「侵攻」憲法点検の機会に ウクライナ危機で浮き彫り

「侵攻」憲法点検の機会に ウクライナ危機で浮き彫り
憲法施行75年
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA15D0Z0V10C22A4000000/

『ロシアのウクライナ侵攻は憲法が厳しい安全保障環境にどこまで対応できるかという論点を浮き彫りにした。

ウクライナ政府は侵攻後に戒厳を宣言し出国を制限した。日本の憲法には規定のない緊急事態条項に基づく。

有事の備えは十分なのか。施行75年を迎えた憲法を点検する機会となる。

ロシアによる侵攻がはじまる前日の2月23日。ウクライナは憲法に基づき非常事態を呼びかけ、24日には戒厳を宣言した。18~60歳の男性の出国を原則禁止という措置を講じ、ウクライナにとどまる男性が目立った。

ウクライナ憲法は議員任期の延長も規定する。ロシアの侵攻という危機に憲法や法律を整えていた。

「多くの法律を成立させ厳然と議会機能を維持している。敬意と感動を覚える」。3月17日の衆院憲法審査会。公明党の北側一雄副代表はウクライナ議会の動きを紹介した。「議員の任期延長の論点を早急に詰めるべきだ」と指摘した。

ウクライナを含む米欧の主要国は非常事態時の対応を明文で位置づける。

世界各国の憲法の9割が盛り込む。

日本国憲法は武力行使や大規模災害などの非常時に政府の権限を強める緊急事態条項を持たない。

緊急事態への憲法の規定は54条に参院が「緊急集会」を開き、国会の機能を維持できると定めるにとどまる。

54条は条件を「衆議院が解散されたとき」と解釈される。衆院議員の任期満了時に開催できるかを巡っても専門家の意見が分かれるのが現状だ。

政府権限の強化と同時に、人権の制約を認めるか否かといった点も論点となる。民主主義国家の8割近くの憲法に「人権の制限」がある。緊急事態が行き過ぎた措置とならないようチェックする仕組みを設ける国もある。

ウクライナ侵攻で憲法9条が意識されたのがゼレンスキー大統領の演説だった。3月下旬に日本の国会でオンライン演説に臨んだ際、ロシアへの経済制裁の評価など日本の援助に謝意を示す言葉が並んだ。

米国や韓国の議会では兵器の供与などを相次ぎ要求した。コルスンスキー駐日大使は4月1日の記者会見でゼレンスキー氏の演説に関し「憲法9条や日本の政治的な環境を認識し、理解したうえで言葉が選ばれた」と説明した。

米欧諸国は対戦車ミサイルや地対空ミサイルを供与する。日本はヘルメットや防弾チョッキといった殺傷能力のない資材に限る。憲法9条を背景に海外への防衛装備輸出のルールを定めた「防衛装備移転三原則」に沿って対応した。

ロシアによるサイバー攻撃でも日本の憲法の特性が改めて浮き彫りになった。

ロシアは物理的な攻撃と並行しサイバー攻撃を展開した。ウクライナが米側の協力を受けて電力や通信、交通などの重要インフラを維持したことが善戦の一因となった。

日本は9条に基づく専守防衛の原則や21条の「通信の秘密」が敵国のネットワークへの侵入などといった対応を制限する。

積極的な防衛体制(アクティブ・ディフェンス)と呼ばれる防衛措置にも慎重で、サイバー空間への対処は遅れている。

政府権限、新型コロナでも論点に

 4度目の緊急事態宣言が発令され、閑散とする福岡市の繁華街・中洲=20日夕

現憲法で非常事態に対応できるかという議論は新型コロナウイルスの感染拡大時にも浮上した。

日本は憲法だけでなく新型コロナに適用できる法体系がなく、国内の感染拡大後に特別措置法を整備した。欧州各国は憲法に基づき移動制限などの措置を発した。

新型コロナ対策で飲食店などに休業を要請する緊急事態宣言は2020年3月の新型インフルエンザ等対策特別措置法の改正ではじめて可能となった。それでも病床の確保などが機能しなかったため、21年2月に国や自治体の権限を強める感染症法を追加で成立させた。

急ごしらえの法整備には異論が相次いだ。飲食店チェーンのグローバルダイニングは時短の命令が違法・違憲だと主張し、損害賠償を求めて都を提訴した。感染拡大の防止策が営業や外出の「自粛要請」が柱となったためだ。

諸外国は欧州を中心にコロナ禍で緊急事態条項を活用した。イタリアやスペインは人の移動を禁じて交通機関も止め、イスラエルはロックダウン(都市封鎖)を実施した。

フランスは一時、生活必需品の買い物など政府が認めた目的以外の外出には罰金を科して違反を繰り返せば禁錮刑とした。

立憲民主党など野党は新型コロナへの対応と改憲は別問題だと主張する。

宣言と21年の特措法改正で新設された宣言に準じるまん延防止等重点措置の適用で対処できるとの声もあがった。政府は収束を見据え6月にも総括的な検証に入る。

国民投票法を巡り意見交換が行われた衆院憲法審査会

憲法審、論議活発に

衆参の憲法審査会は憲法に関する本格的な議論を再開した。衆院は3月中旬以降、毎週木曜に定例で開き今国会で10回以上となった。2018~21年の通常国会は2~4回にとどまっていた。2桁に達するのは13年以来9年ぶりとなる。

ウクライナ侵攻などを巡る緊急事態条項といった議題について審議した。21年秋の衆院選で議席を伸ばした日本維新の会が衆院憲法審の定例開催を求めて、機運が高まった。

改憲手続きを定めた改正国民投票法が成立し、憲法論議の前提となる課題の処理が進んだ。国民投票法改正案は18年6月に提出され、成立に3年を要した。立憲民主党などが法改正を巡り「CM規制」の強化を訴え、与野党で平行線が続いていた。

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・私が考える憲法「危機時の自衛隊」「緊急事態条項」
・私が考える憲法「サイバー空間定義を」「価値観は多様」』

講和条約から70年 国家主権と国際ルールつなぐ法整備を

講和条約から70年 国家主権と国際ルールつなぐ法整備を
編集委員 大石格
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD26AWP0W2A420C2000000/

第2次世界大戦で敗れた日本が米国などと締結したサンフランシスコ講和条約が発効して、今年で70年になる。きょう4月28日はいわゆる「主権回復の日」である。国家主権の重要性は、ロシアのウクライナ侵攻によって再認識させられたが、一方で国際化の進展で国家主権と国際ルールがうまく合わない事例も増えている。両者をつなぐ法整備が必要だ。
4月28日は「主権回復の日」
Nikkei Views
編集委員が日々のニュースを取り上げ、独自の切り口で分析します。

28日を主権回復の日と呼ぶ運動を始めたのは小堀桂一郎東大名誉教授だ。1998年に出版した「『国家主権』を考へる」で、「押しつけ憲法をあれだけ祝っておきながら何故(なぜ)独立主権の回復を祝うという気がなかったのか」と国民意識を批判した。これに共鳴した安倍晋三氏は首相在任中だった2013年に政府主催で主権回復の日を祝う記念式典を開催した。
「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」。退席する天皇、皇后両陛下(当時)を万歳三唱で見送る出席者(2013年4月28日、東京・永田町の憲政記念館)

ここでいう国家主権とは要するに独立国かどうかということだ。主権にはもっとさまざまな側面がある。明治政府は1889年に大日本帝国憲法を発布した際、国家主権は天皇にあると定めたが、そもそも主権とは何かをめぐり、意思統一はできていなかった。
明治の思想家の植木枝盛(国会図書館のデジタルアーカイブより)

「主権を以(もっ)て法律制定の権と為(な)す」。自由民権運動の指導者として知られた植木枝盛は1882年に発表した「国家主権論」にこう記した。天皇や将軍の権威による支配でなく、法制度が整うことで国家たり得るという考え方だ。

こうした考え方も踏まえ、明治政府は憲法制定後、矢継ぎ早に法律をつくる。そのひとつが「法例」だった。日本がつくった法律の適用範囲を明記したものだ。

幕末から明治維新にかけては、ある意味で現代を上回る国際化の時代である。日本の主権は出だしから外国の法律や国際ルールと重なる部分をどう取り扱うのかに頭を悩ませたわけだ。ちなみに法例は現在の国際化の波に対応するため、2006年に全面改正され、名称も「法の適用に関する通則法」に変更された。
国際協調で変わる日本の主権概念

戦後日本は、国際協調主義を掲げて再スタートした。そこで、いまの憲法に明記したのが条約順守義務である。98条は「国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵(じゅん)守することを必要とする」と強調する。

日米安全保障条約のような2カ国条約であるか、国際人権規約のような国際条約であるかを問わず、締結して批准したら、法律と同等の拘束力が生じる。国家主権を法制度と捉えれば、主権が部分的に国際ルールに置き換わった、言い換えれば制限された状態になるのだ。

国内法と条約の関係については、電子版コラム「憲法のトリセツ」2019年3月号も参照してほしい。

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問題は、日本国内と国際社会において概念が異なる制度が少なくないことだ。例えば、日本では軍隊と警察は全く異なる存在とみなされるが、諸外国、特に途上国においては軍隊が日常的な治安業務も担当していることが珍しくない。警察がある場合でも、反政府ゲリラと戦えるだけの重武装だったりする。
PKOであらわになった世界とのズレ

日本は1992年にカンボジアにおける国連平和維持活動(PKO)に自衛隊を派遣した。国内の反対論を意識し、文民である警察官も派遣した。そのひとりである高田晴行警視は武装集団に襲われて殉職した。日本での警察活動を念頭に置いて、丸腰に近かった。

警察庁は、海外では重武装できる法整備を求めるのではなく、派遣そのものに応じなくなった。ようやく2006年に再開したが、武器携行基準の見直しはいまもなされていない。武器携行の国内基準と国際水準のずれは、諸外国の軍隊と自衛隊の間にもある。武器携行基準を明確にする法整備はした方がよい。

日本と諸外国の法制度の違いを埋める方法のひとつに、地位協定の締結がある。地位協定というと、日米間のものが有名だが、日本が自衛隊などを海外派遣する際にも結ぶことがある。1994年にザイール(現コンゴ)と交換公文を交わし、2003年にクウェートと、09年にジブチと地位協定を締結した。いずれも自衛隊員らが公務中に犯した罪の裁判権は日本にあると定める。後者には自衛隊が持ち込む物資への関税免除なども記載された。
2009年に日本はジブチと地位協定を締結した

これらをめぐり、日米地位協定と同じような課題も出ている。例えば、ジブチの自衛隊駐屯地でも新型コロナウイルスの感染者が出たが、協定上は駐屯地は治外法権であるため、ジブチ政府による出入り者の検疫は実施されなかった。

日本では、今年初めのコロナの第6波の流行の初期、沖縄、山口、広島3県で爆発的な感染増がみられ、米軍基地からの染みだし感染ではないかとされたが、基地内の立ち入り検査などはできなかった。日本も同じことをジブチでしていることになる。
連合組織と国家主権、悩む欧州

国際秩序において、課題となっているのは、国際機関、なかでも欧州連合(EU)のような一定の統治権を持っている組織と加盟国の主権の関係だ。EUに加盟すると、財政の健全化などが求められるので、財政や金融に関する独自の政策は進めにくくなる。それへの不満などが積もり積もって暴発したのが、20年の英国のEU離脱である。

ウクライナ侵攻によって、EUは一時的に結束力を取り戻しつつあるようにみえるが、国際化の反動としてのナショナリズムの高まりは加盟国の多くで極右勢力が台頭していることからも、うかがえる。龍谷大の高橋進名誉教授は、こうした現象を「再国民化」と呼んでいる。

今後の世界においては、サイバーや宇宙といった従来の主権概念では対処できない分野の課題が増えることが予想される。すでに問題になっているものとしては、海外にあるサーバーを通じた漫画などの著作物やわいせつ映像の流通などが挙げられる。

主権とは何か。それぞれの国の意思はどこまで尊重されるべきなのか。包括的に考え、わかりやすい法制度をつくる必要がある。一般に保守派は国家主権の制限に否定的だが、国家的な損得を考えるのであれば、進むべき方向性は明らかだ。

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鎌倉殿:「13人も覚えられない!」人への早分かり

鎌倉殿:「13人も覚えられない!」人への早分かり、注目はこの5人の争い(5)
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c10904/

 ※ 今日は、こんなところで…。

 ※ 北条氏の支配が確立するまでには、こういう「ドロドロした」「権謀術策」があったんだな…。

 ※ 大体の流れ(政治史)としては、

 守護・地頭の設置 → 鎌倉幕府の成立 → 承久の乱(後鳥羽上皇vs.鎌倉幕府、北条政子の有名な檄)→ 鎌倉幕府側の勝利 → 御成敗式目の制定 → 元寇 → 勝利するも、領地を分配できず、鎌倉幕府の弱体化 → 混乱 → 室町幕府の成立 → しかし、有力守護大名の連合体で、幕府の支配力は弱かった → 応仁の乱 → 戦国時代に突入…、という感じか…。

 ※ 経済史としては、「荘園公領性」で、相も変わらず「国衙」由来の「公領」と、「荘園」の二本立てが続くんだよね…。
 その中から、戦国大名が「一円知行」の支配を行い、「太閤検地」で「一地一作人」が推し進められて、やっと「重層構造」が解消したらしい…。

 ※ 文化史としては、室町幕府の支配力が弱かったために、「文化」が隆盛となった…。「年貢」として取り立てる力が弱く、ある程度「庶民」の取り分が残ったんだろう…。
 ※ 能、茶の湯、生け花なんかの、いわゆる「日本文化」は、殆んど「室町時代」由来だ…。

 ※ 「文化活動」には、「庶民のゆとり」が不可欠だといういい例だな…。

『「2代目は無能」のウソ

なぜ頼家の時代に有力御家人の合議制に移行したのか。以前は「2代目の頼家は能力不足で遊びほうけているから」と言われていた。よく取り上げられるエピソードとして、御家人同士の土地争いに立ち会った頼家のいい加減な裁定ぶりがある。鎌倉時代の史書『吾妻鏡』には、頼家の発言としてこんな記述がある。

「土地の広狭は、その身の不運によるべし。使節の時間を費やして現地を実検することは無駄である」

『吾妻鏡』の1200年=正治2年=5月28日条より(国立公文書館所蔵)

頼家はこう言って、地図に適当に線を引き、裁定したとされる。ほかにも、蹴鞠(けまり)にうつつを抜かしたり、御家人が出陣して鎌倉を留守にしたのを機に、その彼女を我が物にしようとしたりするなど、『吾妻鏡』に描かれた頼家はとにかく評判が悪い。

しかし、近年はこうした「頼家=無能」説に疑問が投げ掛けられている。『吾妻鏡』はもともと北条得宗家(本家)が編さんした書とされ、当時、頼家から政権奪取を望んでいた北条家の立場を正当化するため、頼家が必要以上に無能者として描かれている可能性がある。

鎌倉歴史文化交流館の山本みなみ学芸員は、著書『史伝 北条義時』(小学館)の中で、別の史書『六代勝事記』を引用しながら、頼家が「実際は武勇に優れ、鎌倉殿にふさわしい人物であったといえる」と指摘している。

動機は北条時政の権力掌握

1199年に「13人の合議制」が発足したが、全員がそろって話し合った形跡すらないと言われる。

東大史料編纂所の本郷和人教授は著書『鎌倉13人衆の真実』(宝島社)の中で、合議制について、北条時政が野心をたぎらせ「(2代)将軍の権力を制限し、幕府の実権を握るための方策だった」と記している。

発足当初こそ、「腰の低い謙虚な時政に二心ありとは誰も思わなかったのではないだろうか」と本郷氏。確かに、その後の展開を見ると、時政は孫に当たる2代将軍・頼家やライバルの有力な御家人を次々と追い落としていく。

13人の詳細なプロフィールは「『鎌倉殿の13人』って、いったい誰?」を参照していただくとして、この中から「主要人物」をあえて5人に絞って概観してみたい。

「北条」対「反北条」

北条時政は娘の政子に婿を取り、初代将軍・頼朝の舅(しゅうと)として鼻高々のまんざらでもない生活を送って来た。

ところが、頼朝の死で権力喪失の危機に目覚めたのだろうか。

一方、ライバルの実力者、比企能員(よしかず)も2代将軍・頼家の舅という立場を利用して、虎視眈々(たんたん)と権力の座を狙っていた。この2人は激突(比企の変、1203年)し、時政に軍配が上がる。これが第1ラウンドだ。

比企一族の墓がある妙本寺(鎌倉市大町)=筆者撮影

第2ラウンドは親子対決である。初代執権となった時政は権力を握った途端、専制に走る。

若い後妻「牧の方」を寵愛(ちょうあい)する時政は、その気まぐれに振り回され、やがて息子の北条義時に「武士の鑑(かがみ)」との誉れ高かった畠山重忠を討つよう命じた。

「謀反を図ろうとしたから」というのだが、明らかな冤罪(えんざい)であり、義憤を抑えきれぬ義時は父・時政と継母を鎌倉から追放する。

北条義時邸があったとされる現在の宝戒寺(鎌倉市小町、鶴岡八幡宮そば)=筆者撮影

そして義時に残されたライバルはただ一人。軍事を司る侍所の初代別当(長官)だった実力者、和田義盛だ。

両者の対立は将軍御所を中心に大規模な市街戦(1213年)に発展したが、相手の軍勢を打ち破った義時は、もはや「敵なし」の地位にまで上り詰めた。

和田塚の石碑(江ノ島電鉄「和田塚」駅から徒歩1分)=筆者撮影

もう一人の実力者は、頼朝の側近で義経追討に暗躍した梶原景時だが、第3回の「太刀洗」でも取り上げたように、重用され過ぎとの御家人衆の嫉妬を買い、1199年に早々に失脚。

頼朝・頼家派の重鎮の退場は「13人衆」のパワーバランスを崩し、北条優位に傾くきっかけとなった。

ここまでが5人を巡る権力争いのあらましだ。

初代将軍・頼朝から2代将軍への順当な代替わりは起こらず、隙あらば有力御家人たちが覇を競ってしまう。平家という「共通の敵」を失ったことが関係しているのかもしれない。

約400年後に発足する江戸幕府は将軍を頂点とする統治システムが確立していたのと違い、初期の鎌倉幕府はまだまだ不安定だった。

朝廷と闘った武将

鎌倉幕府内の政争を勝ち抜いた北条義時が、その先に立ち向かう相手は何と朝廷である。
かねて幕府を朝廷の管理下に置き、支配しようと考えていた後鳥羽上皇が、ある出来事をきっかけに「義時追討の院宣」を出した。武家が朝廷の権威に立ち向かうのは、恐れ多いことだったが、「売られた喧嘩(けんか)」を看過したままでよいものかどうか―。

対応を協議する幕府側の歴史的な軍評会議で、「13人」の中でも文官(実務官僚)である大江広元と三善康信の長老2人、そして尼将軍・北条政子の言葉が座の空気を決する。

果たして、この決戦の行方は?

