クリエイティブとは躁鬱の波乗りピカチュウである

クリエイティブとは躁鬱の波乗りピカチュウである
https://blog.tinect.jp/?p=75218

『たまに「普通の会社務めが無理だと思ったのでクリエイティブを志した」という人をみかけるが、その手の人種はメンタルがあまり強くはなさそうで終わりなき気分変調の荒波に耐え続けられるとはとても思えない。

夢がない話で恐縮だが、個人的には気分変調と仕事パフォーマンスの相関関係が弱い会社務めの方が多分向いているのではないかと思う。

サラリーマンは最低でも会社に通ってれば何とかなる。クリエイターではそんな芸当、絶対にできない。

クリエイティブとして長く生き続ける為には、普通の会社務めをしていたら意識しなくてもいい事をかなり意識してメンテナンスする必要がある。

躁鬱の波を己の生活リズムでもっていい塩梅に調整できないと生き残れないといってもいいかもしれない。

これは言葉で聞く以上に実行難易度は高く、ライターの10年生存率がそれを裏付けている。

クリエイティブとはいわば躁鬱の波乗りピカチュウだ。荒波を乗りこなせなかったピカチュウは、濡れ鼠となって放電して死ぬのである。』

『<3月のライオン 一巻より>

「他人が説得しなけりゃ続かないようならダメなんだ。自分で自分を説得しながら進んでいける人間でなければダメなんだ」

「進めば進む程道は険しく周りに人はいなくなる。自分で自分をメンテナンスできる人間しか、どのみち先へは進めなくなる」』

 ※ 人は、器の上に「何ものか」を乗せて、どっかに運んでいる…。それは、「自分というもの」なのかもしれない…。

 ※ 器の上には、「いろんなもの」が乗っている…。その都度その都度、その乗っている何ものかを繰り出して、人生の「切所」「難所」を凌いでいく…。

 ※ 年とるにつれて、乗っているものは、多くはなるが、古びてきて、「使い物にならなく」も、なっていく…。

 ※ それでも、どっかへと運んで行く必要がある…。

 ※ そのうちに、運んでも行けなくなって、「いのち」を使い果たし、あの世へと旅立って行く…。

〔人生、諸行無常という話し…。〕

 両親は、だんだん年取って、要支援、要介護状態へとなって行った…。

 それでも、初めのうちは、「ヘルパー」頼んで、どうにかこうにか二人で生活を回してた…。
 しかし、片方が「脳梗塞」を発症し、それもできない状況となった…。

 ケアマネジャーや医者のアドバイスもあって、二人そろって「施設」へ入所することとなった…。

 全部が「一人部屋」だったんだが、幸い「隣りどうしの二部屋」を、借りることができた…。

 オレが、面会に行った時の話しだ…。

 三人で、お袋の方の部屋に集結した…。ちょっと、小用を足すため、トイレを借りて、用を足していた…。

 そしたら、二人で何か、言い争っているんだよ…。

 親父「○○(オレの名前)に、小遣いをやらんとな。」
 お袋「そんなこと言っても、お金、無いよ。」
 親父「なんだ。500円もないのか…。」
 お袋「無い無い。500円も無い…。」
 親父「なんだよー。しみったれてるなあ…。」
 お袋「そういうこと、言われてもね…。」

 入所の時、もう認知症になっていて、「お金の管理」もできないんで、サイフなんかは、持たせていない…。そういう状況も、すっかり忘れているわけだ…。

 オレは、聞いていて、泣きそうになったよ…。この年になっても、まだ小遣いくれようとしてくれるなんてな…。

 そういう風に、オレに「小遣い」くれようとしてくれる人たちは、もういない…。

 寂しい限りだ…。…。

「とし寄りに 小遣いやると 諍う(いさかう)か さらに老いたる 父と母かな」

「親どうし 小遣いやると諍うか いくつになるも 子は子かな」

「ありがたき 小遣いやると諍いし 父母(ちちはは)見ては 涙しにじむ」

「ぽっかりと 空いた穴へと 骨(こつ)入れる 人とはこれと 僧が言う」

「胸奧(むなおく)に 空いた穴から 風が吹く 小遣いくれる 人たちいない」

「法事終え 母の遺影を 隣置く 父の遺影が うれし気に見ゆ」

「賑やか(にぎやか)に 二人で何か話すのか 父の遺影が にこと微笑む」

(ジジイ作)

「生命科学的思考で不安と向き合う」

 ※ NHKの「視点・論点」、けっこう参考になるものもあるんで、「録画」したものを時々視てる…。

 ※ 「生命科学的思考で不安と向き合う」という回も、そういう感じで視たものの一つだ…(今日、視た)。

 ※ 放送日は、去年の6月17日、午前4:40からの放送だったようだ…。

 ※ そんな朝早く、視る人いるのか、という感じなんだが、まあ、「録画」して視てる人が殆どなんだろう…。

 ※ リチャード・ドーキンスって人の、「利己的な遺伝子」という著作で語られている、「生物は、自己の生存と種の保存のために、形作られている。」という生物観・人間観に立脚している…。

 ※ 放送中に使用している「画像」(マトリックス)が参考になったんで、NHKプラスに上がってないか探した…。

 ※ しかし、探せなかった…。

 ※ どうも、最近放送した5回くらいまでしか、出てこなかった…。

 ※ 仕方ないんで、スマホで撮影したテレビ画面を、パソコンに取り込んで、キャプチャした…。

 ※ 盛大に「モアレ」が出てるのは、そういうわけ…。

※ 上記の説に従えば、ヒトは、「生存を脅かすことに直面すると、”不安”に駆られるように、形作られている(そういう、”仕組み”が、生物としてビルトインされている)…。

 だから、「不安」になることは、決してマイナスの側面ばかりでは無い…。「生存が危険にさらされていること」を、警告してくれている「ありがたいもの」という側面もある…。

※ しかし、それに「飲み込まれてしまって」、「何も手につかなくなったり」「平常心を失ったり」しては、マズい…。

※ そうならないためには、そういう「警告回路」がビルトインされていることを、しっかり認識して、客観的に対処する必要がある…。それを、「辛事は、理をもって処す」と表現している…。

※ しかし、あらゆる事がらに対して、「理をもって処す」のは、また行き過ぎだ…。

※ 逆に、「幸事(うれしいこと、喜ばしいこと)は、情をもって処して」、心の底から喜んで、時には「感情」を解放してやる必要もある…。

※ まあ、そういう生物観・人間観に立つわけだ…。

※ 他方で、ドーキンスは、同一書の中で、上記のようにも言っている…。

※ 「完全な自由意志」が存在するのかについては、一大哲学論争があり、それこそ「不可知論」に属するようなテーマでもある…。

※ しかし、人間社会の「制度」は、ある程度の「自由意志」を肯定するものとして定められている…。ドーキンスも、そういう立場に立つものなんだろう…。

※ 秩序ある安定した世界においては、「自分が希望する世界」とのズレは、あまり生じないから、「なぜ?」とか、「どうして、そうなのか?」という「主観的命題」は、認識されにくい…。

※ しかし、その安定・秩序が崩れて、カオスな世界に放り込まれると、「自分が希望する世界」とのズレが発生し、「なぜ違うのか?」「どうして違うのか?」という疑問が発生しやすくなり、「主観的命題」も認識されやすくなってくる…。

※ だから、「カオスな世界」に放り込まれることも、「悪い側面」ばかりでは無い…。そういう、「気づきの構造」をも備えたものであることを、しっかり認識して、「事に当たれば」いいだけの話しだ…。

※ ヒトの認識における視野を、2軸で斬ると、こういうマトリックスとなる…。

※ すなわち、「空間的視野」と「時間的視野」だ…。

※ 空間的視野は、文字通り、生物が生存していく世界で、「目に見えているもの」の世界だ…。

※ しかし、ヒトにはそういう視野だけが見えているのでは無い…。

※ 「言語」を操り、「文字」を発明したから、「過去からの知識の集積」をも、利用することが可能となった…。

※ すなわち、「時間的視野」をも、手に入れた…。

※ そういうヒトの「視野」は、万人に共通ではあるが、そこには当然「差異」というものもある…。

※ 例えば、「ヒトの赤ちゃん」を考えてみよう…。

※ まだまだ、「育っていない」し、「社会的な教育・訓練」も不十分だから、その「空間的な視野」も「時間的な視野」も、ごく狭いものに限られる…。

※ しかし、それも、決して「悪いこと」では無い…。

※ 「生存し」「生き残っていく」ためには、視野を限定して、余計なことを考えず、ただただ「生き残っていく」ことに、特化することは、「生存戦略」としては、正しいこととなる…。

※ ただ、そういう「視野」の広狭は、その構造を充分認識しておく必要がある…。

※ 自分の今現在の「視野」が、どういうものなのか…。今認識している「範囲」は、「目的」にとって、最もふさわしいものなのかどうか、絶えず意識しておく必要がある…。

※ 「目的」に合わせて、自在に「視野」の範囲を、広くしたり、時には「狭く」したり、自在に操る必要がある…。

※ この人、著作物も出しているようなんで、紹介しておく…。

トレードの世界に対峙すると、謙虚になる理由

トレードの世界に対峙すると、謙虚になる理由
http://blog.livedoor.jp/goldentail/archives/27951013.html

 ※ 今日は、こんなところで…。

『 世の中、投資ブームです。昔ながらの価値観で働いても、年功序列で給料が上がっていた時代は過去のものになり、勤めている会社も、いつ無くなるか判りません。今回の武漢肺炎のように、社会の環境変化というのは、予測できないものです。ある時代の人気企業でも、それが何十年も続く保証は、どこにもありません。

こういう時代に生きる為には、人生を会社に預けるような生き方ではなく、より能動的に生きる必要があります。資格の取得、副業など、メインスリームである会社勤めが駄目になっても、いくつかの収入の道を確保しておいて、それで食いつなぐ準備が必要です。何事も準備と覚悟のある無しで、生き方というのは、随分と難易度が変わります。

その中でもFXなどのトレードで稼ぐというのは、リスク・リワードがある、難易度の高い道です。世の中には、「何かコツみたいなものさえ掴めば、トレードで簡単に稼げる」と吹聴するブログやYoutuberで溢れていますが、アフィリエイトや情報商材で儲けたい人が誘導しているだけで、個人でトレードで勝ち続けるのは、決して簡単ではありません。ただし、不可能と言うつもりはありません。

このブログの著者のプロフィールで、自分について紹介させてもらっていますが、私も実際に数年ですが専業トレーダーで食い扶持を稼いでいた次期があります。ただ、数年前に金融庁が、日本のFXのレバレッジを25倍から10倍に下げる話を検討し始め、いわゆる海外FX業者を締め出す為に海外送金の経路に規制をかけ始めたのを期に辞めました。この環境でも稼げる人はいますが、レバレッジが下がると、それなりに資金が無いと、大きなロットを持つ事が不可能になるので、リスクに対してリターンが引き合わないし、自分には続けられないと考えたからです。

生きていくぐらいの資金は稼げるようになった時期だったので、痛かったのですが、続けていたら今頃は金持ちだったなんて絵空事を言うつもりはありません。実際にトレードで痛い目にあい、煩悶した人なら、軽々しく、そんな事を言う気にもなりません。まぁ、トレードに関して、以下の事を軽々しく言う人は、大嘘つきか、まだ、どん底を経験していないヒヨッコかのどちらかです。

ウン万円/月稼げる
誰でも稼げる
簡単に稼げる

最近は、「リスクを取らない事がリスクだ」なんて、いかにもな事を言う人もいますが、リスクなんて、必要がなければ、取らないに越した事はありません。大きなリターンをを狙えるツールには、それと同じだけのリスクが存在します。一ヶ月働いて稼ぐ額が、ものの数時間で簡単に溶ける事もあるハイリスクな世界がトレードです。そこで、専業で生きていくというのが、どれだけリスキーかは、想像にかたくありません。

実際のトレードの世界は、まさに抑制と決断の連続です。真面目に勝つトレードを継続しようとするならば、タイミングを見計らって無駄にポジションを持たない自己抑制と、チャンスにはリミッターを外して、一気に利益を獲りにいく決断を、日々繰り返す事になります。これを、一日中繰り返すのですから、半ば作業のようになり、トレードで感情が動かなくなります。逆に、トレードにスリルを感じて、アドレナリンが出ているような状態では、勝ち続ける事はできません。

抑制と決断。これを、断続的に繰り返していると、面白い事に人間は煩悩が削れてくるんですね。結局、人のあり方というのは、外部からの刺激に対して、どう感情が動いて、何を受け取り、どう行動するかという事が習慣化したものだと思います。良く言われるのは、一度逃げると逃げグセがつくとか、あの人は芯があるから何があっても大丈夫だとか、根拠は無いけど、状況に対する反応を観察して、その人の将来が予測できる事があります。そして、それは、大体当たっている事が多いです。

自分の資産を賭けてトレードをしていると、結果に対する責任は、良きにつけ悪につけ、全て自分にかかります。一切の言い訳はできません。責任を回避する事もできません。そして、世界の環境や情勢というのは、日々変化します。どこかで戦争が勃発するかも知れませんし、どこかの都市が自然災害で壊滅するかも知れません。それが、全てチャートに現れます。それを、予測する事は不可能で、誰しも脳天をかち割られるような損失を受けたりもします。

トレーダーとして生きるという事は、そういう世界からもぎ取った利益だけで、何十年も生活するという事です。アドレナリン出しながら、スリルを感じるようなトレードをしていたら、身が持ちません。その為、ゴツゴツとブサイクな形をしていた自然石が、水流に洗われて丸くなるように、長く過ごすほどに傲慢さが消えて謙虚になります。逆に言うと、そうじゃないと、やってられない世界です。理不尽さに対して、諦観し、天から降るような利益にも動じない、一見すると実に地味な人間に見えます。

