余談。 明治38年9月に、日比谷で暴動が起きた。

余談。 明治38年9月に、日比谷で暴動が起きた。
https://st2019.site/?p=20311

 ※ 日清戦争の講和条約である「下関条約」では、「巨額の賠償金」を獲得することができた。

 それを「元手」にして、「八幡製鉄所」なんか建てて、日本経済の「構造」を、「軽工業(繊維工業なんか)」中心から、「重工業」へと移行することができたという話しは、あまりに有名。

 中学の「社会」で、習っただろ?(教えていなければ、教師の怠慢。自分で、補おう)
 しかし、日露戦争の時は、実質は「ほぼ引き分け」であったし、「列強の干渉」も入ったため、「賠償金」は獲得できなかった…。

 それを、「不満」に思うヤカラ達及びそれに便乗して騒ぐ有象無象(自分たちの身内、親類、縁者、友達が戦死・負傷しているのに、何たることだ!)が、騒いで「暴動」となった。

 これも、あまりに有名な話し。「日比谷焼き打ち事件」とか、称しているようだな…

『ポーツマス媾和条約の内容が気に食わないというのだ。いったいその元気満々の野郎たちはどうしてそれまで徴兵されず、満洲に送られていなかった?

 これが「輸送(補給)手段の限界」というやつなのだ。

当時の日本に馬と輜重荷車が余っていて、軽便鉄道資材も十分にあったなら、それら暴徒たちを余すところなく徴兵して後備兵として満洲送りにしてしまい、最前線警備中の現役兵と交替させて、現役徴兵の帰郷復員を急がせることぐらいは、簡単に実現できたのである。』

三増峠の戦い~信玄が北条を返り討ち!山岳戦で見せた火の如し機動力

三増峠の戦い~信玄が北条を返り討ち!山岳戦で見せた火の如し機動力
https://bushoojapan.com/bushoo/takeda/2016/12/15/89334

『【編集部より】

三増峠の戦い(みませとうげのたたかい)とは、永禄12年(1569年)10月8日、小田原城を攻撃していた武田信玄が包囲を解いて甲州へ向けて撤退。それを追撃してきた北条軍を三増峠付近(現在の神奈川県西部の愛川町)で迎え撃ち、勝利した戦いである。信玄の戦上手を知らしめる戦いであるとともに、のちの家康に大勝する三方ヶ原の戦いにつながる戦法として戦国マニアに知られている戦いだ。このマニアックな三増峠の戦いを、ブログ「マイナー・史跡巡り」の筆者の玉木 造さんが現地を訪れて詳細にレポートした。そのルポと解説した記事を転載させていただいた。早速ご覧いただきたい。』

『【本文ここから】

三増峠の戦いをレポートしたいと思います。
武田信玄や、北条氏康の大ファンであれば、良くご存じの大変有名な大戦(おおいくさ)ですね。
戦死者の数が、4000人も出た戦は、山岳戦では、トップクラスに大きいと思われます。
それと、この戦(いくさ)を取り上げたかったのは、実は武田信玄は、この戦をしたくて、わざわざ軽井沢方面から関東を南下縦断して、小田原攻めをしたのではないかと私は思っているからです。
50歳の老練な信玄公の、関東の雄である北条氏へ見せつけた知略と山岳戦の上手さ!
まず、この戦にいたる背景を説明します。

お好きな項目に飛べる目次 [とじる]

戦いに至る背景
コラム 東光寺の紅葉
武田信玄の小田原攻め
信玄の山岳戦~三増峠の戦い

戦いに至る背景

1.甲相駿三国同盟

さて、下の図を見て下さい。上段の勢力図にあって、下段に無いのが「今川家」です。そう、今川義元が桶狭間の戦い(1560年)で織田信長に殺されてから10年後の勢力図には、今川領である静岡県は、武田家と徳川家の版図に塗り替えられているのです。

実は、甲斐の武田信玄と相模の北条氏康、駿河の今川義元との間で、桶狭間の6年前である1554年に甲相駿三国同盟を結んでいました。当時、武田は隣国信濃(長野県)が気掛かり、北条は隣国武蔵(東京・埼玉)、安房(千葉)が気がかり、今川は織田等の西側が気がかりという隣国が気になる三国が固く結んだ同盟がありました。この同盟のお蔭で今川義元は後方の憂い無く、上洛を開始した訳ですが、桶狭間で討ち取られてしまうという失態を犯した訳です。

単なる約定の交換だけでなく、下の図のように、自分達の嫡子の処に、娘を嫁がせるという政略結婚付です。このように単なる紙切れの約束にしておかないことで、強固な約定となる訳ですが、信玄も氏康も自分の息子や娘が、この同盟が破られるとき、こんなになってしまう、代償の大きさがここまでとは思っていなかったでしょうね。後で詳細をお話します。

今川義元の息子は氏真ですが、これは暗愚で、蹴鞠だけ、やたらと上手いがそれ以外はダメという人物だったらしく、人心は離れます。
一方、「敵に塩を送る」(上杉謙信が武田信玄に塩を送った)の話で、海が無い武田領は有名で、信玄は海がある土地に版図を拡大するのが夢でした。
桶狭間での今川の失態は、信玄が駿河を手中にして、海に出る千載一遇の好機です。早速彼は、駿河侵攻の計画を進めようとします。

2.駿河侵攻

当然、そうなると信玄は、三国同盟を破棄することになるのですが、これに大反対するのは、長男の武田義信です。そう、右図にあるように、この同盟で、彼は今川義元の娘を妻として迎え入れているのです。当然彼は駿河侵攻による今川撃滅に大反対します。同盟破棄の障壁第1弾です。

この義信、名前にも「義」があるように、義に篤く、かなり優秀かつ人望のある人物だったらしく、彼が駿河侵攻反対を強く主張すればするほど、信玄は慌てます。それは信玄がかつて、自分の父親である信虎を国外追放したように、下手をすれば自分も義信により国外追放となる、そこまで行かなくても、強固な武田軍団が2つに割れてしまう。

困った信玄は、結局義信を幽閉します。そして2年後に義信は幽閉先で死ぬのです。

義信が幽閉されていた東光寺(甲府市)

父親を追放してでも、優秀な嫡男を殺してでも、やりたいことをやる。極悪非道の信玄と、謙信は揶揄します。「人は石垣、人は城」と家臣、人民に情が厚い信玄は、その代わりというか、肉親には厳しかったようですね。
そして、信玄は徳川家康と共謀し、駿河侵攻に着手します。
予想通り、今川氏真は、ほぼ総崩れです。駿府(静岡市)からほうほうの体で、掛川へ逃げていきます。

ここで同盟破棄の障壁第2弾が発生します。

氏真の妻は北条氏康の娘で、早川殿と言われました。かなり美人で気立てが良い娘らしく、現代のゲームのキャラクターにも大体美人に描かれております。
彼女は、この時今川氏真に従い、掛川へ逃げたのですが、乗り物も用意できず、徒歩で、ボロボロになって逃れたと言います。

これを聞いて怒ったのは、北条氏康です。そりゃそうです、大事な可愛い娘が大変なことになったのですから。同じ娘を持つ父親として共感出来ます。(`A´)
当然、怒りの矛先は信玄に向かう訳です。

さてその後、色々と北条は武田軍の駿河侵攻が上手く行かないよう妨害をします。長くなるので詳細は、後日別シリーズのブログに譲りますが、それらの妨害に会いながらも、結果的には戦国大名としての今川家を滅ぼし、信玄の思ったようになっていくのです。

3.信玄の小田原攻め

さて、今川家は崩壊しましたが、この駿河侵攻において、北条の数々の妨害策に煮え湯を飲まされた信玄も、このまま黙って北条を野放しには出来ません。特に北条はこの三国同盟が無くなってから、上杉謙信と約定を結び、連携して武田の国境を脅かす危険性が高まってきました。

そこで信玄は、北条軍に釘を刺しに行くことを決意します。

信玄としては、駿河を手中に収めることは、単に海に出たかったということもありますが、西上し、上洛を果たすためにも、東海道上にあるこの駿河を押えておきたかったのでしょう。海上輸送による上洛軍援護のための水軍を編成させたことからも、このことは明らかです。

ということは、信玄が上洛する最中に、北条軍が自分の領土の東側から攻めてこられては困るのです。背中から襲われる形になりますので。
したがって、一度、北条軍には武田軍の底力を知って、武田軍を畏れて貰う必要があると考えたのでしょう。

そこで、北条氏の版図内にて、武田軍の示威軍事行動を起こすのです。
この行動の詳細と、三増峠の戦いにおける両軍の勝敗については、長くなりますので次の章にて書きたいと思います。

コラム 東光寺の紅葉

余談ですが、武田信玄の嫡男、義信が廃嫡された後、幽閉され亡くなった東光寺に行ってきました。
前にも書きましたが、義信は義に篤く、勇に優れた男だったらしく、この駿河侵攻についても、義を通しただけと考えているのでしょう。「もしも」は歴史の禁句ではありますが、武田家が武田勝頼では無くて義信が継いでいたら、また違う大きな歴史の流れの変化があったかもしれません。

しかし、時代はこのような重要な人物であっても、メインストリームから外れると忘れてしまうものなのですね。彼が幽閉された東光寺に行ってつくづく感じました。
紅葉の綺麗なこの季節、東光寺の前の昇仙峡に向かう国道は大渋滞でしたが、義信のこの東光寺には、私以外誰一人居ませんでした。

しかし、義信は、来訪してきた小生ごときにも、写真のように、京都の寺院にも勝るとも劣らない美しい紅葉の庭園を見せてくれました。
それはまさに来訪に対する返礼をしてくれる「義に篤い」男にふさわしい美しい紅葉だと感心しました。

【三増峠古戦場碑】神奈川県愛甲郡愛川町三増2631
【東光寺】山梨県甲府市東光寺3-7-37

武田信玄の小田原攻め

三国同盟破棄を楯に、駿河侵攻の邪魔をする北条氏康に、一発ガツンと食らわせないといけないと思った武田信玄は、駿河侵攻の翌年1569年8月に2万の軍を率い、小田原攻めを開始します。

1.武田軍の関東平野南下

以前、私は北条氏康の初陣を取り上げたブログ「北条五代記③ ~小沢原の戦いと勝坂~」で、氏康をカメだ!と言いました。それは彼の幼少期の過ごし方が、実は現代のひきこもりに近かったからです。しかし、彼の欠点に見えたこの性格が、逆に北条五代の中で、一番強い北条軍を「籠城作戦」という、カメが甲羅にひきこもるような戦い方で形成していきます。

氏康は、弱みを強みに転換できた成功者だと思います。
氏康以来、北条家の戦い方はカメ、つまり自分と同格以上の敵に攻められると、小田原城という甲羅にひきこもる というDNAが受け継がれたのですね。

自身の城を作らず、「攻撃は最大の防御」と、戦は必ず出て行ってしていた武田信玄とは、180度違う訳です。

勿論、武田信玄は、そんな氏康の戦い方等、とうにお見通しです。

武田軍2万の小田原攻めのルートを見て下さい。

信玄は、わざわざ領内を北上して、佐久から今の軽井沢を通り、碓氷峠を超えて、北条の領地に関東の北側から入ります。

そして、長々と南下する進軍ルートを取っています。

これは、北条が直ぐに城に籠って戦おうとする癖を武田軍は良く分かっているため、北条領内をなるべく長い距離進軍することによって、北条氏康本体を小田原から引っ張り出し、どこか城外にて決定的な打撃を与えられるような戦がしたかったのだろうと私は想像しています。

このような自分達を「餌」にした誘き出し作戦は信玄の得意なところであり、最大の成功例は、徳川家康を浜松城から引き出し、三方原で大勝した「三方原の戦い」ですね。
これをこの小田原攻めの進軍中にやりたかったのだと思います。

さて、北条氏康には沢山息子が居ましたが、今回は上から3人の息子が大活躍し、北条が三増峠の戦いで、大敗北を喫する要因をせっせ(?)と作ります。

1番上の子が氏政、次が氏照、3番目が氏邦です。この3人の息子+氏康が今回の信玄の戦相手です。

まず、信玄は、氏邦から嚙みつきます。

2.鉢形城包囲(小田原攻め①)

氏邦は、北条の北関東最大の拠点、鉢形城の城主です。この城、兎に角、断崖上の天然の要害に立地しているため、非常に堅固ですし、歩き回るのに疲れ切る位、大きい城郭です。

鉢形城の空堀

そもそも、武田軍は北条のカメ戦法には嫌気が差していますので、鉢形城を囲んで、お父さんの氏康が援軍を率いて、どこかで決戦が出来る事を半分期待して包囲しましたが、残念ながら、お父さんは小田原から動く気配は無し。ちょっと冷たいですが氏康もこの信玄の考え位は見通していたでしょう。

鉢形城へ攻撃を仕掛けるも、固いカメの甲羅のように、びくともしません。鉢形城も北条軍第1級の城です。
武田軍は、ゆるゆると囲みを解き、この城をけん制しつつも、主力軍は、また関東を南下して行きます。

鉢形城本丸から荒川越しに寄居方面の臨む(こちら方面はかなり堅固)

3.滝山城攻撃(小田原攻め②)

次のターゲットは、八王子にある滝山城です。

また脱線しますが、この滝山城侵攻については、以前拙著のブログ「滝山城と八王子城 ~北条氏の滅亡~」にも詳細書きましたので、参考にしていただければ幸いです。
この城は、2番目の息子、北条氏照が守る城であり、鉢形城程の規模はありませんが、中はギュッと密度の高い防御力を持つ平城です。

滝山城から信玄が陣を敷いていた拝島方面を臨む(滝山城から北東側)

しかし、信玄、流石にこの城に対し、鉢形城と同じ轍は踏まないのです。
何としても氏康を小田原から引っ張り出したいのですから、同じ戦法では見くびられます。

ちゃんと滝山城の長所・短所は調べてあります。「敵を知り、己を知れば、百戦百勝」とは信玄も良く言ったものです。

この平城、北側ならびに東側に対しては、非常に堅固に作られた城です。ところが、南側、西側については、意外と脆いです。これは、信玄でなくても、皆さん実際に城跡に行かれると良くわかります。

上記の写真は、滝山城址から北側を臨んだところです。高さがあって強固な感じが分かります。
城の西側は八王子の高尾山や小仏峠、陣馬山等の山々が連なっており、これらの山々を超えて、この城に攻め入ることはあり得ないという想定なのでしょう。
ちなみに信玄は、右上の写真の上の方、拝島というところに陣を張り、滝山城とにらみ合います。これは滝山城側としては想定内の布陣です。

滝山城攻防戦

信玄は、両軍多摩川を挟んでにらみ合っている最中、今の、大月市に拠点を置く部下である小山田信茂に下知して、1千人の軍に小仏峠を越えさせ、滝山城を南西側から急襲させます。(上図)

これは滝山城にとっては、想定外です。何せ小仏峠から大軍は攻めてこないとの前提なのですから。

滝山城の守備兵は2千人ですが、得意のカメ戦法が崩されそうです。
そこで慌てて一部を迎撃に出して、今の高尾駅の辺りで、小山田隊と戦をしますが、あえなく敗退(廿里の戦い)。小山田隊の進撃を食い止めることが出来ません。

小山田氏の領地は、滝山城と隣り合わせなので、この城について調べ尽くしているでしょう。そのまま滝山城の弱点である西南から押し寄せ、一気呵成に攻めます。
正面に武田軍2万が構えていますし、滝山城は、甲羅を叩き割られました。

落城寸前まで来ます。北条氏照切腹か?それとも2千の兵力で、正面の10倍の武田軍に向かって討死するか?

ところが、信玄は、急に攻撃を止め、兵を纏めてまた南下を始めます。
彼の今回の目的が、北条氏康の息子の誰かを討ち取ることでも、滝山城を奪取することでも無く、圧倒的軍の強さの違いが示せれば目的達成なのですから。

氏照を窮地に追い込めば、氏康が小田原を出てくるかと思いきや、やはり出てこないこと、また滝山城を取ってしまっても、その後、この城を北条から守り、武田が維持していくには、小田原からの距離が近すぎること等が、最後まで攻め切らない理由なのでしょう。
流石、武田信玄ですね。大人の余裕を感じます。
北条軍は、この時の信玄の滝山城攻撃の反省から、西側からの関東侵入に備えて、北条軍最大の山城、八王子城を築くのです。

信玄の小田原攻めの反省から北条氏が造った八王子城

4.小田原城包囲(小田原攻め③)

さて、滝山城攻城以降、小田原までは武田軍を2つに分けます。

1つは相模川沿いを真っ直ぐ南下して、小田原城へ入る本隊と、もう1つは、世田谷方面経由で、新横浜の小机城、大船の玉縄城にちょっかいを出しつつ、鎌倉経由で相模湾沿いに小田原に来る隊です。

信玄も、滝山城が落ちそうになっても出てこない氏康が、決戦に出てくることは、そろそろ諦めかけていたのかも知れません。

しかし、もしかしたら兵力を2つに分けて、小机城や玉縄城等、北条屈指の名城を攻撃すれば、武田軍分散による弱体化を見込んで、氏康が出て来るかも。と思ったのですかね。
しかし、最強のカメである氏康は頑として出て来ません。氏政と小田原城に籠ります。
彼らは彼らで、上杉謙信が、武田軍の5倍の兵力(10万)で、この小田原城を、9年前に包囲した戦を経験しており、10か月にも及ぶ攻撃にも耐えたという自信もあるのでしょう。
信玄もその時には、例の三国同盟の誼で、援軍を氏康に送ったくらいですから、小田原城籠城がどれ位強固なものなのか充分分かっています。

黄色い部分が小田原城総構えの内部

したがって、信玄からすれば、小田原城包囲は、とりあえず北条氏への攻撃力誇示遠征ツアーの最終到着地位にしか思っていなかったでしょう。
上杉軍のように何か月も包囲せず、たった3日で城下に火を放ち、引き揚げています。

ただ小田原城も、この時の包囲での城下町防御の必要性を改めて感じたことから、城の総構え(城下町も含めて、空堀や、盛り土等の障壁で守る構築物)を9kmにもします。これは大阪城の総構えよりも大きく、日本で一番の大きさです。

今も残る総構えの遺構の一部

5.小田原攻め最後の信玄の読み

さて、信玄は、今回の小田原攻めで、空しく小田原城を後にして、自国甲斐へ引き揚げるのでしょうか?

