の性)によるのではないとし、日常的生活実践としての忠恕を重視した。

荻生徂徠は礼楽刑政の道とは聖人が制作したものであり、その制度を現在の政治に実現することを説いた。

徂徠の弟子には文人の服部南郭や、『経済録』の太宰春台がおり、後世には本居宣長や、海保青陵らの経世家に影響を与えていった。

懐徳堂では中井竹山らが朱子学を教えたが、中井履軒など朱子学に疑念を呈するものや、富永仲基や山片蟠桃など、儒学を始めとする宗教を否定する合理主義者が現れた。

幕末の儒学

昌平坂学問所の佐藤一斎は朱子学のほかに陽明学を修め、渡辺崋山・佐久間象山・横井小楠ら幕藩体制秩序の破壊を試みた弟子を輩出した。

陽明学者の大塩平八郎は、大塩平八郎の乱を起こして、幕府に挑戦した。

尊王思想は古学派にも萌芽が見られ、本居宣長・平田篤胤・頼山陽・蒲生君平・高山彦九郎・林子平らによって展開されていった。

朱舜水を招いて朱子学を研究していた水戸徳川家では、『大日本史』編纂の過程から水戸学が形成され、藤田東湖・藤田幽谷らが尊王思想を展開した。

会沢正志斎は『新論』で尊皇攘夷思想を体系化し、幕末の志士に伝えていった。

吉田松陰はその一人であり、孟子・水戸学・陽明学を松下村塾で教え、弟子からは高杉晋作ら倒幕の志士が現れた。

近代の儒学

明治維新の志士たちは水戸学や陽明学を信奉していたから、明治以後にも研究が行われた。

井上哲次郎は朱子学、陽明学、古学を研究した。

漢学者の元田永孚は教育勅語を起草したが、天皇の教えという形を取りながら、実質的には儒教道徳を説いた。

天皇制国家と国家神道が作られてからも、政府中枢に漢学者がおり、たとえば安岡正篤は終戦の詔勅に関与した。

民間右翼の中に儒学を元に尊王思想を説くものもあった。

村岡典嗣や津田左右吉や和辻哲郎らは日本の儒教を研究した。

戦後の儒学

戦後は、江戸時代に近代化に反対した人々の思想という位置づけがなされ[23]、丸山真男らによって批判的に研究されたほか[24]、マルクスの「アジア的停滞性論」も広く受け入れられた[25]。

そのため、歴史的な存在として儒教が学ばれたり、ビジネスマンの処世術・教養として『論語』が読まれるに留まる。』

『儒教に関する研究と論点

東アジアの近代化と儒教

宗教社会学者のマックス・ヴェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で西欧の近代化の原因はプロテスタンティズムにあるとしたが、その他の地域でも同様の研究を行っている。

アジアについては、『儒教と道教』で「儒教は合理主義的だったが、プロテスタンティズムのような厳格さを持たなかったため、東アジアは近代化しなかった」という趣旨のことを述べている。

また、マルクス主義では、「アジア的生産様式」によって中国では「アジア的停滞」が引き起こされ、近代化は起こらなかったなかったという。

カール・ウィットフォーゲルは、それが「アジア的専制」を産み出したという。

一方で、1990年代以降、中国の改革解放の成功やアジア四小竜の台頭を迎えると、リー・クアンユーや李登輝などは儒教が近代化の原因だと述べた[26]。

儒教は宗教か

儒教の長い歴史の間には、古文・今文の争い、喪に服する期間、仏教との思想的関係、理や気の捉え方など様々な論争がある。

現在の学術研究、特に日本における論争のひとつに“儒教は宗教か否か”というものがある。

現在、“儒教は倫理であり哲学である”とする考えが一般的[27] だが、孟子以降天意によって総てが決まるとも説かれており、これが唯物論と反する考えになっているという指摘もある。

加地伸行などは、宗教を「死生観に係わる思想」と定義した上で、祖先崇拝を基本とする儒教を宗教とみなしている[28]。

しかし何れにせよ、その唱える処は宗教に酷似している為、広義の宗教と結論づける事も可能なのである。

儒教が宗教かが法廷で問われた例として至聖廟を巡る裁判があり、日本の最高裁は至聖廟を宗教的施設との判断を示した[29]。

「zh:儒教 (宗教)」も参照
文献

概説書

加地伸行 『儒教とは何か』 中公新書、増補版2015年 ISBN 978-4121909893
加地伸行 『沈黙の宗教-儒教』 筑摩書房〈ちくまライブラリー〉/ 改訂版・ちくま学芸文庫、2011年
串田久治 『儒教の知恵-矛盾の中に生きる』 中公新書 ISBN 978-4121016850
鈴木利定 『儒教哲学の研究』 明治書院 ISBN 9784625483028
T・フーブラー、D・フーブラー 『儒教 シリーズ世界の宗教』 鈴木博訳 青土社 ISBN 9784791752980
狩野直禎編 『図解雑学 論語』ナツメ社、2001年、ISBN 4816330461
緑川佑介 『孔子の一生と論語』 明治書院、2007年、ISBN 9784625684036
土田健次郎編 『21世紀に儒教を問う』 早稲田大学出版部〈早稲田大学孔子学院叢書〉、2010年、ISBN 9784657102225
永冨青地編 『儒教 その可能性』 早稲田大学出版部〈早稲田大学孔子学院叢書〉、2011年、ISBN 9784657110145

伝記

白川静 『孔子伝』 中公文庫、1991年 ISBN 4122041600
諸橋轍次 『如是我聞 孔子伝』(上下)、大修館書店、1990年
金谷治 『孔子』 講談社学術文庫、1990年、ISBN 978-4061589353
武内義雄 『論語之研究』 岩波書店、1939年、ASIN B000J9BC3Q、復刊
津田左右吉 『論語と孔子の思想』 岩波書店、1946年、ISBN BN07038153、復刊
宮崎市定 『論語の新しい読み方』 礪波護編、岩波現代文庫、2000年、ISBN 4006000227

五経

易経
    今井宇三郎 『易経』 全3巻:明治書院〈新釈漢文大系〉
    (上)ISBN 9784625570230、(中)ISBN 9784625570247、(下)ISBN 9784625673146
    本田済 『易』 新版:朝日選書〈中国古典選〉、1997年 ISBN 9784022590107
    高田眞治・後藤基巳 『易経』 岩波文庫
    (上)ISBN 9784003320112、(下)ISBN 9784003320129
書経
    加藤常賢 『書経 (上)』 明治書院〈新釈漢文大系〉 ISBN 9784625570254
    小野沢精一 『書経 (下)』 明治書院〈新釈漢文大系〉 ISBN 9784625570261
    池田末利 『尚書 』 集英社〈全釈漢文大系〉
詩経
    石川忠久 『詩経』 全3巻:明治書院〈新釈漢文大系〉。他に新書漢文大系(抄訳版)がある。
    (上)ISBN 9784625571107、(中)ISBN 9784625571114、(下)ISBN 9784625673009
    白川静 『詩経国風』 平凡社東洋文庫、ISBN 9784582805185
    白川静 『詩経雅頌』 平凡社東洋文庫 全2巻、(1) ISBN 9784582806359 、(2) ISBN 9784582806366
礼記
    竹内照夫 『礼記』全3巻:明治書院〈新釈漢文大系〉
    (上)ISBN 9784625570278、(中)ISBN 9784625570285 、(下)ISBN 9784625570292
    市原亨吉など 『礼記』全3巻:集英社〈全釈漢文大系〉
    『礼記』 「漢文大系」冨山房、初版1913年。改訂版1984年
    桂湖村 『礼記』(上下)、漢籍国字解全書:早稲田大学出版部、初版1914年
    安井小太郎 『礼記』 「国訳漢文大成」国民文庫刊行会、初版1921年
    下見隆雄 『礼記』 明徳出版社〈中国古典新書〉、初版1973年
春秋
    春秋左氏伝
        鎌田正 『春秋左氏伝』全4巻、明治書院〈新釈漢文大系〉
         (1) ISBN 9784625570308 、(2) ISBN 9784625570315 、(3) ISBN 9784625570322、(4) ISBN 9784625570339
        竹内照夫 『春秋左氏伝』全3巻、集英社〈全釈漢文大系〉
        小倉芳彦 『春秋左氏伝』全3巻、岩波文庫
         (上)ISBN 9784003321614、(中)ISBN 9784003321621、(下)ISBN 9784003321638
    春秋公羊伝
        林羅山訓点 菜根出版(復刻)
        『世界文学全集 3 五経・論語』、公羊伝(日原利国訳) 筑摩書房、1970年
            日原利国著 『春秋公羊伝の研究』 創文社〈東洋学叢書〉、1978年
    春秋穀梁伝
        野間文史著 『春秋学 公羊伝と穀梁伝』 研文出版〈研文選書〉、2001年、ISBN 9784876362011

四書

大学
    宇野哲人 『大学』 講談社学術文庫 1983年 ISBN 4061585940
    金谷治 『大学 中庸』 岩波文庫 2004年 ISBN 4003322215
    赤塚忠 『大学・中庸』 明治書院〈新釈漢文大系〉 1998年 ISBN 4625570026
中庸
    島田虔次 『大学・中庸』 朝日新聞社〈中国古典選〉、1967年 / 朝日文庫(上下)、1978年
    宇野哲人 『中庸』 講談社学術文庫 1983年 ISBN 4061585959
    俣野太郎 『大学・中庸』 明徳出版社〈中国古典新書〉、1968年
論語
    吉田賢抗 『論語』 明治書院〈新釈漢文大系 1〉、初版1960年、ISBN 4625570018。新書漢文大系(抄訳版)がある
    吉川幸次郎 『論語』 各(上下) 新版:朝日選書〈中国古典選〉、1996年 / 改訂版・角川ソフィア文庫、2020年
    金谷治 『論語 新訂』 岩波文庫、1999年、ISBN 400-3320212。ワイド版2001年
    宮崎市定 『現代語訳 論語』 岩波現代文庫、2000年、ISBN 4006000170
    貝塚茂樹 『論語』 中公文庫、改版2020年、ISBN 4122068487
    加地伸行 『論語』 講談社学術文庫、2004年、増訂版2009年
孟子
    小林勝人 『孟子』 岩波文庫(上下) ISBN 978-4003320419&ISBN 978-4003320426
    貝塚茂樹 『孟子』 中公クラシックス。抄訳版
    内野熊一郎・加藤道理 『孟子』、明治書院〈新釈漢文大系〉。新書漢文大系(抄訳版)がある。
    宇野精一 『孟子』 集英社〈全釈漢文大系〉/ 講談社学術文庫、2019年

関連古典

周礼
儀礼
    池田末利編訳、全5巻:東海大学出版会〈東海古典叢書〉
爾雅
孝経
    加地伸行 『孝経』 講談社学術文庫、2007年
    栗原圭介 『孝経』 明治書院〈新釈漢文大系〉、ISBN 9784625570353
荀子
    金谷治 『荀子』 岩波文庫(上下)、ISBN 9784003320815&ISBN 9784003320822
    藤井専英 『荀子』 全2巻:明治書院〈新釈漢文大系〉。ほかに新書漢文大系(抄訳版)がある。
    金谷治・佐川修 『荀子』 全2巻:集英社〈全釈漢文大系〉
大戴礼記
    栗原圭介 『大戴礼記』 明治書院〈新釈漢文大系〉、ISBN 9784625571138

史書

史記
    孔子世家
    仲尼弟子列伝
    孟子荀卿列伝
    儒林列伝
漢書
    董仲舒伝
    儒林伝
孔子家語
    宇野精一訳 『孔子家語』 明治書院〈新釈漢文大系〉 ISBN 9784625570537。新書漢文大系(抄訳版)がある。
    藤原正訳 『孔子家語』 岩波文庫 ISBN 9784003320228

論語集解

渡邉義浩主編『全譯 論語集解』汲古書院 上・下 2020年

朱子学

朱子 『論語集註』
    笠間書院 ISBN 978-4305001559。真田但馬・吹野安編
    簡野道明編、明治書院 ISBN 978-4625733017、新版2003年
    『論語集注』土田健次郎訳注、平凡社東洋文庫 全4巻
『近思録』
    湯浅幸孫訳著、新版・たちばな出版(選書版)
     (上)ISBN 978-4886926036、(中)ISBN 978-4886926043 、(下)ISBN 978-4886926050
    市川安司訳著 『近思録』 明治書院〈新釈漢文大系〉 ISBN 978-4625570377
『「朱子語類」抄』 三浦國雄訳注、講談社学術文庫 ISBN 9784061598959
島田虔次著 『朱子学と陽明学』 岩波新書 ISBN 9784004120285

