第5回:時代や社会状況によって変容した天台宗

第5回:時代や社会状況によって変容した天台宗
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b09405/

『文化 歴史 2023.02.21

佐々木 閑 【Profile】

平安時代以降、日本で「ブッダのまことの教え」として流布したのは、天台宗と真言宗という2種類の密教だった。第5回は、さまざまな状況に対する適応能力の高さから勢力を伸ばし、その後の日本仏教の基盤となった天台宗について解説する。

変化する可能性を持った天台宗の教え

9世紀(平安時代)以降、日本の仏教は、真言宗、天台宗という、異なる特性を持つ2種類の密教を中心にして展開していった。仏教史の立場から見れば、インドで最後に現れた密教が、日本では「ブッダのまことの教え」として最初に流布したのである。

これらのうち真言宗は、純然たる密教の教義をコアにしているため、その後の歴史の中でもほとんど変容することなく強固に教えを守り続けた。

一方、天台宗は、根本的に異なるさまざまな仏教思想を、独自の論理によってつなぎ合わせ、その全体を密教的雰囲気で覆うことによって生み出された複合的思想であったため、時代や社会状況によってさまざまに変化する可能性を含んでいた。日本仏教の本質を理解するためには、この天台宗が後世に与えた影響をしっかり押さえておかねばならない。

京都の近郊、比叡山を拠点とする天台宗が、その後の日本仏教に与えた影響は非常に大きく、しかも多岐にわたる。それを3つの項目に分けて解説しよう。

出家の儀式を廃止:あいまいになった僧侶と俗人の区分

前回までの記事で紹介したように、日本仏教は初めから、サンガ(ブッダの教えに従って暮らす僧侶の自治組織)のない特殊な仏教として出発したが、それでも「出家するための儀式」は明確に定められていた。

それは、鑑真が中国から持ってきた、仏教独自の法律集「律蔵」にのっとったもので、現在も全世界の仏教国で共通して執行されている儀式である。サンスクリット語では「ウパサンパダー」と呼び、漢字では「受戒」と訳す。

当時の奈良仏教の僧侶は一種の国家公務員であって、律蔵に基づいて運営されるサンガを持つことは許されなかった。しかし、律蔵の中のウパサンパダーだけはそのまま取り入れられ、僧侶と僧侶でない人を区別するための基準として用いられたのである。日本におけるウパサンパダーの位置づけは、国家公務員の認定試験のようなものであった。

国家権力直属の国家公務員認定試験であるなら、当然ながらそこには人数制限が課されることになる。ウパサンパダーを通過して正式な僧侶になることのできる人の数は、政府によって制限されていたのである。

日本の首都が平安遷都で奈良から京都へと移ってほどなく、9世初頭に京都近郊の比叡山を拠点とする新興勢力として出発した天台宗にとって、この「人数制限」はやっかいな問題であった。なぜならそれは、奈良を中心とした旧来の仏教・南都六宗にとって有利な既得権だったからである。

この障害を排除するため、天台宗は「ウパサンパダーを通過しなくても、人はそれぞれの心がけだけで出家することができる」といった新たな基準を設定した。

そして天台宗の勢力が拡大するにつれて、この潮流はほぼすべての仏教界に浸透していった。

天台宗のライバルであった真言宗でさえ、やがてこの流れを受け入れるようになった。ウパサンパダーが国家権力と結びついた儀式であった日本仏教にとって、ウパサンパダーの縛りから逃れることが、自由な宗教活動への必須要件だと考えられたのである。

しかし「ウパサンパダーの放棄」は、別の見方をすれば「誰もが勝手な方法で僧侶としての身分を手に入れることができる」ことでもある。そのため日本仏教は、出家した僧侶と、一般社会で暮らす俗人との間に明確な区分基準がなくなってしまった。

現在でも、出家のための儀式は宗派ごとにばらばらで、律蔵に基づいたウパサンパダーを、出家の儀式としている宗派はほとんどない。他の仏教国から見て、ウパサンパダーを通過していない人が僧侶として認定される日本仏教の状況は、極めて奇異に見えるが、そこにはこういう歴史的背景があるのである。

あるがままでよい:矛盾を受け入れる徹底した現状肯定

天台宗の思想は、釈迦牟尼(しゃかむに)以来の仏教の長い歴史の中で生み出されてきた無数の教えを全て包括しようとするものである。

もともと起源が異なる複数の思想を一つにまとめようとするのであるから、当然ながらそこには多くの矛盾が生じてくる。それでもそれを「一つの教義」として承認するためには、「矛盾は矛盾のままで置いておくのが正しい」という理論が必須となる。

こうして天台宗では、徹底した現実肯定の姿勢が主流となり「現前の状態が、そのまま悟りの状態である」「煩悩がそのまま悟りである」「有機物、無機物を問わず、この世のあらゆる存在はブッダとなる要素を含んでいる」といった、特異な思想を最澄(767〜822)の弟子たちは主張するようになった。

これは、「修行によって煩悩を除去した時に初めて我々は悟りの境地に到達することができる」とした釈迦本来の教えからははるかに隔たった思考である。

しかし、日本古来のアミニズムと親近性が高く、また、「全宇宙が神秘的エネルギーの現れであって、個々人がその宇宙エネルギーと合体していることを自覚するのが悟りだ」という密教本来の思想ともさほど違和感なく合致するものであった。

そのため、このような天台宗独自の極端な現実肯定思想もまた、ウパサンパダーの放棄と同じく、天台宗の勢力拡大とともに、日本仏教界全域に広がっていった。

この、「あるがままでよい」という教えは、現代の日本仏教界においても広く流布しており、日本人の思考形成にも大きな力を及ぼしている。

極端な肉体的修練:ブッダの世界に近づくためのハードル

さまざまな仏教思想の複合体である天台宗において、「出家した僧侶は、どのような修行をすれば悟りを開くことができるのか」といった問題に明確に答えることはできない。

しかしその一方で、全体を密教的雰囲気で覆っている以上、「ある特定のハードルを越えた人だけがブッダの世界に属するのであり、それ以外の者は、そうしたブッダの世界に属する特定の人の力にすがって幸福を願わねばならない」という密教独自の階層構造を設定せざるを得ない。

密教経典だけをベースにした修行方法では「仏教思想の複合体」としての天台宗の独自性を示すことはできず、かといって、「仏教思想の複合体」であることを重視すると具体的な修行方法が定まらないのである。

そのため天台宗では,自分たち独自の修行方法を新たに創設した。

その修行は、修行者がブッダの世界に近づいたことを、目に見える形で示すものでなければならない。

そのため、「常人では越えることができないが、ごくまれに越えることのできる人が現れる」といったレベルの厳しさで設定される必要があった。

この要請に応じて、天台宗では達成困難なさまざまな修行方法が案出され、それを通過した人は、ブッダの世界に近づいた聖人として、一般信者から大いにあがめられた。

このような極端な肉体的修練は、前述した極端な現実肯定、すなわち「あるがままでよい」という思考とは正反対の立場にあるが、そういった矛盾もまた、より高次の現実肯定によって解消されると考えた。

いかなる論理矛盾も「あるがままでよい」といった包括的肯定論によって説明可能になると言うのである。

このように複合的で、かつ変容性の高い天台宗が、当時の首都であった京都において勢力を伸ばしたことにより、この宗派を基点としてさまざまな仏教思想が生み出されていくことになる。

この点から見て、良しあしは別としても、天台宗を日本仏教の基盤と考えることは間違いではない。次回は、二大密教で成り立っていた日本仏教が、さまざまに分岐していく様を語る。

バナー画像=比叡山延暦寺の総本堂である根本中堂(PIXTA)

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佐々木 閑SASAKI Shizuka経歴・執筆一覧を見る

花園大学文学部特任教授。1956年福井県生まれ。京都大学工学部工業化学科・文学部哲学科を卒業。同大学院文学研究科博士課程満期退学。博士(文学)。カリフォルニア大学留学を経て花園大学教授に。定年退職後、現職。専門はインド仏教学。日本印度学仏教学会賞、鈴木学術財団特別賞受賞。著書に『出家とはなにか』(大蔵出版、1999年)、『インド仏教変移論』(同、2000年)、『犀の角たち』(同、2006年)、『般若心経』(NHK出版、2014年)、『大乗仏教』(同、2019年)、『仏教は宇宙をどう見たか』(化学同人、2021年)など。YouTubeチャンネルShizuka Sasakiで仏教解説の動画を配信中。』

シリーズ「日本の仏教」第7回:日本仏教の暴力性

シリーズ「日本の仏教」第7回:日本仏教の暴力性
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b09407/

『文化 歴史 社会 2023.05.16

佐々木 閑 【Profile】

仏教本来の教えでは、暴力は完全に否定される。しかし釈迦(しゃか)が制定した戒律を収めた「律蔵」が機能しない日本の仏教界にあっては、暴力行使が容認された。こうした特異性が僧兵を生み、一向一揆を起こすことになり、第2次世界大戦では僧侶が戦争に協力することにつながっていった。

第5回の解説で、日本仏教にはサンガ(ブッダの教えに従って暮らす僧侶の自治組織)が存在せず、サンガを運営していくための法律である律蔵も機能していないことを明確化してきた。この状況は日本に仏教が導入されてから現代に至るまで、およそ1300年間にわたって変わることなく続いている。

律蔵が機能していないことにより、日本仏教の僧侶は、他の仏教世界では見られない独特の生活形態を取るようになった。出家する際にウパサンパダー(受戒)の儀式をおこなわない、酒を飲む、結婚して家族を持つといった行為は、律蔵によれば、すべて処罰の対象となる違法行為であるが、律蔵の存在が認知されていない日本仏教では、さほど問題とされない。せいぜいで「社会通念として好ましくない」といった批判がなされる程度である。そしてこういった日本仏教だけが持つ特性の中でも、最も重要かつ深刻な特性の1つが、「暴力の肯定」である。

律蔵では、僧侶が他者に暴力を振るうことは絶対に禁じられている。武器を手にして争うことはもちろん、たとえ教育上の必要性によって弟子を叱責(しっせき)する場合でも、暴力を用いることは決して許されない。僧侶が軍隊の行進を見ることさえも禁じられているのである。仏教以外の宗教の中には、「邪悪な暴力行為は禁じるが、自分たちの宗教を脅かす者を排除するための正義の暴力は許される」という考え方もあるが(いわゆる聖戦思想)、仏教はそれも許さない。いかなる暴力も、ブッダの教えに背く行為として非難されるのである。

律蔵がないために暴力を肯定

インドで釈迦(しゃか)が創始した本来の仏教は、このように暴力を絶対的に否定していたのだが、その後の長い歴史の中で、この基本原理は崩壊し、次第に暴力を肯定する傾向が強まっていった。僧侶が暴力を振るった事例は多くの仏教国で見られるし、僧侶自身が暴力を振るわなくても、僧侶としての権威を利用して権力者に暴力行為を促すといった事例は現在でも時として見られる。しかしながらそれでも、律蔵が機能している限り、そういった行為は「律蔵に背く非仏教的な行為」として法的処罰の対象となる。律蔵があるおかげで仏教の僧侶は、暴力を肯定したいという本能的欲求から身を守ることができるのである。

しかし日本仏教では、その律蔵が機能していない。その結果として、当然予想できることであるが、聖戦思想を利用した暴力が積極的に容認されるようになった。「仏教の教えを守るためならば僧侶が暴力を振るうことも許される」、あるいは「仏教の教えを守るために暴力的に戦うことは、進んでなすべき善い行いである」といった暴力肯定の姿勢が承認されるようになったのである。

問題は、ここで言う「守るべき仏教の教え」というのが、決して釈迦が説いた大本の仏教ではなく、個々の僧侶が所属している宗派や教団の教えを指しているという点である。つまり彼らは、自分たちの地位や権威や利得を守るために暴力を振るうことを、正当な仏教的行為だと考えるのである。

日本仏教の全体が律蔵のない状態で発展したのであるから、このような暴力肯定の姿勢は宗派を問わず、日本仏教界全域に広がっていった。仏教界が全体として「正義の」暴力を肯定し、仏教界を支える一般社会もその在り方に違和感を抱かない、という点にこそ、律蔵を持たない日本仏教の特異性が顕著に表れているのである。

僧侶の軍隊が乱暴狼藉(ろうぜき)

貴族社会と結びついて多くの既得権を得ていた奈良の仏教や真言宗や天台宗は、自分たちの立場を守るために暴力を利用した。代表的な事例が、「僧兵」と呼ばれる「僧侶の軍隊」である。奈良仏教の代表的寺院である東大寺や、天台宗の中心寺院である京都の延暦寺など、多くの寺院が僧兵を抱え、天皇でさえも統制不可能なほどの無法行為を繰り返したのである。

一方、天台宗を母胎としながら、その天台宗に反抗するかたちで登場した新興の仏教宗派は、新たに自分たちの勢力域を拡大するために暴力を用いた。代表は浄土真宗の一向一揆である。宗祖の親鸞は謙虚な人物で、暴力的な言動はまったくなかったが、跡を継いだ組織運営者たちは、自分たちの組織拡大を阻害する旧仏教の勢力や権力者たちに対して強大な軍隊を組織して立ち向かった。その軍事力は強大で、15世紀から16世紀にかけての約100年間、越前、加賀、三河、近畿などで広大な地域を完全に支配し続けるほどであった。こういった勢力拡大のための暴力性は浄土真宗に限ったものではない。当時の多くの新興仏教宗派において多かれ少なかれ見られる現象であり、僧侶が暴力行為に関わることが容認されたのである。

第2次世界大戦に協力した日本の仏教界

その後、権力の集中が進み、徳川幕府が日本全体を統治する江戸時代になると、すべての仏教宗派が幕府の政治体制の下で安定的に棲(す)み分けるようになったため、仏教の暴力性は影を潜めた。しかし、「僧侶はいかなるかたちでも暴力に関与してはならない」という律蔵の基本原則は理解されないままであったため、周囲の社会状況が変化すれば、直ちに暴力性が表に現れるという危険な状態での鎮静化であった。

江戸時代が終わって徳川幕府が消滅し、明治時代になると、新政府は神道の国教化を進めた。新たに発布された「神仏分離令」により、それまでは一体化したものとして扱われていた神道と仏教が切り離され、仏教は神道よりも下位に位置づけられたのである。こうして日本は天皇を中心とした神道国家になったが、その時日本の仏教界は、その新たに登場した天皇中心の神道勢力と協力体制を取った。その一番の理由は、今後外国から流入してくるキリスト教の力を恐れ、国家権力との共同戦線でこれを防ごうとしたところにある。キリスト教を排除する、という共通の目的のもとに宗教界は一体化し、日本仏教は天皇中心の国家権力の支援団体になったのである。

やがて日本が中国や欧米諸国との戦争に突入すると、それまで影を潜めていた日本仏教の暴力性が、「天皇がアジアを統一することによって、日本中心の平和な世界を実現する」という大義名分のもとで再び姿を現すことになった。この時代に、日本仏教がどういったかたちで第2次世界大戦に協力し、僧侶自身がどれくらい戦闘に参加したかという点は、戦争が終わった後も長く曖昧にされたままであったが、最近、その実情を明らかにする研究も現れて来ている。

戦時中、仏教界が戦争に加担することを強く批判する人たちもいたが、大方の宗派は、そのトップからして、積極的に戦争遂行に協力した。信者たちに、戦争に行くよう檄(げき)を飛ばし、武器製造のために布施を集め、天皇とブッダを同一視するような教説を広めたのである。「自分たちの正義を守るための暴力は許される」という古来の理屈がよみがえったのである。

日本が戦争に負けて、天皇が「自分を中心として成り立っていた日本の宗教世界は崩壊した」と自分自身で宣言したことにより、日本の宗教構造は一夜にして消滅し、驚くべき速度で民主主義国家へと変貌した。この変化の中で日本仏教の暴力性も再び影を潜め、現在の日本仏教には一片の暴力性も見られない(禅宗の修行場内では今も暴力を肯定する人が存在するが)。しかし「僧侶はいかなるかたちでも暴力に関与してはならない」という基本原則はいまだ浸透していない。律蔵を持たない日本仏教が克服すべき将来の課題である。

バナー写真=毎年6月に京都市左京区の鞍馬寺で行われる「竹伐り会式(たけきりえしき)」。僧兵に扮(ふん)した僧侶が大蛇に見立てた青竹を山刀で断ち切り、五穀豊穣(ほうじょう)を願う(共同)

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佐々木 閑SASAKI Shizuka経歴・執筆一覧を見る

花園大学文学部特任教授。1956年福井県生まれ。京都大学工学部工業化学科・文学部哲学科を卒業。同大学院文学研究科博士課程満期退学。博士(文学)。カリフォルニア大学留学を経て花園大学教授に。定年退職後、現職。専門はインド仏教学。日本印度学仏教学会賞、鈴木学術財団特別賞受賞。著書に『出家とはなにか』(大蔵出版、1999年)、『インド仏教変移論』(同、2000年)、『犀の角たち』(同、2006年)、『般若心経』(NHK出版、2014年)、『大乗仏教』(同、2019年)、『仏教は宇宙をどう見たか』(化学同人、2021年)など。YouTubeチャンネルShizuka Sasakiで仏教解説の動画を配信中。』

習近平氏と徳川家康の分かれ道 力に頼る政治の限界

習近平氏と徳川家康の分かれ道 力に頼る政治の限界
風見鶏
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD080TG0Y3A500C2000000/

『4月末に訪れた静岡県の浜松市は、大勢の観光客でにぎわっていた。お目当てはもちろん、大河ドラマで脚光を浴びる徳川家康が築いた浜松城である。

家康は29歳からの17年間をここですごし、天下人への足がかりをつかんだ。浜松城は江戸時代になってからも歴代の城主が相次いで幕府の要職に就き、いつしか「出世城」の異名を持つようになったという。

城内のあちこちで外国人の姿を見かけた。「入場券はどこで買えますか?」。1958年に再建された天守閣を支える石垣の前では、中国人の女性が係員に英語でたずねていた。

家康が中国で最も有名な日本人のひとりであると聞けば、驚く人もいるかもしれない。

2007年に出た山岡荘八の小説「徳川家康」の中国語版が、累計で200万部を超すベストセラーになり、人気に火をつけた。

小国のあるじにすぎなかった家康が戦乱の世を生き抜き、ついには天下を取る。何度もくじけながら耐え忍ぶその生きざまは、立身出世の物語を好む中国人の心を捉えて放さない。

中国の習近平(シー・ジンピン)国家主席も「徳川家康」を読んだだろうか。ふたりはどこか似たところがあるような気がする。

まず、生い立ちだ。家康は岡崎城主の嫡男として生まれた。習氏は元副首相の習仲勲氏を父に持つ。ともに名門の出で、農村からはい上がった豊臣秀吉や毛沢東とは明らかにちがう。

若いころ苦労したのも同じだ。家康は6歳で人質に出され、異郷の地で育った。習氏は文化大革命のさなか、15歳で黄土高原の谷あいにある小さな村に送り込まれ、およそ7年間を洞穴式の住居ですごした。

権力を握ったあとのふるまいも似る。家康は1614〜15年の大坂の陣で豊臣家を滅ぼした。

たとえ天下を取っても、自らの支配を脅かすおそれがある勢力は徹底的にたたく。そうした姿勢は2022年の中国共産党大会で、当時の李克強(リー・クォーチャン)首相や胡春華(フー・チュンホア)副首相らを指導部から締め出した習氏にも通じる。

徳川の世が永遠に続くようにするにはどうすればいいか。家康はそこに知略のかぎりを尽くした。

中国共産党の指導を貫徹するには何が必要か。習氏はそれに心血を注ぐ。

ふたりの人物像は、やはり多くの点で重なるのではないか。日本総合研究所の呉軍華・上席理事に意見を求めると「家康と習氏には決定的な違いがある」との答えが返ってきた。

「家康が基礎を築いた徳川家の統治は、独立した藩を幕府が束ねる封建制(幕藩体制)のうえに成り立っていた。一方、習氏はあらゆる権限を自らに集めようとしている」

家臣の進言をよく聞き、細事にはこだわらなかった家康。党の指導を絶対と考え、社会の隅々にまで自身の意向を行き渡らせようとする習氏。呉氏の目には、ふたりが異なるタイプの指導者に映る。

国際日本文化研究センターの磯田道史教授は著書で家康を「織田信長のように『力の原理主義者』にはならなかった」と評す。

引き締めすぎず、緩めすぎず。力に頼るばかりでなかった家康流の統治がしみ渡っていたからこそ、江戸幕府は265年の長きにわたって続いたのだろう。

そういえば、岸田文雄首相も「徳川家康」の愛読者だと聞く。

岸田氏と習氏のどちらが家康により近いか。その答えは日本と中国だけでなく、混迷する世界の行方をも占うカギになる。

(編集委員 高橋哲史)』

戦争経験により実現した戦後復興と高度経済成長

戦争経験により実現した戦後復興と高度経済成長
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/30077

『日本が戦争へ突き進んでいった道筋は、政治や軍事だけでは語れない。世界恐慌に伴う不況、ブロック経済、都市と地方の格差、高まる社会不安と繰り返されるテロ……当時の経済の動きを振り返れば、なぜ日本人が戦争を望んだのかが見えてくる。

 第4回で見たように日本は太平洋戦争の結果多くの国富と人命、そして領土を失った。しかし戦後日本はそれをプラスに転じることで、復興、そして高度成長を遂げることになる。

 大正時代に植民地を不要とするいわゆる「小日本主義」に基づく主張をし(第2回連載『格差への不満を原動力に日本が突き進んだ「大日本主義」』参照)、その後ブロック経済も批判した石橋湛山は太平洋戦争末期、敗戦後を考えることを大蔵大臣に提案した。その結果、大蔵省内に「戦時経済特別調査室」が設置され、石橋のほか経済学者や金融関係者が委員となり「戦後」の日本や国際秩序の研究を行った(その資料は近年、名古屋大学で発見されている)。

 委員間での議論の中で石橋は、領土を失うことはその領土を維持する負担から解放されることでもあり、戦後の日本は朝鮮や台湾を失い本土のみになったとしても、国内開発に力を入れ、また国際秩序において世界に自由な貿易が復活すればそれを利用して十分発展できると主張した。委員だった経済学者の中山伊知郎(のち一橋大学学長)は戦後、石橋の先見の明に脱帽している。

 石橋は終戦直後の『東洋経済新報』社論においても、領土が削減されても日本の発展には障害とはならず、科学精神に徹すれば「いかなる悪条件の下にも、更生日本の前途は洋々たるものあること必然だ」と断言し、その後も引き続き国民を鼓舞した。

 一方、大東亜省調査課で電力および工業全般を担当していた大来佐武郎(のち日本経済研究センター理事長、外務大臣)は、1943年頃から日本の敗戦を予期して戦後の日本経済再建の問題を考えるようになる。大来は東大電気工学科の後輩の後藤誉之助(のち経済企画庁調査課長として経済白書の執筆に関与)に協力を求め、当時東北に疎開していた石橋湛山や元関東軍参謀の石原莞爾にも相談したうえで終戦後を考える研究会を組織する。

 終戦により大東亜省が解体されると大来らは外務省に移り、研究会は外務省特別調査委員会として活動を行った。これは外務省の非公式な委員会であったが、官僚や財界人のほか、前述の中山伊知郎や、有沢広巳や大内兵衛(両者とものち法政大学総長)、脇村義太郎(のち日本学士院院長)、山田盛太郎(のち東京大学経済学部長)、宇野弘蔵(のち東京大学社会科学研究所教授)、東畑精一(のちアジア経済研究所所長)、都留重人(のち一橋大学学長)といった経済学者が立場を超えて参加して熱心に議論し、大来と後藤が会の実際の運営を行った。

 外務省特別調査委員会は1946年3月にその研究結果を冊子『日本経済再建の基本問題』(以下『基本問題』)にまとめる。『基本問題』では敗戦により多大な被害が生じ、さらに戦後は現物による賠償負担(冷戦の進行によりかなり軽減されたが)に加えて食糧不安、多くの失業人口の発生、インフレの昂進などの困難が生じていることが挙げられ、日本の直面する課題が極めて深刻であることが詳しく説明されている。』

『ただ、こうした困難の中でも戦争は「幾多の貴重な教訓と日本民族の将来に対する贈物をも残した」とされている。日本は戦時経済によって機械類を自給する能力を達成し、大量の技術者、徴用工、その他重工業労働者が養成された。また計画経済の経験と訓練を積んだこと、軍事費や植民地経営の諸費用の負担がなくなったことも有利となる条件であり、そして戦後の民主主義は責任を自覚する持つ国民の増大によって生産力を向上させるだろうと期待されている。

 こうした分析から『基本問題』の後半では農村向け工業生産を振興し、労働力が豊富で資源不足の日本では労働集約的な工業を世界分業の観点からも発展させていくこと、国際的分業をしつつ同時に国内資源の開発利用を目指す必要があるとされる。

 「結語」では人口過剰を解決するために外国への移民が必要であるにしても、まず民主的な政治の再建と国土の徹底的開発に努力を払い、それによって日本の信用を回復することが必要であり、その後に「公正なる主張を為し得る資格」が与えられるとされている。
復興の鍵となった「傾斜生産方式」

 こうした分析と提言を行った『基本問題』は直接政府の政策にそれを反映させるために作成されたものではないが、日本に対する賠償軽減・重工業の必要性を訴える資料としてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に提出され一定の影響を与えたともいわれる。また戦争の被害の大きさを認めつつ戦争によってもたらされた肯定的な面にも目を向けた『基本問題』は、経済政策に関わる担当者を勇気づけるものでもあった。

 他方、現実の日本経済は戦争で多くの国富が失われた上に輸入もGHQにより制限され、国内資源と過去のストックだけに依存する極めて厳しい状態が続いていた。1946年5月の第一次吉田茂内閣成立後、同年夏から秋にかけて吉田を囲む私的ブレーン集団「昼飯会」ができる。昼飯会は有沢広巳、中山伊知郎、東畑精一、大来佐武郎、茅誠司(物理学者、のち東大総長)、農相の和田博雄、そして吉田の側近の白洲次郎などから構成され、時事問題を議論した。