いえいえ、それは違うと私は思います。
信玄は、ちゃんと小田原攻めへの往路に、仕掛けを作っておいたのです。
彼としては、氏康がカメ戦法で来ることは、上杉軍の9年前の戦等から想定内のことだったと思います。

しかし、信玄は、その時の戦を分析し、今回の小田原攻めでは、氏康の息子の氏照、氏邦の性格を使うことを考えていたのではないでしょうか。彼は、そういう人間性を上手く使うことにも非常に長けていますから。
息子たちは氏康程の堪え性は在りません。若いですから。
氏照は落城寸前までの辛酸をなめさせられていますし、氏邦だって、包囲されて手も出せなかったのですから、悔しいには違いありません。

「信玄、小田原から撤退!」
これを聞いた氏康の息子2人は、「すわっ!小田原城を攻めあぐねた信玄は、兵糧も尽きかけて、冬になる前に慌てて甲斐の国へ逃げていく!これはチャンス!」と思ったことでしょう。
そして、甲斐の本国に引き上げる前に、一矢報いたいと2人は、思う訳です。

しかし、こう思うように信玄は、彼らを往路にて叩いておいたのです。
氏照・氏邦は、武田軍を迎え撃つために、帰路の途中にある三増峠に布陣して待ちます。
彼らのバックヤードには、やはり武田領との国境にある津久井城(この当時は築井城)があります。

武田軍の撤退ルート図

峠があるような戦は、山岳戦と言います。標高が高いところを取った方が有利なのです。
なので、北条軍は武田軍が来る前に、三増峠に布陣し、高いところを取って待っているのです。
はじめて北条軍がカメ戦法のような籠城戦から切り替え、野戦に出てきた訳です。

そして、父親の氏康にも小田原城からの出撃を要請します。撤退する武田軍を自分達と追撃する氏康・氏政軍で挟み撃ちにしようと提案する訳です。
氏康は、「馬鹿息子め!なんで、信玄坊主の罠にまんまと乗るのだ!」と、叫んだかもしれません。
しかし、放っておけば、今度こそ、氏照・氏邦は危ないです。ですので、とうとう氏康も出陣します。

この北条親子が次々に城という甲羅を脱ぎ捨て野戦に出てくる状況を見て、信玄はニヤッとします。
「フフ、思った通り、やっと出て来おったわ。」

【鉢形城】埼玉県大里郡寄居町鉢形2496-2
【滝山城】八王子市高月町
【小田原城】神奈川県小田原市城内
【三増峠古戦場】神奈川県愛甲郡愛川町三増2631

信玄の山岳戦~三増峠の戦い

上図をご覧ください。
これが三増峠古戦場にある看板に描かれた両軍の配置図です。黒が武田軍、赤が北条軍です。

「あれ?」と前章を読まれた方は疑問に思うでしょう。北条軍が武田軍を迎え撃つために、山岳戦に有利である高台を占拠して待ち構えた、と書いたからです。

ところが、この看板の配置図は、どう見ても、武田軍が高台を占拠しています。
実は、この地図は、武田方の古文書「甲陽軍鑑」を基に作成されています。間違っているのでは無いと思います。

前回の話では、待ち構える氏照・氏邦と追いかける氏康・氏政に挟撃される筈だった信玄が、このような逆転現象を起こした事こそ、信玄がこのような戦を、最初に碓氷峠を越えて、関東に入った時から構想し練っていた証拠だと思っていますし、またそこが信玄の恐ろしくも偉大な戦上手、戦の神様と言われた証左なのです。

結論から言いますと、この配置はこの戦いの中盤から終盤を表しており、信玄は、北条氏照・氏邦らが待ち構えている三増峠に、彼らの作戦を上手く利用しつつ、裏をかいて行き、気が付くと看板のような、完全有利な配置になっていたという訳です。

流石は武田信玄。老練なのも勿論ですが、山岳戦は武田のお家芸、信玄より6つ年上の氏康でも、このお家芸には絶対敵わないというのに、それらの息子ごとき、何者ぞ!という感じの戦い方をしたのだと思います。

では、戦の経過を見て行きましょう。

1.待ち伏せする北条軍の横を通る武田軍の餌

看板を地図に落とした図

さて、先程の看板の絵を、現在の地図の上に展開すると上のようになります。
説明の前に一つ、この地図で意識して頂きたいのは、築井城(津久井城)です。
合戦の前日10月6日の夜中に、信玄は乱波(らっぱ:忍者集団)等を使い、三増峠ではなく、志田峠から密かに築井城下のトウモロコシに火を付け、松明が燃えているように見せかけます。また案山子のような藁人形60体を作り、軍勢が城下直近に滞在しているように見せかけたのです。

これだけで、もう築井城は、北条軍得意のカメ戦法に入りました。翌日の合戦には全く援軍も送らず、甲羅である城に籠ってしまいます。信玄の築井城沈黙作戦大成功です。

築井城から三増峠と志田峠を臨む(左が三増峠、右が志田峠)

さて、日が変わって10月7日早朝です。
この日の北条軍の配置は、下図の通りです。ちゃんと山岳戦の基本、「高いところを取った方が有利」を抑え、三増峠に差し掛かる武田軍を東側山麓で、整然と待ち構えています。

武田軍を待ち構える北条軍と小荷駄隊を先頭に進軍する武田軍

ここで北条軍の中に氏照・氏邦以外で北条綱成という武将が居ることにご注目ください。
この時、待ち伏せする北条軍は1万2千~2万と言われています。勿論、氏照の滝山城や、氏邦の鉢形城の兵だけでなく、江戸城、小机城、玉縄城等、北条氏の名だたる城からも兵を集めています。

北条綱成は、玉縄城の城主であり、北条氏康と同い年です。
また勇猛果敢で若い時から有名であり、大将でありながら、一番に突撃していく無茶ぶり。しかも「勝った!勝った!」と叫びながら突っ込んで行き必ず勝つ、なんとも剛毅で頼もしい常勝の武将なのです。

今回、この待ち構える北条軍の中での総大将というのは決めていないようです。ただ、一番信玄に煮え湯を飲まされた氏照が、その思いと信玄との戦いの経験で、なんとなく総大将的な位置付けになっていたようですが、この綱成のように勇猛かつ親父の氏康と同い年の将が居たのでは、氏照も統一の取れた軍事行動を取ることは難しかったと思います。

北条軍の最前線(北条氏照軍のあたり)から武田信玄の本陣方向を臨む

そんな状態を知ってか知らずか、信玄は、この方面に、まず小荷駄隊を、武田24将の1人である浅利信豊護衛の下、三増峠方面へ進めます。

これには訳があります。

武田が小田原攻めをした9年前、北条氏は上杉謙信の小田原攻めの際に、小荷駄隊を襲い、上杉軍がボロボロになると言う成功体験を持って居ます。北条軍は小荷駄隊襲撃は得意なのです。襲いたくなるだろうと。

つまり小荷駄隊は「餌」です。信玄得意の「自軍を餌にする作戦」です。

2.三増峠の合戦①(戦闘開始)侵掠すること火の如く

さて、この罠に、北条氏照・氏邦は乗りません。
乗らないというか、彼らは信玄に痛い目に合わされているので、こんな見え透いた手薄の小荷駄隊が最初に出てくるのを叩いていたら、親父殿である氏康・氏政軍との挟撃作戦が上手く行かなくなる可能性を怖れたのではないかと思います。また小荷駄位が通過しても、武田軍本隊が来ない限り、挟撃まで高所の陣構えは確保しておきたいでしょう。

しかし、ここで、今回信玄に痛い目にはあっていない、氏康と同い年、かつ常勝軍の勇将として知られる北条綱成が黙っていられませんでした。

彼は、小荷駄隊を守備しながら進んで行く浅利信豊に対して、一斉射撃を開始し、攻撃を仕掛けてしまいます。

この一斉射撃により、浅利信豊は見事戦死。

しかし、次の瞬間、武田軍から御諏訪太鼓(武田軍の陣太鼓)が鳴り響きます。
それを合図に、厚木方面より一列で北上してきた武田軍が西側の山裾平原に向けて、猛烈な勢いで、展開して行くのです。

「すわっ、やられた!追え、追え!」と、孫子の紺に金字の風林火山の大旗が西に疾走していくのを見て、氏照は、叫びます。

「疾(はや)きこと風の如く」です。
西側の高所を取られてしまったら、山岳戦における北条の優位が保てません。取られる前に、武田軍に一撃を与えたい。
しかし、長く伸びた小荷駄隊とその守備兵たちが行く手を阻みます。彼らの防御力は貧弱ですから、破るのは容易いのですが、ここで足止めを食らう時間が致命傷です。

武田軍の合戦における軍展開


展開後の武田軍と追いかけて来た北条軍の配置。「三増峠合戦場」にある看板の軍配置に

北条軍がやっと追撃して山裾の平原に出てきた頃には、武田軍は西側の丘の上に、軍の展開を完了していました。
「其の徐(しず)かなること林の如く」だったことでしょう。
その時の軍配置を書いたのが、上記看板になります。

上にも再掲しておきますが、看板でも、北条軍の一番先頭に氏照の軍が書かれています。(看板では「北条陸奥守」と書かれていますが氏照のことです)
そこに小さく「orz」(がくっ)と書かれているように見えたのは私だけですね。笑

しかし、畏るべし武田信玄、山岳戦を知り尽くし、あっという間に敵と高所の入れ替わり技を披露してくれました。

信玄は、敵が三増峠で待ち構えているだろうことをかなり前から察知し、築井城への牽制だけでなく、乱波等を使い、この場所の地勢等も詳細に調べた上で、この合戦に臨んだようです。

なので、武田軍は、三増峠よりも志田峠を抜けるルートを詳細に調べ、ここに陣を張ることを意識したのです。
この戦が無ければ、三増峠を進軍して、築井城を包囲し、落として帰ったかもしれませんが、ここで大戦となると、甲府への撤退ルートは、築井城を避けて通れる志田峠からと考えていたのでしょう。
単に北条とは反対側の高所を取れば良いと考えていた訳では無いのです。

一方、武田軍は築井城へ進軍するであろう、よって、この三増峠の街道を行くに違いないと考えて布陣をした北条軍は完全に裏をかかれました。

3.三増峠の合戦②(勝敗の行方)真田昌幸も奮戦

さて、皆さん、この合戦、武田軍の最前線で、あの真田昌幸が果敢に戦っています。

武田四天王の1人である馬場美濃守の補佐的な立場ですが、山岳戦に長けた真田昌幸が、それこそ山岳戦の神である信玄の元で、「侵掠(しんりゃく)すること火の如く」戦っていたのではないでしょうか?
後で武田家滅亡となってしまう、武田勝頼も、この頃は素晴らしく勇猛果敢な働きをしていますね。
武田軍は、それこそ孫子の旗を立てた「旗立の松」の信玄が「動かざること山の如し」で采配する元で、生き生きと戦っています。

信玄の本陣「旗立の松」からは戦場も厚木方面も 良く見渡せる

武田信玄本陣「旗立の松」あたり

大河ドラマでは、昌幸も勝頼も、最後死ぬ時に「御屋形様ぁ!」と信玄の亡霊(?)に会って死にますが、奇しくも二人が一緒に信玄の元で大活躍した大山岳戦は、この三増峠しかありません。彼らと信玄が一番輝いていた時と言えるでしょう。

さて、戦も終盤に入ります。日も暮れかけて来た頃、ただでさえ、不利な北条軍に、当時の武田の赤備え隊で有名な山県昌景が、北条軍へトドメの一撃を食らわします。
彼は、その煌びやかな赤備え隊を率い、志田街道を南下、北条軍の背後から襲いかかります。
日も暮れかけて、薄暗い中、北条軍はこの隊に気が付くのが遅れたこともあり、大混乱です。
近くの山林へバラバラに敗走します。

この時、氏康・氏政親子は、1万の軍勢を引き連れ、まだ厚木に居ます。そして北条破れるの報を聞くと、さっさと小田原へ引き返します。
この戦で、北条の戦死者は3200人と言われております。武田軍も900人余りは戦死者が出たということで、武田軍の圧勝なのですが、合計で4000人以上の死者を出したというのは、山岳戦では最大規模の戦でした。

あの20万の軍が戦った関ヶ原の戦いでも、死者が3000~8000人と言うことですから、この戦がいかに大きかったことが分かると思います。

4.三増峠の合戦後

ところで、どうして氏康は、氏照・氏邦を見殺しにするような行動をしたのでしょうか?
そもそも、挟撃を氏照・氏邦から具申されているのであれば、この戦始まる頃には、合戦場に現れて良いはず。

実は氏康は夜を待っていたのです。
彼は勿論カメ戦法だけで、関東を上杉から切り取ってきた訳ではありません。拙著のブログの「北条五代記③ ~小沢原の戦いと勝坂~」で詳しく書いていますが、彼のもう一つの必殺技というか戦術は
「夜襲」
なのです。

デビュー戦の小沢原の戦いは、それで上杉朝興を破り、また河越城を落とした「河越夜戦」は、旧日本陸軍に研究し尽されるほどの腕前。
籠城と夜襲、これが氏康の得意技ですが、山岳戦で信玄に勝てる訳が無いと踏んでいたのです。

なので、彼としては、氏照・氏邦らが、信玄の挑発には乗らずに、たとえ、西側の高所を武田軍に取られたとしても、東側の高所で、対峙して、氏康の到着を待ってほしかったのだと思います。

多分、綱成が挑発に乗らず、じっと待って居たら、氏康は10月7日の夜半に得意の夜襲で、信玄に鉄槌を下したかも知れません。

まあ、力量のある人程、自分の得意・不得意を明確にして、勝てない戦はしないということでしょうね。
これこそ、「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」の孫子の言葉は、信玄だけでなく、氏康などの名将も意識されていたのでしょう。

兎に角この戦で、信玄は当初の計画通り、北条にガツンと一発食らわすことが出来ました。

氏康は、2年後の1571年に急速に衰え病死します。臨終に際し、子・氏政に「武田との同盟を復活するように」と遺言したと伝えられ、北条は武田と同年12月、再度甲相同盟を締結するに至るのです。

そして、翌年1572年、武田信玄は、ようやく念願の上洛を開始するのでした。

5.終わりに 日本史上有数の山岳戦

長い記事を読んで頂き、ありがとうございました。
三増峠の戦いは、ある意味、その後の武田家の上洛に対しても、北条氏の関東固めにとっても、そして日本の山岳戦にとっても、この戦の意味は大変大きいと思います。決してマイナーな戦ではありません。

その割には、その戦い自体も不明な点が多く、また歴史的背景も含め複雑であり、諸説紛々なのです。その中で多くの説などを基に、事実で分かっているところは抑えるも、そこから次の明確な事実の間の話は、私の推測で展開されていますので、ご容赦ください。
なるべく時代のメインストリームとどう絡むのかを、分析を基に私なりに分かりやすく描いたつもりですが、ちょっと強引なところも多いのは私も認識しておりますので、この場をお借りして陳謝します。

さて、一応、終わりですが、次のブログあたりでは、この戦に直接、間接的に絡む人物や、いくさ後の江戸時代から今に至るまで長きに渡る都市伝説のような伝承が本当かどうかを現場で私自身が検証してきた事などを外伝として、軽く(?)ご報告したいなと思っていますので、宜しくお願いします。

【築井城(津久井城】神奈川県相模原市緑区根小屋
【三増峠古戦場】神奈川県愛甲郡愛川町三増2631

「三増峠の戦い外伝 ~その後の北条の人々~外伝」はこちら(玉木氏のブログに飛びます)

玉木氏のブログ「マイナー・史跡巡り」では、ほかにも小机城(横浜市)など神奈川県の史跡を紹介しているので、ぜひ読んでほしい。』

三増峠の戦い

三増峠の戦い
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A2%97%E5%B3%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

 ※ コレか?

