古代ゲノミクスは、日本の集団の三者起源を明らかにする

古代ゲノミクスは、日本の集団の三者起源を明らかにする
https://www.science.org/doi/10.1126/sciadv.abh2419

※ この図見ると、凄いな…。

※ 弥生人には、古代東アジア人由来のDNA成分(黄色)が、殆んど入っていない…。

※ DNA解析から判断すると、弥生時代に大陸から「渡来した渡来人」と「縄文人」が「混血した」ものでは無い…。

※ むしろ、「古墳時代」に「古代東アジア人由来のDNA成分(黄色)」が注入され、現在の「日本人のDNA」を形成した…、ということのようだ…。

※ そして、「古代東アジア人由来のDNA成分」に入っている「中央ステップ遊牧民由来の成分(濃い灰色)」が「弥生人」にも、「古墳人」にも全く入っていないことも、注目に値する…。

※ 「古代東アジア人」で、「中央ステップ遊牧民」と混血する前の人々が、日本列島にやって来た…、ということなのか…。

※ 「青みがかった灰色」は、バイカル湖近辺に居住していた「古代東アジア人」由来のもののようだ…。

※ 「現代の日本人」の「DNA」は、「黄河近辺に居住の古代アジア人(黄色)」「バイカル湖近辺に居住の古代アジア人(青みがかった灰色)」「縄文人(赤色)」の混合であるということだ…。

※ しかし、その肝心の「縄文人(赤色)」は、どこから来たんだ?

※ 他のアジア大陸には、全く見当たらないようだが…(わずかに、中国の南方地域に存在する。しかし、黄色、濃い灰色と混じっていて、全部赤色では無い…)。

※ ということで、「日本人(縄文人)の起源」は、相変わらず「謎」のままということのようだ…。

『(※ 翻訳は、Google翻訳)

要約

先史時代の日本は、過去3000年の間に、採餌から湿った稲作、そして国家形成に向けて急速な変革を遂げました。日本本土の人口は、先住民族の縄文狩猟採集漁師と弥生農家の後継者から二重の祖先を導き出しているという長年の仮説。しかし、農業移動とその後の社会文化的変化によるゲノム的影響は不明である。農業前期と農業後の12の古代日本ゲノムを報告します。我々の分析によると、縄文は数千年にわたる実効人口の少ない1000人を維持しており、20,000年から15,000年前の大陸集団との深い相違があり、海面上昇を通じて日本の海面化を見た時期である。稲作は、北東アジアの祖先を持つ人々によって導入されました。予想外に、帝国古墳時代の東アジアの祖先の後の流入を特定します。これら3つの祖先成分は、現在の集団を特徴付け続け、日本のゲノム起源の三者モデルを支持している。』

『紹介

日本列島は少なくとも38,000年前から人間によって占領されてきました。しかし、その最も根本的な文化的転換は過去3000年以内にしか起こっていないが、その間、住民は急速に採餌から広範囲にわたる稲作から技術的に高度な帝国国家(1,2)に移行した。 これらの急速な変化は、ユーラシア大陸からの地理的孤立と相まって、日本をアジアの農業普及と経済の激化に伴う回遊パターンを研究するユニークな小宇宙となっています。農業文化が到来する前は、縄文文化に属する多様な狩猟採集漁団が占めていたのが、その陶器の使用が特徴でした。縄文時代は、最後の氷河最大(LGM)に続く最古のドライアス(3)の間に始まり、最も初期の陶器の破片は約16,500年前(ka前)に続き、これらの集団は世界で最も古い陶磁器のユーザーの一部となっています(2)。縄文の従属戦略は様々であり、人口密度は空間と時間(4)を経て変動し、セデンティズムに向けた傾向が示された。この文化は弥生時代(3年前)の始まりまで続き、水田稲作の到来が群島の農業革命につながった。その後、小船時代が始まり、1.7年前から始まり、政治的中央集権の出現と、地域を定義するために来た帝国の治世が見られました(1)。

近代日本人の起源に関する永続的な仮説は、日本人の集団が先住民族の縄文の子孫であり、その後、弥生時代に東ユーラシア大陸から到着する二重構造モデル(5)を提案している。この仮説は、もともと形態学的データに基づいて提案されたが、広くテストされ、分野を越えて評価されている[(6)で最近のレビューを参照してください。遺伝学的研究は、現在の日本の集団内の集団階層を同定し、少なくとも2つの日本列島への移動の波を支えている(7-10)。これまでの古代DNA研究では、今日の日本人集団に対する縄文人と弥生個体の遺伝的親和性も示している(11~15)。それでも、農業移行後の州の形成段階の人口動態の起源と影響はほとんど知られていない。歴史的言語的観点から、原発ジャポニック言語の到来は、弥生文化の発展と湿米栽培の普及に対応する理論を示している(6)。しかし、考古学的文脈とその大陸の所属は、弥生と古墳時代の間で明確である(1);知識と技術の普及が大きな遺伝的交流を伴っていたかどうかは、依然として不可解である。

ここでは、8000年の前および原始史に及ぶ12の新しい配列を持つ古代日本のゲノムを報告します(図1および表1)。私たちの知る限りでは、これは最も古い縄文個体と帝国古墳時代の最初のゲノムデータを含む、群島からのタイムスタンプ付きゲノムの最大のセットです。また、5つの出版された先史時代の日本のゲノムを分析に含めます:3人の縄文個体(後期縄文時代のF5とF23、最終縄文時代のIK002)(12-14)、そして九州の北西部の弥生文化に関連する2人の2人の個人は、その他の考古学的な特徴ではなく明確に表わされています。

弥生文化との関連 (15, 16)この形態学的評価(16)にもかかわらず、この2人の弥生個体は縄文と比較して現在の日本人集団に対する遺伝的親和性が高いことを示し、大陸群との混和が既に弥生後期(15)によって進められたことを示唆している。これらの日本のゲノムを、中央および東の草原(17、18)、シベリア(19)、東南アジア(12)、東アジア(15、20、21)にまたがるより大きな古代ゲノムデータセットと統合し、縄文時代の農業前の個体群とそれに続く移行と混和をより良く特徴付けることを目的としています。 今日、群島の遺伝的プロフィールを形成している。

図1.古代日本人の場所、日付、ゲノムカバレッジのサンプリング。

(A) 考古学的遺跡は、この研究で新たに配列された個々のゲノムの円と、以前に報告された場合は三角形でマークされています(表1および表S1を参照)。色は、日本の前とプロトヒストリーの3つの異なる期間を表しています: 縄文, 弥生, 古墳.(B)各個体は、y軸上のx軸と中央値年齢(存在する前の年)に全ゲノムカバレッジでプロットされる。9人の縄文個体は、年齢に基づいて5つの異なるサブ期間に分かれています(注S1を参照):初期(JpKa6904)、早期(JpOd274、JpOd66、JpOd282、JpOd181、JpFu1)、ミドル(JpKo2)、後期(JpKo13、JpHi01、F23、F5)、および最終(IK0)。

関連カルチャ
サンプル ID 日付範囲
と中央値
(CAL B.P.) カバレッジ MTDNA
汚染率
(%) 分子性 マウントDNA
ハプログループ Y染色体
ハプログループ 参照。
この研究で新たに配列された
縄文 JpKa6904 8646–8991;8819 7.51 1.46 XX N9b3 – –
JPOD274 6119–6289;6204 1.56 1.13 XY M7a D1b1d1 –
JPOD6 5934–6179;6057 1.18 1.55 XX N9b3 – –
JPOD181 5751–5917;5834 1.83 0.91 XY N9b1 D1b1d1 –
JPOD282 5737–5902;5820 0.96 1.38 XY M7a1 D1b1d1 –
JPFU1 5478–5590;5534 1.13 2.15 XX M7a1 – –
JPKO2 4294–4514;4404 2.47 1.44 XX N9b – –
JPKO13 3847–3978;3913 1.81 1.50 XX N9b1 – –
JPHI01 3685–3850;3768 0.88 1.45 XX M7a1a – –
コウファン JpIw32 1347–1409;1378 4.80 0.41 XY B5a2a1b O3a2c –
JPIW31 1303–1377;1340 1.44 0.63 XX D5c1a – –
JPIW33 1295–1355;1325 1.54 0.75 XX M7b1a1a1 – –
以前に公開されました
縄文 F23 3550–3960;3755 34.82 1.20 XX N9b1 – (14)
F5 – 3.74 2.45 XY N9b1 D1b2b (14)
IK002 2418–2720;2569 1.85 0.50 XX N9b1 – (12)
弥生 Yayoi_1 – 0.01 2.92 XX M7a1a4 – (15)
YAYOI_2 1931–2001;1966 0.07 2.33 XY D4a1 O (15)

表 1.古代日本語データの概要

業績

先史時代と原史時代の日本の古代ゲノムの時系列

私たちの最初のスクリーニングは、群島全体の6つの考古学的遺跡から発掘された14の古代骨格遺跡に焦点を当てた(注S1を参照)。これらのサンプルの12個(表1)には高レベルの内因性ヒトDNAが保存され、その後、0.88×から7.51×まで、さらにショットガン配列が高い範囲に保存された(図1および表S1)。12個のサンプルのうち9つは縄文文化に関連しており、群島の西と中央部と縄文時代の4つの異なる段階(初期、初期、中、後期縄文)を表しています(図1)。残りの3つのサンプルは約1.3カ前にさかのぼり、古墳時代に入った。

我々は、新たに配列されたすべてのゲノムが死後の損傷パターンを示していることを確認する(図.S1)と低レベルの現代人汚染(<2.15%)(表1および表S2)。我々の親族関係分析は、個人のすべてのペアが無関係であることを確認します(図。S2)。すべての縄文人のミトコンドリアハプログループは、N9bまたはM7aのクレードに属し、この人口(11-14、22)と強く関連しており、今日の日本国外では珍しい(23)。

3人の縄文雄(表S3)は、現代の日本の人口に存在するが、他の東アジア系では殆ど存在しないY染色体ハプログループD1b1に属している(24)。

対照的に、Kofun個体はすべて現在の東アジア人(25)で一般的なミトコンドリアハプログループに属し、単一の古墳男性はO3a2c Y染色体ハプログループを持っており、これは東アジア全域、特に中国本土(26)にも見られる。

東ユーラシア人口統計のより広い文脈の中に我々のデータを置くために、我々は以前に出版された古代からのゲノムデータと古代日本のゲノムを組み合わせた(表S4と図。S3)と現在の個人。この研究を通じて、現代の日本人の人口は、1000ゲノムプロジェクトフェーズ3(28)のサイモンズゲノム多様性プロジェクト(SGDP)(27)またはJPT(すなわち東京の日本語)のデータによって表されます。

しかし、我々は、この標準的な基準セットによって完全にキャプチャされていない、今日の群島全体に先祖の異質性が存在していることに注意してください。この研究で分析された他の古代および現在の人口は、主に地理的または文化的文脈のいずれかによってラベル付けされています。

異文化期間間の遺伝的区別

我々は、統計fを用いて、古代と現代(SGDP)の両方の日本人集団からの個人のすべての対比の間の共通の遺伝的ドリフトを見て、時系列データ内の遺伝的多様性を探った3(Individual_1、Individual_2;ムブティ)(図2A)。

我々の結果は、縄文、弥生、古墳の3つの異なる群集を非常に明確に定義し、最後に現代の日本人個人とグループ化し、文化的変化がゲノム変化を伴っていることを示唆している。

