時代は「自分のアタマで考えるな」だと思う

時代は「自分のアタマで考えるな」だと思う – シロクマの屑籠
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20220926/1664193445

 ※ 「自分のアタマで考えるな」って、そりゃ無理だ…。

 ※ なぜって、「自分のアタマで考える」とは、オレが「生きている」ってことと、「等価」だからだ…。

 ※ オレは、この年(とし)になるまで、ずっと「生きてきた」が、「自分以外のもの」だったことは、「一度も」無い…。

 ※ ずっと、一瞬たりとも、「自分そのもの」であり続けて来たんだ…。

 ※ 確かに、入院した当初は、「身動きしなくて」「死んでるかのよう。」だったらしい(後から、看護師から、そう聞いた)…。

 ※ しかし、そういう「状態」でも、オレとしては、「あー、頭イテー。ガンガンする…。」「なんか、ボンヤリ、点滴袋が二つ(止血剤と、栄養剤)下がってるなー。」という感想抱いて、「自分のアタマで、ボンヤリと、ものを考えていた」んだ…。

 ※ だから、人間生きてる限り、「自分のアタマで、ものを考える」存在なんだと思う…。

 ※ 「自分のアタマで、ものを考え」なくなったとき、それは、もう、「生きている」とは言えない存在になった…、という意味だろう…。

『今の世の中、自分のアタマで考えないほうが良いターンになっていると思いませんか。
 
 犬も歩けばフェイクに当たる

  これはアウト。
物理的にありえない水の動き、現実的ではない家の配置、画質と画像サイズ。AIが作成した写真です。
熊本地震の際にライオンが逃げたとフェイクニュースを流した人と同様で、災害時に不安を煽るデマを流している。通報しました。
なお、ライオンの件投稿した男性は後に逮捕されています https://t.co/WRRKb1xrWy
— なかむらすばる🌻紅楼夢【き03-b】 (@subaru_chen) 2022年9月26日

先日、静岡県の水害のフェイク画像がツイッター上に流された。ある者はそれを本物と思って拡散し、別の者はフェイクだと疑って拡散を思いとどまったり、疑問の声をあげたりした。自分のタイムラインではこれに引っかかる人はいなかったように見えたけれど、皆が皆、引っかからずに済んだわけではなかった。
 
のみならず、今のインターネット上には、広告にもタイムラインにもグーグルマップにもフェイクなメッセージが存在していて、その成否を判断するのが難しくなっている。そのうちあるものは(例えば健康法のように)高度な専門性なしに正否を判断するのが難しいものだったり、もし間違っていないとしても、そのメッセージをどこの誰に・どこまで適用していいのかわかりづらかったりする。また別のあるものは、(例えばウクライナでの戦況のように)事実を確認する手段が素人には限られていて、しかも国家規模のプロパガンダが混じっている可能性のあるものだったりする。
 
こんな具合に、今のインターネット上には、正否を、真贋を判断しづらいメッセージが溢れている。自分自身のアタマで考え、それをインフォメーションと呼べる水準にまとめあげるのが大変難しくなっている。
 
しかもクソ忙しいご時世じゃないですか。

そのうえ、私たちの可処分時間はどんどん少なくなり、と同時に、私たちが正否や真贋を判断しなければならないことは増え続けている。
 
「時は金なり」というけれど、実際、効率性や生産性に重きを置くいまどきの資本主義社会では、可処分時間はたいへん貴重なものだ。仕事だけでなく、キャリアのための勉強・人脈の形成・リラクゼーション・エンタメといったものも可処分時間を必要とする。そうやって現代人は忙しく日々を過ごしている。
 
忙しくなればなるほど、メッセージの正否や真贋を判断するのは難しくなる。誰かの書き込みや画像がフェイクかどうかを判断するにあたって、1時間費やして構わない場合と、10分費やして構わない場合と、10秒しか費やせない場合では、フェイクに乗せられる確率は同じ人でもかなり違う。時間的余裕がなくなるほど、人はフェイクに対して脆弱になる。
 
例えば、ラッシュアワーの埼京線で通勤しているサラリーマンが、くだんの水害フェイク画像をスマホで見た場合、しかも見たタイミングが乗換駅まであと10秒のタイミングだったら、フェイクに乗せられてしまう確率は高くなるだろう。同じサラリーマンでも、ゆとりのある時間にゆとりのある体勢でそれを見かけたなら、乗せられずに済む確率はだいぶ上がる。が、スケジュールに追われれば追われるほど、私たちはフェイクに乗せられやすくなるし、ともすれば、そのフェイクの拡散に手を貸してしまうかもしれない。
  
 だったら自分のアタマで正否や真贋を考えないほうがいいのでは

 こんな具合に、インターネットに正否や真贋の定まらないメッセージが溢れていて、しかも私たちに時間的余裕が乏しいとしたら、もう、下手なことは自分のアタマで考えず、誰かに考えてもらうのがいいんじゃないだろうか。この場合の誰かとは、ツイッターのインフルエンサーなどではなく、新聞やNHKニュースなどのことだ。雑誌も含めていいかもしれない。
 
もちろん、そういうマスメディアだって間違えることはあるし、マスメディアがフェイクに乗せられたりプロパガンダに加担したりする可能性もゼロではない。それでも、ツイッターのインフルエンサーなどに比べればその頻度と程度は信頼できるように思う。まして、生兵法にも自分のアタマで考えるよりは信頼できるんじゃないだろうか。
 
かつて、アルファブロガーのちきりんさんは「自分のアタマで考えよう」という本をリリースしたことがあった。
 
自分のアタマで考えよう――知識にだまされない思考の技術

作者:ちきりん
ダイヤモンド社

Amazon
 
ちきりんさんのように考える力があり、この本のとおりに思考するメソッドがあり、考える時間もたっぷりあるなら、これでいいのだと思う。2011年のインターネットの状況にも合っていたかもしれない。
 
けれども私たちの大半はちきりんさんと肩を並べるほど考える力があるわけではない。思考するメソッドを磨く暇すらなく、効率性や生産性にこづきまわされ、リラクゼーションとエンタメを天秤にかけながら可処分時間の短さを嘆いているような身の上だ。そして2022年のインターネットは2011年のソレに比べてずっと難しくなった。嘘を嘘と見抜けない人には(インターネットは)難しいというけれども、いや、今のインターネットでフェイクを見抜くのは簡単じゃないでしょう。
 
だとしたらだ。
もう、私たちは自分のアタマで考えるをやめたほうがいいんじゃないだろうか。
 
や、もちろん個々人の専門領域、職業人としての領域では大いに考えなければならない。しかし専門家にしたって専門領域を一歩出てしまえば素人、へたをすれば平均的な素人よりも性質が悪いことだってある。それならネットに氾濫するメッセージについて正否や真贋を判断するのはもうやめてしまって、なんなら隙間時間にスマホを覗くのもやめてしまって、新聞やNHKニュースなどに目を通すだけにしてしまったほうが安全安心確実ってものだ。新聞やNHKニュースでは味気ないって人はワイドショーでもいいかもしれない。「ワイドショーなんてあてにならない」という人がいるだろうし、その気持ちもわからなくはない。でも、私たちが個人としてツイッターやインスタグラムに貼りついてメッセージを授受し、みずから判断するよりは、まだしも打率がいいんじゃないだろうか。
 
人間は、しばしば間違う。
忙しかったり、疲れていたり、余裕がなかったりすれば尚更だ。
そのうえ情報の正否や真贋を判断すること自体、可処分時間や可処分認知を消耗する行為なわけで、それなら(多少、情報の流通タイミングが遅いとしても)新聞社や放送局のフィルタに通した後の、インフォメーションとして加工された後のものをファクトとみなしたほうが間違いが少なかろう。万が一、新聞社や放送局が間違ったのなら、まあその……仕方ないのかなとも思う。
 
繰り返すが、新聞社や放送局だって稀には間違うこともあるし、それこそ戦争中の国のマスメディアなどは、しばしばプロパガンダを流す。いや、戦争していなくてもマスメディアにプロパガンダ的なものはどこかに混じっていると見たほうがいいだろう。理想論として「民主主義国家の個人たるもの、自分のアタマで判断する能力を涵養すべき」ってのもそのとおり。
 
そして10年以上昔は「インターネットにはメディアとは違った真実がある」などとも言われていた。ですが今のインターネットって難しくないですか。これほどまでに正否や真贋のわからない今日のインターネットにおいては、マスメディアの出してきたものを鵜呑みにするほうが、自分のアタマで考えながらインターネットと向き合うよりも、まだしも確実度が高いのではないかと思う。
 
インターネット上で「自分のアタマで考えよう」って言葉が適用できる時代は遠くなった。少なくとも、それは万人に勧められるものではあり得ないし、いまや、ほとんどの人に勧められるものとも思えない。ネットリテラシーなど午睡の夢。ブロガーとしてのちきりんさんのように振舞い、ちきりんさんの勧めるように考えることは、今、とても難しい。 
ところで

ところで、自分自身のブログに「新聞を読め、NHKニュースを見ろ、ネットはあんまり見るな」って書くの、すごく萎える。ブロガーとしてのちきりんさんが活躍していた頃と現在ではインターネットの時勢が違ってきているのだから、それは仕方のないことではあるけれども。』

ウクライナに対する戦争で死んだロシア兵は、すべての罪を清められる…。

ウクライナに対する戦争で死んだロシア兵は、すべての罪を清められる…。
https://st2019.site/?p=20329

『ロイターの2022-9-26記事「Orthodox Church leader says Russian soldiers dying in Ukraine will be cleansed of sin」。

   ロシア正教会のいちばん偉い人「Patriarch Kirill」(75)いわく。
 ウクライナに対する戦争で死んだロシア兵は、すべての罪を清められる、と。

 すなわち、戦死するということは、他のすべての人のために自身を犠牲にするという行為なので、その行為によって生前の罪は水に流されるのである。

 かたやローマ・カトリックのフランシス教皇いわく。神は戦争を支持していない、と。』

厚切りジェイソン、ツイート全消し

厚切りジェイソン、ツイート全消し 米国株下落で非難殺到か?
https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2205/13/news094.html

 ※ 信者になるな!権威を疑え!

 ※ 自分の頭で考えることができるヤツだけが、生き残っていける!

 ※ 「事態の急変」に冷静に対処できる「眼力」と「胆力」を、鍛錬しろ!

