地政学と日本の大戦略

地政学と日本の大戦略
https://www.kokuminkaikan.jp/chair/lecture/fCnQxZz8

 ※ 「地政学」とは、畢竟、「応用の学」である…。

 ※ 「大理論」のみを学習・理解したところで、あまり役には立たない…。

 ※ 日々の「世界情勢」に当てはめ・応用してみることでしか、その「学」の鍛錬・深化をはかることができない…。

 ※ この「論考」も、その一つの「試み」でしかない…。

 ※ ただ、「パワー」と「マネー」の混同の戒めは、噛みしめておくべきだろう…。

『第1015回武藤記念講座要旨 2016年4月2日(土)
講師:キヤノングローバル戦略研究所研究主幹 宮家邦彦氏

はじめに

第一章「地政学リスクとは何か? 」

第1節 「乱用されている地政学リスクという言葉」
第2節「分からないことは地政学リスクとするエコノミスト達」
第3節「地政学により国際情勢を分析する「前提」」

第二章「ヨーロッパ・ロシア・中東の地政学的脆弱性」

第1節「NATOの拡大と民族主義の台頭」
第2節 「ロシアの地政学的脆弱性」
第3節「イラク(メソポタミア)の地政学的脆弱性」

第三章「中国の地政学的脆弱性」

第1節「中国の膨張と縮小の変遷」
第2節 「中国の海洋戦略」
第3節「南シナ海での米中対立」

終章「地政学から見た日本の大戦略 」

第1節「米国による抑止力の限界」
第2節 「海洋国家大英帝国に見習うべき日本」
第3節「島国同盟の発展を」

「質疑応答」

はじめに

私は父の事業を継ぐため、10年ほど前に外交官の職を辞した。それまではパワー(権力)の立場にあったが、実業界はお金の社会である。お金は見えるし、数えられるし、貯めておくことが出来る。一方パワーは見えないし、数えられないし、貯めることも出来ない。政治家はパワーが見えないから、選挙でお金をあれほど使うのではないか。もしパワーが見えるものならば、国内選挙は百戦百勝であろう。一方私は外交官として国際政治のパワーの動きを27年間追ってきたが、本日は、私がどのように「パワー」の動きで国際関係を見ようとしているかをお話したい。

第一章「地政学リスクとは何か? 」

第1節 「乱用されている地政学リスクという言葉」

有力紙が、北朝鮮の水爆実験と核ミサイル発射、及びニューヨークと上海の株式の暴落までも地政学リスクと解説しているが、前者は核拡散のリスクであり、後者は市場リスクである。又年初のサウジアラビアとイランの国交断絶も宗派対立であり、地政学リスクではない。

米国大統領予備選挙におけるトランプ現象も地政学リスクではない。トランプ氏は米国の「光と影」の「影」を代表している。冷戦は資本主義の勝利に終わったが、社会主義の影響を受けた修正資本主義により、富の再分配と社会福祉政策が進められた。然しその結果政府の肥大化と非効率を招き、市場原理主義に回帰したので、勝ち組と負け組の格差が拡がるところとなった。トランプ氏は「白人・男性・ブルーカラー・低学歴」の各有権者層のワシントンのエスタブリッシュメントに対する「格差にへの怒り」を代弁し、普通の人ならば、口が裂けても言えない「女性蔑視と人種差別」発言を繰り返している。このワシントンに対する不満は民主党のサンダース氏の支持にも表れている。然しこのままいけば、共和党は分裂し、民主党のクリントン氏を利することになろうが、それは大統領選挙だけでなく、米国政治の「地殻変動」を引き起こすことになるだろう。

さらに風刺漫画で知られるフランスの政治週刊紙「シャルリー・エブド」のパリの本社がイスラムの風刺画で襲撃を受けた事件、及び過日のブリュッセル空港の爆破事件はテロのリスクである。ベルギーはいい意味では自由のある国であるが、テロ対策は出来ておらず、「ヨーロッパの9.11」の危機が到来したといえる。

第2節「分からないことは地政学リスクとするエコノミスト達」

自ら理解できないので、例えば原油の価格が暴落しているのは、米国とサウジアラビアの陰謀であるとする「陰謀論」を語る人がいる。然し、そもそもエネルギーの値段は平時にはマーケットメカニズム、有事には政治的に決まるものであり、今は平時であるので、米国のシェール革命による需給関係で決まるのである。その他、説明できないリスクに対して「運命論」を弄ぶ人、先を読めないので事後に「結果論」しか言わない人、そしてパワーの源泉はマネーであると主張して「経済合理性」と「地政学的利益」を区別しないエコノミスト達がいる。何故エコノミストに地政学が分からないのか、それは、エコノミストはパワーとマネーの区別が分からないからである。

第3節「地政学により国際情勢を分析する「前提」」

私は地政学により、国際情勢を五つの「前提」で分析している。うち三つの前提は「パワー」に関するものである。それらは第一に「地政学の「地」は、地理(山、川、海、島)のことであり、国家のパワーと脅威は、地理に依存する」、第二に「パワーが空白・真空状態になったときには、新たな矛盾と紛争を生むことである。即ちパワーは見えないが動くものであり、パワーがなくなって真空になったところへは、周りにあるパワーがあらたに入って来る。そしてその時には銃声がして戦争が始まる可能性が高い」、第三に「パワーは複雑な現象であり、二国間、地域、グローバルに因数分解できる。それらの因数は三つの同心円で表され、各々ベクトルを有しており、通常はそれらのベクトルはあさっての方向を向いているが、三つのベクトルの方向が一直線になったとき、パワーは動くと考える」

あと二つの前提の一つは「経済合理性を優先しないこと」である。これはある意味で上の三つを超えて大切である。例えばロシアのクリミヤ併合は経済合理性では説明できない。原油安でロシア経済は苦しい中で、国際法違反で世界中から経済制裁を受けるかもしれないのに併合したのは、経済合理性を超える「地政学的利益」のメリットを考えたからである。即ちその国の将来を考え、カントリーリスクを守るのに必要であるのならば、経済的合理性を考えず、地政学的利益を考えるべきである。

そしてもう一つは、人類は7~80億人もいるが、この世の森羅万象がすべて分かる筈はないと割り切り、分からなくなった時には、「視点を180度転換して見る」ことである。それは地図を逆さまにすると、見えないことが見えて来るのと同じである。

第二章「ヨーロッパ・ロシア・中東の地政学的脆弱性」

第1節「NATOの拡大と民族主義の台頭」

バルト三国、ワルシャワ条約機構のメンバーだったポーランド、チェコ、スロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアの加入によりNATOは拡大した。その結果NATOの勢力がロシアに迫ったので、ウクライナ、クリミヤの問題はロシアにとってはお金の問題でなく、上述の通り地政学的利益としての安全保障の問題であった。又ヨーロッパでは、スコットランドはイギリスから独立しようとしたし、イギリスではEU離脱か残留かの国民投票が行われる予定であり、パリではイスラム移民排斥のデモが激しく、ドイツではネオナチが台頭、そしてハンガリーではシリアの難民出て行けと騒いでいる。その結果欧州では、欧州議会の選挙結果もそうであったが、極右政党が躍進している。冷戦時代は、米ソの厳しい対立の中で民族主義は封じ込められていたが、冷戦後、民族主義が息を吹き返し、移民と難民の受入反対、テロなどの醜い争いが復活したのである。

第2節 「ロシアの地政学的脆弱性」

ロシアの脅威は、三方からとなる。東にウラル山脈、南にコーカサス山脈、西にカルパティア山脈の三つの山脈に囲まれた東ヨーロッパ平原は、メソポタミアほどには平たんではないにせよ、広大な面積を有する。そこでは歴史上、西からはバイキングとナポレオン、南からはムスリム、東からは、モンゴル族とフン族が、自然の要塞がないモスクワを常に脅かしたのであった。然しメソポタミア人は殺されたが、ロシア人は戦ったのであった。即ち自然要塞のないロシアは敵が入って来る前に、彼らの土地を奪って緩衝地帯にすればよいと考え、15世紀から緩衝地帯を必要以上に拡大して、大国をつくりあげたのであった。然しながら、これは征服された民族にとっては、侵略されたことになり、よいことではなかったことも確かである。一方厳寒で人口希少であり、力の真空地帯となっている極東ロシアには中国不法移民が侵入している現実がある。

第3節「イラク(メソポタミア)の地政学的脆弱性」

イラクの南の石油積出港バスラの標高は4メートルであるが、1千キロメートル離れた首都バクダットの標高は32メートルであるので、イラクは、ほとんどまっ平の平原で、強い敵に対して無防備である。歴史上、その平地を目指して、北の高地からはトルコ(オスマントルコはこの地域を何百年も支配)、東の高地からはイランが攻め込み(ペルシャ・アケメネス朝とササン朝で合計千年以上この地域を支配)、南からは食い詰めた遊牧民ベドウィンが度々侵入、西は、今はシリアであるが、ギリシャ・ローマ時代にはアレクサンダー大王がインドまでの東方遠征の途中で攻め込んで来たのであった。即ちイラクは古来、言葉は悪いが「煮ても焼いても食えない」隣国からの侵略と殺戮の十字路としての「地政学的脆弱性」を有するのである。

さらに最近では、2001年の同時多発テロ後、アフガニスタンに続き米国は2003年にイラクに侵攻した。イラクは内戦状態となり、ベトナム以来の米兵の戦死者に米国内の厭戦気分が高まり、オバマ大統領は2011年までにイラク撤退を決意し、かつ実行した。そしてその米国の不介入主義で「パワーの真空」が生じたのである。アラブの春で中央政府が弱体化している折、その真空を埋めたのは、南半分はシーア派のイランのイスラム革命防衛隊、北半分はイスラム国であった。

第三章「中国の地政学的脆弱性」

第1節「中国の膨張と縮小の変遷」

紀元前2世紀の前漢の時代から現在までの2100年間の「漢族」の領土の膨張と縮小の歴史は、東西南北の蛮族(東夷、西戎、南蛮、北狄)との攻防の歴史であった。5/6世紀の南北朝の時代までは、漢族は万里の長城を隔てて北の匈奴と鮮卑等の蛮族と相対していたが、唐時代の8世紀後半には、中原から中央アジアに抜ける回廊が北は「ウイグル」、南は「チベット」にはさみこまれていた。これはまさに、その当時の中国の地政学的脆弱性を表している。唐の滅亡後宋となったが、宋はやがて女真族の「金」に北半分を支配され、13世紀にはモンゴル族の「元」が中国全域を支配した。14世紀に漢族の明が復活するも、西方はウイグルとチベットが勢力を拡大しており、元に比べれば支配領域は小さかった。17世紀には満州族が「後金」を経て「清」を建国して、ウイグルとチベットを含む中国全域を支配、やがてロシアが南下してウラジオストックを取り、日本も満州を占領した。

以上中国の漢族の国の大きさは、周りの蛮族との力関係で決まり、周りが強くなれば小さくなり、周りが弱くなれば大きくなつた。一方現在の中国の国境には、どのような蛮族がいるのか。先ず北の蛮族はロシアである。然し、ロシアと中国は1960/70年代に路線対立していた頃には仲が悪かったが、現在ロシアは味方ではないかもしれないが敵ではない。内モンゴル、チベット、ウイグルは掌中に収めたし、インドはヒマラヤ山脈が横たわり脅威ではない。ベトナムとは抗争を歴史的に繰り返して来たが、1979年のベトナムが勝利した中越戦争以来、陸地では戦いを交えていない。従って中国の陸上の国境は安定しており、地政学上脆弱ではない。

陸からの脅威がないのに、中国はなぜ膨大な軍事費を使い、沢山の空母とミサイルを保有しようとしているのか、それは、海からの脅威に備えているからである。 即ち今の中国で、「最も豊かであるが、最も脆弱な地域」は天津から香港までの太平洋岸である。そしてその富を支えるのに何が必要か、普通は「ヒト、技術、カネ、資源、エネルギー」である。然しその内中国が持っているのはヒトだけである。その他は海から来るからである。何故海から来るのか、それは伝統的に海上輸送コストの方が陸上輸送コストより安いからである(だから海が栄えるのであるが)。そしてその海の輸送ルートを邪魔しているのは日米同盟であると彼らは見ているのである。

第2節 「中国の海洋戦略」

中国人民解放軍が、軍事戦略の「パワー」を展開するための目標ラインとして「第一列島線」と「第二列島線」がある。 第一列島線は、九州鹿児島を起点に南下、沖縄、台湾を内側に取り込み、フィリピン、ボルネオ島の西側を通り、南シナ海をほとんどすべて支配しようとするものである。そこは日本のシーレーンと「ガチンコ」するが、中国は「第一列島線の内側は中国の海であるので、入って来ないで欲しい。入って来るのならば仁義を切ってください。そして仁義を切るのならば政治的譲歩をして下さい」と言っているのである。さらに20X0年までには 小笠原からグアム、サイパン、パプアニューギニアに至る第二列島線の内側も中国の海としようとしている。それは「米国は、台湾、朝鮮、日本から出て行ってハワイに帰って下さい。太平洋は広いので二国で分けましょう」と言おうとしているのである。従ってふたつの列島線により、中国は公海における航行の自由を事実上否定し、西太平洋の力による「現状変更」を画しているのである。

第3節「南シナ海での米中対立」

米国は、フィリピンに本土以外で最大のクラーク空軍基地とスービック海軍基地を有していたが、1991年のピナトゥボ山の大爆発を契機に、フィリピン国内で反米の基地反対闘争が起こり、上院で継続使用が拒否されて、同年11月米軍は両基地から撤退した。然し、戦略上の要衝であるこの地域において、駐留アメリカ軍の軍事的抑止力を失った結果、「巨大なパワーの真空」が生まれ、地政学上の「脆弱」が生じたのであった。そして案の定中国は、米軍が撤退して数か月後の1992年に「領海法」を制定して、東シナ海、南シナ海の領有を宣言し、現在の南沙諸島(スプラトリー諸島)と西沙諸島 (パラセル諸島)の人工島造成につながっていくことになるのである。2014年5月には西沙諸島に中国は巨大なオイル・リグ(石油掘削装置)を持ち込み、ベトナムと一騒動があり、2015年の5月には米国は南沙諸島の人工島造成の映像を世界に明らかにしたが、中国は聞く耳を持たなかったので、10月には人工島の12カイリ以内にイージス艦を航行させて厳重抗議したのであった。一方フィリピンは上記オイル・リグ騒動の前の2014年4月米国との新しい軍事協定で、1)米比同盟による「国防協力」の強化 2)米軍の「巡回型プレゼンス」の強化 3)フィリピン国軍の「最低限防衛能力」の確立が約束された。
終章「地政学から見た日本の大戦略 」

第1節「米国による抑止力の限界」

米海軍は空母11隻と海兵隊のヘリ空母8隻を、世界の海に配置して警戒している。そもそも通常軍隊の部隊は3の倍数で保有されている。海軍においても一隻は戦っており、二隻目は次に戦う準備、そして三隻目は戦いを終えて修理と休養と訓練を行うローテーションを組んでいる。従って保有する空母11隻の内、実際戦っているのは4隻だけである(勿論非常の場合それ以上に使えるが、「継戦能力」が落ちる)。東アジアは、空母1隻とヘリ空母1隻体制である。然し中東とアジアの危機が同時に訪れた場合、米国は中東に空母2隻を派遣するであろう。なぜならば、日本は、自国のエネルギーを確保するためにせよ、中東のホルムス海峡で米軍の代わりに戦う能力と設備を有しないからである。その結果南シナ海と東シナ海が空になることが心配される。新安保法制が必要な所以である。尚東日本大震災の時は、(義務でなく友情で行われた)「トモダチ作戦」で空母2隻とヘリ空母1隻が派遣されたのであった。このような体制は朝鮮半島有事の時以外ありえないだろう。

第2節 「海洋国家大英帝国に見習うべき日本」

小さな海洋国家からすれば、魑魅魍魎が住むとも言える強大な大陸国家群と対抗するためには、第一に大陸国家間のバランス・オブ・パワー(勢力均衡)を維持することが大切である。即ちその内の一つの国家が強くなって大陸を支配し、力が余って、ナポレオンのフランス、ヒットラーのドイツのように島国を攻めてくる覇権国家ができないようにすることである。第二に大陸との健全な距離を保ち、大陸に深入りしないことである。深入りした白村江の戦い、秀吉の朝鮮出兵、日韓併合等は国力を消耗するだけだった。第三に資源がない島国としては、シーレーンを確保して自由貿易と加工貿易に生きることが大切である。

以上3点はイギリスの「特許」とも言えるが、日本の英国との島国同盟である「日英同盟」は大成功であった。即ち日本は英国と組んで、ユーラシア大陸の大国ロシアと中国のバランスを維持し、すでに大陸へ進出してはいたが、大陸との健全な距離を維持し、イギリス海軍を使ってロシア海軍を牽制し、シーレーンを維持して自由貿易で栄え、かつ民主主義を導入出来たのであった。その大成功を一番妬んだのは日英同盟を潰しにかかった米国であった。そして戦略的間違いは、日本と共通の利益がない大陸国家ドイツとイタリアと三国同盟を結んだことであった。全然島国と関係ない、あの同盟が失敗の始まりであり、すべてを失ったのであった。

第3節「島国同盟の発展を」

ところが日本はその失敗による敗戦後、「日英同盟」に次ぐ、第二「島国同盟」としての「日米同盟」を結んだのであった。なぜならば米国は大陸国家でなくて世界一の島国であり、日米同盟はこの島国同盟により、ユーラシア大陸のソ連共産党と中国共産党のバランス、南北朝鮮のバランスを維持出来たのである。即ち日米同盟のお蔭で大陸に入って行く必要がなくなり、米国第七艦隊のお蔭で中東までのシーレーンを確保出来、自由貿易により経済発展して、民主主義を回復出来たのである。中国がどのような政治を行うかに対しては、彼ら次第であり、我々の問題ではない。我々の問題は中国により我々のシーレーンの自由航行が阻害されるのを防ぐことである。

今や、パワーに限界のある米国は、ヨーロッパ、中東、アジアに気を配らねばならないので、第二「島国同盟」だけで足りないと考えるべきである。島国同盟を拡充して第三「島国同盟」として、米国に次ぐ世界第二の島国オーストラリアとの同盟も有効であろう。インドネシア、フィリピンも考えられるが、インドは島でなく亜大陸であり、島国同盟には適さないのではないか。 

「質疑応答」

「質問1」

オーストラリアとの第三「島国同盟」の話だが、党内クーデターで首相交代があり、又南シナ海で海洋進出を強める中国をけん制するため、米海兵隊の駐留先の一つとなっている北部のダーウィンで、中国企業が99年間の港の長期リース契約を結んだことに波紋が広がっているが、オーストラリアを味方にして大丈夫か?

「回 答」  

オーストラリアの国益を考えれば中国を全く無視はできないのだろう。問題はそのバランスをどう取るかである。中国が国際ルールを破り続けるならば、やがてオーストラリアも目が醒めるだろう。又党内クーデターと言うが民主主義のルールに則っている筈である。一方軍事上は沖縄とダーウィンとグアムから南シナ海は等距離にあるので、「南シナ海の現状を維持する」との戦略的視点からはダーウィンは重要な拠点であり、米国はおおいに困惑しているだろう。然し中国が米軍の基地を見たいというのならば、見せてやればよいし、問題は中国がそこに軍事基地を作るかであるが、それはありえないだろう。勿論無視はできないし、けしからんと思うが、それを事実として受け止めていかざるをえない。尚なぜ沖縄からダーウィンとグアムへ分散するかであるが、沖縄はすでに中国のミサイルの射程範囲に入っており、防衛基地を分散することが必要であるからだ。

「質問2」

ロシアは北方4島に基地を建設している。4島は返還される可能性はあるのか?

「回 答」  

ロシアのプーチンがヨーロッパの陸上でやっていることと、中国がアジアの海上でやっていることは基本的に同じであり、醜いナショナリズムを追求している。そして醜いナショナリズムと帝国主義のDNAが合体するとモンスターになるのである。日本は両国と個別に交渉するのではなくて、ロシアと中国を同列において、G7との協調により、「力による現状の変更は認めない」と主張するべきである。北方四島は、よい漁場であると言うだけでなく、米国に対する原子力潜水艦の隠れ家として軍事戦略上重要な基地であるので、容易には返してくれないだろう。いますぐやっても半分も帰って来ないだろう。然しチャンスはありうる。私が待っているのは、中国がロシアにとって戦略的脅威になるときである。このときはロシアが対日戦略を変更して、外交革命をやり、関係改善を求めてくる時であろう。それは1972年ソ連が中国にとって強大な国になったとき、中国が米国・日本両国と関係改善を図ったのと同じである。但しそれはあと30年後か100年後かは定かではないが。

「質問3」

韓国での買い物で円は通じたが、なぜだろうか。

「回 答」  

韓国で円は通じるのは有難い。但しこちらはウォンでもらっても困るが、向こうは円でもらって大歓迎だろう。韓国は不幸な歴史があった。反日が、国内政治的に意味があることがあったし、これからも政治家レベルではなくならないだろうが、民衆レベル、経済レベルでは、相互依存はものすごく進んでいるのである。

「質問4」

朝鮮半島は中国が奪取してしまうのではないか、北朝鮮を抑えるには中国の力が必要である。北朝鮮は核を持っていても、叩き潰される恐怖心があるのではないか、又朝鮮半島は日本の防衛にどのような意味を持つのか。

「回 答」

朝鮮半島は地政学的に脆弱である。朝鮮半島は小さな半島であり、東側は山岳地帯であり、使えるのは西側だけである。朝鮮の人は不幸な民族であると言わざるを得ない。なぜならば中国、満州、日本に囲まれていたが、さらにロシア、米国にも関与されることになり、朝鮮半島の人達にとっては、そのような狭いところへ攻めて来られたら中国のように上海から重慶に逃げる如く「戦略的重心」が存しないのである。

よって朝鮮の外交は、面従腹背、バランス外交にならざるをえなかったのである。日本が併合する前の李氏朝鮮時代も、ロシア、日本、中国がいて、独立派がいてバランスを取ろうとしたがバランスはとれなかったのである。冷戦時代は特別の時代だった。一度攻めてきたことのある、又何をするかわからない北朝鮮が怖かった。よって米韓同盟に日米同盟をプラスして、「韓米日」同盟を基軸外交としたのであった。然し冷戦の時代は終わったので、北朝鮮はもう怖くないと考えているだろう。米韓が本気で戦ったら数週間で勝つだろうが、その数週間の間に何万発もの砲弾が雨あられと降ってきて、ソウルは火の海となるであろう。その結果は韓国経済の終わりとなるだろう。然しそのような馬鹿なことをする筈がなく、戦いは起こらないだろう。即ち韓国は戦わない、米国も戦わず、日本は戦う気はなく蚊帳の外である。

一方中国は北朝鮮がなくなるより、あった方がよいと考えるだろう。何故ならば、北朝鮮はバッファーであるからだ。中国とすれば、もし統一韓国、統一朝鮮半島になるならば、自由で市場経済が行われ、米軍が駐留し潜在的に反中で核兵器を持つかもしれない国と直接国境を接することは、絶対に避けたいだろう。だから必死で北朝鮮を維持しようとするだろう。中国は北朝鮮の生命維持装置を握っているのである。然し現在は当事者間で奇妙なバランスが出来ており、三代目の最高指導者、34歳の金正恩は足許を見て、やりたい放題をやっている。

「 以上は、宮家邦彦氏の講演を國民會館が要約・編集したものであり、文章の全責任は当會館が負うものである。」』

地政学と国際政治、その理論:アメリカ海軍を軸にして

地政学と国際政治、その理論:アメリカ海軍を軸にして
http://hiramayoihi.com/yh_ronbun_senryaku_5.htm

『はじめに

 国際関係を理解するのには色々の尺度があるが、 歴史的尺度と地理的尺度とい尺度も有効な尺度の一つであるように思われる。歴史的尺度が有効なのは幾多の経験や試練が人の性格を形成するように、 国家もその長い歴史の中で試練を受け、 その性格を形成して行くからである。従って、ある国家の歴史という過去の軌跡を綿密にたどると、 そこにおのずとその国家・民族の習癖、 価値観から行動の基準や範囲が判り、その国家・民族の今後の行動が予測し得るからである(1)。

 さらに、 国際関係を考えるもう一つの尺度に「地政学」という地理的尺度があるが、 この地理的尺度がかってゲオポリテック(Geopolitik)と呼ばれ、 その理論がナチス・ドイツや旧日本帝国の世界侵略の一翼を担い第2次世界大戦の遠因となったことから、 一部の学者には「地政学は学問ではない」と今日これをタブー視する人が多い。

しかし、 一国の置かれた地理的条件がその国の国家政策、 特に対外政策に大きな影響を及ぼすことは「外交は地形なり」との言葉の通り、 地政学は国際関係や国家戦略を考究する場合、欠かすことができない重要な要素である。

 地政学を飾る代表的な陸の理論家としては、 自国の発展のためには周辺諸国を支配下に入れてもやむをえないと「生存圏(レーベンスラウムーLebensraum)」思想を全面に、 自国の領土拡大を正当化する理論を展開したドイツの地理学者カール・ハウスホーファー(Karl Haus-hofer)、 海の代表的地政学者として制海権の確立が国家発展の鍵であると論じたマハン(Alfred Thayer Mahan)が有名である。

その後これら理論を発展させ歴史は海上権力と陸上権力との闘争だと解釈し、「ハートランド(Hartland)を制したものが世界を制する」と主張したマッキンダー(Halford Mackinder 1861-1947)、 ハートランドを押えるランドパワーと海洋を制する シーパワーの対立とみるのは物事を簡素化し過ぎると批判し、 「リムランド(Rimland)を制するものが世界を 制する」と主張したスパイクスマン(Nicholas J. Spykman 1893ー1943)などが出現した。

本論ではこれら地政学の理論の概要とその理論が国際政治に及した影響について、 海洋地政学者マハンの理論が日米関 係に与えた影響について考えてみたい。

1 地政学の歴史と理論

(1)大陸地政学の発生と発展

 地政学の正確な起源や創始者には諸説があるが、 地理的位置と国際政治との関係を最初に論じたのはドイツの哲学者カント(Immanuel Kant)であった。しかし、 最初に地政学を体系的に構築したのは同じドイツの地理学者フリードリッヒ・ラッツエル(Friedrich Ratzel, 1844-1904)で、 ラッツェルは1897年に出版した『政治地理学(Politishe Geogtaphie)}においてドイツ民族の生存権思想を唱えたが、 この理論が植民地拡大政策を強行していたビスマルク(Otto E. L. F. von Bismarch 1815ー1898)の政策の根拠として利用された(2)。

国家の政治上の力は、 その国家の領域の広さに依存する。 国家の領域は文化の浸 透とともに拡大する。 すなわち自国の文化を他国の領土内に広めると、 その地域 が自国の領域に加わって行く。
国家は生命を持つた組織体であり、 成長に必要なエネルギーを与え続けなければ 衰弱しやがて死滅する。 国家はその生命力に応じこれを維持するために生存権(Lebensraum)を確保しようとするので国境は流動的となる。
地球上には大国を一つしか受け入れる余積がない。 

 次いで、 この理論をさらに体系化したのがスェーデンの地理学者チェレン(Rudolf Kjellen 1864-1922)であったが、 チェレンは初めて「地理と国家の関係」ということに地政学(Geopolitik)という言葉を導入し次のように論じた(3)。

国家は生きた組織体であり、 その生命は国民、 文化、政府、 経済及び土地に依存 する。 

国家の性格のうち最も重要なのは力である。 法は力がなければ維持できないので、 国家生存のために力は法より重要である。 

海洋に分散している帝国(イギリス)の力は、 やがて統合された大陸帝国に移り、 その結果大陸国家が最終的には海洋をも制するに至る。 

ヨーロッパ、 アジア、アフリカに数個の超大国が興隆する。 

国家にとって自給自足できることは重要な条件である。 そのため国家は自らの生 存発展に必要な物資を支配下に入れる権利がある。
国家が強国となるためには次の三つの条件が必要である。

(1)領域が広いこと。
(2)移動の自由を有すること。
(3)内部の結束が堅いこと。 

 この理論が普墺、 普仏戦争に勝ち大国となった当時のドイツの指導者に歓迎された。次いで、 この理論を発展させヒトラー(Adolf Hitler)の政策を理論的に支えたのがミュヘン大学の地理学の教授、 軍事科学部長であったカール・ハウスホーファー(Karl Haushofer 1869-1946)元陸軍少将であった。 ハウスホーファーは国家間の生存競争は地球上の生活空間を求める競争である。 国家が発展的生存を維持するためにはエネルギーが必要であり、 そのエネルギーを獲得するのに必要な領域 ー 領土としての生存圏と自給自足のため資源などを「経済的に支配する地域」が必要であると総合地域(Panregion)の概念を導入し、 世界はやがて次に示す4つの総合地域に総合されると主張した(4)。

アメリカが支配する汎アメリカ総合地域
日本が支配する汎アジア総合地域
ドイツが支配する汎ユーラフリカ総合地域
ソ連が支配する汎ロシア総合地域 

この大陸国家の地政学であるラッツェル、 チェレンやホーファーの理論を整理すると、 「国家は生きた組織体」であり「必要なエネルギーを与え続けなければ衰弱し死滅する」。

衰弱し死滅したくなければ「武力で阻害要因を排除しなければならない」。

必要なエネルギーを取得するため「生存発展に必要な物資を、 その支配下に入れる」のは成長する国家の権利である。

ドイツは「ヨーロッパに於ける大国」であり将来「ヨーロッパ、アフリカ及び西アジアに跨る大国」になる宿命を持っ成長する国家である。

さらに「地球上には大国を一つだけしか容れる余積がない」のだから、 ドイツは世界の大国になるべきであり、 もし、 なれなければドイツが大国に吸収されてしまう。

成長する国家ドイツを阻害する要素を排除するために武力を使うことも、 成長発展に必要な物資を支配下に入れることも国家の権利として認められるというものであった。

そして、 この理論がドイツのポーランド侵攻となり、 日本の満州・中国侵略となり、 さらにこの汎アジア総合地域の概念が後に大東亜共栄圏となったのであった。

2 海洋地政学の誕生と発達

 海洋地政学者を代表するのはマハンで、 マハンは17世紀から18世紀に至る世界の海戦史を研究し、1890年に『海上権力史論(The Influence of Sea Power upon History, 1787-1888)』を出版し、 海上通商路の支配が国家に富をもたらすと、 海上権力(Sea-Power)が国家繁栄の必須の条件であると主張した(5)。

そして、 このマハンの理論がアメリカの国家政策や海軍政策に甚大な影響を及ぼし、 アメリカの海外領土拡張に大きな影響を与えた。

マハンが海上権力(Sea Pawer)を隆盛させる条件として挙げたのは
①国家の地理的位置、 地形的構成(天産物と気候を含む)。
②領土の広さ。
③人口の多寡。
④国民の性質。
⑤政府の性質の5項目であったが(6)、

この項目は今日に至るまで海上権力隆盛の要件として地政学的考察の基礎をなしてきた。
マハンのシーパワーの5つの条件をチェレンの「国家が強国となるための条件」と比べると、 チェレンの第1条件の「領域が広いこと」はマハンの第1条件の「国家の地理的位置、 地形的要素」、 第2条件の「領土の広さ」、 第3条件の「人口の多寡」に含まれるであろう。チェレンの第2条件の「移動の自由を有すること」はマハンの5つの条件の中にはない。

しかし、 マハンの第1条件の「国家の地理的位置」がこれに該当するであろう。海洋国家として発展するには長い海岸線を持ち、 多くの海上交通路が集束することが基本的な要件であるからである。 チェレンの第3条件の「内部の結束が堅いこと」はマハンの第4条件「国民の性質」、 第5条件「政府の性格」に相当するであろう。

 マハンは生産力の増大が海外市場(植民地)を必要とし製品と市場を結ぶため海運業が育ち、この海外市場と商船隊を保護するのに海軍が必要であると海軍を位置づけ、 商船隊や漁船隊、 それを擁護する海軍とその活動を支える港や造船所などをシーパワー(海上権力)と規定し、 シーパワーが国家に繁栄と富をもたらし世界の歴史をコントロールすると論じた(7)。

このマハンの海上交通路を確保し海上権力を確立し、 海洋を支配する国家が世界の富を制するとアメリカに大海軍力を建設させた。

しかし、 当時の軍艦は蒸気推進であったため、 石炭と水を三日から四日毎に補給しなければならないという制約があった。 このため強調されのが基地(給炭所)で、 この太平洋を横断するために必要な基地をめぐって日米間に多くの問題を生起させたが、 海洋地政学者マハンの対日観や日米関係に与えた影響については第2部で論じたい。

3 総合地政学の誕生と発展

(1)マッキンダーの理論

 イギリスの地理学者マッキンダーは1904年1月25日、 王立地理学協会で行った「歴史の地理的な展開軸(The Geographic Pivot of History)」という題名の講演で、 海上権力を保有した国家の繁栄が永久的であるとの保証はない。

逆に陸上権力を保有する大陸国家が発展し単一支配のもとに海上権力と陸上権力を統合し、 無敵の支配権を全世界に広げるであろうと、 海洋力と大陸力との関係で世界政治を捕え、 マハンの海上権力説では陸地に関する要素が不充分であるとし、 地球は大陸と海洋から成り立ち、 その大陸の3分の2を占め、 人口の8分の7が住んでいるユラシア大陸を「世界島」と名付けた。

 そして、 この世界島の中央部でシーパワーの力が及ばないユーラシア北部を「ハートランド(Heartland)」と名ずけ、 さらにハートランドの外側に2組の三日月型地帯(Crescent)を設定し、 ハートランドの外側にあり海上権力の及ぶ大陸周辺の地域、 すなわち西ヨーロッパ、 インド、 中国などを内側三日月型地帯(Inner Marginal Crescent)と呼び、 その外方に海を隔てて点在するイギリス、 日本、 東インド諸島、 オーストラリアなどを外側三日月型地帯(Outer or Insular Crescent)と名付けた。

そして、 いまでこそハートランドは未開発であるが、 やがて陸上交通や産業が発展し内陸にエネルギーが蓄積され、 ここを根拠としたランドパワーが現在沿岸地域におよんでいるシーパワーを駆逐し、 やがてはシーパワーを圧倒するであろうと主張した(8)。

マッキンダーによる区分(出典:前掲、 川野60頁)

その後、 1918年末に出版された『デモクラシーの理想と現実(Democratic Idea and Realty)』において「東欧を制するものはハーランドを制し、 ハーランドを制するものは世界島を制し世界島を制するものは全世界を制する」と、 ドイツが再び力を蓄えロシアを征服し、 またはこれと提携してハートランドの主人公となり世界を制することのないよう予防措置を講ずべきであり、 東欧を一手に支配する強国の出現を決して許してはならない。

ドイツが再び強国となることができないよう措置すべきであるとベルサイユ講和会議代表に警告した。

(2)スパイクマンの理論

 アメリカの地政学者スパイクマンはマッキンダーより32才若く、 マッキンダーやハウスホーファーの影響を受けたが特異な「リムランド(Rimland)」理論を唱えて出現した。

スパイクスマンは世界はランドパーとシーパワーが対立するという単純なものではなく、 ハートランドの周辺地帯でハートランドの力の基礎となり、 かつシーパワーの影響が及んでいる地域、 すなわちランドパワーとシーパワーの接触している地域をリムランドと呼称し、 このリムランドが地政学的には重要である。

特にリムランドに位置する日本やイギリスは東アジアまたは西ヨーロッパの西側にあり政治軍事上に重要であり、 ヨーロッパ大陸が一大強国に支配されるのを防止するにはハートランド周辺諸国(リムランド地帯の国々)と共同し、 ハートランドの勢力拡張を防ぐべきであるとし、 マッキンダーの警句を修正し「世界を制する者はハートランドを制するもの」でなく、 「リムランドを制するものはユーラシアを制し、 ユーラシアを制するものは世界を制す」と主張した(9)。

アメリカはマハンの『海上権力史論』によって第1次世界大戦でドイツ、 第2次世界大戦で日本とドイツを破り
世界第1の海軍国となり、その海洋力によって一時世界に君臨した。

しかし、 第2次世界大戦が終わると大陸国家のソ連が台頭し、 マツキンダーのハートランド理論はドイツの代わりにソ連が主人公となった他は彼の予言どおり実現したかにみえた。

ソ連は巨大な外向力をもって着々と内側三日月型地帯をその勢力下に収め、 次いでアフリカなどの外側三日月型地帯にも及んだ。

 ソ連は東欧を制してマッキンダーの警句の第1段を達成し、 第2段の世界島(World Island)の支配に乗り出し、 ユーラシアのリムランドはアメリカの強力な支援がなければソ連の手に入りつつあった時に出現したのがスパイクマンの理論であり、 それを実現したのが「ソ連封じ込め政策」であった。

しかし、 その後もソ連は一時的ではあったがリムランドにある中国やアフガニスタンを影響下に収め、 海洋超大国アメリカは力を失い、 海洋一国支配の歴史に幕が閉じられたかに見えた。
                                                                   スパイクスマンのリムランド(出展:前掲、 河野、 60頁)

 しかし、 大陸国家ソ連は安価大量の物資を運び得る海洋国経済的には有無相通ずる国際分業と国際貿易による相互依存関係で結び付く海洋国家群に対し、 その地理的欠陥から経済的に破綻してしまった。

そして、 現在、 海上交通路(Sea Line of Communication)はシーレイン(Sea Lane)と呼称は変更されたが、 その原理である海洋を制した国家が世界を制するというマハンの理論の勝利は確定したかに見える。

しかし、 これら大陸地政学と海洋地政学の中間理論を唱えたスパイクマンの「リムランドを制するものはユーラシアを制し、 ユーラシアを制するものは世界を制する」という折衷論からみた今後の国際情勢はどのように変動するのであろうか。

また、 これらリムランドに住むアジアやアラブの住民の意向や主権を無視した西欧のパワーバランス理論や価値観のみを念頭に置いた既存の理論が、 科学技術の発展などにより今後どのような展開を示すであろうか。

