藤井聡太七冠誕生 七冠・羽生善治の壮大な仕掛けが結実

藤井聡太七冠誕生 七冠・羽生善治の壮大な仕掛けが結実
大崎善生氏(作家、元「将棋世界」編集長)寄稿
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD2989U0Z20C23A5000000/

 ※ 『それから羽生はあることに徹底した。タイトル戦や研究会や棋士としてのイベントや行事の合間を縫うように、ひたすら将棋の定跡書を書き連ねたのである。

タイトル戦が混み合うときは、まるで自分がどこにいて何をやっているのかさえも不確かになる。そんな極限状態のスケジュールの中においても、定跡の一手一手を地道に系統立てて書き連ねていくという気の遠くなる作業を、羽生はただの一度も手を抜くことをせずに続けた。体力的にぎりぎりの状況にあっても必ず自力で一字一句を書き連ねていく。』
 ※ 『自分が今ある不確かな定跡体系を系統立てて書き連ねることによって、いつかそれに反応したより強力な棋士が出来上がるのではないか。そしてそのことこそが、将棋の本質に向かうということにつながっていくのではないか。』

 ※ 『日本中の将棋好きの指導者たちが呼応した。

羽生の書く月刊誌の定跡講座を、コピーし貼り付け一字一句を子どもたちに伝えていった。藤井を幼稚園時代から指導した講師もまたそういう一人である。彼の教えは徹底していた。

自分が何かを教えるのではなく羽生の残した言葉の一行一句を子どもたちの体に染み込ませ、血と肉とすること。羽生の定跡書は何冊も何冊も切り刻まれ、コピーされ子どもたちの頭脳に体の一部となり浸透していく。丸ごと記憶する。それが何よりも大切なことだった。

今現在の藤井聡太の戦いを見ていて、どういうわけか羽生がかつて成し遂げたことを見ているような興奮が沸いてこない。何かすべては羽生という天才が仕掛けた想定通りのことのように思えてならないのである。』…。

 ※ スゲー話しだな…。

 ※ まあ、「偉業」なんてものは、そういう「地道なことの積み重ね」の延長線上にしか、起こり得ないものなんだろう…。

『将棋の藤井聡太六冠(20)が1日、最年少で名人のタイトルを奪取し七冠を達成した。七冠は羽生善治九段(52)に次いで史上2人目の快挙で、全八冠独占まで残るタイトルは王座のみ。七冠の意義について、両者を知る元「将棋世界」編集長で作家の大崎善生氏に寄稿してもらった。

私はいつからかこのように考えるようになっていた。

藤井聡太という棋士の存在、その姿はある一人の稀有(けう)な天才が作り出した、一つの実験の…

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『藤井聡太という棋士の存在、その姿はある一人の稀有(けう)な天才が作り出した、一つの実験の結果であり理想像なのではないかと。その天才の描いた想像の線の上に藤井聡太は、やはりそれが必然であるかのように忽然(こつぜん)と存在した。

これから藤井が挑むであろう八冠全冠制覇という大偉業、しかしそれすらもある意味では、その天才にとっては一つの十分に想定内の出来事に過ぎないのではないか。

時代は27年前に遡る。

1996年、冬。羽生善治というたった一人のやせ細った青年が、絶対にあり得ないと言われていた大偉業を成し遂げた。七冠完全制覇。その達成はまるで海が割れていく奇跡のように、私たちの眼前に事実として提示されたのである。

その瞬間に私たちは奇跡の目撃者となった。目の前で起きてしまえば、それは奇跡というあやふやなものではなく、れっきとした事実であり現実であった。羽生という一人の青年が、それを現実として我々の前に生み落とし、そしてその瞬間から将棋界はすべての面で大きく変わっていったといえるのかもしれない。

これから何を目指すのか。

全冠制覇を達成した羽生に私は聞いた。この本人でも無理と思っていたという偉業を成し遂げてしまっては、これからの棋士人生を何を目標に過ごしていくのか。それは近くで見ていた私にとってはごく当たり前の疑問だった。羽生はまだ25歳の青年だった。