陽明学

王陽明 『伝習録』 溝口雄三訳、中公クラシックス ISBN 9784121600820

朝鮮の儒教と儒学

    史料に朝鮮王朝での五礼(吉礼、嘉礼、賓礼、軍礼、凶礼)の礼法を記した「国朝五礼儀」、世宗在位期間の歴史を記録した「世宗荘憲大王実録」がある。

日本の儒学

荻生徂徠 『論語徴』 小川環樹訳註、全2巻:平凡社東洋文庫 ISBN 9784582805758&ISBN 9784582805765
伊藤仁斎 『論語古義』
    子安宣邦著『論語古義』子安宣邦『仁斎論語 『論語古義』現代語訳と評釈』ぺりかん社 上・下
    『日本の名著13 伊藤仁斎』貝塚茂樹責任編集、中央公論社 1977年、新版・中公バックス 1983年。現代語訳のみ 』

フランスの新首相にボルヌ労働相、女性2人目

※ この記事貼るのを、忘れていた…。

フランスの新首相にボルヌ労働相、女性2人目
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR16D1H0W2A510C2000000/

 ※『昔、パリでのフォーラムに参加したとき、日本人参加者から提起された生産性をいかに向上させるといった問題にフランスの論客はあまり関心がなさそうだった。終盤、ism(主義)の問題が提起され、彼らは瞬時に目覚めてしまった。議論が大好きな人たち。』…。

 ※ ちょっと、笑ってしまった…。

 ※ 前に語った、デカルト(演繹法)vs.ベーコン(帰納法)にも通じるような話しだ…。

 ※ 法体系的にも、ローマ法vs.英米法だしな…。

 ※ しょせん、英も米も、プラグマティズム(実用主義)だ…。

 ※ 欧州人からしたら、プラグマティズムとは、単なる「無原則・無理論」で、「脳無し」というところなんだろう…。

 ※ しかし、戦争の戦略、戦術、兵器の発明、新技術の発明なんかで、ことごとく「やられて」しまって来た…(ICTは、ことごとく英米系の発明)。まあ、切歯扼腕なんだろう…。

 ※ そもそも、「産業革命」は、英国発だしな…。

 ※ 日本国も、「サムライの国」なんで、究極の「プラグマティズム」だ…。

 ※ 戦国大名は、プラグマティズムじゃなければ、生き残れなかった…。

 ※ 欧米の波が襲来した時もな…。「たった四杯で、夜も眠れ」なかった…。

 ※ それで、大急ぎで、国を挙げて、技術を「取り込んだ」…。

 ※ だから、むしろ、英米とのほうが相性はいいんだと、思う…。

『【パリ=白石透冴】フランスのマクロン大統領は16日、新首相にエリザベット・ボルヌ労働相(61)を任命した。女性が仏首相になるのは1991~92年、ミッテラン政権下のクレッソン氏に続いて2人目。マクロン氏は6月に国民議会(下院)選挙を控えており、左派有権者へのアピールという側面がありそうだ。

マクロン氏は4月の大統領選で再選しており、新内閣で2期目に臨む。数日内に残る新閣僚の顔ぶれも明らかにする。同氏はツイッターで「環境、教育、労働――。新しい政府は妥協せず行動を続ける」などと発信した。

ボルヌ氏は記者団を前に「我々は環境問題に直面しており、迅速に行動しなければならない」とあいさつした。

ロシア系ユダヤ人を父に持つボルヌ氏は中道左派社会党ロワイヤル環境相(当時)のもとで2014~15年に働くなど左派系の経歴を持つ。マクロン氏が初当選した2017年から閣僚入りし、交通担当相、環境相、労働相を歴任した。

2020年に就任し新型コロナウイルス対策などにあたったカステックス首相は同日辞表をマクロン氏に提出し、受理された。

多様な観点からニュースを考える

※掲載される投稿は投稿者個人の見解であり、日本経済新聞社の見解ではありません。

上野泰也のアバター
上野泰也
みずほ証券 チーフマーケットエコノミスト
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ひとこと解説

6月に行われる国民議会(下院)選挙をにらんだ人選であることは明らかだ。

記事にある通り、左派有権者へのアピールをマクロン大統領は強めたいのだろう。

急進左派の有力政治家メランション氏が社会党や共産党などと左派連合を組み、下院選での勢力拡大を狙っている。

ボルヌ氏は「女性の地位向上への闘いを止めるものは何もない」と決意を表明しており、女性有権者を引きつける効果も期待できる。

足元の世論調査によると、下院選ではマクロン大統領の与党連合が勝利する見通し。

なお、仮に何らかの波乱が起こり、与党が下院選で過半数割れになって首相を選出できない場合には、「コアビタシオン」と呼ばれる一種のねじれ状態に陥る可能性がある。

2022年5月17日 7:41

柯 隆のアバター
柯 隆
東京財団政策研究所 主席研究員
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ひとこと解説

フランス経済についてまったく知らないが、しゃれて品があって好感が持てそう。もともとフランスは経済の国ではなく、文化の国という印象が強い。昔、パリでのフォーラムに参加したとき、日本人参加者から提起された生産性をいかに向上させるといった問題にフランスの論客はあまり関心がなさそうだった。終盤、ism(主義)の問題が提起され、彼らは瞬時に目覚めてしまった。議論が大好きな人たち。大統領と首相の相性はたいへん重要になる

2022年5月17日 8:24 』

伝統的価値観の国際比較

伝統的価値観の国際比較 : 日本、韓国、中国、米国における儒教的価値観
https://ci.nii.ac.jp/naid/120005674968

 ※ これは、すごーく参考になった…。

 ※ 漫然と、「こういうものだ…。」「こんな感じだな…。」と思ってきたことが、実は、それぞれ「仏教」「儒教」「神道」的な「世界観」に根ざすものだったとは…。

 ※ そういう「分析」「淵源」の基(もと)となる「視座(尺度=スケール)」を、手に入れた…。

 ※ ステップアップしたな…。

 ※ 「昨日の我」に、「今日は」ちょっと勝ったぞ…。

『表 1 日本の伝統的価値観尺度(JTVS)の領域別下位尺度(大渕・川嶋 , 2009a)

仏教

輪廻と法力
(11 項目)

宇宙は仏の治める多くの他方世界からなり、生命はそれらの間を
輪廻する。生命は仏の慈悲によって生成し、それは草木を含めす
べてに及ぶと(本覚思想)いった仏教的世界観。

修身と慈悲
(8 項目)

倫理と精進、慈悲と寛容、煩悩の除去などの仏教的道徳観。欲望
に負けず自らを慎むこと、感謝と思いやりの気持ちで人に接する
など、人としての正しい生き方を処方。

厭世主義
(6 項目)

人生は苦、諸行無常などの仏教的人生観。人生は苦悩に満ちてい
る、この世は絶え間なく変化するはかないものであるといった仏
教的厭世観を反映。

空と超俗
(4 項目)

この世は仮のもので空虚(諸法無我)といった世界観と、それ
故、富や名声など世間的なものに拘泥せず、清らかに生きること
を良しとする(煩悩の除去)仏教的処世観。』

儒教

忠孝と義務
(11 項目)

長幼の序、公益優先など、社会集団や人間関係の中で個人が果た
すべき責任と義務を強調する儒教的処世観。

天意・天命
(8 項目)

社会の在り方であれ、個人の成功・失敗であれ、すべては人間を
越えた天によって運命づけられ決定されている(天命思想)とす
る儒教的世界観。

恥と世間
(5 項目)

人の目を意識し、世間から非難されないよう行動すべきであると
いう集団主義的価値観、即ち、節度、集団優先、義務などを強調
する儒教的処世観。

賢君思想
(4 項目)

世の中は優れた資質の指導者によって治められてこそ意味がある
という儒教的人間観。』

神道

社会的調和
(5 項目)

対立や争いを避け「和をもって尊し」との調和優先的な神道的処
世観。

相対主義
(3 項目)

問題解決には絶対的原理に頼るのではなく、知恵を働かせ状況に
応じて柔軟な対応をするのがよいとする神道的処世観。

集団的功利主義
(3 項目)

ものごとの善悪は共同体に福利をもたらすか災厄をもたらすかとの
観点から判断されるべきであるとする神道的倫理観。

楽観主義
(2 項目)

世の中は自然に治まるべく治まっていくから、自然の流れに任せ
るのが一番であるとする神道的世界観に立脚した処世観。

歴史の内発性
(2 項目)

社会の動きは時勢というものによって決定され、人間の力の及ぶ
ものではない(超人為性)とする神道的世界観。

もののあわれ
(4 項目)

女性的で繊細な感受性が日本人の本来の心であるとする神道的人
間観。』

アメリカ白人は「生まれる前から」レイシスト

アメリカ白人は「生まれる前から」レイシストであり、
死ぬまでレイシズムの原罪から逃れることはできない
【橘玲の日々刻々】
https://diamond.jp/articles/-/248160

 ※ いやいや、「衝撃的な」記事だ…。

 ※ インパクトという点では、今年読んだ記事の中での「ベスト」だろう…。

 ※ 丸々、紹介させていただきます…。

 ※ それにつけても、アメリカ人やって行くのは、大変だ…。

 ※ 白人だというだけで、「原罪」押し付けられたり、「内なる差別意識を直視し、真摯に向き合え!」と迫られるわけだ…。

 ※ うちは、仏教、それも「曹洞禅(道元禅師のな)」なんで、「なむしゃかむにぶーつ(南無釈迦牟尼仏)…。」とか唱えて、(頭の中で、座禅して)「悟りに向かって、日々修行」していればそれでよい…。

 ※ どーせ、坊主でもない一般人が、「悟りを開く」なんて、できっこ無い…。

 ※ それでも、誰からも「地獄に落ちるぞ!」とか「人として、不適格だ!」なんて糾弾されることも無い…。

 ※ 火葬なんで、「死後の復活」とか、「死後の裁き」とか、知ったこっちゃ無いしな…。

『アメリカでBLM(ブラック・ライヴズ・マター/黒人の生命も大切だ)の反人種差別デモが過激化の度合いを増している。その背景には、奴隷制廃止から150年、公民権運動から半世紀以上たっても、依然として黒人の地位が向上していない現実がある。

 その結果、「人種問題」をめぐってアメリカの白人は2つのグループ(部族)に分断されることになった。ひとつは保守派で、「法律上は平等な権利を保証され、そのうえアファーマティブアクション(積極的差別是正措置)で優先枠までつくったのだから、現在の苦境は自己責任だ」とする。これについては代表的な保守派知識人の一人ヘザー・マクドナルドの“The War on Cops(警官との戦争)”を紹介した。

[参考記事]
●日本ではほとんど報道されない、BLM運動の嚆矢となった「ファーガソン事件」の真相と背景にある黒人の犯罪率の高さ

 それに対して、アメリカ社会の「構造的な人種差別」を批判する左翼(レフト)はどのように考えているのだろうか。それを知りたくて、BLM運動以降、アメリカでベストセラーとなったロビン・ディアンジェロの“White Fragility: Why It’s So Hard for White People to Talk About Racism(白人の脆弱性:白人にとって人種主義について話すのはなぜこれほど難しいのか)”を読んでみた。

 著者のディアンジェロは1956年生まれの「白人女性」で、「ホワイトネス(白人性)」の研究で博士号を取得し、大学で多文化教育を講じるかたわら、企業などにダイバーシティ・トレーニングを提供する活動を続けている。“White Fragility(白人の脆弱性)”はディアンジェロの造語で、これがなにを意味するかはおいおい説明しよう。
アメリカ白人は、「生まれる前から」レイシスト

“White Fragility”でディアンジェロは、批判的人種理論(Critical Race Theory)にもとづいてきわめて明快な主張をしているが、それは日本人(とりわけ「リベラル」)にとって容易には理解しがたいものだ。ここではできるだけ客観的に説明し、私の感想は最後に述べることにしよう。

 ディアンジェロによれば、アメリカ社会は人種・性別・性的志向などによって階層化されており、その頂点に君臨するのは「白人、男性、異性愛者・健常者・中上流階級」という属性をもつグループだ。だが「白人女性」や「白人のLGBTQI(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー、クィア、インターセックス)」だからといって「人種主義Racism」から逃れることはできない。

