植田日銀総裁誕生の裏に“権力の興亡” 本命・雨宮副総裁が漏らしていた“本音”とはhttps://www.dailyshincho.jp/article/2023/04030558/?all=1
『10年にも及んだ異次元緩和を主導した黒田東彦日銀総裁に代わり、新たに中央銀行を統べるは経済学者の植田和男氏(71)。難題山積の中、異例の学者総裁にかじ取りを任せるのはなぜか。日銀、財務省、そして官邸の間で繰り広げられた「権力の興亡」、その内幕に迫る。【軽部謙介/ジャーナリスト・帝京大学教授】
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【写真を見る】キャッシュで億ションを購入したという日銀・黒田総裁
10年ぶりに日本銀行の総裁が交代する。4月以降は、総裁・植田和男(東大名誉教授)、副総裁・氷見野良三(前金融庁長官)、同・内田眞一(日銀理事)という体制に金融政策のかじ取りが委ねられるが、人選の過程を検証していくと「日本の権力構造」に潜む問題点が浮き上がってくる。そしてそれは、日銀総裁とは、誰が、どのように、何を基準にして選ぶべきなのかという問いにつながっていく。
雨宮の言い分
元首相の安倍晋三が撃たれた2022年の夏も終わろうとしていた。
財務省の有力OB二人と日銀副総裁の雨宮正佳が都内の鮨屋でネタをつまみながら杯を交わしていた。アルコールがダメな雨宮も旧知の顔ぶれを相手に、よもやま話に花を咲かせた。
佳境に入り黒田東彦(はるひこ)・日銀総裁の後任人事に話が及んだ。このとき、後継の最有力候補といわれていた雨宮は二人にこういう趣旨の話をした。
――新総裁は、黒田体制の10年だけでなく1998年の新日銀法施行以降の「非伝統的」と呼ばれた金融政策全般を対象に点検・検証するべきだ。しかし、自分はそれを主宰する任にはふさわしくない。なぜならその大半に関与しているからだ――。
確かに、雨宮は2000年代以降の量的緩和開始、異次元緩和実施、長短金利を操作するイールドカーブ・コントロール(YCC)導入など非伝統的金融政策に深く関わった。その張本人が問題点を含めた検証を行ったら正当性が確保できないという言い分には一理あった。
各国の中央銀行総裁の多くは学者
もう一つ、雨宮が強調したポイントがあった。それは「学者の起用に道を開く」ということだ。副総裁就任後、各国の中央銀行総裁が集まる会合に代理出席する機会も多くなった雨宮は、トップたちが部下の助けも借りずに難解なテーマを自分たちの言葉で議論している現場を目の当たりにしてきた。
彼らの多くは経済学の博士号を取得している。ノーベル経済学賞を受賞したベン・バーナンキ(元米連邦準備制度理事会=FRB=議長)、ジャネット・イエレン(前FRB議長)、スタンレー・フィッシャー(元イスラエル中銀総裁)、ラグラム・ラジャン(元インド中銀総裁)らは世界的に名の通った学者でもある。中国や韓国でも中銀のトップは学者が務めている。
しかも、中央銀行の国際的な連携は、リーマンショックを契機に、事務当局者同士が下で詰めて上に上げていくというやり方から、トップが電話で協議するというやり方に変わっている。問題は日本がそのコミュニティーに入っていけるかだ。経済・金融理論に対する深い知識や語学力など、日銀総裁には従来と異なる資質も求められる。
「優秀な学者が中央銀行トップになるという国際標準を、日本でも実現するべきではないか」
雨宮はこう言っていた。』
『雨宮の真意
財務省は日銀の所管官庁として総裁選びにも深く関与する。実は先のOBだけでなく、このころ日銀人事を準備する過程で雨宮と接触した現役官僚も同じ趣旨の話を聞かされていた。
財務省の関係者たちには意外な感じがした。日銀総裁レースの大本命は雨宮だ。望んでもなれないそのポストは、1979年の入行以来日銀一筋で生きてきたこの男にとっても悲願のはず。「本当はやりたいと思っているが、最初は「自分には無理だ」などと言って一歩下がる常識的な対応」という見方も強かった。
雨宮の言っていることは本心なのだろうか。それとも一種の目くらまし戦術なのか――。
財務省は最後まで雨宮の真意を測りかねた。
そもそも彼らは今回の人事をこう位置付けていた。
「うちの番ではない」
この意味は歴代総裁の出自をたどればよくわかる。財務省が大蔵省だった時代から、日銀・財務の出身者が中央銀行トップの座をほぼ独占しており、両者が交代で就任するたすき掛け人事、いわゆる「交代ルール」が暗黙の了解だったのだ(掲載の表参照)。今回は財務省出身の黒田が2期10年務めた後で、「日銀の番」となるのが順当だった。
交代ルールを外れた人事
