自分の物語でなく、東京という物語を生きることの功罪

自分の物語でなく、東京という物語を生きることの功罪 – シロクマの屑籠
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20230307/1678181885

 ※ 今日は、こんな所で…。

 ※ 人は、必ず老いて、衰えて、死んでいく…。

 ※ そういうことから、逃れられる人は、存在しない…。

 ※ その逃れられない「真実」から、逆算して、人生設計した方がいいぞ…。

 ※ 授かった、この生命(いのち)の、使い道…。

 ※ そこを、考えた方がいい…。

 ※ 「自分は、なんで生まれたのか。自分とは、なんであるのか。この先どこへ行くのか。」…。

 ※ そんなことは、誰にも分かりはしない…。

 ※ そういう「分かり得ない」ことの「追求」に、自分の「生命」を消耗するなんてのは、馬鹿馬鹿しい話しだ…。

 ※ やるべきことを、やり、やるべきでないことは、やらない…。

 ※ そうやって、与えられた「生命」を、使い果たして、死んでいく…。

 ※ ただ、それだけの、話しだ…。

『「東京をやっていこうとしている」人たちの一喜一憂 | Books&Apps
 
昨日、books&appsさんに「東京をやっていこうとしている」人たちについての文章を寄稿した。「東京をやっていく」という表現は不自然かもだが、東京のイメージに沿って生きようとしている人、東京からイメージされるライフスタイルを追いかける人ってのは実際存在している。そうした人たちを「東京をやっていこうとしている」人たちと呼ぶのはそんなに的外れでもないだろう。
 
と同時に、「東京をやっていこうとしている」こと自体は悪いことではない、はずだ。
 
リンク先でも書いたように、東京をやっていこうとしていること自体はプラスにもマイナスにも働き得る。ツイッターでぶんぶん唸り声をあげているタワマン文学的・東京カレンダー的文章に感化されると、つい、それが執着無間地獄への片道切符のようにみえるかもしれないが、タワマンに住む人が皆そうなるわけでも、上京する人が皆そうなるわけでもない。東京をやっていこうとしていて、まんざらでもない人生を歩む人もそれなりいる。
 ただ、そういう人はツイッターでぶんぶん唸り声をあげているような、いわばタワマンの上層階を見上げて首が痛くなってしまうようなライフスタイルと自意識を持っていないだけのことだ。
 
もちろん東京という街は、住まいもファッションもホビーもなにもかもヒエラルキーづける・差異化づけられる街で、ぎょろぎょろと見ている人は見ているだろう。しかしこれだって程度問題だ。タワマンの上層階を見上げて心が頚椎症のようになってしまう人もいれば、ときどき意識して、ほんのり羨ましいと思って、でもその程度で済んでしまう人もいる。羨ましいと意識にのぼることがほとんどない人だっているだろう。
 
ファッションや趣味についてもそうだ。東京では、ヒエラルキーや差異化の視点でみるなら、上を見ても下を見てもきりがない。そうしたなか、首がもげそうなほど他人を見上げたり見下したりしていれば、どうあれ、まともな精神でいられるとは思えない。
 
実のところ、本当に肝心なのは「東京をやっていこうとしている」か否かではない。その、上を見ても下を見てもきりがない環境のなかで、タワマンの上層を見上げたり下層を見下げたりして心の頚椎症になってしまうようなメンタリティ、あるいはそれに関連した自分自身のありようこそ、肝心なのだろう。
 
 自分の物語が見えてこない状態

 では、心の頚椎症になってしまうメンタリティと、それに関連した自分自身のありようとはどういったものか。
 
一言にまとめるなら、「自分の人生を生きているのでなく、『東京』という物語を生きている人」という表現になるだろうか。もとより、これで言い切れたわけではない。けれども「東京をやっていこうとしている」人が執着無間地獄に落ちてしまうストーリーに触れる時、自分の人生を生きているというより、東京という物語を生きようとしていたり、東京という物語に生かされようとしていたりするさまを連想せずにいられなくなる。
 
ここでもう一度、『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』から引用してみよう。
 
この部屋から東京タワーは永遠に見えない (集英社単行本)

作者:麻布競馬場
集英社

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 多少お金があると、人は文化と子育てにお金を使うようになるんです。僕にはそれがセットで来ました。お絵描き教室に通わされたり、市民ホールで興味のない歌舞伎を観させられたり、わざわざ車を出して隣の県の美術館に連れて行かれたり。特に母は、僕が美大にでも進むことを期待しているようでした。
 うつくしいものを注がれ、うつくしくないものは取り去られました。けろけろけろっぴのマグカップ。みんなと同じイオンのランドセル。仮面ライダーの変身ベルト。欲しかったけど買ってもらえなかったものたち。母は僕の持ち物だけでなく、まだ子どもで、友達と同じものばかり欲しがる僕の感性も完全にコントロールしようとしていました。

『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』所収、「うつくしい家」より

 
この短編集の短編それぞれの主人公たちは、「東京をやっていこうとしている」という言葉があてはまるだけではない。彼/彼女らは東京という物語を生きようとし、それが上手くいっていない。そして自分の物語を生きているという感覚がどこか薄い。
 
引用の人物などは、当人の人生に親の願いが覆いかぶさり、それが人生に染みついていてとれなくなっている。しかし同短編集で描かれているのは親の願いばかりではない。生まれた土地や継承した遺伝的形質、そういったものも自分の人生を生きることを困難にしているようにみえる。それとも、自分にはないものを持った他者を羨むあの目線。誰かをロールモデルとし、そのロールモデルに沿った価値観を内面化すること自体は構わない。しかし自分が幸福になれっこないような誰かをロールモデルとし、そのロールモデルを羨望したり嫉視したりして生きるのはいったい誰のための人生なのだろう。
 
そうしたわけで『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』には、自分の物語を生きている主人公がいないようにもみえる。主人公たちは、他人のことをよく見ていて、他人を見上げたり見下したりしている。自分自身のことも冷ややかに見ている……ようにみえるが、実際のところ、この登場人物たちは自分自身が本当に欲しいものがなんなのか、目星がつけられていないようにもみえる。「東京」をやっていく能力や背景が足りなかったのが表向きの躓きにみえて、実のところ、自分の物語、自分の執着についてこの人たちは把握できていないのではないだろうか。その結果として、東京という物語に人生を乗っ取られたマリオネットのように欲しがり、行動してしまう。
 
他人をじろじろ見るばかりで、「東京」という物語に人生を乗っ取られたかのような人物は、現実にも案外存在する。もちろん『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』の登場人物たちほど甚だしいことは稀だが、自分の物語がみえなくなって東京という物語に乗っ取られたような、それか東京という物語に依存しているような状況は珍しくない。そうした人々のすがる東京という物語にもさまざまなバリエーションがある。港区だけがその舞台なわけでもない。中央線沿線、小田急沿線でもそれは起こり得る。
 
 自分の物語をどうやって確保すればいいのか

 人間は社会的生物だから、ある程度までは社会や世間の物語を、他人の物語を生きてみたってかまわない、と私は思う。タワマンに夢を託したり、東京ならではの活動にアイデンティティの置きどころを見出したりするのも人生だ。それで自分の人生の物語を上手につくっている人などごまんといる。
 
しかし自分の物語ががらんどうのまま、東京という大きすぎる物語を生きる時、人という器は壊れてしまいやすいのだろうとも私は思う。人によっては「人という器が先に壊れていたのでしかない」と指摘するだろうし、そういう事例もあるだろうけど、皆が皆、そうというわけでもあるまい。なぜなら大学進学や就職あたりまでの時期は、自分の物語が自分でもわからなくなりやすく、社会や世間や他人の物語をレンタルせずにいられない時期でもあるからだ。
 
もし、そうした多感で曖昧な時期を東京で過ごすとして、東京の物語のマリオネットにならないためには何が必要なのだろう?
 
強いエゴパワーがあればいいのかもしれない。自分がどう生きたいのか見えていたらいいのかもしれない。もっと間近で尊敬に値する人生のロールモデルとの縁があればいいのかもしれない。それとも友達関係こそ、東京という物語を直視しすぎないために必要な秘訣だろうか。
 
わからない。
しかし間違いなく言えるのは、東京というあまりにも大きい街の、あまりにも大きすぎる物語に真正面から対峙するのはなかなか大変だということだ。東京という物語に過剰適応し、自分という物語を見失ってはならない。東京という物語に飲み込まれないまま東京に住んでいる人たちにとって、それは呼吸するのと同じぐらい簡単なことと思えるかもしれない。が、そうでない人にはまったく難しいことなのだろう。
 
シロクマ (id:p_shirokuma) 16時間前 』

“コスパ・タイパ重視で、SNSに若い頃から慣れ親しんで「成功者」への憧れが人一倍強いZ世代が最終的に行き着く先が…。

 ※ 今日は、こんな所で…。

“コスパ・タイパ重視で、SNSに若い頃から慣れ親しんで「成功者」への憧れが人一倍強いZ世代が最終的に行き着く先が…。
https://orisei.tumblr.com/post/707477337048055808/hkdmz-%E3%82%B3%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%91%E9%87%8D%E8%A6%96%E3%81%A7sns%E3%81%AB%E8%8B%A5%E3%81%84%E9%A0%83%E3%81%8B%E3%82%89%E6%85%A3%E3%82%8C%E8%A6%AA%E3%81%97%E3%82%93%E3%81%A7%E6%88%90%E5%8A%9F%E8%80%85%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%86%A7%E3%82%8C%E3%81%8C%E4%BA%BA%E4%B8%80%E5%80%8D%E5%BC%B7%E3%81%84z

 ※ デジタル化、IT化、ITリテラシーの発達、SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)…。

 ※ これらは、全て、人の価値観を、「プロセス(結果に至る過程自体)」軽視・無視の方向へと向かわせる…。

 ※ AIによる、人の思考の「確率論」への変容もそうだ…。

 ※ そして、これでもかと流通する「煌びやかな成功者」「夢のような成功体験」の洪水のような流通が、人の「欲望」だけを肥大化させる…。

 ※ 社会は、「手っ取り早く、結果だけを手に入れようとするヤカラ」で、溢れかえる…。

『“コスパ・タイパ重視で、SNSに若い頃から慣れ親しんで「成功者」への憧れが人一倍強いZ世代が最終的に行き着く先が「パパ活」「闇バイト」「強盗殺人」なの、当然の帰結感あって最悪すぎる”』

図録▽認知症の国際比較

図録▽認知症の国際比較
https://honkawa2.sakura.ne.jp/2136.html

 ※ 今日は、こんな所で…。

『“dementia”に対応する言葉としてそれまで「痴呆」とよばれていた症状が厚生労働省によって「認知症」という用語に名称変更されたのは2004年であった。その後、高齢化が進むにつれて「認知症」は誰もが罹りうる身近な病状として認識されるようになっている。
 人口当たりの認知症患者数について、OECD諸国とその他主要国の2017年の実績と20年後の2037年の予測値を図に示した。


 人口1000人当たりの認知症患者数はOECD平均で14.7人であり、日本はOECD諸国で最多の23.3人である。日本の場合人口100人に2人以上は認知症患者がいるのである。さらに、2037年にはOECD平均で17.3人、日本は38.4人に増えると予測されている。

 こうした数字だけを見るだけでも大変厳しい状況にあることが理解される。

   高齢者ほど認知症を発症する割合は高くなるので、国ごとの人口当たりの認知症患者の多い少ないは、高齢化の進展度と相関している。ページ末に掲げた相関図ではこの点を示した。日本など高齢化の進んだ国で認知症患者が多く、途上国のインドなど高齢化がまだ進んでいない国では認知症患者が相対的に少ないことは一目瞭然であろう。

   また、この相関図からは、日本は、イタリア、ドイツ、フランスといった西欧の主要国と比較して高齢化の割にはやや認知症患者が少ないことも読み取れよう。

   各国の認知症の患者数とともに死亡率のデータも掲げた。ここで死亡率は年齢調整後の値なので高齢化のバイアスが除かれた死亡率を見ることができる。認知症は、死因としてのダメージもさることながら、家族を含めた生活困難のダメージが大きいので、日本では寿命・健康ロスの大きさが3番目に深刻な病気なのである(図録<A href="2050.html">2050</A>参照)。従って死亡率だけで各国の認知症の深刻さを判断することはできないが、認知症に伴う課題の一端をうかがうことはできよう。

 少し年次が古いが「現代の殺人者」(A modern killer)と題された認知症の深刻さを指摘するOECDオブザーバーの記事(第297号、2013年第4四半期)を以下に訳出する。状況はあまり変わっていないと思われる。

 認知症は治療法が得られない破滅的な病気である。ケアはお金的にも、感情的にも負担が大きい。高齢化が進んでいる社会では医療システムへの負担も大きくなる。症状は脳にダメージを与え、人間の身体機能や認知能力を衰えさせる。

   アルツハイマー病インターナショナルによると、4秒ごとに誰かがどこかで認知症を発症する。世界的な予測によると3千6百万人もの人が認知症を患い、その40%は高所得国に暮らす。OECD諸国全体では60歳以上の5.5%が認知症を発症している。認知症とアルツハイマー病による死亡率はフィンランド、米国、アイスランド、オランダで最も高い<FONT size="2">(注)</FONT>。90歳以上の約半分が認知症を抱えている。

  <ADDRESS>

(注)2013年当時のデータ。現在では図の通り、フィンランド、英国、アイスランド、オランダ、米国の順。認知症死亡率に関しては日本はかなり低位にあることも図からうかがわれる。

   心臓病やガンといった死をもたらす主要疾患による死亡率や障害率の削減についてはOECD諸国で進歩が見れられる一方で、認知症についてはそれが当てはまらない。

   OECDでは主に次の3点の対策を図っている。すなわち、①必要な治療と診断を提供するための官民連携の手法開発、②病気の予防や対処法のイノベーションを加速するために生命科学や情報技術からの助言をひきだす仕方の検討、③罹患した患者やその家族による介護やケアを改善するための手法開発である。
  <div align="center"><img src="images/2136a.gif"></div>

