テレワークで行き場失う承認欲求

テレワークで行き場失う承認欲求 偉さ誇る時代の終わり テレワークと承認欲求(上) 同志社大学政策学部教授 太田 肇
https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXZQOCD237TV023052022000000

『2022/7/4

 新型コロナウイルス禍を受けて、半ば強制的にテレワークが導入されてからおよそ2年が経過した。コロナ禍が落ち着きを見せるとともに大都市圏では通勤ラッシュが復活し、オフィスにもにぎわいが戻ってきた。会社が対面での働き方に戻し、出社を求められるようになった会社員も多いだろう。

テレワークの普及で管理職が「偉さ」を誇る時代は終わりつつある(写真はイメージ)

 各種の調査から分かってきたのは、テレワークでどうしてもできない仕事はさほど多くないという事実だ。営業や窓口業務のほか、製造や建設現場の仕事ですらリモートでこなせるようになっている。むしろテレワークの定着を妨げる「見えない壁」が社会的・心理的な要因の中にあることが分かってきた。

 拙著『日本人の承認欲求 テレワークがさらした深層』(新潮新書)は、社員の承認欲求、とりわけ職場という共同体の中で自分の存在感を示そうとする日本人特有の表れ方がテレワークの普及を妨げていることを明らかにした。さらにテレワークだけでなく、組織のスリム化やムダの削減といった改革にも少なからぬ影響を与えている。

 その一端は次の調査結果からもうかがえる。パーソル総合研究所(東京・港)が2020年3月にテレワークを行っている人を対象に行った調査では、回答者の4分の1以上が「私は孤立しているように思う」「私には仲間がいない」と答えた。テレワークの頻度が高いほど孤立感も強くなる傾向がみられた。

 なかでも管理職がテレワークの影響を強く受けていることは、「必要がないのに出社を命じられる」「リモート飲み会の開催を執拗に迫られる」といった部下が口にする不満の声からもうかがえる。

 管理職の承認欲求はこれまであまり注目されてこなかったが、他の欲求に勝るとも劣らない力で人の態度や行動に影響を及ぼすことが明らかになってきた。わが国特有の組織・社会構造によって欲求が前述した独特の表れ方をすることもわかってきた。

 「序列」意識させる大部屋オフィス

 本人がどれだけ意識しているかはともかく、日本企業の管理職にとって会社は自分の「偉さ」を見せびらかす場であり、それによって承認欲求を満たしているといってよい。地位の序列は「偉さ」の序列であり、大部屋で仕切りのないオフィスは序列を見せびらかすのに適した構造になっている。部下は上司の一挙手一投足に注目し、ひと言ひと言に耳を傾けてくれる。自分が仕切る会議やイベントは管理職にとってはハレの舞台だ。

 程度の差はあれ、非管理職や若手社員も意識は同じだ。社内での地位は低くても下請け企業や取引先に会社のブランドをひけらかすことがある。若手社員も新人が入ってきた途端にがぜん張り切り、先輩風を吹かす。先輩が新入社員を公私両面で指導するメンター制度も、メンティー(指導される側)はともかくメンター(指導する側)のモチベーションは明らかにアップする。

 背景にタテ社会と共同体型組織

 自分の「偉さ」を見せびらかすことによって承認欲求を満たす日本人サラリーマンの志向と行動特性は、日本の組織・社会特有の構造から生じている。

 一つは、わが国がいわゆる「タテ社会」(中根千枝著『タテ社会の人間関係』)だということである。社内の上司と部下の関係だけでなく、元請けと下請け、顧客と店舗、さらには取引先との間でも上下関係ができ、そこから「偉さ」の序列が生まれる。敬語や言葉遣いにそれが象徴的に表れる。要は「対等」という概念がないのだ。接待や宴会は「偉さ」を見せびらかす場でもある。

 もう一つは会社がイエやムラのような共同体としての性格を備えていることである。日本企業はいまだに終身雇用の枠組みを残しており、転職や中途採用などメンバーの入れ替わりが少ない。メンバーが固定化すると、自然に「偉さ」の序列ができる。

 このようなタテ社会と共同体型組織は、かつての工業社会、とりわけ少品種大量生産型システムとは相性がよかった。決まったものを正確に作るには、軍隊のような上意下達の規律正しい組織が効率的だった。単純な事務作業が中心のオフィスも同じだ。』

『ところが、ネットの世界は基本的にフラットである。テレワークはタテよりヨコの関係で進められる。これまで管理職が担ってきた情報の集約、伝達、仕事の配分といった仕事の多くは不要になり、組織の階層は少なくて済む。当然、管理職の数も減る。その結果、「偉さ」の源であるシンボルが消滅していく。

 テレワークだと物理的にも、社会的・心理的にも共同体の境界があいまいになる。上司からすると自分の存在を認めてくれる部下は目の前にいないし、部下は社外の人たちとネットワークを築いていく。情報・ソフト系の企業などでは、もはや会社の内と外との境界さえわかりにくくなっている。そのようななかで自分の「偉さ」を示そうとすると部下たちは離れていくか、下手をするとパワハラ扱いされるのがオチだ。

 健全な承認欲求を原動力に

 とはいえ、「見せびらかしたい」という意識は米国の心理学者アブラハム・マズローのいう「尊敬の欲求」(承認欲求の一部)からくるもので、それ自体を否定すべきではない。そもそも「欲求」である以上、食欲や性欲などと同様に捨て去ることは難しい。問題は人格的な上下関係に基づく「偉さ」を誇るところにあり、人格的に対等な関係の中で個々人が能力や業績、個性などを認められる場をつくればいいわけだ。

 ある機械メーカーでは、製造した機械に製作者の名前を入れて出荷するようにしたところ、若手の離職者がほぼゼロになった。毎月研究会を開いてメンバーが順番に自分の実績や得意なことを発表している職場では、メンバーの帰属意識や一体感が目にみえて高まったという。

 新たに表彰制度を取り入れた会社では「社員が失敗を恐れず挑戦するようになった」「社員のモチベーションが上がって業績がV字回復した」といった声が聞かれる。

 スポーツや芸能などの世界を見れば分かるように、「自分をアピールしたい」という欲求は活躍と成長の原動力にもなる。コロナ下のテレワークで従来の価値観や行動様式が通用しなくなった今こそ健全な形で承認欲求を満たせる場を広げていきたい。
太田肇(おおた・はじめ)
同志社大学政策学部・同大学院総合政策科学研究科教授。神戸大学大学院経営学研究科修了。経済学博士。専門は組織論、とくに「個人を生かす組織」について研究。日本労務学会常任理事。組織学会賞、経営科学文献賞、中小企業研究奨励賞本賞などを受賞。『「承認欲求」の呪縛』(新潮新書)、『「ネコ型」人間の時代』(平凡社新書)、『公務員革命』(ちくま新書)、『「見せかけの勤勉」の正体』(PHP研究所)、『個人尊重の組織論』(中公新書)、『「超」働き方改革』(ちくま新書)、『同調圧力の正体』(PHP新書)など著書多数。近著に『日本人の承認欲求 テレワークがさらした深層』(新潮新書)。』

伝統的価値観の国際比較

伝統的価値観の国際比較 : 日本、韓国、中国、米国における儒教的価値観
https://ci.nii.ac.jp/naid/120005674968

 ※ これは、すごーく参考になった…。

 ※ 漫然と、「こういうものだ…。」「こんな感じだな…。」と思ってきたことが、実は、それぞれ「仏教」「儒教」「神道」的な「世界観」に根ざすものだったとは…。

 ※ そういう「分析」「淵源」の基(もと)となる「視座(尺度=スケール)」を、手に入れた…。

 ※ ステップアップしたな…。

 ※ 「昨日の我」に、「今日は」ちょっと勝ったぞ…。

『表 1 日本の伝統的価値観尺度(JTVS)の領域別下位尺度(大渕・川嶋 , 2009a)

仏教

輪廻と法力
(11 項目)

宇宙は仏の治める多くの他方世界からなり、生命はそれらの間を
輪廻する。生命は仏の慈悲によって生成し、それは草木を含めす
べてに及ぶと(本覚思想)いった仏教的世界観。

修身と慈悲
(8 項目)

倫理と精進、慈悲と寛容、煩悩の除去などの仏教的道徳観。欲望
に負けず自らを慎むこと、感謝と思いやりの気持ちで人に接する
など、人としての正しい生き方を処方。

厭世主義
(6 項目)

人生は苦、諸行無常などの仏教的人生観。人生は苦悩に満ちてい
る、この世は絶え間なく変化するはかないものであるといった仏
教的厭世観を反映。

空と超俗
(4 項目)

この世は仮のもので空虚(諸法無我)といった世界観と、それ
故、富や名声など世間的なものに拘泥せず、清らかに生きること
を良しとする(煩悩の除去)仏教的処世観。』

儒教

忠孝と義務
(11 項目)

長幼の序、公益優先など、社会集団や人間関係の中で個人が果た
すべき責任と義務を強調する儒教的処世観。

天意・天命
(8 項目)

社会の在り方であれ、個人の成功・失敗であれ、すべては人間を
越えた天によって運命づけられ決定されている(天命思想)とす
る儒教的世界観。

恥と世間
(5 項目)

人の目を意識し、世間から非難されないよう行動すべきであると
いう集団主義的価値観、即ち、節度、集団優先、義務などを強調
する儒教的処世観。

賢君思想
(4 項目)

世の中は優れた資質の指導者によって治められてこそ意味がある
という儒教的人間観。』

神道

社会的調和
(5 項目)

対立や争いを避け「和をもって尊し」との調和優先的な神道的処
世観。

相対主義
(3 項目)

問題解決には絶対的原理に頼るのではなく、知恵を働かせ状況に
応じて柔軟な対応をするのがよいとする神道的処世観。

集団的功利主義
(3 項目)

ものごとの善悪は共同体に福利をもたらすか災厄をもたらすかとの
観点から判断されるべきであるとする神道的倫理観。

楽観主義
(2 項目)

世の中は自然に治まるべく治まっていくから、自然の流れに任せ
るのが一番であるとする神道的世界観に立脚した処世観。

歴史の内発性
(2 項目)

社会の動きは時勢というものによって決定され、人間の力の及ぶ
ものではない(超人為性)とする神道的世界観。

もののあわれ
(4 項目)

女性的で繊細な感受性が日本人の本来の心であるとする神道的人
間観。』

「強制労働者」は、「厚生年金」に加入していた…。

<W解説>「強制徴用」と「厚生年金」の矛盾=韓国の元勤労挺身隊員ハルモニの「死ぬ前に聞きたい一言」
https://www.wowkorea.jp/news/korea/2021/1208/10326301.html

 ※ 今日は、こんなところで…。

 ※ なんだかなあ…。

 ※ どーゆーこと?

 ※ しかも、「お城」の前で、「集合写真」なんか撮ってるし…(そして、「焼き増し」した写真、もらってるし。たぶん、全員に配布している)。「奴隷的強制労働に従事してた」んじゃ、ねーのか?

『韓国の市民団体「勤労挺身隊ハルモニ(おばあさん)と共にする市民の会」が日本共産党の衆議院議員・本村伸子氏の支援を受け「日本年金機構」を動かした。元勤労挺身隊員チョン・シニョンさん(91歳)の11か月間の厚生年金加入を認めさせたのだ。

市民団体としては一見、大きな成果を成し遂げたように見えるが、その解釈には色々な見方がある。

そもそも、韓国側は「日本は半島から強制徴用を実施した。被害者は未だに賃金をもらっていない。日本が謝罪と賠償をすべき」と要求する。

国家が非常時に国民に対して行う「徴用」はその歴史が長く、言葉の中に「強制」が含まれている。しかし、韓国では「強制」を強調するためなのか、「強制徴用」を好んで使う。最近は「強制徴用」の他、「強制動員」の言葉もよく使われている。

「強制動員」でも「強制徴用」でも良いが、「厚生年金」との矛盾は生じないのか。日本はヨーロッパから学び、1940年代から厚生年金制度を実施し、韓国の年金制度は日本から学んだものだ。「強制動員」されたとする労働者が「厚生年金」に加入していたことは、どうも違和感が残り、後味が悪い。

太平洋戦争中の日本は1944年9月まで、半島に対する徴用をためらい、朝鮮半島出身者の「徴用」が可能になったのは10か月間あまりだった。しかも、米軍の攻撃で釜山と下関との船便が途絶えたこともあり、実際、1945年の終戦まで日本への徴用が可能だった期間は6か月間あまりしかない。

91歳のチョンさんと一緒に名古屋の三菱工場で働いた94歳のヤン・グムドク(梁錦徳)さんは、勤労挺身隊員になった経緯を自伝「死ぬ前に聞きたい一言」に詳細に書いてある。

韓国南西部の全羅道ナジュ(羅州)出身のヤンさんは、小学校6年生の時の1944年5月、日本人の校長から「中学校に進学させてあげる」という言葉にだまされたと回顧している。韓国メディアはあまり言わないが、当時はヤンさんの17歳の時だ。

当時、「男尊女卑」の儒教的な慣習の上、貧しい家庭の娘は小学校の入学が遅れたり、途中休学をさせられたりしたので、17歳の小学6年生はあり得ることだ。少なくとも、その時のヤンさんは子どもではなかったとのこと。

ヤンさんは勉強と運動が優秀で学級長となった。日本に行って中学校に進学したい、貧しい環境でも未来を自分の力で切り開きたい前向きな少女だったようだ。

小学校で「日本行き」に手を挙げたが、家に帰ってそれを話したら父親は激怒した。ヤンさんは翌日「日本に行かない」と担任に話したが、「指名を受けてから行かないとなれば、両親が警察署に入れられる」と言われたという。ヤンさんはその言葉を聞いて怖くなり、「棚から父のハンコをこっそり取り出して担任教師に渡した」と回顧している。

こうしてヤンさんは勤労挺身隊の隊員として日本に渡った。同じ地域で合計288人の女性が「連れて行かれた」と表現されているが、少なくとも17歳の場合でも、保護者の判子は必要だったようだ。

ヤンさんは、三菱重工業の名古屋航空機製作所で働くようになった。名古屋城が背景になっている当時の「団体集合写真」を未だに持っている。強制動員された労働者に都合の悪い集合写真を渡した理由は分からない。

1944年12月7日、ヤンさんは工場で「東南海地震」に被災した。

「休み時間に10分先に入った故郷の先輩チェ・ジョンレと同期キム・ヒャンナムが崩れた壁の下敷きとなり、その場で死んだ」と自伝に記録されている。その地震で288人中、少女6人が亡くなった。崩れた壁の隙間に閉じ込められ命を救われたヤンさんは「その時、左肩を負傷し、今でも後遺症がある」と話している。

終戦から2か月後、1945年10月21日に故郷に戻るまで、ヤンさんは三菱重工業で「重労働をしても賃金を一切受けとれなかった」と話している。「『君たちの故郷の住所を知っているから間違いなく月給を送ってあげる』という日本人たちの言葉は全て嘘だった」とも話している。

しかし、その「日本人」の約束は20年後の1965年に果たされた。日韓国交正常化の時、日本政府は韓国政府に国家予算に匹敵する資金を提供し、ヤンさんのような韓国国籍になった「債権者」に金銭を支払おうとしたものの、韓国政府がそれをまとめて支払うと日本政府に約束していた。

11か月分の給料を貰っていないと、ヤンさんは1990年代に日本の裁判所に損害賠償請求訴訟を起こしたが、敗訴した。韓国で起こした裁判では勝訴した。そのため、韓国裁判所から三菱重工業に対してヤンさんら原告1人あたり慰謝料1億~1億5000万ウォン(約957万~1436万円)の支払いが命じられた状態だ。

この問題は日韓関係の大前提を覆す可能性があり、この10年間、韓国と日本の友好関係を願う日韓の人々を苦しめている。また、国家ぐるみで「強制動員」された労働者が福祉制度の「厚生年金」に加入していたなら、人類史に前例のない事である。

1945年、約束された給料が戦後の混乱で元勤労挺身隊ハルモ二の手に入らなかったなら、日本に非がある。しかし、20年後の1965年に、国交正常化と同時に約束を果たした日本から預かった金銭を、56年間も元勤労挺身隊ハルモ二に渡していない韓国政府は一体、何をしているのか?』

日本はタテ社会か、それはなぜか?

日本はタテ社会か、それはなぜか?
https://web.econ.keio.ac.jp/staff/tets/ml/kakusa/tate.html

 ※ 面白いけど、それで「現実世界」をマルっと「把握しきれる」ものでもないな…。
 ※ どんな「理論」「理屈」でも、その「論」に納まりきらない、「ハミ出てしまう」部分は、ある…。

 ※ 社会をある「型」や、「枠」にハメることよりも、社会が「動いて、変化していく」、その「動因」、「どういう勢力の力学によって」動いて・変化しているのか…、の方に興味がある…。

『ここにある文章は、一般社会人、学生、その他、とくに社会学を専門に学習しているわけではない者同士で、タテ社会について論じた記録です。』

『中根千枝『タテ社会の人間関係─単一社会の理論』 (講談社現代新書 1967)を取り上げます。

インターネット上でざっと検索してみて驚いたのですが、1967年の出版物だと いうのに、いまだに原著に対する書評、原著を元にした論説が膨大に見つかり ました。これだけ古い本だと、ふつうは後継者による批判が積み重ねられて、 原著よりは洗練された形で論考がまとめられているものです。いまだに 原著をめぐる論説が出され、大学でのテキストでも取り上げられているという ことは、内容の成否とは関係なく、この本が古典の地位にあることを意味して いると思われます。

しかし、ここで疑問があります。『タテ社会の人間関係』は、いまだに日本 社会の基礎にある真実を語っているから読み継がれているのでしょうか。それ とも、現代には通用しないけれども、ある時代の日本社会を的確に説明する ものなのでしょうか。

また、もう一つ考えるべきは、「タテ社会」は日本だけの特徴なのだろうか ということです。日本=タテ社会と言われると、なんだかそうかなという 気持ちになってしまうかもしれませんが、本当にそうだとしても、日本以外の 社会がヨコ社会になるわけではありません。

この本では、社会集団の構成要因として「資格」と「場」との区別をします。

資格 職業、血縁、身分などの資格によって集団が構成される。
場 地域、会社などの一定の枠によって集団が構成される。

日本は社会では「場」への所属が自己の存在を確認するより所になっていると 主張します。組織の中では、同一資格保持者であっても、上下の差が設定される ことで序列が形成される。その意味でタテ社会ということです。

場社会であることがタテ社会であることを説明するという論法ですが、これと まったく逆に、タテ社会であるから場を重んずる社会になったという仮説を 考えることもできます。その場合には、タテ社会(であるとして) である理由は、場社会であることととは別の根拠を探しださなければなりま せん。

日本はタテ社会なのか
日本だけがタテ社会なのか
なぜタテ社会になったのか
タテ社会であることが何か問題か(悪いのか) 

など、いつものように、最初は自由に意見を出し合いましょう。4,5日間は 自由に意見を出し合い、その後に司会者からテーマの絞込みの提案をすること にします。』

『 [01674] タテ社会(=日本の社会構造)は理想郷
「タテ社会」って理想郷だと思います。能力主義社会で生きている人間にとって、上 下関係だけ上手くやれば時間と共に上にあがっていける社会って最高じゃないかと思 います。
相手の感情を害さないで、「今日は天気がいいですね」と言い合っている社会構造っ て心地よいですね。』

『[01675] 日本人はマゾ?
南博(昔の社会心理学者)は
「魚は水中にいて水を知らないといわれる。われわれ日本人は、日本で生れ、日本人 の中で育ち、生きているために、日本人の持ち前のよさについても悪いところについ ても、知ることが難しい」と言っていました。

しかし外国人が客観的に(?)書いた書物だって「(『菊と刀』を含めて)すごい見 当違いに思えます。

『菊と刀』などに対してそれを「そうかー、日本人ってそうなのかー、西洋風に思想 を変えなければいけない。」とマゾヒステックに見習う「特性」こそ日本人なのかな ?と思ったります。

*イタリア人も日本人はマゾっぽいと言っていました。
的確な発言?』

『[01676] 思いついたこと
言語と深く関わりがあるような気がします。 日本では尊敬語・謙譲語・丁寧語・謙遜語等本当に色々な 話し方があります。

欧米においては詳しくはわかりませんが、 丁寧な言い方はあっても尊敬語等は存在しないと思うのです。

確か中国語では目上の人に対しての「あなた」はニン 普通に「あなた」はニーと漢字が違っていたような気がします。 (漢字が出ないのでカタカナで表記) と言う事は東洋の文化にはタテ社会が?儒教あたりが関連しているような… でも、中国の円卓と言うのは上下なく(上座下座)食事を楽しもう と言うコンセプトだって聞いたことがあったような気がします。 そう言う円卓も日本人が作った物だって聞いたときは あれ?っと思ったのですけど。

別の意味で英などでは階級が出来ていて、他の階級との接触がないので 問題意識にも上らないって聞いたことがあります。 日本も身分制度が残っていたらどうなのでしょうね。

思いついたまでのことを書いてみました』

『[01677] 存続・発展・権利
ご紹介いただいた「タテ社会の──」は後日購入して読ませていただ くとして、予備知識のない現時点での第一感としての感想を述べますと、

いわゆる“タテ”(あるいは“ヨコ”)の関係には、個人の“権利” というものに対する「意識」が何か関わりがあるような気がします。

たとえば、私自身が「場」において自己をどのように位置付けるか、 ということと共に、「場」が“私”を何者として見るか、ということ がその「関係」を形成する上で無視できない要素になると思うのです。 大雑把に言うと、「私」という存在が、ある共同体の中で“肯定的に” 位置付けられるためには、「私」がその共同体に対して「危害(不利 益)」をもたらさないという保証が必要であると考えます。

つまり、「タテの関係」は「共同体」の存続を危うくするような力を 予め封じるために用いられるのではないかと思います。 したがって、その「存続を目的とする」共同体においては個人の「権 利」は第一義的なものにはなり得ず、「権利」という概念さえ必要と しない、と言ってもいいかもしれません。 しかし、共同体が「存続」のみならずその「発展」をも目的とし、他 の共同体との融合・合併を目指す場合は、「力ずく」という選択をし ないのなら、自他の「権利」というものに敏感になる必要があるので はないかと思うのです。 ゆえに、そういった共同体同士では“ヨコ”の関係が重視されると考 えます。

以上のように考えると、日本のように、閉鎖的で、自己の存続のみを 目的としてきたような社会では、「タテの関係」が形成されやすいの ではないかと思います。

提示された資料も読まずに第一感として発言させていただきましたの で、かなりピントはずれな意見になってしまったかもしれません。 読後にまた何か発言させていただければと思っています。』

『[01678] 司会:本を読む必要はないです
司会です

今回は『タテ社会の人間関係』を参考書にはしますが、この本を読まなければ 議論に参加できないわけではないです。読んだ人、読んでいない人それぞれの 意見が出てくるほうがいいと思います。読む前の意見と、読んだ上での意見と が同じ人から出てくるのもいいですね。概念を共通にしておく ことは重要ですが、このメーリングリストでは専門的な議論をするわけではな いので、「タテ」の概念は、直感的にこう思う、というレベルで把握しておく ので(当座は)いいと考えています。

ちなみに、このテーマで話すと、日本社会との比較の対象としてふつうの人は西欧 社会、とりわけアメリカ社会を念頭におくと思いますが、中根千枝さんは比較基準 として必ず西欧社会を設定する論法にきわめて批判的です。この本の中ではしば しばインド社会が比較の対象になっています。西欧以外の地域との比較でも日本は 特別にタテ社会であるというのが、中根氏の意見です。今回の議論では、日本社会 についての洞察だけでなく、西欧社会を含むいくつもの地域についての多様な見方 がでてくることが重要です。』

『[01679] タテ社会vs . ヨコ社会
タテ社会とヨコ社会の特徴をまとめると以下のようになるのかなぁ?

