時代は「自分のアタマで考えるな」だと思う

時代は「自分のアタマで考えるな」だと思う – シロクマの屑籠
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20220926/1664193445

 ※ 「自分のアタマで考えるな」って、そりゃ無理だ…。

 ※ なぜって、「自分のアタマで考える」とは、オレが「生きている」ってことと、「等価」だからだ…。

 ※ オレは、この年(とし)になるまで、ずっと「生きてきた」が、「自分以外のもの」だったことは、「一度も」無い…。

 ※ ずっと、一瞬たりとも、「自分そのもの」であり続けて来たんだ…。

 ※ 確かに、入院した当初は、「身動きしなくて」「死んでるかのよう。」だったらしい(後から、看護師から、そう聞いた)…。

 ※ しかし、そういう「状態」でも、オレとしては、「あー、頭イテー。ガンガンする…。」「なんか、ボンヤリ、点滴袋が二つ(止血剤と、栄養剤)下がってるなー。」という感想抱いて、「自分のアタマで、ボンヤリと、ものを考えていた」んだ…。

 ※ だから、人間生きてる限り、「自分のアタマで、ものを考える」存在なんだと思う…。

 ※ 「自分のアタマで、ものを考え」なくなったとき、それは、もう、「生きている」とは言えない存在になった…、という意味だろう…。

『今の世の中、自分のアタマで考えないほうが良いターンになっていると思いませんか。
 
 犬も歩けばフェイクに当たる

  これはアウト。
物理的にありえない水の動き、現実的ではない家の配置、画質と画像サイズ。AIが作成した写真です。
熊本地震の際にライオンが逃げたとフェイクニュースを流した人と同様で、災害時に不安を煽るデマを流している。通報しました。
なお、ライオンの件投稿した男性は後に逮捕されています https://t.co/WRRKb1xrWy
— なかむらすばる🌻紅楼夢【き03-b】 (@subaru_chen) 2022年9月26日

先日、静岡県の水害のフェイク画像がツイッター上に流された。ある者はそれを本物と思って拡散し、別の者はフェイクだと疑って拡散を思いとどまったり、疑問の声をあげたりした。自分のタイムラインではこれに引っかかる人はいなかったように見えたけれど、皆が皆、引っかからずに済んだわけではなかった。
 
のみならず、今のインターネット上には、広告にもタイムラインにもグーグルマップにもフェイクなメッセージが存在していて、その成否を判断するのが難しくなっている。そのうちあるものは(例えば健康法のように)高度な専門性なしに正否を判断するのが難しいものだったり、もし間違っていないとしても、そのメッセージをどこの誰に・どこまで適用していいのかわかりづらかったりする。また別のあるものは、(例えばウクライナでの戦況のように)事実を確認する手段が素人には限られていて、しかも国家規模のプロパガンダが混じっている可能性のあるものだったりする。
 
こんな具合に、今のインターネット上には、正否を、真贋を判断しづらいメッセージが溢れている。自分自身のアタマで考え、それをインフォメーションと呼べる水準にまとめあげるのが大変難しくなっている。
 
しかもクソ忙しいご時世じゃないですか。

そのうえ、私たちの可処分時間はどんどん少なくなり、と同時に、私たちが正否や真贋を判断しなければならないことは増え続けている。
 
「時は金なり」というけれど、実際、効率性や生産性に重きを置くいまどきの資本主義社会では、可処分時間はたいへん貴重なものだ。仕事だけでなく、キャリアのための勉強・人脈の形成・リラクゼーション・エンタメといったものも可処分時間を必要とする。そうやって現代人は忙しく日々を過ごしている。
 
忙しくなればなるほど、メッセージの正否や真贋を判断するのは難しくなる。誰かの書き込みや画像がフェイクかどうかを判断するにあたって、1時間費やして構わない場合と、10分費やして構わない場合と、10秒しか費やせない場合では、フェイクに乗せられる確率は同じ人でもかなり違う。時間的余裕がなくなるほど、人はフェイクに対して脆弱になる。
 
例えば、ラッシュアワーの埼京線で通勤しているサラリーマンが、くだんの水害フェイク画像をスマホで見た場合、しかも見たタイミングが乗換駅まであと10秒のタイミングだったら、フェイクに乗せられてしまう確率は高くなるだろう。同じサラリーマンでも、ゆとりのある時間にゆとりのある体勢でそれを見かけたなら、乗せられずに済む確率はだいぶ上がる。が、スケジュールに追われれば追われるほど、私たちはフェイクに乗せられやすくなるし、ともすれば、そのフェイクの拡散に手を貸してしまうかもしれない。
  
 だったら自分のアタマで正否や真贋を考えないほうがいいのでは

 こんな具合に、インターネットに正否や真贋の定まらないメッセージが溢れていて、しかも私たちに時間的余裕が乏しいとしたら、もう、下手なことは自分のアタマで考えず、誰かに考えてもらうのがいいんじゃないだろうか。この場合の誰かとは、ツイッターのインフルエンサーなどではなく、新聞やNHKニュースなどのことだ。雑誌も含めていいかもしれない。
 
もちろん、そういうマスメディアだって間違えることはあるし、マスメディアがフェイクに乗せられたりプロパガンダに加担したりする可能性もゼロではない。それでも、ツイッターのインフルエンサーなどに比べればその頻度と程度は信頼できるように思う。まして、生兵法にも自分のアタマで考えるよりは信頼できるんじゃないだろうか。
 
かつて、アルファブロガーのちきりんさんは「自分のアタマで考えよう」という本をリリースしたことがあった。
 
自分のアタマで考えよう――知識にだまされない思考の技術

作者:ちきりん
ダイヤモンド社

Amazon
 
ちきりんさんのように考える力があり、この本のとおりに思考するメソッドがあり、考える時間もたっぷりあるなら、これでいいのだと思う。2011年のインターネットの状況にも合っていたかもしれない。
 
けれども私たちの大半はちきりんさんと肩を並べるほど考える力があるわけではない。思考するメソッドを磨く暇すらなく、効率性や生産性にこづきまわされ、リラクゼーションとエンタメを天秤にかけながら可処分時間の短さを嘆いているような身の上だ。そして2022年のインターネットは2011年のソレに比べてずっと難しくなった。嘘を嘘と見抜けない人には(インターネットは)難しいというけれども、いや、今のインターネットでフェイクを見抜くのは簡単じゃないでしょう。
 
だとしたらだ。
もう、私たちは自分のアタマで考えるをやめたほうがいいんじゃないだろうか。
 
や、もちろん個々人の専門領域、職業人としての領域では大いに考えなければならない。しかし専門家にしたって専門領域を一歩出てしまえば素人、へたをすれば平均的な素人よりも性質が悪いことだってある。それならネットに氾濫するメッセージについて正否や真贋を判断するのはもうやめてしまって、なんなら隙間時間にスマホを覗くのもやめてしまって、新聞やNHKニュースなどに目を通すだけにしてしまったほうが安全安心確実ってものだ。新聞やNHKニュースでは味気ないって人はワイドショーでもいいかもしれない。「ワイドショーなんてあてにならない」という人がいるだろうし、その気持ちもわからなくはない。でも、私たちが個人としてツイッターやインスタグラムに貼りついてメッセージを授受し、みずから判断するよりは、まだしも打率がいいんじゃないだろうか。
 
人間は、しばしば間違う。
忙しかったり、疲れていたり、余裕がなかったりすれば尚更だ。
そのうえ情報の正否や真贋を判断すること自体、可処分時間や可処分認知を消耗する行為なわけで、それなら(多少、情報の流通タイミングが遅いとしても)新聞社や放送局のフィルタに通した後の、インフォメーションとして加工された後のものをファクトとみなしたほうが間違いが少なかろう。万が一、新聞社や放送局が間違ったのなら、まあその……仕方ないのかなとも思う。
 
繰り返すが、新聞社や放送局だって稀には間違うこともあるし、それこそ戦争中の国のマスメディアなどは、しばしばプロパガンダを流す。いや、戦争していなくてもマスメディアにプロパガンダ的なものはどこかに混じっていると見たほうがいいだろう。理想論として「民主主義国家の個人たるもの、自分のアタマで判断する能力を涵養すべき」ってのもそのとおり。
 
そして10年以上昔は「インターネットにはメディアとは違った真実がある」などとも言われていた。ですが今のインターネットって難しくないですか。これほどまでに正否や真贋のわからない今日のインターネットにおいては、マスメディアの出してきたものを鵜呑みにするほうが、自分のアタマで考えながらインターネットと向き合うよりも、まだしも確実度が高いのではないかと思う。
 
インターネット上で「自分のアタマで考えよう」って言葉が適用できる時代は遠くなった。少なくとも、それは万人に勧められるものではあり得ないし、いまや、ほとんどの人に勧められるものとも思えない。ネットリテラシーなど午睡の夢。ブロガーとしてのちきりんさんのように振舞い、ちきりんさんの勧めるように考えることは、今、とても難しい。 
ところで

ところで、自分自身のブログに「新聞を読め、NHKニュースを見ろ、ネットはあんまり見るな」って書くの、すごく萎える。ブロガーとしてのちきりんさんが活躍していた頃と現在ではインターネットの時勢が違ってきているのだから、それは仕方のないことではあるけれども。』

タンピン(寝そべり)の次は、バイラン(投げやり)?

タンピン(寝そべり)の次は、バイラン(投げやり)? : 机上空間
http://blog.livedoor.jp/goldentail/archives/29621499.html

 ※ 非常に疑問なのは、そういう「自堕落な人生」を送ることができている「原資」は、どっから出ているのか…、ということだ。

 ※ 不思議な話しだ…。親、あるいは親類縁者が、「泣く泣く援助」でもしているものなのか…。

 ※ しかし、そういう人生を送っていようがいまいが、「時は、残酷に過ぎていく」ぞ…。

 ※ ご老人になって行くのは、避けられない…。

 ※ 要支援、要介護状態になっていくのは、避けられない…。

 ※ どこぞの女王様も、亡くなったという話しだしな…。

 ※ 『老後は、死んでしまえばよい。』と言うが、どっこい、人間、死んでいくのも大変な話しだぞ…。

 ※ 死んでく前に、老いて、衰えていく…。

 ※ 順番から言ったら、「親の方が、先に死ぬ。」…。

 ※ その葬儀とか、どうするね?親の援助が無くなったら、どうするね?

 ※ 衣食住の確保は、どうするね?

 ※ その時、君は、いくつになっている?

 ※ これもまた、「大事業」だ…。

 ※ 若いうちは、「今の状態が、ずっと続くもの。」と思いがちだ…。

 ※ しかし、「そうは、問屋が卸さない。」

 ※ そんなことが、あるハズも無い…。

 ※ まあ、人の一生で、「大事業」で無いなんてものは、有りゃせんさ…。

『 去年あたりから中国で流行り始めた、無気力な若者を示す言葉「タンピン」ですが、さらに積極的に何もしない「バイラン」という言葉が、流行り始めています。タンピン(寝そべり)は、消極的な諦めの態度なのですが、バイラン(投げやり)は、それより積極的に諦める態度を指します。

バイランの具体的な行動は、

・仕事は辞める。
・ゲームは、負けても構わない。勝ちにこだわらない。
・ダイエットなんかするくらいなら太っていてよい。
・老後は、死んでしまえばよい。

つまり、現状を肯定し、極力何もしない事を行動として選ぶという事です。バイランの1日は、彼らに言わせると、こうです。

・朝11時まで寝て、起きてイテクアウトを注文する。
・パソコンを点けて、ライブ配信を見ながら時間を潰し。
・夜12時に布団に潜って人生について考える。
・スマホを弄りながら、いろいろなソーシャルメディアで社会の不公平さを訴える。
・明け方近くに寝る。

このルーチンが、バイランの典型的な過ごし方です。

つまり、仕事や学校にも行かず、友達も作らず、結婚もせず、子供もいらず、積極的に自ら世間との繋がりを切り離しています。「努力しても報われない。努力しないことこそ、快適に暮らせる」というのが、その動機になっています。何もしなくなれば、周りから要求されたり、批判されたりする事がなくなります。ストレスフリーで生きる事が、最上の人生という価値観です。

彼らからすると、家の所有など、一人前に要求される水準が、不動産の高騰などで、一生かけても手の届かない価格になり、努力しても努力しなくても、追いつけないのが明白に見えている為、霞の向こう側のゴールを目指すより、そもそも霞の向こうは存在しないと考えたほうが利口であるという理屈のようです。