将棋の本質を目指す。それを解き明かす。

それが羽生の答えであった。もちろんそう簡単に割り切った答えが出たわけではないが、大きく何度となく考え直して言葉にしてみれば、要するに羽生の言葉はそれに近いものだったのではないかと思う。

それから羽生はあることに徹底した。タイトル戦や研究会や棋士としてのイベントや行事の合間を縫うように、ひたすら将棋の定跡書を書き連ねたのである。

タイトル戦が混み合うときは、まるで自分がどこにいて何をやっているのかさえも不確かになる。そんな極限状態のスケジュールの中においても、定跡の一手一手を地道に系統立てて書き連ねていくという気の遠くなる作業を、羽生はただの一度も手を抜くことをせずに続けた。体力的にぎりぎりの状況にあっても必ず自力で一字一句を書き連ねていく。それは大きな使命感を持っていなければできない大変な作業だったことと思う。

羽生の考えはおそらくこうだ。

自分が今ある不確かな定跡体系を系統立てて書き連ねることによって、いつかそれに反応したより強力な棋士が出来上がるのではないか。そしてそのことこそが、将棋の本質に向かうということにつながっていくのではないか。

七冠王羽生善治の壮大な仕掛け。

自分ではなく新しい才能や可能性に託す思い。

将棋とは何か。何が正しくどこへ行きつくのか。

それを自分が解き明かすのではなくヒントを残すことによって新しい才能、次の世代に懸ける。そしてほどなくして羽生の実験は現実のものとして動き出すのである。

日本中の将棋好きの指導者たちが呼応した。

羽生の書く月刊誌の定跡講座を、コピーし貼り付け一字一句を子どもたちに伝えていった。藤井を幼稚園時代から指導した講師もまたそういう一人である。彼の教えは徹底していた。

自分が何かを教えるのではなく羽生の残した言葉の一行一句を子どもたちの体に染み込ませ、血と肉とすること。羽生の定跡書は何冊も何冊も切り刻まれ、コピーされ子どもたちの頭脳に体の一部となり浸透していく。丸ごと記憶する。それが何よりも大切なことだった。

今現在の藤井聡太の戦いを見ていて、どういうわけか羽生がかつて成し遂げたことを見ているような興奮が沸いてこない。何かすべては羽生という天才が仕掛けた想定通りのことのように思えてならないのである。

まあ、しかしそれも現時点のことかもしれない。

八冠が現実となって藤井の手によって提示されれば、その瞬間からまた大きな時代が開き新しい奇跡のページが始まるのかもしれないのだ。

何が起こるか分からない。ただ息を潜め目を瞠(みは)っているしかない。

おおさき・よしお 1957年、札幌市生まれ。日本将棋連盟発行の「将棋世界」編集長などを経て、故村山聖九段の生涯を描いた「聖の青春」(新潮学芸賞)でデビュー。著書に「パイロットフィッシュ」(吉川英治文学新人賞)、「将棋の子」など。
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北川和徳
日本経済新聞社 編集委員
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今後の展望 藤井名人には8つのタイトルの全冠制覇をぜひ見せてほしいです。早ければ秋にもと言われていますが、それには王座戦のトーナメントを勝ち抜いて挑戦者になって5番勝負に勝つだけではなく、その間も自分が保持している棋聖と王位も防衛しなければならないのだから、気が遠くなります。でも、これまでもそれを繰り返しての7冠ですね。将棋はよく分かりませんが、何時間も集中力を求められる勝負を1週間に1回くらいのペースで行い、そこで圧倒的な勝率を維持できるということが、とても信じられません。
2023年6月2日 8:35』

〔「報道の自由」の憲法上の位置付け〕

 ※ 国民主権 ← 人々の「意思決定」の元となる「情報の流通」の確保 ← 表現の自由(人権の中でも、「優越的地位がある」とされる)←(表現の元となる)「事実」の流通の自由の確保 ←(それに奉仕する)「報道の自由」の確保