 有沢や大来らの間では産業の基盤となる石炭に優先的に(傾斜させて)資源を割りあて、石炭の増産と鉄鋼の増産を交互に繰り返すことで経済全体の拡大再生産を進める構想が考えられた。これは後に「傾斜生産方式」と呼ばれる。有沢によれば、傾斜生産の発想は、戦時中に各国の経済抗戦力を分析した秋丸機関(陸軍省戦争経済研究班)で抗戦力測定を行った経験から来たものであった。

 1946年7月末に吉田首相はマッカーサー司令官に日本経済の危機を訴え、マッカーサーは日本経済復興のための資材緊急輸入を許可すると回答し、これにより具体的な緊急輸入品目に関する交渉が続けられた。有沢・大来らは、重油を緊急輸入すればそれを鉄鋼生産に回し、それを基に傾斜生産すれば石炭増産が可能とする自分たちの構想を昼飯会で吉田に理解させた。

 石炭増産のため1946年11月に吉田の私的諮問機関である石炭小委員会(委員長は有沢)が発足する。石炭小委員会は炭鉱への資材の優先配分、3000万トンの石炭生産の前提条件である労働意欲向上のための諸政策、国民の協力を得るための諸施策などを盛り込んだ「石炭対策中間報告」をまとめ、これに基本的に沿った内容が閣議決定され1947年初頭から傾斜生産方式が実施された。

 近年の経済史研究では傾斜生産方式の効果には否定的だが、実は傾斜生産方式は「日本人が日本国内の資源を用いて自助努力により経済再建する」という形でGHQの信用を得て、本当に必要な重油の輸入を求めるためのレトリックであり、またそれを大々的に宣伝することで国民の労働意欲を引き出し、その意味で効果的であった。』

『重油の緊急輸入と米国のEROA(占領地域経済復興資金)によって原材料輸入に対する援助が始まったことにより1948年から生産は回復していくが、同時にインフレも進む。一方で冷戦の進行により米国にとってアジアにおける資本主義の拠点としての日本の重要性は増していた。また放漫財政とみなされた日本に米国が経済援助を行うことには米国国民の不満もあり、日本経済を自立させながらソ連に対抗する拠点にすることが急務となっていた。

 1949年2月には財政金融引き締め政策である「ドッジ・ライン」が実施され、国内補助金と米国からの援助を打ち切ることで日本経済の自立が目指される。日本はインフレが収まる一方で不況になるが、1950年に朝鮮戦争が勃発すると米軍など国連軍向けの特殊需要(朝鮮特需)が急増し、経済は本格的に復興に向かった。

 1952年にサンフランシスコ講和条約が発効して日本は独立を回復し、1950年代前半の日本は国内の消費の増加により概ね景気は好調な状態が続く。ただ、景気上昇による輸入増加で国際収支が赤字へと転じ、そのために金融引き締めと緊縮財政が実施されることが繰り返され(国際収支の天井)、経済成長の制約ともなった。
敗戦により解消された日本の二つの「貧乏」

 一方、ブロック経済の進展が第二次世界大戦を引き起こしたという反省の上に作られた戦後のブレトン・ウッズ体制(国際通貨基金<IMF>や関税貿易一般協定<GATT>を基軸とした自由貿易体制)への復帰は日本にとって大きなメリットをもたらした。国内を見ると、『基本問題』でも取り上げられていた戦争・敗戦のプラスの面は確かに経済に好影響を与えた。財閥解体により各産業分野での独占・寡占がなくなり、各企業は戦時期の遅れを取り戻すために盛んに新技術の開発や海外からの技術導入をして競争し生産性が向上した。

 そして農地改革や財閥解体・戦後のインフレにより所得格差が小さくなり、多くの中間層が生まれた。さらに戦後はベビーブームによって若年人口が急増し、彼・彼女らが1960年ころに労働力人口と同時に消費主体となり消費も増加していった。日本経済が成長する準備は1950年代後半には整い、それが高度経済成長の原動力となっていく。

 第1回で紹介したように、河上肇は「日本の貧乏」と「貧乏な日本」の解消の鍵を総力戦体制に見出したが、実際にはそうした問題を戦争によって直接解決することはできなかった。ただ、今回紹介したように、戦争の体験と戦争による内外の変化をプラスに転じることにより、「日本の貧乏」と「貧乏な日本」は解消に向かっていった。

 戦後80年近くが過ぎ、現在の日本では再び貧富の格差が拡大し、また他の先進国や新興国と比べて日本の国際的地位は低下しつつあり、「日本の貧乏」と「貧乏な日本」が改めて問題となっている。さらに現在は世界的にも社会の分断が進んで国際秩序も危機に瀕しており、「新たな戦前」とも言われる状況となっている。

 国内および国際的な格差とそれへの関心の高まりが社会を不安定化させ戦争を引き起こしていった歴史を繰り返さないためにも、そして国内外の変化を前向きにとらえそれをプラスに転じていくためにも、歴史を振り返りそこから学ぶことが必要である。今回の連載がその役に立てば幸いである。

参考文献

筒井清忠編『昭和史講義【戦後文化篇】上』ちくま新書
名古屋大学大学院経済学研究科附属国際経済政策研究センター情報資料室『荒木光太郎文書解説目録 増補改訂版』
牧野邦昭「石橋湛山に学ぶ国際協調の意義 理念支える制度の設計肝要(経済教室)」日本経済新聞2022年8月15日朝刊

『Wedge』では、第一次世界大戦と第二次世界大戦の狭間である「戦間期」を振り返る企画「歴史は繰り返す」を連載しております。『Wedge』2022年6月号の同連載では、本稿筆者の牧野邦昭氏による寄稿『テロと戦争への道を拓いた大正日本経済のグローバル化』を掲載しております。

 『Wedge』2021年9月号で「真珠湾攻撃から80年 明日を拓く昭和史論」を特集しております。

 80年前の1941年、日本は太平洋戦争へと突入した。当時の軍部の意思決定、情報や兵站を軽視する姿勢、メディアが果たした役割を紐解くと、令和の日本と二重写しになる。国家の〝漂流〟が続く今だからこそ昭和史から学び、日本の明日を拓くときだ。
 特集はWedge Online Premiumにてご購入することができます。』

与謝蕪村

与謝蕪村
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8E%E8%AC%9D%E8%95%AA%E6%9D%91

 ※ 今日は、こんな所で…。

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

与謝 蕪村
Yosa Buson.jpg
与謝蕪村(呉春作)
誕生 1716年
日本の旗 日本・摂津国東成郡毛馬村
(現:大阪府大阪市都島区毛馬町)
死没 1784年1月17日
日本の旗 日本・山城国
(現:京都府京都市下京区)
職業 俳人、画家
代表作 鳶鴉図
Portal.svg ウィキポータル 文学
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与謝 蕪村(與謝 蕪村、よさ ぶそん、よさの ぶそん 享保元年(1716年) – 天明3年12月25日(1784年1月17日))は、江戸時代中期の日本の俳人、文人画(南画)家。本姓は谷口、あるいは谷。「蕪村」は号で、名は信章。通称寅。「蕪村」とは中国の詩人陶淵明の詩『帰去来辞』に由来すると考えられている。俳号は蕪村以外では「宰鳥」「夜半亭(二世)」があり、画号は「春星」「謝寅(しゃいん)」など複数ある。

鳶鴉図(重要文化財) 紙本着色 北村美術館蔵[1]

経歴

摂津国東成郡毛馬村(けまむら)(現:大阪府大阪市都島区毛馬町)に生まれた[2]。京都府与謝野町(旧丹後国)の谷口家には、げんという女性が大坂に奉公に出て主人との間にできた子供が蕪村とする伝承と、げんの墓が残る。同町にある施薬寺には、幼少の蕪村を一時預かり、後年、丹後に戻った蕪村が礼として屏風絵を贈ったと口伝されている[3]。

20歳の頃、江戸に下り、早野巴人(はやの はじん〔夜半亭宋阿(やはんてい そうあ)〕)に師事して俳諧を学ぶ。日本橋石町「時の鐘」辺の師の寓居に住まいした。このときは宰鳥と号していた。俳諧の祖・松永貞徳から始まり、俳句を作ることへの強い憧れを見る。しかし江戸の俳壇は低俗化していた。

象潟地震で隆起する以前の、象潟の様子が描かれた屏風。芭蕉は「象潟や雨に西施がねぶの花」という句を詠んだ。

寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと下総国結城(現:茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、敬い慕う松尾芭蕉の行脚生活に憧れてその足跡を辿り、僧の姿に身を変えて東北地方を周遊した。絵を宿代の代わりに置いて旅をする。それは、40歳を超えて花開く蕪村の修行時代だった。その際の手記で寛保4年(1744年)に雁宕の娘婿で下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)の佐藤露鳩(さとう ろきゅう)宅に居寓した際に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で初めて蕪村を号した。

その後、丹後に滞在した。天橋立に近い宮津にある見性寺の住職・触誉芳雲(俳号:竹渓)に招かれたもので、同地の俳人(真照寺住職の鷺十、無縁寺住職の両巴ら)と交流。『はしだてや』という草稿を残した。宮津市と、母の郷里で幼少期を過ごしたと目される与謝野町には蕪村が描いた絵が複数残る(徐福を画題とした施薬寺所蔵『方士求不老父子薬図屏風』、江西寺所蔵『風竹図屏風』)。一方で、与謝野町の里人にせがまれて描いた絵の出来に後悔して、施薬寺に集めて燃やしてしまったとの伝承もある[3]。

42歳の頃に京都に居を構え、与謝を名乗るようになる。母親が丹後与謝の出身だから名乗ったという説もあるが定かではない。45歳頃に結婚して一人娘くのを儲けた。51歳には妻子を京都に残して讃岐に赴き、多くの作品を手掛ける[4]。再び京都に戻った後、島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には夜半亭二世に推戴されている。

現在の京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明、68歳の生涯を閉じた。死因は従来、重症下痢症と診られていたが、最近の調査で心筋梗塞であったとされている[5]。

辞世の句は「しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり」。墓所は京都市左京区一乗寺の金福寺(こんぷくじ)。

与謝蕪村の生誕地・句碑(大阪市都島区)

与謝蕪村の生誕地・句碑(大阪市都島区)
与謝蕪村邸宅跡・終焉の地(京都市下京区)

与謝蕪村邸宅跡・終焉の地(京都市下京区)
与謝蕪村の墓(京都市左京区)

与謝蕪村の墓(京都市左京区)

作家論
蕪村筆 俳画 自画賛(岩くらの狂女恋せよほととぎす)
蕪村筆『柳陰漁夫図』

松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人であり、江戸俳諧中興の祖といわれる。また、俳画の大成者でもある。写実的で絵画的な発句を得意とした。独創性を失った当時の俳諧を憂い「蕉風回帰」を唱え、絵画用語である「離俗論」を句に適用した天明調の俳諧を確立させた中心的な人物である。

絵は独学であったと推測されている[3]。

後世からの評価

俳人としての蕪村の評価が確立するのは、明治期の正岡子規『俳人蕪村』、子規・内藤鳴雪たちの『蕪村句集講義』、昭和前期の萩原朔太郎『郷愁の詩人・与謝蕪村』[6]まで待たなければならなかった。

旧暦12月25日は「蕪村忌」。関連の俳句を多く詠んだ。

蕪村忌に呉春が画きし蕪かな 正岡子規
蕪村忌の心游ぶや京丹後 青木月斗

2015年10月14日、天理大学附属天理図書館が『夜半亭蕪村句集』の発見を発表した。1903句のうち未知の俳句212句を収録[7]。

与謝野町は「蕪村顕彰全国俳句大会」を2012年から開いている[3]。
俳諧の主な編著

蕪村七部集

    (其雪影、明烏、一夜四歌仙、続明烏、桃李、五車反古、花鳥篇、続一夜四歌仙)

明烏
夜半楽
新花摘(俳文集)など。

作品

俳句

春の海 終日(※ひねもす)のたりのたり哉

柳散り清水涸れ石処々

鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな ※ 『鳥羽殿とは鳥羽上皇を指し、何らかの事件が起こり(鳥羽上皇の死)、洛中から洛外の鳥羽殿へ武士たちが折からの強風の中、馬を走らせているただならぬ様子が描かれています。』

花いばら故郷の路に似たるかな

不二ひとつうづみのこして若葉かな

牡丹散りて打かさなりぬ二三片

夏河を越すうれしさよ手に草履

ゆく春やおもたき琵琶の抱心

易水にねぶか流るゝ寒かな

月天心貧しき町を通りけり

さみだれや大河を前に家二軒

菜の花や月は東に日は西に

笛の音に波もよりくる須磨の秋

涼しさや鐘をはなるゝかねの声

稲妻や波もてゆへる秋津しま

ところてん逆しまに銀河三千尺

古庭に茶筌花さく椿かな

ちりて後おもかげにたつぼたん哉

あま酒の地獄もちかし箱根山

鰒汁の宿赤々と燈しけり ※ 鰒汁→ふぐ汁

二村に質屋一軒冬こだち

御火焚や霜うつくしき京の町

寒月や門なき寺の天高し

さくら散苗代水や星月夜

住吉に天満神のむめ咲ぬ

秋の夜や古き書読む南良法師

朝霧や村千軒の市の音

休み日や鶏なく村の夏木立

帰る雁田ごとの月の曇る夜に

うつつなきつまみ心の胡蝶かな

雪月花つゐに三世の契かな ※ 『師弟の縁は前世、現世、来世にわたる深い因縁でつながっているということをいう。師は三世の契り』

朝顔や一輪深き淵の色

絵画

『夜色楼台図』(国宝)
『十宜図』のうち『宜暁図』(国宝)

山水図(出光美術館)六曲一双 重要文化財 1763年
十便十宜図(川端康成記念会)画帖 国宝 1771年 池大雅との競作。蕪村は十宜図を描く。
紅白梅図(角屋もてなしの文化美術館)襖4面、四曲屏風一隻 重要文化財
蘇鉄図(香川・妙法寺)四曲屏風一双(もと襖) 重要文化財
山野行楽図(東京国立博物館)六曲一双 重要文化財
竹溪訪隠図(個人蔵)掛幅 重要文化財
奥の細道図巻(京都国立博物館)巻子本2巻 重要文化財 1778年
野ざらし紀行図(個人蔵)六曲一隻 重要文化財
奥の細道図屏風(山形美術館)六曲一隻 重要文化財 1779年
奥の細道画巻(逸翁美術館)巻子本2巻 重要文化財 1779年
新緑杜鵑図(文化庁)掛幅 重要文化財
竹林茅屋・柳蔭騎路図(個人蔵)六曲一双 重要文化財
春光晴雨図(個人蔵)掛幅 重要文化財
鳶烏図(北村美術館)掛幅(双幅) 重要文化財
峨嵋露頂図(法人蔵)巻子 重要文化財
夜色楼台図(個人蔵)掛幅 国宝
富嶽列松図(愛知県美術館)掛幅 重要文化財
柳堤渡水・丘辺行楽図(ボストン美術館)六曲一双 紙本墨画淡彩
蜀桟道図(シンガポールの会社) 1778年

上記の他に、蕪村の俳諧の門弟でパトロンでもあった寺村百池の家に伝わった絵画、短冊、書状等の遺品一括が「与謝蕪村関係資料」として重要文化財に指定されている(1987年指定、文化庁保管)。
画集

近年刊の図版本

『蕪村全集 第6巻 絵画・遺墨』(佐々木丞平ほか編、講談社、1998年)
『水墨画の巨匠 第12巻 蕪村』(早川聞多・芳賀徹編、講談社、1994年)
『与謝蕪村 新潮日本美術文庫9』 河野元昭解説(新潮社、1996年)- 入門書
『蕪村 放浪する文人』 佐々木丞平・佐々木正子ほか解説(新潮社〈とんぼの本〉、2009年)- 入門書
『与謝蕪村 画俳ふたつの道の達人』(藤田真一[8]監修、平凡社〈別冊太陽 日本のこころ〉、2012年)

展覧会図録

『蕪村 その二つの旅』(佐々木丞平・佐々木正子監修、朝日新聞社編、東京都江戸東京博物館、2001年2月~3月ほか)
『与謝蕪村 翔けめぐる創意』(辻惟雄ほか、MIHO MUSEUM、2008年3月~6月)
『蕪村 没後220年』(逸翁美術館+柿衛文庫編、思文閣出版、2003年)
『与謝蕪村 「ぎこちない」を芸術にした画家』(府中市美術館編、東京美術、2021年)

全集

『蕪村全集』(全9巻、尾形仂・丸山一彦ほか編)は、講談社で1992年5月より刊行開始、(後半2巻が遅れ)17年かけ2009年9月に完結[9]。

『第1巻 発句』 初回配本
『第2巻 句集・句稿・句会稿』
『第3巻 連句』
『第4巻 俳詩・俳文』
『第5巻 書簡』
『第6巻 絵画・遺墨』
『第7巻 編著・追善』
『第8巻 関係俳書』
『第9巻 年譜・資料』 最終回配本

刊行句集

『蕪村句集講義』平凡社東洋文庫(全3巻)、佐藤勝明校注、2010-11年
『蕪村全句集』藤田真一・清登典子編、おうふう、2000年
『與謝蕪村句集』永田書房、1991年

文庫作品集

『蕪村俳句集』 尾形仂校注、岩波文庫、1989年[10]
『蕪村書簡集』 大谷篤蔵・藤田真一校注、岩波文庫、1992年
『蕪村句集 現代語訳付』 玉城司訳・校注、角川ソフィア文庫、2011年
『蕪村文集』 藤田真一校注、岩波文庫、2016年

関連項目
ウィキクォートに与謝蕪村に関する引用句集があります。
ウィキメディア・コモンズには、与謝蕪村に関連するメディアがあります。

俳人の一覧
彭城百川
松村呉春
紀楳亭
円山応挙
上田秋成
岡田利兵衞 - 柿衞文庫を設立した。
佐藤春夫 - 蕪村『春風馬堤曲』を翻案したレーゼシナリオ『春風馬堤図譜』を著した[11]。
蕪村公園 - 2009年に大阪市都島区に開業した公園。』

古庭(ふるにわ)に鶯(うぐいす)啼(な)きぬ日もすがら ― 蕪村

古庭(ふるにわ)に鶯(うぐいす)啼(な)きぬ日もすがら ― 蕪村
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b09617/

 ※ 「あのように、オレも、日もすがら啼き続けるぞ。」という決意表明だったのだろう…。

 ※ さりとて、「血を吐くまで啼き続ける」とされる、「ホトトギス」と違って、「春を告げる」とされる、ウグイスであるので、どこか「のんびり」とした風情も、漂っている…。

 ※ 「そんなに、気張りなさんな。」…、という声も、聞こえて来そうな感じでもある…。

 ※ 鳴き声自体、「ホーホケキョ(法法華経)」だしな…。

『文化 環境・自然・生物 暮らし 2023.04.23

深沢 了子 【Profile】
俳句は、複数の作者が集まって作る連歌・俳諧から派生したものだ。参加者へのあいさつの気持ちを込めて、季節の話題を詠み込んだ「発句(ほっく)」が独立して、17文字の定型詩となった。世界一短い詩・俳句の魅力に迫るべく、1年間にわたってそのオリジンである古典俳諧から、日本の季節感、日本人の原風景を読み解いていく。第17回の季題は「うぐいす」。

古庭(ふるにわ)に鶯(うぐいす)啼(な)きぬ日もすがら 蕪村
(1744年、『寛保四年歳旦帳』(かんぽうよねんさいたんちょう)所収)

蕪村のこの句は、一見とても単純です。「古びた庭でうぐいすが終日さえずっている」。
「古庭」は古い屋敷の庭で、きっと梅の古木が今を盛りと花を付けているのでしょう。そこで日がな一日鶯が鳴いているという穏やかな春の日の情景です。

この句は蕪村が初めて編集した『寛保四年歳旦帳』という本に収められています。そして、初めて「蕪村」の俳号を使った句でもあります。それまでは「宰鳥(宰町)」(さいちょう)と名乗っていました。

面白いことにこの本は宰鳥の鶏の句で始まり、蕪村の鶯の句で終わります。古い号と新しい号で鳥を詠み分け、遊び心いっぱいに蕪村号のお披露目をしたわけです。そうしたこだわりのある本に載せられた句ですから、単純な景色の句と読むだけでは不十分でしょう。
句の背景にあるのは、芭蕉の有名な「古池や蛙飛びこむ水の音」句だと思われます。「古池の蛙」を「古庭の鶯」に変えたのです。蛙と鶯は、『古今集』の仮名序(かなじょ)に歌を詠む生き物として「花に鳴く鶯、水に住む蛙」とセットで記され、いわば対になる動物でした。新しい号での最初の句に、蕪村は芭蕉への敬意を込めたのです。終日鳴き続ける鶯は、句を唱え続けようという蕪村の俳諧に対する決意表明であったのかもしれません。

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俳句 蕪村

深沢 了子FUKASAWA Noriko経歴・執筆一覧を見る

聖心女子大学現代教養学部教授。蕪村を中心とした俳諧を研究。1965年横浜市生まれ。東京大学大学院博士課程単位取得退学。博士(文学)。鶴見大学助教授、聖心女子大学准教授を経て現職。著書に『近世中期の上方俳壇』(和泉書院、2001年)。深沢眞二氏との共著に『芭蕉・蕪村 春夏秋冬を詠む 春夏編・秋冬編』(三弥井書店、2016年)、『宗因先生こんにちは:夫婦で「宗因千句」注釈(上)』(和泉書院、2019年)など。』

日比谷焼打事件

日比谷焼打事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%AF%94%E8%B0%B7%E7%84%BC%E6%89%93%E4%BA%8B%E4%BB%B6

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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この記事の項目名には以下のような表記揺れがあります。

日比谷焼打ち事件[1]
日比谷焼き打ち事件
日比谷焼討事件
日比谷焼き討ち事件

日比谷焼打事件
Hibiya Incendiary Incident2.JPG
焼き打ちに遭った施設など
場所 大日本帝国の旗 大日本帝国 東京府東京市
日付 1905年(明治38年)9月5日
概要 日比谷公園で行われたポーツマス条約反対の国民集会が暴動に発展
損害 死者17名、負傷者500名。内務大臣官邸、国民新聞社、交番などが襲撃される。
対処 87名に有罪判決
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日比谷焼打事件(ひびややきうちじけん)は、1905年(明治38年)9月5日、東京市麹町区(現在の東京都千代田区)の日比谷公園で行われた日露戦争の講和条約であるポーツマス条約に反対する国民集会をきっかけに発生した日本の暴動事件。

原因と結果

1905年、日露戦争は東郷平八郎率いる日本海軍がロシア海軍のバルチック艦隊を撃破したことを契機に、アメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトの斡旋の下、アメリカのポーツマスにおいて日露間の和平交渉が行われることとなった。当時、日本は戦争に対する多大な軍費への出費から財政が悪化し、ロシアでも血の日曜日事件など革命運動が激化していたため、両国とも戦争継続が困難になっていた。当時の日本には戦争を継続するだけの余力は既になかった。しかしながら日本国内では連戦連勝の報道がなされ、戦費を賄うために多額の増税・国債の増発[注釈 1]もなされていた。

しかし、ロシア側はあくまで賠償金の支払いを拒否した。日露戦争の戦場は全て、満洲(現在の中国東北部)南部と朝鮮半島北部であり、ロシアの領内はまったく日本に攻撃されていないという理由からであった。日本側の全権であった小村寿太郎は8月29日、ロシアに樺太の南半分(北緯50度以南)の割譲および租借地であった遼東半島の日本への利権の移譲を認めさせ、日本の満洲や韓国に対する指導権の優位などを認めさせることで妥協し、講和条約であるポーツマス条約に調印した[注釈 2]。日露戦争は実質的に日本の勝利に終わった。

しかし、同条約では日本に対するロシアの賠償金支払い義務はなかったため、日清戦争と比較にならないほど多くの犠牲者や膨大な戦費(対外債務も含む)を支出したにも拘わらず、直接的な賠償金が得られなかった。

この条件は、事前の8月末に『朝日新聞』などで報道されていた「講和条約」予想記事から、戦争自体は日本の勝利であったものの領土割譲は樺太南半のみで賠償金と沿海州割地はなかったことから日本国民が考えていた講和条件とは大きくかけ離れるものであった。
日本側は賠償金50億円、遼東半島の権利と旅順 – ハルピン間の鉄道権利の譲渡、樺太全土の譲渡などを望んでいた。

後の日比谷焼き討ち事件の原因となった一部政治活動家らの中にはイルクーツク地方以東のロシア帝国領土(沿海州)割譲がされるべきと主張する者までいた[3]。

このため、『朝日新聞』(9月1日付)に「講和会議は主客転倒」「桂太郎内閣に国民や軍隊は売られた」「小村許し難し」などと書かれるほどであった[注釈 3]。

長きにわたる戦争で戦費による増税に苦しんできた国民にとって、賠償金と沿海州が取れなかった講和条約に対する不満・非難の世論が高まった。

このため、9月3日に大阪市公会堂をはじめとする全国各地で講和条約反対と戦争継続を唱える集会が開かれた。その内容は、「国務大臣(閣僚)と元老を全て処分し、講和条約を破棄してロシアとの戦争継続を求める」という過激なものであった。

野党議員座長の講和条約反対集会

9月5日の講和条約締結日に、野党であった憲政本党の河野広中を座長とした対露対外硬派9団体[注釈 4]の集会が開催された。

河野らの主張する賠償金と沿海州割譲を支持するために講和内容への反対に端を発する数万人による暴動[3]、日比谷焼き討ち事件が起きた[3]。

そのため、翌9月6日、勅令で、治安妨害の新聞雑誌の発行停止権を内相に与えられた。これにより、『大阪朝日』『東京朝日』『万朝報』『報知新聞』などが発行停止を命じられた。

幕引き以降

その後の暴動収拾後も反発は収まらず、首相の桂太郎は立憲政友会を率いる西園寺公望と密かに会談を持って収拾策を話し合った。

この結果、翌年1月に第1次桂内閣は総辞職し、代わって第1次西園寺内閣が成立した。西園寺や新たに内務大臣となった原敬は反政府側から出された戒厳令関係者の処分要求を拒絶して、事件の幕引きを図った。

講和条約反対暴動の推移

決起集会

9月5日、東京の日比谷公園でも野党議員が講和条約反対を唱える民衆による決起集会を開こうとした。不穏な空気を感じた警視庁は禁止命令を出し、警察官350人と丸太で公園の入り口を封鎖した。