ああ、誤解の無いように言っておきますと、私の言うトレーダーは、身銭を切って、自身で相場で勝負している人の事です。金融の世界では、トレードの周辺に群がって、周りを引き込んだり、手数料を目的として儲けようとする人達もいます。周りをうまく丸め込む事で、低リスクでリターンだけ得しようとする人達で、クルーザーを買ったり、高級乗用車を乗り回したり、豪邸を買って、知人を集めてパーティーを開いたりしているいわゆる金融成金とは、住んでいる世界が違います。彼らはリスクは、投資家に押し付けて、手数料で稼いでいるのです。だから、利益が出れば、いかにもな生活を始めます。あぶく銭身につかず、とはこの事です。

相場というのは、世界の経済が壊滅でもしない限り、継続する世界です。世界大戦で、世界中が戦争に巻き込まれた時期でも、相場は機能していました。人と人の間で、物資の移動、物の売り買いが行われている限り、相場が壊滅する事はありません。ただし、大荒れにはなるでしょう。そういう意味で、今が華でブィブィ言わせている人気企業よりも、存在するという意味では安定しています。

結局のところ、個人にとって世界というのは、その人がどう解釈するかという事でしかありません。よらば大樹の影で、大きな組織の中で、ほぼ一生保証された収入と待遇を目指すのが安定なのか、リスキーながらも、一企業の寿命とは比較にならないほどに強固な永続性を持つ相場という世界に身を置くのが安定なのか、それは人によるとしか言いようがありません。どちらが正解と言い切れるほど、世の中は単純じゃありません。

相場は、尽きることなく流れる水流と同じです。時に豪雨で、濁流となって、押し流され、時に日照りで厳しい時に、それまで森に蓄えられた水が清流を作ったりします。その中にいる一粒の小石として、尖ったままではいられないのです。それが、トレードの世界に対峙すると、謙虚になる理由です。』

年金局長が語った「厳しい未来」 ちらつく給付50%割れ

年金局長が語った「厳しい未来」 ちらつく給付50%割れ
牛込俊介
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA061OV0W2A100C2000000/

 ※ 『給付50%割れ』と言っても、『所得代替率が50%を割り込む意味は重い。公的年金は将来にわたり、この水準を上回ることを国民に約束しているからだ。これまでの財政検証で、50%割れは悲観的なシナリオの試算に限られていた。標準的なケースで下回ることはなかった。』…、ということだ…。

 ※ 誤解のないように…。

 ※ 公的年金の目標が、「所得代替率50%」という水準だったという話しは、知らんかった…。

 ※ まあ、子供にも手がかからなくなっているだろうから、年寄り二人で、「細々(ほそぼそ)と」老後を暮らしていってくれ…、というような感じだったんだろう…。

『11月は「いい○○の日」といった記念日が多い。その一つに「いい未来」という語呂合わせから生まれた11月30日の「年金の日」がある。2021年のこの日、厚生労働省年金局の高橋俊之局長がシンポジウムで語ったのは公的年金の「厳しい未来」だった。

公的年金は5年ごとの財政検証で、将来の人口推計などから給付水準(所得代替率)を試算する。次回は2年後の24年。高橋氏は「(やや楽観的な経済前提を置く)ケース3でも所得代替率が50%を割るおそれが大きい」との見通しを明らかにした。新型コロナウイルス禍で出生率が低下し、年金財政の支え手がさらに先細ると見込まれているためだ。

19年度の所得代替率は61.7%だった。前回の財政検証ではケース3で47年度に50.8%とはじいた。20年の制度改正によって46年度は51%を維持できるとも試算していた。

所得代替率が50%を割り込む意味は重い。公的年金は将来にわたり、この水準を上回ることを国民に約束しているからだ。これまでの財政検証で、50%割れは悲観的なシナリオの試算に限られていた。標準的なケースで下回ることはなかった。

一線を越えないためには、さらなる制度改正が要る。厚労省は①給付額を抑制する「マクロ経済スライド」で厚生年金の給付抑制期間を延ばして基礎年金にそろえる②基礎年金の加入期間を5年延ばし45年とする――の2案を温める。

①は田村憲久前厚労相が退任直前に検討を表明した。基礎年金の目減りを厚生年金の財源を一部回すことによって抑えるアイデアだ。一部の高所得世帯を除き、所得代替率が上がる。具体的な制度や仕組みは明らかになっていない。

②は国庫負担を含めた財源をどう手当てするかが課題になる。負担と給付がどのように変わるのか分かりやすく示す必要がある。

年金局長があえて厳しい将来見通しに言及したのは一連の制度改正に向けた地ならしと見る向きもある。厚労省は、本格的な検討に入るのは24年の財政検証以降と想定する。

社会保障制度の持続可能性を高めるには信頼が重要だ。国民が「いい未来」に思いを巡らせられるよう、可能な限り早く議論を始めるに越したことはないはずだ。』

50代で浮かび上がってくる承認欲求のヤバさ

50代で浮かび上がってくる承認欲求のヤバさ
2022-01-06
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20220106/1641470360

 ※ 今日は、こんなところで…。

『正月明けに、「50代くらいになると何をやっても褒められなくて、不安になり、承認欲求をこじらせる人が多い」というtogetterを発見した。
 
本当だろうか?
だとしたら世知辛い世の中だ、大変ですね、でも自分も無関係とは言えないな、などと思った。
 
そもそも、50代にもなって他人に褒められたい、それも、褒められているとはっきりわかるかたちで他者からの承認をいただきたい心境とは、どんなものだろうか。
 
私は、そのような心境は
 
・心理発達のプロセスが厳しかったことのあらわれか
・その人を取り囲む環境が特に難しくなっているか
 
のどちらかに思われ、どっちにしても滅茶苦茶厳しいよね……といった風に思った。しかも、案外他人事とも思えなかったりもした。今回は、それらについて書いてみる。
 
 「50代になって、わかりやすく褒められなきゃ不安ってどういう心理発達なのよ」

 まず心理発達のプロセスという視点でみた時、50代とは、どれぐらい褒められなければ気が済まない年頃だろうか。この際、呼び方は承認欲求でも所属欲求でもナルシシズムでもなんでも構わないが、社会的欲求の充たし方には年齢によって成熟の度合いがあり、基本的には、成熟が進むほど褒められ具合が低くても満足しやすくなる。
 
たとえば乳児は存在するだけでも養育者に肯定してもらえるし、また、肯定されるのがお似合いでもある。小学校低学年なら、学校のルールを守っていたり宿題を片付けたりした時には褒めてもらえる一方、悪いことをした時には叱られることだってあるだろう。高校生ぐらいになれば、褒めてもらえる場面はより少なくなり、褒めてもらえたとしても、乳幼児のように存在するだけで全肯定というわけにはいかない。
 
こんな具合に、年齢が高まり、社会的立場が変わるにつれて(そして接する他人の幅が広がるにつれて)、くっきりと褒めてもらえる場面は少なくなる。もちろん今どきはアメリカっぽいカジュアルな肯定文句が良いとみなされたりもするので、少し意識の高い場所で働いていれば、togetterに書かれているほど褒められないなんてことはないのかもしれない。とはいえ、50代になってもなお、幼児みたく「ぼく、えらいねー」とか「すごいすごいー」とか褒めてもらう機会はめったにないし、運よくそういう機会を獲得したとしても、それは(たとえば祝賀会や授与式のように)高度に社会化・儀礼化されているだろう。
 
では、もう幼児のように褒めてもらえなくなった中年の心は枯れ果てるしかないのか?
そんなことはない。成長するにつれて、人は、よりマイルドでより社会化・儀礼化した様式でも、だいたい社会的欲求を充たせるようになる。そういうことを数年前の私は繰り返し書き続けていた。以下の二冊の本などは、まさにそれにあたる。
 
「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)

作者:熊代亨
講談社

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認められたい

作者:熊代亨
ヴィレッジブックス

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この二冊の書籍のバックグランドとなっているエリクソンとコフートは、それぞれ論の核心は異なるにせよ、「社会的欲求がエイジングに伴って成熟していく」という見立てでは共通している。というより精神分析的な考え方には多かれ少なかれ、成長するにつれて欲求充足の様式が成熟していくといった含意があり、と同時に、そうした欲求充足の成熟不全が治療の焦点とみなされたりもしたのだった*1。
 
そうした精神分析的なモデリングを思い浮かべながら現実の50代や60代を見ていると、やたら褒めてもらいたがっている中年、褒めてもらえないと困っている中年が多数派になっている風にはみえない。いや、誰かに悪く言われたり誰かと喧嘩したりした直後などは、自分が褒めてもらえていない・評価されていないと悲しく思うことだってあるだろう。私もときどきそういう気分になる。けれども総体としては、職場で挨拶を交わす時、仕事のなかで自分の持ち味を生かせている時、趣味の集まりで旧交を温めている時などに、社会的欲求はだいたい充たせるのではないだろうか。
 
その際に、「ぼく、えらいねー」とか「すごいすごいー」とかお互いに指差し確認する必要性を感じている人はもういない。信頼しあっていること、メンバーシップであること、挨拶を欠かさない間柄であること、それだけでも十分だ。もちろん、ヘビーな自己愛パーソナリティの人などは50代になっても絶賛を期待し、そうでない肯定を肯定と感じられないものかもしれないし、それなら精神病理と呼ぶにふさわしいだろう。けれどもそういうわけでない多くの人は、社会的欲求の充足がまずまず成熟しているおかげで、幼児のように褒めてもらわなくても、あるいは万雷の拍手に包まれていなくても、だいたい充足できたりする。親をやっている人だったら、自分の子どもが元気に食事をとっているのを見ているだけで、社会的欲求が充たされたりもしないだろうか。
 
こんな具合に、ある年齢を越えてくると、社会的欲求は、自分の子どもの健在や自分の後輩の成長を見ているだけでも充たされると感じるようにもなる。別に自分が褒められなくても、自分より年下の人間が健在だったり成長していたりしているのを見ているだけで、それがもう心理的にはご褒美なのだ。この場合の充足感は、”ネットスラングとしての承認欲求”の意味合いからはかけ離れていると言わざるを得ない。が、ともあれ社会的欲求が充たされる経路には違いない。
 
そうしたわけで、この心理発達の側面からみると「50代にもなって、自分自身が、わかりやすく褒められなきゃ不安ってどういう心理発達なのよ?」と私は思いたくなる。それは社会的欲求の充足様式があまり成熟していないうまい具合に社会化していない、という問題や不全を含んでいるのではないか?
 
 

それとも、挨拶する相手にも窮するほど社会環境が悪いのか

 じゃあ、そういう悩みを持っている人が必ず成熟不全的側面を持ち合わせているかといったら……そうとも限らないように思う。
 
さきほど私は、「信頼しあっていること、メンバーシップであること、挨拶を欠かさない間柄であること、それで十分」と書いた。また私は、「別に自分が褒められなくても、自分より年下の人間が健在だったり成長していたりしているのを見ているだけで、それがもう心理的にはご褒美」とも書いた。けれども2021年の社会において、そうした信頼関係やメンバーシップや年下の存在が全員に行き届いているとは、到底思えない。
 
人的流動性が極限まで高まった社会では、どこでも働けるしどこでも住める。人間関係を続けたってやめたって構わない。けれどもそうした社会の帰結として、信頼関係やメンバーシップや家族といったものは、持てる人は持てるけれども持てない人は持てないといった具合に、格差が広がりやすくなった。タテマエとしての機会の平等を推し進めた*2今の日本社会は、経済的格差に加え、社会関係の格差の問題を内包している。ということは、社会的欲求の充足の格差を内包している、ということでもある。
 
結果、挨拶する相手にも窮するような孤立状態の人がほうぼうに現れることになった。日本に限らず、先進国では孤立が大きな社会問題となっているが、人的流動性を極限まで高めておいて、中間共同体が壊れていくことを寿ぎ、中間共同体をどこまでも悪者呼ばわりしていた人々が今更孤立に鼻白んでいるのを見ると不思議な気持ちになる──この事態が予想できなかったのなら見識が足りなかったということだし、予想していたけれども頬かむりをしていたのなら良識が足りなかったということではないか?
 