 ※ この局面で、「レバナス」とか、最悪だぞ…。

 ※ 信者になって、「外した時」、「教祖さま」を非難しても、呪っても、「あとの祭り」だ…。

『タレントの厚切りジェイソンさんが、運営するツイッターの投稿をすべて消したことが話題になっている。22万人あまりのフォロワーを持つ人気アカウントであり、影響力は大きかった。削除の理由は明かされていないが、同氏が推奨してきた米国株投資に逆風が吹いているためではないかと見られる。

22万フォロワーを持つ厚切りジェイソンさん、ツイートを全消し

 厚切りジェイソンさんは2021年末に書籍『ジェイソン流お金の増やし方』を上梓。累計38万部を超えるベストセラーとなっている。書籍内では、「投資先は米国株がおすすめ!」「米国株を推しにするには訳がある」など、米国株投資を推奨している。

 一方で、激しいインフレとそれに対峙する米中央銀行に当たるFRBの利上げを背景に、米国株式は激しい下落に見舞われている。直近1カ月で、厚切りジェイソンさんが推奨する米国ETF VTIが12.6%下落(ドル建て)した一方で、日経平均は2.2%の下落にとどまった。
厚切りジェイソンさんが推奨する米国株は1カ月で12.6%下落

 もっとも全米株式に分散して投資するVTIの下落はまだ穏やかだ。ナスダック総合指数は同期間の下落が16.5%となっており、さらにレバレッジをかけるレバナスは1年間で半値あたりまで下落している。

 ネット上では今回の株価下落に際して「インフルエンサーの勧める通り投資したら資産がなくなった」「許さない」といった声も多数出ており、逆恨みによる非難からツイートの削除に至ったのではないかと推察されている。

 ここ数年は米国株が日本株などに比べて高いパフォーマンスを出しており、また若年層が投資するにあたり参考にする情報が大きくネットにシフトした。テレビや金融機関の営業担当といった伝統的な情報源ではなく、ネット上のインフルエンサーの情報をうのみにする人も多かった模様だ。

厚切りジェイソンさんのベストセラー『ジェイソン流お金の増やし方』

 もっとも、厚切りジェイソンさんは基本的な投資方法として、インデックスファンドによる「長期・分散・積立」投資をうたっており、極めて堅実な投資方法だといえる。書籍内でも、「危機が起きても積み立てたファンドを取り崩さないような準備を」と、今回のような事態が起きても慌てず淡々と投資を継続することを説いていた。

 それでも短期的な値動きに翻弄(ほんろう)されるのが投資家であり、またうまくいかなかったら誰かのせいにしたいと思う気持ちもあるものだ。「13日の金曜日」となる5月13日は、タレントの厚切りジェイソンさんにとっても不吉な日なのかもしれない。』

バチカン、今月初めに訪中 司教任命で暫定合意を再延長へ

バチカン、今月初めに訪中 司教任命で暫定合意を再延長へ=報道
https://www.epochtimes.jp/2022/09/117703.html

『米ボイス・オブ・アメリカ(VOA)14日付によると、キリスト教カトリックの総本山バチカン(ローマ教皇庁)の国務長官であるピエトロ・パロリン枢機卿はこのほど、バチカン代表団が今月初め中国訪問をしたと明らかにし、司教任命権を巡る中国との暫定合意を再延長する方針を示した。

バチカンと中国は2018年、中国の司教任命に関して教皇が最終的に任命することなどで暫定合意した。20年に双方は暫定合意を2年延長することを決定した。ただ、暫定合意の具体的な内容は公表されていない。

(※ 無料は、ここまで。)』

タンピン(寝そべり)の次は、バイラン(投げやり)?

タンピン(寝そべり)の次は、バイラン(投げやり)? : 机上空間
http://blog.livedoor.jp/goldentail/archives/29621499.html

 ※ 非常に疑問なのは、そういう「自堕落な人生」を送ることができている「原資」は、どっから出ているのか…、ということだ。

 ※ 不思議な話しだ…。親、あるいは親類縁者が、「泣く泣く援助」でもしているものなのか…。

 ※ しかし、そういう人生を送っていようがいまいが、「時は、残酷に過ぎていく」ぞ…。

 ※ ご老人になって行くのは、避けられない…。

 ※ 要支援、要介護状態になっていくのは、避けられない…。

 ※ どこぞの女王様も、亡くなったという話しだしな…。

 ※ 『老後は、死んでしまえばよい。』と言うが、どっこい、人間、死んでいくのも大変な話しだぞ…。

 ※ 死んでく前に、老いて、衰えていく…。

 ※ 順番から言ったら、「親の方が、先に死ぬ。」…。

 ※ その葬儀とか、どうするね?親の援助が無くなったら、どうするね?

 ※ 衣食住の確保は、どうするね?

 ※ その時、君は、いくつになっている?

 ※ これもまた、「大事業」だ…。

 ※ 若いうちは、「今の状態が、ずっと続くもの。」と思いがちだ…。

 ※ しかし、「そうは、問屋が卸さない。」

 ※ そんなことが、あるハズも無い…。

 ※ まあ、人の一生で、「大事業」で無いなんてものは、有りゃせんさ…。

『 去年あたりから中国で流行り始めた、無気力な若者を示す言葉「タンピン」ですが、さらに積極的に何もしない「バイラン」という言葉が、流行り始めています。タンピン(寝そべり)は、消極的な諦めの態度なのですが、バイラン(投げやり)は、それより積極的に諦める態度を指します。

バイランの具体的な行動は、

・仕事は辞める。
・ゲームは、負けても構わない。勝ちにこだわらない。
・ダイエットなんかするくらいなら太っていてよい。
・老後は、死んでしまえばよい。

つまり、現状を肯定し、極力何もしない事を行動として選ぶという事です。バイランの1日は、彼らに言わせると、こうです。

・朝11時まで寝て、起きてイテクアウトを注文する。
・パソコンを点けて、ライブ配信を見ながら時間を潰し。
・夜12時に布団に潜って人生について考える。
・スマホを弄りながら、いろいろなソーシャルメディアで社会の不公平さを訴える。
・明け方近くに寝る。

このルーチンが、バイランの典型的な過ごし方です。

つまり、仕事や学校にも行かず、友達も作らず、結婚もせず、子供もいらず、積極的に自ら世間との繋がりを切り離しています。「努力しても報われない。努力しないことこそ、快適に暮らせる」というのが、その動機になっています。何もしなくなれば、周りから要求されたり、批判されたりする事がなくなります。ストレスフリーで生きる事が、最上の人生という価値観です。

彼らからすると、家の所有など、一人前に要求される水準が、不動産の高騰などで、一生かけても手の届かない価格になり、努力しても努力しなくても、追いつけないのが明白に見えている為、霞の向こう側のゴールを目指すより、そもそも霞の向こうは存在しないと考えたほうが利口であるという理屈のようです。

上海がロックダウンされた時に、力付くで個人宅に踏み込み、中の人を強制連行するような検疫員(白衛兵)が、抵抗した住民に対して、「抵抗すると、評価ポイントが下がって、お前たちの家族全員が社会から不利益を受けるぞ」と言った脅しに対して、「そんなものは関係ない。こんな社会に生きるつもりはない。我々は最後の世代だ。子供も作るつもりはない。」と反論した動画が、一時期話題になりました。白衛兵は、ドアを壊して家宅侵入した上で、ペットを殺したり、私物を勝手に処分したり、消毒液で室内を台無しにしたりします。それを、強要されて反抗できない社会に、何の期待もしていないので、行政からどう思われようと構わない。私が最後の世代だという抗議なのですね。

中国では、社会が特殊なので、「共産党に従順な、物言わぬ労働力」としての価値しか期待されていない事に対する、ある意味消極的な反抗と言えるのかも知れません。しかし、これが、中国特有の現象かと言えば、そうでもないのですね。世界的に、「働かない・働けない」若者は、社会問題になっています。

・イタリア-バンボッチョーネ

大きな赤ん坊の意味で、両親と同居し、援助を受ける成人男性。18~34歳の男女の6割が親と同居。

・ギリシャ-700ユーロ世代

2010年の経済危機で、20~30代の若者の半分が失業。就職しても、月給が700ユーロの低賃金が固定化された。

・日本-パラサイト・シングル、ひきこもり

親と同居し、親に依存している未婚者。半年以上、家に籠もって、家族以外と交流の無い人。全国で100万人以上いる。

・韓国-N放世代

2010年代に、恋愛・結婚・出産の3つを諦めた若者。諦めるものが増えるほど、Nの数が増える。現代では、7放世代まで増えている。

・フィリピン-タンバイ

失業中の若者が、路上で暇を潰している状態。「就職する為のスタンバイ状態」という意味。

・シンガポール-BBFA

「Bui Bui Forever Alone」の頭文字を取った略語。「永遠に孤独に寝そべる低所得な若者」を指すスラング。

つまり、世界中で、「働けるけど働かない若者」、「国の経済が厳しくて、働く意欲を削がれる若者」は増えています。ここで、思い出して欲しいのは、このブログの記事で、「楽園実験という恐ろしい試み」として投稿した記事です。これは、マウスを使った社会観察実験で、衣食住が保証され、外敵や天候に影響されない楽園を作ったら、社会はどうなるかを試してみたものです。

簡単に要約すると、群れの大多数が繁殖意欲すら失った「無気力マウス」が増殖した事で、高齢化が進み、最終的には妊娠能力のあるメスが減って、群れは絶滅しました。その過程では、メスのオス化や、ネグレクトも観察され、新生児の生存率低下が、外的要因の脅威が無いにも関わらず発生して、最終的に群れの数が減少に転じたのですね。

少なくても、「油断していると明日死ぬかも知れない社会」が排除されると、無気力という病が、その社会を蝕むのは、人間も動物である以上、避けられないのかも知れません。』

より多くを知り経験することで人生は開けてくる

北の国から猫と二人で想う事 livedoor版:より多くを知り経験することで人生は開けてくる
https://nappi11.livedoor.blog/archives/5369062.html

『筆者のいとこの次女:cousin’s second daughter(日本語では従姪:じゅうてつ)が語学研修で短期留学し、今英国のウェールズに居る。写真はホームステイ先のもの。
いとこの長女(写真の姉)はすでに社会人だが、大学生の頃マレーシアとベトナムへ留学している。ほかにも筆者の身内では、疎遠にはなっているが、米国やデンマーク、オーストラリアにも居るので、世界はずいぶん狭くなった。

9月6日から7日にかけて筆者は東京へ出かけ、以前海外で知り合った友人や知人と再会する予定だ。会った当時は互いに20代、30代で、互いに10代から知っている友人もいる。皆無事に定年を迎えているのはうれしい限りで、こういう再開が人生に小さな花を添えてくれる。

頼んだ記憶がないのだが、メールを開けば、数日前のウクライナの戦場で、ウクライナのドローンがロシア兵を攻撃する映像が届いている。いつの間にか、そのサイトのメンバーになっているようだ。別に害はないので在りがたく視聴させてもらっているが、ウクライナ情勢に関しては、ロシア側とウクライナ側との戦況報告に大きな差があるので、常に多くのサイトを見たうえで、目まぐるしく変わる状況を判断している。日本の新聞報道も少しは早くなったとはいえ、いつまで複雑な国際紛争を地図も載せずに報道するのか?筆者が地図や写真を多用するのは、欧米の報道に比べ見劣りする、日本のメディアに対する反発でもある。

今この瞬間も、世界では若い人や、時には子供まで戦争や災害の犠牲になっている。これから社会へ出る人たちには、今の世界は決して優しくはなく、もっと悪くなる可能性すらある。

こんな状況で生き抜くには、一人一人が多くの状況を探り、知ったうえで、自身で適正と思われる判断をして先手を打って行くしかない。

筆者のブログが、そんな一助になれば幸いだ。これから筆者が合う仲間は、そうやって、ひっそりとだが、逞しく生き抜いてきた仲間たちだ。

過去ブログ:2022年8月オリビア・ニュートン=ジョン、2022年8月8日に73歳で逝去 7月Hasta la vista, baby! 7月思い出のグリーングラス 7月100年前の東京の映像と民主主義100年と少子化 7月絶滅したバイソンを数千年ぶりに自然に再導入の試み 英国 4月中国資本による英半導体企業買収は波乱含み 2021年8月中国企業の英半導体企業買収に待ったをかけた英政府 2月EU離脱後の対英貿易で流通の手間や経費急増とTPPへの期待 2020年12月ケルト時代の金貨発見と英国の古代史 8月英国の世界遺産ストーンヘンジの巨石採取場所判明 2019年9月混迷する英国議会は霧の中>議会は首相要請で5週間の閉会 5月日立の新型車量英国東部での運転開始 2016年6月ロンドン市の独立やスコットランドの拒否権まで浮上 英国 2015年10月フランス側難民が海峡トンネルに徒歩で侵入 フランス 2014年9月なぜスコットランドは英国からの独立をめざすのか?>独立否決が確実 2013年12月アザラシとキツネとネコ 2月英国王リチャード3世の遺骨確認される 英国 』

