なぜ日本の情報機関は世界に劣るのか 歴史から見る

なぜ日本の情報機関は世界に劣るのか 歴史から見る
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/29257

 ※ 今日は、こんな所で…。

 ※ kindle版が出ている…。

 ※ kindle版のサンプル本をDLして、そこからキャプチャした画像を、貼っておく…。

 ※ ざっと目次を見たが、参考になりそうだったので、購入した(kindle版)。

 ※ ただし、kindle版と言っても、kindle端末で読むわけではない…。

 ※ kindle for PCソフトで、もっぱらディスプレイで読む。

 ※ ちょっと、気になる事項は、直ぐにググったりできるから、しごく便利だ…。

 ※ kindle端末の方は、引き出しに入ってる…。充電切れで、死んだ状態で…。悲しげに、パッテリー切れの表示を出しながらな…。

『インテリジェンスという言葉に接する時、どんなイメージが浮かぶだろうか。スパイ映画やサスペンス小説での情報合戦を連想される向きも多いだろう。本書『日本インテリジェンス史―旧日本軍から公安、内調、NSCまで』(中公新書)によると、国家の安全保障に寄与して政策決定を支援する機能を持つのがインテリジェンスの本質である。こうした基礎概念の確認を含めて、日本のインテリジェンスを深く考える本である。戦後史の中で日本のインテリジェンスにおける議論がどのような道をたどってきたのかを丹念に記している。
(AlexLinch/gettyimages)

世界情勢とともに変わる日本のインテリジェンス

 本書を一読すると、日本のインテリジェンス・コミュニティの模索は、戦後すぐから始まっていることがわかる。旧軍出身者が連合国軍総司令部(GHQ)参謀第二部(G2)に協力する形で米国に近づいていくが、真の動機は旧陸軍の復活だった。

 G2の支援を受けて、有末精三・元陸軍中将らが暗躍する様子が示される。著者はこう記す。
 有末らは表面上、G2に協力していたものの、その本心は日本軍の再建にあり、利用できるものは何でも利用する方針のようであった。そのためG2と競合関係にあったCIAは、有吉らの情報は不正確で役に立たず、組織も中国に浸透されていると警告を発していた。

 その後、マッカーサーの退任や関係者の異動で米側の支援がなくなると、こうした動きも立ちゆかなくなる。一方でGHQは日本国内の共産主義活動に関心があり、G2が日本国内の共産主義活動の調査に並々ならぬ意欲を示していたことが本書に記される。そうした中で、吉田茂政権の下で公安調査庁ができる。

 当初の任務はソ連から引き揚げてくる日本人の調査で、京都の舞鶴に拠点を設け、調査官が聞き取り調査を行うというものであった。当時は少なからぬ日本人がソ連への協力を誓約させられて帰国してきたので、そのようなソ連側協力者の選別と、ソ連国内の状況、特に軍事や経済に関する情報を収集したようである。これが公安調査庁の活動の原点となった。

 その後も吉田茂と盟友の緒方竹虎が日本のインテリジェンスに並々ならぬ関心を持ち、中央情報機構を作ろうと試みる。そこには世界的な動きがあった。著者はこう記す。
 当時の世界的な潮流は、東西冷戦を戦い抜くために、政治指導者に直結する独立した中央情報機関の設置にあった。

 米国では1947年に大統領傘下の組織として中央情報庁(CIA)が創設されている。同じ敗戦国のドイツでも、1946年には元独軍の情報将校ラインハルト・ゲーレン率いるゲーレン機関が設置されていた。そうなると、日本政府内にも独立した情報機関が構想されたのは自然の成り行きであろう。』

『こうした時勢を受けて、49年春頃に設置されたのがZ機関で、日本国内で反共的な秘密工作を行うようになった。さらにZ機関の長だった米陸軍中佐のジャック・キャノンから米CIAのような政治指導者直属の情報機関の設置を薦められたこともあり、「日本版CIA」調査室が設置される。

 しかしこうした動きがありながら、当時のインテリジェンス・コミュニティ構想は他国並みには発展しなかった。なぜなら組織が各省出身者の「寄り合い所帯」であり、官庁間の争いが先鋭化していたためである。その後、「日本版CIA」調査室は内閣調査室(内調)となり、内閣のための情報組織という色彩が強くなる。

浮き彫りになる根本的な問題

 そうした中で冷戦期は日本がサンフランシスコ講和会議で独立し、防衛庁・自衛隊が発足して再軍備を果たすと、警察がインテリジェンスの中心になっていく。ソ連を始めとする共産圏の情報収集やソ連から帰国してくる引揚者の聞き取りなどを行い、他省庁との情報共有も行うようになる。しかし、秘密保護法制やスパイ防止法などは整備がなされないままで、旧ソ連のスパイが日本で情報戦を展開するなど、重要な情報が流出する結果を招いている。

 76年9月の旧ソ連の戦闘機「ミグ25」が北海道の函館空港に強行着陸し、パイロットのヴィクトル・ベレンコ中尉が米国に亡命する事件が起きる。一定の年代以上の人の中には「ベレンコ中尉亡命事件」として記憶している人も多いだろう。当初は地元の北海道警が対応を行い、本来すぐに対応すべき航空自衛隊が関与するのは後になってからである。著者はこう指摘する。
 ベレンコ事件は警察が国内事件として処理していた。日本における対外情報機関の空白と、軍事情報の領域を警察がカバーするという特殊性を際立たせるものになった。

 その後、83年9月に起きた大韓航空機撃墜事件の際にも、日本側が通信傍受を行い、その内容を米国側に提供したにもかかわらず米国側が主導して発表し、しかもそれが発表のわずか1時間前に伝達されるという日本の立場をないがしろにされるような事例も起きている。これについて著者はこう分析する。
 冷戦期における日本のインテリジェンスの根本的な問題は、日米同盟の下で日本が独自の外交・安全保障政策をとる必要性がなかったことと、さらに構造的な問題として日本のインテリジェンス・コミュニティが米国の安全保障政策に組み込まれていたことである。冷戦期の日本のインテリジェンスは、米国の下請けとして機能してきたといえる。

 さらにこうも指摘する。

 冷戦期の日本のインテリジェンス・コミュニティは、他国のように、恒常的に政治指導者の政治判断に有益な情報を提供できていなかった。また政治指導者の側もインテリジェンスにあまり期待していなかったのではないだろうか。その根本的な原因はやはり内調の規模や権限があまりにも限定されており、有益な情報活動が行えなかったことだろう。』
『必要性高まる情報機関へのリテラシー

 こうした経緯から、情報機関の重要性が認識された結果、その後平成、令和と時代を経る中で、政府はインテリジェンス・コミュニティの整備を行ってきた。そして第二次安倍晋三政権での特定秘密保護法や国際テロ情報収集ユニットの整備につながる。

 著者があとがきで記すように、日本のインテリジェンス・コミュニティの形成過程を歴史的に踏まえた書物はこれまでなかった中で、本書は詳細な調査や関係者への取材を重ねて丁寧にまとめられている。情報機関に関する日本国民のリテラシーを向上させてくれる貴重な力作であり、公務員や企業関係者も含めて必読の一冊である。』

シリーズ「日本の仏教」第4回:権力と結びついた日本の密教

シリーズ「日本の仏教」
第4回:権力と結びついた日本の密教
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b09404/

 ※ 今日は、こんな所で…。

『佐々木 閑SASAKI Shizuka経歴・執筆一覧を見る

花園大学文学部特任教授。1956年福井県生まれ。京都大学工学部工業化学科・文学部哲学科を卒業。同大学院文学研究科博士課程満期退学。博士(文学)。カリフォルニア大学留学を経て花園大学教授に。定年退職後、現職。専門はインド仏教学。日本印度学仏教学会賞、鈴木学術財団特別賞受賞。著書に『出家とはなにか』(大蔵出版、1999年)、『インド仏教変移論』(同、2000年)、『犀の角たち』(同、2006年)、『般若心経』(NHK出版、2014年)、『大乗仏教』(同、2019年)、『仏教は宇宙をどう見たか』(化学同人、2021年)など。YouTubeチャンネルShizuka Sasakiで仏教解説の動画を配信中。』

『8世紀末から9世紀初頭、中国から日本に密教がもたらされた。それ以降、天台宗と真言宗の二大密教が貴族社会の権力構造の下で対立しながら併存していくことになる。第4回は、日本の密教について解説する。』

『仏教全体を統合する思想体系の欠如

8世紀中頃(奈良時代)、日本は仏像、経典、修行のための組織であるサンガという三要素、すなわち仏法僧(ぶっぽうそう)を形式上導入することに成功し、正式な仏教国になった。しかしそれは、釈迦牟尼(しゃかむに)が創成した本来の仏教が日本に取り入れられたという意味ではない。大乗仏教で生み出された多くのブッダたちは、日本の在来の神々と同じような神秘的呪力(じゅりょく)を持った崇拝の対象であり、僧侶はそういったブッダたちの威力を引き出すための呪術儀礼執行者として重んじられていたのである。そこには、自己の煩悩を断ちきるために、サンガの中で修行に励む本来の僧侶の姿は見られない。

奈良の朝廷は、国家鎮護に効力を発揮する、仏教の呪術的な力を広く世にアピールするために、学問の場を設け、僧侶たちに仏教を学ばせた。そこでは、さまざまな仏教哲学や戒律などが6分野の宗派に分けてそれぞれ個別に教授され、それらの難解な教義を学ぶことが、僧侶としての特殊能力を保持する証しになると考えられたのである。6分野とは三論(さんろん)、成実(じょうじつ)、法相(ほっそう)、倶舎(くしゃ)、華厳(けごん)、律であり,後にこれらは「南都六宗」と総称されるようになった。

しかしそれらはあくまで国家が認定する資格取得カリキュラムのようなものであって,仏教全体を包括的に理解できるような総合的教育システムではなかった。この時期日本には,仏教全体を俯瞰(ふかん)し,その全体を一挙に把握できるような思想体系は存在していなかったのである。

法華経(ほけきょう)を頂点にあらゆる経典を階層化

このような状況が続く中、8世紀末から9世紀初頭、日本の首都が奈良から京都へと移ったちょうどその時期、仏教の核心を表す(と当時受け取られた)2種類の仏教思想が同時に中国から日本にもたらされた。1つは最澄(767〜822)が持ち帰った天台宗の教え、もう1つは空海(774〜835)が持ち帰った真言宗の教えである。この2種類の教えが、その後の日本仏教の基盤となる。

天台宗は中国で生まれた、当時最先端の宗派である。紀元後1世紀以来、インドから次々と中国にもたらされた多種多様な仏教思想を全て受け入れながら、それらの間に複雑な論理的関係性を設定して、広大な仏教世界を一括して理解しようとする宗派である。もちろんそういった多様な仏教思想は本来、インドで異なる時代に異なる人々が個別に生み出してきたものであるから、1つに統括すべきものではない。しかし天台宗はそれらを、さまざまな理論を駆使して1つにまとめようとするのである。そしてその頂点に『法華経』を置く。すなわち天台宗は、『法華経』を最上位に置き、あらゆる経典を階層的に位置づける作業によって生み出された中国独自の宗派なのである。

最澄によってこの宗派が本格的に紹介されると、日本の仏教界はこれを大いに歓迎した。今まで断片的にしか見えていなかった仏教が、1つの体系として理解できるようになったからである。

最高位の思想としての魅力

ところがその直後、空海によって真言宗の教えがもたらされた。これは天台宗のような異なる教えの集積ではなく、インドにおける仏教の変遷過程の最終段階として現れた、「密教」と呼ばれる単一の教えであった。「先に存在している思想を踏まえた上で、それを包含する、より上位の思想を案出する」という活動の繰り返しによって発展してきた仏教史の、最終段階として生み出された密教は、それまでのあらゆる仏教思想の頂点に立つべき、最高位の神秘力を持つ仏教だという自負を持っていた。

外部に救済者のいないこの世界で、自己の努力によって自己改革を目指した釈迦の教えは、その後の大乗仏教において次第に神秘性を帯びるようになり、最終段階の密教において、「宇宙的エネルギーとのつながりを自覚し、それと一体化することで仏陀になる」という、ほぼヒンズー教の教えと変わらないところにまで変貌したのである。この密教の奥義は、特定の限られた人にだけ伝授される神秘主義的な教えであり、宇宙エネルギーとの一体化の体験も、言葉で広く伝えることはできないとされた。

空海はそうした密教を、確固とした一つの体系として丸ごと日本に持ち帰ってきた。仏教を神秘的な呪術宗教として取り入れていた日本の仏教界にとって、空海の密教は最も深淵(しんえん)で効力のあるものであり、さまざまな教えを理論的につないで一体化して見せる天台宗よりも、強固で、揺るぎないものに見えた。最澄の弟子たちもそのことは十分理解していたので、自分たち天台宗の教義にも、最新の密教の教えを上乗せして、全体を密教的な色合いで覆っていったのである。

こうして日本には、異なる教えの集合体を密教的感覚で薄く覆った天台宗と、仏教史の最終段階としての密教をそのまま単一で伝える真言宗の、2つの異なる密教が並び立つことになったのである。

宗祖 総本山 教え

天台宗
最澄 比叡山延暦寺(京都市・滋賀県大津市) 法華経を最高位に置き、あらゆる経典を階層的に位置づける

真言宗
空海 高野山金剛峯寺(和歌山県) 仏教の変遷過程の最終段階。宇宙的エネルギーとのつながりを自覚
崇高な少数と一般大衆の二極構造

ここで注意しておかねばならないのは、この時代の日本人に「仏教思想は時代とともに変容してきた」という認識はなかったという点である。中国から伝えられる仏教経典は全てブッダの言葉であるから、その全てが正統なる仏教の教えであることは間違いないのだが、しかしそこには深浅の違いがあると日本人は考えた。「どれもブッダの言葉ではあるが、その中で本当にブッダがわれわれに言いたかったのはどれか」との問いに対して、天台宗は(密教的に解釈した)『法華経』であると言い、真言宗は『大日経』や『金剛頂経(こんごうちょうぎょう)』などの密教経典そのものであると言ったのである。「長い仏教史の最終段階で現れた、最も新しい思想が密教だ」などという歴史的視点がなかったことはくれぐれも留意しておく必要がある。

密教が持つ特徴の一つは「権威重視の傾向」である。誰もが根源的宇宙エネルギーとの一体化によってブッダになることができるとは言っても、その「根源的宇宙エネルギーとの一体化」は、特殊な資質を持つ者や、人並み外れた修行を積んだ者だけに許される特別な活動であった。それゆえ一般民衆は、その特別な人たちにお願いして、現世的な利益(りやく)を与えてもらわねばならない。密教によれば、この世には「生き仏」とも言うべき崇高な少数の人たち=宇宙エネルギーとの一体化を果たした修行者と、その崇高な人たちにお願いして幸福を与えてもらう一般民衆の2種類の人間がいるという、階層構造の上に成り立っているのである。この独特の構造は、宗教的身分制(カースト制)を認めるヒンズー教の影響を受けて成立したことからすると当然のことである。

その後に多様化する日本の仏教宗派も、皆多かれ少なかれ、密教の持つこうした特殊な様相の影響を受けていく。そのためどの宗派も、「特別な資質、資格を持つ人(あるいはそういう人たちの系譜)」と、「そういった人たちからの利益を期待して信奉する一般人」といった構造を含むようになった。第2次世界大戦中、日本の仏教諸派がこぞって天皇にブッダと同等の権威を認め、戦争遂行に協力した事実は、そういった仏教観が表現された典型的な例である。

貴族社会を支えた二大密教

8世紀以降、日本の仏教界は、天台宗と真言宗の2派を中心にして動いていく。どちらも権威性を重んじるという特性を持っていたので、当然ながら天皇を中心とした国家権力とのつながりに重点を置いた。言ってみれば、天台宗と真言宗が、天皇を引き込むための綱引きを続けたのである。その際,旧来の奈良仏教の多くは,京都に拠点を置く天台宗が奈良の仏教を軽視したことに反発して、真言宗側についた。

こうして日本の仏教は、天台宗と真言宗の二大密教が、天皇を中心とした貴族制社会の権力構造の下で対立しながら併存する状況になった。この段階の仏教の要点は以下のとおり。

律蔵にもとづいて運営されるサンガは存在せず、僧侶の生活を厳密に規定する規則は存在しなかった。これは現代に至るまで続いている特性である。
思想的には大乗仏教を継承しているが、特別な資質、資格を持つ人(あるいはそういう人たちの系譜)と、そうでない一般人との間に差別を認める、密教の構造が基本となっていた。
権力との結びつきを指向した。

300年間はこうした状況が続くが、その後、権力基盤が貴族から武士、あるいは一般民衆へと移り変わるのにつれて、この構造も次第に変化し、多様な仏教世界が生み出されていくことになる。それは次回以降に述べることにする。

バナー画像=空海の銅像(PIXTA) 』

このシリーズの他の記事

第1回:目覚めた人ブッダの誕生
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b09401/

第2回:大乗仏教の登場
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b09402/

第3回:国家運営の任務を帯びた日本の初期仏教
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b09403/

誰(たれ)やらが形に似たり今朝の春 ― 芭蕉

誰(たれ)やらが形に似たり今朝の春 ― 芭蕉
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b09601/

※ 今日は、こんな所で…。

※ 黒船が来襲するまでの江戸の昔が、一番穏やかで、平和だったのか…。

※ 世界情勢は、風雲急を告げ、緊迫の度を高めている…。

※ 芭蕉の世界に耽溺している暇(いとま)は、無さそうだ…。

『文化 環境・自然・生物 2023.01.01

深沢 眞二 【Profile】
俳句は、複数の作者が集まって作る連歌・俳諧から派生したものだ。参加者へのあいさつの気持ちを込めて、季節の話題を詠み込んだ「発句(ほっく)」が独立して、17文字の定型詩となった。世界一短い詩・俳句の魅力に迫るべく、1年間にわたってそのオリジンである古典俳諧から、日本の季節感、日本人の原風景を読み解いていく。第1回の季題は「今朝の春」。

誰やらが形に似たり今朝の春 芭蕉
(1687年作、『続虚栗(ぞくみなしぐり)』所収)

2023年がやって来ました。今年が良い年になりますように。

現代の日本では太陽暦が用いられていますので、冬至(12月21日頃)から約10日後の1月1日はまだ冬のさなかです。しかし、江戸時代までは太陰暦が使われており、立春(2月4日頃)に近い新月の日が1月1日に当たり、「元日は春のはじまり」という感覚が一般的だったのです。そのようなわけで「今朝の春」とは「元日の朝」を意味します。

当時の年齢は「数え年」でした。この世に生まれた時が1歳で、正月が来ると誰もが一つずつ年を取ります。芭蕉は「私は誰やらの容貌に似てきたなあ。新しい年になって、また一つ年齢を重ねたら気が付いたよ」と言っていると思われます。

「誰やら」って、いったい誰でしょうか。わざと明確にせずにとぼけているらしいのですが…。おそらく「われながら父に似てきたなあ」という感慨を抱いたのではないでしょうか。

13歳で父親と死別したと推測される芭蕉は、この年の元日に44歳を迎えました。子どもの目には、親は年を取って見えるものですよね。父親が死んだのと同じぐらいの年齢を迎えた元日の朝、鏡の中にその面影を発見して懐かしさにしみじみとしながら、自分自身の老いも自覚したのでしょう。

バナー画像 : PIXTA

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俳句 与謝蕪村

深沢 眞二FUKASAWA Shinji経歴・執筆一覧を見る

日本古典文学研究者。連歌俳諧や芭蕉を主な研究対象としている。1960年、山梨県甲府市生まれ。京都大学大学院文学部博士課程単位取得退学。博士(文学)。元・和光大学表現学部教授。著書に『風雅と笑い 芭蕉叢考』(清文堂出版、2004年)、『旅する俳諧師 芭蕉叢考 二』(同、2015年)、『連句の教室 ことばを付けて遊ぶ』(平凡社、2013年)、『芭蕉のあそび』(岩波書店、2022年)など。深沢了子氏との共著に『芭蕉・蕪村 春夏秋冬を詠む 春夏編・秋冬編』(三弥井書店、2016年)、『宗因先生こんにちは:夫婦で「宗因千句」注釈(上)』(和泉書院、2019年)など。

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睦月(1月): 初詣、初売り、鷽替え

睦月(1月): 初詣、初売り、鷽替え
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c11801/

『2022.12.29 小林 明

(1月): 初詣、初売り、鷽替え

日本の年中行事
睦月(1月): 初詣、初売り、鷽替え
暮らし 文化 社会 2022.12.29

小林 明 【Profile】

日本は古来、春夏秋冬の季節ごとに大衆参加型のイベントが各地で行われてきた。これらを総じて「年中行事」と呼ぶ。宗教・農耕の儀礼を起源とする催事から、5月5日端午や7月7日七夕などの節句まで、1〜12月まで毎月数多くのイベントがあり、今も日本社会に息づいている。本シリーズではそうした年中行事の成り立ちや意義などを、文化や信仰の成熟を示す例として紹介していく。

本来の初詣はお参りする「方角」が重要

年が明けると、必ず話題となるのが元旦初詣の盛況ぶりだ。初詣の起源を、東京都神社庁ウェブサイトはこう記す。

「大晦日の夜から元旦の朝にかけて祈願のために氏神の社に籠る『年籠り(としごもり)』から始まった。のちに年籠りは、除夜詣と元旦詣に分かれ、現在の初詣の形になった」

このうちの元旦詣が広く大衆に浸透したのが、恵方詣り(えほうまいり)である。江戸時代には初詣という言葉はなく、恵方詣りといわれていた。

恵方(吉方とも)は、歳神(としがみ)が訪れて来る、運をもたらしてくれる縁起の良い方角のこと。その方向にある神社仏閣に参詣するのが、今でいう初詣だった。

現代は馴染み薄いが、干支は本来、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10種の十干(じっかん)と、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の十二支の組み合わせで決まる。2022年なら十干は「壬」、十二支は「寅」で干支は「壬寅(みずのえとら)」、恵方は北北西。

2023年は「癸」に「卯年」で「癸卯(みずのとう)」、恵方は南南東だ。
江戸時代の人々は、こうした干支に則して恵方の方角にお参りに行った。

それが明治以降、鉄道が敷設されると、遠方にまで恵方詣りに行くことが可能となった。さらに鉄道会社が「わが社の鉄道をご利用ください」と盛んに宣伝し、吉方は次第に曖昧となっていった(『鉄道が変えた社寺参詣』平山昇/交通新聞社新書)。

その結果、恵方詣りは「初詣」という新語に置き換えられた。

続いて1月2日は、日本橋初売りの日。現在も各地のデパートは2日を初売り出しの日とし、福袋などの購入客で賑わう。実はこの慣習も江戸時代にさかのぼる。

日本橋初売りの人混みを描いている。『大江戸年中行事之内 正月二日 日本橋初売』東京都立中央図書館特別文庫室所蔵

当時は日本橋魚河岸の初売りを指していた。江戸の商店や飲食店は元日は休み、2日からオープンする。商店は魚河岸の初売りで購入した食材で、得意客に酒と料理をふるまい、料理屋は酔客で賑わった。

魚河岸は1923(大正12)年の関東大震災を契機に築地に移転するまで日本橋にあった。初売りは江戸の名物だった。
幕府が庇護した伝統芸能「三河万歳」

正月のテレビといえば演芸番組が定番だが、これは正月に江戸を訪れ祝福芸を披露した三河万歳(みかわまんざい)にさかのぼる。三河万歳は愛知県西尾市・安城市などで国の無形民俗文化財に指定されている。西尾市では「森下万歳」、安城市では「別所万歳」と地域ごとに呼び名も演目も異なるが、ここでは総じて三河万歳とする。

『日本大百科全書』(小学館)によると「太夫は烏帽子(えぼし)に大紋の直垂(ひたたれ)、才蔵は侍烏帽子に素襖(すおう)風のものを着る」とある。太夫は扇、才蔵は鼓を持ち、2人組で家々を回り、滑稽な問答で笑わせ、舞や祝い言葉で家内安全や長寿を願った。

女性や子どもの服装から見て、武家屋敷を訪れて芸を披露する三河万歳の2人組を描いたと考えられる。右が太夫、左が才蔵。『江戸風俗十二ケ月の内 正月 万歳説之図』国立国会図書館所蔵

そもそも陰陽道の流れをくむ宗教行事だったという説もあり、実際、江戸時代は陰陽師の支配下にあった。

また、三河万歳が元旦の江戸城開門の係を担ったという話も、『西尾町史』にある。芸を披露するために訪れる家も、大名屋敷が多かった。つまり、幕府の庇護を受けていた。三河が徳川家康の出身地だったからだ。

三河安城は家康の出自である松平氏の拠点であり、家康は松代宗家の安城松平(あんじょうまつだいら)氏直系に当たる。西尾も分家・大給松平(おぎゅうまつだいら)が治めた地。いずれも徳川とゆかり深い特別な地だった。

明治以降も存続したが、徳川の威光が失せたと同時に勢力も失い、次第に衰退していった。だが、保存を願う人々によって復興されつつあり、子どもたちに伝承する活動が地道に続いている。

奉公人たちの休息「薮入り」

11日は鏡開きである。正月に飾った鏡餅を割って汁粉(しるこ)、かき餅などを作って食べる。今もおなじみだが、本来は武士の家が無病息災を祈願する儀式だ。

鏡餅は歳神を迎えるお供え物ゆえ、正月が終わったら食べることで歳神を見送り、同時に神が餅に授けた力をいただく。これが庶民の間に広がった。

(左)商店に飾られた豪華な鏡餅。『引札類 鏡餅』出典 : colbase / (右)湯屋の番台に鏡餅とお捻りを載せた三方がある。『賢愚湊銭湯新話』国立国会図書館所蔵

16日は薮入り。商家に住み込みで働く丁稚(でっち)ら奉公人が休日をもらい、帰省する日だ。前述の通り商家は2日から営業を開始したので、正月も一段落した1月中旬、ようやく従業員は休暇をとった。

(左)薮入りの丁稚たち。『江戸府内絵本風俗往来 上編』/ 小僧たちの共同生活。ここから解放されるのは年にわずか2日だけ。『教訓善悪小僧揃』2点とも国立国会図書館所

雇い主によって日数はまちまちだったが、江戸後期の類書(百科辞典)の『守貞漫稿』によると、商家の丁稚は1日しか休みをもらえず、実家が遠方にあると帰れない。せいぜい、江戸にいる請負(保証人=養父)の家に行くぐらいだった。このため、薮入りは「養父入」とも書いたという。

薮入りは「宿下がり」ともいわれ、「真の宿下りは七日七夜」(守貞漫稿)だったらしい。武家屋敷の奉公人は、3〜7日の休みをとれたらしいが、商家ではそうもいかず、せめて3日は欲しいと願い出る者が多かったという。実際のところは、1月16日とお盆の時期の7月16日の2日だけだった。 現在の価値観からいえばとんでもないブラック職場だが、当時の奉公人の労働環境はそういうものだ。 鏡開きと違い、こちらは人権侵害などの理由から、時代とともに姿を消した。

もう1つ、今も一部で熱烈に支持されている1月の行事を紹介しよう。全国の天満宮の神事「鷽替え(うそかえ)」である。 鷽は、スズメよりひと周り大きい鳥で、平安時代の貴族・政治家だった藤原道真とのゆかりが深い。

道真が政敵だった藤原時平の策謀によって太宰府に左遷されたのは901(昌泰4)年。天満宮の伝承では、ある日、道真がハチに襲われると、鷽が追い払ってくれた。 そこから、前年の凶事を鷽に託して「嘘」にしてしまう神事が生まれた。嘘を消して、新しい年は「吉」に恵まれますようにとの願いを込める。

太宰府天満宮は1月7日、大阪天満宮や東京の亀戸・湯島天神は1月24〜25日に行われる。 鷽が木にとまった姿をかたどった「木うそ」は、ユルキャラを思わせる愛嬌があり、毎年、購入するファンも多い。

(左)『守貞漫稿」に描かれたが亀戸天神の「木うそ」。白木を彫っており、目と羽は黒、くちばしは朱色、側面は緑色、後頭部は金色の彩色を施しているとある。(右)亀戸天神の「木うそ」準備の様子。江戸時代のものとほとんど同じ形が維持されている(左)『守貞漫稿」に描かれたが亀戸天神の「木うそ」。白木を彫っており、目と羽は黒、くちばしは朱色、側面は緑色、後頭部は金色の彩色を施しているとある。(右)亀戸天神の「木うそ」準備の様子。江戸時代のものとほとんど同じ形が維持されている

この他の1月の主な行事

行事 日付 内容
芸事始め 3日 習い事の新年初日。寝正月をこの日で終える
蹴鞠始め 4日 京都の下鴨神社で蹴鞠を奉納する日
人日(じんじつ) 7日 七草粥を食べて無病息災を祈願
十日戎(とおかえびす) 10日 恵比寿様を祀る神社に商人が集まり商売繁盛を願う
小正月 15日 正月飾りを外して焼く
初観音 18日 観音菩薩と縁を結べる日として縁日がたつ
初大師 21日 その年の最初の弘法大師の月命日

このように1月だけでも多くの年中行事があり、一部は廃れたものの連綿と日本社会に根づいている。今後は月1回、毎月行われるイベントを紹介し、日本人の暮らしに息づく文化や信仰を解説していきたい。
参考文献

『日本の暮らしと信仰365日』渋谷申博 / G.B
『近世風俗誌(四)』喜田川守貞著、宇佐美英機校訂 / 岩波文庫
『サライの江戸 CGで甦る江戸庶民の暮らし』 / 小学館

バナー画像 : 正月2日の町を描いた絵。左に三河万歳、右に羽子板を持つ子ども、中央の男性は木に引っかかった羽子板の羽根を箒(ほうき)で落とそうとしているようだ。『英一蝶十二ヵ月の内正月』東京都立中央図書館特別文庫室所蔵

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小林 明KOBAYASHI Akira経歴・執筆一覧を見る

1964年、東京都生まれ。スイングジャーナル社、KKベストセラーズなど出版社での編集者を経て、2011年に独立。現在は編集プロダクション、株式会社ディラナダチ代表として、旅行・歴史関連の雑誌や冊子編集、原稿執筆を担当中。主な担当刊行物に廣済堂ベストムックシリーズ(廣済堂出版)、サライ・ムック『サライの江戸』(小学館)、『歴史人』(ABCアーク)、『歴史道』(朝日新聞出版)など。

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掃海艇派遣「海部首相決断を」 91年公電、駐米大使促す

掃海艇派遣「海部首相決断を」 91年公電、駐米大使促す
外交文書公開
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA208UG0Q2A221C2000000/

『1991年1月に起きた湾岸戦争の際、停戦後の自衛隊掃海艇の派遣に向け、当時の村田良平駐米大使が海部俊樹首相の決断を強く促していたことが、21日公開の外交文書で分かった。91年3月の極秘公電で「決断のタイミングは今からでも決して遅くはない」と主張した。

日米関係の悪化と国際社会からの批判を懸念する外務省が、自衛隊初の本格的な海外派遣を切望していた実態が浮き彫りになった。

90年8月にイラクがクウェートに侵攻した湾岸危機で、米国は多国籍軍によるイラク攻撃を念頭に日本に自衛隊派遣を要請した。

日本は代替策として総額130億ドルの財政支援を実施したものの、米議会などの評価を得られなかった。自衛隊機での避難民輸送を決定したが実現しなかった。

米軍主体の多国籍軍は91年2月にクウェートを解放。クウェート政府は3月11日、自国解放に寄与した国に感謝する広告を米紙に掲載したが、日本の名前はなかった。

1991年7月、首脳会談後に記者会見する海部首相(右)とブッシュ(第41代)米大統領(米メーン州ケネバンクポートの大統領別荘)=共同

村田氏の公電は、新聞広告から2日後の13日付。自衛隊機の避難民輸送が実現せず「米側に強い期待外れ」をもたらしたと指摘。掃海艇派遣は「評価を挽回する絶好の機会」として「国内の一部にいかなる反対があろうとも不退転の決意で実行」するよう訴えた。

その後、外務省は掃海艇派遣へ調整を加速。栗山尚一事務次官は3月22日、海部氏に「外務省としては実施の方向で決断を得たい」と進言した。

26日には工藤敦夫内閣法制局長官と協議し「憲法上、法律上可能であればぜひ日本が掃海に協力することが望ましい」と理解を求めた。

工藤氏は4月10日、派遣を巡る自衛隊法の解釈に関し、停戦成立後であれば「説明がより容易になる」と海部氏に説明。11日の正式な停戦成立を受け、政府は24日にペルシャ湾への派遣を決定した。

日本が円建てで予算を計上した多国籍軍などへの90億ドルの財政支援を巡り、ブッシュ(第41代)米大統領が91年4月の会談で、海部氏にドル建てでの支払いを求めていたことも文書で判明した。

円安で目減りが生じたためで、海部氏は補塡に応じず別の基金に5億ドルを拠出する形で決着した。〔共同〕

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薩英戦争

薩英戦争
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E8%8B%B1%E6%88%A6%E4%BA%89

『薩英戦争(さつえいせんそう、文久3年7月2日 ? 4日〈新暦: 1863年8月15日 ? 17日〉)は、薩摩藩と大英帝国[注釈 3] (イギリス)の間で起こった戦闘。文久2年8月21日(1862年9月14日)に武蔵国橘樹郡生麦村で発生した生麦事件の解決と補償を艦隊の力を背景に迫るイギリスと、主権統治権のもとに兵制の近代化で培った実力でこの要求を拒否し防衛しようとする薩摩藩兵が、鹿児島湾で激突した。

薩摩方は鹿児島城下の約1割を焼失したほか砲台や弾薬庫に損害を受けたが、イギリス軍も旗艦「ユーライアラス」の艦長や副長の戦死や軍艦の大破・中破など大きな損害を被った。この戦闘を通じて薩摩とイギリスの双方に相手方のことをより詳しく知ろうとする機運が生まれ、これが以後両者が一転して接近していく契機となった。

鹿児島では城下町付近の海浜が「前の浜」と呼ばれていたため、まえんはまいっさ(前の浜戦)と呼ばれる[9]。 』

『生麦事件

詳細は「生麦事件」を参照

文久2年8月21日(1862年9月14日)、生麦事件が発生する。横浜港付近の武蔵国橘樹郡生麦村で、薩摩藩主の父・島津久光の行列を乱したとされるイギリス人4名のうち3名を島津家家来の奈良原喜左衛門、海江田信義らが殺傷する(死者が1名、負傷者が2名)。

この種の事件は、不平等条約を強制された国々で発生せざるを得ない特徴的な事件である。居留地にいる条約締結国国民は治外法権で保護されている。居留地外では当該国の法に従う事になる。そして、居留地に居住する外国人は遊歩区域が認められている。横浜では「神奈川 六郷川筋を限として其他は各方へ凡十里」とされていた。このグレーゾーンでは、正統性が両国の力関係で決定される。このような紛争を介して欧米列強は、どの国においても「内地自由通行権」の獲得に力を注ぐことになる[10]。

交渉
イギリス公使代理ジョン・ニール

交渉までの経緯については、備考を参照のこと。

文久3年5月9日(1863年6月24日)、イギリス公使代理のジョン・ニールは幕府から生麦事件の賠償金10万ポンドを受け取った。

6月22日(8月6日)、ニールは薩摩との直接交渉のため、7隻の艦隊(旗艦「ユーライアラス」(艦長・司令J・ジョスリング一等海佐 (Captain)[注釈 5])、コルベット「パール」(艦長J・ボーレイス一等海佐 (Captain)[注釈 5])、同「パーシュース」(艦長A・キングストン海尉 (Lieutenant-Commander)[注釈 6])、同「アーガス」(艦長L・ムーア海尉 (Lieutenant-Commander)[注釈 6])、砲艦「レースホース」(艦長C・ボクサー海尉 (Lieutenant-Commander)[注釈 6])、同「コケット」(艦長J・アレキサンダー海尉 (Lieutenant-Commander)[注釈 6])、同「ハボック」(艦長G・プール海尉 (Lieutenant)[注釈 6])、指揮官:イギリス東インド艦隊司令長官オーガスタス・レオポルド・キューパー海軍少将)と共に横浜を出港。6月27日(8月11日)にイギリス艦隊は鹿児島湾に到着し鹿児島城下の南約7kmの谷山郷沖に投錨した。薩摩は総動員体制に入り、寺田屋騒動関係者の謹慎も解かれた。

6月28日(8月12日)、イギリス艦隊はさらに前進し、鹿児島城下前之浜約1km沖に投錨した。艦隊を訪れた薩摩の使者に対しイギリス側は国書を提出。生麦事件犯人の逮捕と処罰、および遺族への「妻子養育料」として2万5000ポンドを要求した。島津家は回答を留保し翌日に鹿児島城内で会談を行う事を提案している。

6月29日(8月13日)、イギリス側は城内での会談を拒否、早急な回答を求める。

島津家は「生麦事件に関して責任はない」とする返答書をイギリス艦隊に提出し、イギリス側の要求を拒否した。イギリス艦隊は桜島の横山村・小池村沖に移動した。

一方、奈良原喜左衛門らはイギリス艦が薪水・食料を求めたのに対して奇襲を計画し、海江田信義、黒田清隆、大山巌らが国書に対する答使と果物・スイカ売りに変装し艦隊に接近した(西瓜売り決死隊)。使者を装った一部は乗艦に成功したが、艦隊側に警戒されてほとんどの者が乗船を拒まれたため、奇襲作戦は中止され、奈良原らは退去した。

7月1日(8月14日)、ニール代理公使は島津家の使者に対し、要求が受け入れられない場合は武力行使に出ることを通告した。島津家は開戦を覚悟し、当主・島津茂久と後見役・島津久光は、鹿児島城が英艦隊の艦砲の射程内と判断されていたため、新たに本営と定めた鹿児島近在西田村(現・鹿児島市常盤)の千眼寺に移った。
戦闘について

イギリス艦隊の旗艦には、幕府から得た賠償金が積まれていたが、イギリス側は島津家との賠償金の交渉を有利にするために薩摩汽船3隻を掠奪した[11]。これに激発した薩摩方の砲台との間で戦闘が開始された。

戦闘詳報

イギリス艦隊と薩摩砲台の戦闘

7月2日(8月15日) – 夜明け前、「パール」、「アーガス」、「レースホース」、「コケット」、「ハボック」の艦隊5隻は、薩摩の蒸気船の天佑丸 (England)、白鳳丸 (Contest)、青鷹丸 (Sir George Grey) を重富の脇元浦(現在の姶良市脇元付近)において、これら3隻の舷側に接舷するとイギリス艦から50, 60人の兵が乱入した[12]。薩摩蒸気船の乗組員が抵抗すると、銃剣で殺傷するなどして3隻の乗組員を強制的に陸上へ排除して船を奪取した[13]。このとき、天佑丸の船奉行添役五代才助(五代友厚)や青鷹丸の船長松木弘庵(寺島宗則)も捕虜として拘禁された[14]。

午前10時、捕獲された3隻は[15]、「コケット」、「アーガス」、「レースホース」の各艦の舷側に1隻毎に結わえられて牽引され、桜島の小池沖まで曳航された[16][3]。これをイギリス艦隊の盗賊行為と受け取った薩摩方は7箇所の砲台(台場)に追討の令を出す[3]。
当時の新聞による戦況図

正午、湾内各所に設置した砲台の中で薩摩本営に最も近い天保山砲台 (Battery Point) へ追討令の急使として大久保一藏が差し向けられ、到着する間もなく旗艦「ユーライアラス」に向けて砲撃が開始された。一方、対岸の桜島側の袴腰砲台(桜島横山)は城下側での発砲を知ると、眼下のイギリス艦「パーシュース」に対して砲撃を開始した。この砲台の存在を知らなかった「パーシュース」の艦長は、砲台からの命中弾に慌てふためき錨の切断を下令すると艦はその場から逃走した[17][3]。

不意を突かれたキューパー提督は艦隊の戦列を整えるために、桜島小池沖の艦隊5隻へ「ハボック」一艦のみを残し、薩摩船3隻の焼却命令を信号により発令した[17]。イギリス側の乗組員は天佑丸、白鳳丸、青鷹丸から貴重品を略奪すると、砲撃を行った上でこれらの蒸気船3隻に放火し「ハボック」が焼却・沈没を見届けた。

薩英戦争の図(冨山房「大日本読史地図」)

その後イギリス艦隊は戦列を整え、「ユーライアラス」を先頭に単縦陣で、第8台場(祇園之洲砲台)、第7台場(新波戸砲台)、第5台場(辨天波戸砲台)に向けて両舷側の自在砲(110ポンドアームストロング砲)を用いて発砲(戦況図参照)。艦隊の107門の砲は21門が最新式の40ポンド・110ポンドアームストロング砲であり、これを用いて陸上砲台(沿岸防備砲・台場)に接近しての砲撃を行った。これに対して薩摩の砲台・台場からの応戦による大砲の発砲は数百発に及び、接近する艦隊に小銃隊も砲撃の合間を縫って狙撃を行った[3]。

イギリス艦隊の第8台場(祇園之洲砲台)、第7台場(新波戸砲台)、第5台場(辨天波戸砲台)への攻撃では、精確な射撃により薩摩側の大砲8門を破壊した。薩摩側は、暴雨風の影響による砲台への浸水や、イギリス艦隊の砲に比べると備砲の射程距離が短いなど性能が劣っているという不利な点もあったが、薩摩砲台に接近する艦隊は午前からの荒天や機関故障により操艦を誤り、薩摩側への有利な戦闘展開となった。薩摩側も、敵艦への突撃・追撃用に上荷船の船首に18斤単銅砲や24斤単銅砲を1門備えた11人乗り小型艇数艘(総数12艘)の水軍隊が辨天波戸から出動し砲撃を試みたが、荒天のため船内への浸水などで退却した。

午後3時前、辨天波戸砲台の29拇臼砲(ボンベン砲)の弾丸1発が「ユーライアラス」の甲板に落下[18]、軍議室(艦橋)で破裂・爆発、居合わせた艦長・司令 (Captain Josling) や副長 (Commander Wilmot) などの士官が戦死[3][5]。キューパー提督(司令官)は艦長や指揮官などと居合わせたが、その場から撃ち倒されて共に転落するも左腕に傷を負ったのみで助かった[19]。

午後3時10分、祇園之洲砲台に接近して砲撃中の「レースホース」は、折からの強い波浪や機関故障により吹き流され、砲台手前の200ヤードで座礁・擱坐すると大きく傾き、大砲の発砲が出来なくなり小銃で砲台への攻撃を行った[20][21]。しかし、既に祇園之洲砲台の大砲のほとんどが破壊されており、この砲台からの大砲による応戦は行われなかった。また、薩摩側はイギリス艦の座礁とは想定せず、艦から端艇が下ろされたことにより、陸戦は必定と上陸に備えて台場の陰で敵の襲来を待ち構えた。

午後4時頃、イギリス艦隊の3隻(コケット、アーガス、ハボック)は僚艦「レースホース」の救出・援護のために祇園之洲砲台に砲撃を加えながら僚艦の離礁を試みた。これに対して新波戸砲台がイギリス艦隊に盛んに砲撃を加え、「アーガス」に3発の命中弾を浴びせたが、「レースホース」は他の僚艦により曳航され、5時半頃には救出され離礁した[22]。

午後7時頃、砲撃戦に不参戦の「ハボック」は単独で砲台のない磯に移動し、停泊中の琉球船3隻と日向国那珂郡の赤江船2隻を襲い焼却する。その後、僚艦「パーシュース」も加わり、大砲やロケット弾(火箭)を用いて、近代工場群を備えた藩営集成館の一帯を攻撃し、ことごとく破壊した。攻撃後、2艦は艦隊の停泊する桜島横山村・小池村沖に戻った。なお、この時「ハボック」が砲撃した琉球船には、たまたま薩摩へ琉球使節として赴いていた琉球国の王子・与那城朝紀が乗船していた。「ハボック」の砲撃によって被災した際、薩摩の伝馬船に乗って王子は命からがら逃げ出している。

午後8時頃、上町方面の城下では先の「パーシュース」のロケット弾などによる艦砲射撃で火災が迫り、民家(350余戸)、侍屋敷(160余戸)、寺社(浄光明寺、不断光院、興国寺、般若院)などの多くが焼失した[23]。

7月3日(8月16日)、前日の戦闘で戦死した旗艦艦長や副長などの11名を錦江湾で水葬にする[24]。艦隊は戦列を立て直し、市街地と両岸の台場を砲撃して市街地および島津屋敷を延焼させた(島津屋敷は誤認であり、実際には寺院[25])。また、砲撃により第11台場(赤水台場)および突出台場(天保山砲台)の火薬庫が爆発して、天保山砲台(砂揚場)より反撃があったが、その後台場からの反撃は収まり、沖小島台場からの砲撃に応戦しながら湾内を南下、谷山沖に停泊し艦の修復を行う。 この時、薩摩方により沖小島と桜島(燃崎)の間付近に、集成館で島津斉彬の時代に製造した電気点火装置の水中爆弾3基(地上から遠隔操作)を仕掛けて待ち伏せしていたが、沖小島台場の砲撃によりイギリス艦隊は進路を変更したため近寄らず失敗した。

7月4日(8月17日)、艦隊は弾薬や石炭燃料が消耗し多数の死傷者を出し、薩摩を撤退した。その中の一艦(レースホース[8])は艦隊からとも綱を外し、損壊も甚だしく、小根占の洋上に停泊して修理を行っていたが、7月6日(8月19日)夜に他の艦が来て曳航されて行った[3]。

7月11日(8月24日)、全艦隊が横浜に帰着。

戦闘の結果

薩摩側の砲台によるイギリス艦隊の損害は、大破1隻・中破2隻の他、死傷者は63人(旗艦「ユーライアラス」の艦長ジョンスリングや副長ウィルモットの戦死を含む死者13人、負傷者50人内7人死亡[26])に及んだ。