上海がロックダウンされた時に、力付くで個人宅に踏み込み、中の人を強制連行するような検疫員(白衛兵)が、抵抗した住民に対して、「抵抗すると、評価ポイントが下がって、お前たちの家族全員が社会から不利益を受けるぞ」と言った脅しに対して、「そんなものは関係ない。こんな社会に生きるつもりはない。我々は最後の世代だ。子供も作るつもりはない。」と反論した動画が、一時期話題になりました。白衛兵は、ドアを壊して家宅侵入した上で、ペットを殺したり、私物を勝手に処分したり、消毒液で室内を台無しにしたりします。それを、強要されて反抗できない社会に、何の期待もしていないので、行政からどう思われようと構わない。私が最後の世代だという抗議なのですね。

中国では、社会が特殊なので、「共産党に従順な、物言わぬ労働力」としての価値しか期待されていない事に対する、ある意味消極的な反抗と言えるのかも知れません。しかし、これが、中国特有の現象かと言えば、そうでもないのですね。世界的に、「働かない・働けない」若者は、社会問題になっています。

・イタリア-バンボッチョーネ

大きな赤ん坊の意味で、両親と同居し、援助を受ける成人男性。18~34歳の男女の6割が親と同居。

・ギリシャ-700ユーロ世代

2010年の経済危機で、20~30代の若者の半分が失業。就職しても、月給が700ユーロの低賃金が固定化された。

・日本-パラサイト・シングル、ひきこもり

親と同居し、親に依存している未婚者。半年以上、家に籠もって、家族以外と交流の無い人。全国で100万人以上いる。

・韓国-N放世代

2010年代に、恋愛・結婚・出産の3つを諦めた若者。諦めるものが増えるほど、Nの数が増える。現代では、7放世代まで増えている。

・フィリピン-タンバイ

失業中の若者が、路上で暇を潰している状態。「就職する為のスタンバイ状態」という意味。

・シンガポール-BBFA

「Bui Bui Forever Alone」の頭文字を取った略語。「永遠に孤独に寝そべる低所得な若者」を指すスラング。

つまり、世界中で、「働けるけど働かない若者」、「国の経済が厳しくて、働く意欲を削がれる若者」は増えています。ここで、思い出して欲しいのは、このブログの記事で、「楽園実験という恐ろしい試み」として投稿した記事です。これは、マウスを使った社会観察実験で、衣食住が保証され、外敵や天候に影響されない楽園を作ったら、社会はどうなるかを試してみたものです。

簡単に要約すると、群れの大多数が繁殖意欲すら失った「無気力マウス」が増殖した事で、高齢化が進み、最終的には妊娠能力のあるメスが減って、群れは絶滅しました。その過程では、メスのオス化や、ネグレクトも観察され、新生児の生存率低下が、外的要因の脅威が無いにも関わらず発生して、最終的に群れの数が減少に転じたのですね。

少なくても、「油断していると明日死ぬかも知れない社会」が排除されると、無気力という病が、その社会を蝕むのは、人間も動物である以上、避けられないのかも知れません。』

より多くを知り経験することで人生は開けてくる

北の国から猫と二人で想う事 livedoor版:より多くを知り経験することで人生は開けてくる
https://nappi11.livedoor.blog/archives/5369062.html

『筆者のいとこの次女:cousin’s second daughter(日本語では従姪:じゅうてつ)が語学研修で短期留学し、今英国のウェールズに居る。写真はホームステイ先のもの。
いとこの長女(写真の姉)はすでに社会人だが、大学生の頃マレーシアとベトナムへ留学している。ほかにも筆者の身内では、疎遠にはなっているが、米国やデンマーク、オーストラリアにも居るので、世界はずいぶん狭くなった。

9月6日から7日にかけて筆者は東京へ出かけ、以前海外で知り合った友人や知人と再会する予定だ。会った当時は互いに20代、30代で、互いに10代から知っている友人もいる。皆無事に定年を迎えているのはうれしい限りで、こういう再開が人生に小さな花を添えてくれる。

頼んだ記憶がないのだが、メールを開けば、数日前のウクライナの戦場で、ウクライナのドローンがロシア兵を攻撃する映像が届いている。いつの間にか、そのサイトのメンバーになっているようだ。別に害はないので在りがたく視聴させてもらっているが、ウクライナ情勢に関しては、ロシア側とウクライナ側との戦況報告に大きな差があるので、常に多くのサイトを見たうえで、目まぐるしく変わる状況を判断している。日本の新聞報道も少しは早くなったとはいえ、いつまで複雑な国際紛争を地図も載せずに報道するのか?筆者が地図や写真を多用するのは、欧米の報道に比べ見劣りする、日本のメディアに対する反発でもある。

今この瞬間も、世界では若い人や、時には子供まで戦争や災害の犠牲になっている。これから社会へ出る人たちには、今の世界は決して優しくはなく、もっと悪くなる可能性すらある。

こんな状況で生き抜くには、一人一人が多くの状況を探り、知ったうえで、自身で適正と思われる判断をして先手を打って行くしかない。

筆者のブログが、そんな一助になれば幸いだ。これから筆者が合う仲間は、そうやって、ひっそりとだが、逞しく生き抜いてきた仲間たちだ。

過去ブログ:2022年8月オリビア・ニュートン=ジョン、2022年8月8日に73歳で逝去 7月Hasta la vista, baby! 7月思い出のグリーングラス 7月100年前の東京の映像と民主主義100年と少子化 7月絶滅したバイソンを数千年ぶりに自然に再導入の試み 英国 4月中国資本による英半導体企業買収は波乱含み 2021年8月中国企業の英半導体企業買収に待ったをかけた英政府 2月EU離脱後の対英貿易で流通の手間や経費急増とTPPへの期待 2020年12月ケルト時代の金貨発見と英国の古代史 8月英国の世界遺産ストーンヘンジの巨石採取場所判明 2019年9月混迷する英国議会は霧の中>議会は首相要請で5週間の閉会 5月日立の新型車量英国東部での運転開始 2016年6月ロンドン市の独立やスコットランドの拒否権まで浮上 英国 2015年10月フランス側難民が海峡トンネルに徒歩で侵入 フランス 2014年9月なぜスコットランドは英国からの独立をめざすのか?>独立否決が確実 2013年12月アザラシとキツネとネコ 2月英国王リチャード3世の遺骨確認される 英国 』

自宅の修繕費、築30年で900万円超 計画的な貯蓄不可欠

自宅の修繕費、築30年で900万円超 計画的な貯蓄不可欠
人生100年の羅針盤
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD077PY0X00C22A7000000/

 ※ ヒトもモノも、古びて補修が必要になってくるのが、「自然の摂理」だ…。

 ※ 「こんなに費用がかかるのかと驚いた」…。

 ※ イラストが添えられているが、秀逸だ…。

 ※ ここに描かれている通りの話しだ…。

 ※ さりとて、「賃貸」借りようとしても、年寄りにはいろいろと「条件」があって、スンナリとはいかんしな…。

 ※ そうこうしているうちに、「要支援」「要介護」状態になって、「老人ホーム」にご入居コースへと、真っしぐらだ…。

 ※ 着々と、そういう「コース」を辿っています…。

『持ち家があり、住宅ローンの返済も終わったシニア世代は「老後は住居費の負担は軽くなる」と考えがちだ。しかし、意外に重くのしかかるのが家の修繕費用。戸建てでもマンションでも、築年数が古くなると、雨漏り対策など基礎的な工事だけでも費用がかさんでくる。長寿化で必要な工事回数が増える一方、工事単価は上昇傾向だ。「終(つい)の棲家(すみか)」を確保・維持するお金にも目配りが必要になる。

「こんなに費用がかかるのかと驚いた」。東京都で十数年前に新築一戸建てを構えた会社員は、家の外壁塗り替えに100万円以上がかかったことを振り返る。戸建ての場合、この男性の家のように、外壁や屋根の塗装・補修などがおよそ15年程度で発生し、費用は数十万円から100万円程度かかる例も多い。

トータルの費用はどれくらいになるのか。不動産コンサルティングのさくら事務所(東京・渋谷)の試算だと、標準的な戸建て住宅(木造2階建て、延べ床面積116平方メートル)では築後30年の修繕費用は基本的な項目だけで900万円を超す。シロアリ対策、給排水管や給湯器の交換など様々な工事が積み上がると、負担は徐々に重くなる。

30年超の時期はどうか。さくら事務所の田村啓ホームインスペクターは「期間を延ばすと流動的要素が多くなるが、仮に60年の総費用を考えると、2500万円程度になり得る」と話す。60年間、建て替えずに修繕を続けた場合の試算で、建て替えた場合の総費用はさらに膨らむ可能性が高い。実際の費用は個人差が大きいものの、「長寿化で生涯を通じて必要な工事回数も増えている」(田村氏)。

慢性的な人手不足を背景に、工事費用も上昇。消費者物価指数(2020年=100、全国)で住居の外壁塗装や水道工事など「工事その他のサービス」をみると、21年までの約10年でおよそ2割上がった。これは主に戸建ての工事費の上昇を反映する。

住宅修繕の市場に詳しい彩ホームプランニング(神奈川県大和市)の豊田憲明代表は「新築は木材を事前に工場で加工するプレカットなど一定の効率化策があるが、修繕は職人の技術・経験に依存する部分が多く、人手不足の影響が特に大きい」と話す。多額の費用を敬遠するシニアは多いが、「雨漏りなどは本来、予防的修繕が効果的。『お金はかけたくない』と工事会社などに本音で話してみるのも一つの方法だ」(豊田氏)。コスト削減のアイデアが出てくる例もあるという。

修繕費の負担が重いのはマンションも同じだ。戸建てと異なり、毎月積立金を払っているのが普通だが、それだけで安心はできない。18年度の国土交通省のマンション総合調査によれば、3割以上のマンションが計画に対して積立金が不足している。「余剰か不足か不明」という回答も約3割に上る。

資金不足で安易にすべての修繕を見送るのは危険だが、状況によっては優先度の高い工事に絞り込む選択肢もある。ベンチャーのスマート修繕(東京・渋谷)は建築士事務所などと協力、マンションの劣化診断を手掛ける。「『工事ありき』ではなく、必要な工事を洗い出す」(同社)

老後の快適な暮らしのためには、省エネ性の向上やバリアフリー化などの工事も追加で必要になる可能性がある。一般的に積立金制度がない戸建てはもちろんだが、マンションの場合も自分で将来の修繕費は老後資金計画などの中に組み込んで、計画的に貯蓄しておく姿勢が欠かせない。

賃貸、シニア向けサービスも

国交省の20年度の調査では、賃貸住宅のオーナーの約7割が高齢者の入居に拒否感を示す。入居中の孤独死で、その後の賃貸が難しくなることなどを警戒するが、解決に取り組む動きも増えている。不動産業のMARKS(横浜市)はシニア夫婦のうち1人が亡くなった世帯に接触し、住み替えなどのコンサルを展開。シニアの入居に抵抗感がない貸主を見つけるが、通常契約が難しいなら同社が借り上げ、転貸する。同業のフラット・エージェンシー(京都市)はシニアと若い学生や子育て世代が暮らすシェアハウスの企画・開発を進める。
(住宅問題エディター 堀大介)』

時間泥棒の話・・・「モモ」 : 机上空間

時間泥棒の話・・・「モモ」 : 机上空間
http://blog.livedoor.jp/goldentail/archives/29390985.html

『ドイツ人作家のミヒャエル・エンデ氏の書いた「モモ」という児童書を、ご存知だろうか。1973年に発刊され、翌年にドイツ児童文学賞を受賞しています。私が、この本を買ったのは、学生の時でした。「ネバー・エンディング・ストーリー」(原作・はてしない物語)の映画が公開されて、ストーリーは、ともかくとして、その絵本の挿絵のようなビジュアルを、そのまま映像化した、映像としての完成度に当時、やられてしまいまして、その原作者の作品という事で購入しました。書評も高評価で、大人が読んでも面白い作品として紹介されていたのですね。当時は、ハードカバー版しか販売されてなくて、そこそこ高かった記憶があります。