テレワークで行き場失う承認欲求

テレワークで行き場失う承認欲求 偉さ誇る時代の終わり テレワークと承認欲求(上) 同志社大学政策学部教授 太田 肇
https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXZQOCD237TV023052022000000

『2022/7/4

 新型コロナウイルス禍を受けて、半ば強制的にテレワークが導入されてからおよそ2年が経過した。コロナ禍が落ち着きを見せるとともに大都市圏では通勤ラッシュが復活し、オフィスにもにぎわいが戻ってきた。会社が対面での働き方に戻し、出社を求められるようになった会社員も多いだろう。

テレワークの普及で管理職が「偉さ」を誇る時代は終わりつつある(写真はイメージ)

 各種の調査から分かってきたのは、テレワークでどうしてもできない仕事はさほど多くないという事実だ。営業や窓口業務のほか、製造や建設現場の仕事ですらリモートでこなせるようになっている。むしろテレワークの定着を妨げる「見えない壁」が社会的・心理的な要因の中にあることが分かってきた。

 拙著『日本人の承認欲求 テレワークがさらした深層』(新潮新書)は、社員の承認欲求、とりわけ職場という共同体の中で自分の存在感を示そうとする日本人特有の表れ方がテレワークの普及を妨げていることを明らかにした。さらにテレワークだけでなく、組織のスリム化やムダの削減といった改革にも少なからぬ影響を与えている。

 その一端は次の調査結果からもうかがえる。パーソル総合研究所(東京・港)が2020年3月にテレワークを行っている人を対象に行った調査では、回答者の4分の1以上が「私は孤立しているように思う」「私には仲間がいない」と答えた。テレワークの頻度が高いほど孤立感も強くなる傾向がみられた。

 なかでも管理職がテレワークの影響を強く受けていることは、「必要がないのに出社を命じられる」「リモート飲み会の開催を執拗に迫られる」といった部下が口にする不満の声からもうかがえる。

 管理職の承認欲求はこれまであまり注目されてこなかったが、他の欲求に勝るとも劣らない力で人の態度や行動に影響を及ぼすことが明らかになってきた。わが国特有の組織・社会構造によって欲求が前述した独特の表れ方をすることもわかってきた。

 「序列」意識させる大部屋オフィス

 本人がどれだけ意識しているかはともかく、日本企業の管理職にとって会社は自分の「偉さ」を見せびらかす場であり、それによって承認欲求を満たしているといってよい。地位の序列は「偉さ」の序列であり、大部屋で仕切りのないオフィスは序列を見せびらかすのに適した構造になっている。部下は上司の一挙手一投足に注目し、ひと言ひと言に耳を傾けてくれる。自分が仕切る会議やイベントは管理職にとってはハレの舞台だ。

 程度の差はあれ、非管理職や若手社員も意識は同じだ。社内での地位は低くても下請け企業や取引先に会社のブランドをひけらかすことがある。若手社員も新人が入ってきた途端にがぜん張り切り、先輩風を吹かす。先輩が新入社員を公私両面で指導するメンター制度も、メンティー(指導される側)はともかくメンター(指導する側)のモチベーションは明らかにアップする。

 背景にタテ社会と共同体型組織

 自分の「偉さ」を見せびらかすことによって承認欲求を満たす日本人サラリーマンの志向と行動特性は、日本の組織・社会特有の構造から生じている。

 一つは、わが国がいわゆる「タテ社会」(中根千枝著『タテ社会の人間関係』)だということである。社内の上司と部下の関係だけでなく、元請けと下請け、顧客と店舗、さらには取引先との間でも上下関係ができ、そこから「偉さ」の序列が生まれる。敬語や言葉遣いにそれが象徴的に表れる。要は「対等」という概念がないのだ。接待や宴会は「偉さ」を見せびらかす場でもある。

 もう一つは会社がイエやムラのような共同体としての性格を備えていることである。日本企業はいまだに終身雇用の枠組みを残しており、転職や中途採用などメンバーの入れ替わりが少ない。メンバーが固定化すると、自然に「偉さ」の序列ができる。

 このようなタテ社会と共同体型組織は、かつての工業社会、とりわけ少品種大量生産型システムとは相性がよかった。決まったものを正確に作るには、軍隊のような上意下達の規律正しい組織が効率的だった。単純な事務作業が中心のオフィスも同じだ。』

『ところが、ネットの世界は基本的にフラットである。テレワークはタテよりヨコの関係で進められる。これまで管理職が担ってきた情報の集約、伝達、仕事の配分といった仕事の多くは不要になり、組織の階層は少なくて済む。当然、管理職の数も減る。その結果、「偉さ」の源であるシンボルが消滅していく。

 テレワークだと物理的にも、社会的・心理的にも共同体の境界があいまいになる。上司からすると自分の存在を認めてくれる部下は目の前にいないし、部下は社外の人たちとネットワークを築いていく。情報・ソフト系の企業などでは、もはや会社の内と外との境界さえわかりにくくなっている。そのようななかで自分の「偉さ」を示そうとすると部下たちは離れていくか、下手をするとパワハラ扱いされるのがオチだ。

 健全な承認欲求を原動力に

 とはいえ、「見せびらかしたい」という意識は米国の心理学者アブラハム・マズローのいう「尊敬の欲求」(承認欲求の一部)からくるもので、それ自体を否定すべきではない。そもそも「欲求」である以上、食欲や性欲などと同様に捨て去ることは難しい。問題は人格的な上下関係に基づく「偉さ」を誇るところにあり、人格的に対等な関係の中で個々人が能力や業績、個性などを認められる場をつくればいいわけだ。

 ある機械メーカーでは、製造した機械に製作者の名前を入れて出荷するようにしたところ、若手の離職者がほぼゼロになった。毎月研究会を開いてメンバーが順番に自分の実績や得意なことを発表している職場では、メンバーの帰属意識や一体感が目にみえて高まったという。

 新たに表彰制度を取り入れた会社では「社員が失敗を恐れず挑戦するようになった」「社員のモチベーションが上がって業績がV字回復した」といった声が聞かれる。

 スポーツや芸能などの世界を見れば分かるように、「自分をアピールしたい」という欲求は活躍と成長の原動力にもなる。コロナ下のテレワークで従来の価値観や行動様式が通用しなくなった今こそ健全な形で承認欲求を満たせる場を広げていきたい。
太田肇(おおた・はじめ)
同志社大学政策学部・同大学院総合政策科学研究科教授。神戸大学大学院経営学研究科修了。経済学博士。専門は組織論、とくに「個人を生かす組織」について研究。日本労務学会常任理事。組織学会賞、経営科学文献賞、中小企業研究奨励賞本賞などを受賞。『「承認欲求」の呪縛』(新潮新書)、『「ネコ型」人間の時代』(平凡社新書)、『公務員革命』(ちくま新書)、『「見せかけの勤勉」の正体』(PHP研究所)、『個人尊重の組織論』(中公新書)、『「超」働き方改革』(ちくま新書)、『同調圧力の正体』(PHP新書)など著書多数。近著に『日本人の承認欲求 テレワークがさらした深層』(新潮新書)。』

自宅の修繕費、築30年で900万円超 計画的な貯蓄不可欠

自宅の修繕費、築30年で900万円超 計画的な貯蓄不可欠
人生100年の羅針盤
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD077PY0X00C22A7000000/

 ※ ヒトもモノも、古びて補修が必要になってくるのが、「自然の摂理」だ…。

 ※ 「こんなに費用がかかるのかと驚いた」…。

 ※ イラストが添えられているが、秀逸だ…。

 ※ ここに描かれている通りの話しだ…。

 ※ さりとて、「賃貸」借りようとしても、年寄りにはいろいろと「条件」があって、スンナリとはいかんしな…。

 ※ そうこうしているうちに、「要支援」「要介護」状態になって、「老人ホーム」にご入居コースへと、真っしぐらだ…。

 ※ 着々と、そういう「コース」を辿っています…。

『持ち家があり、住宅ローンの返済も終わったシニア世代は「老後は住居費の負担は軽くなる」と考えがちだ。しかし、意外に重くのしかかるのが家の修繕費用。戸建てでもマンションでも、築年数が古くなると、雨漏り対策など基礎的な工事だけでも費用がかさんでくる。長寿化で必要な工事回数が増える一方、工事単価は上昇傾向だ。「終(つい)の棲家(すみか)」を確保・維持するお金にも目配りが必要になる。

「こんなに費用がかかるのかと驚いた」。東京都で十数年前に新築一戸建てを構えた会社員は、家の外壁塗り替えに100万円以上がかかったことを振り返る。戸建ての場合、この男性の家のように、外壁や屋根の塗装・補修などがおよそ15年程度で発生し、費用は数十万円から100万円程度かかる例も多い。

トータルの費用はどれくらいになるのか。不動産コンサルティングのさくら事務所(東京・渋谷)の試算だと、標準的な戸建て住宅(木造2階建て、延べ床面積116平方メートル)では築後30年の修繕費用は基本的な項目だけで900万円を超す。シロアリ対策、給排水管や給湯器の交換など様々な工事が積み上がると、負担は徐々に重くなる。

30年超の時期はどうか。さくら事務所の田村啓ホームインスペクターは「期間を延ばすと流動的要素が多くなるが、仮に60年の総費用を考えると、2500万円程度になり得る」と話す。60年間、建て替えずに修繕を続けた場合の試算で、建て替えた場合の総費用はさらに膨らむ可能性が高い。実際の費用は個人差が大きいものの、「長寿化で生涯を通じて必要な工事回数も増えている」(田村氏)。

慢性的な人手不足を背景に、工事費用も上昇。消費者物価指数(2020年=100、全国)で住居の外壁塗装や水道工事など「工事その他のサービス」をみると、21年までの約10年でおよそ2割上がった。これは主に戸建ての工事費の上昇を反映する。

住宅修繕の市場に詳しい彩ホームプランニング(神奈川県大和市)の豊田憲明代表は「新築は木材を事前に工場で加工するプレカットなど一定の効率化策があるが、修繕は職人の技術・経験に依存する部分が多く、人手不足の影響が特に大きい」と話す。多額の費用を敬遠するシニアは多いが、「雨漏りなどは本来、予防的修繕が効果的。『お金はかけたくない』と工事会社などに本音で話してみるのも一つの方法だ」(豊田氏)。コスト削減のアイデアが出てくる例もあるという。

修繕費の負担が重いのはマンションも同じだ。戸建てと異なり、毎月積立金を払っているのが普通だが、それだけで安心はできない。18年度の国土交通省のマンション総合調査によれば、3割以上のマンションが計画に対して積立金が不足している。「余剰か不足か不明」という回答も約3割に上る。

資金不足で安易にすべての修繕を見送るのは危険だが、状況によっては優先度の高い工事に絞り込む選択肢もある。ベンチャーのスマート修繕(東京・渋谷)は建築士事務所などと協力、マンションの劣化診断を手掛ける。「『工事ありき』ではなく、必要な工事を洗い出す」(同社)

老後の快適な暮らしのためには、省エネ性の向上やバリアフリー化などの工事も追加で必要になる可能性がある。一般的に積立金制度がない戸建てはもちろんだが、マンションの場合も自分で将来の修繕費は老後資金計画などの中に組み込んで、計画的に貯蓄しておく姿勢が欠かせない。

賃貸、シニア向けサービスも

国交省の20年度の調査では、賃貸住宅のオーナーの約7割が高齢者の入居に拒否感を示す。入居中の孤独死で、その後の賃貸が難しくなることなどを警戒するが、解決に取り組む動きも増えている。不動産業のMARKS(横浜市)はシニア夫婦のうち1人が亡くなった世帯に接触し、住み替えなどのコンサルを展開。シニアの入居に抵抗感がない貸主を見つけるが、通常契約が難しいなら同社が借り上げ、転貸する。同業のフラット・エージェンシー(京都市)はシニアと若い学生や子育て世代が暮らすシェアハウスの企画・開発を進める。
(住宅問題エディター 堀大介)』