バナー写真:13人の合議制の成立を記した『吾妻鏡』の一節(1199年=建久10年=4月12日条、右ページ)。

「様々な訴訟は羽林(頼家)が直接、判決を下すことを停止する」として、13人の名を挙げて「話し合って処置すること」とある(国立公文書館所蔵)

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持田 譲二(ニッポンドットコム)MOCHIDA Jōji経歴・執筆一覧を見る

ニッポンドットコム編集部チーフエディター。時事通信で静岡支局・本社経済部・ロンドン支局の各記者のほか、経済部デスクを務めた。ブルームバーグを経て、2019年2月より現職。趣味はSUP(スタンドアップパドルボード)と減量。』

おくのほそ道:名句がちりばめられたフィクション紀行文

おくのほそ道:名句がちりばめられたフィクション紀行文
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g02067/

 ※ 今日は、こんなところで…。

 ※ 『曽良が残した日記によって旅の様子が分かるが、『おくのほそ道』には実際と違う記述が多数含まれている。芭蕉は、現実の旅の体験をベースにしながら、独自の趣向を組み込んで紀行文を創作したのである。その意味ではほとんど空想上の旅の記録とも言え、古典文学の紀行文の中では特異な作品となった。』…。

 ※ なーる…、奥の細道は「紀行文」の形態を借りた「フィクション」か…。

 ※ 『いずれも写本であって、芭蕉には最後まで『おくのほそ道』を出版しようという意志はなかったと見られる。芭蕉が同書を写本でのみ残した意味は何か。当時は美しく仕立てられた一点物の写本の方が出版物よりも高級なものと意識されていたが、それも理由の一つかもしれない。さまざまな見方ができるが、芭蕉にとってそれは未完成の作品であって、さらに推敲を重ねるつもりだったのではないだろうか。』…。

 ※ 「未完の大作」だったわけだ…。

 ※ 『3. 旅人を西行の追随者とする

  語り手は「予(よ)」と自称するが、芭蕉本人であるとはどこにも書かれていない。    芭蕉は「予」を、西行を慕いその行動に追随する旅人として造形している。』…。

 ※ ここも、薄っすらと聞いたことがあるような気もするが、あまり記憶に無い…。

 ※ 今回、改めて再認識した…。

 ※ 『こうした発見によって、『おくのほそ道』研究は20世紀半ば以降大きく進み、現在もなお深化の途上にある。』…。

 ※ そういうことで、まだまだ「解明されていない部分」が、あるようだ…。

『 西行五百年忌の年に旅立ち、その足跡を辿る

1689(元禄2)年旧暦3月末、数え年46歳の松尾芭蕉は4月から9月までに陸奥(みちのく)から出羽、そして北陸を旅した。主要な地名によってその道筋を示せば、江戸の深川をたち、日光・白河・福島・仙台・松島・平泉・尾花沢・出羽三山・象潟・新潟・高田・金沢・山中温泉・福井・敦賀・大垣へと至る旅であった。

江戸から山中温泉までは門人の河西曽良が、金沢から福井の手前までは金沢の俳人・立花北枝が同道した。各地の歌枕や古戦場などの史跡を訪ねることと、訪れた地の俳人と会って連句を興行し芭蕉流の俳諧を伝えることが主な目的だった。その年が西行の五百年忌に当たることも、旅の大きな動機の一つと考えられる。西行も陸奥平泉への歌枕を訪ねながら旅をしている。本文中随所に芭蕉が西行の存在を強く意識していたことが伺われる。そして、芭蕉が紀行文『おくのほそ道』を編集したのは、旅の3年後の1692(元禄5)年から1694(元禄7)年の没年までの2年間と推測される。

曽良が残した日記によって旅の様子が分かるが、『おくのほそ道』には実際と違う記述が多数含まれている。芭蕉は、現実の旅の体験をベースにしながら、独自の趣向を組み込んで紀行文を創作したのである。その意味ではほとんど空想上の旅の記録とも言え、古典文学の紀行文の中では特異な作品となった。同書に芭蕉が組み込んだ趣向は、大きくまとめて以下の3つである。

  1. 時間を意識する

全体は春の末から秋の末までの旅だが、その間の季節の推移や年中行事に非常にこだわっている。また、はるか昔の遺物・史跡・風俗を目の当たりにして時の流れに感慨を催すことが多い。

  1. 能の発想を取り入れる

能にはシテ(主役)の亡霊がワキ(脇役)の夢に現れて思いを語る「夢幻能」の形式がある。『おくのほそ道』にもこの世の者ではない人物との対話を意識した書きぶりがあちこちに見られる。

  1. 旅人を西行の追随者とする

語り手は「予(よ)」と自称するが、芭蕉本人であるとはどこにも書かれていない。芭蕉は「予」を、西行を慕いその行動に追随する旅人として造形している。

与謝蕪村《奥の細道図屏風(びょうぶ)》 『おくのほそ道』の本文といくつかの場面の絵が、芭蕉を敬慕する蕪村の筆によって描かれている。1779年 紙本墨画淡彩 重要文化財(山形美術館・(山)長谷川コレクション)

「時」とともに旅する語り手

ではまず、冒頭部分から見てみよう。

月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老(おい)を迎ふる者は、日々旅にして旅を住みかとす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず。海浜にさすらへ、

(月日のように時間というものは永遠の旅人であって、次々に交代する年のような時間もまた、旅人である。そうした旅人に似た人間を挙げるとすれば、舟の上で一生を過ごす舟人や馬の口の手綱を引きながら老いる馬子たちで、毎日が旅であり旅をすみかとしている。彼らは旅の中で死んでゆくが、詩歌に名を残した古人にも旅の途中で死んだ人々がたくさんいる。私も旅に死ぬことを予期しつつ、いつの年からか、ちぎれ雲のように風に誘われて漂泊したい思いが抑えきれなくなり、海浜をさまよい歩き…)

ここには、1の「時間」への意識が顕著に表れている。抽象的な「時間」の概念を「旅人」になぞらえ、「予」が「時間」と道連れで旅をするかのように表現している。

具体的には「予」はこの後に、夏や秋の始まりや、端午や七夕や、盂蘭盆会(うらぼんえ)、中秋の名月といった暦の上の特定の日付にこだわりながら旅をする。

また、兄の源頼朝に追われ陸奥平泉まで逃げた源義経主従の遺物に接したり、古代の歌枕である壺碑(つぼのいしぶみ)や中尊寺金色堂などの古跡を訪ねたりしては、遠い過去に触れたことに心打たれて涙を落とすのである。

古戦場での亡霊たちへの弔い

続いて挙げるのは平泉の高館(たかだち)の箇所の後半である。高館は義経主従が討たれた古戦場。なお、義経が平泉に匿われていた時に西行もこの地を訪れている(※ それは、知らんかった…)。

偖(さて)も義臣すぐつてこの城(じょう)にこもり、功名一時(いちじ)の草むらとなる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠(かさ)うち敷きて、時のうつるまで泪(なみだ)を落しはべりぬ。

夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡

卯(う)の花に兼房(かねふさ)みゆる白毛(しらが)かな 曽良

(さてさて、義経えりすぐりの忠義の家臣らがこの高館に籠城し武功の名を挙げたが、それもわずかな一時のこと、今そこは草むらとなっている。「国破れて山河あり城春にして」「草青みたり」といった詩を吟じながら、笠を尻に敷いて時のたつのを忘れ、しばし涙を落とした。

夏草が茂っていた、私が義経家臣の武者どもの夢を見たその跡は。

白い卯の花に、義経に最後まで付き従っていた白髪の兼房の面影が見えるようだ。曽良の句)

この句文には、前述2の「夢幻能」の趣向が生かされている。

語り手「予」は義経と家臣らが滅んだ高館の古戦場で昔をしのび「時のうつるまで」泣くのであるが、そのあいだ「兵ども」の亡霊が「夢」に出て戦のありさまを語り、「予」が目を覚ますとその夢の跡はただ夏草ばかりだった、と読み取れるように趣向を立てている。

曽良にも、夢に白髪の老武者「兼房」を見たと詠ませている。

曽良の旅日記に「卯の花に」の句は記録されておらず、芭蕉がこの場面に後から付け加えた句らしい。能の役割で言えば「予」がワキからの、曽良がワキツレ(脇役の同伴者)からの、戦死者への手向けの句をささげているのである。

歌人であり仏道修行者である西行への追慕

前述3の、語り手「予」を西行の追随者とする趣向は『おくのほそ道』の随所に見いだされる。特にそれが強く打ち出されるのは、次の箇所である。

越前の境、吉崎の入江を舟に棹(さおさ)して、汐越(しおこし)の松を尋ぬ。

終宵(よもすがら)嵐に波をは運ばせて

月を垂れたる汐越(しほごし)の松  西行

この一首にて数景(すけい)尽きたり。もし一弁を加ふるものは、無用の指を立つるがごとし。

(加賀と越前の国境・吉崎の入り江に行き、舟に棹(さお)を差して汐越の松を訪ねた。

夜もすがらの強風のために汐を浴び、雫(しずく)ごとに月が光って月を垂れたように見える、汐越の松。西行の歌

この一首によって汐越の松の数々の景は表し尽くされている。もし一言でも加えるならば、5本の指にもう1本、指を加えるようなものだ)

「終宵」の歌は蓮如上人の詠と伝えられており、作者名を西行としたのは芭蕉の創意であろう。

「真如の月」の成語があるように「月」は悟りの象徴とされる。つまり『おくのほそ道』において芭蕉は、西行の仏道修行の達成を「月」によって示して「予」の西行への賛嘆の心を表すために、この歌を利用したのである。

さらに推敲(すいこう)されたかもしれない未完の作品

芭蕉が1694(元禄7)年に亡くなるまでに直接関与した『おくのほそ道』のテキストには、まず自筆稿本の中尾本(現在の所有者による呼称)がある。

それを忠実に書写したものが曽良本(曽良の家に伝えられたことによる呼称、筆者は未詳)で、書写後さらなる修正・推敲が加えられている。

そして、書家の柏木素龍(そりょう)が芭蕉の依頼によって曽良本を基に清書した本が西村本(所有者による呼称)である。素龍の清書本には柿衞本(かきもりぼん、柿衞文庫蔵)もある。

いずれも写本であって、芭蕉には最後まで『おくのほそ道』を出版しようという意志はなかったと見られる。

芭蕉が同書を写本でのみ残した意味は何か。当時は美しく仕立てられた一点物の写本の方が出版物よりも高級なものと意識されていたが、それも理由の一つかもしれない。

さまざまな見方ができるが、芭蕉にとってそれは未完成の作品であって、さらに推敲を重ねるつもりだったのではないだろうか。

生涯を終える年、芭蕉は西村本を携えて故郷の伊賀に帰り、兄の松尾半左衛門に贈った。
門人の向井去来がそれを譲り受けて、芭蕉が亡くなってから8年後の1702(元禄15)年に京の書肆(しょし)の井筒屋から刊行した。その後『おくのほそ道』は井筒屋版を基に繰り返し刊行された。

そうした経緯で長らく井筒屋版の本文のみが世に知られていたのであるが、1943年に西村本原本が、1951年に曽良本が、1959年に柿衞本が、1996年に中尾本が見つかった。

また、1943年には曽良の旅日記の存在も明らかになった。こうした発見によって、『おくのほそ道』研究は20世紀半ば以降大きく進み、現在もなお深化の途上にある。

バナー写真=与謝蕪村筆《奥の細道画巻より旅立(千住)》。芭蕉を慕った蕪村が『おくのほそ道』の本文に俳画と呼ばれる挿画を描き添えた画巻。紙本淡彩。1778年。重要文化財(公益財団法人阪急文化財団 逸翁美術館蔵)』

南部の民間人を、南軍の野営地に追いやるというのがシャーマン軍(※ 南北戦争の時の、北軍の将軍)の方針だった。

南部の民間人を、南軍の野営地に追いやるというのがシャーマン軍(※ 南北戦争の時の、北軍の将軍)の方針だった。

 ※ ウンザリする話しだが、「戦争」とか「占領」とかにおいては、「人間の飢餓状態のコントロールが、非常に重要な要素である。」という話し…。

 ※ 食わないと、死んじまうからな…。

 ※ また、「半飢餓状態」だと「コントロール」が効きやすい…。

 ※ 「食い物」で釣って、いかようにも「仕置き」が可能となる…。

 ※ 日本でも、秀吉の「干し殺し・飢え(かつえ)殺し・水攻め」が有名だ…。

(干し殺し・飢え殺し・水攻め
 https://paomaru.dousetsu.com/file/05_senjutu_024.html 

 『戦国時代には多くの名城が存在し、多くの大名は日本中に存在する数百とある城に救われたり困惑させられたりしました。数の劣勢を跳ね返す城を陥落させなければ相手の領土は奪えない。かと言って、城を落とすには多大な被害をもたらすことになる。

誰もが嫌う城攻めでしたが、特異な武将がいて、これを得意戦術にする英雄がいました。
ご存知、天下人の豊臣秀吉です。平地で行われる野戦では常に相手より多い兵力を持って勝利し、三倍の兵力を持ちながら家康に敗れた経歴があることから彼の戦術能力は疑問符をもたれていることが多いですが、その城攻めの巧妙さは誰もが認めるところです。

ちなみに妙に評価の低い信長や秀吉の野戦能力についてフォローをしておけば、彼らが直接指揮した戦闘は九割近くが勝利であり、敗北は彼らが戦場にいない時が多いという、大勢力の長であり全てを自分で指揮できないという事情があったことを忘れてはいけません。

ちなみにヨーロッパの大英雄であるナポレオンも同様の傾向があり、彼も部下の敗北を考えないと生涯勝率はかなり高いです。

さて、話を城攻めに戻します。秀吉は城攻めを得意としていました。城を力で陥落させることが得意だったのではありません。

彼の得意技は、血を流さずに勝利する兵糧攻めでした。中でも有名な三つが干し殺し・飢え殺し・水攻めの三つであり、その他にも秀吉のために陥落した城の数は数えられません。特に注目すべきなのは『飢え殺し』と『水攻め』です。

『飢え殺し』は鳥取城を包囲した時の戦いだったのですが、秀吉は戦いが始まる前に周辺の食料を高値で買いあさったと言います。その後に軍を進めて城を包囲。食料を売り払ってしまっていた鳥取城は兵糧に事欠き、なんとわずか三ヶ月で開城してしまうという有様でした。

次に紹介する『水攻め』は秀吉の城攻めの代表例みたいなものでしょう。低湿地に建設された高松城は難攻不落の要塞で、数倍の兵をそろえた秀吉はこの城を陥落させることができませんでした。しかし、部下からの奇策を採用した秀吉は、その攻めにくい地形を逆手に取って川の水を城の近くに流し込み、建設させた堤防で水を逃がさず城を水没させてしまいます。

完成した水攻めによって、高松城は水に浮かぶ島のような有様になってしまったとされ、結局これに士気を砕かれ城主の切腹と共に開城されることになります。

兵糧攻めは味方に出る被害が少なく、非常に優れた戦術です。しかし、包囲を続けるための補給戦の確保やその防衛、さらに必要とされる時間から非常に困難なものであり、城を陥落させられずに撤退する軍が多かったことは多くの戦史が物語っています。

城攻めを得手とする秀吉でさえ二年以上かけて陥落させた城がある以上、兵糧攻めの難しさは並大抵のものではなかったことでしょう。 』)

Mitchell G. Klingenberg 記者による2022-3-31記事「William Tecumseh Sherman knew the enduring cruelty of war」。
https://st2019.site/?p=19082

『北軍のシャーマン将軍が1864-9に南部アトランタ市を占領したとき、住民のエバキュエートを保証し、その援助もしている。

 アトランタの住民を追い立てた後で、シャーマン軍は、海岸のサヴァナ市へ向かって行軍し、そこに新基地を設けた。

 南部の民間人を、南軍の野営地に追いやるというのがシャーマン軍の方針だった。

 かたわら、半飢餓状態で北軍の捕虜になった大量の南軍兵士たちには、給養をしてやっていた。』

「強制労働者」は、「厚生年金」に加入していた…。

<W解説>「強制徴用」と「厚生年金」の矛盾=韓国の元勤労挺身隊員ハルモニの「死ぬ前に聞きたい一言」
https://www.wowkorea.jp/news/korea/2021/1208/10326301.html

 ※ 今日は、こんなところで…。

 ※ なんだかなあ…。

 ※ どーゆーこと?