しかし怒った民衆たちが日比谷公園に侵入。一部は皇居前から銀座方面へ向かい、御用新聞と目されていた国民新聞社を襲撃した。

すぐ後には抜刀した5人組が内務大臣官邸を襲撃し、棍棒や丸太で裏門からも襲った。

銀座からの暴徒と化した群衆も襲撃に加わった。そうして、東京市各所の交番[4]、警察署などが焼き討ち・破壊される事件が起こり、市内13か所以上から火の手が上がった[5]。

この時、日本正教会がロシアと関係が深かったことから、ニコライ堂とその関連施設も標的になり、あわや焼かれる寸前であったが、近衛兵などの護衛により難を逃れた[6]。

また群衆の怒りは、講和を斡旋したアメリカにも向けられ、東京の駐日アメリカ公使館のほか、アメリカ人牧師の働くキリスト教会までも襲撃の対象となった[7]。

これにより東京は無政府状態となり、翌9月6日、日本政府は東京市および府下5郡に戒厳令[注釈 5]を布き[8]即日施行、近衛師団が鎮圧にあたることでようやくこの騒動を収めた[注釈 6]。

この騒動により、死者は17名、負傷者は500名以上、検挙者は2000名以上にものぼった。このうち裁判にかけられた者は104名[10]、有罪となったのは87名であった。

なお、各地で講和反対の大会が開かれ、9月7日に神戸、9月12日に横浜でも暴動が起こった。

被害にあった建物

内務大臣官邸
外務省
国民新聞社

キリスト教関係

駒形町福音伝道館
三軒町美以教会
黒船町聖約翰教会
森下町救世軍分営
芝崎町浅草美以教会・牧師館(現在の日本基督教団浅草教会)
横川町天主教会・付属小学校
吉田町天主教信者鈴木房次郎宅
松倉町同盟教会講義所(現在の日本同盟基督教団)
向島小梅町同盟教会(現在の日本同盟基督教団)
両国矢ノ倉町日本基督教会(現在の日本基督教団永福町教会)
御士町日本基督教会(現在の日本基督教団豊島岡教会)
日本基督明星教会(現在の日本基督教団小石川明星教会)
車坂町美以教会(現在の日本基督教団下谷教会) 』

世中(よのなか)よ蝶々(ちょうちょう)とまれかくもあれ

世中(よのなか)よ蝶々(ちょうちょう)とまれかくもあれ ― 宗因
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b09616/

『文化 環境・自然・生物 暮らし 2023.04.16

深沢 眞二 【Profile】
俳句は、複数の作者が集まって作る連歌・俳諧から派生したものだ。参加者へのあいさつの気持ちを込めて、季節の話題を詠み込んだ「発句(ほっく)」が独立して、17文字の定型詩となった。世界一短い詩・俳句の魅力に迫るべく、1年間にわたってそのオリジンである古典俳諧から、日本の季節感、日本人の原風景を読み解いていく。第16回の季題は「蝶々」。

世中(よのなか)よ蝶々(ちょうちょう)とまれかくもあれ 宗因
(1676年作)

「とまれかくもあれ」は「ともあれ、かくもあれ」を縮めた表現で、「ともかくとして」といった意味です。「世中よ、とまれかくもあれ」であれば、「世の中はともかくとして」です。その文脈に「蝶々」をほうり込んで、「蝶々止まれ」の言い回しを挟みました。「蝶々止まれ」は現代の童謡でも「ちょうちょうちょうちょう菜の葉にとまれ」と使われていますね。つまり「とまれ」の部分が掛け言葉なのです。この句をダイレクトに訳すと、「世の中のものごとはともかく置いておくとして、蝶々止まれ」となります。

発想の背景には、一般に「胡蝶の夢」と呼ばれる寓話があります。中国古代の思想書『荘子(そうじ)』に語られている話で、著者の荘周(そうしゅう)が夢の中で蝶になり、夢から覚めて人間に戻ったけれど、自分が本当は蝶々なのか人間なのか分からなくなったというものです。宗因は、「世の中のもろもろの問題は深く考えなくったっていいじゃない。蝶々みたいに遊んで暮らそうよ。人間の姿をしているのと蝶々になって飛んでいるのと、どっちが本当でどっちが夢だか分かりゃしないんだから。ほら、蝶々、この指に止まんなよ。おまえは誰の夢の中の蝶々かな」と言っているのでしょう。

宗因は、1605年生まれ1682年没の連歌師・俳諧師です。この句は、俳諧の門人の惟中(いちゅう)に与えた文章「荘子像賛(そうじぞうさん)」の結びの発句でした。

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俳句

深沢 眞二FUKASAWA Shinji経歴・執筆一覧を見る

日本古典文学研究者。連歌俳諧や芭蕉を主な研究対象としている。1960年、山梨県甲府市生まれ。京都大学大学院文学部博士課程単位取得退学。博士(文学)。元・和光大学表現学部教授。著書に『風雅と笑い 芭蕉叢考』(清文堂出版、2004年)、『旅する俳諧師 芭蕉叢考 二』(同、2015年)、『連句の教室 ことばを付けて遊ぶ』(平凡社、2013年)、『芭蕉のあそび』(岩波書店、2022年)など。深沢了子氏との共著に『芭蕉・蕪村 春夏秋冬を詠む 春夏編・秋冬編』(三弥井書店、2016年)、『宗因先生こんにちは:夫婦で「宗因千句」注釈(上)』(和泉書院、2019年)など。』

両方に髭(ひげ)がある也(なり)猫の妻

両方に髭(ひげ)がある也(なり)猫の妻
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b09615/

 ※ 『両方に髭(ひげ)がある也(なり)』…。確かに…。

 ※ 今日は、こんな所で…。

『 深沢 了子 【Profile】

俳句は、複数の作者が集まって作る連歌・俳諧から派生したものだ。参加者へのあいさつの気持ちを込めて、季節の話題を詠み込んだ「発句(ほっく)」が独立して、17文字の定型詩となった。世界一短い詩・俳句の魅力に迫るべく、1年間にわたってそのオリジンである古典俳諧から、日本の季節感、日本人の原風景を読み解いていく。第15回の季題は「猫の妻」。

両方に髭(ひげ)がある也(なり)猫の妻 来山(らいざん)
(『いまみや草』所収)

春に発情期を迎えた猫の句は、現在「恋猫」や「猫の恋」という季語を使って詠まれることが多いようですが、古典俳諧ではその他に「猫の妻・夫」も使われます。どちらも読み方は「ねこのつま」。雌雄で使い分けていたかどうかは曖昧なのですが、来山の句は雌猫にも髭があることに改めて気が付いたのでしょう。「恋する猫には雄にも雌にも髭があって見分けが付かない」。言われてみれば当然、けれどもなんだかおかしい句です。「猫の恋」の句では、何日もさまよってやつれるさまやそのひたむきさ、声のうるささを詠むことが多いのですが、その定番を外しています。

作者の来山(1654~1716)は大阪の人気俳人でした。

文章も巧みで、この句にも付記があります。「猫の雌雄は簡単には見分けがたい。恵比須様と大黒様は夫婦だと信じ込んでいる尼さんがいた。言って聞かせても納得しない。両方に髭のある句のついでにふと思い出してここに書いておく」。この文章もじわじわと面白い。恵比須様と大黒様は確かに髭も体型も似ています。出典の『いまみや草』は来山の没後に門人たちが編集した句文集で、残念ながらこの句の成立年時は不明です。

優れた感性とユーモアの持ち主である来山は、分かりやすい言葉で繊細、あるいは豪放な句を作りました。代表作に透き通った白魚が泳ぐ様子をとらえた「白魚やさながらうごく水の色」(『続いま宮草』)があります。』

文鮮明氏来日に政界便宜 教団と関わり、韓国が記録

文鮮明氏来日に政界便宜 教団と関わり、韓国が記録
https://www.47news.jp/politics/9159242.html

 ※ 今日は、こんな所で…。

『【ソウル共同】1992年3月に世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の創設者文鮮明氏(故人)が来日した際、米国で実刑判決を受けて本来は日本に入国できないのに、金丸信自民党副総裁(当時)が便宜を図り特別に許可されていた経緯が、韓国外務省が6日公開した外交文書で分かった。政界と教団との深い関係が30年前の外交記録からも浮かび上がった。

 文書によると、法務省は当初、文氏の入国を拒否しようとした。だが金丸氏が身元を保証した上、外務省も異論を示さなかったため、入国が許可されたという。韓国大使館が日本外務省に非公式に問い合わせた情報としている。』

日本の民主主義は「外国産」なのか?:江戸時代の村に存在した“選挙”制度

日本の民主主義は「外国産」なのか?:江戸時代の村に存在した“選挙”制度
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g02266/

 ※ 昔、「民主主義の基盤の考察」なる一文を書いたことがあり、ある人にメールで送った…。
 
 ※ その後、自分でも、その文章を読み返したくなり、「読み返したいので、オレに送信してくれ。」と頼んだことがある…。

 ※ しかし、返事は、「たぶん、消去してしまったので、送信はできん。スマンな。」というものだった…。

 ※ というのも、Windows7からWindows10への乗り換えで、愛用していたメーラーが使用できなくなり、その乗り換えのゴタゴタに伴って、旧データを随分と喪失してしまった…。

 ※ それで、旧メーラーで使っていた「メール・データ」も、随分と失ってしまったからだ…。

 ※ その時は、「まあ、いい…。元の文章は、オレの頭の中にある…。」とか、豪語した…。

 ※ しかし、その肝心の「オレの頭」が、最近は、さっぱり…、になって来ているものだから、話しにならんのだ…。

 ※ ただ、言えることは、「民主主義」は、「手段」の一つであって、「結果の妥当性」を、全く「保証するもの」では無い…、ということだ。

『政治・外交 2023.04.05

柿崎 明二 【Profile】

民主主義と権威主義のイデオロギー対立が国際社会で激化する中、筆者は「今こそ足元にある『自分たちの民主主義』を見つめなおすべきだと指摘する。実は鎖国体制にあった江戸時代、支配体制の末端にあった村で民主的な自治のシステムが生まれていた…。
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揺らぐ民主主義の正当性

普遍的な価値とされてきた民主主義の正統性が揺らいでいる。米国のトランプ大統領はじめデマゴギー(扇動)政権の相次ぐ誕生、「中国式の民主主義」を自任する習近平国家主席率いる権威主義国家中国の著しい台頭。日本でも国政選挙の投票率が5割近くをさまよい、政権交代の兆しもない。バイデン大統領が、中国、ロシアを念頭に唱える「民主主義によって権威主義に対抗する」というスローガン自体、欧米型民主主義が劣勢に陥りかねないことへの危機感の裏返しであろう。

深刻なのは、「自国を民主主義国家、他国を権威主義国家と定義すること自体が非民主的だ」という習氏の反論に対して説得力をもった再反論をできていないことだ。バイデン氏は、社会があくまでも寛容を守り続けるなら非寛容な人々によって社会が壊されてしまうという「寛容のパラドクス」を克服するつもりなのかもしれない。民主主義は権威主義に壊されないよう、非民主主義的な対応もとるべきだと。しかし、習氏の指摘に「そう、私たちは非民主主義的になった」と認めるわけにいかない。

そんな中、外交関係を断絶していたサウジアラビアとイランの外交正常化を中国が仲介した。今後、ウクライナ戦争の仲介に本格的に乗り出せば、「戦争や対立を終わらせるのは権威主義」という倒錯的な状態になる。

世界を、民主と権威だけに区分けすること自体に無理がある。スウェーデンの政府間組織「民主主義・選挙支援国際研究所(IDEA)は、民主主義と権威主義の間に「ハイブリッド」という類型を置く。2020年時点、民主主義国家に日米を、権威主義国家に中朝を、ハイブリッド国家にロシアやトルコを挙げている。「民主vs専制」は分かりやすいが、区分けの粗さが実態を見誤らせ、国際的な対立関係を悪化させかねない。
日本の「江戸の村型民主主義」

そもそも、民主主義自体もさまざまである。今必要なのは、各国で取り入れ方、制度設計、具体的な方法が千差万別な「民主主義」をそれぞれの国民が今一度、見つめなおし、欠点を修正し、長所を強化し、「私たちの民主主義」の強靭(きょうじん)化を図ることだ。それは、体制の欠点を認めない権威主義では難しい。この試みは習氏への説得力ある再反論になるだろう。

日本では、民主主義は「明治維新後、徐々に拡充され、太平洋戦争後の占領期に本格的に確立された」と解釈されている。つまり、「外国産」という認識が常識化している。であるがゆえに、日本人が民主主義について語る時、自嘲気味になるか、他国の民主主義化の歴史を引用した教科書的な言辞となりやすい。かくいう筆者もご多分に漏れず、である。
このような姿勢を脱するためにも、まずは日本の民主主義を見つめなおす必要がある。明治維新前、「江戸の村式民主主義」とも呼ぶべきシステムがあったことを知ることはその一助となるだろう。

「村掟の制定を始めとして、村の運営は村役人を中心に行われた。庄屋・年寄、あるいは名主・組頭などと名付けられる役職で構成される村役人の(略)人選はおおむね村の意向に任された。(略)村民の選挙によって選ぶ村も多かった」

日本歴史研究者の水本邦彦氏は『村 百姓たちの近世』(岩波新書、2015年)で、江戸時代の村の運営についてこう述べている。「村民の選挙」という部分に着目してほしい。江戸時代に選挙が行われていたということだ。

当時、選挙は「入札(いれふだ)」と称されていた。研究者間では常識で、1979年に刊行された『国史大辞典』(吉川弘文館)第一巻でも、「投票によって人選・売買・意思決定などをすること」「近世では入札によって村役人を選んだ例は多い」「選挙人と被選挙人の両方の名を記した場合と、被選挙人の名だけを記した場合がある」と説明している。

長野県立歴史館が資料によって長野地域の近世を活写した「信濃の風土と歴史④近世の信濃」(1998年)の中で、日本歴史研究家の青木歳幸氏は次のように記している。

「一七九四年(寛政六)、幕府領佐久郡北沢村(佐久市)では農民全員の入札(選挙)により高得点者が名主になっています」「一八〇九年(文化六)松代領の南長池村(長野市)では、小前とか帳下とよばれる下層農民も入札に参加して、彼らが推せんする人物が名主に当選するなど、選挙権も拡大していきました」「一八六三年(文久三)、佐久郡下海瀬村(佐久町)の名主と組頭の入札がおこなわれました。(略)まず台帳(有権者名簿)をつくり、人数分の札(投票用紙)を有権者に配ります。選挙会場で、その札に本人である確認の割り印を推した上で、候補者の名前を書いて札を入れます(投票)。その結果、最多の票数を得た候補者が当選しています」「入札帳には、宗太夫後家など三人の女性が有権者として登録されています。つまり江戸後期の村では女性も戸主であれば選挙権があり村政に参加できたのです」

方法が現在とほとんど同じであるだけではなく、女性まで含めた選挙権の拡大がすでに起きていた。英国で選挙権の拡大が始まったのは1832年からだ。さらに注目すべきは以下の記述だ。

「江戸時代の中ごろから、年貢や税の不公平なわりふりがあったりして、村役人たちと農民たちとの間に争いがおこってきました。これを村方騒動といいます」 「村方騒動は一八世紀後半から増加し、(略)村役人の選出方法が争点となりました」

欧米の民主化の情勢も知る由もない農民たちの戦いによって入札が導入されたのだ。日本独自の民主化の萌芽は入札にとどまらない。
民主主義の重要性認識を

「村の文書量がふえ、文書保管用の土蔵がない名主も出てきました。そこで、新しく文書保管庫が必要になってきました。一八一三年(文化一〇)、諏訪郡乙事村(富士見町)では、…文書保管のための郷蔵を建てました。…いわば村立の文書館といえます」

民主主義の重要な一要素とされる文書主義が進展していた。さらに驚くべき制度がある。村役人は名主(西国では庄屋)、組頭(同、年寄)、百姓代からなっていたが、百姓代の役割は、国史大辞典によれば「村政監査役」であり、「(近世)中期以後、村方騒動などをきっかけに登場する場合が多い。年貢や村入用の割付監査などに立ち会う(略)村方騒動の担い手となるケースも少なくなかった」とされている。チェックシステムを内蔵していたのだ。

確かにこれらの制度は幕藩という封建制度の枠内、それも「村」という最末端でしか機能していなかった。「普通選挙」など現代の選挙制度の原則を備えていなかった。そして総じて「個」より「共同体」を重視していることなど、今日から見れば極めて部分的で不完全である。しかし、それを日本人、それも統治される側が自治の中で生み出していたことも事実だ。

その有効性は、明治新政府が江戸時代の制度を否定しながら、明治元年(1968年)に発出した「政体書」で官吏の「入札」を定め、翌年には指導層を選出したこと、その10年後から本格化する地方制度整備のため江戸時代の自治などを調査した「郷村考」で、入札を参考例として挙げていることなどからも明らかだ。

「民主主義対権威主義」の是非という大テーマに目を向けるまでもなく、4月の統一地方選挙をめぐっても無投票、定員割れなど制度の機能停止が指摘されている。民主主義の基盤である選挙制度を機能停止させておいて「権威主義」に対抗できるのか。「民主主義は見放されている」という権威主義国家による認知戦に利用されかねない。機能停止はわれわれが民主主義制度の必要性を体感できないのが一因だろうが、数百年前の御先祖様たちが「公平に豊かに生きるため」に気が遠くなるような長い年月と、時には命をかけて数々の制度や権利を得た事実を知れば、その大事さを少しは認識できるのではないか。

バナー写真:第26回参院選の開票作業(東京都新宿区)=2022年7月10日(時事)

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選挙 江戸時代 民主主義 権威主義
柿崎 明二KAKIZAKI Meiji経歴・執筆一覧を見る

帝京大学法学部教授。1961年秋田県生まれ。早稲田大第一文学部卒。共同通信社政治部記者、編集委員、論説委員などを歴任。2020年10月から21年10月まで菅義偉内閣の首相補佐官を務めた。22年4月より現職。著書に『検証 安倍イズム~胎動する新国家主義』(岩波新書)などがある。』

「真田家臣団」;情報力でアドバンテージ;

「真田家臣団」;情報力でアドバンテージ; 【戦国家臣団に学ぶ強い組織づくり 第6回】

https://www.hitachi-solutions.co.jp/prowise/fea_sengoku/6/

 ※ 西からは、織田勢。南からは、北条勢。北からは、上杉勢。東からは、芦名、佐竹勢…、と大勢力に囲まれていた…。

 ※ さて、どうするか…。

 ※ 全く、「現代」でも、同じことだ…。

 ※ 「民主主義」「法の支配」…。

 ※ お題目だけ唱えていても、「国滅ぶ」じゃ、目も当てられない…。

 ※ 「国家・国民の生き残り」が、掛かっているんだ…。

『 乱世の時代にしのぎを削った戦国武将の家臣団。

家臣たちはいかなる働き方をし、チームパワーを発揮したのか。
現代ビジネスの視点から、さまざまな家臣団の組織モデルを検証し、
現代に活きる知恵をあぶりだす。

小領主の大名、真田昌幸を支えた情報戦略

真田父子犬伏密談図(上田市立博物館蔵)右は真田昌幸、相向かいはその長男信之、その間で下を向いてじっと聞いているのが次男幸村。

真田家といえば、知略と武勇の一族という印象が強い。父の真田昌幸と長男の信幸(信之)、次男の信繁(幸村)の親子が率いる家臣団の物語は、さまざまな戦国武将のなかでもひときわ異彩を放っている。

真田家は大名として独立する前は、もともと武田家の家臣であった。昌幸の父の真田幸綱(幸隆)が武田信玄に重用され、昌幸の兄の信綱、昌輝も将来が嘱望される武将だった。しかしながら、兄の二人は武田と織田が戦った長篠の戦いで命を落としてしまう。1575年(天正3年)のことである。

三男の昌幸は武田家の名門、武藤家の養子として頭角をあらわしていたが、兄の死によって名を元に戻し、真田家の当主となったのである。武田の滅亡後は織田信長につくが、1582年(天正10年)の本能寺の変のあとは、上杉、徳川、北条といった有力大名たちと渡り合い、最終的には豊臣秀吉につき、独立した大名としての地位を確保するのである。

地図

真田昌幸が手にした領地は、現在の長野県上田市の周辺と群馬県の北部で、上杉、徳川、北条に比べると小国である。周辺の有力大名に滅ぼされないようにするには強力な武器がいる。ビジネス社会も同様で、中小の企業が大企業と同じ土俵のなかで戦うためには、技術力や開発力など突出したアドバンテージが必要だ。いわば競争力の源泉である。真田昌幸の場合、それは調略だった。

真田家の家臣団は、一門衆、普代衆のほか、信濃衆、吾妻(あがつま)衆、沼田衆、旧武田家臣で構成されていた。組織上は明らかにされていないが、そこには「透波(すっぱ)」といわれる忍びの者も潜んでいる。真田家はこの「透波」を活用した調略を得意とした。実際、難攻不落といわれる城を少ない手勢で陥落させるなど、武田の家臣時代の真田家は、正攻法ではありえない武功を数多く立ててきた。のちに息子の信繁が大坂の陣でめざましい活躍をしたこともあり、世の中では真田家は忍者の使い手という伝承が広まっていく。

そうしたイメージを決定づけたのが明治から大正にかけて流行した立川文庫(たつかわぶんこ)の『真田十勇士』だ。猿飛佐助、霧隠才蔵、筧十蔵、海野六郎、三好清海、三好伊三、穴山小助、由利鎌之助、根津甚八、望月六郎といった真田家の「透波」や武芸者が活躍する物語は、当時の人々の間で大変な人気を博した。彼らは実在の人物ではなく、物語も多くはフィクションだが、それぞれモデルとなった人がいたといわれる。現代でも池波正太郎氏の『真田太平記』では真田家と「透波」の深い関係が描かれている。

諸説はあるものの、真田家臣団と「透波」は切っても切れない関係にあるといえるだろう。
真田家が継承した特殊工作ネットワーク

現代のビジネスにおいて情報の重要さはいうまでもないが、戦国の世にもおいても、それは変わらない。通信インフラなどない当時においては、人的ネットワークが情報網となる。真田家に限らず、多くの有力大名が忍者集団を組織し、独自に情報を収集していた。
そもそも真田家が仕えていた武田信玄が「三ツ者」という隠密集団を組織し、敵を撹乱していた忍者の使い手であった。信玄が真田家の人間を重用した要因として、「透波」を使う能力の高さがあったかもしれない。

洛中洛外図屏風(舟木本)より歩き巫女部分(東京国立博物館蔵)
洛中洛外図屏風(舟木本)より
歩き巫女部分(東京国立博物館蔵)

真田家がなぜ「透波」の起用に長けていたのか。それは真田家のルーツにあるといわれる。平安期の清和天皇の子を祖とする滋野氏という一族がある。信州に定着して、古くから「御牧(みまき)」と呼ばれる朝廷の軍馬用の牧場の管理をしていたという。この一族には「歩き巫女」と呼ばれる人たちを配下に置いていた歴史がある。

「歩き巫女」とは諸国を遍歴して祈祷や「口寄せ」といわれる降霊術を行う。こうした人たちのグループが、のちの情報ネットワークに発展したという説もある。滋野氏は、海野氏、根津氏、望月氏の三家に分かれた。真田家はその海野氏の流れをくむといわれ、昌幸の父の幸綱はその一族を統率するリーダーだった。海野氏は加持祈祷や呪術に通じていたとされ、幸綱は山伏と呼ばれる修験者を忍びとしてよく活用したという。根津氏は日本最大の鷹匠流派「根津・諏訪流鷹術」の祖であり、武田信玄にも重用された。望月氏は甲賀に支流をもち、甲賀の忍者を束ねる役割をもっていた。望月千代女(ちよめ/ちよじょ)という人物が女忍集団である「くのいち」を組織し、武田信玄の傘下で活動していたという。

真田家は長篠の戦いによる武田家の滅亡に伴い、無形の遺産を継承したともいわれている。その一つが「甲陽流」といわれる武術だ。武田四天王の一人、馬場信春が甲州流兵法から発展させたものといわれている。

真田の領土だった吾妻地方にはいまも甲陽流の武術が継承されている。そのなかには忍者の奥義と思われる技も少なくない。この地方を治めていたのが、真田家臣団の重鎮だった出浦昌相(いでうらまさすけ)である。彼は武田家に仕えたのち、森長可(もりながよし)を経て、真田昌幸、信幸に仕える。江戸時代後期に、真田家が治める松代藩の家老、河原綱徳が記した『本藩名士小伝』という書物がある。そのなかで昌相は、武田時代より「透波」の頭領であり、真田家でも「透波」を率いたと記されている。実際の昌相は真田家の家老で忍者ではないと考える人は多いが、真相は定かではない。他にも禰津信政、横谷幸重といった家臣が「透波」の頭領として有力視されている。

戦国の世にあって、他の国でも起用していた忍者集団であるが、真田家臣団の場合は真偽のほどはともかく、特に豊富なエピソードが残されている。』

『 真田昌幸・信繁親子の配流期もサポート

ビジネスにおいては、プランAのほかに、プランBを用意することが求められる。もしも予定のプランを実行する際にトラブルが発生した場合、スピーディーに切り抜けるために、代替案をつねに持っておくべし、ということだ。これはそもそも戦争のために考えられた方法論だが、いまやあらゆるビジネスの局面で行われている。

関ケ原合戦図屏風(関ケ原町歴史民俗学習館)

左:石田三成肖像(長浜歴史博物館蔵)右:徳川家康肖像(堺市博物館蔵)

これを実践したのが真田家である。関ヶ原の戦いを前にして、真田家は2つのプランを用意する。昌幸と信繁の親子は石田三成の西軍に、信幸は徳川家康の東軍につく。信幸は家康の養子となった本多忠勝の娘、小松姫を正室に迎えていることもあり、徳川を裏切るわけにいかないという事情もある。東西に分かれることで、どちらかが勝ち組となり真田家の存続を計ることができると昌幸は考えた。