縄文データセットでは空間的および時間的な変動が大きいにもかかわらず、12人の間で非常に高いレベルの共有ドリフトが観察される。弥生の人は互いに最も密接に関係しており、また、小船の個人よりも縄文に対する親和性が高い。古墳と現代の日本人は、この指標によってほとんど区別がついておらず、過去1400年間の遺伝的連続性のレベルを暗示しています。

図2.日本における遺伝的多様性

(A)ペアごとのアウトグループfのヒートマップ3古代と現代の日本人の間の統計比較(B) 日本の古代の個人(縄文、弥生、古墳など)と大陸古代人(色のシンボルとして提示)を可視化する主成分分析(PCA)を、現在の東ユーラシア人112人(濃い緑色で強調表示された灰色の円)に投影した。

(C) AD混合物分析から選ばれた個体(K = 11;K = 2からK =12までの完全な写真)がイチジクで提示される。 S5およびS6)は、別個の縄文祖先成分(赤色で表される)、バイカル地方およびアムール川流域(水色で表される)および広東アジアの成分(黄色で表される)からの古代サンプルに共通する成分を示す。

中央の草原で最も支配的な灰色の成分は、古代と現代の日本のサンプルには存在しません。中央と下の行は、各地理的地域から選択された古代東ユーラシアの人口を示しています:中国南部(左から:梁島1、梁島2、西口順)、黄河(YR)(中新石器時代、YR_MN;後期新石器時代、YR_LN;後期新石器時代、Upper_YR_LN;青銅器時代後期/鉄器時代、YR_LBIA。そして鉄器時代、Upper_YR_IA)、中国北部(水海、ビアンビアン、ボーシャン、小河)、西遼川(WLR)(中新石器時代、WLR_MN。後期新石器時代、WLR_LN;青銅器時代、WLR_BA。ハミンマンガ出身の中新石器時代の個体、HMMH_MN。そして、WLR_BAとWLR_BA_oとは異なる遺伝的背景を持つ青銅器時代の個体、アムール川(AR)(旧新石器時代、AR_EN歳、鉄器時代、AR_IAとAR_Xianbei_IA)、バイカル(旧新石器時代、Shamanka_ENとLokomotiv_EN)、中央草原(植物、CentralSteppe_EMBA、Okunevo_EMBA)。

さらに、主成分分析(PCA)を用いて、古代日本の個体から大陸集団までのゲノムワイド常染色体親和性を調査した。南アジア・中央アジア、東南・東アジア、シベリアのSGDPデータセットにおける現在の集団の遺伝的変異に古代の個体を投影した(図2Bと図。S4)。

私たちは、古代日本人の個人がPC1に沿ってそれぞれの文化的指定に分離することを観察します。すべての縄文個体は、他の古代の集団だけでなく、現在の東南アジア人や東アジア人から離れて、緊密なクラスターを形成し、持続的な地理的孤立を示唆しています。

2人の弥生個体はこの縄文団群の近くに現れ、(15, 16)に報告されているように縄文との遺伝的および形態学的類似性を支持する。しかし、東アジアの人口へのシフトは、弥生における追加の大陸祖先の存在を意味する。東ユーラシアの古代の個人は、PC2で南から北に地理的なクラインを示しています:中国南部、黄河、中国北部、西遼川、悪魔の門洞窟、アムール川、バイカル。古墳時代の3人は、黄河クラスターの多様性の中に入っています。

ヒト起源配列データセットを用いたAD混合物解析は、縄文期末以降の群島への大陸遺伝子の流入の増加を支持する(図2Cおよびイチジク)。S5およびS6)。

縄文は、弥生の高いレベルでも見える、古墳と日本人のレベルが低下している、はっきりとした祖先成分(図2Cの赤で表される)を持っています。新しい先祖の成分は、アムール川流域とその周辺地域で見られるプロファイルに似た割合で、弥生に現れます。これらには、北東アジア人(水色で表される)で支配的な大きな成分と、より広い東アジアの祖先(黄色で表される)を表す別の小さな成分が含まれます。この東アジアの構成要素は、古墳時代と現代の日本の人口に支配的になります。

縄文系の深い発散

縄文と他の集団との分離(図2)は、以前の研究で提案された東ユーラシア人の間で明確な系統を形成するという考えを支持している(13, 14)。

この発散の深さを探るために、異なる数の混和事象を持つTreeMixを使用して、縄文の系統的な関係を17の古代および現在の集団と再構築しました(図3Aと図。S7) (29).

我々の結果は、縄文が上旧石器時代の東ユーラシア人(天元とサルキット)と古代東南アジアの狩猟採集者(ホアビンヒアン)の初期の発散の後に出現したが、現在の東アジア人を含む他のサンプルの分裂の前に現れたと推測する。

古代ネパール人(チョコパニ)、バイカル(Shamanka_ENとLokomotiv_EN)からの狩猟採集者、そしてプリモリー地方のチェルトヴィ・ボロタ洞窟(悪魔の門洞窟)、 そして更新世アラスカ(USR1)。さらに、fを用いた対称モデルの公式テストを通じて、この木の他の2つの深く発散した狩猟採集系統間の縄文の位置を確認する4(ムブティ、 X;ホアビンヒアン/DevilsCave_N、縄文)(図。S8、A、B)。

これらは、縄文時代の初めから私たちのデータセットのすべての東アジアの個人が以前に発散ホアビンヒアンよりも縄文に対する親和性が高いが、DevilsCave_Nと比較して親和性が低いことを示しています。

これは、縄文がホアビンヒアンと東アジア関連の系統の混合物である以前に提案されたモデルではなく、東ユーラシアの3つの異なる狩猟採集系統の推論された系統をサポートしています[3(縄文;ホアビンヒアン、DevilsCave_N)=0.193、Z = 61.355; テーブル S5] (12, 30)。

また、テストされたすべての移行モデルにわたって縄文から現代の日本人への遺伝子の流れを一貫して推測し、遺伝的貢献は8.9%から11.5%(図。S7)。これは、AD混合物分析から推定される現在の日本人個人における9.31%の平均縄文成分と一致している(図2C)。これらの結果は、縄文の深い相違と現在の日本人の祖先のつながりを示唆している。

図3.縄文系統の人口統計学的歴史

(A) 2回の移行モデルの下で TreeMix によって再構築された最尤系統樹。この木は、古代(太字)と現在の(斜体)集団の間の系統的関係を示しています。色付きの矢印は、移行経路を表します。移行の重みは、移行エッジから派生した祖先の割合を表します。m = 0 からm = 5 までの他のすべての移行モデルは、図に示されています。S7.(B) 中石器時代と新石器時代の狩猟採集者のための ROH スペクトル 8.8-ka-ka-old JpKa6904を含む.ROHの全長は、8.8歳の縄文個体のN(x軸)とT(y軸)の異なる組み合わせの下でのモデルのフィッティングの0.5から100 Mbまでの範囲の異なる均質性断片の異なるサイズに対してプロットされる。バルーンプロットの各点は、ログを表します10-スケールされた近似ベイズ因子(aBF)は、最も高い尤度を持つモデルと他の各モデルの間の尤度を比較します。aBF = 0 の点は、尤度が最も高いモデルです(N = 1000 とT = 20 ka 前)。S10)。NA は、aBF が 0 の尤度のためにモデルの測定不可能であることを意味します。(D) アウトグループfの比較3Fを使用して測定された3つのサブ期間に分けられた縄文データセットの統計結果3(Jomon_Sub期間、X;ムブティ)(イチジチを参照)。拡張分析の場合は S12)。3つのサブピリオドは次のとおりです: 初期縄文 (JpKa6906);初期の縄文(JpFu1、JpOd6、JpOd181、JpOd274、およびJpOd282)中、後期、および最終縄文(F5、F23、IK002、JpHi01、JpKo2、およびJpKo13)のマージされたグループ。

我々は、縄文系統の出現のタイミングを推定するために集団遺伝的モデリングを適用する。

我々のアプローチは、ゲノム全体のホモ接合性(ROHs)の実行のパターンを利用して、最も古く、最も高いカバレッジサンプルであるJpKa6904で観察されたROHスペクトルに最も適した人口統計シナリオを特定します(注S2を参照)。

ROHの分布は、有効な母集団の大きさと、個人内のハプロタイプの2つのコピー間の最新の共通祖先への時間を反映する(31, 32)。8.8歳の縄文はROHの高いレベルを運びます, 特に短いROHの最も高い頻度で (最近の近親交配ではなく人口の影響による) まだ報告されています (図 3B) (33).

このパターンは、縄文個体の間で強い共有遺伝的ドリフトと相まって(fig.S9)は、縄文集団が深刻な人口ボトルネックを受けたことを意味する。

母集団の大きさと分割時間のパラメータ空間を求めて、我々の推定値は、15〜20年前の間に縄文系統の出現を配置し、その後、少なくとも初期縄文期まで、約1000の非常に小さな人口サイズの維持を行う(図3Cと図。S10およびS11)。これは、LGM(34,35)の終わりに海面上昇と本土への陸橋の断絶と一致し、まもなく群島の縄文陶器の最初の出現に先立つ(2).
その後、縄文が血統の発散後に大陸上旧石器時代の人々と接触したかどうか尋ねたが、列島で孤立する前に、統計fを使用して4(ムブティ、 X;縄文、漢/大/日本語(イチジク)S8、C~E)。テストした上旧石器時代の個人のうち、Yana_UPだけが、それぞれ漢、大、または日本語よりも縄文に有意に近い(Z>3.366)。

この親和性は、これらの参照集団を他の東南アジア人および東アジア人(表S6)に置き換えても検出可能であり、縄文と古代北シベリア人の祖先間の遺伝子流れを支える、LGM(19)以前の北ユーラシアで広く普及している集団である。

最後に縄文集団内の時間的および空間的変動の可能性を調べた。

縄文期の初期、早期、中期期段階の段階で定義される3つの時間群は、古代および現在の大陸集団との遺伝的ドリフトの同様のレベルを示し、これらのサブ期間にわたって群島の外からの遺伝的影響をほとんどまたは全く意味しない(図.3Dおよび図。S12)。

このパターンは、さらに、任意の重要な遺伝子の流れの欠如によってバックアップされ、統計fで観察4(ムブティ、X;sub_Jomon私、sub_Jomonj)、iとjは3つの縄文群の任意のペア(図。S13)。

これらの縄文個体は、同様に、地理(すなわち、サンプルが配置されている異なる島:本州、四国、礼文島)によってグループ化された場合、大陸集団に対する遺伝的親和性の多様性を示さない(図。S14)。

縄文個体の中で観察可能な唯一の違いは、本州に位置する部位間の親和性がやや高く、本州と他の島々の間の遺伝子流れが制限されたインシュラー効果を意味する(図示.S15)。全体として、これらの結果は縄文集団内の限られた空間的および一時的な遺伝的変異を示し、何千年もの間、アジアの他の地域からほぼ完全に孤立するという考えを支持している。
弥生時代の水田稲作の分散

弥生文化に関連した群島の南西部の2人(図1)(15)は縄文と大陸の祖先の両方を持つことがわかった(図2)。

我々のqpAdm分析は、縄文系統の一部としてこれら2人をグループ化する形態学的評価とは対照的に、弥生が縄文の非混合子孫であるモデル(P = 0.00003)を拒絶した(16)。