 ※ しかも、「お城」の前で、「集合写真」なんか撮ってるし…(そして、「焼き増し」した写真、もらってるし。たぶん、全員に配布している)。「奴隷的強制労働に従事してた」んじゃ、ねーのか?

『韓国の市民団体「勤労挺身隊ハルモニ(おばあさん)と共にする市民の会」が日本共産党の衆議院議員・本村伸子氏の支援を受け「日本年金機構」を動かした。元勤労挺身隊員チョン・シニョンさん(91歳)の11か月間の厚生年金加入を認めさせたのだ。

市民団体としては一見、大きな成果を成し遂げたように見えるが、その解釈には色々な見方がある。

そもそも、韓国側は「日本は半島から強制徴用を実施した。被害者は未だに賃金をもらっていない。日本が謝罪と賠償をすべき」と要求する。

国家が非常時に国民に対して行う「徴用」はその歴史が長く、言葉の中に「強制」が含まれている。しかし、韓国では「強制」を強調するためなのか、「強制徴用」を好んで使う。最近は「強制徴用」の他、「強制動員」の言葉もよく使われている。

「強制動員」でも「強制徴用」でも良いが、「厚生年金」との矛盾は生じないのか。日本はヨーロッパから学び、1940年代から厚生年金制度を実施し、韓国の年金制度は日本から学んだものだ。「強制動員」されたとする労働者が「厚生年金」に加入していたことは、どうも違和感が残り、後味が悪い。

太平洋戦争中の日本は1944年9月まで、半島に対する徴用をためらい、朝鮮半島出身者の「徴用」が可能になったのは10か月間あまりだった。しかも、米軍の攻撃で釜山と下関との船便が途絶えたこともあり、実際、1945年の終戦まで日本への徴用が可能だった期間は6か月間あまりしかない。

91歳のチョンさんと一緒に名古屋の三菱工場で働いた94歳のヤン・グムドク(梁錦徳)さんは、勤労挺身隊員になった経緯を自伝「死ぬ前に聞きたい一言」に詳細に書いてある。

韓国南西部の全羅道ナジュ(羅州)出身のヤンさんは、小学校6年生の時の1944年5月、日本人の校長から「中学校に進学させてあげる」という言葉にだまされたと回顧している。韓国メディアはあまり言わないが、当時はヤンさんの17歳の時だ。

当時、「男尊女卑」の儒教的な慣習の上、貧しい家庭の娘は小学校の入学が遅れたり、途中休学をさせられたりしたので、17歳の小学6年生はあり得ることだ。少なくとも、その時のヤンさんは子どもではなかったとのこと。

ヤンさんは勉強と運動が優秀で学級長となった。日本に行って中学校に進学したい、貧しい環境でも未来を自分の力で切り開きたい前向きな少女だったようだ。

小学校で「日本行き」に手を挙げたが、家に帰ってそれを話したら父親は激怒した。ヤンさんは翌日「日本に行かない」と担任に話したが、「指名を受けてから行かないとなれば、両親が警察署に入れられる」と言われたという。ヤンさんはその言葉を聞いて怖くなり、「棚から父のハンコをこっそり取り出して担任教師に渡した」と回顧している。

こうしてヤンさんは勤労挺身隊の隊員として日本に渡った。同じ地域で合計288人の女性が「連れて行かれた」と表現されているが、少なくとも17歳の場合でも、保護者の判子は必要だったようだ。

ヤンさんは、三菱重工業の名古屋航空機製作所で働くようになった。名古屋城が背景になっている当時の「団体集合写真」を未だに持っている。強制動員された労働者に都合の悪い集合写真を渡した理由は分からない。

1944年12月7日、ヤンさんは工場で「東南海地震」に被災した。

「休み時間に10分先に入った故郷の先輩チェ・ジョンレと同期キム・ヒャンナムが崩れた壁の下敷きとなり、その場で死んだ」と自伝に記録されている。その地震で288人中、少女6人が亡くなった。崩れた壁の隙間に閉じ込められ命を救われたヤンさんは「その時、左肩を負傷し、今でも後遺症がある」と話している。

終戦から2か月後、1945年10月21日に故郷に戻るまで、ヤンさんは三菱重工業で「重労働をしても賃金を一切受けとれなかった」と話している。「『君たちの故郷の住所を知っているから間違いなく月給を送ってあげる』という日本人たちの言葉は全て嘘だった」とも話している。

しかし、その「日本人」の約束は20年後の1965年に果たされた。日韓国交正常化の時、日本政府は韓国政府に国家予算に匹敵する資金を提供し、ヤンさんのような韓国国籍になった「債権者」に金銭を支払おうとしたものの、韓国政府がそれをまとめて支払うと日本政府に約束していた。

11か月分の給料を貰っていないと、ヤンさんは1990年代に日本の裁判所に損害賠償請求訴訟を起こしたが、敗訴した。韓国で起こした裁判では勝訴した。そのため、韓国裁判所から三菱重工業に対してヤンさんら原告1人あたり慰謝料1億~1億5000万ウォン(約957万~1436万円)の支払いが命じられた状態だ。

この問題は日韓関係の大前提を覆す可能性があり、この10年間、韓国と日本の友好関係を願う日韓の人々を苦しめている。また、国家ぐるみで「強制動員」された労働者が福祉制度の「厚生年金」に加入していたなら、人類史に前例のない事である。

1945年、約束された給料が戦後の混乱で元勤労挺身隊ハルモ二の手に入らなかったなら、日本に非がある。しかし、20年後の1965年に、国交正常化と同時に約束を果たした日本から預かった金銭を、56年間も元勤労挺身隊ハルモ二に渡していない韓国政府は一体、何をしているのか?』

チャーチルと近衛・東条 明暗分けた組織力とスピード感

チャーチルと近衛・東条 明暗分けた組織力とスピード感 太平洋戦争開戦80年(下) 戸部良一・防衛大名誉教授に聞く
https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXZQOLM071FF007122021000000/?n_cid=TPRN0016

 ※ 『「チャーチルが最初に手掛けたのが『国防大臣』を新設し、自らが就任したことです。国防省は存在しないので大臣というポストを設けただけです。政治優位の立場から政略と軍略を統合させる狙いでした」

 「国防相の下には帝国(陸軍)参謀総長、海軍軍令部長、空軍参謀総長の3人から成る三軍幕僚長委員会を直属させました。この委員会は毎年400回以上開催しました。1日に2回開くこともあったわけです。特に42年には573回に達しました。下部スタッフ組織として作戦、情報、兵站(へいたん)と3つの三軍統合委員会も設けられていました。軍中央のトップのみならず中堅幕僚層でも統一化が進み、チャーチルを補佐したわけです」

 「戦時内閣は首相を含む数人で構成しました。ただ英歴史家のA・J・Pテイラーは『戦時内閣がなにかを始めることはめったになく、チャーチルの意見を退けることはもっと稀(まれ)だった』と記しています。チャーチルは『討論による独裁者』とも言われました」』

 ※ 『 ――日本は軍事面での「統帥権」が政治権力から分離され、首相でも軍部を指揮することはできず、陸軍大臣でも参謀本部の作戦計画にはタッチできないシステムでした。

 「日中戦争を戦う第1次近衛内閣(37~39年)は政・軍略統合の必要性を痛感していました。また以前から、内閣制度の改革が検討されてました。内閣を首相と陸海軍大臣を含む少数の国務大臣のみで構成し、内閣直属の新たなスタッフ機構で首相の指導力を強化しようという構想でした」

 「この計画の実現には抜本的な法改正が必要になります。結局、近衛内閣では企画院と内閣情報部の新設だけで終わりました。非常時における組織改革の急所が、日英の認識は驚くほど似通っていました。しかし非常時だから今断行するのか、非常時だから事態が少し収まるのを待って改正するかで行動様式は全く違いました」』

 ※ こういうところにも、彼我の差異があったわけだ…。

 ※ そういうことの「反省」もあってか、「日本国憲法」においては、「大臣の横並び制」を止めて、「内閣総理大臣が、他の大臣の任免権を持つ」という制度に改めたわけだ…。

 ※ まあ、「組織」や「制度」を、「生かすも殺すも、人次第…。」ということだ…。

『太平洋戦争開戦から80年たった。米英と日本との格差は、軍事力や経済・産業力だけではなく、日本は組織力の点でも後れを取っていたとの研究が進んでいる。防衛大学校の戸部良一・名誉教授は「英国ではチャーチル首相の決定が、政治と軍事の統合を基盤とし政治優位でなされるようシステム化されていた。日本もそうした政軍統合の戦争指導体制が整備されていなかった」と指摘する。英チャーチルと同時期の近衛文麿、東条英機両首相との違いを追った。非常時にリーダーシップを機能的に発揮させるにはどういう組織が必要か。現代企業の組織運営にもヒントになりそうだ。

 「討論による独裁者」チャーチル 政略と軍略を統合

戸部良一・防衛大名誉教授は「英国ではチャーチル首相が『国防大臣』を新設した」と指摘する。

 ――チャーチルが英国首相に就任したのは1940年5月でした。前年9月に勃発した第2次世界大戦はドイツ有利に展開し、英の同盟国であるフランスの降伏直前に、国のかじ取りを任されました。

 「チャーチルが最初に手掛けたのが『国防大臣』を新設し、自らが就任したことです。国防省は存在しないので大臣というポストを設けただけです。政治優位の立場から政略と軍略を統合させる狙いでした」

 「国防相の下には帝国(陸軍)参謀総長、海軍軍令部長、空軍参謀総長の3人から成る三軍幕僚長委員会を直属させました。この委員会は毎年400回以上開催しました。1日に2回開くこともあったわけです。特に42年には573回に達しました。下部スタッフ組織として作戦、情報、兵站(へいたん)と3つの三軍統合委員会も設けられていました。軍中央のトップのみならず中堅幕僚層でも統一化が進み、チャーチルを補佐したわけです」

 「戦時内閣は首相を含む数人で構成しました。ただ英歴史家のA・J・Pテイラーは『戦時内閣がなにかを始めることはめったになく、チャーチルの意見を退けることはもっと稀(まれ)だった』と記しています。チャーチルは『討論による独裁者』とも言われました」

 ――チャーチルへの大変な権力集中です。成熟した多元的民主主義と評価される英国でよく可能でしたね。

 「英国には第1次世界大戦の前半を担当したアスキス内閣(08~16年)時の苦い教訓がありました。問題に直面するたびにそれを担当する委員会を立ち上げたため、会議が多くなりすぎてスピード感ある決定・実行ができなかったのです。チャーチルは独裁的な権力を手中にしましたが、戦時のみとの暗黙の了解がありました」

 「チャーチルは軍人と議論するとき、英議会でのディベート方式を持ち込み、とことん軍幹部を質問攻めにしました。最後は音を上げて恨み言を記した将軍の日記も残されています。ただチャーチルは納得すれば、問い詰めた軍人の意見を採用します。また『Action this day』がチャーチルの原則でした。英国の機能的な戦争指導体制を実見して、米国も後に取り入れました。統合参謀長会議を設立し、その下部組織に三軍統合委員会のシステムを作り上げました」』

『「陸海軍共同作戦の最高指導部」 日本は実現できず

 ――日本は軍事面での「統帥権」が政治権力から分離され、首相でも軍部を指揮することはできず、陸軍大臣でも参謀本部の作戦計画にはタッチできないシステムでした。

 「日中戦争を戦う第1次近衛内閣(37~39年)は政・軍略統合の必要性を痛感していました。また以前から、内閣制度の改革が検討されてました。内閣を首相と陸海軍大臣を含む少数の国務大臣のみで構成し、内閣直属の新たなスタッフ機構で首相の指導力を強化しようという構想でした」

 「この計画の実現には抜本的な法改正が必要になります。結局、近衛内閣では企画院と内閣情報部の新設だけで終わりました。非常時における組織改革の急所が、日英の認識は驚くほど似通っていました。しかし非常時だから今断行するのか、非常時だから事態が少し収まるのを待って改正するかで行動様式は全く違いました」

 「37年に近衛内閣は、日露戦争後初めての『大本営』を設置しました。英国の三軍幕僚長委員会と三軍統合委員会に相当します。しかし文民の首相は入れません。日常業務は陸海軍ともそれぞれの役所でこなし、大本営の会議は大部分が報告で終わったとされます。山本五十六・海軍次官(当時)が期待した『陸海軍共同作戦の最高指導部』は最後まで実現しませんでした。軍と政府との情報交換の場として、大本営政府連絡会議が設けられましたが、政略と軍事戦略の統合はなされませんでした」

 「40年の第2次近衛内閣(~41年)発足とともに、休眠状態だった大本営政府連絡会議(当初は連絡懇談会)が復活します。週1回以上のペースで開かれ、対米外交の調整、独ソ戦への対応、インドシナ南部への進駐などが政府と軍部の間で討議されました。それでも軍首脳を上から指揮するチャーチルのリーダーシップとは大変な差がありました」

 「続く東条首相兼陸相(41~44年)は、内閣の成立直後から、ほぼ毎日のように連絡会議を開き、開戦から退陣までにも約120回行いました。世界情勢の分析から国内の戦争指導要綱、東南アジア諸地域への独立指導など多岐にわたりました。他方、船舶の徴用と補塡、油槽船の陸海軍への配分、造船計画をどうするかといった議題も頻出し、東条ですら陸海軍の作戦計画を指導できたわけではありません。最後は権力集中の批判を覚悟で参謀総長まで兼務しましたが、政府と軍部の事務作業が効率的に改善された程度で終わりました」

 近衛・東条に欠けていたもの

 ――日本のリーダーは組織上のルールに縛られてリーダーシップを発揮できなかったのでしょうか。

 「ひとつの組織をどう運営するかは、トップのリーダーシップの資質・覚悟にかかっていたと言えます。近衛は『首相になりたくなかった』リーダーでした。五摂家筆頭の名門出身で、常に首相候補に挙がりながら天皇から就任を要請されながら辞退した時もありました。昭和期の首相としてトップクラスの知性の持ち主で、稀に見る聞き上手でもありました。多くの優秀なブレーンが周囲に集まりましたが、近衛本人には権力を維持、活用する意思に欠けた面がありました」

 「東条は『首相になる準備がなかった』リーダーでした。軍事官僚としては優秀で昭和天皇への忠誠心も篤(あつ)く、天皇にも信頼されました。しかし自分を育て支えてくれた旧来型の組織システムを変革することはできませんでした」』

『多元的な権威主義の日本 独裁を許さず

 ――チャーチルも数々の政治的失敗を繰り返しました。第1次世界大戦の海相としてガリポリ攻略戦で惨敗し、後の財務相で金本位制復帰のタイミングに失敗しました。「王冠を賭けた恋」ではエドワード8世を支持し世論の反発を招きました。若手時代には将来の首相候補ナンバーワンだったチャーチルも30年代後半には「終わった政治家」とみられていました。

 「ただ権力への意欲は失いませんでした。プライベートでは絵描きで玄人はだし、レンガ積みも職人組合に加盟していたほどの腕前だったとされます。政治の世界で挫折したとき、そうした政治以外の世界を持っていたことがチャーチルを支えたとも言われています」

 ――現在の「働き方改革」のヒントにもなりそうです。ただチャーチルは戦後体制を決める米英ソのポツダム会談中(45年)の総選挙で大敗しました。

 「多元的な権威主義の日本は独裁を許しませんでした。一方、多元的な民主主義体制の英国は期限付きの独裁を許容しました。歴史の皮肉のようなものを感じさせられます」

 (聞き手は松本治人)』

「正確な情報」が「無謀な開戦」につながったという痛恨の逆説――日米開戦80年目の真実

「正確な情報」が「無謀な開戦」につながったという痛恨の逆説――日米開戦80年目の真実
https://www.dailyshincho.jp/article/2021/12060630/?all=1