一方、薩摩側の人的損害は祇園之洲砲台では税所清太郎(篤風)[3]のみが戦死し、同砲台の諸砲台総物主(部隊長)の川上龍衛や他に守備兵6名が負傷した[27]。他の砲台では沖小島砲台で2名の砲手などが負傷した[28]。市街地では7月2日に流れ弾に当たった守衛兵が3人死亡、5人が負傷した。7月3日も流れ弾に当たった守衛兵1名が死亡した。物的損害は台場の大砲8門、火薬庫の他に、鹿児島城内の櫓、門等損壊、集成館、鋳銭局、寺社、民家350余戸、藩士屋敷160余戸、藩汽船3隻、琉球船3隻、赤江船2隻が焼失と軍事的な施設以外への被害は甚大であり、艦砲射撃による火災の焼失規模は城下市街地の「10分の1」になる。

朝廷は島津家の攘夷実行を称えて褒賞を下した。横浜に帰ったイギリス艦隊内では、戦闘を中止して撤退したことへの不満が兵士の間で募っていた[29]。

本国のイギリス議会や国際世論は、戦闘が始まる以前にイギリス側が幕府から多額の賠償金を得ているうえに、鹿児島城下の民家への艦砲射撃は必要以上の攻撃であったとして、キューパー提督を非難している。

イギリス艦艇一覧

1863年8月15日、鹿児島攻撃時の戦闘隊列でのイギリス艦隊を一覧で表す。死傷者の無かったハボック (Havock) は砲撃戦に参加せず、琉球船 (Loochoo I. Junks) 3隻と赤江船2隻を襲う。

艦名 艦種 建造年 トン数 乗員

[30] 出力 備砲 損害
[5][8]

ユーライアス
Euryalus フリゲート
蒸気スクリュー 1853年
(改造) 積載量2371トン(bmトン)
排水量3125英トン 600
[30]
540 400NHP 110ポンドアームストロング砲x5
40ポンドアームストロング砲x8
その他22門
鹿児島砲撃時にカロネード砲x16を追加 戦死10名
負傷21名
パール
Pearl コルベット
蒸気スクリュー 1855年 積載量1469トン(bmトン)
排水量2187英トン 245
[30]
400 400NHP 68ポンド砲x1
10インチ砲x20 負傷7名
コケット
Coquette 砲艦
蒸気スクリュー 1855年 積載量677トン(bmトン) 78
[30]
90 200NHP 110ポンドアームストロング砲x1
10インチ砲x1
32ポンド砲x1
20ポンド砲x2 戦死2名
負傷4名
アーガス
Argus スループ
蒸気外輪 1852年 積載量981トン(bmトン)
排水量1630英トン 170
[30]
175 300NHP 110ポンドアームストロング砲x1
10インチ砲x1
32ポンド砲x4 負傷6名
パーシュース
Perseus スループ
蒸気スクリュー 1861年 積載量955トン(bmトン)
排水量1365英トン 172
[30]
175 200NHP 40ポンドアームストロング砲x5
32ポンド砲x12 戦死1名
負傷9名
内死亡4人
レースホース
Racehorse 砲艦
蒸気スクリュー 1860年 積載量695トン(bmトン)
排水量877英トン 103
[30]
90 200NHP 110ポンドアームストロング砲x1
10インチ砲x1
32ポンド砲x1
20ポンド砲x2 艦体大破
負傷3名
ハボック
Havock ガンボート
蒸気スクリュー 1856年 積載量232トン(bmトン) 50
[30]
37 60NHP 68ポンド砲x2 なし
戦争の処理
交渉にあたった薩摩側の藩士たち
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この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。
出典検索?:?”薩英戦争”???ニュース?・ 書籍?・ スカラー?・ CiNii?・ J-STAGE?・ NDL?・ dlib.jp?・ ジャパンサーチ?・ TWL(2021年6月)

9月28日(11月11日) – 第1回和睦の談判、横浜の英国公使館の応接室にて島津家の重野厚之丞(安繹)が主導、補佐として同岩下左次右衛門、佐土原島津家の家老の樺山久舒(舎人)、能勢二郎左衛門(直陳)などが同席。代理公使ニール大佐との談判では、薩摩側はイギリス艦が薩摩汽船を掠奪した件を追及し、イギリス側は生麦事件を挙げて紛糾・決裂したが、幕府側の仲裁で次回談判を取り決めた。重野らと同行した高崎猪太郎は一橋卿の内命にて京都に居たため同席しなかった。

10月4日(11月14日) – 第2回和睦の談判、島津家の岩下、重野は前回と同じくイギリス側の非を責めるが、ニール公使も同様に全く自説を変える様子もなく談判は紛糾・決裂し、次回談判となった。

10月5日(11月15日) – 第3回和睦の談判、本家を憂慮する和睦派の佐土原島津家の樺山、能勢らは幕府側の説得を受け入れて薩摩側への和睦を促し、重野らはイギリスからの軍艦購入を条件に扶助料を出すべしと議を決した。イギリス側は軍艦購入の斡旋を承諾した。

島津家は2万5000ポンドに相当する6万300両を幕府から借用して支払ったが、これを幕府に返さなかった。また、講和条件の一つである生麦事件の加害者は「逃亡中」として処罰されなかった。

イギリスは講和交渉を通じて薩摩を高く評価するようになり、関係を深めていく(2年後には公使ハリー・パークスが薩摩を訪問しており、通訳官アーネスト・サトウは多くの薩摩藩士と個人的な関係を築く)。薩摩側も、欧米の文明と軍事力の優秀さを改めて理解し、イギリスとの友好関係を深めていった。

備考

交渉までの経緯
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出典検索?:?”薩英戦争”???ニュース?・ 書籍?・ スカラー?・ CiNii?・ J-STAGE?・ NDL?・ dlib.jp?・ ジャパンサーチ?・ TWL(2021年9月)

生麦事件発生以前にも2度にわたるイギリス公使館襲撃(東禅寺事件)などでイギリス国内の対日感情が悪化している最中での生麦事件の発生にジョン・ラッセル外相は激怒し、ニール代理公使及び当時艦隊を率いて横浜港に停泊していた東インド・極東艦隊司令官のジェームズ・ホープ中将に対して対抗措置を指示していた。

実は2度目の東禅寺襲撃事件の直後からニールとホープは連絡を取り合い、更なる外国人襲撃が続いた場合には関門海峡・大坂湾・江戸湾などを艦隊で封鎖して日本商船の廻船航路を封鎖する制裁措置を検討していた。

当時、日本には砲台は存在していたが、それらの射程距離は外国艦隊の艦砲射撃の射程距離よりも遙かに短く、ホープはそれらの砲台さえ無力化できれば巨大な軍艦の無い江戸幕府や諸家にはもはや封鎖を解くことは不可能であると考えていた。

実際に文久2年11月20日(1863年1月9日)にヴィクトリア女王臨席で開かれた枢密院会議で対日海上封鎖を含めた武力制裁に関する勅令が可決されている。だが、ニールもホープもこの海上封鎖作戦を最後の手段であると考えていた。ニールは、ホープに代わって東インド・極東艦隊司令官となったキューパー少将を横浜に呼び寄せ、文久3年2月4日(3月22日)、幕府に生麦事件と東禅寺事件の賠償問題(合計11万ポンド)について最後通牒を突きつけたが、この際に日本を海上封鎖する可能性をわざわざ仄めかしている。

江戸幕府は、フランス公使デュシェーヌ・ド・ベルクールにイギリスとの仲介を依頼し、文久3年5月9日(6月24日)にニールと幕府代表の小笠原長行との間で賠償交渉がまとまった。このため、ニールとキューパーは日本に対する海上封鎖作戦を直前に中断した。幕府との交渉が決着したため、続いて実行犯である島津家との交渉のため、ニールとキューパーは薩摩に向かったが、この時点では戦闘の可能性は低いと考えていた。

なお、ホープは海上封鎖を行っても賠償に応じない場合を想定して陸軍と協議して京都・大坂・江戸を占領する計画をも検討していたが、仮に占領可能であったとしても天皇や将軍が山岳部に逃げ込んでゲリラ戦に持ち込まれた場合は不利であると結論しており、事実上断念している。また、当時の英国に十分な数の陸兵を日本に派遣する余裕はなかった。実際ニールは横浜防衛のために2000人の陸兵派遣要請をしたが、それすらも拒否されている。

その他、諸説など
アームストロング砲

当時の最新鋭兵器として期待されていたアームストロング砲は、この戦闘で暴発や不発(不発弾)が多い事が実戦で判明したため、イギリス海軍から全ての注文をキャンセルされた。さらに輸出制限も外されて海外へ輸出されるようになり、後に日本にも輸入される原因になったとされる[31]。

なお、当時の事件を伝える新聞(1863年8月26日鹿児島戦争之英文新聞紙翻訳)では[5]、イギリス艦隊側の負傷者氏名と傷の詳細や戦闘の様子が掲載され、その戦死者の負傷状況などからも破裂弾の着弾爆発による被害を物語っているなど、この新聞記事(従軍記者の記述)ではアームストロング砲の暴発については一切触れられていない。また、旗艦ユーライアラスには薩摩側の臼砲弾などが数発命中し、それらの破裂弾により艦隊全体の死傷者数の4割以上を一つの艦で占めるなど、ユーライアラスでの死傷者は31名に及んでおり[5]、その詳細な状況から砲の暴発があったとしても、被害は限られた範囲の事象と推定できる[注釈 16]。

アームストロング砲暴発の拡大解釈を招く事象として、薩摩側の10インチ砲弾によりユーライアラスの甲板に備えた第3番砲が直撃弾を受けており、その砲員らが一度に死傷している[32][33]。

異説
薩摩藩は処罰の対象を藩主だと認識していたため交渉は決裂したが、英国側の資料によれば、処罰を求めていたのは事件の現場にいた責任者である。(翻訳を担当した福澤諭吉が急いで原文を直訳した結果、事件の責任者と藩主の区別があいまいになったため)[34] 』

下関戦争

下関戦争
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%A2%E6%88%A6%E4%BA%89

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『下関戦争(しものせきせんそう)は、幕末の文久3年(1863年)と元治元年(1864年)に、長州藩とイギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国との間に起きた、前後二回にわたる攘夷思想に基づく武力衝突事件。

敗れた長州藩は幕政下での攘夷が不可能であることを知り、以後はイギリスに接近して軍備の増強に努め、倒幕運動を推し進めることになる。

歴史的には、元治元年の戦闘を馬関戦争(ばかんせんそう)と呼び、文久3年の戦闘はその「原因となった事件」として扱われることが多い[2]。馬関は下関市の古い呼び名。今では文久3年のことを下関事件、元治元年のことを四国艦隊下関砲撃事件と呼んで区別している[3]。また両者を併せた総称として「下関戦争」が使われているが、その影響で「馬関戦争」が総称として使われることもある。ただ、文久3年のことを「下関事件」、元治元年のことを「下関戦争」と呼んで区別している教科書もある[4]。 』

『概要

孝明天皇の強い要望により将軍徳川家茂は、文久3年5月10日(1863年6月25日)をもっての攘夷実行を約束した。幕府は攘夷を軍事行動とはみなしていなかったが[5]、長州藩は馬関海峡(現 関門海峡)を通過する外国船への砲撃を実施した。

前段: 文久3年(1863年)5月、長州藩が馬関海峡を封鎖し、航行中のアメリカ・フランス・オランダ艦船に対して無通告で砲撃を加えた。約半月後の6月、報復としてアメリカ・フランス軍艦が馬関海峡内に停泊中の長州軍艦を砲撃し、長州海軍に壊滅的打撃を与えた。しかし、長州は砲台を修復した上、対岸の小倉藩領の一部をも占領して新たな砲台を築き、海峡封鎖を続行した。

後段: 元治元年(1864年)7月、前年からの海峡封鎖で多大な経済的損失を受けていたイギリスは長州に対して懲戒的報復措置をとることを決定。フランス・オランダ・アメリカの三国に参加を呼びかけ、都合艦船17隻で連合艦隊を編成した。同艦隊は、8月5日から8月7日にかけて馬関(現下関市中心部)と彦島の砲台を徹底的に砲撃、各国の陸戦隊がこれらを占拠・破壊した。

戦後、長州藩は幕命に従ったのみと主張したため、アメリカ・イギリス・フランス・オランダに対する損害賠償責任は徳川幕府のみが負うこととなった。

馬関海峡の砲台を四国連合艦隊によって無力化されてしまった長州藩は、以後列強に対する武力での攘夷を放棄し、海外から新知識や技術を積極的に導入し、軍備軍制を近代化する。さらに坂本龍馬や中岡慎太郎などの仲介により、慶応2年1月21日(1866年3月7日)に同様な近代化路線を進めていた薩摩藩と薩長同盟を締結して、共に倒幕への道を進むことになる。

背景

ペリー一行の上陸

嘉永6年(1853年)、マシュー・ペリー提督のアメリカ艦隊が浦賀沖に来航し幕府に開国を迫り、翌安政元年(1854年)、幕府は日米和親条約を締結した(ペリー来航)。安政5年(1858年)、アメリカの強い要求により、幕府は日米修好通商条約を締結し、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約を結び(安政五カ国条約)、幕府の鎖国体制は完全に崩れた。孝明天皇は和親条約はともかく通商条約には反対であり、安政条約に対する勅許を与えなかった。また、幕府に不満を持つ攘夷派は尊皇思想から朝廷の攘夷派公卿たちと結び付くようになっていた。

これらの動きに対して、幕府大老井伊直弼は弾圧政策(安政の大獄)で応じたが、万延元年(1860年)水戸・薩摩脱藩浪士によって暗殺された(桜田門外の変)。この事件により幕府の威信は大きく揺らぎ始めた。加えて、開港により、特に生糸が大量に輸出され、品不足・価格高騰が生じ、さらに金銀交換比率の内外差のため大量の金が流出し、経済は混乱した(五品江戸廻送令、幕末の通貨問題)。これに伴って政情も不安となり、幕府の開港政策を批判する攘夷の機運は、全国的に高まっていった。

後に倒幕の中心勢力となる長州藩は、文久元年(1861年)の段階では直目付長井雅楽の「航海遠略策」による公武合体策を藩論としつつあり、長井自身が幕府にも具申して大いに信頼を勝ち得ていた。しかし、当時藩内であった尊皇攘夷派とは対立関係にあり、吉田松陰の江戸護送を制止も弁明もしようとしなかったため、尊王攘夷派の恨みを買っていた。文久2年(1862年)、公武合体を進めていた老中安藤信正と久世広周が坂下門外の変で失脚すると藩内で攘夷派が勢力を盛り返し、同年6月には長井は藩主から罷免され、翌文久3年(1863年)には死罪を得て自裁した。自然、尊王攘夷が藩論となっていった。長州藩士や長州系の志士たちは朝廷の攘夷派公卿と積極的に結びつき京都朝廷の主導権を間接的に握るようになっていった。

文久3年(1863年)3月、将軍徳川家茂が上洛。朝廷は従来通りの政務委任とともに攘夷の沙汰を申しつけ、幕府はやむなく5月10日をもって攘夷を実行することを奏上し、諸藩にも通達した。だが幕府は他方で、生麦事件と第二次東禅寺事件の損害賠償交渉にも追われており、攘夷決行は諸外国と勝ち目のない戦争をすることになり、その損害は計り知れないという趣旨の通達も諸藩に伝えていた。幕府は賠償金44万ドルを攘夷期日の前日の5月9日にイギリスに支払うと共に、各国公使に対して文書にて開港場の閉鎖と外国人の退去を文書で通告し、攘夷実行の体裁をとった。しかし、同時に口頭で閉鎖実行の意志がないことも伝え、9日後には文書にて閉鎖撤回を通達した。

『馬關戰争圖』(部分) 藤島常興 筆、下関市市立長府博物館 収蔵
長州藩の攘夷決行

攘夷運動の中心となっていた長州藩は日本海と瀬戸内海を結ぶ海運の要衝である馬関海峡(下関海峡=関門海峡)に砲台を整備し、藩兵および浪士隊からなる兵1000程、帆走軍艦2隻(丙辰丸、庚申丸)、蒸気軍艦2隻(壬戌丸、癸亥丸:いずれも元イギリス製商船に砲を搭載)を配備して海峡封鎖の態勢を取った。

攘夷期日の文久3年5月10日(1863年6月25日)、長州藩の見張りが田ノ浦沖に停泊するアメリカ商船ペンブローク号(Pembroke)を発見。総奉行の毛利元周(長府藩主)は躊躇するが、久坂玄瑞ら強硬派が攻撃を主張し決行と決まった。翌日午前2時頃、海岸砲台と庚申丸、癸亥丸が砲撃を行い、攻撃を予期していなかったペンブローク号は周防灘へ逃走した。外国船を打ち払った[6] ことで長州藩の意気は大いに上がり、朝廷からもさっそく褒勅の沙汰があった。

フランスの通報艦キャンシャン号の被害

5月23日、長府藩(長州藩の支藩)の物見が横浜から長崎へ向かうフランスの通報艦キャンシャン号(英語版)(Kien-Chang)が長府沖に停泊しているのを発見。長州藩はこれを待ち受け、キャンシャン号が海峡内に入ったところで各砲台から砲撃を加え、数発が命中して損傷を与えた。キャンシャン号は備砲で応戦するが、事情が分からず(ペンブローク号は長崎に戻らず上海に向かったため、同船が攻撃を受けたことを、まだ知らなかった)、交渉のために書記官を乗せたボートを下ろして陸へ向かわせたが、藩兵は銃撃を加え、書記官は負傷し、水兵4人が死亡した。キャンシャン号は急ぎ海峡を通りぬけ、庚申丸、癸亥丸がこれを追うが深追いはせず、キャンシャン号は損傷しつつも翌日長崎に到着した。

26日、オランダ外交代表ディルク・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルックを乗せたオランダ東洋艦隊所属のメデューサ号(Medusa)が長崎から横浜へ向かうべく海峡に入った。キャンシャン号の事件は知らされていたが、オランダは他国と異なり鎖国時代から江戸幕府との長い友好関係があり、長崎奉行大久保忠恕の許可証も受領しており、幕府の水先案内人も乗艦していたため攻撃はされまいと油断していたところ、長州藩の砲台は構わず攻撃を開始し、癸亥丸が接近して砲戦となった。メデューサ号は1時間ほど交戦したが17発を被弾し死者4名、船体に大きな被害を受け周防灘へ逃走した[7]。

長州藩のアメリカ、フランス艦船への砲撃は当時の国際法に違反するものである[8]。

アメリカ・フランス軍艦による報復

アメリカ艦ワイオミング号の下関攻撃

長州奇兵隊の隊士
高杉晋作(中央)と伊藤博文(右)と三谷国松(左)

ペンブローク号は長崎ではなく上海に向かったため、事件の知らせが横浜に届いたのは文久3年5月25日(1863年7月16日)であった。アメリカ公使ロバート・H・プリュインは、横浜停泊中のワイオミング号のデヴィッド・マクドゥガル艦長を列席させて幕府に抗議した。この時期のアメリカは南北戦争の最中でほとんどの軍艦は本国にあったが、南軍の通商破壊艦アラバマ号(英語版)を追跡していたワイオミング号が、居留民保護のために一時横浜に入港していたものであった。幕府は自身が処理するとしたが、マクドゥガルは報復攻撃を促した。前任者のタウンゼント・ハリス同様に親幕府姿勢を取っていたプリュインも最終的に同意し、ワイオミング号は横浜を出港した。

文久3年6月1日(1863年7月20日)、ワイオミング号は下関海峡に入った。不意を打たれた先の船と異なり、ワイオミング号は砲台の射程外を航行し、下関港内に停泊する長州藩の軍艦の庚申丸、壬戌丸、癸亥丸を発見し、壬戌丸に狙いを定めて砲撃を加えた。壬戌丸は逃走するが遙かに性能に勝るワイオミング号はこれを追跡して撃沈する。庚申丸、癸亥丸が救援に向かうが、ワイオミング号はこれを返り討ちにし庚申丸を撃沈し、癸亥丸を大破させた。ワイオミング号は報復の戦果をあげたとして海峡を瀬戸内海へ出て横浜へ帰還した。この戦闘でのアメリカ側の死者は6人、負傷者4人、長州藩は死者8人・負傷者7人であった。もともと貧弱だった長州海軍はこれで壊滅状態になり、陸上の砲台も艦砲射撃で甚大な被害を受けた。

フランス艦隊による報復攻撃

文久3年6月5日(1863年7月24日)、フランス東洋艦隊のバンジャマン・ジョレス准将率いるセミラミス号とタンクレード号(英語版)が報復攻撃のため海峡に入った。セミラミス号は砲35門の大型艦で前田、壇ノ浦の砲台に猛砲撃を加えて沈黙させ、陸戦隊を降ろして砲台を占拠した。長州藩兵は抵抗するが敵わず、フランス兵は民家を焼き払い、砲を破壊した。長州藩は救援の部隊を送るが軍艦からの砲撃に阻まれ、その間に陸戦隊は撤収し、フランス艦隊も横浜へ帰還した。

アメリカ・フランス艦隊の攻撃によって長州藩は手痛い敗北を蒙り、欧米の軍事力の手強さを思い知らされた。長州藩領内では一揆が発生し[9]、一部の領民は自発的に外国軍隊に協力していた[10]。長州藩は士分以外の農民、町人から広く募兵することを決める。これにより高杉晋作が下級武士と農民、町人からなる奇兵隊を結成した。また、膺懲隊、八幡隊、遊撃隊などの諸隊も結成された。長州藩は砲台を増強し、なおも強硬な姿勢を崩さなかった。

艦名 艦種 建造年 トン数 乗組員 機関出力 備砲

アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ワイオミング
Wyoming 蒸気スクリュースループ 1859年 排水量1457英トン  198 不明 11インチダールグレン砲x2
60ポンドパロット砲x1
32ポンド砲x3
フランスの旗 フランス帝国
セミラミス
Semiramis 蒸気スクリューフリゲート 1863年改造 排水量3830トン 521 1664IHP 35
タンクレード
Tancrede 蒸気スクリュースループ(通報艦) 1861年 排水量500トン程度 不明 不明 4

京都の政変と長州藩の孤立化

禁門の変

幕府は、文久3年7月8日(1863年8月21日)、国の方針が確定する前の外国船への砲撃は慎むよう長州藩に通告した。7月16日には旗本の中根市之丞らを軍艦「朝陽丸」で派遣し、無断での外国船砲撃や小倉藩領侵入について長州藩を詰問した。ところが、長州の奇兵隊員たちは、アメリカ軍との交戦で失った長州艦の代用として「朝陽丸」の提供を要求し、8月9日には「朝陽丸」を拿捕。さらに、8月19日-20日には中根市之丞らを暗殺した(朝陽丸事件)[11]。

8月13日、三条実美ら攘夷派公卿の画策により、孝明天皇の神武天皇陵参拝と攘夷親征の詔が下る(大和行幸)。これに呼応して大和国では天誅組が挙兵した(天誅組の変)。京都の政局は長州藩を支持する攘夷派が主導権を握っていたが、8月18日に薩摩藩と藩主松平容保が京都守護職を務める会津藩が結託して孝明天皇の了承のもとクーデターを起こし、攘夷派公卿は失脚、長州藩も朝廷から排除された(八月十八日の政変)。天誅組は周辺諸藩の討伐を受けて壊滅した。

長州藩をはじめとする攘夷派の京都での勢力は後退し、志士たちは潜伏を余儀なくされた。翌年の元治元年6月5日(1864年7月8日)には池田屋事件で攘夷派志士多数が殺害捕縛される。7月、孤立を深め追い詰められた長州藩は「藩主の冤罪を帝に訴える」と称して兵を京都へ派遣し、局面の一挙打開を図った。長州軍は強引に入京を試み、待ち構えた会津、桑名を主力とする幕府側と交戦して御所にまで侵入したが、御所の守りについていた薩摩藩兵が援軍として駆けつけたことにより撃退され、惨敗を招く結果となった。(禁門の変)

このほか、文久3年12月24日(1864年2月1日)には、関門海峡を航行中の薩摩藩使用の洋式船「長崎丸」(幕府より貸与)を、長州藩の陸上砲台が砲撃し、薩摩藩士24人が死亡した。当日は視界不良で薩摩藩の船と認識しての砲撃であったかは不明であるが[12]、長州藩の謝罪で一応は解決した。しかしながら、翌年にも長州藩兵が薩摩藩の御用商船「加徳丸」を焼き討ちし、乗員を殺害する事件が起きている[13]。

外交

ラザフォード・オールコック

長州藩は攘夷の姿勢を崩さず、下関海峡は通航不能となっていた。これは日本と貿易を行う諸外国にとって非常な不都合を生じていた。アジアにおいて最も有力な戦力を有するのはイギリスだが、対日貿易ではイギリスは順調に利益を上げており、海峡封鎖でもイギリス船が直接被害を受けていないこともあって、本国では多額の戦費のかかる武力行使には消極的で、下関海峡封鎖の問題については静観の構えだった。

だが、駐日公使ラザフォード・オールコックは下関海峡封鎖によって、横浜に次いで重要な長崎での貿易が麻痺状態になっていることを問題視し、さらに長州藩による攘夷が継続していることにより幕府の開国政策が後退する恐れに危機感を持っていた。元治元年(1864年)2月に幕府は横浜鎖港を諸外国に持ち出してきていた。

日本人に攘夷の不可能を思い知らすため「文明国」の武力を示す必要を感じたオールコックは長州藩への懲罰攻撃を決意した。オールコックのこの方針にフランス、オランダ、アメリカも同意し4月に四国連合による武力行使が決定された。オールコックは本国に下関を攻撃する旨の書簡を送る。だが、本国外務省は依然として日本との全面戦争につながりかねない武力行使には否定的でこれを否認する旨の訓示を日本へ送る。この当時はイギリスと日本との連絡には二カ月から半年かかり、訓示が到着したのは攻撃実行後となり、結局、現地公使の裁量で戦争が進められることになった。

イギリスに留学していた長州藩士伊藤俊輔と井上聞多は四国連合による下関攻撃が近いことを知らされ、戦争を止めさせるべく急ぎ帰国の途についた。イギリスの国力と機械技術が日本より遙かに優れた事を現地で知った二人は戦争をしても絶対に勝てないことを実感していた。

伊藤と井上は三カ月かかって元治元年6月10日(1864年7月13日)に横浜に到着。オールコックに面会して藩主を説得することを約束した。オールコックもこれを承知し、二人を軍艦に乗せて、外交官アーネスト・サトウを伴わせて豊後国姫島まで送り、長州へ帰させた。二人は藩庁に入り藩主毛利敬親と藩首脳部に止戦を説いたが、長州藩では依然として強硬論が中心であり、徒労に終わった。

元治元年6月19日(1864年7月22日)、四国連合は20日以内に海峡封鎖が解かれなければ武力行使を実行する旨を幕府に通達する。

なお、艦隊の出発前に、フランスから幕府の外交使節団(横浜鎖港談判使節団)が帰国したが、使節がフランスと取り交わしたパリ約定には関門海峡を3ヶ月以内に通行可能にする条項が含まれていた。オールコックは、幕府がこの約定を批准することにより、四国連合からフランスが脱落することを恐れたが、幕府は約定の内容を不満として批准は行わなかった。結果、攻撃は予定通り実施されることとなった。

四国連合艦隊の攻撃
下関攻撃作戦地図.
四国連合艦隊による下関砲撃
イギリス陸戦隊の上陸戦闘

元治元年7月27日-28日(1864年8月17-18日)にオーガスタス・レオポルド・キューパー中将(イギリス)を総司令官とする四国連合艦隊は横浜を出港した。艦隊は17隻で、イギリス軍艦9隻、フランス軍艦3隻、オランダ軍艦4隻、アメリカ仮装軍艦1隻からなり、総員約5000の兵力[14] であった。また横浜にはイギリス軍艦1隻、アメリカ軍艦1隻と香港から移駐してきた陸軍分遣隊1350人が待機していた。

戦闘開始の前日である元治元年8月4日(1864年9月4日)、長州藩庁はようやく海峡通航を保障する止戦方針を決め、伊藤を漁船に乗せて交渉のため艦隊に向かわせるが、艦隊は既に戦闘態勢に入っており手遅れであった。

下関を守る長州藩の兵力は奇兵隊(高杉は前年に解任されており総管は赤禰武人)など2000人弱・砲100門強[14] であり、主力部隊を京都へ派遣していた(半月前に禁門の変が発生)こともあって弱体であった。大砲の数が足りず、木製のダミーの砲まで用意していた。

元治元年8月5日(1864年9月5日)午後、四国連合艦隊は長府城山から前田・壇ノ浦にかけての長州砲台群に猛砲撃を開始した。長州藩兵も応戦し、前田砲台・州岬砲台・壇ノ浦砲台などが善戦するが[14] 火力の差が圧倒的であり、砲台は次々に粉砕、沈黙させられた。艦隊は砲撃支援の下で前田浜に陸戦隊を降ろし、砲台を占拠して砲を破壊した。

元治元年8月6日(1864年9月6日)、壇ノ浦砲台を守備していた奇兵隊軍監山縣狂介は至近に投錨していた敵艦に砲撃して一時混乱に陥れる。だが、艦隊はすぐに態勢を立て直し、砲撃をしかけ陸戦隊を降ろし、砲台を占拠して砲を破壊するとともに、一部は下関市街を目指して内陸部へ進軍して長州藩兵と交戦した。

元治元年8月7日(1864年9月7日)、艦隊は彦島の砲台群を集中攻撃し、陸戦隊を上陸させ大砲を鹵獲した。8日までに下関の長州藩の砲台はことごとく破壊された。連合軍が一連の戦闘で鹵獲した各種大砲は62門に及んだ。陸戦でも長州藩兵は旧式銃や槍弓矢しか持たず、新式のライフル銃を持つ連合軍を相手に敗退した。長州藩死者18人・負傷者29人、連合軍は死者12人・負傷者50人だった。[要出典]

なお、イギリス軍にはカメラマンのフェリーチェ・ベアトが従軍し、戦闘の様子を撮影している。ベアトにとっては、クリミア戦争、インド大反乱、アロー戦争に続く4度目の従軍撮影であった。

艦名 艦種 建造年 トン数 乗組員 機関出力 備砲

イギリスの旗 イギリス
ユーライアラス
Euryalus 蒸気スクリューフリゲート 1853年改造 積載量2371トン(bmトン)
排水量3125英トン 540 400NHP 110ポンドアームストロング砲x5
40ポンドアームストロング砲x8
その他22門
カロネード砲x16
コンカラー
Conqueror 蒸気スクリュー戦列艦 1859年改造 積載量2845トン(bmトン) 830 500NHP
2048IHP 68ポンド砲x1
8インチ砲x32
32ポンド砲x56
下関戦争時は合計48門
レオパード
Leopard 蒸気外輪フリゲート 1851年 積載量1406トン(bmトン) 310 560NHP 110ポンドアームストロング砲x1
10インチ砲x1
32ポンド砲x4
バロッサ
Barrosa 蒸気スクリューコルベット 1862年 積載量1700トン(bmトン) 240 400NHP 110ポンドアームストロング砲x1
8インチ砲x20
ターター
Tartar 蒸気スクリューコルベット 1854年 積載量1296トン(bmトン) 250 250NHP 110ポンドアームストロング砲x1
40ポンドアームストロング砲x4
8インチ砲x14
アーガス
Argus 蒸気外輪スループ 1852年 積載量981トン(bmトン) 175 300NHP 110ポンドアームストロング砲x1
10インチ砲x1
32ポンド砲x4
パーシュース
Perseus 蒸気スクリュースループ 1861年 積載量955トン(bmトン) 175 200NHP 40ポンドアームストロング砲x5
68ポンド砲x1
32ポンド砲x8
コケット
Coquette 蒸気スクリュー砲艦 1855年 積載量677トン(bmトン) 90 200NHP 110ポンドアームストロング砲x1
10インチ砲x1
32ポンド砲x1
20ポンド砲x2
バウンサー
Bouncer 蒸気スクリューガンボート 1856年 積載量233トン(bmトン) 40 60NHP 68ポンド砲x2
フランスの旗 フランス帝国
セミラミス
Semiramis 蒸気スクリューフリゲート 1863年改造 排水量3830トン 521 1664IHP 35
デュプレクス
Dupleix 蒸気スクリューコルベット 1863年 排水量1795トン 203 1215IHP 6.4インチ砲x10
タンクレード
Tancrede 蒸気スクリュースループ 1861年 排水量500トン程度 不明 不明 4
オランダの旗 オランダ
メターレン・クルイス
Metallen Kruiz 蒸気スクリューコルベット 1862年 排水量2100トン 240 830IHP 6.3インチ砲x8
30ポンド砲x8
ジャンビ
D’Jambi 蒸気スクリューコルベット 1860年 排水量2100トン 240 830IHP 6.3インチ砲x8
30ポンド砲x8
メデューサ
Medusa 蒸気スクリューコルベット 1855年頃 排水量1700トン 不明 不明 16
アムステルダム
Amsterdam 蒸気外輪軍艦 不明 不明 不明 不明 8
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
タキアン
Ta-kiang 蒸気スクリュー改造砲艦 1864年 積載量609トン(bmトン) 40 120NHP 30ポンドパロット砲x1

講和

元治元年8月8日(1864年9月8日)、戦闘で惨敗を喫した長州藩は講和使節の使者に高杉晋作を任じた。この時、高杉は脱藩の罪で監禁されていたが、家老宍戸備前の養子宍戸刑馬を名乗り、四国連合艦隊旗艦のユーライアラス号に乗り込んでキューパー司令官との談判に臨んだ。イギリス側通訳のアーネスト・サトウはこの時の高杉の様子を「魔王」のごとく「傲然」としていたと述べている。

18日に下関海峡の外国船の通航の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、悪天候時の船員の下関上陸の許可、下関砲台の撤去、賠償金300万ドルの5条件で講和が成立した。

賠償金については、巨額すぎて長州一藩では支払い不可能なことに加え、一連の外国船への砲撃は幕府が朝廷に約束し諸藩に通達した攘夷実行の命に従ったまでと高杉が粘り強く主張したこともあって、後日改めて連合国側が幕府に請求することで双方了解した(幕府も結局これを承諾し、長州藩は負債を免れた)。

なお通訳を務めた伊藤博文の回想によれば、この談判の際、連合国側より彦島の租借が提議されたが、高杉、伊藤の強硬な反対によって立ち消えになったという[15]。

戦後

戦後

禁門の変の勝利を受けて幕府は長州藩への攻撃の準備に取りかかった(第一次長州征伐)。京都と下関との二度の敗戦で戦う余力のない長州藩では保守派(俗論党)が主導権を握り、11月に禁門の変の責任者を処罰して幕府に謝罪恭順した。

12月、この俗論党政権に対して高杉晋作が奇兵隊を率いて挙兵(功山寺挙兵)。翌慶応元年(1865年)に高杉らは内戦に勝利し、倒幕派が長州藩の主導権を握るようになる。

下関戦争の敗戦を受けて長州藩は攘夷が不可能であることを知り、以後はイギリスに接近して軍備の増強に努め、倒幕運動を推し進めることになる。

なお、オールコックの手元には届かなかったが、イギリス政府は日本における軍事行動を禁止する訓令をすでに出していた。下関戦争は結果としてこの訓令に背いたことになり、その責任を問われてオールコックは駐日公使を解任され、本国に召喚された(1864年12月25日離日)。

下関賠償金

長州藩との講和談判によって、300万ドルもの巨額の賠償金は幕府に請求されることになった。イギリスはこれを交渉材料にフランス・オランダと共に将軍徳川家茂の滞在する大坂に艦隊を派遣し、幕府に安政五カ国条約の勅許と賠償金の減額と引換に兵庫の早期開港を迫ったが(兵庫開港要求事件)、兵庫は京都の至近であり、朝廷を刺激することを嫌った幕府首脳部は300万ドルの賠償金を受け入れた。幕府は150万ドルを支払い、明治維新後に新政府が残額を明治7年(1874年)までに分割で支払った。

明治16年(1883年)2月23日、アメリカのチェスター・A・アーサー大統領は不当に受領した下関賠償金(78万5000ドル87セント)の日本への返還を決裁した。300万ドルの賠償金の分配はアメリカ、フランス、オランダの3ヶ国の船艦が42万ドルを分け、残額258万ドルは連合艦隊の4ヶ国に分けたため、アメリカは合計で78万5000ドルを得ていた。

実際のアメリカの損失は、

アメリカ船ペングローブ号の日時を要した費用5日分1500ドル
長崎に寄港出来なかった為の損害6500ドル
水夫への危険手当2000ドル

だった。

なお、ワイオミング号の損害は日本への威圧の為に起った事で日本ではそれ以上の損害が発生しており、連合艦隊への参加は商船タキアン号1艘のみの参加で64万5千ドルを得た事になっていた。結果、アメリカの損害は合計1万ドルに過ぎなかった。この賠償金はアメリカ政府の公認を得たものでなく、日本に対する威圧によって得たいわば不当なものであった。アメリカ国務省は日本から分割金を受領するたびに国庫に納めず国債として保管していた。その実情を明治5年(1872年)、ハミルトン・フィッシュ国務長官が森有礼公使に伝えた事から、日本側では機会をとらえては返還の要請をしていたものである。日本では明治22年(1889年)、返還金の元利金約140万円を横浜港の築港整備費用(総額234万円)に充当する事を決定し、明治29年(1896年)5月に完成している。

兵器・戦術など
フランス海軍によって押収された長州藩の大砲の一部は、ナポレオンが眠るパリの廃兵院の中庭に展示されている

長州藩が砲台などに配備した大砲は、長州藩が嘉永年間に三浦半島の警備を命じられた際に佐久間象山の指導のもとに江戸で製造したものや萩の郡司鋳造所で製造したものなどであった。陸戦隊と一緒に上陸したアーネスト・サトウは、他に24ポンド砲、32ポンド砲、青銅製の11インチ砲があったと記録している。これらの長州藩側の大砲は、連合軍艦隊の搭載砲(上記の参加艦船一覧表を参照)よりもはるかに小型で性能が劣っていた。口径差があるのに加えて、長州藩の大砲は砲腔も同時に鋳造する製造方法であったのに対し、連合国の大砲は、砲身を鋳造した後にドリルで削って正確に砲腔を作成する方式であることからも性能差があった。日本では、切削加工による砲腔の作成は、幕府の関口製造所や薩摩藩の集成館で開始されたばかりであった。

1864年の戦闘では長州藩の大砲62門が連合軍に鹵獲され、そのうち54門が参戦各国に戦利品として持ち帰られた。戦利品となった大砲の一部は現存しており、現在パリの廃兵院(アンヴァリッド)に展示されている長州藩の大砲は24ポンド青銅砲と18ポンド青銅砲各1門である。これは長州藩が三浦半島警備用に嘉永7年(1854年)に江戸で製造し、後に下関へ移したものであった。山口県下関市長府の功山寺境内にある長府博物館にも、パリ廃兵院から貸与された戦利品の大砲1門(1844年に萩で鋳造された和製大砲)が展示されている。ほかにイギリス、オランダ、アメリカの博物館に数門の存在が確認されている。

馬関海峡は海峡の両側とも険しい山になっているが、長州藩の砲台はこの地の利を活かすことなく、15箇所[16] の砲台は、何れも海岸に近い低地に構築されていた[17]。加えて崖の下の砲台も多く、砲弾が崖に命中すると岩の破片が砲台に降り注いでしまうという大きな欠陥があった[14]。また、砲台は正面の敵にのみ対応できるようになっており、複数の砲台が連携しての「十字射撃」はできなかった。他方、連合国艦隊のキューパー提督は、薩英戦争の教訓を取り入れており、複数の艦からの共同攻撃により、各砲台を個別撃破していった[18]。』

原爆放射線について

原爆放射線について
https://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/genbaku09/15e.html

 ※ ヒロシマ、ナガサキの場合は、まだ「プロトタイプ」、「試作品」みたいなものだった…。

 ※ 今現在では、相当に「改良され」「完成している」から、その「威力も」比較にならないだろう…。

 ※ それで、「戦術核」と言えども、「威力は、100倍」なんて話しが出てくるんだろう…。

 ※ そういうものを、「自軍」が近辺に存在する、「実際の戦場で」、使用することができるものなのか…。

 ※ いかに、「兵士は、畑で採れる。」と言われていたとしてもだ…。

『第2次世界大戦で使用された他の兵器にはない、原子爆弾特有の特徴として放射線があります。原子爆弾の放出したエネルギーの50%は爆風に、 35%は熱線に、15%は放射線となりました。また、放射線は爆風で飛ばされるものではないため、爆風や熱線が届いたからといって、 放射線が届いたわけではありません。

第2次世界大戦は全国民が被害を被った戦争であり、米軍の空襲による被害は全国に及びましたが、広島、長崎の原爆被災者だけに「被爆者援護法」による、 特別に手厚い援護施策が実施されているのは、原爆特有の「放射線」があったからです。援護施策のうち、健康手帳の交付や健康管理手当の支給等は、 原爆の被害を受けた人をもれなく幅広く救済するため、放射線被曝の要件が相当程度緩和されていますが(被爆者の約9割が健康管理手当(年間約40万円)を受給)、 原爆症認定については、被爆者援護法上で放射線起因性を厳密に要求されているため、認定の要件として、その病気が放射線に起因することが必要となります。 つまり、いわゆる原爆症と言われているものは「原爆放射線症」のことになります。この放射線起因性という要件を外しまうと、 原爆被爆者が一般戦災者より特別に援護されている理由がなくなってしまうのです。

原爆の威力

人は日常生活でも放射線を受けています。自然放射線は宇宙や大地から出ており、世界平均で年間2.4ミリシーベルトを被曝しています。 また、健康診断や医療行為で人工放射線を利用することもあり、レントゲン写真を撮ると0.6ミリシーベルト、CTスキャンで6.9ミリシーベルトを被曝することになります。 一般公衆の線量限度は1ミリシーベルトとされています。がんの治療では数十グレイ(1ミリシーベルトの数万倍)という放射線を浴びることになります。 自然放射線も原爆放射線も同じ放射線であり、違いはありません。原爆の放射線起因を考える場合、これらとの整合性を考える必要があります。

日常生活で受ける放射線 自然に浴びる放射線

原爆の初期放射線(爆弾が爆発した時に出た放射線)は、爆心地から遠くなるほど減少し、長崎では爆心地から3.5km付近で1.0ミリシーベルトにまで減少しました。 これより遠距離においては、人が日常生活で受ける放射線よりも少なかったことになります。 胸のレントゲン写真を撮ったときに受ける被曝線量は、爆心地から4.0km付近の被曝線量と同じくらいということになります。

放射線の線量と影響について(長崎の場合) 放射線の線量と影響について(広島の場合)

また、初期放射線の他に、「残留放射線」もありましたが、原爆投下時から放物線状に急速に減少し、短期間でほとんどなくなりました。 長崎では爆心地から100m地点での初期放射線量は約300グレイでしたが、原爆投下24時間後には0.01グレイ(3万分の1)まで減少したとされています。 この残留放射線があったことを考慮して、原爆投下時には市内にいなかった入市者にも、幅広く被爆者健康手帳が交付されています。

残留放射線とは

これらの放射線量は、戦後60年間にわたる専門家達の研究によって得られた唯一の成果である「DS86」及び「DS02」に基づいています。 残留放射線についても科学者が被爆地の土や建築資材などを採取して調査してきたデータに基づいているのです。 科学的検証に基づいた最も信頼できるデータによっているのであり、原爆の威力を過小評価しているということではありません。 原爆による死者は広島では約14万人、長崎では約7万人とも言われており、原爆の殺傷力、破壊力が甚大であることは間違いない事実です。 また、最新の核兵器の威力は、64年前に世界初で開発された広島・長崎型の何万倍にもなり、広島・長崎に投下された原爆の何百万倍もの放射線を放出する恐るべき兵器であり、 このような核兵器を世界中から廃絶すべきであることには変わりがないのです。
放射線量の評価 核兵器のない世界を

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南部大型自動拳銃

南部大型自動拳銃
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E5%A4%A7%E5%9E%8B%E8%87%AA%E5%8B%95%E6%8B%B3%E9%8A%83

『この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。
出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2020年8月)
一次資料や記事主題の関係者による情報源に頼って書かれています。(2020年8月)
独自研究が含まれているおそれがあります。(2020年8月)
出典検索?:?”南部大型自動拳銃”???ニュース?・ 書籍?・ スカラー?・ CiNii?・ J-STAGE?・ NDL?・ dlib.jp?・ ジャパンサーチ?・ TWL』

『南部式大型自動拳銃(なんぶしきおおがたじどうけんじゅう)は、1902年(明治35年)に南部麒次郎によって開発された日本初の自動拳銃であり、南部大拳と略して呼ばれる。
海軍が陸式拳銃という名称で採用したほか、改良を加えられたものが十四年式拳銃として陸軍に採用されている。 』

『歴史

南部麒次郎が自動拳銃の開発を始めたのは、欧州で各種の自動拳銃が開発されはじめた19世紀末であり、南部式自動拳銃の製作に成功したのは義和団の乱直後の1902年(明治35年)とかなり早い時期にあたる。

1904年(明治37年)に東京砲兵工廠での生産準備が整のい[2]、同年の日露戦争に於いて早くも実戦使用された記録が残されている[3][注釈 2]。

その後二十六年式拳銃を更新する拳銃として南部式自動拳銃乙型が検討され[5]、1908年(明治41年)の1月22日から2月5日の間に“四一式自動拳銃”と仮称して陸軍技術審査部主体でテストされたが[5]、予算の関係上早急な装備更新はすべきでないとして採用には至らなかった[5]。補助火器である本銃の更新は見送られ[2]、陸軍将校に小口販売されたほか、明治末期からは泰平組合などを通じて中国やタイなど海外へ輸出[6][7]され、軍人以外の官吏にも支給[8]されていた。