 …、という「構造」となる。

 ※ つまり、「報道の自由」なければ→「事実の流通の自由」なく→「事実の流通の自由」なければ →「表現の自由」の意味がなく→「表現の自由」の意味がなければ → 人々の「(政治的)意思決定」の意味がなく→「人々の意思決定」の意味がなければ →「国民主権(≒民主主義)」の意味がない…、という「構造」「関係」に、なっている。

 ※ よって、「報道の自由」は、「国民主権」の大前提になっている。

 ※ ジャーナリズムとか、ジャーナリストとは、こういう「報道の自由(事実の流通の自由」)」の「根幹を支えるもの」として、社会的に「高く評価されるもの」と、位置付けられている…。

〔日本国の「ジャーナリスト」の姿とは〕

〔日本国の「ジャーナリスト」の姿とは〕

 ※ 2017年2月17日のレポートで、ちょっと古いが紹介しておく。
   (現在でも、大して変わらんだろうよ。)

 ※ サマリーとしては、『人々に政治活動に参加する動機を与えて、国家の開発をサポートして、分離したオブザーバーであって、世論に影響を与えて、最も大きい聴衆を引き付ける種類のニュースを提供して、日常生活にアドバイス、オリエンテーションと指示を提供して、社会変化を支持して、娯楽とリラックスを提供して、そして人々に(彼・それ)らの意見を表明させます。』とのことだ…。

 ※ ここには、「世界情勢の分析」とか、それを踏まえた「日本国の戦略の方向性」とか、「かけらも、存在していない」…。

 ※ .pdf→.txt変換→手持ちの機械翻訳ソフトで翻訳…、という順番で「変換」した…。
 
 ※ 「田舎の報告」とは、「国別の報告」という意味と思われる…。

 ※ Country Report Journalists in Japan
https://epub.ub.uni-muenchen.de/36330/1/Country_report_Japan.pdf

『田舎の報告
日本のジャーナリスト
シンジ Oi &シンスケ Sako 、日本大学
2017年2月17日

ジャーナリストの背景

日本の典型的なジャーナリストは、40代半ばに、男性であって、そして学士号を持ちます。 このデータはメール調査の結果です。 747人のジャーナリストについて、613が男性でした

(82.1%)と134が女性でした(17.9%)。 平均のサンプルの年齢は41.25年(s = 8.99、中間の = 41)でした。 教育の背景については、ジャーナリストの92.8パーセントが学士号を持っています、そして6.3パーセントが修士号を持っています。 応答者の12.5パーセントがジャーナリズムあるいは共にジャーナリズムとコミュニケーションを専門に扱いました。

このパーセンテージはヨーロッパと北アメリカの国と比較して非常に少しに思われます。 日本で、職場内研修が最近になってやっとメディア企業で確立されました。

ニュース編集室のジャーナリスト

日本で、メール調査はただフルタイムの位置(100%)を持っているジャーナリストのために行なわれました。 日本のジャーナリストはかなり経験豊かです。 平均して、(彼・それ)らは16.94年(s = 8.99)の間(すでに)ジャーナリストとして働いていました、そして(彼・それ)らのおよそ半分が17年以上の専門的な経験を持っていました。 たいていのジャーナリストが、国内政治(44.8%)、政治(18.8%)のような、特定の newsbeat (52.7%)あるいは犯罪と法則(18.2%)に取り組みました。
応答者の残っている47.3パーセントは(彼・それ)らが種々のトピックと主題に取り組んだことを示しました。 大多数の応答者が(彼・それ)らが初めて加入した同じメディア企業で働いています。 同じく、(彼・それ)らの大部分が他のいかなる支払われた仕事(2.0%)を持っていませんでした。 極めて少数しか日本のジャーナリストがプロの連合(3.8%)のメンバーではありません。