脳はほどほどのお酒でも老化する 英の追跡調査で判明

脳はほどほどのお酒でも老化する 英の追跡調査で判明
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC056L20V00C22A8000000/

 ※ オレは、退院して以来、一切酒類は止めた…。

 ※ 一滴も飲んでは、いない…。

 ※ まだまだ、役割振られていて、死んでるわけにもいかないからな…。

 ※ 死んでるどころか、「再発」喰らって、「使いものにならなくなる」わけにもいかんのよ…。

 ※ しかーしだ…。

 ※ 「降圧剤」処方されて、血圧管理している…。

 ※ 血圧下がるのは、けっこうだ…。

 ※ しかーしだ…。そうすると、今度は「頭がボーっとして」、そっちのお蔭で「使い物にならなく」なるのよ…。

 ※ ヤレヤレだ…。

 ※ 酒なんか飲まなくても、脳の老化は、確実に進行しているものと思われる…。

 ※ なんとか頑張って、「使いものにならなくなる」時期を、先に延ばさないと…。

 ※ まあ、それも、限界のある話しではあるんだが…。

『どんな食事が病気の予防になるの? また、どんな習慣がアンチエイジングにつながるの? 世界中で進む、「健康」にまつわる研究について、注目の最新結果を紹介します。

今回紹介するのは、お酒好きには気になる「ほどほどの飲酒でも脳は老化する」という報告だ。

ほどほどの飲酒でも、アルコールは脳に悪影響を及ぼすことが、世界最大規模の遺伝情報や健康情報のデータベースである英国の「UKバイオバンク」の「前向きコホート研究」[注1]のデータを用いてわかった。

[注1]最初に健康な集団の生活習慣を調べて、その後、疾病の発生状況を追跡する研究。
ほどほどの飲酒でも、アルコールは脳に悪影響を及ぼす(写真はイメージ=PIXTA)

大量のアルコール摂取は、脳の萎縮や神経細胞の減少と関連することが知られているが、軽度から中程度のアルコール摂取がどのくらい影響するかはわかっていなかった。

研究では健康な中高年者3万6678人(女性が52.8%、48~78歳)の脳の画像データを使って、アルコール摂取と脳組織との関連性を調べた。アルコール摂取量は、ビール1パイント(568ミリリットル)が2単位、ウイスキーなどの蒸留酒25ミリリットルは1単位、ワイン1杯(175ミリリットル)は2単位と定義された。

解析の結果、参加者の1日あたりのアルコール摂取量は平均で1.16単位だった。脳の画像データから、神経細胞(ニューロン)の細胞体が集まる「灰白質」の体積は脳全体で平均616立方センチ、神経線維が集まる「白質」の体積は547立方センチだった。

年齢別に見ると、灰白質と白質の体積(頭の大きさで調整)は男女とも加齢とともに減少していた。また1日あたりのアルコール摂取量が多いほど、灰白質と白質の体積は減少し、軽度から中程度の飲酒でも脳の老化につながることが示唆された。

50歳の場合、1日のアルコール摂取量が1単位から2単位に増加すると、灰白質も白質も2年の老化に相当する。2単位から3単位の増加では3.5歳の老化、3単位から4単位の増加では4.9歳の老化になるという。

灰白質の減少は脳全体で見られたが、運動や判断・思考に関わる前頭葉、触覚や痛覚などの体性感覚に関わる頭頂葉などで顕著だった。白質では特に脳弓という部位がアルコール摂取との関連性が深く、この部分は記憶障害に関連しているという。ただし、脳のエリアと飲酒との因果関係はまだ明らかにすることはできないため、さらなる研究が必要だと研究者らはまとめている。

データ:Nat Commun. 2022;13(1):1175.

(文 八倉巻尚子)

[日経ヘルス2022年5月2日付記事を再構成]』

時間泥棒の話・・・「モモ」 : 机上空間

時間泥棒の話・・・「モモ」 : 机上空間
http://blog.livedoor.jp/goldentail/archives/29390985.html

『ドイツ人作家のミヒャエル・エンデ氏の書いた「モモ」という児童書を、ご存知だろうか。1973年に発刊され、翌年にドイツ児童文学賞を受賞しています。私が、この本を買ったのは、学生の時でした。「ネバー・エンディング・ストーリー」(原作・はてしない物語)の映画が公開されて、ストーリーは、ともかくとして、その絵本の挿絵のようなビジュアルを、そのまま映像化した、映像としての完成度に当時、やられてしまいまして、その原作者の作品という事で購入しました。書評も高評価で、大人が読んでも面白い作品として紹介されていたのですね。当時は、ハードカバー版しか販売されてなくて、そこそこ高かった記憶があります。

人々から時間を奪う「時間泥棒」というキャラクターを設定して、主人公のモモとの対決を描いた物語で、かなり寓話的な物語です。モモというのは、まるで当時、世界的に流行していた、怒れる若者を代表するような浮浪者の少女です。従来からの価値観や大人の言う事に対して、それが真実なのか、正しいのかという疑問を持つ若者が、アメリカでも、ヨーロッパでも誕生して、彼らはお仕着せの価値観を否定し、いわゆる「ヒッピー」という自由主義者的なライフ・スタイルを啓蒙します。ウーマン・リブとか、フリー・セックスとか、マリファナとか、サイケデリックとか、精神の開放とか、型にはまらないのが新しいスタイルだとして、実際に、そういう生き方をした世代が誕生した時期ですね。

彼女は、今は廃墟と化した円形劇場に住み着いていて、見た目は小学生くらい。生まれてから、一度もクシを通した事も無いような真っ黒な巻き毛で、裸足で歩くせいで、足の裏は真っ黒。服のサイズも、まったく合っておらず、ツギハギだらけという風体です。モモという名前は、自分で付けたと言い、その他の事は、判らず、ただ、ここに住みたいと言います。周囲の住民たちは、相談して、モモの面倒を見る事にしました。

正体不明の風来坊の彼女ですが、モモは人の話を聞く才能に優れていて、心の問題を抱えた人が、彼女と会話をすると、その負担が軽くなるという極めて優れた特性を持っていました。こうして、心の安定でお返しする事で、モモは無くてはならない存在になって行きます。

しかし、そこへ「灰色の男たち」と呼ばれる存在が介入してきます。鉛のような灰色の書類カバンを持ち、灰色の煙の出る葉巻をくゆらせる、紳士のような出で立ちの男たちです。彼らは、人生に不満を抱える人間と会い、いかに時間を無駄にしているかを秒単位で説きます。そして、節約した時間を、彼らの運営する「時間貯蓄銀行」に預ければ、利子を乗せて支払うと営業を仕掛けます。

その話に乗った人々は、一秒たりとも無駄にできないと、イライラしながら働くようになり、それでも、時間はあっという間に経過してしまうので、もっと倹約しなくてはと、怒りっぽくなっていきます。こうして、灰色の男たちは、人々から時間という財産を奪って、世界を侵食していきます。

やがて、モモの元には、人々が寄り付かなくなるようになりました。時間を倹約する事に価値を見出すようになった親達が、モモが、ぐうたらの怠け者で、時間を無駄に浪費させる人間だと、会う事を禁止するようになったのです。やがて、灰色の男の一人が、モモのところにもやってきて、成功する事が大事であり、その他の事は価値が無いし、役に立たないと説得しに来ます。しかし、モモは屈する事無く、反論し、やがて、議論に詰まった灰色の男は、平常心を無くして、自分達が、人間から時間を奪う事を目的にしていて、その正体を秘密にしている事などをバラしてしまいます。

この後も、物語は続いて、時間の国の長老であるマイスター・ホラなど、キャラクターも出てきて、話は、より観念的になり、結構、子供が読むにはハードルが高い展開になっていきます。また、灰色の男たちが、人々から奪った時間は、時間の花を育成する養分になっていて、その花びらを乾燥させて巻いた葉巻が、彼らが普段から吸っているものなのでした。この辺りは、いかにもマリファナ的で、時代を感じさせます。葉巻から出る煙は、死んだ時間で、生きている人間が、この煙を吸うと、やがて灰色の男たちになってしまいます。この病気の名前が、致死的退屈症です。

この物語は、当時の風俗を取り入れながら、資本家と労働者という関係を寓話的に示しています。一般的に、資本家VS労働者というと、賃金の話になりがちですが、実は資本家が買い取っているのは、労働者という契約で縛りを課した他人の時間です。個人が持っている時間は、有限ですが、報酬を支払って、仕事として他人に任せる事で、成果は何百倍にも増やす事ができるのです。規模を大きくすれば、買い取った時間で成し遂げる成果も大きくなりますから、資本家の元には大きな対価が入ってきます。それを効率的に労働者に割り振る事で、更に事業は拡大するわけです。時間というのは、それを増やしたり減らしたりできませんが、他人の時間を報酬と引き換える事で、時間あたりの成果を増やす事はできるのです。

つまり、この物語は、チャップリンの「モダン・タイムス」と同じで、機械的に効率化の進んだ工場労働などの非人間性に対する寓話的な批判です。そして、労働の本質が、賃金の問題ではなく、時間の拘束である事に着目した、初期の作品の一つです。

この作品の時代では、労働集約化と、そこで推進させる極限までの効率化を、余りにも非人間的なモノとして批判しているわけです。しかし、今は、それよりも、たちの悪い形で、「時間泥棒」達は、我々の生活に入り込んでいます。

現在のアメリカは、GDPが世界一の最も豊かな国家のはずです。しかし、アンケート調査によると、世界平均よりも、日々、常に心配事を抱え、多くのストレス持ち、決して幸福とは言えない環境にあります。物質的には豊かになり、多くの作業が自動化されて、開放された代わりに、自分で時間をコントロールできなくなったのです。

資本主義を代表する工場労働を考えてみましょう。確かに、工場で労働している時間、最大の作業効率を求められ、しばしば、その労働は非人間的です。前述の「モモ」が寓話としていたのは、まさに、その時代の労働と時間の関係です。しかし、終業時間になれば、労働から開放され、プライベートと労働の区別は、はっきりと分かれていました。しかし、1950年代と違って、労働の主軸は、よりクリエティブな頭脳労働に移行しています。

製造ラインに、いない時には、労働の事を考える必要が一切無い、工場労働と違って、プロジェクトやマーケティング、クリエイターの仕事は、労働と時間の明確な区切りがありません。今は、スマホやタブレットなど、事務所の外でも仕事をサポートし、成果を送信したり、情報を得るツールが豊富にありますから、どこで何をしていても、仕事ができないという言い訳がたちません。つまり、フリーランスなど、場所や時間に縛られない働き方が増えたのですが、時間を自分でコントロールする事が、生産性の向上という呪文の前では、難しくなったという事です。

時間に縛られないというのは、労働をする時間が決まっていないというだけで、自炊で調理中でも、深夜に目が覚めてしまった時でも、入浴中でも、トレーニング中でも、頭で常に仕事の事を考える事は可能ですし、それをサポートするツールもあります。つまり、取り組んでいる問題を解決できない限り、我々は時間をコントロールするのが難しくなっているのです。まさに、時間泥棒に取り憑かれている状態と言って良いでしょう。

我々にとって、リラックスして、目標を持たない時間というのは、「幸福な経験・体験」に繋がる重要なものです。実際、幸福というものを、可視化するなら、過去に起きた幸せな体験の記憶であり、それは、多くの場合、自分のコントロール下にある時間において起きた事でもあるはずです。それが、仕切りの無い労働と、それを可能にするツールの発達によって、自分の制御に置けなくなってきています。