本論ではこれらの問題を基盤とし、 リムランドに生存する日本の国際的スタンスや対応について考えてみたい。

Ⅱ海洋地政学の日米関係への影響

 ハウスホーファーに代表されるドイツの地政学は侵略的で自国本位のものであったが、 大陸国家ドイツの地政学がなぜ侵略的になったのであろうか。

それは大陸国家は陸続きのため常に異民族に犯され国家や民族の生存が熾烈なことにあった。

大陸国家にとって国境線周辺の地形、 政経中枢の位置、 国土の広さや人口、 生産、 資源、 交通路などの地理的条件は国土防衛上のみならず国家の生存発展のためにも極めて重要な要素であったが、 特にヨーッパ大陸の中央に位置するドイツは常にフランス・スエーデン・ロシア・オーストリアなどの大国の勢力争いの際には戦場とされ多くの災害を蒙り、 その生存は苦難の連続で国家として独立し得たのは19世紀の後半に入ってからであった。

しかもドイツが統一された時にはヨーツパの大国は海外に多くの植民地を保有し、 植民地からの搾取によって本国の富強を誇っていた。 このような国家安全の欠如がドイツにアウスホーファーに代表される侵略的地政学者を生んだのであった。

 一方、海洋国家は海洋の持つ隔離性から他国の影響が及び難く国内の団結も容易で、 海上交通を維持し制海権を握っていれば貿易によって国家の発展生存に必要な資源を取得することができた。

制海権を握るためには強力な海軍が必要ではあったが、 資源獲得に必要な海上交通の安全を確保するに必要な拠点を支配下に置ければ資源を取得できるので、 他国の領土を直接占領し支配する必要はなかった。

むしろ外国を強力な支配下に置くことは政治的・軍事的に無駄な国力を消耗するとの思想から、 海上交通路を扼する要地を支配下に置くだけで十分であった。

このためイギリスはジブラルタル、マルタ、スエズ、アデン、カルカッタ、シンガポール、 香港、 威海衛などを比較的限定された地点を直接的に支配し背後地は間接的支配下に置く政策を基本としてきた。

このように海洋国家の奉ずる海洋地政学派の理論は大陸地政学派の理論に比べ領土的関心は低く、 もっぱら資源を争奪する地域と製品を販売する地域の支配(間接的)と海上交通論を維持するために緊要な地理的に価値ある要地の直接的支配に限られていた。

しかし、 この海洋地政学の理論でさえも太平洋をめぐる日米関係をみれば、 地政学が「余りにも政治的に利用されてきた」ため学問ではないと言われ、 アメリカにおいてマハンを地政学者と規定することを忌避する傾向があるのも理解できるであろう。

以下、 今後の日本のありかたを論ずるに先立ち、 最初に代表的海洋知性学者マハンの理論や、 第二次大戦前に日本が唱えた南進などの歴史を検討し、 今後の日本のあり方を地政学および歴史的事実などから考えてみたい。

1 ハワイ併合前後

 マハンは1890年に書いた『海上権力史論』でシーパワーが国家に繁栄と富をもたらすと制海権確立の重要性を論じたが、 前述の通り当時の軍艦は蒸気推進であったため石炭と水を3日から4日毎に補給しなければならないという制約があった。

このためマハンは1890年8月に『アトランティック・マンスリー』誌に掲載された「合衆国海外に目を転ず」では今後いかなる外国にもサンフランシスコから3000マイル以内に給炭地を獲得させてはならないと論じたが(10)、 1896年末に積極的外交を掲げた共和党のマッキンレー(William Mackinley) が大統領となり、 日本が1200名の移民が上陸を拒否されたため巡洋艦浪速(艦長黒田帯刀)を再びハワイに送ると、 マハンは翌年5月には、 海軍次官に栄進したローズヴェルト(Theodore Roosevelt 後の第26代大統領)に、ハワイを直ちに併合すべきであり、 太平洋戦隊には大西洋艦隊よりも有能で積極的な指揮官を配置すべきであると進言し、 太平洋戦隊司令官にサンチャゴ攻撃などで積極性を発揮したベーカー(Albert A.Barker)提督を任命された(14)。

そして、 1997年6月15日には米布併合条約が調印された。

 1898年(明治31年)に米西戦争が起きるとアメリカ国内にはフィリピンの併合について独立宣言や憲法の精神に反する。 フィリピンを併合すれば大西洋と太平洋に2つの艦隊が必要となり、 さらにヨーロッパ列強との紛争に巻き込まれるなどとの反対論があり、 マハンも最初はフィリピン併合には消極的であったが、 未開のフィリピン人を文明化するのは神から与えられた「明白な義務(Manifest Destiny)」である、 フィリピンは東洋へ発展する前進基地として必要であるなどの併合論が勝ち同年12月に併合されてしまった。

そして、 この併合がマハンがシーパワーを構成する「第3の重要な要素」と規定した植民地をアメリカに獲得させた(18)。  

 一方、 ハワイ併合をめぐる日米の対立がスペインとの戦争中に日本にハワイを占領されるとし、 アメリカに最初の対日戦争計画(Contiengency Plan for Operation in Case of War with Japan)を立案させた。

しかし、 当時のアメリカ海軍は艦隊主力を大西洋に配備していたため、 この計画では艦隊を太平洋に回航する前にハワイ諸島やアリュシャン列島を、 また状況によってはピュジェット・サンド湾(シアトル南部)を占領されると見積もらざるを得なかった(19)。

この解決策はパナマ運河の建設であり、 その通行の自由の確保であった。

さらに、 米西戦争後の「布哇ノ合併、 比島ノ割譲等ガ一層巴奈馬運河領有ノ理由ヲ強メ」た。

このような情勢の変化にアメリカは1850年に自ら提案し関係諸国と「中米ノ地ヲ占領セズ。 植民セス又現在中米ノ地ニ有スル保護権ヲ以テ運河ノ中立ヲ犯サザルコト」を協定したクレートン・ブルワー条約を無視し、 1903年11月にコロンビア上院が運河地帯の租借を拒否すると、 パナマ地方の住民を扇動しコロンビアからの分離独立運動を起こさせた。

そして、 アメリカは砲艦ナッシュビル(Nashville)など4隻の軍艦と海兵隊を送って分離独立派を支援した。

ナッシュビルがコロンに入港した2日後には分離独立宣言が発せられ、 翌6日にはアメリカ政府が独立を承認、 その2週間後にはパナマ暫定政府と一時金1000万ドル、 年間租借金25万ドルで運河地帯を永久に租借する運河条約を締結した。

そして、 さらに翌年4月には元海軍作戦部長ウォーカ(John Walker)中将をパナマ運河会社に派遣し、 陸軍は総督を送り運河地帯を陸軍の管轄下に置いた(20)。

3 日露戦争前後

 パナマ運河の建設を開始しフィリピン、ハワイ、グアムを併合し太平洋横断の中継基地を確保したアメリカが中国市場への進出を企てた時には、 中国はすでにヨーロッパ列強や日本により分割がほぼ完了していた。

遅れて参入したアメリカに許される方法は平和的商業的進出しかなかった。

国務長官のジョン・ヘイは1899年9月に門戸開放・機会均等などの門戸開放宣言を列国に提唱した。

しかし、 この「オープ・ドアー政策」に対する列国の反応は冷たいものであった(21)。

特に問題はロシアの南下で、 このロシアの南下を阻止するためにアメリカ海軍部内には日英米の三海軍国が同盟すべきであるとの意見さえ公式に表明されていた(22)。

しかし、 日本海軍が日本海海戦でアメリカの予想を上回る大勝をおさめ、 さらに戦後の不景気からアメリカ西岸に移民が急速に増加すると日米関係は一転した。

 ロシアの脅威が消えると日本は太平洋における唯一の仮想敵国とされ、 1909年にはホマー・リー『無智の勇気(翻訳の書名:日米必戦論)』が出版された。

ホマー・リーはアメリカの過去20年にわたる日本に対する人種差別という「累積したる不正」に対し日本は報復するであろう。

「太平洋の地図を案ずるに、 日本が将来戦争をもって其地位を堅固ならしめ其主権を確立せんが為めに戦う国は、 米国以外にこれあらざるなり」。 「日本は太平洋上の貿易航路のいずれの部分にも、 戦いを開きて常に3日以内の航海で2個以上の離れたる根拠地に達することができる。

(中略)12の軍事的三角形の中には10日以内に日本海軍の10分の7を石炭、 供給品および病院船の不足なく、 また何ら海上の障害を感ぜずに艦隊を集中できない点は一つもない。

また太平洋のいかなる地点に集合しても日本艦隊は3日以内に海軍根拠地の何れかに到着することができる」。

このような地理的有利性のため日本は開戦4週間後に20万、4ケ月後に50万、 10ケ月後に100万余の兵力を送り、 ハワイ、フィリピンからアラスカ、ワシントン、カリホルニア州などのロッキー山脈以東を総て占領するであろうと日本の脅威を過大に扇動し軍備増強を訴えた(23)。

このような国内の排日ムードを利用し海軍主義者のローズヴエェルト大統領は、 日本がアメリカと戦争するなどということを思い止まらせるためには力を示すべきであるとの口実で、戦艦一六隻からなるホワイト・フリートを東京湾に送った。

とはいえアメリカ艦隊はバランスに欠け、 これら艦隊に石炭を補給する給炭船は8隻しかなく、 49隻をイギリスやノルウエーなどから用船しなければならなかった(24)。

太平洋横断作戦を基本とするアメリカ海軍にとり大きな障害となったのが日米間に横たわる太平洋の広がりであり、 対日作戦の成否は「いかに決戦が行われる戦場に修理を完了し充分に補給された部隊を適時に展開するか」の補給問題、 すなわち太平洋横断に必要な基地群の問題であった。

1868年にミッドウェー島を、 1898年にウェーキ島を、 1899年にはドイツと争ってサモア諸島のチュチュイラ島を領有し、 1903年からはミッドウェー島を海軍省の管轄下に置いた。

しかし、 ホワイト・フリートも完成し国民の海軍に対する関心は低下し、 議会の賛同を得ることはできなかった。

この冷却した海軍増強熱を再び高めたのが第一次世界大戦の勃発でありパナマ運河の開通であり、 さらに日本軍の南洋群島の占領であった。

1911年にメイヤー(George von L. Meyer)海軍長官にグアムの要塞化はハワイやフィリピンの安全保障に必要であるというだけでなく、 日本をもコントロールできると進言していたマハンは(25)、 第一次大戦が勃発し日本がドイツに最後通牒を発すると8月18日にローズベルト元大統領に日本のドイツ領南洋群島の占領は英米関係に重大な影響を及ぼすだけでなく、 カナダやオーストラリアなどの自治領にも重大な影響を及ぼすことをイギリスに警告すべきであると進言した(26)。

また、 マハンの論評を支持する共和党からは「米国は茲に改めて支那領土保全と門戸解放主義を固執することを確認す。 又米国は太平洋及びオセアニア海上各島嶼の現状変更に対し等閑視せざることを茲に新たに決議す」との決議案が提出された(27)。

 しかし、 第1次世界大戦勃発4ケ月後にマハンは没し、 また日本海軍には南洋群島を占領されてしまった。

この占領が日米戦争時にはフィリピン、グアムが緒戦で占領されフィリピン救援作戦を困難とするとの危機感を高めた。

議会は基地問題を諮問するために1916年にはヘルム委員会を、 1923年にはロッドマン委員会を設置した。

さらに1936年にはハウランド島とベィカー島の領有を宣言し、 1938年2月にはイギリスと領有めぐり抗争中のカントン島とエンダベリー島を共同管理とするなど、 太平洋横断基地網の整備を進めた。しかし、 それ以西には日本が支配する南洋群島がアメリカ艦隊の進路を扼していた。

4 戦間期(第1・2次大戦間)

 マハンの教議に従って太平洋を横断する海上交通路を確立しようとするアメリカ海軍にとり、 南洋群島の日本の委任統治領化は大きな打撃であった。

クーンッ(Edward Coontz)作戦部長は対日作戦には太平洋を横断する艦隊が南洋群島を基地とする日本海軍の潜水艦・航空機により邀撃されるという不利な条件があり、 大西洋では対英3対4の劣勢でも英国を阻止できるが太平洋では太平洋横断作戦には補給部隊を護衛する兵力も必要であり対日兵力は1.5倍が必要であると主張し、 さらに海軍諮問委員会(General Board)は2倍の兵力が必要であると主張した(28)。

このおゆな海軍の要求を受けたヒューズ(Charles E. Hughes)国務長官はワシントン会議において主力艦の対日保有比率5対3を主張し強引に実現した。

また、 中継基地を失ったアメリカ海軍は対策として艦隊とともに多数の補給艦、 工作艦、 給弾艦を艦隊とともに前進させる移動基地構想を案出した。

 そしてアメリカ海軍は1922年5月の陸海軍統合会議でワシントン条約第19条の「太平洋の軍備現状維持」は移動性基地には適用されないとの解釈を承認させ(29)、 1924年に完成の対日戦争計画(Orenge Plan)に固定基地の代替えとして多数の補給船・給油船・工作船・弾薬船・病院船・移動ドックなどを整備するという「移動性根拠地計画 別紙F(Mobile Base Project-Appendix F)」を加えた(30)。

しかし問題は膨大な補給量であった。 燃料が石炭から石油に変換されて問題は一歩前進したかに見えた。

とはいえ武器の多様化・近代化が補給量を増大させ1925年1月に太平洋艦隊が作成した対日戦争計画では、 戦艦などの大型戦闘艦25隻、 その他の戦闘艦艇303隻、 兵員輸送船39隻、 輸送船128隻、 タンカー・石炭輸送船など248隻など総計551隻を必要とするという問題を提示した(31)。

輸送量の増大は航空時代を迎え日本の南洋群島を基地とする陸上航空兵力に対抗する航空兵力を展開するには、 各種機材や燃料、 飛行支援施設、 部品などを含めれば日本海軍の5倍から10倍の物資を運ばなければならないという新らしい問題を生起させた(32)。

さらに洋上での武器弾薬や物資の移載が困難なことから、 これらの移載は太平洋に散在する珊瑚礁を利用しなければならなかったが、 これらはいずれも日本の統治下にあった。

 この問題の解決策として海兵隊のエリス中佐(Earl H.Ells)が1921年6月にパラオ、トラック、ペリリューなど艦隊の中継基地となる島嶼を逐次占領しつつ太平洋を横断するミクロネシア前進基地構想を立案した(33)。

ガリポリ作戦の失敗大戦後の植民地独立、 民族自決等の世界的風潮から海外基地や居留民保護を任務とする海兵隊の存続が問題となり、 兵力削減に直面した海兵隊はその存続を南洋群島に求めた。

海兵隊は総力を挙げてこの構想の実現と海兵隊の必要性を訴え理解を求めた。

そして1924年に完成し初めて大統領の決済を得た3軍統合のオレンジ計画(対日戦争作戦計画)にアメリカ海兵隊は、  「制海権の確立は全アメリカ艦隊を収容できる前進基地を、西太平洋に設置できる か否かにかかっている(著者傍線)。

西太平洋で米国が勝つためには、 日本の支配下にある島々及びフィリピン諸島にある総ての港の支配が必要である(34)」とフィリピン救援作戦とともにミクロネシア飛石作戦を併記させることに成功した。

また1922年2月には海兵隊司令官レジュン(John Archer Lejeune)が「対日戦争の場合にハワイ・マニラ間に中継基地がなく、そのうえグアムが緒戦に占領されることは極めて深刻でありハワイ・マニラ間の島嶼の占領およびグアム再占領のため、即応性のある強襲上陸作戦可能な遠征部隊を整備すべきである。

 ワシントン条約により艦艇の保有は制限されたが艦隊に付属し艦隊を支援する海兵隊は同条約の制限外にある」との覚書を陸海軍統合幕僚会議に提出し承認させた。

そして、 翌1923年には海兵隊自体が南洋群島奪取を主目的とする強襲上陸作戦を行う遠征海兵隊(Marine Corps Expeditionary Force)に改編され(35)、 1922年末には海兵隊の兵力が1万6085名から2万595名に増員された。

存在理由を得た海兵隊は1925年4月には遠征海兵隊3000人を投入し、 南洋群島への上陸を想定した「アロハ演習」をハワイで行い、 上陸用舟艇の開発や戦術の改善に努め、 また海兵隊学校のカリキュラムも上陸作戦重視に改訂するなど対日戦争を想定した部隊への変質と改善が進め、 1935年には艦隊付属の小型旅団規模の艦隊海兵隊をサンヂエゴに誕生させたのであった(36)。

1 拙論「風土と戦争」上下(『波涛』第29・30号、 1980年7月・9月)。同 「国民性及び国家間の連係度解明に関 するアプローチ法」(『波涛』第8号、1977年)。
 同 「特攻隊をめぐる日米の対応 – 国民性の視点から」(『波涛』第106号、 1993年)。
2 川野 収『地政学入門』(原書房、 1981年)24-26頁。
3 同上、 32-33頁。
4 同上、 40頁。
5 Walter La Feber, The New Empire – An Interpretation of American Expansion, 1860-1898 (Ithaca:Cronell University Press, 12963), pp.91-93.
6 Alfred Thayer Mahan, The Influence of Sea Power upon History, 1660-1783(Boston:Little Brown,    1890), pp.28-87.尾崎悦雄訳『海上権力史論』(水交会、 ) 頁。
7 Ibid., p.71, 138.
8 前掲、 曽村、 29-33頁。
9 築土
10 Alfred Thayer Mahan,“United States Looking Outward”,The Inters in America in Sea Power:Present  and Future(Boston:Little Brown, 1897).
11 Letter Mahan to Editor of the New York Times(30 January 1893), Robert Seager Ⅱ and Doris D.   Maguire, eds., Letters and Papers of Alfred Thayer Mahan, 3 vols.(Annapolis:U.S.Naval Institute Press,  1975), Vol Ⅰ, p.119.
12 Lts. Mahan to Roosevelt(6 May 1897), Letters and Papers, op.cit., 2-506. 麻田貞雄訳・解説『アメリカ  古典文学 8 アルフレッド・T・マハン』(研究社,1980年) 31頁。
13 Henry F.Pringle, Theodore Roosevelt(New York:Harcourt Brace, 1931), p.120.14 Robert Seager Ⅱ,   Aflred Thayer Mahan:The Man and His Letters(Annapolis:Naval Institute Press, 1977), p.358
15 The Interest, op.cit., p.31.麻田
16 Mahan, “A Twenty Century Outlook”, The Interest, op.cit., pp.235-237.
17 Philip A. Crowl, “Alfred Thayer Mahan:The Naval Historian”, Peter Paret,eds.,Makers of Strategy:From  Machivelli to Nuclear Age(Princeton:Princeton University Press, 1941),p.465.(海軍戦史研究家アルフレ ット・セイヤー・マハン」 (防衛大学校「戦略・戦術研究会訳『現代戦略思想の系譜 – マキャヴェリから各時 代 まで』(ダイヤモンド社、 19 89年)408頁。
18 Seager Ⅱ, op.cit., p. 416.
19 Michael Vlahos, “The Naval War College and Origins of War Plan against
 Japan”,Naval War College Review, vol.33,No.4(July -August, 1980),pp.24-26.20 外務省欧米局編「秘 太 平洋問題参考資料 巴奈馬運河問題(資料番号319-2Fa22)」防衛大学校蔵、 4-16頁。
21 角田順『満州問題と国防方針 – 明治後期における国防環境の変動』(原書房、 1959 年)183頁。
22 Michael, op.cit., p.25.
23 ホーマー・リー『日米必戦論 原題名 無智の勇気』望月小太郎訳(英文通信社、 1911 年)47頁。
24 Edward Miller, Orange Plan:The U.S.Strategy to Defeat Japan, 1897-1945(Annapolis:U.S.Naval Institue  Press, 1991), p .
25 Lts Mahan to George L.Meyer(21 Apr.1911),Letters and Papers,op.cit.,3-399 -404.26 Lts Mahan to   Roosevelt(18 Aug. 1914), Ibid., p.3-601-602.
27 竹内重利「世界大戦初期の米国の状況」(有終会編『戦余薫 懐旧録 世界大戦之巻』第 3輯 上(海軍有 終会、 1928年)23頁。
28 ウイリアム・R・ブレステッド「アメリカ海軍とオレンジ作戦計画」麻田貞雄訳・斎藤 真他編『ワシントン体制 と日米関係』(東京大学出版会、 1978年)421頁。
29 Kenneth J.Cliford, Progress and Purpose:A Developmental History of theUnited States Marine Corps, 1900-1970(Washngton:Historical Division, U.S. Marine Corps, 1973), pp.29-30.
30 Orange Plan、 移動基地計画
31 Miller, op.cit., p.128, Table 11.1 Number of Ships in Naval Expeditionary Force to Far East, (Jan. 1915).
32 Ibid.,pp.32-33.
33 海兵隊の発展と対日戦争計画については拙論「戦間期の日米関係(Ⅰ) ミクロネシア と米国海兵隊」(『政治経済史学』第256号、 1987年8月)を参照。
34 前掲、 ブレステッド、 426-427頁。
35 Edwin H. Simmons, The United States Marines 1775 – 1975(New York:Viking
Press,1976), p.125.
36 Allan R. Millet, Semper Didelis:The History of the United Stated Marines
Corps(New York:Macmillan, 1980), p.326ー337.』

カール・ハウスホーファーとドイツの地政学

空間•社会•地理思想22号,29-43頁,2019年
Space, Society and Geographical Thought
カール・ハウスホーファーとドイツの地政学
クリスティアン・W・シュパング・ (高木 彰彦・・訳)
Christian W. Spang (Akihiko TAKAGI)
Karl E. Haushofer, Geopolitics of Germany, Zeitschrift fUr Geopolitik and Pan-ideas (Haushofer, 1931),
entries for The Encyclopedia of New Geopolitics, 2018
Translation permitted by the auther and Maruzen Publishing Co., Ltd.
I.カール・ハウスホーファー

 ※ 例によって、テキスト変換した。「脳内変換」、よろしく…。

 ※ 地政学に興味のある人は、読んどいた方がいい…。

 ※ 特に、英米(それに影響を受けてる、日)においては、ハウスホファーは、「ナチス協力者(それも、相当な誤解のようだが)」とのレッテル貼りにより、「タブー視」されているんで、こういう論説は、「貴重」だ…。

 ※ 一言で言えば、「ランドパワーの地政学」ということだろうな…。

 ※ 逆に言えば、マッキンダー、スパイクマンの系譜は、「シーパワーの地政学」ということになろう…。

『 1.家庭環境と軍人としてのキャリア

1869年ミュンヘンに生まれたカール・ハウスホー
ファー Karl Haushoferは,学者や芸術家の家系に恵
まれた家庭に育った.彼の二人の祖父,マックス・
ハウスホーファーMax Haushoferとカール・N・フ
ラースKarlN. Frassはともに教授であり,伯父のカー
ル・フォン・ハウスホーファー Karl von Haushoferも
教授だった.彼の父,マックス・H・ハウスホーファー
Max H. Haushoferはミュンヘン高等技術学校(今日の
ミュンヘン工科大学)の政治経済学の教授で議員で
もあり,学術的著作のみならず文学作品でも著名な
作家であった.

こうした家系にもかかわらず,カール・ハウス
ホーファーは,1887年に(ドイツ帝国から)半独立的
な王立バイエルン軍に入隊した.ハウスホーファー
は,最初はバイエルン陸軍士官学校(1888/89年)に
通い,その後王立バイエルン砲兵・工兵学校(1890-
92年)に進み,最終的にバイエルン陸軍大学校に進
学した(1895-98年).これらの学校はいずれもミュ
ンヘンにあった.陸軍大学校での教官としての在職
期間(1904-07年)も加えると,ハウスホーファーは,
その陸軍軍人としてのキャリアの最初の20年を教育
機関で過ごしたことになる.

1907年はハウスホーファーにとって大きな転機
となった.1月27日に,彼は突然バイエルン陸軍大
学校を辞め,ミュンヘンから350kmほど離れたバイ
エルン・プファルツ(宮廷領)のランダウにあった,
バイエルン第三師団の参謀へと転身したのである.

その年の4月9日に父が亡くなった時,ハウスホー
・ 大東文化大学
*・ 九州大学
ファーは住み慣れた土地を離れて生活を変えようと
決意した.

ランダウから離れるため,彼は日本への
軍事オブザーバーのポストに応募した.バイエルン
人武官が日本に初めて派遣された理由は,1904/5年
の日露戦争に日本が勝ったからだった.

ドイツ帝国
とバイエルン王国はしばらくの間戦争を経験してい
なかったため,日本がどのようにしてロシアに勝つ
ことが出来たのかを,軍が知りたがっていたのだ.

1907年6月24日に駐日軍事オブザーバーに選ばれた
ことを知らされると,その後五ケ月も経たないうち
に,彼の人生は天地がひっくり返るほどの混乱に
陥った.

いくらかの日本語を学び,日本で役立ちそうなも
のを西欧の言語で読んだあと,彼は妻マルタMartha
(1896年に結婚)とともに東アジアへと旅立ったが,
幼い二人の息子アルプレヒトAlbrecht (1903年生ま
れ)とハインツHeinz (1906年生まれ)は同行しなかっ
た.

1908年10月から1909年2月にかけて,夫妻はイ
タリアを出港し,スエズ運河を経由してセイロン(現
スリランカ)とインドに到着した.ここで夫妻は,
シンガポール,香港,上海での待ち時間も含めて8
週間ほど滞在した後,日本に到着した.その後,ハ
ウスホーファーは,1909年2月から1910年6月までの
16ヶ月を東アジアで過ごした.

この間に夫妻は日本国内をくまなく旅行しただけ
でなく,朝鮮,中国,満州にも出かけた.健康上の
問題から,京都にあった第16師団での業務を9ヶ月
に縮めて,1910年の梅雨の時期になる前にシベリア
縦貫鉄道経由でドイツに帰国した.

ハウスホーファーは日本に短期間しか滞在しな
かったにも関わらず,当時多くいた他の外国人訪問
者よりも多くの見識を得ることができたのには様々
30
クリスティアン・W・シュパング
な理由がある.

第一に,彼は東アジアへの旅行以前
および旅行中に入念な準備を行っていた.第二に,
彼は日本当局に登録されていなかったため,最初の
数ヶ月間,日本国内を隠密に歩き回ることができた.
第三に,夫妻は日本人教師から日本語を学んだが,
この教師も旅行に同行したのだった.第四に,夫妻
は西洋人仲間と交わるのではなく,できるだけ日本
人との交流を深めようとした.

その結果,ハウスホー
ファーは日本滞在中,直接的および間接的に,後に
重要となる関係を築くことができた.主な人物を挙
げれば,駐独公使および外務相を務めた青木周蔵と
その家族,陸軍軍人で1930年代に影響力のある政治
家となった菊池武夫,後に日・独の学術関係で役割
を果たすことになるフリードリッヒ・マクシミリア
ン・トラウツFriedrich Maximilian Trautzなどがいた.

さらに,ハウスホーファーを受け入れた日本の
人々は,他の外国人には閉鎖的だったのに対して,
彼には開放的だった.こうした礼儀正しい扱いの理
由は,多くの日本人武官や医学生が数十年にわたっ
てバイエルンに留学してきたにも関わらず,バイエ
ルンからは誰も日本に来ていなかったためである.

したがって,ハウスホーファーが,東京で天皇が主
催した観桜会や観菊会,さらには天長節祝賀行事に
も招待されたのは偶然の一致ではなかった.

バイエルンに戻ってから,ハウスホーファーは第
一次世界大戦での戦闘を最後に兵役を終えた.この
間,彼は陸軍大佐に昇進し,1919年末に退役した際
には陸軍少将に昇進していた.

2.研究者としてのキャリア:1913-44年

先に述べたように,健康上の問題があったため,
ハウスホーファーは,第一次世界大戦前には通常の
軍務から離れていた.彼は長い休養期間を数多くの
論文の執筆に費やした.彼の最初の著作は『大日本
——大日本帝国の軍事力,世界的地位と将来に関す
る考察』(Dai Nihon, Betrachtungen uber G~^^^^,Japa^
Wehrkraft, Weltstellung und Zukunft)だった.

妻の発案
と援助で,彼はルードウィッヒ・マクシミリアン大
学ミュンヘン(LMU)から「日本と日本周辺地域の地
理的発展におけるドイツの関与,および戦争と国防
政策の影響を通じてのその促進」というテーマで学
位を取得した.

ハウスホーファーは,こよなく愛したバイエルン
陸軍大学校の校長として任期を全うすることを夢
見ていたが,同校は第一次世界大戦後には存続し
なかった.

代わりに,49歳の老大佐は腰を落ち着け
て大学教授資格ハビリタツイオン論文を書き上げ,
1919年秋にはLMUの地理学科で教え始めた.

名誉
教授にすぎない身分で,ハウスホーファーは研究室
を与えられず,学科の運営にも関わらなかった.


もかかわらず,学生の間での彼の評判は年ごとに増
していった.退役陸軍少将として,事実上年金で生
活していたハウスホーファーにとって,こうした立
場は理想的だった.

というのも,この地位は彼に学
問的な信頼性を与えるとともに,十分な研究,出版,
その他の活動の自由を与えたからである.

ナチスが
政権をとった後,ハウスホーファーは,LMUの他
の何人かとともに,名誉教授ではなく教授と呼ばれ
る権利を得た.

日本および大平洋に関する著作で,ドイツ人の極
東専門家の一人としての地位を獲得した1920年代
前半に,ハウスホーファーは,初の地政学月刊誌
で世界的に悪名高い『ゲオポリティク』Zeitschrift fur
Geopolitik (fp)誌を刊行し,1924年から1944年ま
で共同ないしは単独で編集者を務めた.

今日のバイ
エルン放送の前身の放送局で,1925年から1931年ま
でと,1933年から1939年まで毎月1回放送された,「世
界政治講座」Weltpolitischer Monatsberichtという名の
世界事象に関する解説講座とともに,本誌によって
彼の名はドイツおよび国外において著名なものと
なった.

1920年代以降,ハウスホーファーは東アジアを
越えて自らの研究範囲を広げ,国境問題,防衛問
題,海外ドイツ人事情,ライン川など,他の事象に
関しても出版するようになった.

彼はさまざまな短
編の伝記物も刊行した.にもかかわらず,彼の論文
の3分の2と著書の2分の1はアジアないしは大平洋を
扱ったものであった.

ハウスホーファー «600以上
もの論文,総説,死亡記事,入門書と,3ダースも
の著書を刊行したという事実からすれば,彼は確か
に同時代の最も精力的な出版家だった.

3.カール・ハウスホーファーの地政学概念

ハウスホーファーは東アジアでの滞在以来,い
わゆる大陸横断的ブロック概念を普及させた.


ルフォード・マッキンダー HalfOrd Mackinderの著名
な,1904年のハートランド理論を知っていなくと
も,彼は大概そうしただろう.

何年か後に,ハウス
ホーファーはマッキンダーについて知り,ロシアと
ドイツの協力の大きな可能性について,彼の世界観
とマッキンダーのそれが重なっていたことを悟った
が,それが望ましいのか(ハウスホーファー),望
カール・ハウスホーファーとドイツの地政学
31
ましくないのか(マッキンダー)という問題になる
と,意見が異なっていた.

ハウスホーファーの地政
学概念のもうひとつの源は,ホーマー・リー Homer
Leaの著書『サクソンの時代』(The Day of the Saxon,
1912)だろう.

その基本的な主題がハウスホーファー
の大陸横断的ブロックに近いからである.

にもかか
わらず,『大日本』の参考文献には,マッキンダーも
リーもハウスホーファーによって言及されていな
い.

第一次世界大戦後になって,ハウスホーファー
は二人やマハンなど他の西欧起源の概念について引
用するようになる.

第一次世界大戦前に刊行された『大日本』におい
て,ハウスホーファーは,ベルリン,ウィーン,サ
ンクト・ペテルブルク,東京という4つの皇帝同盟
を示唆した.

後にハウスホーファーは,ソ連および
日本を伴った独伊同盟を呼びかけた.

モスクワの共
産主義体制との密接な協力を積極的に支持するのは
不適切とみなされていた時期にあって,ハウスホー
ファーは,ドイツは理想的には日本と足並みをそろ
えつつ,アングロ・サクソンの優位性に対抗して,
「持たざる者」の連合という植民地勢力に対抗する中
国およびインドと連携すべきと主張した.こうして,
少なくとも敵は同じままだった.

これを踏まえると,ハウスホーファーが,ゲオポ
リティク誌の編集仲間であるエーリッヒ•オプスト
Erich Obstとは異なって,かつてのドイツ植民地の
返還要求には反対だったことは驚くべきことではな
い.

彼は,アフリカはドイツが大国に返り咲く資産
としては遠すぎると考えていた.

また,ハウスホー
ファーは,a)ドイツが何を要求しようとも,かって
の植民地を受け取ることはなく,b)すでに第一次世
界大戦で確証されたように,何らかの紛争の場合に
も,海外領土を守ることはできないことを,十分に
理解できるほど現実主義的だった.

さらに,ハウス
ホーファーは,当時一般的だった人種主義者ではな
かったものの,彼にとって,アフリカ人がヨーロッ
パ人と同じだと認めるのは困難だった.

しかし,中
国人,インド人,日本人については,彼はそうした
問題は持っていなかった.

ハウスホーファーがしばしば言及したよく知られ
た概念に「汎概念」ないしは「汎地域」がある.

最もよ
く知られているのは『汎概念の地政学』(Geopolitik
derPan-Ideen,1931)で,彼は互いに矛盾することも
あるさまざまな汎概念について述べた.

同書はナ
チが政権を握る前に刊行されたため,ハウスホー
ファーは,理想的には「汎アジア主義」などのように
大陸的スケールでの領域的特徴に依拠する「汎概念」
が,「汎ドイツ主義」や「汎スラブ主義」のような,人
種に基づいたものよりも説得力があると主張するこ
とができた.

興味深いことに,1931年になると,彼
はモスクワをベースにした概念として汎アジア主義
を解釈するようになった.

彼によれば,米国は二つ
の対立する汎概念,すなわち,大陸的概念である汎
アメリカ主義と,海洋的な概念である汎大平洋主義
とに従うのだ.

米国が主導する「汎アメリカ」,ドイ
ツとイタリアが支配する「ユーラフリカ」,日本が指
導する「汎アジア」,ソビエトが支配する「ユーラシ
ア」という,世界が三つないし四つに区分されると
主張する,ハウスホーファーの幅広い理解は解釈の
しすぎだと述べておきたい.

ハウスホーファーがよく述べたもう一つの重要な
地政学的概念は,西欧諸国からそれほど多くの関心
を持たれなかったし,1945年以降も,今日でさえも
そうだ.

気候的および(農業)文化的な類似性に基づ
いて,ハウスホーファーは,モンスーン地域を地政
学的な統合単位としてしばしば言及した.

こうして,
権力,歴史,社会(一例を挙げるならインドのカー
スト制度のような),宗教といった重要な違いがみ
られるにも関わらず,南アジア(インド)と東南アジ
ア(マラヤ)のさまざまな英国植民地,仏領インドシ
ナ,オランダ領東インドが,(半植民地的な)中国,
独立国であるシャム(タイ)と日本といった沿岸諸国
とともに,一つの地政学的実体としてまとめられた
(Spang 2013: 354-357).

こうしたモンスーン地域の
地政的近接性という概念は,1930年代半ば頃から日
本で注目され,「大東亜共栄圏」を白人が支持するも
のとして解釈された(Spang 2013: 496-621, 630-631,
722).

大陸横断的ブロックという彼の考えは,1913年に
刊行された『大日本』にすでに認められたが,ドイツ
学派地政学を打ち立てようとするハウスホーファー
の強い熱意は,ドイツ帝国の崩壊とヴェルサイユ条
約とによって生み出された.

その多くの著作,ゲオ
ポリティク誌,ラジオ講座で,彼は大衆を教育する
と同時に,責任ある地位の政治家たちを手助けして
大国としてのドイツを再興するための最良の意思決
定を行おうとした.

ハウスホーファーによれば,そ
れはロシア/ソ連と日本との密接な協力によって可
能になるものだった.

「東方における生存圏」と無遠
慮に言うのではなく,ハウスホーファーによるドイ
ツの主張は,あらゆる民族に対して利用可能な空間
の「公正な」配分のための需要に基づいていた.
32
クリスティアン・W・シュパング

4.ナチとの関係

ハウスホーファーは,1933-41年の間ナチ党の副
総統だったルドルフ・ヘスRudolf Hessには,1919
年に初めて会った.

それは,彼の部下だった将校
のマックス•ホフヴェーバーMax Hofweberがへス
を連れてきた時だった.

後にヘスは,アドルフ・
ヒトラー Adolf Hitlerのために働くようになる前に,
ハウスホーファーの指導でしばらくの間研究を行っ
た.

25歳も年齢が離れていたにもかかわらず,ハウ
スホーファーとヘスは非常に親密で二人の友情はよ
く知られていた.

マルタ・ハウスホーファーの父が
(洗礼を施された)ユダヤ人だったという事実にもか
かわらず,1941年まで,ヘスは友人の家族を守り続
けたのだ.

ニュルンベルクで1935年から38年まで4
回開かれた著名な党大会で,ハウスホーファーはへ
スの主賓だったため,ナチ党指導者の間では有名な
人物となった.ヒトラー,ハインリッヒ・ヒムラー
Heinrich Himmler,ヨアヒム・フォン・リッベントロッ
プJoachim von Ribbentropやその他のナチ党指導者た
ちは,ハウスホーファーとその地政学概念を知って
いたが,彼が決してナチ党員にはならなかったとい
う事実は知らなかった.

ナチ体制に対するハウスホーファーの協力は,
1919年時の国境を越えたドイツ人の生存のために働
きたいという彼の義務感に基づいていた.

この点に
ついて,ハウスホーファーが党員ではなかったにも
関わらず,ドイツアカデミー(Deutsche Akademie,
DA)の共同設立者となり,初期ナチ時代(1934-37)
にはこの組織の会長を務めたことは指摘すべきだ
ろう・

同じ時期に彼は,民族ドイツ評議会(Volks-
deutscher Rat, VR,1933-35)にも関わった.これは,
1938年末から1942年秋まで「在外全ドイツ民族同盟」
(Volksbund fur das Deutschtum im Ausland, VDA) の
「指導者」となった組織である.

