「思想の2つの顔」

http://blog.livedoor.jp/goldentail/archives/24924101.html

 ※ 「机上空間」さんのサイトからだ…。

 ※ この論に、反論できる人は、いないだろう…。

 ※ 「思想」や、「哲学」というものは、常に「二面性」を有するから、取り扱いは要注意だ…。

 ※ 『ここまでの説明で判るとおり、人というのは、多数派で判断を丸投げして、自分で考えないで済む他者というのを、常に求めている社会的な動物であるという事です。これは、ギリシャ文明の時代でも、現代でも変わりません。インターネット上で、面白半分に、何かしらの不手際をしでかした有名人を、リンチにかけて面白がっている人間(結構、いい大人も混じっているんですよ。高校生や大学生だけじゃないんです)が、必ず発生する事を見ても、テクノロジーの進歩や、歴史の積み重ねが、人間の本質を大きく変えるわけでは無い事が判ります。』というのも、卓説だ…。

 ※ 他者に判断を丸投げして、自分は「思考停止」する…。

 ※ 実は、「脳」にとっては、一番楽な「モード」なんだろう…。

 ※ しかも、「権威筋」「権力筋」が「お墨付き」を与えてくれる場合は、「喩えようもない、安心感に包まれていること」ができる…。

 ※ これほど、楽ちんなポジションがあろうか…。

 ※ そういう「脳のモード」に入っている群衆が、一旦、行動を始めたら、押しとどめることは、できやしない…。

 ※ 「権威に従え!自分勝手に、モノを考えるな!」の権威主義は、そういう「脳のモードに入れ!」という命令だと、思った方がいい…。

 ※ そして、高度にテクノロジーが発達した現代社会では、「目に見える形での強制力」よりも、むしろ、「知らず知らずのうちに働きかけられて」、じわじわと「洗脳されて行く」ことのほうが恐ろしい…。

「リンダ問題」を解く 脳といのちに挑む量子生命科学

「リンダ問題」を解く 脳といのちに挑む量子生命科学
科学記者の目 編集委員 滝順一
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGH220OV0S0A221C2000000

『渡り鳥は微小な地磁気を検知して何千キロも飛ぶといわれる。人の体内で働く酵素は目的の化学物質やたんぱく質などを素早く、正確に見つけ化学反応を促す。生物が備える精妙な機能には、原子や分子より小さなスケールの「量子の世界」の現象が関わっているとの見方がある。量子科学技術研究開発機構(QST)の研究グループは、量子力学と生命現象の関わりを調べる科学の新領域「量子生命科学」の開拓に取り組んでいる。

原子より…

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 ※ リンダ問題、知らんかった…。

 ※ 量子論、行動学や心理学の領域にまで、影響を与えているんだな…。

リンダ問題|連言錯誤
http://uronchan.com/archives/649

合接の誤謬
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%88%E6%8E%A5%E3%81%AE%E8%AA%A4%E8%AC%AC

【リンダ問題】事実は直感に反する?特殊な条件が正しいと思えてしまう錯覚
https://w-masukake.com/1251/

 ※ ここのサイト、「丸めがねの森」というサイトのようだ…。日常のさまざまな「認知バイアス」について、行動心理学的な立場から考察してみる…、というサイトらしい…。

 ※ 非常に参考になるようなんで、紹介しておく…。

 ※ 画像は、このサイトからキャプチャした…。

https://w-masukake.com/

精神科医が語る徳川家康の「愛着障害」

精神科医が語る徳川家康の「愛着障害」トラウマ連続の前半生、十代後半から戦闘に明け暮れ
https://biz-journal.jp/2020/09/post_179269.html

 ※ これは、非常に感銘を受けた…。

 ※ 言わずと知れた「戦国三大英傑」の一人だ…。

 ※ オレ的には、織田信長→旧秩序(アンシャンレジューム)の破壊者 豊臣秀吉→インフレ経済の大将 徳川家康→デフレ、地道経済の実行者 というような位置づけだ…。

 ※ それをこの人は、幼年期の生育環境から、ある種の「情緒的な障害」を負ったのではないか…、という観点から精神分析している…。

 ※ この「信長的なもの」「秀吉的なもの」「家康的なもの」という三類型は、日本社会のいろいろなところに、色濃く影を落とし、社会構造・組織構造の分析に応用できるように、思うぞ…。