『三増峠の戦い(みませとうげのたたかい)とは、永禄12年(1569年)10月8日[1]に武田信玄と北条氏により行われた合戦である。本項では、合戦に至るまでの経緯として、小田原城包囲戦も合わせて解説する。駿河侵攻の二正面作戦の一つとも言える。』

『合戦の経緯

戦国期の甲相関係と武田氏の駿河侵攻

戦国期に領国を接する武田氏と北条氏は武田信虎・北条氏綱期には甲斐都留郡において抗争を続けていたが、やがて両者は和睦して甲相同盟が結ばれ、これに駿河今川氏との同盟を結び甲相駿三国同盟の締結に至り、武田氏は信濃侵攻を行い北信地域において越後の長尾景虎(上杉謙信)と抗争し、北条氏は北関東侵攻を行い同じく越後上杉氏と抗争し、両者は相互に協調して上杉氏に対抗していた。

武田氏の信濃侵攻は、5回の川中島の戦いを契機に収束し、武田氏は方針を転換し永禄11年(1568年)12月には同盟を破棄して駿河今川領国へと侵攻を行う(駿河侵攻)。武田氏の駿河侵攻は甲相同盟の破綻をも招き、北条氏は上杉氏と越相同盟を締結し、武田氏に対抗した。

小田原城包囲

翌永禄12年(1569年)1月に北条氏政は駿河薩埵峠へ着陣し、興津において武田勢と対峙している[2]。同年8月24日に武田信玄は2万の軍勢を率いて甲府を出立、碓氷峠から上野国を上杉謙信をけん制(越中の戦国時代の永禄12年の上杉謙信の越中出兵の項参照)しつつ南下、廿里古戦場にて小山田信茂1000人が北条氏方2000人を打ち破り、滝山城(包囲のみ)などの後北条氏の拠点を攻撃したのち、犬越路を通って10月1日には北条氏康の小田原城を囲んだ。当時の小田原城は有名な惣構えが着工前であったが、かつて上杉謙信が10万以上の兵力で落とせなかった堅城であったため、城攻めはせず小田原城を包囲し3度にわたって挑発した。しかし後北条氏は小田原城を出ることはなかった。武田軍は包囲を開始して4日後の10月5日に城下に火を放ち軍勢を引き上げた。

北条氏は後詰めであった甲州街道守備軍の北条氏照、秩父方面守備軍の北条氏邦の軍勢2万[3]が要所である三増峠(相模原市緑区根小屋 – 愛甲郡愛川町三増)に着陣し、甲斐に帰国しようとする武田軍相手に有利に戦端を開いた。さらに北条氏政が2万余りを率いて氏照・氏邦の部隊と武田軍を挟撃、殲滅する作戦であった。10月6日には武田軍と北条軍が対陣することになった。

三増峠での激突

氏政本隊は到着前であったが、氏照・氏邦の部隊は先手を打って奇襲攻撃を仕掛けようとしていた。これを察知した信玄は部隊を3隊に分けた。北条軍の攻撃を正面に受けつつ、1隊は津久井城の抑え、1隊は山中に隠れ北条軍を横から急襲する作戦であった。10月8日に両軍は本格的な交戦を開始する。緒戦では北条軍有利に合戦は経過した。そのため武田軍は損害を受け、北条綱成が指揮する鉄砲隊の銃撃により左翼の浅利信種や浦野重秀が討ち死にしている[4]。

しかし、志田峠 (三増峠南西約1km) に機動した山県昌景率いる武田の別働隊が、より高所から奇襲に出ると戦況は一気に武田に傾いた。北条軍は背後の津久井城守備隊の内藤隊などの予備戦力が、小幡信貞、加藤景忠ら武田軍別働隊に抑えられて救援に出られず、大きな被害を受けている。武田左翼大将である浅利信種が戦死した左翼では、軍監であった曽根昌世が代わりに指揮をとり、綱成の軍勢を押し戻すことに成功している。緒戦では苦戦したものの、最終的には武田軍の勝利とされている。

また、武田軍が千葉氏が在陣しているところに向かって「千葉氏と言えばかつて北条と対し、互角に渡り合った衆であろう。それが北条に僕として扱われることに不満はござらんのか」と大声で呼びかけ、これにより千葉氏が勢いを鈍らせたとも言われている。

合戦が終わる頃、小田原から追撃してきた氏政の北条本隊2万は荻野(厚木市)まで迫っていたが自軍の敗戦を聞きつけ進軍を停止、挟撃は実現しなかった。もし氏政の部隊が到着していた場合、武田軍は挟撃されて逆に大敗していた可能性もあった。

自軍の勝利を見た信玄は軍勢を反畑(相模原市緑区)まで移動させ、そこで勝ち鬨を挙げた。その後武田軍は甲斐に撤退した。この戦いで武田方では西上野の箕輪城代・浅利信種が戦死し、信種戦死後に箕輪城代は浅利氏から内藤昌秀・昌月親子に交代している。

自刃にまつわる伝説

この合戦では、双方の軍の武士の自刃にまつわる、似たような複数の逸話が残されている。

武田軍の武士の一部が甲斐国に撤退する際に北条軍から追い討ちを受け、落ち伸びるべく山中を甲斐国へと向かっていた。しかし彼らは、甲斐国への道中では見えるはずのない海を見る(峠から甲斐方面と海とは逆方向であり、近辺の海といえば相模湾である)。これは彼らの見間違いで、村の蕎麦畑の白い花が海に見えただけであったのだが、道を誤り敵国へ深く踏み込んでしまったと思った彼らはその場で自刃してしまった。以来、自刃を悼んだ村の人々は蕎麦を作ることをしないのだという。

また、同様の伝説は北条軍側にも残されている。戦いに敗れた北条軍の落ち武者が山中を逃げていた最中、トウモロコシを収穫した後の茎を武田軍の槍のひしめき合う様と見間違え、逃げる術のないことを悟り自刃した。自刃した落ち武者を供養するため、この土地ではトウモロコシを作らないという[5][6]。

またこの地では合戦の死者の怨霊伝説が広く語り継がれ、近隣で三増峠の戦いに付随した戦いがあったといわれているヤビツ峠では餓鬼憑きの伝説が残っている。

合戦の評価

高低差が大きく作用した戦国最大規模の山岳戦として知られている。

従来、『甲陽軍鑑』に依拠した武田家主観による評価がされてきた。本稿でも合戦の経過など、概ね『甲陽軍鑑』に基づいた記述がされている。『北条五代記』などの北条側の史料では、北条軍の敗戦ではあるものの損害は軽微(20〜30程度)だったと書かれている。北条氏照は戦後、この合戦に勝利したという書状を上杉家に出している[7]。また、この戦いで古河公方家の重臣である豊前山城守が戦死しており、北条氏康から未亡人に宛てた書状が現存している[8]。

この合戦だけ見れば、撤退の過程で偶発的に起こった部分的な戦闘に過ぎない。追撃する北条軍は撃退したものの、家中の有力武将である浅利信種が戦死するなど、勝者である武田軍にとっても失ったものは大きかった。『甲陽軍鑑』でも著者とされる高坂昌信が、この合戦のことを「御かちなされて御けがなり(勝利はしたものの、損害も蒙った)」と論評し、本拠地甲斐を留守にしてまで行った遠征の必要性に疑問を呈している。

戦略的に見ると、本戦いの結果、後北条氏は西の今川氏救援に兵を向けられず、武田氏方が永禄12年(1569年)暮れに北条氏が救援していた今川氏の蒲原城を落とし、駿河侵攻を大きく進めた。また、武田氏主力が上野国方面に通って小田原まで南下した為、椎名康胤の松倉城 (越中国)を攻略中だった上杉謙信は本拠地越後に戻る事になった。(越中の戦国時代参照)

歴史学者の柴辻俊六は信玄の小田原攻撃について、越相同盟への揺さぶりと共に、関東の反北条勢力への示威活動であった可能性をも指摘している。事実、北条家と越相同盟を締結したばかりの上杉謙信は、同盟の締結条件に、武田軍牽制のための8月15日以前の上杉軍の信濃出兵があり、それに対し謙信は血判誓詞をもって了承していたにも関わらず、信濃出兵を果たさなかった。これは謙信の越中戦線の事情のほか、将軍義昭から武田氏との和睦を命じられて7月下旬に成立していた「甲越和与」があった。そのために謙信は、信濃に出兵するつもりであったが延期する旨を家臣の鮎川盛長に送っている[9]。信玄は「甲越和与」により、謙信の北条氏救援のための出兵がないことを踏まえた上での侵攻であったわけである。上杉氏に、北条氏側は約定催促、不履行による詰問の書状、不信・不満を表した書状を送っている[10]。このことから、武田軍による小田原城攻撃から三増峠のこの合戦に至るまでの戦いは、この2年後に北条家が上杉家と手を切り、武田家と再同盟する遠因ともなったとも考えられている。

参戦武将
武将 武将
武田軍 武田信玄 北条軍 北条氏照
武田勝頼 北条氏邦
武田信廉 北条綱成
山県昌景 北条氏忠
内藤昌秀 高城蔵人
馬場信春 原胤栄
浅利信種 上田朝直
小幡憲重
曽根昌世
脚注

^ a b 『甲陽軍鑑』より。『北条五代記』では戦闘は10月6日にあったとされる。
^ 『戦国遺文後北条氏編』-1151号
^ 『甲陽軍鑑』より。武田信玄書状では6000〜7000。
^ 『甲陽軍鑑』より。北条方の軍記である『豆相記』でも同様の記述が見られる。
^ 植木知司『かながわの山』(神奈川新聞社)P103
^ ただしトウモロコシの日本伝来時期の研究とは矛盾する
^ 山吉文書、山吉孫次郎宛北条氏照書状
^ 豊前氏古文書
^ 森山八郎氏所蔵文書『上越史』別編1-780、池享・矢田俊文『上杉氏年表(増補改訂版)』(高志書院)P136、平山優『武田信玄』(吉川弘文館)P68
^ 「上杉家文書・集古文書・歴代古案」山口博『北条氏康と東国の戦国世界』(夢工房)pp105-110、平山優『武田信玄』(吉川弘文館)P70

参考文献

『甲陽軍鑑』
『信玄の戦略―組織、合戦、領国経営』柴辻俊六著(中央公論新社、2006年11月)ISBN 978-4121018724
『武田信玄』平山優著(吉川弘文館、2006年)ISBN 4642056211

関連文献

「毛利庄 長竹村 三増峠」 『大日本地誌大系』 第40巻新編相模国風土記稿5巻之122村里部津久井縣巻之7、雄山閣、1932年8月、389-393頁。NDLJP:1179240/201。

関連作品

ボードゲーム

『甲斐の虎』(ツクダホビー)、絶版
『関東制圧』(ツクダホビー)、絶版
『RAN』(GMT Games)、2007年、英語

関連項目

三増トンネル
日本の合戦一覧

外部リンク

三増峠の合戦について - ウェイバックマシン(2004年8月7日アーカイブ分)
三増の合戦 - ウェイバックマシン(2019年3月30日アーカイブ分)
三増合戦場
三増峠の戦いと武田信玄の相模原行軍 』

天正壬午の乱

天正壬午の乱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E5%A3%AC%E5%8D%88%E3%81%AE%E4%B9%B1

天正壬午の乱(1/2)徳川vs上杉vs北条!本能寺の変直後の争乱
https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/166/

 ※ 『天正10年(1582年)3月、織田信長による甲州征伐で武田家は滅亡しました。その後、信長は旧武田領を部下たちに分割統治させることになります。』…。

 ※ ということだったが、「本能寺の変」勃発で、肝心の信長が死んじまったものだから、まず、その部下たち(名だたる信長の軍団長クラス)が「どうするのか、どう動くのか」という話しとなった。

 ※ それだけでなく、ここ信濃、上野(こうずけ)、越後は有力大名(徳川、北条、上杉、背後の常陸(ひたち)には佐竹)がひしめいていたんで、大名間の争いも勃発した。
 ※ さらには、稀代の戦略・軍略家である真田昌幸の所領もあったんで、その動向も無視できない…。

 ※ そういう諸勢力、諸武将間で(支配を嫌った農民の”一揆”も起きた)「信長亡きあと」の所領争いの争乱…、という話しのようだ…。

『天正10年(1582年)6月、「本能寺の変」で信長が討たれた後の混乱に乗じて起こったのが「天正壬午の乱」です。信長が治めていた旧武田領を徳川家、上杉家、北条家が3つ巴になって争うなか、旧武田領で信長に臣従していた真田家をはじめとした国人衆も自領を守るため参戦します。広範囲にわたって数度の戦いが発生しており、各武将の思惑が入り乱れているためわかりにくい戦いですが、今回はなるべく時系列に沿って解説します。
天正壬午の乱とは?

天正壬午(※ てんしょうじんご)の乱は、天正10年(1582年)6月から10月にかけて、旧武田領(甲斐国、信濃国、上野国)を徳川家・上杉家・北条家が争った合戦の総称です。それぞれ現在の山梨県・長野県・群馬県にあたります。3国を中心に各地で戦が起こっており、登場する武将も有名な人物が多いことが特徴です。

3家のうち徳川家は徳川家康、上杉家は上杉景勝、北条家は北条氏政と息子の氏直が中心となって戦っています。そして、乱の最中に自領を守りつつ勢力を拡大するため、上杉家→北条家→徳川家と次々と主君を変えていったのが、真田幸村(真田信繁)の父である真田昌幸です。

天正壬午の乱は同時期に各国で合戦が起きているため、少しわかりにくくなっています。まずは各家の動きについて大まかに押さえておきましょう。

織田信長の死後の混乱に乗じて、旧武田領の国衆が一揆をおこして織田家家臣を追い出す
上野国を北条家が奪取
信濃国を巡って上杉家と北条家が争うも、信濃北部4郡を上杉家が確保する形で講和
信濃国・甲斐国を巡って北条家と徳川家が争い、徳川家が2国を得る形で講和

結局徳川家が旧武田領で勢力を大きく伸ばすことになったことがわかると思います。では、なぜそうなったのでしょうか?詳しく見ていきます。

武田家滅亡後の旧武田領

天正10年(1582年)3月、織田信長による甲州征伐で武田家は滅亡しました。その後、信長は旧武田領を部下たちに分割統治させることになります。主な区分けは以下の通りです。

【信濃国】
川中島4郡(高井・水内・更級・埴科郡)を森長可

小県郡、佐久郡を滝川一益

木曾郡(本領安堵)と安曇郡・筑摩郡を木曾義昌

信濃諏訪郡を河尻秀隆

伊那郡を毛利長秀

【上野国】
滝川一益

【甲斐国】
河尻秀隆(穴山梅雪の河内領以外)

【駿河国】
徳川家康

滝川一益や河尻秀隆は2回名前が出てきますが、国をまたいで隣接した領地を得ています。
ちなみにこのとき真田家は旧領の一部を与えられた上で滝川一益の配下に入っています。

本来であれば、甲州征伐で信長に協力して出兵した北条氏政にも所領を与えられるはずなのですが、結局何ももらえず不満を募らせる結果となりました。

「本能寺の変」発生、旧武田領から織田家家臣が追い出される

甲州征伐の終了から3ヶ月後の天正10年6月2日、本能寺の変で織田信長が討たれると、数日のうちにその情報は周囲に伝わり、旧武田領を治めていた織田家家臣たちは大混乱に陥りました。統治し始めたばかりの領地は完全に掌握できているわけがなく、国衆たちの反乱がおきる可能性があったからです。さらに、旧武田領の周囲には上杉家の治める越後国(新潟県)と北条家の治める相模国(神奈川県)があり、混乱に乗じて攻めてくるかもしれません。旧武田領は内にも外にも問題が多い「内憂外患」の状態にあったわけです。

そして織田家家臣たちの懸念通り、本能寺の変の知らせを受けて各国衆たちが動き始めます。6月12日には上野国で滝川一益の部下だった沼須城主の藤田信吉が離反し、一益の甥である滝川益重のいる沼田城を攻めます。一益の援軍もあり沼田城は持ちこたえ、信吉は上杉家に亡命しました。

ちなみに、このころ旧武田領を治めていた他の織田家家臣たちはどうしていたかというと、旧武田家家臣たちによる一揆をきっかけに撤退しています。当時越後に侵攻中だった森長可は本能寺の変を知るやいなや越後から撤退します。その後、配下から裏切り者が多く出たこと、一揆が発生したことなどから旧武田領から美濃に逃げ帰りました。

毛利長秀も一揆に追い立てられ尾張に戻ります。一方、河尻秀隆は甲斐国人衆の一揆を契機に旧武田領から逃げ延びようとするも、6月18日に一揆衆により殺害されています。

【上野国】滝川一益vs北条家

滝川一益に話を戻します。滝川一益は6月11日、本能寺の変を知った北条氏政から、引き続き織田家に忠誠を誓い続けることを伝えました。当時、北条家は織田家と同盟関係にあったので当然と言えば当然の行いですが、氏政はその舌の根の乾かぬうちに、氏直と共にすぐに一益に向けて出兵。6月16日から19日にかけて「神流川の戦い」が起こります。

上野国と武蔵国の国境近くで発生したこの戦い、滝川軍は1万8000だったのに対し、北条軍は5万と、数の上では北条軍が圧倒的に有利でした。このため、滝川軍は6月18日の初戦では北条軍に勝利しましたが、兵力差や地元の国衆の協力があまり得られなかったことなどにより、翌19日には北条軍に壊滅させられてしまいます。

一益は必死に逃げ延び、倉賀野城を経て厩橋城に退却。箕輪城に移り地元の国衆との別れの宴を開いたのち、碓氷峠を抜けて小諸城に到着します。なお、沼田城はこのとき、一益の部下の真田昌幸に還されています。その後、木曽谷を通過して清洲城に入ったのち、7月に伊勢の長島城に戻りました。

なお、清洲城では6月27日に織田家の後継者を選ぶための「清洲会議」が行われています。「織田四天王」とも称され、一時は豊臣秀吉をしのぐ権勢を誇っていた一益も本来は会議に参加するはずでしたが、対北条戦で間に合いませんでした。この後、一益の力は急速に衰えていくことになります。

上杉景勝、北信濃に出陣

一方、上杉景勝は6月中旬には本能寺の変発生を知り、北信濃の川中島攻略に乗り出します。本能寺の変直前には、柴田勝家率いる織田軍に攻められたことで危機的状況に陥っていました(魚津城の戦い)。これは上杉謙信の後継者争いの「御館の乱」の際に味方をしてくれた新出田重家と恩賞でもめたことが原因で、重家が織田信長と通じて離反したことから起きた戦いです。戦いにより魚津城は落城し、勝家は森長可、滝川一益とともに春日山城に進軍していましたが、本能寺の変の知らせを聞いて撤退しています。』

『撤退を知った景勝はすぐさま北信濃に出陣します。森長可が去った海津城を占拠し入城したほか、上杉家で匿っていた信濃守護職一門だった小笠原洞雪斎を擁立し、木曾義昌のいる深志城を攻めて義昌を追い出しました。このとき、真田昌幸は景勝に臣従し、深志城に行く途中にある城の城主たちを調略するなど活躍しています。

【信濃国】上杉景勝vs北条家

上杉景勝が信濃を攻めるなか、北条家も信濃をわがものにしようと南から侵攻してきます。氏政の弟の北条氏邦は上野国の沼田城を奪い、昌幸のいた岩櫃城と沼田城を分断しようと間に城を作り、昌幸を苦しめます。結局上杉に臣従してわずか半月後の7月9日には、昌幸は上杉家から北条家に寝返ることになりました。