タテ社会

集団構成の第一条件は「場」の共通性にある。
集団は個人的な人間関係(パターナリズム=温情主義)によって維持される。
多くの場合、年功序列や入団順の序列構成である。
古顔が常に力をもち、新参者は一番下の立場に おかれる。
キーワード 母性社会・ウェット・モンスーン・単一性・たこつぼ型 

ヨコ社会

集団構成の第一条件は個人の「資格」共通性にある。
集団は契約関係によって維持される。
序列は実力の増減によって変動する。
新参者も実力さえあれば上位に立てる。
キーワード 父性社会・ドライ・砂漠・サラダボール・ササラ型』 

『[01680] 徳川体制
中根千枝さんは、

「徳川体制というものはまず士農工商という身分に全人口をホリゾンタルにキリ、さ らに藩という『タテ』割を設けて行われたのであり、その善悪は別として、組織とし て、『ヨコ』『タテ』両者を交錯させているということで、これはまことにすぐれた ものというべきであろう」(p.113)
と述べていました。

この近代以前に完備された中央集権官僚体制が、日本社会の「タテ」構造の発達に大 いに役立っているそうです。

そうなのでしょうか? 歴史が疎いのでどなたか教えてください。

p.s.中根さんはちなみに田中真紀子さんのブレーンでもあると伺いました。』

『[01681] 権威主義
日本が、明治以降、大きく政治的、経済的に飛躍できたのは、 なにも、黒船が契機となったばかりではなく、封建制が土台と してあったことが、大きな要因ではないかという見方があります。

その他の、アジア諸国においても、今日の発展の背景において、 やや独裁的と批判を受けるもののリーダーシップを軸に、政治的 安定と集中した経済改革が実行されやすくなるため、権威主義的 体制というのは、政治的、経済的な発展途上の中では、ある程度 功績を認められるものであると考えます。

と、ここまで書いていて
中央集権、権威主義、封建制・・・なんか、似ているような、 似ていないような・・・それとタテ社会とは、どういう意味的 違いがあるのだろうか・・・と考えてしまった。』

『[01682] Re: 徳川体制
私は、中根千枝さんの本を読んだことありませんが、

徳川体制が、「タテとヨコの交錯」というのが非常に興味 深い見方だなと思いました。

それと、インドといえば、思い浮かぶのカースト制度ですが、 このカーストは、上下が最も明確な制度であると思いますけど、 カーストには、その上下の流動性はなく、生まれた時から定め られてしまいます。 そこいくと、江戸時代は、徳川体制には、 武士の世界に生まれておれば、実力次第では、上下の流動が あったといえるのではないでしょうか・・・・

専門でないので、なんともいえませんが。』

『[01683] タテ社会についての印象
タテ社会と日本とから連想するのは、新聞等で取りざたされるときの負のイメージです ね。タテ割行政とか、横の連係が弱いことに対する批判とか。

たまたま今会社でマネジメントについて学習している最中だったので、いろいろ現在のタテ社会とマネジメントの関連性について考えてしまいました。

タテ社会とは、「部門化(ヨコ)」と「階層化(タテ)」の「階層化」に関する言葉ですよね。他の投稿でも挙げられているようにカースト制や士農工商のような制度ではタテ社会にはならないでしょう。(上下の繋がりがほとんど無いから。) それに実際現在の日本のタテ社会って言われるのは、部門毎の縦の継りが強すぎることを指しているように感じてます。(セクショナリズムっていわれる問題ですね。) ってすると日本は縦と横の区切りがちゃんと出来ているということだから、部門化と階層化が行われているってことで、組織としては良いと言うことですね。

結局タテ社会に対する批判は、良い組織が出来ているのに、横の継りが悪いということに対してですかね。
これって、実施層、監督層、管理層、経営層と階層化した際の実施層および経営層以外が悪いということですよね。いわゆる連結ピンにあたる層の人達。 結局、実施層の人間がほとんどまともなマネジメントの訓練を受けないまま監督層、管理層になっていってる日本企業(官を含む)の人事制度への批判なんですかね。

というような事を考えてしまいました。』

『[01684] 契約
[01679] で述べられている、

・集団は契約関係によって維持される。

という意見は注目すべきだと感じました。

個人と個人、個人と社会、社会と社会の関係が“契約”によって成り 立っているような社会は、たしかに「ヨコ社会」という印象がありま すし、これに対し、「タテ社会」は、それらの関係が“現実的な力” 関係によって成り立っているという性格を帯びていると思います。

日本の場合、建て前上は「ヨコ社会」で、現実的には「タテ社会」と 言えるかもしれません。』

『[01685] Re: 徳川体制
大平です

01679のタテ社会、ヨコ社会の分類は、原著に書いてあることを短く適確に整理 していると思います。(キーワードについては検討の余地あり)

徳川体制について
01680の文章は短いのでよくわかりませんが、ニュアンスが逆だと思います。
江戸時代の制度 → タテ社会  ではなく、
日本はタテ社会 → 江戸時代の中央集権官僚制度
という主張が中根氏のもともとの主張ではないでしょうか。ここでの議論 では原著に忠実に話をすすめる必要はないですが、江戸時代が現代の社会 構造に影響をあたえたという歴史認識が話題になるとしたら、原著の主張は 一応把握しておく必要があるでしょう。

地方ごとにタテの組織(場)が分立しており、それを統合するメカニズムが タテ組織内部にはないので、高次の活動のためには中央集権的組織を作ら ざるをえなかったと原著に書いてあります。タテ社会では、水平的な連合 組織ではなく、中央集権型の政治組織が生まれてしまうという主張です。 地方・周辺だけでは完結した小さなタテ組織しか作れないので、中央という より上位の組織を、地方も必要としたという理解でよいのかなと思って います。』

『[01686] Re: 契約
大平です

『タテ社会の人間関係』によれば、現実的な力関係で個人間の関係が 成り立つというだけではタテ社会とは言わないはずです。たとえば、 腕力の差で上下関係が出来るのは、実力主義=ヨコ関係の中に括られ るはずです。

現実的な力関係が「場」の中の論理で作られ、それによって上下という 序列が形成されることが「タテ社会」の特徴だそうです。上下関係がある かないかではなく、上下関係が「場」「資格」のいずれによって生じる のかでタテ、ヨコを分類するという発想です。

権威主義、封建制など似たようなところに括られる概念だと思いますが、 見かけは同じようなものであっても、「場」「資格」のいずれで生じる かでちがうという主張です。「タテ」という言葉に引きずられすぎると、 中根氏の主張を理解することができません。「場」「資格」のいずれが 人間関係を形成する主要ファクターかを問題にしているのが『タテ社会の 人間関係』です。

契約という水平的な関係はヨコ社会でしかありえないでしょうが、 上下関係はヨコ社会でもタテ社会でも存在します。上下関係ができた ときに、異なるグループ間の同レベルの者同士が協力することは ヨコ社会ではありうるけれども、タテ社会では縦割りになっているので 協力関係が生まれない、なんてことも書いてあります。たとえば、 タテ社会では企業別労働組合(会社という場の中のもの)、ヨコ社会 では職能別労働組合(資格を同一にする者同士の協力)ができる というような感じです。』

『[01687] タテ社会について
藤田です。

日本はタテ社会か? この単一社会の理論は、現在でも日本に生きているのだと思います。 タテ社会にもヨコ社会にも長所と短所がありますね。

タテ社会は 日本人は基本的に「場」を単位として閉鎖的な世界をつくるのが得意です。 その「場」の成員は力を結集し一体感を持って集団として強い機能をもつ。 その「場」以外の人を排他的にみる感覚はある意味日本の文化だと思います。 問題の本質より、感情的な行動をしてしまい「真の対話」がありえない。 日本社会には、この人間関係が根底に現在も確かにあると思います。

しかし産業構造の変化と共に求められる労働の形態が変化してきているので 「個人主義」や「契約」の精神が浸透し始めているのではないでしょうか? 例えばIT産業においてゲームを作ったりする場合、 あまりタテの意識はなく個人主義が強いと思います。 終身雇用の崩壊と共に家族的な経営は消えつつあるようにも思います。』

『[01688] Re: 徳川体制
中根さんは’Japanese Society’ と’Tokugawa Japan’ という英訳も出しています。 英語の本もチェックしてみました。

Whatever its psychological or emotional effects, this penetrating power of the central administration, the roots of which were already established in the Tokugawa period, was an essential basis for modernization which has taken place since the Meiji period.The bureaucratic system of this central administration has an organizational pattern in common with the Japanese native social structure-the vertical organization…..by ‘Japanese Society'(p103)

The Tokugawa period provided the foundation of present-day Japan in the sense that many elements now considered characteristic of Japanese society originated then….by’ Tokugawa Japan ‘(p.213)

と書いてあります。 中根が注目していることは 明治じゃなくて、江戸時代の制度が基本となって
→ タテ社会といった日本独特の(?)社会構造を決定づけている
と私は理解しました。

間違いでしょうか?』

『[01689] Re: 徳川体制
大平です

ここでの議論は、社会学に関する専門的な議論をするわけではないことを 一応確認しといた上で徳川体制についてのコメントです。

01688にある英文の引用を読んでも、やはり
日本はタテ社会 → 中央集権体制
と書いてあるとしか見えません。江戸時代にすでに確立していた中央集権 体制が明治以降の近代化の基礎になったとは言っています。
中央集権体制 → 明治以降の急速な近代化
ですね。 (ちなみにタテ社会化=近代化ではないですね)

日本独特のタテ社会の特徴が制度化された時期として江戸時代を見るのが中根 氏の見方です。また、家制度が確立したのも江戸時代だと言っています。

ここまで原著の解釈、ここから私見・私の歴史観

江戸時代以前、とくに戦国時代の日本は実力本位の時代で、ヨコ社会の特徴を 多分に備えていたはずです。江戸時代に徳川支配の都合で作られた制度が タテ社会的要素を確立したという仮説の方が私には理解しやすいです。
中央集権体制 → タテ社会
の方が正しいのではないかということです。(原著に対する反論ですね)

ただ、なんとなく気持ちの中にあった考え方を社会制度として整備したのが江戸 時代だといわれると、そうなのかもしれないなあ、とも感じます。』

『[01690] Re: 考えてみました
タテ社会
歴史が古く、クーデターなどが起こらず、国家基盤が安定している国!?
ヨコ社会
歴史が浅いか、クーデターなどによって権力者が頻繁に交代する国!?

など、考えてみました。』

『[01691] 儒教的秩序の中は居心地良し
利休の弟子、宗洋です。

小員も[01673]の方同様、日本やアジア諸国における「タテ社会」の背景は、歴史的 に「儒教」によるところが大きいように直感した次第です。 日本においては、徳川幕府が孔子論語を積極的に推奨し、また、維新後の明治政府に おいても、教育に取り入れていたと記憶しております。 しかし、中国や朝鮮半島の「儒教」と、江戸時代以降日本に根付いた「儒教」とは、 些か質感が違ってはいないだろうか。 こと日本においては、儒教的な、きっちりとしたタテ・ヨコ・ヒエラルキー形態の中 に埋没すると、何かどこか安心できるという特性が、われわれニッポン人にはあるの ではなかろうか。 「君々臣々父々子々」、忠臣蔵の「忠」、親孝行の「孝」・・。

インドのカースト制度は、ヒンドゥー教の教理に源泉があると聞いたが、仏教、ヒン ドゥー教の輪廻転生も、関係があるや否や・・。』

『[01692] タテとヨコの交錯
どうやら私は間違っていたようです。

「なんとなく気持ちの中にあった考え方を社会制度として整備したのが江戸時代」 だったんですね。

中根氏によるとタテの社会構造は「変わらないもの」であって、徳川からいきなり登 場してきたものではないですしね。 ご指摘に感謝いたします。

さて、中根さんのいっていた徳川体制の「タテ・ヨコの交錯」はこういうことなんだ と今のところ思っています↓↓↓

家康が思想的ブレーンとした儒学者は、林羅山(1583~1657)という人で、彼は「上 下の差別を先天的な秩序(=資格)と考える個別主義者」であった。 その思想が徳川幕府の身分制による秩序(=カースト)という理念によく適合したか ら、林家は徳川時代を通じて幕府の儒家という地位を与えられ、林羅山派の朱子学が 幕府の身分制を裏付けする道徳原理となった。 (参考『タテ社会終焉』 八巻なおみ:)

すなわち、上下の差別を先天的な秩序と考える朱子学(儒学)はタテとヨコが盛り込 まれて徳川体制にとって非常に便利だった。

  • 今のマネジメントトレーニングって、タテとヨコのバランスがいい組織を目標として いるのでしょうか? 具体的にどういうことなんだろうか?』

『[01693] フラット化
藤田です。

タテ社会の集団の構造は底辺のない三角関係だと中根氏はいってますが、

現在のヒエラルキーは中間管理職をなくす方向でフラット化していると思います。 それにより何が起こるかといえば、個人主義となる事ではないでしょうか。

ヒエラルキーの場合は責任の所在がわりと不明確でした。 しかし、フラット化すると風通しが良い分、直接自分に責任がかかります。

有能な「個人主義」の人材を沢山集めたら会社として良いかどうかは不明です。 個と個がぶつかり合います。 力学的マネージメント能力がある人材が必要です。 この人材がいないと組織が成り立たないという観点からみると こちらの方が重要だと思います。 マネージメント能力のある人材は「個人主義」ではないですよね。

日本がこれだけの経済大国になったのは 結果的にみてタテ社会の功績だともいえる。

何かの本で読んだのですが アメリカだって以前は「日本のやり方」を取り入れていく必要がある という経済学者がかなりいて「Zの理論」という本にもなったそうだ。

そう考えると、 タテ社会とヨコ社会良いところを生かして ミックスした複合的社会が望ましいのではないでしょうか。 ただ日本人は「個人主義」に慣れていない、素質がないようにも感じます。』

『[01694] 昔だったからでしょうか?
『タテ社会の人間関係』を読んで「うーん?そうですか」と思った箇所

●「ヨソ者」意識が生む日本人の非社交性
「たとえば、外国滞在の経験をもつものなら誰でも思い起こすことができよう。日本 人同士が偶然外国で居合わせたときに起こる「冷たさ」を通り越した「いがみ合い」 に似たあの「敵意」に満ちたような視線のやりとりは、まったくお互いにやりきれな いことだ。(p.50)

●あらゆる分野に田舎っぺ傾向
自分たちの世界以外のことをあまり知らない、あるいは他の世界の存在をあまり知ら ず、それなれていない、感覚としては「田舎っぺ」傾向。(p.53)

●奇異にうつる日本の序列意識
ロンドン大で講師をしていたときの話。 イギリス人の社会人類学者が日本人のxxx教授に中根氏を知っているかと聞いたら、 「よく知っています・・・・しかし彼女は私の後輩なんです!」といったのでイギリ ス人サークルに笑われたという話。(p.89)

その他、アメリカ大学に滞在中、中国人のグループは中根氏が通りかかると、壁を作 らないようにすぐ英語に切り換えて、日本人とは対照的だった。(p.48)

などなど、「うーん、そうだったんですか?」と思ってしまった・・。』

『[01695] Re: フラット化
藤田さんのおっしゃることよくわかるような気がします。勉強になりました。

ところで、中根さんがいっている社会は2つです。

タテの階層    |||  ( ↓ )

            ― ヨコの階層     ―    ( → )             ―

しかし集団になると

タテ集団       a
           /\
          b   c

ヨコ集団      a
           △      
          b  c

といっています。 そうでしょうか?

でもこの図おかしくないですか?ヨコの集団の図ってヨコだけではなくタテもヨコも つながりがあって。 それに上の階層図とマッチしない。

最も社会における人間関係のつながりをそんなに単純化してよいものでしょうか?』

『[01696] Re: 昔だったからでしょうか?
こんばんわ。

私は英語が苦手なので、海外旅行に出かけたことがありません。 来年、娘がハワイで結婚式をあげるのですが、中根さんみたいな苦い思いをするのな ら、いっそ旅行を取りやめにしようかと思ったりします。

このMLのメンバーはなんていいますか、コスモポリタンで海外旅行や留学されている ひとが沢山いらっしゃると聞きました。

中根さんの経験談を皆様はどう考えますか? ご意見お聞かせください。

海外で「恥ずかしい思い」をしたくないのでご意見いただければ幸いです。』

『[01697] Re: フラット化
フラット化の手法として、企業ではプロダクトマネージャー制や、少し意味がずれると思いますが、プロジェクトチーム、タスクフォース制などを導入し(はじめ)ていると思います。 また、複雑化した階層の簡略化もしてますので、確かにフラット化に進んでいると思います。

私の感覚なので、原典はないのですが、以前の日本のタテ社会が上手く機能した理由として、次のような事があると思います。

1)以前の日本人は仲間意識、帰属意識が強く、このため、結果としてヨコの関係が水面下で機能していた。
2)村八分くらいからの日本の習慣(?)の連体責任制が、結果としてVE活動におけるチーム デザインのような機能を果たしていた。

この2)の連体責任というシステムも仲間意識を強める原因だったと思います。 あと日本のタテ社会が築かれた原因として、組織でいう統制範囲の原則といわれる、一人の人間が管理できる人数には限界があると言われるものがキッチリ守られていたのだと思います。 この原則が社会組織から、村、そして家の中まで徹底して適用されていたのが日本ではないでしょうか。 逆にこの統制範囲の原則以上に多くの下っ端を持つような構造の社会では、数の力で縦の繋がりよりも横の繋がりが強くなるのでは? このような社会では、デモが多く発生したり、個人の主張(特に権力者に対して)をハッキリしたりする文化に育つのでは?

現在の日本の構造に対する個人的な見解としましては、タテ社会にヨコの仕組を導入しようとしている変遷期のように思います。』

『[01698] 縦社会、横社会
くろだです

勝手な解釈ですが、私は縦社会と横社会をこうとらえています。

縦社会:一部の人間(組織)が自分の権利と利益を最優先させるように
     作った階層社会。
     主に、下階層の人間はシステム的に不利な立場におかれるので
     上の階層に行くのがむずかしい。
     上の階層にいる人間は、利権を守をまもる為の行動する傾向に
     ある。
     たとえば昔の日本の会社で言えば、年功序列と言う制度があった。
     能力が下でも、年齢が上ならば上司の立場を保障されていた。
     最近はそれが崩れて来ているので、秩序がまもれなくなってきている
     事が問題になってきている。

横社会:環境の近い人間や接点の多い人間が自然発生的に作る人間関係社会。

     横社会だからといって平等ととられやすいが、決してそんなことは無い。
     自然発生的に上下関係(序列)ができるのが特徴。
     ここで出来る上下関係には目的が無い為、必要以上の強制力をもつ
     上下関係が成り立つ場合がある。

           ある優位的な特性によって出来る人間関係なので、移り変わりが早い
     社会である。

すごく偏った意見ですいません。(^^;』        
     
『[01699] Re: 01695 さんへ
藤田です

多分、集団を表現するのに最低の人数が3人で(これでもグループ) それがP117頁の第1図で示されていて、かえって分かりにくくなっていると思い ます。 これってパラドックス? 【1695】さんのように上手に図がかけなくてすみませんが

Yの図はa⇔b⇔c⇔aの関係ですべての成員が繋がっている。 3人だと三角形になるからまぎらわしいですね。

Xの図はa→b、a→cトップダウンの場合
     b→a、c→aボトムアップの場合
     aを頂点として繋がっている。

その下の第2図になるとはっきりしてきませんか?