サンプルの日本のジャーナリストの大多数は新聞(51.1%)のために働きました。
ジャーナリストのさらに46.7パーセントがテレビのために働きました、そしてただほとんどサンプルのジャーナリストだけが、(彼・それ)らが通信社(1.7%)で働いたと報告しませんでした。 (彼・それ)らの現在位置のためにニュース編集室で、応答者の33.1パーセントがリポーターであった(とき・から・につれて・ように)、31.3パーセントは部長でした、16.0パーセントは机ヘッドあるいは宿題エディタでした、そして13.5パーセントは編集主任でした。

ジャーナリズム的な役割

プロとしての役割方向に関して、日本のジャーナリストが政治的指導者をモニターして、そして綿密に調べて、時事問題の分析を提供すること、そして人々が政治的決断をする(表1を見る)必要があるというインフォメーションを提供することが最も重要であることを見いだしました。 それどころか、(彼・それ)らは政府政策を支持して、政治的指導力の肯定的なイメージを伝えて、そして政府の敵であるために重要にそれを設立しませんでした。

比較的低い標準偏差が示すように、これらの「民主主義の」役割の関連が日本のジャーナリストの間で争う者がなかったことは明白でした。 同じく、政府に寄付する小さい重要性の上に被告の間に強いコンセンサスがありました。 それでも、日本のジャーナリストの過半数が(彼・それ)らがそうであるようにものを報告して、ビジネスをモニターして、そして綿密に調べること、そして政治課題を設定することが重要であることを見いだしました。

ジャーナリズムの研究のc世界

1つの -
田舎の報告:日本
次の役割がただ少数の応答者だけによって支持されました: 人々に政治活動に参加する動機を与えて、国家の開発をサポートして、分離したオブザーバーであって、世論に影響を与えて、最も大きい聴衆を引き付ける種類のニュースを提供して、日常生活にアドバイス、オリエンテーションと指示を提供して、社会変化を支持して、娯楽とリラックスを提供して、そして人々に(彼・それ)らの意見を表明させます。

ジャーナリストの Table 1:Roles

N  「非常に」と言っているパーセンテージと「非常に重要な」  平均  標準偏差が政治的なリーダー  743をモニターして、そして綿密に調べます、  90.8   4.47   .69が分析を提供します、時事問題  743   84.7について  4.22   .73が人々が政治的決断を  743にするために必要とするインフォメーションを提供します、  83.0   4.27   .81がことを(彼・それ)らが  744である(とき・から・につれて・ように)  65.1   3.81   .95と報告します

ビジネスの  744   62.9   3.82   .86をモニターして、そして綿密に調べてください
政治的なアジェンダ  746   60.5   3.73   .88を設定してください
Motivate の人々   744   48.7   3.47   1.09がサポートする政治活動に参加するために、国家の開発   742   45.6   3.42   1.05
分離した観察者  743   44.1   3.37   .94であってください
影響世論  745  43.1  3.33  1.06
3.26   1.00最も大きい聴衆  743   39.2を引き付ける種類のニュースに Provide アドバイスを提供します、日常生活のための方向と方向  742  39.2  3.25  社会変化の.98の提唱者  743  31.6  3.06  1.01

娯楽を提供しますそして  743   25.3   3.01   .93が人々に表現させるリラックス (彼・それ)らの光景   744   24.3   2.83   1.04
政府  742   10.4   2.24   .98の敵であってください
Convey  政治的な主導の  745   1.1   1.60   .70のサポート政府政策の肯定的なイメージ   744   .8   1.69   .72

質問:どうか私にこれらのことのそれぞれがあなたの仕事でどれぐらい重要であるか言ってください。 5があなたが(彼・それ)らが極めて重要で、非常に重要な4つの手段、いくぶん重要な3つの手段であることを見いだすことを意味します、2がほとんど重要性を意味しません、そして1が重要でないを意味します。

職業倫理

日本のジャーナリストが一般に倫理のプロの標準への強い約束を実証しました。 大きい応答者の過半数は、状況と状況にかかわらず、ジャーナリストが常に職業倫理のコードに固執するべきであるということに同意しました(表2参照)。 さらに、10人のうち7人の応答者が(彼・それ)らの倫理上の決定が自らの判断力の問題である、そして時々、もし異例の状況がそれを必要とするなら、道徳的基準を取っておくことが受容できるというビューと意見が違いました。 しかしながら、ジャーナリストの半分以上がジャーナリストの倫理上の決定が特定の状況に依存するという考えを支持しました。