北条家は上野国をほぼ制圧した後、碓氷峠を越えて信濃国衆を味方につけ、佐久郡を平定します。佐久郡の小諸城には当時徳川方の依田信蕃がいましたが、北条家に攻められて小諸城から逃げ出しています。その後、上杉家に追いやられた木曾義昌も北条軍に加わりました。

南下する上杉軍と北西に進む北条軍。両者は7月14日、川中島の千曲川で対峙することになります。

決戦か、と思いきやここにきて存在感を出してきたのが徳川家康です。南からだんだんと信濃国に侵攻し、北条家が獲得した領地に迫ります。領地が近い家康との対峙を選択した北条氏直は、挟撃を恐れて上杉軍と講和することを決意しました。

一方の上杉景勝は、新出田重家の謀反の直後での信濃攻めです。本能寺の変をきっかけに一度は落ち着いた重家との合戦はいつ再燃するかもわかりません。早々に重家と決着をつけて自領を落ち着かせたいところです。

こうした両者の思惑が一致したことで7月29日には和睦の合意がなされました。和睦の結果、上杉家は信濃北部4郡を所領するとともに、川中島以南には出兵しないことになりました。後ろから攻めたてられることのなくなった北条家は甲斐国を得ようと家康との戦いに挑みます。

【信濃・甲斐国】徳川家康vs北条家

さて、これまで徳川家康の話が出てきませんでしたが、家康は本能寺の変の後、どのように天正壬午の乱にからんでいったのでしょうか。

本能寺の変が発生したとき、家康は酒井忠次、榊原康政、本多忠勝、井伊直政などの少人数の家臣たちと堺(大阪)を見物中でした。本能寺の変の同日に知らせを受けとった家康は、光秀から命を狙われる可能性があるため急いで自領の三河国(静岡県)に戻ろうと出発します。伊賀を通過して海を渡り、6月4日に三河国に到着しました(神君伊賀越え)。そして、光秀の討伐準備に合わせ、空白状態となった甲斐と信濃の攻略の準備も開始します。6月10日には甲斐国の河尻秀隆に美濃へ戻るよう使者を派遣しました。

家康は6月14日に光秀討伐軍を率いて出発しますが、翌日光秀の死を聞き、真偽を確認した後に21日に浜松城に引き返しました。その後、家康は本格的に甲斐国と信濃国攻略に注力します。

まず家康がしたことは、甲斐と信濃の国人衆たちを取り込むこと。地元で力を持つ彼らを味方につけるとともに、甲州征伐の際に匿っていた依田信蕃など旧武田家家臣たちも自軍に取り込みます。一方で酒井忠次や奥平信昌に南信濃の平定を任せつつ、7月9日には甲府城に入りました。

その後、諏訪郡を取り込もうと高島城の諏訪頼忠を説得しますが失敗します。さらに、深志城では小笠原貞慶が酒井忠次・奥平信昌との対立を理由に北条家に寝返ってしまい、信濃攻略はなかなか進みません。

そうこうしているうちに北条軍が甲斐方面に南下し始めてきたため、家康は対北条対策として甲斐国の新府城に入城しました。一方の北条氏直率いる北条軍は若神子城に入ります。両者は80日間対峙しました。

さらに、北条軍は駿河国や武蔵国方面から別動隊を動かして家康を背後から襲おうと計画します。8月12日には北条氏忠と徳川方の鳥居元忠、平岩新吉が甲斐国の黒駒で戦います。北条1万対徳川2000と北条軍が有利のようでしたが、蓋を開けてみれば徳川軍が勝利。この戦いをきっかけに、北条軍を見限る武将が出始めました。家康は北条方だった木曾義昌を味方につけることに成功。そして、9月には真田昌幸の引き込みに成功します。

戦のキーマン、真田昌幸

実は徳川軍は信濃国攻めの際に兵糧不足に悩まされており、真田昌幸を味方につけることで兵糧を得ようとしていました。家康から直接書状を渡したり、昌幸ゆかりの人物に取りもってもらったりと、相当力を入れて勧誘した様子がうかがえます。家康は昌幸に対し、現在の支配地域に加え、上野国の箕輪と甲斐国内の2000貫文の土地、信濃国の諏訪郡を与えることを明記した宛行状を発行しています。

昌幸としては、もともと北条家から沼田城を得る予定だったところ、北条家が「沼田城は北条のもの」と公言したことで、北条家に不信感を抱いていました。沼田城は西上野の地にあり、3つの川に囲まれた台地を利用した崖城で、越後と北関東、北信濃を結ぶ軍事上の重要拠点で、昌幸としてはぜひ押さえたい所です。

こうして昌幸は徳川家に寝返り、信濃国にいた依田信蕃に兵糧を提供。さらに沼田城を北条家から取り戻します。北条家は沼田城を取り返そうと攻めますが、真田軍の激しい抵抗でかないませんでした。

さらに、10月には依田信蕃が信濃国の小諸城を攻めて大道寺政繁を駆逐したほか、佐久郡の内山城を奪取。加えて昌幸と碓氷峠を占領します。こうした動きの結果、北条軍は補給路を絶たれてしまいます。深志城も徳川方が奪還しており、北条家は信濃で窮地に立たされます。

戦局を打開しようとするも、常陸国(茨城県)の佐竹義重が関東で行動を活発化させており、北条方の館林城を攻撃してきました。危機感を募らせた氏直は講和を決意します。

こうした背景もあり、10月29日に織田信長の次男の織田信雄が仲介人を務める形で北条・徳川は講和します。これにより、甲斐国と信濃国は徳川家が支配することが決定しました。上野国は北条家の切り取り次第とし、沼田城は真田昌幸から北条方に返すことになりました。さらに、和睦の条件として氏直と家康の次女の督姫が結婚しています。

この和睦は真田家と徳川家の争いのきっかけになりました。そもそも徳川方に下る際、沼田城は真田家のものになるはずでした。このため、昌幸は沼田城の引き渡しを拒否。徳川家から離反して上杉家に従属しました。これにより天正13年(1585年)第1次上田城の戦いが起こり、以後も両家の対立は続いていくことになるのでした。

執筆者 栗本 奈央子(ライター) 

元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。』

天正壬午の乱。② | かをるんのブログ
https://ameblo.jp/tamayorihime/entry-11023769920.html

天正壬午の乱の全容 神流川の戦いから北条・徳川の勢力争い
https://senjp.com/tensyou-jin/

1582年(後半) 東国 天正壬午の乱 | 戦国時代勢力図と各大名の動向ブログ
https://sengokumap.net/history/1582-4/

家康の決断

家康の決断
https://wedge.ismedia.jp/ud/books/isbn/978-4-86310-258-3

『家康の決断
城島 明彦:著

絶体絶命! ピンチの連続! 三河の弱小大名から天下人にまで上り詰めた家康の決断とは?大河ドラマ「どうする家康」の予習にもなる、異色の歴史教養本
定価:1,650円(税込み)
四六判並製 256ページ
発売日:2022年11月18日
ISBN:978-4-86310-258-3』

『◎絶体絶命! ピンチの連続! 波乱万丈!
 三河の弱小大名から天下人にまでのぼり詰めた徳川家康。
 大河ドラマ「どうする家康」主人公の「決断」とは?

――――――――――――――――――――――――――――――――――

天下人となり成功者のイメージが強い徳川家康。
だが、その人生は絶体絶命のピンチの連続であり、波乱万丈に満ちていた。
家康の人生に訪れた24の大きな「決断」を読者が追体験しつつ、
天下人にのぼりつめることができた秘訣から、
現代に通じる教訓に迫る。
大河ドラマ「どうする家康」の予習にもなる、異色の歴史教養本。

【築山殿事件】苦渋の選択で築山殿と長男信康を自害に追い込む

【三方ヶ原】武田軍に大敗北を喫して学んだ勝つための戦術

【本能寺の変】険しくとも相手の虚をつくルートをとった伊賀越え

【天正壬午の乱】空白地の甲斐信濃に即出兵し周りを牽制する
 
【豊臣臣従】「鳴くまで待とうホトトギス」臣従という選択肢

【大老筆頭】五大老のトップとして政治的影響力を高める 

【関ケ原合戦】豊臣系大名をうまくてなづけた一大ギャンブル

【幕藩体制】将軍として260人の大名と主従関係を築く 

【大御所政治】将軍職をすぐに秀忠に譲り豊臣家を牽制

【豊臣家滅亡】平家滅亡を教訓に豊臣家を断絶させる    他

――――――――――――――――――――――――――――――――――

<本書の目次>

序 章 天下取りに隠された数々の「決断」
第1章 弱小大名が生き残るための「賢断」
第2章 京から決死の脱出を図る「即断」
第3章 ナンバー2の道を選んだ「果断」
第4章 天下分け目の戦いを制した「勇断」
第5章 徳川250年体制を盤石にした「英断」

※内容は予告なく変更となる可能性がございます
著者プロフィール
城島 明彦 (じょうじま あきひこ)

昭和21年三重県生まれ。早稲田大学政経学部卒業。 東宝を経てソニー勤務時に「けさらんぱさらん」でオール讀物新人賞を受賞し、作家となる。『ソニー燃ゆ』『ソニーを踏み台にした男たち』などのノンフィクションから 『恐怖がたり42夜』『横濱幻想奇譚』などの小説、歴史上の人物検証『裏・義経本』や 『現代語で読む野菊の墓』『「世界の大富豪」成功の法則』 『広報がダメだから社長が謝罪会見をする! 』など著書多数。「いつか読んでみたかった日本の名著」の現代語訳に、 『五輪書』(宮本武蔵・著)、『吉田松陰「留魂録」』、『養生訓』(貝原益軒・著) 、『石田梅岩「都鄙問答」』、『葉隠』(いずれも致知出版社)がある。』

 ※ 【天正壬午の乱】以外は、大体知ってるエピソードだ…。

 ※ 家康で、オレが一番「疑問」に思っていることは、長男信康を「自害」に追い込むほどの「圧迫」を受けたのに、信長に反逆せずに忠義を尽くした点だ…。

 ※ 普通だったら、この時代の損得勘定を弾き出せば、信長を裏切って武田に付くだろうと思うよ…。

 ※ それを「しなかった」「させなかった」要因は、何だったのか…。

 ※ あるいは、「信長」という武将が「配下に見せてくれる」「未来絵図」だったのか…、とも思う…。

 ※ 後に、「天下布武」で示されることになる「新しい国のかたち」、そこに家康も賭けたのか…、とも思う…。

 ※ 武田では、所詮は「旧態依然」の「国のかたち」だからな…。

 ※ 光秀は、「そこを見損なった」とも思うんだよね…。

 ※ フタを開けてみれば、「支持」がそれほど無かったからな…。

戦国時代の男性 「5人に1人は梅毒などの性病だった」説も

戦国時代の男性 「5人に1人は梅毒などの性病だった」説も
https://www.news-postseven.com/archives/20160528_410773.html?DETAIL

『日本の歴史に名を残した英雄たちの死因は様々だが、意外にも「梅毒」で命を失った武将は多く、名軍師として名高い黒田官兵衛をはじめ、家康の次男で越前北ノ庄初代藩主の結城秀康、熊本の加藤清正などがこの病にかかっていたとの説がある。

 当時「唐瘡」「琉球瘡」と呼ばれた梅毒は、南蛮からもたらされたというのが定説。「その伝来は鉄砲よりも早く、1510年代に、中国人や琉球人が南蛮人から感染し、九州から全国各地へ伝播したと考えられる」というのは歴史研究家の川口素生氏。

 また、歴史作家の山崎光夫氏は「戦国時代は複数人と関係を持つことがステータスの一種で、家康は記録されているだけで16人の側室をもっていた。当時は男性同士が関係を持つことも珍しくなく、コンドームもなかった。この時代の人の5人に1人は梅毒などの性病に罹っていたはず」という。

 もちろん梅毒以外の性病が蔓延していたことも考えられるが、淋病は重症化し死因となることがまれで史料に残されることが少ない。

 江戸時代に入ると吉原などの遊郭が発達することで、梅毒の流行に拍車が掛かる。『解体新書』の著者で医師の杉田玄白の回想には「1000人の患者のうち、700~800人は梅毒だった」という記述も残されている。さらに幕末に西洋医学を日本に伝えたオランダの医師・ボンベは「日本人は夫婦以外との性行為に対する罪悪感がない。遊郭での性病対策もなく一般家庭に蔓延している」と指摘した。

 現代ではまれだが、梅毒は潜伏期間を含め感染から死に至るまで通常は10年以上かかる。仮に歴史上の偉人が梅毒に感染しても、重症化するまでに他の病などで命を落とすケースもあっただろう。その場合は死因として史料に残されることがないから、実際にはもっと多くの有名な武将が性病に悩まされていたと見ていい。

※SAPIO2016年6月号 』

豊臣家滅亡の原因は感染症!?

豊臣家滅亡の原因は感染症!?
https://www.nhk.or.jp/radio/magazine/article/dj-nihonshi/313hHFj-_.html

 ※ まあ、そういう説もあるらしい…。

『【出演者】
松村邦洋さん
堀口茉純さん
川久保秀一さん

2020年11月1日(日)放送の<DJ日本史>のテーマは「歴史を変えた感染症」。太古の昔から人々を苦しめてきた感染症は、時代をどう動かしたのでしょうか?

感染症が天下の命運を決めてしまった、という戦国時代の例をご紹介しましょう。
実は感染症の流行が、豊臣家の滅亡に深く関係していると言われています。

豊臣秀吉は裸一貫から成りあがって天下人になりますが、1598年に亡くなり、その17年後の1615年に豊臣家は徳川家康によって大坂夏の陣で滅ぼされてしまいます。
そのきっかけの1つとなったのが、梅毒という感染症でした。

梅毒は性的な接触などで感染し、病状が進むと皮膚や筋肉などに腫瘍が出来ていく病気。
この梅毒はヨーロッパの大航海時代に世界中に広まりますが、日本では16世紀の終わり、秀吉による朝鮮出兵がきっかけとなって感染拡大が起きたと言われています。

そんな梅毒が豊臣家を滅亡させる一因になったとは一体、どういうことなのでしょうか?

関ヶ原の戦いに勝利し、征夷大将軍になった徳川家康。
このころの家康は、決して豊臣家に強い態度をとっていたわけではありません。
むしろ、孫娘の千姫を豊臣秀頼に嫁がせるなど、豊臣家にかなり気をつかった対応をしています。

こうした両家の協調関係を確認するために行われたのが、1611年の家康と秀頼の二条城での会談。
この時の家康と秀頼は、とても友好的だったと言われています。
家康としては、まだまだ大きな力を持っていた豊臣恩顧の大名の勢力を無視するわけにはいかなかったんですね。

ところが、です。
この後、わずかの間に、両家の力関係があっという間に大きく崩れてしまうのです。
原因は、梅毒。
豊臣家への忠誠心が厚い武将が次々に梅毒に感染し、この世を去っていくのです。

二条城での会見のわずか3か月後にはあの加藤清正が亡くなりますが、死因は梅毒と言われています。
2年後には浅野幸長(よしなが)も命を落としました。
また、家康の実の息子ながら豊臣家の養子になり、両家の間を取り持つ立場にあった結城秀康も亡くなりました。
さらに、豊臣家が頼りとする大大名、前田利長も梅毒で死去。

こうした状況を見て、家康は方針を転換。
豊臣家を攻め滅ぼす方向へ舵を切っていくのです。

ちなみに家康の方は、梅毒をかなり用心していました。自分で薬を調合するなど、健康に人一倍気をつかっていました。
また家臣に対しては、感染源とされていた遊女との接触を禁じていました。

感染症に対してどう向き合うか。
その違いが、徳川家と豊臣家の運命を分けることになったのかもしれませんね。

松村邦洋・堀口茉純 「豊臣家滅亡」について語る!
※下記の再生ボタンからお聞きいただけます(2021年2月2日まで)。

DJ日本史「歴史を変えた感染症」③

この記事をシェアする

twitter 』

土用丑の日」はどう決まる? : 2022年は7月23日と8月4日の2回

土用丑の日」はどう決まる? : 2022年は7月23日と8月4日の2回
https://www.nippon.com/ja/japan-data/h01378/

 ※ なるほど、『「丑の日に “う” の付く食べ物を食べると夏負けしない」という古くからの民間伝承』があったわけだ…。

 ※ 『民間伝承にならって「うどん」「梅干し」「瓜」など “う” の付く食べ物』であれば、「鰻(うなぎ)」で無くとも、いいわけだ…。

 ※ こっちの方が、「安上がり」だな…。

『 夏の暑さが本格化してくると、街のあちこちで「土用丑の日 うなぎ」の文字を見かけるようになる。熟成したタレとうなぎの脂が炭火で焦げる匂い、ふっくらとした食感を思い浮かべただけで、うっとりとした気分になる。2022年の「土用丑の日」は7月23日と8月4日の2回。ところで、土用丑の日って、どうやって決まるの?