1919年(大正8年)には、陸軍内で南部式自動拳銃500挺を京漢線従業員へ供給するための製作外注計画が立てられ[9][10]、1920年(大正9年)には、南部式自動拳銃 大型・小型各5挺が制式検討のため陸軍技術本部へ送られている。[11]

1921年(大正10年)には、東京瓦斯電気工業株式会社より南部麒次郎(当時は少将)を南部式自動拳銃および三年式重機関銃製造のため顧問として招請したいとの依頼がなされ、南部麒次郎本人が田中義一陸軍大臣宛てに許可を願い出ている。[12]

1925年(大正14年)には中国の軍閥である孫岳より南部式自動拳銃(大型)の弾薬20 – 30万発の購入打診があったものの、在庫が足りず2,000発しか引き渡せない旨の記録が残されている。[13][注釈 3]

また、南部式自動拳銃(小型)は1913年(大正2年)には東京砲兵工廠で製造された同弾薬11万発が軍へ納品された記録が残り[14]、第一次大戦時の青島出兵時には、青島守備軍より陸軍省宛に南部式自動拳銃(小型)の実包備蓄許可願いが提出されており、守備軍内に若干数の南部式自動拳銃が存在していた事が判明[15]しているほか、大型と同様に輸出もされている[16]。

1924年(大正13年)に大型(乙)が海軍陸戦隊に採用され、陸式拳銃という名で約10,000挺が納入され、1925年(大正14年)に陸軍が名古屋造兵廠で大型(乙)に改良を加えたものを試作し、これが十四年式拳銃として採用された。

1938年(昭和13年)にも南部式自動拳銃(小型)が現用兵器として部隊へ支給された記録が残されている[17]。

特徴

十四年式拳銃に米兵が付けたJapanese Lugerの呼び名から、南部式拳銃全般をシルエットの似たルガーP08のコピーとみなす誤解が存在する[要出典]が、南部式自動拳銃およびその派生品の内部機構はいずれもルガーとは全く異なっており、当時最も完成度が高かったモーゼル軍用拳銃のプロップアップ式ショートリコイル機構をアレンジしたデザインとなっている。

陸軍が作成した拳銃ではあるが、装備の自由がある程度許容されていた上級士官クラスには不人気であった。理由は重量があることと高価であったからである。その為、太平洋戦争が勃発して輸入が困難になるまでは軽量且つ陸軍が採用する口径の銃弾と同一のFN ブローニングM1910が好まれた。

この様な経緯で南部式大型拳銃やそこから派生した十四年式拳銃などは「下士官の銃」と見做されることがある。

バリエーション
南部式自動拳銃
銃床を装着した南部式大型自動拳銃
南部式小型自動拳銃

南部式自動拳銃は、大型(甲)、大型(乙)、小型の3種類が製造され、使用実包は大型が8mm南部弾、小型が7mm南部弾だった[注釈 1]

装弾数は大型8発・小型7発であり、共通してストライカー(撃針)による発火機構を持ち、銃把前面にあるグリップ・セーフティを唯一の安全装置としている。

大型(甲)はグリップ後端にストック(銃嚢・ホルスターを兼ねる)を取り付けて銃床として利用できる。

製造は東京造兵廠、小倉造兵廠、東京瓦斯電気工業株式会社などで行われているが、その製造数については諸説があり特定されていない。

本銃は生産数が少ない上に、多くが中国の戦地へ輸出されたため現存数が少なく、海外のガンコレクターに人気のある一品であり、大型甲がグランド・パー[18]、大型乙がパパ[18]、小型がベビー・ナンブ[18]と呼ばれ、装具やオリジナル実包も希少価値が高い。特に製造数が少ない小型は米国拳銃市場でも稀少品とされ極めて高額で取引されている。

米国スタームルガー社のスタームルガーMkIはベビー南部にデザインが酷似しているが、社長のビル・ルガーは実際ベビー南部のファンでデザインのベースにしたことを認めている。(ただし構造は内蔵ハンマー式で異なる)

十四年式拳銃

十四年式拳銃(後期型)

 
詳細は「十四年式拳銃」を参照

大正時代末期に南部大型自動拳銃(乙)の生産性を改良する形で設計され[18]、陸軍の官給拳銃として下士官や機甲部隊、憲兵隊等に支給された。
北支一九式拳銃

南部式・十四年式から派生した最末期の製品である。 生産数は不明ながら、米国に比較的状態の良いものが残されており、北京の軍事博物館にも展示されている。

十四年式からの改良品だが、そのデザイン・構造には相違点が多く、十四年式の非実戦的なデザインの多くが改善され、大量生産を意識した構造となっている。生産も日本本土ではなく日本軍占領下の中国・北平(北京)で行われた。

北支一九式の十四年式(南部式)からの主な変更点は下記の通りである。

別パーツだった用心鉄と機関部が一体化し、引き鉄がピン固定へ変更された。
用心鉄根元(右側面)のレバーで、銃身・ボルトグループと機関部が分解できるようになった。
安全装置レバーが用心鉄根元からグリップ後方へ移され、シアを直接ブロックする確実なものへ変わるとともに、片手での操作が可能になった。
十四年式にあるマガジン脱落防止スプリングが無くなり、用心鉄のサイズは小型のものに戻された。

試製拳銃付軍刀

南部式自動拳銃に軍刀の刀身を取り付けた変形拳銃の一種[5]。騎兵用刀剣拳銃[5]とも呼ばれ、アメリカ陸軍兵器博物館ではJAPANESE OFFICER’S SWORD PISTOLとして展示されている[19]。

この拳銃は、三八式騎銃から四四式騎銃への過渡期に試作されたもので[5]、射撃から斬り合いへ素早く移行できるよう、三十二年式軍刀甲の柄部分に南部式自動拳銃のグリップ部分を一体化させている。基本となった拳銃はベビー南部とされ[19]、様々な改良が施されており、握りやすいようグリップが延長された[19]他、グリップパネルは鋳物により製作されている[19]。また、用心金も存在しない。グリップの延長線上に刀身が存在する。抜刀した状態で弾倉の交換ができる。この試作品は4振作られたが、扱いに難があるのに加えて故障が頻発した。これは関東大震災で焼失したが、その後研究は再開し十四年式拳銃をベースにしたものが3振作られた。こちらも実用性に疑問が残り、1929年(昭和4年)に研究は中止された。試作品の中には用心鉄をサーベルの護拳の様に伸ばしたものもあった[20]。

開発には南部麒次郎が関わっていたとされるが[21]、実際には定かではない[19]。使用感に関しては、拳銃として使用するには刀身が斜め前方に延びていることと、拳銃自体の重量が過多であることが合わさり構えづらい[19]。そのため純粋な拳銃としてよりも、敵との斬り合いにおける鍔迫り合いの時に、相手の胸に発砲するよう作られている[19]。

なお、拳銃と刀剣を融合させた武器はヨーロッパに多く[5]、火縄銃の時代から様々な国、発明家のもとで開発されてきたが[19]、自動拳銃を基本としたものは世界的にも類を見ないとされる[19]。日本においてもこの拳銃が開発される以前の1894年(明治27年)3月[5]に、東京在住の藤原政治[21]により、刀剣拳銃[5]という特許(2183号)[19]が認定されている。装弾数6発のリボルバー拳銃を軍刀の柄に組み合わせたものだが、特に量産されずに終わっている[5]。

ルガースタンダード
Ruger Standard Pistol wood grips.jpg

南部式拳銃の洗練された美しいデザインは海外でも評価された。拳銃デザイナーのウィリアム・B・ルガーは太平洋戦争において海兵隊員が戦利品として持ち帰った南部拳銃を目にし、そのフォルムに魅せられ自身の拳銃に採用することにし、1949年22口径のルガースタンダードを開発した[22][23][24]。銃の名称はルガーとあるが、同じくデザインが類似したルガー P08からくるものではなく、あくまでも製造者の名前(William Ruger)が由来である[25]。』

村田銃

村田銃
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E7%94%B0%E9%8A%83

『村田銃(むらたじゅう)は、薩摩藩・日本陸軍の火器専門家だった村田経芳がフランスのグラース銃(金属薬莢用に改造されたシャスポー銃)の国産化を図る過程で開発し、1880年(明治13年)に日本軍が採用した最初の国産小銃。1880年3月30日、陸軍省は少将村田経芳作製の単発銃を軍用に指定した(明治工業史 火兵篇 日本工学会編)。 』

『概要

村田銃の設計者、村田経芳

明治維新前後の頃には国内で様々な輸入小銃が使用されており[1]、建軍直後の日本軍でも、陸軍がイギリス製のスナイドル銃、海軍が同マルティニ・ヘンリー銃を主に使用していたが、村田経芳が十三年式村田銃の製造に成功したことで、初めて「軍銃一定」(主力小銃の統一・一本化)が成し遂げられた。このことが後の日清戦争において、雑多な小銃を用いる清軍に対し、日本軍の優位につながる一因となった。

村田銃の出現は火縄銃以来の300年の欧米とのギャップを埋め、国産銃を欧州の水準へ引き上げた。また、旧式化した後に民間に払い下げられ、戦前戦後を通じ日本における代表的猟銃となった。

開発・運用
村田銃の出現まで

江戸時代後期に入り、阿片戦争など欧米列強のアジア侵略が露骨化し、日本国内でも西欧軍事技術の研究が盛んになり、各種の銃砲が積極的に輸入されるようになった。これらの銃砲を国産化しようと努力した諸藩のうち、集成館事業によって大規模な殖産興業政策を採った薩摩藩の家臣だった村田経芳は、豊富な火器知識と卓越した射撃の技量により、薩摩藩兵から新生日本陸軍の将校に転じ、薩摩閥の大久保グループに属して日本陸軍の火器購入・運用・修理の統括責任者となった。

明治維新期は火器が飛躍的に発達しはじめた時期にあたり、様々な形式の火器が出現して数年を置かずに瞬く間に旧式化するというサイクルが繰り返されており、各藩から集められた火器は新旧各種が混在した状態だった。

発足したばかりの新生日本陸軍での歩兵教練は、輸入されたテキストを日本語に翻訳したマニュアル[2]とお雇い外国人による指導[3]に頼っており、1872年(明治5年)兵部省によって1870年版フランス陸軍歩兵操典 [4]が、次いで1874年(明治7年)に陸軍省によって1872年版同操典が採用[5]された事から、その主力小銃は全て後装式[6]に統一された。
当時の日本陸軍が保有していた後装式火器には各々長短があったが、スナイドル銃(金属薬莢式[7][8][9])が主力小銃となり、ドライゼ銃(紙製薬莢[10])が後方装備とされ、この他に七連発の米国製スペンサー騎兵銃(リムファイア金属薬莢式[11])が騎兵銃として、前装式で旧式化していたエンフィールド銃がスナイドル銃への改造母体および射撃訓練用などに多数が保有されているなど、多種の銃器・弾薬が混在する状況に、日本陸軍は補給や訓練の面で大きな困難を抱えていた。

これらの銃器のうち、最も先進的な構造と優れた性能(射程・弾道特性)を有していたのはシャスポー銃[12]であり、村田経芳は新生日本陸軍が幕府陸軍から引き継いだシャスポー銃用の紙製薬莢の製造[13]や、消耗品であるガス漏れ防止用ゴムリングの調達に腐心[14]するなど、そのメンテナンスに努めており構造も熟知していた。

普仏戦争後の1874年(明治7年)に、フランス本国でシャスポー銃のグラース銃への改造が行われ、シャスポー銃最大の弱点だった紙製薬莢が金属薬莢式に変更されたことを知った村田経芳は、日本陸軍のシャスポー銃を金属薬莢式に改造することと、その国産化を企図し始めた[15]。

1875年(明治8年)に村田経芳は射撃技術と兵器研究のためフランス、ドイツ、スウェーデンなどの欧州留学に赴き、シャスポー改造グラース銃を国産化する準備を開始するが、帰国すると郷里の鹿児島で西南戦争が勃発した。

決起した西郷軍には戊辰戦争を経験した多くの元薩摩藩兵・日本陸軍軍人が参加しており、日本陸軍は徴兵で集められた鎮台兵を大量投入して鎮圧を図ったため、忽ち主力小銃であるスナイドル銃の在庫が足りなくなる事態[16]が発生した。

これを絶好の機会と見た村田経芳は、フランスでその改造工程を実見したシャスポー改造グラース銃を参考に、金属薬莢式に改造したシャスポー銃を自ら試作し、ドイツの企業を下請けにして陸軍が退蔵しているシャスポー銃の改造作業を行い、実戦配備する事を計画[17]した。

しかし、この計画が実行に移される前に、日本陸軍はスナイドル弾薬の確保に辛うじて成功し、村田経芳自身も狙撃の腕を見込まれて西南戦争へ送られ、そこで負傷してしまった。

西南戦争は日本陸軍の勝利で終結したが、歳入のほとんどを戦費に使い果たした日本政府は財政難に陥り、陸軍も新小銃の国産化よりエンフィールド銃のスナイドル銃への改造を優先させたため、村田経芳のシャスポー銃改造計画は凍結された。

しかし、この凍結が怪我の治療を終えた村田経芳に時間の余裕を与え、シャスポー改造グラース銃を一部簡略化した設計で試作を始めた村田は、1880年(明治13年)に至り、ついに国産小銃の製造に成功した。

近隣諸国への供与

三十年式歩兵銃が採用されると、旧式火器となった村田銃の多くは猟銃に改造されて民間の銃砲店に払い下げられたり、学校教練用に用いられたが、一部は清国や朝鮮などの近隣諸国に供与された。

1898年6月にフィリピン革命政府(カティプナン)が、M.ポンセ・F.リチャウコの2名を、日本からの武器・弾薬の調達と支援獲得を求めて派遣した際に、日本滞在中の孫文・宮崎滔天の紹介で中村弥六、犬養毅らの口添えを受け、陸軍参謀本部から中古の村田銃などの払下げを得て、1899年7月に布引丸に村田銃を積んで出航するも途中で台風に遭って沈没するという事件(布引丸事件)が発生した[18]。

太平洋戦争末期には、火器不足から他の旧式銃とともに村田銃も倉庫から引っ張り出され、本土決戦を控えた隣組の在郷軍人達に再配備されたと伝えられている。

猟銃としての村田銃

村田式猟銃の略図(横濱金丸鉄砲店製)

村田銃の猟銃としての歩みは、1881年(明治14年)に松屋兼次郎が村田経芳の指導の元で火縄銃の銃身に村田式機関部を取り付けた元込め散弾銃を開発したことに始まる。

旧式化した十三年式・十八年式村田銃の一部は、軍の収益事業の一環として着剣装置や銃身内のライフリングを銃身長の半分まで削り取られ[19][20][21]、散弾銃に改造されてから民間に払い下げられ、軍用銃としてよりも長い期間を猟銃として活躍した[22]。

村田銃の散弾銃への改造は東京砲兵工廠小銃器製造所が担当し、この時に11mm村田弾をベースにした30番真鍮薬莢が工廠の薬莢製造施設を流用する形で製造が始められた。

「村田銃」の名前は、始めは払い下げられた軍用ライフル銃や、それを改造して散弾銃とした物を指していたが、後に村田経芳が村田銃のパテントを民間に広く販売したことにより、多くの民間銃器メーカーや銃職人により軍用村田銃の機構を模した散弾銃が作られることとなった。最初はそれらの散弾銃は村田式散弾銃と呼ばれていたが、次第に本来の村田銃ではない同形式の猟銃もすべて「村田銃」と呼ばれるようになったのである。なお、村田銃の払い下げが始まった明治10年代当時は、2018年現在の日本の銃器行政上の分類である「ライフル」と「散弾銃」と呼ばれる区分はまだ存在せず、洋式若しくは和式の「軍用銃」及び「猟銃」という区分のみが存在していた[23]。日本の銃器行政史上「ライフル」と呼ばれる区分が初めて登場するのは昭和46年の事である為[24]、当時の文書資料上は村田式散弾銃ではなく、村田式猟銃の名称の方がより一般的に使われていた事には留意されたい。

現存する銃器メーカーではミロクの猟銃の販売元であった川口屋林銃砲店(KFC)などが各種の村田式猟銃の製造販売を行っていた[25]。明治期の著名な製造元には、横浜で金丸謙次郎が興した金丸銃砲店、金丸の元で修行を積み明治14年に独立した十文字信介[26][27]、東京の川口亀吉が興した川口屋(KFCの前身)、後年に本邦屈指の水平二連の名工と謳われた名和仁三郞を輩出した岡本光長の岡本銃砲店、後のモリタ宮田工業の創業者でもある宮田栄助などが存在しており[28]、明治20年頃には民間の村田銃製造業者は国内に14軒ほどが存在していた。大正から昭和初期に掛けて水平二連のハンドメイドで名を馳せた日本人銃工達は、これらの民間業者や東京砲兵工廠での軍用銃作りで技術を磨いたという[29]。

村田式散弾銃で用いられる真鍮薬莢は、まず最初に前述の通り帝国陸軍の造兵廠にて11mm村田薬莢改造の30番薬莢が作られ始め、その後1919年(大正8年)に児島富雄の建議により、陸軍造兵廠より真鍮及び紙製散弾薬莢の製造機械一切の払い下げを受ける形で帝国薬莢製造株式会社(TYK)が設立され[30]、1945年(昭和20年)の日本の敗戦まで供給が行われた[25]。黒色火薬も村田単発銃で用いられていた板橋火薬工廠のものが民間に払い下げられる形で販売され、1924年(大正13年)には日本化薬も民間で初めて猟用黒色火薬に参入、板橋火薬廠や岩鼻火薬廠製の黒色火薬と並び、戦前の狩猟家の間で広く普及した[30]。

こうした戦前の日本政府や帝国陸軍の振興策も後押しとなり、当時は富裕層しか買うことのできなかった英国製水平二連銃やブローニング・オート5と比較して村田銃の価格は格段に安く設定され、単発式ながらもそれまで民間で主流であった火縄銃や、戊辰戦争期に旧幕府軍や日本の諸藩が導入して明治政府により鹵獲・没収され、後年村田銃作りにも携わった前述の鉄砲商を通じて民間に放出されたゲベール銃やエンフィールド銃などのマスケット銃よりも圧倒的に次弾発射までの時間が短縮されることから、村田式散弾銃は庶民の猟銃として戦後に至るまで広く親しまれた。昭和30年代にJISは散弾銃に関連した諸規格[31]を制定したが、この時に試験銃として採用されたのも村田式散弾銃であった。

形式には大きく分けて5種類あり、

軍用村田銃を改造し28/30/36番径とした物
村田経芳が設立した村田製作所(株式会社 村田製作所とは無関係)により、民間向けに軍用村田銃の構造を踏襲する形で最初から8番-40番径散弾銃として制作された物
民間銃器職人・工場にてライセンス製造された物
火縄銃の銃身末端に村田式のボルトを後付けする事で後装式に改造された物[32]
十三年式村田銃以前に陸軍に導入された洋式銃が村田式のボルトを取り付けて改造され、後に払い下げられた物

が存在した。しかし、これらは「古式銃」[33]としては取り扱われず、現行の散弾銃として所持許可登録を行う必要がある。

この時期のライセンス生産品で特筆に値するものは金丸銃砲店が製造した村田式散弾銃で、他の製造業者が十三年式・十八年式に準じて撃鉄ばねに松葉バネを使用する中、金丸銃砲店は二十二年式村田連発銃を参考としコイルスプリングを用いた槓桿を採用していた[34]。更に金丸は、明治34年頃にはスプリング式村田銃に更なる改良を加え、同時期のレミントン M8を参考にしたとみられる、後年の二式テラ銃のように銃身をテイクダウン(英語版)可能とした新式取放自在村田式銃を発売するに至った[35][36]。

戦後、新式の猟銃が普及したことにより村田銃が用いられることはほとんどなくなったが、老猟師やマタギを象徴するアイテムとして今日でもフィクション中に登場することがある。

なお、村田式散弾銃は口径が8番、10番、12番、16番、20番、24番、28番、30番、36番、40番、410番、7.6mm(76番)まで幅広い種類が存在するが、十三年式・十八年式の軍用ライフル銃を由来とする村田散弾銃は28/30/36番などの比較的小口径の物が多い。民間製造品の中には12番や20番などの大口径銃も存在するが、村田散弾銃は全て、現行規格の12GA/20GAとは異なるサイズの専用規格の真鍮薬莢に黒色火薬や「送り」と呼ばれるフェルト製ワッズでハンドロードして使用するため、現在の紙またはプラスチックケース装弾を装填して撃つことは原則として不可能である。

その専用真鍮薬莢や弾頭類も、1990年代初頭頃には旭精機工業(AOA)や日邦工業(NPK)などの国産メーカー品の製造が中止されたことや、火縄銃などと異なり「古式銃」にも相当しない「現行狩猟銃」のため、所持許可などの入手要件が厳しいこともあり、近年では村田式散弾銃の実射を行うことは、ある意味火縄銃よりも難しくなりつつあるのが現状[37]である。

村田銃の種類

単発型

以下の村田銃は日清戦争の一線部隊で活躍したが、絶対数が足りず二線部隊の装備は依然としてスナイドル銃が用いられていた。

十三年式村田銃

十三年式小銃十三年式小銃
種類 小銃
製造国 日本の旗 日本
設計・製造 東京砲兵工廠
小倉陸軍造兵廠
名古屋陸軍造兵廠
仕様
口径 11mm
銃身長 840mm
ライフリング 5条
使用弾薬 11mm村田有縁実包11x60R
装弾数 1発
作動方式 ボルトアクション式
全長 1,294mm
重量 4,620g
銃口初速 437m/
射程 1,800m/
歴史 
設計年 1880年(明治13年)
関連戦争・紛争 日清戦争、台湾平定、北清事変、日露戦争
製造数 80000

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十ヶ月に及ぶ欧州留学から帰国した村田経芳は、グラース(グラー)M1874やボーモン(バーモン)M1871を参考に、1880年(明治13年)に日本独自の国産小銃を完成させ、日本陸軍によって制式採用され、制式名称を「紀元二五四〇年式村田銃」(後の1885年(明治18年)に、改良型の「十八年式村田銃」に合わせて、「十三年式村田銃」(正式には「明治十三年 大日本帝國村田銃」)に改称)とされた。

十三年式村田銃はボルトアクション式単発銃であり、使用弾薬は11mm村田(11x60R Japanese Murata)有縁(リムド)弾薬(装薬は黒色火薬)を使用したが、これはシャスポー/グラース銃に使用された11mmx59.5弾薬とほぼ同寸[38][39]のものだった。

これは、村田銃の生産と並行して手持ちのシャスポー銃を村田式(金属薬莢用)へ改造する作業[40]が同時に行われていたため、弾薬を共通化するための措置であり、これら改造されたシャスポー銃は“シヤスポー(シアスポー)改造村田銃”と呼ばれ[41]、1885年(明治18年)の時点で村田銃と呼ばれていた物の相当数がこの改造品であったこと[42]も記録されている。なお、当時の薬莢製造工程に起因するため[43]か、今日のリムド弾薬と異なり、リム底面は雷管周辺部のみが僅かに突き出した形状となっている。リム底面には寛永通宝等の江戸時代の通貨と同様の文字配列で四文字の刻印が記された。一般的には明治を表す「明」と、二桁の年号を一文字分に縮小した「廿三」(23)等の漢数字が製造年号として必ず刻印され、残りの二文字は「実包」あるいは村田の読みを仮借した造語である「邑手(むらた)」のどちらかが用いられた。

最重要部品である銃身はベルギーからの輸入に頼っていたが、その他の部品は全て日本国内で加工されていた。

村田十三年式がシャスポー/グラース銃と異なる点は、日本の気候に合わせて表面仕上げが白磨きではなくブルー仕上げ(酸化処理)とされ、ボルト後端のノブが単純な円形にローレット加工のみとされ製造が容易になっている点と、ボルト内部のスプリングに松葉バネを使用していた点である。

当初は参考としたシャスポーやグラースと同様にコイルスプリングを用いた機構を考えて、スプリングの製造装置を輸入して試作してみたが、良質な鋼材そのものを輸入に頼っていた当時の日本では満足なものを作ることができなかった。しかし松葉バネなら江戸時代から続く国産技術が存在したため、妥協的に松葉バネを使用して製造された。耐久性やメンテナンスの問題があったが、当時の日本の技術水準では一番確実な選択をしたと評価できる。バネはボルト・ハンドル部の内側に仕込まれ、そのためボルト・ハンドル部が太く平たくなっており、これが村田銃の外観の特徴になっている。尚、参考にされたのは同様のV字バネ機構を持つ、オランダのボーモンM1871歩兵銃である。

薬室の密閉は金属薬莢の膨張作用と薬室内に挿入されたボルトの先端部で行い、大きく平たいボルト本体が機関部先端の溝に填り込むことで強固な固定が行われるため、ボルト先端には閉鎖機構や噛み合いラグの類は特に装備されていない。ボルトは90度垂直に起こすことでコッキングが行われ(コック・オン・オープニング方式)、十三年式や十三年式を参考にした村田式散弾銃の場合には、ボルトが後退した際にはボルト先端側面にマイナスネジで固定されたボルトストッパーが機関部後端に当たることでそれ以上の後退が阻止される。このボルトストッパーを取り外すことで簡単にボルトを機関部から抜くことができるが、古い銃の場合にはボルトストッパーが変形・脱落して排莢の際にボルトが後方にすっぽ抜けることもあった。十八年式では機関部左側面にマイナスネジ状のストッパーをねじ込むことでボルトの抜け止めが行われる形に変更された。

撃針はボルト後端の円形の出っ張り(コッキング・ピース)と一体化した長い複雑な形状のものが用いられ、コッキングした際にはこの円形の出っ張りが後方に突き出すことで、コッキングされているか否かが容易に判別できた。後年、村田式散弾銃においてはこの円形の出っ張りを指してデベソと呼ぶ場合があった[44]という。コッキングの判別自体が容易に行える上、コッキングされた撃針をゆっくり戻すには一旦ボルトを後方に引き、引き金を引いたままボルトを再度前進させることで簡単に行えたことから、後述の村田式騎兵銃を除き、十三年式、十八年式共に安全装置の類は一切装備されなかった。

エキストラクターはボルトの側面に設けられた溝に簡易に嵌め込まれただけのものであり、ボルトを抜く際にはエキストラクターの脱落に注意する必要がある。このエキストラクターは薬莢を薬室から引き抜くだけの役割しか果たさず、後年の銃に見られるような薬室外に薬莢を蹴り出す機能は存在しないため、引き抜かれた空薬莢を排除するには銃を斜めに倒すか、ボルトを操作した手で直接薬莢を排除する必要がある。しかし、熟練した射手であれば引き金を操作する右手の中指と薬指の間に数発の予備弾を挟んでおき、小指と掌でボルトを操作しながら素早く装填することでかなりの速度で連射することもできたという。

銃身と機関部は銃身側に外ネジ、機関部側に内ネジが切られ、ねじ込み構造によって固定される。銃身後端には照星を正確に銃身直上に合わせるためのごく薄い微調整用金属製ガスケットが挿入され、銃身と機関部のシールが行われた。薬室後端部上面には異常腔圧により薬莢が破断した場合に撃針側から燃焼ガスの吹き抜けが起きないように非常用ガス抜き穴が設けられた。このガス抜き穴は日本軍の後継ボルトアクションライフルの多くに引き続き採用され続けた。

歩兵銃に菊の御紋が刻印されるようになったのも本銃が始まりである。西南戦争における退却の際、小銃を放棄して逃げる兵が続出したため、銃を捨てることがないようにとの村田の配慮で刻まれたと言われている。この菊の御紋は海外に現存する村田銃では×の字の刻印を後から打刻するなどの方法で消されたものがあり、後の有坂銃における終戦後の海外流出品と類似した処置が、村田銃の払い下げの段階から既に行われていた事を示している。

十三年式は約6万挺が製造された[45]。日清戦争では十八年式とともに主力小銃であった[46]。

十六年式騎銃

十六年式騎銃十六年式騎銃
種類 騎兵銃
製造国 日本の旗 日本
設計・製造 東京砲兵工廠
小倉陸軍造兵廠
名古屋陸軍造兵廠
仕様
口径 11mm
銃身長 740mm
ライフリング 5条
使用弾薬 11mm村田有縁実包11x60R
装弾数 1発
作動方式 ボルトアクション式
全長 1,178mm
重量 3,60g
銃口初速 400.2m/
射程 1,500m/
歴史 
設計年 1883年(明治16年)
関連戦争・紛争 日清戦争、台湾平定戦、義和団の乱、日露戦争
製造数 不明(小銃) 不明(騎銃)

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1883年(明治16年)には、カービン(騎兵用に馬上で取り扱いやすいように短銃身にした小銃のこと。騎兵銃)モデルとして、十三年式をベースにした「十六年式騎銃」が開発され、スペンサー銃の後継として、騎兵や砲兵に配備された。

なお、この十六年式騎銃は米国側の資料[47]にのみ、銃身を25インチに短縮した「Type16 Murata Carbine」として現れるもので、アジア歴史資料センターなど日本側資料には後述の十八年式村田銃をベースとした十八年式村田騎銃しか確認できず、両者が混同されている可能性がある事に留意されたい。

十八年式村田銃

十八年式小銃十八年式小銃
種類 小銃
製造国 日本の旗 日本
設計・製造 東京砲兵工廠
小倉陸軍造兵廠
名古屋陸軍造兵廠
仕様
口径 11mm
銃身長 840mm
ライフリング 5条
使用弾薬 11mm村田有縁実包11x60R
装弾数 1発
作動方式 ボルトアクション式
全長 1,278mm
重量 4,098g
銃口初速 435m/
射程 1,800m
歴史 
設計年 1885年(明治18年)
関連戦争・紛争 日清戦争、台湾平定、北清事変、日露戦争
製造数 90000(小銃) 10000(騎銃)

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十八年式村田銃を装備した日本陸軍兵。手前側の兵士の足元に写る村田銃には、十八年式の特徴である機関部左側面側の8の字型のボルトストッパーの受け金具が明瞭に視認できる。(1890年)

1885年(明治18年)には、当時の日本人の体格に合わせ銃身長・銃床長を見直し、機関部にも改良を加えた「十八年式村田銃」(正式には「明治十八年 大日本帝國村田銃」)が制式採用され、銃身鋼材も含めた国産体制の構築が達成された(素材である鋼材の国内供給が実現するのは1901年の官営八幡製鐵所建設以降のことである)[48]。ただし銃の製造に使われた工作機械はアメリカ製であった。十八年式の改良にはアメリカのウィンチェスター社が協力している。銃の製造番号(シリアルナンバー)は一三年式から続く連番である。
十八年式村田騎銃

銃床に東京砲兵工廠の印が刻まれている

十八年式は銃身を短縮した騎兵銃(正式には「明治十八年 大日本帝國村田式騎兵銃」)も制作された。単発銃との相違点は銃身と銃床を固定するバンドが2本から3本に増やされており、着剣装置が廃されている。また、ボルトの後端にコッキング状態から反時計回りに回転させる事で撃茎を固定できる簡易な安全装置が追加された。この機構は日本製の小銃で初の安全装置の実装例とされ、後の有坂銃にも基本概念を同じくする安全装置が用いられている[49][50]。

十八年式は単発銃約8万挺、騎兵銃約1万挺が製造され、日清戦争に投入された[45]。日清戦争では十三年式とともに主力小銃であった[46]。

甲号擲弾銃

後に、十八年式の機関部を流用した擲弾筒である「甲号擲弾銃」が開発された。

連発型
二十二年式村田連発銃
二十二年式村田連発銃 二十二年式村田銃
二十二年式村田連発銃
二十二年式村田連発銃
種類 小銃
製造国 日本の旗 日本
設計・製造 東京砲兵工廠
小倉陸軍造兵廠
名古屋陸軍造兵廠
仕様
口径 8mm
銃身長 750mm
ライフリング メトフォード式4条
使用弾薬 8mm村田無煙火薬実包(8x53Rmm)
装弾数 8発
作動方式 ボルトアクション式
全長 1,210mm
重量 4,000g
銃口初速 612m
射程 2,000m
歴史 
設計年 1889年(明治22年)
関連戦争・紛争 日清戦争、台湾平定戦、北清事変、日露戦争
製造数 不明
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「二十二年式村田連発銃」は、当時の欧州各国で採用され始めた連発式軍用銃を研究するため、1889年(明治22年)に再度渡欧[51]した村田経芳によって設計・製造された。

従来の黒色火薬にかわって無煙火薬を使用する小口径の8mm弾を使用し、銃身下部に8発収容の管状弾倉を持っていた。正式名称は「明治二十二年制定 大日本帝國村田連發銃」である。

撃発バネは単発銃の松葉バネからコイルバネに変更され、槓桿も小型化された。ライフリングは当時としては珍しかったメトフォード式を採用するなど、様々な新コンセプトを盛り込んだ意欲作であったが、軍用ライフル用弾倉として一時的に流行した管状弾倉を採用したことが、村田連発銃を短命に終わらせる原因となった。

管状弾倉の中では弾丸が前後に細長く並ぶ。このとき、前の弾丸の雷管を後ろの弾の頭が強く叩くと、暴発が発生する恐れがある。そこで先端を尖らせない平頭弾丸を用いる必要があり、雷管も十三年式の村田一号雷管に保護カバーを追加した専用の物が用いられた。この平頭弾丸が、命中率の低下をまねいた。二十二年式は欧州各国でも実用化されて間もなかった強力な無煙火薬を採用し、発射初速が一挙に上がっていた。そのため、弾丸の初速が遅いときには大きな問題にならなかった空気抵抗による弾道特性の悪化が生じた。弾の先端を尖らせればこの問題は解消でき、むしろ命中率の向上が期待できるのだが、二十二年式では平頭弾丸が裏目に出た。

また、管状弾倉は銃の前方に長く伸びていたので、1発撃つ毎に前が軽くなり、銃全体のバランスが変化してしまう。これもまた射撃の精度に悪影響を及ぼした[52]。

二十二年式の管状弾倉は、現在の自動散弾銃などのように機関部下から弾薬を装填する機構ではなく、ボルトを開いて薬室側から弾を装填しなければならないため、弾薬の装填に時間が掛かり、装填時には射撃できないため、結果的には「多少弾が余分に持てる単発銃」程度の実用性しか得られなかったことや、給弾の信頼性にやや難があったことから兵士たちには不評であった。

散弾銃の場合には弾頭がケースの口巻きに保護されており弾倉内で雷管を叩く恐れがないことと元々長距離の狙撃を行うこと自体が少ないため、これらの欠点は通常殆ど問題になることはないのだが、村田連発銃は図らずも「無煙火薬を用いた近代ライフルには管状弾倉は全く不適」であることの良い実例となってしまった(これは同時期における、無煙火薬を使用した小銃としては世界初のフランスのルベルM1886ライフルにも当てはまる)。

管状弾倉を採用したことで銃身下のスペースが無くなったため、さく杖は短い物が銃床内部に収められており、清掃の際には数人がそれぞれのさく杖を繋ぎ合わせて交替で使用した。銃剣は十三年式から一挙に短縮化された二十二年式銃剣が採用された。また、現在の管状弾倉式の自動散弾銃に装備されているマガジンカットオフ機構に相当する機構もこの頃既に装備しており、槓桿脇の小さなレバーを回転させると送弾装置を停止させることができた。この機構を応用し、携行する際に薬室を解放して誤装填による事故を予防する、また通常は単発銃として用い危急の際に連発に切り換えるという運用が可能であった。一方、村田式騎兵銃で採用された安全装置は二十二年式では採用されなかった。近年の日本の研究者の報告[53]では、弾道特性の良い尖頭弾丸を使用した実包での射撃では後年の軍用小銃に匹敵する集弾性が発揮されるなど、決して粗悪な作りの銃ではなかったが、コンセプトが余りにも一時的な流行を追いすぎたことが祟り、村田経芳の後輩である有坂成章がモーゼル式ボルトアクション小銃を参考に開発した三十年式歩兵銃が好評を博したことも相まって、軍制式としては極めて短命な8年という寿命に終わった。

村田連発銃の採用は、日清戦争がはじまった1894年(明治27年)で、出征した師団の装備には間に合わなかった。動員が遅くなった近衛師団と第4師団が受領したが、両師団は実戦に参加しなかったため、日清戦争で用いられる機会はなかった[46]。

台湾鎮定戦、北清事変で用いられた記録が残る。

日露戦争の前後には後備歩兵と後備工兵および海軍陸戦隊[54]が村田連発銃を装備した。戦争中に当時の主力小銃であった三十年式歩兵銃に交換されていったが、奉天会戦に参加した後備歩兵の相当数がなお旧式の銃を装備していた[55]。

また、十三年式・十八年式村田銃と異なり三十年式歩兵銃配備後も後方部隊及び教練用銃として軍で保管された後に、当時の財閥や陸軍の中古兵器を取り扱った泰平組合などを通じて主に中国へ輸出[56]され、散弾銃化されて民間に出回ることも無かったため、現存する銃・銃剣は国内外共に極めて少なく、程度の良い物は米国内でも高値で取引されている。
二十二年式村田連発銃で射撃戦を行う日本陸軍部隊。下から三人目の兵士は一般的な立射姿勢[57]、一番下の兵士はより古典的で静的射撃に適したアームバックスタイル[58]で村田銃を構えている。(1894年、日清戦争)

村田式連発銃の実戦における運用方法などについては、近代デジタルライブラリーに所蔵されている明治20年代後半から30年代に掛けての村田連発銃の各種の解説書[59][60][61]に詳しく記されており、同書によると搬筒匙軸轉把(はんとうひじくてんは、マガジンカットオフレバー)の操作は指揮官の「連発」「単発」の号令で切り替えるものとされており、射撃戦時の連発射撃及び単発射撃への相互の移行は「連発込め」「単発込め」の号令で轉把を切り替える事で行われ、カットオフを作動させたままにしておくことで、従来の村田単発銃と同様の射撃術及び射撃指揮も行えた。

また、村田連発銃は弾倉への満装填後直ちに連発射撃を開始したい場合(「特別な場合」とも記載される)は弾倉内に8発込めた後に搬筒匙(はんとうひ、キャリアー)に1発を載せ、更に薬室に1発を直接装填し、轉把を連発位置(銃身と水平)のままとして槓桿を閉鎖し射撃開始する事で、最大10連発とする事も出来たが、兵士個々人の指の太さの違いにより弾倉への装填がしにくい場合には、キャリアーに乗せた実包を次に装填する実包の弾頭部分で押し込んでいく事で装填する方法が指定されていた。弾倉からの抜弾は轉把を連発位置に切り替え、何度も遊底を開閉する事で行ったが、騎兵においては「打ち方やめ」の号令の後に薬室と搬筒匙に残った実包を指で再び弾倉内に戻す方法を取ってもよいとされた[60]。

村田連発銃は安全装置が装備されておらず、騎銃においても村田単発騎銃のような撃茎の前進を阻止する機構(避害器)は追加されなかったが、搬筒匙軸轉把を使う事でその代用とする事が出来た。弾倉のみに装填した後に轉把を単発位置(銃身と垂直)に切り替え、搬筒匙を起こした状態で固定して連発機構を停止させてしまえば、槓桿をいくら操作しても射撃が行えず、単発銃のように意図的に薬室に直接装填するか、過度の衝撃で弾倉内の実包の雷管が弾頭で突かれて誘爆しない限りは暴発も起こり得なくなる為、小銃・騎兵銃共に通常は弾倉に満装填後は連発機構を停止させ、薬室と搬筒匙に実包が無い事を確認した上で遊底を閉鎖し、撃鉄を降ろす操作[62]を行った後に携行する事が指示されている。

騎兵においては馬上では連発射撃を基本とし、単発射撃は原則として行わない事とされた。また、特別な場合においては小銃同様にキャリアーと薬室に1発ずつ装填し7連発とできる事も記述されているが、前述の搬筒匙軸轉把を用いた安全装置が使えない為か、「馬上に於いては2発の追加は行わないこと」も併記されている[60]。

これらの一連の操作は現在のマガジンカットオフ機構付きの半自動式散弾銃を運用する際もおおむね同じ方法が採られているが、後年の有坂銃は装填はストリッパークリップによる押し込み、弾倉からの抜弾はマガジンフォロワープレートを開閉する事でより簡単に行えた。また、搬筒匙軸轉把を用いた安全装置も、安全解除(連発位置への切り替え)後に射撃を開始する際には必ず一度遊底の開閉を行う事で再コックと薬室への送弾を行う必要があり、薬室に装填してコッキング状態のまま安全装置を掛ける事が出来る有坂銃よりも初弾の発射では後れを取る事になる。有坂銃は最大装填数でこそ村田連発銃より劣るものの、上記のような複雑な運用手順の把握が不要で装填・抜弾共に村田連発銃よりも遥かに素早かった事から、三十年式歩兵銃・同騎兵銃の登場後は二十二年式は極めて早期に第一線の部隊からは姿を消していった。

二十二年式村田連発騎銃
二十二年式村田連発騎銃二十二年式村田連発騎銃
種類 騎兵銃
製造国 日本の旗 日本
設計・製造 東京砲兵工廠
小倉陸軍造兵廠
名古屋陸軍造兵廠
仕様
口径 8mm
銃身長 500mm
ライフリング メトフォード式4条
使用弾薬 8mm村田無煙火薬実包(8x53Rmm)
装弾数 8発
作動方式 ボルトアクション式
全長 960mm
重量 3,853g
銃口初速 590m
射程 1,500m
歴史 
設計年 1889年(明治22年)
関連戦争・紛争 日清戦争、台湾平定戦、北清事変、日露戦争
製造数 不明
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小銃と同時に制定された。騎兵銃は銃身と共に弾倉も短くなっている為、装填数は5発となっている。また当時の騎兵はサーベルを佩用した事から着剣装置が無い事は前身の村田単発騎銃と同様である[63]。

村田銃の銃剣
村田十三年式銃剣

1881年(明治13年)に制式化された十三年式村田単発銃用銃剣。剣先が両刃になっている。剣長が71.0 cm、刃長が57.0 cmと、打刀に迫る大脇差サイズの刀剣であった。銃の先端右側面に着剣し、剣身は水平を向く。
村田十八年式銃剣

剣長58.0cm、刃長46.0cmと大幅に短縮化された十八年式村田単発銃用の銃剣。着剣部は村田十三年式銃剣と同じく銃の先端右側面であり、剣身も水平を向く。
村田二十二年式銃剣

1889年(明治22年)に制式化された二十二年式村田連発銃用銃剣。剣長:37.0 cm、刃長:28.0 cm。銃先端下面に着剣し、剣身は垂直を向く。二十二年式は製造時期によりフロントバンドの形状が異なる為、銃剣も二種類が用意され、相互に互換性は無いものとなっている。

登場作品
映画

『八甲田山』
青森歩兵第五連隊雪中行軍隊のソリ隊兵士が所持。
『マタギ』
『リメインズ 美しき勇者たち』

ドラマ

『緑豆の花』
主人公・イヒョンが所持。

漫画・アニメ

『イッテイ 13年式村田銃の創製』
[icon]
この節の加筆が望まれています。
『銀牙 -流れ星 銀-』
登場人物の1人、熊撃ちの達人であり熊犬(熊狩りに使う猟犬)育成の名人である竹田五兵衛が使用する。
『ゴールデンカムイ』
200頭以上の羆を狩り「冬眠中の羆もうなされる悪夢の熊撃ち」と恐れられる猟師の二瓶鉄造が十八年式単発銃を使用。
作中では狩猟用としても旧式であるが本人の信念と日清戦争で戦死した一人息子の形見ということもあり、あえて使い続けている。
また、元マタギの谷垣源次郎が二瓶の物を受け継いで使うほか、アイヌの猟師も被筒が切り詰められた狩猟用の村田銃を所持している。
『邪眼は月輪に飛ぶ』
[icon]
この節の加筆が望まれています。
『釣りキチ三平』
「阿仁の三四郎」編に登場するマタギの三四郎が使用する。

ゲーム

『SIREN』(ホラー)
二十二年式が登場し、主人公の1人である志村晃や本主人公の須田恭也、村を徘徊する屍人が使用する。

小説

『邂逅の森』
『狙うて候 銃豪村田経芳の生涯』
『黄砂の籠城 上・下』
 主人公らの装備として登場。まっすぐ飛ばない銃と揶揄されている。』

石原莞爾

石原莞爾
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE

 ※ 「石原」の読みが、「いしわら」だとは、知らんかった…。

『石原 莞爾(いしわら かんじ[注 1]、1889年(明治22年)1月18日〈戸籍の上では17日〉 – 1949年(昭和24年)8月15日)は、日本の陸軍軍人、軍事思想家。『世界最終戦論』で知られ、関東軍で板垣征四郎らとともに柳条湖事件や満州事変を起こした首謀者。二・二六事件では反乱軍の鎮圧に貢献したが、宇垣内閣組閣は流産に追い込んだ。後に東條英機との対立から予備役に追いやられる。東京裁判では病気や反東條の立場が寄与し、戦犯指定を免れた。

帝国陸軍の異端児と呼ばれ、アジア主義や日蓮主義の影響を受けた。陸軍大学校教官、関東軍作戦主任参謀、同作戦課長、歩兵第4連隊長、参謀本部作戦課長、同第一部長、関東軍参謀副長、満州国在勤帝国大使館附陸軍武官(兼任)、舞鶴要塞司令官、第16師団長などを歴任し、ドイツ駐在やジュネーヴ会議(英語版)随員も経験した。東亜連盟も指導し、予備役編入後は立命館大学講師も務めた。最終階級は陸軍中将。位階勲等功級は正四位勲一等功三級[1][2]。 』

『生涯

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出典検索?: “石原莞爾” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年9月)