次のhという人が入ってくる入り方を 問題にしていると思いますよ。

今現在の社会では中根氏が書かれた時代より 変化していて(していない部分もある) その一つに組織のフラット化がある。 フラット化は 下図のように、第2図で示しているb、cが いなくなったという意味です。  下図の矢印はありませんがタテにa→b、a→c、a→d、a→eです。 新しいhが入って来たらh→aです。 (これはトップダウンの場合で逆方向はボトムアップ)

        a

    b  c  d  e    』

   
『[01700] フラット化
送信されてなかったのようなので再送します。 藤田さん、

ⅹ タテ集団 (a⇔b a⇔c) 
          a
          ∧
        b c

Y ヨコ集団  (a⇔b、b⇔c、a⇔c)  
           a 
           △
          b  c

「三角形になるから紛らわしい」というのはおっしゃるとおりです。 思うに上記の図は、one-to-oneの個人の関係だったらいいのですが、集団となるとよ く説明 しているように思えません。

中根が言いたかったのおっしゃるとおり
1。hの人の入り方とそれと2.タテ社会はピラミッド型だということですね、たぶ ん。

藤田さんフラット化理論を図にするとどうなるのでしょう?
         a
       ///\\\\
      b c  d e ・ h

Xの図二人数を増やしただけになってしまいました。

初めて聞いた理論なのでよろしければもう少しご紹介ください。』

『[01701] 組織のドライ化
[1697]の方が 現在の日本の構造に対する個人的な見解としましては、タテ社会にヨコの仕組を導入 しようとしている変遷期という見方に、同感です。

そして私たちはその変遷期のウィットネスなんだろうと思います。この時期に日本人 のアイデンティティーを探っていくのは大切なんではないかと思います。 自分がなんだかわからないことが多いですから。

結果にいろんな見方ができますが、 社会の景気悪化などにより、リストラを積極的に推し進められ、終身雇用のような組 織安定性=定着=ウェットが不可能となり、あちこち飛び歩く渡り鳥のような生活を しなければならなければならない日本人が増えている。この状況に適応するために、 個々人の性格が自然とドライ化する傾向にあるのではないかという既存日本人論の定 説を覆すような見方をする人もいます。』

『[01702] 司会:用語の統一、テキストについて
司会です

(1) 用語

ここでの議論では中根氏の原著にしたがってタテ、ヨコという言葉をつかうこと にしましょう。以下のような言葉づかいでいいのではないでしょうか。

タテ関係:上司・部下関係など上下のつながり(一方が他方に従属)
ヨコ関係:対等な人間関係

タテ社会:基本的にタテ関係のみしかない社会
ヨコ社会:タテ関係に加えてヨコ関係もある社会

ログでは中根氏の原著の文章を比較的忠実に再現している部分は色を別にして あります。メンバーの意見と中根氏の原意とを区別するための工夫なので、 参考にしてください。

(2) 検討対象になっている中根氏の仮説

日本社会では「場」を通じて人間関係を形成するために、タテ関係しか生ま れない。「資格」を通じて結びつくヨコ関係は生まれない。結果として日本は タテ社会である。

(3) テキスト

テキストを読んでいない人、異なる版のテキストを読んでいる人もいる可能性 を考えて投稿文を作るようにお願いします。引用をする場合、ページ数を書くの は大事なことですが、そのページを見なければ投稿文の意味がわからないような 書き方はしないようお願いします。』

『[01703] フラット化とヨコ関係
全世界どこでも(だと思います)、長い伝統をもつ組織の硬直化やセクショナリ ズムが話題になります。ヨコのつながりがないとか、あっても形骸化してしまう。 権限が複雑に入り組むと、どうしてもセクショナリズム・自分の属する部門の 権限を守ろうとする考えが出てくるのではないでしょうか。

そこで、タテかヨコかが問題というよりも、複雑になりすぎることの方が問題と いう意見を出してみます。ヨコの組織を仮につくっても、問題の所在が見えにく いので、結局は自分の属する部門の権益確保や手間をはぶく行動になってしまう のではないでしょうか。ヨコ組織の乱立はかえって組織全体の効率を悪くする ことも考えられます。

このような問題意識の下で、フラット化という形で組織構造を簡素化し、権限に ついても委譲していく流れが出てきているんだと思います。フラット化というのは、 タテ関係の階層構造の複雑さを簡明にすることであって、ヨコ関係を作り出すこと ではないと思っています。ちがいますか? たぶんフラット化の話はタテ社会、 ヨコ社会の議論とはすぐには結びつかないと思います。

一方、フラット化が個人主義化に結びつくという藤田さんの意見は正しいと思い ます。個人主義=ヨコ社会ですかね? なんとなく、個人主義というのはタテで もヨコでもなく、みんながバラバラで結びつかない社会のように思えます。

* 「フラット化=組織構造の簡素化+権限をできるだけ下へ委譲」という意味で つかっています。』

『[01704] 個人主義の源泉
藤田です。

個人主義の素質がなさそうなのはどうしてか考えてみました。 個は「家族」からつくられるものですよね・・・・。 中根氏も「場」を強調する日本独自の集団認識の あり方は「家」の概念にあるといっている。(31頁以降参照) それで「個」がどの様に確立されるか 家長権から家父長制度、母性、父性というキーワードをもとに 歴史的なところからひろってみました。(簡略化した箇所もある) 以下、私の言葉はコメント程度で『』で括りました。

家父長制度と家族の出現

「父性の復権」林 道義 中公新書によると これまで思想界を圧倒的に支配してきたのは 「母権性から父権性へ」というみかたであった。 19世紀中ごろのモルガンの「古代社会」と それに依拠したエンゲルスの「家族、私有財産及び国家の起源」により 「乱婚制から母権性へ、母権性から父権性へ」という歴史認識だった。 歴史をさかのぼればさかのぼるほど父性は弱いと考えがちだが、 山極寿一氏の家族の起源「父性の登場」東京大学出版会の研究により 類人猿にも人間の父性にあたるものの存在を発見したそうだ。

『また進化のストーリーについて興味のある方は 家族の起源「父性の登場」176頁以降を参照してみてください。 全部読んでないけど山極氏の研究は面白いと思います。』 

初期人類は二足歩行することによって人類となった。 脳が大きくなった人類は成熟した子供では 産道が通れないので子供の脳が小さいうちに(未熟なうちに) 生む必要があった。人間の幼児はサルのように自分の力で 母親の身体にしがみつく事が出来ないので、人間の母親は常に子供を 抱いていなければならない。その結果母親は行動が制限され単独生活者として は弱い存在となった。初期人類のオスはこの弱い存在の母子を見捨てないで 母とカップルを形成して父となり母子の面倒をみた。 こうして家族が出現した。父の登場と家族の形成は同時であった。

日本の家父長制 (「家族の復権」林 道義 中公新書より)
日本の母系、父系はアマテラスとスサノヲの 「誓ひ」に書かれている相克がみられる。 とても単純化していうと西南地方は母権制が優勢 (双系制が複雑に入り混じっていたが)で 東北地方は顕著な父権が優勢だった。 その東北地方の伝統が中世の武士社会の 勃興とともに全国に広がって、 江戸時代から明治にかけて一段と強化されて 明治民法によって家族における家父長の 権力が確立された。

母性原理と父性原理(家族関係を考える 河合隼雄  講談社現代新書より)
簡単にいうと母性原理は「包含する」ことをおもな機能としている。 すべてを包み込み、すべてのものが絶対的な平等性をもつ。

『「和」を好む』 

父性原理は母子の一体性を破ったように「切断する」機能に特性をもつ。

『競争や闘争を好む』 

この二つの原理は共に大切なものであり人間の成長のためには必要なもの。 ヨーロッパの文明は父性原理を極度におしすすめられた特異な文化だと考えられる。 西洋人の子供は強い父性の力によって母親から分離し、 はっきりと区別された存在としての「個」の自覚をもっている。 それに対して日本は母子の一体感はどこまでも温存され、 他人に対して個と個の関係をもつ事はなく自分と他人は 同じ母の子として「身内」として一体感をもちうるか否かが大切になる。 日本は早くから西洋文明を積極的に取り入れて、 他の諸国に比べて「西洋化」が徹底しているようにおもわれがちだけど、 このような基本的な点に関してまだ西洋化されていない現状がある。
[01706] Re:01700 さんと 01703 さんへ
01703さんへ
底辺のない三角形Xの(タテ集団)頂点aは管理職でb、cは平社員です。 この場合フラット化と同じ形ですね。

中根氏がおっしゃる通り新しい人hが入るとき、 ヨコ社会では入団の条件は全員に影響する。 それは集団成員のルールによって明確に規定されている。 タテ社会の入団の条件は成員の中の一人の依頼により入ることが出来る。 このような違いがあるみたいですね。

01703さんへ
タテ社会とヨコ社会の二元論で集団を考えた時 タテ社会が群れ的な集団であるのに対してヨコ社会は 個が確立しあった集団という感じがします。

日本的雇用慣行といえば終身雇用・年功序列・企業別労働組合 ですよね。 これは日本の文化ともいえるタテ社会です。 終身雇用や年功序列は今や日本の雇用慣行とは言い難い状況になってきている。 それを欧米にある職種別労働組合(ヨコ社会)というのが できたら会社のありかたは変わると思います。 組織のストラクチャは簡単だと思いますが おっしゃるように現実、人間関係は複雑だと思います。』

『[01707] LLC 制度
マリアンネ・イトウです。

<中根の『タテ社会の人間関係』が、今でも多くの人に読み継がれている理由>

1)江戸~明治~昭和高度成長期に受け継がれた日本の社会風土が「タテ社会」の ベースとなっていたということへの共感・ノスタルジー

2)ドルショックによって、また円高ドル安によって、海外旅行人口が増加したこと や、低賃金労働の担い手として、外国人労働者が観光ビザでどんどん入国してきたこ となどで、鎖国→島国根性のニッポン→開かれたニッポンと、変わりつつある現代日 本社会と、同著初版1967当時との差異のおもしろさ

3)「タテ社会」の最たる大企業構造への問い→これでは立ち行かん!っちゅうこ と。

とくに3)については、つい先日、経済産業省が日本でもLLC制度(会社組織だが組 合組織のように決裁権が各自にあり、プロジェクトなどが迅速に進められる企業形 態)をすすめていこうではないか!と世の中に広告しました 。 がんばれ!ニッポン

<日本はタテ社会なのか>

Yes. いまもってやはり「タテ社会」だと思います。

<日本だけがタテ社会なのか>

No. イスラム諸国、ヒンドゥー諸国、儒教の国韓国など、そして独裁政権の国なん かは確固たる「タテ社会」なのではないでしょうか。欧米に関しては両側面があるよ うに思います。

<なぜタテ社会になったのか >

上層部が統制しやすいからでしょうか。

<タテ社会であることが何か問題か(悪いのか)>

景気回復には、企業構造の変革が必要。今のママではだめだと思います。 前述のLLC(Limited Liability Company)制度は魅力的です。
[01708] フラット化とヨコ関係
01703です

フラット化とヨコ社会との関係にまだ違和感があります。 まとまりないですが、考えていることを並べてみます。

ヨコ社会では個が確立しているという意見は賛成しますが、フラット化 の結果すすむ個人主義化がヨコ関係を作り出すかどうかは別問題ですよね。

個人主義には対等な人間関係をつくる場合と、人間関係を拒絶する 孤立した生き方を作り出す場合とがあると思います。

フラット化はタテの構造を単純にすることです。フラット化と同時に ヨコのつながりを意識的に作り出さなければ、会社の中がヨコ社会に なっていくとは思えません。

社内掲示板をつかった情報共有を促すような工夫のほうがヨコ関係を 作り出すものではないでしょうか。

契約による結びつきのことをヨコ関係と言うのなら、個人主義化と ヨコ社会化は同じ意味なのかもしれません。
[01709] 資格と場
大平です

どのような社会でも、組織的に仕事をしようと思ったら、何らかの帰属意識 が必要なんだと思います。それが日本では「場」、他国では「資格」なのか はよくはわかりませんが、個人間を結ぶ何かが必要な点では同じです。

個人主義が話題になっていますが、たしかに
(1) 対等な人間関係の基礎となる個人主義
(2) 孤立することを選び、社会生活を放棄する個人主義
という2つの意味があるように思います。おそらく『タテ社会の人間関係』 では(1)を取り上げることはあっても、(2)のような個人行動は考察の対象に なっていないと思います。個人間を結ぶ「何か」を否定するのが(2)だからです。 中根氏の本では一貫して個人間を結ぶ「何か」の構造を問題にしています。

会社、組織内のフラット化が(2)の意味での個人主義に直結するとも思えま せんが、(1)になったからといって、ヨコ関係ができるとも言えません。 フラット化の議論がタテ社会、ヨコ社会のちがいにあたえる影響はそれほど 大きくないと思います。

(1)の意味での個人主義が「資格」を共通にする者同士が結びつくヨコ社会 を支えるという意見には賛成します。しかし、『タテ社会の人間関係』を 手がかりにタテ、ヨコを論ずるのならば、まず議論すべきは、(1)の意味での 個人主義が成立するかどうかではなく、資格、場のいずれを重視するかのちがい が何によって生まれたかではないかと思います。』

『[01710] Re: 個人主義の源泉
Niko・まこ・スーちゃんです。

藤田さんの個人主義の源泉についてですが、 家族→個 ではなく、 個→家族 ではないでしょうか。 でも、日本において、と限定されると、家族が主体でそのあとに個がある、というよ うな意味なのかな。それならなんとなく「そうかも」と思います。

というのは、古代ギリシャのポリス国家社会が頭に思い浮かんだからです。 どういうことかというと、まず個人が結婚し「家族」を構成します。その子供がやが て結婚し別の家族を形成します。また、「家族」という単位のほかに、「支配者」と 「被支配者」によってもひとつの「小共同体」が形成されるケースもあります。これ ら「家族」や「小共同体」同士は「村」を形成します。そしてこの「村」が寄り合っ て「ポリス(小都市国家とでもいいますか)」を形成します。 これらの構築プロセスはごくごく自然な営みによるものですが、この共同体を機能さ せるためには必然的にモラルが必要になってくるので、共同体の一番上にある「ポリ ス」は《善く生活するため》という「目的」にしたがってモラル機能を完備させると いうもの。

個々が何かの「目的」に向かって「契約」関係をつくっていく。これって「ヨコ社 会」ですか? そしてその社会が「ヨコ社会」だとしたら、必ずしも「ドライ」で「砂漠」的な人間 関係なんでしょうか?

古代ギリシャ社会では、個→国家、最高の位置にある国家(政治)は、その終極目的 に、「善く生きるため」という倫理観を持ち備えていたようです。

キリスト教が幅を利かせる以前の西洋社会―ギリシャの都市国家で、人々はどのよう な「個」を形成していったのでしょうね。』

『[01711] 個人主義
くろだです。

個人主義に思うことをひとこと。

アメリカは個人主義であると言われていますが、個人も社会も とても大事にしている印象があります。 (ボランティアも盛んですしね。) 「自他の権利を守る個人主義」と言う感じです。

では日本ではどうかと言うと、個人主義と言うより利己主義な 方、組織を多く目にします。 「自分だけが大事な個人主義」かなと思います。』

『[01712] 韓国
田貫です

タテ社会を基本的にタテ関係のみしかない社会、ヨコ社会をタテ関係に 加えてヨコ関係もある社会とするのですよね。

イスラム諸国、ヒンドゥー諸国、儒教の国韓国は上下関係の厳しさだけ だったらタテ社会的ですが、ヨコ関係がないかどうかまではわたしは わかりません。

タテかヨコかわかりませんが、韓国人は「場」への帰属を重視する という印象があります。むかしアメリカに住んでいたとき、 何かというと自分がどこの会社から派遣されているかを言う 友人がいたのでその印象があります。ああ日本人にそっくりだな と思いました。

韓国人は血縁関係を重視することでも有名です。『タテ社会』では 血縁関係は「資格」なんですよね。話が混乱します。日本とか 韓国とかの国単位ではなく、企業組織の中だけの話だったら単純 でいいのにと思います。企業の中だけの話なら韓国も「場」を重視する タテ社会ではないでしょうか。』

『[01713] 8世紀イスラムの人々は都会派
Miki・らん・スーちゃんです。

日本以外のことを考えてみました。

8世紀頃のイスラム社会は、ヨーロッパや中国に先駆けて、「都市的な生き方=アー バンライフ」をしていたそうです。豊かな生活を享受し、知識を磨き、都会的なマ ナーを身につけて、こういった生活を楽しんでいたらしいです。

灌漑農業と交易で繁栄して、現物で徴収された租税を商人に売り渡して現金収入を 得、その収入を基礎に、精密な予算組みをして、官僚や軍人への給料が全て現金で支 払われ、貨幣経済と官僚組織が整備され、市場は世界各地からの商品で溢れ…。

イスラム文明(宗教をこえてひとつの文明圏を形成していますから)の根本には、 個々人間で行われる商取引の「契約」があります。 当時のイスラム社会では、個人の責任において誰かと信用取引をし、商売を成り立た せ、相互利益を得ていたという背景が、「個」を確立させ、「ヨコ社会」を形成する 素因になっていたのではないかと思います。 そしてこの「ヨコ社会」は、「イスラム教」という強靭な倫理感に支えられ、信仰に よる連帯感によって成り立っていたのではないでしょうか。』

『[01714] 中国はヨコ社会?
ミンミンです。

中国は「ヨコ社会」と聞いたことがあります。 文化大革命前、皇帝がいた時代でも、地方社会はヨコ関係でできていたとか。 なにかの“トンデモ本”に、たしかこんな話が載っていました。

 3人の中国人が寄れば、すぐチャイナタウンをつくる。
 3人のアメリカ人が寄れば、教会をつくる。
 3人の日本人が寄れば、会社をつくる。

チャイナタウンをすぐにつくる中国人は、個々がバラバラだとか。 「アンタ、ラーメン屋、ワタシ靴屋、オマエ何ヤルカ?」ってぐあい。 すぐ株式会社をつくる日本人は、社長と専務と常務に部長・・肩書つくって名刺を刷 る。

中国こそ、孔子を生んだ儒教発祥の地ですが、その後孫文が唱えた「三民主義」など の影響によって、国民性が変わってきたのでしょうか。 それとも、孔子以前のなにかが、商売上手でヨコ社会の達人=中国人を形成している のでしょうか。ナンダロウ?』

『[01715] タテ社会とヨコ社会

中国は横社会だと思います。
それでいて横社会の中でタテの関係もはっきりしていて。 「お上なんか信じられん、自分達のことは自分達でやる」といった土壌の所ですか ら、歴史的にも弱者互助の精神に長けていて、横の連帯の中でまたタテの社会を作っ ていくというような感じです。面白いのは、乞食間での互助組織もあって、その長は 世襲していたというような話しもあります。中国ではタテ社会からの保護を求めるた めの、ヨコ社会といった感じでしょうか。』

『[01716] 日本のタテ社会を楽しむ

中根千枝氏の『タテ社会の人間関係ー単一社会の理論』を読む前に身近な社会に目を向けてみました。ちょっと無責 任な主張ですが・・。
「日本はタテ社会か」「それは問題か」・・日本はタテ社会だと思います。 以下はある雑誌のちょっと面白い投稿のご紹介です。

多くの会社で日々ありそうな、上司と部下の会話
課長「いや、部長のおっしゃる通り!」
部長「おお、そうか。おまえもそう思うか」
課長「(もみ手で)私が部長の立場でも同じ事を考えると思いますよ」
部長「ふむ。それじゃ今回は、こっちの取引にしてみようかなぁ」

この会話をどのように解釈するか。
“課長は事なかれ主義者”
“課長はいまが働き盛り”
著者はの解釈例を「悪玉フォロワーシップ」の解釈例を「善玉フォロワーシップ」として、を「志の高いゴマ すり」と表現している。「これは一つのスキルである」との事。

理想的フォロワーの「模範的」フォロワーは、独自のクリティカル・シンキングができ、独立心旺盛、常に自分で考 え、行動する社員。時には上司に対して建設的な批評も辞さず、革新的で創造的な人物だとする。

日本の身近なタテ社会を生き抜く面白い投稿だと思うので「それは問題ではない」と思ってしまうのです。』

『[01717] 行政がヨコ連携とってくれました
やぐちです。

「タテ社会」と聞いて、日本の行政のことを思い浮かべる方は多いかと思います。 「タテ割れ行政」ですね。 ところが、私どもの住む地域の区役所で、管轄部局間の垣根を越えて、既存の縛りを 破って、斬新な措置をしてくれたことがあります。

子どもが学童保育室に通っている頃の話です。 学童保育とは、20数年前に、共働き夫婦や一人親の鍵っ子たちを、孤独な放課後か ら救おうということで、親たちが立ちあがり、草の根運動的な活動を通して作り上げ たシステムです。その後、地方自治体などで公的に支援してくれるところも増えてき て、現在に至っています。 私どもの地域では、市民活動の中心的組織、住区センター管理運営員会が区の指導の もとに、この学童保育を運営しています。 年々学童保育への入室希望者は増え続けているにもかかわらず、受け入れ数が足り ず、毎年たくさんの待機児童を恒常的に出しているけれども、住区センターをたくさ んつくるわけにもいかないので、解決の糸口はなかなか探れない状況でした。 ところが反対に、公立の小学校は、児童数の減少に伴い、空き教室が増えてきていま したので、これをなんとか利用できないだろうかと、私ども親の組織、学童保育室父 母連絡協議会は、区に願い出ました。

しかし、公立小学校は、文部科学省の縛りがあり、区では教育委員会を中心とした学 校運営の専門部署の管轄ですし、学童保育室は、区の地域振興部内の住区センターを 統括する部署の管轄で、さらに、申請する時は未就学児ですから、厚生省の縛りがあ る、福祉事務所(公立の保育所の申請窓口)になるというややこしさがありました。 つまり「タテ割れ行政」なので、あちこちに働きかけて、理解をあおいでいく地道な 努力の必要がありました。

ほとんど諦めかけていた時、当時の担当者の方が「ワーキング・グループをつくっ て、検討してみることにしました。」と、ひとこと言ってくれたときには本当に嬉し かったです。地域振興部から数名、教育委員会から数名、福祉事務所からも人を集め て、まさにヨコ組織を、この学童保育室増設のために、つくってくれたのです。 そして1年間いろいろと多方面の問題をクリアして、小学校の空き教室に住区セン ター学童保育室の分室という位置付けで、新しい学童保育室が完成しました。管轄は 地域振興部ですが、付帯設備は学校と共有します。

日本の行政が、こういう試みを思いきってもっといろいろな場面でやっていただけた らといいと思います。 少しテーマから外れてしまい申し訳ありません。』

『[01718] ピューリタニズム
よーこです。

中根の「ヨコ社会」の定義として、職業・血縁・身分など「資格」による集団構成を 重視するということですが、日本はそれではどうかと考えても、すぐに答えが見つか らなかったので、欧米諸国、特にアメリカ合衆国を考えて見ました。合衆国は「ヨコ 社会」と言えるように思います。 合衆国が「資格」重視の「ヨコ社会」だ、と仮定して、それが何によって生まれたか を考えて見ました。

西洋文化の特徴を考えると、やはり西洋的概念の根本に位置するものとして「キリス ト教」による影響を考えざるを得ません。 キリスト教と言っても多宗派ありますから、ここでは合衆国に一番影響を与えたであ ろう「ピューリタニズム」について考えて見ます。

わたしは、ピューリタンの思考の特徴を、大好きな詩人エミリー・ディキンソンで考 えて見ました。 ディキンソンは
“Mine by the right of the white election ! (白の選択によって わたしのも の)”
という詩で有名な、マサチューセツ州アマーストの19世紀後半の詩人です。 敬虔なクリスチャンである彼女ですが、妻子ある牧師に恋をしてしまいます。心の中 にこの気持ちを封印し、生別を決意してから、彼女は白い服ばかり着て、外界と自分 を遮断した生活を送ります。

ディキンソンがピューリタンの代表的な人というには、少し違和感を感じる人もいる かもしれません。なぜかといえば、彼女は失恋から隠遁生活を開始しますから、 ピューリタン・長老派教会などプロテスタント系の人々が必ず行う日曜礼拝に行かな いわけです。これはほんとうは許されないことです。病気でもないのに(ある意味病 気ですが)。

しかし、ディキンソンのこの内省的性向は、ピューリタニズムの特徴と言えます。 「ピューリタンたちは、良心の保持に誠実なあまり、しばしば過度の内省に陥りがち な傾向を持つ」と、明治学院大学のディキンソン研究者、新倉俊一先生から講義で 伺ったことがあります。

ピューリタンは「神」と「自己の魂」との1対1の対話を、心の中での「祈り」に よって行います。「神」と「自分」との契約関係の中で、神にとっての自分というこ とを常に意識して行動します。

先に触れました「資格」の中に、この「信仰」とか「宗教」というものを属させると するならば、ピューリタニズムあるいはプロテスタンティズム精神によって培われた 潜在的な特徴が、合衆国の「ヨコ社会」を形成するに至った理由とすることはできな いでしょうか。』