 なぜならアメリカ社会の根底には、「white」と「people of color」の構造的な差別があるから。whiteは「白人」、people of colorは「有色人種」のことだが、raceを避けている用語に「人種」の訳語をあてるのは適切ではないだろう。直訳では「(肌の)色のあるひとたち」だが、これは日本語として違和感があるので、ここでは「ピープル・オブ・カラー」とカタカナで表記する。

 この訳語にこだわるのは、ディアンジェロの世界観が「白人」と「ピープル・オブ・カラー」の二元論だからだ。「奴隷制」と「植民地主義」という負の歴史の上につくられたアメリカ社会では、この2つの集団間の「差別のシステム」があらゆるところに埋め込まれているのだ。

 ピープル・オブ・カラーには黒人(アフリカ系)、ラティンクス/Latinx(ラテンアメリカ系)、アジア系、ネイティブアメリカンなどがいるし、人種間の結婚で生まれたひとたちもいるだろう。――中南米(ラテンアメリカ)に文化的・民族的アイデンティティをもつアメリカ人は「ヒスパニック」と呼ばれていたが、彼らは「スペイン語話者」でも「スペイン出身者」でもないため、「Latino(ラテン系男性)」や「Latina(ラテン系女性)」が好まれるようになり、近年はジェンダーフリーの呼称として「Latinx(ラテン系)」という新語が「PC=政治的に正しい」とされるようになったようだ。

 白人にも同様に、アメリカ社会の主流派であるWASP(イギリス系プロテスタント)だけでなく、かつては黒人同様に扱われていたアイルランド系やイタリア系、ナチスの弾圧を逃れてアメリカに渡ったユダヤ系や、新興移民として奴隷制も公民権運動も知らないロシア・東欧系などさまざまなグループがあるし、白人とピープル・オブ・カラーの結婚も珍しくなくなった。

 だがディアンジェロは、このように人種の多様性を強調することを否定する。「人種多様性」はピープル・オブ・カラーを分断し、白人に免罪符を与え、「白人VSピープル・オブ・カラー」という構図を曖昧にするだけだからだ。

 この二元論からディアンジェロは、「アメリカでは人種主義(レイシズム)は白人だけのものである」というかなり思い切った主張をする。ピープル・オブ・カラーのなかにももちろん、他の人種に対して偏見をもつ人間はいくらでもいるだろう。だがそれは、定義上、(アメリカ社会では)レイシズムとはなり得ない。その一方で白人は、祖先の国籍や家系の歴史に関係なく、存在そのものが「レイシズム」だ。

 これは、「白人は生まれながらにしてレイシスト」というだけではない。アメリカ白人は、「生まれる前から」レイシストなのだ。なぜなら白人というだけで、妊娠から出産までのあいだに、病院や保健センターなどでピープル・オブ・カラー(とりわけ黒人)とまったく異なる扱いを受けるのだから……。

 ディアンジェロは次のように述べる。

「私はアメリカで育った白人アメリカ人だ。私は白人の考える枠組みと白人の世界観をもち、白人の経験する世界を生きてきた。私の経験は普遍的な人類の経験ではない。それは人種が重要な意味をもつ社会、人種によって深く分断された不公平な社会のなかで、とりわけ白人が経験するものだ」

 アメリカで、あるいは西欧による植民地の歴史をもつすべての文化で、白人がレイシズムと無関係に生きることは原理的に不可能なのだ。』

『ディアンジェロは生物学的な人種概念を否定する

「すべての白人はレイシストである」という前提に立つ以上、当然のことだが、ディアンジェロはトランプ支持の「白人至上主義者」だけを批判したりはしない。こうした「可視化された人種主義」はこれまでさんざん俎上にあげられてきており、それにもかかわらず人種主義はなくならないばかりか、黒人の苦境はますます強まっている。

 ここで白人のリベラルは、「それはレイシズムへの批判が足りないからだ」としてBLM運動への支持を表明するかもしれない。だがディアンジェロは、こうした態度自体が「レイシズム」だとする。“White Fragility”は、「進歩的」で「寛容」なリベラル白人の「不可視のレイシズム」への糾弾の書だ。

 従来のリベラリズムは、個人を「黒人」や「女性」などのマイノリティにグループ分けし、ステレオタイプを押しつけることを「差別」だとしてきた。それを乗り越える方策が「カラーブラインド」や「ジェンダーブラインド」で、差別をなくすためのもっとも重要な心構えだとされている。――colorblindは色盲のことで、そこから「肌の色のちがいを見えなくする」の意味に使われるようになった。

 だがディアンジェロは、アメリカ社会でポリティカルコレクトネス(政治的正しさ)の中核にあるカラーブラインドを否定する。

 アメリカ社会はずっと、カラーブラインドによって人種差別を克服しようとしてきたが、ディアンジェロからすればこれは「人種のちがいがないように振る舞えばレイシズムはなくなる」という虚偽以外のなにものでもない。「人種」を見えなくするカラーブラインドによって、誰ひとり自分をレイシストだといわなくなったとしても、レイシズムは厳然と存在するのだ。

 日本でも「女だから」とか「国籍がちがうから」などの理由で個人を評価することは差別と見なされるようになってきた。「個人をグループとしてではなく、一人ひとりの個性や能力で評価する」というIndividualism(個人主義)はリベラルの大原則で、ほとんどのひとが当然だと思うだろうが、ディアンジェロはこれも否定する。「彼/彼女が黒人であることは採用・昇進になんの関係もない。なぜなら人種ではなく“個人”を評価しているから」というのは、リベラルな白人が自らのレイシズムを隠蔽・正当化するときの典型的な手段にすぎない。――さらには、「客観的な評価によってバイアスから自由になれる」という「客観主義」も否定される。バイアス(偏見)は人間の本性で、どのようなことをしてもそこからフリー(自由)になることはできないのだ。

 この「カラーブラインド」と「個人主義」の全否定は、「リベラル」にとっては驚天動地の話だろう。だがこれは、考えてみれば当然でもある。アファーマティブアクションは「人種」というグループで優遇するかどうか決めているのだから(ディアンジェロは「資格のある特定のマイノリティに白人と同等の機会を与えること」と定義する)、カラーブラインドと個人主義を徹底すればその根拠はなくなってしまう。「差別されたマイノリティ」を制度によって救済しようとするなら、「人種」という概念を認めるほかない。その意味では、ディアンジェロの一見過激な主張の方が筋が通っているともいえる。

 ディアンジェロはもちろん、生物学的な人種概念を否定する。近年の遺伝人類学や行動遺伝学では「ヒト集団」のちがいが大きな論争になっており、イギリスのリベラルな科学ジャーナリスト、アンジェラ・サイニーは『科学の人種主義とたたかう 人種概念の起源から最新のゲノム科学まで』(作品社)でこのテーマと格闘しているが、ディアンジェロは論文1本を根拠に「肌の下に真の生物学的な人種はない」と一蹴している。

[参考記事]
●アメリカでリベラルと「レフト」が衝突する「人種主義Racism」。「人種」概念の否定と遺伝的な「ヒト集団」が混乱を起こしている

 生物学的な「人種」は虚構で、「人種」概念は社会的につくられたというのが「社会構築主義」だが、その立場からすると、リベラルのカラーブラインドや個人主義は、社会的な構築物である「人種」を否定し、アメリカ社会の根底にある「構造的レイシズム」を容認することなのだ。

 ここまでくれば、ディアンジェロが「リベラル」ではなく「左翼(レフト)」である理由がわかるだろう。その批判の刃は、頑迷なトランプ支持の「白人至上主義者」よりも、彼らを口先だけで批判する「エリートの白人リベラル」に向けられているのだ。

 だがこの論理を、自分のことを「レイシズムとは無縁なリベラル」だと思っている白人は容易に理解することができない。そこでディアンジェロは、企業のダイバーシティ・トレーニングで(黒人のコーディネーターといっしょに)、白人の従業員に対して「レイシストとはあなた自身のことだ」という“事実”を伝える。すると白人たちはこの“攻撃”に驚き狼狽し、怒ったり、言い訳したり、無言になったり、席を立ったりする。こうした反応が“White Fragility(白人の脆弱性)”なのだ。
ディアンジェロは「リベラル」な白人の偽善を徹底的に批判する

 左翼(レフト)であるディアンジェロは、「リベラル」な白人の偽善を徹底的に批判する。それが、「よい白人」と「悪い白人」の二元論だ。

 リベラルを自称する白人にとって、「悪い白人」のステレオタイプは「無知、田舎者、偏見、意地悪、年寄り、南部人」で、「よい白人」のステレオタイプは「進歩的、高学歴、寛容、良心的、若者、北部人」だ。そして、トランプ支持の白人至上主義者に「悪い白人」のレッテルを押しつけることで、自らを「よい白人」に分類して安全圏に逃げ込んでいるとされる。

 ディアンジェロが述べているわけではないものの、こうした視点は映画『スキン』を見たときの違和感をうまく説明する。

 ガイ・ナティーヴ(イスラエル出身のユダヤ人)監督のこの映画では、カルト的な白人至上主義団体で育ち、顔面を含め全身に無数の刺青(タトゥー)をしたレイシストの若者が、シングルマザーとその子どもたちに出会ったことで人生をやり直したいと願い、組織と対決する。

 これは実話を元にしていて、映画としてもよくできているが(主役は『リトル・ダンサー』の少年)、ここまで白人至上主義者を悪魔化してしまうと、映画を見たほとんどの白人は、自分にはなんの関係もないことだと思うのではないだろうか。白人至上主義のカルト団体に所属する全身刺青のレイシストなど、アメリカじゅうでせいぜい数百人しかいないだろうから。

 ディアンジェロにとっては、リベラルが好む「頑迷固陋な白人至上主義者」は、白人エリートの自己正当化にすぎない。「悪い白人」を自分とまったくちがう異形の存在にしてしまえば、「よい白人である私」は人種差別とはなんの関係もなくなるのだ。

“White Fragility”では、会社のダイバーシティ・トレーニングで白人従業員が、自分はレイシズムとは無縁だと主張するときに使う科白がたくさん紹介されている。

・あなたがピンクだろうが、紫だろうか、水玉模様だろうが私は気にしない。
・あなたがたまたま黒人だったとしても、私があなたについて語ることとはなんの関係もない。
・人種を問題にすることはわたしたちを分断する。
・もしひとびとが私をリスペクトするのなら、人種にかかわらず、私もそのひとたちをリスペクトする。
・私はレイシストではない。なぜならカナダから来たから。
・私は貧しい家庭に育った(白人特権の恩恵など受けていない)。
・私はとても多様性のある職場で働いている。
・家族にピープル・オブ・カラーがいる(あるいは結婚している、子どもがいる)。
・60年代の公民権運動に参加した。
・中国から養子をもらった。
・日本に暮らしたことがあり、マイノリティがどういうものか知っている、などなど。

 ダイバーシティ・トレーニングというのは、こうした「言い訳」を一つひとつつぶして、自らの「内なるレイシズム」に直面させることなのだ。

 大企業で働く(恵まれた)白人が、白人特権(white privilege)をあっさり免責してしまうことを受け入れがたいマイノリティがいることは間違いないだろう。その意味で、ディアンジェロの主張に説得力を感じるところはあるものの、「白人女性の涙(White Women’s Tears)」という章を読むと複雑な気持ちにならざるを得ない。ここではダイバーシティ・トレーニングで、自らのレイシズムを指摘された白人女性が泣くことについて述べられている。

 黒人などのマイノリティに共感していて、レイシズムに断固反対してきたと信じている白人女性が、「あなたのその態度がレイシズムだ」といわれて混乱し、泣き出すというのは想像できる光景だ。そんなとき、まずは同席していた白人女性や白人男性が泣いている女性をなぐさめようとし、ときにはそれに黒人男性が加わって、講師であるディアンジェロを批判するのだという。

 これに対してディアンジェロは、「泣く」ということ自体が、自らの内なるレイシムズを直視することから逃げ、「女」を利用して周囲の同情を集めて自分を守ろうとする“White Fragility”の典型だとする。なぜなら「感情とは私たちのバイアスと信念、文化的なフレームワークによってつくられたもの」であり、「感情とは政治的なもの」だからだ。

 そして、泣き出した白人女性をなぐさめることは、「交通事故が起きたとき、(犠牲者である)通行人が道に倒れているにもかかわらず、(事故を起こした)車の運転手に駆け寄るようなもの」だという。これを読んだときは、アメリカの白人はこんな仕打ちにも耐えなくてはならないのかと思わず同情した。』