ともあれ、中間共同体に所属するよすがを失い、人的流動性がサラサラに高まった社会を身一つで漂流する人が、「何をやっても褒められなくて、不安になり、承認欲求をこじらせる」事態は十分にあり得るし、高齢者に怪しい商品を売りつける人々は、そうした事態をハックして商売をやっているという読みもできるだろう。年齢相応に社会的欲求が成熟している人とて、それこそ挨拶できる相手にも困るほど孤立していては社会的欲求が充たされなくなり、精神衛生の歯車がギクシャクしてくるのは十分考えられることだ。
 
 どちらが理由であれ、なるほど、危機と呼ぶのがふさわしい

 そうしたわけで、私は50代になって承認欲求がやたらクローズアップされる状態はだいたい危ういようにみえるし、なるほど、これをひとつの危機とみなすのもわかる気がする。
 
心理発達の不全にもとづいているのであれ、社会関係の欠乏によるのであれ、両方が重なっているのであれ、そのような50代は社会的欲求の充足という点で大きな問題を抱えているようにみえる。逆に言えば、この年齢の頃に「褒めてもらえなくて不安になる」とあまり感じない人は、今はまあまあ社会関係と社会的欲求に困っていないのだろう。
 
危機、などというと大げさに響くかもしれない。
また実際、危機というにはあまりにもありふれた危機でもある。
 
というのも、今の日本では中間共同体と呼べるものはすごく少なくなっているし、たとえば職場にそれを求めることも難しくなっているからだ。家族ですらそうだと言える。子育てをとおして社会的欲求が充たされていた人は、空の巣症候群に直面するかもしれないし、職場に貢献して社会的欲求を充たしていた人が退職後もそうできるという保証はどこにもない。パートナーに先立たれる人、健康を害し趣味を失う人だっているだろう。そうやって社会的欲求を充たす経路をひとつひとつ失っていった先に、「褒めてもらえなくて不安になる」と意識する未来を想像するのは案外たやすい。
 
日本でコフート理論に貢献し続けてきた精神科医の和田秀樹は、高齢者のナルシシズムの問題を重視してきたけれども、実際、社会関係を失いやすく、人間関係の喪失にも直面しやすく、健康までもが損なわれやすい境遇になってくれば、「褒めてもらえなくて不安になる」は差し迫った問題になりやすいだろう。親子といえども別れ別れになりやすく、金の切れ目が縁の切れ目にもなりやすい、この、サラッサラの社会が続く限り、中年期以降に浮かび上がってくる社会的欲求のヤバさを他人事とみなしてしまうのは、結構難しそうに思える。
 

*1:もちろん欲求充足の様式「だけ」が問題なのではない。臨床寄りのポジションで考えなければならない事例の場合、それより防衛機制の様式のほうに着眼したほうが実地に適っているよう、私には思える。

*2:タテマエとしての機会の平等、とわざわざ書いたのは、実際には生まれや育ちによって不平等なかたちで皆の人生のスタートラインが切られるからなのは言うまでもない

シロクマ (id:p_shirokuma) 1日前 』

どんなアニメ・ゲームをやっているかで人間を値踏みする勢は減ってないか、増えてるのでは

どんなアニメ・ゲームをやっているかで人間を値踏みする勢は減ってないか、増えてるのでは
(2021-12-30)
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20211230/1640863399

 ※ 今日は、こんなところで…。

『今日は2年ぶりにコミックマーケットが開催されたそうで、うちのタイムラインは、それを寿ぐ画像やメンションでいっぱいになった。そういえば、私はもう10年近くコミケに行ってない。今行ったら自分は年寄りだろうなとも思ったりした。
 
ところでコミケも含め、いわゆるオタク界隈とみなされる領域から発展した諸コンテンツの一般化、カジュアル化がいわれて久しい。新世紀エヴァンゲリオンの頃も、涼宮ハルヒの憂鬱の頃も、まどか☆マギカの頃もそれは言われていた。2021年の歌番組にウマぴょい伝説が登場するのも、そうした変化の帰結と言えるかもしれない。
 
だからアニメやゲームを楽しんでいるといってオタクとは限らない、と言いやすくもなった。そしていわゆるキモオタとは、キモいコンテンツに夢中になっているからキモオタなのではなく、主な趣味がSFや漫画やアニメやゲームだからキモオタなのでもなく、当人自身の(挙動も含めた)外観の問題と広くみなされるようにもなった。
 
「あなたがキモオタとみなされるのは呼ばれるのは趣味のせいではなく、あなたがキモいからです」という、例のやつだ。
 
では本当に、界隈のコンテンツはキモオタのあらわれではなくなったのだろうか?
 
たとえば新海誠の人気映画を観に来ているお客さんを眺めていると、そうだ、と言いたくもなる。今、新海誠を観ているからといってキモオタのあらわれとみなす人はあまりいないだろう。シン・エヴァンゲリオンにしたってそうだ。
 
けれども全てのコンテンツが一律にそうなったわけではない、気がする。選んでいるコンテンツやコンテンツの消費態度のうちに、何らかのヒエラルキーを読み込む筋はいまだに存在していて、キモオタとまではいわなくても、あまり褒められない風にみられやすいコンテンツ、鼻で笑われやすいコンテンツの消費態度といったものは健在なんじゃないだろうか。
 
というより、そういう読み筋に基づいてアニメやゲームを見る向きが案外強まっていたりして、ソーシャルな差異化のメカニズムの一端としてあてにされていたりしないものだろうか。
 
 「でも、就職した女子はそういうアニメやゲームがバレないようにするものなんです。」

 話は2010年代の中頃に遡る。
 
そのとき私は、前途有望な20代の集まりに参加する機会をいただき、いまどきの世間だの、グルメだの、適応だのについて意見交換していた。そういった場では、90年代のオタクのオフ会とはずいぶん違った話題も出るし、考え方も出る。たとえば涼宮ハルヒの憂鬱が話題に出るとしても、それをどのように位置づけ、どのように語るのかのアングルはだいぶ違うと感じたりした。
 
宴がお開きになり、レストランから駅に向かう道すがら、私はある女性の執筆者としゃべっていた。間違いなく前途有望な執筆者で、アニメやゲームについてもよく知っていた彼女は、レストランでの話の続きとして、私にこんな風なことを言ったのだった。
 
「でも、就職した女子はそういうアニメやゲームがバレないようにするものなんです。」
 まあ確かに。たとえば病院で若いナースが休憩中に、ソーシャルゲームをいじっていたりアニメを視聴していたりするのを見かけることはあるけれども、彼女らがそういうコンテンツを楽しんでいることを大っぴらにするようなことはない。いや、そういう話ではないな? 彼女の語る「バレないようにするものなんです。」には、職場で公言しないという意味に留まらないニュアンスが宿っていた。強者女子というか、ハイクラス女子というか、そういった女子はアニメやゲームを楽しんでいると友達にも知られないようにするといった意味だった。アニメやゲームを楽しんでいるとバレたら女子としての、または社会人としての「格」が下がるということなのか。
 
まあ、ハイクラスな女子ともなると、そういうものかもしれないな───当時の私は、それ以上深く考えるのをやめた。
 
ところがそれ以降も、類似点を感じさせる話が、とりわけ前途有望な若者の集まりでしばしば聞こえてきたのだ。
 
彼ら彼女らも、確かにアニメやゲームを楽しんでいる。『君の名は。』や『天気の子』は観ているし、スマホにはなんらかのゲームがインストールされていたりする。けれども彼ら彼女らの言葉尻からは、なにやら、”アニメやゲームを楽しみすぎるそぶりは見せすぎるものではない”といったような、それか、”アニメやゲームを楽しむそぶりには礼法や節度がある”かのような、そんなニュアンスが感じられた。
 
そして幾つかのコンテンツに関しては、poorな人間が嗜むものであるといった、哀れみの響きさえ感じられたのである。
 
最近、自分よりもずっと若い人々がスクールカーストについて語っている場面に出会ったけれども、そこでも、いわゆるオタク的な趣味はローカーストということで意見の一致をみていた。対して昔から人気の運動部や一部の文化部がハイカーストとみなされていたのは言うまでもない。
 
 趣味で人間を値踏みするまなざしはたぶん健在

 ということは、アニメやゲームがこれほど一般化・カジュアル化したといっても、アニメやゲームがメインの趣味だと周囲に知られるのは、いまどきの思春期男女にとってもリスクやコストを伴う選択なのだろうか。あるいはハイカーストに属することができない人間の表徴とみなされるものなのだろうか。
 
フランスの社会学者のブルデューは、人々の趣味や所作と、文化的なヒエラルキーや位置づけについてさまざまに論じた。
 
再生産 〔教育・社会・文化〕 (ブルデュー・ライブラリー)

作者:ピエール・ブルデュー,ジャン・クロード・パスロン
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ブルデュー『ディスタンクシオン』講義

作者:石井 洋二郎
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たとえば小説愛好家とひとことで言っても、どんな小説を読んでいるか、どう小説を読んでいるのかによって上掲図のような体裁の違いがあり、それは小説愛好家同士の間では意識されるものだろう。こうしたことは自動車の選択にも、衣服や音楽の選択にも、食事の選択にもしばしば当てはまる。それならアニメやゲームにだって、きっと当てはまるだろう。
 
アニメやゲームが一般化・カジュアル化したこと、その見立て自体は間違っていない。
けれどもそれらがカジュアル化していくなかで、どんなアニメやゲームを選んでいるのかや、どうそれらを楽しんでいるのかが、文化資本のマッピングや人間評価のヒエラルキー軸に組み込まれてしまった向きも、あるように思う。90年代まではアニメやゲームのほとんどを嘲笑していた層、いわば、人間評価のヒエラルキーを差配しているハイカースト層までもがアニメやゲームをたしなむようになった結果として、アニメやゲームもまた、どれを楽しんでいるのか・どう楽しんでいるのかが峻厳に評価され、意識される標的になったってのはありそうな話だ。
 
これは穿った見方だろうか?
かもしれない。

けれどもこうした見立ては、2010年代後半に私が出会った前途有望な若者たちの、アニメやゲームに対する繊細な感覚とよく合致している。あるアニメやゲームならばハイカーストにも楽しまれやすく、あるアニメやゲームならばハイカーストに敬遠されやすい──そういった向きがあるとしたら、キモオタか否かはともかく、人間評価のヒエラルキーを左右する要素として、アニメの趣味やゲームの趣味が問われずにいられなくなるだろうし、くだんの女性執筆者が語ったように、自分のヒエラルキーを守るために一部のコンテンツを隠す、またはそういったコンテンツに近づかないといった処世術も要請されるだろう。
 それじゃあ、オタクであるとバレるのが恐くて「隠れオタ」をやっていた頃と同じか?
 ……いや、同じとは言えない。もはやアニメやゲームは、カウンターカルチャーというよりメインカルチャーだ。だからハイカーストな人々も嗜むようになり、その選び方や嗜み方が問われるようになったという点では、濃いオタクだけがそれらを楽しんでいた時代、うるさいサブカルだけがそれらのヒエラルキーを論じていた時代とは違っているだろう。
 で、私は。
 
私のように中年になるまでアニメやゲームを愛好し続け、その趣味があまり良くないと自覚している人間は、定めし趣味の悪いローカーストな中年とみなされやすいのだろう。ああ、痛いなあ。私はそのようにまなざされるリスクを冒しているわけか。オタクだからキモいと言われる時代じゃなくなっても、その選好、その所作がローカーストなのだとしたら仕方ありませんね。
 
だからといって、自分の趣味を改める気があるかといわれたら、ノーだ。ある先人は、「オタクとは、自分が好きなものと自分が好きではないものが選べる人間、そのうえで自分が好きなものを選ぶ人間」と言っていた。私は、自分が好きなものを選ぶ人間であることを大事だと思っている。そのために他人からの評価が下がることも承知のうえで、このままの中年でいたい。』

「人の話を最後まで聞く」は、人間関係の奥義。

「人の話を最後まで聞く」は、人間関係の奥義。
https://blog.tinect.jp/?p=74242

 ※ 『人の話を聞く事は胆力の提示である』…。よくよく噛みしめておこう…。

 ※ 『人間、どうしてもバイオリズムなどもあって「ちょっと言い過ぎる」ような場面が時にある。』…。

 ※ 「バイオリズム」などと言う「高級なもの」じゃないが、メンタル的に不調で、ちょっと「失敗した」経験を最近したんで、語っておく…。

 ※ 月イチくらいで、かかりつけ医に診てもらっている…。それで、最近も行ったんだが、新たな薬の処方を受けた…。

 ※ そしたら、一粒飲んだだけで、「強烈な眠気(ねむけ)に襲われた」…。車の運転なんか、止めた方がいいレベルの眠気だった…。

 ※ それで、その旨すぐに連絡したら、「飲むのは、止めてくれ。」と言われた…。「分かりました。」と答えて、指示に従った…。

 ※ しかし、頭のボーっとした状態は、ほぼ一日中続いたんだよ…。

 ※ そういう頭の状態、精神状態で、あることがあって、「コールセンター」に問い合わせた…。

 ※ 普段だったら、「しごく穏当に」応対するんだが、そういうメンタル不調状態だったんで、つい「言を、荒げて」しまった…。

 ※ まだまだ、オレも「人間修行」「精神修養」が足らんのよ…。

 ※ それでも、すぐに気づいて、終わり際に「丁重に」フォローは、入れといた…。スマンかったな、お嬢さん…。まだまだ、「修行」が足りんのよ…。

 ※ そっち方面でも、「昨日の我に、今日は」勝たんとな…。

『仕事における悩み事の一位は人間関係だという。

一口に人間関係といっても色々あるが、今日は他人とうまくやっていくという観点から役立ちそうな話をしてみようかと思う。

否定から入るコミュニケーションが普通だった若い頃

のっけから恐縮だが、若い頃の僕はかなりコミュニケーションに難を抱えていたように思う。

このコミュニケーション障害がどこに起因していたかだが、原因の一つに就労前は”否定から入るコミュニケーション”割とが許されていたというのはあると思う。

学生時代のコミュニケーション作法は真剣勝負であった。

そもそも気心がある程度しれた相手としかコミュしないという事もあったとは思うが、人を認めるという作法がそこにはほぼなく、むしろ相手をdisる事が普通であった。

例えば相手が何か主張しはじめたら

「それはおかしい」

「でも、こういう事もいえるんじゃない?」

という反論が提示される場面が多く、それをキッカケにロジカルや知力でもっての殴り合いがスタートする事もしばしばあった。

進学校の生徒や医学生は一般的には高い知性を有している。

若く、プライドの塊のような彼らは兎に角鼻っ柱が強く、強烈な自己主張を提示する事が集団の中で埋没しない為にも許されるという側面があった。

このような会話に時にイラッとさせられたり険悪なムードを通り越して絶縁状態へと発展する事も多々あった。

だが、それはそれでまあ「合う人と合わない人がいる。仕方がない」と皆で諦めていた。
人の世は過ちで満ち溢れているが、それでも社会はちゃんと成立している

正直…僕はかなり長い間これを一般的な会話のお作法だと思っていたのだが、働き始めてから「これだと駄目だ」という事を幾度となく痛感するようになった。

若い医者にとにかくありがちな事の1つに、頭ごなしに患者さんやコメディカル含む同僚を説教にも近い態度でもって批判してしまう事がある。

必ずしも悪気があってそうしている訳ではないのだけど、こういう高慢な態度からは適切なコミュニケーションはまず発生しない。

正しいか正しくないかでいえば…正論をぶちまけている側にも一定の理はある。

だが、それは若さ故に真剣勝負を繰り広げる事が許された学生時代限定の行いだったと考えた方が遥かに建設的で、この態度を社会人以降にもなって続けるのはあまりにも分が悪い。