幼少年時代

幼少期の莞爾と二郎

明治22年(1889年)1月18日に山形県西田川郡鶴岡(現・鶴岡市)で誕生。但し戸籍上は1月17日となっている。

父親は警察官であり転勤が多かったため、転住を重ねている。幼年期は乱暴な性格であったが利発な一面もあり、その学校の校長が石原に試験をやらせてみると、一年生で一番の成績であった。石原の三年生の頃の成績を見てみると読書や算数、作文の成績が優れていた[3]。 また、病弱でもあり、東北帝国大学付属病院に保管されていた石原の病歴を見てみると、小児時代に麻疹にかかり種痘を何度か受けている[3]。

石原は子供時代から近所の子供を集めて戦争ごっこで遊び、小学生の友達と将来の夢について尋ねられると「陸軍大将になる」と言っていた[3]。

軍学校時代

青年期の莞爾と二郎

明治35年(1902年)、庄内中学二年次途中で仙台陸軍地方幼年学校(予科)を受験して合格し、入校した。石原は、ここで総員51名の中で1番の成績を維持し学業は優秀だったが、器械体操や剣術などの運動は苦手だった。

明治38年(1905年)には陸軍中央幼年学校(本科)に入校し、基本教練や武器の分解組立、乗馬練習などの教育訓練を受けた。田中智学の『妙法蓮華経』(法華経)に関する本を読み始めたのもこの頃である。成績は仙台地方幼年学校出身者の中では最高位であった。また、東京に在住していたため、乃木希典や大隈重信の私邸を訪ね、教えを乞うている[4]。

明治40年(1907年)、陸軍士官学校に入校した。区隊長への反抗や侮辱をするなど、生活態度が悪く、卒業成績は官報によると13番/418名(歩兵科では8番)であった。同期生からは飯村穰(2番、歩兵)、井出宣時(3番、歩兵)、町尻量基(4番、砲兵)、横山勇(8番、歩兵)、百武晴吉(9番、歩兵)、菅原直大(15番、歩兵のちに航空兵に転科)、冨永信政(16番、歩兵)、樋口季一郎(25番、歩兵)、安田武雄(26番、工兵)、平林盛人(32番、歩兵)など錚々たる軍人を輩出している。

明治43年(1910年)5月に士官学校(21期歩兵科)を卒業後は、歩兵第65連隊に復帰して、見習士官の教官として非常に厳しい教育訓練を行った。ここでは、軍事雑誌に掲載された戦術問題に解答を投稿するなどして学習していたが、箕作元八の『西洋史講話』や筧克彦の『古神道大義』など、軍事学以外の哲学や歴史の勉学にも励んでいる。盛岡藩家老で明治新政府の外交官だった南部次郎(東 政図(ひがし まさみち))よりアジア主義の薫陶を受けていたため、明治44年(1911年)の春川駐屯時には、孫文大勝の報を聞いた時は、部下にその意義を説いて、共に「支那革命万歳」と叫んだという。

陸大30期卒業生(石原は前列中央)

連隊長命令で、陸軍大学校を受験することになった。試験に合格し、大正4年(1915年)に入校することになる。ここでは、戦術学、戦略、軍事史などの教育を受けた。大正7年(1918年)、陸軍大学校を次席で卒業した(30期、卒業生は60人)。首席は、鈴木率道であった。卒業論文は、北越戦争を作戦的に研究した『長岡藩士・河井継之助』であった。
在外武官時代

ドイツへ留学(南部氏ドイツ別邸宿泊)する。ナポレオンやフリードリヒ大王らの伝記を読んだ。大正12年(1923年)、国柱会が政治団体の立憲養正會を設立すると、国柱会の田中智學は政権獲得の大決心があってのことだろうから、「(田中)大先生ノ御言葉ガ、間違イナクンバ(法華の教えによる国立戒壇建立と政権獲得の)時ハ来レル也」と日記に書き残している。

関東軍参謀時代

石原が昭和2年(1927年)に書いた『現在及び将来に於ける日本の国防』には、既に満蒙領有論が構想されている。また、『関東軍満蒙領有計画』には、帝国陸軍による満蒙の占領が日本の国内問題を解決するという構想が描かれていた[5]。

昭和3年(1928年)に関東軍作戦主任参謀として満州に赴任した[6]。自身の最終戦争論を基にして、関東軍による満蒙領有計画を立案する。

昭和6年(1931年)満州事変を起こし[7] 、23万の張学良軍を相手に、1万数千の関東軍で満州を占領した。

柳条湖事件の記念館に首謀者としてただ二人、板垣と石原のレリーフが掲示されている。
満州事変をきっかけに行った満州国の建国では「王道楽土」、「五族協和」をスローガンとし、満蒙領有論から満蒙独立論へ転向していく。日本人も国籍を離脱して満州人になるべきだと語ったように、石原が構想していたのは日本及び中国を父母とした独立国(「東洋のアメリカ」)であった。しかし、その実は、石原独自の構想である最終戦争たる日米決戦に備えるための第一段階であり、それを実現するための民族協和であったと指摘される。さらには関東軍に代わって満州国協和会による一党独裁制を確立して関東軍から満州国を自立させることも主張していた[8]。

二・二六事件の鎮圧

昭和11年(1936年)の二・二六事件の際、石原は参謀本部作戦課長だったが、東京警備司令部参謀兼務で反乱軍の鎮圧の先頭に立った。 この時の石原の態度について、昭和天皇は「一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく分からない、満洲事件の張本人であり乍らこの時の態度は正当なものであった」と述懐している[9]。

この時、ほとんどの軍中枢部の将校は、反乱軍に阻止されて登庁出来なかったが、統制派にも皇道派にも属さず、自称「満州派」の石原は、反乱軍から見て敵か味方か判らなかったため登庁することができた。

安藤輝三大尉は、部下に銃を構えさせて、石原の登庁を陸軍省入口で阻止しようとしたが、石原は逆に「何が維新だ。陛下の軍隊を私するな。この石原を殺したければ直接貴様の手で殺せ」と怒鳴りつけ、参謀本部に入った。反乱軍は、何もしなかった[10]。

また、庁内においても、栗原安秀中尉にピストルを突きつけられ「石原大佐と我々では考えが違うところもあると思うのですが、昭和維新についてどんな考えをお持ちでしょうか」と威嚇的に訊ねられるも、「俺にはよくわからん。自分の考えは、軍備と国力を充実させればそれが維新になるというものだ」と言い、「こんなことはすぐやめろ。やめねば討伐するぞ」と罵倒し、栗原は殺害を中止し、石原は事なきを得ている。

宇垣内閣の組閣を断念させる

昭和12年(1937年)に廣田内閣が総辞職した。これにより、次期首相にはかつて軍縮に成功し、軍部ファシズムの流れに批判的であり、また中国や英米などの外国にも穏健な姿勢を取る宇垣一成大将が俄然有力視され、ついに大命降下される運びとなった。

しかし、石原莞爾参謀本部第一部長心得を中心とする陸軍中堅層は、軍部主導で政治を行うことを目論んでおり、宇垣の組閣が成れば軍部に対しての強力な抑止力となることは明白であったので、なんとしてもこの宇垣の組閣を阻止しようと動いた。石原は自身の属する参謀本部を中心に陸軍首脳部を突き上げ、寺内寿一陸軍大臣も説得し、宇垣に対して自主的に大命を拝辞させるように「説得」する命令を寺内大臣から中島今朝吾憲兵司令官に命じてもらった。中島中将は宇垣が組閣の大命を受けようと参内する途中、宇垣の車を多摩川の六郷橋で止めてそこに乗り込み寺内大臣からの命令であると言い、拝辞するようにと「説得」した。だが、宇垣はこれを無視して大命を受けた。

しかし、石原は諦めず、今度は軍部大臣現役武官制に目をつけて宇垣内閣の陸軍大臣のポストに誰も就かないよう工作した。宇垣の陸軍大臣在任中、「宇垣四天王」と呼ばれたうちの2人、杉山元教育総監、小磯国昭朝鮮軍司令官への工作も成功し、誰一人として宇垣内閣の陸軍大臣を引き受ける者はいなかった。こうして宇垣は陸軍大臣を得られず、やむなく組閣を断念し、石原の策は見事に成功した。だが、石原は後年、宇垣の組閣を流産させたこのときの自分の行動を人生最大級の間違いとして反省している。石原の反省は、宇垣の組閣断念の後に政治の流れが、石原が最も嫌う日本と中国の全面戦争、石原が時期尚早と考えていた対米戦争への突入へと動いていったことによるものである。

左遷

1930年代後半から、関東軍が主導する形で、華北や内蒙古を国民政府から独立させて勢力圏下とする工作が活発化すると、対ソ戦に備えた満州での軍拡を目していた石原は、中国戦線に大量の人員と物資が割かれることは看過しがたく不拡大方針を立てた。

1936年(昭和11年)、関東軍が進めていた内蒙古の分離独立工作(いわゆる「内蒙工作」)に対し、中央の統制に服するよう説得に出かけた時には、現地参謀であった武藤章が「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と反論し同席の若手参謀らも哄笑、石原は絶句したという。

1937年(昭和12年)の支那事変(日中戦争)開始時には参謀本部第一部長(作戦)であったが、ここでも作戦課長の武藤などは強硬路線を主張、不拡大で参謀本部をまとめることはできなかった。石原は無策のままでは早期和平方針を達成できないと判断し、最後の切り札として近衛首相に「北支の日本軍は山海関の線まで撤退して不戦の意を示し、近衛首相自ら南京に飛び、蒋介石と直接会見して日支提携の大芝居を打つ。これには石原自ら随行する」と進言したものの、近衛と風見章内閣書記官長に拒絶された。戦線が泥沼化することを予見して不拡大方針を唱え、トラウトマン工作にも関与したが、当時の関東軍参謀長・東條英機ら陸軍中枢と対立し、9月に参謀本部の機構改革では参謀本部から関東軍へ参謀副長として左遷された。

ふたたび関東軍へ・東條英機との確執

1940年に満洲国から贈られた勲一位柱国章(日本の勲一等瑞宝章に相当)の勲記

昭和12年(1937年)9月に関東軍参謀副長に任命されて10月には新京に着任する。翌年の春から参謀長の東條英機と満州国に関する戦略構想を巡って確執が深まり、石原と東條の不仲は決定的なものになっていった。石原は満州国を満州人自らに運営させることを重視してアジアの盟友を育てようと考えており、これを理解しない東條を「東條上等兵」と呼んで馬鹿呼ばわりにした。これには、東條は恩賜の軍刀を授かっていない(石原は授かっている)のも理由として挙げられる。以後、石原の東條への侮蔑は徹底したものとなり、「憲兵隊しか使えない女々しい奴」などと罵倒し、事ある毎に東條を無能呼ばわりしていく。

一方東條の側も石原と対立、特に石原が上官に対して無遠慮に自らの見解を述べることに不快感を持っていたため、石原の批判的な言動を「許すべからざるもの」と思っていた。
予備役編入

「東條英機#石原莞爾中将を予備役編入」も参照

石原は、昭和13年(1938年)6月に、病気を理由に関東軍参謀副長を辞任したいと申し出て、人事発令を待たずに内地に帰国して入院してしまう、という暴挙に出た[11]。石原は特に処分を受けずに同年12月に舞鶴要塞司令官に補され[11]、昭和14年(1939年)8月には陸軍中将に進級して第16師団長に親補された。太平洋戦争開戦前の昭和16年(1941年)3月に予備役へ編入された。これ以降は教育や評論・執筆活動、講演活動などに勤しむこととなる。

立命館大学国防学研究所長

立命館大学

石原が立命館総長・中川小十郎と関わりをもったのは舞鶴要塞司令官時代のことで、中川が舞鶴の官舎を訪れ、立命館日満高等工科学校設立への協力を要請したことがきっかけとなっている。京都師団長時代には立命館大学中川会館で東亜連盟に関する講演を行ったほか、昭和15年(1940年)9月には『世界最終戦論』初版が立命館出版部から刊行されている[12]。

予備役編入後の昭和16年(1941年)4月、石原は立命館大学に新設された国防学講座の講師として招待された。

日本の知識人が西洋の知識人と比べて軍事学知識が貧弱であり、政治学や経済学を教える大学には軍事学の講座が必要だと考えていた石原は、大学に文部省から圧力があるかもしれないと総長に確認したうえで承諾した。昭和16年の『立命館要覧』によれば国防学が軍人のものだという旧時代的な観念を清算して国民が国防の知識を得ることが急務というのが講座設置の理由であった。さらに国防論、戦争史、国防経済論などの科目と国防学研究所を設置し、この研究所所長に石原が就任した。講師には第一次世界大戦史の酒井鎬次中将、ナポレオン戦史の伊藤政之助少将、国体学の里見岸雄(田中智学の息子)などがいた。週に1回から2回程度の講義を担当し、たまに乗馬部の学生の課外教育を行い、余暇は読書で過ごした。

しかし東條による石原の監視活動が憲兵によって行われており、講義内容から石原宅の訪問客まで逐一憲兵隊本部に報告されている。大学への憲兵と特高警察の圧力が強まったために大学を辞職して講義の後任を里見に任せた。送別会が開かれ、総長等の見送りを受けて京都を去り、帰郷した。この年の講義をまとめた『国防政治論』を昭和17年(1942年)に聖紀書房から出版した。

評論・政治活動

太平洋戦争に対しては、「油が欲しいからとて戦争を始める奴があるか」と絶対不可である旨説いていたが、ついに受け入れられることはなかった。石原の事態打開の策は、奇しくも最後通牒といわれるハル・ノートとほぼ同様の内容であった。戦中、ガダルカナル島の戦いにおいて海軍大佐であった高松宮宣仁親王の求めに応じ、石原は、ガダルカナル島からの撤退、ソロモン、ビスマーク、ニューギニヤの放棄、サイパン、テニアン、グアムの要塞化と攻勢終末点(西はビルマ国境から、シンガポール、スマトラなどの戦略資源地帯を中心とする)及び東南アジアとの海上輸送路の確立をすることにより、不敗の態勢が可能である旨も語っている[13]。また、周りには中国人への全面的な謝罪と中華民国からの即時撤兵による東亜諸国との連携をも説き、中国東亜連盟の繆斌を通じ和平の道を探った。しかし、重光葵や米内光政の反対にあい、失敗した[注 2]。

独ソ戦に対しては、石原は、1941年10月当時から、ドイツは地形の異なるバルカン半島においても西部戦線と同一の戦法を採っており、また東部戦線においてもその戦法に何ら変化の跡が見られないことから、ドイツはソ連に勝てないと断言していた[14]。

『世界最終戦論』(後に『最終戦争論』と改題)を唱え、東亜連盟(日本、満州、中国の政治の独立(朝鮮は自治政府)、経済の一体化、国防の共同化の実現を目指したもの)構想を提案し、戦後の右翼思想にも影響を与える。一方で、熱心な日蓮主義者でもあり、最終戦論では戦争を正法流布の戦争と捉えていたことはあまり知られていない[15]。

最終戦争論とは、戦争自身が進化(戦争形態や武器等)してやがて絶滅する(絶対平和が到来する)という説である。その前提条件としていたのは、核兵器クラスの「一発で都市を壊滅させられる」武器と地球を無着陸で何回も周れるような兵器の存在を想定していた(1910年ごろの着想)。比喩として挙げられているのは織田信長で、鉄砲の存在が、日本を統一に導いたとしている。(検証不能)

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この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2021年5月)

東條英機の暗殺計画

東條英機を暗殺しようとした柔道家の牛島辰熊

昭和19年(1944年)6月、柔道家の牛島辰熊と津野田知重少佐は、東條英機首相暗殺を企てた[16]。共に東亜連盟で石原莞爾に師事していた。

津野田は、大本営参謀部三課の秘密文書を読み、予想以上の日本軍の惨敗ぶりに愕然とし、牛島辰熊に相談した。「このままでは国民は全滅だ」と悟った2人は、東條を退陣させて戦争を止めるために、皇族への「大東亜戦争現局に対する観察」という献策書を書き上げ、三笠宮、高松宮らを通じて直接天皇へ渡してもらうことにした。

2人は、献策書を持って石原が蟄居する山形県を訪ねた。石原は献策書を通読すると「一晩考えさせてくれ」と言って2人を泊まらせた。その献策書の欄外には、はっきりと「非常手段、万止むを得ざる時には東條を斬る」と書かれていたからである。次の日の朝6時、津野田と牛島を座敷に通した石原は、「今の状態では万事が手遅れだ」と言って赤鉛筆を取り、献策書末尾に「斬るに賛成」と書いた[17]。

石原の賛意を得た津野田と牛島は、勇んで東京に戻り、暗殺方法について話し合った。結果、習志野のガス学校で極秘開発されていた青酸ガス爆弾「茶瓶」を使い、牛島辰熊が実行することになった。 計画は、東條が乗っているオープンカーに向けて、皇居二重橋前の松の樹上から青酸ガス爆弾を投げ付けて東條を暗殺するというものであったが、内閣打倒までは賛同していた三笠宮崇仁親王に対して津野田が計画の細部を打ち明けたところ、東條の暗殺までは容認できなかった三笠宮が憲兵隊に通報した為に津野田と牛島は逮捕された。両名は軍法会議によって裁かれたが、結審が東條内閣崩壊後である1945年(昭和20年)3月であった為、津野田は陸軍から免官のうえ、禁固5年、執行猶予2年で釈放。牛島は不起訴。石原は軍法会議に召喚されて、始末書の提出のみで終わった(津野田事件)。
後年、作家の増田俊也は、著書『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』の中で、この時牛島は弟子の木村政彦を鉄砲玉(実行犯)として使おうとしていたと記した[18]。

戦後・東京裁判

1945年頃の石原莞爾

石原は極東国際軍事裁判においては戦犯の指名から外れた。東条英機との対立が有利に働いたとの見方もあるが、実際には開廷前の検事団によるA級被告選定の席で、戦犯指定された石原広一郎を石原莞爾と勘違いしたことが原因だった。事態に気づいた検事が慌てて入院中の石原莞爾に面接するが、「重態」のため調書が作れず、最終的に被告リストから外された[19]。

東京裁判には証人として山形県酒田の出張法廷に出廷し(これは病床の石原に尋問するために極東裁判所が特設したものである)、重ねて、満州事変は「支那軍の暴挙」に対する本庄関東軍司令官の命令による自衛行動であり、侵略ではないという持論を主張した[20]。酒田出張法廷に出廷するため、リヤカーに乗って酒田へ出かけたが、この時のリヤカーを引いていたのが曺寧柱と大山倍達だといわれている。

この出張法廷では、判事に歴史をどこまでさかのぼって戦争責任を問うかを尋ね、「およそ日清・日露戦争までさかのぼる」との回答に対し、「それなら、ペルリ(ペリー)をあの世から連れてきて、この法廷で裁けばよい。もともと日本は鎖国していて、朝鮮も満州も不要であった。日本に略奪的な帝国主義を教えたのはアメリカ等の国だ」との持論を披露した[21]。また、東條との確執についての質問には、「私には些細ながら思想がある。東條という人間には思想はまったくない。だから対立のしようがない」といい、ここでも東條の無能さをこきおろしたという。

実生活においては自ら政治や軍事の一線に関わることはなく、庄内の「西山農場」にて同志と共同生活を送った。

石原は東亜連盟を指導しながらマッカーサーやトルーマンらを批判。また、戦前の主張であった日米間で行われるとした「最終戦争論」を修正し、日本は日本国憲法第9条を武器として身に寸鉄を帯びず、米ソ間の争いを阻止し、最終戦争なしに世界が一つとなるべきとし、大アジア主義の観点から「我等は国共いづれが中国を支配するかを問わず、常にこれらと提携して東亜的指導原理の確立に努力すべきである」と主張した。

終戦間もない頃に、満洲事変では朝鮮軍-関東軍間の連絡将校を務めた元陸軍少将で大亜細亜協会幹部の金子定一が石原を訪問した際に、石原は自身を訪問してきたマッカーサーの側近に対して話したこととして「予は東條個人に恩怨なし、但し彼が戦争中言論抑圧を極度にしたるを悪む。これが日本を亡ぼした。後に来る者はこれに鑑むべきだ。又、日本の軍備撤廃は惜しくはない、次の時代は思いがけない軍備原子力武器が支配する」と語ったという[22]。

病で動けなくなっていた石原は、1946年東京飯田橋の東京逓信病院に入院していた。この際、東京裁判の検事から尋問を受けているが、終始毅然とした態度を崩さず検事の高圧的な態度に怒りをもって抗議し、相手を睨みつけたという。同席した米記者マーク・ゲインは「きびしく、めったに瞬きもせず、私たちを射抜くような眼」と評している[23]。

人物・逸話

人柄

石原は甘党で酒やタバコをたしなまず、菓子を食べながら議論や勉強をすることを好んでいた。ドイツ滞在中は、パーティーのときは羽織袴を着用し、普段は背広・コートを着用していた[24]。ライカのカメラを購入し、愛用していた。

東條英機の副官を務めた西浦進(陸士34期)は「石原さんはとにかく何でもかんでも反抗するし、投書ばかりしているし、何といっても無礼な下戸だった。軍人のくせに酒を飲まずに周りを冷たい眼で見ている、だから嫌われるのも当然だ」と評した[25]。しかしその反面、潜在的なカリスマがあったことも事実であり、多くの信奉者が存在した。辻政信や服部卓四郎、花谷正などは初対面のときから石原の存在感に圧倒され、生涯を通じての崇拝者になった[26]。

米国への敵意

田中智学の三男であり、ベルリン時代を共にすごした里見岸雄の回顧では、研究会で、ある大尉が「(ドイツ留学からの)帰途、米国に立ち寄られるか」と質問すると「俺が米国に行く時は日本の対米軍司令官として上陸する時だけだ」と息巻いたという[27][28]。国柱会入会直後、石原は「大正9年7月18日の夫人への手紙」で、白人を「悪鬼」と述べ、また「この地球上から撲滅しなければなりません」と憎悪をあらわにしている[29][30]。さらに「大正12年8月28日の夫人への手紙」では、ドイツで活動写真を見て「亜米利加物にて、排日宣伝のフィルム大いに癪に障り、大声にて亜米利加の悪口を話せば近所に居りし若干の独人大いに同意を表す」「何時かは一度たたいてやらざれば彼を救う能はざるなり」と述べている[30][31]。伊勢弘志は「日記には他にも悪化した感情が頻繁に確認される」として、国柱会入信前からの対米感情の悪化を指摘し、国柱会入信の動機の一つに「対米感情と排他的教義への共鳴があった」としている[30]。

日蓮主義

石原が田中智学の国柱会に入会したのは1920年の会津時代であり「兵にいかにして国体を叩きこむか」に悩んで、この時期、天皇主権を唱える筧克彦の『古神道大義』を読んだり、神道、キリスト教、仏教などを研究したが「ついに日蓮に到達」し、国体と日蓮主義の同一性を説く国柱会に入会した[32][33]。田中智学は日露戦争の際に「日蓮主義は日本主義なり」と戦勝祈願し、以来国柱会は「日本は特別な価値ある国」として『日本書紀』と『妙法蓮華経』(法華経)が同一であるとしており、入信の動機もその国体論にあるが[34]、伊勢弘志は、入会動機は教えより予言であり、対米悪感情と排他的教義への共鳴だとも考察している[35]。

しかし中央幼年学校時代の親友飯沼守は幼年学校当時から田中智学や法華経に関心を持ちそれらを飯沼氏や樋口李一郎(後の北部軍司令)にも薦めていたと語っておりまた同時期に海軍大学校の佐藤鉄太郎に国防論を学びに行っている。

佐藤は智学と並び日蓮主義を広めた顕本法華宗管長の本多日生の門人であった。

それらの幼年学校時代における影響も国柱会入信の要因であったと思われる。

幼少期・幼年学校・士官学校

幼少の頃からその秀才ぶりと奇抜な行動がエピソードとして残っている[3][36]。明治28年(1895年)、子守のため姉二人が石原を学校に連れて行ったところ教室で暴れた。矢口校長が石原に試験をやらせてみると1年生では1番の成績であったため、1年間自宅で準備学習していたという名目で同年に2年生に編入することとなった。

仙台幼年学校では総員51人中最高の成績であり、代数学・植物学・ドイツ語が特に高得点であり、3年間第二位を大きく引き離して一番の成績を維持した。当時、将校には写生の技能が必要であり、授業があった。同期生一同がこれに困っていると、石原は自分の男根を写生し、「便所ニテ毎週ノ題材ニ苦シミ我ガ宝ヲ写生ス」と記して提出し、物議を醸して石原退学まで検討されたと言われている。しかし、石原の仙台幼年学校時代からの同期である横山臣平の著書「秘録 石原莞爾」によると、「たいした問題にはならず、亘理図画教官が、石原を叱責し教頭へ報告したかもしれないが退学まで検討されたというのは誇張された噂話である」と否定している。

石原は学校の勉強よりも戦史、政治、哲学などの文献を読み、夏休みも帰省せずに勉強した。これは両親、特に父親との関係が不仲であったことが理由とされている。

陸軍士官学校でも軍事学よりも歴史学や哲学の勉強に励んだ。一方で軍事雑誌をよく読んで興味深い戦術問題が掲載されると答案を送り、次回に示される講評や出題者意見を興味深く読んでいた。

陸軍大学校に関して

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出典検索?: “石原莞爾” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年9月)

歩兵第65連隊から一人も陸大に入校した者がおらず不名誉だとして、陸士成績が最優秀だったために石原を受験させることが本人の意思とは関係なく決められた。石原は一日中部隊勤務に励んでおり、試験勉強期間に入ってからも勉強できなかった。5日間の試験期間中も試験の解答を提出して、受験会場となった駐屯地の部隊の訓練を見学した。連隊からは石原だけが合格した。

陸大入試の口頭試問で「機関銃の有効な使用法」を聞かれ、「飛行機に装備して敵の縦隊を射撃する」と解答した。更にその詳細については黒板に図を書いて「酔っぱらいが歩きながら小便をするように連続射撃する」と答えた当時、機関銃を飛行機に装備する着想はまだなかった[要出典]。

陸大では他兵科の運用についても学習するため夏休みには他兵科部隊勤務が実施された。その一環で砲車を車庫から出してこれを編成して行軍し、陣地に侵入するために砲列で射撃し、また車庫に収めるまでの行動を一人ずつ試験された。学生は複雑な号令で指揮することになるが、最後の番であった石原は指揮官の定位置について指揮刀を抜刀し、「いつも通りにやれ」と命令した。

陸大学生時代は成績は、2位であった。これについては冬でも薄汚れた夏服を着用する石原を天皇の前で講演させることに抵抗があったという説や、石原の講演内容について大学の注文を石原が拒否したためという説、朝敵であった庄内藩出身であったためという説がある。

連隊長・師団長として

歩兵第4連隊(第2師団所属。本拠地は仙台)長に就任すると、貧しい東北出身の兵が満期除隊後に生活の一助となるよう、厩舎でアンゴラウサギの飼育を教え、除隊する兵に土産として持たせた。また内務班の私的制裁を撲滅するために、同じ出身地同士の兵を中隊に集めた。連隊長自身が、兵食を食べて食事内容と味の向上を図り、浴場に循環式の洗浄装置を設置して清潔なお湯を供給し、酒保を改善するなど、兵士の生活改善に尽力したといわれる。

連隊長時代、二年兵が満期除隊を迎えるのを見送っていた。ある年、羽織袴姿で並ぶ満期兵を前にして、かつての中隊長が長々と訓示をしていると突然、にわか雨が降り出したが、中隊長は訓示を止めない。その時、石原は「中隊長の馬鹿野郎、紋付きは借り物であるぞ!」と怒鳴り、訓示を中止させた[37]。

石原が京都第16師団長の頃には、形式的な儀礼や行事を省略していった。特に陸軍記念日の際には、通常は閲兵式・分列行進で3時間かかる式典であったが、石原は指揮官一人とともに馬を駆け足で各部隊の前面を走って閲兵を済ませ、「解散」と述べて引き揚げてしまった。通常は3時間の式典が5分程で終わり、将校や見物人はあっけにとられたが、末端の兵士達は早く帰営し外出できるため大喜びだったという[38]。

上官に対して

自分の意見は、たとえそれが上司であっても大声で直言したと伝えられる。言われた側もその意見に従わざるを得ない不思議な気迫と雰囲気を持っていたという[39]。

石原は東條英機を嫌っていたが、東條が属する統制派と対立関係にあった真崎甚三郎も毛嫌いしていた。石原が満州から参謀本部への転勤を命じられたとき、真崎甚三郎が「君は素晴らしい逸材だ。君の新しい部署を決めるのに三月もかかったのだ」と褒めちぎった。真崎が自身を満州国から引き離す黒幕と気づいていた石原は、「陸軍の人事は私の関知するところではありません」と握手を拒み、その後も真崎の酒席の誘いを拒むなど徹底的に嫌った。

二・二六事件のとき、石原は東京警備司令部の一員でいた。そこに荒木貞夫がやって来たとき、石原は「ばか!お前みたいなばかな大将がいるからこんなことになるんだ」と怒鳴りつけた。荒木は「なにを無礼な!上官に向かってばかとは軍規上許せん!」とえらい剣幕になり、石原は「反乱が起こっていて、どこに軍規があるんだ」とさらに言い返した。そこに居合わせた安井藤治東京警備参謀長がまぁまぁと間に入り、その場をなんとかおさめたという[40][41]。同じく石原が嫌う真崎甚三郎には「お体はもうよいのですか。お体の悪い人がエライ早いご出勤ですね、ここまで来たのも自業自得ですよ」と皮肉を交えて話しかけており、真崎は「朝呼ばれたのだから、まあ何とか早く纏めなければいかぬ」と答えている。

上層部や上官の多くに対して嫌悪感と敵対心を顕わにした石原だが、阿南惟幾は陸大同期生で数少ない別格であり「阿南さんが言うなら……」とその指示に素直に従ったという。
終戦時にはご聖断を知人から聞かされると、まずは阿南の身を案じて「阿南の気持ちは俺がよく知っている。きっと阿南は死ぬだろう。すぐに使いを出すが、果たして間に合うか……」とその知人に話している。東条内閣が倒れて、次の総理大臣となった小磯から陸軍大臣についての意見を求められた石原は「阿南のほかに人無し」と推薦したこともあった。

民間人の扱い

柳条湖事件の際、関東軍の長春守備連隊は関東軍司令部の命令でわずか50人ほどの守備兵を残して総出で奉天に向かおうとした。奉天が早期に制圧されたため実際に出動することはなかったが、長春郊外には数千人規模の中国軍が存在しており、出動していれば居留民は非常な危険にさらされたろう。後でこの事を知った長春居留民は憤慨し長春居留民会役員の小沢開作(音楽家小沢征爾の父)は「居留民を犠牲にするつもりだったのか」と関東軍幹部に詰め寄ったが、石原莞爾は「皮を切らせて骨を断つ戦法だ」と答え平然としていた[42]。

技術に対しての軽視

昭和11年(1936年)8月、閑院宮春仁王が陸軍大学校の研究部主事となり、昭和10年に開発されたディーゼルエンジン搭載の「八九式中戦車」の機動兵団の運用について、参謀本部や石原に意見を聞いた。しかし参謀たちはおろか、石原も大局的な国防論は話しても、戦車をどう使っていくかという戦略的な技術についてはなにひとつ聞けなかった。現場の技術者および新しい技術を軽視する立場は他の参謀たちと変わらなかった。[要出典]

戦犯自称の真相

よく東京裁判の法廷において「軍の満州国立案者にしても皆自分である。それなのに自分を、戦犯として連行しないのは腑に落ちない」「満州事変の責任は自分にある。私を裁け」[43] と述べたと書かれることが多いが、実際には『石原莞爾宣誓供述書』によると「満州建国は右軍事的見解とは別個に、東北新政治革命の所産として、東北軍閥崩壊ののちに創建されたもので、わが軍事行動は契機とはなりましたが、断じて建国を目的とし、もしくはこれを手段として行ったのではなかったのであります」と満州事変と満州国建国について、自分が意図したのではないと述べ、自らが戦犯とされるのを避けるとともに、板垣・土肥原の弁護に繋がる発言をしていた。

東亜連盟

東亜連盟は日本人のみならず、中国人や朝鮮人からも多くの支持者がおり、東亜連盟等を通じて石原莞爾に師事したものに

福島清三郎(柔道家、建国大学教授、武術専門学校師範。東亜連盟のサロンとして機能した義方会道場において後述の牛島、大山、曹の師にあたる人物であった)
牛島辰熊(全日本2連覇の柔道家で、柔道史上最強といわれる木村政彦の師匠)
曺寧柱(在日本大韓民国民団会長、剛柔流空手道師範、大山倍達の師匠)
大山倍達(空手家。極真会館創設者)
武田邦太郎(農政と平和研究所所長、参議院議員)
里見岸雄(法学者、思想家、日本国体学研究者)
橘樸(ジャーナリスト・中国研究家、中国社会研究の先駆者)
木村武雄(政治家、建設大臣)
小澤開作(歯科医師、大陸浪人、指揮者小澤征爾の父、ミュージシャン小沢健二の祖父)
辻政信(陸軍参謀、衆議院議員、参議院議員)

等がいる。

年譜

明治22年(1889年)1月18日 - 生誕。
明治28年(1895年) - 温海尋常高等小学校尋常科に2年に編入。
明治30年(1897年) - 狩川尋常高等小学校尋常科4年に転入。
明治31年(1898年) - 狩川尋常高等小学校高等科1年に入学。
明治32年(1899年) - 藤島高等小学校2年に転入。
明治33年(1900年) - 鶴岡朝暘高等小学校3年に転入。
明治34年(1901年) - 山形県立荘内中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)に入学するも同年に中退。
明治35年(1902年)9月 - 仙台陸軍地方幼年学校に入校(第6期)。
明治38年(1905年)9月 - 東京陸軍中央幼年学校に入校。
明治39年(1906年) - 慢性胃カタルに罹る。
明治40年(1907年)
    5月 - 中央幼年学校を卒業(第6期)。
    6月 - 士官候補生として山形歩兵第32連隊附。入営中に胃腸病で自宅療養。
    10月 - 秋季演習で分隊長を務め、その後軍曹に昇進。
    12月 - 陸軍士官学校に入校。
明治42年(1909年)
    5月27日 - 陸軍士官学校を卒業(第21期)。
    12月25日 - 陸軍歩兵少尉・若松歩兵第65連隊附
明治43年(1910年)4月 - 韓国守備のため春川に駐屯。6月には漢城へ移動。
明治45年(1912年)4月 - 朝鮮から帰国。第4中隊付
大正2年(1913年)2月 - 陸軍歩兵中尉に進級。
大正4年(1915年)11月 - 陸軍大学校に入校。
大正5年(1917年)7月 - 清水泰子と結婚するも9月に離婚。
大正7年(1918年)11月 - 陸軍大学校卒業(第30期)。原隊復帰
大正8年(1919年)
    4月 - 陸軍歩兵大尉・歩兵第65連隊中隊長
    7月 - 教育総監部附勤務
    8月 - 国府銻子と結婚。
大正9年(1920年)
    4月 - 中支那派遣隊司令部附。国柱会会員となる。
    5月 - 漢口に着任する。
大正10年(1921年)
    5月 - 帰国
    7月 - 陸軍大学校兵学教官に任命。
大正11年(1922年)
    8月 - 陸軍大学校附仰付(ドイツへ出張)
    9月 - ドイツ駐在
大正12年(1923年)2月 - ベルリンに到着。
大正13年(1924年)8月 - 陸軍歩兵少佐
大正14年(1925年)10月 - 陸軍大学校教官になり、古戦史を担当。
昭和3年(1928年)
    1月19日 - 木曜会の会合で「全支那を根拠として遺憾なく之を利用せば、20年でも30年でも戦争を続けられる」という構想を語る
    8月 - 陸軍歩兵中佐
    5月 - 中耳炎が悪化して軍医学校付属病院に入院し、7月に退院。
    10月10日 - 関東軍の作戦主任参謀。
昭和6年(1931年)
    9月18日 - 満州事変勃発。東北三省の制圧を指揮。
    10月5日 - 関東軍作戦課長
    10月8日 - 司令機に搭乗して錦州爆撃を指揮。
    11月4日 - 馬占山軍との戦闘で作戦指導。
昭和7年(1932年)8月8日 - 陸軍歩兵大佐。陸軍兵器本廠附(ジュネーブ会議随員)。欧州滞在中に血尿悪化。
昭和8年(1933年)
    8月1日 - 仙台の歩兵第4連隊長となる。
    10月 - 膀胱内の乳頭腫摘出のため入院。
昭和10年(1935年)8月1日 - 参謀本部作戦課長となる。
昭和11年(1936年) - 二・二六事件で戒厳司令部参謀兼務で処理に当たる。
    6月19日 - 参謀本部戦争指導課長
昭和12年(1937年)
    1月7日 - 参謀本部第1部長心得
    3月1日 - 陸軍少将。参謀本部第1部長
    盧溝橋事件に際して、不拡大方針を唱え9月27日関東軍参謀副長に転出。
昭和13年(1938年)
    8月18日 - 兼満州国在勤帝国大使館附陸軍武官。満州支配方式について関東軍参謀長東條英機中将を批判し、罷免される。
    12月5日 - 舞鶴要塞司令官
昭和14年(1939年)
    8月1日 - 任陸軍中将・留守第16師団司令部附
    8月30日 - 第16師団長
昭和16年(1941年)
    3月1日 - 陸軍大臣東條英機により待命となる。
    3月31日 - 予備役編入。
    4月 - 立命館大学講師、国防学研究所所長に就任し、国防学を教える。
    9月 - 立命館大学講師を辞職。
昭和19年(1944年)
    11月 - 「怪文章事件」に関連して軍法会議に召喚される。
    12月 - 東條暗殺未遂事件に関連して軍法会議に召喚される。
昭和20年(1945年)8月15日 - 東久邇宮内閣組閣本部の近衛と緒方竹虎からの内閣顧問就任要請を断る。
昭和21年(1946年)
    1月 - 治療を受けるため上京。東京帝大病院に入院。
    2月 - 東京逓信病院に入院。
    3月 - 東京軍事裁判に関連して連合国検事による臨床尋問を受ける。
    4月 - 戦犯最終リストから除外される。
    8月 - 退院して帰郷。
    10月 - 山形県飽海郡高瀬村(現在、遊佐町)に転居。手術とワクチン投与を受ける。
昭和22年(1947年) - 鶴岡市の荘内病院で手術を受ける。
    5月1日-2日 - 東京裁判酒田出張法廷に証人として出廷。
昭和23年(1948年)1月 - 軍国主義者として公職追放される。
昭和24年(1949年)
    春 - 肺炎になり、肺水腫や膀胱癌などを併発。病状は悪化。
    8月15日 - 高瀬村の西山農場で死去[44]。墓所は山形県飽海郡遊佐町菅里に所在。

家族・親族

父は旧庄内藩士[注 3]、飯能警察署長の石原啓介。母は白井重遠の娘・カネイ。啓介とカネイは六男四女を儲け、莞爾は三男であるが長男の泉が生後二ヶ月で、二男の孫次が二週間で亡くなり、莞爾が事実上の長男である。四男の二郎(海軍兵学校44期)は海軍中佐となるが、1940年6月に航空機事故で殉職する[注 4]。 五男の三郎は一歳で亡くなり、六男の六郎は戦後莞爾と共に行動して昭和51年(1976年)まで西山農場で暮らした。長女の元は医者の家へ、二女の志んは軍人の家へ嫁ぎ、三女の豊、四女の貞は24歳で亡くなっている。

最初の妻・清水泰子は山形県の財産家の娘で、借財の多かった石原家がその財力を当てにして莞爾の陸軍大学在学中に本人に相談せずに結婚を決めてしまった。休暇で帰省中に結婚式は挙げたものの、泰子は東京に同行せず、2ヶ月で離婚している[48]。2番目の妻・国府テイ子は東京市士族出身。父は陸軍少佐だったという[49]。2人の妻との間に子供はいない[要出典]。

栄典

位階

1910年(明治43年)2月21日 - 正八位[50]
1913年(大正2年)4月21日 - 従七位[51]
1918年(大正7年)5月20日 - 正七位[52]
1923年(大正12年)7月31日 - 従六位[53]
1928年(昭和3年)9月1日 - 正六位[54]
1932年(昭和7年)9月1日 - 従五位[55]
1937年(昭和12年)5月1日 - 正五位[56]
1941年(昭和16年)4月26日 - 正四位

勲章等

1926年(大正15年)7月22日 - 勲五等瑞宝章[57]
1934年(昭和9年)4月29日 - 勲三等旭日中綬章・功三級金鵄勲章
1939年(昭和14年)10月26日 - 勲二等瑞宝章[58]
1942年(昭和17年)4月13日 - 勲一等瑞宝章[2]

本人著作・資料

著作は2000年元日、当時の著作権法に従って保護期間が終了し、パブリックドメインとなっている。

玉井禮一郎 編 『石原莞爾選集』たまいらぼ出版、1985-86。全10巻。
    玉井禮一郎 編 『石原莞爾選集(全10巻)合本版』たまいらぼ出版、1993年9月。ISBN 978-4886360632。
国防研究会 編 『戦術学要綱』たまいらぼ出版、1985年11月。ISBN 978-4886360342。
石原莞爾平和思想研究会 編 『人類後史への出発-石原莞爾戦後著作集』展転社、1996年6月。ISBN 978-4886561244。
野村乙二朗 編 『東亜聯盟期の石原莞爾資料』同成社、2007年4月。ISBN 978-4886213884。
『世界最終戦論』中央公論社〈中公文庫 BIBLIO 20世紀〉、2001年。ISBN 4122038987。
『戦争史大観』中公文庫、2002年。ISBN 4122040132。
    旧版『最終戦争論・戦争史大観』中公文庫、1993年7月
『世界最終戦争』(増訂版)毎日ワンズ、2011年4月。ISBN 978-4901622547。
『ヨーロッパ戦争史 決戦戦争と持久戦争』毎日ワンズ、2022年。ISBN 978-4909447203
中山隆志 編 『戦略論大系10 石原莞爾』芙蓉書房出版、2007年1月。ISBN 978-4829503874。
角田順 編 『石原莞爾資料 国防論策篇』原書房〈明治百年史叢書17〉、1967年5月。ISBN 978-4562001088。
角田順 編 『石原莞爾資料 戦争史論篇』原書房〈明治百年史叢書18〉、1968年7月。ISBN 978-4562001071。
『永久平和』石原莞爾平和思想研究会 編、全国書誌番号:00102755。

石原莞爾が登場する作品

ノンフィクション

『秘録東条英機暗殺計画』津野田忠重 著、河出書房新社、1991年、ISBN 4309472249。
『東條英機暗殺の夏』吉松安弘 著、新潮社、1984年、NCID BN00481108[注 5]。
『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』増田俊也 著、新潮社、2011年、ISBN 978-4103300717。

小説

『地ひらく 石原莞爾と昭和の夢』福田和也 著、2001年、ISBN 4163577807。
『英雄の魂 小説石原莞爾』阿部牧郎 著、祥伝社、2005年、ISBN 4396332335。
『夕陽将軍 小説・石原莞爾』杉森久秀 著、河出書房新社、1981年、ISBN 4309400175。
『馬賊戦記 小日向白朗と満洲』朽木寒三 著、番町書房、1966年、NCID BA60022424[注 6]。
『ねじの回転 FEBRUARY MOMENT』恩田陸 著、集英社、2002年、ISBN 4087745856。

漫画

『虹色のトロツキー』安彦良和
『龍-RON-』村上もとか
『ジパング』かわぐちかいじ
『国が燃える』本宮ひろ志
『木島日記』大塚英志原作、森美夏画
『昭和天皇物語』半藤一利原案、永福一成脚本、能條純一作画

映画

『戦争と人間』第1部・第2部(1970年・1971年、演:山内明)
『大日本帝国』(1982年、演:若山富三郎)
『226』 (1989年、演:渡瀬恒彦)
『落陽』(1992年、演:嵐圭史)
『グッド・バッド・ウィアード』(2008年、演:白竜)

テレビドラマ

『落日燃ゆ』(2009年、テレビ朝日、演:山田明郷)

アニメ

『閃光のナイトレイド』アニプレックス 』

東條英機

東條英機
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9F

『東條 英機(とうじょう ひでき、1884年(明治17年)12月30日[注釈 1] – 1948年(昭和23年)12月23日[1][2][3])は、日本の陸軍軍人、政治家。陸士17期・陸大27期。階級は陸軍大将。栄典は従二位勲一等功二級。岩手県出身[4][5][6][7]。

現在の百科事典や文科省検定教科書等では新字体で東条 英機と表記されることが多い[注釈 3]。

東條英教(陸軍中将)は父。東條かつ子は妻。東條輝雄(三菱自動車工業 社長・会長)・東條敏夫(空将補)は子。

陸軍次官、陸軍航空総監、陸軍大臣、参謀総長、内閣総理大臣(第40代)、内務大臣、外務大臣、文部大臣、商工大臣、軍需大臣を歴任した。第二次世界大戦後に極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)でA級戦犯となり、死刑判決を受けて処刑された。

永田鉄山死後、統制派の第一人者として陸軍を主導し、現役軍人のまま第40代内閣総理大臣に就任(東條内閣、在任期間は1941年(昭和16年)10月18日 – 1944年(昭和19年)7月18日)。在任中に太平洋戦争(1941年12月 – )が開戦した。

権力強化を志向し複数の大臣を兼任、1944年(昭和19年)2月からは慣例を破って陸軍大臣と参謀総長も兼任した。

日本降伏後に拳銃自殺を図るが、連合国軍による治療により一命を取り留める。

その後、連合国によって行われた東京裁判にて開戦の罪(A級)および殺人の罪(BC級)として起訴された。1948年(昭和23年)11月12日に絞首刑の判決が言い渡され、1948年(昭和23年)12月23日、巣鴨拘置所で死刑執行された。享年65(満64歳)。 』