縄文の祖先の成分は、群島に稲作を持ち込んだ人々によって導入された可能性があります。

私たちは、最初に、古代東ユーラシアの集団が、fを使用して縄文よりも弥生に対する遺伝的親和性が高いかどうかをテストしました4(ムブティ、 X;縄文、弥生)(図4Aと図。S16)。

大陸のサンプリングされた古代の集団のほとんどは、養殖が最初に長江渓谷(すなわち、湿米の架空の起源)から広がった黄河流域(20)からの集団を含む弥生に有意な親和性を示さない(36)。

しかし、養殖と文化的関係のない集団(Z>3.0)では、中国東北部の西遼川流域(WLR_BA_oとHMMH_MN)、バイカル(Lokomotive_EN、Shamanka_EN、UstBelaya_EBA)、北東シベリア(Ekven_IA)などで、弥生に対する過剰な親和性が検出された。

この親和性は、2人の個人(WLR_BA;では観察できません。Z = 1.493) 他の青銅器時代西遼川個人(WLR_BA_o)と同じ考古学的遺跡から来た人(20).この2人は、WLR_BA_o(1.8±9.1%)(20)よりもイエローリバー関連の祖先(81.4±6.7%)がはるかに高く、これは、テストされた古代黄河の個体数が弥生が運ぶ非縄文祖先の主要な源である可能性は低いことを意味します。

図4.弥生時代の遺伝的変化

(A)fからの結果を強調する地図4(ムブティ、 X;縄文、弥生);縄文よりも弥生に近い大陸古代集団(Z>3.0)は赤い三角形で表され、両方の集団と対称的に関連している人は灰色の円で表されます。(B) 縄文と、西遼川(WLR_BA_o又はHMMH_MN)またはバイカル狩猟採集者(Lokomotiv_EN)の青銅器時代又は中新石器時代の個人の二元的混和をモデル化した弥生の遺伝的祖先。垂直バーは、qpAdm によって推定される ±1 SE を表します。混合比率の値を表 S7 に示します。(C) 弥生と縄文の地理的位置との間の遺伝的ドリフトの相互関係弥生部位からの球面距離は、ハバーシン式(93)で測定される。地図は、赤い矢印と異なる色の円で縄文のサイトで弥生の考古学的遺跡をマークします。

これら6つの大陸祖先の潜在的な源をさらに見分けるために、我々は縄文の双方向混合物として弥生をモデル化し、それぞれをqpWave(表S7)を用いてモデル化した。混合モデルは自信を持ってサポートされていました(P > 0.05) これらの 3 つ: バイカル狩猟採集者とアムール川の祖先の高レベルを持つ西遼中新石器時代または青銅器時代の個人 (20).これらのグループはすべて、支配的な北東アジアの祖先成分を共有しています(図2Cと図。S17) (20).55.0の混合分率±10.1%、 50.6±8.8%、または58.4±縄文入力の7.6%は、これら3つそれぞれがそれぞれ第2のソースとして使用されたときにqpAdmによって推定され(図4Bおよび表S7)、西遼中新石器時代の個人が単一の源泉(S7)に合併されたときに61.3±7.4%の割合が返された。

我々は、fによってさらに確認する4(ムブティ、縄文;Yayoi_1、Yayoi_2)縄文の祖先のレベルは、これら2人の弥生個体(Z=1.309)の間で同等である。

これらの結果は、この北西部九州の地域に関連する弥生コミュニティへの先住民の狩猟採集者と移民の貢献の比率がほぼ等しいことを意味します。

このパリティは、ユーラシアの地理的極端な日本を反映したイギリスとアイルランドの群島(37-40)を含む多くの地域で最小限の狩猟採集者の貢献が観察されている西ユーラシアの農業移住と比較すると特に顕著です。

私たちの混和モデルで使用される西遼の人口は、自ら稲作を実践しませんでしたが、日本に広がる農業の架空のルートのすぐ北に位置しており、その結果は重みを与えています。
山東半島(中国東北部)に続いて遼東半島(朝鮮半島北西部)に入り、朝鮮半島を経由して列島に到達する(41)。

さらに、弥生文化が群島に広がった様子を、グループ外で調べた。3弥生と縄文の各人との間の遺伝的親和性を測定した統計我々は、共有遺伝的ドリフトの強さは、弥生個体の位置(P = 0.00697)からの距離と有意な相関関係を有することを発見した。図4C);縄文遺跡が弥生遺跡に近づくほど、縄文の個体は弥生と遺伝的なドリフトを共有する。この結果は、朝鮮半島(41,42)を介した米の導入を支援し、続いて列島南部の縄文群と混和した。

古墳時代の移民の遺伝的祖先

歴史的記録は、古墳時代の大陸から群島への継続的な人口移動を強力に支援する(1)。

しかし、3人の古墳個体のqpWaveモデリングは、弥生個体(P<0.05;表S8)に適合した縄文と北東アジアの祖先の双方向混和を拒絶した。

したがって、古墳は、私たちのアウトグループfからサポートされているように、その祖先の構成要素の面で弥生とは遺伝的に異なっています3、PCA、およびAD混合物クラスタ(図2)、および以前の形態学的研究(43,44)からも。

古墳個体の遺伝的構成に寄与した追加の祖先群を同定するために、我々は、fを用いて、古墳と各大陸集団との間の遺伝的親和性を試験した。4(ムブティ、 X;弥生、古墳)(図5Aと図。S18)。私たちのデータセットの古代または現代の人口のほとんどは、弥生よりも古墳にかなり近いことがわかります。この知見は、ゲノムをこれら2つの期間から分離する6世紀の間に群島への追加の移動を意味する。

図5.古墳時代の遺伝的変化

(A)fからの結果を強調する地図4(ムブティ、 X;弥生、古墳);Zスコアが>3.0の弥生よりも古墳にかなり近い大陸の古代と現在の集団は赤い三角形で表され、両方の集団に対称的に関連するものは灰色の円で表されます。テストされた人口は、年齢に応じて、上石器時代(紀元前16,000年 >)、縄文(紀元前16,000年から3000年まで)、ポスト縄文(紀元前3000年から現在まで)、そして現在の4つの異なる期間に分かれています。現在のパネルでは、青い三角形で漢が強調表示されます。(B) 縄文・北東アジア(WLR_BA_o・HMMH_MN)・漢の三者混合をモデル化した古墳個体の遺伝的祖先垂直バーは、qpAdm によって推定される ±1 SE を表します。混合比率の値は、表S10に示されている。

我々は、弥生の双方向混和と我々のfから同定された集団の適合をテストすることによって、この移行の原因を狭めようとした4Kofun に著しく近い統計 (表 S9)

この混合モデルは、テストされた59個の集団のうち5人に対してP>0.05で確実にサポートされていました。

次に、qpAdmを適用して、弥生とこれらの各ソースからの遺伝的貢献を順番に定量化しました(表S9)。

双方向の混合モデルは、異なる参照セットからのサポートの欠如のために、その後、追加の 2 つの集団で拒否されました。

残りの3つの人口(漢、韓国、YR_LBIA)は、古墳(図示)への20〜30%の貢献を示しています。S19)。これらの3つはすべて強い遺伝的ドリフトを共有しています(図の緑色の正方形で強調されています。

S17)は、そのAD混合物プロファイルにおける広く東アジアの祖先の主要な構成要素を特徴とする(図示。S6)。古墳個体のさらなる祖先の源を更に選別するために、弥生の祖先を縄文と北東アジアの祖先に置き換えて三者混合をテストしました(表S10)。

漢だけが、モデル内の祖先の源としてうまくモデル化された(図5B)、可能な双方向混合モデル(表S11)よりも三方向混合の適合性が著しく優れている。

縄文の祖先がサンプリングされた弥生と古墳の集団の間で約4倍希釈されていることを考えると、これらの結果は、国家形成段階が東アジアの祖先を持つ移民の大量流入を見たことを示唆している。

次に、弥生と古墳時代の両方で観測された大陸祖先が、北東と東アジアの祖先の中間レベルを有する同じ源源に由来する可能性を探る(表S12)。

黄河流域(YR_LBIA)(20)の青銅器時代後期と鉄器時代の個体の人口であるKofunの双方向混合物に合わせる候補は1人しか見つからなかった(20)、これは参照セット(ネスト、P = 0.100;表S13)全体で一貫していなかった。

縄文(Z=2.487)の排除に弥生との統計的に有意な遺伝子の流れを示さないにも関わらず(図4A及び図一覧)。S16)、YR_LBIAと縄文の双方向モデルも弥生に合うことがわかります(表S14)。

この黄河の集団は、qpAdmによって推定されるように、約40%の北東アジアおよび60%の東アジア(すなわち、漢)祖先を有する中間遺伝的プロフィールを有する。

したがって、これは、これらの集団の37.4±1.9%および87.5±0.8%の入力を持つ、特定のモデルで弥生と古墳の両方に適合する中間遺伝的プロファイルである(表S14)。これらの結果は、単一の源からの連続的な遺伝子の流れが弥生と古墳の間の遺伝的変化を説明するのに十分かもしれないことを示唆している。

しかし、我々のより広範な分析は、単一の遺伝子流源が2つの異なる移動の波よりも可能性が低いことを強く示唆している。

まず、AD混合物で同定された北東アジアと東アジアの祖先の比率は、弥生(1.9:1)と古墳(1:2.5)の間で全く異なっていた(図2C)。

第二に、大陸親和性におけるこのコントラストは、異なる形態のf統計でも観察可能であり、北東アジアの祖先との間に有意な親和性を有する弥生の繰り返しパターンがある(図4A及び図同図)。S16)、古墳個体は漢や古代黄河の集団を含む他の東アジア人と緊密なクラスターを形成している間(図5Aとイチジク)。S17およびS18)。

最後に、私たちは、日付によって古墳個体の混合物の年代測定から2パルスモデルのサポートを見つける(fig.S20) (45).中間集団(すなわち、YR_LBIA)を伴う単一の混和事象は、現在(B.P.)の213年前に1840±発生したと推定され、これは弥生期(〜3カ前)の発症よりはるかに遅い。

対照的に、2つの異なるソースを持つ2つの別々の混和イベントが想定される場合、結果として得られる推定値は、縄文と北東アジアの祖先の間の混合物のための八世と古墳時代(紀元前825年±3448±、縄モンと東アジアの祖先の175年 ±の紀元前175年と一致するタイミングに合理的に適合します。S20)。これらの遺伝的知見は、考古学的証拠と歴史的記録の両方によってさらに支持されており、期間中に大陸から新しい人々が到着したことを記録しています(1)。

現在の日本語における古墳の遺伝的遺産

3人の古墳は、図2に示すように、現在の日本人と遺伝的に類似している。これは、古墳時代以降の日本の集団の遺伝的構成に大きな変化がないことを意味します。現在の日本のサンプルで追加の遺伝的祖先のシグナルを探すために、我々は大陸集団がfを用いて古墳に対して現代のゲノムに対して優遇関係があるかどうかをテストした。

4(ムブティ、 X;古墳、日本語)(イチジク。S21)。古代の集団の中には、日本よりも古墳に対する親和性が高いものもあるが、こがんに存在する祖先の追加の源泉としてqpAdmによって支持される者はいない(注S3および表S15を参照)。