つまり、豊かさとは、高価なモノに取り囲まれる事ではなく、自分でコントロールできる時間の多さであり、その環境を作る為には、資産形成が必要だという事なのです。もし、幸福を基準に人生を過ごしたいのであれば、労働を賃金で計るのではなく、自分で時間を制御する為の手段として捉え、何者にも介入されない、自分の思い通りの時間を作る事こそが、精神的な幸せに繋がると認識するのが重要です。そして、労働における搾取とは、自分の時間を、格安で他人に売り渡す事に他ならないのだと認識するのが重要です。』

学問のすすめ 福沢諭吉

学問のすすめ 福沢諭吉
https://www.aozora.gr.jp/cards/000296/files/47061_29420.html

『「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。

されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。

されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。

その次第はなはだ明らかなり。

『実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。

されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。

また世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。

すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役はやすし。

ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし。』

 ※ 中、略。

『学問とは、ただむずかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。

これらの文学もおのずから人の心を悦ばしめずいぶん調法なるものなれども、古来、世間の儒者・和学者などの申すよう、さまであがめ貴むべきものにあらず。

古来、漢学者に世帯持ちの上手なる者も少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人もまれなり。これがため心ある町人・百姓は、その子の学問に出精するを見て、やがて身代を持ち崩すならんとて親心に心配する者あり。無理ならぬことなり。畢竟その学問の実に遠くして日用の間に合わぬ証拠なり。

 されば今、かかる実なき学問はまず次にし、もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。

譬えば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言、帳合いの仕方、算盤の稽古、天秤の取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条ははなはだ多し。

地理学とは日本国中はもちろん世界万国の風土道案内なり。

究理学とは天地万物の性質を見て、その働きを知る学問なり。

歴史とは年代記のくわしきものにて万国古今の有様を詮索する書物なり。

経済学とは一身一家の世帯より天下の世帯を説きたるものなり。

修身学とは身の行ないを修め、人に交わり、この世を渡るべき天然の道理を述べたるものなり。

 これらの学問をするに、いずれも西洋の翻訳書を取り調べ、たいていのことは日本の仮名にて用を便じ、あるいは年少にして文才ある者へは横文字をも読ませ、一科一学も実事を押え、その事につきその物に従い、近く物事の道理を求めて今日の用を達すべきなり。
右は人間普通の実学にて、人たる者は貴賤上下の区別なく、みなことごとくたしなむべき心得なれば、この心得ありて後に、士農工商おのおのその分を尽くし、銘々の家業を営み、身も独立し、家も独立し、天下国家も独立すべきなり。』

夫れ兵の形は水にかたどる。

孫子 6 虚実篇  7/7、軍隊の形は水のようなもの
http://sloughad.la.coocan.jp/novel/master/achaina/sonshi/sonsh067.htm

『夫兵形象水、

夫れ兵の形は水にかたどる。

軍隊の形は水のようなものである。

水之形、避高而趨下、兵之形、避實而撃虚、

水の行は高きを避けて下きに趨く。 兵の形は実を避けて虚を撃つ。

水は高い所から低い所に流れていく。 軍隊の形は敵の守りの固い「実」の部分を避けて守りの薄い「虚」の部分を攻撃する。

水因地而制流、兵因敵而制勝、

水は地に因りて行を制し、兵は敵に因りて勝を制す。

水は地形によって流れを決め、軍隊は敵の形によって勝利を制する。

故兵無常勢、水無常形、能因敵變化而取勝者、謂之神、

故に兵に常勢なく、常形なし。 能く敵に因りて変化して勝を取る者、これを神と謂う。
軍隊に決まった勢いというものは無く、決まった形も無い。 敵の出方次第で柔軟に対応し、勝利を得る。これこそ神妙というものだ。

故五行無常勝、四時無常位、日有短長、月有死生、

故に五行に常勝なく、四時に常位なく、日に長短あり、月に死生あり。

木火土金水の五行のうち、これだけで勝てるというものはなく、春夏秋冬の四季は絶えず移り変わり、日の長さだって長短があるし、月にも満ち欠けがある。』

近松門左衛門の「虚実皮膜論」

近松門左衛門の「虚実皮膜論」
https://text.yarukifinder.com/kobun/4453

『近松門左衛門の「虚実皮膜論」の現代語訳になります。学校の授業の予習復習にご活用ください。

近松門左衛門の「虚実皮膜論」の現代語訳

 ある人の言はく、「今時の人は、よくよく理詰めの実じつらしき事にあらざれば合点がてんせぬ世の中、昔語りにある事に、当世受け取らぬ事多し。さればこそ歌舞伎の役者なども、とかくその所作しよさが実事じつじに似るを上手とす。立役たちやくの家老職は本ほんの家老に似せ、大名は大名に似るをもつて第一とす。昔のやうなる子どもだましのあじやらけたる事は取らず。」

ある人が言うことには、「この頃の人は、十分に論理的で事実めいたことでないと納得しない世の中で、昔話にあることにも、今の世では承知しないことが多い。だからこそ歌舞伎の役者なども、とにかくその演技が実際の在り方に似ているのを上手(な役者)とする。立役(善人の男の役)の家老職(を演じる役者)は本物の家老に似せ、大名(を演じる役者)は(本物の)大名に似る(ようにすること)をもって第一とする。(この頃の人は)昔のような子どもだましのふざけたこと(演技)は認めない。」(と。)

 近松ちかまつ答へて言はく、「この論もつとものやうなれども、芸といふものの真実の行き方を知らぬ説なり。

近松が答えて言うことには、「この論はもっとものようだが、芸というものの本当の在り方を知らない説である。

芸といふものは実と虚うそとの皮膜の間にあるものなり。

芸というものは事実と虚構との、皮膜の間(皮と肉との境目のような微妙なところ)にあるものである。

なるほど今の世、実事によく写すを好むゆゑ、家老は真まことの家老の身ぶり口上こうじやうが写すとはいへども、さらばとて、真の大名の家老などが立役のごとく顔に紅脂べに、白粉おしろいを塗る事ありや。

なるほど今の世は、(歌舞伎の役者なども)実際の在り方を念入りにまねることを好むので、家老(役)が本当の家老の身ぶり話しぶりをまねるとはいっても、だからといって、本当の大名の家老などが立役のように顔に紅脂、白粉を塗ることがあるだろうか。

また、真の家老は顔を飾らぬとて、立役が、むしやむしやと髭ひげは生えなり、頭ははげなりに舞台へ出て芸をせば、慰みになるべきや。皮膜の間と言ふがここなり。虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰みがあつたものなり。

(いや、ない。)あるいは、本当の家老は顔を飾らない(から)といって、立役が、もじゃもじゃと髭は生えたまま、頭ははげたままで舞台へ出て芸をするならば、(観客の)満足となるだろうか。(いや、ならないだろう。)皮膜の間というのは、この点である。虚構にして虚構でなく、事実にして事実でない、この間に(観客の)満足があったものである。

 絵空事とて、その姿を描くにも、また木に刻むにも、正真しやうじんの形を似するうちに、また大まかなるところあるが、結句けつく人の愛する種とはなるなり。

絵空事といって、その姿を(絵に)描くにしても、あるいは木に彫るにしても、実物そのままの形に似せる中に、同様に大ざっぱなところもあるのが、結局人の愛するもととなるのである。

趣向しゆかうもこのごとく、本の事に似る内にまた大まかなるところあるが、結句芸になりて人の心の慰みとなる。文句のせりふなども、この心入れにて見るべき事多し。」

(芸の)工夫もこのように、実際のことに似る中に同様に大ざっぱなところもあるのが、結局(本物の)芸になって人の心の満足となる。(浄瑠璃の中の)会話の言葉なども、この心構えで見なければならないことが多い。」(と。)

【難波なには土産】

脚注

立役 善人の男の役。敵役、女形などに対する役柄をいう。
皮膜の間 皮と肉との境目のような微妙なところ。
文句のせりふ 浄瑠璃の中の会話の言葉。

出典

虚実皮膜ひにく論

参考

「精選古典B(古文編)」東京書籍
「教科書ガイド精選古典B(古文編)東京書籍版 2部」あすとろ出版 』

『難波土産』より 虚実皮膜の論
http://from2ndfloor.qcweb.jp/classical_literature/naniwamiyage.html

『原文

 ある人のいはく、
「今時の人は、よくよく理詰めの実らしきことにあらざれば合点せぬ世の中、昔語りにあることに、当世受け取らぬこと多し。さればこそ、歌舞伎の役者なども、とかくその所作が実事に似るを上手とす。立ち役の家老職は本の家老に似せ、大名は大名に似るをもつて第一とす。昔のやうなる子どもだましのあじやらけたることは取らず。」

 近松答へていはく、
「この論もつとものやうなれども、芸といふものの真実の行き方を知らぬ説なり。芸といふものは実と虚との皮膜の間にあるものなり。なるほど、今の世、実事によく写すを好む故、家老はまことの家老の身振り、口上を写すとはいへども、さらばとて、まことの大名の家老などが、立ち役のごとく顔に紅、おしろいを塗ることありや。また、まことの家老は顔を飾らぬとて、立ち役が、むしやむしやとひげは生えなり、頭ははげなりに舞台へ出て芸をせば、慰みになるべきや。皮膜の間といふがここなり。虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰みがあつたものなり。

 絵空事とて、その姿を描くにも、また木に刻むにも、正真のかたちを似するうちに、またおほまかなるところあるが、結句人の愛する種とはなるなり。趣向もこのごとく、本のことに似るうちに、またおほまかなるところあるが、結句芸になりて、人の心の慰みとなる。文句のせりふなども、この心入れにて見るべきこと多し。」
現代語訳

 ある人が言うことには、
「最近の人は、よほど理論的でもっともらしいことでなければ納得しないこの世の中では、昔話にあることを、現在では受け付けないことが多い。そうであるからこそ、歌舞伎の役者達も、とにかく演技の動きが実際に似ているのを名人だとする。成人男子役者の家老職は本物の家老に似せて、大名は大名に似ているのを第一にする。昔のような子供だましのふざけたことはやらない。」

 近松門左衛門が答えて言うことには、
「この論はもっとものようだけれども、芸というものの本当のありようを知らない考えだ。芸というものは、本当と嘘の境界にあるものなのだ。なるほどたしかに、現在は、実際の様子をよく再現することを好むから、家老は本物の家老の振るまい、話し方を再現するとはいっても、だからといって、本物の大名の家老などが、役者のように顔に紅や白粉を塗ることがあるものか(いや、ない)。あるいは、本物の家老は顔を飾り立てないからといって、役者が、もじゃもじゃとひげが生えた状態で、頭は禿げたままで舞台へ出て芸をしたら、(観客は)満足するだろうか(いや、しない)。境界というのは、ここのことだ。嘘だが嘘では無い、本当だが本当では無い、この微妙な境界部分に観客の満足があるのだ。

 絵空事といって、その様子を描くのにも、あるいは木に彫るのにも、本当の形を真似する中に、また大雑把なところもあるのが、結局人が愛する根源となるのだ。(芸の)趣向もこのように、本物を真似ている中に、また大雑把なところがあるのが、結局芸になって、人々の心の満足になる。(浄瑠璃の)台詞なども、この心構えで見るのがよいことが多い。」
作品

『浄瑠璃文句標註 難波土産』

穂積以貫 作の、人形浄瑠璃についての研究・案内書。
近松門左衛門自身が記した芸能論は見つかっておらず、近松の創作に対する姿勢を知る上で『難波土産』は非常に重要な資料である。

穂積以貫は、もともと儒学者だが浄瑠璃にハマり、竹本座の近松門左衛門との交際を持った。近松から聞いた芸論を書き留め、浄瑠璃の制作にも関わっていたようだ。
次男は近松門左衛門に弟子入りして、近松半二を名乗った。 』