   患者数データの対象国を図の順に掲げると、メキシコ、トルコ、スロバキア、韓国、ポーランド、チェコ、イスラエル、ハンガリー、アイルランド、米国、チリ、スロベニア、アイスランド、カナダ、ルクセンブルク、ニュージーランド、オーストラリア、ラトビア、リトアニア、エストニア、ノルウェー、オランダ、デンマーク、英国、スイス、ベルギー、オーストリア、スウェーデン、フィンランド、スペイン、ギリシャ、フランス、ポルトガル、ドイツ、イタリア、日本、南アフリカ、インドネシア、インド、中国、ブラジル、ロシアである。

  (2022年3月10日収録)

社会実情データ図録 Honkawa Data Tribune
https://honkawa2.sakura.ne.jp/index.html

「認知症が減少」のなぜ みえてきた教育水準との関係

「認知症が減少」のなぜ みえてきた教育水準との関係
科学の絶景
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC05BG00V01C22A2000000/

『高い教育水準が認知症を抑える――。データから明るみに出たのは、20代までの学習期間や生涯を通して学ぶ意欲の大切さだ。

「日本人は認知症にならずに長生きする」。2022年春、意外なニュースが世界に流れた。認知症はどの国にとっても懸案だ。既に世界で5000万人を超える人が患い、50年には1億5000万人以上になるとされる。日本でも12年の462万人から40年には900万人を上回るとの見方がもっぱらだった。

ニュースの震源地となった東京大学や米スタンフォード大学がまとめたのは「日本は16年の510万人から43年には465万人に減る」(東大の橋本英樹教授)という推計だった。

分析は「年を重ねるとどんな病気や機能低下が生じるか」をコンピューターで探った。16年から時を進めると、60歳以上が暮らす架空の日本で認知症の人は25年に503万人、34年に490万人と減っていった。

従来予測に反する「減少」との推計は健康状態や教育歴といった個性を反映したのが影響した。ここからみえてきたのは高い教育水準が認知症を抑える期待だ。

朗報にはヒントがあった。推計からは、65歳時点で期待する残りの人生のうち、認知症を伴う期間がどれだけを占めるかもわかる。43年には大学卒業以上の男性の場合は1.4%にとどまり、高校卒は7.7%、高卒未満は25.6%だった。女性は大卒以上が15.4%、高卒が14.8%、高卒未満が24.6%。学びの機会が増えると、認知症と向き合う期間が短くなった。

治療にてこずる今は「教育問題を口にするのは社会的な影響が大きく、声を上げにくい」と漏らす専門家もいる。しかし、そうも言っていられない。学習の重要性を裏づける証拠が増えてきたからだ。

「米国の65歳以上の認知症有病率は2000年の12.2%から16年に8.5%になった」。米ランド研究所のピーター・フドミエット氏らは11月に最新の研究成果を発表した。

人口の増加と高齢化で認知症の人は身近になるが、人々が認知症になりやすくなるわけではない。真の有病率は先進国ではむしろ下がってきたとみる。

米国で減った正確な理由はわからないが「高血圧などの改善もあるが、男女とも大卒者が増えており、教育水準の向上が重要な役割を果たしたようだ」(同氏)。男性では非ヒスパニック系の白人と黒人の有病率の差も縮まった。

実は「学習の大切さは半ば常識だ」と打ち明けるこの分野の専門家は多い。論文には何年も前から、思春期を含む年代の学習期間の短さが高血圧や鬱などと共に危険因子にあがる。

認知症の多くはゴミとなるたんぱく質が脳の神経を傷めるのが原因とされる。「脳の細胞が成熟する時期の教育は脳をタフにする」「キャンパスで培った人脈を通じた生活体験や仕事、健康意識の高まりが奏功」。因果関係の評価は様々だが、真実味はある。学びの価値を誰もが自覚する時に来ている。

進路は選択の自由がもたらすが、一人ひとりが社会を支える役目を考えれば、学習期間の物足りなさを個人の問題と片づけるわけにはいかない。社会全体での備えが欠かせない。進学の機会を手にできない人もいる。国内外を問わず教育格差は不平等がまかり通る社会から生まれる。社会を作りかえていくのも認知症対策だとの認識が世界では広がりつつある。

もっとも「(教育歴が全てという)運命論ではない」(橋本教授)。これからの選択で未来は創っていける。認知症の発症リスクはいくつもあり「他を減らせば補って余りある」と量子科学技術研究開発機構量子医科学研究所の樋口真人部長は話す。

その考えを福岡県久山町で65歳以上の住民約800人を24年にわたって見守った九州大学の研究が後押しする。二宮利治教授らは認知症を予測する手がかりを見つけ、10年後の発症確率を探るチェック表を作った。教育歴が9年以下で不利になるが、糖尿病の予防などで巻き返せる。教育歴が長くても、喫煙習慣や高血圧で暗転してしまうのも貴重な教訓だ。
英国で1000人超の60年以上に及ぶ変化を追った研究陣が導いた発見は「懸念は生涯を通じて打ち消せる」。幼少期の認知能力が低いと高齢期の認知能力が下がるとの疑いが強まる中で「私たちの研究では、この関係は信じられているほど決定論的ではない可能性がある。中年期の教育や働き方、余暇活動などで悪影響を相殺しているようだ」(英ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンの担当者)。

最新の研究は、認知症を防ぐには健康管理だけでは足りないと物語っている。数々の壁が進路を阻む社会や教育水準の低い国ではリスクが大きく、それを被る人々は見過ごされがちだ。社会の構造問題にもメスを入れる覚悟が必要になる。

(サイエンスエディター 加藤宏志)

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管理社会は、共産国家特有の現象ではない。

管理社会は、共産国家特有の現象ではない。 : 机上空間
http://blog.livedoor.jp/goldentail/archives/30320875.html

 ※ 今日は、こんな所で…。

『私は、このブログで、武漢肺炎を発端にした、中国共産党が目指す、高度な管理社会について、いろいろと批判気味に書いてきました。健康バーコードを利用して、都合の悪い人間を強制隔離したり、監視カメラの顔認証システムと紐づいた、個人単位の社会信用システムの活用。デジタル人民元の普及による、個人の資産や購買履歴を丸裸にする試み。特に、社会信用システムで、中国政府が共産党にとって、有用か害かを点数で評価する「信用スコア」は、点数が悪化すれば、その個人は、公共サービスから排除される事で、一生に渡って不利益を被る事になります。例えば、公職から排除。高速鉄道や飛行機での移動禁止。親族の大学進学の取り消し。現在の職から失職。特定の場所への出入りの禁止。共産党にとって、危険分子である人間が、社会に影響を及ぼす手段を排除する事で、将来のトラブルの芽を摘むわけです。そして、立ち寄った場所などの履歴から、反共産党的な集会などに参加していれば、その組織ごと壊滅させる事を狙っています。

とても判り易い例で言うと、冬季・北京オリンピックが開催された時に、人民に交通信号を遵守させる為に行った事例があります。横断歩道で信号を無視すると、近くに設置された大型のモニターに、その人間の個人情報と、顔写真が表示されて、「この人物は、信号を無視しました」と表示されるのですね。そういう罰則を即時に与える事で、交通信号を遵守する習慣を強制的に定着させたのです。全人民の個人情報を管理し、監視カメラの顔認証システムと紐づいているからこそできる事です。

中国共産党の監視社会は、国の治安の安定をかけたガチのシステムなので、欧米の基準では考えられない程に個人のプライバシーに踏み込みます。独裁政権下では、それが許されるのです。

では、民主主義社会では、そのような事が起きないかと言えば、実は人間社会を管理する方法論というのは、思想ごときでは左右されなかったりします。形と程度は違えど、中国のような監視社会というのは、別の必要性から結果として似たような制度として出てきます。このブログの以前の投稿でも、数回取り上げましたが、ロシアとアメリカというのは、まったく社会体制の違う国として認識されていますが、社会に起きている個々の現象を観察すると、原因は違えど、双子のように似ています。つまり、問題に対応する人間の行動・想像力というのは、思想ごときでは変えられないくらい、限界があり、起きている現象だけ見れば、似ているというわけです。

では、アメリカで起きている監視社会制度とは何かと言うと、城塞街と呼ばれる、そこに住むには、一定額以上の年収を得ている富裕層しか許されない、常に警備員と周囲を取り囲む高いフェンスに守られた住宅区画全体が城塞と化した街です。城塞街が出来た原因は、アメリカの全体的な治安の悪化・犯罪の増加です。その為、街の区画全体を高いフェンスで囲み、24時間、専属の警備員が、区画に出入りする人間を監視して治安を保証する住宅地が、全米各地に出現しています。

行政が市民に押し付けたわけではないですが、セキュリティーに多額の出費を容認できる富裕層が、自らの判断で、外界と仕切られた治安の良い区画を作り出し、その中で生活を始めたのです。人によっては、プライベート・ジェットを持っていて、区画内にある飛行場から、出勤する人もいます。つまり、犯罪が存在する外界と、一切の接触なしに生活ができるわけです。

さて、ここまで裕福ではないが、上級階層に属する市民は、市の行政を乗っ取って、自分達で管理する事を始めています。そこそこ上流の人にとって、必要の無い公共サービスというのが存在します。例えば、図書館・公民館・公立病院・・・。上流の人にとって、教育も治療も、プライベートな出費で賄えます。それよりも、重要なのは、自分の財産を犯罪から守る為の警察力です。その為、そこに住む市民全体の福祉を考える市から独立して、自治管理をする新しい行政区画として独立し、そうした福祉の予算配分を思いっきり減らして、警察も民営化する事で効率化し、自分達に住みよい環境を作るというブームが起きています。

こういう行政が行われると、収入の低い層にとって、その行政区画自体が、とても住みにくくなります。安く利用できる施設が閉鎖されたり、貧民向けの救済サービスが廃止されるからです。それに頼る必要の無い、上流層にとって、そういう支出は無駄に過ぎません。結果として、低所得者が区画からの転出を余儀なくされ、残った上級市民にとっては、治安の良い街が自動的に実現できるという仕組みです。治安が良くなれば、その区画の地価も上がり、再開発も進むでしょうから、二度と戻ってこれなくなります。

国家が問答無用で人民に押し付ける監視と、市民が自由意志で創り上げた監視とでは、根本的な意味合いが違いますが、結果で見ると、その気持ち悪さは、とても似ています。アメリカでも、自身の財産と生命を守るという名分の元に、緩やかな個人の監視と、市民の選別が始まっているのです。』


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%B2

『欲(よく、慾、希: ἐπιθυμία, 羅: cupio, 英: desire)とは、何かを欲しいと思う心[1]。欲望、欲求などともいう。

人間(ヒト)、動物が、それを満たすために何らかの行動・手段を取りたいと思わせ、それが満たされたときには快を感じる感覚のことである。生理的(本能的)なレベルのものから、社会的・愛他的な高次なものまで含まれる。心の働きや行動を決定する際に重要な役割をもつと考えられている。

仏教などでいう「欲」は、概ね生理的(本能的)なレベルのものを指しており、精神にとって心をよくしていくもの、愛情を育てるもの、抑制するべきものとして説かれている。 』

『欲求段階説

マズローの提唱する、欲求の階層をピラミッドで表現し原始的欲求に近づくほど底辺に書いた図。

アブラハム・マズローは「欲求階層論」を唱えた。

これは、人間は、ある欲求が満たされると、より高次の欲求を満たそうとする、とするものである。

人間の欲求は、「生理的欲求」「安全への欲求」「社会的欲求」「自我欲求」「自己実現欲求」の、低次元から高次元までの、5つの階層をなしている、とし、低次元の欲求が満たされて初めて高次元の欲求へと移行する、とした。

また、生理的欲求や安全への欲求を「欠乏欲求」と呼び、自己実現を求める欲求は「成長欲求」と呼んだ。

欲求を低次なものと、より高次なものに分類した。いずれにせよ、欲求が満たされると脳内で「報酬系」が活動し快の感覚を感じる。不快を感じさせないようにする。
詳細は「自己実現理論」を参照

生理的・本能的な欲求

生物が生命を維持し子孫を残すために必要な欲求である。外界からの刺激や体内の状態に直接結びついた、短期的な欲求である。

主に身体内部の情報に基づいた欲求

呼吸:呼吸中枢が血中のO2濃度低下を感知すると、呼吸回数を変えたり気道を通じさせようとしたり、別の場所に移動したりしたくなるような欲求が生じる。

食欲:視床下部の血糖値センサーが血糖値低下を感知すると、個体に「空腹感」を感じさせ、摂食行動を促す。

飲水:視床下部の浸透圧センサーが、血清の濃度上昇を感知すると、個体に「口渇感」を感じさせ、飲水行動を促す。

排便・排尿:大腸や膀胱からの情報により、排泄したいという欲求が生じる。

睡眠欲

体温調整:体温調整中枢にて設定された温度と比較して、体温が上昇/下降した場合、涼しい/暖かい場所に移動したいと感じたり、汗をかかせたり、筋の振戦を起こさせたりして体温を調整する。

性欲:性的パートナーを見つけ、性行為を行いたいと感じる性的欲求。

主に身体の外部からの情報に基づいた欲求

逃避:不安や危機を感じた場合に逃げ出したいという欲求を生じる。

闘争:逆に、戦うことで生存しようとする欲求。

困難な状況になると、宗教に関わらず祈りや念仏等を唱えてしまう行為(「あーっ、神様、仏様、ご先祖様、キリスト様…」)等、対象がはっきりしていなくても、助けを求め、すがりたくなる感情を、生存への欲(生存欲)の一部としてとらえ、その中で、最も認知されず、研究されてもいない欲として、祈り欲という単語を提唱する人もいる。

心理・社会的な欲求

ヒトは群居性の動物であり、また高度な思考力を持つために、社会的に認められたい、知識を満足させたい、他者を満足させたい、というより高次な欲求がある。

また、欲求の内容は、後天的に身につくものであり、社会や文化の影響が大きいという特徴が見られる。

マレー(Murray)の質問紙検査・臨床心理検査・面接調査を行った調査によれば以下のような欲求が多くの人間に認められる。[2]