予想外に、古代や現代の人口は、古墳の排除に現在の日本人と追加の遺伝子の流れを示していません。我々の混合モデリングは、現在の日本人集団が縄文や弥生の祖先を増やさず、また現在の東南アジア人や東アジア人、シベリア人に代表される祖先を導入することなく、Kofunの祖先によって十分に説明されていることをさらに確認する(表S16)。

また、現代の日本人の人口は、古墳個体(表S17)の三者混合と同じ先祖の成分を持ち、古墳個体(図示)と比較して、現代の日本人における東アジアの祖先のレベルがわずかに増加していることも分かる。S22)。

これは、遺伝的連続性の一定のレベルを示唆していますが、絶対的ではありません。古墳と現代日本人の集団との間の連続性の厳密なモデル(すなわち、古墳系統に特有の遺伝的ドリフトがない)は拒絶される(表S18)(46)。

しかし、我々は、日本の人口(15.0±3.8%)の縄文祖先の希薄化は、古墳個体(13.1±3.5%)に比べて(図示.S22)、前の弥生及び古墳時代とは対照的に、大陸移動により縄文の祖先が著しく減少した(図4及び5)。「混和しない」モデルを用いて、小船と日本人の間の遺伝的なcladalityを「混和しない」モデルでテストしたところ、古墳が日本人とのクレードを形成していることがわかった(P=0.769)。

これらの結果は、状態形成期間によって確立された3つの主要な祖先成分の遺伝的プロファイルが、歯科および非メートル頭蓋形質(47,48)からも支持されるように、現在の日本の集団の基礎となっていることを示唆している。

議論

我々のデータは、現在の日本人集団の三祖先構造の証拠を提供する(図6)、縄文と弥生起源の確立された二元構造モデルを改良する(5)。

縄文は、現代日本人の中でユニークな遺伝的要素の根底にあるLGMに続いて、日本列島内の長期的な孤立と強い遺伝的ドリフトのために独自の遺伝的変異を蓄積しました。

弥生時代は、少なくとも2.3カ前から始まるアジア本土からの実質的な人口移住で、この孤立の終わりを告げています。

しかし、その後の日本の前産原始史の農業と国家形成段階の間に群島に到着した人々のグループ間には明確な遺伝的区別があります。弥生の人の遺伝データは、古墳の東アジアの祖先を広範囲に観察しながら、形態学的研究(5,49)から支持された群島における北東アジアの祖先の存在を記録しています。縄文、弥生、古墳の各文化を特徴づける先祖は、今日の日本の人口形成に大きく貢献しました。

図6.ゲノムは、先史時代と原始の日本における文化的転換と並行して移行する。

縄文は、日本列島における強い遺伝的ドリフトと長期的な孤立のために非常にユニークな遺伝的プロフィールを持っていました。米の栽培は、弥生時代に北東アジアの祖先(WLR_BA_oとHMMH_MNに代表される)を持つ人々によってもたらされました。移住のさらなる波は、古墳時代に列島に広範囲にわたる東アジアの祖先(漢に代表される)をもたらしました。それ以来、この三者の祖先構造は、群島で維持され、近代日本人の遺伝的基盤となっています。

縄文の祖先は、東南アジアで、他の古代・現代の東アジア人(12~14)との深い相違をもとに生まれたものと提案されている。この発散のタイミングは、以前は18〜38カ前(14)の間であると推定されていました。

8.8歳の縄文個人のROHプロファイルによるモデリングは、この日付を20〜15年前の範囲内の下限に絞り込みます(図3)。

日本列島はLGM(28年前)(34)の初めに朝鮮半島を通じてアクセス可能になり、大陸と群島の間の人口移動を可能にしました。その後の海面上昇による韓国海峡17~16カ前の拡大は、縄文系の他の大陸からの孤立につながり、縄文陶器生産の最も古い証拠とも一致している可能性がある(2)また、縄文が初期縄文期間中に1000人の有効母集団規模を小さく保ち、その後の期間や群島の異なる島々でのゲノムプロファイルの変化をほとんど観察していないことも示しています。

農業の普及は、多くの地域で観察された狩猟採集者の人口からの最小限の貢献で、ヨーロッパの大部分で新石器時代の移行に記載されているように、人口の置換によってしばしばマークされます(37–40)。

しかし、先史時代の日本の農業移行が、九州の先住民縄文と新しい移民からの遺伝的貢献にほぼ等しい、置換ではなく同化の過程を伴っているという遺伝的証拠を見つける(図4)。

これは、少なくとも群島の一部が弥生時代の初めに農業移民に匹敵する大きさの縄文集団を支持したことを意味し、一部の縄文コミュニティ(50-53)が実践する高い座りっぱなしの度合いに反映されている。

弥生によって継承された大陸成分は、アムール川の祖先の高いレベル(すなわち、WRL_BA_oとHMMH_MN)の西遼川流域の中新石器時代と青銅器時代の個人によって私たちのデータセットで最もよく表されます(20)。

この地域からの集団は、時間と空間において遺伝的に異質である(20)。中新石器時代の移行(すなわち、6.5〜3.5カ前)は、イエローリバーの祖先が25%から92%に増加したが、アムール川の祖先が時間の経過とともに75%から8%に減少し、キビ養殖の激化に関連することが特徴である(20)。

しかし、アムール川流域からの人々の明らかな流入により、約3.5カ前に始まった青銅器時代に再び人口構造が変化します(fig.S17) (20).

これは、トランユーラシア語と中新言語サブグループ(54)の間で集中的な言語借用の始まりと一致する。弥生に対する過剰な親和性は、遺伝的に古代アムール川の集団や現在のタンギシック語圏集団に近い個体(図4と図)で観察可能である。S17)。

我々の知見は、米農業の広がりは西遼川流域の南に始まったが、遼東半島のどこかに住んでいたが、さらに北の人口から祖先の主要な構成要素を導き出す人々によって群島に湿った稲作が導入されたことを意味する(55)。

古墳文化の最も顕著な考古学的特徴は、エリートを鍵穴型のマウンドに埋葬する習慣であり、その大きさは階層的な階級と政治的権力を反映している(1)。

この研究で配列された3人のKofun個体は、それらの騒動(注S1を参照)に埋葬されておらず、彼らが下位の人々であることを示唆している。

彼らのゲノムは、東アジアの祖先が多い人々の日本への到着と弥生集団との混和を記録している(図5と図。S17)。この追加の祖先は、複数の祖先成分を持つハンによって分析されるのが最も良い。最近の研究では、新石器時代以降に大陸で形態学的に均質になった人々(56)は、古墳時代の移民がすでに非常に混合されていたことを意味すると報告されています。

数行の考古学的証拠は、弥生小船移行中に朝鮮半島南部から日本に新たな大規模集落が導入されたのを裏付けている。

日本、韓国、中国の間の強い文化的、政治的親和性は、中国の鏡や硬貨、鉄生産用の韓国の原料(1)、金属器具に刻まれた漢字(例えば剣)(57)など、いくつかの輸入品からも観察可能である。

海外からのこれらの資源へのアクセスは、群島内のコミュニティ間で集中的な競争をもたらしました。これにより、黄色海沿岸などの大陸の政治との政治的接触が促進され、支配のために(1)。

したがって、コファン時代を通じて、継続的な移動と大陸への影響が明らかになっています。我々の知見は、この状態形成段階における新しい社会的、文化的、政治的特徴の出現に関与する遺伝的交流を強く支持する。

この分析には注意点があります。

第1に、弥生文化に関連する骨格遺跡が縄文(16)と形態的に類似している地域の後期弥生個体は2人に限られている。他の地域や他の時点からの弥生個体は、異なる祖先プロファイルを有し得る,例えば大陸様または古墳様祖先。

第二に、私たちのサンプリングは、同じ埋葬地から来た3人のKofun個人の場合と同様に、ランダムではありません(表S1)。弥生と古墳集団の遺伝的祖先の時間的および地域的な変動を追跡し、ここで提案された日本の集団の三者構造の包括的な見解を提供するために、追加の古代ゲノムデータが必要となる。

要約すると、我々の研究は、農業と技術主導の人口移動が大陸の残りの部分から何千年もの孤立を終えた前後の、日本列島に住んでいた人々のゲノムプロファイルの変化を詳細に見ています。これらの孤立した地域からの個体に対する古代のゲノミクスは、主要な文化的転換がヒト集団の遺伝的構成に及ぼす影響の大きさを観察するユニークな機会を提供する。』

〔葉隠〕

葉隠
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%89%E9%9A%A0

 ※『毎朝毎夕、改めては死に改めては死に 、常住死身に成て居る時は、武道に自由を得、一生落度なく、家職を仕課すべき也。』

『二つ 二つ の場にて、早く死ぬ方に片付ばかり也。別に子細なし。』

という、「凄まじい」ものだ…。

※ 昔のサムライは、こうやって「胆力」を鍛えたものなんだろう…。

『内容

『葉隠』は一般の武士を対象にした武士道論ではなく、藩主に仕える者の心構えと佐賀藩の歴史や習慣に関する知識を集めたものであった[1]。江戸時代には公開が憚られ、一部の人々にしか知られていなかった[1]。

「朝毎に懈怠なく死して置くべし(聞書第11)」とするなど、常に己の生死にかかわらず、正しい決断をせよと説いた。後述の「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の文言は有名である。同時代に著された大道寺友山『武道初心集』とも共通するところが多い。』

『当時、主流であった山鹿素行(古学、山鹿流とも称す)などが提唱していた儒学的武士道を「上方風のつけあがりたる武士道」と批判しており、忠義は山鹿の説くように「これは忠である」と分析できるようなものではなく、行動の中に忠義が含まれているべきで、行動しているときには「死ぐるい(無我夢中)」であるべきだと説いている。

赤穂事件についても、主君・浅野長矩の切腹後、すぐに仇討ちしなかったことと、浪士達が吉良義央を討ったあと、すぐに切腹しなかったことを落ち度と批判している。何故なら、すぐに行動を起こさなければ、吉良義央が病死してしまい、仇を討つ機会が無くなる恐れがあるからである。その上で、「上方衆は知恵はあるため、人から褒められるやり方は上手だけれど、長崎喧嘩のように無分別に相手に突っかかることはできないのである」と評している。』

『この考え方は主流の武士道とは大きく離れたものであったので、藩内でも禁書の扱いをうけたが(鍋島綱茂は吉良義央の甥、吉茂・宗茂は義甥にあたる。

また、山鹿流は吉良氏と昵懇だった津軽・松浦両家に伝承された[3])、徐々に藩士に対する教育の柱として重要視されるようになり、「鍋島論語」とも呼ばれた。それ故に、佐賀藩の朱子学者・古賀穀堂は、佐賀藩士の学問の不熱心ぶりを「葉隠一巻にて今日のこと随分事たるよう」と批判し、同じく佐賀藩出身の大隈重信も古い世を代表する考え方だと批判している。

また「葉隠」は巻頭に、この全11巻は火中にすべしと述べていることもあり、江戸期にあっては長く密伝の扱いで、覚えれば火に投じて燃やしてしまう気概と覚悟が肝要とされていたといわれる。

そのため原本はすでになく、現在はその写本(孝白本、小山本、中野本、五常本など)により読むことが可能になったものである。

これは、山本常朝が6、7年の年月を経て座談したものを、田代陣基が綴って完成したものといわれ、あくまでも口伝による秘伝であったため、覚えたら火中にくべて燃やすよう記されていたことによる。2人の初対面は宝永7(1710年)、常朝52歳、陣基33歳のことという。

