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第一次台湾海峡危機(1954年 – 1955年)
「一江山島戦役」および「大陳島撤退作戦」も参照
一江山島を占領する人民解放軍
国共内戦の結果、1949年に中国国民党率いる中華民国政府は中国大陸での統治権を喪失し、台湾に移転したが、中国西南部の山岳地帯及び東南沿岸部の島嶼一帯では中国共産党に対する軍事作戦を継続していた。しかし1950年になると、舟山群島、海南島が中国共産党の人民解放軍に奪取され、また西南部でも人民解放軍がミャンマー国境地帯に進攻したため、国民党は台湾及び福建省や浙江省沿岸の一部島嶼(金門島、大陳島、一江山島)のみを維持するに留まり、東シナ海沿岸での海上ゲリラ戦術で共産党に対抗していた。
朝鮮戦争の影響で沿岸部における侵攻作戦が休止しはじめ、中国の視線が徐々に朝鮮半島へ移転するのを機に国民党は反撃を幾度か試みたものの(南日島戦役、東山島戦役)戦果が期待したものとはほど遠く大陸反攻への足がかりを築くことができなかった。そして、朝鮮戦争が収束するにつれ共産党の視線は再び沿岸部へ向けはじめるようになる。
この間人民解放軍はソ連から魚雷艇やジェット戦闘機を入手して現代的な軍としての体制を整えつつあった。
1954年5月、中国人民解放軍は海軍や空軍の支援の下大陳島及び一江山島周辺の島々を占領し、10月までに砲兵陣地と魚雷艇基地を設置した。9月3日から金門島の守備に当たっていた中華民国国軍に対し砲撃を行った(93砲戦)。11月14日に一江山島沖で人民解放軍の魚雷艇が国民党軍海軍の護衛駆逐艦『太平』(旧アメリカ海軍エヴァーツ級護衛駆逐艦)を撃沈すると周辺の制海権を掌握した。 1955年1月18日には解放軍華東軍区部隊が軍区参謀長張愛萍の指揮の下、一江山島を攻撃、陸海空の共同作戦により午後5時30分に一江山島は解放軍により占拠され、台湾軍の指揮官である王生明は手榴弾により自決している。
一江山島を失った台湾側は付近の大陳島の防衛は困難と判断、2月8日から2月11日にかけてアメリカ海軍と中華民国海軍の共同作戦により大陳島撤退作戦が実施され、浙江省の拠点を放棄したことで事態は収束を迎えた。
第二次台湾海峡危機(1958年)
(詳細は「金門砲戦」を参照)
1958年8月23日、中国人民解放軍は台湾の金門守備隊に対し砲撃を開始、44日間に50万発もの砲撃を加え、金門防衛部副司令官である吉星文、趙家驤、章傑などがこの砲撃で戦死している。この砲撃に対し台湾側は9月11日に中国との空中戦に勝利し、廈門駅を破壊するなどの反撃を行った。この武力衝突でアメリカは台湾の支持を表明、アイゼンハワー大統領は「中国はまぎれもなく台湾侵略」を企図しているとし、また中国をナチスになぞらえた。9月22日にはアメリカが提供した8インチ砲により中国側への砲撃を開始、また金門への補給作戦を実施し、中国による金門の海上封鎖は失敗、台湾は金門地区の防衛に成功している。9月29日、蒋介石は金門島の危機に際してはアメリカの支援なくとも中国と戦闘態勢に入ることを述べた。
10月中旬、ダレス国務長官は台湾を訪れ、台湾に対してアメと鞭の態度で臨むことを伝えた。つまり蒋介石が金門・馬祖島まで撤収することを条件に、援助をすると伝えた。蒋介石は10月21日からの三日間の会談でアメリカの提案を受け入れるが、大陸反撃を放棄しない旨もアメリカへ伝えた。
10月6日には中国が「人道的配慮」から金門・馬祖島の封鎖を解除し、一週間の一方的休戦を宣言し、アメリカとの全面戦争を避けた。
翌1959年(昭和34年)9月、健康上の理由で首相を辞職した石橋湛山は回復後、私人として中華人民共和国を訪問し、9月17日周恩来首相との会談を行い、冷戦構造を打ち破る日中米ソ平和同盟を主張。この主張はまだ国連の代表権を持たない共産党政権にとって国際社会への足がかりになるものとして魅力的であり、周はこの提案に同意。周は台湾(中華民国)に武力行使をしないと石橋に約束した(石橋・周共同声明)。のちの日中共同声明に繋がったともいわれるこの声明および石橋の個人的ともいえる外交活動が、当面の危機を回避することに貢献した。
国光計画(1962年)