いくらやっている事が正しかろうが…社会をキチンと回せていない時点で駄目なのだ。

間違っていようが社会がキチンと回ることこそが肝心で、そういう意味では”過ち”は時に”正論”を超えるのである。

間違っていても、社会を回せている時点でエラい

医者に限らず、世の中の多くの事は正しいか・正しくないかという観点のみからは成立しえない。

人間、身体にめちゃくちゃ悪くても酒を飲んだ後で〆にラーメンを食べてしまうように、良くないムーブメントだって社会生活の大切な一要因である。

合ってるとか間違っているのかの前に、キチンと社会を回す事こそが肝心だ。

どんなに正しい行いでも社会が回らないのなら、その正しさは社会を回せないという時点で過ちにすら劣る産物でしかない。

清濁併せ呑むというフレーズがあるが、社会というのは本当にこの清濁併せ呑むという感覚がとてつもなく大切だ。

完璧な人間などこの世に居ないのだから、生きるということは許すという事と同義でもある。

だから人を許せるような人間を目指そう。

己の内なるアスペ心を爆発させて、他人の欠点や不満をあげつらう人間をやっても誰もついてきてはくれない。

正しさはある面では正義だが、それは万能ではない。

間違いであろうが社会を回せるのなら、間違いを許せるという事は時には正しさを超えるのだ。

人の話を最後まで聞けるというだけでも、強い

このように時に過ちを許せるという事が社会を回していくにあたっては肝心なのだが、それでもどうしても意見が対立する事や相手の意見を許容できない時というのはある。

例えば会社で管理職などにつかれている方で、部下が会社の方針にたてついてきた時があったとしよう。

この時「お前が正しい」というのは微妙だし、かといって頭ごなしに否定するのも冒頭の若き医大生の会話と同質である。

僕はずっと長い間、この難問をどう処理すればいいのかがわからなかった。

だが、最近になって実は会話の基本中の基本でもある「人の話を最後まで黙って聞く」という事が意外と効くという事に気がついた。

人は受け止めてもらえるだけでも、かなり満足する

繰り返しになるが、完璧な人間などこの世にはいない。

人間、どうしてもバイオリズムなどもあって「ちょっと言い過ぎる」ような場面が時にある。

だが、そういう時でも会話を止められずに最後までキチンと自分の意見を聞いてもらえると、意外と途中で冷静になれたりする。

会話を途中で遮られて意見を否定されると、頭の中は余計にヒートアップする。

だが腹の中を最後までぶちまけて、その上で相手が

「あなたの言いたいことはこういう事ですか?」

と自分の言っている事を相手にキチンと冷静に聞いてもらえたりすると、人は結構シラフに戻れる。

人の話を聞く事は胆力の提示である

人の話を最後まで黙って聞けるという胆力を示されると、多くの人は相手に尊厳のようなものを抱いてしまう。

逆に言えば、相手がどんなに凄かろうが、自分の話を全くといっていいほど聞かない相手を人は決して対等にはみない。

この手の人物は「確かにアイツの言ってる事は正しいかもしれないけどさ…」といった枕詞をつけて、ほぼ間違いなく受け入れられない。

基本中の基本でもある人の話を黙って聞くという事の本質は「俺にはお前を受け入れる胆力がちゃんとあるぞ」という態度の表出だ。

このような大きな態度を示せる人物は”器が大きい”という形容詞でもって称賛される事があるが、その器の大きさというのは実はたった数分程度の違いでしかない。

たった数分。その時間を我慢して相手に向き合えるというだけなのだが、こんな言葉にすればシンプル極まりない行いですら多くの人はできないままに人生を終えてしまう。

人の道とは実に奥深い。人間力は瞬きほどの時間ですら差が出るのである。

相手をキチンと受け止めた人の意見は、肯定も否定もちゃんと届く

こうやって相手を1人の人間として受け止めているよという態度さえ示すことができるのなら、その後に続く言葉は肯定でも否定でもちゃんと相手には届く。

「あなたはそう思うのね。けど私はそう思わない」

このように意見が完全に食い違ったとしても、お互いの間に人と人としての対等な関係がベースとしてあるのなら、経験上ではだいたいの場合において意見は落ちるところにちゃんと落ちる。

この落とし所をちゃんと作れるというのが人間関係では本当に肝心で、仮に相手が100%間違った意見を言っていたとしても「つかれていたんでしょ?じゃあ仕方がないよね」と歩み寄る余地を作ってもらえたりすると、拗れた案件ですらストンと落ちたりもする。

実は管理職に必要な能力がこの「落とし所をちゃんと作ってあげる能力」だ。プレイヤーとしてのエレガントな仕事さばきだとか、尋常ではない生産力だとかは現場では非常に重宝される能力だが、人をとりまとめる地位にいる人にとってはさほど肝心なものではない。

よく物凄く仕事はできるけど、管理職としては全然駄目だという人がいるけれど、そういう人は他人を”許す”能力に欠けている事が多い。

正論という切れ味のいい武器だけで戦っていて、落とし所を作るという柔らかさの必要性を認知していない。

この手の人物が管理職になると、現場はたいてい疲弊してしまう。

仕事はできるのに、人の気持ちが全然わからないと言われるタイプの管理職は部下とキチンとコミュニケーションをしていない。

自分は100%正しく、相手は100%間違っているという立ち振舞いは、仮にそれが本当にそうであったとしてもコミュニケーションではない。

人を管理するのに、なにも難しい人心掌握術などを使用する必要はない。

正しい・正しくないというフィルターを外し、間違いを時に必要な多様性として捉え、他人とコミュニケーションをする。

こういう胆力ある立ち振る舞いを、私達は身にまとわなくてはいけないのである。』

韓国与党代表「我々の大統領候補は確かに前科がある。しかし、公益のために犯した罪だ」

韓国与党代表「我々の大統領候補は確かに前科がある。しかし、公益のために犯した罪だ」とイ・ジェミョンの前科を擁護……これ、実は韓国人の基本的な考えかただったりします
http://rakukan.net/article/484929379.html

『韓国与党代表「李在明候補の前科4件、すべて公益のためのもの」(中央日報)

与党「共に民主党」の宋永吉(ソン・ヨンギル)代表は23日、同党の李在明(イ・ジェミョン)大統領候補の前科記録について、「すべて公益のために奔走した内容」と積極的に擁護した。

宋代表はこの日午後に中小企業中央会で開かれた「大転換選挙対策委員会職能本部発隊式」に参加し、李候補の人生を説明しながら李候補の前科4件をひとつずつ釈明していった。

飲酒運転に対しても「飲酒運転はもちろん過ちだが、飲酒運転も情報提供者の話を聞くため急いで行こうとしてそうしたという」と擁護した。

李候補は公務員資格詐称(2003年、罰金150万ウォン)、道路交通法違反(2004年、罰金150万ウォン)、特殊公務執行妨害(2004年、罰金500万ウォン)、公職選挙法違反(2010年、罰金50万ウォン)の前科記録がある。
(引用ここまで)』

『韓国与党である共に民主党の代表が「イ・ジェミョンに前科があるのは確かだが、すべて公益のための『いい前科』なのだ」と言い出しました。
 NAVERではYTN(報道専門ケーブル放送局)や中央日報の記事に1500前後のコメントがついてますね。
 当然ですが「公益のためのならなんでもありかよw」という嘲笑がほとんど。

 ただこれ、韓国人の基本的な考えかたです。
 「法律違反はしたことは間違いない。それでもこれはいい違反だから問題ない」っていう。
 正当な理由があれば違法であっても構わない。
 身近な例でいえば「被害者本位という考えに立てば、慰安合意は(実質的に)破棄しても構わない」──っていうアレ。

 大事なのは「正統性」(※ 漢字としては、「正当性」か)であって、法律はその下についてくるという考えかたなのです。
 ま、そんな考えかただろうがなんだろうが知ったこっちゃいないですが。
 国際的な関係性でもそれをやろうとするのですよ。
 唯一無二の真理であるかのようにして。

 いや、日本相手だけでなく。
 相手がアメリカでもそんなに対応は変わってませんからね。
 終戦宣言に固執してるところや、「アメリカは文面を用意している」だの「原則的に合意している」なんてのも同様です。
 「終戦宣言という絶対的に正しい事柄」を提唱しているのだから、多少の嘘は見逃されるべきくらいの気分なのですよ。

Twitterで更新情報をお伝えしています。フォローよろしくお願いします。→Follow @rakukan_vortex 』

「この貴重な銀の燭台を使って、正しい人間となるのです」

司教「この貴重な銀の燭台を使って、正しい人間となるのです」
https://www.eiga-square.jp/title/les_miserables/quotes/1

『妹の飢えた子どものためにパンを盗み、19年に渡り徒刑場に入れられていたジャン。仮釈放となったジャンだが、世間の風当たりは強く、食べるものにも困っていた。そんなジャンに、司教が食べ物と宿を提供してくれる。だが、ジャンは司教の厚意を裏切り、銀食器を盗んで逃げ出す。警察に捕まって司教の前に連れ出されたジャンを許した上に、司教はさらに銀の燭台も渡す。司教の温かい心に触れたジャンは改心する。』

『重要な部分に触れている場合があります。

司教「だが、忘れないように、兄弟よ。神の御心です。この貴重な銀の燭台を使って、正しい人間となるのです。殉教者たちの証言と、イエスの苦難と血によって、神はあなたを暗闇から連れ出してくれます。私は神のためにあなたの魂を救うのです」

Bishop: But remember this, my brother. See in this some higher plan. You must use this precious silver to become an honest man. By the witness of the martyrs, by the passion and the blood, God has raised you out of darkness. I have saved your soul for God. 』

ジャン・バルジャンの真の改心~ミュージカルでは語られないプチ・ジェルヴェ事件
https://shakuryukou.com/2021/06/12/dostoyevsky369/

〔ダニング・クルーガー効果〕

〔ダニング・クルーガー効果〕

根拠なき自信を語る部下 使い方次第では宝にも第24回 ダニング・クルーガー効果
https://style.nikkei.com/article/DGXZZO44234200W9A420C1000000

 ※ 今日は、こんなところで…。

『私には私のやり方がありますから

皆さんの周りに「根拠なき自信」を抱いている人はいないでしょうか。できもしない癖に、「私だってあれくらいの仕事は……」と大きなことを言う。その癖、ちっともやろうとせず、「なぜやらないか」の言い訳ばかりがうまい。

しびれを切らしてアドバイスすると、「私には私のやり方がありますから」と言って聞く耳を持たない。揚げ句の果てに、うまくいかないことはすべて人のせいにする。そんな人はいませんか?

自分の力量や特質を正しく把握できなければ、能力向上のスタートラインにも立てません。能力と自信とのギャップがどんどん広がり、せっかくの成長の芽をつんでしまいます。若い人に多く見られるのが残念でなりません。

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人手増やすと仕事も増え続ける 働き方改革を阻む原理
なんであいつが部長に 出世に隠された意外な理由とは

では、どうして能力が低いのに、自信だけが過剰なのでしょうか。本人の性格や育ち方もありますが、それだけではないのが人間の面白いところです。

原因を探るために、一つ皆さんに質問したいことがあります。自分の仕事の能力は、平均以上だと思いますか?

この質問、何度か企業研修などで試してみたのですが、なんと7~8割の人が「イエス」と答えるのです。そんなのあり得ませんよね。単純に考えれば、イエスとノーで半々になるはずですから。

つまり、人は誰しも、自分の能力を過大に評価する傾向があるのです。しかも、能力が低い人ほど、その傾向が強いというから驚かされます。

イグノーベル賞を受賞した心理法則

そのことに気づいた心理学者のD.ダニングとJ.クルーガーは、学生たちに実験をしてみました。ユーモアのセンスや論理思考を問う問題を出し、それぞれ自己評価をしてもらいました。その後で、「あなたのレベルは、同世代の人と比較して、どのあたりのポジションにあると思いますか」と尋ねたのです。』

『すると、成績が悪い学生ほど自分の順位を高く見積もりました。成績がよい学生は正しく、もしくはわずかに低く見積もるという傾向が見られました。これを、発見者の名前を取って「ダニング・クルーガー効果」と呼びます。2000年のイグノーベル賞を射止めた心理法則です。

さらに二人は、「なぜ能力の低い人間は自身を素晴らしいと思い込むのか」(Wikipedia、以下同様)も調べました。その結果、能力が低い人間には、「自身の能力が不足していることを認識できない」「自身の能力の不十分さの程度を認識できない」「他者の能力を正確に推定できない」という特徴があることが分かりました。

つまり、自分や周囲を俯瞰(ふかん)的に見る、「メタ認知」ができないわけです。身も蓋もない言い方をすれば、能力が低い人は、その低さゆえに、自分を客観的に見る力すらない。だからこそ能力が低いわけです。

逆に、能力が高い人はメタ認知ができるので、「自分ができた課題くらい、他人もできるだろう」と推測したわけです。さすが、優秀な人は自分をわきまえていますね。

無知を知る勇気を持つ

ダニング・クルーガー効果から抜け出すには、一体どうしたらよいのでしょうか。

一つは、当たり前の話ですが、客観的な評価に触れる機会を増やし、自分の認知のゆがみを正すことです。2人の研究でも、「その能力について実際に訓練を積んだ後であれば、自分の能力の欠如を認識できる」ことが分かっています。

その時に大切なのは、自分の無知や無能を素直に受け入れることです。背伸びをするのを止めて、分からないものは分からない、できないものはできないと。

無知や無能は決して悪いことではありません。伸びる余地がある証だからです。失敗にしても、途中で諦めなければ、成功への一里塚です。そんな風にポジティブに考えれば、都合の悪い評価も受け入れやすくなります。

もっと言えば、自分の無知を知っているというのは素晴らしいことです。かの有名な哲学者ソクラテスは、自らの無知を自覚することが真の知に至る道だと説きました。無知を知らないほうが、よほど恥ずかしいことなのです。』

『加えて、自分の認識に対して、「間違っているかもしれない」「他の考え方もあるかもしれない」と、常に疑いの心を持つことも大事です。「○○の視点で見たらどう見えるか」と時間・空間・人物をずらして考えるのもよい方法です。さらに知りたい人は批判的思考(クリティカル・シンキング)を勉強することをお勧めします。

