意識が高くなって治療や支援が行き届いた社会だからこそ「なおすべきは、あなただ」と言えてしまわないか?

意識が高くなって治療や支援が行き届いた社会だからこそ「なおすべきは、あなただ」と言えてしまわないか? – シロクマの屑籠
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20230216/1676512245

『www.kosehazuki.net

 昨夜、「セルフケアを持てはやすなよ」という文章を見かけたので読んだ。

その前にもtwitterで前哨戦のようなフレーズを見かけていたので(参照:これやこれなど)、ああ、そのあたりが意識されるフェーズなんだなと思うことにした。私も前から関心があって、もう少し調べてから言語化したいと思っていた。このセルフケアやアンガーマネジメントの話は、たとえば『チャヴ』でルポルタージュされたイギリスで新自由主義が進んでいった話などとも、自己実現や自己充足といったモチベーションの領域の話とも、自己啓発の領域とも地続きにみえてならないからだ。
 
チャヴ 弱者を敵視する社会

作者:オーウェン・ジョーンズ,Owen Jones
海と月社

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魂を統治する 私的な自己の形成

作者:ニコラス・ローズ
以文社

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日常に侵入する自己啓発

作者:牧野智和
勁草書房

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これらの書籍を「セルフケア」という角度から再読し、文章にまとめるのはちょっとした仕事量にはなるだろう。そうしたわけで黙っていたのだけど、冒頭リンク先に触発され、今、自分が思っていることを殴り書きだけでもしてみたい気持ちになったので、40分一本勝負でやってみる。
 
セルフケアやアンガーマネジメントは、一般に、進めれば進めるほど好ましいとされている。それらをとおして個々の労働者は自分自身の心身を守れるし、たとえば会社の上司が自分の機嫌の悪さを部下に押し付けるような事態を追放できる。そうすることによって職場の誰もがますます健康になり、気持ちよく働けるようになり、職場のコンプライアンスも守られる。個人間の暴力を禁じ、効率的な取引やコミュニケーションを推進する社会契約の理念にもかなっているだろう。
 
だからセルフケアやアンガーマネジメントを推進するのはおかしくないし、私も原則としては反対しない。たぶん多くの人もそうだろう。
 
ただ、良かれと思ってセルフケアやアンガーマネジメントを推進している人の裏には、ダブルミーニング的にこの流れに乗っかろうとしている人や、かえってこの流れを悪用しようとしている人も、想定しておかなきゃいけないとも思う。あるいは、こうしたことが極まった社会にどんな代償が伴うのかも考えに入れておくべきとも思う。そういったことをこれから書く。
 
セルフケアやアンガーマネジメントは、職場などで誰もが加害者にも被害者にもならずに気持ちよく働くための話だ。それらが難なくできる人にとっては特に好ましい話だろう。自分のメンタルヘルスもエモーションも易々と管理できる人には大した負担にならないし、そういうことができない連中から被害や迷惑を受けることがなくなる。なんとなればそういうことができない連中を職場や社会の表舞台から追放できる。バッチリだ。なにせ職場のコンプライアンス遵守から考えても、セルフケアができない個人、アンガーマネジメントができない個人が問題なのであって、私たちはセルフケアすべきだしアンガーマネジメントすべきなのである。それらができないやつはできてから来やがれ!
 
「自分の機嫌は自分で取る」なんか最近、「感情を処理できん人類は、ゴミだと教えたはずだがな」ぐらいのニュアンスで使われてない?
— 大刀🔞・ザ・ヒュージザンバー (@DAIGATANA) 2021年1月20日

……といった具合に、セルフケアやアンガーマネジメントをちょっとハードに適用すると、職場は最高にホワイトでコンプライアンスの守られた環境になるだろうけれど、その職場はセルフケアやアンガーマネジメントができる面々だけで構成されるようになり、できない面々が立ち入れない環境に変わる。

そしてセルフケアやアンガーマネジメントがしっかり定着した職場において、それらがちゃんとできないのは会社の問題でも社会の問題でもなく、個人の問題に帰するだろう。「おい、おまえちゃんとセルフケアやアンガーマネジメントができてないな。AさんもBさんもちゃんとできているんだぞ。できていなければおれらのコンプライアンスがなってないってことになっちまう。おまえもできなきゃだめだろ、できなきゃクビにしちゃうぞ」
──こんなことを慇懃無礼な言葉で警告されるようになるんじゃないだろうか。
 
セルフケアやアンガーマネジメントといった話には、たとえ会社や社会に問題があったりしても、まずは労働者個人に問題がないか点検し、個人をなんとかしようとさせる方向性があって、ともすれば、問題の個人化を促しているきらいがあるんじゃないか、と私は警戒している。

最近耳にするレジリエンスという言葉もそうだ。あの言葉はなんとなく聞こえがいいけれども、一歩間違えると問題解決を個人に強いるためのきれいごとになりかねない。気がする。
 
それから、セルフケアやアンガーマネジメントの定着した会社や社会は、資本家や経営者にとって非常に都合が良い点にも目配りしておきたくなる。

それらがひとたび定着すれば、労働者は上司も部下も自分で自分を修理したり制御したりしてくれるし、職場はブラックではなくホワイトとみなされコンプライアンスが守られる。

コンプライアンス遵守の差しさわりになりそうな人物を敬遠し、なんとなれば婉曲に追い出すことさえ可能になるかもしれない。

ホワイトな職場やコンプライアンスの遵守された職場は、生産性や効率性の面でも優れているだろうし、職場のコミュニケーションに感情というノイズが侵入するおそれも少なくなる。

それらが労働者のメンタルヘルスにどこまで貢献するのかはさておき、資本家や経営者にとっての面倒ごとを減らしてくれるのは間違いないだろう。
 
さて、そんなセルフケアやアンガーマネジメントを念頭に置きながら、もう少し私にとって間近な領域に目を向けてみる。

問題の個人化という視点でみた場合、メンタルヘルスに対する治療や診断の普及、メンタルヘルスに対する施策のかずかずも、問題の個人化を(一面としてだが)促していたりしないだろうか。
 