獲得:財物を得ようとする欲求。

保存:財物を収集し、修理し、補完する欲求。

秩序:整理整頓、系統化、片付けを行う欲求。

保持:財物を持ち続ける、貯蔵する、消費を最小化する欲求。

構成:組織化し、構築する欲求。

優越:優位に立つ欲求。達成と承認の合成。

達成:困難を効果的・効率的・速やかに成し遂げる欲求。

承認:賞賛されたい、尊敬を得たい、社会的に認められたい欲求。

顕示:自己演出・扇動を行う、はらはらさせる欲求。

保身:社会的な評判・自尊心を維持する欲求。

劣等感の回避:屈辱・嘲笑・非難を回避する欲求。

防衛:非難・軽視から自己を守る、また自己正当化を行う欲求。

反発:二度目の困難に対して再び努力し、克服・報復する欲求。

支配:他人を統率する欲求。

恭順:進んで他人(優越な人間)に積極的に従う欲求。

模倣:他人の行動やあり方を真似する欲求。

自律:他人の影響・支配に抵抗し、独立する欲求。

対立:他人と異なる行動・反対の行動をとる欲求。

攻撃:他人に対して軽視・嘲笑・傷害・攻撃する欲求。

屈従:罪悪の承服・自己卑下の欲求。

非難の回避:処罰・非難を恐れて法・規範に進んで従う欲求。

親和:他人と仲良くなる欲求。

拒絶:他人を差別・無視・排斥する欲求。

養護:他人を守り、助ける欲求。

救援:他人に同情を求め、依存する欲求。

遊戯:娯楽などで楽しみ、緊張を解す欲求。

求知:好奇心を満たす欲求。

解明:事柄を解釈・説明・講釈する欲求。

知識・名誉・地位等を得ることによる満足感や他者から認知されたいといった欲求、ストレス発散行為を欲する動き、より美味しいもの・より良いものを求める動き、見栄・所有欲等がある。

子供の養育は、生殖欲求の一種でもあるが、ヒトの場合は「思いやりのある子に育って欲しい」など、高次な欲求にも基づいている。

ただし人間の欲求は非常に複雑な相互作用が起こるために単純に上記の欲求に行動を還元することはできない。

生理的な欲求が満たされれば、高次な欲求の方が、行動や心の動きを決める上で重要となってくると考えられる。

適応機制

発生した欲求を解消するために起こす行動(適応機制,Adjustment Mechanism)は、下記のように分類することができる。

欲求と適応機制

葛藤

接近と接近 - ラーメンも食べたいけど、ハンバーグも食べたい。

回避と回避 - 塾にいくのは嫌だし、かといって家に帰っても親に叱られる。

接近と回避 - 試験に受かりたいけど、勉強はしたくない。

障壁

物理的障壁(天候・時間・距離など) 例 - 運動したいが、外が雨でできない。

社会的障壁(法律・評判・習慣など) 例 - バイクに乗りたいが、まだ16歳以上でないので免許が取得できない。

個人的障壁(能力・容姿・思想など) 例 - 試合に出たいが、それだけの能力がない。
経済的障壁(お金・物資など)     例 - ブランド品を買いたいが、お金がない。

脳科学と欲 

科学的根拠については十分とは言えないものの、欲求を脳科学の見地から解明する研究も進められていて、低次な欲求ほど主に大脳辺縁系などの旧皮質の影響を受け、高次な欲求ほど主に前頭連合野などの新皮質の影響を受けやすいとされている。主な欲求を分類すると以下のようになる。

生理的欲求

安全安心の欲求

愛情や所属の欲求(集団欲・序列欲)

人から認められたいといった欲求

理想とする自分になりたいという自己実現の欲求

これらの多様な欲求を段階的・並行的に過不足なく(場合によっては適度な過不足状態を前提にしつつ)満たしていくことが心身の健康を維持する上では、大切である。

こういった欲求レベルには、個人差がありその基本的な欲求が強いほどそれに相応した理性的能力(大脳新皮質の前頭連合野など)も発達しやすい傾向があり、また向上心や進歩の原動力となりうるものでもある。

低次の欲求をコントロールしたりする理性に関わる前頭連合野は、最初は空っぽのハードウェアのようなものであり、しつけ・社会のルール・教育などの後天的な学習作用によって脳神経細胞(ニューロン)のネットワークを形成し理性的コントロール能力をつけていく。

また、より低次元な欲求が上手く満たされずに過剰な欲求不満状態(ストレス)となった場合に、前頭連合野における理性的コントロール能力を超えてしまい、神経症や犯罪・いじめ等の問題行動を引き起こしやすい状態となることも知られている。

哲学における欲望

「人間の欲望は他者の欲望である」(ジャック・ラカン、『精神分析の四基本概念』)
「他者が欲望するものを欲望する」(ルネ・ジラール、『欲望の現象学』)

社会と欲

社会的には、過剰な欲は犯罪の要因となることから制度を設けて制限を加えているが、経済活動の需要を喚起する必要から適度な欲を必要としている。

宗教において

仏教

比丘たちよ、この舟から水を汲み出せ。
汝が水を汲み出したならば、舟足軽やかに進むであろう。
このように貪欲と瞋恚とを断ったならば、汝は涅槃に達するだろう。
パーリ仏典, ダンマパダ, 369, Sri Lanka Tripitaka Project

海水は飲めば飲むほど喉が渇く。[3]

パーリ語において「欲」を意味する言葉には複数存在する[4]。

ローバ(lobha)、ラーガ(rāga) :貪 [4]
カーマ (Kāma) [4]
タンハー (Taṇhā) : トリシュナー [4]
ラティ (rati) [4]

仏教では、眼・耳・鼻・舌・身・意(げん・に・び・ぜつ・しん・い)の六根から欲を生ずるとする[5]。

また三界(無色界・色界・欲界)といい、このようなさまざまな欲へ執着している者が住む世界として欲界(よくかい)があり、現実世界の人間や天部の一部の神々などがこの欲界に含まれる存在であるとする。

仏教では、欲そのものは人間に本能的に具わっているものとして、諸悪の根源とは捉えないが、無欲を善として推奨し、修行や諸活動を通じて無欲に近づくことを求めており[3]、自制ではなく欲からの解放を求めている。

原始仏教では、出家者は少欲知足(しょうよくちそく)といい、わずかな物で満足することを基本とした [6]。南方に伝わった上座部仏教は、この少欲知足を基本とする[6]。

なお唯識仏教では、欲は別境(べつきょう、すべて心の状況に応じて起こすもの)で、そのはたらきに善・悪・無記(善と悪のどちらでもない)という3つの性(三性)を求めるとする。

善欲は精進して仏道を求める心であり、悪欲は貪(とん、むさぼり)として根本的に具わっている煩悩の1つとする。

しかし、大乗仏教の思想が発展すると、人間我・自我という欲に対し、如来我・仏性を得るという(つまり成仏すること)という大欲(たいよく)を持つことが重要視されるようになり、煩悩や欲があるからこそ菩提も生まれるという、煩悩即菩提という考えが形成された。したがって大乗仏教の中には欲そのものを全否定せず、一部肯定する考えもある。
少欲知足

「吾れ唯だ足ることを知る」(知足)

少欲之人無求無欲則無此患。 (中略) 有少欲者則有涅槃。是名少欲
(中略) 若欲脱諸苦惱。當觀知足。知足之法即是富樂安隱之處。

少欲の人は求むること無く、欲無ければ、すなわちこのうれい無し。 (中略) 少欲ある者はすなわち涅槃あり、これを少欲と名づく。
(中略) もし諸々の苦悩を脱せんと欲すれば、まさに知足を観ずべし。知足の法は、すなわち是れ富楽安穏の処なり。
—  大正新脩大蔵経, 涅槃部, 仏垂般涅槃略説教誡経[7] 

小欲(Appicchatā)はパーリ語で「ニーズが少ない」との意であり、転じて必要十分な量であることをさす[6]。知足(Santuṭṭhi)はパーリ語で「喜んでいる」との意であり、転じて満足から得られた喜びをさす[6]。』

お坊さんも悩んでいた 寺の掲示板に何を書く?国葬の日に

お坊さんも悩んでいた 寺の掲示板に何を書く?国葬の日に
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220927/k10013839121000.html

 ※ 今日は、こんなところで…。

『寺の掲示版が話題です。

「大丈夫。」

「仏の顔は何度でも」

「コロナよりも怖いのは人間だった」

心にスッと入り込み、じわっとくることばの数々。世相を反映することばも目立ちます。
では国葬の日に何を書くのか?

掲示板の中の寺の人たちも頭を悩ませていました。
(ネットワーク報道部 高杉北斗 鈴木彩里 名古屋局 三野啓介)

心にしみることば

寺の掲示板はネットでも話題です。

さまざまなことばを自由に書いて広く教えを伝える場とされ、「掲示伝道」と言われています。よく考えられた「じわっ」と来るものが多く、話題になるのです。

「大丈夫。」

新型コロナが広がった2年前から太く大きく書かれたこの文字を掲げているのは東京・八王子市にある延立寺。

読み取り方は人それぞれですが、コロナ禍の不安の中でも、前に進もうよと背中を押しているようにも感じます。

社会の動きをとらえて

そう、「仏教伝道協会」によると掲示板は明治時代にはあり、かつてはお経の一節や当時の天皇が詠んだとされることばなどを掲げるのが主流だったとされています。しかし最近は世相や社会の動きをとらえてことばを選ぶケースも結構あるのです。

エリザベス女王が亡くなった際に、女王が話したことばを掲げたのは東京・台東区の金嶺寺です。

「行動と熟考。そのあいだで上手くバランスを取らなくてはいけません」

住職を務める末廣正栄さんは、このことばが仏教の教えにも通じると思って選んだそうです。

住職 末廣正栄さん

仏教には対立する立場を離れ、どちらにも偏らない中道という考え方があります。対立や戦争がやまない時代、女王のことばがバランスを大事にする教えに通じると思えたんです。
国葬の日、掲示板は

そして、安倍元総理大臣の戦後2回目となる国葬が行われたきょう(27日)。

ふだん、世相をとらえたさまざまなことばを考える寺がどんなことばを掲載するのか。

熊本県湯前町にある明導寺は悩みました。

この寺が毎月2回、掲載することばの中には「輝け!お寺の掲示板大賞」(公益財団法人 仏教伝道協会主催)で賞をとったこともあり、ハッとさせられるものがあります。

自分の煩悩を見つめ直してほしいと、主催者が2020年の大賞に選んだのが明導寺の「コロナよりも怖いのは人間だった」。

ほかにも「真似をするときにはその形ではなくその心を真似するのがよい(渋沢栄一のことば)」などその時々に大事だと思ったことばを掲げています。

住職の藤岡教顕さんは国葬が行われるきょう、皆が共感できる新たなことばがないか、何か張り出せないか考えましたが、悩んだ末、掲載をやめたといいます。

国葬をめぐって賛否が分かれる中では、慎重にならざるを得なかったということです。

藤岡さん自身が、銃撃の事件の日に安倍元総理大臣の地元の山口県にいて、ショックを隠せない人の姿を見たことも理由のひとつといいます。

明導寺住職 藤岡教顕さん

住職 藤岡教顕さん

賛成の人も反対の人も、立場にかかわらず納得できることばを書きたいと思いました。

お経の中にもそうしたことばがないかと、探したのですが、なかなか難しいと感じて、今回は見送りました。

きょう何か掲載できることばはないか、考えを巡らせたものの、そのことばが見つからず新たな掲載をやめた寺は他にもありました。

毎日更新する寺は?

考えに考え抜いて、ことばを紡ぎ出した寺もあります。

広島市の中心部にある超覚寺。毎朝、新しいことばを張り出しているのは住職の和田隆恩さんです。

コロナ禍で、人と接する機会や直接、説法をする場も減る中、みずからの発信を増やそうと2年前の4月から週1回だった掲示板の更新を、増やしました。

「仏の顔は何度でも」

仏の顔も3度まで、ということわざがありますが、“仏の慈悲深さは限りない”との思いで書いたそうです。

和田さんはプロ野球・広島カープのファンで、今シーズンの交流戦で最下位となった時には「カープファンでいることは荒行です」とか、長く続くコロナ禍での生活についても「ウイルス止めるマスクでも、愚痴と文句は止められぬ」とウイットに富んだことばを載せていました。

さらに8月6日の原爆の日には「核兵器がある限り、人間は絶滅危惧種です」

筆が…進まない…

日々のできごとに関連したことばを書くことも多い和田さん。

世の中の流れを踏まえながら、新しいことばを張り出すことで、込められた思いが伝わりやすいと感じています。

国葬に関連したことばも書こうと筆を執りましたが、思うように進みません。世論も分かれています。

どんなことばを伝えればいいのか、考えあぐねました。

超覚寺住職 和田隆恩さん

住職 和田隆恩さん

いつも日曜日にまとめて1週間分書くのですが、今回、初めは国葬に触れないでいたんです。

考えたことばは

毎日、新しいことばを張り出してきた和田さん。

きのう(26日)、改めて筆を執り悩みながらしたためました。

「必要なものはもうあったのに。不要なものを欲してしまう」

ことし1月に父を亡くし、家族葬を執り行った際、思い出を語り合い、知ることのできなかった父の一面に触れ心が温かくなり、気持ちも穏やかになったそうです。

本来の葬儀はそうしたものだと改めて感じました。

その経験も踏まえ和田さんは賛否の立場ではなく、ひとりの宗教家として考えたことが掲示板のことばになったといいます。

住職 和田隆恩さん

一宗教家として、葬儀で必要なもの、それは故人を静かに温かく見送ることができることだと思っています。でもそうした状況になっていないように感じ、抱えている複雑な思いをことばにしたんです。

書けなかった人、考えあぐねて書いた人、掲示板の中の人たちもさまざまな思いが交差する1日でした。』

時代は「自分のアタマで考えるな」だと思う

時代は「自分のアタマで考えるな」だと思う – シロクマの屑籠
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20220926/1664193445