これら全ての組織に
共通するのは,1919年時の国境を越えたドイツ人の
生存を支持しようとしたことである.

これは民主制
時代を通じて正当な課題であり,ナチスはこうした
努力をさらに積み重ねて,「血と土 Blut und Bodenj
のイデオロギーや「東方における生存圏Lebensraum
im Ostenjの要求へと結びつけたのだった(Jacobsen
1979-I: 188-201, 279-331).

ハウスホーファーの考えがヒトラーに直接届いた
のは1920年代半ばで,この将来の指導者とヘスが
1924年の大半を刑務所で過ごしていた時期であっ
た.

ここで,ヘスは私的秘書の役割を果たし,ヒト
ラーは『わが闘争』(Meinに做ガ)を執筆したのであ
る.

ハウスホーファーがランズベルク刑務所を何度
も訪れ,クラウゼヴィッツやラッツェルの本だけで
なく,『大日本』など日本に関する自著も持ち込んだ
ことはよく知られている.

また,彼はゲオポリティ
ク誌の創刊号もへスとヒトラーに送った.『わが闘
争』下巻の第14章は生存圏の問題を扱っている.


トラーの著書のこの部分が直接的•間接的にハウス
ホーファーの影響を受けていることは一般に認めら
れていることだ.

同書の出版直後に,ヒトラーはエ
ルンスト・ハンフシュテングルErnst Hanfstaenglに
ドイツにとって日本が重要だと語っているが,この
考えはヒトラーがハウスホーファーから得たものに
違いない.

こうして,この地政学者が,日本および
生存圏という問題に関して,ヒトラーの初期の態
度に影響を与えたという強いヒントがある(Spang
2013: 385-393).

1933年以降,ハウスホーファーはへスとリッベン
トロップと接触し,独日関係の強化に努めた.

1934
年4月にハウスホーファーの私邸で行われたへスと
日本海軍のドイツ駐在武官だった遠藤喜一との秘密
裏の会合は,ナチスのトップとドイツにおける日本
側代表者との相互理解に向けた重要な一歩だった.

さらに,リッベントロップと彼の部下は,ハウスホー
ファーの日本に対する積極的な見方と大陸横断的ブ
ロック概念に影響されたと言われている.

リッベン
トロップの半公的事務所である,いわゆるリッベン
トロップ機関Dienststelleの東アジア部門の長官を,
1935-38年の間務めたヘルマン・フォン・ラウマー
Hermann von Raumer博士は,日本とソ連との結びっ
きを同時に改善しようと努めた.

彼はゲオポリティ
ク誌に寄稿し,ハウスホーファーと手紙を交わした.
さらに,ソ連とオープンに向き合うよりも,共産主
義インターナショナル(コミンテルン)に対抗して,
1935-36年に議論した双務協定を目指すという考え
を持っていたのは,ラウマーに他ならない.

この考
えは,見かけ上は,ソ連と地政学的な意味での「口
シア」とを区別するハウスホーファーの考えを反映
するものだった(Spang 2013: 429-433).

ナチ・ドイツの対外政策を外部から眺めると,
ハウスホーファーの大陸横断的ブロック概念は,
1935/36年から1941年にかけて,すなわち,1936年
の反コミンテルン条約と1941年6月のソ連への攻撃
との間にかけての日本とソ連との関係を築くための
基本的なガイドラインのように見える.

しかしなが
ら,1939年のヒトラー・スターリン条約(独ソ不可
侵条約)が日本に衝撃を与えたことを忘れてはなら
ない•日本の親ドイツ的態度は,西側諸国だけでな
くソ連も共通の敵であるということに強く依拠して
カール・ハウスホーファーとドイツの地政学
33
いたからだ.

ヒトラー・スターリン条約の締結から
数週間後,ドイツ外務省にはハウスホーファーを日
本大使にと考える人々がいた.これは,ドイツ・
ロシア・日本の協力体制が必要だというハウスホー
ファーの主張を,彼らがよく認識していたことを示
すものであり,日本に対して,ナチ・ソビエト条約
の「地政学的必然性」を彼に説明させようと予定して
いたことは明らかである.

ヒトラー・スターリン条
約(1939),三国同盟(1940),日ソ中立条約(1941)の
組み合わせは大陸横断的ブロックをもたらしたもの
の,ヒトラーがスターリンと戦った「バルバロッサ
作戦」は,ヒトラーという指導者が,戦時下でさえも,
戦略的な地政学概念より,反共産主義イデオロギー
と人種主義(反セム主義と反スラブ主義)という考え
を確信していたことを示すものである.
全般的に言えば,ハウスホーファーは,1924年に,
地政学とヴェルサイユ条約に対する共通の修正主義
という斬新さに基づいて,若き日のヒトラーに影響
を与えたのは明らかだ.後に,人種主義,とりわけ
反セム主義が第三帝国の内外の政策の推進力となっ
たとき,ハウスホーファーの地政学は,ヒトラーと
いう指導者の,ソ連に対する現実的で攻撃的な意図
にとって有用なカムフラージュとして以外,もはや
関心を引かなかった.
ハウスホーファーの観点からすれば,事態は全く
異なって見えた.陸軍少将で名誉教授である彼は,
1920年代の好戦的で洗練されていない下士官を見下
したのに対して,1930年代における対外政策の成功
によって,ヒトラーは自らをドイツが必要とする真
の指導者だと確信するようになった.ドイツ軍がプ
ラハに押し入り,その後ポーランドを攻撃したとき,
ハウスホーファーは,こうした動きの賢明さを疑い
始めるようになったが,1941年に第三帝国がソ連を
攻撃し米国との戦争を宣言するに至ると,最終的に
ヒトラーが間違った方向に進んでいると確信した.
彼の息子のアルプレヒトとは異なって,その軍事的
背景から,このコースが間違っていると確信しても,
ハウスホーファーは最高指導者に対して陰謀を企む
ことができなかった.代わりに,彼の家族とりわけ
半分ユダヤ人の妻を守るために,ハウスホーファー
は晩年の著書においてヒトラーとドイツ軍を讃え続
けた.
5.第二次世界大戦中の米国における反ハウスホー
ファープロパガンダ
戦争中の英米における刊行物において,ハウス
ホーファーは,たびたび,きわめて影響力の大きい
人物として描かれた.こうした見方は,連合軍の反
ドイツ地政学の成立を強く促すものとなった.ハウ
スホーファーは対極者として理解されたのだった.
数年の間は,議論が正しいか否かは問題ではなかっ
た.こうした状況にあって,「千人ものナチ科学者」
を擁する「地政学研究所」がミュンヘンにあるという
フレデリック・ソンダーンFrederic Sonder nの主張は
誤った見方である(Sondern1941).以来,「地政学
研究所」という間違った考えがアメリカ人(およびイ
ギリス人)によるハウスホーファーとドイツ地政学
の見方に強く影響してきた.今日でさえも,ブリタ
ニカウェブ百科事典では,ハウスホーファーが,実
際には存在しなかった研究所の所長として描かれて
いる.戦争中のプロパガンダの極端な例は,「ヒト
ラーの帝国への計画」という1942年の映画に見られ
る.その映画では,ナレーターが次のように述べる。
…今日の時代にあって最も奇妙で(最も)重要な
人物の一人である・・・カール・E・ハウスホーファー
博士,ドイツアカデミーの会長,ドイツ国防軍の陸
軍少将,ナチの世界征服計画の首謀者によって•••
描かれた,膨大な征服計画.•••ハウスホーファー
のミュンヘン研究所は高度に組織化された世界的
な諜報体系の中枢である.•••9千人もの工作員の
懸命な業務によって,•••ハウスホーファーは,こ
の世の土地と人々について集められた,最も漏洩
防止されるべき,地理的•政治的•戦略的な知識
の一つと信じられているものを••・集めた•そして,
こうした情報に基づいて,彼は地政学という科学
ないしは「空間の軍事的支配」を••・基礎づけたの
だ・
「破滅への計画一ハウスホーファーによるナチ
の世界支配のための計画」というタイトルの映画
(1944)も同様な主張をし,ハウスホーファー,ヘ
ス,その他の人物を擬人化した役者を用いていた.
ヨーロッパ戦線での勝利の日,すなわち,ナチス・
ドイツが無条件降伏した日の米国の新聞には,ヒト
ラーの戦争をハウスホーファーと直接結びつけた記
事を見出すことができる.例えば,「アドルフ・ヒ
トラーはどのように勝ち,帝国を失ったか?」とい
う見出しで,ピッツバーグ・サンテレグラフ紙は,
ナチの拡大のさまざまな段階を示す一連の地図を示
し,1945年5月8日の読者に対して以下のように説明
する.「ハウスホーファー教授と地政学協会の世界
征服計画は,まず隣国の膨大な資源を手に入れるこ
とから始まった.ナチ・ドイツ(ハートランド)がそ
34
クリスティアン・W・シュパング
れらの獲得を企んだ順序が示される」•
それゆえ,米国政府の職員が,第二次大戦後に,
76歳でひ弱なハウスホーファーを何度も尋問した
が,ナチの戦争努力ないしは人道に反する犯罪に対
する彼の関与の十分な証拠を見出せなかった.ハウ
スホーファーのドラマの最後の舞台は1946年3月10
日である.それは,ドイツの敗戦に夢砕かれ,自ら
の地政学観のほとんどを否定され,ナチによって息
子のアルプレヒト(1944年7月のヒトラー暗殺計画に
関わった)を殺害された,カール・ハウスホーファー
が妻とともに命を絶った日だ.
今日においてもなお,米国人のハウスホーファー
観は1940年代の著作に歪められている.この傾向は
ハウスホーファーに関する最近の多くの著作におい
てもなお認められる(Herwig 2016).『コロンビア百
科事典』第6版(2001-05)を見ても明らかで,ウィキ
ペディアの英語版のカール・ハウスホーファーの項
目を見てもそうである.引用文献の多くが戦争中な
いしは戦後間もない頃に出版されたものなのだ.
II,ドイツの地政学
1.19世紀における歴史的背景
19世紀後半に展開した産業革命,帝国主義,(社会)
ダーウィ二ズム,科学的法則の重要性の高まりは,
(ドイツの)地政学の創設者の全てに強い影響を与え
た.1900年頃,フリードリッヒ・ラッツェルFried-
rich Ratzelやルドルフ・チェレーンRudolf Kjellenの
ような研究者たちはそうした法則を見出そうとし,
国家の行動を説明できる全体系を打ち立てようとし
た.世界をそのような視点から眺めながら,気候学
や地質学といった科学的法則に支配される分野か
ら,人類地理学や政治地理学のような人文学に基づ
く分野へと広がる,幅広い下位分野をもつ地理学は,
そうした努力の理想的な土台に見えた.
とはいえ,科学においては諸法則が作用するにし
ても,政治と密接に結びついた分野においては滅多
に作用することはない.初期の地政学者たちは世界
を説明しようとすると同時に,将来を予測しようと
するか,少なくとも,母国の指導者たちを助けて「正
しい」方向に導こうとした.このように,多くの地
政学者たちは,「地政学的法則」の構築が必要とされ
るほどには客観的ではなかった.アルフレッド・
マハンやハルフォード・マッキンダーのような英米
の著者たちがアングロ・サクソン的な観点で世界
を眺めたのに対して,小牧実繁のような日本の地
政学者たちは断固とした日本的見方を抱いていた
し,フリードリッヒ・ラッツェルやカール・ハウス
ホーファーはドイツ人の視点から見ていた.地政学
のこうした側面は,ピーター・J・ティラー Peter J.
Taylorが,「地政学の場合,その著作から,常に著
者の国民性を極めて容易に認めることができる」と,
的確に述べている.(Taylor 1993: 53).
このように述べてくると,ドイツ地政学の特異性
を理解しようとするなら,こうした歴史的環境を考
慮せねばならないことは明らかである.19世紀後半
のドイツの歴史は統一(戦争)とアフリカおよびア
ジアにおける植民地の獲得に特徴づけられており,
ラッツェルの決定論的な「成長空間の法則」と歩をー
にしていた.国家を,成長ないしは衰退する生命体
とみなす有機体的国家論と結びついた,ラッツェル
の「法則」は,19世紀半ばを反映するものだった.に
もかかわらず,積極的な考えは世紀末の悲観的ムー
ドとは相容れなかった.1900年頃には,世界の全て
の土地が取得されたため,「容易に」領土を増やすこ
とができる空間はなくなり,地政学的「閉所恐怖症」
感が広く漂っていた.
2.刺激となった世界大戦の敗戦
こうした一般的状況に加えて,第一次世界大戦の
敗北,とりわけ全植民地と西部領土(アルザス・ロ
レーヌとマルメディ・オイペン),北部領土(シュレ
スウィヒの一部),北東部領土(ダンツィヒおよびメ
メル)および南東部領土(ポズナニ,西プロイセン,
上シレジア,フルチーン地域)の喪失とが,ドイツ
では熱い論争となった.数多くの地理学者たちが
失った領土を描いた膨大な地図を作成し,直接ない
しは間接的に,この論争に加わった.敗戦を戦争に
批判的な左翼主義者のせいにする,誤った「背後の
ー突き」伝説DolchstoBlegendeが広く受容されたこと
と結びついて,この論争はドイツにおける失地回復
的な雰囲気を生み出した.こうした状況において,
政治的左翼と袂を分かった少数のドイツ人たちが,
ワイマール共和国のために熱狂的になったことに加
えて,新たな民主的政府が戦争犯罪条項(231条)を
持つヴェルサイユ条約に調印せねばならなかったと
いう事実が,民主主義への訴えをさらに弱めること
になった.西側諸国に対する憎悪と失地回復主義が
当時の雰囲気であり,極端なナショナリズムと地政
学とを養う理想的な前提条件であった.
カール・ハウスホーファーとドイツの地政学
35

  1. カール・E ・ハウスホーファーとドイツ地政学
    ドイツ地政学の父としばしば呼ばれるカール・ハ
    ウスホーファーは,1887年から1918/19年まで30年
    間にわたって軍務に就いた後,1919年から1939年ま
    で,ミュンヘンのルードヴィッヒ・マクシミリアン
    大学で地政学,政治地理学,国防研究を教えた.彼
    は第一次世界大戦前ないしは戦争中にラッツェルと
    チェレーンとを見出し(そして彼らの考えに魅惑さ
    れた)たものの,地政学という用語を積極的に用い
    始めるまでにはしばらく時間がかかった.1920年と
    1922年に,彼はそれほど重要でない2本の論文を書
    いた.その後,1923年と1924年はドイツ地政学にとつ
    て大躍進の年となった.第一に,ハウスホーファー
    はジョセフ・メルツJosef Marzとともに,1923年に『民
    族自決の地政学に向けて』Zur Geopolitik der Selbst-
    bestimmungを出版した.第二に,その年の夏に,彼
    は初めて大学の講義名に「地政学」という用語を用い
    た.この授業を教えながら,彼は新雑誌『ゲオポリ
    ティク』創刊号の準備に追われており,同誌は1924
    年の1月に刊行された.最後に,この年にハウスホー
    ファーは,彼の最も影響力のある著書となった『大
    平洋地政学』Geopolitik des Pazfischen Ozeansを出版
    した.
  2. ゲオポリティク誌の他の代表的人物
    リヒャルト・ヘニッヒRichard Hennigはそれほど
    知られてはいないものの,ゲオポリティク誌の代表
    的な論客であり,気候学および交通研究を専門とし
    ていた.彼の観点は,チェレーンの有機体的国家
    論に基づいており,地理的決定論につながったが,
    「政治的発展の25 %までが地理によって説明できる」
    と主張したカール・ハウスホーファーの有名な主張
    よりもなお顕著な地理的決定論だった.ヘニッヒが
    1928年に『地政学一生命体としての国家の研究^Geo-
    politik. Die Lehre vom Staat als Lebewesen を刊行した
    とき,彼の見方はそれほど議論を巻き起こさなかっ
    たが,その後,レオ・ケルホルツLeo Korholzとの
    共著で,ナチが政権を取った2年目に刊行した『地政
    学入門^Einfuhrung in die Geopolitikという著書は,彼
    の「地理的唯物論」と人種的思考の欠如という点で論
    争を巻き起こした.同書は,クルト・フォーヴィン
    ケルKurt VOwinkelが強く支持していた,人種研究と
    地政学を統合しようとしたナチ指向的な「地政学研
    究グループ(Arbeitsgemeischaft fur Geopolitik)」から
    厳しく批判された.
    エヴァルド・バンゼEwald Banseは『ゲオポリティ
    ク』誌の編集メンバー以外のドイツ人地政学者で,
    1933年にナチ党NSDA Pに加わった.バンゼは地理
    学を国防研究と結びつけようとして,カール・ハウ
    スホーファーやオスカー・フォン・ニーダーマイヤー
    Oskar von Niedermayerとともに,「国防地政学Wehr-
    geopolitikjという下位分野を構築し先導した.バン
    ゼの著書『第一次世界大戦中の空間と大衆一国防教
    義に関する考察』Raum und Volk im Weltkriege: Gedan-
    ken uber eine nationale Wehrlehre が刊行されたのは,
    ハウスホーファーの『国防地政学』Wehr-Geopolitik
    (1941年までに5回も版を重ねた)と同じ年で,ワイ
    マール共和国末期の1932年だった.バンゼの著書は
    ハウスホーファーのものほど評判は良くなかったも
    のの,米国では大きな反響を呼び,1934年には『ド
    イツによる戦争の準備—ナチによる国防の理論』
    Germany Prepares for War: A Nazi Theory of “National
    Defense”というセンセーショナルなタイトルで刊行
    された.同書に関する議論は,英米両国の多くの
    人々が,バンゼ,ハウスホーファー,国防地政学を
    事実上初めて知ることとなった.ハウスホーファー
    とニーダーマイヤーが第一次世界大戦中に従軍して
    戦ったのに対して,バンゼは従軍地質学者として
    1917/18年に帝国軍に入隊した.バンゼの実戦経験
    の無さを根拠に,ハウスホーファーは『国防地政学』
    の創設者であるバンゼの主張を真面目に取り合おう
    とはせず,1930年代半ばに,多少の舌戦を繰り広げ
    たに止まった.1930年代には,国防地政学以外にも,
    地法学 geo-jurisprudence,地哲学 geo-philosophy,地
    心理学geo-psychology,地医学geomedicineなど,さ
    まざまな地政学の分野が生み出された(Spang 2013:
    250-256).
    バンゼ,ハウスホーファー,ヘニッヒ,そして,
    (この3人に比べれば影響力は少なかった)ニーダー
    マイヤー以外にも,ここでは,ゲオポリティク誌の
    創刊と編集に関わった二人の地理学者/地政学者を
    簡単に紹介しておきたい.彼らがドイツ地政学の発
    展に大きな役割を果たしたからである.エーリッヒ・
    オプストErich Obstとオットー・マウルOtto Maullは
    1931年まで編集委員会でカール・ハウスホーファー
    に密接に協力した.オプストは同誌の共同創設者で
    もある.二人は,同誌にナチの支持を得ようとする,
    発行人クルト・フォーヴィンケルの新しい編集方針
    に反対した.オプストは,実際には,1933年に「ア
    ドルフ・ヒトラーと国家社会主義的国家に対する
    ドイツ大学・高校教員の忠誠誓約」に署名し,アフ
    リカ・植民地研究という,政治的にはそれほど過激
    ではないテーマに専念した.オットー・マウルの場
    合は,ゲオポリティク誌の編集委員会から離れたこ
    36
    クリスティアン・W・シュパング
    とが,地政学を捨てたことを意味はしなかった.逆
    に,彼は幅広い著作活動を展開し,ゲオポリティク
    誌においてと同様,『地理学@Erdkunde誌においても,
    アメリカの事象に関する地政学的レポートBerichter-
    stattungを書き続けた.彼は2冊の関連する著書を刊
    行した.一つは1936年に刊行された『地政学の本質』
    Das Wesen der Geopolitik で,もう一冊は1940年に刊
    行された,『地誌学と地政学@ Ldnderkunde und Geo-
    politik を副題とする米国に関する本であった.
  3. ゲオポリティク誌とナチスー「血と土」の問題
    ゲオポリティク誌は,最初は,ヴェルサイユ条約
    に反対する手段として,多くの保守主義者や国家社
    会主義者から歓迎されたものの,のちに,党の強硬
    派からは,ヘニッヒ(ある程度はハウスホーファー
    も)のような人々は半ば反動的だとみなされた.そ
    れは,彼らが地理,すなわち土地(Boden)を重視し
    て政治的発展を説明することが,人種(血Blut)の影
    響を限定すると思われたからだ.破壊的(反セム主
    義)で「統合的な」(ニーチェの言う「超人」としての
    アーリア人種)人種主義で全てを包括するナチのス
    ローガンである「血と土Blut und Boden」の重要性を
    考慮に入れると,こうした地政学に対する否定的な
    見方は,ナチ体制が権力に止まり続ける限り,より
    影響力を持つようになった(Bassin1987).
  4. 枢軸諸国におけるドイツ地政学の積極的受容
    第二次世界大戦前,大戦中,大戦後を通じて,
    ドイツの地政学は英米において極めて否定的に受
    け止められた.こうしたアングロ ・サクソンの戦争
    中のプロパガンダは主にハウスホーファーと彼の見
    解に焦点が当てられていたため,これについては,
    ハウスホーファーに関する前章の「5.」(pp. 33-34)を
    参照してほしい.逆に,イタリアや日本では,ドイ
    ツの地政学,とりわけ,ハウスホーファーの考えは
    かなり積極的に受け入れられた.ハウスホーファー
    はイタリアをたびたび訪れたが,そこでは,ゲオポ
    リティク誌の姉妹誌である『ジオポリティカ』Geopo-
    litica誌が1939-1942年の間刊行されていた.日本で
    も『ゲオポリティク』誌はよく読まれ,数多くの大
    学および図書館で購読されていた.1930年代半ば
    以降,ハウスホーファーの著書の何冊かが翻訳さ
    れ,1941年には日本地政学協会が設立されて,協
    会によって『地政学』誌(1942-44)が刊行された.こ
    の協会と雑誌は日本の地政学の東京学派の中心と
    なった(Spang 2013: 547-656).これに対して,小
    牧実繁の指導下にあった日本地政学の京都学派は
    ドイツ流の地政学とは距離を置き,代わりに当時
    の皇道主義というイデオロギーに基づいた日本独
    自の地政学を打ち立てようとした(Spang 2013: 656-
    711).
    7.ドイツにおける戦後の展開
    1945年以降 地政学という用語がドイツでは全く
    のタブーとなってしまったと言われるが,これは真
    実ではない.西ドイツの代表的保守主義者で首相を
    務めたコンラート・アデナウアーKonrad Adenauer
    のような政治指導者は,この用語の使用を控えたも
    のの,西ドイツの研究者の中には,ハウスホーファー
    の『ゲオポリティク』誌を復刊させた者もいたのであ
    る.新ゲオポリティク誌が1951年から1968年まで刊
    行されたにもかかわらず,こうした努力は,売り上
    げ部数においても影響力においても成功したとはい
    えなかった.逆に,東ドイツおよびソ連においては,
    「地政学」という用語は,「米国帝国主義」および西ド
    イツで活性化したネオ・ナチズムに対する冷戦初期
    のレトリックとして,1950年代に用いられた.ドイ
    ツ語に翻訳されたユーリ・N・セミョー ノフJuri N.
    Semjonovの著書(Semjonov1955)や,ドイツ社会主
    義統一党中央委員会から支持を受けていた,ギユン
    ター・ヘイデンGunter Heydenの著書(Heyden1955)
    は明らかにそれを示している.
    後に,とりわけ,西ドイツのいわゆる「歴史家論
    争Historikerstreitj (1986-88) ホロコーストの特
    異性と,ドイツ史のいわゆる「特有の道Sonderweg」
    に関わる西ドイツの歴史家たちの論争-におい
    て,地政学という用語がしばしば,反動的ないしは
    タカ派的とみなされたことから,この用語に対す
    る一抹の不安があったにもかかわらず,ドイツ生
    まれのヘンリー・キッシンジャー Henry Kissingerや
    ポーランド生まれのズビグネフ・ブレジンスキー
    Zbigniew Brzezinskiといった米国の政治家によって
    この用語がたびたび使われたことで,西ドイツでも
    地政学に対する関心が高まった.
    東西ドイツの統一とヨーロッパ内外の政治状況の
    変化によって,ドイツにおける「地政学」という用語
    に対するアプローチそのものは変化した.今日,地
    政学はしばしば用いられるものの,その多くはカー
    ル・ハウスホーファーや第三帝国についてほとんど
    触れることはない.
    カール・ハウスホーファーとドイツの地政学
    37
    表1 ゲオポリティク誌の編集委員と編集協力者,1924-44年
    氏名/年 1924 1925 1926 1927 1928 1929 1930 1931 1932 | 1933 | 1934 1935-39 1940-44
    ゲオポリティク誌 カール・ハウスホーファー 0 0 0 0 0 0 0 0
    オブスト 0 0 0 0 0 0 0 0
    ラウテンザッハ △ 0 0 0 0 △ △ △ △ △ △
    ターマー △
    マウル 0 〇 0 0 0 0 0
    世界政治・経済雑誌 バール 0 △ 0 △ 0 △
    ヴィーデンフェルト 一 △一 △ 一 △ [ △ ] △
    ヘルマン 0 0 △ △ △
    ゲオポリティク誌 ヴォーウィンケル 0
    アルブレヒト・ハウスホーファー △ 1 △ 1 △ △
    ◎は単独編集者,〇は共同編集者,△は編集協力者
    III,ゲオポリティク誌
  5. ゲオポリティク誌の創刊と編集者孤立主義と介
    入主義
    1924-44年の間刊行され(戦後も1951-68年の間刊
    行された)『ゲオポリティク』誌は,世界で最初の「地
    政学」を冠した定期(似非)学術雑誌である.カール・
    E・ハウスホーファーとエーリッヒ・オプストを共
    同編集者として創刊された.若き編集者クルト・
    フォーヴィンケルは1931年と1950年代前半に共同編
    集者を務め,新旧雑誌を結びつける役割を果たした.
    戦間期および戦争中には,ドイツ内外で多大な関心
    を集めたため,本誌の創刊がドイツ学派地政学の開
    始とされる.
    表1を見れば,ハウスホーファーが旧雑誌の主導
    者であることは明白だが,他の人物も1934/39年ま
    で同誌の刊行に関わっていた.
  6. 転機と内輪もめ
    編集者•編集協力者の変化,出版方針および内容
    に基づくと,ゲオポリティク誌の刊行は3つの時期
    1924-31年,1932-44年,1951-68年)ないしは4つの
    時期(1924-31年,1931-39年,1940-44年,1951-68年)
    に区分できる.これらの区分とは必ずしも一致し
    ないが,これら以外に重要な転機が3つある.まず
    192?年で,この年にゲオポリティク誌は,それまで
    は独立した世界(経済)情勢専門誌だった『世界政治・
    経済雑誌』(Weltpolitik und Weltwirtschaft, W&W)と
    合併した.次いで1934年および35年には,ヘルマン・
    ラウテンザッハHerrmann Lautensachと二人の編集協
    力者が引退した.そして1939年にはアルプレヒト・
    ハウスホーファーがゲオポリティク誌の編集協力者
    を辞めた.
    多数の地理学者および地政学者の中で,エーリッ
    ヒ・オプスト,ヘルマン・ラウテンザッハ,オットー・
    マウル,アルプレヒト・ハウスホーファーが,最も
    長きにわたってカール・ハウスホーファーの共同編
    集者を務めた.192?年から34年までの間は,アル
    フレート・バールAlfred Ballとアルトウル・バール
    Arthur Ball,クルト・ヴィーデンフェルトKurt Wie-
    denfeld,ゲルハルト・ヘルマンGerhard Herrmannが,
    ゲオポリティク誌の世界政治•経済雑誌部門の共同
    編集者ないしは協力者を務めた.主に経済的な理由
    で,この合併はフォーヴィンケルによって進められ
    たが,著名な(国際的)著者や読者を集めるのに役立
    ち,1920年代後半にはゲオポリティク誌の評判を高
    めることとなった(Hepple 2008).他方で,この合
    併はドイツ学派地政学の論を待たない代弁者とし
    ての本誌の性格をいくぶん弱めることにもなった
    (Harbeck 1963: 22-2?).
    こうした展開は,元々ゲオポリティク誌を政治地
    理学者の雑誌として創刊しようとしたオプストやマ
    ウルとフォーヴィンケルとの間に深刻な対立を引き
    起こした(Natter 2003: 193-195).彼らは地政学を政
    治地理学の実践的な応用とみなしていたが,フォー
    ヴィンケルは政治学に近いものと理解していた.異
    例の軍事・学術的背景をもつカール・ハウスホー
    ファーは中間の方向を進もうとした.これが,他の
    編集者たちが去った後も彼がただ一人で懸命に編集
    作業を行った理由である.
    なお,戦争中におけるゲオポリティク誌最後の刊
    行となった21巻5/6(9/12月号,1944)は,『自由学派
    雑誌』Zeitschrift Schule der Freiheitと戦時共同で刊行
    された.つまり,ゲオポリティク誌は,経済学者オッ
    トー・ラウテンバツハOtto Lautenbachの雑誌と強制
    的に合併させられたのである.
    3.出版部数
    1929年の世界恐慌とともに生じた内部対立によつ
    て,ゲオポリティク誌は廃刊の危機に陥った.1928
    年には毎月4,000部に達していた出版数は,1930年
    代初期には2,500部に減少した.その後1937年には,
    出版部数は4,000部まで回復し,1939年には6,000部
    38
    クリスティアン・W・シュパング
    に迫った.戦争中には,毎月9,500部が印刷され,
    そのうち30%が海軍ないしは戦場の兵士たちに送ら
    れた.こうした出版部数の増減は,各号のページ数
    にも反映されている.1928年には1,000ページを超
    えていたのに対して,1934年には800ページに減少
    した.193?年には再び1,000ページに達し,1939年
    には900ページに減少し,戦争中には600ページに減
    少した.1943年春以降には隔月刊となり,ページ数
    も年間で350ページまで減少した.1944年に刊行さ
    れた最後の5冊は250ページに満たなかった(Spang
    2013: 243).
    全体的には,ゲオポリティク誌は1924年から44年
    までの間におよそ百万部印刷されたと思われる.戦
    前には,およそ25%が大学,図書館,海外の読者に
    送られていた(Harbeck 1963: 15-16).ドイツ国内の
    図書館に配布されていたことから,定期購読者数は
    出版部数よりはるかに多かったと思われ,戦前と戦
    中の時期には,ゲオポリティク誌が地政学的思考の
    普及に重要な役割を果たしていた.
  7. ゲオポリティク誌のナチ化
    ゲオポリティク誌の展開に話を戻すと,1931/32
    年に重要な変化が生じた.オプストとマウルが編集
    委員会から去ったのである.同誌に対するナチの支
    持をさらに高めようとしたクルト・フォーヴィンケ
    ルの意向に反対したためである.オプストは,ハウ
    スホーファーの世界観やソ連との同盟の可能性な
    いしは願望においても意見が異なっており(Dostal
    2016: 51-37),編集委員を辞めてからは地政学分野
    との関わりもほぼ無くなった.これに対してマウル
    は,他の雑誌において地政学との関わりを持ち続け
    た.ラウテンザッハは,1938年までゲオポリティク
    誌の編集協力者に止まり,さまざまな論文を刊行し
    続けた.カール・ハウスホーファー単独の編集体制
    となってからは,同誌に対する国家社会主義的イデ
    オロギーの影響力が強まった.これは,1932年に設
    立されたナチを強く志向する人種主義的な「地政学
    研究グループ(Arbeitsgemeinschaft fur Geopolitik)」に
    深く関与していたフォーヴィンケルによって推し進
    められたものだった.こうして,当初は保守的で失
    地回復主義的だったゲオポリティク誌は,ナチが政
    権を獲得するまさに直前に国家社会主義的傾向を強
    く持つようになったのである(Harbeck 1963: 29-4?).
  8. カール・ハウスホーファーとゲオポリティク誌
    カール・ハウスホーファーがゲオポリティク誌
    で公表された主張に関してどれほど支配的だったの
    かという問いをめぐっては,これまでにも論争が
    あった(Sprengel 1996: 18-19. Spang 2013: 239-240).
    「月報Berichterstattung」というジャンルでは,ハウ
    スホーファーらがアジアと太平洋,オプストがヨー
    ロッパとアフリカ,マウル(のちにアルプレヒト・
    ハウスホーファー)がアメリカと大西洋を担当して
    いたが,このジャンルを除くとカール・ハウスホー
    ファーの寄稿は6.5%にしか過ぎないけれども,こ
    れを含めると18%にまで高まるのである.こうし
    て,ゲオポリティク誌において刊行された記事の
    うち6本に1本がカール・ハウスホーファーによって
    執筆され,彼は同誌の最も卓越した著者であった.
    このことは,同誌においてアジア関連の記事が卓
    越したことの現れでもある(Spang 2013:174. Dostal
    2016: 53-64). 1938/39年までは,ヒトラーの対外政
    策の成功を根拠として,(当時のドイツの保守主義
    者とともに)カール・ハウスホーファーはナチを支
    持した.この好例はゲオポリティク誌にも見られる.
    「1936年3月29日の地政学の主張Stimme der Geopoli-
    tik zum 29. Marz 1936j (ZfGp 1936: 24?)および「1938
    年の地政学的収穫感謝祭! Geopolitischer Erntedank
    1938!j (ZfGp 1938: 781-782)を参照されたい.第二
    次世界大戦開始後,ハウスホーファーは,その論説
    「収穫Herbsten?j (ZfGp 1939: 741-743)において,英
    国政府を非難した.のちに彼は,「世界像解明の責
    務 Verpflichtung zum klaren Weltbildj (ZfGp 1943: 1-7)
    を寄稿して,ドイツ人大衆の戦意を高めた.
    6.1945年以降のゲオポリティク誌
    戦後に復刊したゲオポリティク誌は,ドイツの地
    政学的思考の傑出した代弁者としてのかつての地位
    を超えることは決してなかった.最近の研究によれ
    ば,西ドイツ時代のゲオポリティク誌は,1956年の
    編集体制の変化によって,二つの時期に区分され
    る.戦後最初の編集長はカール・ハインツ・プフェ
    ファー Karl Heinz Pfefferで,彼は熱心なナチ党員で
    あり,ベルリン大学海外研究学部の前学部長だっ
    た.1956年にロルフ・ヒンダーRolf Hinderが編集長
    を引き継ぎ,ゲオポリティク誌と『共同社会と政治
    学』Gemeinschaft und Politik誌を合併した.この最後
    の合併号は,ボンにあった地社会学•政治学研究所
    によって刊行された.プフェファーの受動的な方針
    とは異なり,ヒンターは積極的に自らの課題を押し
    進め,西ドイツにとって,政治的には中立的な「第
    三の道」の議論を展開した.冷戦下で,コンラート・
    カール・ハウスホーファーとドイツの地政学
    39
    アデナウアー首相による親西側,反共産主義,保守
    的政策の社会にあっては,ゲオポリティク誌の評判
    は高まるはずがなく,1968年にはついに廃刊となっ
    た.
    IV汎地域
  9. 「汎概念」vs•「汎地域」
    カール・E・ハウスホーファーがその著書『汎概
    念の地政学』Geopolitik der Pan-Ideenを1931年に刊行
    したとき,「地域」ではなく「概念」としたのは偶然の
    一致ではない.「汎地域」が明白な地理的特徴に基づ
    く地政学用語を示すのに対して,「汎概念」は幅広い
    意味を持ち,具体的な地理的基礎を欠くのがしばし
    ばである.その著書のまえがき(p.5)において,ハ
    ウスホーファーはほとんどの汎概念は単なる「空中
    楼閣LuftschlOsser」に過ぎないと明確に記している.
    ハウスホーファーが同書で述べる「汎概念」は,それ
    までにすでに存在していたものだ.したがって,ハ
    ウスホーファーがこの用語を創出したとする,幅広
    い見方は言い過ぎだろう(Parker 1998: 33,123).に
    もかかわらず,『汎概念の地政学』はこうした考えを
    要約し比較しようとした最初のものである.
  10. ドイツ地政学の転換点としての1931年
    あらゆる点で,本書のタイミングは重要だっ
    た.1928年5月の選挙で惨敗(2.6%)した後,ナチ党
    (NSDAP)の得票率は1930年9月の選挙では18.3%に
    達し,帝国議会Reichstagで第2党になった.この成
    功はドイツ地政学には悪影響を与えた.というのも,
    ゲオポリティク誌の発行者だったクルト・フォー
    ヴィンケルがより一層「国家社会主義者」へ,すなわ
    ち,人種主義者へと突き進んだのに対して,他の編
    集者たちがこれに反対し,エーリッヒ・オプストと
    オットー・マウルが,1931年に編集委員会を去った
    からである.1932年からは,ハウスホーファーが唯
    ーの編集者として発行を続けたという事実は,必ず
    しも彼がフォーヴィンケルの路線を支持していたこ
    とを意味するわけではない.実際,ハウスホーファー
    はナチ党の党員にはならなかったのだ.
  11. 土台としての人種vs•地理
    『汎概念の地政学』において,ハウスホーファーは
    人種に基づく「汎概念」を述べることは稀だった.「汎
    ゲルマン主義」や「汎スラブ主義」のような影響力の
    ある概念でさえも扱われることはなかった.それゆ
    え,彼の本は,1931/32年のドイツ地政学における
    人種主義的傾向に対しては間接的声明とみなされう
    る.こうして,同書がフォーヴィンケルではなく別
    の発行者から出版されたことは驚くにあたらない.
    概して,ハウスホーファーは,汎概念の将来性に関
    しては,むしろ懐疑的だった.彼はヨーロッパ中心
    の国際連盟を世界大の国際問題を解決するために即
    席に創られたものとみなしていたため,汎地域が将
    来の発展において国際連盟と個々の国家との間でー
    種の調停者になるかもしれないという希望を表明し
    ていた(Haushofer 1931:15, 83, 90).
    4.世界地図の区分
    ハウスホーファーは,異なる汎概念の多くが対立
    する事例として米国を示している.彼によれば,こ
    れら異なる汎概念は,汎アメリカ主義という大陸
    的概念と汎太平洋主義という海洋的概念とを同時
    に支えるものだった.度重なる彼の主張によれば,
    多くの汎概念は重なり合い,互いに矛盾している
    (Haushofer 1931: 8,84).したがって,米国を頂点と
    する汎アメリカ,ドイツとイタリアの支配下にある
    ユーラフリカ,日本の指導下にある汎アジア,ソビ
    エトの支配下にあるユーラシアといった,世界を三
    つないしは四つに区分する擁護者として,ハウス
    ホーファーが幅広く理解されたのは,少なくとも
    1930年代初期においては明らかに誤りであること
    を,こうした矛盾が示しているように思われる.彼
    の著書『汎概念の地政学』のどこにも,ハウスホー
    ファーがそうした世界の地域区分を熱心に主張した
    ことは見当たらない.
    彼の著書(Haushofer 1931:9)にある全ての地図の
    中で最も一般的なものは,世界を五つのブロックと
    どこにも区分されない「自由な」国々とに区分したも
    のである.しかし,そのキャプションには,その
    地図がリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー
    Richard Coudenhove-Kalergiによる汎ヨーロッパ連合
    概念——第二次世界大戦後に,今日のヨーロッパ連
    合の先駆けの一つとしてたびたび理解されてきた
    ——に基づくものだと書かれている.それにもかか
    わらず,1931年には,ハウスホーファーは,何百万
    人もの人々の民族自決に背き,潜在的に戦争の原
    因となるものとして,この概念を批判したのであ
    る(Haushofbr 1931: 10).その地図が示すのは,(1)
    40
    クリスティアン・W・シュパング
    汎ヨーロッパ(英国以外のヨーロッパの植民地を含
    む),(2)汎アメリカ(カナダを除く),(3)大英帝国,
    (4)ロシア/ソ連,(5)「東アジア」(中国,朝鮮,
    日本を含むもので,何らかの汎概念は明示されてい
    ない)である.これら五つのブロック以外に,トルコ,
    イラン,アフガニスタン,エチオピア,タイが独立
    諸国として示されている.
  12. ゲオポリティク誌と世界の区分
    ゲオポリティク誌がさまざまな用語を用いたとい
    うだけで,同誌のアウトラインが「汎ヨーロッパ,
    汎アメリカ,汎アジアという地球の三区分」という
    ハウスホーファーの考えを固めたという主張(〇’
    Loughlin 1994:193)も誤りである.同誌は,その論
    文を区別するのに「汎」という接頭語の付いた表現を
    決して用いなかった.実際,ゲオポリティク誌は,
    共同編集者であるエーリッヒ・オプスト,カール・
    ハウスホーファー,オットー・マウルによるレポー
    卜を, 元々は, 「旧世界地域」,「インド•太平洋世
    界」,「大西洋世界」という形で区分した.1925年には,
    オプストが自らの報告を(「旧世界」に替えて)「ヨー
    ロッパとアフリカ」に変更し,マウルの報告も「アメ
    リカの半球」に集約された.いくつかの変更がみら
    れたのち,1932年から1939年までの大半の報告は以
    下のように区分された.アルプレヒト・ハウスホー
    ファーによる「大西洋世界地域」と彼の父による「イ
    ンド・太平洋地域」とである.
  13. 大陸横断的ブロック
    ハウスホーファーが最も気に入っていた理論は,
    ドイツ,ロシア/ソ連,日本を束ねた,大陸横断的
    ブロックという概念で,世界を三つ,四つないしは
    五つのブロックへと区分するものとはいくぶん異な
    る.彼はこの考えを東アジアから戻った直後に初め
    て図式化しており,マッキンダーの理論とハウス
    ホーファーとの直接的な結びつきという想定は歴史
    家による産物のようだ.のちに,ハウスホーファー
    はマッキンダーのハートランド理論を知り,ロシ
    ァ・ドイツ関係の重要性という点で,自らの世界観
    とマッキンダーのそれとが重なることを理解したも
    のの,ベルリンとサンクト・ペテルブルクないしは
    後のモスクワとの協力(ハウスホーファー)か否か
    (マッキンダー)のいずれが望ましいのかという問題
    になると見解を異にした.
    もしハウスホーファーの心の中に,何らかの世界
    の大区分があったとすれば,一方には(フランスも
    含めた)アングロ・アメリカという「持つ」国々の線
    に沿ったものがあり,他方には,「持たざる」国々が
    あった.こうして,世界においてより大きな役割を
    願うドイツの主張を反西欧的脱植民地主義の主張と
    結びつけることを可能にしたのである.
    7.汎アジア主義
    1931年に,ハウスホーファーは,汎アジア主義を,
    モスクワを基礎とする概念,すなわち,アジアを統
    合して共産主義拡大の手段とする,共産主義体制の
    試みとして理解した.これは,汎アジア主義の特異
    な解釈として述べるべきである.というのも,彼は
    汎アジア主義を米国指導下の汎太平洋主義の主たる
    敵と見ていたからだ.ある意味では,ハウスホー
    ファーは,後の冷戦の対立を汎概念に基づいて予測
    していたことになる.ここに,アルフレッド・マハ
    ンとハルフォード・マッキンダーの対立,すなわち,
    ランドパワー(ソ連)とシーパワー(米国)の対立を
    見ることができる.彼は,1930年代前半までに両国
    が国際連盟に加盟しなかった理由の一つは,何らか
    の国際干渉を認めたがらないことにある,すなわち,
    両国の汎概念の対立が理由だとまで主張したのであ
    る(Haushofer 1931: 78).
    最近,汎アジア主義の歴史が多くの出版物で話
    題になっているが(Saaler-Koschmann 2007, Saaler-
    Szpilman 2011, Weber 2018),その多く は,19 世紀末
    ないしは20世紀初期にまで遡って,東アジア共同
    体に関する中国と日本との協力に焦点を当ててい
    る.この分野で積極的に活動しているスヴェン・
    サーラーSven Saalerは,2007年の著作『近代日本の
    歴史における汎アジア主義』Pan-Asianism in Modern
    Japanese Historyの序文(pp. 2-3)で,次のように述べ
    ている.
    「汎アジァイデオロギーは,「日本人の」アイデン
    ティティの創造過程と同様,近代日本の対外政策
    のどこにでもある諸力の一つであった.••・それは
    日本政府の「現実主義的な」対外政策に対するアン
    チテーゼとしてのイデオロギーへと進展した■••.
    初期の汎アジア主義の著作には,•••日本のアジア
    との共同性を強調するとともに,アジアの人々と
    国々を統一して西洋の進出から守ることを目的と
    していた.」
    この引用は二つのことを示している.第一に,汎
    概念がハウスホーファーの1931年の著書よりもはる
    カール・ハウスホーファーとドイツの地政学
    41
    かに古いという以前からの主張を支持するものだと
    いうこと•第二に,この引用が汎概念の別の側面を
    述べていることである.これらの大半は積極的なも
    ので,統合的な側面を有していた.その反面,消極
    的なものもあり,大半の汎概念は他者に向けられて
    いた.上に引用した事例のように,「他者」とは西洋
    の植民勢力である.それゆえ,19世紀および20世紀
    初期の汎アジア主義には二つの重要なルーツがあ
    る.一つは統一意識であり,二つ目は共通の敵に立
    ち向かう意識である.
    8.おわりに
    以上をまとめると,ハウスホーファーの汎概念の
    地政学とは,実はすでに何十年にもわたって構築さ
    れてきた考えの記述と評価に過ぎないことを繰り返
    さねばならない.このことは誤りを認めるのではな
    く,世界を揺るぎのない三つないしは四つに区分す
    るという提唱者としての,しばしば繰り返されてき
    たハウスホーファーの見方である.