どういうことか。

今日ではメンタルヘルスへの行政的介入や福祉政策が充実し、たとえばストレスチェック、労働基準監督署、失業保険制度などをとおして私たちのメンタルヘルスはモニタリングされ、健康が絶え間なく促されている。それは良いことだろう。

また、発達障害も含めた精神疾患がどんどん診断されるようになり、それらが生物学的な背景のある疾患であり、遺伝子なり脳の機能なりの水準で問題が生じていると語られている。これも良いことだろう。

特に生物学的背景が説明されるようになった結果、多くの精神疾患において自己責任論がはびこりにくくなり、親責任論がはびこることも減っている。これも良いことだろう。
 
このように、メンタルヘルスをめぐる現況はおおむね自己責任論は回避できているし個人や社会にも貢献している。

しかし、こと、問題の個人化という事態は迂回しきれていないのではないか。個人に対し診断と治療と支援がなされる。それはいい。

だがそれが制度としても常識としても一般化していくなかで、そのメンタルヘルスの問題が起こっている状況について、会社の問題や社会の問題が含まれているとしてもそちらに目を向けるのはかえって難しくなってはいないだろうか。
 
つまり会社も社会も個人もメンタルヘルスについて意識がすごく高くなり、配慮も制度も充実した結果として、ひとつひとつの個人の不適応やメンタルヘルスの増悪はあくまで個人の問題でしかないと考えられやすくなり、そのぶん、会社の問題や社会の問題や体制の問題であるといった視点が、当事者からも医療従事者や福祉従事者からも遠ざけられやすくなってないだろうか。
 
もちろん、メンタルヘルスの諸問題は医療や制度をとおして何重にもバックアップされていて、それも良いことである。

しかし何重にもバックアップされている社会がここまでできあがったからこそ、右のように言い放つことが可能になっていないか心配なわけだ──「我々社会はこれだけやっています。それでもあなたがこうなるのはあなたの問題であって、社会の問題ではないですよね? なおすべきは、あなたであって社会ではない」
 
実地の医療や制度運用において、会社が悪い・社会が悪い・体制が悪いなどとシュプレヒコールをあげる余地は少ない。

どうあれ個人は個人としてメンタルヘルスの回復と向上につとめなければならない。生物学的背景の関与する精神疾患であれば尚更だ。

そのあたりは個人の問題として対処すればいいと思う。でも、これだって、会社や社会や体制の側が「そういうのは個人の問題に帰するものなんですよー」と頬かむりするにはなんだか都合の良い状況だ。

個人の救済のためのシステムをバッチリ発展させた結果、問題が生じた個人の治療やケアをすればいいだけで会社や社会や体制を省みるにはあたらない、と思い込みやすい状況ができあがってしまっていないだろうか。
 
もちろん個人も医療も行政機構も、会社や社会や体制の頬かむりを許すために頑張っているのでなく、あくまで個人の救済のために活動しているだろう。

セルフケアやアンガーマネジメントを推進している人達にしてもそうだ。でも、そうやってミクロな個人的救済を無数に積み重なった結果、マクロなレベルではまったく異なった結果が生み出され、まったく異なった目的のために通念や制度を利用してやろうと考えるプレイヤーも現れ……みたいなことはぜんぜんあり得る。

現状を否定すべきとは言わない。が、こうした変化の行き着く先と、こうした変化で一番得をしているのは誰かといった視点で振り返ってみることも、ときには必要じゃないかと私は思う。
 
前半でちょっと触れたように、この話は人間を働かせることとそれに付随する道徳や正義や正当性の話とも接続しているはずで、しっかりまとめるなら、そのあたりの過去と現在についても併記するのが望ましいと思っている。

それと資本主義が極まってきた現在、人間そのものが資本財となっているので、その資本財である人間は当然管理されなければならないはずで、その人間を資本財として管理運用するという視点からセルフケアやアンガーマネジメントについて考えると、今回とは違った、もっとディストピアみのある文章ができあがるはずだ。

けれども40分で書ききれるのはだいたいここまでなので今日はここまで。
 
シロクマ (id:p_shirokuma) 』

「セルフケア」を持てはやすなよ

「セルフケア」を持てはやすなよ
https://www.kosehazuki.net/entry/2023/02/15/%E3%80%8C%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%B1%E3%82%A2%E3%80%8D%E3%82%92%E6%8C%81%E3%81%A6%E3%81%AF%E3%82%84%E3%81%99%E3%81%AA%E3%82%88 

 ※ 「人間の精神・身体」というものは、「限界」がある…。

 ※ その「限界」を超えると、「壊れて」しまう…。

 ※ オレが、「死にかけて」、「あの世」に行かずに済んだのは、単に「運が、良かった。」だけの話しだ…。

『2023-02-13 日記 考え事

 月曜日。今日は仕事でとても煮え切らない、腹立たしいとも悲しいとも違う、形容しがたい虚無感を覚える出来事があった。言葉で表現することがはばかられるような出来事だ。婉曲的に、平たくいえば、多忙な働き方を強いられることで健康を損なう人がたくさん出たことの帰結のようなことが起こった。

 そこで最終的に共有されたのは、「みなさんも抱えこまないように気をつけましょう」という耳触りのいい忠告だった。

セルフケアは大切だと思うし、方法はどうであれ自分の機嫌を自分でとっていけたらいいなと感じるけれど、セルフケアを持てはやしすぎると「社会に不満を持ってしまうのは自分のセルフケアが足りないからだ」的な話になりかねないから少し警戒している
— 八月 (@koseee_) 2023年2月12日