人々から時間を奪う「時間泥棒」というキャラクターを設定して、主人公のモモとの対決を描いた物語で、かなり寓話的な物語です。モモというのは、まるで当時、世界的に流行していた、怒れる若者を代表するような浮浪者の少女です。従来からの価値観や大人の言う事に対して、それが真実なのか、正しいのかという疑問を持つ若者が、アメリカでも、ヨーロッパでも誕生して、彼らはお仕着せの価値観を否定し、いわゆる「ヒッピー」という自由主義者的なライフ・スタイルを啓蒙します。ウーマン・リブとか、フリー・セックスとか、マリファナとか、サイケデリックとか、精神の開放とか、型にはまらないのが新しいスタイルだとして、実際に、そういう生き方をした世代が誕生した時期ですね。

彼女は、今は廃墟と化した円形劇場に住み着いていて、見た目は小学生くらい。生まれてから、一度もクシを通した事も無いような真っ黒な巻き毛で、裸足で歩くせいで、足の裏は真っ黒。服のサイズも、まったく合っておらず、ツギハギだらけという風体です。モモという名前は、自分で付けたと言い、その他の事は、判らず、ただ、ここに住みたいと言います。周囲の住民たちは、相談して、モモの面倒を見る事にしました。

正体不明の風来坊の彼女ですが、モモは人の話を聞く才能に優れていて、心の問題を抱えた人が、彼女と会話をすると、その負担が軽くなるという極めて優れた特性を持っていました。こうして、心の安定でお返しする事で、モモは無くてはならない存在になって行きます。

しかし、そこへ「灰色の男たち」と呼ばれる存在が介入してきます。鉛のような灰色の書類カバンを持ち、灰色の煙の出る葉巻をくゆらせる、紳士のような出で立ちの男たちです。彼らは、人生に不満を抱える人間と会い、いかに時間を無駄にしているかを秒単位で説きます。そして、節約した時間を、彼らの運営する「時間貯蓄銀行」に預ければ、利子を乗せて支払うと営業を仕掛けます。

その話に乗った人々は、一秒たりとも無駄にできないと、イライラしながら働くようになり、それでも、時間はあっという間に経過してしまうので、もっと倹約しなくてはと、怒りっぽくなっていきます。こうして、灰色の男たちは、人々から時間という財産を奪って、世界を侵食していきます。

やがて、モモの元には、人々が寄り付かなくなるようになりました。時間を倹約する事に価値を見出すようになった親達が、モモが、ぐうたらの怠け者で、時間を無駄に浪費させる人間だと、会う事を禁止するようになったのです。やがて、灰色の男の一人が、モモのところにもやってきて、成功する事が大事であり、その他の事は価値が無いし、役に立たないと説得しに来ます。しかし、モモは屈する事無く、反論し、やがて、議論に詰まった灰色の男は、平常心を無くして、自分達が、人間から時間を奪う事を目的にしていて、その正体を秘密にしている事などをバラしてしまいます。

この後も、物語は続いて、時間の国の長老であるマイスター・ホラなど、キャラクターも出てきて、話は、より観念的になり、結構、子供が読むにはハードルが高い展開になっていきます。また、灰色の男たちが、人々から奪った時間は、時間の花を育成する養分になっていて、その花びらを乾燥させて巻いた葉巻が、彼らが普段から吸っているものなのでした。この辺りは、いかにもマリファナ的で、時代を感じさせます。葉巻から出る煙は、死んだ時間で、生きている人間が、この煙を吸うと、やがて灰色の男たちになってしまいます。この病気の名前が、致死的退屈症です。

この物語は、当時の風俗を取り入れながら、資本家と労働者という関係を寓話的に示しています。一般的に、資本家VS労働者というと、賃金の話になりがちですが、実は資本家が買い取っているのは、労働者という契約で縛りを課した他人の時間です。個人が持っている時間は、有限ですが、報酬を支払って、仕事として他人に任せる事で、成果は何百倍にも増やす事ができるのです。規模を大きくすれば、買い取った時間で成し遂げる成果も大きくなりますから、資本家の元には大きな対価が入ってきます。それを効率的に労働者に割り振る事で、更に事業は拡大するわけです。時間というのは、それを増やしたり減らしたりできませんが、他人の時間を報酬と引き換える事で、時間あたりの成果を増やす事はできるのです。

つまり、この物語は、チャップリンの「モダン・タイムス」と同じで、機械的に効率化の進んだ工場労働などの非人間性に対する寓話的な批判です。そして、労働の本質が、賃金の問題ではなく、時間の拘束である事に着目した、初期の作品の一つです。

この作品の時代では、労働集約化と、そこで推進させる極限までの効率化を、余りにも非人間的なモノとして批判しているわけです。しかし、今は、それよりも、たちの悪い形で、「時間泥棒」達は、我々の生活に入り込んでいます。

現在のアメリカは、GDPが世界一の最も豊かな国家のはずです。しかし、アンケート調査によると、世界平均よりも、日々、常に心配事を抱え、多くのストレス持ち、決して幸福とは言えない環境にあります。物質的には豊かになり、多くの作業が自動化されて、開放された代わりに、自分で時間をコントロールできなくなったのです。

資本主義を代表する工場労働を考えてみましょう。確かに、工場で労働している時間、最大の作業効率を求められ、しばしば、その労働は非人間的です。前述の「モモ」が寓話としていたのは、まさに、その時代の労働と時間の関係です。しかし、終業時間になれば、労働から開放され、プライベートと労働の区別は、はっきりと分かれていました。しかし、1950年代と違って、労働の主軸は、よりクリエティブな頭脳労働に移行しています。

製造ラインに、いない時には、労働の事を考える必要が一切無い、工場労働と違って、プロジェクトやマーケティング、クリエイターの仕事は、労働と時間の明確な区切りがありません。今は、スマホやタブレットなど、事務所の外でも仕事をサポートし、成果を送信したり、情報を得るツールが豊富にありますから、どこで何をしていても、仕事ができないという言い訳がたちません。つまり、フリーランスなど、場所や時間に縛られない働き方が増えたのですが、時間を自分でコントロールする事が、生産性の向上という呪文の前では、難しくなったという事です。

時間に縛られないというのは、労働をする時間が決まっていないというだけで、自炊で調理中でも、深夜に目が覚めてしまった時でも、入浴中でも、トレーニング中でも、頭で常に仕事の事を考える事は可能ですし、それをサポートするツールもあります。つまり、取り組んでいる問題を解決できない限り、我々は時間をコントロールするのが難しくなっているのです。まさに、時間泥棒に取り憑かれている状態と言って良いでしょう。

我々にとって、リラックスして、目標を持たない時間というのは、「幸福な経験・体験」に繋がる重要なものです。実際、幸福というものを、可視化するなら、過去に起きた幸せな体験の記憶であり、それは、多くの場合、自分のコントロール下にある時間において起きた事でもあるはずです。それが、仕切りの無い労働と、それを可能にするツールの発達によって、自分の制御に置けなくなってきています。

つまり、豊かさとは、高価なモノに取り囲まれる事ではなく、自分でコントロールできる時間の多さであり、その環境を作る為には、資産形成が必要だという事なのです。もし、幸福を基準に人生を過ごしたいのであれば、労働を賃金で計るのではなく、自分で時間を制御する為の手段として捉え、何者にも介入されない、自分の思い通りの時間を作る事こそが、精神的な幸せに繋がると認識するのが重要です。そして、労働における搾取とは、自分の時間を、格安で他人に売り渡す事に他ならないのだと認識するのが重要です。』

学問のすすめ 福沢諭吉

学問のすすめ 福沢諭吉
https://www.aozora.gr.jp/cards/000296/files/47061_29420.html

『「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。

されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。

されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。

その次第はなはだ明らかなり。

『実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。

されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。

また世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。

すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役はやすし。

ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし。』

 ※ 中、略。

『学問とは、ただむずかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。

これらの文学もおのずから人の心を悦ばしめずいぶん調法なるものなれども、古来、世間の儒者・和学者などの申すよう、さまであがめ貴むべきものにあらず。

古来、漢学者に世帯持ちの上手なる者も少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人もまれなり。これがため心ある町人・百姓は、その子の学問に出精するを見て、やがて身代を持ち崩すならんとて親心に心配する者あり。無理ならぬことなり。畢竟その学問の実に遠くして日用の間に合わぬ証拠なり。

 されば今、かかる実なき学問はまず次にし、もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。

譬えば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言、帳合いの仕方、算盤の稽古、天秤の取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条ははなはだ多し。

地理学とは日本国中はもちろん世界万国の風土道案内なり。

究理学とは天地万物の性質を見て、その働きを知る学問なり。

歴史とは年代記のくわしきものにて万国古今の有様を詮索する書物なり。

経済学とは一身一家の世帯より天下の世帯を説きたるものなり。

修身学とは身の行ないを修め、人に交わり、この世を渡るべき天然の道理を述べたるものなり。

 これらの学問をするに、いずれも西洋の翻訳書を取り調べ、たいていのことは日本の仮名にて用を便じ、あるいは年少にして文才ある者へは横文字をも読ませ、一科一学も実事を押え、その事につきその物に従い、近く物事の道理を求めて今日の用を達すべきなり。
右は人間普通の実学にて、人たる者は貴賤上下の区別なく、みなことごとくたしなむべき心得なれば、この心得ありて後に、士農工商おのおのその分を尽くし、銘々の家業を営み、身も独立し、家も独立し、天下国家も独立すべきなり。』

ウソは健康的に接種すべきものであって、ウソで身の回りを固めると人生が破綻する

ウソは健康的に接種すべきものであって、ウソで身の回りを固めると人生が破綻する
https://blog.tinect.jp/?p=77629

『疲れている時にTwitterをやっていると、つい惹き付けられてしまうものがある。それはなろう系の漫画の広告である。

なろう系とは小説の一大ジャンルだ。

現実社会ではしがない生活をしていた人間がトラックにはねられて異世界に転生した結果、異能を発揮して無双したり、よくわからないけど何らかの天啓に恵まれてハチャメチャに強くなって、それまで冷遇されていた現実から一転して救世主みたいにチヤホヤされるというアレだ。

このなろう系はよく「努力が嫌いな現代人が、読んで気持ちよくなる為のもの」という風に揶揄される事が多い。

というか僕自身もそう思っていた節があり、正直読むのを避けていた。

しかし実際に読みすすめてみるとである。これが妙に癒されるのだ。

あんなに散々揶揄していたくせに、こんなに楽しんで読んでるだなんて何事だ!と怒られること必死である。いや…正直スマンかった…お前、めっちゃ面白いよ…

いったいなんでこんなに楽しいのだろうかと頭を捻ってみたところ、一つの結論がでた。
それは報酬の前借り効果である。

現実世界は結果反映まで時間がかかりすぎる

現実世界は大変である。大なり小なり、苦労していない人間などこの世にはいない。

僕もいま振り返ると笑っちゃうぐらいにラクチンな環境にいた頃だって、日々「シンドい」と思っていた。

このシンドさは実はある状況に似ている。

それは修行である。巨人の星からドラゴンボールに到るまで、強くなる人間はみな厳しい修行にハァハァしつつ、その成果として大リーグボールやらかめはめ波といった成果を手にしていた。

私たちは心のどこかで、大変な思いをしたら、それ相応の報酬がある事を心のどこかで期待している部分がある。

実際には報酬を受け取るには、きちんとしたプロジェクトを立ち上げて、かつ正しい努力をそれなりに長い年月積み重ねてゆかねばならないのだけど、そういう事をやったかどうかは別に、やっぱり心はどこかで「ご褒美」を欲しがっている。

既に疲弊した身体に、無双はものすごく気持ちいい

そういう疲弊しきった身体に、なろう系の物語は清涼飲料水のように染み渡る。

「現実世界ではもうチョー頑張った。もうマジ限界。恩赦プリーズ」

そういう状態の脳みそに、異世界転生して超絶ハイスペックでもって無双する状態を物語として流し込むと、脳が本当に物凄く喜ぶ。

「よく頑張ったね!努力の結果として、あなたは世界を揺るがす剣聖になれました!」

そういう文脈でもって”なろう系”を読むと、なんだかハチャメチャに頑張った現実世界における努力の対価を受け取っているかのように脳が錯覚する。

まあ実際には全然関係がないのだが、物語というのは自分の都合の良いように読むものである。

そうやって異能でもって世界中から称賛されているという感覚を味わい、美しいヒロインとイチャイチャするようなファンタジーにしばらく身を置くと、不思議なことにあんなに疲労困憊でゼーゼーいっていた脳が