写真は潜在的に物議をかもしている報告の慣習の選択された数に関して入り混ざっていました。 日本でのジャーナリストの大多数が機密ビジネスの使用を見いだしました、あるいは認可がない政府文書、俳優によるレクリエーションあるいはニュースのドラマ化の使用と少なくとも時々(表3参照)正当な隠されたマイクロホンあるいはカメラの使用。

5人のうち2人の被告がそれがストーリーを受けとる不本意な情報提供者に対する圧力を及ぼして、会社あるいは組織で内部情報を得て、機密情報に対して人々に支払って、そして許可なく(文字と写真のような)個人のドキュメントを利用するために使われるために(常にあるいは機会で)正当化されたと思いました。 ただ少数のジャーナリストだけがほかの誰かであって、源からの引用を変えるか、あるいは造りあげて、そして写真を変更すると主張することが許されることを見いだしました。 「茶色の封筒ジャーナリズム」の実践 - すなわち、ジャーナリストが情報提供者から金を取るという状態で、多分肯定的な報道と引き換えに一がほとんど満場一致で日本のジャーナリストによって非難されました。

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2 -
田舎の報告:日本
表2:ジャーナリストの倫理上の方向

N  「強く」と言っているパーセンテージそして「いくぶん同意します」    標準偏差ジャーナリストが常に、状況にかかわらず、職業倫理のコードに固執するべきであることを意味しますそして文脈  742  85.0  4.21  .77何がジャーナリズムで倫理上であるかは  3.44   .97  740   55.5特定の状況に依存します、それは  2.77   1.05  741   26.3特別枠道徳的基準にとって受け入れられる、もし異常な状況が  740   34.1それを必要とします、  2.96   1.05ジャーナリズムで倫理上のことが自らの判断力の問題であるということです

質問: 次の陳述はジャーナリズムへの違ったアプローチを説明します。 (彼・それ)らのそれぞれのために、どうか私にあなたがどれほど強く同意するか、あるいは意見が合わないか言ってください。 あなたが強くいくぶん一致するということに同意する、4が意味する5つの手段、未決定の3つの手段、2つの手段がいくぶん一致しません、そして1の手段が強く一致しません。

表3: ジャーナリストNほどの物議をかもしている報告方法のジャスティフィケーション  「常に正当な」  ercentage を言っているパーセンテージ 会社あるいは組織で内部情報を得るために使われるストーリー  735   1.4   39.2のために  隠されたマイクロホンあるいはカメラを使った736   1.1   38.9を手に入れるために不本意な情報提供者に対する圧力をして俳優  735   16.3   71.4によってレクリエーションあるいはニュースのドラマ化を使って「時々弁明される」が機密ビジネスあるいは支配を使って認可なしで  740   22.3   69.5を文書化すると伝えること   741   .9   70.0
機密情報のための支払っている人々  741  .8  ほかの誰かであると主張している47.4  742  .3  22.6
許可  739   .1   38.6が源からの引用を変えるか、あるいは造りあげないで、手紙と写真のような個人の書類を利用すること   743   .1   2.7枚の Altering 写真   741   .1   8.8
源からの寛容な金  742  .0  4.6

質問:重要な物語を与えられて、あなたは、もしあるとしたら、次のことのどちらが時々正当であるかもしれないと思うか、そしてあなたはどんな状況の下でもどちらを承認しないでしょうか?