    1) 本稿は,丸善出版から刊行予定の『現代地政学事典』のた
    めにシュパング氏が英語で執筆した,「カール・ハウス
    ホーファー」「ドイツの地政学」「ゲオポリティク誌」「汎
    地域」の4項目のオリジナル原稿を,高木が日本語に翻訳
    して一つにまとめたものである.
    訳者あとがき
    本稿は,クリスティアン・W・シュパングChris-
    tian Wilhelm Spang氏によって書かれた「カール・ハ
    ウスホーファー」「ドイツの地政学」「ゲオポリティ
    ク誌」「汎地域」の,4つの原稿を「カール・ハウスホー
    ファーとドイツの地政学」という表題としてまとめ
    たものである.これら4つの原稿は,もともと丸善
    出版から刊行予定の『現代地政学事典』の4つの項目
    のために英語で執筆されたものである.
    同事典の編集者である訳者(高木)が,シュパング
    氏によって書かれた英語のオリジナル原稿を,事典
    の項目のフォーマット(2頁ないしは4頁)に和訳する
    作業を行ったものの,オリジナル原稿のボリューム
    が大きく,事典の制限字数内にまとめようとすると,
    大幅な要約となってしまい,オリジナル原稿に書か
    れた貴重な内容が無駄になってしまうという懸念が
    生じた.そこで,訳者は,4原稿を「カール・ハウス
    ホーファーとドイツの地政学」という表題で一つの
    論文としてまとめ,その翻訳を本誌に掲載してみよ
    うと思い立った.シュパング氏と丸善出版にこの企
    画を打診したところ,いずれも快諾されたため,こ
    うして翻訳論文として掲載することができた.これ
    ら4項目はもともと別個の項目として執筆されたも
    のであるため,ひとつにまとめると,内容的な重な
    りが目立つし,論文構成も必ずしも統一のとれたも
    のにはなっていない.こうした不具合があるとはい
    え,オリジナル原稿が持つ貴重な内容を失うことな
    くこうして掲載できるメリットの方を訳者は優先し
    たしだいである.
    シュパング氏によれば,同氏は1968年ドイツ生ま
    れ,エアランゲン大学とフライブルク大学(この間
    ダブリン大学に1年間留学)で近現代史,中世史また
    は英語学をそれぞれ学んだ後,フライブルク大学の
    大学院に進み,1997年に「ナチスの日本像とその形
    成におけるカール・ハウスホーファーの役割」の研
    究で修上の学位を取得した.さらに,同大学院の博
    上課程に進学して「ハウスホーファーと日本」の研究
    により,2009年に博上の学位を取得した.この学位
    論文は,『ハウスホーファーと日本』(Karl Hausho
    fer und Japan. Die Rezeption seiner geopolitischen
    Theorien in der deutschen und japanischen Politik)
    として2013年に刊行された.この間,1998年に来
    日し,東京大学歴史学研究室に研究生として滞在し
    た後,2000年10月から2006年3月まで国際基督教大
    学アジア文化研究所の研究助手,2009年4月〜2012
    年3月には筑波大学外国語センター准教授,2012年4
    月〜2016年3月には大東文化大学准教授,2016年4月
    には教授に昇任し現在に至っている.
    なお,著者のシュパング氏による翻訳論文が故石
    井素介氏の翻訳により,本誌第6号(2001)に「カール・
    ハウスホーファーと日本の地政学」(pp. 2-21)とし
    て掲載されている.併せてお読みいただければ幸い
    である.
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中国の王毅が2月22日にモスクワを訪問、中露の強固な関係を示した

中国の王毅が2月22日にモスクワを訪問、中露の強固な関係を示した | 《櫻井ジャーナル》 – 楽天ブログ
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202302230001/

 ※ この地図は、秀逸だ…。

 ※ 北極から見ると、一目瞭然だな…。

『中国の外交部門で中心的な役割を果たしている王毅が2月22日にモスクワでウラジミル・プーチン大統領と会談、両国の連携強化を印象付けた。王毅は外交部長(外相)を経て中央外事工作委員会弁公室の主任に就任している。会談の中でプーチンは習近平国家主席のロシア訪問を期待していると伝えたという。

 2月21日にプーチン露大統領は連邦議会で年頭の演説を行い、その中で「新START条約(戦略兵器削減条約)」の履行を停止、アメリカやNATOによる核施設の査察を許可しないと宣言した。アメリカ/NATOが長距離兵器をウクライナへ供給すれば、それに合わせてロシア軍は攻め込むともしている。

 アメリカのバラク・オバマ政権は2014年2月22日、ウクライナのビクトル・ヤヌコビッチ政権をクーデターで倒した。クーデターの主力はネオ・ナチで、暴力的なものだったが、EUは話し合いでの解決を模索、そうした姿勢に怒ったビクトリア・ヌランド国務次官補はウクライナ駐在のアメリカ大使だったジェオフリー・パイアットとの電話による会談の中で「EUなんかくそくらえ」と口にしている。話し合いで解決したならヤヌコビッチを排除できないからだろう。ふたりの会話の音声は2月4日にインターネットで流されている。
 ヤヌコビッチの支持基盤だった東部や南部の住民はクーデターを拒否し、ドンバスでは内戦が始まるのだが、反クーデター軍はクーデター軍より強かったことからアメリカ/NATOはクーデター政権の軍事力強化に乗り出した。

 それに対し、プーチン政権は話し合いでの解決を試み、ドイツやフランスの仲介でミンスク合意を実現するが、これは時間稼ぎが目的だったと昨年12月7日に​アンゲラ・メルケル元独首相​が語っている。その直後に​フランソワ・オランド元仏大統領​はメルケルの発言を事実だと認めている。

 その前にロシア政府はアメリカやEUと話し合いで問題を解決することが不可能だと悟り、昨年9月21日に部分的動員を発表した。軍事的に解決するしかないと腹を括ったわけだ。その決断を中国も支持、両国は経済だけでなく軍事的にも結びつきを強めていくのだろう。

 ネオコンが仕掛けたウクライナでの戦争はアメリカ/NATOの敗北で終わりそうで、中露の同盟強化は米英を中心とする帝国主義体制を崩壊させる可能性が高い。その沈みゆく帝国に日本の「エリート」はしがみついている。

TWITTER

最終更新日 2023.02.23 03:46:26 』

トルコにおける地政学の展開

トルコにおける地政学の展開
https://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/JapanBorderReview/no6/pdf/05.pdf

 ※ 例によって、テキストを抽出した。

 ※ 「抽出」は、キレイに出ないようなんで、「変換」という機能使ったものを、貼っておく…。

 ※ どうも、またまた、北大のスラブ文化研究所の発出情報のようだ…。

 ※ ここは、けっこう重要な視点だ…。

 ※ 今般の大地震も、シリア国境に近く、相当数のシリア難民が居住していた地域だった…、という話しだ…。

『『境界研究』No. 6(2016)pp.113-135
[研究ノート]
トルコにおける地政学の展開
——国家論と批判の狭間で——
今井宏平


はじめに
冷戦、湾岸危機、イラク戦争という、ここ70年の国際秩序の在り方を規定してきた現
象、もしくは事件において、トルコの地政学的位置は常に大国から重要視され、国内外
において論争の的となってきた。トルコは、冷戦期においてはソ連に対する「最前線国家
(frontier state)」と見なされ、湾岸危機とイラク戦争においては多国籍軍のイラク攻撃に際
し、トルコにある北大西洋条約機構(NATO: North Atlantic Treaty Organization)基地の使用が
争点の一つとなった。


このトルコの「地政学的重要性」はトルコのアカデミズムにも影響を与えた。冷戦期にお
いても陸軍士官学校や国家安全保障学校で地政学の講義が行われてきたが、特に2000年代
になってトルコの地政学をさまざまな角度から検証する研究が見られ始めた。近年、国際
関係論において、非西洋諸国が西洋で生まれた国際関係論をどのように受容したのか、独
自の切り口を提供したのか、理論的発展に貢献したのかを問う非西洋の国際関係論が世界
大で脚光を浴びている。トルコの研究者、もしくはトルコを事例に研究を行なっている研
究者は、比較的早い段階から非西洋起源の国際関係の創出に取り組んでおり(1)、その特徴
の一つが地政学の積極的な受容であった。とりわけ、彼らの問題関心は、多様な地理的側
面を有するトルコをどのような国家概念で分析するのか、そして、地理的位置と国家戦略
の関係を論じる、いわゆる古典的地政学に潜む偏りや矛盾を暴くことに主眼を置く批判地
政学による分析の二つに大別される。


本稿では、トルコのアカデミズムにおいて見られる地政学の積極的な受容が、トルコの
非西洋の国際関係論の重要な側面であることを受け入れるものの、その受容がいまだに発
展途上であることを前提に、まず、トルコの地政学的特徴を捉えようとする国家概念とし
て「絶縁体国家」、「リミナル国家」、「尖端国家」を取り上げ、その有効性と限界について検
証する。次いで、古典的地政学を構成する公式地政学と実践地政学に関する批判地政学の
⑴例えば、2004年から発刊されている『国際関係雑誌(Uluslararasi ili§kiler Dergisi)』において、たびたびトルコ
の国際関係論について議論されている。
DOI :10.14943/jbr.6.113
113
今井宏平

分析について再検討する。公式地政学とは、知識人や国家機関が標榜する特定の地理的世
界観であり、実践地政学とはそうした特定の地理的世界観に基づく外交の実践のことであ
る。そのうえで、トルコにおける国際関係論と地政学の関係の今後の可能性と課題につい
て言及したい。


1.トルコにおける非西洋の国際関係論


1.1非西洋の国際関係論の二つのアプローチ


2000年代に入り、国際関係論の西洋中心主義に疑問を呈する形で、非西洋の国際関係論
に注目が集まり始めた。その中心となったのが、2004年からアーリーン・ティックナー
(Arlene B. Tickner)、オーレ・ウェーヴァー (Ole W&ver)、デヴィッド・ブラネイ(David L.
Blaney)等によって始められた「地理文化的認識論と国際関係論(Geocultural Epistemologies
and International Relations) jというプロジェクトと三巻にわたるその成果である(2)。非西洋
の国際関係論を検討する作業は、大きく二つの段階的アプローチから成り立つ。第一のア
プローチは、非西洋諸国が西洋起源の国際関係論を受容する中で創出される独自の視点を
検討するものである。これに次ぐ第二のアプローチが、非西洋に属する地域•国家・社会
の中から創出または発見される自前(homegrown)の国際関係に関する思想や見方を検討す
るものである。


第一のアプローチは、言い換えれば、既存の国家単位で独自の国際関係論が存在するか
を問うもので、国際関係論において前提とされてきた西洋起源のウェストファリア体制に
懐疑的であるが、その前提を受け入れたうえで、西洋の諸国家とは異なる、非西洋の特殊
性に着目する。「地理文化的認識論と国際関係論」の最初の成果として2009年に刊行された
『世界各国の国際関係論』、二つ目の成果として2012年に刊行された『異なった国際関係を
考える』は、まさにウェストファリア体制を前提としたうえで非西洋国家の国際関係論を
検討するものであった。それに対し、三つ目の成果である『国際を求める』は、第二のアプ
図1 非西洋国際関係論へのアプローチ
出典:筆者作成
(2) Ole Waever and Arlene B. Tickner, eds., International Relations Scholarship Around the World (London: Routledge,
2009); Arlene B. Tickner and David L. Blaney, eds., Thinking International Relations Differently (London: Routledge,
2012); Arlene B. Tickner and David L. Blaney, eds., Claiming the International (London: Routledge, 2013). ノレー卜
リッジ社では、上記の三巻本を皮切りに、その後も「西洋を越えた世界化(Worlding beyond the West)jという
シリーズで非西洋の国際関係について論じた著作を刊行している。
114
トルコにおける地政学の展開
ローチに分類され、西洋起源の国際関係から脱し、西洋の国際関係論に代わる概念や視点
を提供することを荒削りながらも目指している。『国際を求める』に基づくと、第二のアプ
ローチは、さらに二つに峻別することが可能である。まず、ウェストフェアリア体制を含
む、既存の国際関係論の前提を批判し、その問題点をあぶり出す作業が必要となる。次い
で、非西洋世界の経験を取り入れた、西洋起源の既存の国際関係論に代わる考えや見方を
提示するアプローチが想定される(以上、図1参照)。


1.2トルコの国際関係論と地政学


「はじめに」でも触れたように、トルコの国際関係論に興味を持つ研究者たちは、国際関
係論におけるトルコの独自性の一つを地政学に求めた。この、トルコ研究者の地政学の積
極的な受容に関して、大きく二つの研究潮流が見られる。

一つ目の潮流は、トルコのよう
に地理的に多様な側面を持つ国家の「重要性」、「ユニークさ」、「例外性」、「困難さ」を分
析するための国家概念の発明である(3)。例えば、トルコとその外交を分析するために、地
理的に地域間の谷間に位置しているものの、地域間を結びつける作用は薄い「絶縁体国家
(insulator state) j (B ・ブザン/。 •ウェーヴァー)、地政学的な位置とアイデンティティが
必ずしも一致しない「リミナル国家(liminal state)」(B ・ルメリリ、L ・ヤヌク)、ある地域
の「端」に位置し、その地理的特性を国家行動に活かしている「尖端国家(cusp state)」(P ・ロ
ビンス、M•アルトウンウシュク)という国家概念が検討されてきた(4)。この潮流は、非西
洋の国際関係論の文脈で考えると、非西洋諸国が西洋起源の国際関係論を受容する中で創
出される独自の視点を検討する第一のアプローチに該当する。


二つ目の潮流は、地理とアイデンティティの関係やテキスト分析に基づく批判地政学
(critical geopolitics)の枠組みを取り入れ、トルコ外交に付与されている「言説」を暴こうとす
るものである。ここでの言説とは、「権力と権威とを言語の構成物に混合させたもの」のこ
とを指す(5)。批判地政学は、伝統的地政学(古典的地政学)を再考し、その偏りや政治課題
(3) Lerna Yanik, “The Metamorphosis of Metaphors of Vision: ‘Bridging’ Turke’s Location, Role and Identity After the
End of the Cold War,” Geopolitics 14, no. 3 (2009), p. 535.
(4) トルコの地政学的特徴を表現する概念として最も頻繁に用いられてきたのは「橋(bridge)」のメタファーで
ある。この表現は、トルコ外交に関する古典であるフェレンク・ヴァリ(Ferenc Vali)の『ボスポラスを横断
する橋』から使用され始め、1990年代のオザルの新興独立諸国に対する外交を指す言葉として用いられた。
しかし、「橋」はあくまでメタファーであり、分析概念ではないので、ここでは考察の対象から除く。「橋」
メタファーの視点からトルコを論じたものとして以下を参照。Yanik, “The Metamorphosis of Metaphors of
Vision”; Ference Vali, Bridge across the Bosporus: The Turkish of Foreign Policy of Turkey (Baltimore: The Johns
Hopkins Press, 1971); Ian Lesser “Bridge or Barrier? Turkey and the West After the Cold War,” in Graham E. Fuller
and Ian Lesser, eds., Turkey’s New Geopolitics: From the Balkans to Western China (Boulder: Westview Press, 1993);
Ian Lesser, “Beyond ‘Bridge or Barrier’: Turkey’s Evolving Security Relations with the West,” in Alan Makovsky
and Sabri Sayari, eds., Turkey’s New World: Changing Dynamics in Turkish Foreign Policy (Washington, D.C. : The
Washington Institute for Near East Policy, 2000), pp. 203-221.
(5) コーリン・フリント著、高木彰彦編訳『現代地政学:グローバル時代の新しいアプローチ』原書房、2014年、
115
今井宏平
を暴くことを目的とする(6)。

伝統的地政学とは、一般的に、地理的条件が外交政策に与え
る影響を考察する研究分野のことを指し、特に国家の戦略と結びついてきた(7)。伝統的地
政学には、白人、男性性、エリート、西洋的コンテクストとの知という四つの特権的立場
が所与として付随しており、19世紀後半の帝国主義の時代から現在に至るまで、対外政策
に影響を与えてきた(8)。よって、伝統的地政学は全くニュートラルな立場から地理的条件
を考慮するのではなく、ジェラルド・トール(Geroid O’Tuathail)が指摘するように、「ある
特定の地理的世界観によって情報処理される」ものであった(9)。ある特定の地理的世界観
とは、要するに地政学的ヴィジョンのことである。加えて、伝統的地政学は、大衆の支持
を得るために過度に単純化されたヴィジョンを提示することに努めてきた。


それでは、批判地政学はどのように伝統的地政学を再考しているのだろう^、。トールに
よると、批判地政学は伝統的地政学を公式地政学、実践地政学、大衆地政学、構造地政学
に区分して分析する(10)。「ある特定の地理的世界観によって情報処理される」ということを
念頭に置くと、公式地政学は、知識人や国家機関による特定の地理的世界観の構築、実践
地政学は特定の地理的世界観の外交における実践、大衆地政学は、マスメディアを通した
特定の地理的世界観の大衆への喧伝と理解の促進、構造的地政学は特定の地理的世界観に
基づく外交の実践を促進させたり制約させたりする国際システムの構造変化、にそれぞれ
焦点を当てた見方である。国際システムの構造変化として、トールは、グローバル化、情
報化、技術/科学リスクの三つを挙げている(11)。


トルコにおける批判地政学的分析の第一人者は、批判安全保障研究(critical security
studies)を提唱したケン・ブース(Ken Booth)の弟子、プナール・ビルギン(Pinar Bilgin)で
あった。ビルギンは2007年の「強い国家だけがトルコの地理的位置で生き残れる:トルコ
における『地政学的真実』の活用」(12)、2012年の「トルコの地政学的教義」(13)という論文で、
トルコにおいて地政学の概念が外交の形成にどのように利用されてきたのかをアイデンテ
イティとの関係を中心に論じている(14)。また、ムラト・イエシルタシュ(Murat Ye§ilta§)は
6頁。批判地政学と言説に関しては、例えば、Geraoid O’Tuathail and John Agnew, “Geopolitics and Discourse:
Practical geopolitical reasoning in American Foreign policy,” Political Geography 11(1992), pp.190-204.
(6) フリント、『現代地政学』、6頁。
(7) O’Tuathail and Agnew, “Geopolitics and Discourse,” p.191.
(8) フリント、『現代地政学』、5頁。
(9) ジェラルド・トール「批判地政学の理解のために:地政学とリスク社会」コリン・グレイ、ジェフリー・スロー
ン編、奥山真司訳『進化する地政学:陸、海、空、そして宇宙へ(戦略と地政学1)』五月書房,2009年、235頁。
(10) トール「批判地政学の理解のために」、235-237頁。
(11) トール「批判地政学の理解のために」、249-252頁。
(12) Pinar Bilgin, “Only Strong States Can Survive in Turkey’s Geography: The uses of ‘geopolitical truths’ in Turkey,”
Political Geography 26 (2007), pp. 740-756.
(13) Pinar Bilgin, “Turkey’s geopolitics dogma,” in Stefano Guzzini, ed., The Return of Geopolitics in Europe?: Social
Mechanisms and Foreign Policy Identity Crises (Cambridge: Cambridge University press, 2012), pp. 151-173.
(14) ビルギンはまた、国際政治において、地理的位置に基づき、自己と他者を明確に区別する認知地図とし
てジョン・アグニュー (John Agnew)が概念化した「文明的地政学(civilizational geopolitics)」を使用して、卜
116


トルコにおける地政学の展開
「トルコの外交政策における地政学的ヴィジョンの転換」という論文でトルコ共和国建国期
から2012年前後に至るまでのトルコ外交を、冷戦期、ポスト冷戦期(1990年代)、公正発
展党(15)政権期(2000年代)という三つに時期区分した上で、その地政学的ヴィジョンを検
証している(16)。地政学的ヴィジョンとは、ガートジャン・ディキンク(Gertjan Dijkink)に
よると、「自身の場所と他の場所の関係に関して、安心感(不安感)や強み(弱み)の意識を
引き起こし、(そして/または)外交戦略もしくは集団的使命に関するあらゆる考えを思い
起こさせる」ものである(17)。メリハ・アルトウンウシュク(Meliha Altuni§ik)も後述する「尖
端国家」という概念を用いて、トルコ外交を批判地政学の視点から検証している。2015年
2月には、ビルギンとイエシルタシュなどが中心となり、『トルコは世界のどこに位置す
るのか?』というトルコで初の批判地政学の論文集が刊行された(18)。この二つ目の潮流は、
非西洋の国際関係論の第二のアプローチの第一段階である、既存の国際関係論の批判に該
当する。

1.3地政学の受容の未完性
このように、トルコの研究者、もしくはトルコを素材として扱った研究者たちは地政学
をキーワードに、既存の国際関係論の再検討を模索してきた。しかし、二つの潮流を巡る
議論にはいまだに根本的な問題点が散見される。第一の潮流に関しては、そもそも「絶縁
体国家」、「リミナル国家」、「尖端国家」という国家概念は分析概念としてどれほどの有効
なのだろうか。国際政治は動的な現象によって成り立っており、一時的に有効であった分
析概念も時間と共にその有効性を失うことがある。第二の潮流に関しては、批判地政学
の視点がどこまで「批判的なのか」疑問の余地が残る。例えば、イエシルタシュの分析で
は、冷戦期とポスト冷戦期(90年代)の地政学的文化(geopolitical culture)が「防御的地政学
(defensive geopolitics)jだったのに対し、公正発展党政権期は「保守的・イスラーム主義的地
政学(conservative and Islamist geopolitics)」とされ、前者が静的な外交であったのに対し、後
者は動的な外交を可能にしたとして評価されている(19)。「防御的地政学」は、国際関係理論
の「防御的リアリズム」を念頭に置いており、現状維持と相対的な利得を重視するものであ
ルコ と EU を分析している。Pinar Bilgin, “A Return to ‘Civilizational Geopolitics’ in the Mediterranean?: Changing
Geopolitical Images of the European Union and TUrkey in the Post-Cold War Era,” Geopolitics 9, no. 2 (2004), pp. 269-291.
(15) 公正発展党は2002年11月から2015年6月まで単独与党の座を維持していた。2015年11月の再選挙以降、
再び単独与党の座についている(2016年1月現在)。
(16) Murat Ye§ilta§, “The Transformation of the Geopolitical Vision in Turkish Foreign Policy,” Turkish Studies 14, no. 4
(2013), pp. 661-687.
(17) Gertjan Dijkink, National Identity and Geopolitical Vision: Maps of Pride and Pain (New York: Routledge, 1996), p.
11.訳出するに当たり、フリント『現代地政学』、143頁も参考にした。
(18) Pinar Bilgin, Murat Ye§ilta§,ve Sezgi Durgun, der., Turkiye Dunyanin Neresinde?: Hayali Co忘rafyalar ve Qarpi§an
Anlatilar (Istanbul: Ko¢ Universitesi yayinlari, 2015).
(19) Ye§ilta§ “The Transformation of the Geopolitical Vision,” pp. 668-679.
117
今井宏平
った。

一方、「保守的•イスラーム主義的地政学」は、公正発展党のアイデンティティが地
政学的ヴィジョンにも反映されていることを指摘している。しかし、「防御的」という国際
政治の戦略と「保守的・イスラーム主義的」という国内アイデンティティを並列に用いるこ
とには疑問がある。また、イエシルタシュの分析は、批判よりも現存する国際システムを
受け入れ,それを擁護・助長する「問題解決の理論」を提供しているに過ぎない(20)。トー
ルの「批判地政学は世界政治の複雑さというものを再認識し、古典地政学に隠されていて、
地政学関連の知識を特徴づけている『権力との関係』を暴こうとするものだ」という定義に
沿うと、イエシルタシュの分析は批判地政学のそれとは言えない(21)。


2.トルコをめぐる国家概念の有効性と限界


2.1現代トルコの地政学的特徴


本節では、トルコの地政学的特徴を捉えるために近年創出された国家概念について考察
する。まず、今日のトルコの地政学的特徴を確認しておこう。第一に、トルコは、中東、
南コーカサス、東欧、バルカン半島という多様な地域に陸続きで隣接している点が指摘で
きる。第二に、黒海、東地中海、マルマラ海に接し、近隣のカスピ海、中東の湾岸にも影
響力を行使できる点が挙げられる。黒海と東地中海を結ぶボスフォラス海峡とダーダネル
黒海
ブルガリア
キプロス
。 市町村
—河川
トルコとその周辺国
出典:編集部作成
(20) Robert Cox, “Social forces, states and world orders: beyond international relations theory,” Millennium: Journal of
International Studies 10 (1981),pp.128-29.
(21)トール「批判地政学の理解のために」、232頁。
118

トルコにおける地政学の展開
ス海峡の存在は特に重要である。

第三に、潜在的なものも含め、中央アジア、南コーカサ
ス、北イラクの石油・天然ガスの輸送ルートとして欠かせない点である。特にロシアを経
由せずに、中央アジアや南コーカサスとヨーロッパを結べる点は、ヨーロッパ諸国にとつ
て魅力である。第四に、イラク、シリアの上流に位置し、チグリス川とユーフラテス川の
水資源をコントロールできる点が挙げられる。第五に、アダナ県のインジルリク基地をは
じめとしたNATO空軍基地を保有している点である。第六に、冷戦時代はソ連、冷戦後は
イラクやシリアといった、アメリカを中心とした有志連合が最も脅威を抱く国々と接して
いるという点である。


トルコの地政学的重要性は、トルコ国内だけでなく、アメリカのシンクタンクの研究者
などにも十分認識されてきた。そのため、「トルコは地理的に重要」という言説は、トルコ
の政策決定者やメディアだけでなく、各国からも賛同を得る形で間主観的にその正当性を
高めてきた。


2.2「絶縁体国家」


バリー・ブザン(Barry Buzan)とウェーヴァーは2003年に出版した『地域とパワー』におい
て、トルコをアフガニスタン、ミャンマーと共に「絶縁体国家」と定義している。『地域と
パワー』は、グローバルな観点から地域別の安全保障共同体(22)の関係について論じた著作
であり、その中で「絶縁体国家」は「地理的に地域間の谷間に位置しているものの、安全保
障分野において地域間を結びつける作用は薄い」と定義されている(23)。伝統的に「絶縁体国
家」は相対的に「受け身」であるとされ、ヨーロッパ・中東・旧ソ連圏・バルカン半島と接
するトルコも建国から冷戦期に至るまでは戦争に巻き込まれないことを目的とした受け身
の外交を展開したと説明される(24)。冷戦後の時期において、トルコは依然として各地域間
を結び付ける役割は薄いものの、各地域に積極的な外交を展開している点で、通常の「絶
縁体国家」の概念とは一線を画しているとブザンとウェーヴァーは結論付けている(25)。
ブザンとウェーヴァーの著作が刊行されてから10年以上経った現在、トルコは安全保
障分野でヨーロッパと中東を結び付ける役割を意図的にも非意図的にも果たすようになっ
ている。例えば、シリア危機に際して、NATO諸国の中では唯一中東の国家にも分類され
(22) 安全保障共同体とは、カール・ドイッチュの定義に従うと、「ある領域において、共同体意識、(統治)機構、
力強い実行力、人々の間で長期に渡る平和的変革への期待感が十分に浸透すること、という四点を実現す
ることによって統合を達成した人々の集団」とされる。Karl Deutsch et al, Political Community and the North
Atlantic Area: International Organization in the Light of Historical Experience (Princeton: Princeton University Press,
1957), p. 5.
(23) Barry Buzan and Ole W^ver, Regions and Powers: The Structure of International Security (Cambridge: Cambridge
University Press, 2003), p. 41.
(24) Buzan and W^ver, Regions and Powers, pp. 391-393.
(25) Buzan and W^ver, Regions and Powers, pp. 394-395.
119
今井宏平
るトルコは、アサド政権からの攻撃を防止するためにパトリオット・ミサイルの配備を
NATOに要請した。その結果、2013年1月から2月にかけてアメリカ、ドイツ、オランダ
(2015年1月からはスペイン)がシリア国境のガジアンテプ県、カフラマンマラシュ県、ア
ダナ県にパトリオット・ミサイルを配備した。また、2014年以降、「イスラーム国」の支配
地域へ渡航する外国人が後を絶たないが、とりわけヨーロッパからシリアへの渡航に際し
ては、トルコが主要な経由地となっている。このように、「アラブの春」以降の中東の不安
定化に際して、トルコはヨーロッパと中東の安全保障問題の結節点となりつつある。よっ
て、「絶縁体国家」という概念は、トルコ外交を分析する国家概念としては有効ではなくな
っている。


2.3「リミナル国家」


「絶縁体国家」の概念が安全保障におけるトルコの位置を考慮していたのに対し、バハー
ル・ルメリリ(Bahar Rumelili)とレーナ・ヤヌク(Lerna Yanik)は、文化人類学者のヴィクタ
ー・ターナー (Victor Turner)の「リミナリティ(liminality)」概念を援用し、多様な地域に隣接
するトルコを地政学的な場所とアイデンティティが曖昧な「リミナル国家(liminal state)」と
定義した例。ターナーは、リミナリティを必ずしも明確に定義しているわけではないが、
安定と安定の境目に生じる不安定性と見なしている26 (27) 28 29。ヤヌクによると、トルコ以外には
オーストラリア、エストニアなどが「リミナル国家」に該当するとされる例。例えば、オー
ストラリアは、地政学的な場所はオセアニア、もしくはアジア・太平洋に位置するにもか
かわらず、そのアイデンティティはイギリスの植民地の経験や英連邦の一つであることか
らヨーロッパであり、地理的な場所とアイデンティティに矛盾を抱えている。オーストラ
リアを「リミナル国家」の枠組みから分析した大庭三枝は、「リミナル国家」の特徴を、「あ
るーつの地域もしくは複数の地域の周縁に位置する国家が抱えるアイデンティティの不安
定性」に求めている㈣。地政学的位置とアイデンティティの葛藤を特徴とする「リミナル
国家」の認識は、当該国家とその他の関係国、また、当該国家の政策決定者の中でも異な
るため、間主観性が重視され、主要な政治家の自国に対する発言などが分析の対象とされ
(26) Lerna Yanik, “Constructing TUrkish ‘exceptionalism’: Discourses of liminality and hybridity in post-Cold War Turkish
foreign policy,” Political Geography 30 (2011),p. 82; Bahar Rumelili, “Liminal identities and processes of domestication
and subversion in International Relations,” Review of International Studies 38, no. 2 (2012), pp. 495-508.このリミナリ
ティ概念を最初に国際関係論に適用したのは、リチャード・ヒゴット(Richard Higgot)とキム・リチャード・
ノサル(Kim Richard Nosal)で、事例とされたのはオーストラリアであった。Richard Higgot and Kim Richard
Nossal, “The International Politics of Liminality: Relocating Australia in the Asia-Pacific,” Australian Journal of Political
Science 32, no. 2 (1997), pp. 169-185.また、liminalityは「境界」と訳される場合が多いが、本稿ではborderとの
混同を避けるため、liminalityを「リミナリティ」、liminal stateを「リミナル国家」とする。
(27) ヴィクター・ターナー著、梶原景昭訳『象徴と社会』紀伊國屋書店、1981年、40頁。
(28) Yanik, “Constructing Turkish ‘exceptionalism’.”
(29) 大庭三枝『アジア太平洋地域形成への道程:リミナル国家日豪のアイデンティティ模索と地域主義』ミネル
ヴァ書房、2004年、38頁。
120
トルコにおける地政学の展開
る。