1962年、大躍進政策に失敗し国力を疲弊させた中華人民共和国に対し、蒋介石は大陸反攻の好機と捉え攻撃の計画(国光計画)に着手した[2][3]。具体的に政府及び軍部に大陸反攻のための組織を設置、同時にアメリカの支持を取り付けようとしたが、全面戦争に発展することを恐れたアメリカは国光計画に反対を表明、実際に軍事行動に発展することはなかった[4]。
第三次台湾海峡危機(1995年-1996年)
(詳細は「第三次台湾海峡危機」を参照)
1996年に行われた台湾総統選挙で李登輝優勢の観測が流れると、中国人民解放軍は選挙への恫喝として軍事演習を強行し、基隆沖海域にミサイルを撃ち込むなどの威嚇行為を行なうが、アメリカ海軍も空母機動部隊を派遣したため、台湾周辺では一気に緊張が高まり、その後の台湾のアイデンティティへ大きく影響を及ぼした。
第三次台湾海峡危機
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『1995年-1996年台湾海峡危機又は1996年台湾危機とも呼ばれる第三次台湾海峡危機は、1995年7月21日から1996年3月23日まで台湾海峡を含む中華民国(台湾)周辺海域で中華人民共和国が行った一連のミサイル試験の影響であった。1995年半ばから後半にかけて発射された最初のミサイルは、一つの中国から中華人民共和国の外交政策を引き離すものと見られていた李登輝総統の下の中華民国政府に対する強力な信号を送ろうとしたものと見られている。第2波のミサイルは1996年初めに発射され、1996年中華民国総統選挙への準備段階にあった台湾に対する脅迫の意図があると見られた。』
『李登輝のコーネル大学訪問
今回の危機は李登輝総統が「台湾の民主化経験」に関する演説を行ったコーネル大学アルマ・マータからの招待を受けたことにより始まった。中華民国を外交上孤立させるよう求めて、中華人民共和国は訪問に反対した。李登輝は台湾独立運動の考えを持っているので地域の安定への脅威であると主張した。
南アメリカへの旅行の後に、テクニカルランディングのため、李登輝の乗った飛行機がホノルルに立ち寄った1994年初頭にアメリカ合衆国大統領ビル・クリントンのアメリカ合衆国連邦政府は、査証を求める李登輝の要請を拒否した。李登輝はヒッカム空軍基地に足止めされ、飛行機に一晩中留まることを余儀なくされた。アメリカ合衆国国務省当局者はこれを「厄介な状況」とし、李登輝は2流指導者の扱いを受けたと抗議した。
李登輝がコーネル大学訪問を決めると、アメリカのウォーレン・クリストファー国務長官は中国の銭其琛外交部部長に李登輝に対するビザが(アメリカ合衆国と台湾の)非公式な関係と矛盾することになると確約した。しかし1994年の訪問において李登輝が受けた恥辱は、多くの台湾支持者の注意を向けさせたため、アメリカ合衆国議会は李登輝の為に動いた。1995年5月に李登輝がアメリカ合衆国を訪問出来るようアメリカ合衆国国務省に求める同一内容の決議(英語版)がアメリカ合衆国下院で棄権38票と共に396票で、アメリカ合衆国上院で棄権2票と共に97対1で可決された[1]。1995年5月22日にアメリカ合衆国国務省は態度を軟化し、中華人民共和国はアメリカ合衆国を米中関係を損なうものと非難した。
李登輝は1995年6月9日から10日に中華人民共和国国営メディアが「中国を分断する」企図を持つ「裏切り者」と烙印を押すようなコーネル大学同窓会に参加した[2][3]。』
『中華人民共和国の軍事的反応
中華人民共和国政府はアメリカ合衆国の政策転換に激怒した。1995年7月7日に新華社は中国人民解放軍が行う弾道ミサイル試験を報じ、この地域の平和と安全を危険に晒すことになろうと指摘した。中華人民共和国は中華民国領内彭佳嶼の北60キロメートルに限った地域で7月21日から26日にかけて試験を行った。同時に中華人民共和国は福建省内の部隊を移動した。7月下旬から8月上旬にかけて李登輝と李の台湾海峡を巡る政策を非難する多くの論評が新華社と人民日報から発表された。
実弾を伴うもう1つのミサイル発射が1995年8月15日から25日にかけて行われた。8月の海軍演習は11月に広範囲の陸海演習へと繋がった。』
『アメリカ合衆国の軍事的反応