その結果、破れた西軍についた昌幸と信繁の親子は紀州の高野山、しばらくして九度山に配流される。いっぽう昌幸は家康の命により、上田藩の領主となった。これを境に真田家の家臣団のほとんどは信幸のもとに結集する。真田家の後継者は信幸となったのである。
家臣団のなかには昌幸と信繁の親子に付き添うものもあり、高梨内記など16名が昌幸に従った。しかし、昌幸の死後は13人の家臣が上田に戻り、残ったのは、高梨内記、青柳清庵、三井豊前の3人のみとなった。この3人は信繁が九度山を抜け出し、大坂の陣に参戦するときも同行している。

昌幸と信繁は徳川の監視下にあり、九度山を出ることは許されなかったが、家臣の行き来まで厳しく制限されることはなかった。このおかげで、信繁が考案したといわれる「真田紐」を販売するというビジネスも家臣を通じて展開できたのである。結局、信繁は関ヶ原の終戦後から大坂冬の陣が始まるまで、13年間にわたり、九度山に幽閉されるが、大坂の陣では長年のブランクを感じさせない働きを見せる。

信繁は大坂城の南側に出丸の「真田丸」を築き、知略を尽くした戦法で徳川軍に大打撃を与えた。さらに翌年の夏の陣でも徳川家康の本陣に迫り、圧巻の戦いぶりを見せる。

九度山時代の信繁は再起を計って家臣たちと実戦の訓練をしていたという言い伝えがあるが、その証拠となるような明確な記録は残されていない。ただ家臣団のサポートなくしては、合戦に参加できるような体力や気力を保ち続けることは困難だったに違いない。

少数でも大きな力を発揮するスキルの高さ
上田城

真田家臣団を特徴づけるケイパビリティは、なんといっても少数精鋭である。上田城の合戦では二度にわたり徳川の大軍を翻弄している。

1585年(天正13年)の第一次上田合戦は、真田軍2,000に対し、徳川軍7,000余。圧倒的な兵力差がありながら、徳川軍の戦死者は約1,300人、多くの負傷者を出し、徳川家康を撤退に追い込んだ。これに対して真田軍の戦死者は21人であった。

1600年(慶長5年)の第二次上田合戦では、上田城に籠城し、関ヶ原に向かう途中の徳川秀忠の3万8,000の軍を5日間も足止めさせ、関ヶ原の戦いに遅参させるという妨害を行った。このときも真田軍は2,000にすぎなかった。
(※ この時の秀忠軍の参謀は、本多正信だ。家康の唯一無二の謀臣…。)

1615年(慶長20年)の大坂冬の陣では、真田信繁がごくわずかな手勢を率い、家康の息の根を止める寸前まで追い詰めるなど、少ない人数で最大限の効果を上げている。それは優れた知略があってこそ成立するものだ。そのパフォーマンスの高さは、昌幸や信幸、信繁の知略やカリスマ性やリーダーシップに因るところが大きいが、家臣たちの優れたスキルが寄与している。

「透波」を巧みに活用するのが真田の戦法の特色でもある。「透波」は基本的に一人で行動する。すべて自分で考え、行動し、ミッションを遂行しなければならない。敵から襲われたときも自分で身を守らねばならない。そうしたスキルの高い者を多く抱えていたことが、真田の家臣団の強さを引き出していたと考えられる。
これは企業にとってもいえるだろう。指示待ちではなく、自らの意志でビジネスを推進できるようなプロ意識の高いチームは、企業価値を高める牽引力になりうる。

しかし、少数精鋭のチームが力を発揮するのは独立したユニットのときだけだ。これが他の集団と共同で作業を行う場合、能力のレベルを下げることになり、本来の持ち味である緻密さやスピードが失われ、破綻が生じてしまう。
大坂の陣で「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と称賛され、信繁の軍は獅子奮迅の働きを見せたものの、豊臣軍の勝利に結びつけることはできなかった。
sustainability

グループ企業の経営では、ブランド価値を守るため、トラブルを起こした企業を切り離したり、解体させることはよくあることだ。しかし真田家はその手法をとらなかった。
信繁という反徳川勢力の火種を抱えながら、信幸は中心母体としての真田家を守り抜いた。しかも信幸は本多忠勝や本多正信といった徳川家の重臣に働きかけて何度も信繁の釈放を願い出ている。豊臣恩顧の大名を次々と弱体化させていた当時の家康の動きからすると極めて危険な行為であり、真田家が改易させられてもおかしくはない。しかも、大坂の陣では信繁に加勢しようという家臣が数多くあらわれる。

その数は50騎とも300騎とも伝えられ、信繁の義兄弟にあたる堀田作兵衛などの重臣も含まれている。そのうえ信繁の真田軍は徳川を大いに苦しませた。にも関わらず、終戦後も家康の信幸に対する信頼は失われることがなかった。信幸は93歳まで生き続け、真田家も10万石の大名として幕末まで命脈を保ち続ける。昌幸や信繁に注目が集まりがちな真田家だが、家臣団を守ることに心を砕いた信幸の手腕は、サステナブル経営のケーススタディとして参考に値する。 』

特別高等警察

特別高等警察
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5%E9%AB%98%E7%AD%89%E8%AD%A6%E5%AF%9F

 ※ 

(※ 日本国憲法)第二十一条

  1. 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
  2. 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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出典検索?: "特別高等警察" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL

警視庁特別高等部検閲課による検閲事務の様子(1938年(昭和13年))

特別高等警察(とくべつこうとうけいさつ、英語: Special Higher Police, SHP)[1]は、日本の秘密警察。国事警察として発足した「高等警察」から分離し、国体護持のために無政府主義者・共産主義者・社会主義者、および国家の存在を否認する者や過激な国家主義者を査察・内偵し、取り締まることを目的であった[2][3]。内務省警保局保安課を総元締めとして、警視庁をはじめとする一道三府七県[注釈 1]に設置されたが、その後、1928年(昭和3年)に全国一律に未設置県にも設置された[4]。略称は特高警察(とっこうけいさつ)、特高(とっこう)と言い、構成員を指しても言う[5]。第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の人権指令により廃止された。
概要

特別高等警察は、高等警察の機能を持つ組織である。高等警察とは、「国家組織の根本を危うくする行為を除去するための警察作用」と定義される[3]。いわゆる政治警察や思想警察のことである。戦前の日本では、治安警察法・出版法・新聞紙法に基づいて、この種の警察作用が行われた。特別高等警察では、このうち特に共産主義運動、社会主義運動、労働運動、農民運動などの左翼の政治運動や、右翼の国家主義運動や不敬罪を徹底的に取り締まった[3]。

沿革

1910年(明治43年)、明治天皇の暗殺を計画したとして、大逆罪の容疑で多くの共産主義者、社会主義者、無政府主義者が逮捕・処刑された(幸徳事件(大逆事件))。これを受け、翌1911年(明治44年)に、それまで高等警察事務の一部であった危険思想取締りのため、内務省が枢要地に特に専任警部を配置することを勅令で決定し、同年8月21日に警視庁の官房内に従来より存在した政治運動対象の高等課が分課されて、社会運動対象の特別高等課が設置された。

同課の設置により、地方長官や警察部長などを介さず、内務省警保局保安課の直接指揮下に置かれ、内務省と一体となって社会運動(同盟罷業・社会主義運動・共産主義運動・諜報活動・爆発物・印刷物等)の取締りにあたった。これにはフランスの秘密警察の影響がみられる。特別高等警察を指揮した内務官僚には安倍源基や町村金五(町村信孝の父)などがいる。

1911年には大阪府にも警察部長直属の「高等課別室」が設置され、翌1912年に特別高等課に昇格した。

1913年の警視庁官制の改正によって、特別高等課は、特別高等警察・外事警察・労働争議調停の三部門を担当する課として位置づけられた。

1922年に日本共産党が結成されると、1922年から1926年にかけて、北海道・神奈川・長野・愛知・京都・兵庫・山口・福岡・長崎など主要府県の警察部にも特別高等課が設けられ、1925年には治安維持法が制定され取締まりの法的根拠が整備された。

三・一五事件をうけ、1928年には「赤化への恐怖」を理由に全府県に特別高等課が設けられ、また、主な警察署には「特別高等係」が配置され、全国的な組織網が確立された。1932年6月に警視庁の特別高等課は「特別高等警察部」に昇格した。

1932年に岩田義道、1933年には小林多喜二に過酷な尋問を行なって死亡させるなど、当初は共産主義者や共産党員を取締りの対象としているが、後に日本が戦時色を強めるにつれ、挙国一致体制を維持するため、その障害となりうる反戦運動や類似宗教(当時の政府用語で、新宗教をこう呼んだ。)など、反政府的とみなした団体・活動に対する監視や取締りが行われるようになった。第二次世界大戦中には「鵜の目鷹の目」の監視網を張り巡らせたほか、横浜事件や俳句弾圧事件など言論弾圧といわれる事件をひきおこした。

1941年、治安維持法の改正で予防拘禁制度が発足。これに対応するため警視庁の特高第一課の例では警部補16人、巡査部長16人、巡査9人の大幅増員。他に特高第二課4人、検閲課も4人が増員されている[6]。

1944年に大阪府警察局に「治安部」が設置され、特別高等課も配置された。

敗戦後は、進駐軍の不法行為の監視を行った(特殊慰安施設協会参照)。当初、内務省は陸海軍の解体・廃止に伴う治安情勢の悪化に対応するために、警察力の増強と、特高警察の拡充を行うつもりでいた[7]。「昭和21年度警察予算概算要求書」には、特高警察の拡充・強化のために、1,900万円が予算要求されていた。内容は、1.視察内偵の強化(共産主義運動、右翼その他の尖鋭分子、連合国進駐地域における不穏策動の防止)、2.労働争議、小作争議の防止・取締り、3.朝鮮人関係、4.情報機能の整備、5.港湾警備、6.列車移動警察、7.教養訓練(特高講習、特高資料の作成)の計7点である[8]。

日本国政府・内務省は、警察力の武装化と特高警察の拡充・強化によって、敗戦による未曽有の社会的悪条件の下にある民心の動揺を未然に防止し、不穏な策動を徹底的に防止することを狙っていた。1945年(昭和20年)10月5日、政府はGHQに上記の警察力拡充計画の許可を求めたが、GHQはこれを拒否している[8]。

1945年10月4日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の人権指令により、治安維持法と共に廃止された。しかし、内務省上層部は、日本共産党などの反政府的動静に対処するためにも、全国の特高警察網を温存させる必要があると考えており、1945年12月19日、特高警察に「代わるべき組織」として、内務省警保局に公安課が設置され、各都道府県警察部にも警備課[注釈 2]が設置された(公安警察)。

GHQによる人権指令により、特別高等警察に在籍していた官僚・警察官は、公職追放の対象になったものの、戦争犯罪人として指定され、問責・処罰の対象となった者は、内務省・特高警察関係者には1人もいなかった。1万500人の特高警察関係者の中で、内務大臣、警保局長、保安・外事・検閲各課長および各府県の警察部長級51人、特高課長・外事課長55人、警部168人、警部補1,000人、巡査部長1,587人、巡査2,127人の合計4,990人が休職となり、その後「依願退職」の形で罷免となった。ただし、公職追放G項該当追放者はわずかに319人、一斉罷免者の数はさらに少ない86人でしかなかった。茨城県警察部土浦警察署の署長であった池田博彦は、特高警察関係者の半数近くが罷免されたことによって、警察の情報収集能力が落ちたことを嘆いていた。

1946年(昭和21年)1月3日、アメリカ人ジャーナリストのマーク・ゲインが、山梨県警察部大月警察署の署長に対して、「特高警察が解体されて、破壊分子を監視する機関がなくなったのはまことに困ったことではないか」と質問したところ、署長は「それはたいしたことではない、なぜなら特高警察の仕事は県庁の公安課の司法官の手に引き継がれたから」と説明している。署長は続けて「私もちょうど県庁所在地での会議に出席して帰ったばかりです。その会議は12月28日、29日の2日間開かれて、いま公安課にいるもとの特高係長がわれわれの仕事について、いろいろ新しい指示を与えました。とくに今度の選挙についての」と語っている。このように、特高警察の業務は、公安警察に継承されていた[9]。

GHQ参謀第2部(G2)は、特高警察関係者の中から、公職追放された者を多く雇用して、元特高警察官の知識や経験を情報収集や謀略活動に利用しており[9]、内務省調査局と、その後身である法務庁特別審査局に入局させて、レッドパージの先鋒としての役割を担わせていた。特別審査局の調査第三課は、特高警察の元締めであった内務省警保局保安課[注釈 3]と編成が酷似しており、団体等規正令第11条により解散処分となった日本共産党や全労連の動向を監視していた[10]。G2は公安警察とも密接な関係にあり、日本の各地方に置かれたG2管下の対敵諜報部隊(CIC)は、各都道府県警察部の警備課(公安課)と緊密な連絡を取り合って諜報活動に従事していた。後にG2は、中央集権的な警察機構の存続を望む内務省警保局を支持し、警察機構の分権化・細分化を進めるGHQ民政局(GS)と鋭く対立している[9]。

その後、GHQの占領政策の転換に伴う公職追放者の処分解除(逆コース)により、1951年9月以降、自治省・警察庁(警備局)・警視庁公安部・公安調査庁・厚生省・労働省・防衛庁・宮内庁・文部省・日本育英会・住宅金融公庫・年金福祉事業団・日本住宅公団・首都高速道路公団・阪神高速道路公団・日本観光協会などの上級幹部職に復職していった[11]。

また、公職復帰後に知事や副知事を足掛かりに、国会議員となり、その後、自治大臣兼国家公安委員会委員長(石原幹市郎、山崎巌、町村金五)や、文部大臣(奥野誠亮)、法務大臣(古井喜実、奥野誠亮、唐沢俊樹)となる者もいた。
全国組織としての陣容

特高警察の総元締めである内務省警保局保安課の課長は、課長級では唯一の勅任官であり、重要な役職であった。ベルリンやロンドンに海外駐在官を置いていたほか、新たに警務官制度が新設され、北海道・東北・関東・中部など、全国5地区の警務官に各府警の警察部長や特高課長を指揮できる権限を与えていた[12]。

内務省警保局図書課は、新聞・出版物の検閲と外国語出版物の調査を行い、検閲制度の統一や内外出版物の論調の調査研究も行っていた[12]。

特高警察は二層構造になっており、内務省の保安課長や事務官のポストを占めるのは、高等文官試験を合格した内務省のエリートであった。彼らは入省後5年程で小規模県の特高課長となり、その後、2~3年程度で特高課長に就任し、入省から10年程度で本省保安課の事務官クラスに昇進する。特高課長や外事課長は内務省の「指定課長」であり、内務省警保局保安課長が任命権限を握っていた[13]。

上記の内務官僚のエリートとは対極的に、特高警察の実戦部隊である各府警特高課や各警察署特高係には多数の専任警察官がいた。これら〝たたき上げ組〟が実務の中心を担っており、その任務の特殊性から長期にわたることが多かった。代表的な人物として1911年に警視庁特高課労働係に配属された毛利基や、1929年に警視庁特高課特高係に配属された宮下弘がおり、2人とも敗戦後の辞職にいたるまで特高警察に在職していた[14]。

関係した事件

京都学連事件(1925-1926年)
三・一五事件(1928年)
四・一六事件(1929年)
赤色ギャング事件(1932年)
熱海事件(1932年)
岩田義道拷問死(1932年)
小林多喜二拷問死(1933年)
野呂榮太郎拷問死(1934年)
死のう団事件(1933年、1937年)
大本事件(1935年)
コックス事件(1940年)
救世軍弾圧事件(1940年)
ゾルゲ事件(1941年)
高雄州特高事件(1941年-1945年)
宮澤レーン事件(1941年)
横浜事件(1942年-1944年)
ホーリネス弾圧事件(1942年-1945年)
きりしま事件(1943年)
セルギイ・チホミーロフ逮捕(1945年)

組織図

下図の通り、特別高等警察は、各県の警察部長を経由して地方長官(知事)の指揮を受ける、一般の警察と異なり、内務省から直接指揮を受ける、特殊な警察組織であった。

1932年(昭和7年)の「部昇格」以降のもの

内務大臣

警保局


保安課     検閲課

(図書課) 外事課
警視庁
特高部 道府県
警察部
特高課 海外派遣
事務官
特高一課 特高二課 労働課 検閲課 外事課 内鮮課 調停課
各警察署
特高係 ※「特別高等」を「特高」と略している。警視庁特高部は「特別高等警察部」を「特高部」と略している。

逸話

「票読み一つ誤らない」と恐れられた緻密さを持ち、ことに戦中は「銭湯の冗談も筒抜けになる」とまで言われた[要出典]。戦後、日本共産党が機関紙『赤旗』(せっき)を復刻しようとしたが、26号までは散逸してしまったため、やむなく特別高等警察資料第3号[15]に全文収録されていたものを使った[16]。

第二次世界大戦前や戦中は「特高の持つ警察手帳は赤色である」という噂があったが、実際は一般の警察官と同様に黒色であった。なお、過去に実際に赤色系の手帳を持っていた日本の公務員は、麻薬取締官と麻薬取締員で、これは戦前も内務省衛生局の下にあり、色も同様であった。 』

徳川家康の女性観 : 後家好みだったのか? 賢女好みだったのか?

徳川家康の女性観 : 後家好みだったのか? 賢女好みだったのか?
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c12003/

 ※ 『「武士の女房は、公家の女性などと同じでなく、顔つき多少荒々しくみえるが良し」

「戦国の女は今時の男子より、かいがい敷(しく)働あり」』…。

 ※ まあ、ここら辺が、神髄なんだろう…。

 ※ 『正室・継室(後妻)、さらに側室まで含め、生涯で21人(人数は諸説あり)の妻を持った』…。

 ※ 「子ども」は、公証で、何人いたのか…。

 ※ 『江戸幕府初代将軍の徳川家康の子どもは16人。養子なども含めると合計38人もの子どもがいたそうです。』…、という話しもある…。

 ※ 今日は、こんな所で…。

 ※ 「阿茶の局」の肖像だそうだ…。

『 正室・継室(後妻)、さらに側室まで含め、生涯で21人(人数は諸説あり)の妻を持ったという徳川家康。当然、子だくさんだった。一説には、懐妊する可能性の高い出産経験のある女性を側室に抜擢したといわれるが、果たして家康はどんな女性観を持っていたのだろうか。
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乳幼児の生存率が低い時代

権力者は、自分が持つ権勢や財力を子どもに受け継がせたいと願う。

かつて生まれた子の生存率は低かった。一例だが江戸時代中期〜後期、1歳未満乳幼児の死亡率は10%台後半だった(『人口から読む日本の歴史』講談社学術文庫)。この数字は濃尾地方(愛知・岐阜・三重県にまたがる平野部)におけるものだが、他地域もほぼ同じだったろう。

医療・治安・食料事情が劣悪だった戦国期は、さらに死亡率が高かったはずだ。たとえ成長しても、戦で討ち死にすることもある。そこで、権力者は多く子を持とうとした。たくさん子どもがいれば、生き残る者もそれだけ多い。

天下を統一し、江戸幕府を開いた徳川家康もまた、後継ぎ候補を確保する重要性をよく知っていた人物である。系図や史料で確認できる子どもの数は16人に上る。正室の築山殿が産んだのは1男1女。継室の朝日姫(豊臣秀吉妹)との間に子はなし。残る14人(男児10人、女児4人)は、19人いた側室のうちの10人が産んだ(側室と子どもの数は諸説あり)。このうち何人かは夭折し、正室の築山殿とその子・信康は、家康自らが粛清してしまった。妻子を見捨てた背景には、長年敵対していた武田氏との関係を巡って、あくまで武田と戦う意向の家康派と、対武田を見直そうとする信康・築山殿派の路線対立があったという。

このため、側室との間に生まれた子たちが、徳川の次代を担うことになる。後の2代将軍・秀忠をはじめ、福井(福井県)・尾張(愛知県)・紀伊(和歌山)・水戸(茨城)の各藩の藩祖を産んだのは、側室である。娘たちも有力大名家に嫁いだ。

徳川の繁栄に、側室たちが果たした役割は大きかった。

山梨県早川町のお万の方の銅像。家康との間にもうけた2人の息子、頼宣と頼房はそれぞれ紀州藩と水戸藩の藩祖となった。後の御三家のうちの二家は、お万の方の血を引いている
山梨県早川町のお万の方の銅像。家康との間にもうけた2人の息子、頼宣と頼房はそれぞれ紀州藩と水戸藩の藩祖となった。後の御三家のうちの二家は、お万の方の血を引いている
聡明な側室・阿茶局とお梶の方

家康の側室は、敵対する大名家から徳川に取り込んだ家臣の娘や、神官・寺の娘、関東の名門大名家出身など、さまざまな出自を持つ。側室の顔ぶれから、家康は後家好みだったとの説もある。
家康の側室と子どもたち

黄色ハイライトは側室となる前に出産経験のある女性
【側室】名前 / 出自 【子ども】出生順・名前(成長後)
西郡局 / 敵対した鵜殿長持の娘 2女 督姫(池田輝政妻)
小督局 / 三河国の神官の娘 2男 結城秀康(福井藩藩祖)
西郷局 / 今川氏家臣・戸塚氏の娘 3男 徳川秀忠(2代将軍)
4男 松平忠吉 (清州藩主)
お竹 / 武田氏家臣の娘 3女 振姫(蒲生家妻→浅野家妻)
お都摩 / 穴山信君養女 5男 武田信吉 (21歳で死去)
茶阿局 / 出自不明 6男 松平忠輝 (家康死後に配流)
7男 松千代(夭折)
お亀 / 京都の寺の娘 8男 仙千代 (他家へ養子、夭折)
9男 義直(尾張藩藩祖)
お久 / 北条氏家臣の娘 4女 松姫(夭折)
お万 / 正木頼忠の娘 10男 頼宣(紀伊藩藩祖)
11男 頼房(水戸藩藩祖)
お梶 / 関東名門の遠山氏の娘(?) 5女 市姫(伊達政宗の息子と婚約も夭折)
お富 / 出自不明 なし
お夏 / 伊勢北畠氏家臣の娘 なし
お六 / 今川氏家臣・黒田氏の娘 なし
お仙 / 武田氏家臣の娘 なし
お梅 / 豊臣氏家臣の娘 なし
阿茶局 / 武田氏家臣の娘 なし
お牟須 / 武田氏家臣の娘 なし
お松 / 出自不明 なし(家康との間に落胤ありとの説も)
三条氏 / 出自不明 なし(家康との間に落胤ありとの説も)

確かに、戦乱の世を生き抜く中で、後継ぎを確保することを重視して後家を選んだ可能性も否定はできないが、上表にある通り、西郷局・茶阿局・お亀の方・阿茶局らが寡婦だった時に家康の側室となった程度で、ことさら「後家好み」と決めつけるのも無理がありそうだ。

むしろ公私両面で支えとなる気丈夫で頭脳明晰な女性を好んだと見ていい。そこに、家康の女性観の特徴がある。

代表格が阿茶局だ。この女性は家康の側室となる前に婚歴があり、すでに子もいたが、夫と死別後、家康に見初められた。

家康からの信頼は厚く、戦場にまで連れていったという逸話もある。また、2代将軍・秀忠と家康4男・松平忠吉の養育係を務めている。1614(慶長19)年の大坂冬の陣では、徳川方の使者として和議の交渉を担うなど、外交手腕にも長けていた。

不運にも懐妊しなかったが、それでも家康は寵愛した。女性に望むことは、決して子作りだけではなかったのである。

一方、後家の女性ではないが、お梶の方の聡明さを物語るエピソードが、『故老諸談』(ころうしょだん)に所収されている。

家康から「いちばんおいしい食べ物は何か?」と問われたお梶の方は、「塩」と答えた。

「塩がないとどんな料理も味を調えられず、おいしくできません」。さらに続けて、「どんなにおいしい物も、塩を入れすぎると食べられません」

「男だったら、さぞや優秀な大将になったであろう」と、家康をうならせたという。

お梶の方の「塩」のエピソードを掲載した『故老諸談』。国立公文書館所蔵
お梶の方の「塩」のエピソードを掲載した『故老諸談』。国立公文書館所蔵

家康はお梶の方が生んだ市姫(5女)を伊達政宗の嫡男と婚約させるが、わずか数え4歳で夭折した。他に子はできなかった。だが、11男・頼房の実母・お万の方が亡くなると、家康は頼房をお梶の養子にして教育も指示した。頼房はのちに御三家の水戸藩を創設することになる。お梶は倹約家で、小袖が洗いざらしでも新調しなかったと伝わる(『戦国おんな史談』潮出版社)。

待望した男児を産まなくとも、阿茶局とお梶という極めて聡明な2人の側室を家康は重用したのである。
晩年は若い女性に好みが変わった?