 ちょうど昨日から「セルフケア」の話をぐるぐる考えていたせいか、今日はいろいろな出来事にさらされて情緒がめちゃくちゃになった。

 セルフケア・セルフラブの定義はとても難しいので、とりあえずここでは日常的に使われている「自分の機嫌を自分でうまくとって、自分を大切にして、自己肯定感を上げてうまく生きましょう」程度のニュアンスで簡単に解釈しておきたい。

そのうえで、それ自体の重要性はとても分かる。とても大切だとも思う。頑張った自分へのご褒美として高価な買い物をすることや、嫌なことがあった時に食事やアクティビティに課金して息抜きをすることは、私自身もよく実践する。自分のために時間やお金を使って自己を高めていくことは否定しない。世をうまく生きていく処世術であり、自分自身をフラットに保つ防衛策としても有用だから、日々を健やかに生きるために少なからず必要だと思っている。

 私がなんだか嫌だな~と思っているのは、こういうセルフケアをできること=仕事ができる人、いい男・いい女の条件であるかのような言説が、急速に強くなっていること。(とりわけ女性については、美容や身だしなみを整えることといった美意識までもがセルフケアに取り込まれているところがグロテスクだ。このあたりの話は今回は触れないでおく。)

そうして挙句の果てには「自分で自分の機嫌をとれない(セルフケアできない)人が悪い」という風潮になってしまうことを恐れている。セルフケアを「やって当然」と思われてしまう。セルフケアは自分が自発的にやってこそ有意義なものであるはずで、他者から過剰に押し付けられてやるようなものではない。誰かに言われてやったり、誰かに搾取されるものでもない。

 これについての違和感はずっとあって、自分自身の中でこの違和感が具現化したのは就活期間だった。

どの御社で面接しても「お休みをどうやって過ごしますか」「息抜きやストレス解消法は何ですか」という質問をされる。要するに自分で自分をケアできますか?という問いだ。
もっと露骨に「職場の人間関係で悩みがあって、上司に相談してもなかなか解決できなかったとき、どうやって気持ちを切り替えますか?」と聞かれたこともある。まるで、弊社ではそこまでのケアは期待できないので、自分自身で何とかできる人を採用したい、と言っているかのようだった。(当時は「セルフケア」なんて言葉はそこまで流通していなかったはずだ。いつからそんな言葉で呼ばれるようになったんだ。)

 話は逸れるが、思えば、ストレス社会という言葉は自分の記憶のかぎりでは小中学生の時からあって、そのうちに「ストレス耐性」とか「スルースキル」とかがちらほら聞かれるようになった。

まるでストレスに圧しつぶされる人の方が「ストレス耐性」や「スルースキル」がないから悪いみたいな、個人の能力に責任を押し付けるみたいな感じがして心底嫌悪していた。その延長にセルフケア・セルフラブはあると思う。

 仕事ができる人は、自分で自分の機嫌を取って、気持ちを切り替えられる人!ストレスをため込まないからストレス耐性もある!嫌なことは適度に受け流せるから、気持ちの余裕があって、アンガーマネジメントもできる!

 本当にくそくらえって思ってしまう。

 話を戻して、セルフケア・セルフラブの一件については、竹田ダニエルさんの一連のツイートがとても分かりやすく参考になった。

日本での「セルフケア・セルフラブ」が完全に資本主義的な「消費を通した自己実現」、さらには「自分の機嫌は自分で(金を使って)取る」という構造に回収されてしまっていて本当に良くないと思う https://t.co/VCBQ9BEbKf
— 竹田ダニエル (『世界と私のA to Z』発売中) (@daniel_takedaa) 2023年2月8日

 特にこれはそうだなと思った。

ケアとは基本的にお金がかかるものだ。私たちが自分で自分の機嫌を取ろうとするとき、そもそも社会(例えば職場)がするべき対処をしてくれていたら要らなかったケアがたくさんあったはずで、なのに私たちはセルフケアをさせられている側面がある。ストレスやハラスメントがあってつらいけれど、職場はまともな対応してくれないから、自分で気分転換するしかない。気持ちの問題だから。課金してでもそれをする。それが社会人として望ましいから。そんな雰囲気をあちこちに感じる。なんでも個人のセルフケアに責任を押し付けることで、得をするのは誰なんだろうか。

 ところで、近年持てはやされている「アンガーマネジメント」という胡散臭い言葉にも同じことを思っている。社会で働くうえで感情のコントロールは大事だ。確かにもともとの性格的に怒りやすい、感情的になりやすい人はいる。そういう人は感情をコントロールすべきだ。

 そんな「アンガーマネジメント」も最近、「セルフケア」と同じように自己責任の話に取り込まれているように思える。

というのは、この社会で発生する怒りはすべて個人の性格や気質に起因するものとは到底思えないし、職場の劣悪な環境のなかで理不尽な扱いをされ続け、余裕がなくなった故に感情的になることはよくある。

それなのに何でも個人のコントロールの問題みたいされているような状況がある。アンガーマネジメントとセルフケアは本来別物として考えるべきだが、自己責任の名のもとに都合よく持ちだされている感じだ。怒りの根本原因を作った社会(例えば職場)に、「まあまあ、怒りを抑えて」と言われているような気分だ。

 セルフケアの問題は海外でも認識されるみたいだけど、とりわけ日本についていえば、そもそも広義のケア(育児、メンタルヘルス、介護など)が軽んじられている背景もあるし、自分で自分をケアできるのが有能な社会人云々〜と持てはやしたほうが、多方面に都合がいいんだろうなと、普段社会で生きていて感じている。

自分をケアして当たり前、潰れたらセルフケア不足。反吐が出る。

セルフケアやアンガーマネジメントだけじゃなく、ほかにも似たような言葉はたくさんあって、「愛され力」とか「後輩力」とかもそうだ。私たちがうまくいかなかったときに「〇〇力がないあなたが悪い」と責任のすべてを個人に収斂させるような、やたら耳触りのいい言葉を信用して持てはやしてはいけないと思った。