 ※ 今日は、こんなところで…。

 ※ 「プロスペクト理論」が、そこまで言っているのかは、さておく…。

 ※ しかし、「通説」と違って、日米開戦は、「正確な情報を、認識した上での、行動だった。」とする説は、耳新しい…。

 ※ 『プロスペクト理論では通常の経済学が財の所有量に応じて効用が高まると仮定するのに対し、ある水準(参照点)からの財の変化の量に注目します。簡潔にいうと、人間は現在所有している財が1単位増加する場合と1単位減少する場合とでは、減少する場合の方の価値を高く評価するのです。

 そのため、人間は損失が発生する場合には少しでもその損失を小さくすること望みます(損失回避性)。そうすると、選択肢Aでは確実に3000円を支払わなければなりませんが、選択肢Bでは2割の確率で損失は0になるので、人間は低い確率であっても損失が0になる可能性のあるBの方につい魅力を感じてしまいがちなのです。』

 『さらにプロスペクト理論では客観的な確率がそのまま人間の主観的な確率となるわけではなく、心の中で何らかの重みづけをされると考えます(客観的には2割の確率でも主観的には3割と考えられるかもしれない)。

 客観的な確率と主観的な確率の乖離は実証されており、自然災害などの客観的には滅多に起きない現象は主観的には高い確率として認識される一方、生活習慣病による将来の死といった客観的には高い確率で起きる現象は主観的には低い確率として認識されています(だからこそ「当選確率は極めて低いのに多くの人が宝くじを購入する」「将来ガンになる確率が高いのに多くの人が喫煙する」といった現象が起きるのです)。』

 ※ 『それゆえ、先ほどの選択肢Bで「1円も支払わなくてもよい」という確率が主観的に過大に評価され(例えば3割)、AよりもBの方が望ましいと考えられて選択されることになるのです。』との説は、確かにある程度の説得力を持つ…。

 ※ 『「ジリ貧」よりも「開戦」という判断

 さて、昭和16年8月以降の当時の日本が置かれていた状況は、先ほどの選択肢AおよびBとほとんど同じようなものでした。日本の選ぶべき道は、政策決定者の主観的には2つありました。

A’ 昭和16年8月以降はアメリカの資金凍結・石油禁輸措置により日本の国力は弱っており、開戦しない場合、2~3年後には確実に「ジリ貧」になり、戦わずして屈伏する。

B’ 国力の強大なアメリカを敵に回して戦うことは非常に高い確率で日本の致命的な敗北を招く(ドカ貧)。しかし非常に低い確率ではあるが、もし独ソ戦が短期間で(少なくとも1942年中に)ドイツの勝利に終わり、東方の脅威から解放されソ連の資源と労働力を利用して経済力を強化したドイツが英米間の海上輸送を寸断するか対英上陸作戦を実行し、さらに日本が東南アジアを占領して資源を獲得して国力を強化し、イギリスが屈伏すれば、アメリカの戦争準備は間に合わず抗戦意欲を失って講和に応じるかもしれない。日本も消耗するが講和の結果南方の資源を獲得できれば少なくとも開戦前の国力は維持できる。

 つまり、日米間の国力の巨大な格差を正確に指摘した秋丸機関の報告書を踏まえれば、開戦が無謀であることはわかるのですが、プロスペクト理論に基づけば、それぞれの選択肢が明らかになればなるほど「現状維持よりも開戦した方がまだわずかながら可能性がある」というリスク愛好的な選択へと導かれてしまうのです。

「正しい情報」が「正しい決定」につながるのであれば「開戦回避」という結論になるはずですが、実際は上記の通り、むしろ「正しい情報」ゆえに「開戦」という結論が下されたと考えられるのです。もちろんこれは単純化した説明であり、牧野氏の著書では、他の様々な要素(日本の指導者の長期的なビジョンの欠如、集団心理による強硬論の支持など)も、開戦の意思決定に重要な影響を与えていたことが示されています。

 現代でも「正確な情報があったはずなのに、なぜこのような残念な結果になってしまったのか」と疑問に思うことがしばしば起きています。そうした失敗を繰り返さないためにも、80年前の日米開戦の教訓から学ぶ価値がありそうです。』…。

 ※ まあ、そういう「理論」で、「理屈づけ」することも、できるんだろう…。

 ※ しかし、「敗戦」の結果を考えれば、何が何でも「開戦」すべきでは無かった…。
 ※ 事が終わってから、「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び…」などと言っても、追いつくものでは無い…。

 ※ 「満州」を共同経営する…、「満州」をそっくり進呈する…くらいの、「思い切った策」があるべきだった…。たとえ、「自分の手足を、斬り落とす」ことになっても…。
 ※ それも、海外に人と兵員を駐在させすぎて、日本国内だけでは、「収容しきれない」との判断だったのか…。

 ※ しかし、それでも、原爆2個も落とされたり、東京大空襲で「焼夷弾」で多数の犠牲者出すよりは、マシだった…。

 ※ 戦争とは、「ある国家目的を達成するための、一手段」に過ぎない…。

 ※ 国家の生き残り、国民の平穏な日常生活の確保の方が、上位の価値に立つ…。

 ※ プランとは、AもBもCもDもあってこその、プランだ…。

 ※ 国家の戦略とは、「軍事一辺倒」では無く、「外交一辺倒」でも無く、両者を自在に「混合」させて、硬軟取り混ぜて、遂行して行くものだ…。

 ※ 昨今の情勢を見ると、そういう「痛い教訓」が、あまり汲み取られていないように見受けられることを、危惧する…。

極秘文書から見えた 新しい“山本五十六”

極秘文書から見えた 新しい“山本五十六”
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211203/k10013366201000.html?utm_int=news_contents_tokushu_001

 ※ 感想を言わせてもらえば、そういう「偉人伝」は、いくら読んでも、あまり役には立たないと思う…。

 ※ それよりも、「今現在の情勢分析」の精度を上げることの方が、ずっと大事だと思う…。

 ※ 山本五十六は、もういない…。

 ※ 彼の頭脳は、失われて、もう戻っては来ない…。

『その結果明らかになったのは、太平洋戦争が始まる7年前に、山本五十六が携わったある外交交渉の舞台裏でした。

当時、世界では第一次世界大戦の反省から、各国が保有する軍艦の数を制限する条約を締結。

ところが日本は、アメリカやイギリスより持てる軍艦の数が少なかったために、「国家の威信に関わる」として、「条約破棄も辞さない」強気の姿勢を示していました。
特集ドラマ「倫敦ノ山本五十六」より ロンドン軍縮会議予備交渉
そうしたなかで、1934(昭和9)年、ロンドンで行われたのが軍縮会議の予備交渉。

その海軍代表を命じられたのが、世界に名前が知られる前の山本五十六だったのです。

今回見つかった資料には、山本五十六がどんな言葉で交渉を進めたのか、つぶさに記されていました。
一言一句が明らかになるのは初めてのことです。』

『意外なことに、山本がアメリカやイギリスに対して、あわよくば妥協案を出して歩み寄ろうとしていたことがわかってきました。

山本は日本海軍の代表でありながら、いったいなぜ、その方針とは異なる行動をとろうとしていたのでしょうか。』

『「備忘録」のなかで私たちが最も注目したのは、“心構”と題されたメモ書き。
山本五十六が軍縮交渉に臨むにあたって、心に決めた7つのことが列挙されていました。

「日本の根本主張は曲げない」というあくまで日本の主張を重視する姿勢。
と、同時に「できる限り協調する」として、英米と協調することの大切さも記していました。

そして、“心構”の最後に書かれていたのは「自分の責任感」という言葉でした。
国家の命運、そして国民の命を背負う責任感。

交渉の進め方次第では、日本という国の運命が、大きく変わってしまうと考えていたのではないかと感じさせる言葉でした。

組織の一員としての任務を背負いながら、心に抱える自分自身の信念を密かに記した“心構”。

遺族はそこに伝わる思いを感じ取り、丁寧に装丁し、長年手元に置き続けてきたといいます。

研究者たちもはじめて触れる、山本五十六の等身大の心情でした。

防衛大学校名誉教授 田中宏巳さん

「日本の国際的な立場を少しでも良くするところまで、考えたうえでの行動を取っていることが見てとれる第一級史料。これまでの見方を変えなければならないかと思う」

『しかし、山本五十六の思いとは裏腹に、軍縮交渉は、最後まで日本と英米の溝が埋まることはなく決裂。

日本は2年後、正式に軍縮体制から脱退し、国際的孤立をさらに深めていくことになります。』

関ケ原の戦い 誤算続きの家康が見いだした一瞬の勝機

関ケ原の戦い 誤算続きの家康が見いだした一瞬の勝機 歴史研究家の水野伍貴氏に聞く
https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXZQOLM18714018112021000000/?n_cid=TPRN0016

 ※ 今日は、こんなところで…。

 ※ これは、参考になった…。

 ※ 「家康の天下取り」と聞くと、万事「計略どおり…。」的な印象を持つ…。

 ※ しかし、何事も「そんなにうまく、計画通りに」事が運ぶハズは無い…。

 ※ 家康の「真骨頂」は、『戦略は常に複層的』に貼り巡らせて、いわば「プランAがはずれれば、プランB」「プランBがはずれれば、プランC」「プランCがはずれれば、プランD」…と、次々に繰り出したところにあるんだろう…。

 ※ そういう「はずれた時にも」慌てずに、沈着冷静に「一瞬の勝機を掴んだ」ところにあるんだろう…。

 ※ むろん、その「勝機を掴む」までに至る「前提」「環境構築」の「周到さ」に、彼の「美質」があるんだろう…。

 ※ やはり、三成とは、「人生経験の積み重ね」の差が、出たような気がする…。

『約420年前の関ケ原の戦い(1600年)で、日本中の大名は徳川家康の東軍と石田三成らの西軍とにはっきり二分され、中立はほとんど許されなかった。この一戦は、家康が豊臣秀吉の死後に緻密に計画し、三成ら反家康派を決戦に誘い込んだとされる。しかし、実際には家康の計画は誤算も少なくなかった。それでも局地的な作戦成功に一瞬の勝機を見い出し、迅速な行動で決戦を仕掛けて覇権を握った。現代の経営者にもヒントとなる家康の戦略を歴史研究家の水野伍貴氏に聞いた。

 秀吉が亡くなった1598年8月の世情は暗かった。文禄・慶長の役(1592年~)で朝鮮半島の外征軍は苦戦しており、京都は慶長伏見地震(1596年)の打撃から立ち直れていない。治安も悪化していたという。秀吉は死後に備え、五大老(徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家)と三成ら五奉行を組み合わせた体制を敷いた。実権は奉行衆にあり三成は常務・社長室長といった役割だ。五大老は社外取締役的な立場で、奉行衆の手にあまる問題を裁定したという。「関ケ原への道」(東京堂出版)の著者である水野氏は「家康は秀吉死去以前から政権獲得へのビジョンを描いていた」と分析する。航海船が難破したオランダ人らを自分の領地に引き入れて、欧州の先端技術の習得を目指していた。ライバル側も家康の野心を敏感に感じ取っていた。奉行衆と毛利輝元は、秀吉が亡くなった10日後に早くも同盟関係を結んだ。

 「ライバルを1人ずつ失脚させるのが家康の戦略だった」
「家康の戦略は常に複層的だった」と話す水野伍貴氏

 「家康の最初の計画は、政権中枢にいない有力大名を味方に引き入れることだった」と水野氏。おきて破りを承知で婚姻関係を結ぼうとした伊達政宗は、傍流か地方子会社のトップといった立ち位置だ。家康を除く三成ら大老・奉行の全メンバーは猛反発したが、逆に三成が3カ月後に家康派の加藤清正らから告発を受け失脚してしまった。毛利輝元は家康と「兄弟同然」に交友するという書状を交わし、反家康同盟は約1年で崩壊した。

 「ライバルを1人ずつ失脚させるのが家康の戦略だった」と水野氏は話す。次は前田利家の後を継いだ新大老の前田利長で、家康暗殺をたくらんだと謀略に巻き込み、実母を人質として江戸に送る条件で屈服させた。ただし前田家と姻戚関係にあった大老の宇喜多秀家は不問にした。1回に1人しか相手にしない方針を徹底した。 家康は大坂城を掌握し、奉行衆も家康に従った。

 家康は1600年春、会津・上杉景勝の討伐を目指した。景勝に上洛を促し、返書が戻ってくる前に家康が総大将となる「会津攻め」の準備を始める手回しの良さだ。畿内を留守にすれば反家康派が行動を起こす予感はあっただろう。「しかし小規模にとどまると楽観していた」と水野氏。

 奉行衆の離反で家康の権力構造崩壊

 ところが家康と兄弟同然のはずだった毛利輝元が迅速に動き、三成らに担がれるというより自ら積極的に、西軍の総大将に収まった。第1の誤算だった。宇喜多秀家も加わった。「前田、上杉と続けば次に失脚させられるのは自分らだと恐れたのだろう」と水野氏は分析する。第2の誤算は豊臣政権内で家康の権力行使を補完していた奉行衆も寝返ったことだ。家康は、三成のクーデターを知った後でも奉行は自分の味方だと錯覚し、その関係を手紙で大名らにアピールしていたという。大坂城も押さえられた。「軍事力の問題にとどまる毛利輝元の場合と異なり、奉行衆の離反は家康の権力構造の崩壊を意味した」と水野氏。より危機感を募らせたという。

 家康からすれば北の上杉、西の毛利に挟撃されるのが怖い。三男の徳川秀忠(後の2代将軍)をしばらく下野(栃木県)に置き、会津攻めに参加していた福島正則ら豊臣系大名を清洲城(愛知県)に派遣した。家康自らは江戸から動こうとせず長期抗戦の態勢を敷いた。長期戦になるとの予想は西軍も同じで、毛利軍は四国などを攻めていた。

 岐阜城陥落成功で長期戦構想捨てる
水野伍貴氏の著書「関ケ原への道」(東京堂出版)

 水野氏は「家康の第3の誤算は、清洲城の先発隊が予想以上に戦闘意欲が旺盛で強かったことだ」とみる。福島正則らは1日の戦闘で難攻不落といわれた名城の岐阜城を陥落させた。この勝報を受け取るや、家康は長期戦の構想をあっさり捨て、即座に江戸を出発した。スピード行軍で先発隊と合流し、秀忠の別動隊到着も待たずに関ケ原の戦いに臨んだ。

 水野氏は「家康の戦略は常に複層的だった」と話す。婚姻問題は武力衝突も視野に入れながら、最終的には対立した前田利家と妥協した。三成を失脚させた時は調停者として振る舞い、加藤清正らが主張する切腹処分を退けた。ただ関ケ原の戦いにおける一番の勝因は、誤算だらけの中で一瞬の勝機を見いだした機敏さだろう。「自分が参戦しない形で、戦いが終わることを家康は恐れたのかもしれない。戦後の発言力に関わってくるからだ」と水野氏はみている。

 (松本治人)』

興雲院(通称:お鍋の方(おなべのかた))

興雲院(通称:お鍋の方(おなべのかた))
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E9%9B%B2%E9%99%A2

 ※ 今日は、こんなところで…。

 ※ ネット見てたら、「信長をめぐる3人の女たち」というネット動画に当たった…。
https://youtu.be/LcseBKigUYw

 ※ 「濃姫(帰蝶)」「吉乃(きつの、生駒御前)」しか、知らんかったんで、「3人目って、誰?」と、興味津々で視聴した…。

 ※ そしたら、下記の「お鍋の方」という人だった…。

 ※ さらに、「側室」について調べた…。

 ※ そしたら、出るわ出るわ…、ゾロゾロ出てきた…。「三人」どころの、話しじゃ無かった…。

 ※ あまつさえ、「同時並行」で「側室」囲ってた…。

 ※ まあ、そうだよな…。この時代の「側室」は、「一族の繁栄」をかけた、一大事業だったハズだ…。

 ※ 子の出来が良ければ、「後継者候補」にするし、そうでもなければ、「重臣」つけて、「要衝」の守備に任ずる…。

 ※ どっちにしろ、「子」は多い方が良かった…。乳児死亡率は、高かったしな…。

 ※ 「保険」は、分散して、多く掛けるに越したことは無かったわけだ…。

 ※ まあ、オレの信長像は、その殆んどが「時代小説」で形成されたものだ…。

 ※ 夢々、それを「史実」だと思っては、いかんかった…。

『興雲院(きょううんいん、? – 慶長17年6月25日(1612年7月23日))は、織田信長の側室の一人。

近江国野洲郡北里村の土豪・高畑源十郎の四女[1]。通称はお鍋の方(おなべのかた)。しかしながら、お鍋宛の書状の宛先は「小倉」「小椋」などとなっており、系譜類では「小倉三河守女」との記録も残り、当時の女性は実家の姓を名乗る事から、高畑氏であると言う説には疑問が残る。また、本能寺の変後、お鍋が実家の小倉氏の元に戻っていたとする文献もある。 』