一方、晩年になると若い側室をそばに置きたがったようだ。

お夏は17歳で56歳の家康に仕え、大坂夏の陣に帯同するなど、寵愛を受けた。
お梅は15歳の時、59歳の家康の側室に迎えられた。前出のお梶も、市姫を産んだのは1607(慶長12年)で、家康はすでに60代だった。

戦国の世を戦い抜いてきた男が、老齢にさしかかって女性観に変化が現れ、年若い女性に癒しを求めたとしても不思議はない。

最後に、1836〜1837(天保7~8)年に成立したといわれる『披沙揀金』(ひさかんきん)に記された、家康の女性観について触れよう。この文献は家康・秀忠・家光の幕府黎明期3代の言行録だ。

「武士の女房は、公家の女性などと同じでなく、顔つき多少荒々しくみえるが良し」
「戦国の女は今時の男子より、かいがい敷(しく)働あり」
戦国時代を回顧した発言とされるから、晩年のものだろう。

後世に創作された言行といえるかもしれない。だが、美女を見れば見境なく関係を結ぼうとしたといわれる太閤・豊臣秀吉と、明らかに違う——と、少なくとも天保期には、家康はそのような女性観を持つ男と、語り継がれていたと見ていい。

現代とは家族観も女性観も異なる時代のことではあるが、天下を取った男は、容姿より内面、働き者でかいがいしい女性に内助の功を求めたのかもしれない。

バナー写真 : 阿茶局が開基した雲光院(東京都江東区)所蔵の肖像画。家康の死後も出家せず、2代・秀忠、3代・家光に仕え、幕府と朝廷の融和政策を進めるなど手腕を発揮し、1637(寛永14)年、83歳で逝去した。(筆者撮影)

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小林 明KOBAYASHI Akira経歴・執筆一覧を見る

1964年、東京都生まれ。スイングジャーナル社、KKベストセラーズなど出版社での編集者を経て、2011年に独立。現在は編集プロダクション、株式会社ディラナダチ代表として、旅行・歴史関連の雑誌や冊子編集、原稿執筆を担当中。主な担当刊行物に廣済堂ベストムックシリーズ(廣済堂出版)、サライ・ムック『サライの江戸』(小学館)、『歴史人』(ABCアーク)、『歴史道』(朝日新聞出版)など。』

陛下の江戸時代の上水道システムビデオ国連で放映

陛下の江戸時代の上水道システムビデオ国連で放映
https://nappi11.livedoor.blog/archives/5420422.html

 ※ 今上の「ライフワーク」である「水の研究」の、成果の一端が、発信されたようだ…。

『米ニューヨークの国連本部で開かれた「第6回国連水と災害に関する特別会合」で2023年21日(日本時間22日朝)、天皇陛下によるビデオ講演「『巡る水』―水循環と社会の発展を考える―」が放映(約20分)された。

陛下は気候変動問題の課題解決には「水循環全体を俯瞰(ふかん)し大局的にとらえ、水、災害、気候変動の課題をつなぎ、総合的に解決していくことが期待されます」と英語で話された。

FireShot Webpage Screenshot #711 – ‘天皇陛下、ビデオで 

水に関する研究をライフワークとする陛下は、江戸時代における東京の上水道システムや洪水対策などを説明。

「近年の気候変動によって水災害や渇水といった現象が頻発するなど水環境の姿が変化してきており、これらへの対応が人類共通の課題」と指摘した。

その上で「人類はその歴史を通して、自然と共に歩み、災害に対応し、水の恩恵を享受してきた」と解説した。

同会合は2013年から隔年で国連本部で開催されている。陛下は即位の行事があった2019年を除いて、これまでに現地で2回、オンラインで1回、ビデオで1回講演している。参照記事』

貞観地震

貞観地震
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E8%A6%B3%E5%9C%B0%E9%9C%87

※ 869年、1611年、1896年、1933年、1978年、2011年と「大地震」が起きている…。

※ 「プレート境界」の宿命だ…。

※ トルコ大地震も、同じだ…。

※ ただ、「三陸沖」の場合は、「海溝型」なんで、「大津波」が押し寄せる…。

※ 言い伝えどおり、「津波てんでんこ」で、「高地に逃れる」他はない…。

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

西暦換算に関する注意
1582年以前に発生した日本の地震の西暦換算については、ユリウス暦であるか、グレゴリオ暦であるかを明記してください。Wikipediaの表記ガイドでは原則としてユリウス暦で表記することになっていますが、『理科年表』など多くの文献ではグレゴリオ暦表記となっており、混乱を避けるために注意が必要です。
詳細は日本の歴史地震の西暦換算を参照してください。

貞観地震

貞観地震の推定震源域
貞観地震の位置(日本内)貞観地震
貞観地震の推定震源地
本震
発生日 869年7月9日
(貞観11年5月26日)
震央 三陸沖(陸奥国東方沖)
座標 北緯38.5度 東経144.0度座標: 北緯38.5度 東経144.0度[1][† 1]
規模 マグニチュード (M) 8.3 – 8.6, Mw >8.7
津波 最大約10m
地震の種類 海溝型地震(日本海溝で発生)
被害
死傷者数 死者約1000人[2]
プロジェクト:地球科学
プロジェクト:災害
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全ての座標を示した地図 – OSM
貞観地震(じょうがんじしん)は、平安時代前期の貞観11年5月26日(ユリウス暦869年7月9日[3]、グレゴリオ暦7月13日)に、日本の陸奥国東方沖(日本海溝付近)の海底を震源域として発生したと推定されている、大規模な津波を伴った巨大地震である。震源域は北緯37.5°~39.5°・東経143°~145°、地震の規模はマグニチュード(M)8.3あるいはそれ以上と推定されている。この地域に周期的に発生する三陸沖地震のひとつとして理解されてきたため、貞観三陸地震と呼称されることがある。

歴史書における記述
延喜元年(901年)に成立した史書『日本三代実録』(日本紀略、類聚国史一七一)には、この地震に関する記述がいくつか記されている。

貞観11年5月26日(ユリウス暦869年7月9日)の大地震発生とその後の被害状況については、次のように伝わる。

五月・・・廿六日癸未 陸奧國地大震動 流光如晝隱映 頃之 人民叫呼 伏不能起 或屋仆壓死 或地裂埋殪 馬牛駭奔 或相昇踏 城(郭)倉庫 門櫓墻壁 頽落顛覆 不知其數 海口哮吼 聲似雷霆 驚濤涌潮 泝洄漲長 忽至城下 去海數十百里 浩々不辨其涯諸 原野道路 惣爲滄溟 乘船不遑 登山難及 溺死者千許 資産苗稼 殆無孑遺焉

現代語訳(意訳)
5月26日癸未の日、陸奥国で大地震が起きた。(空を)流れる光が(夜を)昼のように照らし、人々は叫び声を挙げて身を伏せ、立つことができなかった。ある者は家屋の下敷きとなって圧死し、ある者は地割れに呑まれた。驚いた牛や馬は奔走したり互いに踏みつけ合い、城や倉庫・門櫓・牆壁[† 2]などが数も知れず崩れ落ちた。雷鳴のような海鳴りが聞こえて潮が湧き上がり、川が逆流し、海嘯が長く連なって押し寄せ、たちまち城下に達した。内陸部まで果ても知れないほど水浸しとなり、原野も道路も大海原となった。船で逃げたり山に避難したりすることができずに千人ほどが溺れ死に、後には田畑も人々の財産も、ほとんど何も残らなかった。

上記の史料にある「陸奥國」の「城」は多賀城であったと推定される。地震による圧死者の数は記されておらず、津波による溺死者が人的被害の中心をなすことが史料からは読み取られる。「流光如晝隱映」の部分は、地震にともなう宏観異常現象の一種である発光現象について述べた最初の記録であるとされる。斎野裕彦[4]は「驚濤涌潮」を慶長写本に基づき、「驚濤涌湖」とする校訂案を示したが、鈴木琢郎[5]は諸写本の系統と字形の模写ないしは影写の集成研究から、従来どおりの「驚濤涌潮」を矛盾なく解釈できるとして、斎野説を斥けた。 「去海數十百里」は原本では「去海數千百里」であるが、当時の1里= 6 丁(約650メートル)であるとしてもこれは喫驚せざるを得ずとし、「去海」は海岸から津波で浸水した城郭までの距離を表し、多賀城から湊浜までは50丁位(約5.5キロ)にも満たないため、「數十百里」(30 – 65キロ程度)が妥当であるとしている[6]。また、「數十百里」であるとしても正鵠を失ったものであるとし、これは「沿海數十百里」と読むべきとする説もある[7]。 「原野道路 惣爲滄溟」の「道路」は当時多賀城に通じる官道東山道や浜通りの旧官道ほかを指すものとみられる[8][9]。

朝廷の対応

朝廷の対応は遅く、地震から3か月を経た貞観11年9月7日(ユリウス暦869年10月15日)になってようやく以下の通り、從五位上紀春枝を陸奥国地震使に任命したことが『日本三代実録』に記されている。

九月・・・七日辛酉・・・以從五位上-行左衛門權佐-兼因幡權介-紀朝臣-春枝,爲陸奧國地震使。判官一人、主典一人。

現代語訳(意訳)
9月7日辛酉(かのととり)の日、従五位上行左衛門権佐兼因幡権介である紀春枝を陸奥国地震使に任命した。また、判官一人、主典一人を併せて任命した。

発災から4か月を経た11年10月13日(ユリウス暦869年11月20日)の記事には、清和天皇が、陸奥国の国境が被災地とする詔を発したことが記載されている。朝廷は民夷を論ぜず救護にあたり、死者はすべて埋葬するように命じた。被災者に対しては租税と労役義務を免除している[10]。

冬十月・・・十三日丁酉、詔曰、羲農異代、未隔於憂勞、堯舜殊時、猶均於愛育、豈唯地震周日、姫文於是責躬、旱流殷年、湯帝以之罪己、朕以寡昧、欽若鴻圖、脩徳以奉靈心、莅政而從民望、思使率土之内、同保福於遂生、編戸之間、共銷?於非命、而惠化罔孚、至誠不感、上玄降譴、厚載虧方、如聞、陸奧國境、地震尤甚、或海水暴溢而爲患、或城宇頽壓而致殃、百姓何辜、罹斯禍毒、憮然?(異本は愧)懼、責深在予、今遣使者、就布恩煦、使與國司、不論民夷、勤自臨撫、既死者盡加收殯、其存者詳崇賑恤、其被害太甚者、勿輸租調、鰥寡孤獨、窮不能自立者、在所斟量、厚宜支濟、務盡矜恤之旨、俾若朕親覿焉、

同年12月8日辛卯、陸奥国の正五位上勲九等苅田嶺神に従四位下を授ける(同じ記事は12月25日にもあり)。吉田東伍は三代実録原本では正六位上から従四位下の超階となっていることから、「府城の変災の歳に、三階を超越したるは、正しく彼の災をば、山神の憤怒に因るものと見做された証拠にもなる」としている[6]。

同年12月14日(ユリウス暦870年1月19日)には、清和天皇が伊勢神宮に使者を遣わして奉幣し、神前に次の通り告文を捧げた。告文では、はじめに同年(ユリウス暦869年)6月15日から新羅の海賊が博多へ侵攻したこと(新羅の入寇)、次に7月14日の肥後での地震風水の災、最後に5月26日の陸奥国又異常なる地震の災についてごく簡単に述べ、国内の平安を願っている[† 3]。遅くとも翌年の貞観12年9月までには、陸奥国の修理を担う「陸奥国修理府」が設置[11][12][13]されている[† 4]。

また、京都平安京では、疫病や死者の怨霊などを払い鎮めるため御霊会などの儀式が行われた。これは、現在の祇園祭の起源と言われている[14]。

地震発生時の朝廷

地震発生時の朝廷は以下の通り[15]。参議以上議政官。なお、散三位以上該当者はなし。
天皇 清和天皇 20歳
皇太子 貞明親王(のちの陽成天皇)1歳
皇太后 藤原明子 41歳
摂政・太政大臣 従一位 藤原良房 68歳
大納言 正三位 藤原氏宗 60歳 皇太子傅
中納言 正三位 源融 48歳
中納言 従三位 藤原基経 34歳 左近衛大将・陸奥出羽按察使
参議 従三位 源多 39歳 左衛門督
参議 従三位 藤原常行 34歳 右近衛大将・讃岐守
参議 正四位下 源生 49歳 右衛門督・讃岐権守
参議 正四位下 南淵年名 63歳 民部卿・春宮大夫・伊予守
参議 正四位下 春澄善縄 73歳 式部大輔
参議 正四位下 大江音人 59歳 左大辨・勘解由長官・美濃守
蔵人頭 正四位下 藤原良世 48歳 皇太后宮大夫
蔵人頭 従四位上 藤原家宗 53歳 左中辨・皇太后宮亮
陸奥守 正五位下 良岑経世 上野権介
鎮守府将軍 従五位下 御春岑能

調査研究

従来から文献研究者には存在が知られた地震であったが、東北地方の開発にともなう地盤調査と日本海溝における地震学研究の発展にともない、徐々に地震学的研究が積み重ねられている。三陸沖地震による震災の記録が少なく貞観地震の記録は貴重であることに加え、2011年3月11日に東北地方太平洋沖地震が発生したことで、研究の重要性も増している。

文献調査

末の松山

明治時代には歴史地理学者吉田東伍による研究があり、『日本三代実録』にある「城郭」は陸奥国府・多賀城(北緯38度18分23.8秒 東経140度59分18.1秒)を指すと考え、広大な範囲の浸水は津波であり、震源は太平洋側の沖合いにあるものと推定している。また、小倉百人一首には、清原元輔の詠んだ次のような歌が登場する。

「契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは」(『後拾遺和歌集』恋四)
現代語訳:約束しましたよね。涙を流しながら。末の松山が浪を決してかぶることがないように2人の愛も変わらないと。それなのに

この歌についても、宮城県多賀城市八幡の丘陵にある「末の松山」(北緯38度17分15.8秒 東経141度0分12.1秒)であり、「津波がこの末の松山を越えそうで越えなかった」という状況を示すものと考証している[6][16]。東北地方太平洋沖地震の津波もまた末の松山の麓まで浸水させた(「沖の石」(北緯38度17分12.6秒 東経141度0分12秒)も浸水した)が、この丘を超えることはついになかった[17][18]。末の松山の老松二本は「鍋かけの松」とも言われ、この津波のときに流れた鍋がかかっていたからと伝えている[19]。関連して「小佐治と猩々ヶ池」伝承がある。もっとも古い採録は1823年舟山光(万年)著『鹽松勝譜』であるが、わずかずつ異なる伝承がいくつか残されている。大略は多賀城八幡の居酒屋の娘小佐治(こさじ)のもとに猩々(海から現れる異形の生き物。赤毛)が通うようになり、やがて猩々は村の者に殺されることを察知し、小佐治に屍は池(八幡村上屋敷とも中谷地とも)に捨てて欲しい、それから6日後に大津波が来るので末の松山に逃げろと言い残す。その言葉のとおり、猩々は殺され、やがて八幡上千軒・下千軒は大津波に呑み込まれ、小佐治(別伝では、小佐治とその両親)だけが助かった[20][21][22]。

今村明恒も、貞観地震と慶長三陸地震は東北地方太平洋沿岸に特に巨大な津波をもたらし、その規模は明治三陸地震を凌ぎ、いずれも日本の地震の活動期に発生したものであることを説いている[23]。特に三陸海岸は世界的な津波常襲地であるにもかかわらず、有史以来、慶長年間に至るまでの約1200年間で、貞観地震の津波記録が唯一のものであることに着目し、この津波がいかに激烈・絶群なものであったか想像に難くないと述べている[7]。

1995年には飯沼勇義は宮城県名取市の神社に伝わる貞観年間の疫病の流行により庶民が大いに苦しんだとする伝承と貞観津波との関連を指摘[24]し、今後も津波に襲われる危険性を訴えた。

この津波に関する伝説・伝承は25例が確認され、宮城県気仙沼市から茨城県大洋村(現・鉾田市)にかけて分布している。これをもとに宮城県 – 茨城県沖の日本海溝沿いに長さ230キロ、幅50キロの断層モデルが仮定され、M8.5が推定されていた[20][25]。一方、三陸地方に津波伝承が残らない理由として、そもそも津波が頻繁に次から次へと襲う津波常襲地には津波伝承は生まれにくいことと、文字を持たない蝦夷の伝承がのちの住民へと語り継がれたかどうかは疑問が残り、伝説・伝承が残らない三陸地方がただちに被災しなかったことを意味するものではない。その後の研究で、特に砂押川下流域の多賀城市旧八幡村のみならず、旧市川村・旧南宮村から利府町旧加瀬村にかけての砂押川中流域にも、大津波に関わる漂着伝承が残されていることが明らかにされている[26][22]。

10月13日の詔中の文言「陸奥国境、地震尤甚、或海水暴溢而為患」の「陸奥国境」とは、「陸奥国の境の内」の意味であって陸奥国中の広い範囲でもっとも甚だしく被害が出るほどであったと解釈され[27]、12月14日の伊勢神宮告文中の「陸奥国又異常奈留地震之?言上多利。自餘国々毛、又頗有件?止言上多利」の記述は、被災が陸奥国に留まらず、隣国すなわち常陸国も同様であることを報告したとも読め、広い範囲におよぶものであったと解釈される[28][29]。

津波堆積物調査と震源域推定

1986年以降、箕浦幸治によって着手された仙台平野における古津波堆積層の研究は、文献記録が残る貞観津波以前にも3枚の古津波堆積層があり、未知の先史地震による津波とした[30]。1990年に東北電力女川原子力発電所の建設にともない行われた貞観津波の痕跡高に関する研究は、考古学的所見と津波堆積物調査とを突き合わせて検討[31]し、「津波の最大遡上地点は、藤田新田付近との結論」を得て、「貞観11年の津波の痕跡高として、河川から離れた一般の平野部では2.5 – 3メートルで、浸水域は海岸線から3キロ程度の範囲」と推定した[32]。

2000年代になると、ボーリング調査などによる仙台平野の津波の痕跡の研究が長足の進歩を遂げた[33]。2005年から5年間にわたって、文部科学省による委託を受けた「宮城県沖地震における重点的な調査観測」(国立大学法人東北大学大学院理学研究科、国立大学法人東京大学地震研究所、独立行政法人産業総合研究所)によって行われた[34]。2005年、岩手県大槌湾では内湾静穏域の湾奥中央部水深10メートルから海面下35メートルまでの調査で、過去6000年間の海底シルト層中から22枚の津波堆積層が確認された。これらの層は、津波襲来時に多くの土砂を巻き込み、一気に引き波によって海底にもたらされた堆積層である。年代測定は、津波に巻き込まれた合弁2枚貝や保存状態のよい新鮮な個体20点を用いられ、AMS法による14C年代測定、OxCal3.10による暦年較正、海洋リザーバ効果400年と仮定し、年代は算出された。その結果、層厚約2メートルのTs10が貞観津波堆積層と同定された[35]。

仙台平野の沿岸部では、貞観地震の歴史書が記述するとおり、1000年ほど前に津波が内陸深く溯上したことを示す痕跡が認められた。ところが研究が進むにつれ、この種の津波の痕跡には、貞観津波を示すと思われるもの以外にもいくつか存在することが明らかとなった。東北大学大学院工学研究科附属災害制御研究センターなどの研究では、仙台平野に過去3000年間に3回の津波が溯上した証拠が堆積物の年代調査から得られ、間隔は800年から1100年と推測されている。また、推定断層モデルから9メートル程度の津波が、7- 8分間隔で繰り返し襲来していたと考えられる。2007年10月には、津波堆積物調査から、岩手県沖(三陸沖) – 福島県沖または茨城県沖まで震源域がおよんだ、M8.6の連動型巨大地震の可能性が指摘されている[36]。一方、2008年の調査では陸前高田平野からは津波堆積物は見つかっていない[37]ため想定震源域の北限を決められる。

2011年(平成23年)3月11日には三陸沖を震源として、岩手県沖から茨城県沖までの広範囲を震源域とするMw9.0の連動型超巨大地震「東北地方太平洋沖地震」(東日本大震災)が発生した。貞観地震と同様に広範囲を震源域として内陸部まで被害がおよぶ巨大・広域津波が発生している点、さらに上記の800年から1100年間隔で同様の地震が発生するという推測などから、この地震は貞観地震との関連性が指摘されている[38]。

2011年8月、津波堆積物の年代比較調査により、過去3500年間に東日本沿岸を少なくとも7回以上の大津波が襲い、その津波を起こしたのは千島海溝から日本海溝沿いにかけての4つの震源域のいずれか、または複数が連動活動して発生したM9クラスの地震と推定されたとの結果が公表された。貞観地震もそのひとつと考えられている[39][40]。

規模

河角廣(1951)により規模MK=7.5が与えられ[41]、マグニチュードはM8.6に換算されていた。宇佐美龍夫(1970)は、昭和三陸地震より大きいと考えられるが1960年チリ地震でも当時はMs8.5とされ、M8.6にはおよばないと考え、M8.3 – 8.4が妥当であるとした[42]。しかし当時はモーメントマグニチュードの概念は存在しなかった。宇佐美龍夫(2003)では推定値に幅を持たせてM8.3±1?4としている[43]。

仙台平野で見出された津波堆積物に基づく産業技術総合研究所の断層モデルによる推定ではM8.4前後とされたが[44]、これは宮城県沖から福島県沖に長さ200キロの断層モデルを置くとした場合の推定であり、津波堆積物の見出される範囲を浸水域と仮定していた。

その後、さらに三陸海岸にも津波堆積物が発見され震源域がさらに広がり[45]、また、東北地方太平洋沖地震では津波堆積物よりもさらに内陸側まで浸水していたことが指摘された。プレート間の滑りが大きく海溝軸付近まで断層破壊域が伸びていた可能性もあり、その規模は従来の推定のMw8.4を大きく上回り東北地方太平洋沖地震に匹敵する可能性があるとも考えられている[38][46]。

また、地形から推定される東北地方太平洋岸の隆起量と、地質学的に観測される歪み速度、および潮位データによる沈降速度とを総合的に見ると、M9クラスの巨大地震が繰り返し発生しないと合理的に説明できないとされる[47]。纐纈一起(2011)は東北地方太平洋沖のプレート境界の歪のエネルギーを分析し、1000年に1度では歪がたまり過ぎるとしてM9クラスの地震が約440年に一度発生すると試算し、貞観地震もその候補になるとした[48]。従来M8.4程度と推定されてきた歴史地震はモーメントマグニチュード尺度ではMw9クラスになる可能性があり、宝永地震などとともにMw9クラスの超巨大地震と推定される可能性がある[49]。

考古学的調査

1990年に東北電力女川原子力発電所建設所の阿部壽らによる考古学的所見を導入した津波痕跡高・浸水域に関する研究[31]はあるものの、遺跡における津波に関わるイベント堆積物の調査検討は充分に行われてこなかった。

1999年から2000年にかけて行われた多賀城市市川橋第26.27次調査[50]では、旧砂押川の流路近くの南北大路を浸食するイベント堆積物(SX1779:暗灰黄色砂と粗砂の互層)が十和田aテフラ(To-a)の直下付近で検出され、珪藻分析が行われた[51][52][53]。その結果、海水生種は認められず、海水の影響は論じられないとされた。珪藻分析は東北大学においても行われ、同じく汽水生・海水生ともに認められず、「津波により海から直接運搬され堆積したものではない」とされた[54]。その後の検討で、このSX1779堆積層は年代的にも貞観以後の河川氾濫による洪水性堆積物であることが明らかにされ[55][56][57]、貞観津波堆積層ではない。

2011年東日本大震災後の初期の段階で、貞観地震津波の被災が津波を主とするものであると記す『日本三代実録』に関し、斎野裕彦[58]と柳澤和明[59]の間で、大きく評価は食い違った[60]。斎野裕彦は仙台市沼向遺跡を「砂の薄層」のほぼ分布限界とし,津波は仙台平野第Ⅰ浜堤列を海側から越えて,その西方に広がる「潟湖」の湖面を進み,一部は北岸に達したが,市川橋遺跡や山王遺跡が立地し,方格地割が施工されていた自然堤防までは到達しなかった[61]とし、貞観津波の被害は仙台平野全体では限定的で,東日本大震災の津波より規模は小さく,実態からややかけ離れた内容を含む『日本三代実録』の記述は,事実を過大視した文飾に過ぎないとした。貞観津波の遡上距離も1.5~2㎞ほど、地震被害についても瓦の葺き替え程度で、主な建物には被害はなく、ごく沿海部を除くほとんどの集落は存続するとした「貞観震災」説を提唱した[62]。柳澤和明は、斎野の「潟湖」説を受けいれたものの、多賀城市の2009年版「洪水ハザードマップ」想定域に加え、古代の砂押川の両岸も貞観津波の影響を受け、方格地割やその周辺の大半は浸水し、居住者のうち 1,000 人もが夜間に発生した巨大津波により溺死したとし、解釈が分かれた[63]。

松本秀明は斎野裕彦・柳澤和明のいう「潟湖」の存在をボーリング調査によって完全に否定[64]し、貞観地震津波による砂質堆積物は多賀城市高橋付近まで遡上したと考えるのが妥当で、なお、それより北方や西方への津波の侵入については現在の調査では不明であるが、砂押川などの中小の河川沿いに津波が遡上し、さらに内陸まで到達した可能性は否定できない[65]とした。

相原淳一は多賀城南門付近にかつて存在したという「鴻の池」地区周辺の低湿地に、過年度の調査記録に未製品を含む木製品の漂着や大量の建築部材が埋め込まれた整地、護岸設備に破壊と復旧の痕跡が残され、津波固有の堆積構造[66][67][68]が認められるイベント層があることから、貞観津波は多賀城東外郭線・南外郭線内部に及んだ可能性を指摘している[69]。  

東日本大震災以後の復興発掘調査では、多賀城城下のイベント堆積物中にこれまで確認されなかった海水生種珪藻中には外洋性珪藻[70][71]、それも親潮系寒冷種に属することが明らか[72]とされ、津波以外に説明は困難であり、貞観津波によるイベント堆積物である可能性が一段と高まった。

イベント堆積物の剥ぎ取りによる調査では、津波固有の堆積構造が宮城県山元町熊の作遺跡[73][74][75]と多賀城城下の山王遺跡[76][77][78]で確認されている。両調査地点ともに、2011年東日本大震災の津波浸水域の外側に位置しており、貞観津波は東日本大震災津波を上回る規模と考えられ、相原は斎野が唱える「貞観震災」説・『日本三代実録』文飾説を斥けた[79][80]。

ほかの自然災害・地震との関連

「地震の年表 (日本)」も参照
9世紀には大きな地震・噴火が頻発しており、これらは『日本三代実録』に収録されている。

貞観地震との地球物理学的関連性は明らかではないが、地震の前後に火山の噴火が起こっている。この地震の5年前の貞観6年(864年)には富士山の青木ヶ原樹海における溶岩流を噴出した貞観大噴火が起きている(噴火の詳細については「富士山の噴火史」も参照)。また、2年後の貞観13年(871年)には鳥海山の噴火記録がある[81]。この地震の9年後の元慶2年(878年)には、伊勢原断層の活動、または相模トラフのプレート間地震とも推定されるM 7.4の相模・武蔵地震(現在の関東地方における地震)が発生しており、誘発地震の可能性が指摘されているが、間隔が開き過ぎているともされている[82]。915年には十和田火山の大噴火による火山灰(To-a)が東北地方の全域におよび、宮城県北部においても火山灰に埋もれ、そのまま廃絶された水田跡が発掘されており[83]、貞観地震津波に続き、東北地方に重大かつ深刻な社会変動を引き起こした。朝鮮半島では白頭山もこのころ大噴火した[84]。

西日本では前年の貞観10年(868年)に播磨地震(山崎断層を震源とする地震)、仁和3年(887年)に南海トラフ巨大地震と推定される仁和地震(M 8.0 – 8.5。一般的に南海地震とされるが、東海・東南海との連動説もあり)が起こっている。これらの関連性は不明であるが、この時代に日本付近の地殻が大きく変動していた可能性が高いとされる[85]。