『生涯

生い立ちと経歴

1884年(明治17年)12月30日[注釈 1]、東京府麹町区(現在の東京都千代田区)で生まれた。父は陸軍歩兵中尉(後に陸軍中将)東條英教、母は福岡県出身の徳永千歳。英機は三男であったが、長男と次男はすでに他界しており、実質「家督を継ぐ長男」として扱われた。

東條氏(安房東條氏)は安房長狭郡東條郷の土豪で[8]、江戸時代に宝生流ワキ方の能楽師として、北上して盛岡藩に仕えた家系である。英機の父英教は陸軍教導団の出身で、下士官から将校に累進して、さらに陸大の一期生を首席で卒業したが(同期に秋山好古など)、陸軍中将で予備役となった。俊才と目されながらも出世が遅れ、大将になれなかったことを、本人は長州閥に睨まれたことが原因と終生考えていたという。

陸軍歩兵将校となる

青年期の東條

番町小学校、四谷小学校、学習院初等科(1回落第)、青山小学校、城北尋常中學校(現:戸山高等学校))[5]、東京陸軍地方幼年学校(3期生)、陸軍中央幼年学校を経て陸軍士官学校に入校。

1905年(明治38年)3月に陸軍士官学校を卒業(17期生)し、同年4月21日に任陸軍歩兵少尉、補近衛歩兵第3連隊附。1907年(明治40年)12月21日には陸軍歩兵中尉に昇進する。

1909年(明治42年)、伊藤かつ子と結婚。

1910年(明治43年)、1911年(明治44年)と陸軍大学校(陸大)に挑戦して失敗。東條のために小畑敏四郎の家の二階で勉強会が開かれ、永田鉄山、岡村寧次が集まった[9]。同年に長男の英隆が誕生。

1912年(大正元年)に陸大に入学。

1913年(大正2年)に父の英教が死去。

1914年(大正3年)には二男の輝雄が誕生。

1915年(大正4年)に陸大を卒業、陸軍歩兵大尉に昇進。近衛歩兵第3連隊中隊長に就く。その後、陸軍省高級副官和田亀治歩兵大佐の引きで、陸軍兵器本廠附兼陸軍省副官となる。陸軍の諸法規等を記した厚冊『陸軍成規類聚』をすべて暗記したという有名なエピソードはこの頃の話である。「努力即権威」が座右の銘だった東條らしい逸話である。

1918年(大正7年)には長女が誕生、翌・1919年(大正8年)8月、駐在武官としてスイスに単身赴任。

1920年(大正9年)8月10日に陸軍歩兵少佐に昇任、1921年(大正10年)7月にはドイツに駐在[注釈 4]。同年10月27日に南ドイツの保養地バーデン=バーデンで永田・小畑・岡村が結んだ密約(バーデン=バーデンの密約)に参加。これ以前から永田や小畑らとは勉強会を通して親密になっていたという[11]。

1922年(大正11年)11月28日には陸軍大学校の教官に就任。 1923年(大正12年)10月5日には参謀本部員、同23日には陸軍歩兵学校研究部員となる(いずれも陸大教官との兼任)。同年に二女・満喜枝が誕生している。 1924年(大正13年)に陸軍歩兵中佐に昇進。 1925年(大正14年)に三男・敏夫が誕生。 1926年(大正15年)には陸軍大学校の兵学教官に就任。 1928年(昭和3年)3月8日には陸軍省整備局動員課長に就任、同年8月10日に陸軍歩兵大佐に昇進。

張作霖爆殺事件(1928年6月4日)の3か月前(3月1日)の木曜会の会合で、対露戦争を準備するべき旨を述べ、その目標として「満蒙ニ完全ナル政治的勢力ヲ確立スル事」を述べており、これに従って木曜会の結論も米国参加に備えながら「満蒙ニ完全ナル政治的勢力ヲ確立スル」としている[12]。陸軍少壮グループによって形成されていた木曜会は24期の石原莞爾、鈴木貞一、根本博や東條のボスであった永田鉄山、岡村寧次などが揃い、すでに世界恐慌の前に満蒙領有の方針が出されていたのであり、後に二葉会と合流し、武藤章、田中新一らも加わり一夕会が結成されている[13]。

歩兵第1連隊長を経て将官へ

1929年(昭和4年)8月1日には歩兵第1連隊長に就任。同年には三女が誕生。歩兵第1連隊長に補された東條は、連隊の将校全員の身上調書を取り寄せ、容貌・経歴・家庭環境などを暗記し、それから着任した[14]。陸大を受験する隊附の少尉・中尉には、隊務の負担を減らして受験勉強を助ける配慮をした[14]。

帝国陸軍において、陸軍大佐たる連隊長と兵卒の地位は隔絶しており、平時に兵卒が連隊長と話をすること、兵卒が連隊長を近くで見ることなどはありえず、儀式の時に100メートル以上離れて連隊長の姿を見るのがせいぜいであった[15]。内務班で新兵に対する陰惨な私的制裁が連日連夜にわたって加えられていたのは周知の事実であるが、それを太平洋戦争敗北に至るまで全く知らなかった高級将校が実在したほど、連隊長が部隊の実情を知らず、兵卒に対して無関心であることが当たり前であった[15]。

そのような風潮の中で、東條は部隊の実情を知るための具体的な行動を執り、兵卒を思いやる異色の連隊長であった。東條は、各中隊長に、兵卒として連隊に入営が予定されている者の家庭を事前に訪問して、家庭環境を把握するよう指示した[14]。連隊長たる東條が自ら内務班に入って兵卒一人一人から話を聞き、兵卒の食事に対しても気を配った[14]。こうした部下思いの東條は「人情連隊長」と呼ばれて好評であった[14]。

1931年(昭和6年)8月1日には参謀本部総務部第1課長(参謀本部総務部編成動員課長[5])に就任し[16]、翌年四女が誕生している。

この間、永田や小畑も帰国し、1927年(昭和2年)には二葉会を結成し、1929年(昭和4年)5月には二葉会と木曜会を統合した一夕会を結成している。東條は板垣征四郎や石原莞爾らと共に会の中心人物となり、同志と共に陸軍の人事刷新と満蒙問題解決に向けての計画を練ったという[11]。編成課長時代の国策研究会議(五課長会議)において満州問題解決方策大綱が完成している[17]。

1933年(昭和8年)3月18日に陸軍少将に昇進、同年8月1日に兵器本廠附軍事調査委員長、11月22日に陸軍省軍事調査部長に就く。1934年(昭和9年)8月1日には歩兵第24旅団長(久留米)に就任。

関東軍時代

1935年(昭和10年)9月21日には、大陸に渡り、関東憲兵隊司令官・関東局警務部長に就任[注釈 5]。このとき関東軍将校の中でコミンテルンの影響を受け活動を行っている者を多数検挙し、日本軍内の赤化を防止したという[19]。1936年(昭和11年)2月26日に二・二六事件が勃発したときは、関東軍内部での混乱を収束させ、皇道派の関係者の検挙に功があった[20]。同年12月1日に陸軍中将に昇進。

1937年(昭和12年)3月1日、板垣の後任の関東軍参謀長に就任する[注釈 6]。 参謀長になった東條は、溥儀に対して「東條は元来、性質素朴で言葉を飾ることを知りませぬ。お言葉通り、今後は何も思いつき次第現状致すことにいたします。陛下には水で火を消さねばならぬようなことがあるかもしれませぬ」と初めて会うなり言っている[21]。東條の言は、あなたは我々の傀儡だと言っているのに等しい内容であった。[要出典]

日中戦争(支那事変)が勃発すると、東條は察哈爾派遣兵団の兵団長として察哈爾作戦に参加した。チャハルおよび綏遠方面における察哈爾派遣兵団の成功は目覚しいものであったが、自ら参謀次長電で「東條兵団」と命名したその兵団は補給が間に合わず飢えに苦しむ連隊が続出したという[22]。

陸軍次官

第11代航空本部長(航空総監兼務)東條英機中将

1938年(昭和13年)5月、第1次近衛内閣の陸軍大臣・板垣征四郎の下で、陸軍次官、陸軍航空本部長に就く。次官着任にあたり赤松貞雄少佐の強引な引き抜きを人事局課長・額田坦に無理やり行わせる[23]。同年11月28日の軍人会館(現在の九段会館)での、陸軍管理事業主懇談会において「支那事変の解決が遅延するのは支那側に英米とソ連の支援があるからである。従って事変の根本解決のためには、今より北方に対してはソ連を、南方に対しては英米との戦争を決意し準備しなければならない」と発言し、「東條次官、二正面作戦の準備を強調」と新聞報道された。

板垣の下、参謀次長・多田駿、参謀本部総務部長・中島鉄蔵、陸軍省人事局長・飯沼守と対立し、板垣より退職を迫られるが、「多田次長の転出なくば絶対に退職願は出しませぬ」と抵抗。結果、多田は転出となり、同時に東條も新設された陸軍航空総監に補せられた[24]。

陸軍大臣

1940年、第2次近衛内閣の閣僚らと

1940年(昭和15年)7月22日から第2次近衛内閣、第3次近衛内閣の陸軍大臣を務めた(対満事務局総裁も兼任)。

近衛日記によると、支那派遣軍総司令部が「アメリカと妥協して事変の解決に真剣に取り組んで貰いたい」と見解を述べたが、東條の返答は「第一線の指揮官は、前方を向いていればよい。後方を向くべからず」だったという。

この頃、人造石油製造の開発失敗の報告を受けた際に、「(南方の石油資源の)物盗りへ日本が今後進まざるを得ず、陛下に対して申し開きできないではないか」と激怒した。

1941年(昭和16年)8月27・28日両日に首相官邸で開催された『第一回総力戦机上演習総合研究会』に近衛内閣の陸軍大臣として参加し、総力戦研究所より日米戦争は「日本必敗」との報告を受ける。

10月14日の閣議において日米衝突を回避しようと近衛文麿首相が「日米問題は難しいが、駐兵問題に色つやをつければ、成立の見込みがあると思う」と発言したのに対して東條は激怒し「撤兵問題は心臓だ。撤兵を何と考えるか」「譲歩に譲歩、譲歩を加えその上この基本をなす心臓まで譲る必要がありますか。これまで譲りそれが外交か、降伏です」と唱えたという。

しかし、イギリス(とオーストラリアやニュージーランド、英領インドなどイギリス連邦諸国)とアメリカ(とオランダ)という、日本に比べて資源も豊富で人口も多く、さらに明らかに工業力が大きい国家、それも複数と同時に開戦するという、暴挙とも言える政策に異を唱える者の声は益々小さくなっていった。さらに東條らが言うように、日本陸海軍に攻撃されたイギリスやアメリカが、その後簡単に停戦交渉に応じるという根拠はどこにもなかった。

これにより外交解決を見出せなくなったので近衛は翌々日に辞表を提出したとしている。辞表の中で近衛は「東條大将が対英米開戦の時期が来たと判断しており、その翻意を促すために四度に渡り懇談したが遂に説得出来ず輔弼の重責を全う出来ない」とし、第3次近衛内閣は総辞職した。

近衛は「戦争には自信がない。自信がある人がおやりなさい」と言っていたという。

首相就任

1941年(昭和16年)10月18日、総理大臣官邸での初閣議を終えた東條内閣の閣僚らと
1941年(昭和16年)10月18日、東條内閣の閣僚らと
東條英機と汪兆銘(汪兆銘政権)(1942年12月)

内大臣・木戸幸一は、独断で東條を後継首班に推挙し、昭和天皇の承認を取り付けてしまう。

この木戸の行動については今日なお様々な解釈があるが、対米開戦の最強硬派であった陸軍を抑えるのは東條しかなく、また東條は天皇の意向を絶対視する人物であったので、昭和天皇の意を汲んで「戦争回避にもっとも有効な首班だ」というふうに木戸が逆転的発想をしたととらえられることが多い。

木戸は後に「あの期に陸軍を押えられるとすれば、東條しかいない。宇垣一成の声もあったが、宇垣は私欲が多いうえ陸軍をまとめることなどできない。なにしろ現役でもない。東條は、お上への忠節ではいかなる軍人よりも抜きん出ているし、聖意を実行する逸材であることにかわりはなかった。…優諚を実行する内閣であらねばならなかった」と述べている[25]。

東條は皇居での首相任命の際、天皇から対米戦争回避に力を尽くすように直接指示される。

天皇への絶対忠信の持ち主の東條はそれまでの開戦派的姿勢を直ちに改め、外相に対米協調派の東郷茂徳を据え、一旦、帝国国策遂行要領を白紙に戻す。

さらに対米交渉最大の難問であった中国からの撤兵要求について、すぐにということではなく、中国国内の治安確保とともに長期的・段階的に撤兵するという趣旨の2つの妥協案を提示する方策を採った。またこれら妥協案においては、日独伊三国同盟の形骸化の可能性も匂わせており、日本側としてはかなりの譲歩であった。

東條率いる陸軍はかねてから中国からの撤兵という要求を頑としてはねつけており陸相時の東條は「撤兵問題は心臓だ。米国の主張にそのまま服したら支那事変の成果を壊滅するものだ。満州国をも危うくする。さらに朝鮮統治も危うくなる。支那事変は数十万人の戦死者、これに数倍する遺家族、数十万の負傷者、数百万の軍隊と一億国民が戦場や内地で苦しんでいる」「駐兵は心臓である。譲歩、譲歩、譲歩を加え、そのうえにこの基本をなす心臓まで譲る必要がありますか。これまで譲り、それが外交とは何か、降伏です」「支那に対して無賠償、非併合を声明しているのだから、せめて駐兵くらいは当然のことだ」[注釈 7]とまで述べていた。 しかし内閣組閣後の東條の態度・行動は、この陸相時の見解とは全く相違いしたもので、あくまで戦争回避を希望する昭和天皇の意思の実現に全力を尽くそうとした。

しかし、日本政府側の提案はフランクリン・ルーズベルト政権には到底受け入れられず、組閣から約40日後には崩れ去ってしまう。 これによって東條内閣は交渉継続を最終的に断念し、対米開戦を決意するに至る。

また後述のように、開戦日の未明、首相官邸の自室で一人皇居に向かい号泣しながら天皇に詫びている。こうして東條とその内閣は、戦時下の戦争指導と計画に取り組む段階を迎える。

現在ではごく普通になっている衆議院本会議での首相や閣僚の演説の、映像での院内撮影を初めて許可したのは、就任直後の東條である。1941年(昭和16年)11月18日に封切られた日本ニュース第76号「東條首相施政演説」がそれである。

東條は同盟国であるナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラーのやり方を真似て自身のやり方にも取り入れたとされている。東條自身は、極東国際軍事裁判で本質的に全く違うと述べているが、東條自身が作成したメモ帳とスクラップブックである「外交・政治関係重要事項切抜帖」によればヒトラーを研究しその手法を取り入れていたことが分かる。

また東條は組閣の際に自らの幕僚を組閣本部に参加させないなど、軍事と政治の分離を図る考えを持っていた[26]。これは軍事と政治が相互に介入を行うことを忌避する考えによるものであった[26]。

東條は首相就任に際して大将に昇進しているが、これは内規を変更して行ったものである[注釈 8]。

太平洋戦争

開戦

『寫眞週報』第二百四十九號(1942年12月2日)

1941年(昭和16年)12月8日、日本はイギリスとの間で太平洋戦争に突入し、間もなくアメリカとの間にも戦いを開始した。マレー作戦と真珠湾攻撃を成功させた日本軍はその後連合国軍に対して勝利を重ね、アジア太平洋圏内のみならず、インド洋やアフリカ沿岸、アメリカ本土やオーストラリアまでその作戦区域を拡大し、影響圏を拡大させた。なお、開戦4日後の12月12日の閣議決定において、すでに戦闘中であった支那事変(日中戦争)も含めて、対連合国の戦争の呼称を「大東亜戦争」とするとされた。

この時の東條はきわめて冷静で、天皇へ戦況報告を真っ先に指示し、また敵国となった駐日の英米大使館への処置に関して、監視は行うが衣食住などの配慮には最善を尽くす上、「何かご希望があれば、遠慮なく申し出でられたし」と相手に配慮した伝言を送っている。しかし8日夜の総理官邸での食事会を兼ねた打ち合わせの際には、上機嫌で「今回の戦果は物と訓練と精神力との総合した力が発揮した賜物である」、「予想以上だったね。いよいよルーズベルトも失脚だね」などと発言し、緒戦の勝利に興奮している面もないわけではなかった[27]。同じ8日夜には、日本放送協会ラジオを通じて国民に向け、開戦の決意を「大詔を拝し奉りて」という演題で表明した。

開戦時に内務大臣を兼任していた東條は、12月8日の開戦の翌日早朝を期して、被疑事件の検挙216(このうち令状執行154)、予防検束150、予防拘禁30(このうち令状執行13)の合計396人の身柄を一方的に拘束した。[28]。これは2.26事件のときにも同様に満州国において関東軍憲兵隊司令官として皇道派の軍人の拘束や反関東軍の民間人の逮捕、監禁などの処置を行った経験に基づくものだと保阪正康は推察している。

海軍による真珠湾攻撃と東條首相

連合国は「東京裁判(極東国際軍事裁判)でハワイへの攻撃は東條の指示」だったとし、その罪で処刑した(罪状:ハワイの軍港、真珠湾を不法攻撃、米国軍隊と一般人を殺害した罪)が実際には、東條首相(当時)が、日本時間1941年(昭和16年)12月8日にマレー作戦に続いて行われた真珠湾攻撃の立案・実行を指示したわけではない。開戦直前の東條は首相(兼陸軍大臣)ではあっても、統帥部の方針に容喙する権限は持たなかった。東條が戦争指導者と呼ぶにふさわしい権限を掌握したのは、1944年2月に参謀総長を兼任して以降である。

小室直樹は栗林忠道に関する著書の中で、東條は海軍がハワイの真珠湾を攻撃する事を事前に「知らなかった」としている[29]が、1941年(昭和16年)8月に海軍より開戦劈頭に戦力差を埋めるための真珠湾攻撃を研究中と内密に伝達され[30]、11月3日には海軍軍令部総長・永野修身と陸軍参謀総長・杉山元が昭和天皇に陸海両軍の作戦内容を上奏するため列立して読み上げた[31]。ハワイ奇襲実施についてもこのときに遅くとも正式な作戦として陸軍側に伝わっており、東條自身、参謀本部作戦課に知らされている[32][33]。また、11月30日には天皇よりハワイ作戦の損害予想について下問されており[注釈 9]、「知らなかった」とするのは正確ではない。

しかし、そもそも東條自身が東京裁判において、開戦1週間前の12月1日の御前会議によって知っていたと証言している[35]とおり、海軍の作戦スケジュール詳細は開戦1週間前に知った状況である。開戦時の東條は、政府の最高責任者の地位にはあっても海軍と統帥部を管轄する権限は持たず、海軍による真珠湾攻撃や外務省による開戦通知の遅延は東條の責任に帰することはできないものであった[36]。

戦局の行き詰まり・東條首相罵倒事件・求心力の低下

岸信介商工相と東條英機首相(1943年)

緒戦の日本軍の快進撃も、日本軍が予想を上回るスピードで勝ち進んだ結果、占領地域が東南アジア一帯に伸びたばかりか、戦線が国力を超えるアメリカ本土沿岸からアフリカ沿岸、オーストラリアにまで伸びたことや、ミッドウェイ海戦の敗北によりその勢いは陰りを見せ始める。さらに1943年に入るとヨーロッパ、アフリカ戦線ではドイツ国防軍が完全に劣勢に回り、さらにイタリア王国が連合国に対して降伏するなど、やがて大戦末期には日本は1国でイギリスやアメリカ、オーストラリアやニュージーランドをはじめとする複数の連合国に対峙することを余儀なくされた。

参謀本部は戦局を打開するため、オーストラリアを孤立化させる目的のFS作戦等を考案し、ガダルカナル島を確保するべく海軍はこの付近に大兵力を投入する作戦に出た。陸軍にも応援を要請しておこなわれた過去3度にわたる島争奪作戦はいずれも失敗する。多くの海戦がおこなわれ、第一次ソロモン海戦や南太平洋海戦などでは日本側はアメリカ軍やオーストラリア軍の多くの軍艦を撃沈撃破した。しかし日本側の損害も少なくなく、とくに日本側の陸軍輸送船団はガダルカナル到着以前にその多くが撃沈され、輸送作戦のほとんどが失敗に終わった。このためガダルカナル方面の日本軍地上部隊は極度の食糧不足と弾薬不足に陥り、作戦どころの話ではなくなってしまった。しかし参謀本部は海軍と連携してさらなる大兵力をガダルカナルへ送り込もうと計画する[37]。参謀本部は民間輸送船を大幅に割くことを政府に要求するが東條はそれを拒否する。元々東條はガダルカナル方面の作戦には補給の不安などから反対であった。過去に投入した輸送船団は援護が少ないこともあり輸送作戦の成功の可能性は少なく、また参謀本部の要求を通すと国内の軍事生産や国民生活が維持できなくなるためである。

東條の反対に怒った参謀本部作戦部長・田中新一は閣議待合室で12月5日、東條の見解を主張する陸軍軍務局長・佐藤賢了と討論の末とうとう殴り合いになった。さらに田中は翌日、首相官邸に直談判に出向いて激論を展開、東條ら政府側に向かって「馬鹿野郎」と暴言を吐いた。東條は冷静に「何をいいますか。統帥の根本は服従にある。しかるにその根源たる統帥部の重責にある者として、自己の職責に忠実なことは結構だが、もう少し慎まねば」と穏やかに諭した。これを受け参謀本部は田中に辞表を書かせ南方軍司令部に転属させたが、代わりにガダルカナル方面作戦の予算・増船を政府側に認めさせた。しかしガダルカナル作戦はさらに行き詰まり、1943年(昭和18年)2月にはガ島撤退が確定する。

その後も日本軍は海戦においてアメリカ軍やイギリス軍、オーストラリア軍に勝利を重ね、さらにオーストラリアへの空襲を続けるなど各地で連合国軍に対して優勢に戦いを進めたものの、ニューギニア方面に陸軍の輸送船団が送られたがその多くが連合国軍に撃沈され、南方方面の日本軍はこの年の末には各地で補給不足に陥ることになった。また緒戦の敗北で多くの船舶や航空機を失ったアメリカは、これを補うための軍事生産力の大拡充計画をスタートさせ、同年の中頃にはこの結果が出てくることになった。これにアジア太平洋地域に展開していたイギリスやオーストラリア、ニュージーランドや中華民国の軍事力を合わせると日本と連合国軍の軍事力に明らかな開きが現れ始めた。

1943年(昭和18年)と1944年(昭和19年)を通して日本が鉄鋼材生産628万トン、航空機生産44,873機、新規就役空母が正規空母5隻・軽空母(護衛空母)4隻だったのに対し、アメリカは鉄鋼生産1億6,800万トン、航空機生産182,216機、新規就役空母は正規空母14隻、軽空母65隻に達した。加えてレンドリースによって他の連合国にも大量の兵器・物資を供給していた。また技術面でもF6Fやヨーロッパ戦線で活躍していたP47が登場し、1944年に入るとイギリス製のエンジンを搭載したP51などの新戦闘機がアメリカ側に登場、また戦前に軽視していた電子戦分野でその差は顕著に現れ、レーダー、ソナー、VT信管などの開発においてもイギリスやアメリカが格段に優位をみせていく[38]。これらの状況を受け、開戦から2年間を経た1944年に入ると、各地での日本軍と連合国軍の攻勢は完全に逆転することになる。

このように、日本軍が各方面で次第に押され始めた1943年8月頃から、東條の戦争指導力を疑問視する見解が各方面に強くなり始め、後述の中野正剛らによる内閣倒閣運動なども起きたが、東條は憲兵隊の力でもってこれら反対運動を押さえつけた(中野正剛事件)。
大東亜会議主催

大東亜会議に参加した各国首脳。左からバー・モウ、張景恵、汪兆銘、東條英機、ナラーティップポンプラパン、ホセ・ラウレル、スバス・チャンドラ・ボース。

1943年6月10日、スバス・チャンドラ・ボースと

視察に訪れた陸軍大将東條英機(中央)に対し、出迎えの陸軍将校・陸軍軍属高等官一同(手前列)が「敬礼」を行う姿。陸軍大将(東條)はその「敬礼」に対し「答礼」を行っている。マニラ(フィリピン)、1943年。

日本軍の優勢が揺らぎ始める中、東條は戦争の大義名分を確保するため、外相・重光葵の提案を元に1943年(昭和18年)11月、大東亜会議を東京で開催し、同盟国のタイ王国や満洲国、中華民国(汪兆銘政府)に併せて、イギリスやアメリカ、オランダなどの白人国家の宗主国を放逐した日本の協力を受けて独立したアジア各国、そして日本の占領下で独立準備中の各国政府首脳を召集、連合国の「大西洋憲章」に対抗して「大東亜共同宣言」を採択し、欧米の植民地支配を打倒したアジアの有色人種による政治的連合を謳い上げた。
旧オランダ領でまだ独立準備中にあったインドネシア代表の不参加などの不手際もあったが、外務省や陸海軍関係者のみならず、当時日本に在住していたインド独立運動活動家のA.M.ナイルなど国内外から幅広い協力を受けて会議は成功し、各国代表からは会議を緻密に主導した東條を評価する声が多く、今なおこのときの東條の功績を高く評価している国も存在する[要出典]。『大東亜会議の真実』(PHP新書)の著者深田祐介は係る肯定的な評価を挙げる一方、念には念を入れマイクロマネジメントを行う東條を「準備魔」と表現している。

東條は会議開催に先立って、1943年(昭和18年)3月に満州国と中華民国汪兆銘政府[39]、5月にフィリピン、6〜7月にかけてタイ、昭南島(シンガポール)、クチン(サラワク王国)、インドネシアなどの友好国や占領地を歴訪している[40]。

また会議の開催に先立つ1942年(昭和17年)9月に、東條は占領地の大東亜圏内の各国家の外交について「既成観念の外交は対立せる国家を対象とするものにして、外交の二元化は大東亜地域内には成立せず。我国を指導者とする所の外交あるのみ」と答弁しているが、この会議の成功を見た東條は戦後「東條英機宣誓供述書」の中で、「大東亜の新秩序というのもこれは関係国の共存共栄、自主独立の基礎の上に立つものでありまして、その後の我国と東亜各国との条約においても、いずれも領土および主権の尊重を規定しております。また、条約にいう指導的地位というのは先達者または案内者またはイニシアチーブを持つ者という意味でありまして、他国を隷属関係におくという意味ではありません」と述べている。

三職の兼任

大東亜会議が開催された1943年(昭和18年)11月にタラワ島が陥落、1944年(昭和19年)1月には重要拠点だったクェゼリンにアメリカ軍が上陸、まもなく陥落した。また1944年に入ると、戦力を数的・技術的にも格段に増強したアメリカ海軍機動艦隊やオーストラリア、ニュージーランド海軍艦艇が太平洋の各所に出現し日本側基地や輸送艦隊に激しい空爆を加えるようになった他、ビルマ戦線やインド洋においてもイギリス軍の活動が活発化してきた。

戦局がますます不利になる中、統帥部は「戦時統帥権独立」を盾に、重要情報を政府になかなか報告せず、また民間生活を圧迫する軍事徴用船舶増強などの要求を一方的に出しては東條を悩ませた。1943年(昭和18年)8月11日付の東條自身のメモには、無理な要求と官僚主体の政治などからくるさまざまな弊害を「根深キモノアルト」と嘆き、「統帥ノ独立ニ立篭り、又之ニテ籍口シテ、陸軍大将タル職権ヲカカワラズ、之ニテ対シ積極的ナル行為ヲ取リ得ズ、国家ノ重大案件モ戦時即応ノ処断ヲ取リ得ザルコトハ、共に現下ノ最大難事ナリ」[41]と統帥部への不満を述べるなど、統帥一元化は深刻な懸案になっていく。
1944年(昭和19年)2月17日、18日にオーストラリア海軍の支援を受けたアメリカ機動艦隊が大挙してトラック島に来襲し、太平洋戦域最大の日本海軍基地を無力化してしまった(トラック島空襲)。これを知り、東條はついに陸軍参謀総長兼任を決意し[42]、2月19日に、内大臣・木戸幸一に対し「陸海軍の統帥を一元化して強化するため、陸軍参謀総長を自分が、海軍軍令部総長を嶋田海相が兼任する」と言い天皇に上奏した。天皇からの「統帥権の確立に影響はないか」との問いに「政治と統帥は区別するので弊害はありません」と奉答[43]。2月21日には、国務と統帥の一致・強化を唱えて杉山元に総長勇退を求め、自ら参謀総長に就任する。参謀総長を辞めることとなった杉山は、これに先立つ20日に麹町の官邸に第1部〜第3部の部長たちを集め、19日夜の三長官会議において「山田教育総監が、今東條に辞められては戦争遂行ができない、と言うので、我輩もやむなく同意した」と辞職の理由を明かした[44][45]。海軍軍令部総長の永野修身も辞任要求に抵抗したが、海軍の長老格・伏見宮博恭王の意向もあって最後は折れ、海相・嶋田繁太郎が総長を兼任することになった[46](そのため東條も嶋田も軍服姿の時には、状況に応じて参謀飾緒を付けたり外したりしていた)。2月28日には裁判官たちに戦争遂行に障害を与えるなら非常手段を取る旨の演説をした東條演説事件が発生している。

行政権の責任者である首相、陸軍軍政の長である陸軍大臣、軍令の長である参謀総長の三職を兼任したこと(および嶋田の海軍大臣と軍令部総長の兼任)は、天皇の統帥権に抵触するおそれがあるとして厳しい批判を受けた。統帥権独立のロジックによりその政治的影響力を昭和初期から拡大してきた陸海軍からの批判はもとより、右翼勢力までもが「天皇の権限を侵す東條幕府」として東條を激しく敵視するようになり、東條内閣に対しての評判はさらに低下した。この兼任問題を機に皇族も東條に批判的になり、例えば秩父宮雍仁親王は、「軍令、軍政混淆、全くの幕府だ」として武官を遣わして批判している[47]。東條はこれらの批判に対し「非常時における指導力強化のために必要であり責任は戦争終結後に明らかにする」と弁明した。

このころから、東條内閣打倒運動が水面下で活発になっていく。前年の中野正剛たちによる倒閣運動は中野への弾圧と自殺によって失敗したが、この時期になると岡田啓介、若槻礼次郎、近衛文麿、平沼騏一郎たち重臣グループが反東條で連携し始める。しかしその倒閣運動はまだ本格的なものとなるきっかけがなく、たとえば1944年(昭和19年)4月12日の「細川日記」によれば、近衛は「このまま東条にやらせる方がよいと思ふ」「せっかく東条がヒットラーと共に世界の憎まれ者になってゐるのだから、彼に全責任を負はしめる方がよいと思ふ」と東久邇宮に具申していたという[48][49]。

退陣

1944年(昭和19年)に入り、アメリカ軍が長距離重爆撃機であるボーイングB29の量産を開始したことが明らかになり、マリアナ諸島がアメリカ軍に陥落された場合、日本本土の多くが空襲を受ける可能性が出てきた。そこで東條は絶対国防圏を定め海軍の総力を結集することによってマリアナ諸島を死守することを発令し、サイパン島周辺の陸上守備部隊も増強した。東條はマリアナ方面の防備には相当の自信があることを公言していた。

しかし1944年(昭和19年)6月19日から6月20日のマリアナ沖海戦で海軍は失態を犯して大敗した。連合艦隊は498機をこの海戦に投入したがうち378機を失い、大型空母3隻を撃沈され、マリアナにおける制空権と制海権を完全に失ってしまった。地上戦でも同年6月15日から7月9日のサイパンの戦いで日本兵3万名が玉砕(日本軍の実質的壊滅は7月6日であった)サイパンでマリアナ方面の防衛作戦全体の指導を行っていた中部太平洋方面艦隊司令長官・南雲忠一は自決した。こうして絶対国防圏はあっさり突破され、統帥権を兼職する東條の面目は丸潰れになった(ただし、これらの作戦は海軍の連合艦隊司令部に指揮権があり、サイパンの陸軍部隊も含めて東條には一切の指揮権は無かった[要出典])。サイパンに続いてグアム島、テニアン島も次々に陥落する。

マリアナ沖海戦の大敗・連合艦隊の航空戦力の壊滅は、その後に訪れたサイパン島の陥落より遥かに衝撃的ニュースであった。連合艦隊の戦力が健全でありさえすれば、サイパン島その他が奪われたとしても奪回はいくらでも可能であるのに、それが以後まったく無理になったことを意味するからである。こうして、マリアナ沖海戦の大敗後、サイパン島陥落を待たずして、東條内閣倒閣運動は岡田・近衛ら重臣グループを中心に急速に激化する。6月27日、東條は岡田啓介を首相官邸に呼び、内閣批判を自重するように忠告する。岡田は激しく反論して両者は激論になり、東條は岡田に対し逮捕拘禁も辞さないとの態度を示したが、二・二六事件で死地を潜り抜けてきている岡田はびくともしなかった。東條を支えてきた勢力も混乱を見せ始め、6月30日の予備役海軍大将に対する戦局説明会議で、マリアナ海戦敗戦に動揺した嶋田繁太郎が、末次信正らの今後の戦局に関しての質問に答えられないという事態が出現、さらにそれまで必勝へ強気一点張りだった参謀本部も7月1日の作戦日誌に「今後帝国は作戦的に大勢挽回の目途なく、戦争終結を企画すとの結論に意見一致せり」という絶望的予想が書かれている(実松譲『米内光政』)。

東條はこの窮地を内閣改造によって乗り切ろうと図り内閣改造条件を宮中に求めた。7月13日、東條の相談を受けた木戸幸一は、

東條自身の陸軍大臣と参謀総長の兼任を解くこと。
海軍大臣・嶋田繁太郎の更迭。
重臣の入閣。

を要求。実は木戸はこの時既に東條を見限っており、既に反東條派の重臣と密かに提携しており、この要求は木戸に東條が泣きつくだろうと予期していた岡田や近衛文麿たち反東條派の策略であった。

木戸の要求を受け入れて東條は参謀総長を辞任し(後任は梅津美治郎)、国務大臣の数を減らし入閣枠をつくるため、無任所国務大臣の岸信介(戦後に首相歴任)に辞任を要求した。岸は長年の東條の盟友であったがマリアナ沖海戦の大敗によって今後の戦局の絶望を感じ、講和を提言したために東條と対立関係に陥り、東條としては岸へ辞任要求しやすかったためである。しかし重臣グループはこの東條の動きも事前に察知しており、岡田は岸に「東條内閣を倒すために絶対に辞任しないでくれ」と連絡、岸もこれに賛同し同意していた。岸は東條に対して閣僚辞任を拒否し内閣総辞職を要求する(旧憲法下では総理大臣は閣僚を更迭する権限を有しなかった)。

東條は岸の辞任を強要するため、東京憲兵隊長・四方諒二を岸の下に派遣、四方は軍刀をかざして「東条大将に対してなんと無礼なやつだ」と岸に辞任を迫ったが岸は「兵隊が何を言うか」「日本国で右向け右、左向け左と言えるのは天皇陛下だけだ」と整然と言い返し、脅しに屈することはなかった[50]。同時に重臣である米内光政の入閣交渉を佐藤賢了を通じて行うも、既に東條倒閣を狙っていた米内は拒否したため失敗、佐藤は米内の説き諭しに逆に感心させられてしまって帰ってくるという有様であった。

とうとう追い詰められた東條に、木戸が天皇の内意をほのめかしながら退陣を申し渡すが、東條は昭和天皇に続投を直訴する。だが天皇は「そうか」と言うのみであった。頼みにしていた天皇の支持も失ったことを感じ万策尽きた東條は、7月18日に総辞職、予備役となった。東條は、この政変を「重臣の陰謀である」との声明を発表しようとしたが、閣僚全員一致の反対によって、差し止められた。後任には、朝鮮総督の陸軍軍人である小磯國昭首相が就任し、小磯内閣が成立した。

東條の腹心の赤松貞雄らはクーデターを進言したが、これはさすがに東條も「お上の御信任が薄くなったときはただちに職を辞するべきだ」とはねつけた[51]。東條は次の内閣において、山下奉文を陸相に擬する動きがあったため、これに反発して、杉山元以外を不可と主張した。自ら陸相として残ろうと画策するも、参謀総長・梅津美治郎の反対でこれは実現せず、結局杉山を出すこととなったとされる[52][53]。赤松は回想録で、「周囲が総辞職しなくて済むよう動きかけたとき、東條はやめると決心した以上はと総辞職阻止への動きを中止させ、予備役願を出すと即日官邸を引き払ってしまった」としている[54]。

広橋眞光による『東条英機陸軍大将言行録』(いわゆる広橋メモ)によると、総辞職直後の7月22日首相官邸別館での慰労会の席上「サイパンを失った位では恐れはせぬ。百方内閣改造に努力したが、重臣たちが全面的に排斥し已むなく退陣を決意した。」と証言しており、東條の内閣存続への執念が潰えた無念さが窺われる[55]。

東條英機暗殺計画

戦局が困難を極める1944年(昭和19年)には、複数の東條英機暗殺が計画された。

高松宮と細川護貞によって計画された暗殺計画

9月には陸軍の津野田知重少佐と東亜連盟所属の柔道家の牛島辰熊が東條首相暗殺陰謀容疑で東京憲兵隊に逮捕された。この時、牛島の弟子で柔道史上最強といわれる木村政彦が鉄砲玉(実行犯)として使われることになっていた[56]。軍で極秘裡に開発中の青酸ガス爆弾を持っての自爆テロ的な計画だった(50m内の生物は壊滅するためガス爆弾を投げた人間も死ぬ)。この計画のバックには東條と犬猿の仲の石原莞爾がいて、津野田と牛島は計画実行の前に石原の自宅を訪ね「賛成」の意を得てのものだった。津野田は陸軍士官学校時代に同級生であった三笠宮に計画を打ち明けた。しかし三笠宮は、この計画に困惑して貞明皇后に相談した。それが陸軍省に伝わって憲兵隊が動くことになり、津野田も牛島も逮捕されるという結果となり計画は破綻した。予定されていた計画実行日は東條内閣が総辞職した日であった[57]。但し三笠宮は戦後の保阪正康のインタビューに対し自分から情報が漏れたことは否定している。津野田は大本営への出勤途中に憲兵隊に逮捕されており、その際に憲兵から三笠宮のルートから漏れたと告げられたようであった。また三笠宮によれば当時、療養中だった秩父宮が何度も東條へ詰問状を送っている。東條は木で鼻をくくったような回答を返しており、サイパン陥落時に東條への不満が爆発し、結果として暗殺計画もいくつか考えられたのである。

また、海軍の高木惣吉らのグループらも早期終戦を目指して東條暗殺を立案したが、やはり実行前に東條内閣が総辞職したため計画が実行に移されることはなかった[58]。

重臣会議

辞任後の東條は、重臣会議と陸軍大将の集会に出る以外は、用賀の自宅に隠棲し畑仕事をして暮らした。鈴木貫太郎内閣が誕生した1945年(昭和20年)4月の重臣会議で東條は、重臣の多数が推薦する鈴木貫太郎首相案に不満で、畑俊六元帥(陸軍)を首相に推薦し「人を得ぬと軍がソッポを向くことがありうる」と放言した。岡田啓介は「陛下の大命を受ける総理にソッポを向くとはなにごとか」とたしなめると、東條は黙ってしまった。しかし現実に、小磯内閣は陸海軍が統帥権を楯に従わず、苦境に陥っていた[注釈 10]。正しく「軍がソッポを向いた」のであり、東條の指摘は的確であった。唯一の同盟国のドイツも降伏が間近になり、日本も戦局が完全に連合国軍に対して劣勢となったこともあり、重臣の大半が和平工作に奔走していく中で、東條のみが徹底抗戦を主張し重臣の中で孤立していた。

終戦工作への態度

1945年(昭和20年)2月26日には、天皇に対し「知識階級の敗戦必至論はまこと遺憾であります」と徹底抗戦を上奏、この上奏の中で、「アメリカはすでに厭戦気分が蔓延しており、本土空襲はいずれ弱まるでしょう」、「ソ連の参戦の可能性は高いとはいえないでしょう」と根拠に欠ける楽観的予想を述べたが、この予想は完全に外れることになった[59]。

終戦工作の進展に関してはその一切に批判的姿勢を崩さなかった。東條はかつて「勤皇には狭義と広義二種類がある。狭義は君命にこれ従い、和平せよとの勅命があれば直ちに従う。広義は国家永遠のことを考え、たとえ勅命があっても、まず諌め、度々諫言しても聴許されねば、陛下を強制しても初心を断行する。私は後者をとる」と部内訓示していた[60]。また、広島・長崎への原爆投下後も、降伏は屈辱だと考え戦争継続にこだわっていたことが手記によりあきらかになっている[61]。

だが、御前会議の天皇の終戦の聖断が下ると、直後に開かれた重臣会議において、「ご聖断がありたる以上、やむをえないと思います」としつつ「国体護持を可能にするには武装解除をしてはなりません」と上奏している。御前会議の結果を知った軍務課の中堅将校らが、東條にクーデター同意を期待して尋ねてくると、東條の答えは「絶対に陛下のご命令にそむいてはならぬ」であった。さらに東條は近衛師団司令部に赴き娘婿の古賀秀正少佐に「軍人はいかなることがあっても陛下のご命令どおり動くべきだぞ」と念押ししている。だが、古賀は宮城事件に参加し、東條と別れてから10時間後に自決している[62]。また陸軍の中には「東條は戦争継続を上奏して陛下から叱責された」という噂が流れた[要出典]。

しかし東條が戦時中、すべての和平工作を拒絶していたというわけではない。戦局が完全に日本に有利であった1942年(昭和17年)8月20日にアメリカでの抑留から戦時交換船で帰国した直後の来栖三郎に対して「今度はいかにしてこの戦争を早く終結し得るかを考えてくれ」と言ったと伝えられており[63]、終戦について早い段階から視野に入れていなかったわけではないことが2000年代ごろに判明している。 1945年8月13日の日記には「私はこんな弱気の国民と思わずに戦争指導にあたった不明を恥じる」と国民に責任転嫁する言葉を残している。

敗戦と自殺未遂

自殺未遂後GHQのアメリカ軍病院で手当を受ける東條

「東條英機自殺未遂事件」を参照

1945年(昭和20年)8月15日に終戦の詔勅、9月2日には戦艦「ミズーリ」において対連合国降伏文書への調印が行われ、日本は連合国軍の占領下となる。東條は用賀の自宅に籠って、戦犯として逮捕は免れないと覚悟し、逮捕後の対応として二男以下は分家若しくは養女としたり、妻の実家に帰らせるなどして家族に迷惑が掛からないようにしている。

その頃、広橋には「大詔を拝した上は大御心にそって御奉公しなければならぬ」「戦争責任者としてなら自分は一心に引き受けて国家の為に最後のご奉公をしたい。…戦争責任者は『ルーズベルト』だ。戦争責任者と云うなら承知できない。尚、自分の一身の処置については敵の出様如何に応じて考慮する」と複雑な心中を吐露しており[64]、果たして、1945年(昭和20年)9月11日、自らの逮捕に際して、東條は自らの胸を撃って拳銃自殺を図るも失敗するという事件が起こった。

GHQによる救命措置

銃声が聞こえた直後、そのような事態を予測し救急車などと共に、世田谷区用賀にある東條の私邸を取り囲んでいたアメリカ軍を中心とした連合国軍のMPたちが一斉に踏み込み救急処置を行った。銃弾は心臓の近くを撃ち抜いていたが、急所は外れており、アメリカ人軍医のジョンソン大尉によって応急処置が施され、東條を侵略戦争の首謀者として処刑することを決めていたマッカーサーの指示の下、横浜市本牧に設置された野戦病院において、アメリカ軍による最善を尽くした手術と看護を施され、奇跡的に九死に一生を得る。

新聞には他の政府高官の自決の記事の最後に、「東條大将順調な経過」「米司令官に陣太刀送る」など東條の病状が附記されるようになり、国民からはさらに不評を買う。入院中の東條に、ロバート・アイケルバーガー中将はじめ多くのアメリカ軍高官が丁重な見舞いに訪れたのに比べ、日本人は家族以外ほとんど訪問者はなく、東條は大きく落胆したという。

未遂に終わったことについて

東條が強権を強いた大戦中のみならず、大戦終結後にも東條への怨嗟の声は渦巻いていたが、自決未遂以後、新聞社や文化人の東條批判は苛烈さを増す。戦犯容疑者の指定と逮捕が進むにつれ、陸軍関係者の自決は増加した。

拳銃を使用し短刀を用いなかった自殺については、当時の読売、毎日、朝日をはじめとする各新聞でも阿南惟幾ら他の陸軍高官の自決と比較され、批判の対象となった[65]。

東條が自決に失敗したのは、左利きであるにもかかわらず右手でピストルの引き金を引いたためという説と、次女・満喜枝の婿で近衛第一師団の古賀秀正少佐の遺品の銃を使用したため、使い慣れておらず手元が狂ってしまったという説がある。また「なぜ確実に死ねる頭を狙わなかったのか」として、自殺未遂を茶番とする見解があるが、このとき東條邸は外国人記者に取り囲まれており、悲惨な死顔をさらしたくなかったという説[66]や「はっきり東條だと識別されることを望んでいたからだ」という説[67]もある。

米軍MPによる銃撃説

なお、東條は自殺未遂ではなくアメリカ軍のMPに撃たれたという説がある。当時の陸軍人事局長・額田坦は「十一日午後、何の予報もなくMP若干名が東條邸に来たので、応接間の窓から見た東條大将は衣服を更めるため奥の部屋へ行こうとした。すると、勘違いしたらしいMPは窓から跳び込み、いきなり拳銃を発射し、大将は倒れた。MPの指揮者は驚いて、急ぎジープで横浜の米軍病院に運んだ(後略)」との報告を翌日に人事局長室にて聞いたと証言しているが、言った人間の名前は忘れたとしている[52]。歴史家ロバート・ビュートーも保阪正康も銃撃説を明確に否定している[67][68]。自殺未遂事件の直前に書かれたとされて発表された遺書も保阪正康は取材の結果、偽書だと結論づけている(東條英機の遺言参照)。