『[01719] 日本の家元制度
利休三千家門下 宗洋です。

小員が修養の道として門を叩いた茶の湯の世界は、家元制度による「タテ社会」だと 言えるでしょう。 日本は古来より、道を極め道を説く高尚な人物のもとに、学ぶ側の者が弟子入りする というかたちの師弟関係で、学問や武術などを学ぶ風習がありました。

茶道においてもこれに類する形式で、家元を筆頭にした宗匠と弟子の関係による三角 錐型の「タテ構造」をとっている。社中一門はそれぞれ自分の宗匠の下で茶に精進し てまいります。このような師弟関係は、弟子から宗匠に対して、茶の道に関すること で物申すことなどは許されない、そんなことはあり得ない世界ですから、一方的な上 →下の関係と言えます。この社中一門の組織はまさに「場」を重んじるものであると 言えます。

が、これは至極当然のことです。禅の思想からも、学ぶは己であり、師の元での修行 の先に、自身が自ずから道を見出すこと以外に悟りの境地を得ることはできません。

日本が「場」を重要視した「タテ社会」であるという中根氏の説は、納得できます。 家元制度など「タテ社会」に支えられた、学問や文化、武道・武術教育によるところ が大きいと感じる次第です。

いわゆる「常識がない」などという言い方をして、人を評価する風習は、日本独自の 慣例や風習を「常識」としたマナーだという考え方が普及しているからでしょう。 「礼」や「しきたり」を会得するのが「常識人」としての当然。これらの心得がない 者は、日本人として恥ずかしい「礼節を欠いた非常識な人間」という見られ方をする 慣習。 これは、良きにつけ悪しきにつけ、日本人をある意味「タテ社会」にさせる素因子だ と言えるかもしれません。 これはもしかしたら「家元制度」に因るものと言えなくもありません。』

『[01720] 利潤追求か否か
大平です

行政がヨコ組織を作って対応してくれた実例は興味深いですね。でも、そもそも なぜタテワリだったのでしょう。私はタテ社会、ヨコ社会という説明よりも、 利潤を追求しない組織の特徴で、世界中どこでも同じだと考えてます。

組織全体がカネもうけをしないのなら、そこで働く人への報酬の仕組みも能力主義 ではなくなります。カネもうけをしない組織ではたらく人が考えることは、いかに カネをかせぐかではなく、自分の手間をいかに省くかです。タテ組織をつくり、自分 の権限を守り、自分の権限の範囲だけで仕事をするのが、もっとも効率的です。役人 になる人の性格の問題ではなく、組織の目的に基づくものです。英語でも「官僚的」 という言葉はユーザーの利益に目を向けず非効率的な仕事をする意味でつかわれて います。

最近になって役所でも柔軟な対応をしてくれるようになったことには2つの理由が あると思います。

一つは、そうしなければクレームが集中するようになってきたからです。クレーム 処理に手間をかけるよりは、ヨコ組織を作るほうが手間がかからなくなったという ことです。要するに、昔はユーザーがクレームをつけることがなかったので、タテ ワリが維持されたという解釈です。役所のすることに文句をつけてはいけないという ユーザー側の意識が問題だったのであって、それは『タテ社会』でいうタテ社会の 問題ではないです。

もう一つの理由は、組織の目的についてそこで働いている人たちの意識が変わったん だと思います。個人としての意識だけでなく、広く社会一般にヤリガイを探す風潮が でてきたことに関係するのではないでしょうか。会社や役所は帰属先としての「場」 だけではなく、ヤリガイを達成するための「場」になってきているのではないでし ょうか。あるいは、使命感をもつようになったということではないでしょうか。

役所の体質やその変遷は、タテかヨコかという議論ではない、というのが私の主張です。』

『[01721] タテとヨコのちがい
大平です

タテ社会の定義は司会者が「基本的にタテ関係のみしかない社会」としています。 上下関係が厳しい社会だからといってタテ社会ではないです。この点は『タテ社会の 人間関係』でも明確になっています。上を敬う精神は世界中どこにもあることです。 「イスラム諸国、ヒンドゥー諸国、儒教の国韓国など、そして独裁政権の国なんかは タテ社会だ」とは即断できないんです

問題はヨコ関係ができるかどうかです。

家元と弟子の関係は上下関係でしょうが、弟子間に水平のつながりができるかどうか がタテ社会かヨコ社会かのちがいです。あるいは、茶の道に関すること以外で弟子が 師匠に意見を言えるかどうかが問題です。

8世紀イスラムの人々 01713
中国の互助社会的性質 01714 01715 

の例はよくわかります。

談合なんていうのは、対等な関係にある企業同士の互助の工夫だと思うんですが、 これはヨコ社会の特徴とは言えないんですかね。』

『[01722] タテからヨコへ
ヨコの関係からタテを考える方が分りやすいですね。
企業の談合はヨコ社会、まさに連帯による互助の精神から生まれてくるものですか ね。そういった意味では、日本って意外とヨコの関係の方も強いですよね。例えば町 内会活動とかもヨコの関係だと思いますし、利益主導型はタテ社会で、互助主導がヨ コ社会って考えれば、日本はタテとヨコがバランス取れた十文字社会って所のような 気がします。と言うか、世界共通のだと思うんです。
強烈なタテ社会であればあるほど、弱者の立場にあるもののヨコの連帯(互助連帯) も強くなるといいうのは自然だと思うのですが。』

『[01723] Re: タテからヨコへ
田貫です

「強烈なタテ社会であればあるほど、弱者の立場にあるもののヨコの連帯(互助連帯) も強くなるという」考え方に賛成です。次のように考えました。

絶対的な権力者が支配する国では、上に行くことができないので、同じヨコ同士で つながりあう。インドがヨコ社会なのはその例。 西欧やアラブ諸国では一神教の強力な神がいる。ヨコ関係ができるのは、 神の下の平等という意味であって、強烈な上下関係の産物としてヨコの平等が 発明された。

日本では絶対的な権力者がいたことはほとんどなく、他国ほどタテ社会ではない。 それが逆に身近な生活レベルでの上下関係の窮屈さを感じさせている。 本当はタテ社会でないからこそタテ社会だと感じる逆説が生じている。

わざと中根さんと逆のように考えてみました。』

『[01724] 依存と忠誠
「タテの関係」には、「力のない者」が、自己の「安全」を「力のあ る者」に保証してもらうことの“見返り”という側面もあるような気 がします。

「下」の者は、安全を保証してもらう代わりに「上」に尽くす。 
「上」はそれによって自らの立場をより強固なものにし、「下」の安 全を保証する。 つまり、自己の安全を「他者に依存する」関係です。

これに対し、「ヨコの関係」は自己の安全は自らが守る。 それぞれ の安全の保障は「契約」 ―― その「契約」が“暗黙の了解”であっ たとしても ――― によって成される、という側面を持っていると考 えることもできるのではないかと思います。

現代社会で暮らす私たちの安全(あるいは生活)は、「法」が保障し てくれていると思いがちですが、実際には「法」の実効力が及ぶのは 「安全が脅かされた後」であり、私たちの安全を“事前”に保障して くれるわけではありません。

実生活の中での私たちの安全は、「他者との関係」を構築することに よって保護されるわけで、その「関係」が「依存」である場合に「タ テ社会」になるのでないか、と考えると、タテ社会の“「場」の論理” とは、「安全」と「忠誠」をバーターで扱う論理と言えるのかもしれ ません。

そういった意味では、「武士社会」や「ヤクザ社会」は典型的な「タ テ社会」ですし、「忠誠」という概念が好きな日本は「タテ社会」な のかもしれません。』

『[01725] 日本はほんとに「ヨコ社会」?
イトウです。
やはりここで論じられている「タテ社会」「ヨコ社会」の定義がわからなくなってき ます。 私はまだ中根さんの著作を読んでいないので、読んでいる皆さんの意見の中からポイ ントを探っています。 「タテ関係しかないのがタテ社会」と言いながら、タテ社会は場を重んじ、温情主義 に支えられた人間関係なですよね。

[1679]のかたの タテ社会=・集団構成の第一条件は「場」・集団は個人的な人間関係(パターナリズ ム=温情主義)によって維持・多くの場合、年功序列や入団順で序列構成・古顔が常 に力をもち、新参者は一番下の立場 という説明で、中根さんの意見が正しい、つまり日本はタテ社会だと思えてなりませ ん。

[1704]ふじたさんの 「場」を強調する日本独自の集団認識のあり方は「家」の概念にあるといっている という説明でも、うなづける面が多分になります。

日本には風土として古来より日本独自の「タテ社会」と成り得る素因があったのでは ないでしょうか。 徳川幕府以降に朱子学によって、さらに強化されたとは思いますが。 日本に根付いた儒教、仏教は、あのよろずの神という日本の地域信仰やアマテラスオ オミカミの神教と少しづつ同化している部分や影響しあっている部分があり、日本人 の営みも地域の慣習を重んじ、そこから洩れ外れることのないようにしようとする徒 党を組む習性は、個が確立している「ヨコ社会」と呼ぶにはあまりにも違うと思えま す。

ただ、
>日本社会では「場」を通じて人間関係を形成するために、タテ関係しか生まれな い。「資格」を通じて結びつくヨコ関係は生まれない。結果として日本はタテ社会で ある。
となると、それはどうだろうか、と思いました。そう言い切られると「ヨコもあるだ ろう」と。 このところのみなさんの議論でいくと、どうやら日本は「ヨコ社会」ということに落 ち着きそうですが、でもほんとうにそうですか?

[1679]のかたの
ヨコ社会=・集団構成の第一条件は個人の「資格」・集団は契約関係によって維持・ 序列は実力の増減によって変動・新参者も実力さえあれば上位に立てる

[1700]のかたの
Y ヨコ集団  (a⇔b、b⇔c、a⇔c)
           a    
             △
          b  c
という説明を見て、「まあ、これもありだけど、果たしてどうだろう?今の日本企業 の中で考えてみると、bとcの間でヨコの関係ってないことのほうが多いんじゃないだ ろうか?」と思えます。

むしろ、中根さんがこの本を書かれた1967年当時の企業の中は、このbとcのヨコつな がりは今よりあったといえるように思うのです。 競争関係でも、ヨコ関係というんですか?ヤクザの世界はヨコ社会なんですよね。 「談合」なんてホントにあるんですかぁ?コマリマスね!もしあるとしたら、それは ほんとにヨコ関係なのでしょうか?

それから[1696]さんへ
お嬢様ご結婚おめでとうございます。ハワイはワイキキなら日本と一緒です。真珠湾 の「アリゾナ・メモリアル」に行く時は、覚悟して行かなければなりませんが、それ 以外のところならきっと楽しい旅ができると思います。
[01726] 十文字
『タテ社会の人間関係』は、変わりにくい基本的な人間関係のありかたを考察し、そ れを論理的に総合し、その社会の構造的なあり方をとらえた本であると言われていま す。

中根の本は論理的ですが、経験談になると極めて感情的になっているようです。ヨコ 社会と思われている学者社会のほうがサラリーマンより実は最もタテ社会なのかなと 感じてしまいました。

さて、中根の理論はたくさん批判をうけているようです。 今、出張先で資料ががないのですが Mouer, Ross とYoshio Sugimoto の共著に’Constructs for Understanding Japan’ というのがありますがタテとヨコを十文字にして、

1)タテがヨコよりも傑出している社会
2)ヨコがタテよりも  〃
3)タテもヨコも傑出している社会
4)タテもヨコもあまり傑出していない社会

があるはずだと説明していたようです。
[01727] Re: 日本はほんとに「ヨコ社会」?
タテ社会を権限等の力関係による上下関係を重視する社会、 ヨコの関係を力関係を用いない人間関係として、 ヨコ社会は、タテ社会の上下関係にこのヨコの関係を同等程度に重視した社会と定義を言い直してみました。

中根さんの定義と同等ですよね!?

私も今までの多くの議論や感想は、「重視している関係の間では協力関係がある」と言う

風だったと思います。 ヤクザの関係がヨコの競争関係があるからヨコ社会と言うと、確かに混乱しますね。

タテの関係間で競争関係(この場合だと対立関係と言うのでしょうね)がある社会がタテ社会と言えてしまいますものね。

イトウさんが言われている、「中根さんがこの本を書かれた時の方が現在よりも横の関係が在ったのではないか」、は聞いてなるほどと思いました。 これは企業内で言うと「根回し」や「調整」って言われる行動ですよね。 組織の正規のルートを通してではなく、担当者間で協力をするものですものね。(悪く言 えば談合ですね。) 実際は、ウチの会社では今でも多々ありまして、特に年配の方は自分の依頼した仕事の優先順位を高くしたもらうための当然の手段としてます。おそらくその方々が全盛期だった20~30年前からず~っと行ってきたんでしょうね。

[1720]の大平さんの「利潤を追求しない組織の自然な形はタテ社会」には、今一つ同意はできません。 タテの上下関係(階層化)は、「仕事の合理化」および「トップの意志・意向の効率的な実行化」が目的で行われるものです。 (その後権力の安定化に利用されたりもするのでしょうが) トップに利潤の追求が求められる組織なら、組織化した時点でまずタテ社会が築かれま す。ヨコ関係が出来るかどうかはトップ以外の階層の価値観の問題だと思います。

少なくとも階層化と部門化を行ったトップは、部門間が連係して機能することを期待しているはずです。

なんだか「場」と言う言葉を、中根さんはあいまいな定義(感覚的に)で使用しているように思えてきました。 「場」というと「面」や「空間」で、「場」を構成しているのは「縦と横(や高さ)」ですよね。会議とかの「場」にしても、上司から部下まで複数いて構成していますし。 そうすると、「場を重視する」とは「縦も横も重視する」ことになってしまって、どうしてタテ社会になるのかが良く分からなくなってしまいます。

結局タテ社会になる原因となったのは、
1)連帯感を持ちたがる民族性 = 個人的な責任を背負いたくない民族性
              ↓
2)仲間意識(連帯感)をもてる明確で適度な規模のグループに属したい
              ↓
3)仲間意識が強過ぎるために他のグループを敵対視しがちになる
              ↓
            タテ社会の形成

では無いでしょうか!?

中根さんは、2)の結果形成される小規模なグループを指して「場」と呼んだのかも知れませんね。そうすると「場」から「タテ社会」ができてしまいますね~。
[01728] 中根によるヨコ社会とは
中根さんの言葉づかいは独特なので、読者はかなり混乱させるのではないでしょう か。

中根は本の註で 「ヨコが機能するということは、異なる諸集団をクロス・カット(横に切る)する同 類集団としてのネットワークを持ちうることである」といっています。

これはおそらく、○○慶友会がXX慶友会とも△△慶友会が枠をつくらないでネット ワークをもち、協力しあうということとか、
例えば、政党派閥が互いにけん制しあうだけではなく、互いに協力しあうとか、
例えば、怖いお姑さんと喧嘩してしまったとき、隣村から同じ状況のお嬢さんたちが 応援にきてくれるとか、
ヨコが機能するということはそういうことを言っているのだと思います。

慰安旅行や社内運動会に(なんとなく参加しなきゃならない雰囲気なので)妻、子供 が参加したり、 会社の同僚に、家庭の事情とか恋愛とか一部始終悩みを打ち明けるとか、 要するに、村落とか職場以外に「自分の社会生活の場をもっていない、タテ社会と引 き合いに出すために持ち出したのが「ヨコ」の概念ではないだろうかと思いました。

p.s.「場」は「枠」と同じような意味で使っているような気がします。しかし 「場」だけでなく「資格」も「枠」であると考えてしまいます・・・。「枠」の概念 についてもう少し検討してから書かせていただきます。』

『[01729] ウチの会社と学者の業界

[1727]のかたのとらえかたは、ほとんど納得がいきます。
プロジェクトやタスクフォース、あるいはワーキング・グループをつくって、ある目 的に基づいて組織がつくられるケースがウチの会社でも多々あります(“ウチの会 社”って言い方考えて見たらなんかいやらしい表現ですね)。 中根の解釈でいくと、これはナニ社会なのか知りませんが、もともとの出身所属部署 の人間関係よりも、メンバーが仲良くなることが多いです(最初はかなりモメます! けん制し合うし帰属意識が働いて)。 もともと私の会社は総合商社ですから、“タニンのデカイ軒下借りて、個人商店が寄 り合い所帯で商売はっている”ようなものなんで、隣のヤツはある意味敵ですから、 時には足の引っ張り合いも陰湿にあります。

[1726]のひとが例に出した、中根じゃない人の理論「十文字」ですか?なんかこっち のほうがピンときます。
今いる会社の中しか、私は組織のことがわかりませんが、学者の業界って「ヨコ」の 関係があまりないんですかね。興味深いです。抱えている研究テーマは独自性がなく てはダメでしょうから、やはり“寄り合い所帯”=総合商社みたいなかんじなんです かね。
[01730] 教授のコラボ
学生Aです。

わたしはいま、ちょっとおもしろい講義を受けています。 おもしろいというのは、講義のスタイルが一人の教授からのスクール形式ではなく、 三人の教授によるオムニバス形式で、最後にパネル・ディスカッション方式をやっ て、われわれ聴講生も参加しながら授業を進めるというものです。

「心理学」なのですが、一人は「知覚・認知心理学」専門教授、もう一人は自然科学 系「知覚・認知心理学」教授、そしてもう一人は「臨床心理学」の専門教授がそれぞ れ自分の専門領域からのアプローチで授業を行います。

それぞれの教授が相手の教授の理論を批判しあったり、同調しあったりして、同じ教 室内で、我々学生もいる中で、教授たちが“素”を出し合って(時にはマジっぽく熱 くなって)言い合っているのはおもしろいです。

われわれにしてみたら、他方向からのアプローチによって、心理学が語られますか ら、3D感覚で授業が理解できてきます。

教授達が時々マイクを持ってわれわれの席に質問に来たり、学生同士で実験をやった りして、密度の濃いコミュニケーションが図れてとても有意義です。 受講者数が多いので、毎回アンケート用紙が配られ、われわれは意見や考えをその紙 に書いて提出しますから、教授に文句がある時や反論・質問はこの紙に書けるし、次 の講義のときに、それに教授が答えてくれます。

タテ方向ヨコ方向、学内でもうまくできているケースにうつります。』

『[01731] 思いつき
縦社会と聞いてルネサンス前のヨーロッパを思い出しました。 ルネサンス前のヨーロッパでは、人々は自分の社会での位置に疑問 をもつことはなく、それは自然なものであると捉えたそうです。こ のような社会は厳格な縦社会であると言えるでしょう。そして、こ のような社会の基盤になったのが、自給自足の経済により農民層の 富による権力が領主のそれを凌駕しえないことです。ちなみにこの 社会は「場」による社会集団の形成ですね。

しかし中世中期ごろから社会が安定して農業技術の向上、生産力の 増大をみるようになると、手工業が発達し商業が勃興しだします。 すると商業者は自分の地位を縛り付ける縦社会の風習を打破しは じめるのです。そしてこれがヒューマニズムを生むわけです。人々 は人間として平等な権利を主張しだしわけですが、これこそ横社会 の起源ではないでしょうか。(個人の権利の確立、その結果として の契約社会)

それで私の縦社会と横社会の定義をすると 縦社会=人々が自分の身分を自然なものと受け止めている社会 横社会=人々が自分の権利を主張しだす社会 というふうになります。

戦後の日本の経営者の特徴として、やたら使命感が強いことが あるように感じます。また労働者も「会社人間」と言われるよう に働くことに強い使命感を感じていたのではないのでしょうか。 そこでは私の言う縦社会での人間が存在しています。みなが働くこ と自体に疑問をもたず、働くことを自然なことであると捉えていた のではないのでしょうか。つまり日本では個人の権利が確立していな かったのです。

そして労働者に富が蓄積され、その相対的な権力の増大により日本人 にもルネサンスがやって来たのではないのでしょうか。そして遺産的 なシステムである「縦社会」は明らかに現在社会とはあいません。そ れが「縦社会」が悪いこと示します。

あと、この考え方でいけば途上国の多くは縦社会なのではないのでし ょうか。例えばアフリカとかでは、一人が何かしらの理由で富を得た 場合、それを家族・親戚などに平等にわけなくてはならないそうです。 これはまさに「個人の権利」が成立していない証拠であると思います。 つまり日本が特殊ではないということです。

横社会が一度形成されると、それを成立させる経済的基盤が存在する かぎり、縦社会は決して復活はしません。大正デモクラシーなどの横 社会が頓挫してしまったのは、その後の世界的な不況による保護貿易 の蔓延が世界的な経済基盤を揺るがしたことに起因するでしょう。 つづき 』

「日本は恐るべきタテ社会」

「日本は恐るべきタテ社会」中根千枝さんが残した言葉
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD05CCG0V01C21A1000000/

『「日本のタテ社会は恐るべきものですよ。私の本が出た高度成長期の1967年も、そこから沈みゆく時代に入った現代も、変わっていない」

10月12日に94歳で亡くなった中根千枝さんは、ベストセラーとなった著書「タテ社会の人間関係」(講談社現代新書)の刊行から50年たった2017年のインタビューで、自身の主張した日本の社会構造が、驚くほど強固なものであると語っていた。「厳しいカースト制度のあるインドだって、同じカーストの中は日本よりデモクラティック(民主的)です。韓国のタテ社会も日本とは違うし、中国ではタテ社会が壊れつつある」。鋭い分析の弁は、立て板に水のごとく続いた。「日本だって、平安時代や戦国時代はもっと自由だった。江戸時代に入るころ、人口が増える中でタテ社会になっていったのではないか」

中根さんのいう「タテ社会」は、上下関係の厳しさのみを指すわけではない。日本の官庁や企業などが、いくら西欧と同じ組織を導入しても、物事が決まるプロセスや、人間関係のありようは、前近代の農村の寄り合いと同じだということである。職種より所属先(会社名など)を重視する、論理的に発展する議論ができない、対話より共感を優先して和を保つ。さまざまな日本人像が例示される「タテ社会の人間関係」は、多くの人が気軽に手に取れる「新書」の形式だったことも奏功し、累計発行部数は132刷、118万部強に及ぶロングセラーになった。

中根さんは、1950年代から日本の農村やインドなどをフィールドワークし、欧米でも研究した社会人類学者だ。女性初の東大教授、女性初の日本学士院会員、学術界初の女性の文化勲章など、多くの「女性初」を達成した人でもある。でも、本人はいたってシンプルに、自身の関心に従って研究にまい進してきた人のように見えた。

2017年のインタビューでは90歳になっていたが、腰が曲がったことなど物ともせず、東京都内のマンションで一人暮らし。「今はヒマラヤの小王国の16世紀を研究している。結構、忙しいんですよ」と、楽しそうに資料を見せてくれた。「タテ社会の人間関係」の続編も書きたいと話していて、それは19年に「タテ社会と現代日本」(講談社現代新書)という本で実現した。

(編集委員 瀬崎久見子)』

中根千枝さん死去 94歳

中根千枝さん死去 94歳、「タテ社会の人間関係」
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE05ASO0V01C21A1000000/

『「タテ社会の人間関係」などの著作で知られる社会人類学者で、東京大名誉教授の中根千枝(なかね・ちえ)さんが10月12日午前4時、老衰のため東京都内で死去した。94歳だった。告別式は近親者で行った。喪主は妹、松井淳子さん。

女性で初めて東京大教授に就任するなど、女性研究者の草分けとして活躍した。地域社会に住んで社会構造を明らかにする手法でアジアや西欧と日本を比較、アジアの国々を中心に国際交流に貢献した。

序列偏重の日本社会を考察した1967年の「タテ社会の人間関係」が100万部を超すベストセラーとなり、各国で翻訳された。東京大東洋文化研究所所長や東京女学館大学長を歴任。95年に日本学士院会員。

93年文化功労者、2001年文化勲章。他の著書に「家族の構造」「社会人類学」「タテ社会と現代日本」など。』

古代ゲノミクスは、日本の集団の三者起源を明らかにする

古代ゲノミクスは、日本の集団の三者起源を明らかにする
https://www.science.org/doi/10.1126/sciadv.abh2419

※ この図見ると、凄いな…。

※ 弥生人には、古代東アジア人由来のDNA成分(黄色)が、殆んど入っていない…。

※ DNA解析から判断すると、弥生時代に大陸から「渡来した渡来人」と「縄文人」が「混血した」ものでは無い…。

※ むしろ、「古墳時代」に「古代東アジア人由来のDNA成分(黄色)」が注入され、現在の「日本人のDNA」を形成した…、ということのようだ…。

※ そして、「古代東アジア人由来のDNA成分」に入っている「中央ステップ遊牧民由来の成分(濃い灰色)」が「弥生人」にも、「古墳人」にも全く入っていないことも、注目に値する…。

※ 「古代東アジア人」で、「中央ステップ遊牧民」と混血する前の人々が、日本列島にやって来た…、ということなのか…。

※ 「青みがかった灰色」は、バイカル湖近辺に居住していた「古代東アジア人」由来のもののようだ…。

※ 「現代の日本人」の「DNA」は、「黄河近辺に居住の古代アジア人(黄色)」「バイカル湖近辺に居住の古代アジア人(青みがかった灰色)」「縄文人(赤色)」の混合であるということだ…。

※ しかし、その肝心の「縄文人(赤色)」は、どこから来たんだ?