『生涯

俗説では、はじめ近江国の八尾山城主である小倉実房(実澄)に嫁いで[1]、この間に二人の男児(小倉甚五郎・小倉松寿)をもうけた。実房が蒲生定秀に攻められ戦死した後は信長の側室となり、織田信高(諸説あり)・織田信吉・於振(水野忠胤・佐治一成室)をもうけている。

天正10年(1582年)に本能寺の変で信長が死去した後は、6月6日に美濃国長良の崇福寺を信長の位牌所と定め、いかなる者の違乱を許さないとお鍋が自筆で、この寺の住職に命じている[2]。信長の位牌を安置し、菩提を弔うという行為を側室のお鍋が行っており、織田家中における地位の高さが推測できる[2]。ただし、崇福寺に残る位牌所設置の書状の署名が「なへ」であるため、興雲院の書状であろうとされているが、「なへ」は当時の一般的な女性名であるため、興雲院ではない可能性もある。なお、次男・松千代は本能寺で信長に殉じた。

こうした経緯を経て羽柴秀吉の庇護下に置かれ、化粧領(化粧料とも)として近江国神埼郡高野村で500石を与えられた[1]。秀吉の正室・おねに仕えて孝蔵主・東殿(大谷吉継の母)と共に側近の筆頭であったという。長男・甚五郎が天正11年(1583年)に加賀松任城主に任じられたという記録もあり、豊臣政権の奥向きにあって重きをなしたことは確かなようである。お鍋が秀吉の側室・松の丸殿の侍女であった可能性も指摘されている[3][4]。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで子の信吉が西軍について改易されたため連座して500石の化粧領を取り上げられる。そこで困窮したお鍋に豊臣秀頼(実質は淀殿)から50石の知行、北政所からは30石の知行が与えられ、共同でお鍋の晩年を支えた[5]。京都で晩年を過ごしている。慶長17年(1612年)6月25日、死去した[1]。墓所は京都の大徳寺塔頭総見院[1]。文学に造詣が深く公家との交流があったという。 』

『登場作品

信長 KING OF ZIPANGU 1992年 NHK大河ドラマ、演:若村麻由美
織田信長 1994年 テレビ東京、演:森崎めぐみ
秀吉 1996年 NHK大河ドラマ、演:櫻井公美
信長の棺 2006年 テレビ朝日、演:浅野ゆう子 』

Category:織田信長の正室と側室
https://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%81%AE%E6%AD%A3%E5%AE%A4%E3%81%A8%E5%81%B4%E5%AE%A4

坂氏 (人物)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%B0%8F_(%E4%BA%BA%E7%89%A9)

慈徳院 (織田信長側室)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E5%BE%B3%E9%99%A2_(%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7%E5%81%B4%E5%AE%A4)

土方氏 (信長側室)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E6%96%B9%E6%B0%8F_(%E4%BF%A1%E9%95%B7%E5%81%B4%E5%AE%A4)

養観院
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%8A%E8%A6%B3%E9%99%A2

古代ゲノミクスは、日本の集団の三者起源を明らかにする

古代ゲノミクスは、日本の集団の三者起源を明らかにする
https://www.science.org/doi/10.1126/sciadv.abh2419

※ この図見ると、凄いな…。

※ 弥生人には、古代東アジア人由来のDNA成分(黄色)が、殆んど入っていない…。

※ DNA解析から判断すると、弥生時代に大陸から「渡来した渡来人」と「縄文人」が「混血した」ものでは無い…。

※ むしろ、「古墳時代」に「古代東アジア人由来のDNA成分(黄色)」が注入され、現在の「日本人のDNA」を形成した…、ということのようだ…。

※ そして、「古代東アジア人由来のDNA成分」に入っている「中央ステップ遊牧民由来の成分(濃い灰色)」が「弥生人」にも、「古墳人」にも全く入っていないことも、注目に値する…。

※ 「古代東アジア人」で、「中央ステップ遊牧民」と混血する前の人々が、日本列島にやって来た…、ということなのか…。

※ 「青みがかった灰色」は、バイカル湖近辺に居住していた「古代東アジア人」由来のもののようだ…。

※ 「現代の日本人」の「DNA」は、「黄河近辺に居住の古代アジア人(黄色)」「バイカル湖近辺に居住の古代アジア人(青みがかった灰色)」「縄文人(赤色)」の混合であるということだ…。

※ しかし、その肝心の「縄文人(赤色)」は、どこから来たんだ?

※ 他のアジア大陸には、全く見当たらないようだが…(わずかに、中国の南方地域に存在する。しかし、黄色、濃い灰色と混じっていて、全部赤色では無い…)。

※ ということで、「日本人(縄文人)の起源」は、相変わらず「謎」のままということのようだ…。

『(※ 翻訳は、Google翻訳)

要約

先史時代の日本は、過去3000年の間に、採餌から湿った稲作、そして国家形成に向けて急速な変革を遂げました。日本本土の人口は、先住民族の縄文狩猟採集漁師と弥生農家の後継者から二重の祖先を導き出しているという長年の仮説。しかし、農業移動とその後の社会文化的変化によるゲノム的影響は不明である。農業前期と農業後の12の古代日本ゲノムを報告します。我々の分析によると、縄文は数千年にわたる実効人口の少ない1000人を維持しており、20,000年から15,000年前の大陸集団との深い相違があり、海面上昇を通じて日本の海面化を見た時期である。稲作は、北東アジアの祖先を持つ人々によって導入されました。予想外に、帝国古墳時代の東アジアの祖先の後の流入を特定します。これら3つの祖先成分は、現在の集団を特徴付け続け、日本のゲノム起源の三者モデルを支持している。』

『紹介

日本列島は少なくとも38,000年前から人間によって占領されてきました。しかし、その最も根本的な文化的転換は過去3000年以内にしか起こっていないが、その間、住民は急速に採餌から広範囲にわたる稲作から技術的に高度な帝国国家(1,2)に移行した。 これらの急速な変化は、ユーラシア大陸からの地理的孤立と相まって、日本をアジアの農業普及と経済の激化に伴う回遊パターンを研究するユニークな小宇宙となっています。農業文化が到来する前は、縄文文化に属する多様な狩猟採集漁団が占めていたのが、その陶器の使用が特徴でした。縄文時代は、最後の氷河最大(LGM)に続く最古のドライアス(3)の間に始まり、最も初期の陶器の破片は約16,500年前(ka前)に続き、これらの集団は世界で最も古い陶磁器のユーザーの一部となっています(2)。縄文の従属戦略は様々であり、人口密度は空間と時間(4)を経て変動し、セデンティズムに向けた傾向が示された。この文化は弥生時代(3年前)の始まりまで続き、水田稲作の到来が群島の農業革命につながった。その後、小船時代が始まり、1.7年前から始まり、政治的中央集権の出現と、地域を定義するために来た帝国の治世が見られました(1)。

近代日本人の起源に関する永続的な仮説は、日本人の集団が先住民族の縄文の子孫であり、その後、弥生時代に東ユーラシア大陸から到着する二重構造モデル(5)を提案している。この仮説は、もともと形態学的データに基づいて提案されたが、広くテストされ、分野を越えて評価されている[(6)で最近のレビューを参照してください。遺伝学的研究は、現在の日本の集団内の集団階層を同定し、少なくとも2つの日本列島への移動の波を支えている(7-10)。これまでの古代DNA研究では、今日の日本人集団に対する縄文人と弥生個体の遺伝的親和性も示している(11~15)。それでも、農業移行後の州の形成段階の人口動態の起源と影響はほとんど知られていない。歴史的言語的観点から、原発ジャポニック言語の到来は、弥生文化の発展と湿米栽培の普及に対応する理論を示している(6)。しかし、考古学的文脈とその大陸の所属は、弥生と古墳時代の間で明確である(1);知識と技術の普及が大きな遺伝的交流を伴っていたかどうかは、依然として不可解である。

ここでは、8000年の前および原始史に及ぶ12の新しい配列を持つ古代日本のゲノムを報告します(図1および表1)。私たちの知る限りでは、これは最も古い縄文個体と帝国古墳時代の最初のゲノムデータを含む、群島からのタイムスタンプ付きゲノムの最大のセットです。また、5つの出版された先史時代の日本のゲノムを分析に含めます:3人の縄文個体(後期縄文時代のF5とF23、最終縄文時代のIK002)(12-14)、そして九州の北西部の弥生文化に関連する2人の2人の個人は、その他の考古学的な特徴ではなく明確に表わされています。

弥生文化との関連 (15, 16)この形態学的評価(16)にもかかわらず、この2人の弥生個体は縄文と比較して現在の日本人集団に対する遺伝的親和性が高いことを示し、大陸群との混和が既に弥生後期(15)によって進められたことを示唆している。これらの日本のゲノムを、中央および東の草原(17、18)、シベリア(19)、東南アジア(12)、東アジア(15、20、21)にまたがるより大きな古代ゲノムデータセットと統合し、縄文時代の農業前の個体群とそれに続く移行と混和をより良く特徴付けることを目的としています。 今日、群島の遺伝的プロフィールを形成している。

図1.古代日本人の場所、日付、ゲノムカバレッジのサンプリング。

(A) 考古学的遺跡は、この研究で新たに配列された個々のゲノムの円と、以前に報告された場合は三角形でマークされています(表1および表S1を参照)。色は、日本の前とプロトヒストリーの3つの異なる期間を表しています: 縄文, 弥生, 古墳.(B)各個体は、y軸上のx軸と中央値年齢(存在する前の年)に全ゲノムカバレッジでプロットされる。9人の縄文個体は、年齢に基づいて5つの異なるサブ期間に分かれています(注S1を参照):初期(JpKa6904)、早期(JpOd274、JpOd66、JpOd282、JpOd181、JpFu1)、ミドル(JpKo2)、後期(JpKo13、JpHi01、F23、F5)、および最終(IK0)。

関連カルチャ
サンプル ID 日付範囲
と中央値
(CAL B.P.) カバレッジ MTDNA
汚染率
(%) 分子性 マウントDNA
ハプログループ Y染色体
ハプログループ 参照。
この研究で新たに配列された
縄文 JpKa6904 8646–8991;8819 7.51 1.46 XX N9b3 – –
JPOD274 6119–6289;6204 1.56 1.13 XY M7a D1b1d1 –
JPOD6 5934–6179;6057 1.18 1.55 XX N9b3 – –
JPOD181 5751–5917;5834 1.83 0.91 XY N9b1 D1b1d1 –
JPOD282 5737–5902;5820 0.96 1.38 XY M7a1 D1b1d1 –
JPFU1 5478–5590;5534 1.13 2.15 XX M7a1 – –
JPKO2 4294–4514;4404 2.47 1.44 XX N9b – –
JPKO13 3847–3978;3913 1.81 1.50 XX N9b1 – –
JPHI01 3685–3850;3768 0.88 1.45 XX M7a1a – –
コウファン JpIw32 1347–1409;1378 4.80 0.41 XY B5a2a1b O3a2c –
JPIW31 1303–1377;1340 1.44 0.63 XX D5c1a – –
JPIW33 1295–1355;1325 1.54 0.75 XX M7b1a1a1 – –
以前に公開されました
縄文 F23 3550–3960;3755 34.82 1.20 XX N9b1 – (14)
F5 – 3.74 2.45 XY N9b1 D1b2b (14)
IK002 2418–2720;2569 1.85 0.50 XX N9b1 – (12)
弥生 Yayoi_1 – 0.01 2.92 XX M7a1a4 – (15)
YAYOI_2 1931–2001;1966 0.07 2.33 XY D4a1 O (15)

表 1.古代日本語データの概要

業績

先史時代と原史時代の日本の古代ゲノムの時系列

私たちの最初のスクリーニングは、群島全体の6つの考古学的遺跡から発掘された14の古代骨格遺跡に焦点を当てた(注S1を参照)。これらのサンプルの12個(表1)には高レベルの内因性ヒトDNAが保存され、その後、0.88×から7.51×まで、さらにショットガン配列が高い範囲に保存された(図1および表S1)。12個のサンプルのうち9つは縄文文化に関連しており、群島の西と中央部と縄文時代の4つの異なる段階(初期、初期、中、後期縄文)を表しています(図1)。残りの3つのサンプルは約1.3カ前にさかのぼり、古墳時代に入った。

我々は、新たに配列されたすべてのゲノムが死後の損傷パターンを示していることを確認する(図.S1)と低レベルの現代人汚染(<2.15%)(表1および表S2)。我々の親族関係分析は、個人のすべてのペアが無関係であることを確認します(図。S2)。すべての縄文人のミトコンドリアハプログループは、N9bまたはM7aのクレードに属し、この人口(11-14、22)と強く関連しており、今日の日本国外では珍しい(23)。

3人の縄文雄(表S3)は、現代の日本の人口に存在するが、他の東アジア系では殆ど存在しないY染色体ハプログループD1b1に属している(24)。

対照的に、Kofun個体はすべて現在の東アジア人(25)で一般的なミトコンドリアハプログループに属し、単一の古墳男性はO3a2c Y染色体ハプログループを持っており、これは東アジア全域、特に中国本土(26)にも見られる。

東ユーラシア人口統計のより広い文脈の中に我々のデータを置くために、我々は以前に出版された古代からのゲノムデータと古代日本のゲノムを組み合わせた(表S4と図。S3)と現在の個人。この研究を通じて、現代の日本人の人口は、1000ゲノムプロジェクトフェーズ3(28)のサイモンズゲノム多様性プロジェクト(SGDP)(27)またはJPT(すなわち東京の日本語)のデータによって表されます。

しかし、我々は、この標準的な基準セットによって完全にキャプチャされていない、今日の群島全体に先祖の異質性が存在していることに注意してください。この研究で分析された他の古代および現在の人口は、主に地理的または文化的文脈のいずれかによってラベル付けされています。

異文化期間間の遺伝的区別

我々は、統計fを用いて、古代と現代(SGDP)の両方の日本人集団からの個人のすべての対比の間の共通の遺伝的ドリフトを見て、時系列データ内の遺伝的多様性を探った3(Individual_1、Individual_2;ムブティ)(図2A)。

我々の結果は、縄文、弥生、古墳の3つの異なる群集を非常に明確に定義し、最後に現代の日本人個人とグループ化し、文化的変化がゲノム変化を伴っていることを示唆している。

縄文データセットでは空間的および時間的な変動が大きいにもかかわらず、12人の間で非常に高いレベルの共有ドリフトが観察される。弥生の人は互いに最も密接に関係しており、また、小船の個人よりも縄文に対する親和性が高い。古墳と現代の日本人は、この指標によってほとんど区別がついておらず、過去1400年間の遺伝的連続性のレベルを暗示しています。

図2.日本における遺伝的多様性

(A)ペアごとのアウトグループfのヒートマップ3古代と現代の日本人の間の統計比較(B) 日本の古代の個人(縄文、弥生、古墳など)と大陸古代人(色のシンボルとして提示)を可視化する主成分分析(PCA)を、現在の東ユーラシア人112人(濃い緑色で強調表示された灰色の円)に投影した。

(C) AD混合物分析から選ばれた個体(K = 11;K = 2からK =12までの完全な写真)がイチジクで提示される。 S5およびS6)は、別個の縄文祖先成分(赤色で表される)、バイカル地方およびアムール川流域(水色で表される)および広東アジアの成分(黄色で表される)からの古代サンプルに共通する成分を示す。

中央の草原で最も支配的な灰色の成分は、古代と現代の日本のサンプルには存在しません。中央と下の行は、各地理的地域から選択された古代東ユーラシアの人口を示しています:中国南部(左から:梁島1、梁島2、西口順)、黄河(YR)(中新石器時代、YR_MN;後期新石器時代、YR_LN;後期新石器時代、Upper_YR_LN;青銅器時代後期/鉄器時代、YR_LBIA。そして鉄器時代、Upper_YR_IA)、中国北部(水海、ビアンビアン、ボーシャン、小河)、西遼川(WLR)(中新石器時代、WLR_MN。後期新石器時代、WLR_LN;青銅器時代、WLR_BA。ハミンマンガ出身の中新石器時代の個体、HMMH_MN。そして、WLR_BAとWLR_BA_oとは異なる遺伝的背景を持つ青銅器時代の個体、アムール川(AR)(旧新石器時代、AR_EN歳、鉄器時代、AR_IAとAR_Xianbei_IA)、バイカル(旧新石器時代、Shamanka_ENとLokomotiv_EN)、中央草原(植物、CentralSteppe_EMBA、Okunevo_EMBA)。

さらに、主成分分析(PCA)を用いて、古代日本の個体から大陸集団までのゲノムワイド常染色体親和性を調査した。南アジア・中央アジア、東南・東アジア、シベリアのSGDPデータセットにおける現在の集団の遺伝的変異に古代の個体を投影した(図2Bと図。S4)。

私たちは、古代日本人の個人がPC1に沿ってそれぞれの文化的指定に分離することを観察します。すべての縄文個体は、他の古代の集団だけでなく、現在の東南アジア人や東アジア人から離れて、緊密なクラスターを形成し、持続的な地理的孤立を示唆しています。

2人の弥生個体はこの縄文団群の近くに現れ、(15, 16)に報告されているように縄文との遺伝的および形態学的類似性を支持する。しかし、東アジアの人口へのシフトは、弥生における追加の大陸祖先の存在を意味する。東ユーラシアの古代の個人は、PC2で南から北に地理的なクラインを示しています:中国南部、黄河、中国北部、西遼川、悪魔の門洞窟、アムール川、バイカル。古墳時代の3人は、黄河クラスターの多様性の中に入っています。

ヒト起源配列データセットを用いたAD混合物解析は、縄文期末以降の群島への大陸遺伝子の流入の増加を支持する(図2Cおよびイチジク)。S5およびS6)。

縄文は、弥生の高いレベルでも見える、古墳と日本人のレベルが低下している、はっきりとした祖先成分(図2Cの赤で表される)を持っています。新しい先祖の成分は、アムール川流域とその周辺地域で見られるプロファイルに似た割合で、弥生に現れます。これらには、北東アジア人(水色で表される)で支配的な大きな成分と、より広い東アジアの祖先(黄色で表される)を表す別の小さな成分が含まれます。この東アジアの構成要素は、古墳時代と現代の日本の人口に支配的になります。

縄文系の深い発散

縄文と他の集団との分離(図2)は、以前の研究で提案された東ユーラシア人の間で明確な系統を形成するという考えを支持している(13, 14)。

この発散の深さを探るために、異なる数の混和事象を持つTreeMixを使用して、縄文の系統的な関係を17の古代および現在の集団と再構築しました(図3Aと図。S7) (29).