 ※ 昨今の金融・財政政策における論争の「リフレ派」vs.「財政規律堅持派」の対立なんか、秀吉的vs.家康的という斬り方もできるだろう…。あるいは、菅新内閣の「デジタル改革」も、「信長的」なところまで踏み込めるのか!…、という観点で斬ってみるとかな…。

 ※ ただ、あまりに「土着的」なものなんで、「世界」の事象・現象には、応用・適用し難いのが、難点だ…。例えば、フィリピンのドゥテルテ氏に、「あなたは、ちょっと信長的ですな。」とか言ってみても、目を白黒だろうからな…。

 ※ この文脈からすれば、トランプ氏も「信長的」となるのか…。ドゥテルテ氏以上に、本人には通じない話しだろうが…。

 ※ ただ、安倍さんはトランプ氏と会談したとき、「是非ともドゥテルテ氏と、会うべきだ。あなたたちは、きっとウマが会う。」と言った…、という話しも聞いたぞ…。あるいは、この「三分類」を適用したか…。

 ※ 安倍さん本人は、「なぜ、トランプ氏とうまくやっていけるのか。」と聞かれたときに、「不良の扱いは、麻生さんで慣れている。」と答えたそうだが…。

 ※ さわりを、紹介しておく…。

『家康の、複雑な生い立ちと数奇な運命
 徳川家康は、戦国時代という時代背景を考えても、複雑な生い立ちと数奇な、ある意味波乱万丈の人生を送った人物であった。多くの人がイメージしている、「狡猾な狸親父」と、家康の実人生はかなり異なっている。

 家康の少年時代は、両親の庇護も愛も受けることができず、不幸な時期であった。家康は、三河国の土豪、松平家の第8代当主・松平広忠の嫡男として1543年に出生した。母は有力な領主である水野忠政の娘・於大であった。

 松平家は、隣国の大名である今川家の庇護を受けていた。ところが、生母の兄が、今川家と敵対する織田家と同盟したため、広忠は於大を離縁し、家康は3歳で母と生き別れになってしまう。

 その後の家康の運命は、二転三転する。家康は数え6歳で今川氏への人質として駿府へ送られることとなった。しかし、駿府への護送の途中で家臣の裏切りによって、尾張の織田信秀の人質となっている。

 その2年後には、父である広忠が死去した。広忠はまだ20代半ばの若さであったが、これは病死とも、家臣の裏切りによる非業の死ともいわれている。

家康の前半生は、「トラウマ」の連続
 その後家康は、今川家と織田家との人質交換によって、駿府に移された。以後、家康は駿府で生活を続けることとなり、元服後に、今川義元の姪である築山殿を妻として迎えた。

 この築山殿の生んだ嫡子信康が、のちに謀反の疑いをかけられて、織田信長によって切腹に追い込まれることとなる。正室の築山殿も殺害された。家康はこの2人の死を黙認している。

 このように家康の前半生は、現在の言葉でいうならば、いわゆる「トラウマ」の連続であり、戦国時代であることを考えても、過酷な運命に翻弄された人生であった。

 生母とは無理やり生き別れとなり、さらに尾張、駿河における人質生活は、付き従っている家臣はいたであろうが、少年時代の家康にとっては心休まらないことが多かったであろう。父親の死に目にも会えていない。精神的に不安定になることや、ぐれてしまわなかったことが不思議である。

 こうしたなかで稀なことと感じられるのは、桶狭間の戦いの後に岡崎城に帰還した家康が、ためらうことなく織田家の同盟者となり、その後20年以上にわたって律儀に同盟関係を維持した点である。

徳川家康は「愛着障害」といえなくもない……?
 それでは、こうした家康の生涯を精神医学的に検討したら、どう考えられるだろうか。何か病的な兆候は見いだせるのだろうか。それとも、まったくの健常者とするのが正しいのだろうか。