 ※ まず、「きょじつひにくろん」と読むようだな…。「ひまくろん」じゃ、無いのか…。

 ※ 次に、「近松門左衛門」の記述では無く、「穂積以貫(ほづみいかん)」という人の記述なんだな…。『近松門左衛門自身が記した芸能論は見つかっておらず、近松の創作に対する姿勢を知る上で『難波土産』は非常に重要な資料である。』と言うことだ…。

 ※ 世の中、知らんことばっかりだ…。

ウソは健康的に接種すべきものであって、ウソで身の回りを固めると人生が破綻する

ウソは健康的に接種すべきものであって、ウソで身の回りを固めると人生が破綻する
https://blog.tinect.jp/?p=77629

『疲れている時にTwitterをやっていると、つい惹き付けられてしまうものがある。それはなろう系の漫画の広告である。

なろう系とは小説の一大ジャンルだ。

現実社会ではしがない生活をしていた人間がトラックにはねられて異世界に転生した結果、異能を発揮して無双したり、よくわからないけど何らかの天啓に恵まれてハチャメチャに強くなって、それまで冷遇されていた現実から一転して救世主みたいにチヤホヤされるというアレだ。

このなろう系はよく「努力が嫌いな現代人が、読んで気持ちよくなる為のもの」という風に揶揄される事が多い。

というか僕自身もそう思っていた節があり、正直読むのを避けていた。

しかし実際に読みすすめてみるとである。これが妙に癒されるのだ。

あんなに散々揶揄していたくせに、こんなに楽しんで読んでるだなんて何事だ!と怒られること必死である。いや…正直スマンかった…お前、めっちゃ面白いよ…

いったいなんでこんなに楽しいのだろうかと頭を捻ってみたところ、一つの結論がでた。
それは報酬の前借り効果である。

現実世界は結果反映まで時間がかかりすぎる

現実世界は大変である。大なり小なり、苦労していない人間などこの世にはいない。

僕もいま振り返ると笑っちゃうぐらいにラクチンな環境にいた頃だって、日々「シンドい」と思っていた。

このシンドさは実はある状況に似ている。

それは修行である。巨人の星からドラゴンボールに到るまで、強くなる人間はみな厳しい修行にハァハァしつつ、その成果として大リーグボールやらかめはめ波といった成果を手にしていた。

私たちは心のどこかで、大変な思いをしたら、それ相応の報酬がある事を心のどこかで期待している部分がある。

実際には報酬を受け取るには、きちんとしたプロジェクトを立ち上げて、かつ正しい努力をそれなりに長い年月積み重ねてゆかねばならないのだけど、そういう事をやったかどうかは別に、やっぱり心はどこかで「ご褒美」を欲しがっている。

既に疲弊した身体に、無双はものすごく気持ちいい

そういう疲弊しきった身体に、なろう系の物語は清涼飲料水のように染み渡る。

「現実世界ではもうチョー頑張った。もうマジ限界。恩赦プリーズ」

そういう状態の脳みそに、異世界転生して超絶ハイスペックでもって無双する状態を物語として流し込むと、脳が本当に物凄く喜ぶ。

「よく頑張ったね!努力の結果として、あなたは世界を揺るがす剣聖になれました!」

そういう文脈でもって”なろう系”を読むと、なんだかハチャメチャに頑張った現実世界における努力の対価を受け取っているかのように脳が錯覚する。

まあ実際には全然関係がないのだが、物語というのは自分の都合の良いように読むものである。

そうやって異能でもって世界中から称賛されているという感覚を味わい、美しいヒロインとイチャイチャするようなファンタジーにしばらく身を置くと、不思議なことにあんなに疲労困憊でゼーゼーいっていた脳が

「もう、もう元気になったから大丈夫だぜ。いっちょ次、頑張っちゃう?」

とか言い始めるのだから、不思議である。

まあ実際にはすぐまた疲れるのだが、疲れたらまた同じことを繰り返せばそれでよいのである。

なろう系…それは社会修行で疲れ果てた人間への、ご褒美ユンケルなのである。

自分の人生にウソを介入させてはいけない

「物語に癒やされるだなんてばっかじゃないの?」

「虚構に逃げても、何もいいことなんてない」

「現実から逃げるな!」

若い頃の自分は、よくこんな事を思っていた。

いま思うと「若者よ。そう生き急ぐな」と生暖かい目でみたくなってしまうのだけど、ウソや虚構といったものはそう一概に悪いだけのものではないと大人になった今は真剣に思う。

ウソや虚構は意識的に摂取しているうちは極めて健全だ。

感動的な物語にフルコミットして涙を流してもいいし、ヤクザモノの映画をみて絶対にありえなさそうな任侠道に憧れるのもいい。

しかし世の中には絶対についてはいけないタイプのウソや取り入れてはいけないタイプの虚構がある。

それは自分語りだ。他ならない、自分自身の人生をウソで塗り固めて構成した先にあるのは、純度100%の地獄である。

世の中にはびっくりするぐらいウソツキがたくさんいる

「人間は、意外と言われた言葉を額面通りにそのまま信じてしまいがちである」

これは岡田斗司夫さんという漫画・アニメの評論をする方が言われていた事だ。

連休中に彼が書いたガンダム完全講義を通読して、僕は自分がいかに相手の言葉をそのままの意味でしか理解していないという事を痛感させられた。

岡田さんは有名なシャア・アズナブルの「認めたくないものだな。自分自身の若さ故の過ちというものを」や「坊やだからさ…」といったカッコいいセリフが、実は物凄く深い意味があるという事をこの講義で徹底的に解説している。

その解説力には舌を巻くばかりなのだけど、考えてみると自分も基本的には相手の言ってる事をほとんど疑って聞いた事がない。

しかしである。じゃあ自分自身がウソをついていないかというと…これがまあ、よくついているのである。

ヤバいウソは基本的にはつかないが、じゃあ本音だけ垂れ流しているかというと、そんな事は全然ない。

このように自分自身もウソツキを大なり小なりやっている状況にあるわけなのだけど、こんなのは全然カワイイ方である。

インターネット博覧会であるTwitterでは、実はウソツキが膨大に列をなしており、虚構をまるで真実かのように真顔で主張する人たちが山のようにいる。

過去にも某超有名外資系投資銀行勤務を騙って巨額の詐欺を働いていた人など、枚挙にいとまがない。

普通の人は他人のウソを見抜けない

じゃあその人達のウソを自分自身がちゃんと見抜けていたかというと、これがまた驚くことに見抜けていなかったのである。

かつて2ちゃんねるの創始者であるひろゆき氏が語った有名なフレーズに「ウソをウソであると見抜けない人には2ちゃんねるを使うのは難しい」というものがあるが、現実問題として普通の人間にはウソを見抜くのは無理である。

それ故に…M資金のような詐欺が何度も何度も繰り返されるわけだし、それ故にインターネット上ではウソで塗り固めた人生でもって承認欲求を荒稼ぎする人たちが山のようにいる。

とはいえ、バレないウソはない

「それならウソをつきつづけられるのなら最強なのでは?」

実際にそれができるのなら確かに最強なのだけど、現実問題としてウソを完璧に貫き通せる人などほぼ居ない。

よく「ウソを一つつくと、そのウソを守るのにまた別のウソをつかなくてはならなくなる」という言葉があるが、虚構に虚構を積み重ね続けるのは実際問題として人間の能力を超えている。

小説のように最初から最後まで虚構で成り立つ世界ならまだしも、現実というファクトがある世界において、そこにウソを設置するのは物凄く難しい。

だいたいにおいてファクトだけが精神に残るという事もあって、ウソはついた事すら忘れ果ててしまう事が多い。

それ故にウソツキは自分がついたウソと矛盾するようなウソを無意識でもってよく言ってしまう。

そういう状況になってから、カンの良い誰かに「いやお前それウソじゃん」と指摘された瞬間から、ウソツキの人生は崩壊する。

そこで「ごめんなさい。すみませんでした」とやれる人間などまずおらず、ウソツキはゴチャゴチャと言い訳を始め、そしてぶっ壊れる。

この段に至って、ウソツキが真人間に戻れる確率はほぼ0%だ。

大抵の場合において「あっ(お察し)」な存在へと一般的には認知されるようになり、虚構の中で生き続ける残念な人間がこの世に爆誕する。

ウソツキの行く末は地獄以外にはどこにもない。

ウソが上手くいってしまった時ほど、その上手くいってしまったウソからもたらされる快感に吐き気を催せるようになるべきだ。それができないと、貴方の人生も「あっ(お察し)」である。

ウソをウソだとわかって楽しく利用できないと、現実を良く生きるのは難しい

ウソは使ってもいいけど、それを快感につなげてはならない。

これが僕のウソに対する結論である。

世の中にはどうしてもウソが必要となる時がある。末期がんで一縷の望みすらない人間が希望にすがっている時

「いや、おまえ絶対に助からないから」

と言うのは誠実なのではなく単なるバカだ。

そういう人にウソをつきたくないのなら、例えば「確かに世の中、何がおきるかはわかりませんからね」などと言って共感する方が絶対にいい。

世の中の多くのウソは優しさで満ち溢れている。

なろう系は血湧き肉躍る体験を読者にもたらしてくれるし、転職の際に「家庭の事情で…」とテキトーにウソをでっち上げるのだって、まあお互いが納得する為の一つのよい手段である。

このように、誰かを優しさで包む為のウソはインスタントな形で一時的な使用で終わる性質のものだ。

その後でバレたとしても、そこまで事がハチャメチャにこじれる事はないだろう。

一方で己の快楽の為につくウソは本当にヤバい。

覚醒剤の乱用者が強い刺激を求めて使用量がどんどん増えるかのごとく、ウソにウソが乗っかってトンデモナイ事になる。

行き先も同じく地獄である。誰もが「自分だけは絶対に大丈夫」と思い、どうにもならなくなってから破滅する。

ウソをウソだとわかって楽しく利用できないと、現実を良く生きるのは難しい。僕はそう思う。

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【著者プロフィール】

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高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

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あふれる「思想なき保守」

あふれる「思想なき保守」 宇野重規・東京大学教授
 「シン・保守」の時代(中)
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD04CUW0U2A700C2000000/

『「保守主義」は政治的な立場を論じる際に用いられるが、真意を理解して使われる例は昨今ほとんど見られない。男女平等や外国人との共生に抵抗するネット右翼、古いものを無批判に賛美する精神性とは無縁なのに、それらと同一視する言説が流布している。現代は「曖昧な保守論がインフレした時代」と定義できる。

起源は18世紀半ばまで遡る。欧州で絶対主義や封建主義を打倒する市民革命が起こり、「社会は理想の未来に向けて邁進(まいしん)する」という進歩主義が興隆した。フランス革命が顕著な例で、既存の制度一切を白紙に戻し、望ましい社会をゼロから再構築することを目指した。

模範を過去ではなく未来に求める進歩主義は楽天的で傲慢だとも言える。歴史や伝統には知恵や配慮が込められているし、私たちの理想通りに人類社会が発展するわけでもない。急進的な進歩主義を批判して、自由を守る伝統的な制度や習慣を守り、漸進的な改革を求める立場として保守主義の思想は生まれた。

ある思想に対するブレーキ役となり、20世紀でも価値を持ち続けた。ロシア革命で実現した社会主義や、「大きな政府」の下で福祉国家を目指す米国リベラリズムの対抗軸になり得たからだ。

現代では進歩主義の存在自体が危うくなっている。労働者による革命や計画経済を目指した社会主義や、大きな政府による社会改良を信じたリベラル派が大きく衰退したからだ。理想の社会像を失った結果、保守主義も対抗軸を見失い迷走する事態が起きている。