※ 他のアジア大陸には、全く見当たらないようだが…(わずかに、中国の南方地域に存在する。しかし、黄色、濃い灰色と混じっていて、全部赤色では無い…)。

※ ということで、「日本人(縄文人)の起源」は、相変わらず「謎」のままということのようだ…。

『(※ 翻訳は、Google翻訳)

要約

先史時代の日本は、過去3000年の間に、採餌から湿った稲作、そして国家形成に向けて急速な変革を遂げました。日本本土の人口は、先住民族の縄文狩猟採集漁師と弥生農家の後継者から二重の祖先を導き出しているという長年の仮説。しかし、農業移動とその後の社会文化的変化によるゲノム的影響は不明である。農業前期と農業後の12の古代日本ゲノムを報告します。我々の分析によると、縄文は数千年にわたる実効人口の少ない1000人を維持しており、20,000年から15,000年前の大陸集団との深い相違があり、海面上昇を通じて日本の海面化を見た時期である。稲作は、北東アジアの祖先を持つ人々によって導入されました。予想外に、帝国古墳時代の東アジアの祖先の後の流入を特定します。これら3つの祖先成分は、現在の集団を特徴付け続け、日本のゲノム起源の三者モデルを支持している。』

『紹介

日本列島は少なくとも38,000年前から人間によって占領されてきました。しかし、その最も根本的な文化的転換は過去3000年以内にしか起こっていないが、その間、住民は急速に採餌から広範囲にわたる稲作から技術的に高度な帝国国家(1,2)に移行した。 これらの急速な変化は、ユーラシア大陸からの地理的孤立と相まって、日本をアジアの農業普及と経済の激化に伴う回遊パターンを研究するユニークな小宇宙となっています。農業文化が到来する前は、縄文文化に属する多様な狩猟採集漁団が占めていたのが、その陶器の使用が特徴でした。縄文時代は、最後の氷河最大(LGM)に続く最古のドライアス(3)の間に始まり、最も初期の陶器の破片は約16,500年前(ka前)に続き、これらの集団は世界で最も古い陶磁器のユーザーの一部となっています(2)。縄文の従属戦略は様々であり、人口密度は空間と時間(4)を経て変動し、セデンティズムに向けた傾向が示された。この文化は弥生時代(3年前)の始まりまで続き、水田稲作の到来が群島の農業革命につながった。その後、小船時代が始まり、1.7年前から始まり、政治的中央集権の出現と、地域を定義するために来た帝国の治世が見られました(1)。

近代日本人の起源に関する永続的な仮説は、日本人の集団が先住民族の縄文の子孫であり、その後、弥生時代に東ユーラシア大陸から到着する二重構造モデル(5)を提案している。この仮説は、もともと形態学的データに基づいて提案されたが、広くテストされ、分野を越えて評価されている[(6)で最近のレビューを参照してください。遺伝学的研究は、現在の日本の集団内の集団階層を同定し、少なくとも2つの日本列島への移動の波を支えている(7-10)。これまでの古代DNA研究では、今日の日本人集団に対する縄文人と弥生個体の遺伝的親和性も示している(11~15)。それでも、農業移行後の州の形成段階の人口動態の起源と影響はほとんど知られていない。歴史的言語的観点から、原発ジャポニック言語の到来は、弥生文化の発展と湿米栽培の普及に対応する理論を示している(6)。しかし、考古学的文脈とその大陸の所属は、弥生と古墳時代の間で明確である(1);知識と技術の普及が大きな遺伝的交流を伴っていたかどうかは、依然として不可解である。

ここでは、8000年の前および原始史に及ぶ12の新しい配列を持つ古代日本のゲノムを報告します(図1および表1)。私たちの知る限りでは、これは最も古い縄文個体と帝国古墳時代の最初のゲノムデータを含む、群島からのタイムスタンプ付きゲノムの最大のセットです。また、5つの出版された先史時代の日本のゲノムを分析に含めます:3人の縄文個体(後期縄文時代のF5とF23、最終縄文時代のIK002)(12-14)、そして九州の北西部の弥生文化に関連する2人の2人の個人は、その他の考古学的な特徴ではなく明確に表わされています。

弥生文化との関連 (15, 16)この形態学的評価(16)にもかかわらず、この2人の弥生個体は縄文と比較して現在の日本人集団に対する遺伝的親和性が高いことを示し、大陸群との混和が既に弥生後期(15)によって進められたことを示唆している。これらの日本のゲノムを、中央および東の草原(17、18)、シベリア(19)、東南アジア(12)、東アジア(15、20、21)にまたがるより大きな古代ゲノムデータセットと統合し、縄文時代の農業前の個体群とそれに続く移行と混和をより良く特徴付けることを目的としています。 今日、群島の遺伝的プロフィールを形成している。

図1.古代日本人の場所、日付、ゲノムカバレッジのサンプリング。

(A) 考古学的遺跡は、この研究で新たに配列された個々のゲノムの円と、以前に報告された場合は三角形でマークされています(表1および表S1を参照)。色は、日本の前とプロトヒストリーの3つの異なる期間を表しています: 縄文, 弥生, 古墳.(B)各個体は、y軸上のx軸と中央値年齢(存在する前の年)に全ゲノムカバレッジでプロットされる。9人の縄文個体は、年齢に基づいて5つの異なるサブ期間に分かれています(注S1を参照):初期(JpKa6904)、早期(JpOd274、JpOd66、JpOd282、JpOd181、JpFu1)、ミドル(JpKo2)、後期(JpKo13、JpHi01、F23、F5)、および最終(IK0)。

関連カルチャ
サンプル ID 日付範囲
と中央値
(CAL B.P.) カバレッジ MTDNA
汚染率
(%) 分子性 マウントDNA
ハプログループ Y染色体
ハプログループ 参照。
この研究で新たに配列された
縄文 JpKa6904 8646–8991;8819 7.51 1.46 XX N9b3 – –
JPOD274 6119–6289;6204 1.56 1.13 XY M7a D1b1d1 –
JPOD6 5934–6179;6057 1.18 1.55 XX N9b3 – –
JPOD181 5751–5917;5834 1.83 0.91 XY N9b1 D1b1d1 –
JPOD282 5737–5902;5820 0.96 1.38 XY M7a1 D1b1d1 –
JPFU1 5478–5590;5534 1.13 2.15 XX M7a1 – –
JPKO2 4294–4514;4404 2.47 1.44 XX N9b – –
JPKO13 3847–3978;3913 1.81 1.50 XX N9b1 – –
JPHI01 3685–3850;3768 0.88 1.45 XX M7a1a – –
コウファン JpIw32 1347–1409;1378 4.80 0.41 XY B5a2a1b O3a2c –
JPIW31 1303–1377;1340 1.44 0.63 XX D5c1a – –
JPIW33 1295–1355;1325 1.54 0.75 XX M7b1a1a1 – –
以前に公開されました
縄文 F23 3550–3960;3755 34.82 1.20 XX N9b1 – (14)
F5 – 3.74 2.45 XY N9b1 D1b2b (14)
IK002 2418–2720;2569 1.85 0.50 XX N9b1 – (12)
弥生 Yayoi_1 – 0.01 2.92 XX M7a1a4 – (15)
YAYOI_2 1931–2001;1966 0.07 2.33 XY D4a1 O (15)

表 1.古代日本語データの概要

業績

先史時代と原史時代の日本の古代ゲノムの時系列

私たちの最初のスクリーニングは、群島全体の6つの考古学的遺跡から発掘された14の古代骨格遺跡に焦点を当てた(注S1を参照)。これらのサンプルの12個(表1)には高レベルの内因性ヒトDNAが保存され、その後、0.88×から7.51×まで、さらにショットガン配列が高い範囲に保存された(図1および表S1)。12個のサンプルのうち9つは縄文文化に関連しており、群島の西と中央部と縄文時代の4つの異なる段階(初期、初期、中、後期縄文)を表しています(図1)。残りの3つのサンプルは約1.3カ前にさかのぼり、古墳時代に入った。

我々は、新たに配列されたすべてのゲノムが死後の損傷パターンを示していることを確認する(図.S1)と低レベルの現代人汚染(<2.15%)(表1および表S2)。我々の親族関係分析は、個人のすべてのペアが無関係であることを確認します(図。S2)。すべての縄文人のミトコンドリアハプログループは、N9bまたはM7aのクレードに属し、この人口(11-14、22)と強く関連しており、今日の日本国外では珍しい(23)。

3人の縄文雄(表S3)は、現代の日本の人口に存在するが、他の東アジア系では殆ど存在しないY染色体ハプログループD1b1に属している(24)。

対照的に、Kofun個体はすべて現在の東アジア人(25)で一般的なミトコンドリアハプログループに属し、単一の古墳男性はO3a2c Y染色体ハプログループを持っており、これは東アジア全域、特に中国本土(26)にも見られる。

東ユーラシア人口統計のより広い文脈の中に我々のデータを置くために、我々は以前に出版された古代からのゲノムデータと古代日本のゲノムを組み合わせた(表S4と図。S3)と現在の個人。この研究を通じて、現代の日本人の人口は、1000ゲノムプロジェクトフェーズ3(28)のサイモンズゲノム多様性プロジェクト(SGDP)(27)またはJPT(すなわち東京の日本語)のデータによって表されます。

しかし、我々は、この標準的な基準セットによって完全にキャプチャされていない、今日の群島全体に先祖の異質性が存在していることに注意してください。この研究で分析された他の古代および現在の人口は、主に地理的または文化的文脈のいずれかによってラベル付けされています。

異文化期間間の遺伝的区別

我々は、統計fを用いて、古代と現代(SGDP)の両方の日本人集団からの個人のすべての対比の間の共通の遺伝的ドリフトを見て、時系列データ内の遺伝的多様性を探った3(Individual_1、Individual_2;ムブティ)(図2A)。

我々の結果は、縄文、弥生、古墳の3つの異なる群集を非常に明確に定義し、最後に現代の日本人個人とグループ化し、文化的変化がゲノム変化を伴っていることを示唆している。

縄文データセットでは空間的および時間的な変動が大きいにもかかわらず、12人の間で非常に高いレベルの共有ドリフトが観察される。弥生の人は互いに最も密接に関係しており、また、小船の個人よりも縄文に対する親和性が高い。古墳と現代の日本人は、この指標によってほとんど区別がついておらず、過去1400年間の遺伝的連続性のレベルを暗示しています。

図2.日本における遺伝的多様性

(A)ペアごとのアウトグループfのヒートマップ3古代と現代の日本人の間の統計比較(B) 日本の古代の個人(縄文、弥生、古墳など)と大陸古代人(色のシンボルとして提示)を可視化する主成分分析(PCA)を、現在の東ユーラシア人112人(濃い緑色で強調表示された灰色の円)に投影した。

(C) AD混合物分析から選ばれた個体(K = 11;K = 2からK =12までの完全な写真)がイチジクで提示される。 S5およびS6)は、別個の縄文祖先成分(赤色で表される)、バイカル地方およびアムール川流域(水色で表される)および広東アジアの成分(黄色で表される)からの古代サンプルに共通する成分を示す。

中央の草原で最も支配的な灰色の成分は、古代と現代の日本のサンプルには存在しません。中央と下の行は、各地理的地域から選択された古代東ユーラシアの人口を示しています:中国南部(左から:梁島1、梁島2、西口順)、黄河(YR)(中新石器時代、YR_MN;後期新石器時代、YR_LN;後期新石器時代、Upper_YR_LN;青銅器時代後期/鉄器時代、YR_LBIA。そして鉄器時代、Upper_YR_IA)、中国北部(水海、ビアンビアン、ボーシャン、小河)、西遼川(WLR)(中新石器時代、WLR_MN。後期新石器時代、WLR_LN;青銅器時代、WLR_BA。ハミンマンガ出身の中新石器時代の個体、HMMH_MN。そして、WLR_BAとWLR_BA_oとは異なる遺伝的背景を持つ青銅器時代の個体、アムール川(AR)(旧新石器時代、AR_EN歳、鉄器時代、AR_IAとAR_Xianbei_IA)、バイカル(旧新石器時代、Shamanka_ENとLokomotiv_EN)、中央草原(植物、CentralSteppe_EMBA、Okunevo_EMBA)。

さらに、主成分分析(PCA)を用いて、古代日本の個体から大陸集団までのゲノムワイド常染色体親和性を調査した。南アジア・中央アジア、東南・東アジア、シベリアのSGDPデータセットにおける現在の集団の遺伝的変異に古代の個体を投影した(図2Bと図。S4)。

私たちは、古代日本人の個人がPC1に沿ってそれぞれの文化的指定に分離することを観察します。すべての縄文個体は、他の古代の集団だけでなく、現在の東南アジア人や東アジア人から離れて、緊密なクラスターを形成し、持続的な地理的孤立を示唆しています。

2人の弥生個体はこの縄文団群の近くに現れ、(15, 16)に報告されているように縄文との遺伝的および形態学的類似性を支持する。しかし、東アジアの人口へのシフトは、弥生における追加の大陸祖先の存在を意味する。東ユーラシアの古代の個人は、PC2で南から北に地理的なクラインを示しています:中国南部、黄河、中国北部、西遼川、悪魔の門洞窟、アムール川、バイカル。古墳時代の3人は、黄河クラスターの多様性の中に入っています。

ヒト起源配列データセットを用いたAD混合物解析は、縄文期末以降の群島への大陸遺伝子の流入の増加を支持する(図2Cおよびイチジク)。S5およびS6)。

縄文は、弥生の高いレベルでも見える、古墳と日本人のレベルが低下している、はっきりとした祖先成分(図2Cの赤で表される)を持っています。新しい先祖の成分は、アムール川流域とその周辺地域で見られるプロファイルに似た割合で、弥生に現れます。これらには、北東アジア人(水色で表される)で支配的な大きな成分と、より広い東アジアの祖先(黄色で表される)を表す別の小さな成分が含まれます。この東アジアの構成要素は、古墳時代と現代の日本の人口に支配的になります。

縄文系の深い発散

縄文と他の集団との分離(図2)は、以前の研究で提案された東ユーラシア人の間で明確な系統を形成するという考えを支持している(13, 14)。

この発散の深さを探るために、異なる数の混和事象を持つTreeMixを使用して、縄文の系統的な関係を17の古代および現在の集団と再構築しました(図3Aと図。S7) (29).

我々の結果は、縄文が上旧石器時代の東ユーラシア人(天元とサルキット)と古代東南アジアの狩猟採集者(ホアビンヒアン)の初期の発散の後に出現したが、現在の東アジア人を含む他のサンプルの分裂の前に現れたと推測する。

古代ネパール人(チョコパニ)、バイカル(Shamanka_ENとLokomotiv_EN)からの狩猟採集者、そしてプリモリー地方のチェルトヴィ・ボロタ洞窟(悪魔の門洞窟)、 そして更新世アラスカ(USR1)。さらに、fを用いた対称モデルの公式テストを通じて、この木の他の2つの深く発散した狩猟採集系統間の縄文の位置を確認する4(ムブティ、 X;ホアビンヒアン/DevilsCave_N、縄文)(図。S8、A、B)。

これらは、縄文時代の初めから私たちのデータセットのすべての東アジアの個人が以前に発散ホアビンヒアンよりも縄文に対する親和性が高いが、DevilsCave_Nと比較して親和性が低いことを示しています。

これは、縄文がホアビンヒアンと東アジア関連の系統の混合物である以前に提案されたモデルではなく、東ユーラシアの3つの異なる狩猟採集系統の推論された系統をサポートしています[3(縄文;ホアビンヒアン、DevilsCave_N)=0.193、Z = 61.355; テーブル S5] (12, 30)。

また、テストされたすべての移行モデルにわたって縄文から現代の日本人への遺伝子の流れを一貫して推測し、遺伝的貢献は8.9%から11.5%(図。S7)。これは、AD混合物分析から推定される現在の日本人個人における9.31%の平均縄文成分と一致している(図2C)。これらの結果は、縄文の深い相違と現在の日本人の祖先のつながりを示唆している。

図3.縄文系統の人口統計学的歴史

(A) 2回の移行モデルの下で TreeMix によって再構築された最尤系統樹。この木は、古代(太字)と現在の(斜体)集団の間の系統的関係を示しています。色付きの矢印は、移行経路を表します。移行の重みは、移行エッジから派生した祖先の割合を表します。m = 0 からm = 5 までの他のすべての移行モデルは、図に示されています。S7.(B) 中石器時代と新石器時代の狩猟採集者のための ROH スペクトル 8.8-ka-ka-old JpKa6904を含む.ROHの全長は、8.8歳の縄文個体のN(x軸)とT(y軸)の異なる組み合わせの下でのモデルのフィッティングの0.5から100 Mbまでの範囲の異なる均質性断片の異なるサイズに対してプロットされる。バルーンプロットの各点は、ログを表します10-スケールされた近似ベイズ因子(aBF)は、最も高い尤度を持つモデルと他の各モデルの間の尤度を比較します。aBF = 0 の点は、尤度が最も高いモデルです(N = 1000 とT = 20 ka 前)。S10)。NA は、aBF が 0 の尤度のためにモデルの測定不可能であることを意味します。(D) アウトグループfの比較3Fを使用して測定された3つのサブ期間に分けられた縄文データセットの統計結果3(Jomon_Sub期間、X;ムブティ)(イチジチを参照)。拡張分析の場合は S12)。3つのサブピリオドは次のとおりです: 初期縄文 (JpKa6906);初期の縄文(JpFu1、JpOd6、JpOd181、JpOd274、およびJpOd282)中、後期、および最終縄文(F5、F23、IK002、JpHi01、JpKo2、およびJpKo13)のマージされたグループ。

我々は、縄文系統の出現のタイミングを推定するために集団遺伝的モデリングを適用する。

我々のアプローチは、ゲノム全体のホモ接合性(ROHs)の実行のパターンを利用して、最も古く、最も高いカバレッジサンプルであるJpKa6904で観察されたROHスペクトルに最も適した人口統計シナリオを特定します(注S2を参照)。

ROHの分布は、有効な母集団の大きさと、個人内のハプロタイプの2つのコピー間の最新の共通祖先への時間を反映する(31, 32)。8.8歳の縄文はROHの高いレベルを運びます, 特に短いROHの最も高い頻度で (最近の近親交配ではなく人口の影響による) まだ報告されています (図 3B) (33).