時には根拠なき自信も必要

とはいえ、ダニング・クルーガー効果は悪い面ばかりではありません。程度にもよりますが、自己評価を盛り気味にすれば、自尊心を高められるからです。自信を持って行動できるようになり、やる楽しさも増します。

そのおかげでよい結果がでれば、さらに自信が高まります。そうやっているうちに、自分の実力と認識のズレがなくなる可能性があります。

また、「根拠なき自信」があるからこそ恐れを知らずチャレンジできる、とも言えます。「分相応の実力をつけてから」「私はまだ半人前なので」なんて言っていると、千載一遇のチャンスを逃してしまいかねません。

第一、未知の領域の仕事にチャレンジするときは、多かれ少なかれみんな実力不足です。それどころか、これからどんな知識や能力が必要になるかも分かりません。後で振り返ると、自分の無知さ加減にゾッとするくらいです。

どうせ、無知や無能は、やればすぐに痛いほど知らされます。勝負はそこからであり、事前の自己認識は大した問題ではないのかもしれません。

大切なのは、「必ずできる」「どうにかなる」と根拠なき自信を持って一歩踏み出すことです。時には、ダニング・クルーガー効果を逆手に取るくらいの気概が求められているわけです。』

ダニング=クルーガー効果
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B0%EF%BC%9D%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%BC%E5%8A%B9%E6%9E%9C

『概要

優越の錯覚を生み出す心理学的現象は研究によって、自らの能力の低さを認識することの困難さが過剰な自己評価につながる、認知バイアスの一形態であると認識された[1]。なぜ人間は自身の不得意を認識できないのか(2003年)といった認知的不協和に関する調査は、与えられた活動の評価基準の無知に由来する自己評価の誤りの多さを示している。自身の能力に対する過大評価の傾向は、読解や診療、自動車の運転、チェスやテニスの試合など様々な場面で見られた[2]。また、この効果を定義したデイヴィッド・ダニング(英語版)とジャスティン・クルーガー(英語版)によって2012年に行われた「なぜ能力の低い人間は自身を素晴らしいと思い込むのか」という調査によれば、能力の低い人間には以下のような特徴があることが分かった[3]。

自身の能力不足していることを認識できない
自身の能力不十分さ程度認識できない
他者の能力高さ正確推定できない
・その能力について実際に訓練を積んだ後であれば、自身の能力の欠如を認識できる。

2005年に執筆された自身の著書「Self-insight」の中で、ダニングは自己認識欠損の類推を「日常生活の病態失認(英語版)」に適用し、身体障害者が自身の身体能力の不全を否定、或いは認識しないといった認知バイアスが存在することを発見した。「あなたが無能なら、あなたは自分が無能であることを知ることはできない。正しい答えを生み出すために必要なスキルは、正解が何であるかを認識するために必要なスキルと同じである。」[4][5]

2000年、この効果を定義したデイヴィッド・ダニングとジャスティン・クルーガーは、優越の錯覚を生み出す認知バイアスについて1999年に執筆された論文「Unskilled and Unaware of It」で、イグノーベル賞の心理学賞を受賞した[6]。 』

『研究

ダニングとクルーガーは、基礎心理学科の学生に対する優越の錯覚を生み出す認知バイアスについて、論理的推論における帰納的、演繹的、派生的な知的スキル、英語の文法、ユーモアセンスなどについての自己評価を調べることによって仮説を検証した。

自己評価のスコアが確定した後、学生達はクラスにおける自身の順位を推定するよう求められた。

有能な学生達は自身の順位を実際より低く評価したが、無能な学生達は自身の順位を実際より高く評価した。

これらの研究では、ユーモアセンス、文法知識、および論理的推論などのテストにおいてそれぞれ最も低い得点を記録した研究参加者は、それぞれ自身のパフォーマンスおよび能力を過大評価した。

ある研究参加者は12パーセンタイルのスコアにとどまったにも関わらず、62パーセンタイルに記録されたと誤った推測を行った[1][7]。

さらに、優秀な学生達は、自分達の能力を過小評価する傾向があった。

それは、自分達が容易に実行できたタスクは、他人にとっても実行は容易であると誤って推測したからである。

優秀でない学生達は、不足していたスキルの最小限の指導を受けたことで、指導によって得たスキルの客観的な改善とは無関係に、自身のクラスでの順位を正確に判断する能力を向上させた[1]。

2004年に行われた研究「読心術とメタ認知」では、優越の錯覚を生み出す認知バイアスの前提を、被験者の他者に対する感情的感受性をテストするために拡張した[8]。

2003年に行われた研究「自己評価に対する自己観の影響」では、外部の手がかりの影響を受けたときの参加者の視点の変化が示された。

この研究は地理学の知識のテストを通した研究であり、いくつかのテストは参加者の自己観に積極的に影響を与えることが意図されており、あるものはそれを否定的に影響することが意図されていた。

その後、参加者が自身のパフォーマンスを評価するよう求められると、肯定的な影響を与えるテストを受けた参加者は、否定的な影響を与えるテストを受けた参加者よりも優れた評価を下した[9]。 』

『歴史

為政
子曰:「由,誨女知之乎!知之爲知之,不知爲不知,是知也。」〈子曰く、由(ゆう)汝に之れを知るを誨(をし)へんか、之れを知るは之れを知ると爲し、知らざるは知らずと爲せ、是れ知るなり。〉
孔子, 『論語』

この効果が正式に定義されたのは1999年であるが、優越の錯覚を生み出す認知バイアスが存在することは、歴史を通じて古くから言及されている。

東アジアには「夜郎自大」という四字熟語がある。

古代中国の思想家孔子は 「真の知識は、自分の無知さを知ることである[2]」と語り、古代ギリシアの哲学者ソクラテスは「無知の知」について語っている。

他にはイングランドの劇作家ウィリアム・シェイクスピアは「愚か者は自身を賢者だと思い込むが、賢者は自身が愚か者であることを知っている[11]」(自身が作成した喜劇『お気に召すまま』より)、

生物学者のチャールズ・ダーウィンは「無知は知識よりも自信を生み出す[1]」、

哲学者で数学者のバートランド・ラッセルは「私達の時代における苦しみの一つは、確信を持っている人間は愚かさに満ちており、想像力理解力を持っている人間は疑い執拗さに満ちていることだ[12]」と、

それぞれ語っている。 』

 ※ 「一文は、無文の師」(石舟斎遺訓)も、付け加えておこう…。

ウマ娘プリティーダービーに片思いしていた。愛されてはいなかった。つらい

ウマ娘プリティーダービーに片思いしていた。愛されてはいなかった。つらい
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20211117/1637142976

 ※ 今日は、こんなところで…。

 ※ シロクマ先生、ソシャゲに大分つぎ込まれたようだ…。

 ※ まあ、ほどほどにな…。

『『ウマ娘プリティーダービー』というゲームを好きになって、頑張って時間とお金を費やしてきましたが、片思いだったことが最近やっとわかってきましてね。
 
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(ソーシャル)ゲームの世界では近頃、「環境」だの「人権」だの物騒な言葉が聞こえてくるけれども、『ウマ娘プリティーダービー』にもそのような「環境」や「人権」に位置づけられるサポートカードがある。いわば、かつての『Fate/Grand Order』でいう諸葛孔明やキャスター・アルトリアのような存在、将棋でいえば飛車角に相当する存在だ。
 
そして11月、まさにその飛車角に相当するサポートカードのひとつ、「キタサンブラック」のサポートカードピックアップガチャが到来した。
 
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まさにこの時のためにひたすらジュエルを貯めていた!よって、これをひたすら回すことにした。回すしかない。今回さずに、いつ回す。
 
ところがジュエルを費やしてもまったく「キタサンブラック」が出ない。本命の「キタサンブラック」はもちろん、選外のSSRカードすら、100連回しても一枚も出ない。結局、このゲームに設定されている「天井」に相当する、200連まで回してもかすりもしなかった。200連を回して出てきたSSRは、セイウンスカイSSRの1枚きり。なんの成果もなかったというしかない。
 
今回に限らず、今までジュエルを溜めてまでガチャを回すたび、本命のサポートカードが出たためしがない。ビコーペガサスやスーパークリークのピックアップガチャでも、それまで忍従を重ね、そこで一気にガチャを回してもカードを引くこと自体はできなかった。実のところ、じかにガチャを回し、目当てのサポートカードを引いた記憶が春頃から無い。ならば、小手先の工夫ではなく、札束で殴る以外に道はないということか。
 
どれほど優れたソーシャルゲームでも、ガチャでSSRを引くことができない限り、プレイヤーにとってそれはクソゲーでしかない。然るべき場所にリソースを集中させ、人事を尽くして天命を待ったところに不要なカードの山を築いている限り、プレイヤーにとってそれはクソゲーでしかない。そして私とウマ娘の間柄において、ウマ娘プリティーダービーはそのように振舞い続けているのだから、ウマ娘プリティーダービーといえどもクソゲーと名指ししなければならない。
 
今回、このゲームのことが好きになってしまって自分なりに時間とお金を傾けてわかったことがある:それは、このゲームのデザインを知れば知るほど、自分の貢ぐ程度の時間やお金では遊びきれない、ということだ。有力なピックアップガチャのたびに福沢諭吉を何枚も要求せんとするゲームデザインは、私が慣れ親しんできた既知のゲームの感覚を完全に逸脱している。
 
わかってきたぞ、おれはこのゲームのレースに参加できる客ではなかった。サイゲームスの運営さんから、声が聞こえてくる気がするんですよ:「お気の毒ですが旦那様、一流トレーナーになるには、お金と時間の寄付がまるで足りないようです。」
 
それと「天井」のある本格ソーシャルゲームに初めてムキになってみて、「天井」とは、慈悲ではなく租税であるということも理解した。青天井のソーシャルゲームももちろん厄介だが、「天井」があったらあったで、これは厄介だ。
 
なるほど、「天井」があれば数万円を費やすことで必ず目当てのカードなりウマ娘なりを一単位譲り受けることができる(断じてガチャで引いた結果ではなく、譲渡の結果である)。しかし「天井」があって目当てのカードやウマ娘を譲渡され得るということは、「天井」まで回して譲渡されなければならない、ということだったのだ。
 
「天井」が設定されているゲームデザインである以上、それはプレイヤーの救済などではなく「『天井』までおまえはガチャを回すべきである」という神(=運営)のお告げだったのだ。これに気づくのが遅かったのは、大きな失敗だったと思う。
 
「天井」が設定されていて、そこまでガチャを回すことが基本指針、いや、基本単位である以上、ウマ娘というゲームは数万単位で寄進することが基本ムーブになっていると自分は解釈することにした。もちろん、リセマラからやり直すという方法や一か月980円課金+チマチマとジュエルを運営からもらって天井を意識したガチャを回すという方法もなくはない。けれどもそれはお金のかわりに大きな時間的代償を必要とするし、なんやかや言っても豪華にカードを揃えている旦那様に対抗するのは至極困難なのである。
 
かてて加えて、豪華にカードを揃えている旦那様でさえ、チャンピオンズミーティングの前ごとにきめ細かい調整を行わなければならない点では変わらない。だからこのゲームは、お金と時間、双方にゆとりのある旦那様が主な想定顧客なのだろう。
 
ここまで読んだ人のなかには、「どうして、レースに勝つことを前提にウマ娘を語っているのか」「もっと気楽に遊べばいいのに」とおっしゃる人もいるだろう。
 
確かに、そうではある。
 
けれども良くも悪くも、ウマ娘というゲームにはレースというフィーチャーが設定されていて、毎日チームレースが行われ、毎月チャンピオンズミーティングが行われ、勝利は顕彰され、栄誉とみなされているのだ。このゲームデザインで勝敗を意識しないなど、どうしてできよう。できなくもないが、ゲームデザインからいって、勝敗を意識しないほうがこの場合不自然だ。
 
そして自分の陣営のウマ娘たちに対し、どうして「勝負に負けてこい」という態度をとれるだろうか。
 
ウマ娘たちが切磋琢磨し、精一杯トレーニングしている。トレーナー側からみれば、精一杯育てたウマ娘ということでもある。おれたちの愛馬、愛するウマ娘たちがずきゅんどきゅんと走り出すゲームで、どうして負けるに任せていられよう。まして、レースというフィーチャーを敬遠することなどできようか。
 
である以上、ウマ娘というゲームを誠心誠意プレイしようと思ったときにレースを意識から逸らせるのはとても難しい。少なくとも私には難しかった。だからFGOの時よりもアグレッシブにゲームに取り組んだつもりだったけれども、そもそも自分の可処分時間と可処分ゲーム課金では太刀打ちできないのだった。
 
今後、新しい「環境」や「人権」サポートカードが来るたびにこれほど呻吟させられるか、さもなくば「天井」を前提としてシャトー・マルゴーやシャトー・ラフィットロートシルトほどの課金を求められるかするなら、やっぱりついていけない。自分は、もうちょっと時間やお金にやさしいソーシャルゲームをやるしかないのだと思う。それか、レースといった要素を気にしなくて構わないソーシャルゲームか。
 
もう、目当てのSSRの出ないガチャに苦しむのも、うちの陣営のウマ娘たちの俯き顔を見るのも、疲れてしまった。
アンインストールするしかない。
 
 【それにつけても、ウマ娘の尊さよ】
 
そもそも、こんなことなってしまった一番の原因はウマ娘のかわいらしさ、尊さのためだ。
 ウマ娘はみんなかわいい。わずかに気に入らないデザインのウマ娘がいないわけでもないが、それでもレース場を走っている時にはたいしたことはない。というか、多分私にとってウマ娘プリティーダービーのキャラクターデザインは至上最高といって良いほど好みなのだと思う。
 
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特にこの人、マルゼンスキーは特別だ。マルゼンスキーはいい。昭和から平成の古語を喋ることから「まるおば」などと言われているようだが、これほど美しいおばさんはどこにもいない。私服姿がまたいい。完璧だ。固有スキルは格好良く、水着モードもはっちゃけていて良い。
 