 ※ 「自分のアタマで考えるな」って、そりゃ無理だ…。

 ※ なぜって、「自分のアタマで考える」とは、オレが「生きている」ってことと、「等価」だからだ…。

 ※ オレは、この年(とし)になるまで、ずっと「生きてきた」が、「自分以外のもの」だったことは、「一度も」無い…。

 ※ ずっと、一瞬たりとも、「自分そのもの」であり続けて来たんだ…。

 ※ 確かに、入院した当初は、「身動きしなくて」「死んでるかのよう。」だったらしい(後から、看護師から、そう聞いた)…。

 ※ しかし、そういう「状態」でも、オレとしては、「あー、頭イテー。ガンガンする…。」「なんか、ボンヤリ、点滴袋が二つ(止血剤と、栄養剤)下がってるなー。」という感想抱いて、「自分のアタマで、ボンヤリと、ものを考えていた」んだ…。

 ※ だから、人間生きてる限り、「自分のアタマで、ものを考える」存在なんだと思う…。

 ※ 「自分のアタマで、ものを考え」なくなったとき、それは、もう、「生きている」とは言えない存在になった…、という意味だろう…。

『今の世の中、自分のアタマで考えないほうが良いターンになっていると思いませんか。
 
 犬も歩けばフェイクに当たる

  これはアウト。
物理的にありえない水の動き、現実的ではない家の配置、画質と画像サイズ。AIが作成した写真です。
熊本地震の際にライオンが逃げたとフェイクニュースを流した人と同様で、災害時に不安を煽るデマを流している。通報しました。
なお、ライオンの件投稿した男性は後に逮捕されています https://t.co/WRRKb1xrWy
— なかむらすばる🌻紅楼夢【き03-b】 (@subaru_chen) 2022年9月26日

先日、静岡県の水害のフェイク画像がツイッター上に流された。ある者はそれを本物と思って拡散し、別の者はフェイクだと疑って拡散を思いとどまったり、疑問の声をあげたりした。自分のタイムラインではこれに引っかかる人はいなかったように見えたけれど、皆が皆、引っかからずに済んだわけではなかった。
 
のみならず、今のインターネット上には、広告にもタイムラインにもグーグルマップにもフェイクなメッセージが存在していて、その成否を判断するのが難しくなっている。そのうちあるものは(例えば健康法のように)高度な専門性なしに正否を判断するのが難しいものだったり、もし間違っていないとしても、そのメッセージをどこの誰に・どこまで適用していいのかわかりづらかったりする。また別のあるものは、(例えばウクライナでの戦況のように)事実を確認する手段が素人には限られていて、しかも国家規模のプロパガンダが混じっている可能性のあるものだったりする。
 
こんな具合に、今のインターネット上には、正否を、真贋を判断しづらいメッセージが溢れている。自分自身のアタマで考え、それをインフォメーションと呼べる水準にまとめあげるのが大変難しくなっている。
 
しかもクソ忙しいご時世じゃないですか。

そのうえ、私たちの可処分時間はどんどん少なくなり、と同時に、私たちが正否や真贋を判断しなければならないことは増え続けている。
 
「時は金なり」というけれど、実際、効率性や生産性に重きを置くいまどきの資本主義社会では、可処分時間はたいへん貴重なものだ。仕事だけでなく、キャリアのための勉強・人脈の形成・リラクゼーション・エンタメといったものも可処分時間を必要とする。そうやって現代人は忙しく日々を過ごしている。
 
忙しくなればなるほど、メッセージの正否や真贋を判断するのは難しくなる。誰かの書き込みや画像がフェイクかどうかを判断するにあたって、1時間費やして構わない場合と、10分費やして構わない場合と、10秒しか費やせない場合では、フェイクに乗せられる確率は同じ人でもかなり違う。時間的余裕がなくなるほど、人はフェイクに対して脆弱になる。
 
例えば、ラッシュアワーの埼京線で通勤しているサラリーマンが、くだんの水害フェイク画像をスマホで見た場合、しかも見たタイミングが乗換駅まであと10秒のタイミングだったら、フェイクに乗せられてしまう確率は高くなるだろう。同じサラリーマンでも、ゆとりのある時間にゆとりのある体勢でそれを見かけたなら、乗せられずに済む確率はだいぶ上がる。が、スケジュールに追われれば追われるほど、私たちはフェイクに乗せられやすくなるし、ともすれば、そのフェイクの拡散に手を貸してしまうかもしれない。
  
 だったら自分のアタマで正否や真贋を考えないほうがいいのでは

 こんな具合に、インターネットに正否や真贋の定まらないメッセージが溢れていて、しかも私たちに時間的余裕が乏しいとしたら、もう、下手なことは自分のアタマで考えず、誰かに考えてもらうのがいいんじゃないだろうか。この場合の誰かとは、ツイッターのインフルエンサーなどではなく、新聞やNHKニュースなどのことだ。雑誌も含めていいかもしれない。
 
もちろん、そういうマスメディアだって間違えることはあるし、マスメディアがフェイクに乗せられたりプロパガンダに加担したりする可能性もゼロではない。それでも、ツイッターのインフルエンサーなどに比べればその頻度と程度は信頼できるように思う。まして、生兵法にも自分のアタマで考えるよりは信頼できるんじゃないだろうか。
 
かつて、アルファブロガーのちきりんさんは「自分のアタマで考えよう」という本をリリースしたことがあった。
 
自分のアタマで考えよう――知識にだまされない思考の技術

作者:ちきりん
ダイヤモンド社

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ちきりんさんのように考える力があり、この本のとおりに思考するメソッドがあり、考える時間もたっぷりあるなら、これでいいのだと思う。2011年のインターネットの状況にも合っていたかもしれない。
 
けれども私たちの大半はちきりんさんと肩を並べるほど考える力があるわけではない。思考するメソッドを磨く暇すらなく、効率性や生産性にこづきまわされ、リラクゼーションとエンタメを天秤にかけながら可処分時間の短さを嘆いているような身の上だ。そして2022年のインターネットは2011年のソレに比べてずっと難しくなった。嘘を嘘と見抜けない人には(インターネットは)難しいというけれども、いや、今のインターネットでフェイクを見抜くのは簡単じゃないでしょう。
 
だとしたらだ。
もう、私たちは自分のアタマで考えるをやめたほうがいいんじゃないだろうか。
 
や、もちろん個々人の専門領域、職業人としての領域では大いに考えなければならない。しかし専門家にしたって専門領域を一歩出てしまえば素人、へたをすれば平均的な素人よりも性質が悪いことだってある。それならネットに氾濫するメッセージについて正否や真贋を判断するのはもうやめてしまって、なんなら隙間時間にスマホを覗くのもやめてしまって、新聞やNHKニュースなどに目を通すだけにしてしまったほうが安全安心確実ってものだ。新聞やNHKニュースでは味気ないって人はワイドショーでもいいかもしれない。「ワイドショーなんてあてにならない」という人がいるだろうし、その気持ちもわからなくはない。でも、私たちが個人としてツイッターやインスタグラムに貼りついてメッセージを授受し、みずから判断するよりは、まだしも打率がいいんじゃないだろうか。
 
人間は、しばしば間違う。
忙しかったり、疲れていたり、余裕がなかったりすれば尚更だ。
そのうえ情報の正否や真贋を判断すること自体、可処分時間や可処分認知を消耗する行為なわけで、それなら(多少、情報の流通タイミングが遅いとしても)新聞社や放送局のフィルタに通した後の、インフォメーションとして加工された後のものをファクトとみなしたほうが間違いが少なかろう。万が一、新聞社や放送局が間違ったのなら、まあその……仕方ないのかなとも思う。
 
繰り返すが、新聞社や放送局だって稀には間違うこともあるし、それこそ戦争中の国のマスメディアなどは、しばしばプロパガンダを流す。いや、戦争していなくてもマスメディアにプロパガンダ的なものはどこかに混じっていると見たほうがいいだろう。理想論として「民主主義国家の個人たるもの、自分のアタマで判断する能力を涵養すべき」ってのもそのとおり。
 
そして10年以上昔は「インターネットにはメディアとは違った真実がある」などとも言われていた。ですが今のインターネットって難しくないですか。これほどまでに正否や真贋のわからない今日のインターネットにおいては、マスメディアの出してきたものを鵜呑みにするほうが、自分のアタマで考えながらインターネットと向き合うよりも、まだしも確実度が高いのではないかと思う。
 
インターネット上で「自分のアタマで考えよう」って言葉が適用できる時代は遠くなった。少なくとも、それは万人に勧められるものではあり得ないし、いまや、ほとんどの人に勧められるものとも思えない。ネットリテラシーなど午睡の夢。ブロガーとしてのちきりんさんのように振舞い、ちきりんさんの勧めるように考えることは、今、とても難しい。 
ところで

ところで、自分自身のブログに「新聞を読め、NHKニュースを見ろ、ネットはあんまり見るな」って書くの、すごく萎える。ブロガーとしてのちきりんさんが活躍していた頃と現在ではインターネットの時勢が違ってきているのだから、それは仕方のないことではあるけれども。』

タンピン(寝そべり)の次は、バイラン(投げやり)?

タンピン(寝そべり)の次は、バイラン(投げやり)? : 机上空間
http://blog.livedoor.jp/goldentail/archives/29621499.html

 ※ 非常に疑問なのは、そういう「自堕落な人生」を送ることができている「原資」は、どっから出ているのか…、ということだ。

 ※ 不思議な話しだ…。親、あるいは親類縁者が、「泣く泣く援助」でもしているものなのか…。

 ※ しかし、そういう人生を送っていようがいまいが、「時は、残酷に過ぎていく」ぞ…。

 ※ ご老人になって行くのは、避けられない…。

 ※ 要支援、要介護状態になっていくのは、避けられない…。

 ※ どこぞの女王様も、亡くなったという話しだしな…。

 ※ 『老後は、死んでしまえばよい。』と言うが、どっこい、人間、死んでいくのも大変な話しだぞ…。

 ※ 死んでく前に、老いて、衰えていく…。

 ※ 順番から言ったら、「親の方が、先に死ぬ。」…。

 ※ その葬儀とか、どうするね?親の援助が無くなったら、どうするね?

 ※ 衣食住の確保は、どうするね?

 ※ その時、君は、いくつになっている?

 ※ これもまた、「大事業」だ…。

 ※ 若いうちは、「今の状態が、ずっと続くもの。」と思いがちだ…。

 ※ しかし、「そうは、問屋が卸さない。」

 ※ そんなことが、あるハズも無い…。

 ※ まあ、人の一生で、「大事業」で無いなんてものは、有りゃせんさ…。

『 去年あたりから中国で流行り始めた、無気力な若者を示す言葉「タンピン」ですが、さらに積極的に何もしない「バイラン」という言葉が、流行り始めています。タンピン(寝そべり)は、消極的な諦めの態度なのですが、バイラン(投げやり)は、それより積極的に諦める態度を指します。

バイランの具体的な行動は、

・仕事は辞める。
・ゲームは、負けても構わない。勝ちにこだわらない。
・ダイエットなんかするくらいなら太っていてよい。
・老後は、死んでしまえばよい。

つまり、現状を肯定し、極力何もしない事を行動として選ぶという事です。バイランの1日は、彼らに言わせると、こうです。

・朝11時まで寝て、起きてイテクアウトを注文する。
・パソコンを点けて、ライブ配信を見ながら時間を潰し。
・夜12時に布団に潜って人生について考える。
・スマホを弄りながら、いろいろなソーシャルメディアで社会の不公平さを訴える。
・明け方近くに寝る。

このルーチンが、バイランの典型的な過ごし方です。

つまり、仕事や学校にも行かず、友達も作らず、結婚もせず、子供もいらず、積極的に自ら世間との繋がりを切り離しています。「努力しても報われない。努力しないことこそ、快適に暮らせる」というのが、その動機になっています。何もしなくなれば、周りから要求されたり、批判されたりする事がなくなります。ストレスフリーで生きる事が、最上の人生という価値観です。

彼らからすると、家の所有など、一人前に要求される水準が、不動産の高騰などで、一生かけても手の届かない価格になり、努力しても努力しなくても、追いつけないのが明白に見えている為、霞の向こう側のゴールを目指すより、そもそも霞の向こうは存在しないと考えたほうが利口であるという理屈のようです。

上海がロックダウンされた時に、力付くで個人宅に踏み込み、中の人を強制連行するような検疫員(白衛兵)が、抵抗した住民に対して、「抵抗すると、評価ポイントが下がって、お前たちの家族全員が社会から不利益を受けるぞ」と言った脅しに対して、「そんなものは関係ない。こんな社会に生きるつもりはない。我々は最後の世代だ。子供も作るつもりはない。」と反論した動画が、一時期話題になりました。白衛兵は、ドアを壊して家宅侵入した上で、ペットを殺したり、私物を勝手に処分したり、消毒液で室内を台無しにしたりします。それを、強要されて反抗できない社会に、何の期待もしていないので、行政からどう思われようと構わない。私が最後の世代だという抗議なのですね。

中国では、社会が特殊なので、「共産党に従順な、物言わぬ労働力」としての価値しか期待されていない事に対する、ある意味消極的な反抗と言えるのかも知れません。しかし、これが、中国特有の現象かと言えば、そうでもないのですね。世界的に、「働かない・働けない」若者は、社会問題になっています。

・イタリア-バンボッチョーネ

大きな赤ん坊の意味で、両親と同居し、援助を受ける成人男性。18~34歳の男女の6割が親と同居。

・ギリシャ-700ユーロ世代

2010年の経済危機で、20~30代の若者の半分が失業。就職しても、月給が700ユーロの低賃金が固定化された。

・日本-パラサイト・シングル、ひきこもり

親と同居し、親に依存している未婚者。半年以上、家に籠もって、家族以外と交流の無い人。全国で100万人以上いる。

・韓国-N放世代

2010年代に、恋愛・結婚・出産の3つを諦めた若者。諦めるものが増えるほど、Nの数が増える。現代では、7放世代まで増えている。

・フィリピン-タンバイ

失業中の若者が、路上で暇を潰している状態。「就職する為のスタンバイ状態」という意味。

・シンガポール-BBFA

「Bui Bui Forever Alone」の頭文字を取った略語。「永遠に孤独に寝そべる低所得な若者」を指すスラング。

つまり、世界中で、「働けるけど働かない若者」、「国の経済が厳しくて、働く意欲を削がれる若者」は増えています。ここで、思い出して欲しいのは、このブログの記事で、「楽園実験という恐ろしい試み」として投稿した記事です。これは、マウスを使った社会観察実験で、衣食住が保証され、外敵や天候に影響されない楽園を作ったら、社会はどうなるかを試してみたものです。