「もう、もう元気になったから大丈夫だぜ。いっちょ次、頑張っちゃう?」

とか言い始めるのだから、不思議である。

まあ実際にはすぐまた疲れるのだが、疲れたらまた同じことを繰り返せばそれでよいのである。

なろう系…それは社会修行で疲れ果てた人間への、ご褒美ユンケルなのである。

自分の人生にウソを介入させてはいけない

「物語に癒やされるだなんてばっかじゃないの?」

「虚構に逃げても、何もいいことなんてない」

「現実から逃げるな!」

若い頃の自分は、よくこんな事を思っていた。

いま思うと「若者よ。そう生き急ぐな」と生暖かい目でみたくなってしまうのだけど、ウソや虚構といったものはそう一概に悪いだけのものではないと大人になった今は真剣に思う。

ウソや虚構は意識的に摂取しているうちは極めて健全だ。

感動的な物語にフルコミットして涙を流してもいいし、ヤクザモノの映画をみて絶対にありえなさそうな任侠道に憧れるのもいい。

しかし世の中には絶対についてはいけないタイプのウソや取り入れてはいけないタイプの虚構がある。

それは自分語りだ。他ならない、自分自身の人生をウソで塗り固めて構成した先にあるのは、純度100%の地獄である。

世の中にはびっくりするぐらいウソツキがたくさんいる

「人間は、意外と言われた言葉を額面通りにそのまま信じてしまいがちである」

これは岡田斗司夫さんという漫画・アニメの評論をする方が言われていた事だ。

連休中に彼が書いたガンダム完全講義を通読して、僕は自分がいかに相手の言葉をそのままの意味でしか理解していないという事を痛感させられた。

岡田さんは有名なシャア・アズナブルの「認めたくないものだな。自分自身の若さ故の過ちというものを」や「坊やだからさ…」といったカッコいいセリフが、実は物凄く深い意味があるという事をこの講義で徹底的に解説している。

その解説力には舌を巻くばかりなのだけど、考えてみると自分も基本的には相手の言ってる事をほとんど疑って聞いた事がない。

しかしである。じゃあ自分自身がウソをついていないかというと…これがまあ、よくついているのである。

ヤバいウソは基本的にはつかないが、じゃあ本音だけ垂れ流しているかというと、そんな事は全然ない。

このように自分自身もウソツキを大なり小なりやっている状況にあるわけなのだけど、こんなのは全然カワイイ方である。

インターネット博覧会であるTwitterでは、実はウソツキが膨大に列をなしており、虚構をまるで真実かのように真顔で主張する人たちが山のようにいる。

過去にも某超有名外資系投資銀行勤務を騙って巨額の詐欺を働いていた人など、枚挙にいとまがない。

普通の人は他人のウソを見抜けない

じゃあその人達のウソを自分自身がちゃんと見抜けていたかというと、これがまた驚くことに見抜けていなかったのである。

かつて2ちゃんねるの創始者であるひろゆき氏が語った有名なフレーズに「ウソをウソであると見抜けない人には2ちゃんねるを使うのは難しい」というものがあるが、現実問題として普通の人間にはウソを見抜くのは無理である。

それ故に…M資金のような詐欺が何度も何度も繰り返されるわけだし、それ故にインターネット上ではウソで塗り固めた人生でもって承認欲求を荒稼ぎする人たちが山のようにいる。

とはいえ、バレないウソはない

「それならウソをつきつづけられるのなら最強なのでは?」

実際にそれができるのなら確かに最強なのだけど、現実問題としてウソを完璧に貫き通せる人などほぼ居ない。

よく「ウソを一つつくと、そのウソを守るのにまた別のウソをつかなくてはならなくなる」という言葉があるが、虚構に虚構を積み重ね続けるのは実際問題として人間の能力を超えている。

小説のように最初から最後まで虚構で成り立つ世界ならまだしも、現実というファクトがある世界において、そこにウソを設置するのは物凄く難しい。

だいたいにおいてファクトだけが精神に残るという事もあって、ウソはついた事すら忘れ果ててしまう事が多い。

それ故にウソツキは自分がついたウソと矛盾するようなウソを無意識でもってよく言ってしまう。

そういう状況になってから、カンの良い誰かに「いやお前それウソじゃん」と指摘された瞬間から、ウソツキの人生は崩壊する。

そこで「ごめんなさい。すみませんでした」とやれる人間などまずおらず、ウソツキはゴチャゴチャと言い訳を始め、そしてぶっ壊れる。

この段に至って、ウソツキが真人間に戻れる確率はほぼ0%だ。

大抵の場合において「あっ(お察し)」な存在へと一般的には認知されるようになり、虚構の中で生き続ける残念な人間がこの世に爆誕する。

ウソツキの行く末は地獄以外にはどこにもない。

ウソが上手くいってしまった時ほど、その上手くいってしまったウソからもたらされる快感に吐き気を催せるようになるべきだ。それができないと、貴方の人生も「あっ(お察し)」である。

ウソをウソだとわかって楽しく利用できないと、現実を良く生きるのは難しい

ウソは使ってもいいけど、それを快感につなげてはならない。

これが僕のウソに対する結論である。

世の中にはどうしてもウソが必要となる時がある。末期がんで一縷の望みすらない人間が希望にすがっている時

「いや、おまえ絶対に助からないから」

と言うのは誠実なのではなく単なるバカだ。

そういう人にウソをつきたくないのなら、例えば「確かに世の中、何がおきるかはわかりませんからね」などと言って共感する方が絶対にいい。

世の中の多くのウソは優しさで満ち溢れている。

なろう系は血湧き肉躍る体験を読者にもたらしてくれるし、転職の際に「家庭の事情で…」とテキトーにウソをでっち上げるのだって、まあお互いが納得する為の一つのよい手段である。

このように、誰かを優しさで包む為のウソはインスタントな形で一時的な使用で終わる性質のものだ。

その後でバレたとしても、そこまで事がハチャメチャにこじれる事はないだろう。

一方で己の快楽の為につくウソは本当にヤバい。

覚醒剤の乱用者が強い刺激を求めて使用量がどんどん増えるかのごとく、ウソにウソが乗っかってトンデモナイ事になる。

行き先も同じく地獄である。誰もが「自分だけは絶対に大丈夫」と思い、どうにもならなくなってから破滅する。

ウソをウソだとわかって楽しく利用できないと、現実を良く生きるのは難しい。僕はそう思う。

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高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

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「不惑」の意味は年齢のこと?孔子の論語との関係や使い方も解説

「不惑」の意味は年齢のこと?孔子の論語との関係や使い方も解説
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『「不惑」は日常的によく見聞きする言葉で、年齢を話題にした会話にもしばしば登場します。また、有名な孔子の『論語』とも深い関係があるようです。この記事では「不惑」の意味をはじめ、孔子の『論語』との関係や、熟語の使い方が理解できる例文なども解説しています。

目次 [非表示]

1 「不惑」の意味や由来とは?
    1.1 「不惑」の意味①”心が乱れたりすることがない”
    1.2 「不惑」の意味②”数え年の40歳”
    1.3 「不惑」の由来は孔子の『論語』

2 「不惑」と孔子の論語との関係
    2.1 孔子の教えは「生涯成長すべし」
    2.2 「不惑」以外にもある年齢の異称
    2.3 孔子とは程遠い現代人の「不惑」以降

3 「不惑」の使い方や例文とは?
    3.1 「不惑」は40歳のことを指して使うのが一般的
    3.2 「不惑」を使った例文

4 まとめ

「不惑」の意味や由来とは?

「不惑」の意味①”心が乱れたりすることがない”

「不惑」の意味は、“心が乱れたりすることがない・超然とした悟りの境地”です。「ふわく」と読み、熟語を読み下した「惑わず」がそのまま意味となっています。この世に生きていると、さまざまな煩悩に心を乱されます。欲しいものは手に入らず、人間関係にも疲れ果て、悩みは尽きません。

「不惑」は心が乱れたり悩んだりするようなことがない、超然とした悟りの境地のことですが、凡人がそのような境地に至ることは大変困難です。

「不惑」の意味②”数え年の40歳”

「不惑」のもうひとつの意味は、“数え年で40歳のこと”です。数え年とは、現在の満年齢とは異なる年齢の数え方で、生まれた年を1歳として新年を迎えるごとに1歳年をとるという方法です。つまり数え年では、大晦日に生まれた子供は翌日になると2歳になってしまう計算です。

ちなみに40歳には「不惑」以外にも異称があり、四十路(よそじ)のほか、最近ではアラウンドフォーティを略したアラフォーという言葉も登場しています。「初老(しょろう)」も数え年40歳のことを指した言葉で、長寿祝の最初の年齢です。

また「不惑」と同じように、異称を持つ年齢があります。現在でもよく知られている「還暦」は数え年で61歳、「白寿」は数え年で99歳のことを指していますが、趣のある呼び名です。
「不惑」の由来は孔子の『論語』

「不惑」は、儒家の始祖である孔子(紀元前551年 – 紀元前479年)の『論語』が由来です。『論語』は孔子の言行録のような書物で、孔子の教えがよく理解できる一書であり、現代人にとっても学びの多い必読書となっています。

「不惑」は、『論語』の「為政篇」のなかの「子曰 吾十有五而志乎学 三十而立 四十而不惑 五十而知天命 六十而耳順 七十而従心所欲不踰矩」にあります。

現代語に直すと「子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う(したがう)。七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えず(こえず) 。」です。

「不惑」と孔子の論語との関係

孔子の教えは「生涯成長すべし」

孔子は自身について、「15歳で学問を志して30歳で独立、40歳で迷うことがなくなり、50歳で天から授かった使命に目覚めた。60歳で人の意見を素直に受け入れられるようになり、70歳で自分の思い通りに行動しても人の道から外れることはなくなった」と語っています。

つまり孔子ほどの偉人であっても、人間が完成するまでには長い年月が必要だったということです。

孔子の教えから分かるのは、人間は年齢を重ねならが成長していかなければならず、短期間で完成するようなものではないということと、節目ごとに成長のステップがあり、そのひとつひとつを順に完成させていくことが人間形成への道筋だということです。

「不惑」以外にもある年齢の異称

『論語』の「為政篇」で登場したのは「不惑」の40歳だけではありません。15歳から70歳までの間に6つの区切りを設け、以下のようにそれぞれの年代での努力目標としての目指すべき姿が、年齢をなぞらえる呼称となっています。

15歳:志学(しがく)
30歳:而立(じりつ)
40歳:不惑(ふわく)
50歳:知命(ちめい)
60歳:耳順(じじゅん)
70歳:従心(じゅうしん)

孔子とは程遠い現代人の「不惑」以降

現代でも、高校受験を迎える15歳頃には自分の進路を真剣に考え始めます。また、30歳頃になると社会人として自立できるようになります。

けれども孔子の時代より社会が複雑になったためでしょうか、40歳でも迷いが多く、50歳でも目の前の仕事に追われ天命に気づくゆとりはなく、60歳になっても我が強く、70歳で思い通りに行動して警察のお世話になるというありさまです。

また超高齢社会の到来により寿命は100歳近くまで延びましたが、80歳・90歳・100歳についての孔子の教えはありません。現代人は30歳からの生き方を、もっと真剣に考える必要がありそうです。

「不惑」の使い方や例文とは?