浮世から何里あらうか山桜 常朝  白雲やただ今花に尋ね合ひ 陣基 』

『「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」

『葉隠』の記述の中で特に有名な一節であるが、『葉隠』の全体を理解せず、ただとある目的のためには死を厭わないとすることを武士道精神と解釈されてしまっている事が多い。実際、太平洋戦争中の特攻、玉砕や自決時にこの言葉が使われた事実もあり、現在もこのような解釈をされるケースが多い。[要出典]

しかしながら、そのような解釈は全くの見当違いである。「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」で始まる一節は、以下のようなものである[4]。

原文

二つ々の場にて、早く死ぬ方に片付ばかり也。別に子細なし。胸すわつて進む也。(中略)

二つ々の場にて、図に当たるやうにする事は及ばざる事也。我人、生る方がすき也。多分すきの方に理が付べし。

若図に迦れて生たらば、腰ぬけ也。

此境危ふき也。図に迦れて死たらば、気違にて恥にはならず、是は武道の丈夫也。

毎朝毎夕、改めては死々、常住死身に成て居る時は、武道に自由を得、一生落度なく、家職を仕課すべき也。

(現代語訳)

どちらにしようかという場面では、早く死ぬ方を選ぶしかない。何も考えず、腹を据えて進み出るのだ。(中略)そのような場で、図に当たるように行動することは難しいことだ。

私も含めて人間は、生きる方が好きだ。おそらく好きな方に理由がつくだろう。(しかし)図にはずれて生き延びたら腰抜けである。この境界が危ないのだ。

図にはずれて死んでも、それは気違だというだけで、恥にはならない。これが武道の根幹である。

毎朝毎夕、いつも死ぬつもりで行動し、いつも死身になっていれば、武道に自由を得、一生落度なく家職をまっとうすることができるのである。

『葉隠』は武士達に死を要求しているのではなく、武士として恥をかかずに生きて抜くために、死ぬ覚悟が不可欠と主張しているのであり、あくまでも武士の教訓(心構え)を説いたものであった[4]。』

渡来人は四国に多かった? ゲノムが明かす日本人ルーツ

渡来人は四国に多かった? ゲノムが明かす日本人ルーツ
日経サイエンス
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC18CCA0Y1A610C2000000/

 ※ こういう「サイエンス・データ」に反する従来からの「文献による言説」は、全く意味をなさなくなった…。

 ※ 「学問の進化」とは、そういうものだ…。

 ※ ただ、「50人」じゃ、ちょっと少ないな…。

 ※ まあ、大まかな「傾向」を探る…、程度のものだろう…。

『私たち日本人は、縄文人の子孫が大陸から来た渡来人と混血することで生まれた。現代人のゲノム(全遺伝情報)を解析したところ、47都道府県で縄文人由来と渡来人由来のゲノム比率が異なることがわかった。弥生時代に起こった混血の痕跡は今も残っているようだ。』

『東京大学の大橋順教授らは、ヤフーが2020年まで実施していた遺伝子検査サービスに集まったデータのうち、許諾の得られたものを解析した。1都道府県あたり50人のデータを解析したところ、沖縄県で縄文人由来のゲノム成分比率が非常に高く、逆に渡来人由来のゲノム成分が最も高かったのは滋賀県だった。沖縄県の次に縄文人由来のゲノム成分が高かったのは九州や東北だ。一方、渡来人由来のゲノム成分が高かったのは近畿と北陸、四国だった。特に四国は島全体で渡来人由来の比率が高い。なお、北海道は今回のデータにアイヌの人々が含まれておらず、関東の各県と近い比率だった。』

『近年の遺伝学や考古学の成果から、縄文人の子孫と渡来人の混血は数百~1000年ほどかけてゆっくりと進んだとみられている。弥生時代を通じて縄文人と渡来人が長い期間共存していたことが愛知県の遺跡の調査などで判明している。どのような過程で混血が進んだのかはまだ不明で、弥生時代の謎は深まる一方だ。今回の解析で見えた現代の日本列島に残る都道府県ごとの違いは、弥生時代の混血の過程で起こったまだ誰も知らない出来事を反映している可能性がある。書物にも残されていない日本人の歴史の序章は、ほかならぬ私たち自身のゲノムに刻まれているのだ。

(日経サイエンス編集部 出村政彬)

詳細は6月24日発売の日経サイエンス8月号に掲載』

英紙大嘗祭記事「不正確」と反論 政府、平成代替わり時 外交文書を公開

https://www.nikkei.com/article/DGXZQODE22B6W0S0A221C2000000

『23日公開の外交文書には、昭和から平成の代替わり時の大嘗祭に関する、英タイムズ紙報道への反論も含まれていた。「天皇が(皇祖神とされる)アマテラスと横たわる」といった表現は不正確だとして、誤解を正す内容。現行憲法下で初めて行われ、政教分離の観点から議論を呼んだ大嘗祭を巡り、政府が神経を使っていた様子が伝わってくる。

 皇居・東御苑で行われた「大嘗祭」(1990年11月)=共同
記事は1990年11月10日付の「過去の儀式が、21世紀の天皇を導く」。皇室の祭祀を担う掌典職のトップ、掌典長の話として「大嘗祭では、天皇が神々と酒を交わし、暗闇でアマテラスと横たわる」などと書かれている。当時、東京勤務だった記者が執筆した。

これに対し、政府は駐英大使宛ての文書で「記事は誤った引用や不正確な記述が極めて多い。反論の書簡をタイムズ紙の編集部に手渡してほしい」などと求めた。

反論の書簡には、「大嘗祭の儀式について『天皇は暗闇の中、アマテラスとともに横たわる』とあるが、根拠のない説だ。日本の憲法下で、この儀式が天皇の神格化につながることはありえない」と強調している。

平成の大嘗祭は、皇室の伝統行事として実施された。公的な性格を持つとして国費が使われ、違憲訴訟が相次いだ。いずれも原告側の敗訴となったが、95年の大阪高裁判決は、政教分離規定に違反することへの「疑いは否定できない」とした。〔共同〕』

うるさいのがキライな日本人 ― めんどくさい日本②

https://comemo.nikkei.com/n/n6f7fdc44798d

『“オレのときはこうだった”と上司に説教されるのがうるさい。同僚が酒を誘ってくるのがうるさい。満員電車の隣に立ってスマホゲームをしている若者がうるさい。おじいさんおばあさんがスポーツクラブの施設を占拠してうるさい。家に帰ったら親に質問攻めされるのがうるさい。デパートのエレベーターに乗ったら中国人観光客の集団がいて、大音響につつまれてうるさい。日本人は「うるさい」がきらい。煩いは煩(わずら)わしいとも読むが、煩(うるさ)いとも読む。うるさいはめんどくさい、わずらわしいとつながる。「煩(うるさ)い」も日本人を理解するキーワード。

煩(うるさ)いとはなに?
①音が大きい
外国人、とりわけ中国人は日本に来られると、駅から商業施設から街の静寂ぶりにびっくりする。こんなに人が多いのに、どうして静かなんだろうと感じるという。日本人の印象は「物静か」。本当は日本人は静かが好きなのではなく、「うるさい」のがキライなだけ。外国人の日本人解釈は、「内向的で自信がないから無口」と映る。中国人は日本の街なかを大きな声で喋りながら歩くが、日本人の声は殆どきこえない。日本人からすると、中国人は“うるさい”と感じる。しかし中国人からすれば、日本人は“暗いなぁ”と感じる。中国人は日本人のいう“うるさい”という状態を悪いとは思っていない。“普通”だと思っている。東南アジアに行っても同じく“うるさい”。街は喧騒に包まれている。この「うるさい」が日本人と外国人を分けるコンセプトのひとつである。音が大きいことを嫌がる、うるさいというのが日本人の特徴。
②ひつこい
“何回も何回もうるさいなぁ” ねぇねぇお父さん…と声をかけられると“うるさいなぁ”と感じる。ひつこい状態が“うるさい”。日本人はひつこいことを嫌がるのに対して、欧米人は相手がわかるまで何度でも言う。日本人は「推して知るべし」であり、“推し量ればわかるはずだ、なんども言わせないでよ、うるさいことを言わないで”であり、ひつこいことを嫌う。なぜなのか ― 理由はなにか。“日本人だから”としか言いようがない。ハエがうるさい〔五月蠅い〕、 お母さんがうるさい、何度も何度も言ってくるからうるさいな、わかっているよ ― とにかく日本人はうるさいのがキライ。
③いちいち文句を言う
小さいことにいちいち文句をつける。そんなこと、どうでもいいんとちがう?うるさいヤツだなぁ…の「うるさい」
④手間がかかって、やっかい
髪の毛が目にかかってうるさい。役所の手続きがうるさくて…、手間がかかってめんどくさい。
⑤高い要求水準、こだわり、見識
あの人は味にうるさい。うるさいというのは「要求水準」が高いこと
このように「うるさい」のバリエーションがある。この「うるさい」を英語にあてはめると、別々の英語となる。イザナギ・イザナミ時代のイザナギは黄泉(よみ)がえりしたときに、「煩い」を脱ぎ捨てた時の「煩い=うるさい」こそが日本人の根源的な特性であり、世界にはない(前回書いた、日本の「患者」と英語の「patient」に見られる病気への考え方の違いにもつながる)。さらに外国人の声が大きいのは、大きく言わないと伝わらないから大きな声を出しているのであって、みんなが大きな声を出すから全体として音が大きくなるのは当たり前。ひつこくないと引き下がる(=負ける)ことになるから、伝わるまで、分かってもらうまで何度も何度も言う。日本人は何度もいわれると、うるさいと思う。

前回、古事記の話で、煩(わざわ)いは外からまとわりついて、体に棲(す)みついてくるので、禊(みそぎ)によって脱ぎ捨てた服から煩(わざわ)いの神がうまれたことに触れた。神は今もなお日本人の身の回りにいて、何かあると外からまとわりついてくる、外患として取り憑(つ)く。とにかく日本人はうるさい事柄を嫌がる。手間がかかることを外国人が嫌がるのは「合理的ではない」からであって、日本人はただ「うるさい」から嫌がる、めんどくさいなぁ、うるさいなぁと。外国人はそうではない、必要な事だったら、細かいことだってやる。日本人はうるさいというだけで、嫌がる、拒否する。“それは無理”と、詳しく調べも聴かずに受け入れない。

「うるさい」事柄がどんどん増えつづけている。なぜ増えているかというと、外からやってくる「うるさいこと」が増えているのではなく、自分の側から“これ、うるさい、めんどくさい” “これ、無理、イヤ”といって、「うるさい」を増やしている。

近くの保育所で遊ぶ子供の声がうるさい。
新しくできた保育所ではなく、その保育所は昔からあって昔と同じように子どもは遊んでいるのに、うるさいという。このように、そもそもあったことでさえ、うるさいといいだした。自分からどんどんうるさいものを見つけ出し、それを脱ぎ捨てよう、切り捨てようとする。自分にまとわりつく「煩(わずら)い」として、どこからか「煩(うるさ)い」ものをみつけだして、拒否する。