 幼児期、小児期のおける両親との離別やその後の長い人質生活に着目すると、現在の精神科医は、小児に対する病名であるが「愛着障害」(診断基準では「反応性愛着障害」)という診断を持ち出すかもしれない。

 以下に、DSM-5におけるこの「反応性愛着障害」の診断基準を示してみよう。
 
【反応性愛着障害の診断基準】(DSM-5による)

A 以下の両方によって明らかにされる、大人の養育者に対する抑制され情動的に引きこもった行動の一貫した様式
(1)苦痛なときでも、その子どもはめったにまたは最小限にしか安楽を求めない。
(2)苦痛なときでも、その子どもはめったにまたは最小限にしか安楽に反応しない。

B 以下のうち少なくとも2つによって特徴づけられる持続的な対人交流と情動の障害
(1)他者に対する最小限の対人交流と情動の反応
(2)制限された陽性の感情
(3)大人の養育者との威嚇的でない交流の間でも、説明できない明らかないらだたしさ、悲しみ、または恐怖のエピソードがある。

C その子どもは以下のうち少なくとも1つによって示される不十分な養育の極端な様式を経験している。
(1)安楽、刺激、および愛情に対する基本的な情動欲求が養育する大人によって満たされることが持続的に欠落するという形の社会的ネグレクトまたは剥奪
(2)安定したアタッチメント形成の機会を制限することになる、主たる養育者の頻回な変更(例:里親による養育の頻繁な交代)
(3)選択的アタッチメントを形成する機会を極端に制限することになる、普通でない状況における養育(例:養育者に対して子どもの比率が高い施設)

 家康の小児期に関する資料はほとんど残っていないため、この診断が当てはまるか確認することは困難である。しかしながら、後年の家康の特徴である粘り強さや我慢強さは、この診断による症状(診断項目「A」)と関係があるようにも感じられるのである。

 現実の辛い、耐えがたい出来事に対して、人はしばしばすべての感情を遮断することで対応する。この行動は意識的なものではないが、時にはすべての感情が失われたような状態になる(これを精神医学では「情動麻痺」と呼ぶ)。

 そして家康が経験したような、診断基準「C」のような経験が繰り返し起きると、その個人は周囲に起きることすべてに対して、感情的な反応を示さないようになってしまう。

 家康が生涯にわたって感情的に動揺することなく、冷静に時を待って耐えることができたのは、確証はないがもしかすると、「愛着障害」のメカニズムが働いていたのかもしれない。

 家康が、一向一揆や武士団の離反、そして嫡子・信康の自害といった危機的な状況も破綻なく乗り越えることができたのは、幼い頃の苦難と関連していたのであろう。

(文=岩波 明/精神科医)

ニュースサイトで読む: https://biz-journal.jp/2020/09/post_179269_4.html
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「紙」に印刷すると間違いに気づく理由=「画面」にはない脳の働きとは?=

http://blog.ricoh.co.jp/RISB/new_virus/post_604.html

 ※ これは、けっこう経験がある人が多いのでは…。
 オレも、随分年取ってから「ディスプレイ」で文字を読むことを始めたが、どうも「記憶」に残る度合いが、違っている感じなんだよ…。
 「紙」の文字の方が、記憶に残る度合いが大きいような気がする…。
 まあ、「お前の場合は、年取ったせいだろう。」という声が聞こえてくるが…。それは、重々承知の上での話しだ…。

『「あれっ!こんなところを間違えてるよ」―。パソコン画面上で何回も確認して間違いがなかったのに、紙に印刷すると原稿のミスが…。こんな経験はだれにでもあるが、その理由がよく分からない。

 画面よりも紙のほうが、間違いに気がつきやすい。これは今まで何となく経験してきた真理だ。新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、リモートワークを始めてからは、より一層それを強く感じる。リモートワークではプリンターが無かったり、あってもその能力不足で印刷に手間取ったり。だから、紙でのチェックを怠りがちになり、ミスが生じて後で大きなしっぺ返しを食らう。