「土用」は季節の変わり目を指す言葉。立春、立夏、立秋、立冬のそれぞれ直前の18日間が土用に当たる。2022年は立秋が8月7日のため、7月23日から8月6日までが「夏土用」となる。暦の上では夏終わりだ。

「今年は寅(とら)年」「ひと回り違いで同じ戌(いぬ)年」など、十二支を「年」に当てはめて使うことはおなじみだが、もともと中国の暦法では日や月を表すにも十二支を使っていた。子・丑・寅…を日付に当てはめると、18日間の土用期間中に、少なくとも1回、数年に一度の割合で2回の丑の日がめぐってくることになる。これが「土用丑の日」。

ちなみに、「土用丑の日」と「うなぎ」を結び付けた仕掛け人として伝わるのは、江戸時代の蘭学者・平賀源内(1728-1780)。「丑の日に “う” の付く食べ物を食べると夏負けしない」という古くからの民間伝承に便乗し、「本日丑の日」と店先に出すようにうなぎ屋に知恵を授けたとか…。

今年は「丑の日」が2回あるが、養殖ウナギが品薄で、価格は上昇傾向にあるようだ。ぜいたくは一度だけにして、民間伝承にならって「うどん」「梅干し」「瓜」など “う” の付く食べ物で、「二の丑」楽しむのも悪くない。 』

「侵攻」憲法点検の機会に ウクライナ危機で浮き彫り

「侵攻」憲法点検の機会に ウクライナ危機で浮き彫り
憲法施行75年
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA15D0Z0V10C22A4000000/

『ロシアのウクライナ侵攻は憲法が厳しい安全保障環境にどこまで対応できるかという論点を浮き彫りにした。

ウクライナ政府は侵攻後に戒厳を宣言し出国を制限した。日本の憲法には規定のない緊急事態条項に基づく。

有事の備えは十分なのか。施行75年を迎えた憲法を点検する機会となる。

ロシアによる侵攻がはじまる前日の2月23日。ウクライナは憲法に基づき非常事態を呼びかけ、24日には戒厳を宣言した。18~60歳の男性の出国を原則禁止という措置を講じ、ウクライナにとどまる男性が目立った。

ウクライナ憲法は議員任期の延長も規定する。ロシアの侵攻という危機に憲法や法律を整えていた。

「多くの法律を成立させ厳然と議会機能を維持している。敬意と感動を覚える」。3月17日の衆院憲法審査会。公明党の北側一雄副代表はウクライナ議会の動きを紹介した。「議員の任期延長の論点を早急に詰めるべきだ」と指摘した。

ウクライナを含む米欧の主要国は非常事態時の対応を明文で位置づける。

世界各国の憲法の9割が盛り込む。

日本国憲法は武力行使や大規模災害などの非常時に政府の権限を強める緊急事態条項を持たない。

緊急事態への憲法の規定は54条に参院が「緊急集会」を開き、国会の機能を維持できると定めるにとどまる。

54条は条件を「衆議院が解散されたとき」と解釈される。衆院議員の任期満了時に開催できるかを巡っても専門家の意見が分かれるのが現状だ。

政府権限の強化と同時に、人権の制約を認めるか否かといった点も論点となる。民主主義国家の8割近くの憲法に「人権の制限」がある。緊急事態が行き過ぎた措置とならないようチェックする仕組みを設ける国もある。

ウクライナ侵攻で憲法9条が意識されたのがゼレンスキー大統領の演説だった。3月下旬に日本の国会でオンライン演説に臨んだ際、ロシアへの経済制裁の評価など日本の援助に謝意を示す言葉が並んだ。

米国や韓国の議会では兵器の供与などを相次ぎ要求した。コルスンスキー駐日大使は4月1日の記者会見でゼレンスキー氏の演説に関し「憲法9条や日本の政治的な環境を認識し、理解したうえで言葉が選ばれた」と説明した。

米欧諸国は対戦車ミサイルや地対空ミサイルを供与する。日本はヘルメットや防弾チョッキといった殺傷能力のない資材に限る。憲法9条を背景に海外への防衛装備輸出のルールを定めた「防衛装備移転三原則」に沿って対応した。

ロシアによるサイバー攻撃でも日本の憲法の特性が改めて浮き彫りになった。

ロシアは物理的な攻撃と並行しサイバー攻撃を展開した。ウクライナが米側の協力を受けて電力や通信、交通などの重要インフラを維持したことが善戦の一因となった。

日本は9条に基づく専守防衛の原則や21条の「通信の秘密」が敵国のネットワークへの侵入などといった対応を制限する。

積極的な防衛体制(アクティブ・ディフェンス)と呼ばれる防衛措置にも慎重で、サイバー空間への対処は遅れている。

政府権限、新型コロナでも論点に

 4度目の緊急事態宣言が発令され、閑散とする福岡市の繁華街・中洲=20日夕

現憲法で非常事態に対応できるかという議論は新型コロナウイルスの感染拡大時にも浮上した。

日本は憲法だけでなく新型コロナに適用できる法体系がなく、国内の感染拡大後に特別措置法を整備した。欧州各国は憲法に基づき移動制限などの措置を発した。

新型コロナ対策で飲食店などに休業を要請する緊急事態宣言は2020年3月の新型インフルエンザ等対策特別措置法の改正ではじめて可能となった。それでも病床の確保などが機能しなかったため、21年2月に国や自治体の権限を強める感染症法を追加で成立させた。

急ごしらえの法整備には異論が相次いだ。飲食店チェーンのグローバルダイニングは時短の命令が違法・違憲だと主張し、損害賠償を求めて都を提訴した。感染拡大の防止策が営業や外出の「自粛要請」が柱となったためだ。

諸外国は欧州を中心にコロナ禍で緊急事態条項を活用した。イタリアやスペインは人の移動を禁じて交通機関も止め、イスラエルはロックダウン(都市封鎖)を実施した。

フランスは一時、生活必需品の買い物など政府が認めた目的以外の外出には罰金を科して違反を繰り返せば禁錮刑とした。

立憲民主党など野党は新型コロナへの対応と改憲は別問題だと主張する。

宣言と21年の特措法改正で新設された宣言に準じるまん延防止等重点措置の適用で対処できるとの声もあがった。政府は収束を見据え6月にも総括的な検証に入る。

国民投票法を巡り意見交換が行われた衆院憲法審査会

憲法審、論議活発に

衆参の憲法審査会は憲法に関する本格的な議論を再開した。衆院は3月中旬以降、毎週木曜に定例で開き今国会で10回以上となった。2018~21年の通常国会は2~4回にとどまっていた。2桁に達するのは13年以来9年ぶりとなる。

ウクライナ侵攻などを巡る緊急事態条項といった議題について審議した。21年秋の衆院選で議席を伸ばした日本維新の会が衆院憲法審の定例開催を求めて、機運が高まった。

改憲手続きを定めた改正国民投票法が成立し、憲法論議の前提となる課題の処理が進んだ。国民投票法改正案は18年6月に提出され、成立に3年を要した。立憲民主党などが法改正を巡り「CM規制」の強化を訴え、与野党で平行線が続いていた。

【関連記事】
・緊急事態条項、参院選の争点に 憲法施行75年
・憲法記念日、各党が談話
・[社説]人権守り危機に備える憲法論議を深めよ
・私が考える憲法「危機時の自衛隊」「緊急事態条項」
・私が考える憲法「サイバー空間定義を」「価値観は多様」』

講和条約から70年 国家主権と国際ルールつなぐ法整備を

講和条約から70年 国家主権と国際ルールつなぐ法整備を
編集委員 大石格
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD26AWP0W2A420C2000000/

第2次世界大戦で敗れた日本が米国などと締結したサンフランシスコ講和条約が発効して、今年で70年になる。きょう4月28日はいわゆる「主権回復の日」である。国家主権の重要性は、ロシアのウクライナ侵攻によって再認識させられたが、一方で国際化の進展で国家主権と国際ルールがうまく合わない事例も増えている。両者をつなぐ法整備が必要だ。
4月28日は「主権回復の日」
Nikkei Views
編集委員が日々のニュースを取り上げ、独自の切り口で分析します。

28日を主権回復の日と呼ぶ運動を始めたのは小堀桂一郎東大名誉教授だ。1998年に出版した「『国家主権』を考へる」で、「押しつけ憲法をあれだけ祝っておきながら何故(なぜ)独立主権の回復を祝うという気がなかったのか」と国民意識を批判した。これに共鳴した安倍晋三氏は首相在任中だった2013年に政府主催で主権回復の日を祝う記念式典を開催した。
「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」。退席する天皇、皇后両陛下(当時)を万歳三唱で見送る出席者(2013年4月28日、東京・永田町の憲政記念館)

ここでいう国家主権とは要するに独立国かどうかということだ。主権にはもっとさまざまな側面がある。明治政府は1889年に大日本帝国憲法を発布した際、国家主権は天皇にあると定めたが、そもそも主権とは何かをめぐり、意思統一はできていなかった。
明治の思想家の植木枝盛(国会図書館のデジタルアーカイブより)

「主権を以(もっ)て法律制定の権と為(な)す」。自由民権運動の指導者として知られた植木枝盛は1882年に発表した「国家主権論」にこう記した。天皇や将軍の権威による支配でなく、法制度が整うことで国家たり得るという考え方だ。

こうした考え方も踏まえ、明治政府は憲法制定後、矢継ぎ早に法律をつくる。そのひとつが「法例」だった。日本がつくった法律の適用範囲を明記したものだ。

幕末から明治維新にかけては、ある意味で現代を上回る国際化の時代である。日本の主権は出だしから外国の法律や国際ルールと重なる部分をどう取り扱うのかに頭を悩ませたわけだ。ちなみに法例は現在の国際化の波に対応するため、2006年に全面改正され、名称も「法の適用に関する通則法」に変更された。
国際協調で変わる日本の主権概念

戦後日本は、国際協調主義を掲げて再スタートした。そこで、いまの憲法に明記したのが条約順守義務である。98条は「国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵(じゅん)守することを必要とする」と強調する。

日米安全保障条約のような2カ国条約であるか、国際人権規約のような国際条約であるかを問わず、締結して批准したら、法律と同等の拘束力が生じる。国家主権を法制度と捉えれば、主権が部分的に国際ルールに置き換わった、言い換えれば制限された状態になるのだ。

国内法と条約の関係については、電子版コラム「憲法のトリセツ」2019年3月号も参照してほしい。

【関連記事】小中学校は外国人も引き受けるべきか

問題は、日本国内と国際社会において概念が異なる制度が少なくないことだ。例えば、日本では軍隊と警察は全く異なる存在とみなされるが、諸外国、特に途上国においては軍隊が日常的な治安業務も担当していることが珍しくない。警察がある場合でも、反政府ゲリラと戦えるだけの重武装だったりする。
PKOであらわになった世界とのズレ

日本は1992年にカンボジアにおける国連平和維持活動(PKO)に自衛隊を派遣した。国内の反対論を意識し、文民である警察官も派遣した。そのひとりである高田晴行警視は武装集団に襲われて殉職した。日本での警察活動を念頭に置いて、丸腰に近かった。

警察庁は、海外では重武装できる法整備を求めるのではなく、派遣そのものに応じなくなった。ようやく2006年に再開したが、武器携行基準の見直しはいまもなされていない。武器携行の国内基準と国際水準のずれは、諸外国の軍隊と自衛隊の間にもある。武器携行基準を明確にする法整備はした方がよい。

日本と諸外国の法制度の違いを埋める方法のひとつに、地位協定の締結がある。地位協定というと、日米間のものが有名だが、日本が自衛隊などを海外派遣する際にも結ぶことがある。1994年にザイール(現コンゴ)と交換公文を交わし、2003年にクウェートと、09年にジブチと地位協定を締結した。いずれも自衛隊員らが公務中に犯した罪の裁判権は日本にあると定める。後者には自衛隊が持ち込む物資への関税免除なども記載された。
2009年に日本はジブチと地位協定を締結した

これらをめぐり、日米地位協定と同じような課題も出ている。例えば、ジブチの自衛隊駐屯地でも新型コロナウイルスの感染者が出たが、協定上は駐屯地は治外法権であるため、ジブチ政府による出入り者の検疫は実施されなかった。

日本では、今年初めのコロナの第6波の流行の初期、沖縄、山口、広島3県で爆発的な感染増がみられ、米軍基地からの染みだし感染ではないかとされたが、基地内の立ち入り検査などはできなかった。日本も同じことをジブチでしていることになる。
連合組織と国家主権、悩む欧州

国際秩序において、課題となっているのは、国際機関、なかでも欧州連合(EU)のような一定の統治権を持っている組織と加盟国の主権の関係だ。EUに加盟すると、財政の健全化などが求められるので、財政や金融に関する独自の政策は進めにくくなる。それへの不満などが積もり積もって暴発したのが、20年の英国のEU離脱である。

ウクライナ侵攻によって、EUは一時的に結束力を取り戻しつつあるようにみえるが、国際化の反動としてのナショナリズムの高まりは加盟国の多くで極右勢力が台頭していることからも、うかがえる。龍谷大の高橋進名誉教授は、こうした現象を「再国民化」と呼んでいる。

今後の世界においては、サイバーや宇宙といった従来の主権概念では対処できない分野の課題が増えることが予想される。すでに問題になっているものとしては、海外にあるサーバーを通じた漫画などの著作物やわいせつ映像の流通などが挙げられる。

主権とは何か。それぞれの国の意思はどこまで尊重されるべきなのか。包括的に考え、わかりやすい法制度をつくる必要がある。一般に保守派は国家主権の制限に否定的だが、国家的な損得を考えるのであれば、進むべき方向性は明らかだ。

編集委員が独自の切り口で分析「Nikkei Views」一覧へNikkei Views
https://www.nikkei.com/opinion/nikkei-views/

鎌倉殿:「13人も覚えられない!」人への早分かり

鎌倉殿:「13人も覚えられない!」人への早分かり、注目はこの5人の争い(5)
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c10904/

 ※ 今日は、こんなところで…。

 ※ 北条氏の支配が確立するまでには、こういう「ドロドロした」「権謀術策」があったんだな…。

 ※ 大体の流れ(政治史)としては、

 守護・地頭の設置 → 鎌倉幕府の成立 → 承久の乱(後鳥羽上皇vs.鎌倉幕府、北条政子の有名な檄)→ 鎌倉幕府側の勝利 → 御成敗式目の制定 → 元寇 → 勝利するも、領地を分配できず、鎌倉幕府の弱体化 → 混乱 → 室町幕府の成立 → しかし、有力守護大名の連合体で、幕府の支配力は弱かった → 応仁の乱 → 戦国時代に突入…、という感じか…。

 ※ 経済史としては、「荘園公領性」で、相も変わらず「国衙」由来の「公領」と、「荘園」の二本立てが続くんだよね…。
 その中から、戦国大名が「一円知行」の支配を行い、「太閤検地」で「一地一作人」が推し進められて、やっと「重層構造」が解消したらしい…。

 ※ 文化史としては、室町幕府の支配力が弱かったために、「文化」が隆盛となった…。「年貢」として取り立てる力が弱く、ある程度「庶民」の取り分が残ったんだろう…。
 ※ 能、茶の湯、生け花なんかの、いわゆる「日本文化」は、殆んど「室町時代」由来だ…。

 ※ 「文化活動」には、「庶民のゆとり」が不可欠だといういい例だな…。

『「2代目は無能」のウソ

なぜ頼家の時代に有力御家人の合議制に移行したのか。以前は「2代目の頼家は能力不足で遊びほうけているから」と言われていた。よく取り上げられるエピソードとして、御家人同士の土地争いに立ち会った頼家のいい加減な裁定ぶりがある。鎌倉時代の史書『吾妻鏡』には、頼家の発言としてこんな記述がある。

「土地の広狭は、その身の不運によるべし。使節の時間を費やして現地を実検することは無駄である」

『吾妻鏡』の1200年=正治2年=5月28日条より(国立公文書館所蔵)

頼家はこう言って、地図に適当に線を引き、裁定したとされる。ほかにも、蹴鞠(けまり)にうつつを抜かしたり、御家人が出陣して鎌倉を留守にしたのを機に、その彼女を我が物にしようとしたりするなど、『吾妻鏡』に描かれた頼家はとにかく評判が悪い。

しかし、近年はこうした「頼家=無能」説に疑問が投げ掛けられている。『吾妻鏡』はもともと北条得宗家(本家)が編さんした書とされ、当時、頼家から政権奪取を望んでいた北条家の立場を正当化するため、頼家が必要以上に無能者として描かれている可能性がある。

鎌倉歴史文化交流館の山本みなみ学芸員は、著書『史伝 北条義時』(小学館)の中で、別の史書『六代勝事記』を引用しながら、頼家が「実際は武勇に優れ、鎌倉殿にふさわしい人物であったといえる」と指摘している。

動機は北条時政の権力掌握

1199年に「13人の合議制」が発足したが、全員がそろって話し合った形跡すらないと言われる。

東大史料編纂所の本郷和人教授は著書『鎌倉13人衆の真実』(宝島社)の中で、合議制について、北条時政が野心をたぎらせ「(2代)将軍の権力を制限し、幕府の実権を握るための方策だった」と記している。

発足当初こそ、「腰の低い謙虚な時政に二心ありとは誰も思わなかったのではないだろうか」と本郷氏。確かに、その後の展開を見ると、時政は孫に当たる2代将軍・頼家やライバルの有力な御家人を次々と追い落としていく。

13人の詳細なプロフィールは「『鎌倉殿の13人』って、いったい誰?」を参照していただくとして、この中から「主要人物」をあえて5人に絞って概観してみたい。

「北条」対「反北条」

北条時政は娘の政子に婿を取り、初代将軍・頼朝の舅(しゅうと)として鼻高々のまんざらでもない生活を送って来た。

ところが、頼朝の死で権力喪失の危機に目覚めたのだろうか。

一方、ライバルの実力者、比企能員(よしかず)も2代将軍・頼家の舅という立場を利用して、虎視眈々(たんたん)と権力の座を狙っていた。この2人は激突(比企の変、1203年)し、時政に軍配が上がる。これが第1ラウンドだ。

比企一族の墓がある妙本寺(鎌倉市大町)=筆者撮影

第2ラウンドは親子対決である。初代執権となった時政は権力を握った途端、専制に走る。

若い後妻「牧の方」を寵愛(ちょうあい)する時政は、その気まぐれに振り回され、やがて息子の北条義時に「武士の鑑(かがみ)」との誉れ高かった畠山重忠を討つよう命じた。

「謀反を図ろうとしたから」というのだが、明らかな冤罪(えんざい)であり、義憤を抑えきれぬ義時は父・時政と継母を鎌倉から追放する。

北条義時邸があったとされる現在の宝戒寺(鎌倉市小町、鶴岡八幡宮そば)=筆者撮影

そして義時に残されたライバルはただ一人。軍事を司る侍所の初代別当(長官)だった実力者、和田義盛だ。

両者の対立は将軍御所を中心に大規模な市街戦(1213年)に発展したが、相手の軍勢を打ち破った義時は、もはや「敵なし」の地位にまで上り詰めた。

和田塚の石碑(江ノ島電鉄「和田塚」駅から徒歩1分)=筆者撮影

もう一人の実力者は、頼朝の側近で義経追討に暗躍した梶原景時だが、第3回の「太刀洗」でも取り上げたように、重用され過ぎとの御家人衆の嫉妬を買い、1199年に早々に失脚。

頼朝・頼家派の重鎮の退場は「13人衆」のパワーバランスを崩し、北条優位に傾くきっかけとなった。

ここまでが5人を巡る権力争いのあらましだ。

初代将軍・頼朝から2代将軍への順当な代替わりは起こらず、隙あらば有力御家人たちが覇を競ってしまう。平家という「共通の敵」を失ったことが関係しているのかもしれない。

約400年後に発足する江戸幕府は将軍を頂点とする統治システムが確立していたのと違い、初期の鎌倉幕府はまだまだ不安定だった。

朝廷と闘った武将

鎌倉幕府内の政争を勝ち抜いた北条義時が、その先に立ち向かう相手は何と朝廷である。
かねて幕府を朝廷の管理下に置き、支配しようと考えていた後鳥羽上皇が、ある出来事をきっかけに「義時追討の院宣」を出した。武家が朝廷の権威に立ち向かうのは、恐れ多いことだったが、「売られた喧嘩(けんか)」を看過したままでよいものかどうか―。

対応を協議する幕府側の歴史的な軍評会議で、「13人」の中でも文官(実務官僚)である大江広元と三善康信の長老2人、そして尼将軍・北条政子の言葉が座の空気を決する。

果たして、この決戦の行方は?