プロフェッショナルな自治と影響

日本のジャーナリストが中ぐらいの度合いのプロフェッショナルな自治を報告しました。 (彼・それ)らの54.2パーセントが(彼・それ)らの物語の選択で完全であるか、あるいは大いに自由の(彼・それ)らが(すでに)そうしていたと応えました。 合計60.1パーセントで、ニュース記事で強調するべき完全であるか、あるいは何に関してか決めることにおいて非常に多くの自由の局面を持っていた応答者の数はさらにより高かったです。

ニュース生産高がいろいろな要因によって影響を与えられます。 インタビューで言及された影響の潜在的な原因の間で、「軍、警察と国家安全保障」は日本の応答者の間でリストの上にやっていました(表4参照)。 さらに、大多数のジャーナリストが、(彼・それ)らの個人の価値感と信念と同様、実質的にタイムリミット、ジャーナリズム倫理によって制限された(彼・それ)らの仕事を見つけました。 同じく、少し応答者の半分以下が(彼・それ)らの仕事が競合する報道機関によって、そして編集方針によって、編集の管理者とより高等な編集者によって、報道機関のマネージャーによって影響を与えられたことを認めました。 10人のうち3人のジャーナリストがインフォメーションアクセス(あるいはその欠如)によって、取材リソースの有効性(あるいは非有効性)によって、メディアの法律と規則によって、報道機関の所有者によって、スタッフについてのオーディエンスから、(彼・それ)らの対等者によるフィードバックによって、そしてオーディエンス研究とデータによって影響を与えられました。

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田舎の報告:日本
全体的な、内部要因は外部制約よりいっそう影響力を持っていることが判明しました。

日本のジャーナリストが政治的な、そして都市の領域の中からわずかしか情報提供者によって影響を与えられるのを感じませんでした:圧力団体、官僚、検閲、広報と宗教。 彼らは他のメディアで友人たち、知人と家族から同僚からと同様同じくただマイナーな影響だけを報告しました。

表4:認知された影響

N  「非常に」と言っている、そして「非常に影響力を持った」パーセンテージ  平均  標準偏差軍、警察と国家安全保障  740  75.5  4.03  .96タイムリミット  741  63.2  3.75  .86

ジャーナリズム倫理  739  61.7  3.77  .87
あなたの個人の価値感と信念  743  55.2  3.62  .88
報道機関のマネージャー  745  49.8  3.48  .96の編集の管理者とより高等な編集者  745  47.4  3.43  .90の競合する報道機関  741  46.6  3.45  .82
編集方針  742  42.3  3.35  .92
インフォメーションアクセス  730  38.9  3.31  .91
取材リソースの有効性  721  30.2  3.13  .84のメディア法と規則  737  28.4  3.02  .96
報道機関の所有者  741  28.3  2.87  1.19
聴衆からのフィードバック  743  28.3  3.12  .79
スタッフの上のあなたの対等者  745  26.4  3.05  .83
聴衆研究とデータ  740  26.4  3.00  .90
広告考慮  743  15.3  2.49  1.03
他のメディアの同僚  743  14.1  2.54  .94
友人たち、知人と家族  741  13.5  2.45  .99の利益期待  741  11.5  2.32  .99
宗教的な考慮  740  6.8  2.04  .92
広報  736  6.3  2.25  .86
検閲  737  5.4  1.82  .92
官僚  740  4.7  1.92  .87
圧力団体  741  2.2  1.82  .76

質問:ここに潜在的な影響力を持つもののリストがあります。 どうか私に次のもののそれぞれがあなたの仕事にどれぐらいの影響を与えるか言ってください。 5がそれが極めて影響力を持っていることを意味します、非常に影響力を持った4つの手段、いくぶん影響力を持った3つの手段、影響力を持った小さい2つの手段と影響力を持っていない1つの手段。

過渡期のジャーナリズム

ジャーナリズムは現在変更の状態にあります。 日本のジャーナリストによれば、サーチエンジンの使用と技能の重要性は最も非常に(すでに)これまでの5年の間に変化していました(表5参照)。

全体的に、ジャーナリストの回答は職業で労働条件の実質的な悪化を示します。 大多数の応答者が(彼・それ)らの平均の就業時間の増加を報告しました。 さらに、たいていのインタビューされたジャーナリストが記事とジャーナリズムの信頼性を研究するために入手可能なタイムが(すでに)下がっていたと感じました。