そして、それらができない、それらの力を持っていない自分を責めてはだめだ。それらを持てはやすときに、いったい誰にとって都合がいいのか、ちゃんと考えなきゃいけない。
 セルフケアの押し付けなんて書くから大層だけれど、実際、緩やかな押し付けは本当に普段からあると感じる。

例えば業務過多で忙しく、疲れた顔をしていると上司から「ちゃんと寝ろよ」「ちゃんと食べろよ」と言われる。これだけならとても気配りのできる上司だし、部下に「最低限自分の生活を律しようね」と諭しているだけだ。

でも、過酷な職場環境のなか、悲鳴を上げて訴えても「ちゃんと寝ろよ」「ちゃんと食べろよ」と言われ続けることが、私の職場では起きている。ちゃんと寝食できるように調整するのが管理職の仕事なのに。

 もちろん、自分たちにまったく責任がないとは言わない。職場や上司がすべて悪いなんて思わない。もっと仕事を早く切り上げる工夫ができるかもしれないし、早く帰ればしっかり食事ができるかもしれない。その人自身が十分に仕事をできていないだけの可能性もある。

全ての場合において、上司や職場が悪者ではない。万事において自分以外の他者を悪者にして自己責任から逃れたいわけでもない。

でも個人では絶対にどうにもならない状況というものが確実にあって、それさえ個人の責任にされてしまうことが往々にしてある。そういうものに異議を唱える必要があるし、まずはそういう状況を少しずつ認識できるようにならないといけない。

 今日は仕事でとても煮え切らない、腹立たしいとも悲しいとも違う、形容しがたい虚無感を覚える出来事があった。言葉で表現することがはばかられるような出来事だ。婉曲的に、平たくいえば、多忙な働き方を強いられることで健康を損なう人がたくさん出たことの帰結のようなことが起こった。

 健康を損なった人たちは、セルフケアが足りなかったんだろうか。スルースキルがなかった?アンガーマネジメントが下手で、愛され力や後輩力がなかったんだろうか。少なくとも職場で起こった件については、日ごろから問題視されていて、みんな改善を要求していて、それでも職場が対応しなかったゆえの結果だと思った。それでもすべて個人のせいにして、そういうことにして、全部個人のせいにすれば、社会(例えば職場)はとっても楽なんだろうけど。

  まじめな話をしてしまったので、最後に今日食べたおいしいお菓子を貼ります。RAU さんのお菓子です。これは自分を慰めるためじゃなくて、単純に食べたくて買いました。おそらく。

 私などよりも大変有意義にこの問題に言及くださっている記事がありましたのでシェアさせていただきます。とても勉強になります。

2月16日追記:
はてなブックマークでのコメントありがとうございました。
以下返信です。(IDコール失礼します!)

>id:inujin さま
ありがとうございました。自発的なセルフケア・セルフラブはブックマークで他の方に言及いただいたようにクイア・アイ的に大切にしたいところ、社会から要請されることにはもやもやしています。(以前にもブクマいただいておりありがとうございました。その際は返信等できておらず申し訳ありません…!)

> id:p_shirokuma さま
ありがとうございます。すでに都合のよい資本財として管理されているような気がするこの頃です…。管理というより消費されているだけかもしれませんが…

>id:hatsan8 さま
ありがとうございます。主体的なセルフケアは大事ですしよくやるのですが、社会から押し付けられたり、例えば職場でつぶれてしまったときなどに「セルフケアが足りない!」等と責任転嫁される風潮は違うよな~と思う次第です…

> id:roirrawedoc さま
ありがとうございます。一緒にするなといいますか、例えば職場で長時間労働やハラスメントが横行して潰れる人がいる場合に、職場として何も対策をしてこなかったのに「セルフケアが足りない」等と個人のケアにすべて責任を押し付ける感じが嫌だな、と思います。もちろん、自発的なセルフケアは生きるために大切だとは思っています。

> id:tvxqqqq さま
ありがとうございます。記事では掘り下げませんでしたが、クィア・アイ的な、自身を高めるためのの主体的なセルフケアはとても大切だと思います。私自身も実践します。ただ、個人のものであったはずのセルフケアが社会に求められ、健康な労働力としてやって当然のものとして扱われ出した最近の感じについては「個人のセルフケアにタダ乗りしやがって」と思っています。

> id:narukami さま
ありがとうございます。実際、セルフケアは主体的に行えばとてもポジティブなものなので厄介だなと思っています。ストレスに弱い人にすべての責任があるように仕向け、ストレスを生み出す側(例えば職場など)が個人のセルフケアに依存する社会は生きづらいですね。

> id:tecepe さま
ありがとうございます。そうなんです、自発的なセルフケアだからこそ有意義なんですよね。

~ (id:hazukikose) 2日前
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ウソは健康的に接種すべきものであって、ウソで身の回りを固めると人生が破綻する

ウソは健康的に接種すべきものであって、ウソで身の回りを固めると人生が破綻する
https://blog.tinect.jp/?p=77629

『疲れている時にTwitterをやっていると、つい惹き付けられてしまうものがある。それはなろう系の漫画の広告である。

なろう系とは小説の一大ジャンルだ。

現実社会ではしがない生活をしていた人間がトラックにはねられて異世界に転生した結果、異能を発揮して無双したり、よくわからないけど何らかの天啓に恵まれてハチャメチャに強くなって、それまで冷遇されていた現実から一転して救世主みたいにチヤホヤされるというアレだ。