『「現状維持」がレイシズムなら「現状を破壊する」行為はそれがどんなものであれ反レイシズム

 ディアンジェロのダイバーシティ・トレーニングは、白人従業員にとってはかなり過酷な体験だ。だったらなぜ、企業はこんなことをさせるのか。

 それは大企業の経営者が、いつ「人種差別的」と批判されBLM運動の標的になるかわからないと戦々恐々としているからであり、白人の従業員(とりわけ中間管理職)が黒人の部下や同僚とどのように接すれば「人種差別的」と見なされないかわからなくなっているからだろう。

 そこで彼らは、藁にもすがる思いでダイバーシティ・トレーニングを受講する(自分たちはここまで努力しているという免罪符を手に入れたいというものあるのだろう)。ところがそうすると、「白人という存在そのものがレイシズムだ」といわれ、「脆弱性」をさらけ出すことになってしまうのだ。

 私はアメリカで暮らしているわけでもないし、そもそも「ピープル・オブ・カラー」として、定義上、レイシストにはなり得ないのだから、複雑骨折したようなアメリカの「人種問題」についての論評は控えるべきかもしれない。

 それでもひと言だけいわせてもらえば、ディアンジェロの論理は、キリスト教的な「原罪」とフロイト主義(精神分析)のグロテスクな組み合わせのように思える。アメリカの白人は「白さ(ホワイトネス)」という原罪を背負っているものの、それを無意識に抑圧し「白人特権」を守ろうとしている。とりわけリベラルな白人は、「悪い白人」を悪魔に見立てることで自分のなかの「悪」を外部化し、内なるレイシズムを否認・正当化しているのだ。

 しかしそうなると、どのような説明・弁解・抗議をしても(あるいは謝罪しても)、すべてが「抑圧されたレイシズム」と見なされてしまう。このロジックは自己完結しているので、逃げ場はどこにもない。

 ディアンジェロは、アメリカの(リベラルな)白人が求めているのは「status quo(現状維持)」だという。すべては、レイシズムを否認して「白人特権」という現状を守るための暗黙の策略なのだ。こうして、コリン・パウエル(ブッシュ政権の国務長官)やクラレンス・トーマス(最高裁判事)のような保守的な黒人の成功者はもちろん、バラク・オバマですら「現状維持を支え、(白人を)脅かすといういかなる意味でもじゅうぶんにレイシズムに挑戦しなかった」と批判されることになる。

 ここから、一部のBLM運動の常軌を逸した(ように見える)ラディカリズムが理解できるのではないだろうか。「現状維持」がレイシズムなら、「現状を破壊する」行為は、それがどんなものであれ反レイシズムなのだ。

 ディアンジェロのような白人知識人がこうした極端な思想をもち、それが一定の支持を集める背景には、アメリカのアカデミズの実態があるのかもしれない。ディアンジェロが認めるように、アメリカの大学教員の84%は白人で、それはまさに「構造的レイシズム」そのものだ。この事実を否認し正当化する必要があるからこそ、アメリカの白人知識人は、ごくふつうに暮らし働いている市井の白人に「レイシスト」のレッテルを押しつけようとするのではないだろうか。

 こうしたラディカリズムは、いったいどこに向かうのか? ダイバーシティ・トレーニングの目的をディアンジェロは、「白人が引き起こしたレイシズムを直視する痛みに耐えるスタミナをつけること」だという。そして、「レイシズムを(ピープル・オブ・カラーと同様に)生と死の問題だと考え、あなたの宿題をすること」が重要だとする。

 もちろん、白人であるディアンジェロ自身もレイシズムから自由になることはなく、学びが終わることもない。アメリカの白人は「生まれる前から」レイシストであり、死ぬまでレイシズムの原罪から逃れることはできないのだ。――そう考えれば、これは一種の「宗教運動」にちかい。

 自らが「原罪」を背負っていると考える白人がなにをしようと自由だが、民主的な市民社会で、なんら法を侵すことなく暮らしているひとたちにこうした「罪」を負わせるのは酷だし、ひとは自分が「悪」であることを受け入れることなどできない。このラディカルな人種理論は「人種問題」の解決に役立たないばかりか、状況をさらに悪化させるだけではないだろうか。

橘 玲(たちばな あきら)
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作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『「言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)、『国家破産はこわくない』(講談社+α文庫)、『幸福の「資本」論 -あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』(ダイヤモンド社刊)、『橘玲の中国私論』の改訂文庫本『言ってはいけない中国の真実』(新潮文庫)、『もっと言ってはいけない』(新潮新書) など。最新刊は『女と男 なぜわかりあえないのか』(文春新書)。』

中国で芸能界の規制強化 なぜ?

中国で芸能界の規制強化 なぜ?
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211109/k10013334371000.html?utm_int=news-international_contents_list-items_007 

 ※ 雑用に見舞われたんで、今日は、こんなところで…。

 ※ 『芸能人やアイドルの「人気ランキング」やファンによる「投票行為」は、民主的な選挙を連想させ、中国共産党の一党支配に対する批判につながりかねないとして、警戒を強めているという指摘があります。』…。

 ※ 『理由については「若者のゲーム依存を防ぐため」などと説明していますが、ここにも、政府の統制のおよばないところで不特定多数の人が集まることへの警戒があるとみられています。』

 ※ なるほど…。そこか…。

 ※ 『取材に応じた中国のゲーム制作会社の担当者は、宗教をモチーフにしたゲームの制作を進めていましたが、ある日突然、当局からとみられる通知を受け取りました。

そこには「宗教を暗示させるようなものにしてはならず、宗教色をゼロにしなければならない」と書いてあったということです。

なぜ、宗教をモチーフにすることが禁止となったのか理由は明示されていませんでしたが、この担当者は急きょ、ゲームのストーリーやキャラクターの変更に追われているということです。』…。

 ※ これについては、ちょっと語っておこう…。

 ※ 共産主義、社会主義の重要な「理屈づけ」の一つに、「弁証法的唯物論」というものがある…。

 ※ 「弁証法」は、ギリシャ哲学の昔からある「論」だが、近年はヘーゲルのそれの方が有名だ…。

 ※ 前にも、語ったことがある…。(〔弁証法ーその2〕 https://http476386114.com/2020/08/24/%e3%80%94%e5%bc%81%e8%a8%bc%e6%b3%95%e3%83%bc%e3%81%9d%e3%81%ae%ef%bc%92%e3%80%95/ )

 ※ 例の、「正-反-合」というものだ…。

 ※ それだけでは、「変化の契機」「変化のメカニズム」を説いたもので、それほど大した話しとも思われない…。

 ※ しかし、これが「唯物論」と合体して、「弁証法的唯物論」となると、一転して、「剣呑なもの」となるんだよ…。

 ※ ( 「唯物論」なんかの話し…。 https://http476386114.com/2020/08/03/%e3%80%8c%e5%94%af%e7%89%a9%e8%ab%96%e3%80%8d%e3%81%aa%e3%82%93%e3%81%8b%e3%81%ae%e8%a9%b1%e3%81%97%e3%80%82/ )

 ※ 『※ 非常に「ザックリ」とした理解・説明を、語っておく…。ごくごく、サワリの話だし、極めて「常識的」な話だ…。細部は、各人で肉付けされたし…。

 まず、もの事の「本質」を考察する場合、「物質的なもの」に重きをおくのか、「精神的なもの」に重きをおくのか…、という立場決定がある。

 前者が「唯物論」であり、後者が「唯心論」だ…。

 弁証法とは、もの事の「本質」に迫ろうとする方法論、あるいは、もの事の「本質」の説明のし方・やり方の一種だ…。「あるテーゼ」を立てたものに対して、それに反する「アンチ・テーゼ」をぶつけて、その両立しがたい両者の相克から、「新たなこと」(より高次の価値あるもの)が生じるものなんだ…、とする考え方だ。ヘーゲルが完成させたとされ、「正」「反」「合(正でも反でも無い、新たなもの)」という形で、説明される事が多い…。

「正」と「反」がぶつかって、「合」が生じることを、「アウフヘーベン(aufheben)」と称し、「止揚」と訳されている…。

 唯物論に立ち、弁証法的方法論に立脚し、これを「歴史」の理解に適用したものが、「唯物史観」だ…。
 歴史の展開、歴史の変遷は、「物質的なもの」を基盤として生じるもので、「正」「反」「合」のダイナミズムによって、理解できるのだ…、とか主張するわけだな…。

 ここいら辺までは、もの事や歴史の「本質」を解明しようとする、思弁的・哲学的な「考察」にとどまっているので、そんなに「現実的な力(ちから)」は、持たない…。

 しかし、世の中、そういう思弁的・哲学的な「考察」だけでは、済まないから、だんだん剣呑(けんのん)なものとなって行く…。』

 ※ 「科学的社会主義」という用語を、聞いたことがあるだろうか…。

 ※ 「資本主義から、社会主義への”移行””変化”は、科学的なものだ。」という主張だ…。

 ※ そういう論者によれば、「物理法則(水が高きから低きに流れる)と同等なほど、確かなこと。」なんだそうだ…。それを称して、「科学的」と言っている…。

 ※ そういう”主張”においては、この世界は、「唯物論」じゃ無いと困るんだよ…。
 ※ 「物理法則と同等なほど」と、言えなくなるからな…。

 ※ まあ、そーゆーこと…。

『中国政府が、芸能界やゲーム業界への規制を強化しています。

中でも標的となっているのが、アイドルなどのファンクラブです。

お気に入りのアイドルを支援する活動が、なぜ規制の対象となるのか。一見、政治には関係がないように見える業界まで神経をとがらせる習近平政権のねらいとは?

わかりやすく解説します。

(取材班 上海支局・柳原章人、小林崇、広州支局・高島浩、NW9・岡部陽介、国際部・建畠一勇)

芸能界への規制って、どんなことが行われるの?

ことし8月、中国政府によって禁止されたのが、芸能人やアイドルの「人気ランキング」や、ファンによるいわゆる“推し活”としての「投票行為」、それに未成年がアイドルにネット上でお金を送る、いわゆる「投げ銭」という行為などです。

また、テレビ局などに対しては、共産党や国家から心が離れている芸能人の起用を禁じたり、アイドル育成番組の放送を禁止したりしています。
なぜ、芸能界で規制が強化されているの?
熱心なファンによる活動が過熱していることが背景にあるようです。

ことし9月、韓国の男性アイドルグループBTSのジミンさんの誕生日を祝おうと、中国のファンが募金を募り、ジミンさんの顔写真を塗装した飛行機を飛ばす計画を呼びかけました。
多くのファンの賛同を得て、わずか1時間で日本円にしておよそ4000万円の募金が集まりました。

しかし、ネット上では批判的な意見も相次ぎ、炎上する事態となったため、当局が中国版ツイッターのファンのアカウントを一時停止しました。

人気アイドルにまつわる炎上はほかにも起きています。

中国の人気オーディション番組では、応援したいアイドルへの投票権が得られる乳製品をファンが大量に購入。

中身を飲まずに排水溝に廃棄する動画がSNS上で拡散され、炎上する事態となりました。

今回打ち出された数々の規制は、こうしたファンの過熱ぶりを沈静化させるねらいがあったとみられます。

芸能界を、中国政府が標的にしているのはどうして?

芸能人やアイドルの「人気ランキング」やファンによる「投票行為」は、民主的な選挙を連想させ、中国共産党の一党支配に対する批判につながりかねないとして、警戒を強めているという指摘があります。

また、ファンクラブなどについては、政府の統制が行き届かないところに集団が形成され、そこで政府に批判的な声があがることを警戒しているとみられています。

ファンたちの受け止めは?

今回、アイドルファンの若者を取材したところ、情報交換のためにファンどうしが集うSNSサイトを見せてくれました。

そこには、アイドルを応援するメッセージだけでなく、政府や中国社会を批判する発言も散見されました。

中には
「まるで文化大革命だ。国は一つの声しか許さない」
「中国社会はとっくに終わっている。だれも庶民の声を聞かない」
といったものまでありました。

中国政府の思惑は?

東京大学大学院の阿古智子教授は「共通の関心がある人たちがどこからともなく集まってくると、それがグループになっていく。組織化すれば集団としてさまざまな行動を起こす人たちが出てくる。もしかしたら中国共産党の政策に反対するような声が大きくなるかもしれない。政府がコントロールできない傾向があれば、事前に芽を摘んでおきたいのだろう」と、規制の背景を分析しています。

ゲーム業界の規制はどうして?