今村明恒(1936)は、684年ごろから887年ごろは地震活動の旺盛期のひとつにあたる[86]としている一方で、9世紀ごろに地震記録が集中しているのは地方の地震が京都に報告される体制が整備された中での、六国史編集の人為効果による見かけの現象であるとの見方もある[87]。

年表
[88][89]

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出典検索?: “貞観地震” ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2012年8月)

850年11月23日(11月27日)(嘉祥3年10月16日) -出羽地震、M7
863年7月6日(貞観5年6月17日) – 越中越後地震
864年7月 – 富士山の貞観大噴火(2年間)
864年11月 – 阿蘇山噴火
867年3月(貞観9年1月) – 鶴見岳(大分県)噴火
867年6月 – 阿蘇山噴火
868年7月30日(8月3日)(貞観10年7月8日) – 播磨・山城地震、M7、山崎断層か。
869年1月(貞観10年閏12月) – 摂津地震(7月30日の余震が続いていた)
869年7月13日(貞観11年5月26日) – 貞観地震
869年8月29日(貞観11年7月14日) – 肥後台風高潮被害(潮水漲溢、漂没六郡、…其間田園数百里、陥而為海)。12月14日の伊勢神宮への奉幣告文中に「肥後国に地震風水の災」とあり、津波が襲った可能性もあり。
871年5月(貞観13年4月) – 鳥海山(山形県・秋田県)噴火
874年3月25日(貞観16年3月4日)、仁和元年(885年)7月、同8月 – 開聞岳(鹿児島県)が大噴火。
878年10月28日(11月1日)(元慶2年9月29日) – 相模・武蔵地震、M7.4
880年11月19日(11月23日)(元慶4年10月14日) – 出雲で地震、M7
887年8月26日(仁和3年7月30日)- 仁和地震(南海トラフ巨大地震?)、M8.0 – 8.5
915年 十和田火山噴火。火山灰(To-a)が東北地方全域に及ぶ。(『扶桑略記』裏書による)。
940年ころ – 朝鮮半島の白頭山噴火[84]。

歴史への影響
864年貞観の富士山噴火、869年の貞観地震・津波、869年疫病の流行などが起こったため、自然と社会を見つめ宮廷政治が整えられ、宮廷文化が生まれた[90]。

東北地方では、貞観地震・津波に続いて915年の十和田火山噴火が起き、宮城県北部・岩手県・秋田県の水田は火山灰で覆い尽くされ、ほとんどは復旧していない。秋田県北部では火山泥流による埋没家屋が検出されている。[22][91]。

脚注
[脚注の使い方]
注釈
^ 震度分布による推定で、断層破壊開始点である本来の震源、その地表投影である震央ではない。地震学的な震源は地震計が無ければ決まらず、震源域が広大な巨大地震では無意味な上誤解を与える恐れがある。-石橋克彦(2014)『南海トラフ巨大地震』, pp.7-8.
^ 牆壁:しょう-へき。石・煉瓦・土などで築いた塀・垣根・囲い。
^
十二月・・・十四日丁酉、遣使者於伊勢大神宮、奉幣。告文曰:「天皇我詔旨止、掛畏岐伊勢乃度會宇治乃五十鈴乃河上乃下都磐根爾大宮柱廣敷立、高天乃原爾千木高知天、稱言竟奉留天照坐皇大神乃廣前爾、恐美恐美毛申賜倍止申久。去六月以來、大宰府度度言上多良久:『新羅賊舟二艘、筑前國那珂郡乃荒津爾到來天豐前國乃貢調船乃絹綿乎掠奪天逃退多利。』又廳樓兵庫等上爾、依有大鳥之恠天卜求爾、鄰國乃兵革之事可在止卜申利。又肥後國爾地震風水乃?有天、舍宅悉仆顛利、人民多流亡多利。如此之比古來未聞止、故老等毛申止言上多利。然間爾、陸奧國又異常奈留地震之?言上多利。自餘國國毛、又頗有件?止言上多利。傳聞、彼新羅人波我日本國止久岐世時與利相敵美來多利。而今入來境内天、奪取調物利天、無懼沮之氣、量其意況爾、兵寇之萌自此而生加、我朝久無軍旅久專忘警多利。兵亂之事、尤可慎恐。然我日本朝波所謂神明之國奈利。神明之助護利賜波、何乃兵寇加可近來岐。況掛毛畏岐皇大神波、我朝乃大祖止御座天、食國乃天下乎照賜比護賜利。然則他國異類乃加侮致亂倍久事乎、何曾聞食天、驚賜比拒卻介賜波須在牟。故是以王-從五位下-弘道王、中臣-雅樂少允-從六位上-大中臣朝臣-冬名等乎差使天、禮代乃大幣帛遠を、忌部-神祇少祐-從六位下-齋部宿禰-伯江加弱肩爾太襁取懸天、持齋令捧持天奉出給布。此?乎平介久聞食天、假令時世乃禍亂止之天、上件寇賊之事在倍久物奈利止毛、掛毛畏支皇大神國内乃諸神達乎毛唱導岐賜比天、未發向之前爾沮拒排卻賜倍。若賊謀已熟天兵船必來倍久在波、境内爾入賜須天之、逐還漂沒女賜比天、我朝乃神國止畏憚禮來禮留故實乎澆多之失比賜布奈。自此之外爾、假令止之天、夷俘乃造謀叛亂之事、中國乃刀兵賊難之事、又水旱風雨之事、疫癘飢饉之事爾至萬天爾、國家乃大禍、百姓乃深憂止毛可在良牟乎波、皆悉未然之外爾拂卻鎖滅之賜天、天下無躁驚久、國内平安爾鎮護利救助賜比皇御孫命乃御體乎、常磐堅磐爾與天地日月共爾、夜護晝護爾護幸倍矜奉給倍止、恐美恐美毛申賜久止申。」
^ 『日本三代実録』貞観12年9月15日の条「潤清、長焉、真平等、才長於造瓦、預陸奥国修理府、料造瓦事、令長其道者相従伝習。」の解釈をめぐっては、律令官制では「府」は衛門府や衛士府など軍事的官衙に用いられ、鎮守府・大宰府ほか国府も軍事的性格を持つこと(岸俊男1984「国府と郡家」『古代宮都の探求』)から、固有名詞としての「陸奥国修理府」ではなく、「府」は「国府」を指し、拘束された新羅人潤清、長焉、真平等を陸奥国に預け「国府を修理し、瓦造りに従事」させたとする解釈(青森県史編さん委員会2001『青森県史資料編 古代1 文献史料』、二上玲子2013「文献史料からみた貞観地震に関する一考察」『市史せんだい』vol.22)が現在、最も有力である。
出典
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参考文献
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震災予防調査会編 編 『大日本地震史料 上巻』丸善、1904年。 pp.38-39(日本三代実録)国立国会図書館サーチ
武者金吉 編 『大日本地震史料 増訂 第一巻 自懿徳天皇御宇至元祿七年』文部省震災予防評議会、1941年。 p.78(日本三代実録)国立国会図書館サーチ
東京大学地震研究所 編 『新収 日本地震史料 第一巻 自允恭天皇五年至文禄四年』日本電気協会、1983年。 p.22
東京大学地震研究所 編 『新収 日本地震史料 続補遺 自天平六年至大正十五年』日本電気協会、1994年。 p.2
宇佐美龍夫 『日本の歴史地震史料 拾遺二 自成務天皇三年至昭和三十九年』東京大学地震研究所、2002年3月。 p.2
宇佐美龍夫 『日本の歴史地震史料 拾遺三 自斉衡二年至昭和二十一年』東京大学地震研究所、2005年3月。 pp.3-10
関連項目

ウィキソースに日本三代實録の地震史料の原文があります。

ウィキクォートに貞観地震に関する引用句集があります。
東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)
巨大地震
連動型地震
地震の年表 (日本)
三陸沖地震
歴史地震
多賀城
末の松山
鼻節神社
蝦夷
外部リンク
津波災害は繰り返す「陸奥国府を襲った貞観年津波」(東北大学「まなびの杜」)
産業技術総合研究所 活断層・地震研究センター
貞観地震に関する成果報告,報道等[リンク切れ]
平安の人々が見た巨大津波を再現する-西暦869年貞観津波 (PDF) (産業技術総合研究所 活断層・地震研究センター「AFERC NEWS No.16 August 2010」)
石巻・仙台平野における869年貞観津波数値シミュレーション (PDF) (佐竹健治、行谷佑一、山木滋)
西暦869年の貞観地震・津波について (PDF) 佐竹健治(東大地震研)、宍倉正展、澤井祐紀、岡村行信、行谷佑一(産総研活断層・地震研究センター)
『貞観地震』 – コトバンク

表話編歴
1884年以前に日本で発生した主な地震(歴史地震)

  • 1749

1750 – 1799

1800 – 1849

1850 – 1884
一覧記事 地震の年表カテゴリ 日本の地震
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ダグラス・グラマン事件

ダグラス・グラマン事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6

『ダグラス・グラマン事件(ダグラス・グラマンじけん)とは、1970年代末に発覚した日本とアメリカ合衆国の軍用機売買に関する汚職事件。

概要

1979年1月4日、アメリカ合衆国の証券取引委員会(SEC)は、グラマン社が自社の早期警戒機(E-2C)の売込みのため、代理店の日商岩井(現・双日)を経由して、日本の政府高官らに不正資金を渡していたことを告発した[1]。

これを受けて東京地方検察庁の特別捜査部も捜査を開始、先行するロッキード事件で捜査を指揮した吉永祐介が特捜部長、同事件で重要な証言を得た村田恒が主任検事として捜査に臨んだ[2]。

特捜部においては、ロッキード事件の際に軍用機であるP-3Cの疑惑追及を断念し、民間機であるトライスターへの追及に絞ることで田中元首相の検挙という成果を挙げた一方、軍用機を巡る疑惑を棚上げする形になったことが反省されており、村田恒は、今回は軍用機のみを追及できるということで捜査陣の士気は高かった、と回顧している[2]。

当時、日商岩井の海部八郎副社長が率いる航空部は、航空業界でも「海部軍団」としてその名を轟かせるほどのやり手として知られており、金に糸目をつけない手法で売り込みを成功させているとも噂されていた[2]。

村田主任検事は自ら海部副社長の取り調べにあたっていたが[2]、調書の大部分は、E-2C早期警戒機よりむしろF-4E戦闘機に割かれており、その売り込みの一環として1965年頃に松野頼三 前防衛庁長官に5億円を支払っていたことが判明した[3]。

また1965年7月24日に海部副社長が川崎重工業の社長に宛てて記したメモでは、その前日にサンフランシスコを訪れていた岸信介元総理と懇談し、マクダネル社の社長を引き合わせるとともに、2万ドルを渡したことが記されており、これは「海部メモ」として国会で問題になった[3][注 1]。

ただし村田主任検事の取り調べに対して、海部副社長は、岸元総理とマクダネル社社長を引き合わせたのは事実だが[注 2]、実際には現金の授受はなく、川崎重工業坂出工場の建設を巡る商談のためのハッタリとして、川崎重工業の社長に嘘の手紙を書いたと述べていた[3]。

海部副社長は、このメモについての国会での証人喚問において偽証をしたとして、議院証言法違反で有罪となった[3]。

一方、海部副社長の直属の部下として軍用機ビジネスに携わってきた島田三敬常務取締役の取り調べを行ったのが、宗像紀夫検事であった[6]。

島田常務への取り調べは全部で6回行われており、6回目となる1979年1月31日の取り調べでは、田中角栄を含む6人の政治家に対して領収書を取らない裏の献金を提供したことを明かしていた[6]。

島田常務は「明日、更に詳細を話す」と述べてその日の取り調べを終えたが、同日深夜に赤坂のビルの7階から飛び降り、翌朝死亡した状態で発見された[6]。

島田常務は飛び降りる前に受傷しており、また部屋が荒らされていたなど異常な状況であったことから謀殺の疑いも持たれ、最終的には自殺と断定されたものの[6]、その後も他殺説の主張は残っている[7]。

島田常務の死によって核心部分は解明されず、政治家への追及は時効で断念され、裏金の一部を日商岩井の幹部らが私的に横領したことが事件化されたのみとなった[6]。

松野前防衛庁長官は国会の証人喚問を受けて、5億円の受け取りを認めたものの、これも時効を過ぎていたほか、合法的な政治献金として認識していたとの主張もあって、訴追の対象にはならなかった[3][8]。

疑惑の対象となった各機種のうち、E-2C早期警戒機は昭和54年度での導入が決定された[9][注 3]。本事件を受けて関連予算の執行は保留されていたが、1979年7月12日、「執行保留を解除することが妥当」との両院議長の判断がくだされて、事業が本格的に開始されることになった[9]。

9月4日には第1次契約分4機のFMS調達が成立、アメリカでの技術審査を経て、1983年1月27日には航空実験団が1・2号機を受領した[9]。

一方、F-4Eについては、第3次防衛力整備計画に基づく次期主力戦闘機(第2次F-X)の候補機種となっており、1968年11月1日に首相の了承を受けて採用されていた[12][注 4]。

なおこの前に、第1次防衛力整備計画に基づく次期主力戦闘機(第1次F-X: F-86後継機)計画の際にも、1958年4月14日に一度はグラマン社のF11Fの採用が内定したにも関わらず、8月22日の衆議院決算委員会において不正疑惑が提起されて選定が先延ばしされ、疑惑は立証されなかったものの、結局はロッキード社のF-104に変更されたという経緯があった[12]。

脚注
[脚注の使い方]
注釈

^ 岸元首相への事情聴取は実現しなかったが、その舞台裏について、朝日新聞は「岸氏の喚問に応じることは、ロッキード事件で逮捕された田中元首相に続いて二人目の元首相を“きず物”にすることになるからだ。それは、自民党全体のイメージダウンにもつながる」と解説をした。

また、当時、朝日新聞の首相官邸記者クラブ担当だった国正武重は、後に、評論家・立花隆との対談で「大平首相サイドからは、ロッキード事件に続いてダグラス・グラマン事件で政権の中枢が揺らぐようなことになれば、保守政権にとっての危機だ、それだけは勘弁してくれという趣旨の動きが、検察の最高首脳や法務省サイドに対してあったと思う。

このことについては、大平さんも、当時、それに近い胸のうちを吐露したことがある」と語っている[4]。

さらに、事件当時の法相・古井喜実は1983年2月のインタビューで、『事件のカタを早急につける必要があったからね。ただ、ロッキード事件のような大物(田中元首相)が、この事件にもかかわっているのかどうか、問題になった。もし『超大物』がかかわっている兆候があれば徹底的にやって、何としてでもやっつけなければ、ということになった(中略)。ニオイはした。事件にもなりそうだった。しかし『超大物』を事件の枠内にはめこむことはできなかった。結局『超大物』は捨ててしまい、松野頼三君でとめた』と語っている[5]。

^ 当時、三井物産がマクダネル社の日本での代理店となっていたが、海部副社長は、F-4Eの売り込みについては日商で代理店契約を獲得することを狙っており、そのためにマクダネル社に対して政治的コネクションを誇示する狙いがあった、と述べていた[3]。

^ 航空自衛隊の早期警戒機としては、従来は国産のC-1輸送機にフェーズドアレイレーダーを搭載する案などが検討されていたが[10]、1972年夏のニクソン大統領と田中首相との首脳会談において、P-3C哨戒機とともにE-2Cの売り込みが図られたことで、アメリカ機の導入に転換したと言われている[11]。

^ 日本の使用目的に応じて核管制装置や爆撃計算装置の撤去などの改修が行われることになり、この改修を行ったF-4EをF-4EJと呼称することになった[12]。

出典

^ 牧太郎「中曽根時代を思い出させる「文春砲」政局?」『毎日新聞』2020年2月10日。2021年10月7日閲覧。
^ a b c d NHKスペシャル取材班 2018, pp. 190–193.
^ a b c d e f NHKスペシャル取材班 2018, pp. 193–201.
^ 国正 & 立花 1988.
^ 1995年6月3日朝日新聞
^ a b c d e NHKスペシャル取材班 2018, pp. 201–214.
^ 吉原 1983.
^ 松野 & 伊藤 2003, pp. 49–54.
^ a b c 航空幕僚監部 2006, pp. 435–438.
^ 航空幕僚監部 2006, pp. 346–348.
^ NHKスペシャル取材班 2018, pp. 153–160.
^ a b c 航空幕僚監部 2006, pp. 266–269.

参考文献

今村雄二郎「グラマン・ダグラス事件」 『私の風土記』株式会社アイヴィス。
NHKスペシャル取材班 『消えた21億円を追え ロッキード事件 40年目のスクープ』朝日新聞出版、2018年。ISBN 978-4022515322。
国正武重; 立花隆「巨悪は眠っている--「ロッキード」以後の政治家と検索 (特集・腐蝕の日本政治--税制国会を注視する」『世界』第520号、岩波書店、39-55頁、1988年10月。 NAID 40002105064。
航空幕僚監部 編 『航空自衛隊50年史 : 美しき大空とともに』2006年。 NCID BA77547615。
松野頼三; 伊藤隆「オーラルヒストリー松野頼三」『C.O.E.オーラル・政策研究プロジェクト』下、政策研究大学院大学、2003年。doi:10.24545/00001476。
吉原公一郎 『謀殺―島田常務怪死事件』現代書林、1983年。ISBN 978-4876200023。

関連項目

不毛地帯 - 作中前半で主人公が関わる航空自衛隊の次期主力戦闘機争いは、第一次FX問題をモデルとしている。
ロッキード事件

外部リンク

グラマン航空機疑惑 - NHK放送史 』

ロッキード事件

ロッキード事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6

『ロッキード事件(ロッキードじけん)は、アメリカの航空機製造大手のロッキード社による、主に同社の旅客機の受注をめぐって1976年(昭和51年)2月に明るみに出た世界的な大規模汚職事件である。

この事件では日本やアメリカ、オランダ、ヨルダン、メキシコなど多くの国々の政財界を巻き込んだが、本項では「総理の犯罪」の異名で知られる日本での汚職事件について詳細に述べる。

なお、肩書きはいずれも事件発覚当時のものである。

事件概要
田中角栄(左)とアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソン

この事件は、国内航空大手の全日空の新ワイドボディ旅客機導入選定に絡み、自民党衆議院議員で元内閣総理大臣の田中角栄が、1976年(昭和51年)7月27日に受託収賄と外国為替及び外国貿易管理法(外為法)違反の疑いで逮捕され、その前後に田中元首相以外にも政治家2名(運輸政務次官佐藤孝行と元運輸大臣橋本登美三郎)が逮捕された。

さらに収賄、贈賄双方の立場となった全日空社長若狭得治以下数名の役員及び社員、ロッキードの販売代理店の丸紅の役員と社員、行動派右翼の大物と呼ばれ、暴力団やCIAとも深い関係にあった児玉誉士夫や、児玉の友人で「政商」と呼ばれた国際興業社主の小佐野賢治と相次いで逮捕者を出した。また、関係者の中から多数の不審死者が出るなど、第二次世界大戦後の日本の疑獄を代表する大事件となった。

この事件は1976年(昭和51年)2月にアメリカ議会上院で行われた上院外交委員会多国籍企業小委員会(委員長フランク・チャーチの名から「チャーチ委員会」)における公聴会にて発覚しており、アメリカとの間の外交問題にも発展した。

経緯

トライスターの販売不振
全日空のL-1011 トライスター

1970年(昭和45年)11月に初飛行し、1972年(昭和47年)4月に運航が開始されたL-1011 トライスターは、大手航空機製造会社のロッキード社が、自社初のジェット旅客機として威信をかけて開発したもので、中二階の客室、貨物室構造に昇降機が設置された他、自動操縦装置については軍用機のトップクラスメーカーとしてのノウハウが生かされ、当時としては他に例がないほどの先進的な装備が施されていた。

ロッキード社はレシプロ機時代にはロッキード コンステレーションシリーズで一世を風靡したものの、ジェット化の波には乗り遅れてしまい、軍用機メーカーとしては屈指の大手になったものの、民間機市場での地位は低下してしまっていた。また、ロッキードはベトナム戦争の終結によって赤字経営に転落していたことも相まって、トライスターで民間機市場での起死回生を狙っていたのである。

しかし、ジェット旅客機メーカーとしての実績が先行していたマクドネル・ダグラスのDC-10や、1970年に初就航してから既に多くの発注を受けていたボーイング747との間で激しい販売競争にさらされていた。またL-1011 トライスターに搭載するロールス・ロイス社製ターボファンエンジン「RB211」は、軽量化のため複合材のファンブレードを用いていたが、複合材のファンブレードではバードストライクの衝撃試験でブレードの前縁が破壊されるため、金属製のファンブレードに変更することになり、またその最中にロールス・ロイス社が破産・国有化されるなどして開発が遅れていたため、日本においても既に全日空のライバルである日本航空がマクドネル・ダグラスDC-10の大量発注を決めたほか、他国においても発注が伸び悩むなど苦戦していた。

このため、このような状況を解消すべくロッキード社が各国の政治家や航空関係者にさまざまな働きかけを行なっていた。

全日空の大型機選定作業

1970年(昭和45年)1月、全日空は昭和47年度の導入を目指して、若狭を委員長とする「新機種選定準備委員会」を設置しアメリカへ調査団を派遣するなどしたが、その後の全日空機雫石衝突事故、ニクソン・ショックにより一時停止の憂き目を見た。1972年(昭和47年)に入り選定作業を再開し、メーカー側もまた7月23日から26日にかけて東京、大阪でデモフライトを実施するなど白熱化したが、当時は騒音問題がクローズアップされる中、全日空は低騒音性を重視していたところ、もともと低騒音性についてはロッキードL-1011に及ばないダグラスDC-10は、大阪空港に設置された騒音測定地点で急上昇して騒音測定を回避するなどした。DC-10はこの数か月前にエンジン脱落事故、貨物室ドア脱落事故などが相次ぎ、社内では同型機に対する安全性への不信感が大いに募ったという[1][注 5]。

選定準備委員長らとともに各職場の意見を聴取したところ、整備、航本、運本の現業3本部に加え総合安全推進委員会などの技術部門はL-1011を、経理部はB747SRを推し、営業本部はL-1011、DC-10に意見が分かれていることが明らかになった。当時、騒音問題が激烈だったのは大阪空港であるが、その大阪空港支店の管理職45名のうち、33名がL-1011を推していたという[1]。

トライスターの発注
イギリス首相エドワード・ヒース

1972年(昭和47年)10月7日の同社役員会で若狭が役員に意見を求めたところ、技術部門担当役員の3名はL-1011を、技術担当以外ではDC-10が2名、B747SRが1名、L-1011が1名と分かれた。全会一致を求める若狭は、先にFAAの騒音証明を取り下げたダグラス社の騒音証明の結果が出るまで決定を延期した。10月22日を過ぎてダグラス社に問い合わせたところ、「雨が降ったので測定できなかった」旨の回答を得たのみで、騒音証明の見通しも得られなかった。10月28日に再度招集された役員会では、前回L-1011以外を推した役員も大勢に従う旨を述べた。結局、役員会ではロッキードL-1011を選定する旨決定した[2]。

チャーチ委員会
ロッキードF-104J

田中が金脈問題で首相を辞任した約1年3カ月後、そして、全日空にL-1011トライスターが納入された約2年後の1976年(昭和51年)2月4日に、アメリカ議会上院で行われた外交委員会多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)公聴会で、ロッキード社が、全日空をはじめとする世界各国の航空会社にL-1011 トライスターを売り込むため、同機の開発が行われていた1970年代初頭に各国政府関係者に巨額の賄賂をばら撒いていたことが明らかになった(全日空への工作費は約30億円だったと言われる)。

明らかになっていく「工作」
児玉誉士夫(前列左、1953年)。

さらにその後公聴会において、ロッキード副会長アーチボルド・コーチャン(英語版)と元東京駐在事務所代表ジョン・ウィリアム・クラッター(John William Clutter)が、日本においてロッキード社の裏の代理人的役割をしていた児玉に対し1972年(昭和47年)10月に「(全日空へL-1011 トライスターを売り込むための)コンサルタント料」として700万ドル(日本円で21億円あまり)を渡したこと、次いで児玉から、小佐野やロッキード社の日本における販売代理店の丸紅などを通じ、当時の首相である田中に対して5億円が密かに渡されたことを証言した。

2016年7月に放送されたNHKスペシャル・未解決事件でインタビューに応じた丸紅の大久保利春専務の部下の航空機課長坂篁一の証言によると、「5億円の現金は自分が角栄に渡すことを提案した。当時、トライスターの採用がほぼ決定していたこともあって、念押しをするために、また、P-3C(対潜哨戒機)導入の為にロッキードに最低でも5億円を出させた。国産化されると丸紅には仲介手数料が入らない。軍用機ビジネスは魑魅魍魎だ」と語っている。国産化計画の責任者だった海上自衛隊の元幹部は、田中がハワイでの首脳会談から帰って来てから変わったと語っている。

また、すでに同年6月の時点よりロッキード社から児玉へ資金が流れており、この際、過去にCIAと関係のあったといわれる日系アメリカ人のシグ片山[注 6]が経営するペーパー会社や、児玉の元通訳で、GHQで諜報活動のトップを務めていたチャールズ・ウィロビーの秘書的存在でもあった福田太郎[注 7]が経営するPR会社などの複雑な経路をたどっていたことがチャーチ委員会の調査によって明らかになっている。

国会

チャーチ委員会での証言内容を受け、検察などの本格的捜査の開始に先立つ1976年2月16日から数回に渡って行われた衆議院予算委員会には、事件関係者として小佐野賢治、全日空の若狭や渡辺副社長、大庭哲夫前社長、丸紅会長の檜山廣や専務大久保利春[注 8]、伊藤宏専務、ロッキード日本支社支配人の鬼俊良[注 9]などが証人喚問され、この模様は全国にテレビ中継された。

5月、ロッキード事件調査特別委員会が発足した。その後、ロッキードから金を貰ったとして「二階堂進元官房長官、佐々木秀世元運輸相、福永一臣自民党航空対策特別委員長、加藤六月元運輸政務次官」が限りなく黒に近い灰色高官であるとされたが、職務権限の問題や請託の無い単純収賄罪での3年の公訴時効成立の問題があったため起訴はされなかった。