このなろう系はよく「努力が嫌いな現代人が、読んで気持ちよくなる為のもの」という風に揶揄される事が多い。

というか僕自身もそう思っていた節があり、正直読むのを避けていた。

しかし実際に読みすすめてみるとである。これが妙に癒されるのだ。

あんなに散々揶揄していたくせに、こんなに楽しんで読んでるだなんて何事だ!と怒られること必死である。いや…正直スマンかった…お前、めっちゃ面白いよ…

いったいなんでこんなに楽しいのだろうかと頭を捻ってみたところ、一つの結論がでた。
それは報酬の前借り効果である。

現実世界は結果反映まで時間がかかりすぎる

現実世界は大変である。大なり小なり、苦労していない人間などこの世にはいない。

僕もいま振り返ると笑っちゃうぐらいにラクチンな環境にいた頃だって、日々「シンドい」と思っていた。

このシンドさは実はある状況に似ている。

それは修行である。巨人の星からドラゴンボールに到るまで、強くなる人間はみな厳しい修行にハァハァしつつ、その成果として大リーグボールやらかめはめ波といった成果を手にしていた。

私たちは心のどこかで、大変な思いをしたら、それ相応の報酬がある事を心のどこかで期待している部分がある。

実際には報酬を受け取るには、きちんとしたプロジェクトを立ち上げて、かつ正しい努力をそれなりに長い年月積み重ねてゆかねばならないのだけど、そういう事をやったかどうかは別に、やっぱり心はどこかで「ご褒美」を欲しがっている。

既に疲弊した身体に、無双はものすごく気持ちいい

そういう疲弊しきった身体に、なろう系の物語は清涼飲料水のように染み渡る。

「現実世界ではもうチョー頑張った。もうマジ限界。恩赦プリーズ」

そういう状態の脳みそに、異世界転生して超絶ハイスペックでもって無双する状態を物語として流し込むと、脳が本当に物凄く喜ぶ。

「よく頑張ったね!努力の結果として、あなたは世界を揺るがす剣聖になれました!」

そういう文脈でもって”なろう系”を読むと、なんだかハチャメチャに頑張った現実世界における努力の対価を受け取っているかのように脳が錯覚する。

まあ実際には全然関係がないのだが、物語というのは自分の都合の良いように読むものである。

そうやって異能でもって世界中から称賛されているという感覚を味わい、美しいヒロインとイチャイチャするようなファンタジーにしばらく身を置くと、不思議なことにあんなに疲労困憊でゼーゼーいっていた脳が

「もう、もう元気になったから大丈夫だぜ。いっちょ次、頑張っちゃう?」

とか言い始めるのだから、不思議である。

まあ実際にはすぐまた疲れるのだが、疲れたらまた同じことを繰り返せばそれでよいのである。

なろう系…それは社会修行で疲れ果てた人間への、ご褒美ユンケルなのである。

自分の人生にウソを介入させてはいけない

「物語に癒やされるだなんてばっかじゃないの?」

「虚構に逃げても、何もいいことなんてない」

「現実から逃げるな!」

若い頃の自分は、よくこんな事を思っていた。

いま思うと「若者よ。そう生き急ぐな」と生暖かい目でみたくなってしまうのだけど、ウソや虚構といったものはそう一概に悪いだけのものではないと大人になった今は真剣に思う。

ウソや虚構は意識的に摂取しているうちは極めて健全だ。

感動的な物語にフルコミットして涙を流してもいいし、ヤクザモノの映画をみて絶対にありえなさそうな任侠道に憧れるのもいい。

しかし世の中には絶対についてはいけないタイプのウソや取り入れてはいけないタイプの虚構がある。

それは自分語りだ。他ならない、自分自身の人生をウソで塗り固めて構成した先にあるのは、純度100%の地獄である。

世の中にはびっくりするぐらいウソツキがたくさんいる

「人間は、意外と言われた言葉を額面通りにそのまま信じてしまいがちである」

これは岡田斗司夫さんという漫画・アニメの評論をする方が言われていた事だ。

連休中に彼が書いたガンダム完全講義を通読して、僕は自分がいかに相手の言葉をそのままの意味でしか理解していないという事を痛感させられた。

岡田さんは有名なシャア・アズナブルの「認めたくないものだな。自分自身の若さ故の過ちというものを」や「坊やだからさ…」といったカッコいいセリフが、実は物凄く深い意味があるという事をこの講義で徹底的に解説している。

その解説力には舌を巻くばかりなのだけど、考えてみると自分も基本的には相手の言ってる事をほとんど疑って聞いた事がない。

しかしである。じゃあ自分自身がウソをついていないかというと…これがまあ、よくついているのである。

ヤバいウソは基本的にはつかないが、じゃあ本音だけ垂れ流しているかというと、そんな事は全然ない。

このように自分自身もウソツキを大なり小なりやっている状況にあるわけなのだけど、こんなのは全然カワイイ方である。

インターネット博覧会であるTwitterでは、実はウソツキが膨大に列をなしており、虚構をまるで真実かのように真顔で主張する人たちが山のようにいる。

過去にも某超有名外資系投資銀行勤務を騙って巨額の詐欺を働いていた人など、枚挙にいとまがない。

普通の人は他人のウソを見抜けない

じゃあその人達のウソを自分自身がちゃんと見抜けていたかというと、これがまた驚くことに見抜けていなかったのである。

かつて2ちゃんねるの創始者であるひろゆき氏が語った有名なフレーズに「ウソをウソであると見抜けない人には2ちゃんねるを使うのは難しい」というものがあるが、現実問題として普通の人間にはウソを見抜くのは無理である。

それ故に…M資金のような詐欺が何度も何度も繰り返されるわけだし、それ故にインターネット上ではウソで塗り固めた人生でもって承認欲求を荒稼ぎする人たちが山のようにいる。

とはいえ、バレないウソはない

「それならウソをつきつづけられるのなら最強なのでは?」

実際にそれができるのなら確かに最強なのだけど、現実問題としてウソを完璧に貫き通せる人などほぼ居ない。

よく「ウソを一つつくと、そのウソを守るのにまた別のウソをつかなくてはならなくなる」という言葉があるが、虚構に虚構を積み重ね続けるのは実際問題として人間の能力を超えている。