それでも、この役所は早くから正副総裁についていくつかの組み合わせを想定していた。最有力とみられたのは雨宮を頂点とし、副総裁の一人に財務省関係者、もう一人を学者にする案だ。
副総裁候補には財務官経験者ら何人かの名前が挙がった。しかし、ここで年次が問題になる。雨宮は79年の日銀入行。入省年次が同期もしくはそれよりも上の場合は対象から外された。そこで浮上してきたのが氷見野だった。金融庁長官を務めたが、もともとは83年の大蔵省入省だ。氷見野の副総裁就任は、財務省が「雨宮総裁」を予想していたことの裏返しだったわけだ。
そして、もう一人の学者としては、雨宮より年齢が上の植田ではなく、日銀出身の東大教授である渡辺努などの名前が挙がっていた。
しかし、結果的に総裁に選ばれたのは、交代ルールを外れるばかりか、21代宇佐美洵(まこと)以来、戦後2人目となる「民間」出身者の植田だった。
関係者によると、雨宮から固辞の理由を聞かされていた首相の岸田文雄は、深く共鳴するところがあったようで、総裁の条件を問われた国会質疑で「主要国中央銀行トップとの緊密な連携、質の高い発信力、受信力が格段に重要になっている」と説明している。雨宮の主張にそっくりだ。
そして、大本命の雨宮の辞意が固いとみた岸田官邸は、かねてから目をつけていた植田への傾斜を強めていく。最終的に正副総裁三人の人選が固まったのは年末から年始にかけてだったといわれる。』
『知らされなかった財務省
しかし、財務省は最後までこの人選を知らされなかった。彼らが「植田総裁」という情報を得たのは、メディアで一斉に報じられた2月10日の数日前だったのだという。過去に日銀を従えて総裁の人選に深く関与してきた財務省は「死んだふり」をしているのか。それとも本当に死んでしまったのかは判然としない。
財務省・日銀出身者の交代ルールが崩れたことに加えて、今回の総裁人事にはもう一つ特徴があった。それは2代続けてのポリティカル・アポインティー(政治任用)化だ。
後述する98年の新日銀法施行以前も、以降も、総裁選びは所管官庁である財務省(以前は大蔵省)と日銀が官邸とあうんの呼吸で詰めていくのが流儀だった。この二つの組織が交代ルールを参考にしながら有力として推す候補者に決着できるよう根回しも万全だった。
特定の金融政策を実施するために選ばれた総裁
しかし、10年前このプロセスは大きく変化した。12年12月の総選挙に勝利し政権に復帰した安倍は「大胆な金融政策」を柱とする経済政策、「アベノミクス」を掲げていた。そのため、13年4月に迫っていた日銀総裁人事は政権の行方を占う上でも間違いの許されない非常に重要な政治イベントになっていた。
前任の白川方明が日銀出身だったため、交代ルールに従えば自分たちの番だったこともあり、財務省は08年の総裁レースで国会承認の獲得に失敗した次官OBの武藤敏郎を強く推していた。しかし、安倍は彼らの意向を無視。財務省本流とは異なり「デフレは貨幣的現象なので金融政策だけで対処できる」とリフレ派的な主張を繰り返した黒田を最有力候補として位置付け、総裁就任を要請した。
この行為は政治家による内閣人事権を行使した「一本釣り」ともいえる。しかも、リフレであれ何であれ、特定の金融政策を実施するために総裁が決められるのは初めてだった。
安倍はさらに、日銀と財務省が予定調和的に決めていた副総裁や審議委員の人事も政治的に利用。黒田の補佐役として「リフレ派の教祖」と言われた学習院大学教授の岩田規久男を副総裁に抜てきしただけではなく、その後も若田部昌澄、原田泰、片岡剛士らリフレ派の面々を副総裁や審議委員に起用することで日銀をコントロールしようと試みた。
「内閣人事権の活用と政策を結び付けろ」と提唱していたのは21年11月に86歳で亡くなった中原伸之だ。東燃の社長を務め日銀の審議委員も経験した中原は財界応援団を組織し安倍をサポートしていたが、第2次政権以前から何度も「金融政策を変更したいなら、内閣や国会は審議委員の人選で考えればいい」という持論を安倍に伝えていたのだという。』
『政治任用の意図
日銀・財務から推薦を受けた候補を粛々と指名していくという過去のやり方ではないという意味で、今回の植田総裁誕生も岸田による政治任用といえる。ただ、安倍が「リフレ政策の実現」という特定の方向性を求めて黒田を指名したのとは異なり、岸田が何か政策的な意図を持っているのかははっきりとしない。
人事の決め方は98年施行の新日銀法で「総裁及び副総裁は、両議院の同意を得て、内閣が任命する」(23条)と規定されたが、政治任用の可能性を残すこの内閣人事権は当初甘く見られていた。