バナー写真:13人の合議制の成立を記した『吾妻鏡』の一節(1199年=建久10年=4月12日条、右ページ)。

「様々な訴訟は羽林(頼家)が直接、判決を下すことを停止する」として、13人の名を挙げて「話し合って処置すること」とある(国立公文書館所蔵)

この記事につけられたキーワード

鎌倉時代 大河ドラマ 北条義時 鎌倉幕府 北条政子 鎌倉殿

持田 譲二(ニッポンドットコム)MOCHIDA Jōji経歴・執筆一覧を見る

ニッポンドットコム編集部チーフエディター。時事通信で静岡支局・本社経済部・ロンドン支局の各記者のほか、経済部デスクを務めた。ブルームバーグを経て、2019年2月より現職。趣味はSUP(スタンドアップパドルボード)と減量。』

おくのほそ道:名句がちりばめられたフィクション紀行文

おくのほそ道:名句がちりばめられたフィクション紀行文
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g02067/

 ※ 今日は、こんなところで…。

 ※ 『曽良が残した日記によって旅の様子が分かるが、『おくのほそ道』には実際と違う記述が多数含まれている。芭蕉は、現実の旅の体験をベースにしながら、独自の趣向を組み込んで紀行文を創作したのである。その意味ではほとんど空想上の旅の記録とも言え、古典文学の紀行文の中では特異な作品となった。』…。

 ※ なーる…、奥の細道は「紀行文」の形態を借りた「フィクション」か…。

 ※ 『いずれも写本であって、芭蕉には最後まで『おくのほそ道』を出版しようという意志はなかったと見られる。芭蕉が同書を写本でのみ残した意味は何か。当時は美しく仕立てられた一点物の写本の方が出版物よりも高級なものと意識されていたが、それも理由の一つかもしれない。さまざまな見方ができるが、芭蕉にとってそれは未完成の作品であって、さらに推敲を重ねるつもりだったのではないだろうか。』…。

 ※ 「未完の大作」だったわけだ…。

 ※ 『3. 旅人を西行の追随者とする

  語り手は「予(よ)」と自称するが、芭蕉本人であるとはどこにも書かれていない。    芭蕉は「予」を、西行を慕いその行動に追随する旅人として造形している。』…。

 ※ ここも、薄っすらと聞いたことがあるような気もするが、あまり記憶に無い…。

 ※ 今回、改めて再認識した…。

 ※ 『こうした発見によって、『おくのほそ道』研究は20世紀半ば以降大きく進み、現在もなお深化の途上にある。』…。

 ※ そういうことで、まだまだ「解明されていない部分」が、あるようだ…。

『 西行五百年忌の年に旅立ち、その足跡を辿る

1689(元禄2)年旧暦3月末、数え年46歳の松尾芭蕉は4月から9月までに陸奥(みちのく)から出羽、そして北陸を旅した。主要な地名によってその道筋を示せば、江戸の深川をたち、日光・白河・福島・仙台・松島・平泉・尾花沢・出羽三山・象潟・新潟・高田・金沢・山中温泉・福井・敦賀・大垣へと至る旅であった。

江戸から山中温泉までは門人の河西曽良が、金沢から福井の手前までは金沢の俳人・立花北枝が同道した。各地の歌枕や古戦場などの史跡を訪ねることと、訪れた地の俳人と会って連句を興行し芭蕉流の俳諧を伝えることが主な目的だった。その年が西行の五百年忌に当たることも、旅の大きな動機の一つと考えられる。西行も陸奥平泉への歌枕を訪ねながら旅をしている。本文中随所に芭蕉が西行の存在を強く意識していたことが伺われる。そして、芭蕉が紀行文『おくのほそ道』を編集したのは、旅の3年後の1692(元禄5)年から1694(元禄7)年の没年までの2年間と推測される。

曽良が残した日記によって旅の様子が分かるが、『おくのほそ道』には実際と違う記述が多数含まれている。芭蕉は、現実の旅の体験をベースにしながら、独自の趣向を組み込んで紀行文を創作したのである。その意味ではほとんど空想上の旅の記録とも言え、古典文学の紀行文の中では特異な作品となった。同書に芭蕉が組み込んだ趣向は、大きくまとめて以下の3つである。

  1. 時間を意識する

全体は春の末から秋の末までの旅だが、その間の季節の推移や年中行事に非常にこだわっている。また、はるか昔の遺物・史跡・風俗を目の当たりにして時の流れに感慨を催すことが多い。

  1. 能の発想を取り入れる

能にはシテ(主役)の亡霊がワキ(脇役)の夢に現れて思いを語る「夢幻能」の形式がある。『おくのほそ道』にもこの世の者ではない人物との対話を意識した書きぶりがあちこちに見られる。

  1. 旅人を西行の追随者とする

語り手は「予(よ)」と自称するが、芭蕉本人であるとはどこにも書かれていない。芭蕉は「予」を、西行を慕いその行動に追随する旅人として造形している。

与謝蕪村《奥の細道図屏風(びょうぶ)》 『おくのほそ道』の本文といくつかの場面の絵が、芭蕉を敬慕する蕪村の筆によって描かれている。1779年 紙本墨画淡彩 重要文化財(山形美術館・(山)長谷川コレクション)

「時」とともに旅する語り手

ではまず、冒頭部分から見てみよう。

月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老(おい)を迎ふる者は、日々旅にして旅を住みかとす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず。海浜にさすらへ、

(月日のように時間というものは永遠の旅人であって、次々に交代する年のような時間もまた、旅人である。そうした旅人に似た人間を挙げるとすれば、舟の上で一生を過ごす舟人や馬の口の手綱を引きながら老いる馬子たちで、毎日が旅であり旅をすみかとしている。彼らは旅の中で死んでゆくが、詩歌に名を残した古人にも旅の途中で死んだ人々がたくさんいる。私も旅に死ぬことを予期しつつ、いつの年からか、ちぎれ雲のように風に誘われて漂泊したい思いが抑えきれなくなり、海浜をさまよい歩き…)

ここには、1の「時間」への意識が顕著に表れている。抽象的な「時間」の概念を「旅人」になぞらえ、「予」が「時間」と道連れで旅をするかのように表現している。

具体的には「予」はこの後に、夏や秋の始まりや、端午や七夕や、盂蘭盆会(うらぼんえ)、中秋の名月といった暦の上の特定の日付にこだわりながら旅をする。

また、兄の源頼朝に追われ陸奥平泉まで逃げた源義経主従の遺物に接したり、古代の歌枕である壺碑(つぼのいしぶみ)や中尊寺金色堂などの古跡を訪ねたりしては、遠い過去に触れたことに心打たれて涙を落とすのである。

古戦場での亡霊たちへの弔い

続いて挙げるのは平泉の高館(たかだち)の箇所の後半である。高館は義経主従が討たれた古戦場。なお、義経が平泉に匿われていた時に西行もこの地を訪れている(※ それは、知らんかった…)。

偖(さて)も義臣すぐつてこの城(じょう)にこもり、功名一時(いちじ)の草むらとなる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠(かさ)うち敷きて、時のうつるまで泪(なみだ)を落しはべりぬ。

夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡

卯(う)の花に兼房(かねふさ)みゆる白毛(しらが)かな 曽良

(さてさて、義経えりすぐりの忠義の家臣らがこの高館に籠城し武功の名を挙げたが、それもわずかな一時のこと、今そこは草むらとなっている。「国破れて山河あり城春にして」「草青みたり」といった詩を吟じながら、笠を尻に敷いて時のたつのを忘れ、しばし涙を落とした。

夏草が茂っていた、私が義経家臣の武者どもの夢を見たその跡は。

白い卯の花に、義経に最後まで付き従っていた白髪の兼房の面影が見えるようだ。曽良の句)

この句文には、前述2の「夢幻能」の趣向が生かされている。

語り手「予」は義経と家臣らが滅んだ高館の古戦場で昔をしのび「時のうつるまで」泣くのであるが、そのあいだ「兵ども」の亡霊が「夢」に出て戦のありさまを語り、「予」が目を覚ますとその夢の跡はただ夏草ばかりだった、と読み取れるように趣向を立てている。

曽良にも、夢に白髪の老武者「兼房」を見たと詠ませている。

曽良の旅日記に「卯の花に」の句は記録されておらず、芭蕉がこの場面に後から付け加えた句らしい。能の役割で言えば「予」がワキからの、曽良がワキツレ(脇役の同伴者)からの、戦死者への手向けの句をささげているのである。

歌人であり仏道修行者である西行への追慕

前述3の、語り手「予」を西行の追随者とする趣向は『おくのほそ道』の随所に見いだされる。特にそれが強く打ち出されるのは、次の箇所である。

越前の境、吉崎の入江を舟に棹(さおさ)して、汐越(しおこし)の松を尋ぬ。

終宵(よもすがら)嵐に波をは運ばせて

月を垂れたる汐越(しほごし)の松  西行

この一首にて数景(すけい)尽きたり。もし一弁を加ふるものは、無用の指を立つるがごとし。

(加賀と越前の国境・吉崎の入り江に行き、舟に棹(さお)を差して汐越の松を訪ねた。

夜もすがらの強風のために汐を浴び、雫(しずく)ごとに月が光って月を垂れたように見える、汐越の松。西行の歌

この一首によって汐越の松の数々の景は表し尽くされている。もし一言でも加えるならば、5本の指にもう1本、指を加えるようなものだ)

「終宵」の歌は蓮如上人の詠と伝えられており、作者名を西行としたのは芭蕉の創意であろう。

「真如の月」の成語があるように「月」は悟りの象徴とされる。つまり『おくのほそ道』において芭蕉は、西行の仏道修行の達成を「月」によって示して「予」の西行への賛嘆の心を表すために、この歌を利用したのである。

さらに推敲(すいこう)されたかもしれない未完の作品

芭蕉が1694(元禄7)年に亡くなるまでに直接関与した『おくのほそ道』のテキストには、まず自筆稿本の中尾本(現在の所有者による呼称)がある。

それを忠実に書写したものが曽良本(曽良の家に伝えられたことによる呼称、筆者は未詳)で、書写後さらなる修正・推敲が加えられている。

そして、書家の柏木素龍(そりょう)が芭蕉の依頼によって曽良本を基に清書した本が西村本(所有者による呼称)である。素龍の清書本には柿衞本(かきもりぼん、柿衞文庫蔵)もある。

いずれも写本であって、芭蕉には最後まで『おくのほそ道』を出版しようという意志はなかったと見られる。

芭蕉が同書を写本でのみ残した意味は何か。当時は美しく仕立てられた一点物の写本の方が出版物よりも高級なものと意識されていたが、それも理由の一つかもしれない。

さまざまな見方ができるが、芭蕉にとってそれは未完成の作品であって、さらに推敲を重ねるつもりだったのではないだろうか。

生涯を終える年、芭蕉は西村本を携えて故郷の伊賀に帰り、兄の松尾半左衛門に贈った。
門人の向井去来がそれを譲り受けて、芭蕉が亡くなってから8年後の1702(元禄15)年に京の書肆(しょし)の井筒屋から刊行した。その後『おくのほそ道』は井筒屋版を基に繰り返し刊行された。

そうした経緯で長らく井筒屋版の本文のみが世に知られていたのであるが、1943年に西村本原本が、1951年に曽良本が、1959年に柿衞本が、1996年に中尾本が見つかった。

また、1943年には曽良の旅日記の存在も明らかになった。こうした発見によって、『おくのほそ道』研究は20世紀半ば以降大きく進み、現在もなお深化の途上にある。

バナー写真=与謝蕪村筆《奥の細道画巻より旅立(千住)》。芭蕉を慕った蕪村が『おくのほそ道』の本文に俳画と呼ばれる挿画を描き添えた画巻。紙本淡彩。1778年。重要文化財(公益財団法人阪急文化財団 逸翁美術館蔵)』

南部の民間人を、南軍の野営地に追いやるというのがシャーマン軍(※ 南北戦争の時の、北軍の将軍)の方針だった。

南部の民間人を、南軍の野営地に追いやるというのがシャーマン軍(※ 南北戦争の時の、北軍の将軍)の方針だった。

 ※ ウンザリする話しだが、「戦争」とか「占領」とかにおいては、「人間の飢餓状態のコントロールが、非常に重要な要素である。」という話し…。

 ※ 食わないと、死んじまうからな…。

 ※ また、「半飢餓状態」だと「コントロール」が効きやすい…。

 ※ 「食い物」で釣って、いかようにも「仕置き」が可能となる…。

 ※ 日本でも、秀吉の「干し殺し・飢え(かつえ)殺し・水攻め」が有名だ…。

(干し殺し・飢え殺し・水攻め
 https://paomaru.dousetsu.com/file/05_senjutu_024.html 

 『戦国時代には多くの名城が存在し、多くの大名は日本中に存在する数百とある城に救われたり困惑させられたりしました。数の劣勢を跳ね返す城を陥落させなければ相手の領土は奪えない。かと言って、城を落とすには多大な被害をもたらすことになる。

誰もが嫌う城攻めでしたが、特異な武将がいて、これを得意戦術にする英雄がいました。
ご存知、天下人の豊臣秀吉です。平地で行われる野戦では常に相手より多い兵力を持って勝利し、三倍の兵力を持ちながら家康に敗れた経歴があることから彼の戦術能力は疑問符をもたれていることが多いですが、その城攻めの巧妙さは誰もが認めるところです。

ちなみに妙に評価の低い信長や秀吉の野戦能力についてフォローをしておけば、彼らが直接指揮した戦闘は九割近くが勝利であり、敗北は彼らが戦場にいない時が多いという、大勢力の長であり全てを自分で指揮できないという事情があったことを忘れてはいけません。

ちなみにヨーロッパの大英雄であるナポレオンも同様の傾向があり、彼も部下の敗北を考えないと生涯勝率はかなり高いです。

さて、話を城攻めに戻します。秀吉は城攻めを得意としていました。城を力で陥落させることが得意だったのではありません。

彼の得意技は、血を流さずに勝利する兵糧攻めでした。中でも有名な三つが干し殺し・飢え殺し・水攻めの三つであり、その他にも秀吉のために陥落した城の数は数えられません。特に注目すべきなのは『飢え殺し』と『水攻め』です。

『飢え殺し』は鳥取城を包囲した時の戦いだったのですが、秀吉は戦いが始まる前に周辺の食料を高値で買いあさったと言います。その後に軍を進めて城を包囲。食料を売り払ってしまっていた鳥取城は兵糧に事欠き、なんとわずか三ヶ月で開城してしまうという有様でした。

次に紹介する『水攻め』は秀吉の城攻めの代表例みたいなものでしょう。低湿地に建設された高松城は難攻不落の要塞で、数倍の兵をそろえた秀吉はこの城を陥落させることができませんでした。しかし、部下からの奇策を採用した秀吉は、その攻めにくい地形を逆手に取って川の水を城の近くに流し込み、建設させた堤防で水を逃がさず城を水没させてしまいます。

完成した水攻めによって、高松城は水に浮かぶ島のような有様になってしまったとされ、結局これに士気を砕かれ城主の切腹と共に開城されることになります。

兵糧攻めは味方に出る被害が少なく、非常に優れた戦術です。しかし、包囲を続けるための補給戦の確保やその防衛、さらに必要とされる時間から非常に困難なものであり、城を陥落させられずに撤退する軍が多かったことは多くの戦史が物語っています。

城攻めを得手とする秀吉でさえ二年以上かけて陥落させた城がある以上、兵糧攻めの難しさは並大抵のものではなかったことでしょう。 』)

Mitchell G. Klingenberg 記者による2022-3-31記事「William Tecumseh Sherman knew the enduring cruelty of war」。
https://st2019.site/?p=19082

『北軍のシャーマン将軍が1864-9に南部アトランタ市を占領したとき、住民のエバキュエートを保証し、その援助もしている。

 アトランタの住民を追い立てた後で、シャーマン軍は、海岸のサヴァナ市へ向かって行軍し、そこに新基地を設けた。

 南部の民間人を、南軍の野営地に追いやるというのがシャーマン軍の方針だった。

 かたわら、半飢餓状態で北軍の捕虜になった大量の南軍兵士たちには、給養をしてやっていた。』

「強制労働者」は、「厚生年金」に加入していた…。

<W解説>「強制徴用」と「厚生年金」の矛盾=韓国の元勤労挺身隊員ハルモニの「死ぬ前に聞きたい一言」
https://www.wowkorea.jp/news/korea/2021/1208/10326301.html

 ※ 今日は、こんなところで…。

 ※ なんだかなあ…。

 ※ どーゆーこと?