簡単に要約すると、群れの大多数が繁殖意欲すら失った「無気力マウス」が増殖した事で、高齢化が進み、最終的には妊娠能力のあるメスが減って、群れは絶滅しました。その過程では、メスのオス化や、ネグレクトも観察され、新生児の生存率低下が、外的要因の脅威が無いにも関わらず発生して、最終的に群れの数が減少に転じたのですね。

少なくても、「油断していると明日死ぬかも知れない社会」が排除されると、無気力という病が、その社会を蝕むのは、人間も動物である以上、避けられないのかも知れません。』

より多くを知り経験することで人生は開けてくる

北の国から猫と二人で想う事 livedoor版:より多くを知り経験することで人生は開けてくる
https://nappi11.livedoor.blog/archives/5369062.html

『筆者のいとこの次女:cousin’s second daughter(日本語では従姪:じゅうてつ)が語学研修で短期留学し、今英国のウェールズに居る。写真はホームステイ先のもの。
いとこの長女(写真の姉)はすでに社会人だが、大学生の頃マレーシアとベトナムへ留学している。ほかにも筆者の身内では、疎遠にはなっているが、米国やデンマーク、オーストラリアにも居るので、世界はずいぶん狭くなった。

9月6日から7日にかけて筆者は東京へ出かけ、以前海外で知り合った友人や知人と再会する予定だ。会った当時は互いに20代、30代で、互いに10代から知っている友人もいる。皆無事に定年を迎えているのはうれしい限りで、こういう再開が人生に小さな花を添えてくれる。

頼んだ記憶がないのだが、メールを開けば、数日前のウクライナの戦場で、ウクライナのドローンがロシア兵を攻撃する映像が届いている。いつの間にか、そのサイトのメンバーになっているようだ。別に害はないので在りがたく視聴させてもらっているが、ウクライナ情勢に関しては、ロシア側とウクライナ側との戦況報告に大きな差があるので、常に多くのサイトを見たうえで、目まぐるしく変わる状況を判断している。日本の新聞報道も少しは早くなったとはいえ、いつまで複雑な国際紛争を地図も載せずに報道するのか?筆者が地図や写真を多用するのは、欧米の報道に比べ見劣りする、日本のメディアに対する反発でもある。

今この瞬間も、世界では若い人や、時には子供まで戦争や災害の犠牲になっている。これから社会へ出る人たちには、今の世界は決して優しくはなく、もっと悪くなる可能性すらある。

こんな状況で生き抜くには、一人一人が多くの状況を探り、知ったうえで、自身で適正と思われる判断をして先手を打って行くしかない。

筆者のブログが、そんな一助になれば幸いだ。これから筆者が合う仲間は、そうやって、ひっそりとだが、逞しく生き抜いてきた仲間たちだ。

過去ブログ:2022年8月オリビア・ニュートン=ジョン、2022年8月8日に73歳で逝去 7月Hasta la vista, baby! 7月思い出のグリーングラス 7月100年前の東京の映像と民主主義100年と少子化 7月絶滅したバイソンを数千年ぶりに自然に再導入の試み 英国 4月中国資本による英半導体企業買収は波乱含み 2021年8月中国企業の英半導体企業買収に待ったをかけた英政府 2月EU離脱後の対英貿易で流通の手間や経費急増とTPPへの期待 2020年12月ケルト時代の金貨発見と英国の古代史 8月英国の世界遺産ストーンヘンジの巨石採取場所判明 2019年9月混迷する英国議会は霧の中>議会は首相要請で5週間の閉会 5月日立の新型車量英国東部での運転開始 2016年6月ロンドン市の独立やスコットランドの拒否権まで浮上 英国 2015年10月フランス側難民が海峡トンネルに徒歩で侵入 フランス 2014年9月なぜスコットランドは英国からの独立をめざすのか?>独立否決が確実 2013年12月アザラシとキツネとネコ 2月英国王リチャード3世の遺骨確認される 英国 』

自宅の修繕費、築30年で900万円超 計画的な貯蓄不可欠

自宅の修繕費、築30年で900万円超 計画的な貯蓄不可欠
人生100年の羅針盤
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD077PY0X00C22A7000000/

 ※ ヒトもモノも、古びて補修が必要になってくるのが、「自然の摂理」だ…。

 ※ 「こんなに費用がかかるのかと驚いた」…。

 ※ イラストが添えられているが、秀逸だ…。

 ※ ここに描かれている通りの話しだ…。

 ※ さりとて、「賃貸」借りようとしても、年寄りにはいろいろと「条件」があって、スンナリとはいかんしな…。

 ※ そうこうしているうちに、「要支援」「要介護」状態になって、「老人ホーム」にご入居コースへと、真っしぐらだ…。

 ※ 着々と、そういう「コース」を辿っています…。

『持ち家があり、住宅ローンの返済も終わったシニア世代は「老後は住居費の負担は軽くなる」と考えがちだ。しかし、意外に重くのしかかるのが家の修繕費用。戸建てでもマンションでも、築年数が古くなると、雨漏り対策など基礎的な工事だけでも費用がかさんでくる。長寿化で必要な工事回数が増える一方、工事単価は上昇傾向だ。「終(つい)の棲家(すみか)」を確保・維持するお金にも目配りが必要になる。

「こんなに費用がかかるのかと驚いた」。東京都で十数年前に新築一戸建てを構えた会社員は、家の外壁塗り替えに100万円以上がかかったことを振り返る。戸建ての場合、この男性の家のように、外壁や屋根の塗装・補修などがおよそ15年程度で発生し、費用は数十万円から100万円程度かかる例も多い。

トータルの費用はどれくらいになるのか。不動産コンサルティングのさくら事務所(東京・渋谷)の試算だと、標準的な戸建て住宅(木造2階建て、延べ床面積116平方メートル)では築後30年の修繕費用は基本的な項目だけで900万円を超す。シロアリ対策、給排水管や給湯器の交換など様々な工事が積み上がると、負担は徐々に重くなる。

30年超の時期はどうか。さくら事務所の田村啓ホームインスペクターは「期間を延ばすと流動的要素が多くなるが、仮に60年の総費用を考えると、2500万円程度になり得る」と話す。60年間、建て替えずに修繕を続けた場合の試算で、建て替えた場合の総費用はさらに膨らむ可能性が高い。実際の費用は個人差が大きいものの、「長寿化で生涯を通じて必要な工事回数も増えている」(田村氏)。

慢性的な人手不足を背景に、工事費用も上昇。消費者物価指数(2020年=100、全国)で住居の外壁塗装や水道工事など「工事その他のサービス」をみると、21年までの約10年でおよそ2割上がった。これは主に戸建ての工事費の上昇を反映する。

住宅修繕の市場に詳しい彩ホームプランニング(神奈川県大和市)の豊田憲明代表は「新築は木材を事前に工場で加工するプレカットなど一定の効率化策があるが、修繕は職人の技術・経験に依存する部分が多く、人手不足の影響が特に大きい」と話す。多額の費用を敬遠するシニアは多いが、「雨漏りなどは本来、予防的修繕が効果的。『お金はかけたくない』と工事会社などに本音で話してみるのも一つの方法だ」(豊田氏)。コスト削減のアイデアが出てくる例もあるという。

修繕費の負担が重いのはマンションも同じだ。戸建てと異なり、毎月積立金を払っているのが普通だが、それだけで安心はできない。18年度の国土交通省のマンション総合調査によれば、3割以上のマンションが計画に対して積立金が不足している。「余剰か不足か不明」という回答も約3割に上る。

資金不足で安易にすべての修繕を見送るのは危険だが、状況によっては優先度の高い工事に絞り込む選択肢もある。ベンチャーのスマート修繕(東京・渋谷)は建築士事務所などと協力、マンションの劣化診断を手掛ける。「『工事ありき』ではなく、必要な工事を洗い出す」(同社)

老後の快適な暮らしのためには、省エネ性の向上やバリアフリー化などの工事も追加で必要になる可能性がある。一般的に積立金制度がない戸建てはもちろんだが、マンションの場合も自分で将来の修繕費は老後資金計画などの中に組み込んで、計画的に貯蓄しておく姿勢が欠かせない。

賃貸、シニア向けサービスも

国交省の20年度の調査では、賃貸住宅のオーナーの約7割が高齢者の入居に拒否感を示す。入居中の孤独死で、その後の賃貸が難しくなることなどを警戒するが、解決に取り組む動きも増えている。不動産業のMARKS(横浜市)はシニア夫婦のうち1人が亡くなった世帯に接触し、住み替えなどのコンサルを展開。シニアの入居に抵抗感がない貸主を見つけるが、通常契約が難しいなら同社が借り上げ、転貸する。同業のフラット・エージェンシー(京都市)はシニアと若い学生や子育て世代が暮らすシェアハウスの企画・開発を進める。
(住宅問題エディター 堀大介)』

時間泥棒の話・・・「モモ」 : 机上空間

時間泥棒の話・・・「モモ」 : 机上空間
http://blog.livedoor.jp/goldentail/archives/29390985.html

『ドイツ人作家のミヒャエル・エンデ氏の書いた「モモ」という児童書を、ご存知だろうか。1973年に発刊され、翌年にドイツ児童文学賞を受賞しています。私が、この本を買ったのは、学生の時でした。「ネバー・エンディング・ストーリー」(原作・はてしない物語)の映画が公開されて、ストーリーは、ともかくとして、その絵本の挿絵のようなビジュアルを、そのまま映像化した、映像としての完成度に当時、やられてしまいまして、その原作者の作品という事で購入しました。書評も高評価で、大人が読んでも面白い作品として紹介されていたのですね。当時は、ハードカバー版しか販売されてなくて、そこそこ高かった記憶があります。

人々から時間を奪う「時間泥棒」というキャラクターを設定して、主人公のモモとの対決を描いた物語で、かなり寓話的な物語です。モモというのは、まるで当時、世界的に流行していた、怒れる若者を代表するような浮浪者の少女です。従来からの価値観や大人の言う事に対して、それが真実なのか、正しいのかという疑問を持つ若者が、アメリカでも、ヨーロッパでも誕生して、彼らはお仕着せの価値観を否定し、いわゆる「ヒッピー」という自由主義者的なライフ・スタイルを啓蒙します。ウーマン・リブとか、フリー・セックスとか、マリファナとか、サイケデリックとか、精神の開放とか、型にはまらないのが新しいスタイルだとして、実際に、そういう生き方をした世代が誕生した時期ですね。

彼女は、今は廃墟と化した円形劇場に住み着いていて、見た目は小学生くらい。生まれてから、一度もクシを通した事も無いような真っ黒な巻き毛で、裸足で歩くせいで、足の裏は真っ黒。服のサイズも、まったく合っておらず、ツギハギだらけという風体です。モモという名前は、自分で付けたと言い、その他の事は、判らず、ただ、ここに住みたいと言います。周囲の住民たちは、相談して、モモの面倒を見る事にしました。

正体不明の風来坊の彼女ですが、モモは人の話を聞く才能に優れていて、心の問題を抱えた人が、彼女と会話をすると、その負担が軽くなるという極めて優れた特性を持っていました。こうして、心の安定でお返しする事で、モモは無くてはならない存在になって行きます。

しかし、そこへ「灰色の男たち」と呼ばれる存在が介入してきます。鉛のような灰色の書類カバンを持ち、灰色の煙の出る葉巻をくゆらせる、紳士のような出で立ちの男たちです。彼らは、人生に不満を抱える人間と会い、いかに時間を無駄にしているかを秒単位で説きます。そして、節約した時間を、彼らの運営する「時間貯蓄銀行」に預ければ、利子を乗せて支払うと営業を仕掛けます。

その話に乗った人々は、一秒たりとも無駄にできないと、イライラしながら働くようになり、それでも、時間はあっという間に経過してしまうので、もっと倹約しなくてはと、怒りっぽくなっていきます。こうして、灰色の男たちは、人々から時間という財産を奪って、世界を侵食していきます。

やがて、モモの元には、人々が寄り付かなくなるようになりました。時間を倹約する事に価値を見出すようになった親達が、モモが、ぐうたらの怠け者で、時間を無駄に浪費させる人間だと、会う事を禁止するようになったのです。やがて、灰色の男の一人が、モモのところにもやってきて、成功する事が大事であり、その他の事は価値が無いし、役に立たないと説得しに来ます。しかし、モモは屈する事無く、反論し、やがて、議論に詰まった灰色の男は、平常心を無くして、自分達が、人間から時間を奪う事を目的にしていて、その正体を秘密にしている事などをバラしてしまいます。

この後も、物語は続いて、時間の国の長老であるマイスター・ホラなど、キャラクターも出てきて、話は、より観念的になり、結構、子供が読むにはハードルが高い展開になっていきます。また、灰色の男たちが、人々から奪った時間は、時間の花を育成する養分になっていて、その花びらを乾燥させて巻いた葉巻が、彼らが普段から吸っているものなのでした。この辺りは、いかにもマリファナ的で、時代を感じさせます。葉巻から出る煙は、死んだ時間で、生きている人間が、この煙を吸うと、やがて灰色の男たちになってしまいます。この病気の名前が、致死的退屈症です。

この物語は、当時の風俗を取り入れながら、資本家と労働者という関係を寓話的に示しています。一般的に、資本家VS労働者というと、賃金の話になりがちですが、実は資本家が買い取っているのは、労働者という契約で縛りを課した他人の時間です。個人が持っている時間は、有限ですが、報酬を支払って、仕事として他人に任せる事で、成果は何百倍にも増やす事ができるのです。規模を大きくすれば、買い取った時間で成し遂げる成果も大きくなりますから、資本家の元には大きな対価が入ってきます。それを効率的に労働者に割り振る事で、更に事業は拡大するわけです。時間というのは、それを増やしたり減らしたりできませんが、他人の時間を報酬と引き換える事で、時間あたりの成果を増やす事はできるのです。