小説のように最初から最後まで虚構で成り立つ世界ならまだしも、現実というファクトがある世界において、そこにウソを設置するのは物凄く難しい。

だいたいにおいてファクトだけが精神に残るという事もあって、ウソはついた事すら忘れ果ててしまう事が多い。

それ故にウソツキは自分がついたウソと矛盾するようなウソを無意識でもってよく言ってしまう。

そういう状況になってから、カンの良い誰かに「いやお前それウソじゃん」と指摘された瞬間から、ウソツキの人生は崩壊する。

そこで「ごめんなさい。すみませんでした」とやれる人間などまずおらず、ウソツキはゴチャゴチャと言い訳を始め、そしてぶっ壊れる。

この段に至って、ウソツキが真人間に戻れる確率はほぼ0%だ。

大抵の場合において「あっ(お察し)」な存在へと一般的には認知されるようになり、虚構の中で生き続ける残念な人間がこの世に爆誕する。

ウソツキの行く末は地獄以外にはどこにもない。

ウソが上手くいってしまった時ほど、その上手くいってしまったウソからもたらされる快感に吐き気を催せるようになるべきだ。それができないと、貴方の人生も「あっ(お察し)」である。

ウソをウソだとわかって楽しく利用できないと、現実を良く生きるのは難しい

ウソは使ってもいいけど、それを快感につなげてはならない。

これが僕のウソに対する結論である。

世の中にはどうしてもウソが必要となる時がある。末期がんで一縷の望みすらない人間が希望にすがっている時

「いや、おまえ絶対に助からないから」

と言うのは誠実なのではなく単なるバカだ。

そういう人にウソをつきたくないのなら、例えば「確かに世の中、何がおきるかはわかりませんからね」などと言って共感する方が絶対にいい。

世の中の多くのウソは優しさで満ち溢れている。

なろう系は血湧き肉躍る体験を読者にもたらしてくれるし、転職の際に「家庭の事情で…」とテキトーにウソをでっち上げるのだって、まあお互いが納得する為の一つのよい手段である。

このように、誰かを優しさで包む為のウソはインスタントな形で一時的な使用で終わる性質のものだ。

その後でバレたとしても、そこまで事がハチャメチャにこじれる事はないだろう。

一方で己の快楽の為につくウソは本当にヤバい。

覚醒剤の乱用者が強い刺激を求めて使用量がどんどん増えるかのごとく、ウソにウソが乗っかってトンデモナイ事になる。

行き先も同じく地獄である。誰もが「自分だけは絶対に大丈夫」と思い、どうにもならなくなってから破滅する。

ウソをウソだとわかって楽しく利用できないと、現実を良く生きるのは難しい。僕はそう思う。

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高須賀

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〔「ナラティブ(narrative)とは〕

〔「ナラティブ(narrative)とは〕

日本大百科全書(ニッポニカ)「ナラティブ」の解説
https://kotobank.jp/word/%E3%83%8A%E3%83%A9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%96-590017

『文芸理論の用語。物語の意。1960年代、フランスの構造主義を中心に、文化における物語の役割についての関心が高まった。その過程で、「ストーリー」とは異なる文芸理論上の用語として「ナラティブ」という言葉が定着した。

 物語に関する理論的探究は、アリストテレスの『詩学』にまでさかのぼることができるが、20世紀のロシア・フォルマリズム、および構造主義では、さかんに物語構造についての研究が行われて、やがてナラトロジーnarratology(物語学)という独立した分野を成立させるにいたった。

ナラトロジーは、物語を、その物語内容storyと語り方narratingの双方から、またその相互作用において研究することを目的とし、物語を、始点、中間点、終点を備えた一体性をもった言葉の集合であり、何らかの事象の再現行為であると考える。

例えば「水は二つの水素原子と一つの酸素原子からできている」という言明は、事実の叙述であって、時間的な経過をともなった事象の再現ではないが故に、物語ではない。

一方、「やがて雨が降り出した」という文は定義上物語である。

ナラトロジーは、主に詩や小説といった文芸作品を対象に精緻な分析を行うことで、時制、叙法、態といった多くの理論装置を生みだしたが、そこに共通しているのは、物語に普遍的な構造への関心、語り手の位置、語りが生みだす時間などへのこだわりである。

論者によってその理論は大きく異なるとはいえ、総じて物語の内容以上に形式に注意を向けているといってよい。

代表的な研究者としては、ロシアの民話が31の類型へと還元しうることを示したウラジーミル・プロップVladimir Propp(1895―1970)、現象学的な観点からわれわれが時間を経験する形式として物語をとらえたポール・リクール、プルーストなどを素材に語りの構造がいかに作品の独自性を生みだすかを問題にしたジェラール・ジュネットなどが挙げられる。

 しかしナラトロジーが、民話学、記号学、レビ・ストロースによる神話の構造分析など他領野の強い影響のもとに成立したように、ナラトロジーの影響も文芸理論の分野だけにはとどまらなかった。

『物語の構造分析』Introduction àl’analyse structurale des récits(1966)を書いたロラン・バルトが、同時に『神話作用』Mythologies(1957)で消費社会に潜む多様なナラティブ(神話)のあり方を分析してみせたことが示すのは、ナラトロジーが当初から、言語に限らないあらゆる領域におけるナラティブを問題にしようとしていたことである。
1970年代以降、文化を意識されないナラティブ(神話、イデオロギー)の集合としてとらえ、その機能のさまを明らかにしようという潮流が広がった。

そこに広くみられたのが、人間はナラティブを受容することで、さらにナラティブを語ることで、自己と社会を分節化し、構造化していくのだという考え方である。

こうした考えをナラトロジーの影響だけに帰することはできないし、必ずしもナラティブという言葉さえ共有されていたわけではないが、そこには広い意味でのナラティブに対する着目が存在した。

ナラティブは、国民、エスニシティ、ジェンダーなどの成立に深く関わるとされた。つまり、特定のナラティブを通じて世界を認識することで、社会的な権力構造と主体の位置が構成されると考えられた。