そのため、「リミナル国家」概念による分析は国際関係論のコンストラクティヴィズム
のアプローチに位置づけられる。コンストラクティヴィズムにもさまざまな潮流がある
が、大矢根聡が指摘しているように、①国際政治上のアクター(コンストラクティヴィス
卜の文脈ではエージェンシー)間の社会的相互作用とそれによって生じる社会的構成とい
う現象を分析対象とする、②国際政治上でアクターと構造は一方的な関係でなく、相互作
用の関係にある、③アイディアやアイデンティティといった観念的要素を分析の中心とす
るという点が全ての潮流に通底する前提である(30)。また、基本的に「リミナル国家」はアイ
デンティティが曖昧な状況から脱却を図ることが念頭に置かれている。大庭は、「リミナ
ル国家」がアイデンティティの葛藤を克服するために採る戦略を、①既存の地域(集団)に
取り込まれるための適応努力をする、②二つの地域(集団)の懸け橋として行動する、③新
たな地域(集団)の枠組みを設定し、その中心的な役割を担うという三つに分類している(31)。
③の戦略は、既存の地域において、冷戦体制の崩壊や9 -11のような何らかの国際レベル
もしくは当該地域での大変動があり、地域認識が変化する場合に志向されることが多い。
トルコは大庭が指摘する①から③の戦略を全て実行している。

①に関しては、2005年12
月以降、欧州連合(EU: European Union)加盟交渉国としてEU加盟交渉を継続している。


に関しては、2002年初頭に9 -11アメリカ同時多発テロで関係が悪化した西洋諸国とイス
ラーム世界に属する諸国家の和解を目指して、当時のイスマイル・ジェム(Ismail Cem)外
相が主導する形で「イスラーム諸国会議機構(OIC: Organization of Islamic Cooperation) — EU
共同フォーラム」が開催された。さらにトルコは2005年に設立された国連機関である「文明
間の同盟(Alliance of Civilizations)jにおいて共同議長に就任し、西洋世界とイスラーム世界
の「文明間の衝突」を防ぐために積極的な活動を展開している(32)。

③に関しては、トウルグ
ット・オザル(Turgut Ozal)をはじめ、冷戦体制崩壊後に黒海を取り巻く地域を顕在化する
ための黒海経済協力機構(BSEC: Organization of the Black Sea Economic Cooperation)の立ち
上げや、アフメト・ダーヴトオール(Ahmet Davutoglu)がトルコを地域の「中心国」と位置付
けて外交を展開していることが該当するだろう。


しかし、「リミナル国家」の概念もトルコを分析する道具として適切かどうかは疑問が残
る。なぜなら、根本的にリミナル国家の概念は、アイデンティティが曖昧なことをネガテ
イブに捉えているのに対し、トルコはむしろ曖昧なアイデンティティを多面的な外交につ
なげている。例えば、EU加盟交渉もヨーロッパへの適応努力という側面と、トルコ国内
(30) 大矢根聡「コンストラクティヴィズムの視角:アイディアと国際規範の次元」大矢根聡編『コンストラクティヴィ
ズムの国際関係論』有斐閣,2013年、4-5頁。国際関係論におけるコンストラクティヴィズムの詳細に関しては、
同書に加えて、差しあたり以下を参照。宮岡勲「コンストラクティヴィズム:実証研究の方法論的課題」田中
明彦、中西寛、飯田敬輔編『学としての国際政治(日本の国際政治学1)』有斐閣、2009年、77-92頁。
(31) 大庭『アジア太平洋地域形成への道程』、40-41頁。
(32) トルコ外交における文明概念に関しては、例えば、今井宏平「国際関係論における『文明』概念の理念と実
践:トルコ外交を事例として」『中央大学社会科学研究所年報』15号、2011年、47-63頁を参照のこと。
121
今井宏平
と国際社会において、トルコが民主化を促進させていることの根拠とするという側面があ
り、必ずしもアイデンティティの問題だけに収斂されない。3)。また、トルコはEUだけで
なく、2013年4月に上海協力機構の対話パートナーになるなど、一つのアイデンティティ
を確立することに固執していない。トルコは曖昧なアイデンティティを逆手にとって、外
交の窓口や手段を広げている。


2.4「尖端国家」


リミナル国家とは逆に、尖端国家の概念には積極的でポジティヴな意味が付与されてい
る。フィリップ・ロビンス(Philip Robins)が中心となり、ある地域の「端」に位置する「尖端
国家」を概念化し、該当する国家を分析するプロジェクトが2005年から進められ、2013年
にその成果が『国際関係における尖端国家のエージェンシー・位置付け・役割』として出版
された33 (34)。ロビンスによると、「尖端国家」の対象となるのは、主権国家の中で超大国でも
小国でもなく、国際政治上一定の重要性を持つ、また、特定の地域に限定しておらず、複
数地域に所属している国家である(35)。その上でロビンスは、「尖端国家」の分析で重要な
点として、①地理的位置、②歴史的経験と「尖端国家」としての行動様式の繰り返し、③内
政と外交における「尖端国家」としてのアイデンティティ構築、④国家もしくは国家機関が
「尖端国家」としての視点を重視する点を指摘している(36)。とりわけロビンスは特定の行動
様式が「尖端国家」を「尖端国家」足らしめていると強調している。通常、ある地域の端に位
置する「尖端国家」は否定的な文脈から理解されてきたが、ロビンスは「尖端国家」は、地域
間のリンケージ、仲介、ソフトパワーの行使、多国間主義において積極的な役割を果たす
アクターと見なしている(37)。要するに、「尖端国家」は地域の端という地理的特性を活かし
たその行動様式によって成り立つ。トルコ以外に「尖端国家」としては、ウクライナ、イラ
ン、イスラエル、ブラジル、メキシコ、日本、台湾が事例として選択されている。
また、アルトウンウシュクは「尖端国家」と「絶縁体国家」は異なるものであるとし、「尖
端国家」は主体に焦点が置かれ、複数地域の関係連結に貢献するという肯定的な概念であ
るのに対し、「絶縁体国家」は構造に焦点が置かれ、複数地域間の断絶を強調するという否
定的な概念であると指摘している(38)。また、「尖端国家」と「リミナル国家」の概念はいずれ
(33) トルコの民主化とEU加盟の関係に関しては、例えば、今井宏平「西洋とのつながりは民主化を保障する
のか:トルコのEU加盟交渉を事例として」『国際政治』182号、2015年11月、44-57頁を参照のこと。
(34) Marc Herzog and Philip Robins, eds., The Role, Position and Agency of Cusp States in International Relations (New
York: Routledge, 2014).
(35) Philip Robins, “Introduction: ‘Cusp States’ in international relations: in praise of anomalies against the ‘milieu’,” in
Herzog and Robins, eds., The Role, Position and Agency of Cusp States, pp. 2-3.
(36) Robins, “Introduction,” pp. 6-7.
(37) Robins, “Introduction,” pp. 15-17.
(38) Meliha Benli Altuni§ik, “Geopolitical Representation of Turkey’s Cuspness: Discourse and Practice”, in Herzog and
Robins, eds., The Role, Position and Agency of Cusp States, p. 28.
122
トルコにおける地政学の展開
も所与の属性に基づくものではなく、時代によってそのアイデンティティが再構築される
という視点は共通するものの、「リミナル国家」はあくまで、国際政治上の「隙間」、言い換
えれば当該国家と隣接地域とのアイデンティティの相違を考察対象とするのに対し、「尖
端国家」は当該国家の外交アイデンティティの変化を考察対象とするとアルトウンウシュ
クは述べている(39)。トルコの場合、歴史的にヨーロッパ、アジア、中東の国家という地政
学的な曖昧性と、サミュエル•ハンチントン(Samuel Huntington)が「イスラームに根ざした
生活習慣、制度をもった社会を、エリートの支配階級が確固たる決意で近代化•西洋化し、
西洋と一体化させようとした」国家として「引き裂かれた国家(torn state)」(40)と呼んだ国内
でのアイデンティティの葛藤の両方がいかに外交アイデンティティの形成に影響を与える
かが焦点となる。アルトウンウシュクは、とりわけ公正発展党が「尖端国家」として展開し
た行動様式、具体的には、民主化の成功国としてのモデルの提示、「文明間の同盟」におけ
る活動、仲介政策、エネルギー通路としての役割を評価している(41)。


「尖端国家」の概念は、アルトウンウシュクが強調しているように、特殊な地理的位置が
国内の外交アイデンティティ形成にどのような影響を及ぼすか、その行動様式に焦点を当
てる。そのため、枠組みとしての汎用性はかなり広く、今後、この枠組みを用いた研究が
増えることが予想される。しかし、この概念にも問題が内包されている。それは、『国際
関係における尖端国家のエージェンシー ・位置付け•役割』における「尖端国家」の概念が、
基本的に地理的位置に基づく隣国または隣接地域との連結が当該国家の利益になるという
ことを前提としているという点である。隣国または隣接地域との連結は必ずしも利益にな
るだけではない。トルコに関して、ヨーロッパからの外国人戦闘員の流入は、「尖端国家」
であることが他地域からのテロリストたちにゲートおよび通行路として使用されてしまう
現実を提供している。公正発展党政権期にトルコはヴィザ・フリー政策に代表されるよう
に他地域との連結性を強めたことが、かえって外国人戦闘員を招く結果になるという皮肉
な結果を生んでいる。


表1 トルコをめぐる国家概念の整理
形態/項目 分析対象 地理的認識 理論的背景
絶縁体国家 安全保障 受身 安全保障共同体
リミナル国家 アイデンティティ 不安定 コンストラクティヴィズム
尖端国家 実践的な行動 肯定的 コンストラクティヴィズム、批判地政学
出典:筆者作成
(39) Ibid.
(40) サミュエル・ハンチントン著、鈴木主税訳『文明の衝突』集英社、1998年、104頁。
(41) Altuni§ik, “Geopolitical Representation of Turkish Cuspness,” pp. 36-39.
123
今井宏平


3•公式地政学に関する批判的検証


3.1冷戦期に関する知識人検証の妥当性
トルコを批判地政学の視点から分析したビルギン、イエシルタシュ、アルトウンウシュ
クの論考に共通しているのは、彼らが主に公式地政学と実践地政学に焦点を当てて分析し
ているという点である。ビルギンは、冷戦期における軍部とポスト冷戦期における文民政
治家に焦点を当てている。ビルギンによると、トルコ共和国の建国とその維持の責任を組
織的に共有していた軍部は、対外的には冷戦期の最大の脅威であるソ連に対抗できる安全
保障を確保するために、対内的には軍部の行動、特に、軍事クーデタを正当化するために
地政学を利用した(42)。陸軍士官学校や国家安全保障学校では、1960年代後半からスアット・
イルハン(Suat ilhan)が中心となり、地政学が正規の講義科目として設立された(43)。軍部は、
一貫してムスタファ・ケマル(Mustafa Kemal)がトルコ共和国建国後の1931年に示した「国
内平和・世界平和(Yurtta Sulh, Cihanda Sulh)」の原則、言い換えれば、受身の現状維持政策
と西洋化政策を推進した。ここでの「世界平和」というのは、「世界平和に貢献すること」で
はなく、「世界で平和裏に生存する」という意味であった(44)。
ポスト冷戦期においては、オザルやダーヴトオールが新たな地政学的状況を積極的に外
交政策に反映させたこともビルギンは指摘している。イエシルタシュは、冷戦期において
は外務省官僚、ポスト冷戦期においてはビルギン同様、ダーヴトオールに注目した。アル
トウンウシュクもダーヴトオールを主な考察の対象としている。
しかし、彼らの公式地政学の手法に関して、次のような疑問が残る。それは、建国期か
ら冷戦期に至るまでの知識人の検証が手薄な点である。特にイエシルタシュの研究では、
冷戦期における知識人として、数人の外務官僚の回顧録などを使用しているが、分析対象
としては質、量ともに圧倒的に不足している。一方、ビルギンはイルハンという陸軍士官
学校や国家安全保障学校で教官を務めた人物に焦点を当てており、イエシルタシュのよう
な不足感はない。しかし、本当にイルハンの言説が公式地政学として分析できるほどのイ
ンパクトを持っているのかは疑問である。建国期から冷戦期に至るまで、軍部は内政では
絶大な影響力を有していたものの、外交においてはその影響力がどれほど浸透していたの
かは検討の余地がある。アルトウンウシュクは、冷戦期の知識人に関してはほとんど触れ
ていない。いずれにせよ、まず外交の分析に欠かせないのは外務省である。トルコは外交
文書が非公開であり、確かに資料面での制約は存在する。しかし、外務大臣の演説や発言
は過去の新聞などから断片的に入手可能である。また、1964年から1973年の間に外務省
(42) Bilgin, “Only Strong States Can Survive in Turkey’s Geography”(前注12参照),pp. 742-746.
(43) Bilgin, “Turkey’s geopolitics dogma” (前注13参照),pp. 160-161.イルハンの貢献に関しては、Bilgin, “Only
Strong States Can Survive in Turkey’s Geography,” pp. 740-756.
(44) Mesut Ozcan and Ali Resul Usul, “Understanding the New Turkish Foreign Policy: Changes within Continuity: Is
Turkey Departing from the West?” Uluslararasi Hukuk ve Politika Cilt 6, Sayi 21(2010), p.110.
124
トルコにおける地政学の展開
から『外交紀要(Di海leri Belleteni)』が刊行されており、こうした資料を分析対象とすること
ができたはずである。


3.2ポスト冷戦期における「新オスマン主義」分析の不在
冷戦体制の崩壊、特にソ連崩壊によって中央アジア、南コーカサス、バルカン半島に新
興独立諸国が登場したことは、トルコの知識人、政策決定者とその地政学的ヴィジョン
を刺激した。中央アジアと南コーカサスのアゼルバイジャン、ジョージァ(グルジア)に
はトルコ系民族が居住しており、バルカン半島はオスマン帝国の領土であった。そのた
め、オザルは、これらの地域との民族的(「共通のトルコ性」)、歴史的(旧オスマン帝国領)
関係を軸にトルコの地域的な影響力を拡大しようと考え、その際に「新オスマン主義(Neo-
Osmanlilik)」という概念を使用した。オザルと著名なジャーナリストであるジェンギズ・チ
ヤンダル(Cengiz ¢andar)をはじめとしたそのブレーンたちが目指したのは、オスマン帝国
の領土を再度物理的に支配するということではなく(45)、オスマン帝国の「イメージ」を梃子
に、新興独立諸国に一定の影響力を行使する、新たな地政学的ヴィジョンの構築であっ
た(46)。さらにこの動きは、トルコ国内に留まらず、例えば、アメリカのランド研究所の研
究員が中心となり出版された『トルコの新しい地政学(Turkey’s New Geopolitics)』(47)に見ら
れるように、国際的な広がりも見せたことで強化された。また、とりわけ1992年4月から
95年11月までのボスニア紛争に際して、トルコ政府はムスリム系住民(ボスニア人)の保
護をオスマン帝国の後継国家としての「義務」と捉えていた(48)。オザルは、ソ連の消滅とい
う地政学的変化から、オスマン帝国に対するノスタルジーを強めた。チャンダルとランド
研究所のグラハム・フラー(Graham Fuller)は、ケマル以来の既存の国境の維持を重視した
時代を「古いトルコ(old Turkey)」と皮肉を込めて表現している(49)。ただし、トルコの「新才
スマン主義」の試みは、オザルに多くを負っていたため、1993年4月にオザルが急逝する
と、その影響力は大きく低下した(50)。
(45) Graham Fuller, “Turkey’s New Eastern Orientation,” in Graham E. Fuller and Ian Lesser, eds., Turkey’s New
Geopolitics: From the Balkans to Western China (Boulder: Westview Press, 1993), pp. 47-48.
(46) オザルのブレーンたちの「新オスマン主義」の言説に関しては、例えば、今井宏平『中東秩序をめぐる現代
トルコ外交』ミネルヴァ書房、2015年、176-179頁を参照。
(47) Fuller and Lesser, eds., Turkey’s New Geopolitics.
(48) Meliha Altuni§ik, “Worldviews and Turkish foreign policy in the Middle East,” New Perspectives on Turkey, no.
40 (2009), p.178.ボスニア紛争の詳細に関しては、例えば、月村太郎『ユーゴ内戦:政治リーダーと民族
主義』東京大学出版会、2006年;佐原徹哉『ボスニア内戦:グローバリゼーションとカオスの民族化』有志
舎、2008年を参照。トルコのボスニア紛争への関与を「新オスマン主義」の視点から分析した研究として、
Mustafa Turke§, “Turkish Foreign Policy towards the Balkans: Quest for Enduring Stability and Security,” in Idris Bal,
ed., Turkish Foreign Policy in Post Cold War Era (Florida: Brown Walker Press, 2004), pp. 197-209.
(49) Cengiz Candar and Graham Fuller, “Grand Geopolitics for a New Turkey,” Mediterranean Quarterly 12, no.1(2001),
p. 22.
(50) ilhan Uzgel ve Volkan Yarami§, “Ozal’dan Davutoglu’na TUrkiye’ de Yeni Osmanlici Arayi§lar,” Dogudan (mart-nisan
2010), pp. 38-40.
125
今井宏平

冷戦体制の崩壊という物理的な地理的変動は、トルコの実践地政学を動揺させるととも
に「新オスマン主義」という新たな公式地政学を登場させることになった。しかし、ビルギ
ン、イエシルタシュ、アルトウンウシュクはともに90年代初期の明確な地政学的な変容に
触れているものの、「新オスマン主義」には焦点を当てていない。明確な地政学的変化が起
こり、新たな地政学的ヴィジョンが登場したにもかかわらず、相対的にこの時期を軽視し
ている点は理解に苦しむ。


3.3ダーヴトオールに関する「問題解決理論」的分析


批判地政学の観点からトルコ外交を分析したイエシルタシュとアルトウンウシュクは、
多くの頁をダーヴトオールの分析に割いている。ダーヴトオールは1990年代から論壇や
テレビで活躍していたが、何といっても2001年に執筆した『戦略の深層(Stratejik Derinlik)』
が注目された(51)。同書において、ダーヴトオールはハルフォード・マッキンダー (Halford
Mackinder)、アルフレッド・セイヤー・マハン(Alfred Thayer Mahan)、ニコラス・スパイク
マン(Nicholas Spykman)といった伝統的な地政学的知見に基づき、トルコが周辺地域にど
のように外交政策を展開すべきかを説いた。同書はトルコにおいて40版を越える大ベスト
セラーとなり、伝統的な地政学の知見を一般市民に深く浸透させた。この著書が注目され
たもう一つの理由は、ダーヴトオールが2003年1月に首相の外交アドヴァイザー、その後
2009年からは外務大臣として、『戦略の深層』に基づく外交を実際に展開したためである(52)。
批判地政学の用語で説明すると、ダーヴトオールはアメリカにおけるヘンリー・キッシン
ジャー (Henry Kissinger)やズビグニュー・ブレジンスキー (Zbigniew Brzezinski)のように、
公式地政学と実践地政学を架橋する人物であった。
『戦略の深層』執筆以降、ダーヴトオールがトルコの優位性を説明する際の中心概念とし
たのが、歴史的責任(歴史的深層)と地政学(地理的深層)である。ダーヴトオールによる
と、歴史的責任は歴史的な出来事の中心地に位置する国家(center state)の特徴とされ、卜
ルコもその特徴を有している(53)。具体的にダーヴトオールは、「トルコは歴史的事実とし
てオスマン帝国の後継国家であり、オスマン帝国が統治していた地域と密接な関係を取り
結ぶ素地がある。歴史的責任はポスト冷戦期において地理的連続性が復活したことと、90
年代のバルカン半島における危機によって高揚した」と述べている(54)。また、地政学は歴
(51) Ahmet Davutoglu, StratejikDerinlik (Istanbul: Kure yayinlari, 2001).
(52) ダーヴトオールは、2003年1月18日に当時のアブドウツラー ・ギュル(Abdullah Gul)首相の外交アドヴァ
イザーに就任した。そして、2009年4月まで同職を務めた後、同年5月1日に外務大臣に就任、2014年8月
以降は首相を務めている(2015年12月11日現在)。
(53) トルコ以外にこの特徴を有している国家は、イギリス、ロシア、オーストリア・ハンガリー帝国、フラン
ス、ドイツ、中国、日本とされる。
(54) Ahmet Davutoglu, “Turkish Vision of Regional and Global Order: Theoretical Background and Practical
Implementation,” Political Reflection (June-July-August, 2010), p. 41.
126
トルコにおける地政学の展開
史的深層の構成要素の一つであり、特にトルコはアジアとヨーロッパという二つの地域的
側面を同時に有しているだけでなく、「中東地域、南コーカサス地域、バルカン地域とい
う陸地(近接地域)、黒海、東地中海、カスピ海、中東の湾岸という海洋地域、ヨーロッ
パ、北アフリカ、南アジア、中央アジア、東アジアという大陸(周辺地域)に影響力を行使
できる国家である」と強調している(55)。さらにダーヴトオールは、地政学に関して、「例
えばトルコとシリアの国境は植民地秩序の時代に引かれ、冷戦秩序期に固定化したものだ
が、この国境は不自然なものであり、民族的•文化的な意味を持たない。こうしたことは
ディヤルバクルとイラクのモースル、トラブゾンとジョージアのバトウーミ、エディルネ
とギリシャのサロニカの間でも見られる」とし、西洋の植民地主義政策によって創られた
国境ではなく、民族的•文化的な国境こそが重要であると主張している(56)。


ダーヴトオールは歴史的な責任を重視しているが、オザルとそのブレーン達が注目し
た「新オスマン主義」という言説は敢えて使用しないように注意を払っている。2010年5月
のオックスフォード大学での講演において、ダーヴトオールは「私は一度も『新オスマン
主義』という概念を使用したことはない」と強調している(57)。オメル・タシュプナル(Omer
Ta§pinar)は公正発展党の外交におけるオスマン帝国の影響を、①帝国的な支配の遺産では
なく、平和的なマルチナショナルな共有空間としてオスマン帝国を捉えている、②「新オ
スマン主義」的外交が地域の平和と安定に貢献すると考えている、③トルコが西洋とムス
リム諸国の橋渡しになると考えている、という三点に集約している(58) 59。
ダーヴトオールは2004年2月にラディカル紙に掲載された「トルコは中心国となるべきだ」
という論説において、トルコが地域秩序安定の「中心国」となるための原則を提示した㈣。そ
れらは、自由と安全保障のバランス、近隣諸国とのゼロ・プロブレム、多様な側面且つ多
様なトラック(経路)による外交、地域大国として近隣諸国への間接的な影響力行使、リズ
ム外交という五つであった。自由と安全保障のバランスとは、安全保障政策と市民の自由
を両立することである。近隣諸国とのゼロ・プロブレムとは、できるだけ全ての近隣諸国
と関係を良好に保つことを目指す外交である。多様な側面かつ多様なトラックによる外交
とは、冷戦期に安全保障だけを重視し、外交ルートも政府間交渉に限られていたトルコの
外交姿勢を反省し、経済や文化など多様なイシューを扱い、官僚機構、経済組織、NGOと
いった多様なトラックを外交カードとして使用することである。近隣諸国への間接的な影
響力を行使とは、地域大国として周辺各国と良好な関係を保つだけでなく、様々な地域機
(55) Davutoglu, StratejikDerinlik, p.118.
(56) Davutoglu, “Turkish Vision of Regional and Global Order,” pp. 42-43.
(57) Davutoglu, “Turkish Vision of Regional and Global Order,” p. 41.
(58) Omer Ta§pinar, “Turkey’s Middle East Policies: Between Neo-Ottomanism and Kemalism,” Carnegie Papers, no.10
(2008), pp. 14-15 [http://www.carnegieendowment.org/files/cmec10_taspinar_ final.pdf] (2015 年 6 月 ? 日閲覧).
(59) Ahmet Davutoglu, “Turkiye Merkez Ulke Olmali,” Radikal(26 $ubat, 2004).五つの原則についてダーヴトオー
ルが最初に言及したのは、2004年2月19日に放送されたCNN Turkにおいてであった。
127
今井宏平
構に所属し、重要な役割を担うことで影響力を高める外交である。リズム外交とは、冷戦
後に急速に変化した国際情勢に際して、トルコが冷戦期と変わらない静的な外交を採り続
けたことを反省し、積極的に新たな状況に適応する動的な外交のことを指す。


ダーヴトオールは、オザルと同様に、新たな地政学的状況に対応する必要性を説き、さ
らにその根拠として歴史的な責任を挙げ、国境を越えた心理的な境界を意識した。ダーヴ
トオールはオザルよりもさらに一歩踏み込み、新たな言説を浸透させるためにそれを実践
する原則を精緻化した。前述の五つの原則に見られるように、ダーヴトオールの外交ドク
トリンの目標は地域秩序の安定であり、とりわけシリアとの間での関係改善に象徴的なよ
うに、権威主義国家であっても友好関係を取り結ぶ「現状維持」がその特徴であった(60)。ま
た、ヴィザ・フリー政策に見られるように、国境が安全保障の手段というよりも、より開
かれた隣接地域との結びつきの象徴となった(61)。


イエシルタシュとアルトウンウシュクによるダーヴトオールの公式地政学の分析の問題
点は、「はじめに」の部分でも指摘した点だが、ダーヴトオールの考えを全面的に受け入れ
る結果となっていることである。これでは、批判理論分析というよりも、むしろ、批判理
論が攻撃対象としている問題解決理論である。権力関係を暴くのではなく、既存の権力の
影響力強化を促す結果となってしまっている。


4.実践地政学に関する批判的検証


4.1既存の説明の焼き直し


次に、ビルギン、イエシルタシュ、アルトウンウシュクの実践地政学の分析に関する問
題点について検討したい。まず、全ての論文に共通するのは、建国期から冷戦期までの批
判地政学による分析の結論が、既存の西洋化、現状維持、脅威認識による分析の結論と同
様のものであり、あえて地政学という分析に固執する理由と根拠がないという点である。
例えば、戦間期のトルコ外交はビルギンが批判の対象としている「セーヴル症候群(Sever
Syndrome)」という概念による説明の方が、説得力がある(62)。
「セーヴル症候群」とは、1920年8月10日に締結されたセーヴル条約に基づく脅威認識の
ことである。セーヴル条約がトルコに与えた恐怖は、領土を解体される不安と西洋諸国に
植民地化される不安であった(63)。セーヴル条約は文字通り、オスマン帝国の解体であり、
(60) ダーヴトオールの外交ドクトリンの実践に関しては、今井『中東秩序をめぐる現代トルコ外交』(前注46
参照)、第8章から第10章に詳しい。
(61) 国境渡航に関してヴィザを必要としない国家の数は2002年に42カ国であったが、2013年には69カ国ま
で増加した。Sorumluluk ve Vizyon 2014 Yilina Girerken Turk Di§ Politikasi (Ankara: Turkiye Cumhuriyeti Di§i§leri
Bakanligi,2014), p.10.
(62) Bilgin, “Turkey’s geopolitics dogma” (前注13参照),pp.157-158.
(63) セーヴル条約の領土に関する内容は以下のようであった。①東トラキアとイズミル周辺がギリシャ領土
となる、②ボスフォラス・ダーダネルスの両海峡は「海峡委員会」の管理下におかれ、全ての国の船舶に開
128
トルコにおける地政学の展開


トルコはイスタンブルとアナトリア中央部しか領有を認められなかった。この悪夢が再現
されないよう、初代大統領ケマル、二代大統領イスメト・イノニュ(ismet Inonu)など、共
和国初期の政策決定者たちは領土拡張よりも領土保全の考え、国境の画定と既存の国境の
強化を重要視した(64)。そのため、政策決定者たちは、国境は安全保障のための不可欠で、
既存の国境を境界と認識することで一致していた。セーヴル条約による二つ目の不安は、
西洋諸国に対する恐怖感である。セーヴル条約はヨーロッパのオスマン帝国支配としての
「東方問題」(65)の最終的な形態であった。西洋諸国に対抗するためにも、トルコ共和国で
は西洋化を達成し、「ヨーロッパの一員になること」が追求された。


「セーヴル症候群」の説明で浮かび上がってくるのは、オスマン帝国とイスラームの「後
進性」が結局、帝国の崩壊を招いたとするケマルの考えであり、地政学よりも西洋化こそ
が外交政策に影響を与えてきた概念という点である。西洋化は、政教分離に代表的な内
政の文化的改革はもちろんのこと(66)、冷戦期以降、NATOへの加盟や、ヨーロッパ共同体
(EC: European Community)およびEU加盟の意欲に見られるように、外交政策にも大いに反
映された。しかし、批判地政学の視点から検証した各論者とも西洋化には言及しているも
のの、あくまで説明変数の一っという程度の扱いしかしていない。


冷戦期において、確かに「ソ連と陸続きの唯一のNATO国」という地政学的条件はトルコ
の外交政策を左右してきた。しかし、スティーヴン・ウォルト(Stephen Walt)の古典的な
研究に見られるように、冷戦期のトルコ外交を説明する概念としては、「脅威」で十分では
ないだろうか(67)。冷戦期、トルコの最大の脅威はソ連であった。ソ連は第二次世界大戦末
期の1945年にトルコへの圧力を急速に強めた(68)。ソ連は、1945年2月のヤルタ会談では、
放、沿岸地域は非武装化される、③東部アナトリアには独立アルメニア国家が建設される、④レバノン、
シリアはフランスの委任統治となり、アナトリア南東部もフランスの勢力圏に入る、⑤モースルを含めた
現在のイラク、パレスチナ、シリア南部(トランスヨルダン)はイギリスの委任統治となる。また、キプロ
スはイギリス領土となる、⑥アナトリア南西部はイタリアの勢力圏となる。また、エーゲ海諸島もイタリ
アが領有する、⑦モースルから北のクルディスタンはクルド人に自治権が与えられる、⑧ヒジャーズ王国
はアラブ人国家として独立する。新井政美『トルコ近現代史』みすず書房、2001年、166-167頁。セーヴル
条約はその後、1923年7月14日に締結されたローザンヌ条約の締結を受け、廃止された。
(64) ローザンヌ条約によってブルガリア、ギリシャ、イタリアとの間でトルコ西部の国境は確定された。北
東部に関しては、ソ連との間で結ばれた1921年3月16日のモスクワ条約とそれに続く同年10月13日のカ
ルス条約で確定された。イラクとの国境は1926年6月5日にイギリスとの間でアンカラ条約が締結され、
モースルはイラク領となった。また、シリアとの国境は1939年6月23日にフランスとの間で八タイをトル
コ領とするアンカラ条約が締結された。戦間期のトルコの国境策定に関しては、松谷浩尚『現代トルコの政
治と外交』勁草書房、1987年、84-94頁。
(65) 東方問題とは、「オスマン帝国の衰退と内部分裂の危機を利用したヨーロッパ列強による、バルカン・中
東への進出と介入によって18世紀から19世紀にかけて発生した一連の国際紛争を指すヨーロッパ側の呼
称」のこと。山内昌之「東方問題」大塚和夫、小杉泰、小松久男、東長靖、羽田正、山内昌之編著『岩波イス
ラーム辞典』岩波書店、2002年、673頁。
(66) ケマルによる内政改革に関しては、例えば、新井『トルコ近現代史』、200-204頁。
(67) Stephen Walt, “Testing theories of alliance formation: the case of South West Asia,” International Organization 42,
no. 2 (1988), pp. 292-297.
(68) 1945 年前後の中東の北層の状況に関しては、Bruce Robellet Kuniholm, The Origins of the Cold War in the Near
129
今井宏平
1936年に締結されたモントル一条約の改訂を、3月19日には1925年に結ばれた中立不可侵
条約の破棄、そして、6月?日には新たな条約を結ぶためにはカルス、アルダハンの領土
割譲も考慮すべきとトルコ側に要求した。こうしたソ連の圧力に対して、トルコはアメリ
力を中心とする西側諸国との同盟を選択することとなり、1952年2月にはNATO加盟を達
成する(69) 70。


また、冷戦期においても西洋化はトルコ外交を規定してきた。冷戦期、トルコの北部国
境はトルコの国境であると同時にNATOと西側陣営の境界線でもあった。そのため、トル
コの国境は「防御壁(barrier)」(?0)として機能し、西側陣営の中で「最前線国家」(71) 72と見なさ
れた。1960年代から?0年代にかけて、トルコとアメリカの関係が悪化し、トルコはソ連
とも外交関係を復活させるが、基本的に冷戦期を通して「防御壁」の役割を果たしたと言え
るだろう。NATO加盟国として、冷戦という「緩やかな双極体制」下での共産主義圏に対す
る「防御壁」、「最前線国家」としての役割は、安全保障分野に特化しているものの、トルコ
の西洋化という目標を一定程度満たすものであり、他の西洋諸国からもトルコは「西側の
一国」として認知されたのである。


4.2冷戦体制崩壊に伴う変化の相対的軽視


ビルギン、イエシルタシュ、アルトウンウシュクが冷戦体制の崩壊に伴う物理的な地政
学的変化を軽視していたことはすでに指摘した。それでは、冷戦体制の崩壊は、実践地政
学にどのような影響を与えたのか。以下では冷戦体制崩壊がトルコに与えた二つのダイナ
ミズムを概観しておきたい。
第一のダイナミズムは、安全保障を基盤とした西洋化の基礎が揺らいだという点であ
る。冷戦体制の崩壊により脅威の源泉であったソ連が消滅したことで、トルコは国家の安
全保障を達成することになった。しかし、ソ連の消滅は皮肉にも、「防御壁」、「最前線国家」
としてのトルコの役割が終了したことも意味し、これまで安全保障での貢献を通して「西
洋の国家」として他国から認識されてきた基盤が揺らく、、ことになった。冷戦体制崩壊当時
の大統領であったオザルは、国際関係論でいうところの同盟から「見捨てられる恐怖」四に
直面することとなった。80年代後半、アメリカとソ連の緊張が緩和されるに従い、アメリ
カのトルコに対する軍事•経済援助が次第に先細りになっていたこと、1989年にトルコの
East: Great Power Conflict and Diplomacy in Iran, Turkey, and Greece (Princeton: Princeton University Press,1980).
第二次世界大戦前後のトルコとソ連の関係に関する詳細は、例えば、Kamuran Gurun, THrk-Sovyet iliskileri
(1920-1953) (Ankara: Turk Tarih Kurumu Basimevi,1991),pp. 239-310.
(69) Walt, “Testing theories of alliance formation,” pp. 292-293.
(70) Ian Lesser, “Bridge or Barrier? Turkey and the West After the Cold War” in Fuller and Lesser, eds., Turkey’s New
Geopolitics (前注 4 参照),p.101.
(71) Davutoglu, StratejikDerinlik, p.19.
(72) Glenn Snyder, “The Security Dilemma in Alliance,” World Politics 36, no. 4 (1984), p. 467.
130
トルコにおける地政学の展開
EC加盟申請が却下されたことも、こうしたオザルの懸念を後押しした(73)。オザルは1990
年8月に起きた湾岸危機において、アメリカを中心とした多国籍軍の要請を積極的に受け
入れたが、その背景にはイラクに対する新たな「防御壁」になることで、西洋諸国にトルコ
の安全保障上の価値を再認識させる狙いがあった(74)。しかし、イラクがソ連のような強大
な戦力とイデオロギーを有していなかったことから、イラクは脅威の源泉としては不十分
であった。とはいえ、これはトルコの西洋化を押しとどめたわけでない。トルコは90年代
以降、安全保障を基盤とした西洋化から、EU加盟を目指すヨーロッパ化の側面が強い西
洋化にシフトしていくことになる。