このマルゼンスキーを筆頭に、オグリキャップも、メジロマックイーンも、ビワハヤヒデも、ツインターボも、ヒシアマゾンも、みんな格好良くかわいい。そして尊い。
 
自分は「萌え」の世代のオタクだったから、「尊い」という言葉を当てはめることに抵抗感をおぼえる。ところがウマ娘にだけは「尊い」という言葉を当てはめたくなる。決して素手で触れてはいけない宝石のような物語とキャラクターたち。このウマ娘たちにはいつまでも尊い存在であって欲しい、そんな気持ちがふつふつと沸いて来る。こういう気持ちは、たとえばFGOや艦これでは全く無かった感覚だったので、だから自分のなかではウマ娘は尊いことになっている。
 
先日、ウマ娘の運営から二次創作についてのお触れが出て、暴力、グロ、エロを戒める内容だったが、これは、少なくとも自分にはすごくわかる。私にとってウマ娘世界は尊く、その尊さを何者かに脅かされることに怖さをおぼえる。でもって、思うに、ウマ娘世界の想像力というか想像世界というかは、案外脆いような気がするのだ*1。
 
ウマ娘の二次創作のお触れの主な狙いは、たくさんの人が言及しているように、サイゲームスと馬主の問題なのかもしれない。大人の世界だから、それは考えられることではある。けれどもウマ娘の想像世界を尊いと感じている自分からみると、それは暴力やグロやエロによって簡単に手折られてしまうウマ娘の尊い想像世界を守るための切なる願いのようにも思える。
 
それなら尚更、ウマ娘という宝石箱をそっと心のなかに閉まっておくべきなのかもしれない。そのほうがきっと、ウマ娘たちが尊いままでいてくれるだろうから。
 
TVアニメ『ウマ娘 プリティーダービー Season 2』 オグリキャップのどんぶり
コスパ(COSPA)

Amazon
 
それでも私は、このオグリキャップどんぶりを買ってしまうほどにウマ娘たちが好きになってしまったから、ウマ娘というゲームにも愛されたくて、けれども愛してもらえる旦那様にはなれないことに気づいてしまった。ラーメンを食べている時のオグリキャップどんぶりだけが、ぼくを裏切らない!
  
ソーシャルゲームにおいて、人間がゲームを遊戯するのでなくゲームが人間を遊戯し、人間がガチャを回すのでなくガチャが人間を回しているとは周知の事実ではある。ところがこのようにウマ娘プリティーダービーに恋慕してしまった結果、またしてもガチャにいいように回され、レースにいいように走らされてしまった。
 
2021年のゲームで一番思い出に残ったのは、文句なしにこのウマ娘プリティーダービーだ。けれどもプレイヤーとしての自分の馬力が足りず、臥薪嘗胆する強い心も足らず。ついていけなくなってしまいました。
 
*1:これが艦これなら、暴力、グロ、エロが混じっても想像世界はたいして揺るがない。はしたない中波絵の艦娘もいるし、彼女たちは戦争しているのだ。だからよそはよそ、うちはうちと割り切るのはたやすい

シロクマ (id:p_shirokuma) 1日前 』

※ こっちの方が、よくない?

『キリギリスが遊んでばかりなのは間違ってない』

『キリギリスが遊んでばかりなのは間違ってない』
https://orisei.tumblr.com/post/668116446312808448/6%E5%B9%B4%E7%94%9F%E3%81%AE%E7%94%B7%E3%81%AE%E5%AD%90%E3%81%8C%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%81%8C%E9%81%8A%E3%82%93%E3%81%A7%E3%81%B0%E3%81%8B%E3%82%8A%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%AF%E9%96%93%E9%81%95%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%A8%E8%A8%80%E3%81%84%E5%87%BA%E3%81%97%E3%81%9F%E7%90%86%E7%94%B1%E3%82%92%E8%81%9E%E3%81%8F%E3%81%A8%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%81%AE%E5%AF%BF%E5%91%BD%E3%81%8C1

 『“6年生の男の子が『キリギリスが遊んでばかりなのは間違ってない』と言い出した。理由を聞くとアリの寿命が1,2年に比べてキリギリスは2ヶ月らしい。確かにそれなら私も遊ぶわ。だって冬越せないんだから蓄える必要もないしね。子供といえども侮るなかれ。新鮮な学びをありがとう。”』

 ※ 「一文は、無文の師。」(「石舟斎遺訓」一つでも知識を有する者は、全く知識が無い者の師である(だから、どんな人に対しても、謙虚に「教えを乞う」という姿勢でいることが、大切…、という教え)…。

 ※ そういう「姿勢」でいないと、「他人様は、”知恵”を授けては、くれない。」…。

 ※ 「子供」に対しても、それは同じだな…。

シルバー川柳、キレッキレ

シルバー川柳、キレッキレ
https://orisei.tumblr.com/post/668031948341510144/%E6%82%B2%E5%A0%B1%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%BC%E5%B7%9D%E6%9F%B3%E3%82%AD%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%AD%E3%83%AC-%E3%82%8A%E3%81%B7%E3%82%89%E3%81%84%E9%80%9F%E5%A0%B1

 ※ 今日も、雑用に見舞われて、走り回った…。

 ※ こんなところで…。

※ 「私だけ伴侶がいると妻嘆く」は、ヒドかろう…。

※ 「女房から生前退位せまられる」もな…。

※ 個人における「生前退位」とは、一体何だろう…。

あんなに「本」命、だった父が…。

あんなに「本」命、だった父が…。
https://orisei.tumblr.com/post/668032262703562752/drhaniwa%E3%81%82%E3%82%93%E3%81%AA%E3%81%AB%E6%9C%AC%E5%91%BD%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%E7%88%B6%E3%81%8C%E9%A0%AD%E3%81%8C%E5%83%8D%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%8B%E9%9B%86%E4%B8%AD%E5%8A%9B%E3%81%8C%E7%B6%9A%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%8B%E7%9B%AE%E3%81%8C%E7%97%9B%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%8B%E8%A8%80%E3%81%A3

※ いずれ、本も読めなくなるし、ディスプレイも見れなくなる…。

※ オレも、せいぜい励まんとな…。

※ ただ、「思考力」だけは、「鍛えれば、伸び続ける」らしい…。

※ 「脳の神経細胞」自体は、死滅していくが、「各神経細胞どうしの連結」は、死ぬまで「連結させること」ができるそうだ…。

※ それを信じて、頑張ろう…。

アメリカ白人は「生まれる前から」レイシスト

アメリカ白人は「生まれる前から」レイシストであり、
死ぬまでレイシズムの原罪から逃れることはできない
【橘玲の日々刻々】
https://diamond.jp/articles/-/248160

 ※ いやいや、「衝撃的な」記事だ…。

 ※ インパクトという点では、今年読んだ記事の中での「ベスト」だろう…。

 ※ 丸々、紹介させていただきます…。

 ※ それにつけても、アメリカ人やって行くのは、大変だ…。

 ※ 白人だというだけで、「原罪」押し付けられたり、「内なる差別意識を直視し、真摯に向き合え!」と迫られるわけだ…。

 ※ うちは、仏教、それも「曹洞禅(道元禅師のな)」なんで、「なむしゃかむにぶーつ(南無釈迦牟尼仏)…。」とか唱えて、(頭の中で、座禅して)「悟りに向かって、日々修行」していればそれでよい…。

 ※ どーせ、坊主でもない一般人が、「悟りを開く」なんて、できっこ無い…。

 ※ それでも、誰からも「地獄に落ちるぞ!」とか「人として、不適格だ!」なんて糾弾されることも無い…。

 ※ 火葬なんで、「死後の復活」とか、「死後の裁き」とか、知ったこっちゃ無いしな…。

『アメリカでBLM(ブラック・ライヴズ・マター/黒人の生命も大切だ)の反人種差別デモが過激化の度合いを増している。その背景には、奴隷制廃止から150年、公民権運動から半世紀以上たっても、依然として黒人の地位が向上していない現実がある。

 その結果、「人種問題」をめぐってアメリカの白人は2つのグループ(部族)に分断されることになった。ひとつは保守派で、「法律上は平等な権利を保証され、そのうえアファーマティブアクション(積極的差別是正措置)で優先枠までつくったのだから、現在の苦境は自己責任だ」とする。これについては代表的な保守派知識人の一人ヘザー・マクドナルドの“The War on Cops(警官との戦争)”を紹介した。

[参考記事]
●日本ではほとんど報道されない、BLM運動の嚆矢となった「ファーガソン事件」の真相と背景にある黒人の犯罪率の高さ

 それに対して、アメリカ社会の「構造的な人種差別」を批判する左翼(レフト)はどのように考えているのだろうか。それを知りたくて、BLM運動以降、アメリカでベストセラーとなったロビン・ディアンジェロの“White Fragility: Why It’s So Hard for White People to Talk About Racism(白人の脆弱性:白人にとって人種主義について話すのはなぜこれほど難しいのか)”を読んでみた。

 著者のディアンジェロは1956年生まれの「白人女性」で、「ホワイトネス(白人性)」の研究で博士号を取得し、大学で多文化教育を講じるかたわら、企業などにダイバーシティ・トレーニングを提供する活動を続けている。“White Fragility(白人の脆弱性)”はディアンジェロの造語で、これがなにを意味するかはおいおい説明しよう。
アメリカ白人は、「生まれる前から」レイシスト

“White Fragility”でディアンジェロは、批判的人種理論(Critical Race Theory)にもとづいてきわめて明快な主張をしているが、それは日本人(とりわけ「リベラル」)にとって容易には理解しがたいものだ。ここではできるだけ客観的に説明し、私の感想は最後に述べることにしよう。

 ディアンジェロによれば、アメリカ社会は人種・性別・性的志向などによって階層化されており、その頂点に君臨するのは「白人、男性、異性愛者・健常者・中上流階級」という属性をもつグループだ。だが「白人女性」や「白人のLGBTQI(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー、クィア、インターセックス)」だからといって「人種主義Racism」から逃れることはできない。

 なぜならアメリカ社会の根底には、「white」と「people of color」の構造的な差別があるから。whiteは「白人」、people of colorは「有色人種」のことだが、raceを避けている用語に「人種」の訳語をあてるのは適切ではないだろう。直訳では「(肌の)色のあるひとたち」だが、これは日本語として違和感があるので、ここでは「ピープル・オブ・カラー」とカタカナで表記する。

 この訳語にこだわるのは、ディアンジェロの世界観が「白人」と「ピープル・オブ・カラー」の二元論だからだ。「奴隷制」と「植民地主義」という負の歴史の上につくられたアメリカ社会では、この2つの集団間の「差別のシステム」があらゆるところに埋め込まれているのだ。

 ピープル・オブ・カラーには黒人(アフリカ系)、ラティンクス/Latinx(ラテンアメリカ系)、アジア系、ネイティブアメリカンなどがいるし、人種間の結婚で生まれたひとたちもいるだろう。――中南米(ラテンアメリカ)に文化的・民族的アイデンティティをもつアメリカ人は「ヒスパニック」と呼ばれていたが、彼らは「スペイン語話者」でも「スペイン出身者」でもないため、「Latino(ラテン系男性)」や「Latina(ラテン系女性)」が好まれるようになり、近年はジェンダーフリーの呼称として「Latinx(ラテン系)」という新語が「PC=政治的に正しい」とされるようになったようだ。

 白人にも同様に、アメリカ社会の主流派であるWASP(イギリス系プロテスタント)だけでなく、かつては黒人同様に扱われていたアイルランド系やイタリア系、ナチスの弾圧を逃れてアメリカに渡ったユダヤ系や、新興移民として奴隷制も公民権運動も知らないロシア・東欧系などさまざまなグループがあるし、白人とピープル・オブ・カラーの結婚も珍しくなくなった。

 だがディアンジェロは、このように人種の多様性を強調することを否定する。「人種多様性」はピープル・オブ・カラーを分断し、白人に免罪符を与え、「白人VSピープル・オブ・カラー」という構図を曖昧にするだけだからだ。

 この二元論からディアンジェロは、「アメリカでは人種主義(レイシズム)は白人だけのものである」というかなり思い切った主張をする。ピープル・オブ・カラーのなかにももちろん、他の人種に対して偏見をもつ人間はいくらでもいるだろう。だがそれは、定義上、(アメリカ社会では)レイシズムとはなり得ない。その一方で白人は、祖先の国籍や家系の歴史に関係なく、存在そのものが「レイシズム」だ。

 これは、「白人は生まれながらにしてレイシスト」というだけではない。アメリカ白人は、「生まれる前から」レイシストなのだ。なぜなら白人というだけで、妊娠から出産までのあいだに、病院や保健センターなどでピープル・オブ・カラー(とりわけ黒人)とまったく異なる扱いを受けるのだから……。

 ディアンジェロは次のように述べる。

「私はアメリカで育った白人アメリカ人だ。私は白人の考える枠組みと白人の世界観をもち、白人の経験する世界を生きてきた。私の経験は普遍的な人類の経験ではない。それは人種が重要な意味をもつ社会、人種によって深く分断された不公平な社会のなかで、とりわけ白人が経験するものだ」

 アメリカで、あるいは西欧による植民地の歴史をもつすべての文化で、白人がレイシズムと無関係に生きることは原理的に不可能なのだ。』

『ディアンジェロは生物学的な人種概念を否定する

「すべての白人はレイシストである」という前提に立つ以上、当然のことだが、ディアンジェロはトランプ支持の「白人至上主義者」だけを批判したりはしない。こうした「可視化された人種主義」はこれまでさんざん俎上にあげられてきており、それにもかかわらず人種主義はなくならないばかりか、黒人の苦境はますます強まっている。

 ここで白人のリベラルは、「それはレイシズムへの批判が足りないからだ」としてBLM運動への支持を表明するかもしれない。だがディアンジェロは、こうした態度自体が「レイシズム」だとする。“White Fragility”は、「進歩的」で「寛容」なリベラル白人の「不可視のレイシズム」への糾弾の書だ。