 歴史学では、ヘイドン・ホワイトHayden White(1928―2018)などが、歴史叙述はしばしばナラティブの形をとり、それは体制を擁護する働きをもつと論じた。

歴史が多様な語り方の可能なナラティブにすぎないのかは意見の分かれるところだが、歴史学がナラティブとしての権力作用をもつという考えは広く受け入れられ、各国で勃興した歴史修正主義、すなわち国民国家の再興を志向する観点から歴史を読み替えていこうとする動きと関わって議論を呼んだ。

これには、歴史が解釈(物語)を避けられないとしても、歴史家には事実の痕跡を通して「真実」を探究する義務があるというカルロ・ギンズブルグCarlo Ginzburg(1939― )のような立場も存在する。

 精神医療の分野では、主体は社会的言説の作用であるという社会構成主義の影響のもと、ナラティブ・セラピーの考え方が関心を呼んだ。

ナラティブ・セラピーは、家族やカップル内部でのナラティブを重視し、カウンセラーや自助グループのあいだでそのナラティブを書き換えていくことで、個人の行動パターンや自己認識をかえていこうとする。

1990年代以降、ナラティブという概念はその輪郭を曖昧にしつつも、政治学、社会学、国民国家研究、カルチュラル・スタディーズといった分野に根をおろしている。

[倉数 茂 2018年3月19日]

『ロラン・バルト著、篠沢秀夫訳『神話作用』(1967・現代思潮新社)』
▽『ロラン・バルト著、花輪光訳『物語の構造分析』(1979・みすず書房)』
▽『ウラジミール・プロップ著、北岡誠司・福田美智代訳『昔話の形態学』(1987・白馬書房)』
▽『ヘイドン・ホワイト著、原田大介訳「歴史における物語性の価値」(W・J・T・ミッチェル編、海老根宏・原田大介ほか訳『物語について』所収・1987・平凡社)』
▽『ポール・リクール著、久米博訳『時間と物語』1~3(1987~1990・新曜社)』
▽『ジェラール・ジュネット著、花輪光・和泉涼一訳『物語のディスクール――方法論の試み』(1991・水声社)』
▽『小森康永・野口裕二・野村直樹編著『ナラティヴ・セラピーの世界』(1999・日本評論社)』』

2019年 第一回 edge NOKIOO【ナラティブ・コミュニケーション】
https://www.nokioo.jp/workstyle/21

クリエイティブとは躁鬱の波乗りピカチュウである

クリエイティブとは躁鬱の波乗りピカチュウである
https://blog.tinect.jp/?p=75218

『たまに「普通の会社務めが無理だと思ったのでクリエイティブを志した」という人をみかけるが、その手の人種はメンタルがあまり強くはなさそうで終わりなき気分変調の荒波に耐え続けられるとはとても思えない。

夢がない話で恐縮だが、個人的には気分変調と仕事パフォーマンスの相関関係が弱い会社務めの方が多分向いているのではないかと思う。

サラリーマンは最低でも会社に通ってれば何とかなる。クリエイターではそんな芸当、絶対にできない。

クリエイティブとして長く生き続ける為には、普通の会社務めをしていたら意識しなくてもいい事をかなり意識してメンテナンスする必要がある。

躁鬱の波を己の生活リズムでもっていい塩梅に調整できないと生き残れないといってもいいかもしれない。

これは言葉で聞く以上に実行難易度は高く、ライターの10年生存率がそれを裏付けている。

クリエイティブとはいわば躁鬱の波乗りピカチュウだ。荒波を乗りこなせなかったピカチュウは、濡れ鼠となって放電して死ぬのである。』

『<3月のライオン 一巻より>

「他人が説得しなけりゃ続かないようならダメなんだ。自分で自分を説得しながら進んでいける人間でなければダメなんだ」

「進めば進む程道は険しく周りに人はいなくなる。自分で自分をメンテナンスできる人間しか、どのみち先へは進めなくなる」』

 ※ 人は、器の上に「何ものか」を乗せて、どっかに運んでいる…。それは、「自分というもの」なのかもしれない…。

 ※ 器の上には、「いろんなもの」が乗っている…。その都度その都度、その乗っている何ものかを繰り出して、人生の「切所」「難所」を凌いでいく…。

 ※ 年とるにつれて、乗っているものは、多くはなるが、古びてきて、「使い物にならなく」も、なっていく…。

 ※ それでも、どっかへと運んで行く必要がある…。

 ※ そのうちに、運んでも行けなくなって、「いのち」を使い果たし、あの世へと旅立って行く…。

新人の5月病どう防ぐ 「けちなのみや」でチェック

新人の5月病どう防ぐ 「けちなのみや」でチェック
産業医・精神科専門医 植田尚樹氏
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO44763390U9A510C1000000?channel=DF120320194898&nra

『社員がいきいきと働き、高いパフォーマンスを発揮する職場をつくるには何が必要か。産業医として多くの企業で社員の健康管理をアドバイスしてきた茗荷谷駅前医院院長で、みんなの健康管理室代表の植田尚樹医師に、具体的な事例に沿って「処方箋」を紹介してもらいます。

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ゴールデンウイーク(GW)明け、何となく気分が晴れないという人もいるかもしれません。いわゆる「五月病」はこの時期、心身の不調、倦怠(けんたい)感にさいなまれる状態を指します。正式な病名ではありませんが、大型連休明けにこうした症状を示す新人社員や新入生が見うけられることから、こう名付けられたようです。

その多くは新しい環境に適応できないことに起因するものと考えられます。希望に胸を膨らませて入社したものの、やりたい仕事に就けなかったり、上司や先輩との関係に気を使ったり、悩みは尽きません。ようやく自分の時間を持てた大型連休に、改めて思い悩んだ結果、働く意欲が減退し、ひどい場合には会社へ行けなくなり、ついには離職に至るケースもあります。