 もちろんできる限り間違いを減らし、仕事はスムーズに進めたい。紙と画面それぞれにおける、脳の働き方の違いなどを調べた上で、両者の使い分けを考察してみた。

「分析」の紙vs「パターン認識」の画面
 メディア批評の先駆者、カナダのマーシャル・マクルーハン(1911~1980年)は紙のほうが間違いに気づきやすい理由について、「反射光」と「透過光」の性質の違いを指摘した。前者は本を読むとき、いったん紙に反射してから目に入る光。一方、後者はパソコンやテレビの画面を見る際、直接目に入る光を指す。

図表反射光と透過光
(出所)筆者

 紙に印刷して読むとき、すなわち反射光で文字を読む際には、人間の脳は「分析モード」に切り替わる。目に入る情報を一つひとつ集中してチェックできるため、間違いを発見しやすくなるのだ。

 これに対し、画面から発せられる透過光を見る際、脳は「パターン認識モード」になる。送られてくる映像情報などをそのまま受け止めるため、脳は細かい部分を多少無視しながら、全体を把握しようとする。細部に注意をあまり向けられないので、間違いがあっても見逃してしまう確率が高くなる。

 筆者の経験に照らすと、マクルーハンの学説には納得がいく。例えば校正作業をする場合、原稿を紙に印刷して確認すると、一文字一文字に集中してチェックできる。しかし、画面上での原稿チェックは、全体的にざっくり見るような感覚になる。もちろん、注意して確認するのだが、脳がパターン認識モードになっているため、細かい部分に集中できないように思う。

デタラメな文章も読めてしまう高性能
 もう1つ間違いに気がつかない理由として、「脳が高性能過ぎる」ことが挙げられる。「高性能がいけないの?」と不思議に思うかもしれないが、それゆえ陥ってしまう落とし穴があるのだ。下記の文章を読んでみてほしい。

 こんちには みさなん おんげき ですか? わしたは げんき です。

 何の問題もなく、意味を理解しながら読めるはず。しかし、よく見ると文字順がデタラメだから、意味を成す文章ではない。

 これは、「タイポグリセミア現象」といわれる錯覚の一つ。脳が「正しい単語」を瞬時に予測・補正するため、デタラメな文章でもすらっと読んでしまうのだ。普通に意味が通じて読めるだけに、単純な間違いを見落としがちだ。この現象は紙でも画面でも起こり得るが、脳がパターン認識モードになる画面ではこの罠(わな)にはまりやすい。

「4番打者」の画面だけで勝てるか?
 ここまでは脳科学の観点から、画面に比べて紙の優位な点を紹介した。既に述べた通り、原稿確認作業のように集中力を発揮して理解・分析が必要な仕事は、紙を使ったほうが正確性は高まる。

 では、すべての仕事を紙で行うほうがよいのか。無論、そうではない。画面には多大なメリットがあり、デジタル利便性の享受において紙は相手にならない。画面を制御するコンピューターは大量の文書を保管できるし、変更履歴や更新日などの自動記録も可能。紙では途方もない労力を要する作業が、画面上なら秒単位で完了することもある。

 上司や同僚と資料を共有するときにも、画面は威力を発揮する。紙の場合、必要部数をコピーした上で配布する必要がある。一方、Teamsや Zoomといったウェブ会議システムを導入すれば、資料を簡単に画面共有できる。リモートワークを中心とした「新しい働き方」が定着するwithコロナ時代、これは欠かせない機能になる。

 デジタルトランスフォーメーション(DX)が本格化する中、画面が「4番打者」の座を譲ることはないだろう。だが先述したように、集中力を要求される仕事では紙は画面にない特徴を発揮し、バントの得意なベテラン選手として活躍する。野球はホームランを打つ4番だけでは勝てない。「新しい働き方」も同じだと思う。』

 

 