芸能界と同じ理由だと思われます。

オンラインゲームについても、多くの若者たちがインターネット上でつながるという点で共通しています。

中国政府はことし8月、未成年を対象に規制を導入すると発表。

企業がサービスを提供できる日を金曜から日曜までと法定休日のみに限定し、時間も夜8時から9時までの1時間としました。

理由については「若者のゲーム依存を防ぐため」などと説明していますが、ここにも、政府の統制のおよばないところで不特定多数の人が集まることへの警戒があるとみられています。

規制強化を受けて、どんな影響が出ているの?

早速、ゲームを競技として競い合う「eスポーツ」の分野に影響が出ています。

中国はオンラインゲームの一大市場で、eスポーツの育成にも国をあげて取り組んできただけに、業界からは困惑の声も出ています。

NHKが取材したプロのゲームプレーヤーを育成する上海の専門学校では、以前は未成年を含むおよそ100人の若者が、寮生活をしながら連日12時間以上の授業を受けていました。
しかし、規制の導入で授業が成立しなくなり、およそ8割の生徒が退学したため、廃校せざるをえない状況だといいます。

ゲーム制作会社にも影響

ゲームの対象年齢や時間だけでなく、コンテンツにも影響が及び始めているようです。

取材に応じた中国のゲーム制作会社の担当者は、宗教をモチーフにしたゲームの制作を進めていましたが、ある日突然、当局からとみられる通知を受け取りました。

そこには「宗教を暗示させるようなものにしてはならず、宗教色をゼロにしなければならない」と書いてあったということです。

なぜ、宗教をモチーフにすることが禁止となったのか理由は明示されていませんでしたが、この担当者は急きょ、ゲームのストーリーやキャラクターの変更に追われているということです。

担当者は「表現の自由が厳しく管理されると、ゲーム本来の楽しさがなくなってしまう。こんなところまで政府が介入するのはおかしい」と困惑していました。

ゲーム産業が盛んな日本への影響は?

阿古教授は「中国当局は海外から入ってくる思想をすごく警戒するので、そうした中で日本に対する見方も厳しくなる可能性がある」として、今後はゲーム産業のみならず、文化交流全体にも影響が出かねないと指摘しています。 』

人生でのスキルアップはもういい

人生でのスキルアップはもういい
http://blog.livedoor.jp/nappi11/archives/5295916.html

 ※ nappi10さん、「悟りの境地」に入られたようだ…。


『多少は器用な方の人間だろうが、20代になっても目指したいものが見つからなかった。
そんな自分には、当時の日本の教育の在り方も社会も受け入れ難かった。何とか留学のチャンスをつかみ、自力で好きな学校に転校、在籍を繰り返し、その合間に一人旅を楽しみ、生きてく為に懸命に働いたし、必要から語学も学び、恋愛も、結婚も離婚も再婚も経験した。

何とか一人前の人間になろうと、初めて自発的にスキルアップに励んだ時期だった。

それでも目標は見つからず、帰国して、やみくもに働いた。結果的に、無駄だと思っていた、それまでに学んだり、経験していたことの断片が繋がり、自分の適性と、それを利用できる仕事が見えてきて、30代にやっと目標が定まり、以後、会社勤務、経営へと邁進した。

その時期は、次から次へと新たなイノベーションが出現し、コンピューターだ、携帯、SNSだ、GPSだと、それらを使いこなすためのスキルアップに必死だった。

人生でしてみたかった事をほぼやりつくし、60代には余生を迎える準備に入り、今に至っている。

もう、あくせくと、生きて行くために新たなスキルアップで時間をつぶしたくはない。

何かわくわくするものにだけに日々の時間を割き、晴耕雨読の毎日でいたい。

家の周りで、昆虫やカエルを観察したり、毎日来るキツネや、冬になると来てくれるキジへの餌の用意もそれで、最近揃えた3台のカメラで、彼らや季節の変化を記録するのも楽しく、楽しいから酷暑も酷寒も苦にならないし、負けない為に鍛練もしている。

しかし社会は、新世代のコンピューターや、カード決済を押し付け、情報や手続きにスマホが無いと困るような、さらなるスキルアップを求めてくる。

もういい加減放って置いてもらいたい。

今は懸命に、シンプルで質素な生き方が出来るように、それらと、なるべく距離を置く努力をしている。つまり、ゆっくりと逆行してアナログで生きて行きたいのだ。

倉庫に機械はあるが、時間はかかっても汗を流しながら草刈りはカマで行い、除雪はスコップだ。

これまでの人生、十分に忙しく楽しかったから、残りはマイペースで、スマホ等気にせず、空を見ながら過ごして行こうと思う。

動物たちの様に、、。

禅的生き方と言う人もいるが、筆者にその素養は無い。強いて言えば、今は亡き、九州佐賀出身で実業家で武道家でもあった祖父の影響だろう。

(写真:水はけが悪く、木々が立ち枯れしていた藪に排水溝を増設すると木々は蘇った。一本には、毎年ツタが絡まり、きれいな朱赤を見せてくれる。一番上は中庭、雪が積もる頃、キジが三角形のオンコの木の中に泊りに来る 撮影:2021/11/5)』

〔英米の社会制度は、実は「グローバル・スタンダード」では無かった…。〕

アングロ・サクソン人
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3%E4%BA%BA

『アングロ・サクソン人(アングロ・サクソンじん、Anglo-Saxons)は、5世紀頃、現在のドイツ北岸からグレートブリテン島南部に侵入してきたアングル人、ジュート人、サクソン人のゲルマン系の3つの部族の総称である[1]。この中でアングル人が、イングランド人としてイングランドの基礎を築いたため、現在も英米などの英語圏白人をアングロ・サクソン人と呼ぶ[2]。このようにドイツ起源の民族であるが、現在のドイツ圏の国民をアングロ・サクソン人と呼ぶことは原則ない。ただし、ザクセン王国は20世紀初頭までドイツ帝国内に存続しており、現在も州名などに残っているため、ドイツの地域住民としてのザクセン人(サクソン人)という名称は今も用いられる。』

『歴史

409年にローマ帝国がブリタニアを放棄した後、現在のデンマーク、北部ドイツ周辺にいたゲルマン人が、グレートブリテン島に渡ってきた。彼らは先住のケルト系ブリトン人を支配し、ケルト文化を駆逐した。これが英国における最初のアングロ・サクソン人である。彼らの言葉が英語の基礎となった。

彼らはイングランドの各地に小王国を築いていった。7世紀頃には、イングランドは7つの王国(七王国)にまとまっていったが、9世紀初めには、ウェセックス王エグバートのもとで、サクソン人のウェセックス王国が強大となって、イングランド全域を支配した。それ以降、一時期はデーン人に支配され、デンマーク王の下にあった。

アングロ・サクソン人はその後また、イングランドを支配した。これは1066年、ギヨーム2世(=ウィリアム1世)によるノルマン・コンクエストまで続いた。』

『アングロ・サクソン諸国

西暦400年代のユトランド半島からブリテン諸島への移住。
Jutes: ジュート人
Angles:アングル人
Saxons: サクソン人

英語を国語・公用語とする白人主流派の先進国であるイギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどをアングロ・サクソン諸国と呼ぶ[4][5]。しかし言語がアングロ・サクソン人に由来しているだけで、歴史的なアングロ・サクソン人と現代のアングロ・サクソン諸国には血統的な関係が薄い(フランク人とフランス人の違いと同じ)。アングロ・サクソン人の故地と見なされるイングランドでさえ、ユトランド半島やスカンディナビア半島などのバルト海沿岸地域にルーツを持つデーン人やノルマン人、グレートブリテン島の原住民であるブリトン人(ケルト人)などの多様な民族が入り混じって形成された国家である。当のアングロ・サクソン諸国では一般にあまり用いられておらず、自分たちがアングロ・サクソン人であるという意識も乏しい。なお、イングランドに先立つ故地であるドイツでは、アングル人という呼び方は現在殆ど行われておらず、サクソン人(ザクセン人)という呼び方は残っているものの、少なくともアングロ・サクソンと繋げて呼んだ場合、ドイツ人とは別個の集団と考えるのが通常であり、ほぼ語源発祥の地というにとどまる。』

『用法

主に大陸ヨーロッパや日本で用いられることが多い。アングロ・サクソン諸国は独特の経済や社会を形成しており、古くから研究の対象となってきた(プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神等)。また、グローバル資本主義の進展とその反発により、アングロ・サクソン諸国を「特殊」な国々と規定するために、様々な比較考証が行われてきた。以下はその代表的なものである。

◎法体系におけるコモン・ロー
 
 ※ これは、前に考察した…。

 ※ 英米法における「コモンロー」は、ゲルマン法とローマ法の「すき間」を解釈で埋める仕掛けだった…。

 ※ それがまた、「判例法」重視の法体系へと、つながって行く…。

〔「英米法」というものの話し…。〕
https://http476386114.com/2021/01/11/%e3%80%94%e3%80%8c%e8%8b%b1%e7%b1%b3%e6%b3%95%e3%80%8d%e3%81%a8%e3%81%84%e3%81%86%e3%82%82%e3%81%ae%e3%81%ae%e8%a9%b1%e3%81%97%e3%80%82%e3%80%95/

◎政党制における二大政党制

 ※ 英国の保守党⇔労働党、米国の共和党⇔民主党…、に典型的に見られるものだな…。

 ※ 日本の自民党+公明党⇔野党…は、それの一変形と言えなくもない…。

『ジョヴァンニ・サルトーリの指摘では、二大政党制はイギリスや、イギリスから独立したアメリカ合衆国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどのアングロサクソン諸国で多く見られる。

二大政党制の背景には、主要な二大政党以外からは大量当選が困難な選挙制度である小選挙区制や、国民のイデオロギーや支持層が「保守と革新」など2種類または2方向に大別できること、更に両政党が比較的穏健かつ民主的であり現実的な政権交代を相互に許容できること、などが挙げられる。

二大政党制の利点には、二大政党による政策論争が国民にわかりやすく、二大政党への参加や支持が容易で、現実的な政権交代が容易なため国民に実質的な選択の余地があり、長期政権に発生しがちな腐敗防止や、政権獲得時に国民の支持を背景にした大胆な政策転換を行いやすいこと、などが挙げられる。また、中間層の有権者の支持を得る為に二つの政党の政策が似たものとなる傾向があり、少数派の意見をくみ取る政党がなくなるという問題があるが、ジョヴァンニ・サルトーリの主張ではイデオロギーの差異が小さいことは良い政治であり、この点を利点とする立場もある。

二大政党制の欠点には、二大政党の思想や政策が離れている場合にはイデオロギー的あるいは感情的な対立になりやすく、政権交代の発生時には大幅な政策変更により政治の不安定化を招く場合があること、逆に二大政党の思想や政策が接近している場合には国民に選択の余地が狭く多様な意見や思想を反映しにくいこと、同じ政党・政策・支持勢力などが長期間存続しがちなため政党内の新陳代謝や政策転換が進みにくいこと、特に二大政党間で談合や汚職などが常態化した場合には致命的な政治不信を引き起こしやすいこと、あるいは二大政党制へ誘導するための小選挙区制では大量の死票が発生すること、などが挙げられる。アーレンド・レイプハルトの合意形成型民主主義の考え方に立てば、二大政党制を基盤とする多数決型民主主義においては多党制を基盤とする合意形成型民主主義より、少数意見の代表性が相対的に低いとされる[3]。』

『ジョヴァンニ・サルトーリの指摘するアングロサクソン諸国

アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国:典型的な二大政党体制。現代では共和党と民主党が二大政党である。合衆国議会および各州の議会の会派は「多数派」と「少数派」の二会派とされることが通例であり、それぞれ共和党、民主党いずれかの議員のみか、あるいはそれに若干の無所属または地域政党所属議員を加えて構成される。全国規模の少数政党も存在するが、二大政党の指名を受けない候補が大統領に当選した例は19世紀以降なく、議会の議員もほとんどが二大政党に属する。
詳細は「アメリカの政党」を参照

イギリスの旗 イギリス:1800年代以降のトーリー党(後の保守党)とホイッグ党(後の自由党)。1920年代以降は保守党と労働党。第一次世界大戦、大恐慌を挟む戦間期、第二次世界大戦の際には大連立が行われた。1980年代以降は第3勢力の自由民主党(自由党の後継政党)や、スコットランドの地域政党であるスコットランド国民党などの得票率が拡大しているが、議席数は二大政党と大差がある。1990~2000年代にはトニー・ブレアが率いる労働党が総選挙での地滑り的勝利で保守党の約2.5倍の議席を獲得した時期があり、2010年代には連立政権や少数与党政権があったものの、政権首班と「女王陛下の野党」をそれぞれ保守党と労働党が担当する構図に変わりはなかった。