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ある大手企業の男性新入社員の事例です。5月の連休明けから落ち込む症状が続き、仕事にも集中できないと人事部門に訴え、産業医と面談することになりました。大学時代は体育会に所属するなど活発なタイプ。営業部門を志望していたところ事務部門に配属されたそうです。

五月病は5月だけではない
思い描いていた仕事とは異なるうえ、指導役の先輩社員が突如異動となり、1人取り残されてしまいました。不安が高まるにつれて、「何となく自己嫌悪になってしまった」というのです。

このような症状が表れたときには、職場の上司や同僚、産業医に相談してください。仕事ばかりの生活スタイルにならないように、趣味や勉強などに力を入れるのもいいかもしれません。ただし、落ち込みや不眠などの症状が続く場合は精神科の受診を勧めます。前述の新人も現在は精神科でカウンセリングを受けています。

こうしたケースは何も5月に限られたものではなく、むしろ1年を通じてみられるようになっています。このため最近では、「五月病」とは呼ばなくなってきています。

せっかく採用した人材の離職は会社にとってのリスクです。ただ、離職を防ぐための対策は極めて難しいのが実情です。

ある食品メーカーは離職防止の観点から「新人にはゆっくりしっかり仕事に慣れてもらおう」と、前年まで3カ月だった新人研修を延長。1年をかけて製造から販売まで、あらゆる職場で研修を重ねてもらったそうです。ところが結果は意に反したもので、離職率が高まってしまったというのです。どうやら新人たちは早く現場に出て、仕事を任せてもらいたかったようです。

活用したい「仕事のストレス判定図」
こうした離職を防ぐうえで、もっと活用されるべきだと私が考えているのが「仕事のストレス判定図」です。

2015年に労働者50人以上の事業所に対して、社員の心理的負担を検査する「ストレスチェック」が義務化されました。判定図は厚生労働省が推奨する「職業性ストレス簡易調査票(57項目)」による個々の調査結果を職場ごとに集団分析してグラフ化したものです。

グラフは2種類あり、ひとつは「仕事のコントロール(裁量や自由度)」と「仕事の量的負担」、もう一つは「同僚の支援」と「上司の支援」をそれぞれ縦軸と横軸にとったものです。

これをみると、裁量が低く量的負担が大きいほどストレスは高く、同僚や上司の支援が少なければ少ないほど、ストレスは高まることが一目瞭然です。

逆にいえば、仕事の量が増えたのなら裁量を広げることでストレスは軽減されるというものです。あるいは、上司や同僚の支援を増やしてやることで負担を軽くできることを示しています。

グラフ中の数値は「健康リスク」。数値が高いほどリスクが高いことを示す。グラフではリスクの高低を赤から白へのグラデーションで示している。(出典:厚生労働省資料)
まずはあいさつから始めよう
判定図が示しているように、上司や同僚との関係が職場の環境を大きく左右します。

ある製造業の事例です。事業所を訪れてみると何となく暗い雰囲気で、あいさつの声も聞こえません。ストレスチェックで集団分析をしてみると、かなり危機的な判定結果となりました。総務部門の担当者から「どこを直したらいいですか」と尋ねられたので、「職場の雰囲気づくりが大切です。まずはあいさつから始めましょう」と助言しました。ところがです。翌年「今年もストレスチェックをやりますか」と問い合わせたところ、その担当者はすでに退社していました。

ただ、こうした職場の雰囲気は決意次第で変えることができます。

あるメーカーの工場では、集団分析で非常に悪い結果が出ました。そこで職場の責任者が一念発起。部下たちに意識して声がけしたり、気軽に相談に乗ったりしたところ、わずか1年で判定が劇的に好転したそうです。ストレスチェックとは異なり集団分析は義務ではありませんが、その意義を十分に理解して、活用すれば大きな効果が期待できるはずです。

メンタル不調の問題のひとつに、本人が自身の症状になかなか気づかないという点があります。まず気をつけてほしいのが不眠です。次に仕事でミスが増えていないか、人の話を聞いて頭に入ってくるか。こうした症状がある場合は放置してはいけません。周囲に相談したり、医師に診てもらったりしてください。

けちなのみや
周囲が早くから兆候をキャッチしてあげることも大切です。同僚の不調を捉えるための標語「けちなのみや」をご存じでしょうか。

「欠勤が多い」「遅刻が多い」「泣き言をいう」「能率が悪い」「ミスが多い」「辞めたいと言い出す」――の頭文字をとったものです。

この6つのポイントに注意を払えば、比較的早期に対応することができるでしょう。ただ、最近はフレックス制や裁量労働制の採用が増えているので、以前とは異なり勤務実態が把握しづらいという問題もあります。

最後に部下や同僚の相談に乗るときの注意点です。

まず相談に応じるのは、自身が十分な時間を確保できるときにしてください。相談時間が短かったり、不十分であったりすると、「取りあえず、お座なりに処理された」と受け止められかねず、不信を招く恐れがあります。十分に時間をとり、ゆっくり話を聞いてあげることが必要です。

「でもね」「だけどさあ」は厳禁
相談の際は自らの主観を挟まぬように注意してください。「でもね」「だけどさあ」などと口にしてはいけません。相手が何が言いたいのか、何を伝えたいのか、耳を傾けてください。相談を持ちかけられた人間が主張する場ではないのですから、「傾聴」する姿勢を忘れないでください。

相談の結果、結論や解決につながらなくても、不安や悩みを言葉にすることで考えが整理され、不安が軽減される「カタルシス効果」も期待されます。

いずれにせよ、必要とされるのは上司、同僚、部下と気軽にコミュニケーションがとれ、困ったときには互いに協力し合える職場づくりです。まず第一歩として、声をかけあい、あいさつをすることから始めてはいかがしょうか。そうすることで、一体感や安心感が増すなどして、職場の雰囲気も変わってくるはずです。

※紹介したケースは個人が特定できないよう、一部を変更しています。』