戦陣訓

下村定は自殺未遂前日の9月10日に東條を陸軍省に招き、「ぜひとも法廷に出て、国家のため、お上のため、堂々と所信を述べて戴きたい」と説得し、戦陣訓を引き合いに出してなおも自殺を主張する東條に「あれは戦時戦場のことではありませんか」と反論して、どうにか自殺を思いとどまらせその日は別れた[52]。

重光葵は「敵」である連合軍が逮捕に来たため、戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」に従えば東條には自決する以外に道はなかったのだと解した[69]。笹川良一によると巣鴨プリズン内における重光葵と東條との会話の中で「自分の陸相時代に出した戦陣訓には、捕虜となるよりは、自殺すべしと云う事が書いてあるから、自分も当然自殺を図ったのである」と東條は語っていたという[53]。

東京裁判

極東裁判にて、被告台に立つ東條

1947年に撮影された東條。ワイシャツにネクタイを締め、その上に国民服の甲号上衣を着用した姿。

出廷時には、他の被告が白シャツを着る中、佐藤賢了とともに軍服を着用(少なくとも1947年8月まで)し、メモを取り続けた[70]。

東條の国家弁護

「戦争は裕仁天皇の意思であったか?」の尋問に対し

「ご意思に反したかも知れぬが、わが内閣及び軍統帥部の進言により、渋々同意なさったのが本当であろう。そのご意思は開戦の詔勅の『止ムヲ得サル事朕カ志シナラス』のお言葉で明白である。これは陛下の特別な思し召しで、我が内閣の責任に於いて入れた言葉である。陛下は最期の一瞬まで、和平を望んでおられた。この戦争の責任は、私一人にあるのであって、天皇陛下はじめ、他の者に一切の責任はない。今私が言うた責任と言うのは、国内に対する敗戦の責任を言うのであって、対外的に、なんら間違った事はしていない。戦争は相手がある事であり、相手国の行為も審理の対象としなければならない。この裁判は、勝った者の、負けた者への報復と言うほかはない」

とアメリカの戦争犯罪を糾弾した。

東條は東京裁判を通して自己弁護は行わず、この戦争は侵略戦争ではなく自衛戦争であり国際法には違反しないと「国家弁護」を貫いたが、「敗戦の責任」は負うと宣誓口述書で明言している[71]。東條の主任弁護人は清瀬一郎が務め、アメリカ人弁護士ジョージ・ブルーウェットがこれを補佐した[72]。

東條の国家弁護は理路整然としており、アメリカ側の対日戦争準備を緻密な資料に基づいて指摘し、こうしたアメリカの軍事力の増大に脅威を感じた日本側が自衛を決意したと巧みに主張するなどして、キーナンはじめ検事たちをしばしばやり込めるほどであった。また「開戦の責任は自分のみにあって、昭和天皇は自分たち内閣・統帥部に説得されて嫌々ながら開戦に同意しただけである」と明確に証言し、この証言が天皇の免訴を最終的に確定することになった。

日暮吉延によれば、他の被告の多くが自己弁護と責任のなすり合いを繰り広げる中で、東條が一切の自己弁護を捨てて国家弁護と天皇擁護に徹する姿は際立ち、自殺未遂で地に落ちた東條への評価は裁判での証言を機に劇的に持ち直したとする[73]。

秦郁彦によると、東條にとって不運だったのは、自身も一歩間違えればA級戦犯となる身の田中隆吉や、実際に日米衝突を推進していた服部卓四郎や有末精三、石川信吾といった、いわゆる『戦犯リスト』に名を連ねていた面々が、すでに連合国軍最高司令官総司令部に取り入って戦犯を逃れる確約を得ていたことであった[74]。

判決

「A級戦犯」および「BC級戦犯」も参照

極東国際軍事裁判(東京裁判)の判決は、1948年(昭和23年)11月4日に言い渡しが始まり、11月12日に終了した。7人が死刑(絞首刑)、16人が終身刑、2人が有期禁固刑となった。東條は平和に対する罪で死刑(絞首刑)の判決を受けた。この判決について、東條をはじめ南京事件を抑えることができなかったとして訴因55で有罪・死刑となった広田・松井両被告を含め、東京裁判で死刑を宣告された7被告は全員がBC級戦争犯罪でも有罪となっていたのが特徴であった。これは「平和に対する罪」が事後法であって罪刑法定主義の原則に逸脱するのではないかとする批判に配慮するものであるとともに、BC級戦争犯罪を重視した結果であるとの指摘がある[75]。

なお、東條は、東京裁判の判決について、「この裁判は結局は政治裁判に終わった。勝者の裁判たるの性格は脱却せぬ」と遺書に書いている[76]。

仏教への信仰

戦犯容疑者として収容されてからは、日本仏教の浄土真宗の信仰の深い勝子夫人や巣鴨拘置所の教誨師・花山信勝の影響で、浄土真宗に深く帰依した。花山によると、彼は法話を終えた後、数冊の宗教雑誌を被告達に手渡していたのだが、その際、東條から吉川英治の『親鸞』を差し入れて貰えるように頼まれた。後日、その本を差し入れたのだが、東條が読んでからさらに15人の間で回覧され、本の扉には『御用済最後ニ東條ニ御送付願ヒタシ』と書かれ、板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、広田弘毅等15名全員の署名があり、現在でも記念の書として東條家に保管されているという。

浄土真宗に深く学ぶようになってからは、驚くほど心境が変化し、「自分は神道は宗教とは思わない。私は今、正信偈と一緒に浄土三部経を読んでいますが、今の政治家の如きはこれを読んで、政治の更正を計らねばならぬ。人生の根本問題が書いてあるのですからね」と、政治家は仏教を学ぶべきだとまで主張したという。

また、戦争により多くの人を犠牲にした自己をふりかえっては、「有難いですなあ。私のような人間は愚物も愚物、罪人も罪人、ひどい罪人だ。私の如きは、最も極重悪人ですよ」と深く懺悔している。

さらには、自分を戦犯とし、死刑にした連合国の中心的存在の米国に対してまで、「いま、アメリカは仏法がないと思うが、これが因縁となって、この人の国にも仏法が伝わってゆくかと思うと、これもまたありがたいことと思うようになった」と、相手の仏縁を念じ、絞首台に勇んで立っていったといわれる。

処刑の前に詠んだ歌にその信仰告白をしている。

「さらばなり 有為の奥山 けふ越えて 彌陀のみもとに 行くぞうれしき」

 「明日よりは たれにはばかる ところなく 彌陀のみもとで のびのびと寝む」

 「日も月も 蛍の光 さながらに 行く手に彌陀の 光かがやく」

死刑執行

1948年(昭和23年)12月23日午前0時1分、巣鴨拘置所内で、死刑が執行された。64歳没。

辞世の句は4首であり、

「我ゆくも またこの土地にかへり来ん 国に報ゆる ことの足らねば」

「さらばなり 苔の下にて われ待たん 大和島根に 花薫るとき」

「散る花も 落つる木の実も 心なき さそうはただに 嵐のみかは」

「今ははや 心にかかる 雲もなし 心豊かに 西へぞ急ぐ」

と記した。

死後

遺骨と墓

絞首刑後、東條らの遺体は遺族に返還されることなく、いったん川崎市の米軍基地に車を入れた後、午前7時半、横浜市西区久保町の久保山火葬場に到着し、火葬された遺骨は粉砕され、遺灰と共に航空機によって太平洋に投棄された。

小磯國昭の弁護士を務めた三文字正平と久保山火葬場の近隣にある興禅寺住職の市川伊雄は、遺骨の奪還を計画した。同年12月26日の深夜、三文字らは火葬場職員の手引きで忍び込み、残灰置場に捨てられた7人分の遺灰と遺骨の小さな欠片を回収した。回収された遺骨は全部で骨壷一つ分程で、熱海市伊豆山の興亜観音に運ばれ隠された。

1958年(昭和33年)には墳墓の新造計画が持ち上がり、1960年(昭和35年)8月には、愛知県旧幡豆郡幡豆町(現西尾市)の三ヶ根山の山頂に改葬された。同地には現在、殉国七士廟が造営され、遺骨が祀られている[77]。

雑司ヶ谷霊園にある東條英機の墓

墓は雑司ヶ谷霊園にある。

合祀

東條英機は自らが陸軍大臣だった時代、陸軍に対して靖国神社合祀のための上申を、「戦死者または戦傷死者など戦役勤務に直接起因して死亡した者に限る」という通達を出していた[78]が、彼自身のかつての通達とは関係なく刑死するなどした東京裁判の戦犯14名の合祀は、1966年(昭和41年)、旧厚生省(現厚生労働省)が「祭神名票」を靖国神社側に送り、1970年(昭和45年)の靖国神社崇敬者総代会で決定され、靖国神社は1978年(昭和53年)にこれらを合祀した[注釈 12]。

政治手法

戦争指導者としての東條

東條英機

大戦中、戦後を通じて東條は、日本の代表的な戦争指導者と見なされることが多く、第二次世界大戦時の日本を代表する人物とされている。一方で戦史家のA・J・P・テイラーは、大戦時の戦争指導者を扱った記述の中で、アメリカ合衆国、イギリス、ドイツ、イタリア、ソ連についてはそれぞれの指導者(フランクリン・ルーズベルト、ウィンストン・チャーチル、アドルフ・ヒトラー、ベニート・ムッソリーニ、ヨシフ・スターリン)を挙げているものの、日本については「戦争指導者不明」としている[79]。これは、総理大臣・陸相・参謀総長を兼任し、立場上は大きな指導力を発揮できるはずの東條の権力が、他の戦争指導者と同列に扱えないとテイラーが判断したことによるものである[79]。 しかしこの書籍の表紙には、他国の戦争指導者とともに東條の肖像が描かれており、第二次世界大戦時の日本の指導者を1人に絞る場合には、やはり東條の名前が挙がることになる[79]。

東條は「対米英蘭蒋戦争終末促進ニ関スル腹案」などの政府案を支持していたが、「敵の死命を制する手段が無く」、長期戦となる確率は80パーセントぐらいであろうと考えていた[80]。また短期で勝利できる可能性は、アメリカ主力艦隊の撃滅、ドイツの対米宣戦やイギリス本土上陸によるアメリカの戦意喪失、通商破壊戦によってイギリスを追い込むことしかないと考えていた[81]。真珠湾攻撃でアメリカの主力艦隊は大きなダメージを負い、東條はこれを構想以上のものと考えた。東條は西アジア方面に主力を派遣し、イギリスの離脱を促進するよう望んでいたが、海軍は太平洋方面への進出を望んだ[81]。この際に東條は陸海軍の調停を積極的に行うこともせず、玉虫色の合意が形成されるに終わった[82]。これは東條が、陸海軍の摩擦や衝突を回避しようと考えていたことによる。

東條は、1942年(昭和17年)には軍務局長・佐藤賢了に対し、陸海軍の間でもめ事が起こった場合には、大臣にまで上げず、局長クラスで解決するようにという指示を与えている。これは陸海軍間の争いとなった場合には首相が調停を行わなければならないが、陸相を兼任している以上それが不可能であるというものであった[83]。

東條の権力は陸海軍間の問題に関与できるほど大きなものではなく、この点でも主要国の戦争指導者と異なっている[83]。

また陸軍に対する権力も大きなものではなく、統帥部がガダルカナル戦の継続を行おうとした時も、軍事物資の輸送を押さえて牽制することしかできなかった[84]。

井本熊男は、東條が「統帥権独立のもとでは戦争はできぬ」とこぼすのをよく聞いたという[85]。

1944年(昭和19年)2月にはそれを打開するために参謀総長に就任するが、この際にも首相や陸相が兼任するのではなく、東條という人格が参謀総長になる「二位一体」だという説明を行っている[85]。

その後も東條は、あくまで参謀総長と陸相、首相としての立場をそれぞれ使い続け、相互の対立や摩擦を防ぐことに力を注いだ[86]。佐藤賢了は「東條さんは決して独裁者でもなく、その素質もそなえていない。」と評している[87]。

東條は会議で戦争の行く末に関してしばしば示唆や疑問を投げかけたものの、具体的なビジョンや指針を示すことはなく、代替案を提示することもなかった[88]。

伊藤隆は「東條は、当面の最大の課題として、戦争に勝たなければならないことを繰り返し強調するが、それが具体的にどのような形をとるものかというイメージは全く語っていない」と指摘している[89]。

また敗北を認めるような発言を行うことは非常に希であった。インパール作戦が失敗に終わりつつあった1944年(昭和19年)5月の時点でも、作戦継続困難を報告した参謀次長・秦彦三郎に対し「戦は最後までやってみなければ分からぬ。そんな弱気でどうするか」と叱責している[90]。

しかし東條にとってこれは真意ではなく、秦と二人きりになった時には、「困ったことになった」と頭を抱えて困惑していたという[90]。

1945年(昭和20年)2月、和平を模索しはじめた昭和天皇が個別に重臣を呼んで収拾策を尋ねた際に、東條は「陛下の赤子なお一人の餓死者ありたるを聞かず」「戦局は今のところ五分五分」だとして徹底抗戦を主張した。侍立した侍従長・藤田尚徳は「陛下の御表情にもありありと御不満の模様」と記録している[91]。

軍事責任者としての東條

渡部昇一によれば、「政治家としての評価は低い東條も、軍事官僚としては抜群であった」という。「強姦、略奪禁止などの軍規・風紀遵守に厳しく、違反した兵士は容赦なく軍法会議にかけた」という。ただし、場合によっては暴虐ともとれる判断であっても、厳しく処罰していない事例もある。例えば、陽高に突入した兵団は、ゲリラ兵が多く混ざっていると思える集団と対峙して強硬な抵抗に遭い、実際にかなりの死傷者が出た。ところが、日本軍が占領してみると降伏兵は全くいなかった。その際、日本軍は、場内の住民の男性をすべて狩り出し、戦闘に参加したか否かを取り調べもせずに全員縛り上げたうえ処刑してしまった。その数350人ともいわれる[92]。しかし、この事件に対して東條は誰も処分していない。この事件が東京裁判で東條の戦犯容疑として取り上げられなかったのは、「連合国側の証人として出廷し、東條らを追い詰めた田中隆吉が参謀長として参戦していたからだろう」と秦郁彦は推察している。

民政に対する態度

「モラルの低下」が戦争指導に悪影響を及ぼすことを憲兵隊司令官であった東條はよく理解しており、首相就任後も民心把握に人一倍努めていたと井上寿一は述べている。飯米応急米の申請に対応した係官が居丈高な対応をしたのを目撃した際に、「民衆に接する警察官は特に親切を旨とすべしと言っていたが、何故それが未だ皆にわからぬのか、御上の思し召しはそんなものではない、親切にしなければならぬ」と諭したというエピソードや、米配給所で応急米をもらって老婆が礼を言っているのに対し、事務員が何も言おうとしていなかったことを目撃し、「君も婆さんに礼を言いなさい」といった逸話が伝えられている[93]。

ゴミ箱あさり

旅先で毎朝民家のゴミ箱を見て回って配給されているはずの魚の骨や野菜の芯が捨てられているか自ら確かめようとした。東條はのちに「私がそうすることによって配給担当者も注意し、さらに努力してくれると思ったからである。それにお上(=昭和天皇)におかせられても、末端の国民の生活について大変心配しておられたからであった」と秘書官らに語ったという[94][95]。

言論統制に関して

中外商業新報社(後の日本経済新聞)の編集局長を務めていた小汀利得は戦前の言論統制について、不愉快なものであったが東條自身は世間でいうほど悪い人間では無く、東條同席の座談会でも新聞社を敵に回すべきではないというような態度が窺えたという。また小汀自身に対して東條は、言論界の雄に対しては、つまらぬことでうるさく言うなと部下に対する念押しまであったと聞いたと述べている。実際に小汀が東條政権時代に記事に関するクレームで憲兵隊に呼び出された時も、小汀が東條の名前を出すと憲兵はクレームを引っ込めたという一幕も紹介している[96]。

懲罰召集や敵対者迫害との批判

東條は「一度不信感を持った人間に対しては容赦なくサディズムの権化と化してしまう、特異な性格」[97]であり、政治的に敵対した者を、職権を乱用して迫害したという批判が多い。

敵対者を懲罰召集

新名丈夫(新聞記者)を懲罰召集
詳細は「竹槍事件」を参照

竹槍事件[98]では新名丈夫記者(当時37歳)を二等兵として召集し硫黄島へ送ろうとしたとされる。新名が1944年(昭和19年)2月23日毎日新聞朝刊に「竹槍では勝てない、飛行機だ。海軍飛行機だ」と海軍を支持する記事を書いたためであった。当時、陸海軍は航空機の配分を巡って激しく争っており、新名は海軍の肩を持つ記事を書いたために陸軍の反感を買っていた。なお新名は海軍の働きかけによって戦地への動員は免れ、3か月後に召集解除となった。

松前重義(逓信省工務局長)を懲罰召集

また、勅任官たる逓信省工務局長・松前重義を42歳の高齢にもかかわらず(徴召集の年限上限は40歳であったが、昭和18年11月1日法律第110号で改正された兵役法で、上限が45歳に引き上げられた。この改正にあたっての審議日数はわずか三日であった[99])二等兵として召集し、南方に送った[100]。松前が、技術者を集めて日米の生産力に圧倒的な差があることを綿密に調査し、この結果を軍令部や近衛らに広めて東條退陣を期したためであったとされる。このことについて、高松宮宣仁親王は日記のなかで「実に憤慨にたえぬ。陸軍の不正であるばかりでなく、陸海軍の責任であり国権の紊乱である」と述べている[101]。また、細川護貞は『細川日記』1944年(昭和19年)10月1日において「初め星野書記官長は電気局長に向ひ、松前を辞めさせる方法なきやと云ひたるも、局長は是なしと答へたるを以て遂に召集したるなりと。海軍の計算によれば、斯の如く一東条の私怨を晴らさんが為、無理なる召集をしたる者七十二人に及べりと。正に神聖なる応召は、文字通り東条の私怨を晴らさんが為の道具となりたり」と批判している。

なお、高松宮と細川は東條内閣倒閣工作に深く関与していた反東條派であり、東條の政敵である。倒閣工作に協力していた松前は、彼らから見れば「身内」であった。結局、松前は輸送船団にて南方戦線に輸送された。逓信省が取り消しを要請したものの、陸軍次官・富永恭次は「これは東條閣下直接の命令で絶対解除できぬ」と取り合わなかった[102]。

松前は10月12日に無事にマニラに着いたが、松前と同時期に召集された老兵数百人はバシー海峡に沈んだ[52][103]。ただし松前の召集日は東條内閣倒閣と同日である。また、富永は東條内閣崩壊後の7月28日には早くも人事局長を辞任させられ、8月30日には第四航空軍司令官に転出させられるという状況であり、上記のエピソードは時系列的に疑問があるが、東條内閣が崩壊し、東條派が失脚していく中でも、懲罰召集の犠牲者となった松前に対する召集解除は行われなかった。

都留重人(経済学者)を懲罰召集

経済学者の都留重人は、海軍省調査課の対米研究会のメンバーであったが、1944年(昭和19年)6月に懲罰召集された[104]。1912年(明治45年)3月6日生まれの都留は、召集の時点で32歳であった。なお、都留は約3か月後に召集解除された[104]。

中野正剛(政治家)への迫害、担当検事を懲罰召集

1943年(昭和18年)10月21日、警視庁特高課は東條政府打倒のために重臣グループなどと接触を続けた衆議院議員・中野正剛を東方同志会(東方会が改称)ほか右翼団体の会員百数十名とともに「戦時刑事特別法違反」の容疑で検挙した[105]。この検挙の理由を巡っては、中野が昭和18年元日の朝日新聞に執筆した『戦時宰相論』が原因との説もある[注釈 13]。中野は26日夜に釈放された後、まだ憲兵隊の監視下にある中、自宅で自決する。全国憲友会編『日本憲兵正史』では陸軍に入隊していた子息の「安全」と引きかえに造言蜚語の事実を認めさせられたので、それを恥じて自決したものと推測している[106][注釈 14]。

また、中野の取り調べを担当し嫌疑不十分で釈放した43歳の検事局思想部長[注釈 15]である中村登音夫に対し、その報復として召集令状が届いた[109][104][注釈 16]。

現職の衆議院議員を懲罰召集

政府提出の市町村改正案を官僚の権力増強案と批判し反対した福家俊一、有馬英治、浜田尚友の3名が現役の衆議院議員でありながら召集されたことに対して、東條が懲罰召集したとする主張がある[110][111]。

懲罰としての最前線送り

塚本清彦少佐を最前線送り

東條の不興を買って最前線送りになった将校は多々おり、たとえば陸軍省整備局戦備課課員の塚本清彦少佐(陸士43期・陸大52期[112])は、戦局に関して東條に直言したことにより、1944年(昭和19年)6月13日付で第31軍参謀に転出させられ(第31軍司令部は在サイパン島。サイパンの戦いは既に始まっていた。)、1か月後にグアム島で玉砕した[14][注釈 17]。この苛烈な処分は陸軍部内を震撼させた[14]。

敵対者を予備役編入

西尾寿造大将を予備役編入
「#ゴミ箱あさり」も参照

西尾寿造大将(陸士14期)は1941年(昭和16年)3月から軍事参議官を務めていたが、新聞記者から取材を受けた際に

「そんなことは、朝早く起きて、街の塵箱をあさっているやつにでも聞け」[113]

と、「ゴミ箱あさり」の挿話を持つ東條を揶揄する返答をした[113]。西尾の発言を知った東條は激怒し、1943年(昭和18年)5月に西尾を予備役に編入した[113]。

多田駿大将を予備役編入

支那事変時の参謀次長だった多田駿(陸士15期)は石原莞爾と同様に戦争不拡大派であり、中国との和平を模索していたが、拡大賛成派の東條(陸軍次官であった)と対立した。多田と東條は共に職を解かれたが、東條が後に台頭していくと多田は次第に追いやられていき、予備役に追われた。

詳細は「多田駿#東條との対立と参謀次長退任」および「多田駿#予備役へ」を参照

石原莞爾中将を予備役編入

石原莞爾(陸士21期)は、鋭く対立していた東條によって閑職に追われ、さらに予備役に追いやられたとされる[114][115][116][117]。
「石原莞爾#ふたたび関東軍へ・東條英機との確執」、および「石原莞爾#予備役編入」も参照

一方で、藤井非三四は、

少将で関東軍参謀副長を務めていた石原が、昭和13年(1938年)6月に病気のために参謀副長を辞任すると申し出、人事発令を待たずに勝手に帰国・入院するという暴挙に出たこと。
石原が、何の処分も受けずに、昭和13年12月に舞鶴要塞司令官に補任されたこと。

を指摘し[118]、
「それでも東条は石原の豊かな才能を基本的に認めていた。和解の手を差し伸べたが石原が応じなかったのだろう」[119]

「よく、この人事〔石原の、舞鶴要塞司令官への補任〕は石原莞爾を閑職に追いやった非情なものと語られるが、それは間違いで、これは板垣征四郎陸相の友情あふれる温情人事だった。勝手に帰国したことのほとぼりが冷めるまで舞鶴におき、中将、師団長への道を開いてやったのだ。事実、翌〔昭和〕14年8月に石原は京都の第16師団長に上番している。」[118]

と述べ、「石原は、鋭く対立していた東條によって、舞鶴要塞司令官と言う閑職に追われた」という説を否定している。

なお、藤井は「石原の、昭和16年(1941年)3月の予備役編入」については「見解を保留する」という旨を述べている[118]。

平林盛人中将を予備役編入

第17師団長だった平林盛人中将(陸士21期)は、太平洋戦争初期に進駐していた徐州で将校らを前に米英との開戦に踏み切ったことを徹底批判する演説を行った。その中で平林は東條を「陸軍大臣、総理大臣の器ではない」と厳しく指弾した。なお、平林は石原莞爾と陸軍士官学校の同期で親しく、東條と馬が合わなかったという。平林もまた、後に師団長の任を解かれて予備役に編入された[120]。

詳細は「平林盛人」を参照

前田利為大将の陣没を巡る紛議

旧加賀藩主・前田侯爵家当主(侯爵)で、東條とは陸士17期の同期生であった前田利為(陸大23期恩賜。東條より4年早く陸大入校を果たした)は東條と犬猿の仲であった[121]。前田は東條を「頭が悪く、先の見えない男」[121][122]と侮蔑し、逆に東條は前田を「世間知らずのお殿様」[121]と揶揄していたという[121]。

前田は、陸軍中将に進級して第8師団長を務めた後、1939年(昭和14年)1月に予備役に編入された[121][注釈 18]。

1942年(昭和17年)4月に召集されてボルネオ守備軍司令官に親補された前田は、クチンからラプラン島への飛行機での移動途中、飛行機ごと消息を絶ち、10月18日になって遭難した飛行機が発見され、海中から前田の遺品と遺体が見つかった。搭乗機の墜落原因は不明であり、10月29日の朝日新聞は「陣歿」と報じているが、前田家への内報では戦死となっており、11月7日クチンで行われたボルネオ守備軍葬でも南方軍総司令官・寺内寿一による弔辞では戦死となっていた。しかし、11月20日、築地本願寺における陸軍葬の後で、東條はボルネオ守備軍参謀長・馬奈木敬信に対して「今回は戦死と認定することはできない」と告げ、東條の命を受けた富永恭次によって「戦死」ではなく「戦地に於ける公務死」とされた。

これにより前田家には相続税の納付に向けて全財産の登録が要求された。当時、当主戦死なら相続税免除の特例があり、東條が戦費欲しさに戦死扱いにしなかったと噂する者もいた。このことは帝国議会でも取り上げられ紛糾したが、最終的に「戦地ニ於ケル公務死ハ戦死ナリ」となり、前田家は相続税を逃れた[123][注釈 19]。なお、前田の葬儀では東條が自ら弔辞を読んだが、陸士からの長い付き合いに触れた、生前の反目が嘘のような哀切な文章を読み上げ、しかも途中で号泣したという。

尾崎行雄(政治家)への迫害

尾崎行雄は天皇への不敬罪として逮捕された(尾崎不敬事件)。これは1942年(昭和17年)の翼賛選挙で行った応援演説で引用した川柳「売家と唐様で書く三代目」で昭和天皇の治世を揶揄したことが理由とされているが、評論家の山本七平は著書『昭和天皇の研究』で、これを同年4月に尾崎が発表した『東條首相に与えた質問状』に対しての東條の報復だろうとしている。

腹心の部下とされる人物

鈴木貞一

    陸軍中将。東條内閣の企画院総裁。

加藤泊治郎

    陸軍中将。憲兵司令部本部長など。

四方諒二

    陸軍少将。中支那派遣憲兵隊司令官。東京憲兵隊長。

木村兵太郎

    陸軍大将。ビルマ方面軍司令官など。

佐藤賢了

    陸軍中将。陸軍省軍務局長など。

真田穣一郎

    陸軍少将。参謀本部第一部長など。

浜本正勝

    陸軍少佐。総理秘書官付内閣嘱託。総理専属通訳。元・ゼネラルモーターズ満州国・極東地区支配人。

赤松貞雄

    陸軍大佐。内閣秘書官。赤松は東條の陸軍大学校の兵学教官時代の教え子で、陸軍次官時代に引き抜くなど厚遇し、赤松もそれによく応え東條を支えた。回想録『東條秘書官機密日誌』を残している。

田中隆吉

    陸軍少将。

富永恭次

    陸軍中将。陸軍省人事局長、陸軍次官、第4航空軍司令官など。

「三奸四愚」

東條に近かった人物は「三奸四愚」と総称されることがある[124]。

三奸:鈴木貞一、加藤泊治郎、四方諒二

四愚:木村兵太郎、佐藤賢了、真田穣一郎、赤松貞雄

田中隆吉と富永恭次は、昭和天皇から「田中隆吉とか富永次官とか、兎角評判のよくない且部下の抑へのきかない者を使つた事も、評判を落した原因であらうと思ふ」と名指しされた[125]。田中は兵務局長として、東條の腰巾着と揶揄されるほどだったが、戦後は一転連合軍側の証人として東京裁判であることないことを証言したとして評判が悪い[注釈 20]。富永は、これも東條の陸軍大学校兵学教官時代の教え子で、東條陸軍大臣時代に仏印進駐の責任問題で、一旦は軍紀に厳格な東條の不興を買い参謀本部第1部長を更迭されるも[127]、1941年4月には陸軍省人事局局長に返り咲いている。1943年3月には陸軍次官も兼任し、東條の補佐に辣腕を振るい、東條の参謀総長就任時には杉山元元帥の説得などで実績を残す[128]。東條が失脚後は最前線のフィリピンで第4航空軍司令官として航空戦を指揮、航空には全くの素人ながら、積極的な作戦指導でアメリカ軍を苦しめ[129]、富永に批判的であった昭和天皇からも「第4航空軍がよく奮闘しているが、レイテ島の地上の敵を撃滅しなければ勝ったとはいえない。今一息だから十分第一線を激励せよ」その戦いぶりを称賛されている[130]。やがて、戦力を消耗すると、第14方面軍参謀長の武藤章中将の提案などで、戦力立て直しのために台湾に撤退するも、大本営の承認をとっていなかったため、敵前逃亡に等しい行為と批判されて、第4航空軍は解体され、富永は予備役行きとなった[131]。

評価

批判的な評価

政治姿勢に対する批判

自分を批判した将官を省部の要職から外して、戦死する確率の高い第一線の指揮官に送ったり、逓信省工務局長・松前重義が受けたようないわゆる「懲罰召集」を行う等など、陸軍大臣を兼ねる首相として強権的な政治手法を用い、さらには憲兵を恣意的に使っての一種の恐怖政治を行った(東條の政治手法に反対していた人々は、東條幕府と呼んで非難した)[132]。

「カミソリ東條」の異名の通り、軍官僚としてはかなり有能であったとされたが、東條と犬猿の仲で後に予備役に編入させられた石原莞爾中将は、関東軍在勤当時上官であった東條を人前でも平気で「東條上等兵」と呼んで馬鹿にすることしばしばであった。スケールの大きな理論家肌の石原からすると、東條は部下に気を配っているだけの小人物にしか見えなかったようである。戦時中の言論統制下でも、石原は東條について容赦なく馬鹿呼ばわりし、「憲兵隊しかつかえない女々しい男」といって哄笑していた。このため石原には東條の命令で常に内務省や憲兵隊の監視がついたが、石原の度量の大きさにのまれて、逆に教えを乞う刑事や憲兵が多かったという(青江舜二郎『石原莞爾』)。

また戦後、東京裁判の検事団から取調べを受けた際「あなたと東條は意見や思想上、対立していたようだが」と訊ねられると、石原は「自分にはいささかの意見・思想がある。しかし、東條には意見・思想が何も無い。意見・思想の無い者と私が対立のしようがないではないか」と答えている。東條と石原を和解させ、石原の戦略的頭脳を戦局打開に生かそうと、甘粕正彦その他の手引きで、1942年(昭和17年)末、両者の会談が開かれている。しかし会談の冒頭、石原は東條に「君には戦争指導の能力はないから即刻退陣しなさい」といきなり直言、東條が機嫌を悪くして、会談は空振りに終わった。

その他・国内での批判など

秦郁彦は「もし東京裁判がなく、代わりに日本人の手による国民裁判か軍法会議が開かれた、と仮定した場合も、同じ理由で東條は決定的に不利な立場に置かれただろう。裁判がどう展開したか、私にも見当がつきかねるが、既定法の枠内だけでも、刑法、陸軍刑法、戦時刑事特別法、陸軍懲罰令など適用すべき法律に不足はなかった。容疑対象としては、チャハル作戦と、その作戦中に起きた山西省陽高における集団虐殺、中野正剛以下の虐待事件、内閣総辞職前の策動などが並んだだろう」 と著書『現代史の争点』中で推測している。

司馬遼太郎はエッセイ「大正生まれの「故老」」[133]中で、東條を「集団的政治発狂組合の事務局長のような人」と言っている。

元海軍軍人で作家の阿川弘之は、東京帝国大学の卒業式で東條が「諸君は非常時に際し繰り上げ卒業するのであるが自分も日露戦争のため士官学校を繰り上げ卒業になったが努力してここまでになった(だから諸君もその例にならって努力せよ)」と講演し失笑を買ったと自らの書籍で書いている[134]。

福田和也は東條を「日本的組織で人望を集める典型的人物」(『総理の値打ち』文藝春秋)と評している。善人であり、周囲や部下への優しい気配りを欠かさないが、同時に現場主義の権化のような人物でもあった。首相就任時点ではもはや誰が総理になっても開戦は避けられず、その状況下でも東條が開戦回避に尽力したのは事実であって開戦そのものに彼は責任はないが、開戦後、陸軍の現場主義者としてのマイナス面が出てしまい、外交的和平工作にほとんど関心を示さなかったことについては、東條の致命的な政治的ミスだったとしている。

半藤一利は「昭和の陸軍の持っていたあらゆる矛盾が彼のもとに集約されていうな、そんな印象を受けます」と著書内で評している。

保阪正康は、生前の木戸幸一に取材し、「なぜ、東條や陸海軍の軍事指導者はあんな戦争を一生懸命やったのか」と書面で質問し、その答えの中に「彼らは華族になりたかった」とあった。満州事変の関東軍の司令官の本庄繁は男爵になっている。東條たちは爵位がほしかった。それが木戸の見方だったと述べている[135]。

好意的な評価

昭和天皇からの信任

『昭和天皇独白録』には、下記のように東條を評価する言が多くみられる。

元来東条と云ふ人物は、話せばよく判る、それが圧制家の様に評判が立つたのは、本人が余りに多くの職をかけ持ち、忙しすぎる為に、本人の気持が下に伝わらなかつたことゝ又憲兵を余りに使ひ過ぎた。

— 昭和天皇。『昭和天皇独白録』より、[14]

東条は一生懸命仕事をやるし、平素云つてゐることも思慮周密で中〻良い処があつた。
— 昭和天皇。『昭和天皇独白録』より、[14]

東条は平沼に云はれて辞表を提出した。袞龍の袖に隠れるのはいけないと云つて立派に提出したのである。私は東条に同情してゐるが、強いて弁護しようと云ふのではない。只真相を明かにして置き度いから、之丈云つて置く。
— 昭和天皇。『昭和天皇独白録』より、[14]

原剛と秦郁彦は、昭和天皇が東條を評価・信頼した理由を下記のように分析している[14]。

昭和天皇は東条に信頼感を寄せているんです。東条を非常に高く評価しているのは、それまでの大臣とか参謀総長と違って、本当のことをきちんと報告したからでしょう。
— 原剛、[14]

能吏なんですよ。今の世の中でも、能吏は意外に少ないんです。東条はまさに能吏であり、そこが天皇のお気に召したわけです。
— 秦郁彦、[14]

日米開戦日の明け方、開戦回避を熱望していた昭和天皇の期待に応えることができず、懺悔の念に耐えかねて、首相官邸において皇居の方角に向かって号泣した逸話は有名である。これは近衛内閣の陸相時の開戦派的姿勢と矛盾しているようにみえるが、東條本人は、陸軍の論理よりも天皇の直接意思を絶対優先する忠心の持ち主であり、首相就任時に天皇から戦争回避の意思を直接告げられたことで東條自身が天皇の意思を最優先することを決心、昭和天皇も東條のこの性格をよく知っていたということである。首相に就任する際、あまりの重責に顔面蒼白になったという話もある。『昭和天皇独白録』で語られている通り、昭和天皇から信任が非常に厚かった臣下であり、失脚後、昭和天皇からそれまで前例のない感謝の言葉(勅語)を贈られたことからもそれが窺える。

昭和天皇は、東條首相在任時の行動について評価できる点として、首相就任後に、自分の意志を汲んで、戦争回避に全力を尽くしたこと、ドーリットル空襲の際、乗組員の米兵を捕虜にした時に、軍律裁判よる全員の処刑を主張する参謀本部に反対したこと(昭和天皇独白録「十七年四月米飛行士を処罰した時も、彼の意見で裁判に附する事にしたので、全部死刑にすると云ふのを、東條が反対して一番責任のある三人を銃殺にし、他は勅許により無罪にした。之が彼が参謀本部と妥協した結果であって、実際は、あの飛行機から射撃した場処には、高角砲か高射機関銃があったらしいから、三人の者も責任がなかったものと思ふ」)、サイパン島陥落の際に民間人を玉砕させることに極力反対した点などをあげている。

『昭和天皇独白録』には、昭和前期の多くの政治家・軍人に対し、昭和天皇の厳しい評価が記述されているが(例えば、石原莞爾、広田弘毅、松岡洋右、平沼騏一郎、宇垣一成などは昭和天皇に厳しく批判されている)その中で東條への繰り返しの高い評価は異例なものであり、いかに東條が昭和天皇個人からの信頼を強く受けていたかが分かる。

国内の好意的な評価

木戸幸一の評

「東條って人は非常に陛下の命というと本当に一生懸命になってやるわけでね、その点はある意味ではまた大変強い。東條って人はよくみんなに言われるような主戦論者でもなければ何でもないんだ。極めて事務的な男で政治家でもないんですよ」と語っている[136]。

重光葵の評

「東條を単に悪人として悪く言えば事足りるというふうな世評は浅薄である。彼は勉強家で頭も鋭い。要点をつかんで行く理解力と決断力とは、他の軍閥者流の及ぶところではない。惜しい哉、彼には広量と世界知識とが欠如していた。もし彼に十分な時があり、これらの要素を修養によって具備していたならば、今日のような日本の破局は招来しなかったであろう」[137]。

徳富蘇峰の評 -日露戦争指導層との対比-

徳富蘇峰は「何故に日本は破れたるか」という考察の一端で、自らも良く知っていた日露戦争当時の日本の上層部とこの戦争時の上層部と比較し「人物の欠乏」を挙げて、「舞台はむしろ戦争にかけて、十倍も大きくなっていたが、役者はそれに反して、前の役者の十分の一と言いたいが、実は百分の一にも足りない 」とした上で、首相を務めた東條、小磯、鈴木について「彼らは負け相撲であったから、凡有る悪評を受けているが、悪人でもなければ、莫迦でもない。立派な一人前の男である。ただその荷が、仕事に勝ち過ぎたのである。(中略)その荷物は尋常一様の荷物ではなかった。相当の名馬でも、とてもその任に堪えぬ程の、重荷であった。況や当たり前の馬に於てをやだ。」と評し、東條が日露戦争時の一軍の総帥であったならそれなりの働きをしたであろうに、「咀嚼ができないほどの、大物」があてがわれてこれをどうにもできなかったことを「国家に取ては勿論、当人に取ても、笑止千万の事」と断じている[138]。

井上寿一の評

井上寿一は硬直化した官僚組織をバイパスして、直接、民衆と結びつくことで東條内閣への国民の期待は高まっていったのであり、国民モラルの低下を抑えることができたのは、東條一人だけであったとしている。国民の東條への期待が失望に変わったのはアッツ島の玉砕後あたりからであり、政治エリートの東條批判の高まりも、これらの国民世論の変化によるものであったと分析している[139]。

来栖三郎の評 -大東亜主義に対する姿勢-

来栖三郎は、東條の大東亜主義現実化に関する姿勢は極めて真摯であり、行事の際の文章に「日本は東亜の盟主として云々」という字句があったのに対して、「まだこんなことを言っているのか」といいながら自ら文章を削ったというエピソードを紹介し、東條自身は人を現地に派遣して、理想の実践を督励する熱の入れようだったが、現場の無理解により妨げられ、かえって羊頭狗肉との批判を浴びる結果になってしまったと戦後の回顧で述べている[140]。

山田風太郎の評

山田風太郎は戦後の回顧で、当時の日本人は東條をヒトラーのような怪物的な独裁者とは考えていなかった、単なる陸軍大将に過ぎないと思っていたとしている[141]。自決未遂直後は東條を痛烈に批判した山田風太郎だが(「東條英機自殺未遂事件#反応」を参照)、後に社会の東條批判の風潮に対して『戦中派不戦日記』において以下のように述べている。

東條大将は敵国から怪物的悪漢として誹謗され、日本の新聞も否が応でもそれに合わせて書き立てるであろう。日本人は東條大将が敗戦日本の犠牲者であることを知りつつ、敵と口を合わせてののしりつつ、涙をのんで犠牲者の地にたつことを強いるのである(9月17日)。
GHQの東條に対する事実無根の汚職疑惑発表と訂正について、がむしゃらに東條を悪漢にしようという魂胆が透けてみえる(11月12日)。
敗戦後の日本人の東條に対する反応はヒステリックに過ぎる(11月20日)。

西部邁の評

西部邁(評論家)は2017年の著書で「(靖国)神社は「英霊」を祀る場所であり、そして「英(ひい)でた霊」とは「国家に公式的な貢献をなして死んだ者の霊」のことをさす。故東条英機をはじめとするA級戦犯と(占領軍から)烙印を押された我が国の旧指導者たちに英霊の形容を冠するのは、歴史の連続性を保つという点で、是非とも必要なことと思われる」、「A級戦犯と名付けられている(戦勝国によって殺害された)人々の霊(なるもの)が英霊でないはずがない[142]」と述べている。

外国からの好意的な評価

バー・モウの評

ビルマ国(戦後成立したビルマ連邦とは異なる)首相バー・モウは自身の著書『ビルマの夜明け』の中で「歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。真実のビルマの独立宣言は1948年の1月4日ではなく、(ビルマ国が独立した)1943年8月1日に行われたのであって、真のビルマ解放者は独立を承認したイギリスのクレメント・アトリー率いる労働党政府ではなく、東条大将と大日本帝国政府であった」と語っている。

レーリンクの評

東京裁判の判事の一人でオランダのベルト・レーリンクは著書『Tokyo Trial and Beyond』の中で東條について「私が会った日本人被告は皆立派な人格者ばかりであった。特に東條氏の証言は冷静沈着・頭脳明晰な氏らしく見事なものであった」と述懐し、また「被告らの有罪判決は正確な証言を元に国際法に照らして導き出されたものでは決してなかった」「多数派の判事の判決の要旨を見るにつけ、私はそこに自分の名を連ねることに嫌悪の念を抱くようになった。これは極秘の話ですが、この判決はどんな人にも想像できないくらい酷い内容です」と東京裁判の有様を批判している。

その他

イギリスのジャーナリストであるヘンリー・スコット・ストークスは、樋口季一郎、安江仙弘らと共に、多くのユダヤ人の人命を救い、アドルフ・ヒトラー(ドイツ)からの再三にわたる抗議に「当然な人道上の配慮」と一蹴した東條の功績は大きいと評している[143]。

私生活・逸話

大川周明は東條を評して「下駄なり」と言った[144]。足の下に履くには適するも頭上に戴く器ではないという意味である[144]。

学習院や幼年学校時代の成績は振るわなかった[145]。陸士では「予科67番、後期10番」であり、入学当初は上の下、卒業時は上の上に位置する[145]。将校としての出世の登竜門である陸大受験には父英教のほうが熱心であり、薦められるままに1908年(明治41年)に1度目の受験をするが、準備もしておらず初審にも通らなかった[145]。やがて父の度重なる説得と生来の負けず嫌いから勉強に専心するようになり、1912年(明治45年)に3度目にして合格[145]。受験時は合格に必要な学習時間を計算し、そこから一日あたりの勉強時間を割り出して受験勉強に当たったという[145]。陸大の席次は11番、軍刀組ではないが、海外勤務の特権を与えられる成績であった[145]。

オトポール事件に際し、関東軍参謀長であった東條は、ハルビン特務機関長としてユダヤ人難民を助ける決断を行った樋口季一郎少将を新京の関東軍司令部に呼び出して事情を尋ねた[146]。樋口は、日露戦争に際してユダヤ人が日本を支援したことに明治天皇が述べた感謝の言葉と、「五族共和」「八紘一宇」の理念に言及した上で、ナチス・ドイツ(当時、日本とドイツは日独防共協定を結んでいた)のユダヤ人弾圧政策に日本が追随する理由はない、とユダヤ人に対する人道的対応の正当性を主張した[146]。東條は同意し、樋口の決断を不問とした[146]。関東軍や、独断専行を行う東條にはむしろ批判的であった樋口であるが、後に「東条は頑固者だが、筋さえ通せば話は分かる」と述べた[146]。
女性に対して禁欲的であり、浮いた話が一切なかった[14]。無類の愛妻家であり、かつ子夫人との夫婦仲は終生にわたって良かった[14]。

詳細は「東條かつ子#英機との夫婦仲」を参照

東條邸跡の碑(東京都世田谷区用賀一丁目)

金銭や蓄財に対しても禁欲的であった。陸軍大臣に就任した昭和15年に、世田谷の用賀に「私邸」を建て始めたが、建坪30坪のささやかな家であり、配給の資材を使って少しずつ工事を進めた[14]。東條は昭和19年7月に首相・陸相・参謀総長などの公職を全て退き、7月22日付で予備役に編入された[147]。その後、東條内閣の閣僚だった内田信也が自動車で用賀に行って「東條の屋敷」をいくら探しても見つからず、苦労して東條の家にたどり着いた経緯を下記のように述べている[14]。

先ごろ初めて東条邸を訪ねましたが、まずここだと車を入れたのが鍋島侯爵〔旧・佐賀藩主〕邸で、次は某実業家の屋敷でした。ようやく探し当てたのは噂には及びもつかない粗末な家で、せいぜい秘書官官舎程度だったのには驚きました。
— 内田信也。〔〕内は引用者が挿入、[14]

首相秘書官を務めていた鹿岡円平が、重巡洋艦「那智」艦長としてマニラ湾で戦死すると、家で飼っていた犬に「那智」と名づけて鹿岡を偲んでいたらしい[148]。
1941年(昭和16年)頃に知人からシャム猫を貰い、猫好きとなった東條はこれを大変可愛がっていた[149]。