カナダの旗 カナダ:1993年まではカナダ進歩保守党とカナダ自由党の二大政党制。1993年の総選挙で進歩保守党が壊滅的な大敗を喫して二大政党制が崩れたが、進歩保守党を引き継ぐカナダ保守党が2004年の総選挙で第2党となり、2006年の総選挙で政権に就いて自由党との二大政党制となった。2011年の総選挙ではそれまで第3党だった新民主党が第2党に浮上し、従来の保守・自由の二大政党制が崩れたが、2015年の総選挙では自由党が議会の第1党の座を奪回する一方、新民主党が第3党に後退したため再び自由・保守の二大政党制に回帰した。ほかにブロック・ケベコワなどが存在する。

Flag of Australia (converted).svg オーストラリア:保守連合と労働党。保守連合は自由党とオーストラリア国民党の連合だが、選挙協力と連立協定が長期化しているため、二大政党制とも呼ばれる。なお、2010年の総選挙で、労働党も保守連合も、過半数を取れなかったが、労働党が、オーストラリア緑の党などの閣外協力を得て、政権続行をした。

ニュージーランドの旗 ニュージーランド:ニュージーランド国民党と労働党。ただし 1993年の選挙制度の小選挙区比例代表併用制への変更後は多党化した。』

◎アーレンド・レイプハルトの研究による多数決型民主主義

 ※ ここで「多数決型民主主義」とは、一般には「議院内閣制」と言われているものだ…。特に「行政府」が、国会の「過半数(多数決)」の支持に立脚していることに、注目しての用語のようだ…。

『レイプハルトの業績は、

分裂社会における多極共存型民主主義モデル
比較選挙制度論
比較民主主義体制論

に大別できる。

二大政党制、小選挙区制によって特徴づけられる多数決型民主主義(majoritarian democracy)もしくはウェストミンスター型民主主義のモデルに対して、コンセンサス型、多極共存型民主主義モデルを対峙させた、自由民主主義政治体制の比較研究を主張。』

『ウェストミンスター・システム(多数決型民主主義)

議会で過半数の議席を持つ政党の党首が首相として内閣を組織する(多数決型民主主義)。過半数をもつ政党が存在せず、複数の政党により内閣が運営されるコンセンサス・システム(多極共存型民主主義)に対比する。』

◎レギュラシオン学派における市場ベース型資本主義

 ※ 様々な「資本主義」のタイプのうち、特に「市場の役割・機能」を重視し、なるべく「自由な市場」を肯定する考えのようだ…。

◎福祉レジーム論における自由主義型福祉国家論

 ※ 「福祉国家」も、様々な形態があるようだが、その中でも、「国民の自立」を重視し、企業の「自由な活動」を広く認める考えのようだ…。

 ※ 典型的には、「自助・公助・共助」の標語で表現される…。これも、散々聞いた話しだな…。

 ※「新自由主義」だ!と、叩く向きも多い…。

◎イギリス経験論とそれを元にしたプラグマティズム

 ※ これは、そもそもの「ものの考え方(哲学)』の根底にあるものだ…。

 ※ これも、演繹法⇔帰納法…で、検討した…。

後世へも影響を与えたデカルトの演繹法的思考(帰納法との違い)
https://http476386114.com/2021/02/23/%e5%be%8c%e4%b8%96%e3%81%b8%e3%82%82%e5%bd%b1%e9%9f%bf%e3%82%92%e4%b8%8e%e3%81%88%e3%81%9f%e3%83%87%e3%82%ab%e3%83%ab%e3%83%88%e3%81%ae%e6%bc%94%e7%b9%b9%e6%b3%95%e7%9a%84%e6%80%9d%e8%80%83%ef%bc%88/

 ※ ということで、アングロサクソンの社会制度は、けっして「グローバル・スタンダード」というわけのものでも無く、「彼らの社会に根ざした」、相当に特殊な制度という側面があるようだ…。

 ※ しかし、それがまた逆に、「英米流」の特殊性で、結束する「力(ちから)」にもなって行く…。

 ※ ファイブ・アイズとか、今般のAUKUSとか、原潜技術の提供とかの「世界情勢」にも、そういうものが色濃く影を落としている…。

 ※ しかし、「アングロサクソン流だ!」とか、「英米由来の制度だ!」とか、「グローバル・スタンダードだ!」とか言われても、そこで「思考停止」しないようにしないとな…。

 ※ 何事も、「自分の頭で、考えること」が大切だ…。

 ※ そういう事情も踏まえながら、「日本国の生き残り戦略」を立てていく必要がある…。

後世へも影響を与えたデカルトの演繹法的思考(帰納法との違い)

『◆ デカルトの大陸合理論

一方でデカルトは、経験よりも【理性】を重んじました。

経験よりも、1つ1つの事実や原理原則を丁寧に積み上げて、合理的に結論を導き出そうとしたんです。

要するに【演繹法的なアプローチ】です。

この考えは後世の哲学にも大きな影響を与え「大陸合理論」何ても呼ばれました。

大陸合理論を要約すると

理性の絶対性を主張し,理想によって得られた明晰判明な観念のみを真理としました。

経験論が重視する感覚的経験は【人間の正しい認識を阻害する要因にすぎない】とみなす点に特徴があり、理性によって論理的に展開される数学を学問の模範にした。
って感じです。

つまり《人間の感覚や経験なんか信じられるかー!!!》っていうスタンスです。

数学的に科学的に論理を構築していくスタンスです。

結局この「大陸合理論」は哲学の大きな流派の1つとなり、スピノザやライプニッツに受け継がれていきます。

そうやって、デカルトは、人間の感覚だけでなく、ありとあらゆるモノを徹底的に疑っていく事で、真理に辿り着こうとします。 』

経験論
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E9%A8%93%E8%AB%96

フランシス・ベーコンとは?【死ぬほどわかりやすく解説】
https://uteimatsu.com/francis-bacon/

『フランシス・ベーコンはイドラを生み出した

フランシスベーコンを紹介する上で必要不可欠なのが、
「イドラ」という哲学用語です。

イドラというのは
「正しい知識をとりいれる上で障害となる思い込み」
をさしています。

フランシスベーコン は
「知識なんか生まれつき全くない、生きていく上で積み上げていくもの」
と考えていました。

これは上でも何度か言いました「経験論」という考え方です。

フランシスベーコン は
「どうすればうまく知識を積み上げれるのか?」を考え、
その上で知識の積み上げの妨げになるものを「4つのイドラ」と呼びました。

その4つがこちらです。

種族のイドラ→人間特有の思い込み
洞窟のイドラ→生きた環境による思い込み
市場のイドラ→噂による思い込み
劇場のイドラ→権威による思い込み

この4つを自分自身で認識することが、
正しい知識を得る上で大切だ、というのがフランシス・ベーコンの哲学です。

この4つのそれぞれをもっと深く知りたい方は
下の記事を読んでみるといいかもしれません。

死ぬほどわかりやすい哲学ブログ2019.12.29

イドラとは?←先入観にとらわれないために
https://uteimatsu.com/idola/
こんにちは、素人哲学者 ミルマノ(@mirumano)ですこの記事では「イドラ」という哲学用語をわかりやすく紹介したいと思います。ちなみに、このイドラを理解することができれば、固定観念や先入観にとらわれてるな〜って時に自分自身でそれに気づけるようになりま…』

『フランシス・ベーコンの名言「知は力なり」とは?

そしてもう一つ外せないのが「知は力なり」という
フランシス・ベーコンの名言です。

これは直訳すると「知識は力だよ!」っていう意味です。そのままです。
ただ実際のところ、この名言にはもっと深い解釈があります。

この名言の本当の意味は
「(観察や実験によって得た)知識こそ力だよ!!」
です。

カッコの部分が本当に重要です。
大抵の人はこの部分を知らずに
「知識が多ければ成功する」的な名言と思ってしまっています。

イドラもそうなのですが、
この名言も経験論という考え方を元にされています。

フランシスベーコン の中では
「知識というのは経験や検証、実験」を通してしか得ることができません。
逆に言えば、経験から得た知識こそが本当の知識なのです。

正しい知識が経験から得られるという経験論と、
正しい知識は理性から得られるという合理論。

この二つの思想は哲学界でも大きく議論されているジャンルになりますので、
興味がある方は調べてみてください。』

※ なんで、ベーコンの経験論が廃れた(あまり、注目されなくなった)のか、ちょっと不思議だった…。

※ この「年表」見ると、だいぶ「古い人」だったんだな…。それで、「後から生じた思想」に追い越された感じだったんだろう…。

※ しかし、「哲学」「思想」というものは、流行り廃りじゃない…。どれだけ、「根源的な問い」に答えているのかという点が、「生命線」だ…。

※ 4つのイドラとか、今現在でも、十分に通用するだろう…。

※ 科学的な「発見」「知見」の背後にも、こういう「根源的な思考・思惟」が横たわっている…。

※ そして、その科学においても、「限界」はある…。

「思想の2つの顔」

http://blog.livedoor.jp/goldentail/archives/24924101.html

 ※ 「机上空間」さんのサイトからだ…。

 ※ この論に、反論できる人は、いないだろう…。

 ※ 「思想」や、「哲学」というものは、常に「二面性」を有するから、取り扱いは要注意だ…。

 ※ 『ここまでの説明で判るとおり、人というのは、多数派で判断を丸投げして、自分で考えないで済む他者というのを、常に求めている社会的な動物であるという事です。これは、ギリシャ文明の時代でも、現代でも変わりません。インターネット上で、面白半分に、何かしらの不手際をしでかした有名人を、リンチにかけて面白がっている人間(結構、いい大人も混じっているんですよ。高校生や大学生だけじゃないんです)が、必ず発生する事を見ても、テクノロジーの進歩や、歴史の積み重ねが、人間の本質を大きく変えるわけでは無い事が判ります。』というのも、卓説だ…。

 ※ 他者に判断を丸投げして、自分は「思考停止」する…。

 ※ 実は、「脳」にとっては、一番楽な「モード」なんだろう…。

 ※ しかも、「権威筋」「権力筋」が「お墨付き」を与えてくれる場合は、「喩えようもない、安心感に包まれていること」ができる…。

 ※ これほど、楽ちんなポジションがあろうか…。

 ※ そういう「脳のモード」に入っている群衆が、一旦、行動を始めたら、押しとどめることは、できやしない…。

 ※ 「権威に従え!自分勝手に、モノを考えるな!」の権威主義は、そういう「脳のモードに入れ!」という命令だと、思った方がいい…。

 ※ そして、高度にテクノロジーが発達した現代社会では、「目に見える形での強制力」よりも、むしろ、「知らず知らずのうちに働きかけられて」、じわじわと「洗脳されて行く」ことのほうが恐ろしい…。

デカルト・哲学早わかり

https://www.philosophyguides.org/fastphilosophy/descartes/

 ※「人工知能と閃き」の問題を、ちょっと深掘りしてたら、「デカルトの懐疑論」「フッサールの現象学」なんてものに当たった…。

 ※「デカルトの懐疑論」、ごく常識的なところは、知っているつもりだったが、その「意義付け」みたいなところは、知らんかった…。

 ※ そこを解説しているサイトを、見つけたんで、紹介しておく…。

 ※ ただ、いつも言ってることだが、この手の「形而上学」は、「深入りしないこと」が吉だ…。ご用心、ご用心…。

〔弁証法ーその2〕

 ※ まあ、相当に「ヤバイ」内容を含んでいるんで、「深入りしない」ことが、「吉」だ…。
 「思弁的」「哲学的」思考の段階でとどまっている内は、そんなに「現実的な影響力」を持たないので、「面白がって」いられる…。
 しかし、これを「現実世界に応用して、現実的な力(ちから)を持たせよう…。」とか考えだすと、ロクなことにはならない…。
 「テクノロジー」でも「哲学・思想」でも、それを「政治的に利用」して、「自己の現実の影響力を拡大しよう」と考え、行動するヤカラは、いつの世にも必ずや存在する…。「不可知論」でも繰り出して、適切な距離を置くことが「吉」だ…。