 ※ しかも、「お城」の前で、「集合写真」なんか撮ってるし…(そして、「焼き増し」した写真、もらってるし。たぶん、全員に配布している)。「奴隷的強制労働に従事してた」んじゃ、ねーのか?

『韓国の市民団体「勤労挺身隊ハルモニ(おばあさん)と共にする市民の会」が日本共産党の衆議院議員・本村伸子氏の支援を受け「日本年金機構」を動かした。元勤労挺身隊員チョン・シニョンさん(91歳)の11か月間の厚生年金加入を認めさせたのだ。

市民団体としては一見、大きな成果を成し遂げたように見えるが、その解釈には色々な見方がある。

そもそも、韓国側は「日本は半島から強制徴用を実施した。被害者は未だに賃金をもらっていない。日本が謝罪と賠償をすべき」と要求する。

国家が非常時に国民に対して行う「徴用」はその歴史が長く、言葉の中に「強制」が含まれている。しかし、韓国では「強制」を強調するためなのか、「強制徴用」を好んで使う。最近は「強制徴用」の他、「強制動員」の言葉もよく使われている。

「強制動員」でも「強制徴用」でも良いが、「厚生年金」との矛盾は生じないのか。日本はヨーロッパから学び、1940年代から厚生年金制度を実施し、韓国の年金制度は日本から学んだものだ。「強制動員」されたとする労働者が「厚生年金」に加入していたことは、どうも違和感が残り、後味が悪い。

太平洋戦争中の日本は1944年9月まで、半島に対する徴用をためらい、朝鮮半島出身者の「徴用」が可能になったのは10か月間あまりだった。しかも、米軍の攻撃で釜山と下関との船便が途絶えたこともあり、実際、1945年の終戦まで日本への徴用が可能だった期間は6か月間あまりしかない。

91歳のチョンさんと一緒に名古屋の三菱工場で働いた94歳のヤン・グムドク(梁錦徳)さんは、勤労挺身隊員になった経緯を自伝「死ぬ前に聞きたい一言」に詳細に書いてある。

韓国南西部の全羅道ナジュ(羅州)出身のヤンさんは、小学校6年生の時の1944年5月、日本人の校長から「中学校に進学させてあげる」という言葉にだまされたと回顧している。韓国メディアはあまり言わないが、当時はヤンさんの17歳の時だ。

当時、「男尊女卑」の儒教的な慣習の上、貧しい家庭の娘は小学校の入学が遅れたり、途中休学をさせられたりしたので、17歳の小学6年生はあり得ることだ。少なくとも、その時のヤンさんは子どもではなかったとのこと。

ヤンさんは勉強と運動が優秀で学級長となった。日本に行って中学校に進学したい、貧しい環境でも未来を自分の力で切り開きたい前向きな少女だったようだ。

小学校で「日本行き」に手を挙げたが、家に帰ってそれを話したら父親は激怒した。ヤンさんは翌日「日本に行かない」と担任に話したが、「指名を受けてから行かないとなれば、両親が警察署に入れられる」と言われたという。ヤンさんはその言葉を聞いて怖くなり、「棚から父のハンコをこっそり取り出して担任教師に渡した」と回顧している。

こうしてヤンさんは勤労挺身隊の隊員として日本に渡った。同じ地域で合計288人の女性が「連れて行かれた」と表現されているが、少なくとも17歳の場合でも、保護者の判子は必要だったようだ。

ヤンさんは、三菱重工業の名古屋航空機製作所で働くようになった。名古屋城が背景になっている当時の「団体集合写真」を未だに持っている。強制動員された労働者に都合の悪い集合写真を渡した理由は分からない。

1944年12月7日、ヤンさんは工場で「東南海地震」に被災した。

「休み時間に10分先に入った故郷の先輩チェ・ジョンレと同期キム・ヒャンナムが崩れた壁の下敷きとなり、その場で死んだ」と自伝に記録されている。その地震で288人中、少女6人が亡くなった。崩れた壁の隙間に閉じ込められ命を救われたヤンさんは「その時、左肩を負傷し、今でも後遺症がある」と話している。

終戦から2か月後、1945年10月21日に故郷に戻るまで、ヤンさんは三菱重工業で「重労働をしても賃金を一切受けとれなかった」と話している。「『君たちの故郷の住所を知っているから間違いなく月給を送ってあげる』という日本人たちの言葉は全て嘘だった」とも話している。

しかし、その「日本人」の約束は20年後の1965年に果たされた。日韓国交正常化の時、日本政府は韓国政府に国家予算に匹敵する資金を提供し、ヤンさんのような韓国国籍になった「債権者」に金銭を支払おうとしたものの、韓国政府がそれをまとめて支払うと日本政府に約束していた。

11か月分の給料を貰っていないと、ヤンさんは1990年代に日本の裁判所に損害賠償請求訴訟を起こしたが、敗訴した。韓国で起こした裁判では勝訴した。そのため、韓国裁判所から三菱重工業に対してヤンさんら原告1人あたり慰謝料1億~1億5000万ウォン(約957万~1436万円)の支払いが命じられた状態だ。

この問題は日韓関係の大前提を覆す可能性があり、この10年間、韓国と日本の友好関係を願う日韓の人々を苦しめている。また、国家ぐるみで「強制動員」された労働者が福祉制度の「厚生年金」に加入していたなら、人類史に前例のない事である。

1945年、約束された給料が戦後の混乱で元勤労挺身隊ハルモ二の手に入らなかったなら、日本に非がある。しかし、20年後の1965年に、国交正常化と同時に約束を果たした日本から預かった金銭を、56年間も元勤労挺身隊ハルモ二に渡していない韓国政府は一体、何をしているのか?』

チャーチルと近衛・東条 明暗分けた組織力とスピード感

チャーチルと近衛・東条 明暗分けた組織力とスピード感 太平洋戦争開戦80年(下) 戸部良一・防衛大名誉教授に聞く
https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXZQOLM071FF007122021000000/?n_cid=TPRN0016

 ※ 『「チャーチルが最初に手掛けたのが『国防大臣』を新設し、自らが就任したことです。国防省は存在しないので大臣というポストを設けただけです。政治優位の立場から政略と軍略を統合させる狙いでした」

 「国防相の下には帝国(陸軍)参謀総長、海軍軍令部長、空軍参謀総長の3人から成る三軍幕僚長委員会を直属させました。この委員会は毎年400回以上開催しました。1日に2回開くこともあったわけです。特に42年には573回に達しました。下部スタッフ組織として作戦、情報、兵站(へいたん)と3つの三軍統合委員会も設けられていました。軍中央のトップのみならず中堅幕僚層でも統一化が進み、チャーチルを補佐したわけです」

 「戦時内閣は首相を含む数人で構成しました。ただ英歴史家のA・J・Pテイラーは『戦時内閣がなにかを始めることはめったになく、チャーチルの意見を退けることはもっと稀(まれ)だった』と記しています。チャーチルは『討論による独裁者』とも言われました」』

 ※ 『 ――日本は軍事面での「統帥権」が政治権力から分離され、首相でも軍部を指揮することはできず、陸軍大臣でも参謀本部の作戦計画にはタッチできないシステムでした。

 「日中戦争を戦う第1次近衛内閣(37~39年)は政・軍略統合の必要性を痛感していました。また以前から、内閣制度の改革が検討されてました。内閣を首相と陸海軍大臣を含む少数の国務大臣のみで構成し、内閣直属の新たなスタッフ機構で首相の指導力を強化しようという構想でした」

 「この計画の実現には抜本的な法改正が必要になります。結局、近衛内閣では企画院と内閣情報部の新設だけで終わりました。非常時における組織改革の急所が、日英の認識は驚くほど似通っていました。しかし非常時だから今断行するのか、非常時だから事態が少し収まるのを待って改正するかで行動様式は全く違いました」』

 ※ こういうところにも、彼我の差異があったわけだ…。

 ※ そういうことの「反省」もあってか、「日本国憲法」においては、「大臣の横並び制」を止めて、「内閣総理大臣が、他の大臣の任免権を持つ」という制度に改めたわけだ…。

 ※ まあ、「組織」や「制度」を、「生かすも殺すも、人次第…。」ということだ…。

『太平洋戦争開戦から80年たった。米英と日本との格差は、軍事力や経済・産業力だけではなく、日本は組織力の点でも後れを取っていたとの研究が進んでいる。防衛大学校の戸部良一・名誉教授は「英国ではチャーチル首相の決定が、政治と軍事の統合を基盤とし政治優位でなされるようシステム化されていた。日本もそうした政軍統合の戦争指導体制が整備されていなかった」と指摘する。英チャーチルと同時期の近衛文麿、東条英機両首相との違いを追った。非常時にリーダーシップを機能的に発揮させるにはどういう組織が必要か。現代企業の組織運営にもヒントになりそうだ。

 「討論による独裁者」チャーチル 政略と軍略を統合

戸部良一・防衛大名誉教授は「英国ではチャーチル首相が『国防大臣』を新設した」と指摘する。

 ――チャーチルが英国首相に就任したのは1940年5月でした。前年9月に勃発した第2次世界大戦はドイツ有利に展開し、英の同盟国であるフランスの降伏直前に、国のかじ取りを任されました。

 「チャーチルが最初に手掛けたのが『国防大臣』を新設し、自らが就任したことです。国防省は存在しないので大臣というポストを設けただけです。政治優位の立場から政略と軍略を統合させる狙いでした」

 「国防相の下には帝国(陸軍)参謀総長、海軍軍令部長、空軍参謀総長の3人から成る三軍幕僚長委員会を直属させました。この委員会は毎年400回以上開催しました。1日に2回開くこともあったわけです。特に42年には573回に達しました。下部スタッフ組織として作戦、情報、兵站(へいたん)と3つの三軍統合委員会も設けられていました。軍中央のトップのみならず中堅幕僚層でも統一化が進み、チャーチルを補佐したわけです」

 「戦時内閣は首相を含む数人で構成しました。ただ英歴史家のA・J・Pテイラーは『戦時内閣がなにかを始めることはめったになく、チャーチルの意見を退けることはもっと稀(まれ)だった』と記しています。チャーチルは『討論による独裁者』とも言われました」

 ――チャーチルへの大変な権力集中です。成熟した多元的民主主義と評価される英国でよく可能でしたね。

 「英国には第1次世界大戦の前半を担当したアスキス内閣(08~16年)時の苦い教訓がありました。問題に直面するたびにそれを担当する委員会を立ち上げたため、会議が多くなりすぎてスピード感ある決定・実行ができなかったのです。チャーチルは独裁的な権力を手中にしましたが、戦時のみとの暗黙の了解がありました」

 「チャーチルは軍人と議論するとき、英議会でのディベート方式を持ち込み、とことん軍幹部を質問攻めにしました。最後は音を上げて恨み言を記した将軍の日記も残されています。ただチャーチルは納得すれば、問い詰めた軍人の意見を採用します。また『Action this day』がチャーチルの原則でした。英国の機能的な戦争指導体制を実見して、米国も後に取り入れました。統合参謀長会議を設立し、その下部組織に三軍統合委員会のシステムを作り上げました」』

『「陸海軍共同作戦の最高指導部」 日本は実現できず

 ――日本は軍事面での「統帥権」が政治権力から分離され、首相でも軍部を指揮することはできず、陸軍大臣でも参謀本部の作戦計画にはタッチできないシステムでした。

 「日中戦争を戦う第1次近衛内閣(37~39年)は政・軍略統合の必要性を痛感していました。また以前から、内閣制度の改革が検討されてました。内閣を首相と陸海軍大臣を含む少数の国務大臣のみで構成し、内閣直属の新たなスタッフ機構で首相の指導力を強化しようという構想でした」

 「この計画の実現には抜本的な法改正が必要になります。結局、近衛内閣では企画院と内閣情報部の新設だけで終わりました。非常時における組織改革の急所が、日英の認識は驚くほど似通っていました。しかし非常時だから今断行するのか、非常時だから事態が少し収まるのを待って改正するかで行動様式は全く違いました」

 「37年に近衛内閣は、日露戦争後初めての『大本営』を設置しました。英国の三軍幕僚長委員会と三軍統合委員会に相当します。しかし文民の首相は入れません。日常業務は陸海軍ともそれぞれの役所でこなし、大本営の会議は大部分が報告で終わったとされます。山本五十六・海軍次官(当時)が期待した『陸海軍共同作戦の最高指導部』は最後まで実現しませんでした。軍と政府との情報交換の場として、大本営政府連絡会議が設けられましたが、政略と軍事戦略の統合はなされませんでした」

 「40年の第2次近衛内閣(~41年)発足とともに、休眠状態だった大本営政府連絡会議(当初は連絡懇談会)が復活します。週1回以上のペースで開かれ、対米外交の調整、独ソ戦への対応、インドシナ南部への進駐などが政府と軍部の間で討議されました。それでも軍首脳を上から指揮するチャーチルのリーダーシップとは大変な差がありました」

 「続く東条首相兼陸相(41~44年)は、内閣の成立直後から、ほぼ毎日のように連絡会議を開き、開戦から退陣までにも約120回行いました。世界情勢の分析から国内の戦争指導要綱、東南アジア諸地域への独立指導など多岐にわたりました。他方、船舶の徴用と補塡、油槽船の陸海軍への配分、造船計画をどうするかといった議題も頻出し、東条ですら陸海軍の作戦計画を指導できたわけではありません。最後は権力集中の批判を覚悟で参謀総長まで兼務しましたが、政府と軍部の事務作業が効率的に改善された程度で終わりました」

 近衛・東条に欠けていたもの

 ――日本のリーダーは組織上のルールに縛られてリーダーシップを発揮できなかったのでしょうか。

 「ひとつの組織をどう運営するかは、トップのリーダーシップの資質・覚悟にかかっていたと言えます。近衛は『首相になりたくなかった』リーダーでした。五摂家筆頭の名門出身で、常に首相候補に挙がりながら天皇から就任を要請されながら辞退した時もありました。昭和期の首相としてトップクラスの知性の持ち主で、稀に見る聞き上手でもありました。多くの優秀なブレーンが周囲に集まりましたが、近衛本人には権力を維持、活用する意思に欠けた面がありました」

 「東条は『首相になる準備がなかった』リーダーでした。軍事官僚としては優秀で昭和天皇への忠誠心も篤(あつ)く、天皇にも信頼されました。しかし自分を育て支えてくれた旧来型の組織システムを変革することはできませんでした」』

『多元的な権威主義の日本 独裁を許さず

 ――チャーチルも数々の政治的失敗を繰り返しました。第1次世界大戦の海相としてガリポリ攻略戦で惨敗し、後の財務相で金本位制復帰のタイミングに失敗しました。「王冠を賭けた恋」ではエドワード8世を支持し世論の反発を招きました。若手時代には将来の首相候補ナンバーワンだったチャーチルも30年代後半には「終わった政治家」とみられていました。

 「ただ権力への意欲は失いませんでした。プライベートでは絵描きで玄人はだし、レンガ積みも職人組合に加盟していたほどの腕前だったとされます。政治の世界で挫折したとき、そうした政治以外の世界を持っていたことがチャーチルを支えたとも言われています」

 ――現在の「働き方改革」のヒントにもなりそうです。ただチャーチルは戦後体制を決める米英ソのポツダム会談中(45年)の総選挙で大敗しました。

 「多元的な権威主義の日本は独裁を許しませんでした。一方、多元的な民主主義体制の英国は期限付きの独裁を許容しました。歴史の皮肉のようなものを感じさせられます」

 (聞き手は松本治人)』

「正確な情報」が「無謀な開戦」につながったという痛恨の逆説――日米開戦80年目の真実

「正確な情報」が「無謀な開戦」につながったという痛恨の逆説――日米開戦80年目の真実
https://www.dailyshincho.jp/article/2021/12060630/?all=1

 ※ 今日は、こんなところで…。

 ※ 「プロスペクト理論」が、そこまで言っているのかは、さておく…。

 ※ しかし、「通説」と違って、日米開戦は、「正確な情報を、認識した上での、行動だった。」とする説は、耳新しい…。

 ※ 『プロスペクト理論では通常の経済学が財の所有量に応じて効用が高まると仮定するのに対し、ある水準(参照点)からの財の変化の量に注目します。簡潔にいうと、人間は現在所有している財が1単位増加する場合と1単位減少する場合とでは、減少する場合の方の価値を高く評価するのです。

 そのため、人間は損失が発生する場合には少しでもその損失を小さくすること望みます(損失回避性)。そうすると、選択肢Aでは確実に3000円を支払わなければなりませんが、選択肢Bでは2割の確率で損失は0になるので、人間は低い確率であっても損失が0になる可能性のあるBの方につい魅力を感じてしまいがちなのです。』

 『さらにプロスペクト理論では客観的な確率がそのまま人間の主観的な確率となるわけではなく、心の中で何らかの重みづけをされると考えます(客観的には2割の確率でも主観的には3割と考えられるかもしれない)。

 客観的な確率と主観的な確率の乖離は実証されており、自然災害などの客観的には滅多に起きない現象は主観的には高い確率として認識される一方、生活習慣病による将来の死といった客観的には高い確率で起きる現象は主観的には低い確率として認識されています(だからこそ「当選確率は極めて低いのに多くの人が宝くじを購入する」「将来ガンになる確率が高いのに多くの人が喫煙する」といった現象が起きるのです)。』

 ※ 『それゆえ、先ほどの選択肢Bで「1円も支払わなくてもよい」という確率が主観的に過大に評価され(例えば3割)、AよりもBの方が望ましいと考えられて選択されることになるのです。』との説は、確かにある程度の説得力を持つ…。