「不惑」は40歳のことを指して使うのが一般的

「不惑」には迷いがないという意味と40歳という意味がありますが、40歳のことを指して使うことが一般的です。ここでは40歳の異称という意味での「不惑」を用いた例文を提示し、熟語の使い方への理解を深めます。

「不惑」を使った例文

「不惑」を使った例文をいくつかご紹介しましょう。

四十路を迎え「不惑」と言われると面映く感じるが、初老と言われると面白くない。
人生50年時代の「不惑」は、まだ折り返し点にも達していない現代とは全く別モノだっただろう。
40歳はまだ迷いが多い年代だからこそ、自戒を込めて「不惑」と呼ぶようになったのかもしれない。
「不惑」に入ってにわかに英語熱が再燃し、TOEICを受験してみることにした。

まとめ

「不惑」の意味のほか、孔子の『論語』との関係や使い方が分かる例文などを解説しました。平均寿命が50歳に満たない頃には、15歳で一人前の大人として扱われていました。一方、現代の15歳はまだ義務教育を終えたばかりで、長い人だとあと10年近くも学生時代が続きます。

社会人としてのスタートが遅くなり寿命も長くなった現在、「不惑」となる年齢はどんどん先送りになりそうです。

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小倉あずき
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50代がさっぱりわからない

50代がさっぱりわからない
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20220720/1658305800

『ゆうべ、文章をなにも書かなくなった夢を見た。無気力な、何をすればいいのかわからなくなった未来の自分が、消極的に、もっと本業に取り組むかと呟いているのが物悲しかった。もちろんこんなのは本業に精力的に取り組む人々には当てはまらない、私の文脈内部にしか当てはまらない物悲しさだ。私は人生の半分以上、文章を書きながら生きてきた。だからなにも書かなくなった自分とは、人生の荷物の大事な部分を落としてきた自分のように思える。
 
年を取るということがわからなくて、年を取るということを少しでも知って、うまく立ち回りたくて、不安を軽減させたくて、私は努めてきたつもりだった。だというのに今の私は書くことがわからず、年を取ることもわからなくなっている。精神疾患になっているとは思わないが、いつ頃からか、迷いの季節に突入したな、と思う。
 
思えば30代後半〜40代前半は、自分の立ち位置と立ち回りのうえで便利な時期だった。もう中年だけどまだ若手だし、まだ若手だけどそこそこ世慣れてもいる。その両面を、如意棒のように振り回して社会適応できるのがその頃だった。知識とバイタリティと好奇心のバランスも良かった。
 
ところが40代も後半に入り、そのような社会適応が早くも成立困難になってきた。中年だけど若手、という立ち位置を他人に対して成立させられなくなって、中年オブ中年とでもいうべき新境地が現れてきた。自分を若手のように見せかけても、周囲、とりわけ年下はそのように見てはくれないだろう。社会的加齢は、自分の一存だけで決められるものではない。
 
すると、コミュニケーションも微妙に変わってくる。たとえば、20代の異性と20代のうちに恋愛するには20代のうちでなければならない。わざわざトートロジーめいたことを書くのは、かりに40代が20代の異性と恋愛できたとしても、それは40代が大幅に年下の異性と恋愛するのであって、20代の異性と20代のうちに恋愛するのとは随分ちがっているからだ。
 
世の中には、若い異性を金で殴ってなびかせ、侍らせる中年もいると聞く。そういった行為にも固有の意味はあろうけれども、若かりし日を取り戻せないのだけは間違いない。
 
同じことがオフ会などにも言える。どこかの新しいオフ会に出かけるとなったら、参加時点で私は最年長である可能性が高い。若かった頃と異なった役割を期待されるわけで、立ち回りを変えなければならなくなっている。それ自体、うまくやってのけたとしても、そこから汲み取る経験は以前と同質ではない。
 
そして体力気力集中力の衰え。
自分が書くということへの(しばらく忘れていた)疑問。
好奇心が膨らむより先に首をもたげがちな、「それって以前に見たことあるよね」という先入観。
 
自分は書き続けられるのか?
続けたとして自他に有意味なものをつくり続けられるのか?
 
そうした疑問は数年前からうっすらあったが、2020年代に入って少しずつ高まり、今、自分はわけのわからないゾーンにいる。もともと『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』を書いた時に大事な何かが抜けていった気はしていたのだけど、そこから同じものを再充填できたとは言い切れず、参考文献の山のなかで私は遭難している。
 
じゃあ、書くのをやめてしまえばスッキリした50代を始められるのか? といったらこれもわからない。たぶん無理だろう。より正確には「今はまだ、無理な気がする」。
 
こうして今、アイデンティティの寄る辺がわからない中年になってみると、カネとか、筋肉とか、老年まで持ち越せそうな諸価値に執着したくなる気持ちが少しわかった気がする。でもって案外、そうやってカネや筋肉に執着する人は程度が良いのかもしれない。いやどうだろう? 隣の庭の芝が青く見えるだけかもしれない。カネや筋肉に執着する中年の心境など、わかったようで結局私にはよくわかっていないのだ。
 
「そういう時、ロールモデルの生き方を参考にするのだ」、と人はいうかもしれない。わかっている。私だってできればそうするさ! しかし私の視界内にいた数歳年上の書き手たちは、ほとんど全員、50代になって書くのをやめてしまったか、書く勢いを失ってしまったか、なんだかわけのわからないtwitter論者になってしまった。結局私のエイジングの道は自分自身で切り拓いていくしかなさそうだけど、今は先行きがまったく見えなくて、途方に暮れてしまっている。
 
……で、こういうことをブログにたたきつけるように書く、その身振りも信じて良いのかわからない。
 
インターネットは第一に、願望と思い込みのシミュラークルの鏡地獄なのであって、誰かに何かを伝えるボトルメールとしての機能はもう期待できないように思われるから。この私の戸惑いも、誰かに届くより先に、そういう鏡面が欲しかった人の鏡となり、そういう中年を非難したかった誰かの酒の肴になるばかりなのだろう。しょうもないことだ。そのしょうもない鏡面世界のなかで、こんなこと書いたってなんにもなりやしないんじゃないか。』

事異なれば則ち備え変ず。

事異なれば則ち備え変ず。
https://shisokuyubi.com/bousai-kakugen/index-783

『韓非子(BC280頃~BC234頃 / 中国・戦国末の思想家 諸子百家)の著書「五蠹(ごと)」より備えについての名言(中国古典・故事成語) [今週の防災格言622]

『 事異なれば則ち備え変ず。 』

” 事異則備変。”

 韓非子(BC280頃~BC234頃 / 中国・戦国末の思想家 諸子百家)

 曰く―――。

世異なれば則ち事異なり、(世異則事異)
事異なれば則ち備え変ず。(事異則備変)

世の中が変わってくれば、物事も異なってくる。
物事の状況が違ってくれば、その準備も変えなければならない。
かつての最上の方法も、現在では通用しないこともある。
状況の変化に応じて、それらに対処する方法も常に変えていく必要がある、の意。

格言は韓非子『五蠹(ごと)』より。

 韓非子(かんぴし / 韓非)は、古代中国、戦国時代末期の韓の思想家。法家の代表的人物。

性悪説を唱えた儒家・荀子(じゅんし)の弟子で、申不害(しんふがい)、慎到(しんとう)、商鞅(しょうおう)らの法家思想を大成させた。

韓非の生国である「韓(かん)」は、戦国末期、秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓の「戦国七雄」のうち最弱国で、隣国の秦に怯え、いつ併呑されるか時間の問題でもあった。そんな滅びゆく祖国の弱体に発奮して、自らの思想を形とするため『韓非子』といわれる著作を残した。

その著作『五蠹(ごと)』を読んだ秦王政(後の始皇帝)は、いたく感激し、韓非を秦に招こうとした。ところが、荀子のもとで共に学んだ秦の重臣・奇斯(りし)に妬まれた韓非は毒殺されてしまう。韓非の遺したその思想は秦の始皇帝の中国統一の礎となったという。』

知の難きに非ず、知に処するは則ち難し

知の難きに非ず、知に処するは則ち難し
https://ats5396.xsrv.jp/2494/

『知の難きに非ず、知に処するは則ち難し

ー非知之難也、処知則難也ー     韓非子 説難第一二

(韓非子:二十巻五十五編。戦国時代の韓非の選。先秦時代の法家の学を集大成し、
それに韓非の考えを加えたもの。はじめは「韓子」と称したが、宋以降、
唐の韓愈と区別するため、「非」の字を加えた。)

{原文}
宋有富人。天雨牆壊。
其子曰、
「不築、必将有盗。」
其隣人之父亦云。
暮而果大亡其財。
其家甚智其子、而疑隣人之父。

此二人者、説皆当矣。
厚者為戮、薄者見疑。
則非知之難也、処知則難也。

{書き下し文}
宋に富人あり。天雨ふり牆壊る。
其の子曰はく、
「築かざれば、必ず将に盗有らんとす。」と。
其の隣人の父も亦云ふ。
暮れて果して大いに其の財を亡ふ。
其の家甚だ其の子を智とし、而るに隣人の父を疑ふ。

此の二人は、説は皆当たる。
厚き者は戮され、薄き者は疑はる。
則ち知の難きに非ず、知を処するは則ち難きなり。

{意解}

 知ることは難しくない、
知ったあとでどう対処するかが難しいのだという。

情報収集よりも情報管理(情報処理)のほうが難しいということである。
例として「韓非子 説難第一二」を揚げている。

 宋の国に金持ちの家があった。
ある日、大雨で塀が壊れたのを見て、息子が語った。
「塀を修理しないと、必ず泥棒に入られてしまう」
隣家の主人も同じことを言ってきた。

 その晩に、やはり、泥棒にはいられて、
ごっそり盗まれてしまった。
金持ちは、息子の賢さに感心したが、
同じことを言った隣家の主人に対しては、
「あの男が、犯人ではないか」と、疑った。

 親切に教えてやったのに、あらぬ疑いまでかけられるとは、
これほど割に合わない話はない。
私たちの周りにも、結構これに類する話が転がっている。

「韓非子」によれば、それはみな「知に処する」道を
誤ったことに起因するのだという。

 あらぬ誤解を招かぬためにも、
言葉には気をつけたいものである。

*参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
自分なりに追記や解釈して掲載しています。

私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。

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社会を考える
朱子家訓
2022年7月7日

自己を高める
ナオン について(※ このブログの作者)

美容業界での長年のマネージメント能力を活かし、 人生の選択時により善い選択(決断)の一助になればと、 中国古典の「意解」に取り組んでます。 古希を目前にして振り返れば、 その折々により善い選択(決断)が出来なかった事、 心ならずも人の心を傷つけてしまった事に、 後悔の思いは数知れず、走馬灯のように過ります。 私のように後悔先に立たずという思いは 読者には少しでも避けてほしいとの思いで ”中国古典 名言に学ぶ 総集編”を作成しました。

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カテゴリー: 着実に生きる タグ: 処知, 原文、書き下し文、意解、画像, 情報処理は慎重に, 知に処する, 知の難きに非ず、知に処するは則ち難し, 非知之難也、処知則難也, 韓非子 説難第一二 パーマリンク 』

救済

救済
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%91%E6%B8%88

 ※ 仏教の「解脱(げだつ)」が、「輪廻の輪」から脱することだとは、知らんかったよ…。

『救済(きゅうさい、英語: salvation)は、ある対象にとって、好ましくない状態を改善して(脱して)、望ましい状態へと変える(達する)ことを意味する。宗教的な救済は、現世における悲惨な状態が宗教に帰依することで解消または改善されることも意味する。様々な宗教で極めて重要な概念であり、救済を強調する宗教は救済宗教とも呼ばれ、「救済宗教」で通常「救済」という場合は、現世の存在のありようそのものが、生及び死を越えた存在領域にあって、何らかの形で決定的に改善されることを表すのが一般である。
救済の型の分類

救済される場所による分類:来世救済型 対 現世救済型
救済される対象による分類:個人救済型 対 集団救済型
救済される方法による分類:自力救済型 対 他力救済型

救済の型には、生者や死者や魂などが天国や極楽や理想郷などの「あの世」に行く「来世救済型」と、神や仏や菩薩や救世主や理想郷などが「この世」に現れる「現世救済型」がある。また、個人単位で救済される「個人救済型」と、宗教的共同体や民族や国家や人類全体など集団単位で救済される「集団救済型」がある。また、信仰や苦行や禁欲や悟りや善行による「自力救済型」(≒「因果説型」)と、神や仏や菩薩や救世主などの恩恵や慈悲による「他力救済型」がある。

太陽と月が一つになった「金星神=光明神」のシンボル 「オーリオール(アウレオラ/アウラ)」。

キリスト教で用いられるプロビデンスの目。この「目」は、本来、「太陽」(丸)と「月」(三日月もしくはアーモンド型)のシンボルを合成したものであり、「金星(神)」を意味する。「太陽(神)」+「月(神)」→「金星(神)」。
キリスト教における救済