つまり、この物語は、チャップリンの「モダン・タイムス」と同じで、機械的に効率化の進んだ工場労働などの非人間性に対する寓話的な批判です。そして、労働の本質が、賃金の問題ではなく、時間の拘束である事に着目した、初期の作品の一つです。

この作品の時代では、労働集約化と、そこで推進させる極限までの効率化を、余りにも非人間的なモノとして批判しているわけです。しかし、今は、それよりも、たちの悪い形で、「時間泥棒」達は、我々の生活に入り込んでいます。

現在のアメリカは、GDPが世界一の最も豊かな国家のはずです。しかし、アンケート調査によると、世界平均よりも、日々、常に心配事を抱え、多くのストレス持ち、決して幸福とは言えない環境にあります。物質的には豊かになり、多くの作業が自動化されて、開放された代わりに、自分で時間をコントロールできなくなったのです。

資本主義を代表する工場労働を考えてみましょう。確かに、工場で労働している時間、最大の作業効率を求められ、しばしば、その労働は非人間的です。前述の「モモ」が寓話としていたのは、まさに、その時代の労働と時間の関係です。しかし、終業時間になれば、労働から開放され、プライベートと労働の区別は、はっきりと分かれていました。しかし、1950年代と違って、労働の主軸は、よりクリエティブな頭脳労働に移行しています。

製造ラインに、いない時には、労働の事を考える必要が一切無い、工場労働と違って、プロジェクトやマーケティング、クリエイターの仕事は、労働と時間の明確な区切りがありません。今は、スマホやタブレットなど、事務所の外でも仕事をサポートし、成果を送信したり、情報を得るツールが豊富にありますから、どこで何をしていても、仕事ができないという言い訳がたちません。つまり、フリーランスなど、場所や時間に縛られない働き方が増えたのですが、時間を自分でコントロールする事が、生産性の向上という呪文の前では、難しくなったという事です。

時間に縛られないというのは、労働をする時間が決まっていないというだけで、自炊で調理中でも、深夜に目が覚めてしまった時でも、入浴中でも、トレーニング中でも、頭で常に仕事の事を考える事は可能ですし、それをサポートするツールもあります。つまり、取り組んでいる問題を解決できない限り、我々は時間をコントロールするのが難しくなっているのです。まさに、時間泥棒に取り憑かれている状態と言って良いでしょう。

我々にとって、リラックスして、目標を持たない時間というのは、「幸福な経験・体験」に繋がる重要なものです。実際、幸福というものを、可視化するなら、過去に起きた幸せな体験の記憶であり、それは、多くの場合、自分のコントロール下にある時間において起きた事でもあるはずです。それが、仕切りの無い労働と、それを可能にするツールの発達によって、自分の制御に置けなくなってきています。

つまり、豊かさとは、高価なモノに取り囲まれる事ではなく、自分でコントロールできる時間の多さであり、その環境を作る為には、資産形成が必要だという事なのです。もし、幸福を基準に人生を過ごしたいのであれば、労働を賃金で計るのではなく、自分で時間を制御する為の手段として捉え、何者にも介入されない、自分の思い通りの時間を作る事こそが、精神的な幸せに繋がると認識するのが重要です。そして、労働における搾取とは、自分の時間を、格安で他人に売り渡す事に他ならないのだと認識するのが重要です。』

学問のすすめ 福沢諭吉

学問のすすめ 福沢諭吉
https://www.aozora.gr.jp/cards/000296/files/47061_29420.html

『「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。

されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。

されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。

その次第はなはだ明らかなり。

『実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。

されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。

また世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。

すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役はやすし。

ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし。』

 ※ 中、略。

『学問とは、ただむずかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。

これらの文学もおのずから人の心を悦ばしめずいぶん調法なるものなれども、古来、世間の儒者・和学者などの申すよう、さまであがめ貴むべきものにあらず。

古来、漢学者に世帯持ちの上手なる者も少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人もまれなり。これがため心ある町人・百姓は、その子の学問に出精するを見て、やがて身代を持ち崩すならんとて親心に心配する者あり。無理ならぬことなり。畢竟その学問の実に遠くして日用の間に合わぬ証拠なり。

 されば今、かかる実なき学問はまず次にし、もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。

譬えば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言、帳合いの仕方、算盤の稽古、天秤の取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条ははなはだ多し。

地理学とは日本国中はもちろん世界万国の風土道案内なり。

究理学とは天地万物の性質を見て、その働きを知る学問なり。

歴史とは年代記のくわしきものにて万国古今の有様を詮索する書物なり。

経済学とは一身一家の世帯より天下の世帯を説きたるものなり。

修身学とは身の行ないを修め、人に交わり、この世を渡るべき天然の道理を述べたるものなり。

 これらの学問をするに、いずれも西洋の翻訳書を取り調べ、たいていのことは日本の仮名にて用を便じ、あるいは年少にして文才ある者へは横文字をも読ませ、一科一学も実事を押え、その事につきその物に従い、近く物事の道理を求めて今日の用を達すべきなり。
右は人間普通の実学にて、人たる者は貴賤上下の区別なく、みなことごとくたしなむべき心得なれば、この心得ありて後に、士農工商おのおのその分を尽くし、銘々の家業を営み、身も独立し、家も独立し、天下国家も独立すべきなり。』

ウソは健康的に接種すべきものであって、ウソで身の回りを固めると人生が破綻する

ウソは健康的に接種すべきものであって、ウソで身の回りを固めると人生が破綻する
https://blog.tinect.jp/?p=77629

『疲れている時にTwitterをやっていると、つい惹き付けられてしまうものがある。それはなろう系の漫画の広告である。

なろう系とは小説の一大ジャンルだ。

現実社会ではしがない生活をしていた人間がトラックにはねられて異世界に転生した結果、異能を発揮して無双したり、よくわからないけど何らかの天啓に恵まれてハチャメチャに強くなって、それまで冷遇されていた現実から一転して救世主みたいにチヤホヤされるというアレだ。

このなろう系はよく「努力が嫌いな現代人が、読んで気持ちよくなる為のもの」という風に揶揄される事が多い。

というか僕自身もそう思っていた節があり、正直読むのを避けていた。

しかし実際に読みすすめてみるとである。これが妙に癒されるのだ。

あんなに散々揶揄していたくせに、こんなに楽しんで読んでるだなんて何事だ!と怒られること必死である。いや…正直スマンかった…お前、めっちゃ面白いよ…

いったいなんでこんなに楽しいのだろうかと頭を捻ってみたところ、一つの結論がでた。
それは報酬の前借り効果である。

現実世界は結果反映まで時間がかかりすぎる

現実世界は大変である。大なり小なり、苦労していない人間などこの世にはいない。

僕もいま振り返ると笑っちゃうぐらいにラクチンな環境にいた頃だって、日々「シンドい」と思っていた。

このシンドさは実はある状況に似ている。

それは修行である。巨人の星からドラゴンボールに到るまで、強くなる人間はみな厳しい修行にハァハァしつつ、その成果として大リーグボールやらかめはめ波といった成果を手にしていた。

私たちは心のどこかで、大変な思いをしたら、それ相応の報酬がある事を心のどこかで期待している部分がある。

実際には報酬を受け取るには、きちんとしたプロジェクトを立ち上げて、かつ正しい努力をそれなりに長い年月積み重ねてゆかねばならないのだけど、そういう事をやったかどうかは別に、やっぱり心はどこかで「ご褒美」を欲しがっている。

既に疲弊した身体に、無双はものすごく気持ちいい

そういう疲弊しきった身体に、なろう系の物語は清涼飲料水のように染み渡る。

「現実世界ではもうチョー頑張った。もうマジ限界。恩赦プリーズ」

そういう状態の脳みそに、異世界転生して超絶ハイスペックでもって無双する状態を物語として流し込むと、脳が本当に物凄く喜ぶ。

「よく頑張ったね!努力の結果として、あなたは世界を揺るがす剣聖になれました!」

そういう文脈でもって”なろう系”を読むと、なんだかハチャメチャに頑張った現実世界における努力の対価を受け取っているかのように脳が錯覚する。

まあ実際には全然関係がないのだが、物語というのは自分の都合の良いように読むものである。

そうやって異能でもって世界中から称賛されているという感覚を味わい、美しいヒロインとイチャイチャするようなファンタジーにしばらく身を置くと、不思議なことにあんなに疲労困憊でゼーゼーいっていた脳が

「もう、もう元気になったから大丈夫だぜ。いっちょ次、頑張っちゃう?」

とか言い始めるのだから、不思議である。

まあ実際にはすぐまた疲れるのだが、疲れたらまた同じことを繰り返せばそれでよいのである。

なろう系…それは社会修行で疲れ果てた人間への、ご褒美ユンケルなのである。

自分の人生にウソを介入させてはいけない

「物語に癒やされるだなんてばっかじゃないの?」

「虚構に逃げても、何もいいことなんてない」

「現実から逃げるな!」

若い頃の自分は、よくこんな事を思っていた。

いま思うと「若者よ。そう生き急ぐな」と生暖かい目でみたくなってしまうのだけど、ウソや虚構といったものはそう一概に悪いだけのものではないと大人になった今は真剣に思う。

ウソや虚構は意識的に摂取しているうちは極めて健全だ。

感動的な物語にフルコミットして涙を流してもいいし、ヤクザモノの映画をみて絶対にありえなさそうな任侠道に憧れるのもいい。

しかし世の中には絶対についてはいけないタイプのウソや取り入れてはいけないタイプの虚構がある。

それは自分語りだ。他ならない、自分自身の人生をウソで塗り固めて構成した先にあるのは、純度100%の地獄である。

世の中にはびっくりするぐらいウソツキがたくさんいる

「人間は、意外と言われた言葉を額面通りにそのまま信じてしまいがちである」

これは岡田斗司夫さんという漫画・アニメの評論をする方が言われていた事だ。

連休中に彼が書いたガンダム完全講義を通読して、僕は自分がいかに相手の言葉をそのままの意味でしか理解していないという事を痛感させられた。

岡田さんは有名なシャア・アズナブルの「認めたくないものだな。自分自身の若さ故の過ちというものを」や「坊やだからさ…」といったカッコいいセリフが、実は物凄く深い意味があるという事をこの講義で徹底的に解説している。

その解説力には舌を巻くばかりなのだけど、考えてみると自分も基本的には相手の言ってる事をほとんど疑って聞いた事がない。

しかしである。じゃあ自分自身がウソをついていないかというと…これがまあ、よくついているのである。

ヤバいウソは基本的にはつかないが、じゃあ本音だけ垂れ流しているかというと、そんな事は全然ない。

このように自分自身もウソツキを大なり小なりやっている状況にあるわけなのだけど、こんなのは全然カワイイ方である。

インターネット博覧会であるTwitterでは、実はウソツキが膨大に列をなしており、虚構をまるで真実かのように真顔で主張する人たちが山のようにいる。

過去にも某超有名外資系投資銀行勤務を騙って巨額の詐欺を働いていた人など、枚挙にいとまがない。

普通の人は他人のウソを見抜けない

じゃあその人達のウソを自分自身がちゃんと見抜けていたかというと、これがまた驚くことに見抜けていなかったのである。

かつて2ちゃんねるの創始者であるひろゆき氏が語った有名なフレーズに「ウソをウソであると見抜けない人には2ちゃんねるを使うのは難しい」というものがあるが、現実問題として普通の人間にはウソを見抜くのは無理である。

それ故に…M資金のような詐欺が何度も何度も繰り返されるわけだし、それ故にインターネット上ではウソで塗り固めた人生でもって承認欲求を荒稼ぎする人たちが山のようにいる。

とはいえ、バレないウソはない

「それならウソをつきつづけられるのなら最強なのでは?」

実際にそれができるのなら確かに最強なのだけど、現実問題としてウソを完璧に貫き通せる人などほぼ居ない。

よく「ウソを一つつくと、そのウソを守るのにまた別のウソをつかなくてはならなくなる」という言葉があるが、虚構に虚構を積み重ね続けるのは実際問題として人間の能力を超えている。

小説のように最初から最後まで虚構で成り立つ世界ならまだしも、現実というファクトがある世界において、そこにウソを設置するのは物凄く難しい。

だいたいにおいてファクトだけが精神に残るという事もあって、ウソはついた事すら忘れ果ててしまう事が多い。

それ故にウソツキは自分がついたウソと矛盾するようなウソを無意識でもってよく言ってしまう。

そういう状況になってから、カンの良い誰かに「いやお前それウソじゃん」と指摘された瞬間から、ウソツキの人生は崩壊する。

そこで「ごめんなさい。すみませんでした」とやれる人間などまずおらず、ウソツキはゴチャゴチャと言い訳を始め、そしてぶっ壊れる。

この段に至って、ウソツキが真人間に戻れる確率はほぼ0%だ。

大抵の場合において「あっ(お察し)」な存在へと一般的には認知されるようになり、虚構の中で生き続ける残念な人間がこの世に爆誕する。

ウソツキの行く末は地獄以外にはどこにもない。

ウソが上手くいってしまった時ほど、その上手くいってしまったウソからもたらされる快感に吐き気を催せるようになるべきだ。それができないと、貴方の人生も「あっ(お察し)」である。

ウソをウソだとわかって楽しく利用できないと、現実を良く生きるのは難しい

ウソは使ってもいいけど、それを快感につなげてはならない。

これが僕のウソに対する結論である。

世の中にはどうしてもウソが必要となる時がある。末期がんで一縷の望みすらない人間が希望にすがっている時

「いや、おまえ絶対に助からないから」

と言うのは誠実なのではなく単なるバカだ。

そういう人にウソをつきたくないのなら、例えば「確かに世の中、何がおきるかはわかりませんからね」などと言って共感する方が絶対にいい。

世の中の多くのウソは優しさで満ち溢れている。

なろう系は血湧き肉躍る体験を読者にもたらしてくれるし、転職の際に「家庭の事情で…」とテキトーにウソをでっち上げるのだって、まあお互いが納得する為の一つのよい手段である。

このように、誰かを優しさで包む為のウソはインスタントな形で一時的な使用で終わる性質のものだ。

その後でバレたとしても、そこまで事がハチャメチャにこじれる事はないだろう。

一方で己の快楽の為につくウソは本当にヤバい。

覚醒剤の乱用者が強い刺激を求めて使用量がどんどん増えるかのごとく、ウソにウソが乗っかってトンデモナイ事になる。

行き先も同じく地獄である。誰もが「自分だけは絶対に大丈夫」と思い、どうにもならなくなってから破滅する。

ウソをウソだとわかって楽しく利用できないと、現実を良く生きるのは難しい。僕はそう思う。

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【著者プロフィール】

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高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

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twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

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「不惑」の意味は年齢のこと?孔子の論語との関係や使い方も解説

「不惑」の意味は年齢のこと?孔子の論語との関係や使い方も解説
https://biz.trans-suite.jp/19048

『「不惑」は日常的によく見聞きする言葉で、年齢を話題にした会話にもしばしば登場します。また、有名な孔子の『論語』とも深い関係があるようです。この記事では「不惑」の意味をはじめ、孔子の『論語』との関係や、熟語の使い方が理解できる例文なども解説しています。

目次 [非表示]

1 「不惑」の意味や由来とは?
    1.1 「不惑」の意味①”心が乱れたりすることがない”
    1.2 「不惑」の意味②”数え年の40歳”
    1.3 「不惑」の由来は孔子の『論語』

2 「不惑」と孔子の論語との関係
    2.1 孔子の教えは「生涯成長すべし」
    2.2 「不惑」以外にもある年齢の異称
    2.3 孔子とは程遠い現代人の「不惑」以降

3 「不惑」の使い方や例文とは?
    3.1 「不惑」は40歳のことを指して使うのが一般的
    3.2 「不惑」を使った例文

4 まとめ

「不惑」の意味や由来とは?

