米国陣営に戻るフィリピン、墓穴を掘った中国
編集委員 高橋徹
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD098HE0Z00C23A3000000/
『超多忙な国家指導者にとって異例の長さの滞在は、しっかり成果を伴った。2月8〜12日に就任後初めて日本を訪問した、フィリピンのマルコス大統領である。
240人もの企業関係者を同行し、日本の官民から130億ドル(約1兆7500億円)規模の投資や援助を引き出した。岸田文雄首相との首脳会談では、人道支援や災害援助で自衛隊をフィリピンへ派遣する際の手続きを簡素化する取り決めを交わした。
マルコス氏は1月、…
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『マルコス氏は1月、先に中国を訪れて習近平(シー・ジンピン)国家主席と会談し、228億ドルの対内投資や、南シナ海の領有権争いの「平和的解決」に向けたホットライン開設の約束を取り付けていた。訪問の順番、経済や安全保障の合意内容で日本は見劣りするようにみえる。
ところがフィリピンの有力紙インクワイアラーは「日本からの授かり物」と題した社説でこう論評した。
「何十億ドルもの投資を約束しながら、狭いパシグ川にかかる2〜4車線の橋しか実行せず、さらに悪いことに、我が国の排他的経済水域と国際的に認められている海域で沿岸警備隊員を一時失明させる軍事レーザーを使用した他の国とは違っている」
日本より一足早く訪問した中国で、マルコス氏㊨は228億㌦の巨額投資の約束を取り付けたが…(1月4日、北京)=ロイター
「他の国」は言うまでもなく中国への当てこすりだ。そしてレーザーの使用とは2月6日、フィリピンが実効支配する南沙(英語名スプラトリー)諸島のアユンギン礁付近で起きた事件を指す。
フィリピンはそこに艦船を座礁させ、海軍部隊を駐留させている。この日、補給物資を輸送中の巡視船が中国海警局の艦船から緑色のレーザーを照射され、乗組員が視力を一時的に失った。
前後の脈絡を整理すれば、事件の意味合いが浮き彫りになる。
4日前の2月2日、フィリピンはオースティン米国防長官を首都マニラに迎え、米軍が自国内で巡回駐留できる拠点を新たに4カ所追加し、9カ所に増強する安保協力拡大に合意した。2日後の同8日からは大統領の訪日を控えていた。重要な外交日程の谷間を狙ったレーザー照射は、日米への接近に対する威圧の意図が明らかだった。
1月の大統領の訪中時に発表した共同声明には「意見の相違を適切に管理していく」と明記してあった。その舌の根も乾かぬうちの出来事である。フィリピン外務省が「首脳会談での合意を乱し、失望させる行為」と非難したのは当然だ。
フィリピン側が事件を公表したのは2月13日。発生から1週間もすぎてからだったのは、12日のマルコス氏の訪日終了を待っていたのだろう。中国に反発しつつも、無用に刺激するのは避ける配慮がうかがえる。それでもマルコス外交は、2022年6月に就任する前の見立てからは大きく異なっている。
マルコス氏は大統領選で、ドゥテルテ前大統領の長女で副大統領選に出馬したサラ・ドゥテルテ氏と共闘し、異例の高支持率を誇った前大統領の路線継承を掲げた。
その前のアキノ政権が南シナ海を巡る中国の主張には根拠がないと国際的な仲裁裁判所に提訴し、全面勝利をもぎ取ったにもかかわらず、ドゥテルテ氏は判決を「紙切れ」と呼んで棚上げにした。長年の同盟国でありながら、人権無視の麻薬犯罪捜査を批判した米国に激しい敵意を示し、経済支援を目当てに中国へ急接近した。
ドゥテルテ前大統領㊧は中国の習近平国家主席と何度も会談し、巨額の経済支援を取り付けたが、実現した案件は少ない(2018年11月、マニラ)=ロイター
そんな外交姿勢をマルコス氏は「我が国の唯一の選択肢」と持ち上げた。21年10月、大統領選への出馬申請の直後にわざわざマニラの中国大使館へ足を運び、大使と会談してみせた。ところが大統領就任が決まると「我々の領有権が1インチたりとも踏みにじられることを許さない」と発言し、対中姿勢を一変させた。
「変心」はなぜか。2つの要因が挙げられる。
第1に、ドゥテルテ氏の親中路線は、お手本というより「反面教師」の側面が強かったことだ。
同氏は19年に日本経済新聞社が主催する国際交流会議「アジアの未来」に登壇した際、「ある国が海全体を自分たちのものだと主張するのは正しいことなのか」と中国に不満を述べつつも「フィリピンは中国の友好国。どこの国とも戦争をする余裕はない」と近隣の大国と付き合う〝処世術〟を披露した。