冷戦体制崩壊がトルコの実践地政学にもたらしたもう一つのダイナミズムは、中央アジ
ア、南コーカサス、バルカン半島に新興独立諸国が登場したことである。これに対し、大
統領であったオザルを中心に、近隣の新興独立諸国への関与を強める、「新オスマン主義」
の考えが外交に反映されることになる。ここでは特に中央アジアと南コーカサスに対する
オザルの外交を取り上げたい(75)。例えば、トルコはウズベキスタン、カザフスタン、ク
ルグズスタン、トルクメニスタン、アゼルバイジャンとの外交関係を取り結んだ最初の国
家となった。オザルは主に四つのアプローチをこの地域に対して展開した。第一に、外務
省に中央アジアを扱う新しい部門を加え、4億600万ドルという大規模な予算をつぎ込ん
でトルコ開発援助機関(TIKA: Turk I^birligi ve Kalkinma idaresi)を中心に援助政策を展開し
た。第二に、オザル自身が何度も中央アジア諸国と南コーカサス諸国を訪問し、幅広い諸
協定も取り結んだ(76)。第三に、オザルは国内のビジネスマン、宗教グループ、メディア
など民間の機関に対して、積極的に中央アジアや南コーカサスへ進出するように促した。
第四に、オザルはBSECや黒海海軍合同任務部隊(BLACK-SEAFOR: Black Sea Naval Co-
Operation Task Group)といった地域レジームの設立でイニシアティヴを発揮した。
しかし、結果的にオザルの中央アジア、南コーカサスに対する外交は失敗に終わる。そ
の象徴となったのが、1992年10月にトルコの首都アンカラで開催された「テユルク系諸国
会議」における、カザフスタンのヌルスルタン•ナザルバエフ(Nursultan Nazarbayev)大統
領とウズベキスタンのイスラム・カリモフ(Islam Karimov)大統領の宗教・民族に基づく卜
(73) Bilgin, “Turkey’s geopolitics dogma”(前注13 参照),p.163.
(74) オザルの湾岸危機への関与に関しては、例えば、今井『中東秩序をめぐる現代トルコ外交』(前注46参照)、
57-82 頁。
(75) この部分に関して、著者の過去の論文と一部重複する。今井宏平「ポスト冷戦期におけるトルコのユーラ
シア外交:安全保障共同体モデルを枠組みとして」『中央大学政策文化総合研究所年報』15号、2012年、
55-80 頁。
(76) 具体的に、二国間レベルでのさまざまな委員会や組織を設立、トルコの大学への奨学金制度の充実、卜
ルコ国営テレビをはじめとしたトルコ語番組の放送、トルコ航空の定期便運行、トルコ輸出入銀行による
信用貸付などである。トルコが主導した奨学金制度でトルコへ留学した中央アジアの学生は総勢ー万人以
上に上ると言われている。こうした留学生をはじめとした教育面の協力に関しては以下を参照。Turan Gul,
ilter Turan and idris Bal, “Turkey’s Relations with the Turkic Republic,” in Bal, ed., Turkish Foreign Policy in Post
Cold War Era (前注 48 参照),pp. 300-306.
131
今井宏平
ルコのリーダーシップに対する懐疑的な姿勢であった(77)。トルコの「新オスマン主義」は、
中央アジアと南コーカサスの国々に歓迎されなかったのである。
4.3挑戦を受けるダーヴトオール外交
2,000,000
1,800,000
1,600,000
1,400,000
1,200,000
1,000,000
800,000
600,000
400,000
200,000
0
201I年9月 2012年9月 2013年9月 2014年9月 2015年9月
—トルコに流入したシリア眼の総数—難民キャンプに融:する域
–難民キャンプの外で暮らす難民
前述したダーヴトオー
ルの公式地政学は、「ア
ラブの春」に端を発した
シリア危機とその後の
「イスラーム国」の台頭に
よって、地域と国際社会
の秩序安定化という目標
の達成が難しい状況とな
図3 トルコにおけるシリア難民の数(登録者のみ)
っている㈣。この部分
は、構造地政学とも関連
するが、ダーヴトオール
だけでなく、公正発展党
(出典)Kemal Kirisci and Elizabeth Ferris, “Not Likely to Go Home: Syrian
Refugees and the Challenge to Turkey and the International Com-
munity,^ Turkey Project Policy Paper, no. 7 (September 2015), p. 8.
の政策決定者たちはグローバル化を積極的に受け入れ、最大限活用する外交を展開してき
た。そのため、公正発展党は「保守的なグローバリスト」と呼ばれていた(79)。しかし、シリ
ア危機に際しては、そのグローバル化を積極的に受け入れ、活用する政策が裏目に出てい
る。トルコとシリアは900キロメートルに渡る国境を有しているが、ヴィザ・フリー政策
の結果、国境は事実上なくなった。しかし、シリア危機によってトルコ国境は冷戦期のよ
うに安全保障上の機能が強調される契機となっている。とはいえ、中東の国境線はもとも
と人工的に引かれたことに加え、一度国境機能を棚上げしていたため、国境の安全保障機
能は脆弱な状態となっている。例えば、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR: Office of the
United Nations High Commissioner for Refugees)の発表によると、シリア危機によって、シリ
アからトルコには2011年3月から2015年10月までに約194万人が難民として国境を越えて
いる(図3参照)。シリア難民はヨルダンとレバノンにも流入しているが、トルコへの流入
者数が最も多い。


また、「イスラーム国」に参加する外国人戦闘員の主要なルートは、イスタンブルから卜
(77) Philip Robins, Suits and Uniforms: Turkish Foreign Policy Since The Cold War (London: Hurst & Company, 2003),
pp. 284—288.
(78) ダーヴトオールの秩序安定化政策に関しては、例えば、今井宏平「トルコ外交の継続と変容:ダーヴト
オールの考えを中心に」『外交』31号、2015年、132-137頁。
(79) Ziya Oni§, “Conservative globalists versus defensive nationalists: political parties and paradoxes of Europeanization
in Turkey,” Journal of Southern Europe and the Balkans 9, no. 3 (2007), pp. 247-261.
132
トルコにおける地政学の展開
ルコ国内を通ってシリア国境に至るものである(80)。イギリスの「急進派研究のための国際
センター (ICSR: The International Centre for the Study of Radicalisation and Political Violence)j
が2015年1月26日に発表した報告書によると、「イスラーム国」に参加する外国人戦闘員の
数は二万人を越えると見積もられており、西ヨーロッパから「イスラーム国」へと渡った戦
闘員も4,000人にのぼるとされる(81)。この西ヨーロッパからの戦闘員の多くがトルコ経由
でシリアに入国していると見られている。一方、トルコ政府も外国人戦闘員の潜入に対す
る取り締まりを強化しており、メヴルット・チャヴシュオール(Mevlut Cavu§oglu)外務大
臣(当時)によると、2012年から2015年3月13日までの時点でトルコ政府は外国人12,519
人に対して「イスラーム国」との関連を理由に入国を禁止し、1,154人を拘束または国外退
去させている(82)。特に2015年1月?日に起きたシャルリー・エブド社襲撃事件以降、トル
コ政府は入国者に関して各国のインテリジェンス機関との情報交換を密にし、その取締り
に努めている。
このように、シリア内戦に際し、2000年代以降、トルコの公式地政学として影響力を持
ってきたダーヴトオールの地政学的ヴィジョンは、実際の外交において機能不全となって
きている。


おわりに


本稿では、トルコのアカデミズムにおいて見られる地政学の積極的な受容に関して、そ
の受容がいまだに発展途上であることを前提に、トルコの地政学的特徴を捉えようとする
国家概念の有効性と限界、そして古典的地政学を構成する公式地政学と実践地政学に基づ
くトルコの分析に関する批判地政学の見解について概観してきた。


トルコの地政学的特徴を捉えるために創出された国家概念である「絶縁体国家」、「リミ
ナル国家」、「尖端国家」の有効性と限界に関しては、以下の点を指摘することができた。


まず、「絶縁体国家」は安全保障に関する概念であり、トルコは多くの隣接地域を有するも
のの、それらの地域を有機的に結び付けることはせず、むしろ各地域のダイナミズムを遮
断する働きがあるとされた。しかし、ダーヴトオールの「ゼロ・プロブレム」政策に代表さ
れるように、2002年以降、トルコは安全保障も含め、近隣諸国と積極的な関係構築を図っ
てきた。そのため、「絶縁体国家」は現在のトルコ外交を分析する概念としては適していな
(80) 外国人戦闘員の経由地としてのトルコに関しては、以下を参照。今井宏平「イスラーム国に翻弄される卜
ルコ:ダーヴトオール・ドクトリンの誤算と国際社会との認識ギャップ」『中東研究』522号,2015年,32-43頁;
今井宏平「シリア内戦と『イスラーム国』をめぐるトルコの対応」『中東動向分析』13巻11号、2015年,1-13頁。
(81) Peter R. Neumann, “Foreign fighter total in Syria/Iraq now exceeds 20,000; surpasses Afghanistan conflict in the
1980s,” ICSR [http://icsr.info/ 2015/01/foreign-fighter-total-syriairaq-now-exceeds-20000-surpasses-afghanistan-
conflict-1980s/] (2015 年 6 月 ? 日閲覧).
(82) “Turkey calls for more cooperation on foreign fighters issue,” Anadolu Agency (March 13, 2015) [http://aa.com.tr/en/
politics/turkey-calls-fbr-more-cooperation-on-fbreign-fighters-issues/67181] (2016 年1月 31日閲覧).
133
今井宏平
いと結論付けた。

また、「リミナル国家」も多様なアイデンティティを有することをネガテ
イブに捉える概念であり、多様なアイデンティティを全方位的な外交に活用している公正
発展党政権下のトルコを考察することは難しい。それに対して、「尖端国家」は多様な地域
と接し、多様なアイデンティティを有することをポジティヴに捉えたうえで、その地理的
特性を生かした行動様式を考察の対象としている。ダーヴトオール主導の公正発展党の外
交を分析する概念としては「尖端国家」が最も適していると言える。


「尖端国家」に関して、これまでは国際システム、地域における役割というマクロな視点
から分析が行われてきたが、今後はよりミクロの分析が求められる。そのためには、さし
あたり以下のニ点が指摘できる。

第一に、「尖端国家」の内部をブラックボックスとせず、
国家内部の下位アクターが「尖端国家」の行動様式をどのように担っているのか、例えば、
下位アクターが地域のリンケージにどのような役割を果たしているかといった点を検証す
る必要がある。

加えて、第二に、「尖端国家」がどのセクターで「尖端国家」として行動して
いるのかを検討する必要がある。ブザンは国家に焦点を当てた初期の著作『人間・国家・
恐れ』(1983年/1991年)で、脅威に関して、軍事、政治、社会、経済、生態(環境)とい
う五つの部門に分類している(83)。「尖端国家」の分析に際してもこうしたセクター別の視点
を取り入れることで、より綿密な検証を行うことが可能となる。


一方で、シリア危機が勃発して以降、トルコの地理的特性を生かし、地域秩序に貢献す
る外交は機能不全に陥っている。そのため、「尖端国家」の連結が当該国家にとって有益で
あることを所与とする点は再考の余地がある。


次に、批判地政学の分析に関してまとめておきたい。特定の地理的世界観、もしくは地
政学的ヴィジョンの構築に焦点を当てる公式地政学の視点からトルコに関する既存の批判
地政学の研究を見ていくと、冷戦期における知識人検証が不十分である点、冷戦体制崩壊
後の「新オスマン主義」の分析が不十分である点、ダーヴトオールの理論を肯定的に評価す
ることで、批判理論ではなくむしろ問題解決理論の機能を果たしている点を指摘すること
ができる。また、地政学的ヴィジョンがどのように外交政策に反映されたのかに焦点を当
てる実践地政学に関する検証では、トルコに関する既存の批判地政学は、結局のところ、
これまでの使用されてきた説明の焼き直しに終始している点、冷戦体制崩壊による物理的
な地政学的変化を相対的に軽視している点、肯定的に評価されてきた公正発展党政権下の
ダーヴトオール主導の秩序安定化を試みる外交が、特に安全保障の側面で挑戦を受けてい
る点が明らかになった。


いずれにせよ、トルコのアカデミズムにおいて見られるようになった地政学の積極的な
受容は、いまだに発展途上である。第一章で見たように、非西洋の国際関係論には、非西
(83) Barry Buzan, People, States and Fear: An Agenda f〇r International Security Studies in the Post-Cold War Era (Second
Edition) (Boulder: Lynne Rienner Publishers,1991),pp.116-134.
134
トルコにおける地政学の展開
洋諸国が西洋起源の国際関係論を受容する中で創出される視点と、非西洋世界の地域・国
家・社会の中から創出される自前の思想や見方という二つのアプローチがある。さらに後
者は批判と代替物の提示という二つのステップに分けることができた。トルコにおける
非西洋の国際関係論の理論的展開は、現段階では第一のアプローチと第二のアプローチの
第一ステップである既存の国際関係論の批判的検討の間で揺れ動いている。今後、トルコ
の多面性を最も良く捉えている「尖端国家」の再考と批判地政学的分析の量的かつ質的向上
を図ることがトルコにおける非西洋の国際関係論を進展させていくためには不可欠であろ
う。
135 』

南シナ海の埋め立てを知るための本

南シナ海の埋め立てを知るための本
https://geopoli.exblog.jp/24601630/

『2015年 06月 18日

今日の横浜北部は一日曇りでして、午後は強烈なにわか雨がありました。梅雨まっただ中です。

さて、現在大きな注目を集めている南シナ海について少し。

私がいま住んでいるところにはテレビがないのですが、聞くところによると、本日のNHKの1900からのメインの報道番組であう「ニュース7」で、南シナ海埋め立て問題について、海外取材も交えて扱われたとか。

本ブログや生放送などをご覧の方にとっては、この中国の埋め立て問題というのは取り立てて珍しい話ではないかもしれませんが、個人的には(まだ足りないながらも)大手メディアがここまで取り上げるようになったかというのは、なんというか不思議な気持ちになります。

もちろんこの問題は、今後の国際政治の流れだけでなく、日本の今後の安全保障環境にも決定的な影響を与える可能性が大きいので目を離せないわけですが、日本のメディアは(その善し悪しは別として)総じて安全保障問題には関心が低めです。

そのような中で、当然ながらこの問題に最も関心をもつべきであろう防衛省から、非常に参考になるプレゼン資料(PDF)が公開されました。そのいくつかのキャプチャ画像は以下の通りです。

南シナ海の埋め立てを知るための本_b0015356_21354790.png
南シナ海の埋め立てを知るための本_b0015356_2136854.png

南シナ海の埋め立てを知るための本_b0015356_21363134.png

この資料を見て最初に感じることは、なんというかその独特なプレゼンのスタイルの「匂い」でしょうか。一枚に情報が凝縮されて「テンコ盛り」という感じが(笑

このような資料はとくにこれまでの経緯を知る上で重要なのですが、孫子の頃から言われているように、戦略を考える上で重要なのは「相手がどのようなことを考えているのか」という点です。

ご存知の方は「いまさら」と感じるかもしれませんが、私は昨年の10月末に、この南シナ海問題について、とりわけ中国側の視点を教えてくれるような本を、ほぼ同時に2冊出版しております。
南シナ海の埋め立てを知るための本_b0015356_22191240.jpg
一冊目はもちろんシカゴ大学教授のジョン・ミアシャイマーの『大国政治の悲劇』(改訂版:脚注付き)でありまして、この中の最終章となる第10章の中で、「中国の台頭は平和的にはならない」という自らの主張を論じる中で、中国にとっての南シナ海の問題について触れております。

ところがそれよりもさらに中国の南シナ海についての見解を教えてくれるのが、もう一冊のロバート・カプランというジャーナリストの書いた『南シナ海:中国海洋覇権の野望』という本です。

南シナ海の埋め立てを知るための本_b0015356_21455065.jpg

この本は日本版のタイトルがテーマそのものずばりを言い表しているのですが、南シナ海周辺国の安全保障問題を旅行記のような形で説明しつつも、その歴史的な経緯や現地の政府高官へのインタビューなども交えるという、独特のスタイルで書かれております。

その中で、実際にカプランが北京の安全保障セミナーに参加した時の様子が書かれていてとても参考になる部分があります。以下にその部分を要約した形で書き出してみます。

===

●北京には怪しい「特効薬」があふれていた。それは「中国は守りに徹している間に、アメリカは侵略している」というものだ。その核心にあるのが南シナ海の問題だ。

●北京では、タカ派もハト派も関係なく「中国が近代に入ってから西洋の列強に大きな被害を受けた」という感情が深く共有されており、彼らは南シナ海の問題を、例外なく「国内問題である」とみなしている。

●なぜなら彼らは単純に「南シナ海は、海洋に伸びた中国の領土である」と認識しているからだ。

●ある晩、私が中国の学生向けに開催したセミナーでは、緊張に震えながら恥ずかしそうにしていた若者が、「なぜアメリカは我々の調和と慈愛に対して覇権で対抗しようとするのですか?アメリカの覇権は中国の台頭に直面すれば混乱を招くだけです!」と吐き捨てるようにコメントしていたほどだ。

●北京の理屈からいえば、アメリカの権益はまたして「覇権的なもの」と映る。北京の理屈から言えば、アメリカこそが「アジアを支配下におさめて、その莫大な戦力投射能力を、野蛮な形で発揮している」ということになる。

●つまりワシントン政府こそが南シナ海の紛争を「煽る」存在であり、中国ではなくアメリカこそが「抑止されるべき存在」であることになるわけだ。

●結局、中国は東アジアにおいて儒教の価値観を基礎とした冊封体制を2000年近くも維持してきたのであり、ヨーロッパの勢力均衡体制よりはるかに調和がとれて、戦争の少ない状態を維持してきたということになる。

●したがって平和の維持に関して言えば、「欧米諸国は中国に何も教える資格はない」というのが彼らの言い分なのだ。このような独特な感覚は、彼らの地理観によってもうかがい知ることができる。これについては究極の解決法のようなものは存在しないといえよう。

●したがって、われわれは再び「封じ込め」という概念に戻ってしまう。

(pp.234-35)

===

うーむ、なんというか、彼らにとっては南シナ海の問題というのはただ単に(国家の神話によって)「取り返しにきている」という感覚があるわけですから、彼らにとっては「完全に正義」な問題となってしまっているわけです。

もちろん彼らの狙いは、この海域で戦争を起こすことにあるわけでなく、あくまでも地政学的なパワーバランスを修正するためのポジションの修正にあるわけですから、必ずしも周辺国との軍事衝突を必要としているわけではありません。

ただ問題なのは、それを実現するためには軍事衝突が手っ取り早い、と勘違いしてしまう人間が北京や軍人たちの中に出てくる可能性を否定できない部分かと。

まあとにかくこれからもこの問題はダラダラと続きそうです。

ビジネスと人生に活かす『クラウゼヴィッツ理論』CD

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http://www.realist.jp/clausewitz-business.html

奥山真司のアメリカ通信LIVE

http://ch.nicovideo.jp/strategy
奥山真司のアメリカ通信LIVE

https://www.youtube.com/user/TheStandardJournal 』

デンジャー・ゾーン(仮) 迫る中国との戦争

デンジャー・ゾーン(仮) 迫る中国との戦争
ハル・ブランズ 、 マイケル・ベックリー 、 奥山真司
https://tower.jp/item/5575592/%E3%83%87%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%BE%E3%83%BC%E3%83%B3(%E4%BB%AE)-%E8%BF%AB%E3%82%8B%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%A8%E3%81%AE%E6%88%A6%E4%BA%89

 ※ オレのサイトで、この「ハル・ブランズ」で検索してた人がいた…。

 ※ ググったら、この本にヒットした…。

 ※ 参考になりそうなんで(奥山真司さん完訳の、「地政学 ー地理と戦略ー」というkindle本を、買って読んだ。けっこう、参考になった)、発売日の前のようだが、紹介しておく。

『フォーマット

書籍

構成数

1

国内/輸入

国内

パッケージ仕様

発売日

2022年12月26日

規格品番

レーベル

飛鳥新社

ISBN

9784864109291

版型

46

ページ数

288』

『「2025年台湾戦争」を警告した2022年8月刊の話題書、第一人者による邦訳決定!

・ピークを迎えた大国が陥る罠!

中国の国力は今が絶頂で、台湾を武力で併合するチャンスはしだいに失われていく。
「ドアが閉じる前に」行動しないと間に合わない、という焦りと誘惑。
習近平中国は第一次大戦のドイツ、真珠湾攻撃の日本と同じ道を歩む?

・ピークを越えた(今後の衰退を悟った)大国が最も攻撃的になる

・米中対立と紛争の可能性はこれからの直近5年間がもっとも危ない。
「トゥキディデスの罠」「100年マラソン」をくつがえす警鐘作
ベストセラー『米中もし戦わば』(ナヴァロ)『China2049』(ピルズベリー)『米中開戦前夜』(アリソン)を越える衝撃作!

・英エコノミスト誌、日経新聞、日経ビジネス、現代ビジネス、サウスチャイナモーニングポスト紙など続々紹介!』…、というものらしい…。

[FT]ドイツ製兵器、東欧への供与進まず ロシアに配慮か

[FT]ドイツ製兵器、東欧への供与進まず ロシアに配慮か
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB2926J0Z20C22A7000000/

『ドイツと東欧の同盟国が編み出したウクライナ支援計画は、当初は妙案に思えた。ポーランドなどの国が旧ソ連製の戦車をウクライナに供与する見返りに、ドイツが西側製の装備を補充するという計画だった。
ドイツからポーランドへの戦車などの武器供与は公約通りに進んでいない=ロイター

だが、結束の価値を示し、ウクライナが必要としているすぐに使える武器を速やかに供与するこの構想は、約束が果たされていないと同盟国が非難し合う争いの種になっている。

ドイツにとって、この構想はウクライナに戦車や装甲車両を直接供与し、ロシアをむやみに挑発するのを避ける狙いがあった。ドイツは今週、ポーランド、スロベニア、スロバキア、ギリシャ、チェコと長期にわたり協議しているにもかかわらず、まだどの国とも契約締結に至っていないと認めた。

ポーランドとはこれを機に関係が悪化する恐れがある。ポーランド政府はウクライナに旧ソ連製戦車T72を240両供与し、ドイツから戦車レオパルトを補充してもらえると期待していた。だが、ドイツはまだ20両しか提供していない。

ポーランドは代替戦車を調達するため、米国と韓国に目を向けている。ドイツ当局筋は「ポーランド政府との合意は基本的に機能していない」と明かした。

こうした状況を受け、ドイツの野党は怒りをあらわにしている。キリスト教民主同盟(CDU)所属の連邦議会議員で、独連邦軍大佐だったローデリヒ・キーゼベッター氏は「ドイツは長年築き上げてきた信頼をみすみす失いつつある」と非難した。
ドイツ野党からも怒りの声

ドイツ政府は同盟国やウクライナを裏切ったとの批判を退けている。今週、ウクライナ政府からゲパルト対空戦車15両のうちの3両、多連装ロケットシステム「MARS」3基、自走式りゅう弾砲「パンツァーハウビッツェ(PzH)」3門が届いたと連絡があったと説明した。ドイツ政府は6月にもPzH7門を供与している。一方、PzH2000を製造する独防衛機器大手クラウス・マッファイ・ベクマン(KMW)に対し、ウクライナ政府にPzH2000を追加で100門供与することも認めた。総額17億ユーロ(約2300億円)相当に上る。

ドイツ当局筋は独連邦軍が地対空ミサイル「パトリオット」をスロバキアに配備したとも強調した。もっとも、これは供与したわけではない。スロバキア政府がウクライナに旧ソ連製の地対空ミサイルシステム「S300」1基を供与したことに対する措置だ。

だが、野党の怒りは収まっていない。野党は政府にウクライナへの重火器供与を義務付けた4月の連邦議会の決議を守っていないとして、ショルツ独首相を非難している。

CDUのメルツ党首は「国民と議会はだまされた」と憤る。「(ショルツ氏の)ウクライナ軍支援の発表は検証に耐えられない」と語気を強めた。

ドイツ当局は当初、武器移転の合意締結に自信を示していた。ショルツ氏は5月、ギリシャがウクライナに旧ソ連製の装甲兵員輸送車を供与し、ドイツがギリシャに代替車を補充すると明言した。だが、これは実行に移されていない。
関係者が多すぎるとの弁明

当局者らは3カ国の政府が関わる合意は複雑なため、妥結に至っていないと弁明する。ギリシャ政府の担当者は「関係者が多すぎて、何も実現しないだろう」との見方を示した。ドイツ政府の担当者も「1つの歯車が狂えば全体が機能しなくなる非常に複雑な作業だ」と語った。

ショルツ氏の広報官は25日、移転契約の締結を断念しない方針を示した。「一連の移転契約について相手国と緊密に連携している。協議は非常に建設的で、一部はかなり進展している」と述べた。

実際、ドイツのベーアボック外相は26日、チェコがT72数十両をウクライナに供与した代わりに、ドイツが自国の戦車をチェコに供与することで合意に近づいていることを明らかにした。

もっとも、ポーランドとの状況はこの構想の落とし穴を示している。ドイツとポーランドの国防相は4月、ドイツのラムシュタイン空軍基地で開かれたウクライナに関する国際会議で、武器移転に原則合意した。

だが、ポーランドのブワシュチャク国防相は今週、ポーランド誌「Sieci」とのインタビューで、ドイツからの供与はレオパルト2A4戦車20両にとどまっていることを示した。さらに「すぐに使えるような状態ではない。修理に1年かかるだろう」とも語った。
自国軍の増強に動くポーランド

ブワシュチャク氏は小規模部隊に配備できるよう供与する戦車を44両に増やすようドイツに要請したとも語った。だが、ドイツ政府はこれを断った。ドイツ当局筋は「実際には、連邦軍には供与できるほど多くの装備がない」と漏らす。

ドイツの消極姿勢を横目に、ポーランドは自国軍を増強し、ウクライナに供与した武器を補充する手段を探っている。7月に入り、米国から中古のエイブラムス戦車116両を調達すると発表したほか、27日には韓国と戦車1000両近く、大砲600門以上、戦闘機数十機を購入することで合意したともしている。韓国のK2戦車180両は年内に納入される。

だが、ポーランド政府はドイツに対する反撃に打って出ている。ポーランドのシモン・シンコフスキ・ベル・センク外務副大臣は7月、独誌シュピーゲルとのインタビューでドイツの約束は「詐欺」だったと批判した。

このコメントはロシアによるウクライナ侵攻が始まって以来、ポーランド政府によるドイツに対するとげを含んだ物言いの典型だ。近く退任するドイツのローリングホーフェン駐ポーランド大使は最近、ポーランド主要紙ジェチポスポリタに対し「ポーランド政府の意図を自問している」と吐露した。「ドイツをポーランドの強力な同盟国にしたいのか。それとも内部闘争の身代わりとして私たちを必要としているのか」と疑問を呈した。

それでもなお、武器移転合意を巡る論争により、東欧諸国の一部ではドイツのウクライナ支援は不十分で、約束の履行も遅いとの認識が明確になっている。

公営シンクタンク、ポーランド経済研究所のピョートル・アラック所長は、ドイツの対ウクライナ政策は「まさに言行不一致だ」と指摘する。ポーランドは「(ドイツは)戦争疲れに陥り、経済問題が本格化すれば対ロシア経済制裁を緩和し、ロシアとガス輸入の増加に向けて再び取引するのではないか」との疑念を示した。

By Guy Chazan and Raphael Minder

(2022年7月28日付 英フィナンシャル・タイムズ電子版 https://www.ft.com/)

(c) The Financial Times Limited 2022. All Rights Reserved. The Nikkei Inc. is solely responsible for providing this translated content and The Financial Times Limited does not accept any liability for the accuracy or quality of the translation.』

〔地政学(その6)〕

【人事部長の教養100冊】「歴史入門」F.ブローデル
https://jinjibuchou.com/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%85%A5%E9%96%80

 ※ この人のことは、知らんかった…。

 ※ 地政学関係の文献、読んでて、出てきたんで、ちょっと調べた…。

 ※ 地政学の学者というよりも、「歴史学者」として有名な人らしい…。

『「歴史入門」
フェルナン・ブローデル

目次

基本情報
どんな本?
著者が伝えたいこと
著者
こんな人におすすめ
書評
要約・あらすじ
学びのポイント

基本情報

初版   1995年(日本)
※原書は1985年発行「資本主義のダイナミズム」
出版社  中央公論新社等
難易度  ★★☆☆☆
オススメ度★★★☆☆
ページ数 193ページ
所要時間 2時間00分
どんな本?

歴史を史実の羅列ではなく、3つの時間軸(地理的(長期)、社会的(中期)、個人的(短期))と3つの階層(日常生活、市場経済、資本主義)で捉え、歴史学に変革をもたらしたブローデルの入門書。

著者が伝えたいこと

歴史は、瞬く間に過ぎていく個人史及び出来事史という「短期」、ゆっくりとリズムを刻む社会史である「中期」、最も深層において、ほとんど動くことのない自然や環境、構造という「長期」があり、特に「長期」を重視すべきだ。

例えば産業革命も、それ単体で見るのではなく、その下層部にある日常の経済生活や市場経済、周辺部にある奴隷制や農奴制等の在り方など、産業革命に至る長期的流れと合わせて把握すべきである。

著者

フェルナン・ブローデル(1902 ? 1985)

ブローデル

フランスの「アナール学派*」を代表する歴史学者。 20世紀の最も重要な歴史学者の1人に数えられる。代表作は『物質文明・経済・資本主義』。

パリ大学卒業後,9年間アルジェリアのリセで教え,地中海地方に興味をいだいた。その後ブラジルのサンパウロ大学を経て,パリの実務高等研究学校の教授となる。

第2次世界大戦ではドイツ軍の捕虜となり,約5年間ドイツの収容所で暮した。その間,記憶から書上げた博士論文をもとにして著わした『フェリペ2世時代の地中海と地中海社会』 が代表作となった。 84年にはアカデミー・フランセーズの会員に選ばれている。

アナール学派・・・政治、外交、戦争中心だったそれまでの歴史学を批判し、気候や地形、農業、技術、交通、通信、社会グループ、精神構造なども含めた経済学・統計学・人類学・言語学等を横断する社会史の視点を尊重した一派。アナールは「年報」の意で、彼らが発刊した雑誌名から名付けられた。

こんな人におすすめ

歴史を俯瞰的に眺めてみたい人、アナール学派に関心のある人

書評

日本語版のタイトルは『歴史入門』だが、原題は『資本主義のダイナミズム』。歴史学というより、社会学や経済史に近い。

それほど難しいことは書いていないのでスラスラ読める。しかし、ブローデルの自著である『物質文明・経済・資本主義』を講演用に要約した内容となっているので、「ああ、資本主義の歴史を時系列でではなくて、構造的に把握しようとしているのだな」と大括りで理解できれば十分だろう。

歴史入門 (F・ブローデル)

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要約・あらすじ

第一章 物質生活と経済生活の再考

■歴史の根底には、人間の無意識の習慣・行動がある。例えばヨーロッパは地理的に小麦が適しており、家畜と結びついて肉食となって体格を増した。アメリカ大陸はトウモロコシを選んで余剰労働力で公共工事を促進した。

■ヨーロッパの市場経済は、14世紀のペスト流行からの回復期以降に発展した。15世紀には各地に市ができ、16世紀にはアントワープ等の国際的大市ができ、17~18世紀にはアムステルダムやロンドンが国際金融センターとして機能するようになる。

■ヨーロッパの経済は、取引所や信用形式といった道具と制度によって、他地域より発展していた。日本やマレー半島、イスラム世界もほぼ同様だが、自給自足的経済を続けた中国は大きく出遅れていた。

第2章 市場経済と資本主義

■人々が村で自給自足的に生活している段階を「物質生活(=日常生活)」と呼ぶなら、次の段階はそれらを交換することにより発生する「市場経済」である。

■小売業や卸売業といった市場経済の基礎部分は、取引が透明で、競争原理が働く。しかしその上に乗る資本の動きは、船主であれ保険業者であれ銀行家であれ、少数の者に握られていて、一般市民からは見えにくい。

■封建体制では、土地という富の源泉が次世代にも相続される、安定した秩序を保っていた。そして資本主義でも、商取引・高利貸し・遠隔地交易・行政上の役職等を通じ、何世代かにわたってゆっくりと領主階層の富がブルジョアに移転していった。

■しかし、この傾向が見られるのはヨーロッパと日本くらいである。例えば中国は国家が土地を所有して徴税し、経済を監視・統制していた。商人と官吏との腐敗はあったが、大きな力を持つには至らなかった。イスラム世界でも、土地は世襲ではなく、領主が死ねば、その土地と全財産はスルタンなり皇帝なりに戻された。

■つまり、資本主義の発展と繁栄には、社会秩序の安定性と、国家による経済への中立性という社会的条件が必要なのである。

第3章 世界時間

■歴史的に世界には「経済圏」が存在してきた。ローマ時代のローマとアレクサンドリア、14世紀のヴェネチアとジェノヴァ、18世紀のアムステルダムとロンドン、欧州外ではロシア、トルコ帝国、インド、マレー半島、中国などである。

■これらの「経済圏」が資本主義の母体となった。経済圏は常に経済力の強いところへ移動していく。ヨーロッパで経済圏が地中海から北海へ移動したのは、宗教の差でも、商才の差でもなく、単に北海近辺の商人が自分たちの粗悪品にヴェネチアの商標を付けて売りさばくような争いの結果に過ぎない。

■同時に、そのような経済圏の周辺には、奴隷制、農奴制といった前近代的な制度も併存していた。奴隷的労働が無ければ、資本主義は成り立たない。奴隷制→農奴制→資本主義と順番に出現してきたわけではない。

■イギリスで産業革命が起きたのは偶然ではない。まずその底辺には「日常生活」があった。技術革新の多くは職人が生んだものであるし、産業家も多くは下層階級だった。次に力強い生産と交換のプロセス、つまり市場経済があった。加えて、市場の拡大や労働力の確保等の条件が揃っていたのである。

学びのポイント

地理的時間軸(長期)

ヨーロッパが選択した小麦は、定期的に大地を休ませることを必要とし、家畜の飼育も必要とした。この結果ヨーロッパでは常に農業と家畜が結びつき、肉食の傾向を帯びることになった。

一方、米の栽培には動物の入り込む余地はなく、米作地域では肉食は少ない。トウモロコシは生産性が高く、アメリカ大陸の農民への強制労働を可能にした。(要約)

ブローデルが、歴史を見る上で必要とした3つの時間軸の一つ「地理的時間軸」に関する例示。直接的にではないにせよ、地域に拠る主食の違いが、その後の歴史に大きな影響を与えている可能性があるという内容。これは普通、歴史の教科書には書かれない。

最近ではアメリカの地理学者であり医学者ジャレド・ダイヤモンドが、著書『銃・病原菌・鉄』でこの点に着目し、民族や集団による権力の集中度合いや技術の差は、固有の遺伝的優位性によるものではなく、主に環境の差異に起因していると主張した。

マックス・ヴェーバーへの批判

歴史的に、キリスト教会は利付き貸出について反対の姿勢を貫いてきた。

マックス・ヴェーバーは、こうした資本主義に対する疑念は宗教改革によって初めて解消され、それが北ヨーロッパ諸国における資本主義の躍進に繋がったとするが、それはいささか短絡的であり、誤っている。

北ヨーロッパ諸国はただ、それ以前に、長きにわたって反映し続けてきた地中海沿岸の資本主義を引き継いだだけなのである。北ヨーロッパは、技術の面でも商業の面でも新しいものを生み出さなかった。

アムステルダムはヴェネチアを模倣し、ロンドンはアムステルダムを模倣し、NYはロンドンを模倣した。それは世界経済の重心が移動しただけであり、地中海から北海への中心の移動も、新興地域による旧勢力への勝利を意味するだけである。

ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーは著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において、概ね以下のように主張した。

・プロテスタントにおいては「人間が救われるか救われないかは予め決まっている」という予定説を採る。

注)なお、カトリックは「○○すれば天国に行ける」という因果説を採る。もともとプロテスタントは、ローマ教皇レオ10世が「この贖宥状(免罪符)を買えば天国に行ける」と資金集めしたことに対抗する勢力だった。

・自分が救われるかどうか分からないという状況は、人間に恐怖と緊張状態を強いる。よってプロテスタントでは、神から与えられた職業(=天職)に励むことで救済を確信する証を得ることを奨励された。

・また、天職に励んだ結果としての蓄財も、安くて良質な商品やサービスを人々に提供したという「隣人愛」の実践の結果として肯定された。

・この「禁欲的な労働」と「利潤追求の正当性」が資本主義の発展に寄与した。

・カトリック圏である南ヨーロッパ諸国では、日が昇ると働き始め、仲間とおしゃべりなどをしながら適当に働き、昼には長い昼食時間をとり、午後には昼寝や間食の時間をとり、日が沈むと仕事を終える。実質的な労働時間は短く、おおらかで人間的ではあるが、生産性の低く資本主義には馴染まない。

一方、ブローデルは「いやいや、単に経済の覇権が地中海から北海方面に移動しただけでしょ」と主張する。

どちらが正しいかは難しいところだが、カトリック教徒が多かったヴェネチアやジェノヴァでもそれなりに経済が発展していたことを考慮すると、「利潤追求に対する後ろめたさが和らいだ」というヴェーバーの主張はあまり正しくないのかもしれない。

しかし、「禁欲的な労働」という側面では、南欧諸国の人々が北欧諸国に比べると、おおらかで若干怠惰な面があるのは事実だろう。事実、EUのお荷物と言われている国々には地中海沿岸国が多い。ユーロ圏で財政状況がとりわけ厳しいポルトガル(Portugal)、イタリア(Italy)、ギリシャ(Greece)、スペイン(Spain)の4カ国は、その頭文字を取ってPIGSと呼ばれている。

もっとも、これも宗教的な違いではなく、単なる気候の差なのかもしれない。温かい地域の人々は、気候も安定しているため、それほど苦労せずに穀物を育て、食料を確保できる。しかし、寒冷な地域の人々は、痩せた土地で冷害にも苛まれながら、様々な工夫を凝らして生活を成り立たせている。そして自然と勤勉になる。

世界に視点を広げてみても、主に熱帯である赤道~北緯・南緯30度くらいまでは、いわゆる先進国は見当たらない。気候が人々の気質に影響を与える一つの要因である、よい例ではないだろうか。

OECD加盟国

歴史入門 (F・ブローデル)

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〔地政学(その5)〕

地政学の基礎用語まとめ(ハートランド、リムランド、グレートゲーム 等)
https://hotnews8.net/society/world/geopolitics

『地政学の基礎用語まとめ(ハートランド、リムランド、グレートゲーム 等) – GHQが日本に禁じた学問とは?

「なぜウクライナ危機は発生したのか?」

「アメリカが日本に軍事基地を置く真の目的は?」

地政学は国家安全保障上、絶対に欠かせない学問。ゆえにGHQは日本人による地政学の研究を禁止。日本の第一人者たちは公職追放され、関連書籍は焚書された。

日本政府もメディアも国民に説明しない(できない?)地政学上の背景を知ることは、我が国の国益に資する。

日本のエリートが軍事学・地政学に通じていないことは大問題なのだ。
目次

地政学とは?
ハートランド理論 - ランドパワー
リムランド
ワールドシー理論 - シーパワー
マージナルシー
シーレーンとチョークポイント
大陸 vs 海洋の攻防史
英露「グレートゲーム」
英国流 バランス・オブ・パワー
地政学の歴史 - 帝国主義とグローバリズム
日本で地政学は禁止

地政学の基礎用語まとめ(ハートランド、リムランド、グレートゲーム 等) – GHQが日本に禁じた学問とは?
地政学とは?