 従来のリベラリズムは、個人を「黒人」や「女性」などのマイノリティにグループ分けし、ステレオタイプを押しつけることを「差別」だとしてきた。それを乗り越える方策が「カラーブラインド」や「ジェンダーブラインド」で、差別をなくすためのもっとも重要な心構えだとされている。――colorblindは色盲のことで、そこから「肌の色のちがいを見えなくする」の意味に使われるようになった。

 だがディアンジェロは、アメリカ社会でポリティカルコレクトネス(政治的正しさ)の中核にあるカラーブラインドを否定する。

 アメリカ社会はずっと、カラーブラインドによって人種差別を克服しようとしてきたが、ディアンジェロからすればこれは「人種のちがいがないように振る舞えばレイシズムはなくなる」という虚偽以外のなにものでもない。「人種」を見えなくするカラーブラインドによって、誰ひとり自分をレイシストだといわなくなったとしても、レイシズムは厳然と存在するのだ。

 日本でも「女だから」とか「国籍がちがうから」などの理由で個人を評価することは差別と見なされるようになってきた。「個人をグループとしてではなく、一人ひとりの個性や能力で評価する」というIndividualism(個人主義)はリベラルの大原則で、ほとんどのひとが当然だと思うだろうが、ディアンジェロはこれも否定する。「彼/彼女が黒人であることは採用・昇進になんの関係もない。なぜなら人種ではなく“個人”を評価しているから」というのは、リベラルな白人が自らのレイシズムを隠蔽・正当化するときの典型的な手段にすぎない。――さらには、「客観的な評価によってバイアスから自由になれる」という「客観主義」も否定される。バイアス(偏見)は人間の本性で、どのようなことをしてもそこからフリー(自由)になることはできないのだ。

 この「カラーブラインド」と「個人主義」の全否定は、「リベラル」にとっては驚天動地の話だろう。だがこれは、考えてみれば当然でもある。アファーマティブアクションは「人種」というグループで優遇するかどうか決めているのだから(ディアンジェロは「資格のある特定のマイノリティに白人と同等の機会を与えること」と定義する)、カラーブラインドと個人主義を徹底すればその根拠はなくなってしまう。「差別されたマイノリティ」を制度によって救済しようとするなら、「人種」という概念を認めるほかない。その意味では、ディアンジェロの一見過激な主張の方が筋が通っているともいえる。

 ディアンジェロはもちろん、生物学的な人種概念を否定する。近年の遺伝人類学や行動遺伝学では「ヒト集団」のちがいが大きな論争になっており、イギリスのリベラルな科学ジャーナリスト、アンジェラ・サイニーは『科学の人種主義とたたかう 人種概念の起源から最新のゲノム科学まで』(作品社)でこのテーマと格闘しているが、ディアンジェロは論文1本を根拠に「肌の下に真の生物学的な人種はない」と一蹴している。

[参考記事]
●アメリカでリベラルと「レフト」が衝突する「人種主義Racism」。「人種」概念の否定と遺伝的な「ヒト集団」が混乱を起こしている

 生物学的な「人種」は虚構で、「人種」概念は社会的につくられたというのが「社会構築主義」だが、その立場からすると、リベラルのカラーブラインドや個人主義は、社会的な構築物である「人種」を否定し、アメリカ社会の根底にある「構造的レイシズム」を容認することなのだ。

 ここまでくれば、ディアンジェロが「リベラル」ではなく「左翼(レフト)」である理由がわかるだろう。その批判の刃は、頑迷なトランプ支持の「白人至上主義者」よりも、彼らを口先だけで批判する「エリートの白人リベラル」に向けられているのだ。

 だがこの論理を、自分のことを「レイシズムとは無縁なリベラル」だと思っている白人は容易に理解することができない。そこでディアンジェロは、企業のダイバーシティ・トレーニングで(黒人のコーディネーターといっしょに)、白人の従業員に対して「レイシストとはあなた自身のことだ」という“事実”を伝える。すると白人たちはこの“攻撃”に驚き狼狽し、怒ったり、言い訳したり、無言になったり、席を立ったりする。こうした反応が“White Fragility(白人の脆弱性)”なのだ。
ディアンジェロは「リベラル」な白人の偽善を徹底的に批判する

 左翼(レフト)であるディアンジェロは、「リベラル」な白人の偽善を徹底的に批判する。それが、「よい白人」と「悪い白人」の二元論だ。

 リベラルを自称する白人にとって、「悪い白人」のステレオタイプは「無知、田舎者、偏見、意地悪、年寄り、南部人」で、「よい白人」のステレオタイプは「進歩的、高学歴、寛容、良心的、若者、北部人」だ。そして、トランプ支持の白人至上主義者に「悪い白人」のレッテルを押しつけることで、自らを「よい白人」に分類して安全圏に逃げ込んでいるとされる。

 ディアンジェロが述べているわけではないものの、こうした視点は映画『スキン』を見たときの違和感をうまく説明する。

 ガイ・ナティーヴ(イスラエル出身のユダヤ人)監督のこの映画では、カルト的な白人至上主義団体で育ち、顔面を含め全身に無数の刺青(タトゥー)をしたレイシストの若者が、シングルマザーとその子どもたちに出会ったことで人生をやり直したいと願い、組織と対決する。

 これは実話を元にしていて、映画としてもよくできているが(主役は『リトル・ダンサー』の少年)、ここまで白人至上主義者を悪魔化してしまうと、映画を見たほとんどの白人は、自分にはなんの関係もないことだと思うのではないだろうか。白人至上主義のカルト団体に所属する全身刺青のレイシストなど、アメリカじゅうでせいぜい数百人しかいないだろうから。

 ディアンジェロにとっては、リベラルが好む「頑迷固陋な白人至上主義者」は、白人エリートの自己正当化にすぎない。「悪い白人」を自分とまったくちがう異形の存在にしてしまえば、「よい白人である私」は人種差別とはなんの関係もなくなるのだ。

“White Fragility”では、会社のダイバーシティ・トレーニングで白人従業員が、自分はレイシズムとは無縁だと主張するときに使う科白がたくさん紹介されている。

・あなたがピンクだろうが、紫だろうか、水玉模様だろうが私は気にしない。
・あなたがたまたま黒人だったとしても、私があなたについて語ることとはなんの関係もない。
・人種を問題にすることはわたしたちを分断する。
・もしひとびとが私をリスペクトするのなら、人種にかかわらず、私もそのひとたちをリスペクトする。
・私はレイシストではない。なぜならカナダから来たから。
・私は貧しい家庭に育った(白人特権の恩恵など受けていない)。
・私はとても多様性のある職場で働いている。
・家族にピープル・オブ・カラーがいる(あるいは結婚している、子どもがいる)。
・60年代の公民権運動に参加した。
・中国から養子をもらった。
・日本に暮らしたことがあり、マイノリティがどういうものか知っている、などなど。

 ダイバーシティ・トレーニングというのは、こうした「言い訳」を一つひとつつぶして、自らの「内なるレイシズム」に直面させることなのだ。

 大企業で働く(恵まれた)白人が、白人特権(white privilege)をあっさり免責してしまうことを受け入れがたいマイノリティがいることは間違いないだろう。その意味で、ディアンジェロの主張に説得力を感じるところはあるものの、「白人女性の涙(White Women’s Tears)」という章を読むと複雑な気持ちにならざるを得ない。ここではダイバーシティ・トレーニングで、自らのレイシズムを指摘された白人女性が泣くことについて述べられている。

 黒人などのマイノリティに共感していて、レイシズムに断固反対してきたと信じている白人女性が、「あなたのその態度がレイシズムだ」といわれて混乱し、泣き出すというのは想像できる光景だ。そんなとき、まずは同席していた白人女性や白人男性が泣いている女性をなぐさめようとし、ときにはそれに黒人男性が加わって、講師であるディアンジェロを批判するのだという。

 これに対してディアンジェロは、「泣く」ということ自体が、自らの内なるレイシムズを直視することから逃げ、「女」を利用して周囲の同情を集めて自分を守ろうとする“White Fragility”の典型だとする。なぜなら「感情とは私たちのバイアスと信念、文化的なフレームワークによってつくられたもの」であり、「感情とは政治的なもの」だからだ。

 そして、泣き出した白人女性をなぐさめることは、「交通事故が起きたとき、(犠牲者である)通行人が道に倒れているにもかかわらず、(事故を起こした)車の運転手に駆け寄るようなもの」だという。これを読んだときは、アメリカの白人はこんな仕打ちにも耐えなくてはならないのかと思わず同情した。』

『「現状維持」がレイシズムなら「現状を破壊する」行為はそれがどんなものであれ反レイシズム

 ディアンジェロのダイバーシティ・トレーニングは、白人従業員にとってはかなり過酷な体験だ。だったらなぜ、企業はこんなことをさせるのか。

 それは大企業の経営者が、いつ「人種差別的」と批判されBLM運動の標的になるかわからないと戦々恐々としているからであり、白人の従業員(とりわけ中間管理職)が黒人の部下や同僚とどのように接すれば「人種差別的」と見なされないかわからなくなっているからだろう。

 そこで彼らは、藁にもすがる思いでダイバーシティ・トレーニングを受講する(自分たちはここまで努力しているという免罪符を手に入れたいというものあるのだろう)。ところがそうすると、「白人という存在そのものがレイシズムだ」といわれ、「脆弱性」をさらけ出すことになってしまうのだ。

 私はアメリカで暮らしているわけでもないし、そもそも「ピープル・オブ・カラー」として、定義上、レイシストにはなり得ないのだから、複雑骨折したようなアメリカの「人種問題」についての論評は控えるべきかもしれない。

 それでもひと言だけいわせてもらえば、ディアンジェロの論理は、キリスト教的な「原罪」とフロイト主義(精神分析)のグロテスクな組み合わせのように思える。アメリカの白人は「白さ(ホワイトネス)」という原罪を背負っているものの、それを無意識に抑圧し「白人特権」を守ろうとしている。とりわけリベラルな白人は、「悪い白人」を悪魔に見立てることで自分のなかの「悪」を外部化し、内なるレイシズムを否認・正当化しているのだ。

 しかしそうなると、どのような説明・弁解・抗議をしても(あるいは謝罪しても)、すべてが「抑圧されたレイシズム」と見なされてしまう。このロジックは自己完結しているので、逃げ場はどこにもない。

 ディアンジェロは、アメリカの(リベラルな)白人が求めているのは「status quo(現状維持)」だという。すべては、レイシズムを否認して「白人特権」という現状を守るための暗黙の策略なのだ。こうして、コリン・パウエル(ブッシュ政権の国務長官)やクラレンス・トーマス(最高裁判事)のような保守的な黒人の成功者はもちろん、バラク・オバマですら「現状維持を支え、(白人を)脅かすといういかなる意味でもじゅうぶんにレイシズムに挑戦しなかった」と批判されることになる。

 ここから、一部のBLM運動の常軌を逸した(ように見える)ラディカリズムが理解できるのではないだろうか。「現状維持」がレイシズムなら、「現状を破壊する」行為は、それがどんなものであれ反レイシズムなのだ。

 ディアンジェロのような白人知識人がこうした極端な思想をもち、それが一定の支持を集める背景には、アメリカのアカデミズの実態があるのかもしれない。ディアンジェロが認めるように、アメリカの大学教員の84%は白人で、それはまさに「構造的レイシズム」そのものだ。この事実を否認し正当化する必要があるからこそ、アメリカの白人知識人は、ごくふつうに暮らし働いている市井の白人に「レイシスト」のレッテルを押しつけようとするのではないだろうか。

 こうしたラディカリズムは、いったいどこに向かうのか? ダイバーシティ・トレーニングの目的をディアンジェロは、「白人が引き起こしたレイシズムを直視する痛みに耐えるスタミナをつけること」だという。そして、「レイシズムを(ピープル・オブ・カラーと同様に)生と死の問題だと考え、あなたの宿題をすること」が重要だとする。

 もちろん、白人であるディアンジェロ自身もレイシズムから自由になることはなく、学びが終わることもない。アメリカの白人は「生まれる前から」レイシストであり、死ぬまでレイシズムの原罪から逃れることはできないのだ。――そう考えれば、これは一種の「宗教運動」にちかい。

 自らが「原罪」を背負っていると考える白人がなにをしようと自由だが、民主的な市民社会で、なんら法を侵すことなく暮らしているひとたちにこうした「罪」を負わせるのは酷だし、ひとは自分が「悪」であることを受け入れることなどできない。このラディカルな人種理論は「人種問題」の解決に役立たないばかりか、状況をさらに悪化させるだけではないだろうか。

橘 玲(たちばな あきら)
橘玲のメルマガ 世の中の仕組みと人生のデザイン 配信中

作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『「言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)、『国家破産はこわくない』(講談社+α文庫)、『幸福の「資本」論 -あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』(ダイヤモンド社刊)、『橘玲の中国私論』の改訂文庫本『言ってはいけない中国の真実』(新潮文庫)、『もっと言ってはいけない』(新潮新書) など。最新刊は『女と男 なぜわかりあえないのか』(文春新書)。』

子どもがいてもいなくても、世界について考えるのは難しくなってると思う。

子どもがいてもいなくても、世界について考えるのは難しくなってると思う。
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/

 ※ そーですか…。

 ※「世界のでき事」についての情報を、入手するのは、ちょっと前に比べると、はるかに簡単に、素早く、大量に手に入るようになったと思いますが…。

 ※ むしろ、問題は、そうやって「入手した情報」を、キチンと「位置付け、分析・解析、理解する」体制が、自分の中に構築されているのかだと思いますが…。

 ※ そういう情報の「位置付け・整理」のための「ツール(思考ツール)の構築」こそが、最重要だと考えますが…。

『リンク先の文章は、子どもを持たない大人が増えることで自分の代までしか考えない人も増え、世界の持続可能性が危機にさらされるのではないか、といった趣旨だ。「私の死んだ後のことなんかどうでもいい」と皆が考えるようになり、後々の世界に思いを馳せなくなったら、世界の持続可能性は怪しくなるだろう。欧米を中心に若い人たちが世界の持続可能性について大きな声をあげ、その槍玉に挙げられているのがそのような大人たちであることを思い出したりした。
 
セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史 (SB新書)

作者:前島 賢
SBクリエイティブ

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でもって、リンク先の筆者は「セカイ」というサブカルチャーの語彙を使って、そうした大人たちの世界観が自分を中心とした狭い範囲にとどまっていること、ために未来を志向しない自己中心的な死生観を持っていることを指摘している。親になる人が減るぶん、死後の未来について考える人も減るというのは、まあ、そうかもしれない。少なくとも人の親になり、まっとうに親を引き受けている人なら、子どもの代の未来まで考える動機が発生するからだ。
 
他方、それだけでもあるまいと思ったりもする。
 
なぜなら、人の親になるかならないかが世界の捉え方を全部決めてしまうわけではないからだ。たとえば輪廻をベースとした宗教を信じている人や、一族の先祖供養を行っている人、連綿と続く地域の葬祭行事に加わり続けている人などは、人の親になるかならないかに関わらず、自分が死んでも世界が続く世界観・死生観を生きている可能性は高い。自分の子どもという具体性の塊のような未来に比べると、これらは抽象的で、共同幻想に類するものではあるのだけれど、太古の葬祭の痕跡などが示しているように、案外そのようにできあがった世界観で生きていける・生きてしまうのが人間であるように思う。
 
なので、冒頭リンク先の主題であろう「自分の代のことしか考えない大人の増加」とは、(養子縁組も含めた)子育てに参加するしないの問題に加えて、過去から未来へとつらなるような世界を生きていない人が増えていること、死生観や世界観がそのように変わってしまっていることが大きいと私なら思う。で、冒頭リンク先の筆者が「(セカイ系に由来しているらしき)セカイ」という語彙をわざわざ選んでいるのも、そうした死生観や世界観も問題の一端であることを意識してのものだろう。
 
なら、そうした今しかない死生観や世界観が台頭し、過去から未来へと連なるような死生観や世界観が尻すぼみになっているのは何故なのか。
 
ここまでの話から、宗教の衰退や、イエ制度などと深くかかわりを持ってきた盆暮れ正月といった行事の衰退や形骸化を挙げることはたやすいし、実際、既存宗教はすごい勢いで衰退してもいる。それらが死生観や世界観に与える影響は無視できるものではないので、宗教の衰退や形骸化を、生涯未婚率の上昇と並ぶ「自分の代のことしか考えない大人の増加」の理由として挙げるのは簡単ではある。
 
でも私には、その既存宗教の衰退や形骸化も原因ではなく結果であるよう思えてならない。既存宗教が衰退したり形骸化したりしたのは、むしろ、そのような宗教と相性の良い死生観や世界観を持てない環境ができあがってしまったからのようにみえてしまう。
 
既存宗教と相性の良い死生観や世界観が持てない環境とは、どういったものなのか。
ちょっと切り口が異なるかもしれないが、アーカイブで一番これに近いことを書いたのは以下のブログ記事のものだ。 
 
blog.tinect.jp

 
「老害製造装置」というタイトルがついてしまっているが、要旨としては、いまどきの生活環境では他人とコミュニケーションする必要がないし、それは団塊世代あたりから日本人が望んできたことだ、といったことが書いてある。
 
戦後からこのかた、日本人の生活空間はイエ的で集団的なものから、個人的でプライバシーのあるものへと変わってきた。同じく、日本人の生活時間もまた、家族や同郷集団と長い時間を過ごすものから、一人で過ごす時間の長いものへ、個人それぞれのスケジュールに従うものへと変わってきた。これらの変化が日本人の意識を、あるいは社会病理性の内実をも変えていったことは想像にかたくない。
 
日本人の意識も生活実態も、血縁集団や地縁集団といった単位からは離れていき、核家族や個人といった単位に基づいたものに変わっていった。もちろんこれは人々の意識だけが変わっていったのではなく、家屋や街並みといったアーキテクチャも平行して変わっていったこと、働き方や余暇の過ごし方が変わっていったこと、ウォークマンやスマホの普及といったエンタメが変わっていったなどととも、全部つながりあった変化とみるべきなのだろう。
 
なんにせよそうやって個人化が総合的に進んだ結果、いわゆるゲマインシャフト的なものが暮らしの時空間から排斥され、旧来の宗教観がそのままアプライできる状況が珍しくなり、「自分の代のことしか考えない大人の増加」に親和的な死生観や世界観がアプライできる状況が一般的になった。
 
想像してみて欲しい。アパートやマンションの自室で365日を過ごし、親世代や子世代とのコミュニケーションにも煩わされず、自分のやりたい仕事や趣味や人間関係にすべてを費やし、スケジュールも全部自分で決められる──そういう個人生活のなかで、過去から未来へと連なるような死生観や世界観を持つのは結構アクロバティックなことではないだろうか。
 
そういう個人でも、子育てをしているうちはそうした死生観や世界観を持っていられるかもしれない。しかし子育てをしなければそうした死生観や世界観を持つことは難しいし、たかだか20年かそこらの子育て期間を終え、親子が別々に暮らすような核家族的環境(または単身世帯的環境)に戻ってしまえば、やっぱりそのような死生観や世界観を維持するのは難しくなってしまう。
 
冒頭リンク先でid:Ta-nishiさんは、
 

このまま非婚率が天井知らずに上昇を続け、非婚者がマジョリティとなり、「私が死んだ後のことなんかどうでもいい」という「無敵の人」が多数派を占めるようになった未来が訪れたとして、そのときこの世界のサステナビリティはどうなってしまうのだろうか?

と締めくくっておられるが、思うに、少子化がここまで進行してしまう前の段階で(世界の、というより現在の日本国の、と訂正はしておくけど)サステナビリティは維持できなくなっていたように思える。つまり死生観や世界観の変化も、少子化も、全部ひっくるめての話として、ある程度以上にきわまった社会契約的-個人主義的社会はサステナビリティにもともと問題を抱えていて、たとえばアメリカが移民を集めたり、東京が田舎者を集めたりするように、外部からの人口流入をあてにできなければ成立しないもののように思えてならない。
 
最近、この、サステナビリティという言葉がほうぼうで使われているけれども、国や都市によってサステナビリティのための課題は結構違っていて、たとえばニューヨークのような街はどれほど社会契約的-個人主義的社会を突き詰めようとも人口流入があれば街そのもののサステナビリティに問題はない。ニューヨークは、地球温暖化さえ回避できれば持続可能な街にみえる。
 
一方、東京や大阪のような東アジアの街はニューヨークほどには人口流入をあてにできないし、移民制度を正当化するポリティカルコレクトネスも含めた人文科学上の建付けも甘いので、地球温暖化を回避しただけでは持続可能ではない。まして、日本の町村部ともなるとサステナビリティなど午睡の夢、地域社会が丸ごと山林に沈もうとしている。
 
最後に話が脱線した。が、こんな具合に私は、今の日本の生活環境で暮らしている限り、子どもがいてもいなくても世界について考えるのは結構難しいとみているし、自分自身を顧みても、どこまで考えているといえるのか、疑わずにいられなくなる。
 
この、高度に個人化され、他人と深く付き合うことなく暮らせてしまえる社会のなかで、それでも過去や未来に連なる想像力を持てる人というのは、逆にどうやってそういう想像力を涵養しているのだろうか? あるいは、どういう想像力を持ったことをもって過去や未来に連なる想像力が持てていると定義して構わないのだろうか?
 
そのあたりが今の私にはなんだかよくわからない。たとえば地球温暖化についてニュースで見て、再生可能エネルギーを重視する企業の商品を買うよう心がける人がいるとして、それでもって過去や未来に連なる想像力を持てている人だと言って構わないものなのだろうか?
 
地球環境というマクロな視点を除外するなら、お盆や彼岸のたびに先祖の御霊をお迎えしているような、そういう生活環境で暮らしているのと比較すれば、私たちが過去や未来を肌で感じる機会と動機、いや、導線は少なくなっていると私は思わずにいられない。うまくわかってもらえるかわからないけれども、本当は、私は死生観や世界観を規定する第一要因はアーキテクチャとしての社会環境だと思っていて、宗教は、その後ろから追いかけてくるもの(またはアーキテクチャに沿って盛衰するもの)だとか思っている。死生観や世界観が変わるとしたら、それは第一にアーキテクチャが変わる時じゃあないだろうか。
 
長文になってしまったので今日はこのへんで。SNSが世界じゅうを繋ぐようになったからって、世界について考えるのが簡単になっているようには思えない。』

人生でのスキルアップはもういい

人生でのスキルアップはもういい
http://blog.livedoor.jp/nappi11/archives/5295916.html

 ※ nappi10さん、「悟りの境地」に入られたようだ…。


『多少は器用な方の人間だろうが、20代になっても目指したいものが見つからなかった。
そんな自分には、当時の日本の教育の在り方も社会も受け入れ難かった。何とか留学のチャンスをつかみ、自力で好きな学校に転校、在籍を繰り返し、その合間に一人旅を楽しみ、生きてく為に懸命に働いたし、必要から語学も学び、恋愛も、結婚も離婚も再婚も経験した。

何とか一人前の人間になろうと、初めて自発的にスキルアップに励んだ時期だった。

それでも目標は見つからず、帰国して、やみくもに働いた。結果的に、無駄だと思っていた、それまでに学んだり、経験していたことの断片が繋がり、自分の適性と、それを利用できる仕事が見えてきて、30代にやっと目標が定まり、以後、会社勤務、経営へと邁進した。

その時期は、次から次へと新たなイノベーションが出現し、コンピューターだ、携帯、SNSだ、GPSだと、それらを使いこなすためのスキルアップに必死だった。

人生でしてみたかった事をほぼやりつくし、60代には余生を迎える準備に入り、今に至っている。

もう、あくせくと、生きて行くために新たなスキルアップで時間をつぶしたくはない。

何かわくわくするものにだけに日々の時間を割き、晴耕雨読の毎日でいたい。

家の周りで、昆虫やカエルを観察したり、毎日来るキツネや、冬になると来てくれるキジへの餌の用意もそれで、最近揃えた3台のカメラで、彼らや季節の変化を記録するのも楽しく、楽しいから酷暑も酷寒も苦にならないし、負けない為に鍛練もしている。

しかし社会は、新世代のコンピューターや、カード決済を押し付け、情報や手続きにスマホが無いと困るような、さらなるスキルアップを求めてくる。

もういい加減放って置いてもらいたい。

今は懸命に、シンプルで質素な生き方が出来るように、それらと、なるべく距離を置く努力をしている。つまり、ゆっくりと逆行してアナログで生きて行きたいのだ。

倉庫に機械はあるが、時間はかかっても汗を流しながら草刈りはカマで行い、除雪はスコップだ。

これまでの人生、十分に忙しく楽しかったから、残りはマイペースで、スマホ等気にせず、空を見ながら過ごして行こうと思う。

動物たちの様に、、。

禅的生き方と言う人もいるが、筆者にその素養は無い。強いて言えば、今は亡き、九州佐賀出身で実業家で武道家でもあった祖父の影響だろう。

(写真:水はけが悪く、木々が立ち枯れしていた藪に排水溝を増設すると木々は蘇った。一本には、毎年ツタが絡まり、きれいな朱赤を見せてくれる。一番上は中庭、雪が積もる頃、キジが三角形のオンコの木の中に泊りに来る 撮影:2021/11/5)』

『無理ゲー社会』橘玲に聞く 「自分らしく生きる」が生んだ絶望

『無理ゲー社会』橘玲に聞く 「自分らしく生きる」が生んだ絶望
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00290/091500019/?n_cid=nbpnb_mled_mre

 ※ 残念ながら、読んでも「課題解決」「問題解決」には、あまり役立たない…。

 ※ 「問題提起」「課題提起」本だな…。

 ※ それと、「覆面作家」ということだから、「一人で書いている」とは限らないよな…。「橘玲」という「チーム」かもしれない…。

 ※ 特に、こういう「社会派もの」「社会問題提起もの」は、チームによる「役割分担」になじみやすい…。

 ※ 全体の構成考える「企画・立案班」、足で稼ぐ「取材班」、それを統括して一本にまとめる「文章作成班」…。ざっと考えても、この程度は思いつく…。

 ※ 「田中角栄研究 その金脈と人脈」で名高い「立花隆」さんも、「チーム」を編成していた…、という情報を最近見た…。

 ※ 大体、世の中そういうもの…、と思っておいた方がいい…。

 ※ 参考になったのは、『『幸福の「資本」論』(ダイヤモンド社)に書いたのですが、人生の土台には「金融資本(お金)」「人的資本(働いて労働市場からお金を手に入れるための資本)」「社会資本(人間関係)」の3つの資本があると考えています。この3つの資本を持っていれば、人生はある程度うまくやっていくことができる。

 3つの資本の中で、最もシンプルなのは金融資本です。攻略は難しいけれど、理屈は単純で理解しやすい。その次が人的資本(働き方)で、最も難しいのが社会資本です。著作で扱う内容も、その3つの資本の区分に沿って、だんだん難易度が高いところへと進んできたわけです。 』という部分が一つ…。

 ※ 『しかし、皆が気づいていない本当の問題は、次にやってくる「評判格差社会」です。国家はイーロン・マスクから税を徴収できますが、6000万人のTwitterのフォロワーを移転することはできない。「お金は分配できても評判を分配することはできない」という問題に対して、これまで解を出せた人はいません。』という部分が、もう一つ…。

 ※ これを言ってる人に、初めてお目にかかった…。

 ※ しかし、もっと「根源的な問い」を問うて、思索するべきなのでは…。

 ※ 「そもそも、人の”幸福”って何?」…。

 ※ 「”評判”って、Twitterのフォロワー数で測れるものなの?」…、とかな…。