前澤さんのお金配りを見て、毎日、自分が「当たらない側」だと認識するようになった。

 ※ 高須賀ブログだ…。

 『前澤さんのお金配りが教えてくれたこと
実はこれと実によく似た現象が、しかも連日Twitterで起きている。前澤さんの毎日10万円プレゼント企画である。

もともと、前澤さんは正月にお年玉と称して年に一回100人に100万円を配っていたが、このコロナ禍でなんと毎日のお金配りである。

「いやあ、天上人は違いますなぁ」

と思ってながめていたのだが、最近になって彼をみてるとイライラしている自分がいる事に気がついて驚いてしまった。

最初は彼の何にイライラするのかよくわからなかったのだが

「誰かが10万円当たったって事を、自分の脳は毎日10万円損してるように感じている」

というロジックに気がつき、とても腹落ちした。

行動経済学的に考えれば、あれは「お金配り」ではなく「損した気持ち配り」だったのだ。』

 ※ 人の「幸福感」というものの、「一側面」を突いていて、考えさせる…。

 確かに、人の心理として、「幸福」というものを、「他者との比較」で測るという側面がある…。

 しかし、そういう「人の性(さが)」に対するオレのアドバイスは、「自分というものを、見極めよ。」だ…。

 「自分」は、何を「幸福」と感じ、何を「不幸」と感じる「人間」なのか…。何を「幸福」と考え、何を「不幸」と考える「人間」なのか…。
 
 そこの「見極め」無くして、「生きること」の中身の充実も無い…。

 いずれ、「生命(いのち)は、燃え尽きて、終わりを迎える。」…。どれだけ、自分なりの「幸福」に向けて燃やすことができたのか、そこに注力したらいい…。

コンビニの支払いでバレてしまう「人としての器量」

『お客は「いい人、悪い人、普通の人」の3種類

先日、神奈川県厚木市のコンビニでアルバイトの男性店員が客の様子を写真に撮り「帰れ、デブ!」「死ね」などのコメントを添え、SNSに投稿して問題になった。客の免許証までアップしたとも報じられた。

「トンデモない、許しがたい!!」

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すぐ分かる! 飲食店「いい店・悪い店」の見分け方

電話で取材した40代の男性が激しい憤りをぶちまけた。彼はコンビニを数店舗経営している。

「お前のところも大丈夫か? みたいに思われたら売り上げだって、バイト募集にだって影響が出かねない!」

話すうちに怒りが収まったのか、こんな「本音」も漏らすのだった。

「バカすぎて話にならないが、犯行理由を聞かれ『接客のストレスがたまっていた』と答えたというその言葉は、ちょっとだけわからないでもない……」

オーナーではあるが、彼は各店舗を回り、バイトたちと一緒にレジ打ちも行い、時間があれば、店員の声に耳を傾けるよう努めているという。彼の話によれば、自身の体験を含め、コンビニのレジで接客する人間のストレスは想像をはるかに上回るものだった。

「あくまでも私と、うちの店で働く者の感想ですよ。3台あるレジで働く我々は、1日1人当たり200人前後のお客様とやりとりします。ファミレス、居酒屋、美容室など、数ある接客業でもこれだけ大人数を、次々お相手する商売はあまりないんじゃないか。老若男女、客層も様々。正直に言うと、お客さんには、いい人、悪い人、普通の人の3種類いるんです」

1980年代を代表する、萩本欽一さんのテレビ番組名『欽ドン!良い子悪い子普通の子』のようだ。

声を出してくれるのが店員にはうれしい

「いい人の代表は、いわゆる<ガテン系>の皆さんです。こわもてな感じがするかもしれませんが、作業着で来店した方で、嫌な思いをしたことは一度もない。うちのバイトの子たちもほぼ例外なくうなずきます」

店の近所で作業する人たちは、お昼に、そして仕事終わりにと、工事期間中、何度かやって来る。そのこと自体もありがたいはずだが、何よりうれしいのが彼らの「フレンドリーさ」なのだそうだ。

「声を出してくれるっていうのがうれしいですね。<店のなかはポカポカしてていいねえ><このジュースうまい?><へえ、よかった><細かいお金で払っちゃっていい?><ありがとね~>。レジでのわずか数十秒間のやりとりで、こちらの緊張がすっかりほぐれる。新人なんかは特にそうですよ」