保守主義は日本に存在したのか。戦後を代表する2人の知識人、丸山真男と福田恆存は、1960年の安保闘争の頃にはすでに「保守主義の不在」を指摘していた。

丸山は、現行の政治体制を自覚的に守る立場は現れなかったという。欧米から新しい思想や制度を輸入することにあくせくする日本の伝統は、保守主義を何かと関連付けることもなく受容した。その結果、ズルズルとなし崩し的に現状維持を好む「思想なき保守」ばかりが目立つようになった。

福田は、日本における2つの断絶を指摘した。江戸時代以前の制度や慣習を捨て欧米化に走った明治維新と、事実上の征服を経験させられた第2次世界大戦での敗戦だ。過去との連続性が絶たれた社会では、何が自分たちに大切かを共有できず、保守主義を確立させるのは難しいといえる。

デジタル空間も議論の場に

現代の日本で以前のように保守と進歩を対比して語ることが有用かは分からない。政治家や政党の間ですら保守主義は誤用されるし、かつて進歩主義が唱えた社会の展望は全く見えないからだ。

だが、今後も保守主義に意味を持たせ続けるには、一人ひとりが「本当に大切なもの」「保守したいもの」を自発的に問い直し、他者と共有して行動することが必要だ。地域社会に目を向ければ、祭りや芸能、自然と密着した暮らしが受け継がれている。こうした財産が、守るべき歴史や伝統だと考えることもできる。

若者の政治離れも指摘されるが、政治や社会との関わり方は古典的な選挙運動やデモ活動に限定しない方がよい。SNS(交流サイト)などのデジタル空間を活用し、「守りたいもの」を共有する他者と関わり、それに向けて議論することも一つの社会参加ではないか。
今後はオタク文化や特定の商品や人物に熱狂した人同士の集団(ファンダム)を取り込むことが保守にとっても重要になりそうだ。現代的な通信手段を前提に「保守」をよりダイナミックに捉えることが求められている。

(聞き手は渡部泰成)

うの・しげき 1967年生まれ。専門は政治思想史。著書に「トクヴィル 平等と不平等の理論家」(サントリー学芸賞)、「保守主義とは何か」、「民主主義とは何か」など。

【「シン・保守」の時代】

(上)「愛国」への誤解乗り越える 将基面貴巳オタゴ大学教授 』

「不惑」の意味は年齢のこと?孔子の論語との関係や使い方も解説

「不惑」の意味は年齢のこと?孔子の論語との関係や使い方も解説
https://biz.trans-suite.jp/19048

『「不惑」は日常的によく見聞きする言葉で、年齢を話題にした会話にもしばしば登場します。また、有名な孔子の『論語』とも深い関係があるようです。この記事では「不惑」の意味をはじめ、孔子の『論語』との関係や、熟語の使い方が理解できる例文なども解説しています。

目次 [非表示]

1 「不惑」の意味や由来とは?
    1.1 「不惑」の意味①”心が乱れたりすることがない”
    1.2 「不惑」の意味②”数え年の40歳”
    1.3 「不惑」の由来は孔子の『論語』

2 「不惑」と孔子の論語との関係
    2.1 孔子の教えは「生涯成長すべし」
    2.2 「不惑」以外にもある年齢の異称
    2.3 孔子とは程遠い現代人の「不惑」以降

3 「不惑」の使い方や例文とは?
    3.1 「不惑」は40歳のことを指して使うのが一般的
    3.2 「不惑」を使った例文

4 まとめ

「不惑」の意味や由来とは?

「不惑」の意味①”心が乱れたりすることがない”

「不惑」の意味は、“心が乱れたりすることがない・超然とした悟りの境地”です。「ふわく」と読み、熟語を読み下した「惑わず」がそのまま意味となっています。この世に生きていると、さまざまな煩悩に心を乱されます。欲しいものは手に入らず、人間関係にも疲れ果て、悩みは尽きません。

「不惑」は心が乱れたり悩んだりするようなことがない、超然とした悟りの境地のことですが、凡人がそのような境地に至ることは大変困難です。

「不惑」の意味②”数え年の40歳”

「不惑」のもうひとつの意味は、“数え年で40歳のこと”です。数え年とは、現在の満年齢とは異なる年齢の数え方で、生まれた年を1歳として新年を迎えるごとに1歳年をとるという方法です。つまり数え年では、大晦日に生まれた子供は翌日になると2歳になってしまう計算です。

ちなみに40歳には「不惑」以外にも異称があり、四十路(よそじ)のほか、最近ではアラウンドフォーティを略したアラフォーという言葉も登場しています。「初老(しょろう)」も数え年40歳のことを指した言葉で、長寿祝の最初の年齢です。

また「不惑」と同じように、異称を持つ年齢があります。現在でもよく知られている「還暦」は数え年で61歳、「白寿」は数え年で99歳のことを指していますが、趣のある呼び名です。
「不惑」の由来は孔子の『論語』

「不惑」は、儒家の始祖である孔子(紀元前551年 – 紀元前479年)の『論語』が由来です。『論語』は孔子の言行録のような書物で、孔子の教えがよく理解できる一書であり、現代人にとっても学びの多い必読書となっています。

「不惑」は、『論語』の「為政篇」のなかの「子曰 吾十有五而志乎学 三十而立 四十而不惑 五十而知天命 六十而耳順 七十而従心所欲不踰矩」にあります。

現代語に直すと「子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う(したがう)。七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えず(こえず) 。」です。

「不惑」と孔子の論語との関係

孔子の教えは「生涯成長すべし」

孔子は自身について、「15歳で学問を志して30歳で独立、40歳で迷うことがなくなり、50歳で天から授かった使命に目覚めた。60歳で人の意見を素直に受け入れられるようになり、70歳で自分の思い通りに行動しても人の道から外れることはなくなった」と語っています。

つまり孔子ほどの偉人であっても、人間が完成するまでには長い年月が必要だったということです。

孔子の教えから分かるのは、人間は年齢を重ねならが成長していかなければならず、短期間で完成するようなものではないということと、節目ごとに成長のステップがあり、そのひとつひとつを順に完成させていくことが人間形成への道筋だということです。

「不惑」以外にもある年齢の異称

『論語』の「為政篇」で登場したのは「不惑」の40歳だけではありません。15歳から70歳までの間に6つの区切りを設け、以下のようにそれぞれの年代での努力目標としての目指すべき姿が、年齢をなぞらえる呼称となっています。

15歳:志学(しがく)
30歳:而立(じりつ)
40歳:不惑(ふわく)
50歳:知命(ちめい)
60歳:耳順(じじゅん)
70歳:従心(じゅうしん)

孔子とは程遠い現代人の「不惑」以降

現代でも、高校受験を迎える15歳頃には自分の進路を真剣に考え始めます。また、30歳頃になると社会人として自立できるようになります。

けれども孔子の時代より社会が複雑になったためでしょうか、40歳でも迷いが多く、50歳でも目の前の仕事に追われ天命に気づくゆとりはなく、60歳になっても我が強く、70歳で思い通りに行動して警察のお世話になるというありさまです。

また超高齢社会の到来により寿命は100歳近くまで延びましたが、80歳・90歳・100歳についての孔子の教えはありません。現代人は30歳からの生き方を、もっと真剣に考える必要がありそうです。

「不惑」の使い方や例文とは?

「不惑」は40歳のことを指して使うのが一般的

「不惑」には迷いがないという意味と40歳という意味がありますが、40歳のことを指して使うことが一般的です。ここでは40歳の異称という意味での「不惑」を用いた例文を提示し、熟語の使い方への理解を深めます。

「不惑」を使った例文

「不惑」を使った例文をいくつかご紹介しましょう。

四十路を迎え「不惑」と言われると面映く感じるが、初老と言われると面白くない。
人生50年時代の「不惑」は、まだ折り返し点にも達していない現代とは全く別モノだっただろう。
40歳はまだ迷いが多い年代だからこそ、自戒を込めて「不惑」と呼ぶようになったのかもしれない。
「不惑」に入ってにわかに英語熱が再燃し、TOEICを受験してみることにした。

まとめ

「不惑」の意味のほか、孔子の『論語』との関係や使い方が分かる例文などを解説しました。平均寿命が50歳に満たない頃には、15歳で一人前の大人として扱われていました。一方、現代の15歳はまだ義務教育を終えたばかりで、長い人だとあと10年近くも学生時代が続きます。

社会人としてのスタートが遅くなり寿命も長くなった現在、「不惑」となる年齢はどんどん先送りになりそうです。

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小倉あずき
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50代がさっぱりわからない

50代がさっぱりわからない
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20220720/1658305800

『ゆうべ、文章をなにも書かなくなった夢を見た。無気力な、何をすればいいのかわからなくなった未来の自分が、消極的に、もっと本業に取り組むかと呟いているのが物悲しかった。もちろんこんなのは本業に精力的に取り組む人々には当てはまらない、私の文脈内部にしか当てはまらない物悲しさだ。私は人生の半分以上、文章を書きながら生きてきた。だからなにも書かなくなった自分とは、人生の荷物の大事な部分を落としてきた自分のように思える。
 
年を取るということがわからなくて、年を取るということを少しでも知って、うまく立ち回りたくて、不安を軽減させたくて、私は努めてきたつもりだった。だというのに今の私は書くことがわからず、年を取ることもわからなくなっている。精神疾患になっているとは思わないが、いつ頃からか、迷いの季節に突入したな、と思う。
 
思えば30代後半〜40代前半は、自分の立ち位置と立ち回りのうえで便利な時期だった。もう中年だけどまだ若手だし、まだ若手だけどそこそこ世慣れてもいる。その両面を、如意棒のように振り回して社会適応できるのがその頃だった。知識とバイタリティと好奇心のバランスも良かった。
 
ところが40代も後半に入り、そのような社会適応が早くも成立困難になってきた。中年だけど若手、という立ち位置を他人に対して成立させられなくなって、中年オブ中年とでもいうべき新境地が現れてきた。自分を若手のように見せかけても、周囲、とりわけ年下はそのように見てはくれないだろう。社会的加齢は、自分の一存だけで決められるものではない。
 
すると、コミュニケーションも微妙に変わってくる。たとえば、20代の異性と20代のうちに恋愛するには20代のうちでなければならない。わざわざトートロジーめいたことを書くのは、かりに40代が20代の異性と恋愛できたとしても、それは40代が大幅に年下の異性と恋愛するのであって、20代の異性と20代のうちに恋愛するのとは随分ちがっているからだ。
 
世の中には、若い異性を金で殴ってなびかせ、侍らせる中年もいると聞く。そういった行為にも固有の意味はあろうけれども、若かりし日を取り戻せないのだけは間違いない。
 
同じことがオフ会などにも言える。どこかの新しいオフ会に出かけるとなったら、参加時点で私は最年長である可能性が高い。若かった頃と異なった役割を期待されるわけで、立ち回りを変えなければならなくなっている。それ自体、うまくやってのけたとしても、そこから汲み取る経験は以前と同質ではない。
 
そして体力気力集中力の衰え。
自分が書くということへの(しばらく忘れていた)疑問。
好奇心が膨らむより先に首をもたげがちな、「それって以前に見たことあるよね」という先入観。
 
自分は書き続けられるのか?
続けたとして自他に有意味なものをつくり続けられるのか?
 