このパターンは、縄文個体の間で強い共有遺伝的ドリフトと相まって(fig.S9)は、縄文集団が深刻な人口ボトルネックを受けたことを意味する。

母集団の大きさと分割時間のパラメータ空間を求めて、我々の推定値は、15〜20年前の間に縄文系統の出現を配置し、その後、少なくとも初期縄文期まで、約1000の非常に小さな人口サイズの維持を行う(図3Cと図。S10およびS11)。これは、LGM(34,35)の終わりに海面上昇と本土への陸橋の断絶と一致し、まもなく群島の縄文陶器の最初の出現に先立つ(2).
その後、縄文が血統の発散後に大陸上旧石器時代の人々と接触したかどうか尋ねたが、列島で孤立する前に、統計fを使用して4(ムブティ、 X;縄文、漢/大/日本語(イチジク)S8、C~E)。テストした上旧石器時代の個人のうち、Yana_UPだけが、それぞれ漢、大、または日本語よりも縄文に有意に近い(Z>3.366)。

この親和性は、これらの参照集団を他の東南アジア人および東アジア人(表S6)に置き換えても検出可能であり、縄文と古代北シベリア人の祖先間の遺伝子流れを支える、LGM(19)以前の北ユーラシアで広く普及している集団である。

最後に縄文集団内の時間的および空間的変動の可能性を調べた。

縄文期の初期、早期、中期期段階の段階で定義される3つの時間群は、古代および現在の大陸集団との遺伝的ドリフトの同様のレベルを示し、これらのサブ期間にわたって群島の外からの遺伝的影響をほとんどまたは全く意味しない(図.3Dおよび図。S12)。

このパターンは、さらに、任意の重要な遺伝子の流れの欠如によってバックアップされ、統計fで観察4(ムブティ、X;sub_Jomon私、sub_Jomonj)、iとjは3つの縄文群の任意のペア(図。S13)。

これらの縄文個体は、同様に、地理(すなわち、サンプルが配置されている異なる島:本州、四国、礼文島)によってグループ化された場合、大陸集団に対する遺伝的親和性の多様性を示さない(図。S14)。

縄文個体の中で観察可能な唯一の違いは、本州に位置する部位間の親和性がやや高く、本州と他の島々の間の遺伝子流れが制限されたインシュラー効果を意味する(図示.S15)。全体として、これらの結果は縄文集団内の限られた空間的および一時的な遺伝的変異を示し、何千年もの間、アジアの他の地域からほぼ完全に孤立するという考えを支持している。
弥生時代の水田稲作の分散

弥生文化に関連した群島の南西部の2人(図1)(15)は縄文と大陸の祖先の両方を持つことがわかった(図2)。

我々のqpAdm分析は、縄文系統の一部としてこれら2人をグループ化する形態学的評価とは対照的に、弥生が縄文の非混合子孫であるモデル(P = 0.00003)を拒絶した(16)。

縄文の祖先の成分は、群島に稲作を持ち込んだ人々によって導入された可能性があります。

私たちは、最初に、古代東ユーラシアの集団が、fを使用して縄文よりも弥生に対する遺伝的親和性が高いかどうかをテストしました4(ムブティ、 X;縄文、弥生)(図4Aと図。S16)。

大陸のサンプリングされた古代の集団のほとんどは、養殖が最初に長江渓谷(すなわち、湿米の架空の起源)から広がった黄河流域(20)からの集団を含む弥生に有意な親和性を示さない(36)。

しかし、養殖と文化的関係のない集団(Z>3.0)では、中国東北部の西遼川流域(WLR_BA_oとHMMH_MN)、バイカル(Lokomotive_EN、Shamanka_EN、UstBelaya_EBA)、北東シベリア(Ekven_IA)などで、弥生に対する過剰な親和性が検出された。

この親和性は、2人の個人(WLR_BA;では観察できません。Z = 1.493) 他の青銅器時代西遼川個人(WLR_BA_o)と同じ考古学的遺跡から来た人(20).この2人は、WLR_BA_o(1.8±9.1%)(20)よりもイエローリバー関連の祖先(81.4±6.7%)がはるかに高く、これは、テストされた古代黄河の個体数が弥生が運ぶ非縄文祖先の主要な源である可能性は低いことを意味します。

図4.弥生時代の遺伝的変化

(A)fからの結果を強調する地図4(ムブティ、 X;縄文、弥生);縄文よりも弥生に近い大陸古代集団(Z>3.0)は赤い三角形で表され、両方の集団と対称的に関連している人は灰色の円で表されます。(B) 縄文と、西遼川(WLR_BA_o又はHMMH_MN)またはバイカル狩猟採集者(Lokomotiv_EN)の青銅器時代又は中新石器時代の個人の二元的混和をモデル化した弥生の遺伝的祖先。垂直バーは、qpAdm によって推定される ±1 SE を表します。混合比率の値を表 S7 に示します。(C) 弥生と縄文の地理的位置との間の遺伝的ドリフトの相互関係弥生部位からの球面距離は、ハバーシン式(93)で測定される。地図は、赤い矢印と異なる色の円で縄文のサイトで弥生の考古学的遺跡をマークします。

これら6つの大陸祖先の潜在的な源をさらに見分けるために、我々は縄文の双方向混合物として弥生をモデル化し、それぞれをqpWave(表S7)を用いてモデル化した。混合モデルは自信を持ってサポートされていました(P > 0.05) これらの 3 つ: バイカル狩猟採集者とアムール川の祖先の高レベルを持つ西遼中新石器時代または青銅器時代の個人 (20).これらのグループはすべて、支配的な北東アジアの祖先成分を共有しています(図2Cと図。S17) (20).55.0の混合分率±10.1%、 50.6±8.8%、または58.4±縄文入力の7.6%は、これら3つそれぞれがそれぞれ第2のソースとして使用されたときにqpAdmによって推定され(図4Bおよび表S7)、西遼中新石器時代の個人が単一の源泉(S7)に合併されたときに61.3±7.4%の割合が返された。

我々は、fによってさらに確認する4(ムブティ、縄文;Yayoi_1、Yayoi_2)縄文の祖先のレベルは、これら2人の弥生個体(Z=1.309)の間で同等である。

これらの結果は、この北西部九州の地域に関連する弥生コミュニティへの先住民の狩猟採集者と移民の貢献の比率がほぼ等しいことを意味します。

このパリティは、ユーラシアの地理的極端な日本を反映したイギリスとアイルランドの群島(37-40)を含む多くの地域で最小限の狩猟採集者の貢献が観察されている西ユーラシアの農業移住と比較すると特に顕著です。

私たちの混和モデルで使用される西遼の人口は、自ら稲作を実践しませんでしたが、日本に広がる農業の架空のルートのすぐ北に位置しており、その結果は重みを与えています。
山東半島(中国東北部)に続いて遼東半島(朝鮮半島北西部)に入り、朝鮮半島を経由して列島に到達する(41)。

さらに、弥生文化が群島に広がった様子を、グループ外で調べた。3弥生と縄文の各人との間の遺伝的親和性を測定した統計我々は、共有遺伝的ドリフトの強さは、弥生個体の位置(P = 0.00697)からの距離と有意な相関関係を有することを発見した。図4C);縄文遺跡が弥生遺跡に近づくほど、縄文の個体は弥生と遺伝的なドリフトを共有する。この結果は、朝鮮半島(41,42)を介した米の導入を支援し、続いて列島南部の縄文群と混和した。

古墳時代の移民の遺伝的祖先

歴史的記録は、古墳時代の大陸から群島への継続的な人口移動を強力に支援する(1)。

しかし、3人の古墳個体のqpWaveモデリングは、弥生個体(P<0.05;表S8)に適合した縄文と北東アジアの祖先の双方向混和を拒絶した。

したがって、古墳は、私たちのアウトグループfからサポートされているように、その祖先の構成要素の面で弥生とは遺伝的に異なっています3、PCA、およびAD混合物クラスタ(図2)、および以前の形態学的研究(43,44)からも。

古墳個体の遺伝的構成に寄与した追加の祖先群を同定するために、我々は、fを用いて、古墳と各大陸集団との間の遺伝的親和性を試験した。4(ムブティ、 X;弥生、古墳)(図5Aと図。S18)。私たちのデータセットの古代または現代の人口のほとんどは、弥生よりも古墳にかなり近いことがわかります。この知見は、ゲノムをこれら2つの期間から分離する6世紀の間に群島への追加の移動を意味する。

図5.古墳時代の遺伝的変化

(A)fからの結果を強調する地図4(ムブティ、 X;弥生、古墳);Zスコアが>3.0の弥生よりも古墳にかなり近い大陸の古代と現在の集団は赤い三角形で表され、両方の集団に対称的に関連するものは灰色の円で表されます。テストされた人口は、年齢に応じて、上石器時代(紀元前16,000年 >)、縄文(紀元前16,000年から3000年まで)、ポスト縄文(紀元前3000年から現在まで)、そして現在の4つの異なる期間に分かれています。現在のパネルでは、青い三角形で漢が強調表示されます。(B) 縄文・北東アジア(WLR_BA_o・HMMH_MN)・漢の三者混合をモデル化した古墳個体の遺伝的祖先垂直バーは、qpAdm によって推定される ±1 SE を表します。混合比率の値は、表S10に示されている。

我々は、弥生の双方向混和と我々のfから同定された集団の適合をテストすることによって、この移行の原因を狭めようとした4Kofun に著しく近い統計 (表 S9)

この混合モデルは、テストされた59個の集団のうち5人に対してP>0.05で確実にサポートされていました。

次に、qpAdmを適用して、弥生とこれらの各ソースからの遺伝的貢献を順番に定量化しました(表S9)。

双方向の混合モデルは、異なる参照セットからのサポートの欠如のために、その後、追加の 2 つの集団で拒否されました。

残りの3つの人口(漢、韓国、YR_LBIA)は、古墳(図示)への20〜30%の貢献を示しています。S19)。これらの3つはすべて強い遺伝的ドリフトを共有しています(図の緑色の正方形で強調されています。

S17)は、そのAD混合物プロファイルにおける広く東アジアの祖先の主要な構成要素を特徴とする(図示。S6)。古墳個体のさらなる祖先の源を更に選別するために、弥生の祖先を縄文と北東アジアの祖先に置き換えて三者混合をテストしました(表S10)。

漢だけが、モデル内の祖先の源としてうまくモデル化された(図5B)、可能な双方向混合モデル(表S11)よりも三方向混合の適合性が著しく優れている。

縄文の祖先がサンプリングされた弥生と古墳の集団の間で約4倍希釈されていることを考えると、これらの結果は、国家形成段階が東アジアの祖先を持つ移民の大量流入を見たことを示唆している。

次に、弥生と古墳時代の両方で観測された大陸祖先が、北東と東アジアの祖先の中間レベルを有する同じ源源に由来する可能性を探る(表S12)。

黄河流域(YR_LBIA)(20)の青銅器時代後期と鉄器時代の個体の人口であるKofunの双方向混合物に合わせる候補は1人しか見つからなかった(20)、これは参照セット(ネスト、P = 0.100;表S13)全体で一貫していなかった。

縄文(Z=2.487)の排除に弥生との統計的に有意な遺伝子の流れを示さないにも関わらず(図4A及び図一覧)。S16)、YR_LBIAと縄文の双方向モデルも弥生に合うことがわかります(表S14)。

この黄河の集団は、qpAdmによって推定されるように、約40%の北東アジアおよび60%の東アジア(すなわち、漢)祖先を有する中間遺伝的プロフィールを有する。

したがって、これは、これらの集団の37.4±1.9%および87.5±0.8%の入力を持つ、特定のモデルで弥生と古墳の両方に適合する中間遺伝的プロファイルである(表S14)。これらの結果は、単一の源からの連続的な遺伝子の流れが弥生と古墳の間の遺伝的変化を説明するのに十分かもしれないことを示唆している。

しかし、我々のより広範な分析は、単一の遺伝子流源が2つの異なる移動の波よりも可能性が低いことを強く示唆している。

まず、AD混合物で同定された北東アジアと東アジアの祖先の比率は、弥生(1.9:1)と古墳(1:2.5)の間で全く異なっていた(図2C)。

第二に、大陸親和性におけるこのコントラストは、異なる形態のf統計でも観察可能であり、北東アジアの祖先との間に有意な親和性を有する弥生の繰り返しパターンがある(図4A及び図同図)。S16)、古墳個体は漢や古代黄河の集団を含む他の東アジア人と緊密なクラスターを形成している間(図5Aとイチジク)。S17およびS18)。

最後に、私たちは、日付によって古墳個体の混合物の年代測定から2パルスモデルのサポートを見つける(fig.S20) (45).中間集団(すなわち、YR_LBIA)を伴う単一の混和事象は、現在(B.P.)の213年前に1840±発生したと推定され、これは弥生期(〜3カ前)の発症よりはるかに遅い。

対照的に、2つの異なるソースを持つ2つの別々の混和イベントが想定される場合、結果として得られる推定値は、縄文と北東アジアの祖先の間の混合物のための八世と古墳時代(紀元前825年±3448±、縄モンと東アジアの祖先の175年 ±の紀元前175年と一致するタイミングに合理的に適合します。S20)。これらの遺伝的知見は、考古学的証拠と歴史的記録の両方によってさらに支持されており、期間中に大陸から新しい人々が到着したことを記録しています(1)。

現在の日本語における古墳の遺伝的遺産

3人の古墳は、図2に示すように、現在の日本人と遺伝的に類似している。これは、古墳時代以降の日本の集団の遺伝的構成に大きな変化がないことを意味します。現在の日本のサンプルで追加の遺伝的祖先のシグナルを探すために、我々は大陸集団がfを用いて古墳に対して現代のゲノムに対して優遇関係があるかどうかをテストした。

4(ムブティ、 X;古墳、日本語)(イチジク。S21)。古代の集団の中には、日本よりも古墳に対する親和性が高いものもあるが、こがんに存在する祖先の追加の源泉としてqpAdmによって支持される者はいない(注S3および表S15を参照)。

予想外に、古代や現代の人口は、古墳の排除に現在の日本人と追加の遺伝子の流れを示していません。我々の混合モデリングは、現在の日本人集団が縄文や弥生の祖先を増やさず、また現在の東南アジア人や東アジア人、シベリア人に代表される祖先を導入することなく、Kofunの祖先によって十分に説明されていることをさらに確認する(表S16)。

また、現代の日本人の人口は、古墳個体(表S17)の三者混合と同じ先祖の成分を持ち、古墳個体(図示)と比較して、現代の日本人における東アジアの祖先のレベルがわずかに増加していることも分かる。S22)。

これは、遺伝的連続性の一定のレベルを示唆していますが、絶対的ではありません。古墳と現代日本人の集団との間の連続性の厳密なモデル(すなわち、古墳系統に特有の遺伝的ドリフトがない)は拒絶される(表S18)(46)。

しかし、我々は、日本の人口(15.0±3.8%)の縄文祖先の希薄化は、古墳個体(13.1±3.5%)に比べて(図示.S22)、前の弥生及び古墳時代とは対照的に、大陸移動により縄文の祖先が著しく減少した(図4及び5)。「混和しない」モデルを用いて、小船と日本人の間の遺伝的なcladalityを「混和しない」モデルでテストしたところ、古墳が日本人とのクレードを形成していることがわかった(P=0.769)。

これらの結果は、状態形成期間によって確立された3つの主要な祖先成分の遺伝的プロファイルが、歯科および非メートル頭蓋形質(47,48)からも支持されるように、現在の日本の集団の基礎となっていることを示唆している。

議論

我々のデータは、現在の日本人集団の三祖先構造の証拠を提供する(図6)、縄文と弥生起源の確立された二元構造モデルを改良する(5)。

縄文は、現代日本人の中でユニークな遺伝的要素の根底にあるLGMに続いて、日本列島内の長期的な孤立と強い遺伝的ドリフトのために独自の遺伝的変異を蓄積しました。

弥生時代は、少なくとも2.3カ前から始まるアジア本土からの実質的な人口移住で、この孤立の終わりを告げています。

しかし、その後の日本の前産原始史の農業と国家形成段階の間に群島に到着した人々のグループ間には明確な遺伝的区別があります。弥生の人の遺伝データは、古墳の東アジアの祖先を広範囲に観察しながら、形態学的研究(5,49)から支持された群島における北東アジアの祖先の存在を記録しています。縄文、弥生、古墳の各文化を特徴づける先祖は、今日の日本の人口形成に大きく貢献しました。

図6.ゲノムは、先史時代と原始の日本における文化的転換と並行して移行する。

縄文は、日本列島における強い遺伝的ドリフトと長期的な孤立のために非常にユニークな遺伝的プロフィールを持っていました。米の栽培は、弥生時代に北東アジアの祖先(WLR_BA_oとHMMH_MNに代表される)を持つ人々によってもたらされました。移住のさらなる波は、古墳時代に列島に広範囲にわたる東アジアの祖先(漢に代表される)をもたらしました。それ以来、この三者の祖先構造は、群島で維持され、近代日本人の遺伝的基盤となっています。

縄文の祖先は、東南アジアで、他の古代・現代の東アジア人(12~14)との深い相違をもとに生まれたものと提案されている。この発散のタイミングは、以前は18〜38カ前(14)の間であると推定されていました。

8.8歳の縄文個人のROHプロファイルによるモデリングは、この日付を20〜15年前の範囲内の下限に絞り込みます(図3)。

日本列島はLGM(28年前)(34)の初めに朝鮮半島を通じてアクセス可能になり、大陸と群島の間の人口移動を可能にしました。その後の海面上昇による韓国海峡17~16カ前の拡大は、縄文系の他の大陸からの孤立につながり、縄文陶器生産の最も古い証拠とも一致している可能性がある(2)また、縄文が初期縄文期間中に1000人の有効母集団規模を小さく保ち、その後の期間や群島の異なる島々でのゲノムプロファイルの変化をほとんど観察していないことも示しています。

農業の普及は、多くの地域で観察された狩猟採集者の人口からの最小限の貢献で、ヨーロッパの大部分で新石器時代の移行に記載されているように、人口の置換によってしばしばマークされます(37–40)。

しかし、先史時代の日本の農業移行が、九州の先住民縄文と新しい移民からの遺伝的貢献にほぼ等しい、置換ではなく同化の過程を伴っているという遺伝的証拠を見つける(図4)。

これは、少なくとも群島の一部が弥生時代の初めに農業移民に匹敵する大きさの縄文集団を支持したことを意味し、一部の縄文コミュニティ(50-53)が実践する高い座りっぱなしの度合いに反映されている。

弥生によって継承された大陸成分は、アムール川の祖先の高いレベル(すなわち、WRL_BA_oとHMMH_MN)の西遼川流域の中新石器時代と青銅器時代の個人によって私たちのデータセットで最もよく表されます(20)。

この地域からの集団は、時間と空間において遺伝的に異質である(20)。中新石器時代の移行(すなわち、6.5〜3.5カ前)は、イエローリバーの祖先が25%から92%に増加したが、アムール川の祖先が時間の経過とともに75%から8%に減少し、キビ養殖の激化に関連することが特徴である(20)。

しかし、アムール川流域からの人々の明らかな流入により、約3.5カ前に始まった青銅器時代に再び人口構造が変化します(fig.S17) (20).

これは、トランユーラシア語と中新言語サブグループ(54)の間で集中的な言語借用の始まりと一致する。弥生に対する過剰な親和性は、遺伝的に古代アムール川の集団や現在のタンギシック語圏集団に近い個体(図4と図)で観察可能である。S17)。

我々の知見は、米農業の広がりは西遼川流域の南に始まったが、遼東半島のどこかに住んでいたが、さらに北の人口から祖先の主要な構成要素を導き出す人々によって群島に湿った稲作が導入されたことを意味する(55)。

古墳文化の最も顕著な考古学的特徴は、エリートを鍵穴型のマウンドに埋葬する習慣であり、その大きさは階層的な階級と政治的権力を反映している(1)。

この研究で配列された3人のKofun個体は、それらの騒動(注S1を参照)に埋葬されておらず、彼らが下位の人々であることを示唆している。

彼らのゲノムは、東アジアの祖先が多い人々の日本への到着と弥生集団との混和を記録している(図5と図。S17)。この追加の祖先は、複数の祖先成分を持つハンによって分析されるのが最も良い。最近の研究では、新石器時代以降に大陸で形態学的に均質になった人々(56)は、古墳時代の移民がすでに非常に混合されていたことを意味すると報告されています。

数行の考古学的証拠は、弥生小船移行中に朝鮮半島南部から日本に新たな大規模集落が導入されたのを裏付けている。

日本、韓国、中国の間の強い文化的、政治的親和性は、中国の鏡や硬貨、鉄生産用の韓国の原料(1)、金属器具に刻まれた漢字(例えば剣)(57)など、いくつかの輸入品からも観察可能である。

海外からのこれらの資源へのアクセスは、群島内のコミュニティ間で集中的な競争をもたらしました。これにより、黄色海沿岸などの大陸の政治との政治的接触が促進され、支配のために(1)。

したがって、コファン時代を通じて、継続的な移動と大陸への影響が明らかになっています。我々の知見は、この状態形成段階における新しい社会的、文化的、政治的特徴の出現に関与する遺伝的交流を強く支持する。

この分析には注意点があります。

第1に、弥生文化に関連する骨格遺跡が縄文(16)と形態的に類似している地域の後期弥生個体は2人に限られている。他の地域や他の時点からの弥生個体は、異なる祖先プロファイルを有し得る,例えば大陸様または古墳様祖先。

第二に、私たちのサンプリングは、同じ埋葬地から来た3人のKofun個人の場合と同様に、ランダムではありません(表S1)。弥生と古墳集団の遺伝的祖先の時間的および地域的な変動を追跡し、ここで提案された日本の集団の三者構造の包括的な見解を提供するために、追加の古代ゲノムデータが必要となる。

要約すると、我々の研究は、農業と技術主導の人口移動が大陸の残りの部分から何千年もの孤立を終えた前後の、日本列島に住んでいた人々のゲノムプロファイルの変化を詳細に見ています。これらの孤立した地域からの個体に対する古代のゲノミクスは、主要な文化的転換がヒト集団の遺伝的構成に及ぼす影響の大きさを観察するユニークな機会を提供する。』

〔葉隠〕

葉隠
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%89%E9%9A%A0

 ※『毎朝毎夕、改めては死に改めては死に 、常住死身に成て居る時は、武道に自由を得、一生落度なく、家職を仕課すべき也。』

『二つ 二つ の場にて、早く死ぬ方に片付ばかり也。別に子細なし。』

という、「凄まじい」ものだ…。

※ 昔のサムライは、こうやって「胆力」を鍛えたものなんだろう…。

『内容

『葉隠』は一般の武士を対象にした武士道論ではなく、藩主に仕える者の心構えと佐賀藩の歴史や習慣に関する知識を集めたものであった[1]。江戸時代には公開が憚られ、一部の人々にしか知られていなかった[1]。

「朝毎に懈怠なく死して置くべし(聞書第11)」とするなど、常に己の生死にかかわらず、正しい決断をせよと説いた。後述の「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の文言は有名である。同時代に著された大道寺友山『武道初心集』とも共通するところが多い。』

『当時、主流であった山鹿素行(古学、山鹿流とも称す)などが提唱していた儒学的武士道を「上方風のつけあがりたる武士道」と批判しており、忠義は山鹿の説くように「これは忠である」と分析できるようなものではなく、行動の中に忠義が含まれているべきで、行動しているときには「死ぐるい(無我夢中)」であるべきだと説いている。

赤穂事件についても、主君・浅野長矩の切腹後、すぐに仇討ちしなかったことと、浪士達が吉良義央を討ったあと、すぐに切腹しなかったことを落ち度と批判している。何故なら、すぐに行動を起こさなければ、吉良義央が病死してしまい、仇を討つ機会が無くなる恐れがあるからである。その上で、「上方衆は知恵はあるため、人から褒められるやり方は上手だけれど、長崎喧嘩のように無分別に相手に突っかかることはできないのである」と評している。』

『この考え方は主流の武士道とは大きく離れたものであったので、藩内でも禁書の扱いをうけたが(鍋島綱茂は吉良義央の甥、吉茂・宗茂は義甥にあたる。

また、山鹿流は吉良氏と昵懇だった津軽・松浦両家に伝承された[3])、徐々に藩士に対する教育の柱として重要視されるようになり、「鍋島論語」とも呼ばれた。それ故に、佐賀藩の朱子学者・古賀穀堂は、佐賀藩士の学問の不熱心ぶりを「葉隠一巻にて今日のこと随分事たるよう」と批判し、同じく佐賀藩出身の大隈重信も古い世を代表する考え方だと批判している。