「日没が近づくと作業が終わるでしょ? この時期だと4時すぎです。朝が早いみなさんの帰宅時間で、中にはビールを買ってくださる方もいる。そういう時も<こんな時間から飲んじゃって、ごめんね~>なんて笑顔で話しかけてくれる。<とんでもないです、お疲れさまでした! ありがとうございます!>とお声をかけると、<ありがとさん~>と帰っていく。時間に追われる我々にとってホッとできる瞬間ですね」

私「作業員の方の声かけは、ナンパ目的なんじゃないんですか?」

経営者はきっぱり否定した。

経営者「レジ係が女性であろうと男性であろうと私であろうと関係なく、ごく自然にあったかく一言、言葉かけしてくれます」

私「現場の安全確認で、声を掛け合う習慣があるから?」

経営者「うーん、いい汗かいてるからかもしれませんが……」

原因はいまだ明らかになっていないようだが「いいお客さんナンバーワン」が「ガテン系」であることに間違いはない!と彼は力説する。

「悪い人」の代表は、ダークスーツ系の中堅サラリーマン

私「じゃあ、悪い人は?」

経営者「決めつけるわけじゃないですが、大ざっぱに言うとですよ。おおむね、ネクタイを締めた、ダークスーツ系の中堅サラリーマン、ですねえ。例外は、いっぱいあります、ありますよ。でもね、苦手だなあと感じる人の大半が、ネクタイでダークスーツの中堅サラリーマンだとは言えます」

私「例えば?」

経営者「声を全く出さない。イヤホン、ヘッドホンも多いですね。いらっしゃいませ、とかありがとうございますとかお声がけすると、視線を下から上にスッと動かすだけ。それだけならいいんですがね」

私「何か不都合が?」

経営者「例えば最近は電子マネーで支払う方がいるでしょう? あれ厳密に言うと、スイカなんかの交通系とワオンみたいな流通系だと決済が違うんです。<スイカですか?>とか尋ねても無視。分厚い財布を、ドカンと、レジの読み取り版に無言で押し付ける。たまにうまく作動しないこともあるんです。その時<チェッ>と、舌打ちするんです。これが続くと我々でもめげますねえ」

私「でも声を上げて、クレームつけられるわけじゃないから受忍限度じゃない?」

経営者「いきなり声を上げる方もいるんです。例えば、お釣りとともにレシートを渡す、これが原則。<お釣りとレシートです!>と言うんですが、無言で手や眉の動きで<要らない>を表現する人が多い。レジのベテランになると、そういう<ちょっとしたしぐさ>で<要る・要らない>の判断がつくようになるんですが、ごくたまにミスを犯すと、えらいことになる……」

ちょっとしたことでキレる客

事故の起きる様子はこんな感じだという。

レジ係「お釣りが~でございます、ありがとうございます!」

客「レシート?!」

レジ係「あ、失礼いたしました、申し訳ございません!!」

平謝りでお渡しすると、なんと客が目の前でそのレシートをひねり潰して放り投げ、声を荒らげたのだそうだ。

客「要る要らないは、お前が決めるんじゃない! 判断するのは俺だあ!!」

「キレる客」は珍しくないらしい。

コンビニでは切手も扱っている。82円1枚だけだって大事なお客様だから丁重に接客する。

「ここに、貼ってくんない?」と言われればスポンジで指を濡らしてお貼りする。キチンと貼ったから喜んでもらえると思ったら、激怒された!

「おい、ちょっと傾いてないか? ほら! こんなんじゃ大事な取引先に出せないんだよ。貼り直せ!!! 俺は、お前たちのそういういいかげんな態度が許せないんだよ!!!!」

改めて断っておくが、「キレるみなさん」は見た目も普通。キチンとネクタイを締めた30代から40代の、中堅サラリーマン、なのだそうだ。

将来ああいう人にはなりたくない……

でも、なぜこの人たちはレジで代金を支払いうわずか数十秒の出来事に「チェッ」と舌打ちしたり、声をあげたりするのだろう。世代的な立場、職業的役割が特段にストレスフルなのか……? この辺りは社会学者の論文が山のようにあるはずだから深追いしない。もちろん客の大半は「普通の人」なのだ。