日米開戦の直後、在米の日本語学校の校長を通じて、アメリカ国籍を持つ日系2世に対して、「米国で生まれた日系二世の人達は、アメリカ人として祖国アメリカのために戦うべきである。なぜなら、君主の為、祖国の為に闘うは、其即ち武士道なり…」というメッセージを送り、「日本人としてアメリカと戦え」という命令を送られると予想していた日系人達を驚かせた[注釈 21]。

部下の報告はメモ帳に記し、そしてその内容を時系列、事項別のメモに整理し、箱に入れて保存する。また(1)年月順、(2)事項別、(3)首相として心掛けるべきもの、の3種類の手帳に記入という作業を秘書の手も借りずに自ら行っていた[150][89]。
精神論を重要視し、戦時中、それに類する抽象的な意見をしばしば唱えている。一例を挙げれば、コレヒドール島での日本軍の猛攻に対して、米軍が「精神が攻撃した」と評したことに同感し「飛行機は人が飛んでいる。精神が飛んでいるのだ。」と答えている[151]。

陸軍飛行学校を訪れた時、東條はそこの訓練生にこんな質問をした。「敵の飛行機は何によって墜とすか。」訓練生が機関銃や高角砲で墜とします、と答えると「銃によって墜とすと考えるのは、邪道である。どこまでも、魂によって敵にぶつかっていかなければ、敵機を墜とすことはできない。この気迫があってはじめて機関銃によって撃墜できる。」と訓示した。これを、小谷賢(日本大学教授)は、論理的合理性を外れて精神的なところを重視している、と指摘している[152]。

何代もの総理大臣に仕えた運転手が、「歴代総理のうちでだれが一番立派だったか」と聞いたところ、「東條閣下ほど立派な方はおられない」と答えた[153]。理由は「隅々まで部下思いの方だったから」ということで、「あることをすれば、どこの誰が困り、面目を失するか」と相当の気配りを懸念していた人物だから案外と人気があった[153]。それゆえに総理のときには陸軍大臣を兼任し、最後には参謀総長まで兼任できるだろうと答えた[153]。

東條はドイツ留学時、軍馬の研究に生かすため、欠かさず競馬の観戦に行っていた[154]。しかし、ある日、下宿先に帰ってくると、「競馬に行くのは、もうきょうかぎりで止めにした」と下宿先のエルゼ・シュタム夫人に宣言した[154]。理由は「きょうの競馬の最中、一頭の馬がつまずいて転倒して、脚を折ってしまった。無用の苦痛をあたえないために馬はその場で射殺されたが、その有様があまりにも残酷で、とても見ていられなかった。競馬があんなにむごいものだとは、知らなかった。もう二度とふたたび、競馬には行かない。」とのことで、競馬の残酷な側面に気づかされたためであった[154]。

処刑前日の夕食は米飯、みそ汁、焼き魚、肉、コーヒー、パン、ジャムといった“和洋折衷”のメニューで、東條は「一杯やりたい」などと笑っていたという[155]。

遺言

詳細は「東條英機の遺言」を参照

東條の遺書といわれるものは複数存在する。一つは1945年(昭和20年)9月3日の日付で書かれた長男へ向けてのものである。他は自殺未遂までに書いたとされるものと、死刑判決後に刑が執行されるまでに書いたとされるものである(逮捕直前に書かれたとされる遺書は偽書の疑いがある)。

家族に宛てたもの

日本側代表団が連合国に対する降伏文書に調印した翌日の1945年(昭和20年)9月3日に長男へ向けて書かれたものがある。東條の直筆の遺言はこれの他、妻勝子や次男など親族に宛てたものが複数存在する。

処刑を前にした時のもの

処刑前に東條が書き花山教誨師に対して口頭で伝えたものがある。書かれた時期は判決を受けた1948年(昭和23年)11月12日から刑が執行された12月24日未明までの間とされる。花山は聞いたことを後で書いたので必ずしも正確なものではないと述べている。また東條が花山教誨師に読み上げたものに近い長文の遺書が東條英機の遺書として世紀の遺書に収録されている[156]。

逮捕前に書かれたとされるもの(偽書の疑いあり)

1945年(昭和20年)9月11日に連合国に逮捕される前に書かれたとされる遺書が、1952年(昭和27年)の中央公論5月号にUP通信のE・ホーブライト記者記者が東條の側近だった陸軍大佐からもらったものであるとの触れ込みで発表されている。この遺書は、東京裁判で鈴木貞一の補佐弁護人を務めた戒能通孝から「東條的無責任論」として批判を受けた。また、この遺書は偽書であるとの疑惑も出ている。保阪正康は東條の口述を受けて筆記したとされる陸軍大佐2人について本人にも直接取材し、この遺書が東條のものではなく、東條が雑談で話したものをまとめ、米国の日本がまた戦前のような国家になるという危惧を「東條」の名を使うことで強めようとしたものではないかと疑問を抱いている[157]。

子孫

1941年、東條かつ子(左)、東條由布子(中央)と

英機・かつ子夫妻は7人の子供を儲けた。

長男の東條英隆は、首都圏警察に勤め、英機が関東軍憲兵司令官であったときに仕事で満州にあり、1936年に結婚。新京神社で挙式した。その後、鴨緑江発電職員になった。弱視のため兵役免除を受けていたが、太平洋戦争末期に海軍から召集を受け、横須賀で終戦を迎えたという[158]。戦争敗北が近くなると、東條家の通字の「英」を持つこともあり、一家は特に迫害の対象になり、転職や就学もままならず、長く東京を離れて伊豆の伊東に居住し、英隆は英機が収監された巣鴨に行くこともなかったという[159]。戦後は日本船舶振興会に勤め、1966年55歳没。

次男の東條輝雄は、零戦や戦後初の国産旅客機である日本航空機製造YS-11、航空自衛隊のC-1の設計に携わった技師で、三菱重工業の副社長を経て、三菱自動車工業の社長・会長を1981年から1984年まで務めた。
三男の東條敏夫は、息子たちの中で唯一軍人の道を進み、陸軍予科士官学校(59期)に進学、陸軍士官学校在校中に終戦を迎えた。戦後、航空自衛隊に入隊し、空将補にまで昇進した。

他には長女の光枝(陸軍軍人・自衛官・実業家の杉山茂と結婚[160])、次女の満喜枝(陸軍軍人で宮城事件で自刃した古賀秀正と結婚、後に社会学者田村健二と再婚)、三女の幸枝(映画監督の鷹森立一と結婚)、四女の君枝(アメリカの実業家デニス・ルロイ・ギルバートソンと結婚しキミエ・ギルバートソンと名乗る)がいた。

英機・かつ子夫妻の孫は14人とされる[161]。A級戦犯分祀反対を唱えた東條由布子(本名:岩浪淑枝)は長男の英隆の子。同じく英隆の子(英機の孫)・東條英勝は西武運輸に勤務した[注釈 22]。英勝の子(英機の曽孫)・東條英利は国際教養振興協会代表理事[162]。

年譜

1905年(明治38年)
    3月30日 - 陸軍士官学校を卒業(17期生)。
    4月21日 - 陸軍歩兵少尉に任官。近衛歩兵第3連隊附。
1907年(明治40年)12月21日 - 陸軍歩兵中尉に昇進。
1912年(大正元年) - 陸軍大学に入学。
1915年(大正4年)12月11日 - 陸軍大学を卒業。陸軍歩兵大尉に昇進。近衛歩兵第3連隊中隊長。
1916年(大正5年) - 陸軍兵器本廠附兼陸軍省副官。
1919年(大正8年)8月 - 駐在武官としてスイスに赴任。
1920年(大正9年)8月10日 - 陸軍歩兵少佐に昇任。
1921年(大正10年)7月 - 駐在武官としてドイツに赴任。
1922年(大正11年)11月28日 - 陸軍大学校兵学教官に就任。
1923年(大正12年)
    10月5日 - 参謀本部員(陸大教官との兼任)。
    10月23日 - 陸軍歩兵学校研究部員(陸大教官との兼任)。
1924年(大正13年) - 陸軍歩兵中佐に昇進。
1926年(大正15年)3月23日 - 陸軍省軍務局軍事課高級課員兼陸軍大学校兵学教官に就任。
1928年(昭和3年)
    3月8日 - 陸軍省整備局動員課長に就任。
    8月10日 - 陸軍歩兵大佐に昇進。
1929年(昭和4年)8月1日 - 歩兵第1連隊長に就任。
1931年(昭和6年)8月1日 - 参謀本部総務部第1課長(参謀本部総務部編成動員課長[5])に就任[16]。
1933年(昭和8年)
    3月18日 - 陸軍少将に昇進。参謀本部付。
    8月1日 - 陸軍省軍事調査委員長に就任。
    11月22日 - 陸軍省軍事調査部長に就任。
1934年(昭和9年)
    3月5日 - 陸軍士官学校幹事に就任。
    8月1日 - 歩兵第24旅団長に就任。
1935年(昭和10年)
    8月1日 - 第12師団司令部付。
    9月21日 - 関東憲兵隊司令官兼関東局警務部長に就任。
1936年(昭和11年)12月1日 - 陸軍中将に昇進。
1937年(昭和12年)3月1日 - 関東軍参謀長に就任。
1938年(昭和13年)
    5月30日 - 第1次近衛内閣の陸軍次官に就任(1938年(昭和13年)12月10日まで)。
    6月18日 - 陸軍航空本部長に就任(1940年(昭和15年)7月22日まで)。
    12月10日 - 陸軍航空総監に就任(1940年(昭和15年)7月22日まで)。
1940年(昭和15年)
    2月24日 - 臨時軍事参議官に就任(1940年(昭和15年)2月26日まで)。
    7月22日 - 第2次近衛内閣の陸軍大臣兼対満事務局総裁に就任。
1941年(昭和16年)
    7月18日 - 第3次近衛内閣の陸軍大臣兼対満事務局総裁に留任。
    10月18日 - 東條内閣の内閣総理大臣に就任。
    同日 - 陸軍大臣兼対満事務局総裁に留任(対満事務局総裁は1942年(昭和17年)11月1日まで)。
    同日 - 内務大臣に就任(1942年(昭和17年)2月17日まで)。
    同日 - 陸軍大将に昇進。
1942年(昭和17年)9月1日 - 外務大臣に就任(1942年(昭和17年)9月17日まで)。
1943年(昭和18年)
    4月20日 - 文部大臣に就任(1943年(昭和18年)4月23日まで)。
    10月8日 - 商工大臣に就任(1943年(昭和18年)11月1日まで)。
    11月1日 - 軍需大臣に就任。
1944年(昭和19年)
    2月21日 - 参謀総長に就任。
    7月18日 - 参謀総長を免職。
    7月22日 - 内閣総理大臣、陸軍大臣、軍需大臣を辞任。
    同日 - 予備役に編入。
1945年(昭和20年)
    9月11日 - 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により東條逮捕の指令が出される。
    同日 - 自殺未遂。
1948年(昭和23年)12月23日 - 極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯となり、刑死。

栄典

位階

1905年(明治38年)5月26日 - 正八位[163][164]
1908年(明治41年)3月20日 - 従七位[163][165]
1913年(大正2年)5月20日 - 正七位[163][166]
1918年(大正7年)7月10日 - 従六位[163][167]
1923年(大正12年)11月30日 - 正六位[163][168]
1928年(昭和3年)9月15日 - 従五位[163][169]
1933年(昭和8年)4月1日 - 正五位[163][170]
1937年(昭和12年)12月26日 - 従四位[163][171]
1939年(昭和14年)2月1日 - 正四位[163]
1940年(昭和15年)8月1日 - 従三位[163][172]
1942年(昭和17年)8月15日 - 正三位[163][173]
1944年(昭和19年)7月28日 - 従二位[163]

勲章等

1906年(明治39年)4月1日 - 勲六等瑞宝章・明治三十七八年従軍記章[163]
1913年(大正2年)5月31日 - 勲五等瑞宝章[163][174]
1920年(大正9年)6月25日 - 勲四等瑞宝章[163][175]
1920年(大正9年)11月1日 - 旭日小綬章・大正三年乃至九年戦役従軍記章[163]
1928年(昭和3年)9月29日 - 勲三等瑞宝章[163][176]
1934年(昭和9年)4月29日 - 勲二等旭日重光章・昭和六年乃至九年事変従軍記章[163]
1937年(昭和12年)7月7日 - JPN Zuiho-sho (WW2) 1Class BAR.svg 勲一等瑞宝章[163]
1940年(昭和15年)
    4月29日 - JPN Kinshi-kunsho 2Class BAR.svg 功二級金鵄勲章・支那事変従軍記章[163]
    9月11日 - JPN Kyokujitsu-sho 1Class BAR.svg 旭日大綬章[163][177]

外国勲章佩用允許

1937年(昭和12年)12月1日 - 満州帝国:勲一位柱国章[178]
1940年(昭和15年)9月9日 - 満州帝国:勲一位景雲章[179]
1941年(昭和16年)6月27日
    イタリア王国:聖マウリッツィオ・ラザロ勲章グランコルドーニ[180]
    タイ王国:レレファンブラン勲章グランクロア[180]
Order of the White Elephant - Special Class (Thailand) ribbon.svg 白象勲章勲特等 :1942年(昭和17年)2月9日[181]
特級同光勲章:1943年(昭和18年)6月2日[182]
勲一位龍光大綬章 :1942年(昭和17年)9月14日[183]
Order of Chula Chom Klao - 1st Class (Thailand) ribbon.svg チュラチョームクラーオ勲章グランド・クロス :1943年(昭和18年)7月23日[184]
DEU Deutsche Adlerorden 1 BAR.svg ドイツ鷲勲章大十字章 :1940年(昭和15年)1月18日[185]
建国神廟創建記念章 :1942年(昭和17年)2月20日[186]

著作

中央教化団体聯合会 編「極東の情勢に就いて」 『重畳せる非常時諸相の検討』中央教化団体聯合会〈国民更生叢書 第12編〉、1934年2月。 NCID BB05698328。全国書誌番号:44024500。
「ソ支二正面同時作戦と国民の覚悟」 『ロシヤ来るぞ!』帝国軍事協会、1939年2月、34-37頁。 NCID BA79920491。全国書誌番号:44045874。
『戦陣訓 国民義解』岡山研堂訳編、教材社、1941年3月。 NCID BA58040445。全国書誌番号:44036797。
『大東亜建設宣言 東条首相獅子吼集』アジア青年社〈世界維新叢書 第1輯〉、1942年2月。全国書誌番号:44022180。
高鳥正 編 『大東亜戦争に直面して 東条英機首相演説集』改造社、1942年2月。 NCID BN15127576。全国書誌番号:46008519。
『一億の陣頭に立ちて 東条首相声明録』山中峯太郎編述、誠文堂新光社、1942年2月。 NCID BA45388657。全国書誌番号:46008521。
『必勝の大道 東条総理大臣議会演説答弁集』同盟通信社政経部編、同盟通信社、1943年5月。 NCID BN1014602X。全国書誌番号:46008520。
日本経済聯盟会 編 『戦時生産の増強促進に関する東条内閣総理大臣閣下の演説』日本経済聯盟会、1943年12月。 NCID BN10398667。全国書誌番号:44033702。
Texto completo do discurso pronunciado pelo general Tojo, presidente do conselho do Japão, na abertura da seeão extraordinária da dieta, 16 de junho de. Legação Imperial do Japão em Lisboa. (1943). NCID BA21757704
『天皇に責任なし責任は我に在り 東条英機宣誓供述書』東京裁判研究会編、洋々社、1948年1月。 NCID BA31267563。全国書誌番号:61003845。
    東條由布子 編 『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』(改題改訂版)ワック、2005年8月。ISBN 9784898310830。 NCID BA73047279。全国書誌番号:20978615。
    東條由布子 編 『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』(改訂新版)ワック〈WAC BUNKO B-109〉、2009年8月。ISBN 9784898316092。 NCID BB0011914X。全国書誌番号:21643277。

東條英機を描いた作品

東條は独特の風貌(剥げ頭と髭)とロイド眼鏡、甲高い声音と抑揚を持つ。東條役の俳優にとっては、それらの特徴を強調したメーキャップや演出を施せば、たとえ容姿がそれほど似通っていなくても演じることができた。
小説

有馬頼義「左利きの独裁者――東條英機の悲劇」 『時代小説大全集』 6(人物日本史 昭和)、新潮社〈新潮文庫〉、1991年9月、67-112頁。ISBN 9784101208152。
松田十刻 『東条英機――大日本帝国に殉じた男』PHP研究所〈PHP文庫〉、2002年8月。ISBN 9784569577883。

映画

『総統の顔』(1943年)- 東條役:不詳(日本では未公開) ※ディズニーアニメ
『東京スパイ大作戦』(1945年)- 東條役:ロバート・アームストロング
『日本の悲劇・自由の声』(1946年)-(本人出演)
『大東亜戦争と国際裁判』(1959年)- 東條役:嵐寛寿郎
『皇室と戦争とわが民族』(1960年)- 東條役:嵐寛寿郎
『激動の昭和史 軍閥』(1970年)- 東條役:小林桂樹
『トラ・トラ・トラ!』(1970年)- 東條役:内田朝雄
『戦争と人間 第三部 完結編』(1973年)- 東條役:井上正彦
『大日本帝国』(1982年)- 東條役:丹波哲郎
『帝都大戦』(1989年)- 東條役:草薙幸二郎
『プライド・運命の瞬間』(1998年)- 東條役:津川雅彦
『スパイ・ゾルゲ』(2003年)- 東條役:竹中直人
『南京の真実』第一部「七人の死刑囚」(2008年)- 東條役:藤巻潤
『終戦のエンペラー』(カナダ2012年・アメリカ&日本2013年)- 東條役:火野正平
『日本のいちばん長い日』(2015年)- 東條役:中嶋しゅう
『アフリカン・カンフー・ナチス』(2020年)- 東條役:秋元義人

テレビ

『落日燃ゆ』(1976年、NET)- 東條役:若宮大祐
『日本の戦後 審判の日』(1977年、NHK)- 東條役:小沢栄太郎
『大いなる朝』(1979年、TBS)- 東條役:南原宏治
『山河燃ゆ』(1984年、NHK)- 東條役:渥美國泰
『昭和16年の敗戦』(1991年、フジテレビ)- 東條役:高松英郎
『命なりけり 悲劇の外相東郷茂徳』(1994年、TBSテレビ)- 東條役:すまけい
『あの戦争は何だったのか 日米開戦と東条英機』(2008年、TBS)- 東條役:ビートたけし
『落日燃ゆ』(2009年、テレビ朝日)- 東條役:小峰隆司
『経世済民の男 第三部 鬼と呼ばれた男〜松永安左エ門』(2015年、NHK)- 東條役:大竹まこと
『二つの祖国』(2019年、テレビ東京)- 東條役:ビートたけし 』

若い台湾人男女には最低1年の軍事訓練を研修してもらう必要があります…。

若い台湾人男女には最低1年の軍事訓練を研修してもらう必要があります…。
https://st2019.site/?p=20555

 ※ オレの母方のおじ(伯父)は、海軍の兵隊に採られた…。

 ※ 半年間新兵として、訓練受けたらしい…。

 ※ 出征前、実家に帰ることが許されて、家族一同集まって会食したそうだ…。

 ※ その時の、母親の話しでは、「あんなに優しそうだったのに、人相が変わってしまっていた…。」と…。

 ※ そりゃそうだろう…。内陸の、海なんか「見たこともない」地域の出身だ…。川でしか、泳いだことも無い…。

 ※ そういう人間を、半年で、「海兵」に仕立て上げるわけだ…。

 ※ カッター訓練から、やるんだろう…。尻の皮なんか、軽く「剥ける」に違いない…。

 ※ それでどうなったかと言うと、見事に「戦死」した…。

 ※ それも、南方に兵員輸送中に、戦地で戦う前に、「沈められた」らしい…。

 ※ 「軍事機密」とかで、どこで「沈んだのか」も、知らされなかったという話しだ…。

 ※ もちろん、「遺骨」「身辺の遺品」なんか、何も無い…。

 ※ それでも、遺族(オレの母親の母。オレのばあちゃん)には、「軍人恩給」が支給されたらしい…。

 ※ ホンの、「子どもの小遣い」程度のものだったらしいが…。

 ※ それでも、ばあちゃんは、母親たちに「小遣い」くれたりする時、その戦死した息子(伯父)のことを、懐かしんで、昔語りしたりしていたらしい…。

『Lawrence Chung 記者による2022-10-30記事「Better training needed if Taiwan extends mandatory military service, experts say」。

   前の国防長官のマイク・エスパーは7月19日に訪台して、若い台湾人男女には最低1年の軍事訓練を研修してもらう必要がありますよ、と語っている。

 しかし蔡政権は、11月に地方選挙を控えているため、この不人気必至政策については、いまのところ、あまり語らないようにしている。

 台湾の国防相は、今月前半に予告。蔡政権は年末に、徴兵任期延長について声明する――と。

 げんざい、台湾のあちこちで、4万人の徴兵が、なんらかの訓練を受けているはず。※それは4ヵ月コースだから、3倍すると1年で12万人弱か。

 1987年以前、台湾の徴兵は、3年間の服務が義務付けられていた。
 ソ連がすっかり弱くなった1990年、それは2年間に短縮された。
 そして2008年には、1年間に短縮。

 2017年には、台湾軍を完全志願制へ移行させるステップとして、徴兵年限はたったの4ヵ月に短縮された。

 いまから3年前、台湾軍の現役兵は27万5000人であったが、今日、それは16万5000人に減っている。対岸の中共軍は、兵力200万人である。

 いま22歳の会計事務所勤務社員君。かつて4ヵ月の軍事教練で習ったことは、もうほとんど忘れているという。

 この青年いわく。建前だと、前半8週間で基礎的な戦闘訓練を受け、後半8週間で〔兵科・兵器別の〕特技訓練を受けることになってはいるのですがね。ところが、新兵を受け入れるプロ軍隊の側に、それを教えられる体制がほとんどないのが実態なんです。で、どうなるかというと、徴兵は4ヵ月の間、浴場清掃、営内の床磨き、駐屯地の落ち葉清掃だけを延々と繰り返して、それでおしまいです。

 ※そうだったのか。この記事を読んでようやく理解した。俺の体験では、日本の80年代の元少年院の社会的逸脱者どもであっても、みっちりと3ヵ月教練を受ければ、いっぱしの兵隊らしくなったものなのだ。「教育隊」というものがまともに機能していれば、3ヵ月でもじゅうぶんである。それが4ヵ月でもじゅうぶんでないというのは、むしろ軍隊の方に「病巣」があったのだ。台湾軍が抱えている不健全体質は、徴兵期間などではなかった。そもそも一般人の徴兵を受け入れて兵隊らしく教練しようという体制が、台湾軍の中に、文化として、無かったのである。その歴史的な由来は、国民党系とそれ以外系の、多年の相互不信であろう。おそらく国民党側では、多数の市民を軍人らしく育ててしまうと、国内で反国民党反乱が起きると恐れていた時代が長かった。それがいまだに軍隊の健全化を妨げているのだろう。

 この会計事務員氏いわく。4ヵ月のあいだ、小銃の実弾射撃の機会は10回未満であったと。また手榴弾投擲は、実弾が足りないので、バドミントンのシャトルや、濡れタオルを使って、投擲動作だけを演練したと。

 ※そんなの自衛隊でも同じだよ。俺は2年間陸自にいて、一度も実弾の手榴弾を放ったことはないよ。実弾を濫費すれば兵隊が強くなるのなら、タリバン、IS、アルシャバブ最強だ。

 台湾でも出生率は下がっている。2011年には19万7000人の新生児がいた。2021年には15万4000人だった。

 ※台湾に必要なのは、非国民党軍系の優秀な「教育隊」と、まともな「練兵場」「演習場」だ。徴兵をローテーションで豪州の砂漠までツアーさせ、そこにて米軍からコーチしてもらうのが、いちばんの解決法ではないか。』

露の民族浄化にウクライナ軍の大攻勢はいつ起きると蒙古襲来

北の国から猫と二人で想う事 livedoor版:露の民族浄化にウクライナ軍の大攻勢はいつ起きると蒙古襲来
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『2022年10月17日:いま世界が注目しているのは、何時、南部ヘルソン州Khersonでのウクライナ軍の攻撃が始まるかだ。兵員や兵器の配備も着々と進んでいるようだが、それを察知しているロシアは、ウクライナ軍の武力の分散化を狙ってか、敢えてベラルーシでの合同軍の強化を公表している。

ウクライナのゼレンシキー大統領は10月15日、ウクライナが敵のミサイルと無人機を100%撃墜できるようになる日は必ず来ると発言した。ゼレンシキー氏が同日夜の動画メッセージで発言した。

各国からの支援武器や訓練を受けた兵士が日に日にウクライナへ到着している。 参照記事  映像:17日投稿のウクライナ軍クピンスクkupianskでの地上戦 過去ブログ:2022年10月破壊が目的と化した露軍に明日はあるのか? 10月10日の露軍攻撃に対するウクライナ司令部報告

map03、、、鎌倉時代のなかば、1274年(文永11)と1281年(弘安4)の2回にわたり行われたフビライ=ハン(蒙古、モンゴル;元)の命令による、モンゴル軍、半島の属国高麗軍、現中国の江南軍合同軍が仕掛けた元寇(蒙古襲来)では、鎌倉武士団と元軍との兵員差は最大15倍だったと言われる。

1回目を武士団は多くの犠牲を払うも刀と弓で追い払い、国家の存亡をかけた2度目の大軍の襲来では、幸い神風が吹いて、元軍15万が博多湾で全滅した。

当時世界一とも言われたモンゴル・フビライ軍から武士たちは日本を守ったのだ。

時の執権北条時宗は元軍の遺体を弔い、KN056401後に鎌倉に円覚寺を建立(1282)して供養し、自身の墓もそこに定め、円覚寺には、元寇の戦死者が,日本人・モンゴル人関係なく弔(とむら)われている(この宗教観が韓国には理解できない)。そんな歴史を思い出した。

核兵器の保有数で行けば、ロシア軍は今世界一である。ウクライナにとって、今が「いざ鎌倉」か?写真右:鎌倉市、臨済宗円覚寺派の大本山、円覚寺・舎利殿(国宝)。鎌倉時代に禅宗とともに宋(中国)から日本に渡来した禅宗様建築 映像:15倍差の兵力を覆した最強の鎌倉武士団|

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ロシアは、ジェノサイド犯罪の防止と処罰に関する条約への明らかな違反に加えて、意図的な民族浄化ethnic cleansing キャンペーンに相当している可能性が高い。

ウクライナ人の大規模で強制的な国外追放を実施し続けているロシアのマラト・フスヌリン副首相Russian Deputy Prime Minister Marat Khusnullin:左 は、2022年10月14日、ヘルソン州Khersonの「数千人」の子供たちが「すでにロシアの他の地域にいて、養護施設や子供たちのキャンプで休んでいる」と述べた。

ISWが以前に報告したように、ロシアはジェノサイド犯罪の防止と処罰に関する条約の違反を構成する可能性のある方法で、ウクライナの占領地域から、民族浄化とも言える、ロシアの家族との養子縁組のために子供を分離、隔離している事を公然と認めている。英文記事FireShot Webpage Screenshot #2154 – ‘At Novopavlivk、、、、

マリウポリMariupolで起きたように、露軍は占領地でのウクライナ人市民の移動を禁じ、攻撃に対し市民を盾に使う可能性がある。右下は、2022年10月17日掲載の戦況図で、赤いマークがロシアが側の地上,ロケット攻撃を示している。

FireShot Webpage Screenshot #2156 – ‘キーウで複数回の爆発音ウクライナの全域にある青いマークは、16日から17日にかけて、ウクライナ軍が露ミサイル攻撃の警報を出した地域を示している。参照記事 17日も首都キーウへ露軍の無人機攻撃が在り、3機が撃墜された;左。参照記事 英文記事(写真:無人機の残骸)過去ブログ:2022年4月徹底抗戦のマリウポリのアゾフ大隊 3月マリウポリへの執拗な攻撃はプーチンの恨み晴らし?』

余談。 明治38年9月に、日比谷で暴動が起きた。

余談。 明治38年9月に、日比谷で暴動が起きた。
https://st2019.site/?p=20311

 ※ 日清戦争の講和条約である「下関条約」では、「巨額の賠償金」を獲得することができた。

 それを「元手」にして、「八幡製鉄所」なんか建てて、日本経済の「構造」を、「軽工業(繊維工業なんか)」中心から、「重工業」へと移行することができたという話しは、あまりに有名。

 中学の「社会」で、習っただろ?(教えていなければ、教師の怠慢。自分で、補おう)
 しかし、日露戦争の時は、実質は「ほぼ引き分け」であったし、「列強の干渉」も入ったため、「賠償金」は獲得できなかった…。

 それを、「不満」に思うヤカラ達及びそれに便乗して騒ぐ有象無象(自分たちの身内、親類、縁者、友達が戦死・負傷しているのに、何たることだ!)が、騒いで「暴動」となった。

 これも、あまりに有名な話し。「日比谷焼き打ち事件」とか、称しているようだな…

『ポーツマス媾和条約の内容が気に食わないというのだ。いったいその元気満々の野郎たちはどうしてそれまで徴兵されず、満洲に送られていなかった?

 これが「輸送(補給)手段の限界」というやつなのだ。

当時の日本に馬と輜重荷車が余っていて、軽便鉄道資材も十分にあったなら、それら暴徒たちを余すところなく徴兵して後備兵として満洲送りにしてしまい、最前線警備中の現役兵と交替させて、現役徴兵の帰郷復員を急がせることぐらいは、簡単に実現できたのである。』

三増峠の戦い~信玄が北条を返り討ち!山岳戦で見せた火の如し機動力

三増峠の戦い~信玄が北条を返り討ち!山岳戦で見せた火の如し機動力
https://bushoojapan.com/bushoo/takeda/2016/12/15/89334

『【編集部より】

三増峠の戦い(みませとうげのたたかい)とは、永禄12年(1569年)10月8日、小田原城を攻撃していた武田信玄が包囲を解いて甲州へ向けて撤退。それを追撃してきた北条軍を三増峠付近(現在の神奈川県西部の愛川町)で迎え撃ち、勝利した戦いである。信玄の戦上手を知らしめる戦いであるとともに、のちの家康に大勝する三方ヶ原の戦いにつながる戦法として戦国マニアに知られている戦いだ。このマニアックな三増峠の戦いを、ブログ「マイナー・史跡巡り」の筆者の玉木 造さんが現地を訪れて詳細にレポートした。そのルポと解説した記事を転載させていただいた。早速ご覧いただきたい。』

『【本文ここから】

三増峠の戦いをレポートしたいと思います。
武田信玄や、北条氏康の大ファンであれば、良くご存じの大変有名な大戦(おおいくさ)ですね。
戦死者の数が、4000人も出た戦は、山岳戦では、トップクラスに大きいと思われます。
それと、この戦(いくさ)を取り上げたかったのは、実は武田信玄は、この戦をしたくて、わざわざ軽井沢方面から関東を南下縦断して、小田原攻めをしたのではないかと私は思っているからです。
50歳の老練な信玄公の、関東の雄である北条氏へ見せつけた知略と山岳戦の上手さ!
まず、この戦にいたる背景を説明します。

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戦いに至る背景
コラム 東光寺の紅葉
武田信玄の小田原攻め
信玄の山岳戦~三増峠の戦い

戦いに至る背景

1.甲相駿三国同盟

さて、下の図を見て下さい。上段の勢力図にあって、下段に無いのが「今川家」です。そう、今川義元が桶狭間の戦い(1560年)で織田信長に殺されてから10年後の勢力図には、今川領である静岡県は、武田家と徳川家の版図に塗り替えられているのです。

実は、甲斐の武田信玄と相模の北条氏康、駿河の今川義元との間で、桶狭間の6年前である1554年に甲相駿三国同盟を結んでいました。当時、武田は隣国信濃(長野県)が気掛かり、北条は隣国武蔵(東京・埼玉)、安房(千葉)が気がかり、今川は織田等の西側が気がかりという隣国が気になる三国が固く結んだ同盟がありました。この同盟のお蔭で今川義元は後方の憂い無く、上洛を開始した訳ですが、桶狭間で討ち取られてしまうという失態を犯した訳です。

単なる約定の交換だけでなく、下の図のように、自分達の嫡子の処に、娘を嫁がせるという政略結婚付です。このように単なる紙切れの約束にしておかないことで、強固な約定となる訳ですが、信玄も氏康も自分の息子や娘が、この同盟が破られるとき、こんなになってしまう、代償の大きさがここまでとは思っていなかったでしょうね。後で詳細をお話します。

今川義元の息子は氏真ですが、これは暗愚で、蹴鞠だけ、やたらと上手いがそれ以外はダメという人物だったらしく、人心は離れます。
一方、「敵に塩を送る」(上杉謙信が武田信玄に塩を送った)の話で、海が無い武田領は有名で、信玄は海がある土地に版図を拡大するのが夢でした。
桶狭間での今川の失態は、信玄が駿河を手中にして、海に出る千載一遇の好機です。早速彼は、駿河侵攻の計画を進めようとします。

2.駿河侵攻

当然、そうなると信玄は、三国同盟を破棄することになるのですが、これに大反対するのは、長男の武田義信です。そう、右図にあるように、この同盟で、彼は今川義元の娘を妻として迎え入れているのです。当然彼は駿河侵攻による今川撃滅に大反対します。同盟破棄の障壁第1弾です。

この義信、名前にも「義」があるように、義に篤く、かなり優秀かつ人望のある人物だったらしく、彼が駿河侵攻反対を強く主張すればするほど、信玄は慌てます。それは信玄がかつて、自分の父親である信虎を国外追放したように、下手をすれば自分も義信により国外追放となる、そこまで行かなくても、強固な武田軍団が2つに割れてしまう。

困った信玄は、結局義信を幽閉します。そして2年後に義信は幽閉先で死ぬのです。

義信が幽閉されていた東光寺(甲府市)

父親を追放してでも、優秀な嫡男を殺してでも、やりたいことをやる。極悪非道の信玄と、謙信は揶揄します。「人は石垣、人は城」と家臣、人民に情が厚い信玄は、その代わりというか、肉親には厳しかったようですね。
そして、信玄は徳川家康と共謀し、駿河侵攻に着手します。
予想通り、今川氏真は、ほぼ総崩れです。駿府(静岡市)からほうほうの体で、掛川へ逃げていきます。

ここで同盟破棄の障壁第2弾が発生します。

氏真の妻は北条氏康の娘で、早川殿と言われました。かなり美人で気立てが良い娘らしく、現代のゲームのキャラクターにも大体美人に描かれております。
彼女は、この時今川氏真に従い、掛川へ逃げたのですが、乗り物も用意できず、徒歩で、ボロボロになって逃れたと言います。

これを聞いて怒ったのは、北条氏康です。そりゃそうです、大事な可愛い娘が大変なことになったのですから。同じ娘を持つ父親として共感出来ます。(`A´)
当然、怒りの矛先は信玄に向かう訳です。

さてその後、色々と北条は武田軍の駿河侵攻が上手く行かないよう妨害をします。長くなるので詳細は、後日別シリーズのブログに譲りますが、それらの妨害に会いながらも、結果的には戦国大名としての今川家を滅ぼし、信玄の思ったようになっていくのです。

3.信玄の小田原攻め

さて、今川家は崩壊しましたが、この駿河侵攻において、北条の数々の妨害策に煮え湯を飲まされた信玄も、このまま黙って北条を野放しには出来ません。特に北条はこの三国同盟が無くなってから、上杉謙信と約定を結び、連携して武田の国境を脅かす危険性が高まってきました。

そこで信玄は、北条軍に釘を刺しに行くことを決意します。

信玄としては、駿河を手中に収めることは、単に海に出たかったということもありますが、西上し、上洛を果たすためにも、東海道上にあるこの駿河を押えておきたかったのでしょう。海上輸送による上洛軍援護のための水軍を編成させたことからも、このことは明らかです。

ということは、信玄が上洛する最中に、北条軍が自分の領土の東側から攻めてこられては困るのです。背中から襲われる形になりますので。
したがって、一度、北条軍には武田軍の底力を知って、武田軍を畏れて貰う必要があると考えたのでしょう。

そこで、北条氏の版図内にて、武田軍の示威軍事行動を起こすのです。
この行動の詳細と、三増峠の戦いにおける両軍の勝敗については、長くなりますので次の章にて書きたいと思います。

コラム 東光寺の紅葉

余談ですが、武田信玄の嫡男、義信が廃嫡された後、幽閉され亡くなった東光寺に行ってきました。
前にも書きましたが、義信は義に篤く、勇に優れた男だったらしく、この駿河侵攻についても、義を通しただけと考えているのでしょう。「もしも」は歴史の禁句ではありますが、武田家が武田勝頼では無くて義信が継いでいたら、また違う大きな歴史の流れの変化があったかもしれません。

しかし、時代はこのような重要な人物であっても、メインストリームから外れると忘れてしまうものなのですね。彼が幽閉された東光寺に行ってつくづく感じました。
紅葉の綺麗なこの季節、東光寺の前の昇仙峡に向かう国道は大渋滞でしたが、義信のこの東光寺には、私以外誰一人居ませんでした。

しかし、義信は、来訪してきた小生ごときにも、写真のように、京都の寺院にも勝るとも劣らない美しい紅葉の庭園を見せてくれました。
それはまさに来訪に対する返礼をしてくれる「義に篤い」男にふさわしい美しい紅葉だと感心しました。

【三増峠古戦場碑】神奈川県愛甲郡愛川町三増2631
【東光寺】山梨県甲府市東光寺3-7-37

武田信玄の小田原攻め

三国同盟破棄を楯に、駿河侵攻の邪魔をする北条氏康に、一発ガツンと食らわせないといけないと思った武田信玄は、駿河侵攻の翌年1569年8月に2万の軍を率い、小田原攻めを開始します。

1.武田軍の関東平野南下

以前、私は北条氏康の初陣を取り上げたブログ「北条五代記③ ~小沢原の戦いと勝坂~」で、氏康をカメだ!と言いました。それは彼の幼少期の過ごし方が、実は現代のひきこもりに近かったからです。しかし、彼の欠点に見えたこの性格が、逆に北条五代の中で、一番強い北条軍を「籠城作戦」という、カメが甲羅にひきこもるような戦い方で形成していきます。

氏康は、弱みを強みに転換できた成功者だと思います。
氏康以来、北条家の戦い方はカメ、つまり自分と同格以上の敵に攻められると、小田原城という甲羅にひきこもる というDNAが受け継がれたのですね。

自身の城を作らず、「攻撃は最大の防御」と、戦は必ず出て行ってしていた武田信玄とは、180度違う訳です。

勿論、武田信玄は、そんな氏康の戦い方等、とうにお見通しです。

武田軍2万の小田原攻めのルートを見て下さい。

信玄は、わざわざ領内を北上して、佐久から今の軽井沢を通り、碓氷峠を超えて、北条の領地に関東の北側から入ります。

そして、長々と南下する進軍ルートを取っています。

これは、北条が直ぐに城に籠って戦おうとする癖を武田軍は良く分かっているため、北条領内をなるべく長い距離進軍することによって、北条氏康本体を小田原から引っ張り出し、どこか城外にて決定的な打撃を与えられるような戦がしたかったのだろうと私は想像しています。

このような自分達を「餌」にした誘き出し作戦は信玄の得意なところであり、最大の成功例は、徳川家康を浜松城から引き出し、三方原で大勝した「三方原の戦い」ですね。
これをこの小田原攻めの進軍中にやりたかったのだと思います。

さて、北条氏康には沢山息子が居ましたが、今回は上から3人の息子が大活躍し、北条が三増峠の戦いで、大敗北を喫する要因をせっせ(?)と作ります。

1番上の子が氏政、次が氏照、3番目が氏邦です。この3人の息子+氏康が今回の信玄の戦相手です。

まず、信玄は、氏邦から嚙みつきます。

2.鉢形城包囲(小田原攻め①)

氏邦は、北条の北関東最大の拠点、鉢形城の城主です。この城、兎に角、断崖上の天然の要害に立地しているため、非常に堅固ですし、歩き回るのに疲れ切る位、大きい城郭です。

鉢形城の空堀

そもそも、武田軍は北条のカメ戦法には嫌気が差していますので、鉢形城を囲んで、お父さんの氏康が援軍を率いて、どこかで決戦が出来る事を半分期待して包囲しましたが、残念ながら、お父さんは小田原から動く気配は無し。ちょっと冷たいですが氏康もこの信玄の考え位は見通していたでしょう。

鉢形城へ攻撃を仕掛けるも、固いカメの甲羅のように、びくともしません。鉢形城も北条軍第1級の城です。
武田軍は、ゆるゆると囲みを解き、この城をけん制しつつも、主力軍は、また関東を南下して行きます。

鉢形城本丸から荒川越しに寄居方面の臨む(こちら方面はかなり堅固)

3.滝山城攻撃(小田原攻め②)

次のターゲットは、八王子にある滝山城です。

また脱線しますが、この滝山城侵攻については、以前拙著のブログ「滝山城と八王子城 ~北条氏の滅亡~」にも詳細書きましたので、参考にしていただければ幸いです。
この城は、2番目の息子、北条氏照が守る城であり、鉢形城程の規模はありませんが、中はギュッと密度の高い防御力を持つ平城です。

滝山城から信玄が陣を敷いていた拝島方面を臨む(滝山城から北東側)

しかし、信玄、流石にこの城に対し、鉢形城と同じ轍は踏まないのです。
何としても氏康を小田原から引っ張り出したいのですから、同じ戦法では見くびられます。

ちゃんと滝山城の長所・短所は調べてあります。「敵を知り、己を知れば、百戦百勝」とは信玄も良く言ったものです。

この平城、北側ならびに東側に対しては、非常に堅固に作られた城です。ところが、南側、西側については、意外と脆いです。これは、信玄でなくても、皆さん実際に城跡に行かれると良くわかります。

上記の写真は、滝山城址から北側を臨んだところです。高さがあって強固な感じが分かります。
城の西側は八王子の高尾山や小仏峠、陣馬山等の山々が連なっており、これらの山々を超えて、この城に攻め入ることはあり得ないという想定なのでしょう。
ちなみに信玄は、右上の写真の上の方、拝島というところに陣を張り、滝山城とにらみ合います。これは滝山城側としては想定内の布陣です。

滝山城攻防戦

信玄は、両軍多摩川を挟んでにらみ合っている最中、今の、大月市に拠点を置く部下である小山田信茂に下知して、1千人の軍に小仏峠を越えさせ、滝山城を南西側から急襲させます。(上図)

これは滝山城にとっては、想定外です。何せ小仏峠から大軍は攻めてこないとの前提なのですから。

滝山城の守備兵は2千人ですが、得意のカメ戦法が崩されそうです。
そこで慌てて一部を迎撃に出して、今の高尾駅の辺りで、小山田隊と戦をしますが、あえなく敗退(廿里の戦い)。小山田隊の進撃を食い止めることが出来ません。

小山田氏の領地は、滝山城と隣り合わせなので、この城について調べ尽くしているでしょう。そのまま滝山城の弱点である西南から押し寄せ、一気呵成に攻めます。
正面に武田軍2万が構えていますし、滝山城は、甲羅を叩き割られました。

落城寸前まで来ます。北条氏照切腹か?それとも2千の兵力で、正面の10倍の武田軍に向かって討死するか?

ところが、信玄は、急に攻撃を止め、兵を纏めてまた南下を始めます。
彼の今回の目的が、北条氏康の息子の誰かを討ち取ることでも、滝山城を奪取することでも無く、圧倒的軍の強さの違いが示せれば目的達成なのですから。

氏照を窮地に追い込めば、氏康が小田原を出てくるかと思いきや、やはり出てこないこと、また滝山城を取ってしまっても、その後、この城を北条から守り、武田が維持していくには、小田原からの距離が近すぎること等が、最後まで攻め切らない理由なのでしょう。
流石、武田信玄ですね。大人の余裕を感じます。
北条軍は、この時の信玄の滝山城攻撃の反省から、西側からの関東侵入に備えて、北条軍最大の山城、八王子城を築くのです。

信玄の小田原攻めの反省から北条氏が造った八王子城

4.小田原城包囲(小田原攻め③)

さて、滝山城攻城以降、小田原までは武田軍を2つに分けます。

1つは相模川沿いを真っ直ぐ南下して、小田原城へ入る本隊と、もう1つは、世田谷方面経由で、新横浜の小机城、大船の玉縄城にちょっかいを出しつつ、鎌倉経由で相模湾沿いに小田原に来る隊です。

信玄も、滝山城が落ちそうになっても出てこない氏康が、決戦に出てくることは、そろそろ諦めかけていたのかも知れません。

しかし、もしかしたら兵力を2つに分けて、小机城や玉縄城等、北条屈指の名城を攻撃すれば、武田軍分散による弱体化を見込んで、氏康が出て来るかも。と思ったのですかね。
しかし、最強のカメである氏康は頑として出て来ません。氏政と小田原城に籠ります。
彼らは彼らで、上杉謙信が、武田軍の5倍の兵力(10万)で、この小田原城を、9年前に包囲した戦を経験しており、10か月にも及ぶ攻撃にも耐えたという自信もあるのでしょう。
信玄もその時には、例の三国同盟の誼で、援軍を氏康に送ったくらいですから、小田原城籠城がどれ位強固なものなのか充分分かっています。

黄色い部分が小田原城総構えの内部

したがって、信玄からすれば、小田原城包囲は、とりあえず北条氏への攻撃力誇示遠征ツアーの最終到着地位にしか思っていなかったでしょう。
上杉軍のように何か月も包囲せず、たった3日で城下に火を放ち、引き揚げています。

ただ小田原城も、この時の包囲での城下町防御の必要性を改めて感じたことから、城の総構え(城下町も含めて、空堀や、盛り土等の障壁で守る構築物)を9kmにもします。これは大阪城の総構えよりも大きく、日本で一番の大きさです。

今も残る総構えの遺構の一部

5.小田原攻め最後の信玄の読み

さて、信玄は、今回の小田原攻めで、空しく小田原城を後にして、自国甲斐へ引き揚げるのでしょうか?