「不惑」の意味①”心が乱れたりすることがない”

「不惑」の意味は、“心が乱れたりすることがない・超然とした悟りの境地”です。「ふわく」と読み、熟語を読み下した「惑わず」がそのまま意味となっています。この世に生きていると、さまざまな煩悩に心を乱されます。欲しいものは手に入らず、人間関係にも疲れ果て、悩みは尽きません。

「不惑」は心が乱れたり悩んだりするようなことがない、超然とした悟りの境地のことですが、凡人がそのような境地に至ることは大変困難です。

「不惑」の意味②”数え年の40歳”

「不惑」のもうひとつの意味は、“数え年で40歳のこと”です。数え年とは、現在の満年齢とは異なる年齢の数え方で、生まれた年を1歳として新年を迎えるごとに1歳年をとるという方法です。つまり数え年では、大晦日に生まれた子供は翌日になると2歳になってしまう計算です。

ちなみに40歳には「不惑」以外にも異称があり、四十路(よそじ)のほか、最近ではアラウンドフォーティを略したアラフォーという言葉も登場しています。「初老(しょろう)」も数え年40歳のことを指した言葉で、長寿祝の最初の年齢です。

また「不惑」と同じように、異称を持つ年齢があります。現在でもよく知られている「還暦」は数え年で61歳、「白寿」は数え年で99歳のことを指していますが、趣のある呼び名です。
「不惑」の由来は孔子の『論語』

「不惑」は、儒家の始祖である孔子(紀元前551年 – 紀元前479年)の『論語』が由来です。『論語』は孔子の言行録のような書物で、孔子の教えがよく理解できる一書であり、現代人にとっても学びの多い必読書となっています。

「不惑」は、『論語』の「為政篇」のなかの「子曰 吾十有五而志乎学 三十而立 四十而不惑 五十而知天命 六十而耳順 七十而従心所欲不踰矩」にあります。

現代語に直すと「子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う(したがう)。七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えず(こえず) 。」です。

「不惑」と孔子の論語との関係

孔子の教えは「生涯成長すべし」

孔子は自身について、「15歳で学問を志して30歳で独立、40歳で迷うことがなくなり、50歳で天から授かった使命に目覚めた。60歳で人の意見を素直に受け入れられるようになり、70歳で自分の思い通りに行動しても人の道から外れることはなくなった」と語っています。

つまり孔子ほどの偉人であっても、人間が完成するまでには長い年月が必要だったということです。

孔子の教えから分かるのは、人間は年齢を重ねならが成長していかなければならず、短期間で完成するようなものではないということと、節目ごとに成長のステップがあり、そのひとつひとつを順に完成させていくことが人間形成への道筋だということです。

「不惑」以外にもある年齢の異称

『論語』の「為政篇」で登場したのは「不惑」の40歳だけではありません。15歳から70歳までの間に6つの区切りを設け、以下のようにそれぞれの年代での努力目標としての目指すべき姿が、年齢をなぞらえる呼称となっています。

15歳:志学(しがく)
30歳:而立(じりつ)
40歳:不惑(ふわく)
50歳:知命(ちめい)
60歳:耳順(じじゅん)
70歳:従心(じゅうしん)

孔子とは程遠い現代人の「不惑」以降

現代でも、高校受験を迎える15歳頃には自分の進路を真剣に考え始めます。また、30歳頃になると社会人として自立できるようになります。

けれども孔子の時代より社会が複雑になったためでしょうか、40歳でも迷いが多く、50歳でも目の前の仕事に追われ天命に気づくゆとりはなく、60歳になっても我が強く、70歳で思い通りに行動して警察のお世話になるというありさまです。

また超高齢社会の到来により寿命は100歳近くまで延びましたが、80歳・90歳・100歳についての孔子の教えはありません。現代人は30歳からの生き方を、もっと真剣に考える必要がありそうです。

「不惑」の使い方や例文とは?

「不惑」は40歳のことを指して使うのが一般的

「不惑」には迷いがないという意味と40歳という意味がありますが、40歳のことを指して使うことが一般的です。ここでは40歳の異称という意味での「不惑」を用いた例文を提示し、熟語の使い方への理解を深めます。

「不惑」を使った例文

「不惑」を使った例文をいくつかご紹介しましょう。

四十路を迎え「不惑」と言われると面映く感じるが、初老と言われると面白くない。
人生50年時代の「不惑」は、まだ折り返し点にも達していない現代とは全く別モノだっただろう。
40歳はまだ迷いが多い年代だからこそ、自戒を込めて「不惑」と呼ぶようになったのかもしれない。
「不惑」に入ってにわかに英語熱が再燃し、TOEICを受験してみることにした。

まとめ

「不惑」の意味のほか、孔子の『論語』との関係や使い方が分かる例文などを解説しました。平均寿命が50歳に満たない頃には、15歳で一人前の大人として扱われていました。一方、現代の15歳はまだ義務教育を終えたばかりで、長い人だとあと10年近くも学生時代が続きます。

社会人としてのスタートが遅くなり寿命も長くなった現在、「不惑」となる年齢はどんどん先送りになりそうです。

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小倉あずき
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50代がさっぱりわからない

50代がさっぱりわからない
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20220720/1658305800

『ゆうべ、文章をなにも書かなくなった夢を見た。無気力な、何をすればいいのかわからなくなった未来の自分が、消極的に、もっと本業に取り組むかと呟いているのが物悲しかった。もちろんこんなのは本業に精力的に取り組む人々には当てはまらない、私の文脈内部にしか当てはまらない物悲しさだ。私は人生の半分以上、文章を書きながら生きてきた。だからなにも書かなくなった自分とは、人生の荷物の大事な部分を落としてきた自分のように思える。
 
年を取るということがわからなくて、年を取るということを少しでも知って、うまく立ち回りたくて、不安を軽減させたくて、私は努めてきたつもりだった。だというのに今の私は書くことがわからず、年を取ることもわからなくなっている。精神疾患になっているとは思わないが、いつ頃からか、迷いの季節に突入したな、と思う。
 
思えば30代後半〜40代前半は、自分の立ち位置と立ち回りのうえで便利な時期だった。もう中年だけどまだ若手だし、まだ若手だけどそこそこ世慣れてもいる。その両面を、如意棒のように振り回して社会適応できるのがその頃だった。知識とバイタリティと好奇心のバランスも良かった。
 
ところが40代も後半に入り、そのような社会適応が早くも成立困難になってきた。中年だけど若手、という立ち位置を他人に対して成立させられなくなって、中年オブ中年とでもいうべき新境地が現れてきた。自分を若手のように見せかけても、周囲、とりわけ年下はそのように見てはくれないだろう。社会的加齢は、自分の一存だけで決められるものではない。
 
すると、コミュニケーションも微妙に変わってくる。たとえば、20代の異性と20代のうちに恋愛するには20代のうちでなければならない。わざわざトートロジーめいたことを書くのは、かりに40代が20代の異性と恋愛できたとしても、それは40代が大幅に年下の異性と恋愛するのであって、20代の異性と20代のうちに恋愛するのとは随分ちがっているからだ。
 
世の中には、若い異性を金で殴ってなびかせ、侍らせる中年もいると聞く。そういった行為にも固有の意味はあろうけれども、若かりし日を取り戻せないのだけは間違いない。
 
同じことがオフ会などにも言える。どこかの新しいオフ会に出かけるとなったら、参加時点で私は最年長である可能性が高い。若かった頃と異なった役割を期待されるわけで、立ち回りを変えなければならなくなっている。それ自体、うまくやってのけたとしても、そこから汲み取る経験は以前と同質ではない。
 
そして体力気力集中力の衰え。
自分が書くということへの(しばらく忘れていた)疑問。
好奇心が膨らむより先に首をもたげがちな、「それって以前に見たことあるよね」という先入観。
 
自分は書き続けられるのか?
続けたとして自他に有意味なものをつくり続けられるのか?
 
そうした疑問は数年前からうっすらあったが、2020年代に入って少しずつ高まり、今、自分はわけのわからないゾーンにいる。もともと『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』を書いた時に大事な何かが抜けていった気はしていたのだけど、そこから同じものを再充填できたとは言い切れず、参考文献の山のなかで私は遭難している。
 
じゃあ、書くのをやめてしまえばスッキリした50代を始められるのか? といったらこれもわからない。たぶん無理だろう。より正確には「今はまだ、無理な気がする」。
 
こうして今、アイデンティティの寄る辺がわからない中年になってみると、カネとか、筋肉とか、老年まで持ち越せそうな諸価値に執着したくなる気持ちが少しわかった気がする。でもって案外、そうやってカネや筋肉に執着する人は程度が良いのかもしれない。いやどうだろう? 隣の庭の芝が青く見えるだけかもしれない。カネや筋肉に執着する中年の心境など、わかったようで結局私にはよくわかっていないのだ。
 
「そういう時、ロールモデルの生き方を参考にするのだ」、と人はいうかもしれない。わかっている。私だってできればそうするさ! しかし私の視界内にいた数歳年上の書き手たちは、ほとんど全員、50代になって書くのをやめてしまったか、書く勢いを失ってしまったか、なんだかわけのわからないtwitter論者になってしまった。結局私のエイジングの道は自分自身で切り拓いていくしかなさそうだけど、今は先行きがまったく見えなくて、途方に暮れてしまっている。
 
……で、こういうことをブログにたたきつけるように書く、その身振りも信じて良いのかわからない。
 
インターネットは第一に、願望と思い込みのシミュラークルの鏡地獄なのであって、誰かに何かを伝えるボトルメールとしての機能はもう期待できないように思われるから。この私の戸惑いも、誰かに届くより先に、そういう鏡面が欲しかった人の鏡となり、そういう中年を非難したかった誰かの酒の肴になるばかりなのだろう。しょうもないことだ。そのしょうもない鏡面世界のなかで、こんなこと書いたってなんにもなりやしないんじゃないか。』

事異なれば則ち備え変ず。

事異なれば則ち備え変ず。
https://shisokuyubi.com/bousai-kakugen/index-783

『韓非子(BC280頃~BC234頃 / 中国・戦国末の思想家 諸子百家)の著書「五蠹(ごと)」より備えについての名言(中国古典・故事成語) [今週の防災格言622]

『 事異なれば則ち備え変ず。 』

” 事異則備変。”

 韓非子(BC280頃~BC234頃 / 中国・戦国末の思想家 諸子百家)

 曰く―――。

世異なれば則ち事異なり、(世異則事異)
事異なれば則ち備え変ず。(事異則備変)

世の中が変わってくれば、物事も異なってくる。
物事の状況が違ってくれば、その準備も変えなければならない。
かつての最上の方法も、現在では通用しないこともある。
状況の変化に応じて、それらに対処する方法も常に変えていく必要がある、の意。

格言は韓非子『五蠹(ごと)』より。

 韓非子(かんぴし / 韓非)は、古代中国、戦国時代末期の韓の思想家。法家の代表的人物。

性悪説を唱えた儒家・荀子(じゅんし)の弟子で、申不害(しんふがい)、慎到(しんとう)、商鞅(しょうおう)らの法家思想を大成させた。

韓非の生国である「韓(かん)」は、戦国末期、秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓の「戦国七雄」のうち最弱国で、隣国の秦に怯え、いつ併呑されるか時間の問題でもあった。そんな滅びゆく祖国の弱体に発奮して、自らの思想を形とするため『韓非子』といわれる著作を残した。

その著作『五蠹(ごと)』を読んだ秦王政(後の始皇帝)は、いたく感激し、韓非を秦に招こうとした。ところが、荀子のもとで共に学んだ秦の重臣・奇斯(りし)に妬まれた韓非は毒殺されてしまう。韓非の遺したその思想は秦の始皇帝の中国統一の礎となったという。』

知の難きに非ず、知に処するは則ち難し

知の難きに非ず、知に処するは則ち難し
https://ats5396.xsrv.jp/2494/

『知の難きに非ず、知に処するは則ち難し

ー非知之難也、処知則難也ー     韓非子 説難第一二

(韓非子:二十巻五十五編。戦国時代の韓非の選。先秦時代の法家の学を集大成し、
それに韓非の考えを加えたもの。はじめは「韓子」と称したが、宋以降、
唐の韓愈と区別するため、「非」の字を加えた。)