なお、三木の下でアメリカから資料をもらい調べていた当時の内閣官房副長官海部俊樹はインタビューで、「先輩たちから、『他国から資料を貰ってまで恥をさらすことはない、指揮権を発動すればいい』とか言われた。到底我々の手の届く問題ではなかった。深い闇がある。」と語っている。

捜査

捜査開始
ジェラルド・フォード大統領

その後、首相三木武夫がチャーチ委員会での証言内容や世論の沸騰を受けて直々に捜査の開始を指示、同時にアメリカ大統領ジェラルド・フォードに対して捜査への協力を正式に要請するなど、事件の捜査に対して異例とも言える積極的な関与を行った。

また、捜査開始の指示を受けて2月18日には最高検察庁、東京高等検察庁、東京地方検察庁による初の検察首脳会議が開かれ、同月24日には検察庁と警視庁、国税庁による合同捜査態勢が敷かれた。吉永祐介は警察から情報が漏れていると考えていた[3]。

三木は外交評論家の平沢和重を密使として送り、3月5日にヘンリー・キッシンジャー国務長官と会談させてアメリカ側の資料提供を求めた。アメリカ政府は同月23日、日本の検察に資料を渡すことを合意した[4]。

「ロッキード隠し」

捜査の開始を受けてマスコミによる報道も過熱の一途をたどり、それに合わせて国内外からの事件の進展に対する関心も増大したものの、明らかにライバルの田中をターゲットにした捜査の急激な進展は、親田中の議員を中心に「国策捜査」として批判されることになった。

また、椎名悦三郎を中心とした自民党内の反三木派が、事件捜査の進展を急ぐ三木の態度を「はしゃぎすぎ」と批判し、さらに5月7日には田中と椎名が会談し、三木の退陣を合意するなど、いわゆる「三木おろし」を進め、田中派に加えて大平派、福田派、椎名派、水田派、船田派が賛同し、政権主流派に与するのは三木派の他は中曽根派だけとなる。国民やマスコミはこのような動きに対して「ロッキード(事件)隠し」と批判したが、このような声を尻目に田中、椎名、大平や福田などの多数派は結束を強めていった。この頃になると、新聞の取材班が早朝の検察庁舎に侵入して書き損じの調書を窃取するなど、マスコミの取材合戦は更に加熱していた[5]。

一方、吉永祐介検事を捜査主任検事とする東京地検特捜部はその後異例のスピードで田中を7月27日に逮捕し、起訴に持ち込んだが、三木とともに田中に対する捜査を推し進めた中曽根派出身の法務大臣稲葉修は、三木の政敵である田中の逮捕を「逆指揮権発動によるもの」とみなした田中派から、三木と共に激しい攻撃の対象となった。

「三木おろし」
福田赳夫首相(左から2番目)

この逮捕により、「もはやロッキード隠しとは言えない」として「三木おろし」が再燃、田中の逮捕から1カ月足らずの8月24日には反主流6派による「挙党体制確立協議会」が結成される。三木は9月に内閣改造を行なったが、ここで田中派からの入閣は科学技術庁長官1名だけであり、三木も田中との対決姿勢を改めて鮮明にする。

三木は党内の分裂状態が修復できないまま解散権を行使できず、戦後唯一の任期満了による衆議院議員総選挙を迎えた。1976年12月5日に行われた第34回衆議院選挙では、ロッキード事件の余波を受けて自民党が8議席を失うなど事実上敗北し、三木は敗北の責任を取って首相を辞任。大平派と福田派の「大福密約」により、後継には「三木おろし」を進めた1人の福田派のリーダーの福田赳夫が就くことになった。

在日アメリカ大使館から本国へ、「これ以上ワシントンからの情報の提供がなければ、政府高官数人の辞職だけで済む。P3Cについての情報は一切だすな。」という主旨の報告が秘密解除されて見つかっている。

相次ぐ関係者の怪死

このように事件が公になり捜査が進んだ前後に、ロッキード事件を追っていた日本経済新聞記者の高松康雄が1976年(昭和51年)2月14日、上記児玉誉士夫の元通訳の福田太郎が同年6月9日、さらに田中の運転手である笠原正則が同年8月2日と立て続けに急死するなど、マスコミや国民の間で「証拠隠滅と累が及ぶのを防ぐため、当事者の手先によって抹殺されたのではないか」との疑念を呼んだ。

しかし、捜査が進む中、1976年5月24日に行われた参議院内閣委員会において社会党参議院議員の秦豊より警察庁刑事局の柳館栄に対して福田や片山、鬼などの関係人物に対する身辺保護の必要性について質問が行われたが、「それらの人物からの身辺保護の依頼がなかったことから特に(警察は)何もしていない」という返答しかなかった。

その上、この答弁が行われた翌月には上記のように福田が死亡するなど、再び関係人物の身辺保護の必要性が問われるような状況になったにもかかわらず、警察はその後も政治家以外の民間人に対して表立った身辺保護を行わなかったことから大きな批判を呼んだ。

裁判

田中角栄

衆議院予算委員会における数度に渡る証人喚問や、5月14日に衆議院で、同19日に参議院に設置された「ロッキード問題に関する特別委員会」などにおいて、これらの証人による証言の裏付け作業が進んだ上、検察などによる捜査が急激なペースで進んだ結果、事件の発覚から半年にも満たない7月から8月にかけて田中や檜山、若狭などの多くの関係者が相次いで逮捕され、東京地方裁判所に起訴された。

田中は1976年(昭和51年)7月27日に逮捕されたのち、8月16日に東京地検特捜部に受託収賄と外為法違反容疑で起訴され、その翌日に保釈保証金を納付し保釈された。田中に対する公判は1977年(昭和52年)1月27日に東京地方裁判所で開始され、日本国内はおろか世界各国から大きな注目を集めることになった。その後1983年(昭和58年)10月12日には懲役4年、追徴金5億円の有罪判決が下った(5日後に保釈保証金2億円を納付し再度保釈)。この第一審判決を受けて国会が紛糾し、衆議院解散のきっかけとなった(田中判決解散)。

田中はこれに対して「判決は極めて遺憾。生ある限り国会議員として職務を遂行する」と発言し控訴したが、1987年(昭和62年)7月29日に控訴棄却、上告審の最中の1993年(平成5年)12月16日の田中の死により公訴棄却(審理の打ち切り)となった。

田中の秘書官の榎本敏夫も田中と同日に外為法違反容疑で逮捕され、その後起訴された。1995年(平成7年)2月22日に、最高裁判所で有罪判決が確定。司法は首相秘書の最終審判決という形で田中の5億円収受を認定した。また、死亡後の田中の遺産相続でも収受した5億円を個人財産として相続税が計算された。

児玉誉士夫

児玉誉士夫(1946年)
「児玉誉士夫#ロッキード事件」も参照

児玉は事件の核心を握る中心人物であったにもかかわらず、1976年(昭和51年)2月から衆議院予算委員会において証人喚問が行われることが決定した直後に「病気」と称して自宅に引きこもり、さらにその後は入院した東京女子医科大学病院にて臨床取調べを受けるなど、その態度が大きな批判を受けただけでなく、そのような甘い対応を許した政府や特捜に対する批判も集中した。その後、児玉の態度に憤ったポルノ俳優の前野霜一郎が同年3月に児玉邸へのセスナ機による自爆テロを行ったが、児玉は別の部屋に寝ていて助かった。

その後の1976年3月13日に児玉は所得税法違反と外為法違反容疑で在宅起訴され裁判に臨むことになったが、1977年6月に1回だけ公判に出廷した後は再び「病気」と称して自宅を離れなかったために裁判は進まなかった。その後1980年9月に再度入院し、裁判の判決が出る直前の1984年(昭和59年)1月に児玉は亡くなった。なお、児玉の死亡後の遺産相続では闇で収受した21億円が個人財産として認定された上で相続税が計算されている。

2016年の未解決事件のインタビューで堀田力は「核心はP3Cではないか。P3Cで色々あるはずなんだけど。(児玉誉士夫がロッキード社から)金を上手に取る巧妙な手口は証言で取れている。(そこから先の)金の使い方とか、こっちで解明しなきゃいけないけど、そこができていない。それはもう深い物凄い深い闇がまだまだあって、日本の大きな政治経済の背後で動く闇の部分に一本光が入ったことは間違いないんだけど、国民の目から見れば検察もっともっと彼らがどういう所でどんな金を貰ってどうしているのか、暗闇の部分を全部照らしてくれって。悔しいというか申し訳ない」と語っている。

当時、児玉が経営する企業の役員を務めていてセスナ機が突っ込んだ時も駆け付けた日吉修二(2016年7月死去。未解決事件でのインタビューが最後のインタビューとなった)によると事件発覚直後、児玉の秘書から急遽呼ばれ段ボール5箱分の書類をすぐに焼却するよう指示されたという。「これが天下の児玉だと思ってますよ。それはやっぱり日本の為の国士ですから、何か事を起こすのにはやっぱ資金がないとね。(資金の)必要があったんじゃないかなと思う。これやっぱりロッキード事件に絡んだ書類くらい思ってますよ。伝票みたいなものもあったし、色んな綴じてある書類もあったし、そんないちいちね見ながらこれは焼いていいか、それはやらない。私、意外と忠実だから言われたらピッと焼いちゃう。ただ燃やしているチラチラ見える中には、英語の物もあったと思います。」

児玉の通訳の福田太郎も死ぬ直前、「アメリカの公聴会で領収書の一部が公表されることになりました。ロッキード社から児玉さんに謝っておいてくれと電話がありました。」児玉は「それは話が違う。私に迷惑をかけないようにすると言っていたではないか。」と。秘書は、「それを否定しなければなりません。先生は知らないと言えばいい。判子と書類は燃やしてしまいます。」と供述している。

小佐野賢治

「小佐野賢治#ロッキード事件」も参照

小佐野は1976年(昭和51年)2月から行われた衆議院予算委員会において第1回証人として証言したものの、上記のような「証言」が偽証罪(議院証言法違反)に問われ、翌1977年(昭和52年)に起訴され、1981年(昭和56年)に懲役1年の実刑判決を受けた。判決が言い渡された翌日に控訴したものの、その後1986年(昭和61年)10月に小佐野が死去したために被告死亡により公訴棄却となった。

丸紅ルート

「丸紅ルート」の中心人物で、事件当時社長を務めた檜山廣会長は1976年(昭和51年)7月に贈賄と外為法違反容疑で逮捕、起訴され、1995年(平成7年)に最高裁判所で実刑が確定した。しかしながら高齢のために刑の執行は停止され、檜山は収監されないまま2000年(平成12年)に死去した。檜山はこの間、1985年(昭和60年)から1999年(平成11年)まで丸紅名誉顧問を務めていた。

榎本敏夫と共に金銭授受を実行した当事者となった伊藤宏専務は1983年(昭和58年)10月12日に第一審判決で懲役2年の実刑判決を受けたため、実刑判決を不服として、控訴。その後、1987年(昭和62年)7月29日に控訴審判決で第一審判決を破棄し、あらためて懲役2年、執行猶予4年の判決を言い渡し、上告せず、有罪が確定。

大久保利春専務は、他の被告とは違い、公判でも検察側の主張をほぼ全面的に認めており、第一審判決で丸紅3被告の中で唯一の執行猶予付きの有罪判決が出たが、他の被告が控訴審で大久保に不利な証言が連発されることを恐れ、控訴に踏み切る。1987年(昭和62年)7月29日に控訴棄却されるが、檜山が上告したため、同様に上告。1991年(平成3年)12月16日の大久保の死により、公訴棄却となった。

丸紅の大久保利春専務直属の部下でアーチボルド・コーチャンと折衝していた元航空機課長の坂篁一は、「檜山さんの首相訪問のOKが取れ許可取れたもんなら、この際政治献金しましょうと。これはロッキードに出させましょうという話をしたわけだ。5億円のお金の話というのは丸紅側から出てるの、コーチャンから言われたことじゃない。そこで大久保さんに話して、これをコーチャンに言ってOKを取ってくださいと。」「簡単な言葉で言えば(トライスターは)ダメ押しの最後の詰め。P3Cで色々力を注ぎましょうという考えの方が多かった。しかしこれはね、当時国産で、話は進んでいたわけだ[6]。国産で進んだやつを何とかP3Cにならんだろうか、国産ではひとつも丸紅に口銭(仲介手数料)は入らないわけだ。P3Cになればね、非常に巨額の口銭は入るわけです。巨額なもんだから。P3Cってのは。」巨額の金が飛び交う軍用機ビジネスの不条理な世界を魑魅魍魎と書いた。「P3Cへの対策、お化けにはお化けのお菓子。森の中のお化け対策をしながら、活動するというのは、くたびれること。(導入が)決まりそうだ万歳、万歳と言ってちゃダメ。決まりかけが一番恐ろしい。暴れだすのは決まりかけ。」と語っている[3]。

コーチャンの尋問記録にも、丸紅の大久保は「もし大きな取引をしたいのであれば、5億円は基準レートだと言った。日本は最大のマーケットで丸紅から今後の販売がダメになると言われると大変だった。P3Cの売り込みの問題もあり支払わざるを得ないと考えた。」とある。

全日空ルート(全日空疑獄)

全日空に有利な政治的・経済的取り計らいを受けるために、若狭の意を受けて全日空の幹部がロッキードから受け取ったリベートの一部を裏金として、運輸族の政治家や運輸官僚へ贈賄していたとして立件された。この件は「全日空ルート」と呼ばれ、立花隆などは、「全日空だけの裏金だけで相当の疑獄の規模に渡る」として「全日空疑獄」と呼んでいる[7]。

佐藤孝行運輸政務次官や橋本登美三郎元運輸大臣が、全日空による金銭の授受があったとして受託収賄罪で起訴された。佐藤には懲役2年執行猶予3年追徴金200万円の有罪判決が確定し、橋本には一二審で懲役2年6ヶ月執行猶予3年追徴金500万円で有罪判決で上告中に死亡し公訴棄却となった。

また、全日空は若狭社長以下6名の現役社員が、外為法違反および議院証言法違反などの容疑で逮捕、起訴された。1982年1月、東京地方裁判所でいずれも執行猶予付きの有罪判決が下された。これに対して若狭(その後の全日空相談役に)のみが控訴。上訴審を経て1992年9月に最高裁が上告棄却したことにより、懲役3年(執行猶予5年)の有罪判決が確定した[8]。

多論

アメリカ陰謀説

ロッキード事件はアメリカ当局が仕掛けた陰謀だ、という説がある。 ホワイトハウス在住記者ジュリー・ムーン(文明子)がヘンリー・キッシンジャー国務長官に「ロッキード事件はあなたが起こしたんじゃないんですか?」と問いただしたところ、キッシンジャーは「オフ・コース(もちろんだ)」と答えている[9]。

諸説
ヘンリー・キッシンジャー(左)とジェラルド・フォード(右)

中曽根康弘は自著で、事件当時のジェラルド・フォード政権の国務長官であったヘンリー・キッシンジャーが東京に来た際、『ロッキード事件をあのように取り上げたのは間違いだった』と中曽根に語り、「キッシンジャーはこういうことはやるべきでなかったと反対したらしい」と記述している。さらに同著では「ロッキード事件の原点は角栄の石油政策にある」とも述べている[10]。

メルビン・レアード国防長官はP-3Cの輸入を中曽根に持ち掛けた時、「彼はがっかりしていた。国産化するくらいならP3Cの開発費を負担したらどうかと提案したが、同意しなかった。」と語っている。

石原慎太郎は自著「天才」で資源外交で逆鱗に触れた田中角栄をアメリカがロッキード事件で葬ったと述べている。[11]

その他にも、この事件が発覚する過程において、贈賄側証人として嘱託尋問で証言したロッキード副社長のコーチャンと元東京駐在事務所代表クラッターが無罪どころか起訴すらされていない点、ロッキード社の内部資料が上院多国籍企業小委員会に誤配されたとされる点など、事件に関連していくつもの不可解な点があったため、ソビエトやアラブ諸国からのエネルギー資源の直接調達を進める田中の追い落としを狙った石油メジャーとアメリカ政府の陰謀だったとする説、または中国と急接近していた田中を快く思っていなかったアメリカ政府が田中を排除する意味があったとする説が田原総一朗の書いた記事などで当時から有力だが、田中による中国との国交成立に反発していた右翼や福田派、その他、田中の政治手法を良しとしない者達が警察と絡んで仕組んだ陰謀説もある。

三木が人気取りと内閣の延命を狙って検察を使い、田中を逮捕したという説もある[12]。また、検察がP-3Cの導入がらみの事件を全日空のトライスター受注をめぐる事件としてロッキード事件を捏造したとする説もある[13]。

アメリカの国家安全保障担当補佐官リチャード・V・アレン(英語版)によると、ニクソン大統領自らP-3Cなどの軍用機導入を迫ったアメリカの狙いを「日本が我々の軍用機を購入すれば、我々の懐を痛めることなく、日本の金で我々の軍事力を増大することができます。加えて、私たちが望んでいた日本の軍事的役割の強化にもつながるのです。」と語っている。

田中の側近だった石井一は、「今でも田中が金を貰ったと信じたくないが、あるとすればトライスターではなくP3Cではないか。P3Cに疑惑が及ばないように何か巨大な圧力が働き田中1人に罪を負わせたのではないか。」と考えている。「軍用機でこういう問題が起こるとね、これは両国政府がもろに被る事になる。国家体制を基本的に揺るがす問題になりかねない。総理大臣1人の罪という様な事にはいかなくなってくる。」とインタビューに答えている。田中の逮捕後アメリカから資料の提供も受け、情報が漏れないように印刷には出さずに秘書に手書きさせ、見立てをまとめていた。

久保卓也は防衛次官時代の1976年2月9日、ロッキード事件の一因である次期対潜哨戒機(PX-L)の国産化が白紙還元された事件のいきさつについて「田中の部屋に後藤田正晴官房副長官、相沢英之大蔵省主計局長が入って協議した結果で、防衛庁は知らされていなかった」と記者会見で語った。これは田中らがロッキード社の要請を受けて国産化を白紙還元したというニュアンスを持つため、大きな波紋を呼ぶこととなった(いわゆる「久保発言」)。後日、当時の状況を確認され、久保の発言に誤りがあったことが明らかとなり、久保は坂田長官から戒告処分を受け、その後の深夜の記者会見において記憶違いを声を震わせながら謝罪することとなる。特に内務省の先輩で、1974年の参院選落選以後、浪人として国政復帰を目指していた後藤田はこの発言に激怒して、久保に事実関係を厳しく確認し、明確な謝罪を要求するに至った。久保が1976年半ばと比較的早い時期に次官を退任したのはこの「久保発言」が原因とも言われている。その後、この事件は報道されなくなった。
誤配説について

ただし、誤配説に対しては『ロッキード社の監査法人であるアーサー・ヤング会計事務所がチャーチ委員会から証拠書類の提出を求められ、すぐに証拠書類を提出したものの、顧客秘守義務の観点から、すぐに手渡してしまったということが判明するとロッキード社との関係上都合が悪いため、事実を隠すために誤配説を流布した』という説もある。[要出典]また当初アメリカ政府が日本の国内事情を考慮して捜査資料の提供を渋っていた事実もある。

アメリカ人関係者の不起訴と秘密工作

また、コーチャン、クラッター、エリオットのアメリカ人3名が起訴されずに嘱託証人尋問調書が作成された点については、日本の司法制度にない司法取引であり反対尋問もできなかったという批判があるが[要出典]、両名に対する嘱託尋問がアメリカで行われるのに際して3名は当初証言を拒否し、アメリカでは外国の公務員に対する賄賂を規制する法律がなくアメリカ国内法では合法だったことや、アメリカ政府が実業界要人を日本へ引き渡すことが非現実的だったため、日本の検察がアメリカ司法機関に嘱託するにあたって、刑事訴訟法第248条に基づく起訴便宜主義という手法を取り、1976年7月21日に布施健検事総長が公訴不提起声明を出し、同年7月24日に最高裁が裁判官会議でアメリカ側証人の刑事免責の保証を決議することで、事実上の免責を与えたのが直接的な理由である(日米犯罪人引渡し条約の発効は1980年、国際贈賄防止条約の発効は更に遅れて1997年)。その点を考慮すれば3名が起訴されなかったことに不審なところはない、という反論もある。[要出典]

なお、嘱託証人尋問調書について下級審では刑事免責については日本の法律とは異なった手続によって行われた証拠調べが日本の法秩序の基本的理念や手続構造に反する重大な不許容事由を有するものでない限りは可能な範囲において受けいれる余地を認め、安易な免責による証言は一般的に違法の疑いがあるが、ロッキード事件ではアメリカの実業界要人を起訴できる可能性がないことやアメリカで公正な手続で尋問が行われたことなどの事情から合理的理由があり適法として証拠として採用された。しかし、丸紅ルートの最高裁では共犯者に刑事免責を与えた上で得た供述を事実認定に用いる司法取引という制度を日本の法律は想定していないとしてコーチャンとクラッターの嘱託証人尋問調書の証拠能力を否定した。もっとも、他の証拠を元に原審の有罪判決が維持されている。

反対尋問が封じられたという点については、反対尋問ができなくても刑事訴訟法第321条1項3号に基いて伝聞証拠禁止の原則の例外を適用して、下級審では証拠採用された。また丸紅ルートの裁判において1977年10月に証拠請求をして1979年2月から始まった検察側による嘱託証人尋問調書の立証が1981年3月に終わってから1年近くたった1982年になって弁護側が正式に嘱託による反対尋問を請求した際に説得的な立証趣旨を示すことができずに裁判所に却下されたという経緯がある(全日空ルートの裁判では検察側がエリオットの嘱託証人尋問調書を立証している間に、弁護側が申請によってエリオットから宣誓供述書を取って実質的な反対尋問を行われた)。コーチャンとクラッターの嘱託証人尋問調書の証拠能力を否定した最高裁も反対尋問ができなかったという理由で証拠能力を否定したわけではない。

前ロッキード副社長で駐日大使のジェームズ・ホッジソンのアメリカ政府あての極秘報告書には、ロッキード事件発覚5日後の2月9日、「疑惑の政府高官名や、証拠を探る情報戦の舞台は今、ワシントンに移っている。ワシントンでこれ以上情報が漏洩しなければ、この問題をすぐに沈静化させることは可能だ。このままうまくいけば、ダメージは日本側の閣僚ら数人の辞任だけで済むだろう」という記述がある。

この電報の9日後の2月18日、日本で第一回検察首脳会議が行われ、アメリカ側に資料の提供を求めていく方針が決まった。その2日後の2月20日、「ロッキード事件によって、これまで進めてきたP3Cの導入が全て台無しになってしまう。深刻な事態だ。今の時点で取り得る最善の方針は、P3Cに関して極力目立たないようにしていくことだ」という報告がなされた。

同日、三木とは別ルート(中曽根康弘がもみ消しを依頼していた疑惑がある)で「アメリカ政府には、この事件に関して慎重に考えることを望みたい。我々の考えでは、名前が公表されれば日本の政界は大騒動になり、我々はその状況を制御できなくなるだろう。最善の方法はアメリカ政府が疑惑の政府高官名が入った資料の引き渡しを、可能な限り遅らせることだ。」と要請があった。

その2か月後、三木に渡された資料にはトライスター関連のものしかなく、P-3Cに関するものはなかった。その後の報告では「ロッキード社が日本政府高官に賄賂を渡したという幹部の告白は、日米双方に試練となった。もし三木首相の求めに応じて資料を全て提供していれば、政治的な同盟さえも失っていたかもしれない。」となっている。

ロッキード事件にかかわる問題点

不自然な金銭の受け渡し場所

調書によればトライスター機を日本が購入するにあたって、田中側はロッキード社から丸紅を通じて4回に渡って計5億円の金銭授受が行われ、その金銭授受を実行したのは、伊藤宏丸紅専務と田中の秘書である榎本敏夫とされている。しかし、その4回の受け渡し場所は、1回目が1973年8月10日14時20分頃にイギリス大使館裏の道路に止めた車の中にて、2回目が同年10月12日14時30分頃に伊藤の自宅付近の公衆電話ボックス前にて、3回目が1974年1月21日16時30分頃にホテルオークラの駐車場にて、4回目が同年3月1日8時ごろに伊藤の自宅にてとなっている。

1回目の受け渡し場所については、当初押収した手帳に、8月10日の午後にイギリス大使館裏にあるレストラン「村上開新堂」に行く旨書いてあったため、その事を追及したところ「村上開新堂に菓子の引き取りに行った」と証言した。しかしその後、法廷で同店の経営者の村上寿美子が、8月10日に同店が夏休みで閉店していたことを証言したため、証言の信頼性が崩れた。

3回目の受け渡し場所の駐車場があるホテルオークラでは、調書の授受時刻にその駐車場前の宴会場で、前尾繁三郎を激励する会が開かれており、数多くの政財界人やマスコミの人間がいた。したがって、調書通りならば、顔見知りと遭遇しうる場所で伊藤と榎本が金のやり取りをしたことになる。また、この日は記録的大雪であり、調書が真実なら、伊藤と榎本は雪の降りしきる野外駐車場で30分以上も立ち話をしていたことになるが、誰の口からも雪という言葉は出ていない。田原総一朗が、伊藤の運転手である松岡克浩にインタビューしたところ、松岡自身は金銭授受の記憶がなかったが、取調べで伊藤の調書を見せられそんなこともあったかもしれないと曖昧に検察の指示に従ったと述べ、さらに検察によって3回も受け渡し場所が変更させられたと証言している。松岡は当初検事の命令に従い、ホテルオークラの正面玄関前に止まっている2台の車を書いたが、その後、検察事務官に「ホテルオークラの玄関前は右側と左側に駐車場がある。あなたが言っていた場所は左側だ」と訂正を求め、しばらくして、また検察事務官がやってきて、今度は5階の正面玄関から1階の入り口の駐車場に変えさせられたとしている。また、当初伊藤も松岡とほぼ同じ絵を描いており、松岡の調書が変更された後、伊藤の調書も同様に変更させられた。田原は「打ち合わせがまったくなく、両者が授受の場所を間違え、後で、そろって同じ場所に訂正するなんてことが、あり得るわけがない。検事が強引に変えたと判断するしかありません。百歩譲ってそのようなことが偶然起こり得たとしても、この日の受け渡し場所の状況を考えると、検事のでっち上げとしか考えられない」としている。