いえいえ、それは違うと私は思います。
信玄は、ちゃんと小田原攻めへの往路に、仕掛けを作っておいたのです。
彼としては、氏康がカメ戦法で来ることは、上杉軍の9年前の戦等から想定内のことだったと思います。

しかし、信玄は、その時の戦を分析し、今回の小田原攻めでは、氏康の息子の氏照、氏邦の性格を使うことを考えていたのではないでしょうか。彼は、そういう人間性を上手く使うことにも非常に長けていますから。
息子たちは氏康程の堪え性は在りません。若いですから。
氏照は落城寸前までの辛酸をなめさせられていますし、氏邦だって、包囲されて手も出せなかったのですから、悔しいには違いありません。

「信玄、小田原から撤退!」
これを聞いた氏康の息子2人は、「すわっ!小田原城を攻めあぐねた信玄は、兵糧も尽きかけて、冬になる前に慌てて甲斐の国へ逃げていく!これはチャンス!」と思ったことでしょう。
そして、甲斐の本国に引き上げる前に、一矢報いたいと2人は、思う訳です。

しかし、こう思うように信玄は、彼らを往路にて叩いておいたのです。
氏照・氏邦は、武田軍を迎え撃つために、帰路の途中にある三増峠に布陣して待ちます。
彼らのバックヤードには、やはり武田領との国境にある津久井城(この当時は築井城)があります。

武田軍の撤退ルート図

峠があるような戦は、山岳戦と言います。標高が高いところを取った方が有利なのです。
なので、北条軍は武田軍が来る前に、三増峠に布陣し、高いところを取って待っているのです。
はじめて北条軍がカメ戦法のような籠城戦から切り替え、野戦に出てきた訳です。

そして、父親の氏康にも小田原城からの出撃を要請します。撤退する武田軍を自分達と追撃する氏康・氏政軍で挟み撃ちにしようと提案する訳です。
氏康は、「馬鹿息子め!なんで、信玄坊主の罠にまんまと乗るのだ!」と、叫んだかもしれません。
しかし、放っておけば、今度こそ、氏照・氏邦は危ないです。ですので、とうとう氏康も出陣します。

この北条親子が次々に城という甲羅を脱ぎ捨て野戦に出てくる状況を見て、信玄はニヤッとします。
「フフ、思った通り、やっと出て来おったわ。」

【鉢形城】埼玉県大里郡寄居町鉢形2496-2
【滝山城】八王子市高月町
【小田原城】神奈川県小田原市城内
【三増峠古戦場】神奈川県愛甲郡愛川町三増2631

信玄の山岳戦~三増峠の戦い

上図をご覧ください。
これが三増峠古戦場にある看板に描かれた両軍の配置図です。黒が武田軍、赤が北条軍です。

「あれ?」と前章を読まれた方は疑問に思うでしょう。北条軍が武田軍を迎え撃つために、山岳戦に有利である高台を占拠して待ち構えた、と書いたからです。

ところが、この看板の配置図は、どう見ても、武田軍が高台を占拠しています。
実は、この地図は、武田方の古文書「甲陽軍鑑」を基に作成されています。間違っているのでは無いと思います。

前回の話では、待ち構える氏照・氏邦と追いかける氏康・氏政に挟撃される筈だった信玄が、このような逆転現象を起こした事こそ、信玄がこのような戦を、最初に碓氷峠を越えて、関東に入った時から構想し練っていた証拠だと思っていますし、またそこが信玄の恐ろしくも偉大な戦上手、戦の神様と言われた証左なのです。

結論から言いますと、この配置はこの戦いの中盤から終盤を表しており、信玄は、北条氏照・氏邦らが待ち構えている三増峠に、彼らの作戦を上手く利用しつつ、裏をかいて行き、気が付くと看板のような、完全有利な配置になっていたという訳です。

流石は武田信玄。老練なのも勿論ですが、山岳戦は武田のお家芸、信玄より6つ年上の氏康でも、このお家芸には絶対敵わないというのに、それらの息子ごとき、何者ぞ!という感じの戦い方をしたのだと思います。

では、戦の経過を見て行きましょう。

1.待ち伏せする北条軍の横を通る武田軍の餌

看板を地図に落とした図

さて、先程の看板の絵を、現在の地図の上に展開すると上のようになります。
説明の前に一つ、この地図で意識して頂きたいのは、築井城(津久井城)です。
合戦の前日10月6日の夜中に、信玄は乱波(らっぱ:忍者集団)等を使い、三増峠ではなく、志田峠から密かに築井城下のトウモロコシに火を付け、松明が燃えているように見せかけます。また案山子のような藁人形60体を作り、軍勢が城下直近に滞在しているように見せかけたのです。

これだけで、もう築井城は、北条軍得意のカメ戦法に入りました。翌日の合戦には全く援軍も送らず、甲羅である城に籠ってしまいます。信玄の築井城沈黙作戦大成功です。

築井城から三増峠と志田峠を臨む(左が三増峠、右が志田峠)

さて、日が変わって10月7日早朝です。
この日の北条軍の配置は、下図の通りです。ちゃんと山岳戦の基本、「高いところを取った方が有利」を抑え、三増峠に差し掛かる武田軍を東側山麓で、整然と待ち構えています。

武田軍を待ち構える北条軍と小荷駄隊を先頭に進軍する武田軍

ここで北条軍の中に氏照・氏邦以外で北条綱成という武将が居ることにご注目ください。
この時、待ち伏せする北条軍は1万2千~2万と言われています。勿論、氏照の滝山城や、氏邦の鉢形城の兵だけでなく、江戸城、小机城、玉縄城等、北条氏の名だたる城からも兵を集めています。

北条綱成は、玉縄城の城主であり、北条氏康と同い年です。
また勇猛果敢で若い時から有名であり、大将でありながら、一番に突撃していく無茶ぶり。しかも「勝った!勝った!」と叫びながら突っ込んで行き必ず勝つ、なんとも剛毅で頼もしい常勝の武将なのです。

今回、この待ち構える北条軍の中での総大将というのは決めていないようです。ただ、一番信玄に煮え湯を飲まされた氏照が、その思いと信玄との戦いの経験で、なんとなく総大将的な位置付けになっていたようですが、この綱成のように勇猛かつ親父の氏康と同い年の将が居たのでは、氏照も統一の取れた軍事行動を取ることは難しかったと思います。

北条軍の最前線(北条氏照軍のあたり)から武田信玄の本陣方向を臨む

そんな状態を知ってか知らずか、信玄は、この方面に、まず小荷駄隊を、武田24将の1人である浅利信豊護衛の下、三増峠方面へ進めます。

これには訳があります。

武田が小田原攻めをした9年前、北条氏は上杉謙信の小田原攻めの際に、小荷駄隊を襲い、上杉軍がボロボロになると言う成功体験を持って居ます。北条軍は小荷駄隊襲撃は得意なのです。襲いたくなるだろうと。

つまり小荷駄隊は「餌」です。信玄得意の「自軍を餌にする作戦」です。

2.三増峠の合戦①(戦闘開始)侵掠すること火の如く

さて、この罠に、北条氏照・氏邦は乗りません。
乗らないというか、彼らは信玄に痛い目に合わされているので、こんな見え透いた手薄の小荷駄隊が最初に出てくるのを叩いていたら、親父殿である氏康・氏政軍との挟撃作戦が上手く行かなくなる可能性を怖れたのではないかと思います。また小荷駄位が通過しても、武田軍本隊が来ない限り、挟撃まで高所の陣構えは確保しておきたいでしょう。

しかし、ここで、今回信玄に痛い目にはあっていない、氏康と同い年、かつ常勝軍の勇将として知られる北条綱成が黙っていられませんでした。

彼は、小荷駄隊を守備しながら進んで行く浅利信豊に対して、一斉射撃を開始し、攻撃を仕掛けてしまいます。

この一斉射撃により、浅利信豊は見事戦死。

しかし、次の瞬間、武田軍から御諏訪太鼓(武田軍の陣太鼓)が鳴り響きます。
それを合図に、厚木方面より一列で北上してきた武田軍が西側の山裾平原に向けて、猛烈な勢いで、展開して行くのです。

「すわっ、やられた!追え、追え!」と、孫子の紺に金字の風林火山の大旗が西に疾走していくのを見て、氏照は、叫びます。

「疾(はや)きこと風の如く」です。
西側の高所を取られてしまったら、山岳戦における北条の優位が保てません。取られる前に、武田軍に一撃を与えたい。
しかし、長く伸びた小荷駄隊とその守備兵たちが行く手を阻みます。彼らの防御力は貧弱ですから、破るのは容易いのですが、ここで足止めを食らう時間が致命傷です。

武田軍の合戦における軍展開


展開後の武田軍と追いかけて来た北条軍の配置。「三増峠合戦場」にある看板の軍配置に

北条軍がやっと追撃して山裾の平原に出てきた頃には、武田軍は西側の丘の上に、軍の展開を完了していました。
「其の徐(しず)かなること林の如く」だったことでしょう。
その時の軍配置を書いたのが、上記看板になります。

上にも再掲しておきますが、看板でも、北条軍の一番先頭に氏照の軍が書かれています。(看板では「北条陸奥守」と書かれていますが氏照のことです)
そこに小さく「orz」(がくっ)と書かれているように見えたのは私だけですね。笑

しかし、畏るべし武田信玄、山岳戦を知り尽くし、あっという間に敵と高所の入れ替わり技を披露してくれました。

信玄は、敵が三増峠で待ち構えているだろうことをかなり前から察知し、築井城への牽制だけでなく、乱波等を使い、この場所の地勢等も詳細に調べた上で、この合戦に臨んだようです。

なので、武田軍は、三増峠よりも志田峠を抜けるルートを詳細に調べ、ここに陣を張ることを意識したのです。
この戦が無ければ、三増峠を進軍して、築井城を包囲し、落として帰ったかもしれませんが、ここで大戦となると、甲府への撤退ルートは、築井城を避けて通れる志田峠からと考えていたのでしょう。
単に北条とは反対側の高所を取れば良いと考えていた訳では無いのです。

一方、武田軍は築井城へ進軍するであろう、よって、この三増峠の街道を行くに違いないと考えて布陣をした北条軍は完全に裏をかかれました。

3.三増峠の合戦②(勝敗の行方)真田昌幸も奮戦

さて、皆さん、この合戦、武田軍の最前線で、あの真田昌幸が果敢に戦っています。

武田四天王の1人である馬場美濃守の補佐的な立場ですが、山岳戦に長けた真田昌幸が、それこそ山岳戦の神である信玄の元で、「侵掠(しんりゃく)すること火の如く」戦っていたのではないでしょうか?
後で武田家滅亡となってしまう、武田勝頼も、この頃は素晴らしく勇猛果敢な働きをしていますね。
武田軍は、それこそ孫子の旗を立てた「旗立の松」の信玄が「動かざること山の如し」で采配する元で、生き生きと戦っています。

信玄の本陣「旗立の松」からは戦場も厚木方面も 良く見渡せる

武田信玄本陣「旗立の松」あたり

大河ドラマでは、昌幸も勝頼も、最後死ぬ時に「御屋形様ぁ!」と信玄の亡霊(?)に会って死にますが、奇しくも二人が一緒に信玄の元で大活躍した大山岳戦は、この三増峠しかありません。彼らと信玄が一番輝いていた時と言えるでしょう。

さて、戦も終盤に入ります。日も暮れかけて来た頃、ただでさえ、不利な北条軍に、当時の武田の赤備え隊で有名な山県昌景が、北条軍へトドメの一撃を食らわします。
彼は、その煌びやかな赤備え隊を率い、志田街道を南下、北条軍の背後から襲いかかります。
日も暮れかけて、薄暗い中、北条軍はこの隊に気が付くのが遅れたこともあり、大混乱です。
近くの山林へバラバラに敗走します。

この時、氏康・氏政親子は、1万の軍勢を引き連れ、まだ厚木に居ます。そして北条破れるの報を聞くと、さっさと小田原へ引き返します。
この戦で、北条の戦死者は3200人と言われております。武田軍も900人余りは戦死者が出たということで、武田軍の圧勝なのですが、合計で4000人以上の死者を出したというのは、山岳戦では最大規模の戦でした。

あの20万の軍が戦った関ヶ原の戦いでも、死者が3000~8000人と言うことですから、この戦がいかに大きかったことが分かると思います。

4.三増峠の合戦後

ところで、どうして氏康は、氏照・氏邦を見殺しにするような行動をしたのでしょうか?
そもそも、挟撃を氏照・氏邦から具申されているのであれば、この戦始まる頃には、合戦場に現れて良いはず。

実は氏康は夜を待っていたのです。
彼は勿論カメ戦法だけで、関東を上杉から切り取ってきた訳ではありません。拙著のブログの「北条五代記③ ~小沢原の戦いと勝坂~」で詳しく書いていますが、彼のもう一つの必殺技というか戦術は
「夜襲」
なのです。

デビュー戦の小沢原の戦いは、それで上杉朝興を破り、また河越城を落とした「河越夜戦」は、旧日本陸軍に研究し尽されるほどの腕前。
籠城と夜襲、これが氏康の得意技ですが、山岳戦で信玄に勝てる訳が無いと踏んでいたのです。

なので、彼としては、氏照・氏邦らが、信玄の挑発には乗らずに、たとえ、西側の高所を武田軍に取られたとしても、東側の高所で、対峙して、氏康の到着を待ってほしかったのだと思います。

多分、綱成が挑発に乗らず、じっと待って居たら、氏康は10月7日の夜半に得意の夜襲で、信玄に鉄槌を下したかも知れません。

まあ、力量のある人程、自分の得意・不得意を明確にして、勝てない戦はしないということでしょうね。
これこそ、「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」の孫子の言葉は、信玄だけでなく、氏康などの名将も意識されていたのでしょう。

兎に角この戦で、信玄は当初の計画通り、北条にガツンと一発食らわすことが出来ました。

氏康は、2年後の1571年に急速に衰え病死します。臨終に際し、子・氏政に「武田との同盟を復活するように」と遺言したと伝えられ、北条は武田と同年12月、再度甲相同盟を締結するに至るのです。

そして、翌年1572年、武田信玄は、ようやく念願の上洛を開始するのでした。

5.終わりに 日本史上有数の山岳戦

長い記事を読んで頂き、ありがとうございました。
三増峠の戦いは、ある意味、その後の武田家の上洛に対しても、北条氏の関東固めにとっても、そして日本の山岳戦にとっても、この戦の意味は大変大きいと思います。決してマイナーな戦ではありません。

その割には、その戦い自体も不明な点が多く、また歴史的背景も含め複雑であり、諸説紛々なのです。その中で多くの説などを基に、事実で分かっているところは抑えるも、そこから次の明確な事実の間の話は、私の推測で展開されていますので、ご容赦ください。
なるべく時代のメインストリームとどう絡むのかを、分析を基に私なりに分かりやすく描いたつもりですが、ちょっと強引なところも多いのは私も認識しておりますので、この場をお借りして陳謝します。

さて、一応、終わりですが、次のブログあたりでは、この戦に直接、間接的に絡む人物や、いくさ後の江戸時代から今に至るまで長きに渡る都市伝説のような伝承が本当かどうかを現場で私自身が検証してきた事などを外伝として、軽く(?)ご報告したいなと思っていますので、宜しくお願いします。

【築井城(津久井城】神奈川県相模原市緑区根小屋
【三増峠古戦場】神奈川県愛甲郡愛川町三増2631

「三増峠の戦い外伝 ~その後の北条の人々~外伝」はこちら(玉木氏のブログに飛びます)

玉木氏のブログ「マイナー・史跡巡り」では、ほかにも小机城(横浜市)など神奈川県の史跡を紹介しているので、ぜひ読んでほしい。』

三増峠の戦い

三増峠の戦い
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A2%97%E5%B3%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

 ※ コレか?

『三増峠の戦い(みませとうげのたたかい)とは、永禄12年(1569年)10月8日[1]に武田信玄と北条氏により行われた合戦である。本項では、合戦に至るまでの経緯として、小田原城包囲戦も合わせて解説する。駿河侵攻の二正面作戦の一つとも言える。』

『合戦の経緯

戦国期の甲相関係と武田氏の駿河侵攻

戦国期に領国を接する武田氏と北条氏は武田信虎・北条氏綱期には甲斐都留郡において抗争を続けていたが、やがて両者は和睦して甲相同盟が結ばれ、これに駿河今川氏との同盟を結び甲相駿三国同盟の締結に至り、武田氏は信濃侵攻を行い北信地域において越後の長尾景虎(上杉謙信)と抗争し、北条氏は北関東侵攻を行い同じく越後上杉氏と抗争し、両者は相互に協調して上杉氏に対抗していた。

武田氏の信濃侵攻は、5回の川中島の戦いを契機に収束し、武田氏は方針を転換し永禄11年(1568年)12月には同盟を破棄して駿河今川領国へと侵攻を行う(駿河侵攻)。武田氏の駿河侵攻は甲相同盟の破綻をも招き、北条氏は上杉氏と越相同盟を締結し、武田氏に対抗した。

小田原城包囲

翌永禄12年(1569年)1月に北条氏政は駿河薩埵峠へ着陣し、興津において武田勢と対峙している[2]。同年8月24日に武田信玄は2万の軍勢を率いて甲府を出立、碓氷峠から上野国を上杉謙信をけん制(越中の戦国時代の永禄12年の上杉謙信の越中出兵の項参照)しつつ南下、廿里古戦場にて小山田信茂1000人が北条氏方2000人を打ち破り、滝山城(包囲のみ)などの後北条氏の拠点を攻撃したのち、犬越路を通って10月1日には北条氏康の小田原城を囲んだ。当時の小田原城は有名な惣構えが着工前であったが、かつて上杉謙信が10万以上の兵力で落とせなかった堅城であったため、城攻めはせず小田原城を包囲し3度にわたって挑発した。しかし後北条氏は小田原城を出ることはなかった。武田軍は包囲を開始して4日後の10月5日に城下に火を放ち軍勢を引き上げた。

北条氏は後詰めであった甲州街道守備軍の北条氏照、秩父方面守備軍の北条氏邦の軍勢2万[3]が要所である三増峠(相模原市緑区根小屋 – 愛甲郡愛川町三増)に着陣し、甲斐に帰国しようとする武田軍相手に有利に戦端を開いた。さらに北条氏政が2万余りを率いて氏照・氏邦の部隊と武田軍を挟撃、殲滅する作戦であった。10月6日には武田軍と北条軍が対陣することになった。

三増峠での激突

氏政本隊は到着前であったが、氏照・氏邦の部隊は先手を打って奇襲攻撃を仕掛けようとしていた。これを察知した信玄は部隊を3隊に分けた。北条軍の攻撃を正面に受けつつ、1隊は津久井城の抑え、1隊は山中に隠れ北条軍を横から急襲する作戦であった。10月8日に両軍は本格的な交戦を開始する。緒戦では北条軍有利に合戦は経過した。そのため武田軍は損害を受け、北条綱成が指揮する鉄砲隊の銃撃により左翼の浅利信種や浦野重秀が討ち死にしている[4]。

しかし、志田峠 (三増峠南西約1km) に機動した山県昌景率いる武田の別働隊が、より高所から奇襲に出ると戦況は一気に武田に傾いた。北条軍は背後の津久井城守備隊の内藤隊などの予備戦力が、小幡信貞、加藤景忠ら武田軍別働隊に抑えられて救援に出られず、大きな被害を受けている。武田左翼大将である浅利信種が戦死した左翼では、軍監であった曽根昌世が代わりに指揮をとり、綱成の軍勢を押し戻すことに成功している。緒戦では苦戦したものの、最終的には武田軍の勝利とされている。

また、武田軍が千葉氏が在陣しているところに向かって「千葉氏と言えばかつて北条と対し、互角に渡り合った衆であろう。それが北条に僕として扱われることに不満はござらんのか」と大声で呼びかけ、これにより千葉氏が勢いを鈍らせたとも言われている。

合戦が終わる頃、小田原から追撃してきた氏政の北条本隊2万は荻野(厚木市)まで迫っていたが自軍の敗戦を聞きつけ進軍を停止、挟撃は実現しなかった。もし氏政の部隊が到着していた場合、武田軍は挟撃されて逆に大敗していた可能性もあった。

自軍の勝利を見た信玄は軍勢を反畑(相模原市緑区)まで移動させ、そこで勝ち鬨を挙げた。その後武田軍は甲斐に撤退した。この戦いで武田方では西上野の箕輪城代・浅利信種が戦死し、信種戦死後に箕輪城代は浅利氏から内藤昌秀・昌月親子に交代している。

自刃にまつわる伝説

この合戦では、双方の軍の武士の自刃にまつわる、似たような複数の逸話が残されている。

武田軍の武士の一部が甲斐国に撤退する際に北条軍から追い討ちを受け、落ち伸びるべく山中を甲斐国へと向かっていた。しかし彼らは、甲斐国への道中では見えるはずのない海を見る(峠から甲斐方面と海とは逆方向であり、近辺の海といえば相模湾である)。これは彼らの見間違いで、村の蕎麦畑の白い花が海に見えただけであったのだが、道を誤り敵国へ深く踏み込んでしまったと思った彼らはその場で自刃してしまった。以来、自刃を悼んだ村の人々は蕎麦を作ることをしないのだという。

また、同様の伝説は北条軍側にも残されている。戦いに敗れた北条軍の落ち武者が山中を逃げていた最中、トウモロコシを収穫した後の茎を武田軍の槍のひしめき合う様と見間違え、逃げる術のないことを悟り自刃した。自刃した落ち武者を供養するため、この土地ではトウモロコシを作らないという[5][6]。

またこの地では合戦の死者の怨霊伝説が広く語り継がれ、近隣で三増峠の戦いに付随した戦いがあったといわれているヤビツ峠では餓鬼憑きの伝説が残っている。

合戦の評価

高低差が大きく作用した戦国最大規模の山岳戦として知られている。

従来、『甲陽軍鑑』に依拠した武田家主観による評価がされてきた。本稿でも合戦の経過など、概ね『甲陽軍鑑』に基づいた記述がされている。『北条五代記』などの北条側の史料では、北条軍の敗戦ではあるものの損害は軽微(20〜30程度)だったと書かれている。北条氏照は戦後、この合戦に勝利したという書状を上杉家に出している[7]。また、この戦いで古河公方家の重臣である豊前山城守が戦死しており、北条氏康から未亡人に宛てた書状が現存している[8]。

この合戦だけ見れば、撤退の過程で偶発的に起こった部分的な戦闘に過ぎない。追撃する北条軍は撃退したものの、家中の有力武将である浅利信種が戦死するなど、勝者である武田軍にとっても失ったものは大きかった。『甲陽軍鑑』でも著者とされる高坂昌信が、この合戦のことを「御かちなされて御けがなり(勝利はしたものの、損害も蒙った)」と論評し、本拠地甲斐を留守にしてまで行った遠征の必要性に疑問を呈している。

戦略的に見ると、本戦いの結果、後北条氏は西の今川氏救援に兵を向けられず、武田氏方が永禄12年(1569年)暮れに北条氏が救援していた今川氏の蒲原城を落とし、駿河侵攻を大きく進めた。また、武田氏主力が上野国方面に通って小田原まで南下した為、椎名康胤の松倉城 (越中国)を攻略中だった上杉謙信は本拠地越後に戻る事になった。(越中の戦国時代参照)

歴史学者の柴辻俊六は信玄の小田原攻撃について、越相同盟への揺さぶりと共に、関東の反北条勢力への示威活動であった可能性をも指摘している。事実、北条家と越相同盟を締結したばかりの上杉謙信は、同盟の締結条件に、武田軍牽制のための8月15日以前の上杉軍の信濃出兵があり、それに対し謙信は血判誓詞をもって了承していたにも関わらず、信濃出兵を果たさなかった。これは謙信の越中戦線の事情のほか、将軍義昭から武田氏との和睦を命じられて7月下旬に成立していた「甲越和与」があった。そのために謙信は、信濃に出兵するつもりであったが延期する旨を家臣の鮎川盛長に送っている[9]。信玄は「甲越和与」により、謙信の北条氏救援のための出兵がないことを踏まえた上での侵攻であったわけである。上杉氏に、北条氏側は約定催促、不履行による詰問の書状、不信・不満を表した書状を送っている[10]。このことから、武田軍による小田原城攻撃から三増峠のこの合戦に至るまでの戦いは、この2年後に北条家が上杉家と手を切り、武田家と再同盟する遠因ともなったとも考えられている。

参戦武将
武将 武将
武田軍 武田信玄 北条軍 北条氏照
武田勝頼 北条氏邦
武田信廉 北条綱成
山県昌景 北条氏忠
内藤昌秀 高城蔵人
馬場信春 原胤栄
浅利信種 上田朝直
小幡憲重
曽根昌世
脚注

^ a b 『甲陽軍鑑』より。『北条五代記』では戦闘は10月6日にあったとされる。
^ 『戦国遺文後北条氏編』-1151号
^ 『甲陽軍鑑』より。武田信玄書状では6000〜7000。
^ 『甲陽軍鑑』より。北条方の軍記である『豆相記』でも同様の記述が見られる。
^ 植木知司『かながわの山』(神奈川新聞社)P103
^ ただしトウモロコシの日本伝来時期の研究とは矛盾する
^ 山吉文書、山吉孫次郎宛北条氏照書状
^ 豊前氏古文書
^ 森山八郎氏所蔵文書『上越史』別編1-780、池享・矢田俊文『上杉氏年表(増補改訂版)』(高志書院)P136、平山優『武田信玄』(吉川弘文館)P68
^ 「上杉家文書・集古文書・歴代古案」山口博『北条氏康と東国の戦国世界』(夢工房)pp105-110、平山優『武田信玄』(吉川弘文館)P70

参考文献

『甲陽軍鑑』
『信玄の戦略―組織、合戦、領国経営』柴辻俊六著(中央公論新社、2006年11月)ISBN 978-4121018724
『武田信玄』平山優著(吉川弘文館、2006年)ISBN 4642056211

関連文献

「毛利庄 長竹村 三増峠」 『大日本地誌大系』 第40巻新編相模国風土記稿5巻之122村里部津久井縣巻之7、雄山閣、1932年8月、389-393頁。NDLJP:1179240/201。

関連作品

ボードゲーム

『甲斐の虎』(ツクダホビー)、絶版
『関東制圧』(ツクダホビー)、絶版
『RAN』(GMT Games)、2007年、英語

関連項目

三増トンネル
日本の合戦一覧

外部リンク

三増峠の合戦について - ウェイバックマシン(2004年8月7日アーカイブ分)
三増の合戦 - ウェイバックマシン(2019年3月30日アーカイブ分)
三増合戦場
三増峠の戦いと武田信玄の相模原行軍 』

天正壬午の乱

天正壬午の乱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E5%A3%AC%E5%8D%88%E3%81%AE%E4%B9%B1

天正壬午の乱(1/2)徳川vs上杉vs北条!本能寺の変直後の争乱
https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/166/

 ※ 『天正10年(1582年)3月、織田信長による甲州征伐で武田家は滅亡しました。その後、信長は旧武田領を部下たちに分割統治させることになります。』…。

 ※ ということだったが、「本能寺の変」勃発で、肝心の信長が死んじまったものだから、まず、その部下たち(名だたる信長の軍団長クラス)が「どうするのか、どう動くのか」という話しとなった。

 ※ それだけでなく、ここ信濃、上野(こうずけ)、越後は有力大名(徳川、北条、上杉、背後の常陸(ひたち)には佐竹)がひしめいていたんで、大名間の争いも勃発した。
 ※ さらには、稀代の戦略・軍略家である真田昌幸の所領もあったんで、その動向も無視できない…。

 ※ そういう諸勢力、諸武将間で(支配を嫌った農民の”一揆”も起きた)「信長亡きあと」の所領争いの争乱…、という話しのようだ…。

『天正10年(1582年)6月、「本能寺の変」で信長が討たれた後の混乱に乗じて起こったのが「天正壬午の乱」です。信長が治めていた旧武田領を徳川家、上杉家、北条家が3つ巴になって争うなか、旧武田領で信長に臣従していた真田家をはじめとした国人衆も自領を守るため参戦します。広範囲にわたって数度の戦いが発生しており、各武将の思惑が入り乱れているためわかりにくい戦いですが、今回はなるべく時系列に沿って解説します。
天正壬午の乱とは?

天正壬午(※ てんしょうじんご)の乱は、天正10年(1582年)6月から10月にかけて、旧武田領(甲斐国、信濃国、上野国)を徳川家・上杉家・北条家が争った合戦の総称です。それぞれ現在の山梨県・長野県・群馬県にあたります。3国を中心に各地で戦が起こっており、登場する武将も有名な人物が多いことが特徴です。

3家のうち徳川家は徳川家康、上杉家は上杉景勝、北条家は北条氏政と息子の氏直が中心となって戦っています。そして、乱の最中に自領を守りつつ勢力を拡大するため、上杉家→北条家→徳川家と次々と主君を変えていったのが、真田幸村(真田信繁)の父である真田昌幸です。

天正壬午の乱は同時期に各国で合戦が起きているため、少しわかりにくくなっています。まずは各家の動きについて大まかに押さえておきましょう。

織田信長の死後の混乱に乗じて、旧武田領の国衆が一揆をおこして織田家家臣を追い出す
上野国を北条家が奪取
信濃国を巡って上杉家と北条家が争うも、信濃北部4郡を上杉家が確保する形で講和
信濃国・甲斐国を巡って北条家と徳川家が争い、徳川家が2国を得る形で講和

結局徳川家が旧武田領で勢力を大きく伸ばすことになったことがわかると思います。では、なぜそうなったのでしょうか?詳しく見ていきます。

武田家滅亡後の旧武田領

天正10年(1582年)3月、織田信長による甲州征伐で武田家は滅亡しました。その後、信長は旧武田領を部下たちに分割統治させることになります。主な区分けは以下の通りです。

【信濃国】
川中島4郡(高井・水内・更級・埴科郡)を森長可

小県郡、佐久郡を滝川一益

木曾郡(本領安堵)と安曇郡・筑摩郡を木曾義昌

信濃諏訪郡を河尻秀隆

伊那郡を毛利長秀

【上野国】
滝川一益

【甲斐国】
河尻秀隆(穴山梅雪の河内領以外)

【駿河国】
徳川家康

滝川一益や河尻秀隆は2回名前が出てきますが、国をまたいで隣接した領地を得ています。
ちなみにこのとき真田家は旧領の一部を与えられた上で滝川一益の配下に入っています。

本来であれば、甲州征伐で信長に協力して出兵した北条氏政にも所領を与えられるはずなのですが、結局何ももらえず不満を募らせる結果となりました。

「本能寺の変」発生、旧武田領から織田家家臣が追い出される

甲州征伐の終了から3ヶ月後の天正10年6月2日、本能寺の変で織田信長が討たれると、数日のうちにその情報は周囲に伝わり、旧武田領を治めていた織田家家臣たちは大混乱に陥りました。統治し始めたばかりの領地は完全に掌握できているわけがなく、国衆たちの反乱がおきる可能性があったからです。さらに、旧武田領の周囲には上杉家の治める越後国(新潟県)と北条家の治める相模国(神奈川県)があり、混乱に乗じて攻めてくるかもしれません。旧武田領は内にも外にも問題が多い「内憂外患」の状態にあったわけです。

そして織田家家臣たちの懸念通り、本能寺の変の知らせを受けて各国衆たちが動き始めます。6月12日には上野国で滝川一益の部下だった沼須城主の藤田信吉が離反し、一益の甥である滝川益重のいる沼田城を攻めます。一益の援軍もあり沼田城は持ちこたえ、信吉は上杉家に亡命しました。

ちなみに、このころ旧武田領を治めていた他の織田家家臣たちはどうしていたかというと、旧武田家家臣たちによる一揆をきっかけに撤退しています。当時越後に侵攻中だった森長可は本能寺の変を知るやいなや越後から撤退します。その後、配下から裏切り者が多く出たこと、一揆が発生したことなどから旧武田領から美濃に逃げ帰りました。

毛利長秀も一揆に追い立てられ尾張に戻ります。一方、河尻秀隆は甲斐国人衆の一揆を契機に旧武田領から逃げ延びようとするも、6月18日に一揆衆により殺害されています。

【上野国】滝川一益vs北条家

滝川一益に話を戻します。滝川一益は6月11日、本能寺の変を知った北条氏政から、引き続き織田家に忠誠を誓い続けることを伝えました。当時、北条家は織田家と同盟関係にあったので当然と言えば当然の行いですが、氏政はその舌の根の乾かぬうちに、氏直と共にすぐに一益に向けて出兵。6月16日から19日にかけて「神流川の戦い」が起こります。

上野国と武蔵国の国境近くで発生したこの戦い、滝川軍は1万8000だったのに対し、北条軍は5万と、数の上では北条軍が圧倒的に有利でした。このため、滝川軍は6月18日の初戦では北条軍に勝利しましたが、兵力差や地元の国衆の協力があまり得られなかったことなどにより、翌19日には北条軍に壊滅させられてしまいます。

一益は必死に逃げ延び、倉賀野城を経て厩橋城に退却。箕輪城に移り地元の国衆との別れの宴を開いたのち、碓氷峠を抜けて小諸城に到着します。なお、沼田城はこのとき、一益の部下の真田昌幸に還されています。その後、木曽谷を通過して清洲城に入ったのち、7月に伊勢の長島城に戻りました。

なお、清洲城では6月27日に織田家の後継者を選ぶための「清洲会議」が行われています。「織田四天王」とも称され、一時は豊臣秀吉をしのぐ権勢を誇っていた一益も本来は会議に参加するはずでしたが、対北条戦で間に合いませんでした。この後、一益の力は急速に衰えていくことになります。

上杉景勝、北信濃に出陣

一方、上杉景勝は6月中旬には本能寺の変発生を知り、北信濃の川中島攻略に乗り出します。本能寺の変直前には、柴田勝家率いる織田軍に攻められたことで危機的状況に陥っていました(魚津城の戦い)。これは上杉謙信の後継者争いの「御館の乱」の際に味方をしてくれた新出田重家と恩賞でもめたことが原因で、重家が織田信長と通じて離反したことから起きた戦いです。戦いにより魚津城は落城し、勝家は森長可、滝川一益とともに春日山城に進軍していましたが、本能寺の変の知らせを聞いて撤退しています。』

『撤退を知った景勝はすぐさま北信濃に出陣します。森長可が去った海津城を占拠し入城したほか、上杉家で匿っていた信濃守護職一門だった小笠原洞雪斎を擁立し、木曾義昌のいる深志城を攻めて義昌を追い出しました。このとき、真田昌幸は景勝に臣従し、深志城に行く途中にある城の城主たちを調略するなど活躍しています。

【信濃国】上杉景勝vs北条家

上杉景勝が信濃を攻めるなか、北条家も信濃をわがものにしようと南から侵攻してきます。氏政の弟の北条氏邦は上野国の沼田城を奪い、昌幸のいた岩櫃城と沼田城を分断しようと間に城を作り、昌幸を苦しめます。結局上杉に臣従してわずか半月後の7月9日には、昌幸は上杉家から北条家に寝返ることになりました。

北条家は上野国をほぼ制圧した後、碓氷峠を越えて信濃国衆を味方につけ、佐久郡を平定します。佐久郡の小諸城には当時徳川方の依田信蕃がいましたが、北条家に攻められて小諸城から逃げ出しています。その後、上杉家に追いやられた木曾義昌も北条軍に加わりました。

南下する上杉軍と北西に進む北条軍。両者は7月14日、川中島の千曲川で対峙することになります。

決戦か、と思いきやここにきて存在感を出してきたのが徳川家康です。南からだんだんと信濃国に侵攻し、北条家が獲得した領地に迫ります。領地が近い家康との対峙を選択した北条氏直は、挟撃を恐れて上杉軍と講和することを決意しました。

一方の上杉景勝は、新出田重家の謀反の直後での信濃攻めです。本能寺の変をきっかけに一度は落ち着いた重家との合戦はいつ再燃するかもわかりません。早々に重家と決着をつけて自領を落ち着かせたいところです。

こうした両者の思惑が一致したことで7月29日には和睦の合意がなされました。和睦の結果、上杉家は信濃北部4郡を所領するとともに、川中島以南には出兵しないことになりました。後ろから攻めたてられることのなくなった北条家は甲斐国を得ようと家康との戦いに挑みます。

【信濃・甲斐国】徳川家康vs北条家

さて、これまで徳川家康の話が出てきませんでしたが、家康は本能寺の変の後、どのように天正壬午の乱にからんでいったのでしょうか。

本能寺の変が発生したとき、家康は酒井忠次、榊原康政、本多忠勝、井伊直政などの少人数の家臣たちと堺(大阪)を見物中でした。本能寺の変の同日に知らせを受けとった家康は、光秀から命を狙われる可能性があるため急いで自領の三河国(静岡県)に戻ろうと出発します。伊賀を通過して海を渡り、6月4日に三河国に到着しました(神君伊賀越え)。そして、光秀の討伐準備に合わせ、空白状態となった甲斐と信濃の攻略の準備も開始します。6月10日には甲斐国の河尻秀隆に美濃へ戻るよう使者を派遣しました。

家康は6月14日に光秀討伐軍を率いて出発しますが、翌日光秀の死を聞き、真偽を確認した後に21日に浜松城に引き返しました。その後、家康は本格的に甲斐国と信濃国攻略に注力します。

まず家康がしたことは、甲斐と信濃の国人衆たちを取り込むこと。地元で力を持つ彼らを味方につけるとともに、甲州征伐の際に匿っていた依田信蕃など旧武田家家臣たちも自軍に取り込みます。一方で酒井忠次や奥平信昌に南信濃の平定を任せつつ、7月9日には甲府城に入りました。

その後、諏訪郡を取り込もうと高島城の諏訪頼忠を説得しますが失敗します。さらに、深志城では小笠原貞慶が酒井忠次・奥平信昌との対立を理由に北条家に寝返ってしまい、信濃攻略はなかなか進みません。

そうこうしているうちに北条軍が甲斐方面に南下し始めてきたため、家康は対北条対策として甲斐国の新府城に入城しました。一方の北条氏直率いる北条軍は若神子城に入ります。両者は80日間対峙しました。

さらに、北条軍は駿河国や武蔵国方面から別動隊を動かして家康を背後から襲おうと計画します。8月12日には北条氏忠と徳川方の鳥居元忠、平岩新吉が甲斐国の黒駒で戦います。北条1万対徳川2000と北条軍が有利のようでしたが、蓋を開けてみれば徳川軍が勝利。この戦いをきっかけに、北条軍を見限る武将が出始めました。家康は北条方だった木曾義昌を味方につけることに成功。そして、9月には真田昌幸の引き込みに成功します。

戦のキーマン、真田昌幸

実は徳川軍は信濃国攻めの際に兵糧不足に悩まされており、真田昌幸を味方につけることで兵糧を得ようとしていました。家康から直接書状を渡したり、昌幸ゆかりの人物に取りもってもらったりと、相当力を入れて勧誘した様子がうかがえます。家康は昌幸に対し、現在の支配地域に加え、上野国の箕輪と甲斐国内の2000貫文の土地、信濃国の諏訪郡を与えることを明記した宛行状を発行しています。

昌幸としては、もともと北条家から沼田城を得る予定だったところ、北条家が「沼田城は北条のもの」と公言したことで、北条家に不信感を抱いていました。沼田城は西上野の地にあり、3つの川に囲まれた台地を利用した崖城で、越後と北関東、北信濃を結ぶ軍事上の重要拠点で、昌幸としてはぜひ押さえたい所です。

こうして昌幸は徳川家に寝返り、信濃国にいた依田信蕃に兵糧を提供。さらに沼田城を北条家から取り戻します。北条家は沼田城を取り返そうと攻めますが、真田軍の激しい抵抗でかないませんでした。

さらに、10月には依田信蕃が信濃国の小諸城を攻めて大道寺政繁を駆逐したほか、佐久郡の内山城を奪取。加えて昌幸と碓氷峠を占領します。こうした動きの結果、北条軍は補給路を絶たれてしまいます。深志城も徳川方が奪還しており、北条家は信濃で窮地に立たされます。

戦局を打開しようとするも、常陸国(茨城県)の佐竹義重が関東で行動を活発化させており、北条方の館林城を攻撃してきました。危機感を募らせた氏直は講和を決意します。

こうした背景もあり、10月29日に織田信長の次男の織田信雄が仲介人を務める形で北条・徳川は講和します。これにより、甲斐国と信濃国は徳川家が支配することが決定しました。上野国は北条家の切り取り次第とし、沼田城は真田昌幸から北条方に返すことになりました。さらに、和睦の条件として氏直と家康の次女の督姫が結婚しています。

この和睦は真田家と徳川家の争いのきっかけになりました。そもそも徳川方に下る際、沼田城は真田家のものになるはずでした。このため、昌幸は沼田城の引き渡しを拒否。徳川家から離反して上杉家に従属しました。これにより天正13年(1585年)第1次上田城の戦いが起こり、以後も両家の対立は続いていくことになるのでした。

執筆者 栗本 奈央子(ライター) 

元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。』

天正壬午の乱。② | かをるんのブログ
https://ameblo.jp/tamayorihime/entry-11023769920.html

天正壬午の乱の全容 神流川の戦いから北条・徳川の勢力争い
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1582年(後半) 東国 天正壬午の乱 | 戦国時代勢力図と各大名の動向ブログ
https://sengokumap.net/history/1582-4/

家康の決断

家康の決断
https://wedge.ismedia.jp/ud/books/isbn/978-4-86310-258-3

『家康の決断
城島 明彦:著

絶体絶命! ピンチの連続! 三河の弱小大名から天下人にまで上り詰めた家康の決断とは?大河ドラマ「どうする家康」の予習にもなる、異色の歴史教養本
定価:1,650円(税込み)
四六判並製 256ページ
発売日:2022年11月18日
ISBN:978-4-86310-258-3』

『◎絶体絶命! ピンチの連続! 波乱万丈!
 三河の弱小大名から天下人にまでのぼり詰めた徳川家康。
 大河ドラマ「どうする家康」主人公の「決断」とは?

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天下人となり成功者のイメージが強い徳川家康。
だが、その人生は絶体絶命のピンチの連続であり、波乱万丈に満ちていた。
家康の人生に訪れた24の大きな「決断」を読者が追体験しつつ、
天下人にのぼりつめることができた秘訣から、
現代に通じる教訓に迫る。
大河ドラマ「どうする家康」の予習にもなる、異色の歴史教養本。

【築山殿事件】苦渋の選択で築山殿と長男信康を自害に追い込む

【三方ヶ原】武田軍に大敗北を喫して学んだ勝つための戦術

【本能寺の変】険しくとも相手の虚をつくルートをとった伊賀越え

【天正壬午の乱】空白地の甲斐信濃に即出兵し周りを牽制する
 
【豊臣臣従】「鳴くまで待とうホトトギス」臣従という選択肢

【大老筆頭】五大老のトップとして政治的影響力を高める 

【関ケ原合戦】豊臣系大名をうまくてなづけた一大ギャンブル

【幕藩体制】将軍として260人の大名と主従関係を築く 

【大御所政治】将軍職をすぐに秀忠に譲り豊臣家を牽制

【豊臣家滅亡】平家滅亡を教訓に豊臣家を断絶させる    他

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<本書の目次>

序 章 天下取りに隠された数々の「決断」
第1章 弱小大名が生き残るための「賢断」
第2章 京から決死の脱出を図る「即断」
第3章 ナンバー2の道を選んだ「果断」
第4章 天下分け目の戦いを制した「勇断」
第5章 徳川250年体制を盤石にした「英断」

※内容は予告なく変更となる可能性がございます
著者プロフィール
城島 明彦 (じょうじま あきひこ)

昭和21年三重県生まれ。早稲田大学政経学部卒業。 東宝を経てソニー勤務時に「けさらんぱさらん」でオール讀物新人賞を受賞し、作家となる。『ソニー燃ゆ』『ソニーを踏み台にした男たち』などのノンフィクションから 『恐怖がたり42夜』『横濱幻想奇譚』などの小説、歴史上の人物検証『裏・義経本』や 『現代語で読む野菊の墓』『「世界の大富豪」成功の法則』 『広報がダメだから社長が謝罪会見をする! 』など著書多数。「いつか読んでみたかった日本の名著」の現代語訳に、 『五輪書』(宮本武蔵・著)、『吉田松陰「留魂録」』、『養生訓』(貝原益軒・著) 、『石田梅岩「都鄙問答」』、『葉隠』(いずれも致知出版社)がある。』

 ※ 【天正壬午の乱】以外は、大体知ってるエピソードだ…。

 ※ 家康で、オレが一番「疑問」に思っていることは、長男信康を「自害」に追い込むほどの「圧迫」を受けたのに、信長に反逆せずに忠義を尽くした点だ…。

 ※ 普通だったら、この時代の損得勘定を弾き出せば、信長を裏切って武田に付くだろうと思うよ…。

 ※ それを「しなかった」「させなかった」要因は、何だったのか…。

 ※ あるいは、「信長」という武将が「配下に見せてくれる」「未来絵図」だったのか…、とも思う…。

 ※ 後に、「天下布武」で示されることになる「新しい国のかたち」、そこに家康も賭けたのか…、とも思う…。

 ※ 武田では、所詮は「旧態依然」の「国のかたち」だからな…。

 ※ 光秀は、「そこを見損なった」とも思うんだよね…。

 ※ フタを開けてみれば、「支持」がそれほど無かったからな…。