 ただ、「もの事の変化・変遷のメカニズム」のとらえ方の「契機」としては、未だに色あせない優れた視点を有する「思想」だとは思うので、紹介しておく…。

 くれぐれも、「一つの論」に過ぎないことを、再度強調しておく…。

弁証法の解釈仮説の構図
https://ameblo.jp/arubea9/entry-12373776408.html

ヘーゲル 弁証法 ヤルデア研究所 伊東義高
http://yarudea.kt.fc2.com/Hegel-benshouhou.html

復帰摂理歴史の真実
≪ フリーメーソンと理神論・汎神論 <トップ> 共産主義の台頭 ≫
■ 第三章 第四節 メシヤ再降臨準備時代の幕開け
     b. ヘーゲル弁証法の正しい理解

https://ywhc.ken-shin.net/futski/3_2_c.html 

疎外
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%96%8E%E5%A4%96
『哲学、経済学用語としての[1]疎外(そがい、独: Entfremdung、英: alienation)は、人間が作った物(機械・商品・貨幣・制度など)が人間自身から離れ、逆に人間を支配するような疎遠な力として現れること。またそれによって、人間があるべき自己の本質を失う状態をいう。』
『概要
ラテン語のalienato(他人のものにする)に由来する疎外概念は、経済、社会、歴史的には、客体として存在するようになったものを操作する力を主体が失っている状態のことを指す。たとえば、あるものが私とは無関係であるという場合、そのあるものに対して私は無力なものとして疎外されていることになる[2]。この疎外を克服することによって、人間はその本来の自己を取り戻し、その可能性を自己実現できるものとされる[3]。』
『思想史
マルクスは、この疎外Entfremdungという用語をヘーゲルの『精神現象学』(1807年)から継承し、またフォイエルバッハの、神が人間の善性を客体化した発明である限り、それだけ人間は貧しくなる(「キリスト教の本質」)という思想も取り入れて、経済学用語に鋳直した。

マルクスによる概念
有機的身体と非有機的身体に分かれ、自然に抗う「自然疎外」が起こることで生命が始まったように、近代的・私的所有制度が普及し、資本主義市場経済が形成されるにつれ、資本・土地・労働力などに転化する。それに対応し本源的共同体も分離し、人間は資本家・地主・賃金労働者などに転化する。同時に人間の主体的活動であり、社会生活の普遍的基礎をなす労働過程とその生産物は、利潤追求の手段となり、人間が労働力という商品となって資本のもとに従属し、ものを作る主人であることが失われていく。また機械制大工業の発達は、労働をますます単純労働の繰り返しに変え、機械に支配されることによって機械を操縦する主人であることが失われ、疎外感を増大させる。こうしたなかで、賃金労働者は自分自身を疎外(支配)するもの(資本)を再生産する。資本はますます労働者、人間にとって外的・敵対的なもの、「人間疎外」となっていく。

マルクスは「疎外された労働」が再生産されるこのような社会関係を『経済学・哲学草稿』(1844年)で分析し、『経済学批判要綱』(1857年 – 1858年)や『資本論』(1867年、1885年、1894年)に継承した。

スターリン主義による歪曲
スターリン主義者は、ソ連において社会主義社会が実現したと宣言したにもかかわらず、疎外が存在する現実を否定するために、疎外という概念そのものを、マルクスの青年期に特有のものとして事実上否定せざるをえなかった。スターリン主義者の理論では、疎外とは搾取のことであるとして、疎外概念は葬り去られた。

サルトルによる概念
サルトルは、自由な対自として実存する人間は「自由の刑に処せられている(condamné à être libre)」という言葉を残したが、死については、これが実存の永遠の他有化であるという意味で、これを回復不能の疎外であるとした。

脚注 出典
^ ドイツ語であるEntfremdungの訳語としての疎外概念は、他人(fremd)のものにするという意味を持つ。日本語「疎外」には、「うとんじること」(広辞苑より)あるいは「仲間外れにすること」という意味があり、そちらが本来の意味である。経済学や哲学の学者や学生でもない限り、日常的には主にそちらの意味で用いている。ただし、本項は辞書ではなく百科辞典であることを考慮し、哲学用語や経済学用語の「疎外」について解説する。
^ フランスの哲学者ルソーは、「譲渡するaliener」ことを、「私と無縁なものetrangerとなる」ことだとしている。
^ 自己実現のプロセスとして労働を捉えたヘーゲルを批判的に受け継いだマルクスは、資本主義社会における疎外された労働を問題とした。』

〔実存主義及び不可知論〕の話し…。

 ※ 以下も、個人的な興味と関心に基づくものだ…。
 というよりも、この手の「哲学的・思弁的」な事柄は、むしろ、あまり深入りしない方がいいことだ…(時間が、いくらあっても足りないし、一定の「結論」が出ることでも、無い…)。
 しかし、後に出てくる「関係する著名人」としての、小野清一郎とか、団藤重光とかは、自分の青春時代に関わった(あくまで、文献的にな)懐かしい人達の名前だ…。
 そういう青春時代の「思い出」のよすがとして、貼っておく…(ジジイにも、青春時代はある…)。

実存主義の哲学 キルケゴール、ニーチェ、ハイデッガー、サルトル
https://ameblo.jp/positivementalhealth/entry-12163610741.html 

実存主義
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E5%AD%98%E4%B8%BB%E7%BE%A9

『実存主義(じつぞんしゅぎ、フランス語: existentialisme、英語: existentialism)とは、人間の実存を哲学の中心におく思想的立場。あるいは本質存在(essentia)に対する現実存在(existentia)の優位を説く思想。

実存(existenz)の当初の日本語訳は「現実存在」であったが、九鬼周造がそれ(正確には「現実的存在」)を短縮して「実存」とした(1933年(昭和8年)の雑誌『哲学』内の論文「実存哲学」においてのことであり、可能的存在に対置してのものである)。語源はex-sistere(続けて外に立つの意)。何の外にかといえば、存在視/存在化されたものの外に、ということである。「実存」についての語りで習慣的にまず言及されるキルケゴールが、デンマーク語で主張した「実存」は、やはりラテン語出自でExistentsである。ドイツ語では、ラテン語からの外来語としてExistenzがあり、一方、土着の語としてはDaseinが相当する。しかし、前者のほうが日常的頽落性にもある後者よりももっと、実存の持つ、自由へ向かった本来性という様態に特化して使われている。』
『概要
実存主義は、普遍的・必然的な本質存在に相対する、個別的・偶然的な現実存在の優越を本来性として主張、もしくは優越となっている現実の世界を肯定してそれとのかかわりについて考察する思想である、とされる(「実存は本質に先立つ」)。本質をないがしろにするような思想的なものから、本質はこうだが現実はこうであり、本質優位を積極的に肯定せずに、現在の現実をもってそれをどう解決していくべきなのかを思索的に考えたもの。本質を積極的に認めない傾向があるため、唯物的、もしくは即物的になり、本質がみえなくなってしまう極端な思想も生まれる土壌にもなる。また悲観的な発想にもなりがちとなっている。問題としているのは人間の実存であり、スプーンなど、モノの実存ではない。また、実存主義において、実存の境界的概念であるセベルタ(外概念性)および異なる疑似空間的次元における同時存在性は、実存・非実存間の、直感的表象としての一元的物的概念からの昇華であると考えることもできる。』
『〔思想史〕
古代哲学では、ヘラクレイトスのロゴスの思想の影響下に、イデア論を構想したプラトンを批判的に継承したアリストテレスが、第二実体 (普遍者) と第一実体 (個物に対応) との区別を提唱した。ここに、プラトンの普遍者実体観に対するアリストテレスの実存を見ることができる。このとき、アリストテレスからはプラトンの普遍者実体が自分にとって実存につながらない存在論性だとして見えている。これが継承される形で、中世哲学で、可能態と現実態との区別が説かれるようになった。 近代哲学では、ヘーゲルが、理念と現実との不可分性(理念的・必然的、あるいは合目的的ではない、一回的な、あるいは偶発的な個物は永続性や普遍性を欠く、という意味で現実性を欠く、という意合い)を説いて「理性的なものは現実的となり、現実的なものが理性的となる。(Was vernünftig ist, wird wirklich, und das Wirkliche wird vernünftig.)」(法の哲学序文)であるとした。これに対抗して、神の前に教会を経ずに立つ単独者としての、自己自身の「実存」(existenz )を価値としたキルケゴールは、実存哲学の嚆矢ともいわれる。その場合に、信仰者を前提とした制約された姿勢がキルケゴールの実存にはあるということを、正しい実存理解のためには見据えておかなくてはならない。』
『批判
梅田寛によれば、ヘーゲルの唱えた「絶対説、人類進歩についての三体説及び『実在するものは全て合理である』という結果に対する効果は盛んに論議され」て当時の皇帝制度も含めその合理性が主張されていたが、次第に青年ヘーゲル派などヘーゲル崇拝者の中からも批判が生じる結果となった[1]。プロイセン(ドイツ)では、ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ、カール・マルクス(フォイエルバッハに関するテーゼ)、フリードリヒ・エンゲルス(フォイエルバッハ論)、ロシアではヴィッサリオン・ベリンスキー、アレクサンドル・ゲルツェン、ニコライ・チェルヌイシェフスキー、デンマークではキルケゴールなどがヘーゲルに批判的な立場から活動を行った。』
『〔不安の時代〕
「新ヘーゲル主義」および「新カント派」も参照
第一次世界大戦終結後間もなく、詩人ポール・ヴァレリーはテュービンゲン大学における講演で言った。

「諸君、嵐は終わった。にもかかわらず、われわれは、あたかも嵐が起ころうとしている矢先のように、不安である。」』

『ダーウィンの『種の起源』以降、ヨーロッパは古代以来の聖書的世界から輝かしい科学と進歩の時代へと向かった。しかし、国民国家という新しい世界体制は第一次世界大戦の国家総力戦による大量破壊へ繋がり、19世紀以来続いた西欧の進歩主義への信仰は大きく揺らぐこととなった。とりわけ国土が直接、戦場となった独仏、わけても敗戦国としての重い負債を背負わされたドイツにとって、進歩主義への信頼の崩壊は強い衝撃を与えた。大陸ヨーロッパの知識人はキリスト教の精神的伝統を進歩主義によって破棄した後の、進歩主義の無残な残骸を前に途方にくれることとなった。このようなドイツにおいてまず、一時代前の人物であるキルケゴールなどが注目を浴びるようになる。

「主体性が真理である」として神から与えられた可能性を実現することに生の意義を見出したキルケゴールの主体志向に加えて、さらに、第一次世界大戦において、そのような個人を置き去りにした近代思想の惨禍を目の当たりにして、個人を哲学的考察の対象にしようという機運が盛り上がり、神の死(「神は死んだ」)を宣言し、能動的なニヒリズム (運命愛) の思想を展開したニーチェを、神を否定する実存主義の系譜の先駆者としつつ、1930年代、ドイツのマルティン・ハイデッガーやカール・ヤスパースらによって「実存」の導入が図られた。大事なことだが、ハイデッガーの意味づけの実存は、個人主体実存という本来性から離れて、「民族の」実存になっている。各個人が自由な実存のうちに民族の実存を求めているのであればよい。しかしここでは、民族の実存を希求して先導するハイデッガーが、先導される個人の私性を否認している。(Martin Heidegger, Logik als die Frage nach dem Wesen der Sprache, VittorioKlostermann, Frankfurt am Main, Gesamtausgabe Band 38. p163.) ここには真の実存はハイデガーにしかないのだが、こうした曲折を経て、実存の考え方は第二次世界大戦後、世界的に広がりをみせることになった。

第二次大戦後、フランスに輸入され、サルトルらによって広まった実存主義は、サルトルのアンガージュマン(他の実存と共に生きるための自己拘束)の思想に見られるようにマルクシストとしての社会参加色が強く、それに呼応しない者には説得力がなかったが、1960年代の学生運動の思想的バックボーンとなった。サルトルの『実存主義とは何か』は実存主義のマニフェストであり入門書ともいわれ、1945年10月、パリのクラブ・マントナンで行われた講演が元になっており、多数の聴衆が押しかけたため、入りきれない人々が入口に座り込むほどで、翌日の新聞に大見出しで「文化的な事件」として伝えられ、時ならぬサルトルブームを巻き起こした。第二次世界大戦直後のヨーロッパでは、巨大な歴史の流れの中での人間存在の小ささが意識され、戦前までの近代思想や既存の価値観が崩壊し、人々の多くが心のよりどころを喪失しかかっていた。サルトルの思想は、実存に新たな光を当て当時の人々の根源的な不安を直視しそれに立ち向かい、自由に生きることの意味を追求し、人間の尊厳を取り戻す術として人々に受け入れられることになった[2]。

この、支配制度に対する被支配的個人の重視は、サルトルの思想が1970年代に入ると、 構造主義などから批判を受け、低調になっていくものの、広く受け入れられている。他者を支配管理する実存はあり得ない。