我々の結果は、縄文が上旧石器時代の東ユーラシア人(天元とサルキット)と古代東南アジアの狩猟採集者(ホアビンヒアン)の初期の発散の後に出現したが、現在の東アジア人を含む他のサンプルの分裂の前に現れたと推測する。

古代ネパール人(チョコパニ)、バイカル(Shamanka_ENとLokomotiv_EN)からの狩猟採集者、そしてプリモリー地方のチェルトヴィ・ボロタ洞窟(悪魔の門洞窟)、 そして更新世アラスカ(USR1)。さらに、fを用いた対称モデルの公式テストを通じて、この木の他の2つの深く発散した狩猟採集系統間の縄文の位置を確認する4(ムブティ、 X;ホアビンヒアン/DevilsCave_N、縄文)(図。S8、A、B)。

これらは、縄文時代の初めから私たちのデータセットのすべての東アジアの個人が以前に発散ホアビンヒアンよりも縄文に対する親和性が高いが、DevilsCave_Nと比較して親和性が低いことを示しています。

これは、縄文がホアビンヒアンと東アジア関連の系統の混合物である以前に提案されたモデルではなく、東ユーラシアの3つの異なる狩猟採集系統の推論された系統をサポートしています[3(縄文;ホアビンヒアン、DevilsCave_N)=0.193、Z = 61.355; テーブル S5] (12, 30)。

また、テストされたすべての移行モデルにわたって縄文から現代の日本人への遺伝子の流れを一貫して推測し、遺伝的貢献は8.9%から11.5%(図。S7)。これは、AD混合物分析から推定される現在の日本人個人における9.31%の平均縄文成分と一致している(図2C)。これらの結果は、縄文の深い相違と現在の日本人の祖先のつながりを示唆している。

図3.縄文系統の人口統計学的歴史

(A) 2回の移行モデルの下で TreeMix によって再構築された最尤系統樹。この木は、古代(太字)と現在の(斜体)集団の間の系統的関係を示しています。色付きの矢印は、移行経路を表します。移行の重みは、移行エッジから派生した祖先の割合を表します。m = 0 からm = 5 までの他のすべての移行モデルは、図に示されています。S7.(B) 中石器時代と新石器時代の狩猟採集者のための ROH スペクトル 8.8-ka-ka-old JpKa6904を含む.ROHの全長は、8.8歳の縄文個体のN(x軸)とT(y軸)の異なる組み合わせの下でのモデルのフィッティングの0.5から100 Mbまでの範囲の異なる均質性断片の異なるサイズに対してプロットされる。バルーンプロットの各点は、ログを表します10-スケールされた近似ベイズ因子(aBF)は、最も高い尤度を持つモデルと他の各モデルの間の尤度を比較します。aBF = 0 の点は、尤度が最も高いモデルです(N = 1000 とT = 20 ka 前)。S10)。NA は、aBF が 0 の尤度のためにモデルの測定不可能であることを意味します。(D) アウトグループfの比較3Fを使用して測定された3つのサブ期間に分けられた縄文データセットの統計結果3(Jomon_Sub期間、X;ムブティ)(イチジチを参照)。拡張分析の場合は S12)。3つのサブピリオドは次のとおりです: 初期縄文 (JpKa6906);初期の縄文(JpFu1、JpOd6、JpOd181、JpOd274、およびJpOd282)中、後期、および最終縄文(F5、F23、IK002、JpHi01、JpKo2、およびJpKo13)のマージされたグループ。

我々は、縄文系統の出現のタイミングを推定するために集団遺伝的モデリングを適用する。

我々のアプローチは、ゲノム全体のホモ接合性(ROHs)の実行のパターンを利用して、最も古く、最も高いカバレッジサンプルであるJpKa6904で観察されたROHスペクトルに最も適した人口統計シナリオを特定します(注S2を参照)。

ROHの分布は、有効な母集団の大きさと、個人内のハプロタイプの2つのコピー間の最新の共通祖先への時間を反映する(31, 32)。8.8歳の縄文はROHの高いレベルを運びます, 特に短いROHの最も高い頻度で (最近の近親交配ではなく人口の影響による) まだ報告されています (図 3B) (33).

このパターンは、縄文個体の間で強い共有遺伝的ドリフトと相まって(fig.S9)は、縄文集団が深刻な人口ボトルネックを受けたことを意味する。

母集団の大きさと分割時間のパラメータ空間を求めて、我々の推定値は、15〜20年前の間に縄文系統の出現を配置し、その後、少なくとも初期縄文期まで、約1000の非常に小さな人口サイズの維持を行う(図3Cと図。S10およびS11)。これは、LGM(34,35)の終わりに海面上昇と本土への陸橋の断絶と一致し、まもなく群島の縄文陶器の最初の出現に先立つ(2).
その後、縄文が血統の発散後に大陸上旧石器時代の人々と接触したかどうか尋ねたが、列島で孤立する前に、統計fを使用して4(ムブティ、 X;縄文、漢/大/日本語(イチジク)S8、C~E)。テストした上旧石器時代の個人のうち、Yana_UPだけが、それぞれ漢、大、または日本語よりも縄文に有意に近い(Z>3.366)。

この親和性は、これらの参照集団を他の東南アジア人および東アジア人(表S6)に置き換えても検出可能であり、縄文と古代北シベリア人の祖先間の遺伝子流れを支える、LGM(19)以前の北ユーラシアで広く普及している集団である。

最後に縄文集団内の時間的および空間的変動の可能性を調べた。

縄文期の初期、早期、中期期段階の段階で定義される3つの時間群は、古代および現在の大陸集団との遺伝的ドリフトの同様のレベルを示し、これらのサブ期間にわたって群島の外からの遺伝的影響をほとんどまたは全く意味しない(図.3Dおよび図。S12)。

このパターンは、さらに、任意の重要な遺伝子の流れの欠如によってバックアップされ、統計fで観察4(ムブティ、X;sub_Jomon私、sub_Jomonj)、iとjは3つの縄文群の任意のペア(図。S13)。

これらの縄文個体は、同様に、地理(すなわち、サンプルが配置されている異なる島:本州、四国、礼文島)によってグループ化された場合、大陸集団に対する遺伝的親和性の多様性を示さない(図。S14)。

縄文個体の中で観察可能な唯一の違いは、本州に位置する部位間の親和性がやや高く、本州と他の島々の間の遺伝子流れが制限されたインシュラー効果を意味する(図示.S15)。全体として、これらの結果は縄文集団内の限られた空間的および一時的な遺伝的変異を示し、何千年もの間、アジアの他の地域からほぼ完全に孤立するという考えを支持している。
弥生時代の水田稲作の分散

弥生文化に関連した群島の南西部の2人(図1)(15)は縄文と大陸の祖先の両方を持つことがわかった(図2)。

我々のqpAdm分析は、縄文系統の一部としてこれら2人をグループ化する形態学的評価とは対照的に、弥生が縄文の非混合子孫であるモデル(P = 0.00003)を拒絶した(16)。

縄文の祖先の成分は、群島に稲作を持ち込んだ人々によって導入された可能性があります。

私たちは、最初に、古代東ユーラシアの集団が、fを使用して縄文よりも弥生に対する遺伝的親和性が高いかどうかをテストしました4(ムブティ、 X;縄文、弥生)(図4Aと図。S16)。

大陸のサンプリングされた古代の集団のほとんどは、養殖が最初に長江渓谷(すなわち、湿米の架空の起源)から広がった黄河流域(20)からの集団を含む弥生に有意な親和性を示さない(36)。

しかし、養殖と文化的関係のない集団(Z>3.0)では、中国東北部の西遼川流域(WLR_BA_oとHMMH_MN)、バイカル(Lokomotive_EN、Shamanka_EN、UstBelaya_EBA)、北東シベリア(Ekven_IA)などで、弥生に対する過剰な親和性が検出された。

この親和性は、2人の個人(WLR_BA;では観察できません。Z = 1.493) 他の青銅器時代西遼川個人(WLR_BA_o)と同じ考古学的遺跡から来た人(20).この2人は、WLR_BA_o(1.8±9.1%)(20)よりもイエローリバー関連の祖先(81.4±6.7%)がはるかに高く、これは、テストされた古代黄河の個体数が弥生が運ぶ非縄文祖先の主要な源である可能性は低いことを意味します。

図4.弥生時代の遺伝的変化

(A)fからの結果を強調する地図4(ムブティ、 X;縄文、弥生);縄文よりも弥生に近い大陸古代集団(Z>3.0)は赤い三角形で表され、両方の集団と対称的に関連している人は灰色の円で表されます。(B) 縄文と、西遼川(WLR_BA_o又はHMMH_MN)またはバイカル狩猟採集者(Lokomotiv_EN)の青銅器時代又は中新石器時代の個人の二元的混和をモデル化した弥生の遺伝的祖先。垂直バーは、qpAdm によって推定される ±1 SE を表します。混合比率の値を表 S7 に示します。(C) 弥生と縄文の地理的位置との間の遺伝的ドリフトの相互関係弥生部位からの球面距離は、ハバーシン式(93)で測定される。地図は、赤い矢印と異なる色の円で縄文のサイトで弥生の考古学的遺跡をマークします。

これら6つの大陸祖先の潜在的な源をさらに見分けるために、我々は縄文の双方向混合物として弥生をモデル化し、それぞれをqpWave(表S7)を用いてモデル化した。混合モデルは自信を持ってサポートされていました(P > 0.05) これらの 3 つ: バイカル狩猟採集者とアムール川の祖先の高レベルを持つ西遼中新石器時代または青銅器時代の個人 (20).これらのグループはすべて、支配的な北東アジアの祖先成分を共有しています(図2Cと図。S17) (20).55.0の混合分率±10.1%、 50.6±8.8%、または58.4±縄文入力の7.6%は、これら3つそれぞれがそれぞれ第2のソースとして使用されたときにqpAdmによって推定され(図4Bおよび表S7)、西遼中新石器時代の個人が単一の源泉(S7)に合併されたときに61.3±7.4%の割合が返された。

我々は、fによってさらに確認する4(ムブティ、縄文;Yayoi_1、Yayoi_2)縄文の祖先のレベルは、これら2人の弥生個体(Z=1.309)の間で同等である。

これらの結果は、この北西部九州の地域に関連する弥生コミュニティへの先住民の狩猟採集者と移民の貢献の比率がほぼ等しいことを意味します。

このパリティは、ユーラシアの地理的極端な日本を反映したイギリスとアイルランドの群島(37-40)を含む多くの地域で最小限の狩猟採集者の貢献が観察されている西ユーラシアの農業移住と比較すると特に顕著です。

私たちの混和モデルで使用される西遼の人口は、自ら稲作を実践しませんでしたが、日本に広がる農業の架空のルートのすぐ北に位置しており、その結果は重みを与えています。
山東半島(中国東北部)に続いて遼東半島(朝鮮半島北西部)に入り、朝鮮半島を経由して列島に到達する(41)。

さらに、弥生文化が群島に広がった様子を、グループ外で調べた。3弥生と縄文の各人との間の遺伝的親和性を測定した統計我々は、共有遺伝的ドリフトの強さは、弥生個体の位置(P = 0.00697)からの距離と有意な相関関係を有することを発見した。図4C);縄文遺跡が弥生遺跡に近づくほど、縄文の個体は弥生と遺伝的なドリフトを共有する。この結果は、朝鮮半島(41,42)を介した米の導入を支援し、続いて列島南部の縄文群と混和した。

古墳時代の移民の遺伝的祖先

歴史的記録は、古墳時代の大陸から群島への継続的な人口移動を強力に支援する(1)。

しかし、3人の古墳個体のqpWaveモデリングは、弥生個体(P<0.05;表S8)に適合した縄文と北東アジアの祖先の双方向混和を拒絶した。

したがって、古墳は、私たちのアウトグループfからサポートされているように、その祖先の構成要素の面で弥生とは遺伝的に異なっています3、PCA、およびAD混合物クラスタ(図2)、および以前の形態学的研究(43,44)からも。

古墳個体の遺伝的構成に寄与した追加の祖先群を同定するために、我々は、fを用いて、古墳と各大陸集団との間の遺伝的親和性を試験した。4(ムブティ、 X;弥生、古墳)(図5Aと図。S18)。私たちのデータセットの古代または現代の人口のほとんどは、弥生よりも古墳にかなり近いことがわかります。この知見は、ゲノムをこれら2つの期間から分離する6世紀の間に群島への追加の移動を意味する。

図5.古墳時代の遺伝的変化

(A)fからの結果を強調する地図4(ムブティ、 X;弥生、古墳);Zスコアが>3.0の弥生よりも古墳にかなり近い大陸の古代と現在の集団は赤い三角形で表され、両方の集団に対称的に関連するものは灰色の円で表されます。テストされた人口は、年齢に応じて、上石器時代(紀元前16,000年 >)、縄文(紀元前16,000年から3000年まで)、ポスト縄文(紀元前3000年から現在まで)、そして現在の4つの異なる期間に分かれています。現在のパネルでは、青い三角形で漢が強調表示されます。(B) 縄文・北東アジア(WLR_BA_o・HMMH_MN)・漢の三者混合をモデル化した古墳個体の遺伝的祖先垂直バーは、qpAdm によって推定される ±1 SE を表します。混合比率の値は、表S10に示されている。

我々は、弥生の双方向混和と我々のfから同定された集団の適合をテストすることによって、この移行の原因を狭めようとした4Kofun に著しく近い統計 (表 S9)

この混合モデルは、テストされた59個の集団のうち5人に対してP>0.05で確実にサポートされていました。

次に、qpAdmを適用して、弥生とこれらの各ソースからの遺伝的貢献を順番に定量化しました(表S9)。

双方向の混合モデルは、異なる参照セットからのサポートの欠如のために、その後、追加の 2 つの集団で拒否されました。

残りの3つの人口(漢、韓国、YR_LBIA)は、古墳(図示)への20〜30%の貢献を示しています。S19)。これらの3つはすべて強い遺伝的ドリフトを共有しています(図の緑色の正方形で強調されています。

S17)は、そのAD混合物プロファイルにおける広く東アジアの祖先の主要な構成要素を特徴とする(図示。S6)。古墳個体のさらなる祖先の源を更に選別するために、弥生の祖先を縄文と北東アジアの祖先に置き換えて三者混合をテストしました(表S10)。

漢だけが、モデル内の祖先の源としてうまくモデル化された(図5B)、可能な双方向混合モデル(表S11)よりも三方向混合の適合性が著しく優れている。

縄文の祖先がサンプリングされた弥生と古墳の集団の間で約4倍希釈されていることを考えると、これらの結果は、国家形成段階が東アジアの祖先を持つ移民の大量流入を見たことを示唆している。

次に、弥生と古墳時代の両方で観測された大陸祖先が、北東と東アジアの祖先の中間レベルを有する同じ源源に由来する可能性を探る(表S12)。

黄河流域(YR_LBIA)(20)の青銅器時代後期と鉄器時代の個体の人口であるKofunの双方向混合物に合わせる候補は1人しか見つからなかった(20)、これは参照セット(ネスト、P = 0.100;表S13)全体で一貫していなかった。