キリスト教神学においては特に「救済論」(soteriology)の中心概念である。キリスト教は典型的な救済宗教で、キリスト教における救済とは、キリストの十字架による贖いの功績に基づいて与えられる恵みにより、信仰による罪の咎と束縛からの解放、そして死後にあって、超越的な存在世界にあって神の恩顧を得、永遠のいのちに与ることである。永遠のいのちは、時として、生物的ないのちとは種類を異にする、この世にあって持つことのできる霊的ないのちとも解釈できる。

ローマ・カトリック教会においては、罪は犯したが償える可能性の残っている者は煉獄に送られるとされる。

また、未来において世界が終末を迎えたとき、神が人々を裁くという最後の審判の観念もある。その時混乱の極みにある世界にイエスが救世主として再臨し、王座に就くとされる。死者達は墓の中から起き上がり(伝統的に火葬しなかったのはこの時甦る体がないといけない為)、生者と共に裁きを受ける。信仰に忠実だった者は天国へ、罪人は地獄 (キリスト教)へ、世界はイエスが再臨する前に一度終わるが、この時人々は救済され、新しい世の始まる希望がある。(千年王国)

グノーシス主義における救済

グノーシス主義における救済とは、反宇宙的二元論の世界観より明らかなように、悪であり暗黒の偽の神が支配する「この世」を離れ、肉体の束縛を脱し、霊として、永遠の世界(プレーローマ)に帰還することを意味する。グノーシス主義では悪が肉体を形作るものの、善もまた人の体に光の欠片(魂)を埋めたという神話もある。信者は死ぬとき真の神なる父を自覚し、プレーローマへ帰ろうとするが、悪(アルコーン達)の妨げる重囲を突破しなければならない。この過程は全体から見れば、光の欠片の回収でもある。

仏教における救済

仏教における救済とは、個人が悟りを得て、輪廻から外れ(解脱)、苦しみの多い(本質的に苦である)この世に二度と生まれてこない(転生しない)ことである。

つまり仏教における救済とは、「輪廻転生」という、仏教がバラモン教から引き継いだ、世界の仕組みに関する「概念」(世界観)をそもそもの前提としている。

そして「輪廻転生」は、「転生」という概念を前提としている。そして「転生」は、「霊魂的な「何か」(バラモン教では「アートマン」、仏教では「因果」)の存在」という概念を前提としている。

しかしバラモン教や仏教では、そうした「転生」が輪(環)のように永続する(輪廻する)ことで、「転生」そのものは「救済」ではなく「苦」と化しており、転生の輪(環)=輪廻から外れることを「救済」とするという、さらにひねくれた(発達した)構造となっている。

(通俗的には)悟りを啓いた者を「ブッダ」と呼び(伝統的には「仏陀」は歴史的人物としての釈迦を指す)、人間は誰でも(可能性としては)「ブッダ」になることが出来るとされる。

本来、仏教は、個人が悟りを得ることで輪廻から外れようとする、「個人救済」「自力救済」の営みから始まったものだが、大乗仏教が興ると自分のみならず他者(衆生)も救済しようという方向性が現れた。

また阿弥陀信仰や観音信仰や弥勒信仰や地蔵信仰など、仏や菩薩により救済される「他力救済」もあるが、本来の仏教の「自力救済」の論理からはありえず、西方の異教(ゾロアスター教・ミトラ教・ネストリウス派キリスト教・マニ教など)に由来する、仏教の皮を被った救世主待望思想の面が強い。

なお、弥勒菩薩は56億7000万年後に降臨するとされると通常言われているが、初期経典の記述からは5億7600万年が正しい。これは現在弥勒が転生し修行中の兜率天での天寿を計算で出したものである。

平安時代には釈迦入滅後末法の世が到来するという不安に戦乱も重なり、終末の後の救済を求める人心を反映してか浄土教が浸透していった。

こうした(本来の仏教の論理ではありえない)仏教の「他力救済」の面が、日本におけるキリスト教の受容に繋がっていることは否めない。

儒教における救済

儒教は、日本では儒学とも呼ばれ、一種の道徳律や政治論のようにとらえられているが、儒教は形而上的世界観をその道徳や政治の土台に置く、立派な宗教である。

儒教における救済には、個人的な側面と全体的な側面がある。

個人的な側面としては、一族の先祖をまつる祭祀儀礼がある。古代中国の世界観では、人間(の気)は天地より授かった魂魄(こんぱく)より成り(魂は精神を支える気、魄は肉体を支える気を指した)、死後、魂(こん)と魄(はく、ぱく)に分かれ、魂は上昇して天に、魄は下降して地に、行く(戻る)とされる(魄は遺体や骨とともに地に留まる・潜るゆえに、魄を保管するために土葬が行われる)。そして魂と魄を祭祀儀礼により再び結び付けるとき、人間は復活・再生する(=救済される)とされる。そしてこの復活・再生のための祭祀儀礼は、子孫でないと行うことができないとされる。儒教においては、子孫がいなければ祭祀儀礼を行うことができず、先祖や自分が復活・再生することができないのである。儒教において、自分を救ってくれるのは、神や仏などの超越的存在ではなく、子孫なのである。故に儒教道徳においては、子が親より先に死ぬことは、祭祀を行う者がいなくなる意味でも、親や先祖に対する不孝なのであり、家(家系)を守り、子孫の血を絶やさぬことが、非常に重視される。儒教の創始者である孔子自身が、母親が祭祀儀礼(葬儀屋)を生業とする、生まれであった。

全体的側面としては、儒教(特に孔子)は、尭・舜という古代の聖王による、仁義や忠孝を重視した王道・徳治政治を理想としており、儒教の政治的・宗教的目的は、乱れた世を正し、聖王の治をこの世に再現する(聖王の治に回帰する)ことにある。こうして儒教は先祖を祀る祭祀儀礼を中核に道徳を整備し、徳化(教化)により連続的に、儒教道徳を修めた個人を始めとして、家や国や天下(全世界)が形成されることによって、平和(儒教道徳に基づく儒教的秩序による世界統一)が達成され、徳治が行われ、人民が幸福に暮らせるようになることで、全体が救済されるとするのである。また、天下が平和になれば、家系も戦乱などで途絶えることがなく、子孫によって祭祀儀礼が行われることによって、先祖や自分の救済も保障されるという、循環・補完の論理があるわけである。

故に儒教は個人救済型宗教であると同時に集団救済型宗教でもある。

また、他の宗教がそうであるように、儒教にも終末論がある。即ち、為政者(君主・皇帝)が(儒教道徳に基づく)徳を失い暴君となり、暴虐暴政を働くようになると、人民は苦しみ、世は乱れ、怪異や天変地異が起こるようになる。これが儒教における世界の終末である。すると、天(古代中国の世界観における超越的至高存在)は徳のある者を新たな為政者候補に選び(天命が革まる)、反乱が起こり、反乱軍は暴君を打倒し滅ぼして、反乱者が新たな為政者(君主・皇帝)となって新王朝を打ち立ることで、世は、平和と秩序を取り戻し、怪異や天変地異も治まり、新たに生まれ変わるのである。これ(終末論)は儒教におけるもう一つの救済論でもある。しかし、この新たな為政者(の子孫)も、やがて堕落し、暴君と為りて、新たな為政者が立つのである。このように儒教における歴史観(世界観)とは、「世界の堕落と再生」が永遠に繰り返される、「循環史観」なのである。
救済事業

救済を行う事業。国際連合パレスチナ難民救済事業機関 (UNRWA)のパレスチナ難民救済事業などがよく知られている。種類としては貧民救済事業、孤児救済事業、失業救済事業、各種被害者救済事業などがある。
おもな例

難民への救済事業
護王神社 - 孤児救済事業
油須原線 - 政府が失業救済事業として
ユース・ウィズ・ア・ミッション
ハンセン氏病救済事業
救済土木事業
新梅田食道街 - 旧国鉄退職者に対する救済事業として* 学生セツルメント - 大学生による貧民救済事業として始まった
森永ヒ素ミルク中毒事件被害者救済事業
公害被害者救済事業
救世軍難民支援事業(戦時難民救済事業等)
連合国救済復興機関救済事業
千葉県 習志野開拓や下志津開墾など
暴力追放青森県民会議暴力団員による不法行為の被害者に対する救済事業
レスト・デュ・クール("Restaurants du coeur") - 貧困者救済事業
弓張岳#軍用道路と高角砲台の建設野外コンサートホールに改修 - 炭鉱閉鎖が相次いだ昭和40年代初期に失業者救済事業の一つとして
大阪市営地下鉄建設工事 - 失業者救済事業としての一面が
ドイツ強制的同一化 冬季救済事業(de)
ホスピタル・ホスピタリティ・ハウス(ファミリーハウス)- 宿泊施設での救済事業

関連人物

施乾
井上友一 - 感化救済事業や地方改良運動などを推進
ハンナ・リデル - 日本におけるハンセン氏病救済事業で知られる
光田健輔 - ハンセン病患者への救済事業に積極的に取り組んだ
綱脇龍妙 - ハンセン病患者救済事業の先覚者
フィニーズ・ヴァローラム
高木仙右衛門 - 伝道士として赤痢患者の救護や孤児救済事業に尽力
トマス・ハマーベリ - 中近東和平多国間協議での難民救済事業の仕事にも関係
朱慶瀾
許世英
和気清麻呂
アンソニー・カリア
石井十次
鈴木正三 - 明治になって失業した武士の救済事業として考案された撃剣興行を主催人道
タマラ・ド・レンピッカ - 戦争救済事業にも参加
大高善兵衛(社会教育家) - 1820-1893.農民・農民救済事業に貢献した。家々を回って嬰児教育をし、捨て子を多数養育した[1]。 』

中国SNSで「美女の避難を歓迎」投稿 ウクライナ人の対中感情悪化も

中国SNSで「美女の避難を歓迎」投稿 ウクライナ人の対中感情悪化も
https://news.yahoo.co.jp/articles/9e42b88c98b49b3a4d69aa9ccd339441aa97172a

 ※ 「日本人」を名乗るのだけは、止めてもらいたい…。

ぼくらが「日本人死ね」を翻訳する理由

ぼくらが「日本人死ね」を翻訳する理由
習近平氏を怒らせる「大翻訳運動」、中国の国内向け宣伝を外国語に
https://nordot.app/910075179333795840?c=39546741839462401

 ※ 天に唾すると、わが身に還ってくる…。

 ※ 別に、「陰謀」でもなんでも無い…。

 ※ 今日は、こんなところで…。

『日本で3月に強い地震が発生すると、中国のインターネット上で「日本人死ね」などと災いを望むかのようなコメントが相次いだ。そうした声を即座に日本語や英語に翻訳する集団が登場、知られざる中国の世論が世界に発信された―。

 反米や反日感情をあおる中国当局の国内向けの宣伝などを外国語で紹介し、交流サイト(SNS)を通じて海外に知らしめる「大翻訳運動」と呼ばれる動きが中国の内外で広がっている。参加者は「中国共産党の世論工作の実態を暴き、世界に警鐘を鳴らす」と動機を説明。習近平指導部は「中国侮辱ウイルス」(中国メディア)と呼び、彼らを敵視する。(共同通信=大熊雄一郎)

 ▽翻訳の威力

 「ロシアの合理的な懸念は理解できる」。2月下旬、中国政府がウクライナに侵攻したロシアに寄り添う姿勢を示すと、インターネットには「ウクライナの美女を引き取ろう」「ウクライナ瞬殺だ」などとサッカー観戦のようなノリでウクライナを小ばかにするやりとりが展開された。ロシアと緊密な関係を強調する中国政府の方針もこうした世論の背景にあった。

会談を前に言葉を交わす中国の習近平国家主席(右)とロシアのプーチン大統領=2月4日、北京(AP=共同)

 そんな風潮に腹を立てた人たちが米国のSNS「レディット」のコミュニティーでこれらの投稿を自発的に英語に翻訳、海外に紹介したのが、大翻訳運動の始まりだった。翻訳した内容は、中国政府の対外宣伝に隠された“本音”として外国メディアの注目を集めた。

 中国の世論は翻訳を介してウクライナにも伝わり、反中感情を刺激。また中国がロシアの侵攻を容認しているとの認識が国際社会に広がった。
 「宣伝当局が築いた平和で友好的な中国イメージを突き崩した」。運動の参加者たちは翻訳の威力に手応えを感じた。