 ※ 『「ジリ貧」よりも「開戦」という判断

 さて、昭和16年8月以降の当時の日本が置かれていた状況は、先ほどの選択肢AおよびBとほとんど同じようなものでした。日本の選ぶべき道は、政策決定者の主観的には2つありました。

A’ 昭和16年8月以降はアメリカの資金凍結・石油禁輸措置により日本の国力は弱っており、開戦しない場合、2~3年後には確実に「ジリ貧」になり、戦わずして屈伏する。

B’ 国力の強大なアメリカを敵に回して戦うことは非常に高い確率で日本の致命的な敗北を招く(ドカ貧)。しかし非常に低い確率ではあるが、もし独ソ戦が短期間で(少なくとも1942年中に)ドイツの勝利に終わり、東方の脅威から解放されソ連の資源と労働力を利用して経済力を強化したドイツが英米間の海上輸送を寸断するか対英上陸作戦を実行し、さらに日本が東南アジアを占領して資源を獲得して国力を強化し、イギリスが屈伏すれば、アメリカの戦争準備は間に合わず抗戦意欲を失って講和に応じるかもしれない。日本も消耗するが講和の結果南方の資源を獲得できれば少なくとも開戦前の国力は維持できる。

 つまり、日米間の国力の巨大な格差を正確に指摘した秋丸機関の報告書を踏まえれば、開戦が無謀であることはわかるのですが、プロスペクト理論に基づけば、それぞれの選択肢が明らかになればなるほど「現状維持よりも開戦した方がまだわずかながら可能性がある」というリスク愛好的な選択へと導かれてしまうのです。

「正しい情報」が「正しい決定」につながるのであれば「開戦回避」という結論になるはずですが、実際は上記の通り、むしろ「正しい情報」ゆえに「開戦」という結論が下されたと考えられるのです。もちろんこれは単純化した説明であり、牧野氏の著書では、他の様々な要素(日本の指導者の長期的なビジョンの欠如、集団心理による強硬論の支持など)も、開戦の意思決定に重要な影響を与えていたことが示されています。

 現代でも「正確な情報があったはずなのに、なぜこのような残念な結果になってしまったのか」と疑問に思うことがしばしば起きています。そうした失敗を繰り返さないためにも、80年前の日米開戦の教訓から学ぶ価値がありそうです。』…。

 ※ まあ、そういう「理論」で、「理屈づけ」することも、できるんだろう…。

 ※ しかし、「敗戦」の結果を考えれば、何が何でも「開戦」すべきでは無かった…。
 ※ 事が終わってから、「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び…」などと言っても、追いつくものでは無い…。

 ※ 「満州」を共同経営する…、「満州」をそっくり進呈する…くらいの、「思い切った策」があるべきだった…。たとえ、「自分の手足を、斬り落とす」ことになっても…。
 ※ それも、海外に人と兵員を駐在させすぎて、日本国内だけでは、「収容しきれない」との判断だったのか…。

 ※ しかし、それでも、原爆2個も落とされたり、東京大空襲で「焼夷弾」で多数の犠牲者出すよりは、マシだった…。

 ※ 戦争とは、「ある国家目的を達成するための、一手段」に過ぎない…。

 ※ 国家の生き残り、国民の平穏な日常生活の確保の方が、上位の価値に立つ…。

 ※ プランとは、AもBもCもDもあってこその、プランだ…。

 ※ 国家の戦略とは、「軍事一辺倒」では無く、「外交一辺倒」でも無く、両者を自在に「混合」させて、硬軟取り混ぜて、遂行して行くものだ…。

 ※ 昨今の情勢を見ると、そういう「痛い教訓」が、あまり汲み取られていないように見受けられることを、危惧する…。

極秘文書から見えた 新しい“山本五十六”

極秘文書から見えた 新しい“山本五十六”
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211203/k10013366201000.html?utm_int=news_contents_tokushu_001

 ※ 感想を言わせてもらえば、そういう「偉人伝」は、いくら読んでも、あまり役には立たないと思う…。

 ※ それよりも、「今現在の情勢分析」の精度を上げることの方が、ずっと大事だと思う…。

 ※ 山本五十六は、もういない…。

 ※ 彼の頭脳は、失われて、もう戻っては来ない…。

『その結果明らかになったのは、太平洋戦争が始まる7年前に、山本五十六が携わったある外交交渉の舞台裏でした。

当時、世界では第一次世界大戦の反省から、各国が保有する軍艦の数を制限する条約を締結。

ところが日本は、アメリカやイギリスより持てる軍艦の数が少なかったために、「国家の威信に関わる」として、「条約破棄も辞さない」強気の姿勢を示していました。
特集ドラマ「倫敦ノ山本五十六」より ロンドン軍縮会議予備交渉
そうしたなかで、1934(昭和9)年、ロンドンで行われたのが軍縮会議の予備交渉。

その海軍代表を命じられたのが、世界に名前が知られる前の山本五十六だったのです。

今回見つかった資料には、山本五十六がどんな言葉で交渉を進めたのか、つぶさに記されていました。
一言一句が明らかになるのは初めてのことです。』

『意外なことに、山本がアメリカやイギリスに対して、あわよくば妥協案を出して歩み寄ろうとしていたことがわかってきました。

山本は日本海軍の代表でありながら、いったいなぜ、その方針とは異なる行動をとろうとしていたのでしょうか。』

『「備忘録」のなかで私たちが最も注目したのは、“心構”と題されたメモ書き。
山本五十六が軍縮交渉に臨むにあたって、心に決めた7つのことが列挙されていました。

「日本の根本主張は曲げない」というあくまで日本の主張を重視する姿勢。
と、同時に「できる限り協調する」として、英米と協調することの大切さも記していました。

そして、“心構”の最後に書かれていたのは「自分の責任感」という言葉でした。
国家の命運、そして国民の命を背負う責任感。

交渉の進め方次第では、日本という国の運命が、大きく変わってしまうと考えていたのではないかと感じさせる言葉でした。

組織の一員としての任務を背負いながら、心に抱える自分自身の信念を密かに記した“心構”。

遺族はそこに伝わる思いを感じ取り、丁寧に装丁し、長年手元に置き続けてきたといいます。

研究者たちもはじめて触れる、山本五十六の等身大の心情でした。

防衛大学校名誉教授 田中宏巳さん

「日本の国際的な立場を少しでも良くするところまで、考えたうえでの行動を取っていることが見てとれる第一級史料。これまでの見方を変えなければならないかと思う」

『しかし、山本五十六の思いとは裏腹に、軍縮交渉は、最後まで日本と英米の溝が埋まることはなく決裂。

日本は2年後、正式に軍縮体制から脱退し、国際的孤立をさらに深めていくことになります。』

関ケ原の戦い 誤算続きの家康が見いだした一瞬の勝機

関ケ原の戦い 誤算続きの家康が見いだした一瞬の勝機 歴史研究家の水野伍貴氏に聞く
https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXZQOLM18714018112021000000/?n_cid=TPRN0016

 ※ 今日は、こんなところで…。

 ※ これは、参考になった…。

 ※ 「家康の天下取り」と聞くと、万事「計略どおり…。」的な印象を持つ…。

 ※ しかし、何事も「そんなにうまく、計画通りに」事が運ぶハズは無い…。

 ※ 家康の「真骨頂」は、『戦略は常に複層的』に貼り巡らせて、いわば「プランAがはずれれば、プランB」「プランBがはずれれば、プランC」「プランCがはずれれば、プランD」…と、次々に繰り出したところにあるんだろう…。

 ※ そういう「はずれた時にも」慌てずに、沈着冷静に「一瞬の勝機を掴んだ」ところにあるんだろう…。

 ※ むろん、その「勝機を掴む」までに至る「前提」「環境構築」の「周到さ」に、彼の「美質」があるんだろう…。

 ※ やはり、三成とは、「人生経験の積み重ね」の差が、出たような気がする…。

『約420年前の関ケ原の戦い(1600年)で、日本中の大名は徳川家康の東軍と石田三成らの西軍とにはっきり二分され、中立はほとんど許されなかった。この一戦は、家康が豊臣秀吉の死後に緻密に計画し、三成ら反家康派を決戦に誘い込んだとされる。しかし、実際には家康の計画は誤算も少なくなかった。それでも局地的な作戦成功に一瞬の勝機を見い出し、迅速な行動で決戦を仕掛けて覇権を握った。現代の経営者にもヒントとなる家康の戦略を歴史研究家の水野伍貴氏に聞いた。

 秀吉が亡くなった1598年8月の世情は暗かった。文禄・慶長の役(1592年~)で朝鮮半島の外征軍は苦戦しており、京都は慶長伏見地震(1596年)の打撃から立ち直れていない。治安も悪化していたという。秀吉は死後に備え、五大老(徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家)と三成ら五奉行を組み合わせた体制を敷いた。実権は奉行衆にあり三成は常務・社長室長といった役割だ。五大老は社外取締役的な立場で、奉行衆の手にあまる問題を裁定したという。「関ケ原への道」(東京堂出版)の著者である水野氏は「家康は秀吉死去以前から政権獲得へのビジョンを描いていた」と分析する。航海船が難破したオランダ人らを自分の領地に引き入れて、欧州の先端技術の習得を目指していた。ライバル側も家康の野心を敏感に感じ取っていた。奉行衆と毛利輝元は、秀吉が亡くなった10日後に早くも同盟関係を結んだ。

 「ライバルを1人ずつ失脚させるのが家康の戦略だった」
「家康の戦略は常に複層的だった」と話す水野伍貴氏

 「家康の最初の計画は、政権中枢にいない有力大名を味方に引き入れることだった」と水野氏。おきて破りを承知で婚姻関係を結ぼうとした伊達政宗は、傍流か地方子会社のトップといった立ち位置だ。家康を除く三成ら大老・奉行の全メンバーは猛反発したが、逆に三成が3カ月後に家康派の加藤清正らから告発を受け失脚してしまった。毛利輝元は家康と「兄弟同然」に交友するという書状を交わし、反家康同盟は約1年で崩壊した。

 「ライバルを1人ずつ失脚させるのが家康の戦略だった」と水野氏は話す。次は前田利家の後を継いだ新大老の前田利長で、家康暗殺をたくらんだと謀略に巻き込み、実母を人質として江戸に送る条件で屈服させた。ただし前田家と姻戚関係にあった大老の宇喜多秀家は不問にした。1回に1人しか相手にしない方針を徹底した。 家康は大坂城を掌握し、奉行衆も家康に従った。

 家康は1600年春、会津・上杉景勝の討伐を目指した。景勝に上洛を促し、返書が戻ってくる前に家康が総大将となる「会津攻め」の準備を始める手回しの良さだ。畿内を留守にすれば反家康派が行動を起こす予感はあっただろう。「しかし小規模にとどまると楽観していた」と水野氏。

 奉行衆の離反で家康の権力構造崩壊

 ところが家康と兄弟同然のはずだった毛利輝元が迅速に動き、三成らに担がれるというより自ら積極的に、西軍の総大将に収まった。第1の誤算だった。宇喜多秀家も加わった。「前田、上杉と続けば次に失脚させられるのは自分らだと恐れたのだろう」と水野氏は分析する。第2の誤算は豊臣政権内で家康の権力行使を補完していた奉行衆も寝返ったことだ。家康は、三成のクーデターを知った後でも奉行は自分の味方だと錯覚し、その関係を手紙で大名らにアピールしていたという。大坂城も押さえられた。「軍事力の問題にとどまる毛利輝元の場合と異なり、奉行衆の離反は家康の権力構造の崩壊を意味した」と水野氏。より危機感を募らせたという。

 家康からすれば北の上杉、西の毛利に挟撃されるのが怖い。三男の徳川秀忠(後の2代将軍)をしばらく下野(栃木県)に置き、会津攻めに参加していた福島正則ら豊臣系大名を清洲城(愛知県)に派遣した。家康自らは江戸から動こうとせず長期抗戦の態勢を敷いた。長期戦になるとの予想は西軍も同じで、毛利軍は四国などを攻めていた。

 岐阜城陥落成功で長期戦構想捨てる
水野伍貴氏の著書「関ケ原への道」(東京堂出版)

 水野氏は「家康の第3の誤算は、清洲城の先発隊が予想以上に戦闘意欲が旺盛で強かったことだ」とみる。福島正則らは1日の戦闘で難攻不落といわれた名城の岐阜城を陥落させた。この勝報を受け取るや、家康は長期戦の構想をあっさり捨て、即座に江戸を出発した。スピード行軍で先発隊と合流し、秀忠の別動隊到着も待たずに関ケ原の戦いに臨んだ。

 水野氏は「家康の戦略は常に複層的だった」と話す。婚姻問題は武力衝突も視野に入れながら、最終的には対立した前田利家と妥協した。三成を失脚させた時は調停者として振る舞い、加藤清正らが主張する切腹処分を退けた。ただ関ケ原の戦いにおける一番の勝因は、誤算だらけの中で一瞬の勝機を見いだした機敏さだろう。「自分が参戦しない形で、戦いが終わることを家康は恐れたのかもしれない。戦後の発言力に関わってくるからだ」と水野氏はみている。

 (松本治人)』

興雲院(通称:お鍋の方(おなべのかた))

興雲院(通称:お鍋の方(おなべのかた))
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E9%9B%B2%E9%99%A2

 ※ 今日は、こんなところで…。

 ※ ネット見てたら、「信長をめぐる3人の女たち」というネット動画に当たった…。
https://youtu.be/LcseBKigUYw

 ※ 「濃姫(帰蝶)」「吉乃(きつの、生駒御前)」しか、知らんかったんで、「3人目って、誰?」と、興味津々で視聴した…。

 ※ そしたら、下記の「お鍋の方」という人だった…。

 ※ さらに、「側室」について調べた…。

 ※ そしたら、出るわ出るわ…、ゾロゾロ出てきた…。「三人」どころの、話しじゃ無かった…。

 ※ あまつさえ、「同時並行」で「側室」囲ってた…。

 ※ まあ、そうだよな…。この時代の「側室」は、「一族の繁栄」をかけた、一大事業だったハズだ…。

 ※ 子の出来が良ければ、「後継者候補」にするし、そうでもなければ、「重臣」つけて、「要衝」の守備に任ずる…。

 ※ どっちにしろ、「子」は多い方が良かった…。乳児死亡率は、高かったしな…。

 ※ 「保険」は、分散して、多く掛けるに越したことは無かったわけだ…。

 ※ まあ、オレの信長像は、その殆んどが「時代小説」で形成されたものだ…。

 ※ 夢々、それを「史実」だと思っては、いかんかった…。

『興雲院(きょううんいん、? – 慶長17年6月25日(1612年7月23日))は、織田信長の側室の一人。

近江国野洲郡北里村の土豪・高畑源十郎の四女[1]。通称はお鍋の方(おなべのかた)。しかしながら、お鍋宛の書状の宛先は「小倉」「小椋」などとなっており、系譜類では「小倉三河守女」との記録も残り、当時の女性は実家の姓を名乗る事から、高畑氏であると言う説には疑問が残る。また、本能寺の変後、お鍋が実家の小倉氏の元に戻っていたとする文献もある。 』

『生涯

俗説では、はじめ近江国の八尾山城主である小倉実房(実澄)に嫁いで[1]、この間に二人の男児(小倉甚五郎・小倉松寿)をもうけた。実房が蒲生定秀に攻められ戦死した後は信長の側室となり、織田信高(諸説あり)・織田信吉・於振(水野忠胤・佐治一成室)をもうけている。

天正10年(1582年)に本能寺の変で信長が死去した後は、6月6日に美濃国長良の崇福寺を信長の位牌所と定め、いかなる者の違乱を許さないとお鍋が自筆で、この寺の住職に命じている[2]。信長の位牌を安置し、菩提を弔うという行為を側室のお鍋が行っており、織田家中における地位の高さが推測できる[2]。ただし、崇福寺に残る位牌所設置の書状の署名が「なへ」であるため、興雲院の書状であろうとされているが、「なへ」は当時の一般的な女性名であるため、興雲院ではない可能性もある。なお、次男・松千代は本能寺で信長に殉じた。

こうした経緯を経て羽柴秀吉の庇護下に置かれ、化粧領(化粧料とも)として近江国神埼郡高野村で500石を与えられた[1]。秀吉の正室・おねに仕えて孝蔵主・東殿(大谷吉継の母)と共に側近の筆頭であったという。長男・甚五郎が天正11年(1583年)に加賀松任城主に任じられたという記録もあり、豊臣政権の奥向きにあって重きをなしたことは確かなようである。お鍋が秀吉の側室・松の丸殿の侍女であった可能性も指摘されている[3][4]。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで子の信吉が西軍について改易されたため連座して500石の化粧領を取り上げられる。そこで困窮したお鍋に豊臣秀頼(実質は淀殿)から50石の知行、北政所からは30石の知行が与えられ、共同でお鍋の晩年を支えた[5]。京都で晩年を過ごしている。慶長17年(1612年)6月25日、死去した[1]。墓所は京都の大徳寺塔頭総見院[1]。文学に造詣が深く公家との交流があったという。 』

『登場作品

信長 KING OF ZIPANGU 1992年 NHK大河ドラマ、演:若村麻由美
織田信長 1994年 テレビ東京、演:森崎めぐみ
秀吉 1996年 NHK大河ドラマ、演:櫻井公美
信長の棺 2006年 テレビ朝日、演:浅野ゆう子 』

Category:織田信長の正室と側室
https://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%81%AE%E6%AD%A3%E5%AE%A4%E3%81%A8%E5%81%B4%E5%AE%A4

坂氏 (人物)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%B0%8F_(%E4%BA%BA%E7%89%A9)

慈徳院 (織田信長側室)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E5%BE%B3%E9%99%A2_(%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7%E5%81%B4%E5%AE%A4)

土方氏 (信長側室)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E6%96%B9%E6%B0%8F_(%E4%BF%A1%E9%95%B7%E5%81%B4%E5%AE%A4)

養観院
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%8A%E8%A6%B3%E9%99%A2