とはいえ、1日一人平均200人ほどの接客をする、取材先経営者のコンビニのレジ係たちの「この中の何人かが突然……」と日々おびえる緊張感は想像するに余りある。そりゃあストレスもたまることだろう。

経営者「レジをやっていて思うんですが、お金を払う場面には、人格が現れやすいのではないでしょうか? 昔から『金離れがいい』とは『使いっぷりが見事』とか『金にきれい』とか、人柄を表現する時にお金が登場しますよね。うちで働いているバイトにも、しっかり勉強する将来有望な子がいるんです。彼ら、彼女たちはしっかり見ていますよ、レジでの振る舞いや人柄を。『将来ああいう人にはなりたくない』『ああいう人とは付き合いたくない』、そんなふうに話すのを聞くこともあります」

「どうせ、こんな、たかがコンビニ」などと思って“本性”を表したら、数年後、コンビニでレジ係をしていた若い人が、大事な取引先にいた! なんてことがないとも言い切れない。

コンビニのレジ。数百円の支払いだって「要注意」なのだ。

[2015年12月10日掲載の日経Bizアカデミーの記事を再構成]』

中年ナルシストの道は狭く険しい – シロクマの屑籠

 ※ まあ、そうなんだろう…。

  しかし、人間、そうそう「自分の選択したところに従って」生きられるわけじゃ無いと思うぞ…。

 大体、「何らかの役割」が、振られているもんだ…。その「役割」というものは、別に「自分が望んで」とか「自分が選択して」とかで、そうなったものじゃ無い場合が殆んどだ…。浮世の義理…、というヤツでそうなった場合が殆んどだ…。

 それで、目の前の「振られた役割」を果たすので、四苦八苦して、知らぬ間に「年取った」というのが、殆んどだ…。

 それでもオレは、「死にかけた」んで、「生きてることの有り難さ」「生命(いのち)ということの大切さ」なんかを、知ることができて、幸いだった…。

 「輝かしい人生」「輝いている生命(いのち)」とか、分に過ぎた話しだ…。
 
 今日もまた、おまんま頂いて、死ぬことも無く生きて、何かができている…。それに勝る「幸せ」は、無かろうよ…。

あの頃私は買いだめして、本能を充たし不安を防衛していた

※ https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20200827/1598538600 

『暑いのか秋っぽいのかわからない夜長に眠れなくなってしまった。少し前の思い出を書きたくなったので、新型コロナウイルスの脅威がいちばん切迫していた頃の思い出話を書く。
 
まず、参考までに3月19日付けのヤフーの記事へのリンクを貼り付けておく。
 
新型コロナ影響でコメ・パスタなど食品のストック需要が伸長(日本食糧新聞) – Yahoo!ニュース
 
あの、人々がカップ麺やパスタや缶詰をまとめ買いしていた頃、私も少しだけ買いだめしよう・買いだめしたい、と心がけていた。例の、日本社会についてまわる世間体が気になっていたから、私の買いだめは他のお客さんや店員さんにバレにくいかたちで実行にうつされた。
 
こそこそ買いだめ作戦。その内容は、「使う予定のない缶詰をひとつ余計に買う」「いつもよりパスタソースを1パックだけ多く買う」といったことを一か月ほど地道に続けるものだった。金額にして、一回あたり300円かそこらの買いだめでも、塵も積もれば山となる。この、僅かな買いだめとて、みんなが一斉にやれば店頭から品物はなくなってしまうだろうとわかっていたけれども、やりたかったから、やった。
 
やがて期待どおり、自宅の床下倉庫には買いだめた食料品がそれなりに集まった。3月~4月の時点では、集まった食料品を眺めるのはなかなかに気持ちの良いことだった。
 
この複数回にわたった買いだめは、今にして思えばすごく”お買い得”、または”コスパが良かった”と思う。なぜなら、ささやかな買いだめには大きな満足感が伴っていたからだ。
 