近所の「うるさい」おやじが減った。
昔、“ここでこれしたらあかん、こうせなあかん”と言う口やかましいおやじがいたものだが、近所、街のなかの「うるさい」おやじをみんなが「うるさい」と言って排除していったから、いなくなった。しかも排除するだけでなく、社会システムのプロセスを複雑化させた。昔の社会プロセス、人と人との関係・手順はもっと単純であったが、「うるさい」のボルテージがあがり、いろいろな事柄の手順を複雑にさせた。うるさいことを言う人が増えれば増えるほど、マニュアルが分厚くなる。こういう時はこうする、そんな時はこうすると、めんどうである。やはり、めんどうな日本である。

画像1

人はそもそもめんどくさいし、うるさい。
そのうるさい人がだれかと関わらざるを得ない。それが「煩(わざわ)い」となる。人と人との関係がめんどくさくなるという煩(わざわ)い。あなたが「うるさい」と思っているが、相手からすればあなたが「うるさい」と思う。このように、社会はめんどくさい。

太古の昔から人は社会を形成するにあたって、うるささにどのように対処するかの知恵をしぼった。それが社会のルールとなり、モラルとなった。社会に暗黙のコードがあった。うるさいものに対して、何らかのルールなり暗黙のコードで、「うるさいもの」と調和・バランスさせる社会をつくってきた。だから赤ちゃんが電車の中で泣いたって、“まぁ、赤ちゃんは泣くものだ”と、みんな、うるささに対応していた。それが今の社会では、対応できなくなっている。“めんどくさいなぁ、うるさいなぁ”と、赤ちゃんをあやす親に文句をいう。ちょっと前まであったルール・暗黙のコードが現代社会で通じにくくなりつつある。「暗号表」が共有できなくなり、「うるさい」が増えつづけている。』

めんどくさい日本①

https://comemo.nikkei.com/n/n403616283037

『“いちいちめんどくさい、ああめんどくさい、なんかめんどくさいな”―テレビでも学校生活でも会社でも毎日飛びかう。なんでもかんでも、めんどくさい。最近とみに、この“めんどくさい”が増えている。日本人はとかく“めんどくさい”ことがキライ。実はめんどくさいは“日本社会・文化とはなにか”を考える極めて大切なキーワード。

“めんどくさい”に込めている意味は人それぞれちがっている。ニュアンス言葉である。もともとの意味から変形して、人によって、様々な「めんどくさい」が使われる。しかしめんどくさいには、体裁が悪い、厄介だ、うるさい、わずらわしい…といろいろな意味があるが、日本古来より使われる「わずらわしい」がベースにあると考えられる。その「わずらわしい」とはなにか。

病気になることを「患(わずら)い」という。罹患・患病・患者と、病には「患」という漢字があてられる。日本語の「患者」は、病気を患うこと。患いが普通の状態(健康体)にまとわりついて病となる。だから自らにまとわりついた患(わずら)い=病を振り払うのが日本人。英語では患者のことをペイシェント(patient)といい、耐えるという意味となる。英語圏の患者は、病気に耐える、耐えてじっと待つ、耐えて忍ぶのに対して、日本語圏の「患者」は自分の意志で、患(わずら)い=病を振り払おうとする。わずらいは振り払えるものだと考える。このように病気に対する英語圏の人と日本人とでは考え方が大きく違っている。だから本来医療の考え方は日本と西洋とはちがっていた。ではこの「わずらい」はどこから生まれたのか。実は古事記に登場する。

古事記と日本書記に、「男神イザナギ・女神イザナミ」の夫婦神が登場する。夫婦神は国づくりをおこなうが、女神イザナミが大火傷を負って死ぬ。嘆き悲しんだ男神イザナギは、死者の国「黄泉(よみ)」の国に死んだイザナミに一目会いたくて訪ねる。黄泉の国でイザナギが見たイザナミは、変わり果てた姿だった。イザナミは喜んで会いに来てくれたイザナギに抱きつこうとするが、イザナギは異臭のする腐敗した、むごたらしいイザナミを振り払って、逃げ帰ってしまう。私がこんな姿になってしまったら愛してくれないのかとイザナミは恨みを持つ。黄泉の国から帰ってきた(「よみがえる」の語源)イザナギは、イザナミに抱きつかれて付いた汚れや臭いを振り払おうと、着ていた服を脱ぐ。これが「けがれ」を受けた人間がそれを振り払う「みぞぎ」の始まりである。そして黄泉の国でイザナミに抱きつかれ、汚れ脱ぎ捨てた衣服、杖や帯、袋、帽子から、12の神様が生まれた。そのなかで脱ぎ捨てた服から生まれたのが「和豆良比能宇新能神(わずらいのうしのかみ)」(日本書記では「煩神(わずらいのかみ)」)という神様だった。古事記・日本書記の時代に、日本人・日本社会を特徴づける「煩い」「けがれ」「みそぎ」という文字がうまれた。日本人の煩いは、このように古代からつづいている。
イザナギはわずらわしいもの、うるさいものを脱ぎ捨てた。だから日本人はみそぎをして身を清めたり、結界を張る。外からわずらわしいものが内に入ってこないようにする。ここで日本人の「内と外、ウチとソト」の概念がうまれる。 自分にくっついてくるのはわずらわしく、うるさい。うるさいものは外からやってきて、まとわりつこうとする。病にかかったり、変になるのは自分がおかしいのではなく、外からわずらいがとりつくからなのだ。だからわずらわしいものが外から入って来ないようにする。入ってきてとりついてしまったら、振り払う。そのために、おはらい、みそぎをする。そもそも入ってこないよう、盛り塩、しめ縄、神社の鳥居、川などの「結界」を張る。たとえば伊勢神宮の参拝はなんども川を渡るが、それが結界であり、外から「うるさいもの」「わずらわしいもの」が入ってこないような空間構造をデザインしたり、日本住居には縁側や中庭のようなウチでもないソトでもない中間ゾーンを日本人はつくってきたのである。

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わずらいが外から内に入ってくる。人にとりつこうとするわずらいはうるさいのだ。だから「戸は開けたままにしないで閉めなさい」と親は子どもにいってきたし、「この線のなかには入ってはいけない」というような行動様式が承継されてきた。結界が張られたら、その内には入らない日本人を外国人はとても不思議に思うが、日本人は今でも自然にそうする。目に見えようが目に見えまいが、「結界」を意識する。これが日本文化である。
日本人が内と外に執拗にこだわるのは、この「わずらい」の存在からである。外から来るのはわずらいであり、うるさいもの。内のことだったら内々(うちうち)で話し合えばなんとかなるが、外から入ってくるものは「わざわい=災い=禍=厄」であり、話が通じないかもしれずなんともならない。だから「内憂外患」という言葉も生まれた。内のことは憂いで、どうしようどうしようと悩めばすむが、“わずらわしいこと・うるさいこと”は外からやってきて、内が大変なことになる。だから内と外を分けてきた。外にいるわざわいが内と外の境界を突破し、自分にとり憑こうとするから、入らせないようにする。このわずらいこそ、日本人・日本社会の特性を規定するキーワードのひとつである。

親も妻も夫も子供すら煩わしい。“面倒くさい、うっとおしい、うざい、気持ち悪い…”というように、煩わしいの同義語が日本語にはいっぱいある。だから内と外の“結界”が大切だった。しかしながらこの内と外の境界、区切り、仕切り、中間、縁側、中庭が、限りなく薄くなり、減りつつある。分厚かった“界”がどんどん薄くなっている(第三の場所(サードプレイス)として日本人に受け入れられたスターバックスはこの文脈にある)。“界”は人の皮膚のすぐそばまで来ている。だから夫婦であっても、“これは私の流儀だ”“オレのやり方だ”と主張し、自分以外はみんな、“うるさい”“うざい”“面倒くさい” “わずらわしい”となった。これこそ、現代の日本社会を理解する重要なコンセプトである。

日本人は世界一「煩わしいこと=うるさいこと=面倒くさいこと」がキライなのだ。次回はこの“煩わしい、うるさい、面倒くさい”が日本社会・文化にどういう影響を与えているかを考える。』

日本の生きるもうひとつの道「外してはいけないこと」 ― スリッパ物語(下)

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『熊や猫がのっかり、可愛らしく、もこもこした内履き・部屋履きスリッパに、世界は熱狂した。カワイイ履き物!と、日本のお土産として外国の人が買っていかれる。ぬいぐるみのスリッパが世界アイテムとなった。実は日本発なのだが、多くの日本人は気づいていない。

“ぬいぐるみを履く“という発想は、世界にはなかった。
どっちみちスリッパを履くならば、ふわふわしたほうがいい。ふかふかした生地を使うのならば可愛いほうがいい。で、熊、猫をつけた。しかしそのスリッパは“部屋履き”である機能ははずさない。フワフワで、気持ちよく、あったかく、それに動物の顔をくっつけてぬいぐるみみたいになって、なおかつスリッパ。

価値観とか精神性を外してしまうと、アイデアはただのアイデアで終わる。日本人はモノづくりをするときに、ウチとソトとか、人に対する礼など根源的な価値観・精神性を決して外さない。便利で、心地よく、多様性があるモノやコトを日本人が承継してきた精神性が支える。たとえばウチで履くモノと、ソトで履くモノの意味を分ける。“ウチとソト”という精神性を基軸にして、転じて、ものごとを多様化させる。多様化してできあがったものは、とても機能的で、洗練され、しかも日本的なミニマリズムの粋になっている。それが日本のモノづくりの基本である。

内履き・部屋履きスリッパは和洋折衷のシンボル。
建物が和洋折衷になっていくに伴い、内履き・部屋履きスリッパがうまれた。内履きスリッパを履いたり脱いだりして、和と洋が混在する家のなかを行き来する。その内履きスリッパが家から出て、「つっかけ」となった。
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ベランダや庭に出るときの履き物で勝手口から、“ちょっと買い物”と、外に出た。当初はゲタだったのでカランコロンと音がしたが、形状が工夫されて静かな「つっかけ」となった。さらに「つっかけ」は進化して、ファッションアイテムとなり、街のなかで堂々と履いて歩くようになった。

また着物時代の足袋がとびだして、「地下足袋」がうまれた。親指が一本出た地下足袋を、昔のマラソンなどの陸上選手は履いていた。実は日本人は力仕事をするとき、親指に力を入れて地面を蹴る。だから親指が分かれていないと、足に豆ができる。地下足袋はこの日本人の運動スタイルを踏まえた形状であり、ゲタや草履の「鼻緒」も日本人が発明した。

これらゲタ・草履・鼻緒・地下足袋が転じて、日本人は「ビーチサンダル」を発明した。とりわけ“履いていたら乾く”という誰も考えつかなかった機能をのっけた。石文化の西洋では、サンダルは足を痛めるので履かなかったが、日本人がこのような快適なサンダルを次々につくっていったので、“すばらしい、いいね”となって、世界中の人が履くようになった。

この流れから、「クロックス」がうまれた。日本のつっかけ・ビーチサンダルをベースに、かかとが外れないようにと、「ベルト」がつけられた。この「ベルト」こそ西洋人の矜持だが、クロックスのベルトをつけない日本人が多い。

これらスリッパの進化はたんに機能だけで展開されたのではない。「内(ウチ)と外(ソト)」という精神性が踏まえられている。家の外に出るものではなかったつっかけが、家(ウチ)と外(ソト)の結界を越えて、ファッション性をあげて、外に出ていった。
日本人は精神性をはずさず、機能性を満足させ、洗練させ、そのうえで可愛いくする。どんなに可愛いいスリッパといっても、スリッパの機能を満たしている。バッグが可愛いい、ハンカチが可愛いい、スマホのケースが可愛いいと、日常生活に「可愛いい」が広がっている。