 ▽緩やかな組織

 運動の拠点となっていたレディットのコミュニティーには5万人以上が参加していたが、「個人情報を漏らした」との理由で3月に閉鎖された。

 活動の場をツイッターに移すと、党・政府の世論操作や強権的な統治に反感を持つ人が共鳴。「#大翻訳運動」「#TheGreatTranslationMovement」のハッシュタグ(検索目印)を付けて参加する人が増え、今ではフォロワーは15万人を超えている。

 少数の有志による自然発生的な運動は緩やかに組織化された。米欧や日本への憎悪をあおり、ロシアの軍事行動を後押しする中国の宣伝や、それに迎合する世論を、英語や日本語、ドイツ語、フランス語、韓国語などで発信している。

 ▽「寝そべるな」と言われても

 運動初期から参加する中国在住の20代男性が「絶対匿名」を条件に通信アプリを通じて取材に応じてくれた。仮に王さんと呼ぶ。

 不況のあおりを受けて失業した王さんはベッドに横になりながらスマートフォンをいじる日々を送っていた。あるときニュースで耳にした当局者の言葉が聞き捨てならなかった。

 その当局者は最近の若者が努力もせず、無気力だとして「寝そべり主義」と批判した。好きで寝そべっているわけじゃない―。王さんは身を起こし、自分が無職となった背景を熟考した。

都市封鎖され高速道路の通行が制限された中国上海市=3月28日(ロイター=共同)

 中国当局はここ数年、市場の安定を掲げてIT企業やネット通販、金融業界、学習塾などへの規制を強化した。活力を奪われた民間企業は大規模な解雇を余儀なくされ、さらに新型コロナウイルスの感染を徹底的に封じ込める「ゼロコロナ」政策の下で都市封鎖が繰り返され、経済活動は停滞。多くの失業者が行き場を失っている。

 「政府は失政の責任を若者に押しつけ、世論の目をそらすために米欧や日本への憎悪をあおっている」。王さんの目に、経済が失速する中で対外危機をあおりウクライナに侵攻したロシアと、自国の姿が重なった。

 王さんは「中国が台湾に侵攻すれば国民の生活は破綻する。自分たちを守るために大翻訳運動に参加した」と説明。他国に攻撃的な愛国心を育て、軍備増強に走る党・政府の実態を対外発信することで、「暴走を食い止めたい」という。

 ▽うろつくネズミ

 一方、中国当局は翻訳が武器になり得るということに気づき、強い危機感を抱いた。

 党機関紙、人民日報系の環球時報は4月、「(中国に)汚名を着せる翻訳問題が大規模化、システム化している」と懸念する専門家の論評を掲載した。「中国の国際イメージづくりと国際的な発言力の向上に深刻な影響を及ぼす」と指摘し、「中国に関する概念の翻訳の主導権」を握るべきだと訴えた。

 習指導部は「愛される中国のイメージ」形成を唱えており、大翻訳運動がそれに水を差す動きとみて神経をとがらせている。宣伝当局は米欧などの反中勢力が背後にいると主張している。

中国海南省を視察する習近平国家主席(右から2人目)=4月(新華社=共同)

 しかし王さんによると、運動参加者の大部分は中国語を母国語とし、中国政府の統治下で暮らしたことがある人たち。中国人のほか、世界各地の華僑や外国人が加わっているという。中国当局の摘発対象とならないよう、リーダーを明確にしない戦略を取っている。
 党・政府系メディアは運動参加者を「ウイルス」「うろつくネズミ」などと罵倒し、米欧主導の情報戦と見なして攻撃する。しかし参加者の主力が中国人である可能性には目を伏せているようにも見える。

 ▽専制の土壌は国民にも

 大翻訳運動が中国内の反日的言論を海外に紹介する理由について、王さんは「中国政府が反日感情を植え付けた結果、どれぐらい危険な世論が形成されているかを明らかにするため」と説明する。中国が日本の脅威を口実に軍拡に突き進むことへの危機感がある。

 日本の地震を祝うコメントが翻訳され、海外で反響が広がると、これらの投稿の大半は削除されたという。運動メンバーはこれを“成果”と考えている。

日本の地震に関する中国のネット世論を日本語で紹介する大翻訳運動のツイッター画面

 ただ運動の目的は必ずしも党を脅かすことではない。「ウクライナ美女」や「日本人死ね」を書き込んでいる人の大半は普通の庶民だ。

 王さんは「中国人の根っこには中央集権への崇拝があり、党の統治がもたらした結果に一定の責任がある」と指摘する。

 専制を受け入れ、人権を軽視する民族心理への深い反省を促すことこそが狙いなのだという。「中国当局が憎悪に満ちた宣伝を停止し、中国のネット民が侵略を支持するような愚かな言論をやめない限り、大翻訳運動は終わらない」

スマートフォンを使う若者ら=2021年6月、北京(共同)』

天に唾する

天に唾する
http://kotowaza-allguide.com/te/tennitsubasuru.html

『【読み】 てんにつばする

【意味】 天に唾するとは、人に害を与えようとして、かえって自分がひどい目に合うことのたとえ。

【天に唾するの解説】

【注釈】 天に向かって唾を吐いても空を汚すことなど出来ず、吐いた唾が自分の顔にふりかかってくることから。

『四十二章経』に「悪人の賢者を害するは、猶し天を仰いで而も唾せんに、唾、天を汚さずして、還って己が身を汚し、風に逆らって人に塵くに、塵、彼を汚さずして、かえって身に塵するがごとし」とあるのに基づく。

「唾」は「つばき」とも読む。
「天に唾す」ともいう。

【出典】 『四十二章経』

【注意】 「無礼な行い」という意味で使うのは誤り。
誤用例 「社長に向かってそんな振る舞いをするとは、天に唾するようなやつだ」

【類義】 仰いで唾を吐く/お天道様に石/天に向かって唾を吐く/天を仰いで唾する/寝て吐く唾は身にかかる

【対義】 -

【英語】 Who spits against heaven spits in his own face.((天に向かって唾を吐けば自分の顔に落ちてくる)

The stone you throw will fall on your own head.(投げた石は自分の頭上に落ちる)

【例文】 「相手を陥れるようなことばかりしていると、結局は天に唾する結果になるよ」 』

お金の知識がないのは現代社会の大人として恥ずかしいと思って勉強してみたけど、超つまらなかった。

※ 前に語った、「○○に役に立つ話し」フォルダの中から紹介する。

※ 「自分の得られる幸福が多いほうを取るんです。」…。

※ 「あなたはいい気分にならない。それなら運用で十万円得てもぜんぜん得ではない。そのぶんの時間、マンガ読んで寝てなさい。余ったカネは銀行にぶちこんで寝てて良い。銀行が運用しろと言ったらよそでしますと言いなさい」…。

※ ここが、「神髄」か…。

※ それで、「今でも、役に立つか。」と思って、中身を見てみた…。

※ そしたら、「今となっては、殆んど役に立たない。」という感じになっていた…。

※ かろうじて、前に貼った「女性の脳」の話しと、この「投資の話し」くらいのものだ…。

※ 4、5年前に収集したものだ…。

※ その間に、「自分の興味と関心」「もの事を見る視点」が、「変わってしまった」んだろう…。

※ 「昨日の吾(われ)」に「今日は、勝」っているのかどうかは、分からない…。

※ しかし、「昨日の吾(われ)」と「今日の吾(われ)」とでは、「違ってしまっている」ことだけは、確かのようだ…。

※ 今日は、こんなところで…。

『お金の知識がないのは現代社会の大人として恥ずかしいと思って勉強してみたけど、超つまらなかった。投資のプロと話す機会があったので相談したら、「やらなくてよろしい」と断定された。

「あなたは放っておいたら家計が破綻するタイプではない。むしろけちだ。あなたは収入が一般的でたいした資産がない。だからお金の勉強をする義務はない」

「あなたの収入でも、勉強して多少なりともリスクをとって、たとえば年間数万円から十万円の運用益を手に入れることはできます。でもそれが真実得になる人とそうでない人がいる。あなたはそのための勉強や手続きが楽しくないんだから、これを労働と考えて時給換算したら割りに合わないと感じるはずだ。あなたはそのぶんの時間、ごろごろ寝て好きな小説やマンガを読んでいたらよろしいのです。あなたにとってそれは十万円よりはるかに価値のあることなんだから」

「自分の得られる幸福が多いほうを取るんです。お金の勉強が楽しい、リスクを取る判断に知的興奮をおぼえる、不労所得を得たら気分がいい、こういう人にとっての資産運用はぜひやるべき、お得なことです。いい気分で十万円入るんだからやるべきだ。あなたはいい気分にならない。それなら運用で十万円得てもぜんぜん得ではない。そのぶんの時間、マンガ読んで寝てなさい。余ったカネは銀行にぶちこんで寝てて良い。銀行が運用しろと言ったらよそでしますと言いなさい」

私はそれを聞いてたいそう安心し、マンガ読んで寝た。

http://seepassyouagain.tumblr.com/post/167088607367/ 』

(※ たぶん、「沈黙の螺旋」だと思うんだが、アーカイブに入っていて、「会員登録」しないと読めない。一応、URLは貼っておく。)

クリエイティブとは躁鬱の波乗りピカチュウである

クリエイティブとは躁鬱の波乗りピカチュウである
https://blog.tinect.jp/?p=75218

『たまに「普通の会社務めが無理だと思ったのでクリエイティブを志した」という人をみかけるが、その手の人種はメンタルがあまり強くはなさそうで終わりなき気分変調の荒波に耐え続けられるとはとても思えない。

夢がない話で恐縮だが、個人的には気分変調と仕事パフォーマンスの相関関係が弱い会社務めの方が多分向いているのではないかと思う。

サラリーマンは最低でも会社に通ってれば何とかなる。クリエイターではそんな芸当、絶対にできない。

クリエイティブとして長く生き続ける為には、普通の会社務めをしていたら意識しなくてもいい事をかなり意識してメンテナンスする必要がある。

躁鬱の波を己の生活リズムでもっていい塩梅に調整できないと生き残れないといってもいいかもしれない。

これは言葉で聞く以上に実行難易度は高く、ライターの10年生存率がそれを裏付けている。

クリエイティブとはいわば躁鬱の波乗りピカチュウだ。荒波を乗りこなせなかったピカチュウは、濡れ鼠となって放電して死ぬのである。』

『<3月のライオン 一巻より>

「他人が説得しなけりゃ続かないようならダメなんだ。自分で自分を説得しながら進んでいける人間でなければダメなんだ」

「進めば進む程道は険しく周りに人はいなくなる。自分で自分をメンテナンスできる人間しか、どのみち先へは進めなくなる」』

 ※ 人は、器の上に「何ものか」を乗せて、どっかに運んでいる…。それは、「自分というもの」なのかもしれない…。

 ※ 器の上には、「いろんなもの」が乗っている…。その都度その都度、その乗っている何ものかを繰り出して、人生の「切所」「難所」を凌いでいく…。

 ※ 年とるにつれて、乗っているものは、多くはなるが、古びてきて、「使い物にならなく」も、なっていく…。

 ※ それでも、どっかへと運んで行く必要がある…。

 ※ そのうちに、運んでも行けなくなって、「いのち」を使い果たし、あの世へと旅立って行く…。

〔人生、諸行無常という話し…。〕

 両親は、だんだん年取って、要支援、要介護状態へとなって行った…。

 それでも、初めのうちは、「ヘルパー」頼んで、どうにかこうにか二人で生活を回してた…。
 しかし、片方が「脳梗塞」を発症し、それもできない状況となった…。

 ケアマネジャーや医者のアドバイスもあって、二人そろって「施設」へ入所することとなった…。

 全部が「一人部屋」だったんだが、幸い「隣りどうしの二部屋」を、借りることができた…。

 オレが、面会に行った時の話しだ…。

 三人で、お袋の方の部屋に集結した…。ちょっと、小用を足すため、トイレを借りて、用を足していた…。

 そしたら、二人で何か、言い争っているんだよ…。

 親父「○○(オレの名前)に、小遣いをやらんとな。」
 お袋「そんなこと言っても、お金、無いよ。」
 親父「なんだ。500円もないのか…。」
 お袋「無い無い。500円も無い…。」
 親父「なんだよー。しみったれてるなあ…。」
 お袋「そういうこと、言われてもね…。」