縄文(Z=2.487)の排除に弥生との統計的に有意な遺伝子の流れを示さないにも関わらず(図4A及び図一覧)。S16)、YR_LBIAと縄文の双方向モデルも弥生に合うことがわかります(表S14)。

この黄河の集団は、qpAdmによって推定されるように、約40%の北東アジアおよび60%の東アジア(すなわち、漢)祖先を有する中間遺伝的プロフィールを有する。

したがって、これは、これらの集団の37.4±1.9%および87.5±0.8%の入力を持つ、特定のモデルで弥生と古墳の両方に適合する中間遺伝的プロファイルである(表S14)。これらの結果は、単一の源からの連続的な遺伝子の流れが弥生と古墳の間の遺伝的変化を説明するのに十分かもしれないことを示唆している。

しかし、我々のより広範な分析は、単一の遺伝子流源が2つの異なる移動の波よりも可能性が低いことを強く示唆している。

まず、AD混合物で同定された北東アジアと東アジアの祖先の比率は、弥生(1.9:1)と古墳(1:2.5)の間で全く異なっていた(図2C)。

第二に、大陸親和性におけるこのコントラストは、異なる形態のf統計でも観察可能であり、北東アジアの祖先との間に有意な親和性を有する弥生の繰り返しパターンがある(図4A及び図同図)。S16)、古墳個体は漢や古代黄河の集団を含む他の東アジア人と緊密なクラスターを形成している間(図5Aとイチジク)。S17およびS18)。

最後に、私たちは、日付によって古墳個体の混合物の年代測定から2パルスモデルのサポートを見つける(fig.S20) (45).中間集団(すなわち、YR_LBIA)を伴う単一の混和事象は、現在(B.P.)の213年前に1840±発生したと推定され、これは弥生期(〜3カ前)の発症よりはるかに遅い。

対照的に、2つの異なるソースを持つ2つの別々の混和イベントが想定される場合、結果として得られる推定値は、縄文と北東アジアの祖先の間の混合物のための八世と古墳時代(紀元前825年±3448±、縄モンと東アジアの祖先の175年 ±の紀元前175年と一致するタイミングに合理的に適合します。S20)。これらの遺伝的知見は、考古学的証拠と歴史的記録の両方によってさらに支持されており、期間中に大陸から新しい人々が到着したことを記録しています(1)。

現在の日本語における古墳の遺伝的遺産

3人の古墳は、図2に示すように、現在の日本人と遺伝的に類似している。これは、古墳時代以降の日本の集団の遺伝的構成に大きな変化がないことを意味します。現在の日本のサンプルで追加の遺伝的祖先のシグナルを探すために、我々は大陸集団がfを用いて古墳に対して現代のゲノムに対して優遇関係があるかどうかをテストした。

4(ムブティ、 X;古墳、日本語)(イチジク。S21)。古代の集団の中には、日本よりも古墳に対する親和性が高いものもあるが、こがんに存在する祖先の追加の源泉としてqpAdmによって支持される者はいない(注S3および表S15を参照)。

予想外に、古代や現代の人口は、古墳の排除に現在の日本人と追加の遺伝子の流れを示していません。我々の混合モデリングは、現在の日本人集団が縄文や弥生の祖先を増やさず、また現在の東南アジア人や東アジア人、シベリア人に代表される祖先を導入することなく、Kofunの祖先によって十分に説明されていることをさらに確認する(表S16)。

また、現代の日本人の人口は、古墳個体(表S17)の三者混合と同じ先祖の成分を持ち、古墳個体(図示)と比較して、現代の日本人における東アジアの祖先のレベルがわずかに増加していることも分かる。S22)。

これは、遺伝的連続性の一定のレベルを示唆していますが、絶対的ではありません。古墳と現代日本人の集団との間の連続性の厳密なモデル(すなわち、古墳系統に特有の遺伝的ドリフトがない)は拒絶される(表S18)(46)。

しかし、我々は、日本の人口(15.0±3.8%)の縄文祖先の希薄化は、古墳個体(13.1±3.5%)に比べて(図示.S22)、前の弥生及び古墳時代とは対照的に、大陸移動により縄文の祖先が著しく減少した(図4及び5)。「混和しない」モデルを用いて、小船と日本人の間の遺伝的なcladalityを「混和しない」モデルでテストしたところ、古墳が日本人とのクレードを形成していることがわかった(P=0.769)。

これらの結果は、状態形成期間によって確立された3つの主要な祖先成分の遺伝的プロファイルが、歯科および非メートル頭蓋形質(47,48)からも支持されるように、現在の日本の集団の基礎となっていることを示唆している。

議論

我々のデータは、現在の日本人集団の三祖先構造の証拠を提供する(図6)、縄文と弥生起源の確立された二元構造モデルを改良する(5)。

縄文は、現代日本人の中でユニークな遺伝的要素の根底にあるLGMに続いて、日本列島内の長期的な孤立と強い遺伝的ドリフトのために独自の遺伝的変異を蓄積しました。

弥生時代は、少なくとも2.3カ前から始まるアジア本土からの実質的な人口移住で、この孤立の終わりを告げています。

しかし、その後の日本の前産原始史の農業と国家形成段階の間に群島に到着した人々のグループ間には明確な遺伝的区別があります。弥生の人の遺伝データは、古墳の東アジアの祖先を広範囲に観察しながら、形態学的研究(5,49)から支持された群島における北東アジアの祖先の存在を記録しています。縄文、弥生、古墳の各文化を特徴づける先祖は、今日の日本の人口形成に大きく貢献しました。

図6.ゲノムは、先史時代と原始の日本における文化的転換と並行して移行する。

縄文は、日本列島における強い遺伝的ドリフトと長期的な孤立のために非常にユニークな遺伝的プロフィールを持っていました。米の栽培は、弥生時代に北東アジアの祖先(WLR_BA_oとHMMH_MNに代表される)を持つ人々によってもたらされました。移住のさらなる波は、古墳時代に列島に広範囲にわたる東アジアの祖先(漢に代表される)をもたらしました。それ以来、この三者の祖先構造は、群島で維持され、近代日本人の遺伝的基盤となっています。

縄文の祖先は、東南アジアで、他の古代・現代の東アジア人(12~14)との深い相違をもとに生まれたものと提案されている。この発散のタイミングは、以前は18〜38カ前(14)の間であると推定されていました。

8.8歳の縄文個人のROHプロファイルによるモデリングは、この日付を20〜15年前の範囲内の下限に絞り込みます(図3)。

日本列島はLGM(28年前)(34)の初めに朝鮮半島を通じてアクセス可能になり、大陸と群島の間の人口移動を可能にしました。その後の海面上昇による韓国海峡17~16カ前の拡大は、縄文系の他の大陸からの孤立につながり、縄文陶器生産の最も古い証拠とも一致している可能性がある(2)また、縄文が初期縄文期間中に1000人の有効母集団規模を小さく保ち、その後の期間や群島の異なる島々でのゲノムプロファイルの変化をほとんど観察していないことも示しています。

農業の普及は、多くの地域で観察された狩猟採集者の人口からの最小限の貢献で、ヨーロッパの大部分で新石器時代の移行に記載されているように、人口の置換によってしばしばマークされます(37–40)。

しかし、先史時代の日本の農業移行が、九州の先住民縄文と新しい移民からの遺伝的貢献にほぼ等しい、置換ではなく同化の過程を伴っているという遺伝的証拠を見つける(図4)。

これは、少なくとも群島の一部が弥生時代の初めに農業移民に匹敵する大きさの縄文集団を支持したことを意味し、一部の縄文コミュニティ(50-53)が実践する高い座りっぱなしの度合いに反映されている。

弥生によって継承された大陸成分は、アムール川の祖先の高いレベル(すなわち、WRL_BA_oとHMMH_MN)の西遼川流域の中新石器時代と青銅器時代の個人によって私たちのデータセットで最もよく表されます(20)。

この地域からの集団は、時間と空間において遺伝的に異質である(20)。中新石器時代の移行(すなわち、6.5〜3.5カ前)は、イエローリバーの祖先が25%から92%に増加したが、アムール川の祖先が時間の経過とともに75%から8%に減少し、キビ養殖の激化に関連することが特徴である(20)。

しかし、アムール川流域からの人々の明らかな流入により、約3.5カ前に始まった青銅器時代に再び人口構造が変化します(fig.S17) (20).

これは、トランユーラシア語と中新言語サブグループ(54)の間で集中的な言語借用の始まりと一致する。弥生に対する過剰な親和性は、遺伝的に古代アムール川の集団や現在のタンギシック語圏集団に近い個体(図4と図)で観察可能である。S17)。

我々の知見は、米農業の広がりは西遼川流域の南に始まったが、遼東半島のどこかに住んでいたが、さらに北の人口から祖先の主要な構成要素を導き出す人々によって群島に湿った稲作が導入されたことを意味する(55)。

古墳文化の最も顕著な考古学的特徴は、エリートを鍵穴型のマウンドに埋葬する習慣であり、その大きさは階層的な階級と政治的権力を反映している(1)。

この研究で配列された3人のKofun個体は、それらの騒動(注S1を参照)に埋葬されておらず、彼らが下位の人々であることを示唆している。

彼らのゲノムは、東アジアの祖先が多い人々の日本への到着と弥生集団との混和を記録している(図5と図。S17)。この追加の祖先は、複数の祖先成分を持つハンによって分析されるのが最も良い。最近の研究では、新石器時代以降に大陸で形態学的に均質になった人々(56)は、古墳時代の移民がすでに非常に混合されていたことを意味すると報告されています。

数行の考古学的証拠は、弥生小船移行中に朝鮮半島南部から日本に新たな大規模集落が導入されたのを裏付けている。

日本、韓国、中国の間の強い文化的、政治的親和性は、中国の鏡や硬貨、鉄生産用の韓国の原料(1)、金属器具に刻まれた漢字(例えば剣)(57)など、いくつかの輸入品からも観察可能である。

海外からのこれらの資源へのアクセスは、群島内のコミュニティ間で集中的な競争をもたらしました。これにより、黄色海沿岸などの大陸の政治との政治的接触が促進され、支配のために(1)。

したがって、コファン時代を通じて、継続的な移動と大陸への影響が明らかになっています。我々の知見は、この状態形成段階における新しい社会的、文化的、政治的特徴の出現に関与する遺伝的交流を強く支持する。

この分析には注意点があります。

第1に、弥生文化に関連する骨格遺跡が縄文(16)と形態的に類似している地域の後期弥生個体は2人に限られている。他の地域や他の時点からの弥生個体は、異なる祖先プロファイルを有し得る,例えば大陸様または古墳様祖先。

第二に、私たちのサンプリングは、同じ埋葬地から来た3人のKofun個人の場合と同様に、ランダムではありません(表S1)。弥生と古墳集団の遺伝的祖先の時間的および地域的な変動を追跡し、ここで提案された日本の集団の三者構造の包括的な見解を提供するために、追加の古代ゲノムデータが必要となる。

要約すると、我々の研究は、農業と技術主導の人口移動が大陸の残りの部分から何千年もの孤立を終えた前後の、日本列島に住んでいた人々のゲノムプロファイルの変化を詳細に見ています。これらの孤立した地域からの個体に対する古代のゲノミクスは、主要な文化的転換がヒト集団の遺伝的構成に及ぼす影響の大きさを観察するユニークな機会を提供する。』

参勤交代の最大の弊害は国許を顧みない若殿が育ったこと

参勤交代の最大の弊害は国許を顧みない若殿が育ったこと
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c08610/

 ※ この話しも、時代小説読んでると、頻出する…。

 ※ 帝国的統治の要諦は、「分断して統治せよ。」だ…。

 ※ 国侍と江戸侍(定腑(じょうふ)の者)の不仲は、幕府にとっては「シメシメ…。」だったろう…。

 ※ 統治していく上で、最も困難なのは、「被統治者の頭の中」を作り変え、操作することだろう…。

 ※ それが、「国もの」と「江戸もの」の二種類に分かれていたら、やり易かっただろう…。

 ※ それとなく、「競争心を煽って」対抗させることも可能だったろうからな…。

 ※ 「幕府瓦解の危機」が迫っても、藩論は四分五裂…。なかなか「一つにまとまること」は、難しかったろう…。

 ※ 逆に、「討幕運動」及び「御一新」後は、強力に「何らかの求心力のシンボル」を必要とし、「錦の御旗(菊のご紋)」が駆り出されたということも、ありそうだ…。

※ 藤田東湖氏、初めてご尊顔を拝する…。徳川斉昭候(慶喜氏の親父)の「懐刀」と言われた人物だ…。

※ こういうお顔のお人だったんだな…。

『浅野内匠頭は「田舎侍」にあらず

長矩と容保二人に限ったことではない。江戸幕藩体制下の藩主たちは、ほぼ例外なく江戸藩邸で生まれ、江戸で成長した。

藩主は参勤交代によって国許と江戸とを往復するが、妻子は江戸に居住することを命じられていたからだ。人質である。世継ぎは江戸で生まれ、江戸で若殿として養育されるのである。

『忠雄義臣録第三』より。吉良に斬りかかる長矩を描いている。なぜこのような暴挙に及んだかについて、長矩は調べに対し「私的に遺恨あり、前後を忘れ、討ち果たそうと及んだ」と述べたという。藩の存亡、藩士・領民の存在は頭からすっぽり抜けていた。

東京都立中央図書館特別文庫室所蔵

『忠雄義臣録第三』より。吉良に斬りかかる長矩を描いている。なぜこのような暴挙に及んだかについて、長矩は調べに対し「私的に遺恨あり、前後を忘れ、討ち果たそうと及んだ」と述べたという。藩の存亡、藩士・領民の存在は頭からすっぽり抜けていた。

家督を継いで晴れて藩主の座に就くと、父と同じく国と江戸を行き来し、その子どもはまた江戸で誕生し、江戸で育つ。

参勤交代によってできた奇妙なシステムだ。

何しろ若殿は「お国」を知らない。もちろん江戸家老や側近から特徴や事情は「聞かされて」はいたろうが、実際に「見る」ことなく育つ。このあたり、親の代から引き継いだ選挙区は地方にあるが、東京で生まれ育った現代の2世議員も、全く同じだろう。

こうして育った若殿が、長じて藩主となると、どうなるか?

江戸が好きで、田舎を避けるようになるのは想像に難くない。

日本近世史学者の大石学氏(現東京学芸大学名誉教授)に取材する機会を得た際、大石氏は藩主たちのこの特徴を熱心に語った。藩主たちにとっては、「江戸こそが“ホーム”であり、国許が“アウェー”」だと。

また、史書にもそのような記載が散見されることも説明してくれた。

8代将軍・徳川吉宗に仕えた儒学者の荻生徂徠(おぎゅう・そらい)は自著『政談』で、「(大名たちは)いずれも江戸育ちにて、江戸を故郷と思う人なり」と書いている。

江戸幕府の公式史書『徳川実紀』も、江戸後期の実態をこう綴る。

「妻子をも、みな府内(江戸)に置くことゝなりしかば、封地(領国)にあるよりも、参府(参勤で江戸に行くこと)を楽しむ時情となれり」

冒頭に書いた浅野長矩は、吉良上野介(きら・こうずけのすけ)に「田舎侍」と罵倒(ばとう)され松之廊下で刃傷に及んだといわれるが、長矩は鉄砲洲(現在の東京都中央区)の赤穂藩上屋敷で誕生した正真正銘の都会っ子だったのだ。

『築地八町堀日本橋南絵図』。赤枠の部分が鉄砲洲。青く囲ったあたりに赤穂藩上屋敷があった(嘉永〜文久期の絵図なのですでになくなっている)。鉄砲洲のすぐ左下の赤く塗られたエリアが本願寺で、現在の築地・銀座にほど近い。国立国会図書館所蔵

元禄時代に刊行された大名の評判記『土芥寇讎記』(どかいこうしゅうき)は長矩をこう評する。

「政道は幼少より成長したいまに至るも、家老にまかせきり」

政道、つまり国許の藩政に、長矩は興味もなかったことがうかがえる。

藤田東湖が批判した「定府の人」の性質

一方、江戸かぶれの藩主や、江戸藩邸詰めの藩士たちを、国許はどう見ていたのだろう?