普段使うものだったら、“どっちみちなら、可愛い方がいい”と考える。弁当箱なのに可愛いかったり、ふたを開けたら猫の顔が出てくる「キャラ弁当」も、決して「弁当箱」であることを外していない。

弁当の原型は江戸時代にある。
「メンパ」と呼ぶ木製の箱に、家で調理した食べ物をつめて、外での仕事や旅のためにメンパを外に持って出た。“外にいながら、内を感じられる” “内と外をつなぐ”という精神性を込めて、パーソナル用の「主食と菜(な)」をセットにして、持ちはこんでもこぼれない、しかも愛母弁当・愛妻弁当として想いが込められるという “弁当”を今も学校や職場に持って行き、食べている。江戸時代の流儀が今に続いている。その弁当が「BENTO」という世界語となり、「キャラ弁」としても発展し世界に広がっているが、日本人の多くの人はそのことに気がついていない。
 
日本人は与えられた「レギュレーションとルール」のなかで、なにができるかを徹底的に考えて、洗練させ、かつ多様化させるのが得意である。欧米の人は“スリッパならばこんなものだろう”と思うが、日本人はスリッパに”こだわり”つづける。スリッパというお題があれば、そのスリッパをもっと楽しいものにしよう、可愛いものにしよう、綺麗なものにしようと考えて、スリッパをいろいろに転じる。

精神性、機能、根本を変えない。
その範囲のなかで、どっちみちなら可愛く、どっちみちなら楽しくという発想で、物事を多様化していった。そのモノづくりが最近ズレてきている。ともすれば突拍子もない、思いつきのアイデアでモノをつくろうとする。基軸を外したものは、広がらない。

日本の生きるもうひとつの道はこれではないだろうか。
そのモノ、そのコトの本質と価値観を外さず、そのうえで転じて、幅広く展開し、創意工夫し、多様化させる。あくまでスリッパはスリッパ、弁当は弁当でこだわったうえで、転じる。スリッパ・弁当以外にもある。傘なら傘の領域で、どこまで行っても傘にこだわり、綺麗な傘、可愛いい傘、折れない傘、折りたためる傘へと転じてきたが、どれも傘であることを外さない。

日本的なモノづくりは、「本質」「精神性」にこだわる。
ビーチサンダルしかり折りたたみ傘しかり、これまでやってきたことを活かす道はないのか、生き残る道はないのかと試行錯誤するなかで、いっぱいの失敗を経験して、“これ、いい” “みんな、喜ぶ”という価値あるモノやコトを生み出してきた。「試行錯誤」をめんどくさがってはいけない。 (了)』

日本人最大の関係性 「 ウチとソト」― スリッパ物語(上)

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『“煩(わずら)いはまとわりつくもの。脱ぎすてることで禊(みそ)がれる”と日本人は古事記の時代から伝えつづけてきた。外(ソト)、他とかかわることで自分の身にふりかかる煩(わずら)いや穢(けが)れは、要所要所で脱ぎ捨てないといけない。煩いや穢れを脱ぎ捨てる場として結界がある。

「内(ウチ)と外(ソト)」という関係を日本人は意識する。煩わしいものを身にまとってしまう世界が外(ソト)。家のなかは内(ウチ)で、 内では煩いはまとわりつかない。玄関前の盛り塩、敷居、畳の縁は外の煩いを内に入れない「結界」の意味を込める。

江戸時代の旅人が旅籠に到着すると、玄関で外のよごれがついた草鞋を脱いで足を洗う。さらに手を洗って禊(みそ)いで、土間から上がる。“結界を越えた”からと旅籠の人は「気楽にしてください。どうぞ寛いでください」と声をかける。

家の内ではなにもまとわりついてこないから、お気安に。家の外の世界ではいろいろなものがふりかかってくる。“内の空間は結界で守られた世界だ”という精神性がいまも日本人の所作なり言葉として残っている。たとえば

「敷居は踏んではいけない」
家の玄関が“結界”のひとつ。玄関で靴を脱いで家のなかに入ると、“結界”によって、それぞれの部屋の性格が分けられる。ダイニングで外国人が座っていたら、(決して汚くはないのだが)「ダイニングでは座らないで」と注意される。つづくリビングと和室、廊下と和室を仕切る「敷居」は「踏んではいけません」と声をかけられる。敷居を越えて畳のうえに立っていると、「まぁ、すわってすわって」と声をかけられる。このように敷居を境に、がらっと意味が変わる。同じ家のなかでも、空間ごとに、生活スタイルを変える。

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かつて日本は草履文化だった。
草履のままでは、建物のなかには上がらなかった。上がらないといけない場面では白足袋を履いた。明治に入り、靴を履くようになって、日本人は白足袋をやめた。白足袋をやめたので靴を脱ぐと、”上は洋装で下は素足”というスタイルとなる。ここで明治の日本人は考えた。どのような恰好で家にあがればいいのだろうか?と。

靴を脱ぐ形から靴を脱がない形に、
日本の建物が変わっていく。明治維新までの建物は靴を脱いで上がる形式であったが、日本の住宅は明治維新からの混沌期を経て、洋式の住まいとなった世界、和を守った世界、和洋折衷の世界の3つに分かれた。

日本的なスタイルは、なんでも折衷しようとする
A と B を混ぜて、C をうむ
〔1+1=2 ではなく、 1+1=Xにも、1+1=Y にする〕
日本的なスタイルは、なんでも折衷しようとする。
「A+Bを混ぜて、Cをうむ」。単純に「1+1=2」ではなく、絶妙なバランス力で、「1十1」をXにもYにもした。
住まい方でも絶妙な和洋折衷がおこなわれた。従来の和式の住まい方と西洋式の住まい方を融合させようとするが、玄関で靴を脱いで、廊下を歩き、応接室やリビングに入って、そこで靴下や素足でソファ・テーブル・椅子に座るというのはどうもしっくりこない。ここで日本的な「スリッパ」が発明された。

実はスリッパはシャワーのあとの履き物であった。
ホテルのシャワールームにはガウンとスリッパが置いてある。欧米ではシャワーを浴びるまでは靴を履いているが、シャワーを浴びると足が濡れる。足が濡れたら靴は履きにくいので、シャワーを浴びたあと、白くてタオルのような生地のスリッパを履く。ガウンを着てスリッパを履いて、ベッドに移動する。

スリッパは靴から履きかえるモノ。
欧米系のホテルでは浴室にはスリッパが置いてある。シャワーを浴びて体を拭いたときに使ったタオルを足にくるんで歩いたことから、スリッパが生まれたという説がある。シャワールームに置いてあるようなタオルの生地にはそんな背景があるかもしれない。
ホテルのベッドの足元には、帯のような布が敷いてある。
日本人はこの布がなんのためのモノなのかを知らない人が多い。寝るときには、この帯のような布を取ってベッドに入るが、ベッドの上の帯のような布は靴をのせるためのものである。なぜならば欧米には靴を履いたまま、寝る人がいるからである。

ともあれ日本人のホテルの部屋での過ごし方は欧米人と違う。
日本人は部屋には入ったら、すぐに靴を脱ぐが、どうにも自分の家のようにはリラックスできない。なぜしっくりしないかというと、家とホテルの室内構造の違いに加え、ホテルと自分の家の内での過ごすスタイルが違っているためである。

日本人は自分の家でどのようにすごすのか。
玄関で内履きスリッパに履きかえて、廊下を歩いてリビングに入る。しかしお手洗いでは別のスリッパに履きかえる。水にぬれてもいいスリッパを履く。キッチンやリビングでは内履きスリッパを履くが、リビングのフローリングの上に絨毯が敷かれていたらスリッパを脱ぎ、絨毯の端に置いたりする。

外の世界から戻ると、玄関で靴を脱ぎ、内履きスリッパに履きかえるのは、玄関が重要な結界だから。家のなかに鴨居や鴨居など視覚的に結界を張っている場所と、目に見えないが意識の結界を張って、家のなかでウチとソトを分ける。
スリッパを履いたり脱いだりして、内と外、こっちとあっちを分ける。
スリッパを履いている場所では床に座らない。一方スリッパを脱いだあと、畳や絨毯のうえに座ったり、ごろっとしたりできる。空間的には切れていないが、家の内でスリッパを履く履かないで、絶妙に内と外を分けている。これこそ、「和洋折衷の粋(すい)」といえる。

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戦後になって、新しく建つ家での洋風ウエイトが高まり、古い家でも一部部屋を洋風にリフォームするなど室内構造を変えるに伴って、洋風になった室内と履き物との違和感がでてきた。こうして内履きスリッパが高度に進化する。しかし今も靴を脱いで靴下や素足で台所仕事をしたり、テーブルでご飯を食べたりすると、違和感がある。

日本人は玄関で内履きスリッパに履きかえ、そのスリッパでリビングですごすようになった。しかし畳の部屋では敷居・鴨居という結界を超えるから、スリッパを脱ぐ。このように「ウチとソト」という意識・精神性は今もつづく。この日本的価値観や精神性が内履きスリッパをうみだし、内履きスリッパの機能性を高め、かつデザイン性を高め、バリエーションあふれる内履きスリッパを世界に広げた。

次回の「スリッパ(下)」では、日本のモノづくりの可能性を、日本発世界商品となったスリッパと弁当で学んでいきたい。』

戦略が好きな日本人(下)

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『どこまでいっても、日本は傘は傘で考える。
綺麗な傘、折れない傘、可愛い傘…と傘であることを外さない。たとえば持ちはこびやすいコンパクトな傘がつくれないかと考えて、たたむと骨が緩む「折り畳み傘」がうまれた。欧米人は、傘をコンパクトにしたいならば、傘である必要はなく合羽を防水にできないかと考える。日本人は、傘ならば傘の機能を担保しつつ、小さくして、洗練させて、多様な傘をつくる。こういう日本人がウォークマンをつくり、高機能なテレビをつくった。日本人は決められた筋を外さず、その領域・分野で創意工夫を重ねて、横に展開するのが日本的多様性のつくり方である。

モノやコトの本質的な意味とか価値観を外してはいけない。
そこから、どうやって良いものにしていくのか、新しくしていくのかを考えてきたのが日本人。スリッパはスリッパのなかで考える。スリッパに代わるものは、思いつきのアイデア。イノベーションが事業として市場に受け入れられるには時間がかかる。日本人が画期的なことをやっても、日本では認められず、海外で認められて日本に逆輸入されて、ようやく“これはすごい”と受け入れられる。日本人は、突拍子もないこと、原点を離れたものを、なかなか理解しようとしない。

日本人は携帯電話を多機能化した。携帯電話にこだわりすぎ、コンピューターという世界への移行に失敗したが、多機能化は無駄ではなかった。そのひとつが携帯電話のパカパカ。こんな発想は海外にはない。携帯電話の画面を見やすくできないかと考え、液晶画面を大きくした。このガラケーの液晶画面の技術は、コンピューターの画面へ、スマホの画面へと広がった。

だから液晶技術は日本がダントツ。

携帯電話を多機能化した→大きな画面の液晶技術をつくった
→しかしコンピューター化の流れで、ガラケーは敗れた
→しかし液晶メーカーはスマホの液晶メーカーに転じて生き残った。