また「葉隠」は巻頭に、この全11巻は火中にすべしと述べていることもあり、江戸期にあっては長く密伝の扱いで、覚えれば火に投じて燃やしてしまう気概と覚悟が肝要とされていたといわれる。

そのため原本はすでになく、現在はその写本(孝白本、小山本、中野本、五常本など)により読むことが可能になったものである。

これは、山本常朝が6、7年の年月を経て座談したものを、田代陣基が綴って完成したものといわれ、あくまでも口伝による秘伝であったため、覚えたら火中にくべて燃やすよう記されていたことによる。2人の初対面は宝永7(1710年)、常朝52歳、陣基33歳のことという。

浮世から何里あらうか山桜 常朝  白雲やただ今花に尋ね合ひ 陣基 』

『「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」

『葉隠』の記述の中で特に有名な一節であるが、『葉隠』の全体を理解せず、ただとある目的のためには死を厭わないとすることを武士道精神と解釈されてしまっている事が多い。実際、太平洋戦争中の特攻、玉砕や自決時にこの言葉が使われた事実もあり、現在もこのような解釈をされるケースが多い。[要出典]

しかしながら、そのような解釈は全くの見当違いである。「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」で始まる一節は、以下のようなものである[4]。

原文

二つ々の場にて、早く死ぬ方に片付ばかり也。別に子細なし。胸すわつて進む也。(中略)

二つ々の場にて、図に当たるやうにする事は及ばざる事也。我人、生る方がすき也。多分すきの方に理が付べし。

若図に迦れて生たらば、腰ぬけ也。

此境危ふき也。図に迦れて死たらば、気違にて恥にはならず、是は武道の丈夫也。

毎朝毎夕、改めては死々、常住死身に成て居る時は、武道に自由を得、一生落度なく、家職を仕課すべき也。

(現代語訳)

どちらにしようかという場面では、早く死ぬ方を選ぶしかない。何も考えず、腹を据えて進み出るのだ。(中略)そのような場で、図に当たるように行動することは難しいことだ。

私も含めて人間は、生きる方が好きだ。おそらく好きな方に理由がつくだろう。(しかし)図にはずれて生き延びたら腰抜けである。この境界が危ないのだ。

図にはずれて死んでも、それは気違だというだけで、恥にはならない。これが武道の根幹である。

毎朝毎夕、いつも死ぬつもりで行動し、いつも死身になっていれば、武道に自由を得、一生落度なく家職をまっとうすることができるのである。

『葉隠』は武士達に死を要求しているのではなく、武士として恥をかかずに生きて抜くために、死ぬ覚悟が不可欠と主張しているのであり、あくまでも武士の教訓(心構え)を説いたものであった[4]。』

渡来人は四国に多かった? ゲノムが明かす日本人ルーツ

渡来人は四国に多かった? ゲノムが明かす日本人ルーツ
日経サイエンス
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC18CCA0Y1A610C2000000/

 ※ こういう「サイエンス・データ」に反する従来からの「文献による言説」は、全く意味をなさなくなった…。

 ※ 「学問の進化」とは、そういうものだ…。

 ※ ただ、「50人」じゃ、ちょっと少ないな…。

 ※ まあ、大まかな「傾向」を探る…、程度のものだろう…。

『私たち日本人は、縄文人の子孫が大陸から来た渡来人と混血することで生まれた。現代人のゲノム(全遺伝情報)を解析したところ、47都道府県で縄文人由来と渡来人由来のゲノム比率が異なることがわかった。弥生時代に起こった混血の痕跡は今も残っているようだ。』

『東京大学の大橋順教授らは、ヤフーが2020年まで実施していた遺伝子検査サービスに集まったデータのうち、許諾の得られたものを解析した。1都道府県あたり50人のデータを解析したところ、沖縄県で縄文人由来のゲノム成分比率が非常に高く、逆に渡来人由来のゲノム成分が最も高かったのは滋賀県だった。沖縄県の次に縄文人由来のゲノム成分が高かったのは九州や東北だ。一方、渡来人由来のゲノム成分が高かったのは近畿と北陸、四国だった。特に四国は島全体で渡来人由来の比率が高い。なお、北海道は今回のデータにアイヌの人々が含まれておらず、関東の各県と近い比率だった。』

『近年の遺伝学や考古学の成果から、縄文人の子孫と渡来人の混血は数百~1000年ほどかけてゆっくりと進んだとみられている。弥生時代を通じて縄文人と渡来人が長い期間共存していたことが愛知県の遺跡の調査などで判明している。どのような過程で混血が進んだのかはまだ不明で、弥生時代の謎は深まる一方だ。今回の解析で見えた現代の日本列島に残る都道府県ごとの違いは、弥生時代の混血の過程で起こったまだ誰も知らない出来事を反映している可能性がある。書物にも残されていない日本人の歴史の序章は、ほかならぬ私たち自身のゲノムに刻まれているのだ。

(日経サイエンス編集部 出村政彬)

詳細は6月24日発売の日経サイエンス8月号に掲載』

英紙大嘗祭記事「不正確」と反論 政府、平成代替わり時 外交文書を公開

https://www.nikkei.com/article/DGXZQODE22B6W0S0A221C2000000

『23日公開の外交文書には、昭和から平成の代替わり時の大嘗祭に関する、英タイムズ紙報道への反論も含まれていた。「天皇が(皇祖神とされる)アマテラスと横たわる」といった表現は不正確だとして、誤解を正す内容。現行憲法下で初めて行われ、政教分離の観点から議論を呼んだ大嘗祭を巡り、政府が神経を使っていた様子が伝わってくる。

 皇居・東御苑で行われた「大嘗祭」(1990年11月)=共同
記事は1990年11月10日付の「過去の儀式が、21世紀の天皇を導く」。皇室の祭祀を担う掌典職のトップ、掌典長の話として「大嘗祭では、天皇が神々と酒を交わし、暗闇でアマテラスと横たわる」などと書かれている。当時、東京勤務だった記者が執筆した。

これに対し、政府は駐英大使宛ての文書で「記事は誤った引用や不正確な記述が極めて多い。反論の書簡をタイムズ紙の編集部に手渡してほしい」などと求めた。

反論の書簡には、「大嘗祭の儀式について『天皇は暗闇の中、アマテラスとともに横たわる』とあるが、根拠のない説だ。日本の憲法下で、この儀式が天皇の神格化につながることはありえない」と強調している。

平成の大嘗祭は、皇室の伝統行事として実施された。公的な性格を持つとして国費が使われ、違憲訴訟が相次いだ。いずれも原告側の敗訴となったが、95年の大阪高裁判決は、政教分離規定に違反することへの「疑いは否定できない」とした。〔共同〕』

うるさいのがキライな日本人 ― めんどくさい日本②

https://comemo.nikkei.com/n/n6f7fdc44798d

『“オレのときはこうだった”と上司に説教されるのがうるさい。同僚が酒を誘ってくるのがうるさい。満員電車の隣に立ってスマホゲームをしている若者がうるさい。おじいさんおばあさんがスポーツクラブの施設を占拠してうるさい。家に帰ったら親に質問攻めされるのがうるさい。デパートのエレベーターに乗ったら中国人観光客の集団がいて、大音響につつまれてうるさい。日本人は「うるさい」がきらい。煩いは煩(わずら)わしいとも読むが、煩(うるさ)いとも読む。うるさいはめんどくさい、わずらわしいとつながる。「煩(うるさ)い」も日本人を理解するキーワード。

煩(うるさ)いとはなに?
①音が大きい
外国人、とりわけ中国人は日本に来られると、駅から商業施設から街の静寂ぶりにびっくりする。こんなに人が多いのに、どうして静かなんだろうと感じるという。日本人の印象は「物静か」。本当は日本人は静かが好きなのではなく、「うるさい」のがキライなだけ。外国人の日本人解釈は、「内向的で自信がないから無口」と映る。中国人は日本の街なかを大きな声で喋りながら歩くが、日本人の声は殆どきこえない。日本人からすると、中国人は“うるさい”と感じる。しかし中国人からすれば、日本人は“暗いなぁ”と感じる。中国人は日本人のいう“うるさい”という状態を悪いとは思っていない。“普通”だと思っている。東南アジアに行っても同じく“うるさい”。街は喧騒に包まれている。この「うるさい」が日本人と外国人を分けるコンセプトのひとつである。音が大きいことを嫌がる、うるさいというのが日本人の特徴。
②ひつこい
“何回も何回もうるさいなぁ” ねぇねぇお父さん…と声をかけられると“うるさいなぁ”と感じる。ひつこい状態が“うるさい”。日本人はひつこいことを嫌がるのに対して、欧米人は相手がわかるまで何度でも言う。日本人は「推して知るべし」であり、“推し量ればわかるはずだ、なんども言わせないでよ、うるさいことを言わないで”であり、ひつこいことを嫌う。なぜなのか ― 理由はなにか。“日本人だから”としか言いようがない。ハエがうるさい〔五月蠅い〕、 お母さんがうるさい、何度も何度も言ってくるからうるさいな、わかっているよ ― とにかく日本人はうるさいのがキライ。
③いちいち文句を言う
小さいことにいちいち文句をつける。そんなこと、どうでもいいんとちがう?うるさいヤツだなぁ…の「うるさい」
④手間がかかって、やっかい
髪の毛が目にかかってうるさい。役所の手続きがうるさくて…、手間がかかってめんどくさい。
⑤高い要求水準、こだわり、見識
あの人は味にうるさい。うるさいというのは「要求水準」が高いこと
このように「うるさい」のバリエーションがある。この「うるさい」を英語にあてはめると、別々の英語となる。イザナギ・イザナミ時代のイザナギは黄泉(よみ)がえりしたときに、「煩い」を脱ぎ捨てた時の「煩い=うるさい」こそが日本人の根源的な特性であり、世界にはない(前回書いた、日本の「患者」と英語の「patient」に見られる病気への考え方の違いにもつながる)。さらに外国人の声が大きいのは、大きく言わないと伝わらないから大きな声を出しているのであって、みんなが大きな声を出すから全体として音が大きくなるのは当たり前。ひつこくないと引き下がる(=負ける)ことになるから、伝わるまで、分かってもらうまで何度も何度も言う。日本人は何度もいわれると、うるさいと思う。

前回、古事記の話で、煩(わざわ)いは外からまとわりついて、体に棲(す)みついてくるので、禊(みそぎ)によって脱ぎ捨てた服から煩(わざわ)いの神がうまれたことに触れた。神は今もなお日本人の身の回りにいて、何かあると外からまとわりついてくる、外患として取り憑(つ)く。とにかく日本人はうるさい事柄を嫌がる。手間がかかることを外国人が嫌がるのは「合理的ではない」からであって、日本人はただ「うるさい」から嫌がる、めんどくさいなぁ、うるさいなぁと。外国人はそうではない、必要な事だったら、細かいことだってやる。日本人はうるさいというだけで、嫌がる、拒否する。“それは無理”と、詳しく調べも聴かずに受け入れない。

「うるさい」事柄がどんどん増えつづけている。なぜ増えているかというと、外からやってくる「うるさいこと」が増えているのではなく、自分の側から“これ、うるさい、めんどくさい” “これ、無理、イヤ”といって、「うるさい」を増やしている。

近くの保育所で遊ぶ子供の声がうるさい。
新しくできた保育所ではなく、その保育所は昔からあって昔と同じように子どもは遊んでいるのに、うるさいという。このように、そもそもあったことでさえ、うるさいといいだした。自分からどんどんうるさいものを見つけ出し、それを脱ぎ捨てよう、切り捨てようとする。自分にまとわりつく「煩(わずら)い」として、どこからか「煩(うるさ)い」ものをみつけだして、拒否する。

近所の「うるさい」おやじが減った。
昔、“ここでこれしたらあかん、こうせなあかん”と言う口やかましいおやじがいたものだが、近所、街のなかの「うるさい」おやじをみんなが「うるさい」と言って排除していったから、いなくなった。しかも排除するだけでなく、社会システムのプロセスを複雑化させた。昔の社会プロセス、人と人との関係・手順はもっと単純であったが、「うるさい」のボルテージがあがり、いろいろな事柄の手順を複雑にさせた。うるさいことを言う人が増えれば増えるほど、マニュアルが分厚くなる。こういう時はこうする、そんな時はこうすると、めんどうである。やはり、めんどうな日本である。

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人はそもそもめんどくさいし、うるさい。
そのうるさい人がだれかと関わらざるを得ない。それが「煩(わざわ)い」となる。人と人との関係がめんどくさくなるという煩(わざわ)い。あなたが「うるさい」と思っているが、相手からすればあなたが「うるさい」と思う。このように、社会はめんどくさい。

太古の昔から人は社会を形成するにあたって、うるささにどのように対処するかの知恵をしぼった。それが社会のルールとなり、モラルとなった。社会に暗黙のコードがあった。うるさいものに対して、何らかのルールなり暗黙のコードで、「うるさいもの」と調和・バランスさせる社会をつくってきた。だから赤ちゃんが電車の中で泣いたって、“まぁ、赤ちゃんは泣くものだ”と、みんな、うるささに対応していた。それが今の社会では、対応できなくなっている。“めんどくさいなぁ、うるさいなぁ”と、赤ちゃんをあやす親に文句をいう。ちょっと前まであったルール・暗黙のコードが現代社会で通じにくくなりつつある。「暗号表」が共有できなくなり、「うるさい」が増えつづけている。』

めんどくさい日本①

https://comemo.nikkei.com/n/n403616283037

『“いちいちめんどくさい、ああめんどくさい、なんかめんどくさいな”―テレビでも学校生活でも会社でも毎日飛びかう。なんでもかんでも、めんどくさい。最近とみに、この“めんどくさい”が増えている。日本人はとかく“めんどくさい”ことがキライ。実はめんどくさいは“日本社会・文化とはなにか”を考える極めて大切なキーワード。

“めんどくさい”に込めている意味は人それぞれちがっている。ニュアンス言葉である。もともとの意味から変形して、人によって、様々な「めんどくさい」が使われる。しかしめんどくさいには、体裁が悪い、厄介だ、うるさい、わずらわしい…といろいろな意味があるが、日本古来より使われる「わずらわしい」がベースにあると考えられる。その「わずらわしい」とはなにか。

病気になることを「患(わずら)い」という。罹患・患病・患者と、病には「患」という漢字があてられる。日本語の「患者」は、病気を患うこと。患いが普通の状態(健康体)にまとわりついて病となる。だから自らにまとわりついた患(わずら)い=病を振り払うのが日本人。英語では患者のことをペイシェント(patient)といい、耐えるという意味となる。英語圏の患者は、病気に耐える、耐えてじっと待つ、耐えて忍ぶのに対して、日本語圏の「患者」は自分の意志で、患(わずら)い=病を振り払おうとする。わずらいは振り払えるものだと考える。このように病気に対する英語圏の人と日本人とでは考え方が大きく違っている。だから本来医療の考え方は日本と西洋とはちがっていた。ではこの「わずらい」はどこから生まれたのか。実は古事記に登場する。

古事記と日本書記に、「男神イザナギ・女神イザナミ」の夫婦神が登場する。夫婦神は国づくりをおこなうが、女神イザナミが大火傷を負って死ぬ。嘆き悲しんだ男神イザナギは、死者の国「黄泉(よみ)」の国に死んだイザナミに一目会いたくて訪ねる。黄泉の国でイザナギが見たイザナミは、変わり果てた姿だった。イザナミは喜んで会いに来てくれたイザナギに抱きつこうとするが、イザナギは異臭のする腐敗した、むごたらしいイザナミを振り払って、逃げ帰ってしまう。私がこんな姿になってしまったら愛してくれないのかとイザナミは恨みを持つ。黄泉の国から帰ってきた(「よみがえる」の語源)イザナギは、イザナミに抱きつかれて付いた汚れや臭いを振り払おうと、着ていた服を脱ぐ。これが「けがれ」を受けた人間がそれを振り払う「みぞぎ」の始まりである。そして黄泉の国でイザナミに抱きつかれ、汚れ脱ぎ捨てた衣服、杖や帯、袋、帽子から、12の神様が生まれた。そのなかで脱ぎ捨てた服から生まれたのが「和豆良比能宇新能神(わずらいのうしのかみ)」(日本書記では「煩神(わずらいのかみ)」)という神様だった。古事記・日本書記の時代に、日本人・日本社会を特徴づける「煩い」「けがれ」「みそぎ」という文字がうまれた。日本人の煩いは、このように古代からつづいている。
イザナギはわずらわしいもの、うるさいものを脱ぎ捨てた。だから日本人はみそぎをして身を清めたり、結界を張る。外からわずらわしいものが内に入ってこないようにする。ここで日本人の「内と外、ウチとソト」の概念がうまれる。 自分にくっついてくるのはわずらわしく、うるさい。うるさいものは外からやってきて、まとわりつこうとする。病にかかったり、変になるのは自分がおかしいのではなく、外からわずらいがとりつくからなのだ。だからわずらわしいものが外から入って来ないようにする。入ってきてとりついてしまったら、振り払う。そのために、おはらい、みそぎをする。そもそも入ってこないよう、盛り塩、しめ縄、神社の鳥居、川などの「結界」を張る。たとえば伊勢神宮の参拝はなんども川を渡るが、それが結界であり、外から「うるさいもの」「わずらわしいもの」が入ってこないような空間構造をデザインしたり、日本住居には縁側や中庭のようなウチでもないソトでもない中間ゾーンを日本人はつくってきたのである。

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わずらいが外から内に入ってくる。人にとりつこうとするわずらいはうるさいのだ。だから「戸は開けたままにしないで閉めなさい」と親は子どもにいってきたし、「この線のなかには入ってはいけない」というような行動様式が承継されてきた。結界が張られたら、その内には入らない日本人を外国人はとても不思議に思うが、日本人は今でも自然にそうする。目に見えようが目に見えまいが、「結界」を意識する。これが日本文化である。
日本人が内と外に執拗にこだわるのは、この「わずらい」の存在からである。外から来るのはわずらいであり、うるさいもの。内のことだったら内々(うちうち)で話し合えばなんとかなるが、外から入ってくるものは「わざわい=災い=禍=厄」であり、話が通じないかもしれずなんともならない。だから「内憂外患」という言葉も生まれた。内のことは憂いで、どうしようどうしようと悩めばすむが、“わずらわしいこと・うるさいこと”は外からやってきて、内が大変なことになる。だから内と外を分けてきた。外にいるわざわいが内と外の境界を突破し、自分にとり憑こうとするから、入らせないようにする。このわずらいこそ、日本人・日本社会の特性を規定するキーワードのひとつである。

親も妻も夫も子供すら煩わしい。“面倒くさい、うっとおしい、うざい、気持ち悪い…”というように、煩わしいの同義語が日本語にはいっぱいある。だから内と外の“結界”が大切だった。しかしながらこの内と外の境界、区切り、仕切り、中間、縁側、中庭が、限りなく薄くなり、減りつつある。分厚かった“界”がどんどん薄くなっている(第三の場所(サードプレイス)として日本人に受け入れられたスターバックスはこの文脈にある)。“界”は人の皮膚のすぐそばまで来ている。だから夫婦であっても、“これは私の流儀だ”“オレのやり方だ”と主張し、自分以外はみんな、“うるさい”“うざい”“面倒くさい” “わずらわしい”となった。これこそ、現代の日本社会を理解する重要なコンセプトである。

日本人は世界一「煩わしいこと=うるさいこと=面倒くさいこと」がキライなのだ。次回はこの“煩わしい、うるさい、面倒くさい”が日本社会・文化にどういう影響を与えているかを考える。』

日本の生きるもうひとつの道「外してはいけないこと」 ― スリッパ物語(下)

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『熊や猫がのっかり、可愛らしく、もこもこした内履き・部屋履きスリッパに、世界は熱狂した。カワイイ履き物!と、日本のお土産として外国の人が買っていかれる。ぬいぐるみのスリッパが世界アイテムとなった。実は日本発なのだが、多くの日本人は気づいていない。

“ぬいぐるみを履く“という発想は、世界にはなかった。
どっちみちスリッパを履くならば、ふわふわしたほうがいい。ふかふかした生地を使うのならば可愛いほうがいい。で、熊、猫をつけた。しかしそのスリッパは“部屋履き”である機能ははずさない。フワフワで、気持ちよく、あったかく、それに動物の顔をくっつけてぬいぐるみみたいになって、なおかつスリッパ。

価値観とか精神性を外してしまうと、アイデアはただのアイデアで終わる。日本人はモノづくりをするときに、ウチとソトとか、人に対する礼など根源的な価値観・精神性を決して外さない。便利で、心地よく、多様性があるモノやコトを日本人が承継してきた精神性が支える。たとえばウチで履くモノと、ソトで履くモノの意味を分ける。“ウチとソト”という精神性を基軸にして、転じて、ものごとを多様化させる。多様化してできあがったものは、とても機能的で、洗練され、しかも日本的なミニマリズムの粋になっている。それが日本のモノづくりの基本である。

内履き・部屋履きスリッパは和洋折衷のシンボル。
建物が和洋折衷になっていくに伴い、内履き・部屋履きスリッパがうまれた。内履きスリッパを履いたり脱いだりして、和と洋が混在する家のなかを行き来する。その内履きスリッパが家から出て、「つっかけ」となった。
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ベランダや庭に出るときの履き物で勝手口から、“ちょっと買い物”と、外に出た。当初はゲタだったのでカランコロンと音がしたが、形状が工夫されて静かな「つっかけ」となった。さらに「つっかけ」は進化して、ファッションアイテムとなり、街のなかで堂々と履いて歩くようになった。

また着物時代の足袋がとびだして、「地下足袋」がうまれた。親指が一本出た地下足袋を、昔のマラソンなどの陸上選手は履いていた。実は日本人は力仕事をするとき、親指に力を入れて地面を蹴る。だから親指が分かれていないと、足に豆ができる。地下足袋はこの日本人の運動スタイルを踏まえた形状であり、ゲタや草履の「鼻緒」も日本人が発明した。

これらゲタ・草履・鼻緒・地下足袋が転じて、日本人は「ビーチサンダル」を発明した。とりわけ“履いていたら乾く”という誰も考えつかなかった機能をのっけた。石文化の西洋では、サンダルは足を痛めるので履かなかったが、日本人がこのような快適なサンダルを次々につくっていったので、“すばらしい、いいね”となって、世界中の人が履くようになった。

この流れから、「クロックス」がうまれた。日本のつっかけ・ビーチサンダルをベースに、かかとが外れないようにと、「ベルト」がつけられた。この「ベルト」こそ西洋人の矜持だが、クロックスのベルトをつけない日本人が多い。