田原が榎本にインタビューしたところ、榎本は4回の授受は検察が作り上げたストーリーだと明言した上で、5億円を受け取ったこと自体は否定せず、丸紅からの「田中角栄が総理に就任した祝い金」という政治献金として、伊藤の自宅で受け取ったと証言している。また、田原は伊藤にもインタビューしているが、伊藤はせいぜい罪に問われても政治資金規正法違反だと踏んでいた。検察から攻め立てられ、受け取ったのは事実だから、場所はどこでも五十歩百歩と考えるようになり、検察のでたらめに応じたと答えている。そして、田原が事件の捜査を担当した東京地検特捜部検事の一人に取材した結果、匿名を条件に「丸紅の伊藤宏が、榎本敏夫にダンボール箱に入った金を渡した4回の場所については、どうも辻褄が合わない。被疑者の一人が嘘を喋り、担当検事がそれに乗ってしまった。いままで誰にも言っていないけれど、そうとしか考えられない」と述べた。さらに、事件が発覚したときに渡米し、資料の入手やロッキード社のコーチャン、クラッターの嘱託尋問に奔走した検事の堀田力は「受け渡し場所はもともと不自然で子供っぽいというか、素人っぽいというか。おそらく大金の授受などしたことがない人が考えたとしか思えない」と語り、その不自然さを認めている[14][15]。

金額の不一致(政治主義裁判)

ロッキード社の工作資金が児玉と丸紅に30億円流れ、そのうちの過半(21億円)が児玉に渡っている以上、5億円の詮議も解明されなければならない事柄であるから当然解明するのは道理にかなっていることではあるが、さることながら金額が多いほうの流通は一向に解明されていない。この方面の追跡が曖昧にされたまま5億円詮議の方にのみ向うというのは「政治主義裁判」である可能性がある。[要出典]

他方で、問題にすべきは児玉が工作資金の使途を明かさなかったことを最大の理由として事件の全容が解明されなかったことであって、そのことをもってロッキード裁判を批判するのはあたらない、という見方もある。[要出典]また、仮に私人である児玉に渡った資金と総理大臣であった田中に渡った資金が存在して金額に大きな違いがあるとしても、賄賂罪を構成する職務権限の観点から同列に並べて考えられるべきではないだろうという意見も多い。[要出典]

公訴権の乱用の可能性

三木と稲葉修法務大臣による「逆指揮権発動」による田中裁判は、公訴権の乱用である可能性がある。「指揮権発動」も「逆指揮権発動」も共に問題があるという観点を持つべきであろう、という主張がある。[要出典]すなわち、一般に、政争は民主主義政治の常道に属する。その政争に対し、検察権力の介入を強権発動すること自体、公訴権の乱用である。同時に三権分立制を危うくさせ、司法の行政権力への追従という汚点を刻んだことになる、というのである。日本国行政の最高責任者である三木はアメリカ政府に資料を請求する親書において、もし何も出なかった時の日本国の体面を考え「If any(もしなんらかのものがあれば)」とする文言を入れることを宮沢喜一外務大臣が進言したのに対して、「あるに決まっているからそんな文言は必要ない」と言って宮沢の提案を退けて最初から見込み捜査に加担し[16]、渡米中だった東京地検特捜部担当検事に国際電話で捜査状況について直接問い合わせたり、司法共助協定締結に関して首相官邸を訪問した検事に対してロッキード事件の起訴時期について尋ねていたことが判明している[17]。また検事総長への指揮権を持つ稲葉は、田中逮捕前に新聞のインタビューで「これまで逮捕した連中は相撲に例えれば十両か前頭。これからどんどん好取組が見られる」「捜査は奥の奥まで 神棚の中までやる」と、今後の大物の逮捕を示唆した上での徹底捜査をコメントをした。

他方で、いわゆる「逆指揮権発動」とは単に三木内閣がロッキード事件の解明に熱心であったことを指すに過ぎず、なんら問題にすべきところはないという反論もある。[要出典]例えば田中逮捕の方針は検察首脳会議で決定され、三木も稲葉もその報告を受けただけである。稲葉にいたっては地元で釣りをしている時に刑事局長から電話でその報告を受けた程だった。後に稲葉は、「あれだけの証拠があっては指揮権で田中前首相逮捕を差し止めることなど無理で、それを恨まれても困る」と発言している。

不当逮捕の可能性

「外為法違反」という別件逮捕で拘束するという違法性、しかもかつて首相職にあったものにそれをなすという政治主義性という問題があるとする主張もある。[要出典]

しかしながら、田中の場合「5億円の受け取り」という一つの行為が外為法違反と収賄罪の双方に関わっていることなどを考えれば、別件逮捕という批判は当たらないとの反論もある。[要出典]

なお1976年8月4日の参議院ロッキード事件に関する特別委員会で、外為法違反による逮捕について外貨予算制度や外貨集中制度の廃止及び大幅な為替自由化によって外為法違反は形式犯に過ぎなくなったと印象付けたい質問が出たが、政府は「1975年に総額約20億円の密貿易に絡む不正決裁事件で20法人44人を検挙し、その内10人を身柄拘束していた例が存在する」「貿易に頼るという立場に依存度が強い日本において為替管理等を含む外為法の規制が有効に機能しなければ国際的な立場をとることができず、現行の外為法は十分有効に機能している」「外為法違反で検察庁が求公判している事例は多い年で63名、少ない年で5名ある」と答弁している。

“作文”調書の可能性

各被告の供述証書(検事調書)が検事の作文に対する署名強要という経緯で作られた事が判明しており、この様な検事の暴走行為は下記にもあるように他にもみられることではあるが、まさに「権力犯罪」、「国策裁判」と考えても差し支えない、という主張もある。[要出典]しかし、検事調書の作成にあたって一問一答を忠実に記録するのではなく、検事が供述をまとめた調書に被告(被疑者)の署名捺印をさせる、という手法は日本の刑事裁判に一般的なもので、その是非はともかくとしてロッキード事件に特有のものではない。また一般にロッキード裁判批判論では、丸紅の大久保利春が公判でも大筋で検事調書通りの証言を行なった事実が無視されている。

流行語

事件の捜査や裁判が進むにつれ、事件関係者が発した言葉や事件に関連した符丁が全国的な流行語となった。

(まったく)記憶にございません

衆議院予算委員会にて最重要参考人と目される小佐野賢治が喚問を受けた際、偽証や証言拒否を避けつつ質問に対する本質的回答をしない意味をもつこの発言を連発。これ以降は他の証人も同等の言葉を多用するようになった。

ピーナツ(ピーシズ)

賄賂を受領する際の領収書に金銭を意味する隠語として書かれていたもの。100万円を「1ピーナツ」と数えていた[注 10]。「ピーシズ」はpieces、つまりピースの複数形[注 11][注 12]。

ハチの一刺し

田中の元秘書で、事件で有罪となった榎本敏夫の前妻・榎本三恵子が榎本に不利な法廷証言を行った心境について述べた言葉。

よっしゃよっしゃ[18]

田中が全日空への工作を頼まれたときに発したとされる言葉。なお、秘書の佐藤昭子は「越後人はこのような言い方はしない」と否定している。

日本国外における「ロッキード事件」

ロッキード社は日本だけでなく多数の国で機種選定にからむ贈賄を行なっていた。
詳細は「:en:Lockheed bribery scandals」を参照

イギリスの旗 イギリスでは、エドワード・ヒース首相が1972年9月16日から9月19日の日程で来日。期間中、昭和天皇との会談や日光旅行などのほか、田中角栄首相との二度にわたる日英首脳会談が設定された[19]。この際、事件で逮捕された田中に対して、イギリスのロールス・ロイス社製ジェットエンジンを搭載したロッキード L-1011 トライスター機の購入を強力に働きかけていたことが、2006年に開示されたイギリス政府の機密文書で明らかになった。

オランダの旗 オランダでは、オランダ空軍における戦闘機(F-104を売り込んでいていた)の採用をめぐって、女王ユリアナの王配ベルンハルトにロッキード社から多額の資金が流れ込んでいたことが明らかになった。これは日本での汚職事件と相まって対外不正行為防止法を制定させるきっかけとなった。

イタリアの旗 イタリアではC-130の採用を巡り、ジョヴァンニ・レオーネ大統領が首相在職中にロッキード社から賄賂を受けていた疑惑が明るみに出て、レオーネは任期を半年残して辞任に追い込まれた。

サウジアラビアの旗 サウジアラビアでは1970年から75年にかけてロッキード社から武器商人アドナン・カショギに1億ドル以上の「手数料」がわたっていた。

ロッキード社スカンク・ワークスの責任者であったベン・リッチの著書によると、1950年代から70年代にかけて西ドイツやイギリス領香港などの国々もに工作が行われていた。
検察

(かっこ内は主な後職)

法務省
    法務大臣 稲葉修
最高検察庁
    検事総長 布施健、次長検事 高橋正八
    刑事部長 佐藤忠雄
    担当検事 伊藤栄樹(検事総長)、 江幡修三(検事総長)
東京高等検察庁
    検事長 神谷尚男(検事総長)、次席検事 滝川幹雄(大阪高検検事長)
東京地方検察庁
    検事正 高瀬礼二(東京高検検事長)、次席検事 豊島英次郎(名古屋高検検事長)
東京地検特捜部
    部長 川島興 (大阪高検検事長)
    副部長・主任検事 吉永祐介(検事総長)、副部長 永野義一(最高検検事)、副部長 藤本一孝(新潟地検検事正)(発覚時副部長)、副部長 石黒久晫(名古屋地検検事正)(藤本と交代)
    特捜部検事   
        河上和雄(最高検公判部長)、村田恒(名古屋高検検事長)、松田昇(最高検刑事部長、預金保険機構理事長)、東条伸一郎(大阪高検検事長)、堀田力(4月から参加)(法務省官房長)、小林幹男(仙台地検検事正)、小木曽国隆(さいたま地検検事正)、佐藤勲平(福岡地検検事正、公正取引委員)、浜邦久(東京高検検事長)、友野弘(宇都宮地検検事正)、神宮寿雄(昭和58年東京地検検事辞職)、宮崎礼壹(内閣法制局長官)、太田幸夫 (東京高裁部総括判事)、廣畠速登(長崎地検検事正)、村田紀元、山部力、近藤太郎、寺田輝泰、水流正彦、清水正男、荒木久雄
    特捜部資料課長 田山市太郎

影響

防衛庁では1968年から、海上自衛隊が使用するロッキード社製の対潜哨戒機P2V-7及びP2V-7を原型とし川崎重工業が改造開発した[20]P-2Jの後継となる次期対潜哨戒機 (PX-L) の選定に着手、当初川崎重工業による国産機とアメリカ海軍で採用されていたロッキード社のP-3Cの2案が有力視されていたが、1972年10月に国産方針の白紙撤回が発表されP-3Cの選定が事実上決定した。しかし、ロッキード事件の発覚により政府はPX-Lを全て白紙に戻し、一から選考し直す方針をとった。そのため海上自衛隊はPX-LまでのつなぎとしてP-2Jを増産することとなった。その後再度選定が行われ、1977年には再度P-3Cに決定した。』

シリーズ「日本の仏教」 第5回:時代や社会状況によって変容した天台宗

シリーズ「日本の仏教」 第5回:時代や社会状況によって変容した天台宗
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b09405/

 ※ 今日は、こんな所で…。

『平安時代以降、日本で「ブッダのまことの教え」として流布したのは、天台宗と真言宗という2種類の密教だった。第5回は、さまざまな状況に対する適応能力の高さから勢力を伸ばし、その後の日本仏教の基盤となった天台宗について解説する。

変化する可能性を持った天台宗の教え

9世紀(平安時代)以降、日本の仏教は、真言宗、天台宗という、異なる特性を持つ2種類の密教を中心にして展開していった。仏教史の立場から見れば、インドで最後に現れた密教が、日本では「ブッダのまことの教え」として最初に流布したのである。

これらのうち真言宗は、純然たる密教の教義をコアにしているため、その後の歴史の中でもほとんど変容することなく強固に教えを守り続けた。一方、天台宗は、根本的に異なるさまざまな仏教思想を、独自の論理によってつなぎ合わせ、その全体を密教的雰囲気で覆うことによって生み出された複合的思想であったため、時代や社会状況によってさまざまに変化する可能性を含んでいた。日本仏教の本質を理解するためには、この天台宗が後世に与えた影響をしっかり押さえておかねばならない。

京都の近郊、比叡山を拠点とする天台宗が、その後の日本仏教に与えた影響は非常に大きく、しかも多岐にわたる。それを3つの項目に分けて解説しよう。

出家の儀式を廃止:あいまいになった僧侶と俗人の区分

前回までの記事で紹介したように、日本仏教は初めから、サンガ(ブッダの教えに従って暮らす僧侶の自治組織)のない特殊な仏教として出発したが、それでも「出家するための儀式」は明確に定められていた。それは、鑑真が中国から持ってきた、仏教独自の法律集「律蔵」にのっとったもので、現在も全世界の仏教国で共通して執行されている儀式である。サンスクリット語では「ウパサンパダー」と呼び、漢字では「受戒」と訳す。

日本仏教の僧侶は一種の国家公務員であって、律蔵に基づいて運営されるサンガを持つことは許されなかった。しかし、律蔵の中のウパサンパダーだけはそのまま取り入れられ、僧侶と僧侶でない人を区別するための基準として用いられたのである。日本におけるウパサンパダーの位置づけは、国家公務員の認定試験のようなものであった。

国家権力直属の国家公務員認定試験であるなら、当然ながらそこには人数制限が課されることになる。ウパサンパダーを通過して正式な僧侶になることのできる人の数は、政府によって制限されていたのである。

日本の首都が平安遷都で奈良から京都へと移ってから10年ほど、9世初頭に京都近郊の比叡山を拠点とする新興勢力として出発した天台宗にとって、この「人数制限」はやっかいな問題であった。なぜならそれは、奈良を中心とした旧来の仏教・南都六宗にとって有利な既得権だったからである。

この障害を排除するため、天台宗は「ウパサンパダーを通過しなくても、人はそれぞれの心がけだけで出家することができる」といった新たな基準を設定した。そして天台宗の勢力が拡大するにつれて、この潮流はほぼすべての仏教界に浸透していった。天台宗のライバルであった真言宗でさえ、やがてこの流れを受け入れるようになった。ウパサンパダーが国家権力と結びついた儀式であった日本仏教にとって、ウパサンパダーの縛りから逃れることが、自由な宗教活動への必須要件だと考えられたのである。

しかし「ウパサンパダーの放棄」は、別の見方をすれば「誰もが勝手な方法で僧侶としての身分を手に入れることができる」ことでもある。そのため日本仏教は、出家した僧侶と、一般社会で暮らす俗人との間に明確な区分基準がなくなってしまった。

現在でも、出家のための儀式は宗派ごとにばらばらで、律蔵に基づいたウパサンパダーを、出家の儀式としている宗派はほとんどない。他の仏教国から見て、ウパサンパダーを通過していない人が僧侶として認定される日本仏教の状況は、極めて奇異に見えるが、そこにはこういう歴史的背景があるのである。
あるがままでよい:矛盾を受け入れる徹底した現状肯定

天台宗の思想は、釈迦牟尼(しゃかむに)以来の仏教の長い歴史の中で生み出されてきた無数の教えを全て包括しようとするものである。もともと起源が異なる複数の思想を一つにまとめようとするのであるから、当然ながらそこには多くの矛盾が生じてくる。それでもそれを「一つの教義」として承認するためには、「矛盾は矛盾のままで置いておくのが正しい」という理論が必須となる。

こうして天台宗では、徹底した現実肯定の姿勢が主流となり「現前の状態が、そのまま悟りの状態である」「煩悩がそのまま悟りである」「有機物、無機物を問わず、この世のあらゆる存在はブッダとなる要素を含んでいる」といった、特異な思想を最澄(767〜822)の弟子たちは主張するようになった。

これは、「修行によって煩悩を除去した時に初めて我々は悟りの境地に到達することができる」とした釈迦本来の教えからははるかに隔たった思考である。しかし、日本古来のアミニズムと親近性が高く、また、「全宇宙が神秘的エネルギーの現れであって、個々人がその宇宙エネルギーと合体していることを自覚するのが悟りだ」という密教本来の思想ともさほど違和感なく合致するものであった。

そのため、このような天台宗独自の極端な現実肯定思想もまた、ウパサンパダーの放棄と同じく、天台宗の勢力拡大とともに、日本仏教界全域に広がっていった。この、「あるがままでよい」という教えは、現代の日本仏教界においても広く流布しており、日本人の思考形成にも大きな力を及ぼしている。

極端な肉体的修練:ブッダの世界に近づくためのハードル

さまざまな仏教思想の複合体である天台宗において、「出家した僧侶は、どのような修行をすれば悟りを開くことができるのか」といった問題に明確に答えることはできない。しかしその一方で、全体を密教的雰囲気で覆っている以上、「ある特定のハードルを越えた人だけがブッダの世界に属するのであり、それ以外の者は、そうしたブッダの世界に属する特定の人の力にすがって幸福を願わねばならない」という密教独自の階層構造を設定せざるを得ない。密教経典だけをベースにした修行方法では「仏教思想の複合体」としての天台宗の独自性を示すことはできず、かといって、「仏教思想の複合体」であることを重視すると具体的な修行方法が定まらないのである。そのため天台宗では,自分たち独自の修行方法を新たに創設した。

その修行は、修行者がブッダの世界に近づいたことを、目に見える形で示すものでなければならない。そのため、「常人では越えることができないが、ごくまれに越えることのできる人が現れる」といったレベルの厳しさで設定される必要があった。この要請に応じて、天台宗では達成困難なさまざまな修行方法が案出され、それを通過した人は、ブッダの世界に近づいた聖人として、一般信者から大いにあがめられた。このような極端な肉体的修練は、前述した極端な現実肯定、すなわち「あるがままでよい」という思考とは正反対の立場にあるが、そういった矛盾もまた、より高次の現実肯定によって解消されると考えた。いかなる論理矛盾も「あるがままでよい」といった包括的肯定論によって説明可能になると言うのである。

このように複合的で、かつ変容性の高い天台宗が、当時の首都であった京都において勢力を伸ばしたことにより、この宗派を基点としてさまざまな仏教思想が生み出されていくことになる。この点から見て、良しあしは別としても、天台宗を日本仏教の基盤と考えることは間違いではない。次回は、二大密教で成り立っていた日本仏教が、さまざまに分岐していく様を語る。

バナー画像=比叡山延暦寺の総本堂である根本中堂(PIXTA)

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佐々木 閑SASAKI Shizuka経歴・執筆一覧を見る

花園大学文学部特任教授。1956年福井県生まれ。京都大学工学部工業化学科・文学部哲学科を卒業。同大学院文学研究科博士課程満期退学。博士(文学)。カリフォルニア大学留学を経て花園大学教授に。定年退職後、現職。専門はインド仏教学。日本印度学仏教学会賞、鈴木学術財団特別賞受賞。著書に『出家とはなにか』(大蔵出版、1999年)、『インド仏教変移論』(同、2000年)、『犀の角たち』(同、2006年)、『般若心経』(NHK出版、2014年)、『大乗仏教』(同、2019年)、『仏教は宇宙をどう見たか』(化学同人、2021年)など。YouTubeチャンネルShizuka Sasakiで仏教解説の動画を配信中。』

なぜ日本の情報機関は世界に劣るのか 歴史から見る

なぜ日本の情報機関は世界に劣るのか 歴史から見る
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/29257

 ※ 今日は、こんな所で…。

 ※ kindle版が出ている…。

 ※ kindle版のサンプル本をDLして、そこからキャプチャした画像を、貼っておく…。

 ※ ざっと目次を見たが、参考になりそうだったので、購入した(kindle版)。

 ※ ただし、kindle版と言っても、kindle端末で読むわけではない…。

 ※ kindle for PCソフトで、もっぱらディスプレイで読む。

 ※ ちょっと、気になる事項は、直ぐにググったりできるから、しごく便利だ…。

 ※ kindle端末の方は、引き出しに入ってる…。充電切れで、死んだ状態で…。悲しげに、パッテリー切れの表示を出しながらな…。

『インテリジェンスという言葉に接する時、どんなイメージが浮かぶだろうか。スパイ映画やサスペンス小説での情報合戦を連想される向きも多いだろう。本書『日本インテリジェンス史―旧日本軍から公安、内調、NSCまで』(中公新書)によると、国家の安全保障に寄与して政策決定を支援する機能を持つのがインテリジェンスの本質である。こうした基礎概念の確認を含めて、日本のインテリジェンスを深く考える本である。戦後史の中で日本のインテリジェンスにおける議論がどのような道をたどってきたのかを丹念に記している。
(AlexLinch/gettyimages)

世界情勢とともに変わる日本のインテリジェンス

 本書を一読すると、日本のインテリジェンス・コミュニティの模索は、戦後すぐから始まっていることがわかる。旧軍出身者が連合国軍総司令部(GHQ)参謀第二部(G2)に協力する形で米国に近づいていくが、真の動機は旧陸軍の復活だった。

 G2の支援を受けて、有末精三・元陸軍中将らが暗躍する様子が示される。著者はこう記す。
 有末らは表面上、G2に協力していたものの、その本心は日本軍の再建にあり、利用できるものは何でも利用する方針のようであった。そのためG2と競合関係にあったCIAは、有吉らの情報は不正確で役に立たず、組織も中国に浸透されていると警告を発していた。

 その後、マッカーサーの退任や関係者の異動で米側の支援がなくなると、こうした動きも立ちゆかなくなる。一方でGHQは日本国内の共産主義活動に関心があり、G2が日本国内の共産主義活動の調査に並々ならぬ意欲を示していたことが本書に記される。そうした中で、吉田茂政権の下で公安調査庁ができる。

 当初の任務はソ連から引き揚げてくる日本人の調査で、京都の舞鶴に拠点を設け、調査官が聞き取り調査を行うというものであった。当時は少なからぬ日本人がソ連への協力を誓約させられて帰国してきたので、そのようなソ連側協力者の選別と、ソ連国内の状況、特に軍事や経済に関する情報を収集したようである。これが公安調査庁の活動の原点となった。

 その後も吉田茂と盟友の緒方竹虎が日本のインテリジェンスに並々ならぬ関心を持ち、中央情報機構を作ろうと試みる。そこには世界的な動きがあった。著者はこう記す。
 当時の世界的な潮流は、東西冷戦を戦い抜くために、政治指導者に直結する独立した中央情報機関の設置にあった。

 米国では1947年に大統領傘下の組織として中央情報庁(CIA)が創設されている。同じ敗戦国のドイツでも、1946年には元独軍の情報将校ラインハルト・ゲーレン率いるゲーレン機関が設置されていた。そうなると、日本政府内にも独立した情報機関が構想されたのは自然の成り行きであろう。』

『こうした時勢を受けて、49年春頃に設置されたのがZ機関で、日本国内で反共的な秘密工作を行うようになった。さらにZ機関の長だった米陸軍中佐のジャック・キャノンから米CIAのような政治指導者直属の情報機関の設置を薦められたこともあり、「日本版CIA」調査室が設置される。

 しかしこうした動きがありながら、当時のインテリジェンス・コミュニティ構想は他国並みには発展しなかった。なぜなら組織が各省出身者の「寄り合い所帯」であり、官庁間の争いが先鋭化していたためである。その後、「日本版CIA」調査室は内閣調査室(内調)となり、内閣のための情報組織という色彩が強くなる。

浮き彫りになる根本的な問題

 そうした中で冷戦期は日本がサンフランシスコ講和会議で独立し、防衛庁・自衛隊が発足して再軍備を果たすと、警察がインテリジェンスの中心になっていく。ソ連を始めとする共産圏の情報収集やソ連から帰国してくる引揚者の聞き取りなどを行い、他省庁との情報共有も行うようになる。しかし、秘密保護法制やスパイ防止法などは整備がなされないままで、旧ソ連のスパイが日本で情報戦を展開するなど、重要な情報が流出する結果を招いている。

 76年9月の旧ソ連の戦闘機「ミグ25」が北海道の函館空港に強行着陸し、パイロットのヴィクトル・ベレンコ中尉が米国に亡命する事件が起きる。一定の年代以上の人の中には「ベレンコ中尉亡命事件」として記憶している人も多いだろう。当初は地元の北海道警が対応を行い、本来すぐに対応すべき航空自衛隊が関与するのは後になってからである。著者はこう指摘する。
 ベレンコ事件は警察が国内事件として処理していた。日本における対外情報機関の空白と、軍事情報の領域を警察がカバーするという特殊性を際立たせるものになった。

 その後、83年9月に起きた大韓航空機撃墜事件の際にも、日本側が通信傍受を行い、その内容を米国側に提供したにもかかわらず米国側が主導して発表し、しかもそれが発表のわずか1時間前に伝達されるという日本の立場をないがしろにされるような事例も起きている。これについて著者はこう分析する。
 冷戦期における日本のインテリジェンスの根本的な問題は、日米同盟の下で日本が独自の外交・安全保障政策をとる必要性がなかったことと、さらに構造的な問題として日本のインテリジェンス・コミュニティが米国の安全保障政策に組み込まれていたことである。冷戦期の日本のインテリジェンスは、米国の下請けとして機能してきたといえる。

 さらにこうも指摘する。

 冷戦期の日本のインテリジェンス・コミュニティは、他国のように、恒常的に政治指導者の政治判断に有益な情報を提供できていなかった。また政治指導者の側もインテリジェンスにあまり期待していなかったのではないだろうか。その根本的な原因はやはり内調の規模や権限があまりにも限定されており、有益な情報活動が行えなかったことだろう。』
『必要性高まる情報機関へのリテラシー

 こうした経緯から、情報機関の重要性が認識された結果、その後平成、令和と時代を経る中で、政府はインテリジェンス・コミュニティの整備を行ってきた。そして第二次安倍晋三政権での特定秘密保護法や国際テロ情報収集ユニットの整備につながる。

 著者があとがきで記すように、日本のインテリジェンス・コミュニティの形成過程を歴史的に踏まえた書物はこれまでなかった中で、本書は詳細な調査や関係者への取材を重ねて丁寧にまとめられている。情報機関に関する日本国民のリテラシーを向上させてくれる貴重な力作であり、公務員や企業関係者も含めて必読の一冊である。』