あの時、私は買いだめをしたいというプリミティブな欲求を抱えていた。
 
社会全体を覆う不測の事態に対して、個人に備えられることは少ない。また、備えたとしてもそれが有効であるという確証も乏しい。ちょっとぐらい食品や消耗品の備蓄があったところで、社会情勢が本当に滅茶苦茶になってしまったら足りなくなるだろう。また、オイルショックや東日本大震災を引き合いに出し、「買いだめは利口な人がすることではない」と語る人もたくさんいた。私よりも賢そうな人たちが、賢そうにそう言っていたのだから、利口な人は買いだめをしたくならないのかもしれない。
 
けれども、そうした頭でわかっていることを圧倒するように、買いだめは私の快楽となった。あるいは本能をくすぐってやまなかった。私は安心を買い漁りたくてしようがなかった、という風にも言えるだろう。
 
どうあれ、私は300円かそこらの買いだめをしては、ウキウキとした気持ちで帰宅した。スーパーマーケットや百貨店ではしばしば、「どうぞ、ショッピングをお楽しみください」というアナウンスが流れるけれども、あのささやかな買いだめの時ほど、そのアナウンスどおりに私が楽しんでいたことはなかったかもしれない。これに匹敵するのは、地方の酒屋さんの開かずの冷蔵庫のなかに、市場価格を大幅に下回るワインを発見したときぐらいである。とにかく、たった300円かそこらの買いだめのおかげで、私は買い物のたびに大きな満足をおぼえることができていた。
 
たった300円かそこらで買い物が満足感に彩られるというのは、そうざらにあるものではない。しかも、買いだめた品物はたいがい日持ちするから、後でゆっくり食べれば無駄になることはないときている。「体験にお金を払う」という視点でみるなら、これは、とてもお買い得で、とてもコストパフォーマンスの良い体験だったのではないだろうか。
 
 
不測の事態への備えだとか、経済合理性に照らし合わせるだとか、そういった視点でみるなら、私のやったことは利口なことではなかった。だが、危機管理や経済合理性のとおりに行動選択するのと、自分の快楽や本能の充足、不安の防衛まで意識して行動選択するのでは最適解は変わってくる。あの頃の私は、自分の快楽や本能の充足、不安の防衛まで手当てしたがっていたから、買いだめをしてみて私個人は良かったのだと思っている。
 
ただもし、私と同じ心境で皆が行動していたのだとしたら、個人にとっての最適解と社会にとっての最適解にはギャップがあったとは言えるだろうし、実際そうだったのだろう。』

ホントは怖い「一見、いい人」

ホントは怖い「一見、いい人」 元陸自心理教官の教え 元自衛隊心理教官の下園壮太さんに聞く(上)
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO45456050Q9A530C1000000?channel=DF140920160927&nra&page=2

実は怖い「一見、いい人」 職場で逃げられない理由 元自衛隊心理教官の下園壮太さんに聞く(中)
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO45501780R30C19A5000000?channel=DF140920160927

実は怖い「一見、いい人」 疲れたら「離れる」が鉄則 元自衛隊心理教官の下園壮太さんに聞く(下)
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO45504500R30C19A5000000?channel=DF140920160927

 ※ 非常に参考になることを、言っている…、と思われる…。書籍も発刊しているようなので、引用は控えておく…。
 特に、現代に特有の精神状況を「現代型病理」と捉えて、対処方法を考察している点が、秀逸だ(オレが知らないだけで、そういう視点からの分析は、あまたあるのだろうが…)。SNSなんかの発達により、「精神的悩み」の質が、大分昔(むかし)とは違ってしまったらしい…。なんか、「アメーバ状」に、絡む形で侵食しているらしい…。「葛藤」を引き起こしている「二項対立」の対象が、見えにくい状況になっているらしい…。
 「自分」というもののとらえ方は、各人各人で千差万別なんだろう…。オレ自身は、いろいろなものを乗せている「器(うつわ)」と捉えている…。そういう器(うつわ)を運んでいって、「何事か」を実現していく…。そういうものが、「人生」なんだと、イメージしている…。
 前にも言ったが、あまり「自分自身を見つめたり」「自分の内面深くに、降りていったりする」のも、考えものだ…。
 それよりも、器(うつわ)を運んでいって、とっとと「何かをやった方が」いいのだ…、というのが基本的なスタンスだ…。