また、同じく「私」に焦点を当てる芸術や文学、心理療法との相性も良く、特にカール・ロジャースらが始めた心理療法には「今、現にここに存在している私」を問題とする実存主義の強い影響が見られる。

実存主義を哲学のみならず、文学、芸術などにも拡大解釈する場合(オットー・フリードリッヒ・ボルノウなど) 、パスカルやドストエフスキー等も実存主義者だと解される場合もある[3]。

第一次世界大戦の敗者であるドイツや戦勝国であっても大きな痛手を受けたフランスなどとは異なり、勝利者である英米にとって、第一次世界大戦の惨事は進歩主義への信仰を決定的に揺るがすことはなかった。しかし、スペイン内戦に参加するなどヨーロッパの情勢に積極的に関与したアーネスト・ヘミングウェイを代表とする一群のアメリカ知識人もまた、自らを実存主義者と見なした。日本では当時、文学者として国際的な評価も受けていた芥川龍之介が第一次大戦後に「ぼんやりとした不安」という言葉を残して自殺している。

実存に親近な印欧語の構造

森有正は自著『経験と思想』(1977)において、日本語では印欧語とは違って人称依拠で代名詞や動詞形が作られるという基準がないので、現実(の上下関係)が嵌入してしまい、構造的に実存に至りにくいと書いている。自他間区分した西欧的実存に限定するならば、妥当性のある主張である。西欧的実存を考える日本人はよく咀嚼するべきである。

禅宗もしくは仏教一般の実存

宗教哲学者の久松真一は『即無的実存』(1935年)で、禅宗もしくは仏教一般の「即無的実存性」を主張している。有に対する否定としての無を消極的な無と見ている。一方、有と無との間の対立を無化する無を積極的な無と見つつ、こちらの無に即すことを実存としている。西欧の非宗教的哲学的実存は久松から見れば「即有的実存」だといえる。

実存主義と経世致用の学
人間の実存を哲学の中心におく思想的立場である実存主義と、中国明朝末期の東林党の経世致用の学(学問は現実の社会問題を改革するために用いられなければならないとする主張)は別の思想であるが、それらは日本においては関連づけられる場合もあり、現在の現実をもってそれをどう解決していくべきなのかを考える現実主義に結実する。例えば経世実用を学風とする日本の神奈川大学の哲学者草薙正夫、信太正三、武藤光朗らは実存主義哲学からマルクス主義、インド哲学などにアプローチして、現実の社会問題を解決しようとし、無限革命論(トロツキーの永続革命論とは異なる)に発展する。』

実存は本質に先立つ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E5%AD%98%E3%81%AF%E6%9C%AC%E8%B3%AA%E3%81%AB%E5%85%88%E7%AB%8B%E3%81%A4 


『「実存は本質に先立つ」(仏« l’existence précède l’essence »)という表現は、哲学において、存在には本質がない、とする考え方、観念、ものごとの捉え方、を現したものである。フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルが自身の講演「実存主義はヒューマニズムであるか」(1945年)において最初にこの概念が提起され[1]、実存主義における基礎的な観念・概念となっている。サルトルの妻シモーヌ・ド・ボーヴォワールはこの考えを基に、「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という言葉を残した。

概要
例えば、人間性という例を挙げ、人間性というものは存在するかもしれないが、その存在は初めには何をも意味するものではない、つまり、存在、本質の価値および意味は当初にはなく、後に作られたのだと、この考え方では主張される。

このように、この考えはキリスト教などの、社会における人間には本質(魂)があり生まれてきた意味を持つ、という古来からの宗教的な信念を真っ向から否定するもので、無神論の概念の一つにもなっている。』
『名称
「実存主義」の名称は ドイツの『一般文学新聞』において1815年に既に、Existentialismusというドイツ語で使用されている[4]。

第二次大戦後、治安、政情の不安定であったパリで、職に就かず、その日暮らしをしながらカフェやナイトクラブにたむろする若者を指して使われた。人生に目的を持たず不条理にただそこに現実存在している状態を批判する呼び方であり、いうなれば蔑称であった。実存主義を自ら名乗った哲学者サルトルも、初期はこの名称で呼ばれることを嫌っていた。』

九鬼周造
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E9%AC%BC%E5%91%A8%E9%80%A0

『……九鬼の哲学は「二元性」という特徴を持つ。まず、西洋と日本との伝統のあいだでの二元性。この問題は『「いき」の構造』へと結実していく。さらに、「偶然性」と「必然性」あるいは「自己」と「他者」の二元性。この問題から結実するのが、主著『偶然性の問題』である。そこには、この世に偶然生まれ落ちた「この私」の個体性と実存への眼差しと、論理では語り尽くせない「この私」のあり方を如何に語り出すのか、という問いがある。それゆえ、西洋哲学の根幹に存するイデア中心主義に対して、論理からこぼれおちる「偶然性」を取り上げた九鬼の哲学は徹底して個体にこだわる実存哲学であった。さらに、自己と他者の「独立の二元の邂逅」から偶然性と個体性を語る九鬼哲学は、現代哲学における「差異」という観点とも響き合い、現在注目を集めている。

— 京都大学大学院文学研究科・文学部思想家紹介、「九鬼周造」』
『逸話
・九鬼は留学中、フランスで若きサルトルから個人的にフランス語の練習を兼ねてフランス哲学について歓談したという逸話がある。一方でサルトルの方も、この時九鬼から現象学などの哲学についての影響を受けたのではないか、という説がある。
・九鬼は嫂(亡くなった次兄・九鬼一造の妻)の縫子(中橋徳五郎の長女)と30歳の時に結婚するも、この結婚は破綻した。2度目に結婚した相手は祇園の芸妓であった。これには彼の生い立ちや独特の美意識が影響していたのではないかと思われるが、周囲では「九鬼先生が講義にたびたび遅刻してくるのは、毎朝祇園から人力車で帝大に乗り付けてこられるからだ」という噂がまことしやかに話されていたとのことである。
・主な弟子に、日本で最初に医学を主題に哲学講座「医学概論」を開いた澤瀉久敬(大阪大学名誉教授などを歴任、国文学者澤瀉久孝の弟)がおり、全集編集委員(他に天野貞祐ら)でもあった。』

『論語ろんご』述而じゅつじ。「子し(孔子)、怪力乱神を語らず」
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%80%AA%E5%8A%9B%E4%B9%B1%E7%A5%9E/

不可知論
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%8F%AF%E7%9F%A5%E8%AB%96

 ※ こういう「哲学的・思弁的」論争をかわす手段として、「不可知論」がある…。
 いろいろと、めんどくさいことを言い立てたり、「論争をしかけて来たりする」ヤカラが出てきた場合、「いやー、オレは、基本的に「不可知論」だから…。」とか言って、かわすわけだな…。ただ、そういう「議論」や「論争」に、相当「人生かけてる」人も、存在するんで、そこはよく観察して、対応しないとな…。

『概説
不可知論というのは、事物の本質は認識することができない、とし[1]、人が経験しえないことを問題として扱うことを拒否しようとする立場である[1]。現代の哲学で言えば、哲学用語で言う現象を越えること、我々の感覚にあらわれる内容を越えることは知ることができない、として扱うことを拒否する立場である。

agnosticismという表現は、トマス・ヘンリー・ハクスリーが自分の立場を言い表すために用いられはじめた、という[1]。それは1868年(あるいは69年)だという。 R.H.ハットンの1881年3月13日付けの書簡によれば、この語は、1869年の或る晩、Metaphysical Societyの結成以前に、Clapham Commonにあるジェームズ・Knowles邸で開かれた、或るパーティーでハクスリー教授によって提唱されたものである。彼は、それを聖パウロの「使徒行伝」の第17章23節の「知られざる神」の祭壇の言及から採った。

カント以降の「物自体は不可知だ」とする考えも不可知論である。

不可知論は本質的な存在については認識不可能だとする。そのような主張に至るには、懐疑論・現象学・実証主義などの立場によるものがある。

不可知論のなかにもさまざまなタイプがあり、存在を絶対のものとして、認識を言葉以上のものではないとする立場があり、また、認識が不可能であることを認めつつも本質的存在自体を想定することは可能であるとする立場もある。

宗教的不可知論のひとつのタイプとしては「神は「いる」とも、「いない」とも言えないのだ」とする中立的不可知論がある。他に、政治的な意図から無神論者であると言明するのがはばかられる場合に用いられることもあるが、これは政治的な運動であるマルクス・レーニン主義者や科学原理主義者などの無神論者からは “相対主義的だ”などと批判されることがあった。』

『歴史
古代ギリシアのピュロンなども不可知論者に入れることができる[1]。

古代インドのサンジャヤ・ベーラッティプッタという、ブッダと同時代の人物も不可知論者とされることがある。

釈迦(ゴーダマ・シッダールタ)は神の存在については肯定も否定もしなかったとされる。ただし、釈迦は仏教の開祖として宗教の枠組みの中に取り込まれた存在であるため、仏教が分派発展していく過程で釈迦が絶対的な存在を肯定している教典が多数存在する。

古代中国においては孔子が「怪力乱神を語らず」という立場であり、これも不可知論者と見ることもできる。

ヨーロッパの中世ではグノーシス派などがgnosis グノーシスによって神の本体を直接に知ることができる、としたのに対して、ローマ・カトリック教会では、神の存在は、人間理性にもともと備わる「自然の光」によって知られるが、神の本体そのものは知られない、神は人間には鏡に映る姿のようにおぼろであり、神と直接に対面できるのは別の世においてである、とした[2]。

近世では、哲学的な説として不可知論が再登場した。人間は有限な存在で知力が限られていて、世界自体が何であるか知ることができない、とする説である。人間の知識というのは、印象と観念に限られて、それらを越えたことは知識の対象にならない、というデイヴィッド・ヒュームの主張も不可知論の一種ととらえることができる[2]。また、カントが『純粋理性批判』において示した、物自体は認識できず、人は主観形式である時間・空間のうちに与えられた現象だけを認識できる、とする考え方も一種の不可知論である[2]。

「positivism ポジティヴィズム」(日本語訳では「実証主義」と訳されている[3])というのは、もともとの表現からも分かるように(神が)人間の感覚に与えているもの(現れさせているもの)だけを問題として扱い(議論し)、その他のことは扱うのは止めよう、とする意味が込められた表現であり、知識を経験可能なことに関するものだけに限ろうとしており感覚に現れないことは「形而上学」として排除しようとする手法であるが、もともとその根底には不可知論がある、と言える。こうした傾向は論理実証主義にも継承された。』

小野清一郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E6%B8%85%E4%B8%80%E9%83%8E

団藤重光
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E8%97%A4%E9%87%8D%E5%85%89

「唯物論」なんかの話し…。

唯物論
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E7%89%A9%E8%AB%96

弁証法
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E8%A8%BC%E6%B3%95

唯物史観
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E7%89%A9%E5%8F%B2%E8%A6%B3

 ※ 非常に「ザックリ」とした理解・説明を、語っておく…。ごくごく、サワリの話しだし、極めて「常識的」な話しだ…。細部は、各人で肉付けされたし…。

 まず、もの事の「本質」を考察する場合、「物質的なもの」に重きをおくのか、「精神的なもの」に重きをおくのか…、という立場決定がある。
 前者が「唯物論」であり、後者が「唯心論」だ…。

 弁証法とは、もの事の「本質」に迫ろうとする方法論、あるいは、もの事の「本質」の説明のし方・やり方の一種だ…。「あるテーゼ」を立てたものに対して、それに反する「アンチ・テーゼ」をぶつけて、その両立しがたい両者の相克から、「新たなこと」(より高次の価値あるもの)が生じるものなんだ…、とする考え方だ。ヘーゲルが完成させたとされ、「正」「反」「合(正でも反でも無い、新たなもの)」という形で、説明される事が多い…。
「正」と「反」がぶつかって、「合」が生じることを、「アウフヘーベン(aufheben)」と称し、「止揚」と訳されている…。

 唯物論に立ち、弁証法的方法論に立脚し、これを「歴史」の理解に適用したものが、「唯物史観」だ…。
 歴史の展開、歴史の変遷は、「物質的なもの」を基盤として生じるもので、「正」「反」「合」のダイナミズムによって、理解できるのだ…、とか主張するわけだな…。

 ここいら辺までは、もの事や歴史の「本質」を解明しようとする、思弁的・哲学的な「考察」にとどまっているので、そんなに「現実的な力(ちから)」は、持たない…。

 しかし、世の中、そういう思弁的・哲学的な「考察」だけでは、済まないから、だんだん剣呑(けんのん)なものとなって行く…。