『土芥寇讎記』は、肥前平戸藩の藩士たちについてこう記す。

「江戸詰めは江戸生まれの(国許から見れば)新参者が多く、藩主松浦鎮信(まつら・しげのぶ)は器量良しを好むので容姿端麗の者が多いが、彼らは国許へ行くことを嫌がる」

鎮信は平戸藩初代藩主で、天文18(1549)年生まれ、慶長19(1614)年没。戦国期〜江戸初期の大名だ。全国の大名が江戸に参勤するのは関ケ原の戦い(慶長5 / 1600年)で家康が勝利してからだが、そのわずか14年後には、すでに江戸詰めの藩士は国へ帰ることを嫌がっていたというのである。当然、国許も彼らを嫌っていたろう。

時代はぐっと下って幕末、水戸の烈公・徳川斉昭(とくがわ・なりあき)のブレーンだった藤田東湖(ふじた・とうこ)も『常陸帯』(ひたちおび)で、「定府の人(江戸藩邸の藩士)は水戸の人を田舎者と嘲(あざけ)り、水戸の士は定府の人を軽薄者と謗(そし)り政事の妨(さまたげ)となりぬれば」と述べ、江戸詰めと国許藩士の確執が藩政の妨げになっていると批判している。

さらに、江戸詰めの人の性質は「狡黠」(こうかつ)で、「剛毅朴訥」(ごうきぼくとつ / 意志が強く飾り気がない)の気風を失っていると手厳しい。

水戸藩は定府大名だが、他藩にも同様の批判があったろう。

(左)藤田東湖 / 『水藩人物肖像図』(右)松平容保 /『幕末・明治・大正回顧八十年史』国立国会図書館所蔵

江戸と国許に確執が生じたのは、江戸で消費する藩費が莫大な額にのぼっていたことが原因だったと、前回書いた。そのことに悩んでいさめようとした結果、藩主に疎まれた人物もいた。幕末の会津藩家老・西郷頼母(さいごう・たのも)だ。

頼母が仕えた会津藩第9代藩主・松平容保は、時代劇などでは不器用だが幕府への忠義に厚い「義」の君主として描かれる。だが、領国では別の評価があった。

そもそも容保は美濃高須藩主・松平家の出身である。それが父の弟が治めていた会津に養子として入った。こう書くと、美濃から遠く会津の地に赴いた印象を受けるが、前出の大石氏よると、江戸の四谷(現在の東京都新宿区)にあった高須藩邸から、和田倉門内(現在の同千代田区)の会津藩邸に引っ越しただけだったという。

江戸藩邸では、徳川宗家に絶対的臣従を貫くという会津の家訓を徹底して叩き込まれた。嘉永4(1851)年、数え16歳で初めてお国入りし、翌年に藩主の座に就いた。

幕府への忠義とプライドに満ちた若き殿様には、中央政府での功名心もあった。文久2(1862)年には京都守護代まで拝命し幕末の動乱に身を投じ、江戸藩邸に加えて京都でも、湯水のごとく藩費を使った。

領民は年貢に喘いだ。国許の人々に、容保はどう映ったろう?

家老の頼母がいさめても聞く耳は持たなかった。その後、官軍が会津に侵攻してくると、頼母は白河口の戦いなどの敗戦の責任も負って、追放される。

参勤交代は東京一極集中の源流

江戸(容保の場合は京都でも)で暮らし、国許を知らない殿様の誕生。国を留守にする藩主に従い、都会風を吹かす側近。彼らと国許の間には、修復しようのない溝があった。

参勤交代の最大の弊害は、ここにあった。

決して幕府が強要したことばかりではない。妻子を人質として江戸に滞在させたことに諸問題の原因あったのは事実にせよ、江戸で生まれ育った嫡男に国を顧みる教育をできなかったこと、また、江戸藩邸での支出を抑制できなかったことなど、諸藩にも問題はあった。

問題の根底にあるのは、江戸で味わった華美な生活と、その暮らしを維持しようとする虚栄心、見栄ではなかったろうか。

藩は財政状態を好転させるために、江戸藩邸の経費切り詰めと倹約を模索した。だが、実際に首尾よく運んだのは、上杉鷹山(うえすぎ・ようざん)が藩主の時期の米沢藩など数少ない。

政治の中心も、人もカネもすべて東京に投下される「一極集中」は、江戸時代の参勤交代にその源があったのではないだろうか。

参考資料 / 『近世日本の統治と改革』(吉川弘文館)

シリーズ「参勤交代のウソ・ホント?」は今回が最終回です。ご愛読ありがとうございました。

バナー画像 : 会津藩主の参勤交代行列図。右上に磐梯山、2段目中央に藩主が乗った駕籠がある。東北の“要”を担った譜代大名の行列を忠実に描いた壮麗な作品。江戸時代後期作。会津若松市立会津図書館所蔵

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小林 明KOBAYASHI Akira経歴・執筆一覧を見る

1964年、東京都生まれ。スイングジャーナル社、KKベストセラーズなど出版社での編集者を経て、2011年に独立。現在は編集プロダクション、株式会社ディラナダチ代表として、旅行・歴史関連の雑誌や冊子編集、原稿執筆を担当中。主な担当刊行物に廣済堂ベストムックシリーズ(廣済堂出版)、サライ・ムック『サライの江戸』(小学館)、『歴史人』(ABCアーク)、『歴史道』(朝日新聞出版)など。

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参勤交代の旅費と江戸滞在費は膨大な金額だった!
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 ※ この話しは、時代小説読んでると、いろんな形で出てくる話しだ…。

 ※ 特に、藤沢周平な…。

 ※ そう言えば、この人、確か庄内の鶴岡出身じゃなかったか…。

 ※ 今回、明確に資料の形で示されて、ウレシイよ…。

 ※ まあ、マクロ経済的には、道中に「お金をばら撒いた」わけだから、「経済の平等化」の役には立ったものだろう…。

 ※ しかし、それが「領内の農民」に対する「苛斂誅求」の原因にも、なったかもだ…。
 ※ さりとて、やり過ぎて、「一揆勃発」にでもなれば、「藩主は腹切り」「国替え」「藩士は、離合集散」の憂き目ともなる…。

『参勤途上で旅費が尽きた庄内藩

参勤交代が藩財政に悪影響を及ぼしたエピソードに、庄内藩(現在の山形県鶴岡市を拠点に庄内地方を治めた藩)の例がある。参勤の途上で旅費が尽きてしまったのだ。

庄内藩の藩主は酒井家。名門譜代大名として多くの大老・老中を輩出した。元和8(1622)年に酒井忠勝(さかい・ただかつ)が庄内藩初代藩主として入封して以降、廃藩置県(明治4 / 1871年)まで250 年近くにわたり、一度も転封を経験しなかった数少ない藩だ。ただ、藩主が幕府要職に就くことが多かったため、江戸中期は諸費用がかさんで財政難に悩まされることがあった。

財政悪化は、4代藩主の忠真(ただざね)が享保10(1725)年、将軍の名代として上洛する任に抜擢された辺りから、頭をもたげ始める。バナー写真はその上洛時の大名行列を描いた『泥洹院(ないおんいん)様御上京図』の一部(泥洹院とは忠真のこと)である。

さらに5代藩主・忠寄(ただより)が寛延2(1749)年に老中に起用されると、普請や交際費などに藩費が湯水のごとく使われていった。そこに参勤交代が追い打ちをかけた。

旅費が尽きたエピソードは、忠寄の孫にあたる7代・忠徳(ただあり)の時に起きる。
江戸で生まれ育った忠徳が、数え18歳で初めて入部することになった(国から江戸へ向かうことを参府、江戸から国へ帰ることを入部という)。だが、江戸藩邸では大名行列を率いて旅をする費用を調達する見込みが立たない。にもかかわらず、幹部たちは見切り発車して江戸を出立してしまう。不足分は国が工面して、旅の途中に届ける手はずだった。

ところが、福島まで来て旅費が尽き、しかも国からカネが届かない。万事休すとなった幹部が忠徳に窮状を打ち明けると、忠徳は『(表高)14万石の藩がなんたる不如意(経済的に苦しいこと)』と涙を流したという(『荘内藩主 酒井忠徳の施政資料』國分剛二著・三田史学会)。

結局、忠徳はカネが届くまで福島で足止めをくうことになった。

忠徳は、この苦い経験を糧に、積極的に財政再建に取り組むことになる。

この時の入部費用がどれだけの額だったかは、はっきりしないが、庄内藩の石高は実質には19〜20万石といわれ、決して小藩ではない。それでも、財政がひっ迫しているところに参勤が重なると、その費用の負担が重く、身動きさえできなくなることを示唆している。

加賀藩は片道だけで総額5億5000万円

いったい参勤交代にはどれくらいの費用が必要だったのか?
加賀100万石・前田家に記録が残っている。

10代藩主・前田治脩(まえだ・はるなが)が著したとされる『御道中日記』に、家老の横山政寛(よこやま・まさひろ)が書き留めた「文化五年御帰国の御入用銀」という支出記録がある。文化5(1808)年の「御帰国」、つまり治脩が江戸から金沢へ戻る際の御入用銀(旅費)の詳細である。

それによると、総額で「銀三百三十二貫四百六十六匁(もんめ)余」。約5500両である。

その内、「御供人への被下(くだされ)金」、つまり帰国に随行した藩士の手当が741両余。これが人件費だ。

ざっくりとだが、1両=10万円とすると帰国の総経費が5億5000万円、人件費7410万円という計算になろう。大藩だけに費用も桁違いといっていい。人件費の他は旅籠代(宿代)、川越賃(川渡りの料金)、他藩の領内を通過する際の贈答品、補償金など多岐にわたった。

『加賀藩大名行列図屏風』(部分)。全体では人物473人、馬14頭、駕籠4丁が描かれている。右から2隻目上から2段目の白馬に乗った人物が加賀藩前田家の藩主。時代にもよるが、前田家の参勤は総勢2000人が大名行列を編成した一大イベントだった。石川県立歴史博物館所蔵
『加賀藩大名行列図屏風』(部分)。全体では人物473人、馬14頭、駕籠4丁が描かれている。右から2隻目上から2段目の白馬に乗った人物が加賀藩前田家の藩主。時代にもよるが、前田家の参勤は総勢2000人が大名行列を編成した一大イベントだった。石川県立歴史博物館所蔵

しかも、この総経費5億5000万円は、帰国の時のみの片道分である。参府(往路)を加えれば、単純に倍となる。

参府には将軍への献上品、幕府要人への土産も持参した。献上品は馬や銀が定番で、馬は他藩を通過する際の贈答品にも使われた。各藩自慢の名産品の初物も多く、領内で一番最初に採れたものをいちはやく将軍に献上することも慣例としていた。

献上品や贈答品には、藩の面子がかかっていた。幕府は献物の高騰を規制しようとはしたが、高値の物をそろえるのに各藩が競争し、その結果、費用はどんどんかさんでいったと考えていい。

最も難題なのは江戸藩邸が使うカネ
次に下表を見てもらいたい。各種の資料から、現在判明している諸藩の1年間の経費のうち、江戸での支出割合を示したものである。江戸での支出とは、主に江戸藩邸での藩主とその家族の生活費、藩邸藩士たちの給金など。

藩の規模(石高)や年代にばらつきはあるものの、江戸での支出が半分から3/4を占めている。大名は参府すると江戸に留め置かれるため、滞在費が金食い虫となるのである。』

船団を率いて渡海した「海の参勤交代」

船団を率いて渡海した「海の参勤交代」
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c08608/

 ※ 大名行列と聞くと、大名行列→奴(やっこ)を先頭に、毛槍振って…→「下にー、下にー」で練り歩く…、というイメージを連想する…。

 ※ しかし、「海路」を使ってのものも、あったようだ…。

 ※ 特に、瀬戸内海は、「南九州」と「機内」を繋ぐ、「回廊」だったはずで、ここの「舟運(海賊衆)」は、常に念頭に置いておく方がいい…。

 ※ こないだ、NHKの「歴史探偵」の録画しておいたものを視たが、「秀吉の中国大返し海運説」を言っていた(甲冑、武具の類(重さは、18㎏もあったらしい)は海運して、人員は軽装で、とっとと小走りで移動した…、という説)…。もっとも、文献上海運したという記述は、皆無らしいが…。

大名行列
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%90%8D%E8%A1%8C%E5%88%97

羽田空港アクセス線、全貌が明らかに…

羽田空港アクセス線、全貌が明らかに…都心・埼玉・池袋方面からのアクセス大幅向上か
https://biz-journal.jp/2021/02/post_208758.html

※ 田町からの「貨物線」を、改良したもの+新線の敷設…、でやるみたいだな…。

※ それにしても、上空からの地図を見ると、東京というものは、「埋め立て」で拡大してきた都市だな…。

※ 昔は、それこそ、「人力で」陸土を「削って」、運河なんか作ったものだったんだろう…。

※ 現在は、「海を埋め立てて」、埋めなかった部分が「海運のルート」になっている感じだ…。

朱引
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%BC%95

江戸 | こちずライブラリ
http://oldmap.jp/j/cat/oldmap/edo

※ このマップ見ると、よく分かる…。「緑の線」が「海岸線」だ…。そこから先は、全部、「埋め立て地」だ…。

※ 江戸時代の「古地図」だ…。有名な、「朱引き」と「墨引き」の領域が、記入してある…。

※ 現代の地図を重ねると、こんな感じ…。日本橋から、放射状に、「街道」が伸びている…。

※ 中心にあったのが、言わずと知れた「江戸城」だ…。

※ お城の近くには、各大名の「大名屋敷」があった…。

※ 現在のマップは、こんな感じ…。

※ 東京の中心は、神聖な「空」となっている…。「神聖にして、侵すべからず。」というところか…。

服部半蔵の全てを徹底解説!半蔵門との関係や家系図・子孫を完全網羅
https://rekishiru.site/archives/11333

「更級日記」1000年、浮かぶ東国の実像 学際研究進む

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO64371180Z20C20A9BC8000/

『菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)が書いた回想録「更級日記」は、ちょうど千年前、1020年の「上京」の記録から始まる。平安女性の生涯を伝える古典として読み継がれてきたこの作品に、歴史研究の観点から光が当てられている。個人の内面の記録にとどまらず、史料としての価値が見いだされているのだ。』
『更級日記をめぐるこうした研究状況は、国文学の世界の近年の変化を映している。福家教授は「研究者は仮名日記を一つの表現世界と捉えて、歴史的な事柄とは切り離して考える傾向が強かった」と指摘する。そのうえで「表現世界の独自性は、歴史的背景との照合によってより明確になる」とし、歴史学など隣接分野との学際的なアプローチで研究が深まることを期待する。

上総国の国府だったと考えられる千葉県市原市では、国分寺跡・国分尼寺跡の発掘調査や史跡整備が進められてきた。孝標女が住んだ国司館などの位置はなお判然としないが「国衙(こくが)(地方の役所が置かれていた一帯)の環境が分かれば、孝標女の東国時代の生活を探る方向性も見えてくる。歴史意識を持って作品を読み解いていく必要がある」と倉田教授はいう。

膨大な研究の蓄積がある古典であっても、歴史学のアプローチでまだまだ新しい姿を見せる。専門分化が進んだ国文学の世界でも、学際研究によって新しい地平が切り開かれていきそうだ。

(桂星子)』

壬申の乱
https://www.wikiwand.com/ja/%E5%A3%AC%E7%94%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1

一世一代の大博打?!壬申の乱!(後編) | 好奇心は放浪中! – 楽天ブログ
https://plaza.rakuten.co.jp/kikimomo15/diary/200503030000/

 ※ 学際研究で思い出した…。「壬申の乱」についての論文だ…。それは、壬申の乱で大海人皇子が辿った行軍の足跡を、平面に置くのではなく、地形の「高低差」をも加味して計算し、「平均行軍速度」を算出したり、「兵の疲労度」を推し量ったりして、両軍の「兵力の実際のところの差異」を考察した論文だ…。それを読んだとき、「へえ…。」と思って、ちょっと感心した…。今回、検索したがヒットしなかった…。もう、掲載されてはなくなったんだろう…。

 ※ 歴史学は、考古学と交錯し、考古学的知見と合致しない「歴史的見解」は、どんな大御所の論であっても、説得力を持たなくなった…。

 ※ また、その「古文書読み」についても、AIが導入され、歴史学者の「伝家の宝刀」ではなくなった…。

AIで古文書を読む 埋もれた情報を発掘(2019.10.18)
https://www.sankei.com/life/news/191018/lif1910180017-n1.html

 ※ 「知の探求」とは、そういうものだ…。「説得力」とは、世界中の誰であってもアクセスできる環境においての、話しとなった…。閉ざされた「専門家ムラ」内部の話しじゃ無くなっているんだ…。

 ※ 「素人は、黙っていろ。」は、もはや全く通用しない…。世界中からアクセスして来る「素人」に対して、どれだけ「説得力」があるのか、その論の「説得力」は、世界中の「素人」が鍛錬する…、そういう世界になってきているんだ…。

※ こういう衛星画像は、非常に参考になる…。古代・中世・近世にかけて、先進地域だった「畿内」を平定しようとする場合、美濃側からは、不破関が、北陸側からは、愛発関(あらちのせき)が、伊勢側からは、鈴鹿関が、防御の「要衝」になるんだ…。

※ 尾張・美濃を手中にした信長が、不破関を破って「上洛」した…、というわけだ…。愛発関を押さえようとして、朝倉勢と争いになり、浅井長政に裏切られて敗走したり、鈴鹿関を押さえようとして、「伊賀攻め」したりしたわけだ…。そういう「戦略」が、この地形図を見ると、よく分かる…。