アメリカ政府はベトナム戦争以来最大級の軍事力を行使して反応した[4]。1996年3月にアメリカのクリントン大統領はこの地域に向けて艦船の増強を命じた。ニミッツを中心とした2つの航空母艦群・第7航空母艦群・インディペンデンスを中心にした第5航空母艦群が台湾海峡に入ったと公式発表された。
インディペンデンス集団はこの時日本を母港としていて、この危機の間この地域にいたが、中国の事実上の海峡封鎖と捉えられた行動に対して、中国人民解放軍は圧倒的な空母兵力を持つアメリカ海軍の前に何も出来ず、中華人民共和国の兵器試験で示された海域の外側に留まった。』
『中華人民共和国政府は台湾の選挙に対し、1996年中華民国総統選挙で李登輝に投票することは戦争を意味するというメッセージを送ろうとした。3月23日の選挙の直前である3月8日から3月15日にかけての第3波の中華人民共和国による試験では、基隆市と高雄市の港から25マイルから35マイルの地点に向けて(中華民国の領域の海域に丁度入った所)ミサイルを発射した。試験地域の近辺で分断され標的の港湾を通過しようとしていた船舶輸送は7割を超えていた。日本への飛行と太平洋を横断する飛行は迂回が必要となって10分遅れ、高雄市と香港を航行する船に至っては2時間分の迂回をしなければならなかった。
アメリカ合衆国大統領選挙の年でもあった1996年3月8日にクリントン大統領のアメリカ合衆国政府は、既に西太平洋に駐留していたインディペンデンス航空母艦戦闘群(英語版)を台湾近郊の国際海域に配備すると発表した。翌日に中華人民共和国は3月12日から20日にかけて澎湖県近郊で行う実弾演習を発表した。3月11日にアメリカ合衆国はペルシャ湾から高速で移動出来るニミッツ(英語版)を中心とした第7戦闘群(英語版)を派遣した。3月15日に北京が3月18日から25日の海陸の模擬戦闘の計画を発表したたことで緊張はさらに高まった。
戦闘群2隊を派遣したことは、中華民国に向けた象徴的な態度を示しただけでなく、アメリカ側が戦闘への即応性を整えていることを示すものであった。中華民国と民主進歩党はアメリカの支援を歓迎したが、頑強な統一派大統領候補林洋港(英語版)と中華人民共和国はこれを「外国の介入」と非難した。
脅迫による中華人民共和国の企ては逆効果に終った。掻き立てられたのは恐怖よりむしろ怒りであり、李登輝には5パーセント程の得票の上積みがもたらされ、多数票に留まらず過半数を得るまでに至った[要出典]。』
『影響
これらの軍事的な試験及び演習の結果、アメリカ合衆国による中華民国への武器販売についての支持は強固なものとなり、日米間の軍事協力が強まって、台湾防衛に果たす日本の役割が高まることとなった。
他方で中華人民共和国はアメリカ海軍戦闘群が中国人民解放軍海軍に確実に脅威を与えていることに気付くと、軍備増強を加速した。中華人民共和国はそれから間も無い時期(李鵬国務院総理がモスクワを訪問した1996年12月半ばと言われる)に冷戦時代にアメリカ海軍戦闘群に対抗するために設計されたソヴレメンヌイ級駆逐艦をロシア連邦に注文した。
その後中華人民共和国はアメリカ海軍戦闘群に対抗する目的で、近代型攻撃型潜水艦(キロ級)と戦闘機(76 Su-30MKKと24 Su-30MK2)を注文した。さらに1998年には、のちに遼寧として就航することになるアドミラル・クズネツォフ級航空母艦のヴァリャーグをウクライナから取得した。
台湾側への事前通告
2019年4月1日の産経新聞一面に掲載された李登輝秘録によれば、1995年7月初めに前もって中国側から李登輝の国策顧問で台北在住の曽永賢に「2、3週間後、弾道ミサイルを台湾に向け発射するが、慌てなくていい」と連絡があり、それを李登輝に伝えたと証言している。曽永賢は1992年には李登輝の使者として北京で中国の楊尚昆国家主席と面会し、軍総政治部連絡部長の葉選寧と極秘ルートを持つ立場だった。』
その後は1965年に発生した偶発的な東引海戦、東山海戦、烏坵海戦を除き両岸間での戦闘は発生していない[5]。』
※ 後世、今回の「緊張状態」は、「第四次台湾海峡危機」と称されることになるのかな…。
※ しかし、「第三次」の時は、明確に「李登輝政権」の牽制という意図から生じたものだったが、もう台湾の選挙は、無いハズだが…。9月の香港での選挙を睨んだものだったのか…。それとも、習氏の北戴河での長老対決を有利に進めるための策だったものか…。
※ そこいら辺は、よく分からんな…。