96年の夏。日銀の幹部たちは連日朝早く日本橋本石町の本店会議室に招集された。「夏合宿」と称されたこの会議は日銀法改正に向けて自らのポジションを固めるためのものだった。この時の日銀法(旧法)は、議院の同意を必要としない、文字通りの内閣人事権はもちろん、「総裁の解任権」や「一般的な業務指揮権」などが政府に認められており、日本の中央銀行は所在地をもじって「大蔵省本石町出張所」などと揶揄される組織だった。
「政府からの独立」はバブル崩壊後のさまざまな不祥事から始まった大蔵省改革の一環として議論されていた。ただ、実際に改正となれば、何を、どう法文化していくのか決めるのはそう簡単でない。
「内閣には人事権があるのだから…」
合宿の場に企画局からこんなペーパーが提示された。
「政策の内容からいって独立性と中立性が要求され、他方で、任命権を通じた政策委員に対する内閣のコントロール手段が確保されていれば、準備率の設定・変更・廃止についての権限を政策委員会が有することとしても、直ちに違憲というわけではない」(情報公開法で入手した96年7月10日付「日銀法改正の論点検討」)
民間金融機関は、受け入れている預金等のうち一定比率以上を日銀の当座預金に預けておかねばならず、この比率を準備率という。政策委員とは正副総裁を含めた審議委員のことだ。
当時、準備率の変更には大蔵大臣の認可が必要だった。準備率の変更は金融政策としても活用されていただけに、日銀としてはこの問題で大蔵の認可は必要ないということを言っていたのだ。そして、その根拠として「任命権を通じた政策委員に対する内閣のコントロール」を挙げていた。つまり「内閣には人事権があるのだからほかのことは自由にやらせろ」というわけだ。
「中央銀行に完全な独立性などあり得ない」という主張も強い中、日銀は「人事権よりも金融政策を含む一般的な業務での独立性を獲得する方が大事」と考えていたので、こんな主張をしていたのだ。しかも陰りが見え始めたとはいえ、当時官僚の力はまだ強く、総裁人事にも大きな影響力を持っていた。まさか、財務・日銀の交代ルールまでほごにされ、挙句、政治任用で総裁が決まる日が来るなどとは思っていなかっただろう。』
『総裁にふさわしいか
それから四半世紀経った2022年。夏の終わりに財務省OBに披瀝した問題意識を、雨宮は各方面に広く伝えていた。そしてそれは、結果的に、これまで財務・日銀に支配されていた「総裁選び」の構造に真正面から挑むものになった。特に財務省だ。
政治任用だった黒田を除き、総裁を務めた大蔵省出身者は全員が事務次官経験者だ。このポストは昔、「大蔵次官にとっての天下り先ナンバーワン」と言われたように事務次官経験者の中でも最も格が高いという位置付けだった。
次官に上り詰める財務官僚は主計局長からの昇格が大半を占める。主計局長になるには、多くの場合、局内で課長や主計官のポストを歴任する。財政を担当するセクションは政治との折衝に忙殺される。
しかし、大物といわれる次官OBだとしても、そのような経歴が日銀総裁にふさわしいかは別問題というのが岸田や雨宮の考え方のようだ。特にグローバル化の進展に合わせ中銀トップの間での情報交換が密になればなるほど、そのコミュニティーに入っていく重要性は増す。雨宮は周辺にこう漏らしたことがある。
「事務次官をなさった方は皆それなりの人なんだけど、その方が総裁というのは少し違うんじゃないか」
もし経済運営に失敗すれば…
日銀総裁人事をめぐるうごめきは収束した。これからはYCCをどのように「手じまい」するのか、異次元緩和の出口をどのように潜(くぐ)るのか、さまざまな副作用にどう対処するのかなど、当面の課題処理に焦点が移る。
岸田や雨宮の意図がどこにあれ、結果的に2代続けて日銀総裁が政治任用となったことは、戦後続いてきた旧態依然たる交代ルールに終止符が打たれたことを意味する。財務次官経験者だからといって安易に総裁になれる時代ではないことも明確になった。
しかし、もし今後5年間で日銀が経済運営に失敗したら、「旧来の秩序に戻すべきではないか」との声が強まる可能性は大きいだろう。マクロ政策の象徴的存在である日銀総裁の人事は、誰が、何を基準に決めるべきなのか――。
「統治の仕方」がどうなっていくのかという観点からも、植田体制の責任は重い。
(文中敬称略)
軽部謙介(かるべけんすけ)
ジャーナリスト・帝京大学教授。1955年生まれ。早稲田大学卒業後、79年に時事通信社入社。経済部次長、ニューヨーク総局長、解説委員長などを歴任。2020年より現職。近著に『アフター・アベノミクス 異形の経済政策はいかに変質したのか』(岩波新書)。
週刊新潮 2023年3月30日号掲載
特別読物「異例の学者抜擢 誰がどう選ぶのか 『植田日銀』誕生の裏に“権力の興亡”」より 』