そうした疑問は数年前からうっすらあったが、2020年代に入って少しずつ高まり、今、自分はわけのわからないゾーンにいる。もともと『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』を書いた時に大事な何かが抜けていった気はしていたのだけど、そこから同じものを再充填できたとは言い切れず、参考文献の山のなかで私は遭難している。
 
じゃあ、書くのをやめてしまえばスッキリした50代を始められるのか? といったらこれもわからない。たぶん無理だろう。より正確には「今はまだ、無理な気がする」。
 
こうして今、アイデンティティの寄る辺がわからない中年になってみると、カネとか、筋肉とか、老年まで持ち越せそうな諸価値に執着したくなる気持ちが少しわかった気がする。でもって案外、そうやってカネや筋肉に執着する人は程度が良いのかもしれない。いやどうだろう? 隣の庭の芝が青く見えるだけかもしれない。カネや筋肉に執着する中年の心境など、わかったようで結局私にはよくわかっていないのだ。
 
「そういう時、ロールモデルの生き方を参考にするのだ」、と人はいうかもしれない。わかっている。私だってできればそうするさ! しかし私の視界内にいた数歳年上の書き手たちは、ほとんど全員、50代になって書くのをやめてしまったか、書く勢いを失ってしまったか、なんだかわけのわからないtwitter論者になってしまった。結局私のエイジングの道は自分自身で切り拓いていくしかなさそうだけど、今は先行きがまったく見えなくて、途方に暮れてしまっている。
 
……で、こういうことをブログにたたきつけるように書く、その身振りも信じて良いのかわからない。
 
インターネットは第一に、願望と思い込みのシミュラークルの鏡地獄なのであって、誰かに何かを伝えるボトルメールとしての機能はもう期待できないように思われるから。この私の戸惑いも、誰かに届くより先に、そういう鏡面が欲しかった人の鏡となり、そういう中年を非難したかった誰かの酒の肴になるばかりなのだろう。しょうもないことだ。そのしょうもない鏡面世界のなかで、こんなこと書いたってなんにもなりやしないんじゃないか。』

投資の世界で、答えは「過去」に存在しない。 : 机上空間

投資の世界で、答えは「過去」に存在しない。 : 机上空間
http://blog.livedoor.jp/goldentail/archives/29195955.html

 ※ 『私達は、テストで学力を計られるのに慣れているので、問題には答えが用意されていると思いがちです。こういう聞き方をすれば、「そんな事は無い事ぐらい知っているよ」と答える方が大方でしょうが、習慣というのは恐ろしいもので、「正しい答えと点数」で評価される事に慣れていると、全てにそれがあると無意識に考えてしまうのです。』…。

 ※ ここは、よくよく傾聴しておいた方が、いい…。

 ※ さらに付け加えれば、オレらは「教科書」と「先生」で「勉強する」ことに、慣れすぎているので、あらゆることにそういう「教科書」みたいなものがあると、無意識に思い込んでいるところがある…。

 ※ また、あらゆることに、「解決方法や、勉強のやり方」みたいなものを、「伝授」してくれる「先生」みたいなものがあると、無意識に思い込んでいるところがある…。

 ※ そういう「便利なもの」は、無い…。

 ※ そういう「便利なもの」は、存在しないんだ…。

 ※ 何を読んだら、どういうものから「情報取ったら」、自分の「目的」が達成できるのか…。そういう「踏み出すべき第一歩」を考えることから、始めないとならないものなんだ…。

『このブログで、既に何回も述べているので、耳タコな方も多いと思いますが、「他の大概のスキルと違って、金融の世界では、経験の蓄積や技術の研鑽が成功を保証しません」もちろん、まったく関係が無いと言いませんし、金融の世界においても経験や研鑽は大事です。しかし、結果として、それが成功を保証するかと言えば、それは無いのです。そこが、他とは違う特異な点です。

大概のスキルというのは、1000時間も費やせば、仕事として成立するくらいの安定した技術が身につきます。その程度で凡庸であるか、職人レベルであるかは別にして、技術としては身につきます。しかし、世の中の出来事が全てがチャートに織り込まれる金融の世界では、どんなに過去のデータを揃えたところで、どんなに経験を積んだところで、どんなに分析を繰り返しても、安定した成功は保証されません。

投資初心者の方のは、ここを間違えがちです。何かしらの努力で克服できると考えてしまうのです。他のスキルが、そうだからです。なので、うまくいかないのは努力が足りないからだと考えてしまいます。しかし、「この世界では、前例のない出来事が常に起きている」のです。冷戦時代に、誰がソ連の崩壊を予見できたでしょうか。東西のドイツが再統一される事も、武漢肺炎のような世界的なパンデミックが発生する事も、ロシアがウクライナに侵攻する事も、それが起きる事を完全に予想できた人などいません。しかし、起きた事で市場は動きます。つまり、過去に答えがあると考える事自体が誤りなのです。

私達が過去から学べるのは、似たケースでの対処法だけです。もしかしたら、それを知っている事で、傷を致命傷にせずに済むかも知れないし、大躍進する機会を掴むかも知れません。しかし、それは、期待値の高い方へ賭けるというだけの話で、確実な答えは、どこにも無いのです。この事を、市場に参加する前に「理解」しておく事が大事です。私達は、テストで学力を計られるのに慣れているので、問題には答えが用意されていると思いがちです。こういう聞き方をすれば、「そんな事は無い事ぐらい知っているよ」と答える方が大方でしょうが、習慣というのは恐ろしいもので、「正しい答えと点数」で評価される事に慣れていると、全てにそれがあると無意識に考えてしまうのです。

こうした不確定な未来の事変に加えて、市場を形成している人間の感情も、とても遷ろう存在です。お金に対して人間を、もっとも強く突き動かす、人々が信じているストーリーや、モノやサービスに対する嗜好も、永遠に変化しないわけではありません。文化や世代によっても変化しますし、今後も常に変化し続けるものです。つまり、答えを求める事が、いかに無意味かという事です。

何かに失敗した時、何か過ちを犯した時、人は「もう二度と同じ過ちを繰り返さない」と、心に誓います。世の中の大概のケースにおいて、こうした真摯な反省というのは、尊いものですし、必ず糧になります。しかし、投資の世界では、そうではありません。投資で失敗した時に得る教訓は一つだけです。「世界で起きる事を予測するのは難しい」それだけです。同じ過ちを繰り返さないという行動は、問題と答えが紐づいている場合にのみ有効です。そうではない投資の世界では、そもそも同じに見える問題が発生した時に、結果として正解だった行動自体が変化します。問題を定量化できないのです。あくまでも、結果として正解なだけで、それが永遠不変の定理には、なりえません。

つまり、得られる教訓は、「予想外の事は、常に起きる。その時に、致命傷を負わないように、市場から退場しないように、常に誤りを許容する余裕を確保しておこう」という事だけです。我々が市場に対して、できる対策は、実はこれだけなのです。市場に対して、正しい行動と安定して得られる結果があると考えているうちは、貴方は市場を理解していません。今まで、どれだけの天才トレーダーと言われた人が、市場から退場していったかを見れば解ります。それは、その人の手法が、市場のある時期に抜群に機能していたという事でしかありません。市場の変化を見誤れば、一回の取引で数十年の実績が水疱に帰すのです。

史上屈指の投資家との呼び声も高く、「賢明なる投資家-割安株の見つけ方とバリュー投資を成功させる方法」という名著を表したベンジャミン・グレアム氏のエピソードを紹介します。この本、曖昧な投資理論ではなく、具体的な計算式で株で成功する方法を解説した、ある意味勇気のある一冊です。しかし、現在では、この通りに実践して、勝つ事は不可能です。

現在の複雑化した企業運営の世界では、グレアム氏の最初の著書で説明された計算式で、当てはまる企業を見つけるのが、まず至難のワザです。そして、ピッタリの企業を見つけて、投資をしても、おそらくは成功しません。

しかし、この本の著者のグレアム氏は、投資家として大成功を収めています。では、彼は嘘を書いたのでしょうか。それは、違うのです。グレアム氏は、市場が一定の法則で動いているものではなく、手法というのは、必ず陳腐化するのを理解していました。グレアム氏は、1934年、1949年、1954年、1965年と、4回の改訂版を出版していますが、書かれている内容は、違う本かと思うくらい変化しています。これを持って「主張に一貫性が無い」と考えるのが、一般人ですが、そもそも市場というのは、一貫性の無いものです。グレアム氏は、その時々で、有効に機能すると思われる具体的な手法を紹介しただけなので、内容が変化するのは、当たり前なのです。

グレアム氏は、既に他界しておられますが、生前のインタビューで、彼が好んで用いていた個別銘柄の詳細な分析方法について、今でも活用しているかと聞かれて、こう答えています。
「全般としては、もう好んでいない。私はもう、価値ある機会を見つけるための入念な証券分析の実践は提唱していない。これは、今から40年前、私達の投資の教科書が出版された頃には、価値のある方法だった。だか、その後、状況は大きく変わったのだ」

この「状況は大きく変わった」というのは、投資先の企業のあり方だけではありません。投資に参加する敷居は下がりましたし、プレイヤーの層も拡大しました。テクノロジーの進化によって、金を払って得ていた情報が、変わらないスピードで一般にも周知されます。つまり、環境も変わっているのです。変化した投資環境では、それなりの新しい対峙の仕方が必要で、古い考え方が、いつまでも通用しない事は、自明の理です。そして、投資本を書いているグレアム氏は、自身が、それを理解していて、古いやり方を次々と捨てて、新しい方法を見つける事を当たり前にしていたので、偉大な投資家として、生涯を全うできたのです。

では、経験や研鑽が、投資において、最も役立ち、決して疎かにして良い事ではない理由は何か? それは、「一般論」を知るのに必須だからです。何が起きるかは予想できません。しかし、何かが起きた時に、「一般的に、どういう行動が起きるか」は、学ぶ事ができます。これは、答えを知る事ではなく、期待値の高い、より確実な未来に賭ける為に、必要な判断ができる為に役立つという事です。あくまでも、答えではありません。

市場では、経験則を無視した、突発的な変化も「良く起きます」。そうした時に、損をしたり、勝負に負けるのは、避けられません。その後で、どう行動すれば、傷を浅くして、挽回のチャンスを掴む事ができるのか。それを知る為には、経験の蓄積と、技術の研鑽が必要なのです。また、チャンスが来た時に、取り逃さずに掴む為にも、それは必要です。ただし、「答え」知る為ではありません。ここを理解して、分けて考えて市場に立ち向かうかどうかで、投資の成功確率は大きく違います。』

事異なれば則ち備え変ず。

事異なれば則ち備え変ず。
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『韓非子(BC280頃~BC234頃 / 中国・戦国末の思想家 諸子百家)の著書「五蠹(ごと)」より備えについての名言(中国古典・故事成語) [今週の防災格言622]

『 事異なれば則ち備え変ず。 』

” 事異則備変。”

 韓非子(BC280頃~BC234頃 / 中国・戦国末の思想家 諸子百家)

 曰く―――。

世異なれば則ち事異なり、(世異則事異)
事異なれば則ち備え変ず。(事異則備変)

世の中が変わってくれば、物事も異なってくる。
物事の状況が違ってくれば、その準備も変えなければならない。
かつての最上の方法も、現在では通用しないこともある。
状況の変化に応じて、それらに対処する方法も常に変えていく必要がある、の意。

格言は韓非子『五蠹(ごと)』より。

 韓非子(かんぴし / 韓非)は、古代中国、戦国時代末期の韓の思想家。法家の代表的人物。

性悪説を唱えた儒家・荀子(じゅんし)の弟子で、申不害(しんふがい)、慎到(しんとう)、商鞅(しょうおう)らの法家思想を大成させた。

韓非の生国である「韓(かん)」は、戦国末期、秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓の「戦国七雄」のうち最弱国で、隣国の秦に怯え、いつ併呑されるか時間の問題でもあった。そんな滅びゆく祖国の弱体に発奮して、自らの思想を形とするため『韓非子』といわれる著作を残した。

その著作『五蠹(ごと)』を読んだ秦王政(後の始皇帝)は、いたく感激し、韓非を秦に招こうとした。ところが、荀子のもとで共に学んだ秦の重臣・奇斯(りし)に妬まれた韓非は毒殺されてしまう。韓非の遺したその思想は秦の始皇帝の中国統一の礎となったという。』