バイブレーターも日本の技術。音源チップもそう、日本メーカーが主役。みんな、横滑り。ガラケー向けにつくっていたが、携帯型コンピューター向けに、横滑りできた。それは誰も読めなかったが、バランスの結果論である。
「負けたらしょうがない」と平気でいう人がいる。負けないようにもっていくのが戦略なのに、「負けたら仕方ない」とすぐにあきらめる。それは「戦略」の専門家だけではない。当事者である企業経営者も「戦略」スタッフも、そう言いだした。成り行きの戦略と化しつつある。

戦略は成り行きで、浅くて狭い。
表面的であり、部分的である。戦略は負けないためのもの。負けないために、どうしたらいいのか。戦略力を高めるためには、自らが経験したこと、他の人の経験に学んだこと、「これはこうだった」という引き出しを増やす。

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戦略の核は、アナロジー(類推)。
<AがBならば、CはBになる>と発想する。アナロジー(類推)を使うためには、どれだけ多くの「引き出し」を持っているかである。自ら場数を踏んだ経験だけでなく、他人(ひと)の経験を自らの経験として学んだものをどれだけ「引き出し」に入れられるかである。

しかし人の話を聴いたことそのままを、「引き出し」に入れてはいけない。
人は語るとき、どうしても飾りつけて、創った「物語」をするので、他人の話は自らの経験と掛けあわせて、 “自分事”に翻訳して、「引き出し」に入れなければならない。そうすると、自らがなにかに出くわしたとき、「引き出し」を開いて、<AがBだから、Cはこうする>と導く。「引き出し」をたくさんもっていると、<まずこうして→次にこうして→最後にこうする>という全体ストーリーが描ける。しかし描いたストーリーどおりにうまくはなかなかいかない。

時々刻々におこる問題に対して、臨機応変、解決しながらゴールに向かう。
今の日本、このプロセスが弱くなった。それは「引き出し」が少なくなったからだ。自らの経験しか「引き出し」に入れない。他人の経験に関心がない。他人に学ぶとはスマホを検索して情報を集めるだけでなく、「自分事」として出来事を観ることであり、日々の新聞や本を“自分ならばどうか”と読み考えたことを「引き出し」に入れることであるが、ほとんどの人はそれをしない。時間がないというが、本当はめんどくさいのだ、他人のことに関心がないのだ。

しかし日本の現場力は強い。
スリッパや弁当を世界アイテムにして多様化させ、さらに発展させている。おむすびも日本海苔も、世界アイテムにした。しかし日本の人口が減少するから、超高齢・少子化していくから、別のことを考えなければ、イノベーションだとか変革が必要だといって、これまでのことを捨て、ゼロから考えようという風潮がある。
箸にかかわっている人が箸以外のことを考えて、新たなことを考えるといっても、その新たな分野にはその分野のプロがいる。短期間で彼らを上回ることなどできるだろうか。“だからこそ、やるのだ”というが、箸という世界でなにができるのかを徹底的に考えた方がいい、まだまだ箸で考えることがないかと。またストローが環境の観点から問題になっているから、“じゃストローをやめて、ストロー以外はないか”と考えるのではなく、“ストローで何ができるのか”と考えるべき。ああでもない、こうでもないと考え抜くことが減っている。

自動車は自動織機からうまれた。
自動織機をつくる機械で、そのまま自動車がつくれた。自動織機メーカーの多くは、ねじを切ったり鋳物をする生産方式であったので、そのまま自動車メーカーに横滑りできた。何かから紐づいて転じていくというスタイルである。これも「アナロジー」である。日本的な価値あるものは、そうやってうまれてきた。

「ここまでやってきたことを活かす道はないか」
とウンウンうなって、そこから、すごいことがうまれたり、できあがったりする。今あるものを別のものにできないかと、いろいろなことを考えて考えて考え抜き、試して試して試しまくる。「試行錯誤」を笑ってはいけない。“なんとしても生き残る”ともがき試行錯誤するが、だめなものはだめだが、なかにはあたるものもある。そんなストラグルを恰好悪いとか流行らないとかいって、あっさりと諦める風潮がある。“可能性”を淡白に捨ててしまっている。

日清紡はそれで生きた。
日清紡もクラボウも、ケミカルで生きている。自分たちの持っている「資産」で、横滑りできた。産業の発達史という観点だけではなく、本質にこだわったからこそ、転じることができた。スリッパしかり折りたたみ傘しかり。スリッパじゃなくていいだろう、傘でなくていいだろうという社内での議論もあったろうが、そこにこだわって試行錯誤したからこそ、そのなかに“これいいなぁ”“かわいい”というものがうまれた。餅は餅屋、蛇の道は蛇である。むやみやたらに新産業・新事業といっても、突然、「新産業」「新事業」などできない。今あるもの、今やっていることとは違った角度で考える、横から上から後ろから斜めから考える、試行してみる。なにがでてくるかどうかはわからないが、でてくる可能性はゼロではない。その可能性を消すのは勿体ない。』

戦略が好きな日本人(上)

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『日本人は「戦略」という言葉が好き。
経営戦略、企業戦略、マーケティング戦略、サービス戦略、イノベーション、環境戦略、投資戦略、不動産戦略、起業戦略…と、新聞・雑誌・書物・会社・イベント・セミナーは「戦略」だらけ。分かるようで分からない。しかし、戦略と戦術はどうちがう?課題と問題はどうちがう?…「概念言葉」を使うときは「意味」をおさえるのが鉄則だが、日本人は曖昧にする人が多い。戦略はその典型のひとつ。

魔法の言葉がある。
企画書や計画書に、「強化」と「推進」という言葉がよくでてくる。この言葉が出てきたら要注意。年度計画や活動計画、中長期計画を考えるとき、たとえば「営業力の強化」「組織間連携の強化」「イノベーションの推進」「戦場風土の改革」など、「~の強化」「~の推進」「~の改革」などと、魔法の言葉で締めくくろうとする。この言葉が出てきたら、文章全体が曖昧になる。この言葉を使おうとするのは計画が練れていない証拠。別の言葉を考えるだけで、具体性が増す。
経営コンサルタントになりたがる学生が多い、なぜ。
金融やメーカーや流通などの大手・有名企業や自治体に内定していても戦略コンサル会社に内定が決まったら、そっちに行きたがる学生が多い。なぜ?― “スマートだから、格好いいから、収入がいいから”と答える。どんなイメージだと思うの?と訊ねると、“偉い人たちに、綺麗なパワーポイントでプレゼンする華々しい自分の姿”を思い浮かべていたりする。しかし突っ込んで議論したら、戦略コンサルなら「責任」をとらなくていいのではないかという本音がチラホラでてくる。そう考える背景のひとつに、テレビで“偉い人”たちがいっぱい頭を下げている映像の数々をみるなか、“自分はそうなりたくない、責任をとらなくていい”と思い込む分野で働きたいという防衛本能を底流に感じる。

ともあれ日本人は「戦略」が好きで、戦略という言葉を“雰囲気”で使っている。そもそも戦略は軍用用語。戦略は、英語の「strategy」の日本語訳で、語源は「だます」という意味のギリシャ語「strategia」。「謀略」といったりするように、「略」には「はかる」「かすめとる」というニュアンスが含まれている。

では「戦略」と「作戦」とはどうちがうのか。
戦略は戦いが始まろうとする直前から戦いが進行している間に、“今、右か左のどちらを選ぶか”ということを考え決める。戦いのなかで生き残るために、勝つために、なにをどうするのかを考えること。「戦略」を考えるという段階は戦っている状態であることを忘れてはいけない。一方、「作戦」は戦う前に考えること。“いつか、こんな社会になったらいい”とか “いつか、わたし、こういうふうになりたい”というのが「作戦」で、まだ戦いが始まっていない段階に考えることである。

「課題」と「問題」もよくわからない。
“いつかこうなる、こうしたい”が「課題」で、“今、どうするか”が「問題」。「問答」という言葉があるように、問われたことに答えを出すこと。問題は今、現場でおきている。その発生する問題への答えを出さないといけない。今流にいえば「ソリューション」、問題を解決すること。答えを出していたら、“電車”は動き出す。しかし“電車”はそのままでスムーズにゴールまでたどりつかない。ゴールにつくまで、いろいろなところで問題がおこる。“これ、どうする?” “あれ、どうする?”といった問題に対して、答えを出しながら、ゴールへと導いてくことが戦略。スタートしたら、ゴールにたどりつかないといけない。

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これをタクシーで考えてみる。
お客さまを安全に目的地=ゴールにはこぶことが「課題」。“あっちを右に” “こっちを左に” “急いで” “そこ、止まって”といったお客さまの注文に次々と応えて、ゴールにたどり着かなければならない、しかも安全に運転する。このようにタクシードライバーは極めて戦略的。
タクシードライバーのストレスは大きい。道路で手をあげられたお客さまがタクシーの車内に乗ってこられるまで、どこに行きたいのか分からない(Uberタクシーはこの問題をクリアする)。乗られたあともお客さまが行きたいところをきちんと伝えられなかったり、走っているうちに突然ちがう方向に行ってと言われたり、時間とか運賃などお客さまからの様々なリクエストに応えて、ゴールにたどりつかなければならないから、極めて「戦略」的でなければならない。「戦略」とはこういうこと。
目的地・ゴールにたどりつかせるのが「戦略」。
目的地までの間に発生する数々の問題に答えを出すごとに、局面が変わる。この道だと思って進んでいたら熊が出てきて、これではだめだと別の道に変えて歩き出す。すると今度は虎が出てきて、また別の道を選ぶ。最初に考えた通りにはいかない。現場では、次々と局面が変わる。局面局面ごとに情勢を分析して考えて実行する。現場ではいっぱいの「どうしよう?」が発生し、問題ごとに「じゃ、こうする」と答えを出し、動きつづけて、ゴールにたどりつかないといけない。

戦略はゴールにたどりつくための問題解決の連続的なプロセス全体である。
にもかかわらず、経営戦略だとか企業戦略だとか投資戦略といったセミナーの「これをこうしたら勝てる、うまくいく、儲かる」といった話が流布する。しかし現場は“これをこうしたら絶対に勝てる、必ずうまくいく”わけではない。手をうっても思ったとおりにならなかったり、別の局面になったりする。そのとき、どうする。そうならなかったとき、どうする、どうやって軌道修正して、ゴールにたどりつかせるかといった「連続的なプロセス=戦略」が欠落している。

“私が考えたプランは良かったけど、あなたが実行しなかったからダメだったのだ”と言ったり、“やったけどダメだった”と平気で言う戦略コンサルタントとか弁護士といった、いわゆる「先生」方が増えている。本当の戦略とは知識ではない、海外の誰かが考えた枠組みや公式ではない。戦略はゴールに必ずたどりついて勝つことなのに、「うまくいくかどうかの責任はもてない。やるのはあなただから」という「先生」が多くなった。

“考えるのは私、やるのはあなた”ではない。
刻々と発生する様々な状況をつかみ、判断をおこなって答えを出しつづける。それが「戦術」である。戦術とは「術(すべ)」。術(すべ)とは現場での経験にもとづいて身につく技術。つまり戦術をもって一連の問題解決をおこなって、試行錯誤しながらも、ゴールにたどりつかせる全体プロセスこそが「戦略」である。
その戦略力を高めるために、どうしたらいいのかは次回、考える。』