{原文}
宋有富人。天雨牆壊。
其子曰、
「不築、必将有盗。」
其隣人之父亦云。
暮而果大亡其財。
其家甚智其子、而疑隣人之父。

此二人者、説皆当矣。
厚者為戮、薄者見疑。
則非知之難也、処知則難也。

{書き下し文}
宋に富人あり。天雨ふり牆壊る。
其の子曰はく、
「築かざれば、必ず将に盗有らんとす。」と。
其の隣人の父も亦云ふ。
暮れて果して大いに其の財を亡ふ。
其の家甚だ其の子を智とし、而るに隣人の父を疑ふ。

此の二人は、説は皆当たる。
厚き者は戮され、薄き者は疑はる。
則ち知の難きに非ず、知を処するは則ち難きなり。

{意解}

 知ることは難しくない、
知ったあとでどう対処するかが難しいのだという。

情報収集よりも情報管理(情報処理)のほうが難しいということである。
例として「韓非子 説難第一二」を揚げている。

 宋の国に金持ちの家があった。
ある日、大雨で塀が壊れたのを見て、息子が語った。
「塀を修理しないと、必ず泥棒に入られてしまう」
隣家の主人も同じことを言ってきた。

 その晩に、やはり、泥棒にはいられて、
ごっそり盗まれてしまった。
金持ちは、息子の賢さに感心したが、
同じことを言った隣家の主人に対しては、
「あの男が、犯人ではないか」と、疑った。

 親切に教えてやったのに、あらぬ疑いまでかけられるとは、
これほど割に合わない話はない。
私たちの周りにも、結構これに類する話が転がっている。

「韓非子」によれば、それはみな「知に処する」道を
誤ったことに起因するのだという。

 あらぬ誤解を招かぬためにも、
言葉には気をつけたいものである。

*参考資料:「中国古典一日一言」守屋洋(著)をもとに、
自分なりに追記や解釈して掲載しています。

私たちは、日々、何をするにしても
大なり小なり、決断(選択)をしている
その折々に思い出し、
より善い選択(決断)ができるように
貴方も私も 在りたいですね。

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ナオン について(※ このブログの作者)

美容業界での長年のマネージメント能力を活かし、 人生の選択時により善い選択(決断)の一助になればと、 中国古典の「意解」に取り組んでます。 古希を目前にして振り返れば、 その折々により善い選択(決断)が出来なかった事、 心ならずも人の心を傷つけてしまった事に、 後悔の思いは数知れず、走馬灯のように過ります。 私のように後悔先に立たずという思いは 読者には少しでも避けてほしいとの思いで ”中国古典 名言に学ぶ 総集編”を作成しました。

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救済

救済
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%91%E6%B8%88

 ※ 仏教の「解脱(げだつ)」が、「輪廻の輪」から脱することだとは、知らんかったよ…。

『救済(きゅうさい、英語: salvation)は、ある対象にとって、好ましくない状態を改善して(脱して)、望ましい状態へと変える(達する)ことを意味する。宗教的な救済は、現世における悲惨な状態が宗教に帰依することで解消または改善されることも意味する。様々な宗教で極めて重要な概念であり、救済を強調する宗教は救済宗教とも呼ばれ、「救済宗教」で通常「救済」という場合は、現世の存在のありようそのものが、生及び死を越えた存在領域にあって、何らかの形で決定的に改善されることを表すのが一般である。
救済の型の分類

救済される場所による分類:来世救済型 対 現世救済型
救済される対象による分類:個人救済型 対 集団救済型
救済される方法による分類:自力救済型 対 他力救済型

救済の型には、生者や死者や魂などが天国や極楽や理想郷などの「あの世」に行く「来世救済型」と、神や仏や菩薩や救世主や理想郷などが「この世」に現れる「現世救済型」がある。また、個人単位で救済される「個人救済型」と、宗教的共同体や民族や国家や人類全体など集団単位で救済される「集団救済型」がある。また、信仰や苦行や禁欲や悟りや善行による「自力救済型」(≒「因果説型」)と、神や仏や菩薩や救世主などの恩恵や慈悲による「他力救済型」がある。

太陽と月が一つになった「金星神=光明神」のシンボル 「オーリオール(アウレオラ/アウラ)」。

キリスト教で用いられるプロビデンスの目。この「目」は、本来、「太陽」(丸)と「月」(三日月もしくはアーモンド型)のシンボルを合成したものであり、「金星(神)」を意味する。「太陽(神)」+「月(神)」→「金星(神)」。
キリスト教における救済

キリスト教神学においては特に「救済論」(soteriology)の中心概念である。キリスト教は典型的な救済宗教で、キリスト教における救済とは、キリストの十字架による贖いの功績に基づいて与えられる恵みにより、信仰による罪の咎と束縛からの解放、そして死後にあって、超越的な存在世界にあって神の恩顧を得、永遠のいのちに与ることである。永遠のいのちは、時として、生物的ないのちとは種類を異にする、この世にあって持つことのできる霊的ないのちとも解釈できる。

ローマ・カトリック教会においては、罪は犯したが償える可能性の残っている者は煉獄に送られるとされる。

また、未来において世界が終末を迎えたとき、神が人々を裁くという最後の審判の観念もある。その時混乱の極みにある世界にイエスが救世主として再臨し、王座に就くとされる。死者達は墓の中から起き上がり(伝統的に火葬しなかったのはこの時甦る体がないといけない為)、生者と共に裁きを受ける。信仰に忠実だった者は天国へ、罪人は地獄 (キリスト教)へ、世界はイエスが再臨する前に一度終わるが、この時人々は救済され、新しい世の始まる希望がある。(千年王国)

グノーシス主義における救済

グノーシス主義における救済とは、反宇宙的二元論の世界観より明らかなように、悪であり暗黒の偽の神が支配する「この世」を離れ、肉体の束縛を脱し、霊として、永遠の世界(プレーローマ)に帰還することを意味する。グノーシス主義では悪が肉体を形作るものの、善もまた人の体に光の欠片(魂)を埋めたという神話もある。信者は死ぬとき真の神なる父を自覚し、プレーローマへ帰ろうとするが、悪(アルコーン達)の妨げる重囲を突破しなければならない。この過程は全体から見れば、光の欠片の回収でもある。

仏教における救済

仏教における救済とは、個人が悟りを得て、輪廻から外れ(解脱)、苦しみの多い(本質的に苦である)この世に二度と生まれてこない(転生しない)ことである。

つまり仏教における救済とは、「輪廻転生」という、仏教がバラモン教から引き継いだ、世界の仕組みに関する「概念」(世界観)をそもそもの前提としている。

そして「輪廻転生」は、「転生」という概念を前提としている。そして「転生」は、「霊魂的な「何か」(バラモン教では「アートマン」、仏教では「因果」)の存在」という概念を前提としている。

しかしバラモン教や仏教では、そうした「転生」が輪(環)のように永続する(輪廻する)ことで、「転生」そのものは「救済」ではなく「苦」と化しており、転生の輪(環)=輪廻から外れることを「救済」とするという、さらにひねくれた(発達した)構造となっている。

(通俗的には)悟りを啓いた者を「ブッダ」と呼び(伝統的には「仏陀」は歴史的人物としての釈迦を指す)、人間は誰でも(可能性としては)「ブッダ」になることが出来るとされる。

本来、仏教は、個人が悟りを得ることで輪廻から外れようとする、「個人救済」「自力救済」の営みから始まったものだが、大乗仏教が興ると自分のみならず他者(衆生)も救済しようという方向性が現れた。

また阿弥陀信仰や観音信仰や弥勒信仰や地蔵信仰など、仏や菩薩により救済される「他力救済」もあるが、本来の仏教の「自力救済」の論理からはありえず、西方の異教(ゾロアスター教・ミトラ教・ネストリウス派キリスト教・マニ教など)に由来する、仏教の皮を被った救世主待望思想の面が強い。

なお、弥勒菩薩は56億7000万年後に降臨するとされると通常言われているが、初期経典の記述からは5億7600万年が正しい。これは現在弥勒が転生し修行中の兜率天での天寿を計算で出したものである。

平安時代には釈迦入滅後末法の世が到来するという不安に戦乱も重なり、終末の後の救済を求める人心を反映してか浄土教が浸透していった。

こうした(本来の仏教の論理ではありえない)仏教の「他力救済」の面が、日本におけるキリスト教の受容に繋がっていることは否めない。

儒教における救済

儒教は、日本では儒学とも呼ばれ、一種の道徳律や政治論のようにとらえられているが、儒教は形而上的世界観をその道徳や政治の土台に置く、立派な宗教である。

儒教における救済には、個人的な側面と全体的な側面がある。

個人的な側面としては、一族の先祖をまつる祭祀儀礼がある。古代中国の世界観では、人間(の気)は天地より授かった魂魄(こんぱく)より成り(魂は精神を支える気、魄は肉体を支える気を指した)、死後、魂(こん)と魄(はく、ぱく)に分かれ、魂は上昇して天に、魄は下降して地に、行く(戻る)とされる(魄は遺体や骨とともに地に留まる・潜るゆえに、魄を保管するために土葬が行われる)。そして魂と魄を祭祀儀礼により再び結び付けるとき、人間は復活・再生する(=救済される)とされる。そしてこの復活・再生のための祭祀儀礼は、子孫でないと行うことができないとされる。儒教においては、子孫がいなければ祭祀儀礼を行うことができず、先祖や自分が復活・再生することができないのである。儒教において、自分を救ってくれるのは、神や仏などの超越的存在ではなく、子孫なのである。故に儒教道徳においては、子が親より先に死ぬことは、祭祀を行う者がいなくなる意味でも、親や先祖に対する不孝なのであり、家(家系)を守り、子孫の血を絶やさぬことが、非常に重視される。儒教の創始者である孔子自身が、母親が祭祀儀礼(葬儀屋)を生業とする、生まれであった。

全体的側面としては、儒教(特に孔子)は、尭・舜という古代の聖王による、仁義や忠孝を重視した王道・徳治政治を理想としており、儒教の政治的・宗教的目的は、乱れた世を正し、聖王の治をこの世に再現する(聖王の治に回帰する)ことにある。こうして儒教は先祖を祀る祭祀儀礼を中核に道徳を整備し、徳化(教化)により連続的に、儒教道徳を修めた個人を始めとして、家や国や天下(全世界)が形成されることによって、平和(儒教道徳に基づく儒教的秩序による世界統一)が達成され、徳治が行われ、人民が幸福に暮らせるようになることで、全体が救済されるとするのである。また、天下が平和になれば、家系も戦乱などで途絶えることがなく、子孫によって祭祀儀礼が行われることによって、先祖や自分の救済も保障されるという、循環・補完の論理があるわけである。

故に儒教は個人救済型宗教であると同時に集団救済型宗教でもある。

また、他の宗教がそうであるように、儒教にも終末論がある。即ち、為政者(君主・皇帝)が(儒教道徳に基づく)徳を失い暴君となり、暴虐暴政を働くようになると、人民は苦しみ、世は乱れ、怪異や天変地異が起こるようになる。これが儒教における世界の終末である。すると、天(古代中国の世界観における超越的至高存在)は徳のある者を新たな為政者候補に選び(天命が革まる)、反乱が起こり、反乱軍は暴君を打倒し滅ぼして、反乱者が新たな為政者(君主・皇帝)となって新王朝を打ち立ることで、世は、平和と秩序を取り戻し、怪異や天変地異も治まり、新たに生まれ変わるのである。これ(終末論)は儒教におけるもう一つの救済論でもある。しかし、この新たな為政者(の子孫)も、やがて堕落し、暴君と為りて、新たな為政者が立つのである。このように儒教における歴史観(世界観)とは、「世界の堕落と再生」が永遠に繰り返される、「循環史観」なのである。
救済事業

救済を行う事業。国際連合パレスチナ難民救済事業機関 (UNRWA)のパレスチナ難民救済事業などがよく知られている。種類としては貧民救済事業、孤児救済事業、失業救済事業、各種被害者救済事業などがある。
おもな例

難民への救済事業
護王神社 - 孤児救済事業
油須原線 - 政府が失業救済事業として
ユース・ウィズ・ア・ミッション
ハンセン氏病救済事業
救済土木事業
新梅田食道街 - 旧国鉄退職者に対する救済事業として* 学生セツルメント - 大学生による貧民救済事業として始まった
森永ヒ素ミルク中毒事件被害者救済事業
公害被害者救済事業
救世軍難民支援事業(戦時難民救済事業等)
連合国救済復興機関救済事業
千葉県 習志野開拓や下志津開墾など
暴力追放青森県民会議暴力団員による不法行為の被害者に対する救済事業
レスト・デュ・クール("Restaurants du coeur") - 貧困者救済事業
弓張岳#軍用道路と高角砲台の建設野外コンサートホールに改修 - 炭鉱閉鎖が相次いだ昭和40年代初期に失業者救済事業の一つとして
大阪市営地下鉄建設工事 - 失業者救済事業としての一面が
ドイツ強制的同一化 冬季救済事業(de)
ホスピタル・ホスピタリティ・ハウス(ファミリーハウス)- 宿泊施設での救済事業

関連人物

施乾
井上友一 - 感化救済事業や地方改良運動などを推進
ハンナ・リデル - 日本におけるハンセン氏病救済事業で知られる
光田健輔 - ハンセン病患者への救済事業に積極的に取り組んだ
綱脇龍妙 - ハンセン病患者救済事業の先覚者
フィニーズ・ヴァローラム
高木仙右衛門 - 伝道士として赤痢患者の救護や孤児救済事業に尽力
トマス・ハマーベリ - 中近東和平多国間協議での難民救済事業の仕事にも関係
朱慶瀾
許世英
和気清麻呂
アンソニー・カリア
石井十次
鈴木正三 - 明治になって失業した武士の救済事業として考案された撃剣興行を主催人道
タマラ・ド・レンピッカ - 戦争救済事業にも参加
大高善兵衛(社会教育家) - 1820-1893.農民・農民救済事業に貢献した。家々を回って嬰児教育をし、捨て子を多数養育した[1]。 』

中国SNSで「美女の避難を歓迎」投稿 ウクライナ人の対中感情悪化も

中国SNSで「美女の避難を歓迎」投稿 ウクライナ人の対中感情悪化も
https://news.yahoo.co.jp/articles/9e42b88c98b49b3a4d69aa9ccd339441aa97172a

 ※ 「日本人」を名乗るのだけは、止めてもらいたい…。