地政学(Geopolitics)とは「19世紀 欧米列強が、帝国主義を展開する上で発展した 軍事戦略の学問」。

地理的条件が国家の政治・経済・軍事に与える影響を研究する。
ハートランド理論 – ランドパワー

地政学まとめ-ハートランド他
ランドパワー ユーラシア大陸にある大陸国家

  • ロシア、ドイツ、中国
    提唱者 英国のハルフォード・マッキンダー卿
    特徴 道路、鉄道を利用した輸送能力が高い
    強い陸軍、徴兵制
    農業が社会基盤
    主張 ハートランドを制するものは、世界を制する

ハートランド

地政学-冬のハートランド

ほぼ現在のロシアの位置に相当。
世界最大である アフロ・ユーラシア大陸(世界島)の最奥部にあり、南側は巨大な山脈と広大な砂漠、北側の海岸線は凍結するため 制圧はほぼ不可能。
広大な領土ゆえに食糧の自給自足が可能。

かつては欧州を支配したナポレオン、ヒトラーですら撤退した難攻不落エリア。

現在では、莫大な天然資源を保有していることも判明。21世紀でも 欧州のエネルギー供給源であり、マッキンダー卿の時代よりも存在感が増している。

東欧制圧がポイント

地政学-マッキンダーの法則

マッキンダーは、21世紀のウクライナ危機にも通じる有名な格言を残していた。

東欧を制するものはハートランドを制し、
ハートランドを制するものは世界島を制し、
世界島を制するものは世界を制する。

ハルフォード・マッキンダー

南のハートランド

あまり注目されないが、サハラ砂漠以南のアフリカ大陸南方を「南のハートランド」と見ることもできる。居住は困難だが、豊富な天然資源に恵まれている。

金本位制による世界覇権のため、大英帝国は 南アフリカ共和国の金鉱脈とダイアモンドを強奪。海の要衝、希望峰も抑えた。

地政学-南北ハートランドとアラビア半島
アラビア半島 – 南北ハートランドの交差点

南北のハートランドを連結するのがアラビア半島。マッキンダーがその重要性を指摘したのは、石油資源の発見よりも早い。つまり、アラビア半島は石油がなくとも重要な拠点。
特にアラビア半島の付け根イスラエルは、地中海にも面しており、東西南北、アジア・欧州を結ぶ世界の中心ともいえる要衝。ゆえに戦争が絶えない。

マッキンダー地政学『ハートランド』 – ウクライナ危機、NATO東方拡大の正体とは?ウクライナ危機2022はなぜ起こったのか? この問いに対する答えの一つが、マッキンダー地政学「ハートランド理論」

リムランド

地政学-リムランド
位置 ハートランドの外円部
(欧州~中東~インド~東アジア)。
日本、台湾、朝鮮半島、インドシナ半島
特徴 温暖で雨量も多く、農業が発展
経済活動に適し、人口も多い

極寒地域であるハートランドが進出したり、大陸に進出するシーパワーが上陸することで衝突も起こりやすい地域。第二次世界大戦は リムランド争奪戦だったとの見方もある。

リムランドを制するものは ハートランドを制し
ハートランドを制するものは 世界の命運を制する。

スパイクマン

リムランドとその周辺の別称
危機の弧 マッキンダー
不安定の弧 米国防総省
自由と繁栄の弧 第一次安倍内閣の価値観外交
(麻生外相)
バッファゾーン

緩衝地帯。大国同士が直接衝突することを防ぐ役割を果たしている地域や国。代理戦争が発生しやすい。

朝鮮半島 日本、中国、ロシア
バルカン半島
(ユーゴスラビア) NATO諸国、ロシア
東欧
(ウクライナ) NATO諸国、ロシア
シャッターゾーン

社会的な分断要因があり、政治的に不安定な地域。分断要因とは、民族、言語、宗教など。
位置 バルカン半島、中東など
特徴 大国から分断を利用した干渉を受けやすい
紛争が頻発

ワールドシー理論 – シーパワー

地政学-ワールドシー
シーパワー 国境の多くが海に面する海洋国家

  • 日本、英国、米国
    提唱者 米国の海軍士官アルフレッド・マハン
    特徴 長い海岸線と良湾
    強い造船業と海軍、志願制
    植民地が多い
    主張 ワールドシーを制するものが、世界を制する

米国がハートランドを直接制することは不可能。ゆえにマハンがハートランド周辺のリムランド、マージナルシー(後述)を制することで、世界支配できる方法を考案。

海洋国家は海外へ進出しやすいので、世界中で植民地を獲得し帝国を構築。

ワールドシー

太平洋と大西洋という大きな海洋。

ワールドシーにおける世界の物流、軍事行動を支配すれば、世界を制覇できる。現時点ではアメリカの影響力が強い。
マージナルシー

地政学-マージナルシー

大陸外側の弧状列島、半島、群島に囲まれた海域。つまり、リムランドを囲む海。まさに日本を取り囲む海域。

中曽根総理は日本列島を「不沈空母」と称した。

ベーリング海
オホーツク海
日本海
東シナ海
南シナ海

マージナルシーを支配することは、リムランドの支配に繋がる。そして リムランドを支配するものは、ハートランドを制する。

在日米軍基地の意味

米軍がマージナルシー周辺部である横須賀、沖縄に重要拠点を築いているのは、ワールドシーを支配しておくため。日本防衛が真意とは限らない。

シーレーンとチョークポイント

海洋国家が制海権を持つためには シーレーンの安全確保と、そのためのチョークポイント支配が必須。

シーレーン

自国の貿易を守る安全な海上交通路のこと。

7つの海をくまなく支配するのは膨大なコスト。海上交通路シーレーンを確保することが、すなわち海洋の支配を意味する。

地政学-シーレーンとチョークポイント
日本のシーレーン

日本がシーレーンを安全確保できない場合、石油エネルギーの99.7%が不足。国家の生死に直結する。

台湾、尖閣諸島、沖縄の防衛を絶対に譲歩してはならないし、自衛隊がソマリア沖、アデン湾を防衛する理由だ。

チョークポイント

地政学-チョークポイント

シーレーンを確保するための要衝となる海峡や運河。低コストの防衛で莫大な効果を望め、通航料も徴収できる。

世界規模では約10ヶ所前後存在し、その多くで英米の影響力が強い。

マラッカ海峡
ホルムズ海峡
スエズ運河
パナマ運河

大陸 vs 海洋の攻防史

地政学-ランドパワー、シーパワーの比較

歴史的にランドパワーとシーパワーは衝突を繰り返してきた。
10?15世紀 ランドパワー優位
物流は陸路中心
15?19世紀 シーパワー優位
大航海時代
スペイン無敵艦隊。大英帝国
19?20世紀 ランドパワー優位
鉄道網の発達
ドイツ、ロシア台頭
20世紀後半 シーパワー優位
戦勝国アメリカと その同盟国日本が台頭

リムランド、マージナルシーでの激突

守りに強く、攻めに弱いのがハートランド。ロシアは極寒ゆえに守備は鉄壁だが、不凍港を求め南下政策も実施。
シーパワーは海上交通の安定のため、ユーラシア大陸周辺の良港・良湾を獲得、維持したい。

ここで両者が衝突するのがリムランドであり、マージナルシー。世界規模の軍事衝突は多くがこのエリア。二次に渡る世界大戦も発生。

地政学-リムランド・マージナルシー、陸vs海
1950年~ 朝鮮戦争
1955年~ ベトナム戦争
1991年~ 湾岸戦争
2001年~ アフガニスタン戦争
2003年~ イラク戦争
「ランドパワーとシーパワーは両立できない」

ローマ帝国(ランドパワー)海洋進出で国力低下
大日本帝国(シーパワー)大陸進出で国力低下

尖閣諸島や沖縄、南シナ海という第一列島線への進出を狙う中国。地政学上のセオリーでは、中国の一帯一路という野望は挫折することがわかっている。
ディープステートの野望『新世界秩序』とは? – 1%による99%支配計画コロナパンデミックによるショックドクトリンでグレートリセットが懸念される中、新世界秩序(New World Order)計画が
英露「グレートゲーム」

19世紀以降の海洋国家イギリスと、大陸国家ロシアの覇権争いはグレートゲームと称される。両者はチェス盤で陣取り合戦をするかのように、クリミア、アフガニスタンを奪い合った。

地政学-英露グレートゲーム
日露戦争はグレートゲームの代理戦争

日露戦争は、東アジアにおける英国の補完戦力として扱われた日本が、結果として英国のために戦ったグレートゲームの一環。
ウクライナ危機もグレートゲーム

冷戦とそれ以降のグレートゲームは、米国が英国を引き継ぎ継続。2022年のウクライナ危機もグレートゲームの文脈で理解できる。

今日に継続するグレートゲームについては後日、別稿で言及する。

英国流 バランス・オブ・パワー

勢力均衡戦略。特定国家が突出して強力にならず、勢力を均衡させて国際秩序を守るメカニズム。

かつての大英帝国のお家芸であり、冷戦以降もアメリカがその伝統を継承。

地政学-バランス・オブ・パワー
「サクッとわかる教養地政学」より
英国流バランス・オブ・パワー

地政学-英国流バランス・オブ・パワー

大陸国家ドイツやロシアが発展すると、フランスをそそのかしたり、独露両者を対決させたりするなどの外交術で力を発揮。漁夫の利を得て来た。
ディープステートの戦略①『両建て作戦』 – ネオコンも共産主義もDeepStateが産みの親?ディープステートの手口①『両建て作戦』について解説。左右に武器を販売。なんと東西冷戦ですら彼らの茶番

地政学の歴史 – 帝国主義とグローバリズム

地政学(Geopolitics)は、1899年 スウェーデンの政治学者ルドルフ・チェーレンが初めて用いた用語。

国破れて山河あり
杜甫

世界の地理は基本的に時代を超えて同じ条件であり、それを前提に各国の戦略は練られている。ゆえに、地政学は現実的な学問だ。

戦争の原因がイデオロギーなどの建前よりも、領土や資源の獲得という本音を 地政学は隠さない。

帝国主義 = グローバリズム

19世紀産業革命で欧州列強が手にしたパワー。列強は帝国主義による植民地政策を促進。海洋国家である大英帝国が全盛期を迎える一方、大陸国家であるドイツ、ロシアも勢力を拡大。

帝国主義という体裁をしたグローバリズムが、欧州列強のパワーバランスを揺るがしていた。

ディープステートの戦略②『国際協調主義』 – 外圧で国家を上から支配?国連、EU、WTO、IMFなどの国際機関は、平和を装いながら 世界中の国家主権を剥奪してきた。その目的は世界統一市場による新世界秩序。民主主義選挙を経ないでこっそり各国を支配するその手口とは?

地政学の誕生

こうした背景で地政学の原型が発展。

地政学開祖の一人とされるハルフォード・マッキンダー卿は、英国の覇権が維持されるための道を真剣に考えた。

その結論こそ「ハートランドの支配が世界覇権を決すること」であり、ゆえに英国がソ連を封じる必要性を主張した。

地政学とグローバリズム

こうして振り返ると、地政学の誕生は帝国主義と関係している。帝国主義の最終形態は世界制覇。つまり世界統一政府であり、それはすなわちグローバリズム。

海洋国家 英国のマッキンダー卿が、大陸のハートランド理論を主張したことは興味深い。大英帝国には大陸を牛耳り、世界を覇権する野心があることを示唆している。

別稿で解説する予定だが、英国の世界覇権志向を継承したのが、21世紀の米国である。

英米に潜むグローバリズム

本稿でまとめた地政学は主に英米流の地政学だが、英米の根底にグローバリズムが潜んでいることを感じたのではないだろうか。

極論を言えば、各国が自給自足すれば世界は平和であるはず。帝国主義は植民地から資源・資産を奪う思想だ。

英米の地政学は世界制覇を前提としている。

日本で地政学は禁止

日本地図

敗戦国である日本とドイツにおいて、地政学がタブーとなった理由はなんだろうか。

ドイツ地政学は封印

ドイツの地理学者カール・ハウスホーファーの理論は 日本やナチスにも影響を与えた。

ドイツがソ連や日本との同盟
輸入に依存しない国家経済の自給自足
生存圏*

ハウスホーファーの主張は連合国(英米)にとって不都合なものばかり。これでは日独露がそれぞれ発展してしまうし、ユーラシア同盟を結成されてしまえば手がつけられない。
ハウスホーファーはナチスを正当化したとの理由で批判を受け、戦後まもなく自殺。以後、ドイツにおいて地政学はタブー扱い。

*生存圏 – 国家が生存するために必要な政治的支配が及ぶ領土。人口増加に伴い資源が必要になれば、その生存圏を拡張するのは国家の権利であるとも主張した。

日本の取るべき進路

彼を知り己を知れば百戦殆うからず
孫子

GHQは日本での地政学を禁じ、焚書までした。GHQは日本国民が地政学の意味を理解することを非常に恐れたのである。それはGHQ、在日米軍の正体を知られることでもあったからだ。

21世紀の日本人は 今こそ地政学を再発見すべき時だ。日本は地政学上、世界覇権の趨勢を決する要衝なのだから。

そして地政学を学ぶことは、日本のアイデンティティを深化させてくれるはずだ。

マッキンダー地政学『ハートランド』 – ウクライナ危機、NATO東方拡大の正体とは?ウクライナ危機2022はなぜ起こったのか? この問いに対する答えの一つが、マッキンダー地政学「ハートランド理論」
東欧カラー革命(色の革命)手法と事例まとめ – ソロスとCIAが政権転覆!2020アメリカ大統領選が当初から予想された通り、不正選挙疑惑で泥沼化。「東欧カラー革命」「アラブの春」がディープステート
戦争ビジネス①金融編 – 「死の銀行家」が戦争を扇動・拡大・長期化!? 戦争はなぜ起こるか?戦争はなぜ起こるのか?中央銀行、通貨発行権、金融ビジネスというタブーから迫ると国際金融資本がネオコン
ディープステートとは? トランプ演説による「世界とアメリカを牛耳る裏の支配者」について世界とアメリカの裏の支配者ディープステートとは? 左派ユダヤのグローバリストがFRB、中央銀行を操作する本物の錬金術とは?ケネディ、リンカーン暗殺の理由とは? トランプ大統領の
この記事のまとめ
地政学の基礎用語まとめ(ハートランド、リムランド、グレートゲーム 等) – GHQが日本に禁じた学問とは?

地政学とは「19世紀 欧米列強が、帝国主義を展開する上で発展した 軍事戦略の学問」
ランドパワー理論「ハートランドを制するものが、世界を制する」
シーパワー理論「ワールドシーを制するものが、世界を制する」
世界規模衝突の多くがリムランド、マージナルシーで発生する
帝国主義=グローバリズム
日本はGHQに禁じられた地政学を学び直す必要がある

※ この記事は「世界の深層シリーズ」の一部です。世界の深層 – グローバリズム、ディープステート、文化マルクス主義(リベラリズム)・共産主義 』

〔地政学(その4)〕

危機管理に効く「地政学」のススメ(後編)
https://spectee.co.jp/report/geopolitics_for_crisis_management_2/

『 前編では、地政学という学問についてや、基本的な概念や考え方をご紹介しました。後編では、それらを現在の国際問題にあてはめて考察してみることにします。
米中対立を読み解く

現在の国際情勢において、最大のトピックは「米中対立」ではないでしょうか。

中国はもともと世界第3位の広大な土地を持つランドパワーでしたが、近年では大幅な経済成長を成し遂げて国外に力を向ける余裕が生まれたことから、空母を建造するなど海洋進出(シーパワー化)を急速に進めています。これは世界最大のシーパワーである米国にとっては看過できないことで、地政学的なすみ分けができなくなっていることが基本的な構図と言えます。

前編で「シーパワーは、港を含む海上交通路や経済拠点のネットワークを持つ」と説明しましたが、それがわかるのが尖閣諸島の問題です。日本政府は歴史的にも、国際法上も明確に尖閣諸島は日本の領土であり、領有権の問題は存在しないというスタンスですが、なぜ近年になって急に中国はその領有権を強く主張し始めたのでしょうか。それは、中国がシーパワーとしての「拠点」を海上に得て、日本海や東シナ海を制覇するための足掛かりを持ちたいというのがその背景です。

その他にも、南シナ海での人工島の建設、スリランカなどでの港の建設、ジブチへの基地配備など、地政学的な観点から戦略的に「リムランド」に楔を打ち込んでいることがわかります。また、習近平政権が掲げる「一帯一路」は、陸と海の両方で中国とユーラシア大陸の国々を結んで貿易を促進する構想ですが、まさにこれまでのランドパワーに加えて、シーパワーを得ようという意図がそこから明確にうかがえます。

こうした中国の動きに対抗するのが、米国のインド太平洋戦略やその中心概念である「クアッド(日米豪印4か国の枠組み)」で、民主的国家が結束して中国をけん制しようとしています。また、日本も独自に「自由で開かれたインド太平洋」戦略を打ち出していますが、いずれも、インド洋・太平洋に張り出してシーパワー化する中国をハートランドに押しとどめることを狙ったものです。

人類の歴史を振り返ってみると、ランドパワーとシーパワーが両立した例はありません。ローマ帝国は広大な領土と道路など物流網を誇り、ランドパワーとして栄華を極めましたが、海洋進出とともに衰退しました。シーパワーの日本も、太平洋戦争では海の支配に加えてユーラシア大陸への進出を試み、第二次世界大戦での敗戦により失敗に終わりました。ランドパワーとシーパワーを同時に手に入れようとする中国の覇権的な動きがどう帰着するのか、こうした地政学の枠組みから見ることが有効だと考えられます。

地政学の視点からロシアを見る

もうひとつの例として、ロシアという国とその動きを、地理的な条件をもとに見てみましょう。

ロシアの国土面積は17,098平方キロメートル。2位のカナダの9,985平方キロメートルを大きく引き離して世界で最大の国です。しかし、ロシアの地理を立体的に見てみると、ウラル山脈が南北に国土を分断しており人の往来を制限していることから、その東西で様相が全く異なります。ウラル山脈より東はウラル・シベリア・極東の3つの地域に分けられますが、人口は少なく、開発は進んでいません。一方、欧州に近いウラル山脈より西のエリアは、面積としては全体の24%にすぎませんが、人口の実に74%が集中しており、首都のモスクワやサンクトペテルブルクといった都市もこちらに位置します。

また、国土の北側は、近年地球温暖化で変わりつつあるものの、大変寒冷な地域で、冬も含めて年中利用できる不凍港は少なく、自由に海に出ていける環境ではありません。そして西側には欧州やアメリカなどのNATO勢力が控えています。こうして見てみると、広大な土地を持ち、広く海に面したロシアが、実は様々な地理的な条件による制約を抱えていることがわかります。

ロシアは2014年、ウクライナのクリミア半島を強引に併合し、世界に衝撃を与えました。地政学的にその背景を読み解いてみましょう。一つ目の理由としてロシアは、NATO勢力との間のバッファゾーンに位置するウクライナに対する影響力を何としてでも保持したかったということがあります。二つ目の理由としては、クリミア半島にある良港「セヴァストポリ港」を支配することで、黒海を通って地中海に出ていくルートを確保したかったという背景があります。前述したようにロシアの北側は寒冷で自由に海にで出ていく事が難しいために、この「黒海ルート」を保持することはロシアにとって死活問題となるのです。

地政学はひとつの考え方、フレームワークであり、国際情勢の詳細を全て説明できるものではありません。しかし地政学の観点に立って地図を眺めてみると、また異なる様相が見えてくることも事実です。企業の危機管理担当としても、例えば海外への進出候補地を決める、サプライチェーンを設計する、赴任者や出張者の安全を考えるといった際に、地政学的な知識や観点は大きな味方になるのではないでしょうか。

(SN)
October 13, 2021
参考情報

Prisoners of Geography
http://www.amazon.co.jp/dp/1783962437
メールマガジン 』

〔地政学(その3)〕

〔地政学(その3)〕

危機管理に効く「地政学」のススメ(前編)
2021.10.06
https://spectee.co.jp/report/geopolitics_for_crisis_management_1/

『地政学とは

地政学とは、地理的な条件が国家に与える政治的、軍事的、経済的な影響をマクロの視点から研究する学問分野です。英国の地理学者であったハルフォード・マッキンダー(1861年~1914年)や米国の海軍将校であったアルフレッド・セイヤー・マハン(1840年~1914年)などによって理論化された近現代の地政学はその後、ナチスドイツや旧日本軍の領土拡張を正当化する論理の一つとして使われたことから、負のイメージを負いました。また第二次世界大戦後は、資本主義vs共産主義という「イデオロギーの対立」が先鋭化したこともあり、地理に重点を置く地政学は下火の時期が続きました。しかし昨今、書店では地政学をタイトルに冠する本が多く見られ、再び脚光を浴びるようになっています。

なぜ脚光を浴びているのでしょうか。それは、グローバル化が進展し、複雑にからみあってかつ流動的な世の中を読み解くにあたり、1万7000年の人類の歴史を通じて大きく変わっていない地理を軸に考えることの有用性が認められたからだと考えられます。後述するように、現在起きている国際間の対立などは地政学の理論によって、シンプルに整理することが可能です。

地政学的リスクとは、特定の地域が抱える政治的・軍事的・社会的な緊張の高まりや変化が、地理的な位置関係によって、国際政治や経済に及ぼす影響とその要因を指します。具体的にどのような事象を含まれるかの定義は様々にありますが、下記は世界経済フォーラムがGlobal Risks Reportという報告書の中で挙げた項目となります。

地政学は、歴史学、地理学、政治学、軍事学、文化学など様々な見地から研究を行うために広範にわたる知識が不可欠となる学際的な学問ですが、その基本的な考え方に触れるだけでも、国際情勢やそこから生まれるリスクや危機というものを考察する助けになると思われます。ここでは基本的な考え方である「ランドパワーとシーパワー」、「ハートランドとリムランド」という概念と、拠点の重要性及びチョークポイントについてご紹介します。

基本的な考え方①:ランドパワーとシーパワー

「ランドパワー」とは、陸上における経済拠点や交通網などを支配・防衛するための軍事力・輸送力を含む総合的な能力を持つ勢力で、ユーラシア大陸にある大陸国家、具体的にはロシア、中国、ドイツなどが該当します。一方で「シーパワー」とは、港を含む海上交通路や経済拠点のネットワークを持ち、それにより海洋を支配・利用するための総合能力を持つ海洋国家で、具体的な例としてはアメリカ、イギリス、日本などが挙げられます。

歴史を振り返ってみると、ランドパワーの国が領土を拡張しようとふるまい、これに対して自分の領域を守ろうとするシーパワーの国が港や基地を整備して権益を守ろうとする、ということを繰り返してきました。そのせめぎあいが歴史を作ってきたと言うことができます。陸路での物流が中心だった時代から、15~19世紀は大航海時代を迎え、スペインやイギリスが世界中の海を制覇したシーパワーの時代でした。19世紀から20世紀前半にかけては鉄道網や道路網などの建設で陸上輸送能力が急激に発達し、ドイツやロシアといったランドパワーの国が台頭、2つの世界大戦を経験しました。そして20世紀後半からにかけては、第二次世界大戦の戦勝国のアメリカやその後勃興した日本がシーパワーの国として繁栄を極めました。

基本的な考え方②:ハートランドとリムランド
ランドパワー/シーパワーという分類は、その国の勢力の性質を表すものですが、領域に関する概念が「ハートランド」と「リムランド」です。

「ハートランド」とは、シーパワーの影響がほとんど皆無であるユーラシアの中央部から北部に広がる領域を指します。現在のロシアと重なるエリアです。このエリアを支配することは巨大なランドパワーを得ることと同義であると考えられていますが、雨が少なく寒冷であり、古くから人口は多くなく、文明が栄えることはあまりありませんでした。一方の「リムランド」とはユーラシア大陸の海岸線に沿ったエリアで、中国東北部から東南アジア、インド半島、アラビア半島を経てヨーロッパ大陸に至る長大なユーラシア沿海領域を指します。この領域は温暖で雨量が多く、農耕の生産性が高く、経済活動が盛んであり、大都市と多くの人口がここに集中しています。

歴史上、厳しい環境のハートランドの国は、豊かなリムランドにたびたび侵攻し、リムランドの国やその外側のシーパワーの国と衝突しています。朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争などが例となります。リムランドとは、「ハートランドのランドパワー」と、「周辺のシーパワー」がぶつかり合い、国際紛争が起きやすい地域と言うことができます。

基本的な考え方③拠点の重要性とチョークポイント

どの勢力がどこに拠点を構えているのかを俯瞰することも、国際情勢を見る際に大変重要です。「シーパワーは、港を含む海上交通路や経済拠点を維持・防衛する」と前述しましたが、最大のシーパワーであるアメリカ合衆国が、多くの駐留人口を抱える海外拠点を見てみましょう。

これら主要な基地が、前述のリムランド及びその周辺に配置されていることにお気づきのことと思います。米国はランドパワーへの対抗として拠点を築き、その拡大を抑え込もうとしているのです。

また、「チョークポイント」という地政学上で非常に大切な概念がありますが、これについては別稿で説明しているためそちらをご参照ください。

海の物流、危機管理のカギを握る「チョークポイント」・・・スエズ運河での座礁事故を受けて
https://spectee.co.jp/report/suez_chokepoint/

後編ではここまで説明した概念を用いて、現在の国際情勢を読み解きます。

(SN)
October 06, 2021
参考情報

The Global Risks Report 2021 (World Economic Forum)
https://www.weforum.org/reports/the-global-risks-report-2021

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〔地政学(その2)〕

〔地政学(その2)〕

リムランド
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%A0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89

『リムランド (Rimland) は地政学の用語のひとつ。

概要

「ニコラス・スパイクマン#リムランド理論」も参照

ニコラス・スパイクマンによる造語であり、北西ヨーロッパから中東、インドシナ半島までの東南アジア、中国大陸、ユーラシア大陸東部に至るユーラシアの沿岸地帯を指す。ハルフォード・マッキンダーの主張した内側の三日月地帯を指しており、ハートランドを覆うように三日月地帯を形成しているのが特徴である。

スパイクマンはランドパワーとシーパワーの間に起こる紛争がすべてこの地帯で発生していることから、リムランドこそ最も重要な地政学的地域であると主張した。スパイクマンはアメリカがリムランドに対して、その力を投影させ、ソヴィエト連邦を中心とする他の勢力の浸透を阻止させ、グローバルな勢力均衡を図るよう提言した。また、スパイクマンは「リムランドを制するものはユーラシアを制し、ユーラシアを制するものは世界の命運を制する。」と述べている。

関連項目
ウィキブックスに地政学/理論/リムランド理論関連の解説書・教科書があります。

地政学
大陸国家
海洋国家
ハートランド
シャッターベルト
不安定の弧

カテゴリ:

地政学海洋国家国際関係論

最終更新 2022年5月6日 (金) 02:04 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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ニコラス・スパイクマン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%9E%E3%83%B3#%E3%83%AA%E3%83%A0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%90%86%E8%AB%96

『ニコラス・ジョン・スパイクマン(Nicholas J. Spykman, 1893年10月13日 – 1943年6月26日)は、オランダ系アメリカ人の政治学者・地政学者で、イエール大学の国際関係学の教授。49歳でガンによって死去した。

彼の教え子にはまず第一に地理の知識を叩き込ませていたという。地理の知識なしに地政学を理解するのは不可能であるからである。

リムランド理論

ニコラス・スパイクマンはマハンのシーパワー理論やマッキンダーのランドパワー理論を踏まえてエアパワーにも注目しリムランド理論を提唱した。

マッキンダーが「東欧を制するものはハートランドを制し、ハートランドを制するものは世界島を制し、世界島を制するものは世界を制する。」と述べたのに対し、一見広大で資源に恵まれているハートランドが、実はウラル以東では資源が未開発な状態で農業や居住に適していないために、人口が増えにくく工業や産業が発展しにくい点、反対にリムランドは温暖湿潤な気候で人口と産業を支える国々が集中している点にスパイクマンは着目し「リムランドを制するものはユーラシアを制し、ユーラシアを制するものは世界の運命を制する。」と主張した。

またスパイクマンは、旧世界(南北アメリカ大陸以外の大陸)の紛争はハートランドとリムランド間の紛争、リムランド内での紛争、リムランドとシーパワー間の紛争のようにリムランド一帯に集中している点と、地理的な位置から南北アメリカ大陸がユーラシア大陸だけでなく、アフリカ大陸やオーストラリア大陸に包囲されている点、に気づき旧世界の大西洋沿岸と太平洋沿岸の2つの地域からアメリカの安全を脅かすリムランドを支配する国家あるいはリムランド国家の同盟の出現は脅威だと考え、積極的にその試みを阻止する対外政策の必要性を主張した。

彼はリムランド理論を踏まえて米国の政策に以下の提案を行っている。

ハートランドへの侵入ルートにあたるリムランドの主要な国々とアメリカが同盟を結ぶこと。この侵入ルートをふさぐ強力なリムランド国家(例、ヒトラー・ドイツによるフランスやノルウェー支配/ギリシャやトルコとの同盟)をつくらせないこと。

リムランド諸国間のアメリカ抜きの同盟をバラバラに切断するが、同時に、ハートランドの国にリムランドの国々を支配させないようにする(戦後のNATOや冷戦につながる)。
現代(当時は第二次世界大戦中)の船舶技術において、アメリカをとりまく大西洋も太平洋も「防波堤ではなく、逆に高速道路である」と認識しており、現代の兵器技術においていかなる国のパワーも地球上のいかなる場所であれ「地理的距離とは無関係に投入できる」と見抜いており、アメリカの孤立主義(モンロー主義)の不毛と危険を警告し続けた。

また、この理論に基づけばこれらリムランドに該当する極東の国々つまり中国、朝鮮の間でそれぞれが分裂した状態であることが望ましいということになると指摘する研究者もいる。

名言

「地理とは外交政策において最も基本的なファクターである。何故ならば地理は不変であるからである。」

“Geography is the most fundamental factor in foreign policy because it is the most permanent.” —from The Geography of the Peace.

「地理的条件は変わる事はない。しかし外交政策におけるその意味合いは変化しうる。」

“Geographic facts do not change, but their meaning for foreign policy will.”
著書

The Social Theory of Georg Simmel, (University of Chicago Press, 1925).

山下覺太郎訳『ジムメルの社會學論』(寶文館, 1932年)

America's Strategy in World Politics: the United States and the Balance of Power, (Harcourt, Brace, 1942).

渡邉公太訳『スパイクマン地政学 世界政治と米国の戦略』(芙蓉書房出版, 2017年)
小野圭司訳『米国を巡る地政学と戦略 スパイクマンの勢力均衡論』(芙蓉書房出版, 2021年)

The Geography of the Peace, (Harcourt, Brace, 1944).

奥山真司訳『平和の地政学――アメリカの大戦略の原点』(芙蓉書房出版, 2008年 )』

〔地政学(その1)〕

ハートランド
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89

『ハートランド(英: Heartland)は、地政学の用語。ハルフォード・マッキンダーが『デモクラシーの理想と現実』の中でユーラシア大陸の中核地域を中軸地帯と呼んだことに始まり、後にハートランドと改められた。

概要
出典:”The Geographical Pivot of History”, Geographical Journal 23, no. 4 (April 1904)

中軸地帯、内側の三日月地帯と外側の三日月地帯

マッキンダーは20世紀初頭の世界情勢をとらえ、これからはランドパワーの時代と唱えた。とりわけ、それまでの歴史が海軍大国(海洋国家)優位の歴史であったのに対し、鉄道の整備などにより大陸国家の移動や物資の輸送などが容易となったことで、ハートランドを支配する勢力による脅威が増しているとし、海洋国家同士の連携を主張した。

マッキンダーは1900年代初頭の世界地図をユーラシア内陸部を

中軸地帯(ハートランド) (Pivot Area)
内側の三日月地帯 (Inner or marginal crescent)
外側の三日月地帯 (Lands of outer or insular crescent)

に分け、「東ヨーロッパを支配するものがハートランドを支配し、ハートランドを支配するものが世界島(ワールド・アイランド)を支配し、世界島を支配するものが世界を支配する」と説き反響を呼んだ。また、マッキンダーはユーラシアに存在する大国群をシーパワー・ランドパワーに分けて、それぞれが対立する関係にあると論じ、大陸国家がヨーロッパを中心として熾烈な戦争を始め、戦線を拡大していくに違いないと予見した(事実ナチス・ドイツとソビエト連邦が熾烈な覇権争いを行った)。

現代への影響

しかしマッキンダーは、当時次第に注目されつつあった空軍力の影響力を重視せず、第一次世界大戦以降、航空機戦力を中心とした戦争が中心となるにつれ、次第にマッキンダーのハートランド論は時代遅れと批判されることとなった。

しかしこうした国際政治の構造や力学に鋭い視点を展開したマッキンダーのハートランド論は時代環境の変化に照らして、さらに地政学の世界で応用的に用いられ、ニコラス・スパイクマンによって主張されたリムランド論や、コリン・グレイなどによってハートランドのモデル化など、後の地政学や軍事戦略におおいに影響を与えたとされる。

カテゴリ:

地政学海洋国家国際関係論ユーラシア

最終更新 2021年6月7日 (月) 09:15 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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戦間期ポーランドから見る地政学的な定石

戦間期ポーランドから見る地政学的な定石【フィスコ世界経済・金融シナリオ分析会議】https://jp.reuters.com/article/idJP00093300_20200714_00220200714

『(2020年7月14日9:32 午前Updated 2年前)

1918年から1939年の間に存在したポーランド第二共和国は、その地理的な特性上、2つの潜在的でかつ伝統的な敵であるドイツとロシアに挟まれていた。これに対抗するために、ポーランドが行った2つの戦略構想について見てみようと思う。

■インテルマリウム/ミェンズィモジェ(海洋間)構想

ここで言う海洋間は、バルト海から黒海までを指す。この構想では、この海洋間を跨ぐ、なるべく1つの連合体を作り、これでドイツやロシア(ソ連)に対抗する軸とするという構想である。

海洋間の連合体が想定する領域はもともとポーランド・リトアニア共和国という、ポーランドにとっての黄金期における領土を概ねカバーしている。ロシア帝国がポーランドのほとんどを支配下においていたときに、ロシアの外務大臣を務めたことがあるチャルトリスキが19世紀半ばにおいて、ポーランドの再独立のためにその時代にあわせたポーランド・リトアニアを再興しようとしたことがインテルマリウム構想の元祖とも言える。

ポーランドが再独立を果たした後、ユゼフ・ピウスツキ(ポーランドの初代国家元首、元帥など非常に重要な立ち位置にあった)は上記の大連合を構築しようと努力する。しかし、リトアニア自身がポーランドの支配下になる可能性を危惧、ウクライナも同様に思い、ベラルーシあたりの地域ではそもそも独立国を作ろうとする運動が弱かった。また、ポーランドは自らの国境画定のための紛争を数回周辺国と起こしたことも、ポーランドを軸とした連合体の実現可能性を低めた。ポーランド内からも「ポーランド民族」のみの国家を望む勢力から反対に会った。ピウスツキが途中から事実上の独裁者になったことで、「民主主義的な価値観」に基づくはずだった連合体に対する懸念がさらに増した。

「独立したウクライナなくして独立したポーランドはない」という考えが、この戦略では重要な位置を占める。これは、同盟を結んでいると共に、重要な緩衝地帯としての独立国が必要であることを示している。しかし、他方では国家の本能をそのまま遂行するかのように、なるべく自らの国境をより東におきたいという意味でもある。そこにいる民族ポーランド人を併合するために、友好関係にあることが重要であるウクライナに対しても紛争を起こしてしまってもいる。民族統一と「真の独立」を志す感情が、長期戦略の合理性を上回ってしまったと見ていいかもしれない。

1920年から1921年の間でおきたポーランド・ソ連戦争において、ポーランドが事実上勝利したのにも関わらず、同盟していたウクライナがソ連に飲み込まれたことによって、連合体構想が事実上瓦解した。これの代わりに、バルトからバルカンまで、よってチェコスロバキア、ハンガリー、北欧諸国、バルト三国、イタリア、ルーマニア、ブルガリア、ユーゴスラヴィア、ギリシアまでを一つの大同盟にする戦略が考えられた。しかし、チェコスロバキアやリトアニアと国境紛争を起こしたことでポーランドが信用されてないこと、構成の候補国間の関係が必ずしも良好ではなかったことから、各国の都合に合わせた個別の小さい同盟が作られるのみにとどまった。この中で、ポーランドはルーマニアと同盟を結び、ピウスツキが1935年に死去した後に、これを拡大してポーランド、ハンガリー、ルーマニアを軸とした「第三の欧州」という構想も練られたが、これは進まなかった。

ポーランドがドイツとソ連に侵攻され、亡命政府が立てられると、それまでの同盟構想があった国々の亡命政府との交流、中東欧における連合体を作ることに関する話し合いが進められた。亡命政府の存在で、とりあえずポーランドの生存に向けての今までの基礎戦略が受け継がれたことになる。

ソ連崩壊後に伴って、ワルシャワ条約機構がなくなった。これにより、上記に述べた構想の候補国が徐々にNATOや欧州連合に加盟すること、いわゆるヴィシュグラード・グループなどを作り、大同盟によって大国に対抗するという構想が現代になって事実上達成されたともみられる。

■プロメテウス主義

プロメテウス主義は、インテルマリウム構想と並行して行われた戦略的構想である。プロメテウスと名付けたのは、ゼウス(大国)の意思に反して人類に火(民族自決、自由)を授けたという神話からとったもので、特にロシア帝国及びその後継国家であるソ連に対して、内部の民族主義を刺激することで弱体化することを目的とした。

プロメテウス主義の歴史としては、ピウスツキが日露戦争中の1904年、日本政府に対して、ロシア内の少数民族らを支援することが日本の戦争遂行を助けるとともに、各国の自由をもたらすため、それを支援すべきというメッセージを送ったことがはじめとみられる。
実際に第一次世界大戦後にポーランドが独立した後、ポーランドが旧ロシア帝国内の民族自決に向けて積極的な支援を行おうとした。しかし、ロシア帝国をこれ以上弱体化したくなかった西洋諸国と、ロシアの反共白軍の抵抗にあったため、ロシア内戦の混乱中に独立した国は長続きしなかった。別途、ドイツ主導による「ウクライナ国」の建国もあったが、第一次世界大戦でのドイツ敗北によってこれも消滅した。

ポーランドのプロメテウス主義は第一次世界大戦直後において、バルト三国やフィンランドの独立を早い段階での承認をし始め、ウクライナ、ジョージア、アゼルバイジャン、各コサック自治体、コーカサス地域の民族自決を目指す集団に対する支援も行った。特に重要なのが(途中、国境をめぐる紛争もあったが)ウクライナ人民共和国に対する支援である。プロメテウス主義の一環として、クリミア半島をポーランドの保護国にすることが国際連盟でも提案された。

前述のポーランド・ソ連戦争でウクライナの独立がなくなってからは、ウクライナや黒海沿岸国の「正統」政府の亡命を推進させることなどを行い、この時期から積極的に外務省と参謀本部にプロメテウス主義を担う人員が固まり始めた。しかし、ピウスツキが1923年から1926年まで一時期、権力の座から降りた際、スターリンがソ連内での民族自治体制度で独立の機運を低くすることに成功してきたこともあり、ポーランド政府もプロメテウス主義をスケールバックした。だが、ピウスツキが1926年のクーデターで政権を掌握すると、外務省と参謀本部にプロメテウス主義を推進する部局が正式に設立され、各民族自決を目指す組織に対しての積極的な支援が開始された。

しかし、1932年に締結されたソ連・ポーランド不可侵条約、世界経済情勢悪化による予算の低下、ピウスツキ含むプロメテウス主義を推進していた重要人物らの相次ぐ死、そしてナチスドイツの影響下にある民族主義団体の設立や別チャンネルからの支援によるポーランド影響力の低下もあり、全般的にプロメテウス主義の推進が困難となった。中東欧における各民族自決のプロセスにポーランドが中心的な役割を果たせなくなったことはポーランドの影響力低下を招き、最終的にポーランドがその独立を失った理由の一つであると、プロメテウス主義推進に携わっていた情報将校は分析する。

■戦間期ポーランドの戦略はどこでも見られる?