経済協力という実利の追求は、同時に軍事・外交上の緊張の緩衝材にもなり得るとの計算は働いただろう。しかし任期中に足しげく訪中し、数百億ドルの投資の合意文書を交わしたにもかかわらず、実現した案件は半分もないといわれる。他方で海上での威嚇や人工島の軍事化、領有権を争う島々での一方的な行政区の設置といった中国の不穏な動きが止まることはなかった。
「ドゥテルテ氏の経験は、中国が信頼できないパートナーであることを証明した」とオーストラリア国立大の太平洋エンゲージメントマネジャー、マッコイ・ポピオコ氏は指摘する。
第2に、米国との同盟関係を基軸とする外交・安保の実務を担ってきた外務省や国防省が、「親中嫌米」のドゥテルテ氏とつかず離れずの距離をとり続けたことだ。
たとえば外務省は、20年9月の国連総会でのドゥテルテ氏の演説に、南シナ海の問題解決は国連海洋法条約や仲裁裁判決に基づくとの主張を盛り込ませた。また同氏が側近の元国家警察長官が米国から入国ビザ発給を拒まれたことに腹を立て、20年2月に米軍の寄港や合同演習の根拠になる「訪問軍地位協定(VFA)」の破棄を一方的に通告した際には、国防省や国軍が懸命に取りなし、最終的には破棄を撤回させた。
南シナ海への中国の進出は歯止めがかからない(フィリピンが実効支配を続けるパグアサ島)=ロイター
「ドゥテルテ政権の6年間は、伝統的な外交・安保戦略に対する『ストレステスト』だったが、何とか乗り切った」と政策研究大学院大の高木佑輔准教授は評する。
1月にマルコス氏を北京に迎えた習近平氏は、父のフェルディナンド・マルコス元大統領時代の1975年に両国が国交を樹立した史実に触れて「この友情はかけがえのないものだ」と語りかけた。だがマルコス氏は、独裁者だった父が86年の民衆蜂起「ピープルパワー革命」で失脚したのは、国軍の離反が決定的だったことを熟知している。米国を重視する国軍の意向を無視し、親中路線を続ける選択はなかった。
マルコス外交は単に先祖返りしただけではない。比シンクタンク、ストラトベースのビクター・マンヒット社長は「マルコス氏は米国との関係をリセットした以上に、他の友人や同盟国に目を向ける必要性を認識している」と話す。
日本と合意した自衛隊派遣の手続き簡素化は、その先により広範囲な合同軍事演習を可能とするVFAの締結が視野に入る。訪日後の2月22日、今度はオーストラリアのマールズ副首相兼国防相をマニラに招いて国防相会議を開き、防衛閣僚会議の定例化に合意した。フィリピンは豪州ともVFAを締結済み。日本が加われば、南シナ海での4カ国演習や共同パトロールが可能になり、対中抑止力は一段と増すだろう。
対する中国は、不思議に思えるほどの失策続きだ。中国の公船は20年4月にもフィリピン海軍の船にレーザーを照射する事件を起こした。先に触れたように、同年2月にドゥテルテ前政権が米国にVFA破棄を通告しており、そのままなら半年後の8月に自動的に失効するはずだった。そうなれば米軍はフィリピンに入れず、年300回を超す演習や訓練ができなくなる。中国には願ってもない展開だった。
ドゥテルテ氏は時間切れ前に、破棄通告の効力を保留し、最終的には実行を思いとどまった。国防省や国軍からの説得が奏功した理由のひとつに、レーザー照射事件があったとされる。
米国が日本、韓国、豪州、フィリピン、タイという5つの同盟国と個別に連携する従来の構図は、自転車の車輪になぞらえ「ハブ・アンド・スポーク」と呼ばれる。フィリピンが米豪日との連携強化に動くことで、今後は「スポーク・トゥー・スポーク」の図式も加わる。アジアの安保枠組みは重大な転換点に差し掛かっている。
それを後押ししたのは、タイミングをわきまえない「力の誇示」や、振りかざすだけの空手形で、一時は立ち位置が揺らいだフィリピンを米国側へと押し戻した中国であろう。より強固になる対中包囲網は、自らが掘った墓穴と評さざるを得ない。
=随時掲載
高橋徹(たかはし・とおる) 1992年日本経済新聞社入社。自動車や通信、ゼネコン・不動産、エネルギー、商社、電機などの産業取材を担当した後、2010年から15年はバンコク支局長、19年から22年3月まではアジア総局長としてタイに計8年間駐在した。論説委員を兼務している。著書「タイ 混迷からの脱出」で16年度の大平正芳記念特別賞受賞。
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