日本の研究者、中国で基礎科学 大学でポスト・資金充実
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC29BB70Z20C23A5000000/
『中国の大学や研究機関でポストを得る日本人研究者が増えている。これまで中国は日本企業の技術者を招請していたが、天文学など基礎科学の研究者も迎え入れ始めた。大学の予算減で研究者の就職が厳しい日本とは対照に、この20年で予算を大幅に増やし、論文の量や質で米国と競うほど研究レベルが上がっている。
「研究者として早く独立したかった」。東北大学の助教だった亀岡啓さんは2022年9月、上海市にある中国科学院分…
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『東北大学の助教だった亀岡啓さんは2022年9月、上海市にある中国科学院分子植物科学卓越創新センターのグループリーダーになった。植物研究で世界的に著名な英ジョンイネスセンターと中国科学院が共同運営する組織の中で、自身の研究グループを立ち上げた。
亀岡さんは東京大学大学院修了後、大阪府立大学(現・大阪公立大学)などを経て、20年に東北大で任期付きの助教になったばかりだった。だが早く独立して研究室を主宰したかった。研究者にとって「PI(主任研究者)」と呼ばれる研究室の主宰者になることは大きな目標だ。
研究費9千万円
海外のポストに応募するための書類を作る機会だと考えて応募し「1発目で運良く通った」。オンラインと英国での対面の計2回の面接を突破し、採用が決まった。
亀岡さんの研究テーマは土の中にすんでいる菌と植物の共生関係だ。「アーバスキュラー菌根菌(AM菌)」というカビの仲間は土の中のリンや窒素を集めて植物に与え、成長を助ける。環境負荷の小さい「微生物肥料」として農業に役立つ可能性がある。
亀岡さんはAM菌だけを培養して増やすことに世界で初めて成功した。中国では学生や研究員と従来の研究テーマを深掘りしながら、新しいテーマにも挑戦する考えだ。
研究所には腰を据えて研究に取り組める環境がある。「中国の中でも恵まれているほうだ」。研究室を立ち上げる初期費用と5年間の研究費として計約9000万円が用意された。質量分析計や共焦点顕微鏡などの高額な実験機器を共同利用できる施設が充実し、機器メンテナンスなどを担う技術スタッフもいる。
50〜60人規模の植物研究者が集まる研究所は世界的にも珍しいという。仲間意識も強く、実験機器をシェアするなど「すごくいい雰囲気だ」。亀岡さんの任期は5年で、審査に通ればさらに5年延長される。「5年より長く腰を据えたい」と意欲を燃やす。
中国に渡る日本人研究者の全体像を示すデータはあまりないが、現地の日本人研究者らは増えてきていると口をそろえる。背景の一つに中国の研究レベル上昇で好条件のポストが増え、研究環境の魅力が向上していることがある。
上海にある復旦大学の服部素之教授は中国に渡ろうと考える日本人研究者からの相談をよく受ける。服部教授は「レベルの高さとポストの行きやすさは別の話だ」と強調する。レベルが高くても大量採用していれば行きやすい。「中国には圧倒的にポストがあり、日本は圧倒的に少ない」
特に中国に渡る研究者が多いといわれる分野がバイオ・生命科学系と天文学や基礎物理学だ。基礎科学の代表格である天文学は世界的に研究者のポストが不足している。一方で中国は近年、応用科学だけでなく基礎科学の強化も打ち出し、学科や研究所の新設が活発だ。
上海交通大学の李政道研究所は天文物理学分野で世界トップレベルを目指す研究機関だ。ノーベル物理学賞を受賞した中国系米国人の李政道氏が提唱し、16年に設立された。天文学と量子力学、素粒子物理学を柱としている。
スパコンすぐ利用
ブラックホールの天文学を研究する水野陽介さんは20年から同研究所の准教授を務める。ブラックホールの撮影に成功した国際プロジェクト「イベント・ホライズン・テレスコープ(EHT)」の参加メンバーの1人でもある。
京都大学大学院を修了後、米国で米航空宇宙局(NASA)や大学の研究員のポストを得た。その後、台湾の大学やドイツ・フランクフルトのゲーテ大学に勤めた。EHTに参加しながら日本を含めポスト探しも続けた。子供の教育も考えて日本人学校がある地域を探し、採用されたのが上海の研究所だった。
水野さんは数値シミュレーションの研究が専門だ。スーパーコンピューターによる計算結果やEHTの観測画像を組み合わせ、ブラックホールに物体が落ちる仕組みなど理論の検証に取り組んでいる。
上海交通大学の李政道研究所は天文物理学分野で世界トップレベルを目指す(同所の計算機センター)
日本や米国では研究プロジェクトが採用されればスパコンを無料で利用できるが、中国はお金さえ払えばスパコンを使える独特な運用だ。研究所では初期資金として約1500万円が提供され、研究をすぐに始めることができた。
中国の大学では天文学科の設立が相次ぎ、天文学者の研究ポストも増えている。欧米の研究者にとっては中国との生活文化の違いが大きく、中国に渡るのはハードルが高い。水野さんは「日本人にはチャンスがある」とみる。
日本人研究者が中国に渡る背景には研究力が低迷する日本の環境が厳しく、若手研究者が独立できる機会が少ないことも大きい。日中の研究格差が一段と広がる可能性がある。