これらスリッパの進化はたんに機能だけで展開されたのではない。「内(ウチ)と外(ソト)」という精神性が踏まえられている。家の外に出るものではなかったつっかけが、家(ウチ)と外(ソト)の結界を越えて、ファッション性をあげて、外に出ていった。
日本人は精神性をはずさず、機能性を満足させ、洗練させ、そのうえで可愛いくする。どんなに可愛いいスリッパといっても、スリッパの機能を満たしている。バッグが可愛いい、ハンカチが可愛いい、スマホのケースが可愛いいと、日常生活に「可愛いい」が広がっている。

普段使うものだったら、“どっちみちなら、可愛い方がいい”と考える。弁当箱なのに可愛いかったり、ふたを開けたら猫の顔が出てくる「キャラ弁当」も、決して「弁当箱」であることを外していない。

弁当の原型は江戸時代にある。
「メンパ」と呼ぶ木製の箱に、家で調理した食べ物をつめて、外での仕事や旅のためにメンパを外に持って出た。“外にいながら、内を感じられる” “内と外をつなぐ”という精神性を込めて、パーソナル用の「主食と菜(な)」をセットにして、持ちはこんでもこぼれない、しかも愛母弁当・愛妻弁当として想いが込められるという “弁当”を今も学校や職場に持って行き、食べている。江戸時代の流儀が今に続いている。その弁当が「BENTO」という世界語となり、「キャラ弁」としても発展し世界に広がっているが、日本人の多くの人はそのことに気がついていない。
 
日本人は与えられた「レギュレーションとルール」のなかで、なにができるかを徹底的に考えて、洗練させ、かつ多様化させるのが得意である。欧米の人は“スリッパならばこんなものだろう”と思うが、日本人はスリッパに”こだわり”つづける。スリッパというお題があれば、そのスリッパをもっと楽しいものにしよう、可愛いものにしよう、綺麗なものにしようと考えて、スリッパをいろいろに転じる。

精神性、機能、根本を変えない。
その範囲のなかで、どっちみちなら可愛く、どっちみちなら楽しくという発想で、物事を多様化していった。そのモノづくりが最近ズレてきている。ともすれば突拍子もない、思いつきのアイデアでモノをつくろうとする。基軸を外したものは、広がらない。

日本の生きるもうひとつの道はこれではないだろうか。
そのモノ、そのコトの本質と価値観を外さず、そのうえで転じて、幅広く展開し、創意工夫し、多様化させる。あくまでスリッパはスリッパ、弁当は弁当でこだわったうえで、転じる。スリッパ・弁当以外にもある。傘なら傘の領域で、どこまで行っても傘にこだわり、綺麗な傘、可愛いい傘、折れない傘、折りたためる傘へと転じてきたが、どれも傘であることを外さない。

日本的なモノづくりは、「本質」「精神性」にこだわる。
ビーチサンダルしかり折りたたみ傘しかり、これまでやってきたことを活かす道はないのか、生き残る道はないのかと試行錯誤するなかで、いっぱいの失敗を経験して、“これ、いい” “みんな、喜ぶ”という価値あるモノやコトを生み出してきた。「試行錯誤」をめんどくさがってはいけない。 (了)』

日本人最大の関係性 「 ウチとソト」― スリッパ物語(上)

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『“煩(わずら)いはまとわりつくもの。脱ぎすてることで禊(みそ)がれる”と日本人は古事記の時代から伝えつづけてきた。外(ソト)、他とかかわることで自分の身にふりかかる煩(わずら)いや穢(けが)れは、要所要所で脱ぎ捨てないといけない。煩いや穢れを脱ぎ捨てる場として結界がある。

「内(ウチ)と外(ソト)」という関係を日本人は意識する。煩わしいものを身にまとってしまう世界が外(ソト)。家のなかは内(ウチ)で、 内では煩いはまとわりつかない。玄関前の盛り塩、敷居、畳の縁は外の煩いを内に入れない「結界」の意味を込める。

江戸時代の旅人が旅籠に到着すると、玄関で外のよごれがついた草鞋を脱いで足を洗う。さらに手を洗って禊(みそ)いで、土間から上がる。“結界を越えた”からと旅籠の人は「気楽にしてください。どうぞ寛いでください」と声をかける。

家の内ではなにもまとわりついてこないから、お気安に。家の外の世界ではいろいろなものがふりかかってくる。“内の空間は結界で守られた世界だ”という精神性がいまも日本人の所作なり言葉として残っている。たとえば

「敷居は踏んではいけない」
家の玄関が“結界”のひとつ。玄関で靴を脱いで家のなかに入ると、“結界”によって、それぞれの部屋の性格が分けられる。ダイニングで外国人が座っていたら、(決して汚くはないのだが)「ダイニングでは座らないで」と注意される。つづくリビングと和室、廊下と和室を仕切る「敷居」は「踏んではいけません」と声をかけられる。敷居を越えて畳のうえに立っていると、「まぁ、すわってすわって」と声をかけられる。このように敷居を境に、がらっと意味が変わる。同じ家のなかでも、空間ごとに、生活スタイルを変える。

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かつて日本は草履文化だった。
草履のままでは、建物のなかには上がらなかった。上がらないといけない場面では白足袋を履いた。明治に入り、靴を履くようになって、日本人は白足袋をやめた。白足袋をやめたので靴を脱ぐと、”上は洋装で下は素足”というスタイルとなる。ここで明治の日本人は考えた。どのような恰好で家にあがればいいのだろうか?と。

靴を脱ぐ形から靴を脱がない形に、
日本の建物が変わっていく。明治維新までの建物は靴を脱いで上がる形式であったが、日本の住宅は明治維新からの混沌期を経て、洋式の住まいとなった世界、和を守った世界、和洋折衷の世界の3つに分かれた。

日本的なスタイルは、なんでも折衷しようとする
A と B を混ぜて、C をうむ
〔1+1=2 ではなく、 1+1=Xにも、1+1=Y にする〕
日本的なスタイルは、なんでも折衷しようとする。
「A+Bを混ぜて、Cをうむ」。単純に「1+1=2」ではなく、絶妙なバランス力で、「1十1」をXにもYにもした。
住まい方でも絶妙な和洋折衷がおこなわれた。従来の和式の住まい方と西洋式の住まい方を融合させようとするが、玄関で靴を脱いで、廊下を歩き、応接室やリビングに入って、そこで靴下や素足でソファ・テーブル・椅子に座るというのはどうもしっくりこない。ここで日本的な「スリッパ」が発明された。

実はスリッパはシャワーのあとの履き物であった。
ホテルのシャワールームにはガウンとスリッパが置いてある。欧米ではシャワーを浴びるまでは靴を履いているが、シャワーを浴びると足が濡れる。足が濡れたら靴は履きにくいので、シャワーを浴びたあと、白くてタオルのような生地のスリッパを履く。ガウンを着てスリッパを履いて、ベッドに移動する。

スリッパは靴から履きかえるモノ。
欧米系のホテルでは浴室にはスリッパが置いてある。シャワーを浴びて体を拭いたときに使ったタオルを足にくるんで歩いたことから、スリッパが生まれたという説がある。シャワールームに置いてあるようなタオルの生地にはそんな背景があるかもしれない。
ホテルのベッドの足元には、帯のような布が敷いてある。
日本人はこの布がなんのためのモノなのかを知らない人が多い。寝るときには、この帯のような布を取ってベッドに入るが、ベッドの上の帯のような布は靴をのせるためのものである。なぜならば欧米には靴を履いたまま、寝る人がいるからである。

ともあれ日本人のホテルの部屋での過ごし方は欧米人と違う。
日本人は部屋には入ったら、すぐに靴を脱ぐが、どうにも自分の家のようにはリラックスできない。なぜしっくりしないかというと、家とホテルの室内構造の違いに加え、ホテルと自分の家の内での過ごすスタイルが違っているためである。

日本人は自分の家でどのようにすごすのか。
玄関で内履きスリッパに履きかえて、廊下を歩いてリビングに入る。しかしお手洗いでは別のスリッパに履きかえる。水にぬれてもいいスリッパを履く。キッチンやリビングでは内履きスリッパを履くが、リビングのフローリングの上に絨毯が敷かれていたらスリッパを脱ぎ、絨毯の端に置いたりする。

外の世界から戻ると、玄関で靴を脱ぎ、内履きスリッパに履きかえるのは、玄関が重要な結界だから。家のなかに鴨居や鴨居など視覚的に結界を張っている場所と、目に見えないが意識の結界を張って、家のなかでウチとソトを分ける。
スリッパを履いたり脱いだりして、内と外、こっちとあっちを分ける。
スリッパを履いている場所では床に座らない。一方スリッパを脱いだあと、畳や絨毯のうえに座ったり、ごろっとしたりできる。空間的には切れていないが、家の内でスリッパを履く履かないで、絶妙に内と外を分けている。これこそ、「和洋折衷の粋(すい)」といえる。

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戦後になって、新しく建つ家での洋風ウエイトが高まり、古い家でも一部部屋を洋風にリフォームするなど室内構造を変えるに伴って、洋風になった室内と履き物との違和感がでてきた。こうして内履きスリッパが高度に進化する。しかし今も靴を脱いで靴下や素足で台所仕事をしたり、テーブルでご飯を食べたりすると、違和感がある。

日本人は玄関で内履きスリッパに履きかえ、そのスリッパでリビングですごすようになった。しかし畳の部屋では敷居・鴨居という結界を超えるから、スリッパを脱ぐ。このように「ウチとソト」という意識・精神性は今もつづく。この日本的価値観や精神性が内履きスリッパをうみだし、内履きスリッパの機能性を高め、かつデザイン性を高め、バリエーションあふれる内履きスリッパを世界に広げた。

次回の「スリッパ(下)」では、日本のモノづくりの可能性を、日本発世界商品となったスリッパと弁当で学んでいきたい。』

戦略が好きな日本人(下)

https://comemo.nikkei.com/n/n9bf83eac773b

『どこまでいっても、日本は傘は傘で考える。
綺麗な傘、折れない傘、可愛い傘…と傘であることを外さない。たとえば持ちはこびやすいコンパクトな傘がつくれないかと考えて、たたむと骨が緩む「折り畳み傘」がうまれた。欧米人は、傘をコンパクトにしたいならば、傘である必要はなく合羽を防水にできないかと考える。日本人は、傘ならば傘の機能を担保しつつ、小さくして、洗練させて、多様な傘をつくる。こういう日本人がウォークマンをつくり、高機能なテレビをつくった。日本人は決められた筋を外さず、その領域・分野で創意工夫を重ねて、横に展開するのが日本的多様性のつくり方である。

モノやコトの本質的な意味とか価値観を外してはいけない。
そこから、どうやって良いものにしていくのか、新しくしていくのかを考えてきたのが日本人。スリッパはスリッパのなかで考える。スリッパに代わるものは、思いつきのアイデア。イノベーションが事業として市場に受け入れられるには時間がかかる。日本人が画期的なことをやっても、日本では認められず、海外で認められて日本に逆輸入されて、ようやく“これはすごい”と受け入れられる。日本人は、突拍子もないこと、原点を離れたものを、なかなか理解しようとしない。

日本人は携帯電話を多機能化した。携帯電話にこだわりすぎ、コンピューターという世界への移行に失敗したが、多機能化は無駄ではなかった。そのひとつが携帯電話のパカパカ。こんな発想は海外にはない。携帯電話の画面を見やすくできないかと考え、液晶画面を大きくした。このガラケーの液晶画面の技術は、コンピューターの画面へ、スマホの画面へと広がった。

だから液晶技術は日本がダントツ。

携帯電話を多機能化した→大きな画面の液晶技術をつくった
→しかしコンピューター化の流れで、ガラケーは敗れた
→しかし液晶メーカーはスマホの液晶メーカーに転じて生き残った。

バイブレーターも日本の技術。音源チップもそう、日本メーカーが主役。みんな、横滑り。ガラケー向けにつくっていたが、携帯型コンピューター向けに、横滑りできた。それは誰も読めなかったが、バランスの結果論である。
「負けたらしょうがない」と平気でいう人がいる。負けないようにもっていくのが戦略なのに、「負けたら仕方ない」とすぐにあきらめる。それは「戦略」の専門家だけではない。当事者である企業経営者も「戦略」スタッフも、そう言いだした。成り行きの戦略と化しつつある。

戦略は成り行きで、浅くて狭い。
表面的であり、部分的である。戦略は負けないためのもの。負けないために、どうしたらいいのか。戦略力を高めるためには、自らが経験したこと、他の人の経験に学んだこと、「これはこうだった」という引き出しを増やす。

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戦略の核は、アナロジー(類推)。
<AがBならば、CはBになる>と発想する。アナロジー(類推)を使うためには、どれだけ多くの「引き出し」を持っているかである。自ら場数を踏んだ経験だけでなく、他人(ひと)の経験を自らの経験として学んだものをどれだけ「引き出し」に入れられるかである。

しかし人の話を聴いたことそのままを、「引き出し」に入れてはいけない。
人は語るとき、どうしても飾りつけて、創った「物語」をするので、他人の話は自らの経験と掛けあわせて、 “自分事”に翻訳して、「引き出し」に入れなければならない。そうすると、自らがなにかに出くわしたとき、「引き出し」を開いて、<AがBだから、Cはこうする>と導く。「引き出し」をたくさんもっていると、<まずこうして→次にこうして→最後にこうする>という全体ストーリーが描ける。しかし描いたストーリーどおりにうまくはなかなかいかない。

時々刻々におこる問題に対して、臨機応変、解決しながらゴールに向かう。
今の日本、このプロセスが弱くなった。それは「引き出し」が少なくなったからだ。自らの経験しか「引き出し」に入れない。他人の経験に関心がない。他人に学ぶとはスマホを検索して情報を集めるだけでなく、「自分事」として出来事を観ることであり、日々の新聞や本を“自分ならばどうか”と読み考えたことを「引き出し」に入れることであるが、ほとんどの人はそれをしない。時間がないというが、本当はめんどくさいのだ、他人のことに関心がないのだ。

しかし日本の現場力は強い。
スリッパや弁当を世界アイテムにして多様化させ、さらに発展させている。おむすびも日本海苔も、世界アイテムにした。しかし日本の人口が減少するから、超高齢・少子化していくから、別のことを考えなければ、イノベーションだとか変革が必要だといって、これまでのことを捨て、ゼロから考えようという風潮がある。
箸にかかわっている人が箸以外のことを考えて、新たなことを考えるといっても、その新たな分野にはその分野のプロがいる。短期間で彼らを上回ることなどできるだろうか。“だからこそ、やるのだ”というが、箸という世界でなにができるのかを徹底的に考えた方がいい、まだまだ箸で考えることがないかと。またストローが環境の観点から問題になっているから、“じゃストローをやめて、ストロー以外はないか”と考えるのではなく、“ストローで何ができるのか”と考えるべき。ああでもない、こうでもないと考え抜くことが減っている。

自動車は自動織機からうまれた。
自動織機をつくる機械で、そのまま自動車がつくれた。自動織機メーカーの多くは、ねじを切ったり鋳物をする生産方式であったので、そのまま自動車メーカーに横滑りできた。何かから紐づいて転じていくというスタイルである。これも「アナロジー」である。日本的な価値あるものは、そうやってうまれてきた。

「ここまでやってきたことを活かす道はないか」
とウンウンうなって、そこから、すごいことがうまれたり、できあがったりする。今あるものを別のものにできないかと、いろいろなことを考えて考えて考え抜き、試して試して試しまくる。「試行錯誤」を笑ってはいけない。“なんとしても生き残る”ともがき試行錯誤するが、だめなものはだめだが、なかにはあたるものもある。そんなストラグルを恰好悪いとか流行らないとかいって、あっさりと諦める風潮がある。“可能性”を淡白に捨ててしまっている。

日清紡はそれで生きた。
日清紡もクラボウも、ケミカルで生きている。自分たちの持っている「資産」で、横滑りできた。産業の発達史という観点だけではなく、本質にこだわったからこそ、転じることができた。スリッパしかり折りたたみ傘しかり。スリッパじゃなくていいだろう、傘でなくていいだろうという社内での議論もあったろうが、そこにこだわって試行錯誤したからこそ、そのなかに“これいいなぁ”“かわいい”というものがうまれた。餅は餅屋、蛇の道は蛇である。むやみやたらに新産業・新事業といっても、突然、「新産業」「新事業」などできない。今あるもの、今やっていることとは違った角度で考える、横から上から後ろから斜めから考える、試行してみる。なにがでてくるかどうかはわからないが、でてくる可能性はゼロではない。その可能性を消すのは勿体ない。』

戦略が好きな日本人(上)

https://comemo.nikkei.com/n/n55f271112821

『日本人は「戦略」という言葉が好き。
経営戦略、企業戦略、マーケティング戦略、サービス戦略、イノベーション、環境戦略、投資戦略、不動産戦略、起業戦略…と、新聞・雑誌・書物・会社・イベント・セミナーは「戦略」だらけ。分かるようで分からない。しかし、戦略と戦術はどうちがう?課題と問題はどうちがう?…「概念言葉」を使うときは「意味」をおさえるのが鉄則だが、日本人は曖昧にする人が多い。戦略はその典型のひとつ。

魔法の言葉がある。
企画書や計画書に、「強化」と「推進」という言葉がよくでてくる。この言葉が出てきたら要注意。年度計画や活動計画、中長期計画を考えるとき、たとえば「営業力の強化」「組織間連携の強化」「イノベーションの推進」「戦場風土の改革」など、「~の強化」「~の推進」「~の改革」などと、魔法の言葉で締めくくろうとする。この言葉が出てきたら、文章全体が曖昧になる。この言葉を使おうとするのは計画が練れていない証拠。別の言葉を考えるだけで、具体性が増す。
経営コンサルタントになりたがる学生が多い、なぜ。
金融やメーカーや流通などの大手・有名企業や自治体に内定していても戦略コンサル会社に内定が決まったら、そっちに行きたがる学生が多い。なぜ?― “スマートだから、格好いいから、収入がいいから”と答える。どんなイメージだと思うの?と訊ねると、“偉い人たちに、綺麗なパワーポイントでプレゼンする華々しい自分の姿”を思い浮かべていたりする。しかし突っ込んで議論したら、戦略コンサルなら「責任」をとらなくていいのではないかという本音がチラホラでてくる。そう考える背景のひとつに、テレビで“偉い人”たちがいっぱい頭を下げている映像の数々をみるなか、“自分はそうなりたくない、責任をとらなくていい”と思い込む分野で働きたいという防衛本能を底流に感じる。

ともあれ日本人は「戦略」が好きで、戦略という言葉を“雰囲気”で使っている。そもそも戦略は軍用用語。戦略は、英語の「strategy」の日本語訳で、語源は「だます」という意味のギリシャ語「strategia」。「謀略」といったりするように、「略」には「はかる」「かすめとる」というニュアンスが含まれている。

では「戦略」と「作戦」とはどうちがうのか。
戦略は戦いが始まろうとする直前から戦いが進行している間に、“今、右か左のどちらを選ぶか”ということを考え決める。戦いのなかで生き残るために、勝つために、なにをどうするのかを考えること。「戦略」を考えるという段階は戦っている状態であることを忘れてはいけない。一方、「作戦」は戦う前に考えること。“いつか、こんな社会になったらいい”とか “いつか、わたし、こういうふうになりたい”というのが「作戦」で、まだ戦いが始まっていない段階に考えることである。

「課題」と「問題」もよくわからない。
“いつかこうなる、こうしたい”が「課題」で、“今、どうするか”が「問題」。「問答」という言葉があるように、問われたことに答えを出すこと。問題は今、現場でおきている。その発生する問題への答えを出さないといけない。今流にいえば「ソリューション」、問題を解決すること。答えを出していたら、“電車”は動き出す。しかし“電車”はそのままでスムーズにゴールまでたどりつかない。ゴールにつくまで、いろいろなところで問題がおこる。“これ、どうする?” “あれ、どうする?”といった問題に対して、答えを出しながら、ゴールへと導いてくことが戦略。スタートしたら、ゴールにたどりつかないといけない。

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これをタクシーで考えてみる。
お客さまを安全に目的地=ゴールにはこぶことが「課題」。“あっちを右に” “こっちを左に” “急いで” “そこ、止まって”といったお客さまの注文に次々と応えて、ゴールにたどり着かなければならない、しかも安全に運転する。このようにタクシードライバーは極めて戦略的。
タクシードライバーのストレスは大きい。道路で手をあげられたお客さまがタクシーの車内に乗ってこられるまで、どこに行きたいのか分からない(Uberタクシーはこの問題をクリアする)。乗られたあともお客さまが行きたいところをきちんと伝えられなかったり、走っているうちに突然ちがう方向に行ってと言われたり、時間とか運賃などお客さまからの様々なリクエストに応えて、ゴールにたどりつかなければならないから、極めて「戦略」的でなければならない。「戦略」とはこういうこと。
目的地・ゴールにたどりつかせるのが「戦略」。
目的地までの間に発生する数々の問題に答えを出すごとに、局面が変わる。この道だと思って進んでいたら熊が出てきて、これではだめだと別の道に変えて歩き出す。すると今度は虎が出てきて、また別の道を選ぶ。最初に考えた通りにはいかない。現場では、次々と局面が変わる。局面局面ごとに情勢を分析して考えて実行する。現場ではいっぱいの「どうしよう?」が発生し、問題ごとに「じゃ、こうする」と答えを出し、動きつづけて、ゴールにたどりつかないといけない。

戦略はゴールにたどりつくための問題解決の連続的なプロセス全体である。
にもかかわらず、経営戦略だとか企業戦略だとか投資戦略といったセミナーの「これをこうしたら勝てる、うまくいく、儲かる」といった話が流布する。しかし現場は“これをこうしたら絶対に勝てる、必ずうまくいく”わけではない。手をうっても思ったとおりにならなかったり、別の局面になったりする。そのとき、どうする。そうならなかったとき、どうする、どうやって軌道修正して、ゴールにたどりつかせるかといった「連続的なプロセス=戦略」が欠落している。

“私が考えたプランは良かったけど、あなたが実行しなかったからダメだったのだ”と言ったり、“やったけどダメだった”と平気で言う戦略コンサルタントとか弁護士といった、いわゆる「先生」方が増えている。本当の戦略とは知識ではない、海外の誰かが考えた枠組みや公式ではない。戦略はゴールに必ずたどりついて勝つことなのに、「うまくいくかどうかの責任はもてない。やるのはあなただから」という「先生」が多くなった。

“考えるのは私、やるのはあなた”ではない。
刻々と発生する様々な状況をつかみ、判断をおこなって答えを出しつづける。それが「戦術」である。戦術とは「術(すべ)」。術(すべ)とは現場での経験にもとづいて身につく技術。つまり戦術をもって一連の問題解決をおこなって、試行錯誤しながらも、ゴールにたどりつかせる全体プロセスこそが「戦略」である。
その戦略力を高めるために、どうしたらいいのかは次回、考える。』