このように、自国の影響力やその主権を守るためには、大同盟のようなものを作ることによって一国だけで対処が難しい国に対抗するというやり方が一つ。そして、できるのなら相手国の内部の不安要因を煽ることによって、良ければ緩衝地帯にする、一番悪くても相手国を弱体化させて自国への脅威を減らすという動き。この二つは様々な強度で世界の国々が行っていると考えられるため、ポーランドという非常に難しい立場にあった国が取らざる得ない積極的な行動という前提に立てば、全般的に国家の本能的な行動パターンがある程度見えてくると考えられる。

地経学アナリスト 宮城宏豪

幼少期から主にイギリスを中心として海外滞在をした後、英国での工学修士課程半ばで帰国。日本では経済学部へ転じ、卒業論文はアフリカのローデシア(現ジンバブエ)の軍事支出と経済発展の関係性について分析。大学卒業後は国内大手信託銀行に入社。実業之日本社に転職後、経営企画と編集(マンガを含む)を担当している。これまで積み上げてきた知識をもとに、日々国内外のオープンソース情報を読み解き、実業之日本社やフィスコなどが共同で開催している「フィスコ世界金融経済シナリオ分析会議」では、地経学アナリストとしても活躍している。

《SI》
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ミェンズィモジェ(※ ラテン語で「海洋間の」という意味のインテルマリウム(羅: Intermarium)という名前でも呼ばれている。 )

ミェンズィモジェ(※ ラテン語で「海洋間の」という意味のインテルマリウム(羅: Intermarium)という名前でも呼ばれている。 )
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%BA%E3%82%A3%E3%83%A2%E3%82%B8%E3%82%A7

『ミェンズィモジェ(波: Międzymorze、ウクライナ語: Міжмор’я、ベラルーシ語: Міжмор’е)は、かつてのポーランド=リトアニア共和国構成国の政治家によって何度も提言されてきた地理的計画のことであり、提唱者の中には、かつての構成国ではなかった周辺の国家をも包括するという考え方もされている。提唱された多国政体はその領域をバルト海から黒海にまで広げることになるため、ラテン語で「海洋間の」という意味のインテルマリウム(羅: Intermarium)という名前でも呼ばれている。

概要

ミェンズィモジェは、中欧・東欧の連合が形成されることを見越して[1][2][3][4][5]、当時のポーランド指導者でロシア帝国時代に政治犯であったユゼフ・ピウスツキによって追求され、その中でバルト三国(エストニア・ラトビア・リトアニア)やフィンランド[6]・ウクライナやベラルーシ・ハンガリー・ルーマニア・ユーゴスラビア・チェコスロバキアの勧誘を模索していた[7][8]。ポーランド名である “Międzymorze” は、ラテン語の “Intermarium” を直訳したものである[9]。

ミェンズィモジェ構想は、ポーランド王国とリトアニア大公国の合同によって成立し、16世紀末から18世紀末まで存在したポーランド=リトアニア共和国を見習い、その領域をバルト海から黒海にまで伸ばすことを標榜とし、同時にピウスツキはミェンズィモジェを、彼が目指していたロシア帝国領土の分割およびロシア帝国領から生じる収益の固有化などの方針(これはプロメテイズム(英語版)、またはプロメテアニズムと呼ばれている)を補完するものと位置付けた[10][11][12][13]。

ところが、ミェンズィモジェ構想はリトアニア人にとって「ようやく手に入れた独立に対する脅威」であるとされ、またウクライナ人にも「自分たちの独立願望を阻害する脅威」と認知された[14][15][16]。その一方でフランスはこれらの活動を支援したが、ロシア帝国やその他の西欧諸国はこの運動に反対していた[17][18][19]。ピウスツキの計画が失敗に終わって20年が経った頃には、彼が編入を試みたほぼすべての国家がソヴィエト連邦やナチス・ドイツに編入されてしまった(フィンランドはソヴィエト連邦との冬戦争にて幾分かの領土を失ったものの、国家の編入へと至ることはなかった)。

始まり

ポーランド=リトアニア共和国
詳細は「ポーランド・リトアニア共和国」および「ハーデャチ条約」を参照
ポーランド=リトアニア共和国の最大版図

ポーランドとリトアニアによる合同と軍事同盟の締結は、ドイツ騎士団やジョチ・ウルス、モスクワ大公国などの両国共通の脅威に対する相互援助を実現させた。この同盟は1385年に初めて締結され、ポーランド女王ヤドヴィガとリトアニア大公国のゲディミナス朝大公ヨガイラの婚姻が行われた。リトアニア大公のヨガイラは、後にヴワディスワフ2世としてポーランド国王に就任することとなった。

この連合はポーランド=リトアニア共和国として長く続くことになり、18世紀末のポーランド分割までその名を地図に刻むことになった。

共和国の下で、この計画は「ポーランド=リトアニア=モスクワ共和国」と呼ばれる国家の樹立を標榜するまでに至ったが、ついに計画が実現することはなかった。

チャルトリスキの計画

一月蜂起にて掲げられたポーランド=リトアニア=モスクワ共和国の紋章。ポーランド王国の白い鷲、リトアニア大公国の騎士、モスクワ大公国の大天使ミカエルと各国の紋章のモチーフが描かれている。

1832年11月から1863年の一月蜂起にかけて、ポーランド=リトアニア共和国を復活させるという考えが、当時パリに亡命中であったポーランド王国の貴族アダム・イエジィ・チャルトリスキによって提唱された[20]。

アダム・イエジィ・チャルトリスキ

チャルトリスキは、1792年のポーランド=ロシア戦争にてロシア帝国と戦い、1794年のコシューシコ蜂起にも参加をするつもりだった(彼はその道中のブリュッセルにて逮捕されたため参加できなかった)。その後、1795年に彼と弟はロシア帝国陸軍への加入を果たした。当時の国王エカチェリーナ2世は彼らをとても気に入り、彼らから没収していた土地の一部を回復させてやるほどであった。チャルトリスキは、ロシア皇帝パーヴェル1世とアレクサンドル1世の下で外交官や外務大臣に務め、ナポレオン戦争の最中には対仏大同盟の結成にも寄与した。彼は1830年11月に発生したポーランド蜂起の指導者の一人でもあり、ロシア帝国による蜂起の鎮圧後には死刑を宣告されるも、最終的にフランスへの亡命を許された。

1827年に完成し1830年にのみ出版された彼の著書 ”Essai sur la diplomatie” (外交論)において、チャルトリスキは「国家の支配域を南や西へと拡大し、東や北からの到達不可能な自然の摂理によって、ロシアはヨーロッパの継続的な脅威になる」と気付き、また「奴隷よりも友人」と関係を築きながらは上手くやっていくだろうと述べた。また彼はプロイセンによる将来的な脅威を突き止め、東プロイセンのポーランドへの編入を力説した[21]。

チャルトリスキの外交努力はピウスツキのプロメテイズム計画、特にポーランド独立を他のヨーロッパの被支配諸国の運動(その中にはコーカサス山脈に位置するジョージアまで含まれていた)から見抜いていた[22]。

チャルトリスキは、フランスやイギリスやオスマン帝国のサポートによってポーランド=リトアニア共和国が復活することを何より切望しており、その共和国にはチェコ人・スロバキア人・ハンガリー人・ルーマニア人・そして後にユーゴスラビアを形成する南スラヴ人が含まれていた。彼の構想では、ポーランドがハンガリー人とスラヴ人・ルーマニア人との闘争の調停を行えるように出来ていた[23]。この構想は1848年革命が発生する中で到達できると考えられていた[23]が、西欧諸国からの支援が得られなかったこと、ハンガリーとチェコ・スロヴァキア・ルーマニアとの間で妥協が取れなかったこと、ドイツ民族主義が勃興していたことが合わさり失敗に終わった[23]。

それにもかかわらず、ポーランドの歴史研究家マリアン・カミル・ジエヴァノフスキ(英語版)は「王子の努力は16世紀のヤゲヴォ朝政権とユゼフ・ピウスツキのプロメテイズム連合体計画とを繋ぐ重要な考えである」と結論付けている[23]。

ピウスツキとミェンズィモジェ

ピウスツキの最初のポーランド=リトアニア共和国『復興』計画

ユゼフ・ピウスツキの戦略的な目標は、強化された準民主的なポーランド=リトアニア共和国を復活させることであった一方、ロシア帝国や後続のソヴィエト連邦を民族構成を利用して崩壊させるように活動していた[24](特にソヴィエト連邦の崩壊は彼のプロメテイズム計画の一つであった[24])。ピウスツキはミェンズィモジェによって誕生する連合をロシアやドイツの帝国主義に対抗する平衡力と見ていた[25][26]。

ジエヴァノフスキによると、ピウスツキのミェンズィモジェ構想は計画的に実施されることはなく、彼自身の実用本位的な直感に依存していたという[27]。また、ブリストル大学の学者ジョージ・サンフォード(英語版)によると、1920年のポーランド=ソヴィエト戦争の頃にはピウスツキもこの計画が実行できないことは理解していたという[28]。

対立

ユゼフ・ピウスツキ

ピウスツキの計画は、事実上全方面からの反対に遭った。ミェンズィモジェ構想によって自身の勢力圏が直接的に脅かされていたソヴィエト連邦は、ミェンズィモジェ協議の妨害工作を行った[18]。また、連合国はボルシェヴィズムが一時的脅威であるとしか認識せず、勢力均衡の観点から事態を荒立てることでロシアとの歴史的繋がりを失うことは望んでいなかった。

その為、ピウスツキがロシア白軍の支援を断ったことに対して連合国は激怒。ピウスツキや彼のミェンズィモジェ構想を疑問視し、ポーランドに対して「自身の民族圏に引きこもっていればよい」と主張するまでに至った[29][30][31]。

1918年に独立を勝ち取ったリトアニア[30][32]はミェンズィモジェへの加入に消極的になり、独立を模索していたウクライナ[19]は再びポーランドへ編入されることを恐れた[30]。

当時まだ民族意識が小さかった白ロシア(ベラルーシ)の人々は、独立することにもピウスツキによって連合に組み入れられることにも興味が無かった[30]。結局ピウスツキの計画は、第一次世界大戦とその後に引き続いて発生した幾度もの領土を巡った国境紛争(ポーランド=ソヴィエト戦争、ポーランド=リトアニア戦争(英語版)、ポーランド=ウクライナ戦争、チェコスロヴァキアとの国境紛争)によって、実現の機会を失ってしまったのだった。

また、ピウスツキの構想は国内からも反発の声が上がった。特に、ポーランド国民民主党(英語版)の党首ロマン・ドゥモフスキ(英語版)は非ポーランド人をポーランド国民化することによって民族的に同質なポーランドを建国することについて疑問を呈した[4][33][34]。ドゥモフスキを始めとするポーランドの政治家の多くは多文化的な連邦国家の形成に反対し、ポーランド人による単一の国民国家の形成をより望んだ[4]。サンフォードは1926年のクーデタにて再び権力を掌握したピウスツキの政策について、それまでと同じように東部のスラヴ民族の同化や権力の集中化に努めたと語った[28]。

幾人かの学者が、ピウスツキが自身の連合構想で語った選挙君主制に額面的に賛成していた[35]一方で、ほかの学者達は選挙君主制に対して懐疑的であり、1926年クーデタ以降にピウスツキが独裁的な権力を握っているという見方が強かった[13][36]。特筆すべきことにの構想に対してほとんどのウクライナ人歴史家が否定的な見方を示しており、例えばオレクサンドル・デルハチョフは「ミェンズィモジェ連合は、ポーランド人以外(殊にウクライナ人)への興味が薄い大ポーランドを形成することになっただろう」と述べている[15]。

ピウスツキは「ウクライナの独立無くして、ポーランドの独立はない」と主張していた。このことに関して幾人かの歴史研究家は、ピウスツキはウクライナの繁栄を確かなものとするためにロシアからウクライナを独立させることに関心があったのではないか、と考えている[37]。しかし、彼はガリツィアやヴォルィーニ(両地域ともウクライナに編入されていた地域である)獲得の為にウクライナと戦争を起こすことに躊躇しなかった上、独立した西ウクライナ人民共和国を滅ぼして係争地であったブク川以東にポーランド陸軍を進駐させた[38](ルヴフのようなポーランド人が大多数を占めていた都市は、その周囲がウクライナ人が多数住む地域にあったのだった)。

ポーランドの将来的な国境について、ピウスツキは「協商国に頼りながら西方で獲得できる地は皆ドイツに奪われた」と語った一方で、東方については「開閉可能なドアは多くあるし、それらは誰かが無理やり開けさせることでしか開かない」と語った[39]。東欧の混沌に際して、ポーランドは可能な限りの領土拡張に乗り出し、その一方でロシア内戦への西欧諸国の介入[38]やその行く末には関心を示さなかった。

失敗

ピウスツキの二番目のミェンズィモジェ構想

ポーランド=ソヴィエト戦争の余波によって、ピウスツキが計画してきたポーランドとウクライナの合同を礎とする中東欧連合は、遂に実現の機会を失った[40]。

ピウスツキは新たにバルト三国やバルカン諸国との連合や同盟を構想し始めた。この計画は中央ヨーロッパ連合体の形成を目指してポーランド・チェコスロヴァキア・ハンガリー・スカンディナヴィア諸国(スウェーデン・デンマーク・ノルウェー・フィンランド)・バルト三国(エストニア・ラトヴィア・リトアニア)・イタリア・ルーマニア・ブルガリア・ユーゴスラヴィア・ギリシアの参加が予定された。つまり、ミェンズィモジェはその領域をバルト海から黒海だけではなく、北極海から地中海にまで広げたということだ[40]。

しかし、この計画もまた失敗に終わった。ポーランドがチェコスロヴァキア・リトアニアから信頼されていなかったのであった。他の国々とは良好な関係が築けていたのだが、これらの両国はポーランドと国境を接しており、全ての参加国が互いに協力し合う関係を築かねばならないような巨大な中欧国家を建設することは事実上不可能だったのだ。結局、この計画は1921年にポーランド=ルーマニア同盟(英語版)が締結されるのみに終わり[41]、チェコスロヴァキアは対照的にフランスの支援の下で、ルーマニア・ユーゴスラヴィアと共に小協商を設立することに成功したのだった。

ユゼフ・ベックの「第三のヨーロッパ」構想。ポーランド、ハンガリー、ルーマニアから構成されている。

ピウスツキは1935年に死亡。二番目に考案されたミェンズィモジェ構想は、戦間期にポーランド外務大臣でピウスツキの子分でもあったユゼフ・ベックの下で「第三のヨーロッパ」構想として1930年代後半に実現が試みられることとなった[40]。

1932年に結ばれていたポーランド=ソヴィエト不可侵条約があるにも関わらず、ソヴィエト連邦はナチス・ドイツとの合同を許諾、中欧と東欧をそれぞれの支配下に置くことを承認した[42]。幾人かの歴史研究家は、ピウスツキのミェンズィモジェ構想のように、ドイツやソヴィエト連邦との平衡力を作ることに失敗したのは、第二次世界大戦における被支配国の運命だったのではないだろうか、と語っている[25][26][43]。

第二次世界大戦とその後

ヴワディスワフ・シコルスキ

バルト海・黒海・アドリア海およびエーゲ海にまたがって広がる地理的自主独立体を結成するという「中央ヨーロッパ連合」構想は、第二次世界大戦期にポーランド亡命政府のヴワディスワフ・シコルスキによって復活することになった。

1942年にその第一歩としてギリシア・チェコスロヴァキア・ポーランド・ユーゴスラヴィアの4亡命政府による会談が実施され、ギリシア=ユーゴスラヴィア連合(英語版)とポーランド=チェコスロヴァキア連合の将来的な結成が決定した。

しかし、この合意に対してチェコ人の反発や連合国の反感を招いたうえ、最終的にこの計画はソヴィエト連邦の反対によって失敗に終わった[40]。同時期にポーランド地下国家(英語版)の樹立が宣言されると、どんな単一の国家にも支配されない中央ヨーロッパの連合国家の建設を叫ぶ声が高まっていった[44][45]。

20世紀の末から21世紀にかけても様々な形でミェンズィモジェ構想は継続して考えられており、中にはポーランド主導ではないような地域安全保障協定などもある。しかし、ポーランドの近隣国は変わらず、そういった数々の提案を帝国主義的であると見ている[46]。
1991年にワルシャワ条約機構が解体。その後1999年にチェコ・ハンガリー・ポーランドの三国は北大西洋条約機構に加盟し、他の旧社会主義国家へNATO加盟への足掛かりを作った[42]。

事実、2004年にはスロベニア・スロバキア・ブルガリア・ルーマニア・バルト三国の七か国がNATOへと加盟した。ウクライナもヴィクトル・ユシチェンコ大統領がNATOへの加盟に関心を示した[47]が、次代のヴィクトル・ヤヌコーヴィチは一切関心を示さなかった[48]。

その後欧州連合にも、2004年にポーランド・スロベニア・スロバキア・チェコ・ハンガリー・バルト三国が、2007年にルーマニアとブルガリアが、2013年にはクロアチアが加盟している。

2011年5月12日、ヴィシェグラード・グループに参加する四か国(ポーランド・スロバキア・チェコ・ハンガリー)は、ポーランドを最高司令とする任務部隊の結成を宣言した。
2016年までに各国から独立した部隊として結成が予定され、NATOの指揮下には入らないことも同時に宣言された。さらに、2013年からヴィシェグラード・グループの四か国はNATO即応部隊の援助のもとで合同演習を実施することも決定した。研究者の中には、この一連の動きが中央ヨーロッパの統合を進める第一歩となるとする者もいる[49]。

また2015年8月6日、ポーランド大統領のアンジェイ・ドゥダは就任演説において、ミェンズィモジェをモデルにしたと考えられる中央ヨーロッパ連合の構想を発表した[50][51][52]。この構想に似たものとして、三海洋イニシアティブの第一回サミットが2016年にクロアチアのドゥブロニクにて開催されている[53]。

影響

ポーランドのミェンズィモジェ連合という概念は、世界中の様々な地域においても似たように確認できる。

19世紀初頭に、エルサルバドル・ニカラグア・ホンジュラス・グアテマラ・コスタリカといった中央アメリカの諸国において、イギリス帝国やメキシコ帝国、大コロンビアといった強国に対抗するために中央アメリカ連邦共和国という国家を樹立しようとする試みがなされた[54]。しかし、この連邦共和国は内紛によって短命に終わった[55]。

また20世紀末には、カンボジア=ベトナム戦争や中越戦争によって引き起こされた反ベトナム感情(英語版)の影響によって、ベトナム国内ではインドシナ半島を中心とした東南アジアに、中国などに対抗するための共産主義ミェンズィモジェを設立する構想が高まりを見せた[56]。しかし、ベトナムの帝国主義的発想や「中国・カンボジア・タイへの侵攻計画」に対して批判が殺到し、実現することはなかった。 』

ふたつの世界大戦を挟んだ時期、中欧で計画されたインテルマリウム復活の意味

ふたつの世界大戦を挟んだ時期、中欧で計画されたインテルマリウム復活の意味 | 《櫻井ジャーナル》 – 楽天ブログ
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202207040000/

『ラトビアのリガで6月20から「​三海洋イニシアチブ​」の首脳会議が開かれ、ウクライナの加盟が事実上決まったようだ。名称に含まれる「三海洋」とはバルト海、アドリア海、黒海を指す。

 この集まりは2015年にポーランドとクロアチアが主導して組織され、現在加盟している国はオーストリア、ブルガリア、クロアチア、チェコ、エストニア、ハンガリー、ラトビア、リトアニア、ポーランド、ルーマニア、スロバキア、スロベニア。そこにウクライナが加わるわけだが、その上にはアメリカとイギリスが存在している。

 ウォロディミル・ゼレンスキーが大統領を務めているウクライナの現体制は2013年11月から14年2月にかけてバラク・オバマ政権が仕掛けてクーデターによって作り出された。ウクライナの東部や南部、つまりロシア語を話し、ロシア正教の影響下にある地域を支持基盤にしていたビクトル・ヤヌコビッチ大統領を暴力的に排除したのだ。

 東部や南部の人びとはクーデター政権を拒否、南部のクリミアでは住民投票を経て人びとはロシアとの統合を選んだ。東部のドネツクでは自治を、ルガンスクは独立をそれぞれ住民投票で決めたが、クーデター政権が送り込んだ部隊と戦闘になり、戦争が続いている。オデッサではネオ・ナチの集団が反クーデター派の住民を虐殺、制圧してしまった。

 ゼレンスキー政権はドネツクとルガンスク、つまりドンバスを制圧してロシア語系住民を「浄化」する作戦を3月から開始する予定だったことを示す文書がロシア軍によって回収されているが、このプランは成功しそうにない。

 ある時期までドンバスを占領してきたウクライナ内務省の親衛隊は住宅地域に攻撃拠点を築き、住民を人質にしてロシア軍に対抗していたものの、戦況は圧倒的に不利だった。ここにきてウクライナ兵の離脱が目立っている。

 ドイツの情報機関「BND(連邦情報局)」が分析しているように、​このまま進むと、ゼレンスキー政権が送り込んだ部隊は7月いっぱいで抵抗を終えざるをえなくなり、ロシア軍は8月にドンバス全域を制圧できる​と見られている。

 ジョージ・ソロスやネオコンはウクライナに対し、ロシア軍と戦い続けろと言っているが、​ヘンリー・キッシンジャーはスイスのダボスで開かれたWEF(世界経済フォーラム)の年次総会で、平和を実現するためにドンバスやクリミアを割譲するべきだと語っている​。

 そうした状況の中、ゼレンスキー大統領は「三海洋イニシアチブ」へ参加する意思を示し、事実上認められたわけだ。軍事的な抵抗をやめざるをえなくなることを見通しての布石だろう。

 このイニシアティブは第1次世界大戦の後に始まった運動「インテルマリウム」の焼き直しである。バルト海と黒海にはさまれた地域ということでこのように名づけられたようだ。

 これはポーランドで反ロシア運動を指揮していたユゼフ・ピウスツキが中心になって始められ、そのピウスツキは日露戦争が勃発した1904年に来日し、彼の運動に協力するよう、日本側を説得している。

 ポーランドでは1925年に「プロメテウス同盟」という地下組織が編成され、ウクライナのナショナリストも参加したのだが、ポーランド主導の運動だったことから離反するウクライナの若者が増え、OUN(ウクライナ民族主義者機構)が組織された。

 中央ヨーロッパには16世紀から18世紀にかけて「ポーランド・リトアニア連邦」が存在していたが、その領土が最大だった1600年当時の連邦をピウスツキは復活させようとしていたようだ。この地域はカトリックの信徒が多く、ローマ教皇庁の内部には中央ヨーロッパをカトリックで統一しようという動きがあり、インテルマリウムと一体化していく。

 中央ヨーロッパを統一しようという動きでは、ブリュッセルを拠点としたPEU(汎ヨーロッパ連合)も関係してくる。この組織はオットー・フォン・ハプスブルクやリヒャルト・フォン・クーデンホーフ-カレルギーらによって1922年に創設され、メンバーにはウィンストン・チャーチルも含まれていた。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)

 チャーチルはイギリスの貴族を父に、アメリカの富豪を母に持つ人物で、ロスチャイルド家の強い影響下にあった。そのイギリスは19世紀にロシアを制圧するプロジェクトを始めている。いわゆる「グレート・ゲーム」だ。

 そうした戦略をまとめ、1904年に「歴史における地理的要件」というタイトルで発表したハルフォード・マッキンダーは地政学の父と呼ばれている。その後、アメリカやイギリスの戦略家はマッキンダーの戦略を踏襲してきた。その中にはジョージ・ケナンの「封じ込め政策」やズビグネフ・ブレジンスキーの「グランド・チェスボード」もマッキンダーの理論に基づいている。インテルマリウムはマッキンダーの戦略に合致し、ロシアを制圧する上で重要な意味を持つ。

 マッキンダーの理論はユーラシア大陸の周辺部を海軍力で支配、内陸部を締め上げ、最終的にはロシアを制圧するというもの。この戦略を成立するためにスエズ運河が大きな意味を持つことは言うまでもない。

 この運河は1869年に完成、75年からイギリス系の会社が所有している。そのスエズ運河会社の支援を受け、1928年に創設されたのがムスリム同胞団だ。後にイギリスはイスラエルとサウジアラビアを建国、日本で薩摩や長州を支援して「明治維新」を成功させているが、これもイギリスの戦略に合致している。

 インテルマリウムはポーランド人ナショナリストの妄想から始まったが、カトリック教会の思惑やイギリスやアメリカの戦略にも合う。米英にとって西ヨーロッパ、特にドイツ、フランス、イタリアは潜在的なライバル。20世紀にあったふたつの世界大戦はこの3カ国をライバルから潜在的ライバルへ引き摺り下ろすことになったが、復活する可能性はある。

 第1次世界大戦が始まる直前、帝政ロシアでは支配層の内部が割れていた。帝国は大地主と産業資本家に支えられていたが、対立が生じていた。大地主がドイツとの戦争に反対していたのに対し、産業資本家は賛成していたのだ。

 大地主側の象徴がグリゴリー・ラスプーチンであり、産業資本家側には有力貴族のフェリックス・ユスポフがいた。ユスポフ家はロマノフ家を上回る財力があるとも言われる貴族で、イギリス人を家庭教師として雇っていた。

 その家庭教師の息子で、ユスポフ家の邸宅で生まれたステファン・アリーは成人してからイギリスの情報機関MI6のオフィサーになった。またフェリックスは後にイギリスのオックスフォード大学へ留学、そこで親友になったオズワルド・レイナーもMI6のオフィサーになる。

 ラスプーチンが暗殺未遂事件で入院したこともあり、ロシアは参戦するが、ラスプーチンは戦争反対の意見を変えない。そうした中、イギリスはMI6のチームをロシアへ送り込んだが、その中心メンバーはアリーとレイナーだった。ラスプーチンを射殺したのはユスポフだと一般的には言われているが、殺害に使われた銃の口径などからレイナーが真犯人だとする説もある。

 1917年3月の「二月革命」でロマノフ朝は崩壊、産業資本家を中心とする体制ができあがり、戦争は継続されることになった。それを嫌ったドイツは即時停戦を主張していた亡命中のウラジミル・レーニンに注目し、ボルシェビキの指導者を列車でモスクワへ運び、同年11月の「十月革命」につながる。こうした経緯があるため、ナチスが実権を握るまでソ連とドイツの関係は良好だった。米英の巨大金融資本がナチスのスポンサーだったということは本ブログで指摘してきた通りだ。

 ソ連/ロシアとドイツが手を組むことを米英の支配層は嫌う。アメリカのジョー・バイデン政権が行っているロシアに対する「制裁」で最も大きなダメージを受けるのは西ヨーロッパだ。

 ソ連/ロシアと西ヨーロッパを分断するインテルマリウムは米英の戦略に合致すると言える。インテルマリムに「三海洋イニシアチブ」という新しいタグをつけて復活させた意味は言うまでもないだろう。』

対ロ戦、「世界秩序」決める ゼレンスキー氏、NATOに支援要請

対ロ戦、「世界秩序」決める ゼレンスキー氏、NATOに支援要請
https://www.jiji.com/jc/article?k=2022062901146&g=int

 ※ マッキンダーや、スパイクマンの「地政学」によれば、「ハートランド」を支配する者は、「世界島」を支配することになる…、とされる…。

『【エルマウ時事】ウクライナのゼレンスキー大統領は29日、マドリードで開かれている北大西洋条約機構(NATO)首脳会議にオンラインで出席して演説した。ロシアとの戦いは「将来の世界秩序」を決めるとして、NATOが軍事・財政面で一段の支援を行うよう求めた。

欧州の米軍戦力増強 「NATOはかつてなく必要」―バイデン氏

 ゼレンスキー氏は、ロシアの次の標的は「モルドバかバルト3国か、それともポーランドか」と問い掛けた上で「答えはこれらすべてだ」と指摘。現在の戦闘は「欧州の支配をめぐる戦争だ。将来の世界秩序がどうなるかを決める」と強調した。

 その上で、勝利には「最新のミサイルと防空システムが必要だ」と支援を要請。財政面でも月50億ドル(約6800億円)の援助を求めた。 』

地政学で読む世界覇権2030

地政学で読む世界覇権2030 単行本 ? 2016/1/29
https://www.amazon.co.jp/%E5%9C%B0%E6%94%BF%E5%AD%A6%E3%81%A7%E8%AA%AD%E3%82%80%E4%B8%96%E7%95%8C%E8%A6%87%E6%A8%A9%EF%BC%92%EF%BC%90%EF%BC%93%EF%BC%90-%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%BC%E3%82%A4%E3%83%8F%E3%83%B3-ebook/dp/B01B2GQMTI

 ※ ある意味、「予言の書」だった…。

 ※ 事態は、「この本に書かれていることの通りに推移した」ように、見える…。

 ※ オレは、「kindle版」を買って、「kindle for PC」で読んだ…。

『中国、欧州、ロシアは次々に自滅。
世界は確かに破滅に向かっている。
しかし、アメリカだけがそれを免れる。
気鋭の地政学ストラテジストが、2030年以降の世界地図を読み解く。

ベストセラー『100年予測』著者のジョージ・フリードマンが1996年に設立した影のCIAとも呼ばれる情報機関「ストラトフォー」。

影のCIAとも呼ばれるその機関で、著者はバイス・プレジデントまで上り詰めた。

ウォール・ストリート・ジャーナル、ブルームバーグ、AP、フォーブスなど、多数のメディアが彼の分析に注目している。

『100年予測』やランダース『2052』、英エコノミスト編集部『2050年の世界』、カプラン『地政学の逆襲』、トマス・フリードマン『フラット化する世界』につづく未来予測の新機軸。

●2030年までに、いったんは米国中心主義が薄れる。
●しかしその後、ロシア、欧州、中国は次々に自滅し、アメリカは世界で圧倒的な超大国になる。
●世界各地で紛争が勃発し、アメリカのライバルたちは疲弊する。
●地理的に離れているため、世界で起きる紛争はアメリカに影響しない。
●地形のおかげでアメリカはすでに必要なものをすべて手に入れている。
●アメリカの人口構成が若返り、ふたたびキャッシュを生み出す。』

※ 人口動態的に、ロシアには時間的な余裕が無かった…、軍事行動を起こすことができるギリギリのタイミングが「2022年」だった…、という分析だ…。

〔「逆説の地政学」〕

 ※ 残念ながら、紙の本しか無いようだが、目次だけでも参考になるようなんで、紹介しておく…。

逆説の地政学 単行本(ソフトカバー) – 2018/3/30
上久保 誠人 (著)
https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4771030243/diamondonline-22

『21の逆説で混迷の国際情勢を読み解く

日本人の常識を覆す視点から、国際社会における日本の戦略を再考。独自の「4D地政学」で21世紀の問題郡への新たな視点を提供する。

これまでの地政学による地理上の国家間関係・安全保障だけではなく、石油・天然ガス・原子力など資源エネルギーを独占する多国籍企業ネットワークや金融など、今日の複雑化する国際情勢を独自の「4D地政学」を提唱することで読み解く。

日本人の常識を覆す「英国が中心の世界地図」の視点を用い、国際社会における日本の戦略を再考する。

21の逆説で混迷の国際情勢を読み解き、「4D地政学」を用いて21世紀の問題郡への新たな視点を提供する。』

『目 次

序 章

第1章 地政学とは
1.1. 海洋国家の視点に立つ「英米系地政学」とは
1.2. 英米系地政学は「平和のための勢力均衡」
1.3. 地政学で見る、国家間紛争の歴史

第I部 アメリカ・ファーストと新しい国際秩序

第2章 米国が築いてきた第二次世界大戦後の国際社会体制

第3章 石油を巡る国際関係の歴史

3.1. 石油の時代の始まり
3.2. 第二次世界大戦まで――石油の戦略物質化とセブン・シスターズによる支配の完成
3.3. 第二次大戦後、産油国の「資源ナショナリズム」と覇権国・米国の戦略
3.4. 冷戦終結後の新石油秩序の形成

第4章 天然ガスの地政学

4.1. 天然ガス――知られざる実力者
4.2. 天然ガス・パイプラインを巡る国際政治

第5章 原子力の歴史

5.1. 第二次世界大戦後の原子力の平和利用の始まり
5.2. 原発事故と核兵器削減の動き

第6章 原子力の地政学

6.1. 「原子力産業の衰退」から「環境にやさしい原子力」へ
6.2. 原発輸出と地政学

第7章 シェール革命とアメリカ・ファースト

7.1. シェール石油・シェールガスとは
7.2. 「シェール革命」と米国
7.3. 「シェール革命」の国際社会への影響
7.4「.アメリカ・ファースト」と「生存圏」を争う国際社会へ――「アメリカ・ファースト」による、世界の新しい潮流

第8章 「EU離脱後」の英国を考える

8.1. 英国の「EU離脱」
8.2. 英国が持つ巨大なリソース
8.3. まとめ――EU離脱は英国に不利にならない可能性がある

第9章 ドイツの「生存圏」確保のために存在するEU

9.1. そもそもEUが創設された理由は「ドイツ問題」だった
9.2. 「ドイツを封じ込めるため」から「ドイツ独り勝ち」へ
9.3. EUは、ランドパワー化したドイツの「生存圏」確保のためにある
9.4. 「ドイツ独り勝ち」に対する不満が爆発する
9.5. ドイツ経済が抱えるリスク
9.6. EUは「エネルギー自給」に問題があり、「生存圏」を築けない

第10章 ロシア――停滞と復活の間で

10.1. 英米系地政学で考えるランドパワー・ロシアの戦略的敗北
10.2. プーチン大統領が掲げる「大国ロシア」は虚構に過ぎない
10.3. 「生存圏」確保のためにロシアとドイツは接近する

第11章 急拡大する中国とどう対峙するか

11.1. 中国の軍事的拡大、経済発展と民主化を考える
11.2. 将来の民主化につながる学生という名の「政治アクター」
11.3. 第I部のまとめ――アメリカ・ファーストの時代を生き抜くために

第II部 地理で考える政策科学

第12章 国際通貨政策の地政学

12.1. 経済学における「円の国際化」「人民元の国際化」の先行研究
12.2. 日本の「円の国際化」の取り組み
12.3. 中国の「人民元の国際化」の取り組み
12.4. 2008年の世界的金融危機以降、中国の影響力が拡大している
12.5. 分析――日中国際金融政策過程の比較

第13章 成長戦略と地政学

13.1. 日本の成長戦略は、日本企業の成長とイコールではないはず
13.2. 革新機構による産業再編は「国家による斜陽産業の延命」の再現だ
13.3. 日本は外資導入が経済成長につながる好条件を備えている
13.4. 外国製造業の「アジア地域向け研究開発拠点」や「高品質部品の製造拠点」を日本に誘致せよ
13.5. 経営学を専門的に学んだアジアの若い経営者が日本企業を経営することの利点
13.6. 例えば、トランプ政権とシリコンバレーの摩擦解消に一役買う

第14章 エネルギーから福祉の循環型ネットワーク形成と紛争回避

――ロシア・サハリン州を事例として――

14.1. 「紛争」に焦点を当てた、従来の石油天然ガスを巡る国際政治学
14.2. 「エネルギーから福祉の循環型地域ネットワーク」の構想
14.3. 「エネルギーから福祉への循環型地域ネットワーク」建設の事例――ノルウェー
14.4. ロシア・サハリン州
14.5. サハリン州「発展戦略2025」
14.6. サハリン州の福祉政策・教育政策
14.7. サハリン州の様々な建設プロジェクト
14.8. サハリン州を巡るロシア、中国、韓国の動き
14.9. 日本はどう動くべきか
14.10. まとめ

第15章 民主主義を考える

15.1. 日本のテロ対策は英国流・フランス流のどちらにすべきか
15.2. メディアは国益に反する報道を控えるべきか――?英BBC・ガーディアン紙の矜恃に学ぶ
15.3. ロシアとの共同研究で改めて知る、日本の「学問の自由・独立」の価値

第16章 未来の地政学

16.1. 「空間」における国家間の「動的」な距離感を説明する「4D地政学」
16.2. 人工知能と地政学

終 章

あとがき
人名索引
事項索引』