研究者数、中国が世界一
中国が日本人研究者を引き寄せる原動力は、世界一の研究者数と、年々伸び続けて米国に迫る世界2位の研究開発費だ。豊富な資金が設備やポストの充実、研究室の開設などに向けた手厚い支援体制を生み、研究に打ち込みやすい環境ができている。
「中国の研究レベルがここまで高くなるとは予想しなかった」。こう振り返るのは山東大学威海校の研究員、野和田基晴さんだ。
野和田さんは2023年3月、3年ぶりに中国に戻った。新型コロナウイルスの流行で大学から帰国を勧められ、20年2月から日本からオンラインで研究を続けてきた。専門はオーロラなどの宇宙プラズマ物理学だ。太陽から太陽風として飛んでくるプラズマ粒子が地球の大気とぶつかるとオーロラができる。
中国の研究者はフランクな関係だという(山東大学・野和田研究員のグループの議論)
オーロラのでき方は地球の磁気圏と太陽風の相互作用に影響される。強いエネルギーの太陽風によって磁気圏がかき乱されると、地球を周回する人工衛星の故障などにつながる。太陽風や磁気圏の予測は「宇宙天気」と呼ばれる。野和田さんはオーロラの形に注目して分析に取り組む。
東海大学の大学院修了後、台湾の大学などを経て10年に北京大学の研究員になった。きっかけは北京大教授の論文だ。次のポストが見つからずに苦労していたところ、面白い論文だと目に留まった。「一緒に研究したい」と直談判のメールを送り、少ない給料だったが採用してもらえた。
5年の任期が終わって帰国してからの就活も難航した。日本や欧米の大学からは不採用の連続だったが、中国での人脈が今につながった。北京大の教授に相談のメールを送ると、教え子が山東大で研究者を探しているという。北京大研究員のときに面識があった関係で採用が決まった。
野和田さんは中国の研究の雰囲気やスタイルが「自分に合っている」と話す。実力主義が強く、30〜40代の教授も多い。研究者や学生が自由に意見や助言を出し合う風通しのいい環境だという。
米中の対立、研究に影
メールより「微信(ウィーチャット)」などの対話アプリのやりとりが一般的だ。自由闊達な環境が研究者を育て、中国の研究力を高めていると野和田さんは考える。
中国は00年代に入り、研究開発の国際舞台で急速に存在感を高めてきた。文部科学省の科学技術・学術政策研究所によると、研究論文で分野ごとの引用数が上位10%に入る「注目論文」の数で、中国は00年(99〜01年の3カ年平均)に初めて世界10位に入った後、08年からは米国に次ぐ2番目が定位置となった。18年には世界一になった。
基礎科学で世界トップレベルの研究水準を目指す中国だが、足元で課題もみえる。米中対立の深刻化で米国との共同研究は難しくなった。軍事技術に直結しない基礎科学の研究でも国際情勢が影を落とし始めているという。
日本は論文ランク低下
台頭する中国に対し、00年代から低迷の道をたどっているのが日本だ。注目論文の数で06年に中国に抜かれて5位に転落し、その後は低落の一途をたどる。今や韓国やインドに抜かれ、12位に落ちた。
「中国の躍進からは、日本が学ぶ教訓もある」と話すのは、岡山大学の河野洋治教授だ。奈良先端科学技術大学院大学から15年に中国へ渡り、中国科学院で19年まで勤務した。中国の特徴に、若手の自由な発想に基づく研究活動の広がりや基礎研究を含む広範な分野への予算配分を挙げる。「『選択と集中』では、日本の研究力を取り戻すことはできない」と強調する。
日本は04年に国立大学が法人化され、国からの運営費交付金が年々削減されるようになった。人件費や管理費の削減で教員ポストは減り、増え続ける業務に忙殺されながら十分なサポートも受けられず、「研究時間が減って研究力は低下し、さらに交付金が削減される負の悪循環に陥っている」と河野氏は指摘する。
巻き返しに向け、日本政府は10兆円の「大学ファンド」を創設した。年3000億円と見込む運用益を使い、選抜した数校を「国際卓越研究大学」と認定し支援する。支援対象の公募には東京大、京都大などが応募した。だが、大学ファンドは新たな「選択と集中」になりかねないリスクもはらむ。
河野教授は中国では「若い世代の教授が爆発的に増え、競争も激しい。今後20年ほどで優れた成果が出るのではないか」とみる。日本が20年後を見据えて再び研究分野で国際的な地位を取り戻す策を打つために、残された時間は長くない。
(越川智瑛、松添亮甫)
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小玉祥司
日本経済新聞社 編集委員
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別の視点 研究者がよりよい研究環境を求めるのは当然で、特に資金やポストに恵まれない日本の若手研究者が中国だけでなく海外に研究場所を求めるのは当然でしょう。若手だけでなく日本の大学や研究機関で定年を迎えた高名な研究者も、定年後は日本ではよい研究環境を得られないため中国などに拠点を移す例をよく耳にします。若手のチャンスを広げるとともに、実績のある研究者が研究に専念できる体制作りも重要です。資金の充実はもちろんですが、人材活用のあり方も見直す必要があるのではないでしょうか。
2023年6月7日 11:47 』