 入所の時、もう認知症になっていて、「お金の管理」もできないんで、サイフなんかは、持たせていない…。そういう状況も、すっかり忘れているわけだ…。

 オレは、聞いていて、泣きそうになったよ…。この年になっても、まだ小遣いくれようとしてくれるなんてな…。

 そういう風に、オレに「小遣い」くれようとしてくれる人たちは、もういない…。

 寂しい限りだ…。…。

「とし寄りに 小遣いやると 諍う(いさかう)か さらに老いたる 父と母かな」

「親どうし 小遣いやると諍うか いくつになるも 子は子かな」

「ありがたき 小遣いやると諍いし 父母(ちちはは)見ては 涙しにじむ」

「ぽっかりと 空いた穴へと 骨(こつ)入れる 人とはこれと 僧が言う」

「胸奧(むなおく)に 空いた穴から 風が吹く 小遣いくれる 人たちいない」

「法事終え 母の遺影を 隣置く 父の遺影が うれし気に見ゆ」

「賑やか(にぎやか)に 二人で何か話すのか 父の遺影が にこと微笑む」

(ジジイ作)

「生命科学的思考で不安と向き合う」

 ※ NHKの「視点・論点」、けっこう参考になるものもあるんで、「録画」したものを時々視てる…。

 ※ 「生命科学的思考で不安と向き合う」という回も、そういう感じで視たものの一つだ…(今日、視た)。

 ※ 放送日は、去年の6月17日、午前4:40からの放送だったようだ…。

 ※ そんな朝早く、視る人いるのか、という感じなんだが、まあ、「録画」して視てる人が殆どなんだろう…。

 ※ リチャード・ドーキンスって人の、「利己的な遺伝子」という著作で語られている、「生物は、自己の生存と種の保存のために、形作られている。」という生物観・人間観に立脚している…。

 ※ 放送中に使用している「画像」(マトリックス)が参考になったんで、NHKプラスに上がってないか探した…。

 ※ しかし、探せなかった…。

 ※ どうも、最近放送した5回くらいまでしか、出てこなかった…。

 ※ 仕方ないんで、スマホで撮影したテレビ画面を、パソコンに取り込んで、キャプチャした…。

 ※ 盛大に「モアレ」が出てるのは、そういうわけ…。

※ 上記の説に従えば、ヒトは、「生存を脅かすことに直面すると、”不安”に駆られるように、形作られている(そういう、”仕組み”が、生物としてビルトインされている)…。

 だから、「不安」になることは、決してマイナスの側面ばかりでは無い…。「生存が危険にさらされていること」を、警告してくれている「ありがたいもの」という側面もある…。

※ しかし、それに「飲み込まれてしまって」、「何も手につかなくなったり」「平常心を失ったり」しては、マズい…。

※ そうならないためには、そういう「警告回路」がビルトインされていることを、しっかり認識して、客観的に対処する必要がある…。それを、「辛事は、理をもって処す」と表現している…。

※ しかし、あらゆる事がらに対して、「理をもって処す」のは、また行き過ぎだ…。

※ 逆に、「幸事(うれしいこと、喜ばしいこと)は、情をもって処して」、心の底から喜んで、時には「感情」を解放してやる必要もある…。

※ まあ、そういう生物観・人間観に立つわけだ…。

※ 他方で、ドーキンスは、同一書の中で、上記のようにも言っている…。

※ 「完全な自由意志」が存在するのかについては、一大哲学論争があり、それこそ「不可知論」に属するようなテーマでもある…。

※ しかし、人間社会の「制度」は、ある程度の「自由意志」を肯定するものとして定められている…。ドーキンスも、そういう立場に立つものなんだろう…。

※ 秩序ある安定した世界においては、「自分が希望する世界」とのズレは、あまり生じないから、「なぜ?」とか、「どうして、そうなのか?」という「主観的命題」は、認識されにくい…。

※ しかし、その安定・秩序が崩れて、カオスな世界に放り込まれると、「自分が希望する世界」とのズレが発生し、「なぜ違うのか?」「どうして違うのか?」という疑問が発生しやすくなり、「主観的命題」も認識されやすくなってくる…。

※ だから、「カオスな世界」に放り込まれることも、「悪い側面」ばかりでは無い…。そういう、「気づきの構造」をも備えたものであることを、しっかり認識して、「事に当たれば」いいだけの話しだ…。

※ ヒトの認識における視野を、2軸で斬ると、こういうマトリックスとなる…。

※ すなわち、「空間的視野」と「時間的視野」だ…。

※ 空間的視野は、文字通り、生物が生存していく世界で、「目に見えているもの」の世界だ…。

※ しかし、ヒトにはそういう視野だけが見えているのでは無い…。

※ 「言語」を操り、「文字」を発明したから、「過去からの知識の集積」をも、利用することが可能となった…。

※ すなわち、「時間的視野」をも、手に入れた…。

※ そういうヒトの「視野」は、万人に共通ではあるが、そこには当然「差異」というものもある…。

※ 例えば、「ヒトの赤ちゃん」を考えてみよう…。

※ まだまだ、「育っていない」し、「社会的な教育・訓練」も不十分だから、その「空間的な視野」も「時間的な視野」も、ごく狭いものに限られる…。

※ しかし、それも、決して「悪いこと」では無い…。

※ 「生存し」「生き残っていく」ためには、視野を限定して、余計なことを考えず、ただただ「生き残っていく」ことに、特化することは、「生存戦略」としては、正しいこととなる…。

※ ただ、そういう「視野」の広狭は、その構造を充分認識しておく必要がある…。

※ 自分の今現在の「視野」が、どういうものなのか…。今認識している「範囲」は、「目的」にとって、最もふさわしいものなのかどうか、絶えず意識しておく必要がある…。

※ 「目的」に合わせて、自在に「視野」の範囲を、広くしたり、時には「狭く」したり、自在に操る必要がある…。

※ この人、著作物も出しているようなんで、紹介しておく…。

トレードの世界に対峙すると、謙虚になる理由

トレードの世界に対峙すると、謙虚になる理由
http://blog.livedoor.jp/goldentail/archives/27951013.html

 ※ 今日は、こんなところで…。

『 世の中、投資ブームです。昔ながらの価値観で働いても、年功序列で給料が上がっていた時代は過去のものになり、勤めている会社も、いつ無くなるか判りません。今回の武漢肺炎のように、社会の環境変化というのは、予測できないものです。ある時代の人気企業でも、それが何十年も続く保証は、どこにもありません。

こういう時代に生きる為には、人生を会社に預けるような生き方ではなく、より能動的に生きる必要があります。資格の取得、副業など、メインスリームである会社勤めが駄目になっても、いくつかの収入の道を確保しておいて、それで食いつなぐ準備が必要です。何事も準備と覚悟のある無しで、生き方というのは、随分と難易度が変わります。

その中でもFXなどのトレードで稼ぐというのは、リスク・リワードがある、難易度の高い道です。世の中には、「何かコツみたいなものさえ掴めば、トレードで簡単に稼げる」と吹聴するブログやYoutuberで溢れていますが、アフィリエイトや情報商材で儲けたい人が誘導しているだけで、個人でトレードで勝ち続けるのは、決して簡単ではありません。ただし、不可能と言うつもりはありません。

このブログの著者のプロフィールで、自分について紹介させてもらっていますが、私も実際に数年ですが専業トレーダーで食い扶持を稼いでいた次期があります。ただ、数年前に金融庁が、日本のFXのレバレッジを25倍から10倍に下げる話を検討し始め、いわゆる海外FX業者を締め出す為に海外送金の経路に規制をかけ始めたのを期に辞めました。この環境でも稼げる人はいますが、レバレッジが下がると、それなりに資金が無いと、大きなロットを持つ事が不可能になるので、リスクに対してリターンが引き合わないし、自分には続けられないと考えたからです。

生きていくぐらいの資金は稼げるようになった時期だったので、痛かったのですが、続けていたら今頃は金持ちだったなんて絵空事を言うつもりはありません。実際にトレードで痛い目にあい、煩悶した人なら、軽々しく、そんな事を言う気にもなりません。まぁ、トレードに関して、以下の事を軽々しく言う人は、大嘘つきか、まだ、どん底を経験していないヒヨッコかのどちらかです。

ウン万円/月稼げる
誰でも稼げる
簡単に稼げる

最近は、「リスクを取らない事がリスクだ」なんて、いかにもな事を言う人もいますが、リスクなんて、必要がなければ、取らないに越した事はありません。大きなリターンをを狙えるツールには、それと同じだけのリスクが存在します。一ヶ月働いて稼ぐ額が、ものの数時間で簡単に溶ける事もあるハイリスクな世界がトレードです。そこで、専業で生きていくというのが、どれだけリスキーかは、想像にかたくありません。

実際のトレードの世界は、まさに抑制と決断の連続です。真面目に勝つトレードを継続しようとするならば、タイミングを見計らって無駄にポジションを持たない自己抑制と、チャンスにはリミッターを外して、一気に利益を獲りにいく決断を、日々繰り返す事になります。これを、一日中繰り返すのですから、半ば作業のようになり、トレードで感情が動かなくなります。逆に、トレードにスリルを感じて、アドレナリンが出ているような状態では、勝ち続ける事はできません。

抑制と決断。これを、断続的に繰り返していると、面白い事に人間は煩悩が削れてくるんですね。結局、人のあり方というのは、外部からの刺激に対して、どう感情が動いて、何を受け取り、どう行動するかという事が習慣化したものだと思います。良く言われるのは、一度逃げると逃げグセがつくとか、あの人は芯があるから何があっても大丈夫だとか、根拠は無いけど、状況に対する反応を観察して、その人の将来が予測できる事があります。そして、それは、大体当たっている事が多いです。

自分の資産を賭けてトレードをしていると、結果に対する責任は、良きにつけ悪につけ、全て自分にかかります。一切の言い訳はできません。責任を回避する事もできません。そして、世界の環境や情勢というのは、日々変化します。どこかで戦争が勃発するかも知れませんし、どこかの都市が自然災害で壊滅するかも知れません。それが、全てチャートに現れます。それを、予測する事は不可能で、誰しも脳天をかち割られるような損失を受けたりもします。

トレーダーとして生きるという事は、そういう世界からもぎ取った利益だけで、何十年も生活するという事です。アドレナリン出しながら、スリルを感じるようなトレードをしていたら、身が持ちません。その為、ゴツゴツとブサイクな形をしていた自然石が、水流に洗われて丸くなるように、長く過ごすほどに傲慢さが消えて謙虚になります。逆に言うと、そうじゃないと、やってられない世界です。理不尽さに対して、諦観し、天から降るような利益にも動じない、一見すると実に地味な人間に見えます。

ああ、誤解の無いように言っておきますと、私の言うトレーダーは、身銭を切って、自身で相場で勝負している人の事です。金融の世界では、トレードの周辺に群がって、周りを引き込んだり、手数料を目的として儲けようとする人達もいます。周りをうまく丸め込む事で、低リスクでリターンだけ得しようとする人達で、クルーザーを買ったり、高級乗用車を乗り回したり、豪邸を買って、知人を集めてパーティーを開いたりしているいわゆる金融成金とは、住んでいる世界が違います。彼らはリスクは、投資家に押し付けて、手数料で稼いでいるのです。だから、利益が出れば、いかにもな生活を始めます。あぶく銭身につかず、とはこの事です。

相場というのは、世界の経済が壊滅でもしない限り、継続する世界です。世界大戦で、世界中が戦争に巻き込まれた時期でも、相場は機能していました。人と人の間で、物資の移動、物の売り買いが行われている限り、相場が壊滅する事はありません。ただし、大荒れにはなるでしょう。そういう意味で、今が華でブィブィ言わせている人気企業よりも、存在するという意味では安定しています。

結局のところ、個人にとって世界というのは、その人がどう解釈するかという事でしかありません。よらば大樹の影で、大きな組織の中で、ほぼ一生保証された収入と待遇を目指すのが安定なのか、リスキーながらも、一企業の寿命とは比較にならないほどに強固な永続性を持つ相場という世界に身を置くのが安定なのか、それは人によるとしか言いようがありません。どちらが正解と言い切れるほど、世の中は単純じゃありません。

相場は、尽きることなく流れる水流と同じです。時に豪雨で、濁流となって、押し流され、時に日照りで厳しい時に、それまで森に蓄えられた水が清流を作ったりします。その中にいる一粒の小石として、尖ったままではいられないのです。それが、トレードの世界に対峙すると、謙虚になる理由です。』