ジャーナリストに対する影響が表6で言及されたすべての情報提供者で増加しました。 ここで、それは特にソーシャルメディアの影響とこれまでの5年の間に最も強くなった(ブログのような)ユーザーによって作成された内容でした。 それでも、5人のうち3人の応答者が聴衆フィードバック、聴衆研究、利益を生んでいるプレッシャー、道徳の基準とニュース生産における聴衆の関与の影響の増加を感じました。 日本のジャーナリストの半分が広告考慮と競争のために増加を報告しました。

ジャーナリズムの変更についての質問はただ専門的な経験を持った5年かそれ以上を持ったジャーナリストに与えられただけでした。

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田舎の報告:日本
表5:ジャーナリズムの変化
N  言うことが「増やした」パーセンテージが  「減少した」と言っているパーセンテージ サーチエンジンの使用   621   85.7   1.1
技能  622  64.1  10.8
ジャーナリストの平均の就業時間  621  58.1  (彼・それ)らの聴衆とのジャーナリストの11.3の相互作用  621  38.2  16.9社会のためのジャーナリズムの関連  616  27.1  26.1 ジャーナリズムの信頼性   621   14.3   57.5
編集の決定をするジャーナリストの自由  618  13.1  ジャーナリズムあるいは関連した分野の学位を持っている29.3  621  8.7  記事を研究するために入手可能な20.0時間  620  8.5  学士号を持っている59.4  622  5.8  19.8

質問:どうか私にあなたが日本における仕事の様相に従う重要性に(今まで)増加あるいは減少があったと思うかどうか言ってください。 (彼・それ)らが大いに増大させた5つの手段、(彼・それ)らがいくぶん増大させた4つの手段、3つの手段がそこ(に・で)(今まで)変化ではありませんでした、2が(彼・それ)らがいくぶん減少したことを意味します、そして1が(彼・それ)らが大いに減少したことを意味します。

表6:ジャーナリズムに対する影響の変化

N  言うことが「強くした」パーセンテージがソーシャルメディアを「弱めた」と言っているパーセンテージ   620   88.4   1.6
ブログのような、ユーザーによって作成された内容  618  78.3  2.3のオーディエンスフィードバック  616  63.5  3.4
聴衆研究  615  61.8  2.9
利益を生んでいる圧力  613  61.5  2.8
倫理上の標準  619  59.9  14.2
ニュース生産における聴衆の関与  614  59.1  3.7の広告考慮  614  52.4  5.7
競合  615  51.5  7.2
広報  606  44.1  2.6
センセーショナルなニュースに向かっての圧力  614  35.5  6.4
ジャーナリズム教育  614  35.2  18.7
ジャーナリズムの仕事をする西洋の方法  613  14.4  11.9の質問:

どうか私にこれらの影響がどの程度まで日本でこれまでの5年の間にもっと強いか、あるいはより弱くなったか言ってください。

5が(彼・それ)らが多く、(彼・それ)らがいくぶん強くした4つの手段、(彼・それ)らが変えなかった3つの手段、(彼・それ)らがいくぶん弱めた2つの手段を強くしたことを意味します、そして1が(彼・それ)らが大いに弱ったことを意味します。

方法論的なインフォメーション

住民のサイズ:サンプリング方法:ニュース編集室にジャーナリストの(推定)目的がある定数サンプリングをもたらしている、そしてジャーナリストのためにニュース編集室の中でまったく組織的な25,200がサイズのサンプルを取ります:747のうまくいっているジャーナリスト調査方法:メール / e- メール
回答レート:フィールド研究の期間:ジャーナリズムの研究の33.9%のセ氏02/2013-03/2013度世界
5 -
田舎の報告:日本』

鶴岡路人

鶴岡路人
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%B4%E5%B2%A1%E8%B7%AF%E4%BA%BA

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鶴岡 路人人物情報
生誕 1975年(47 – 48歳)
日本の旗 日本 東京都
国籍 日本の旗 日本
出身校 慶應義塾大学法学部政治学科卒業
ロンドン大学キングス・カレッジ大学院戦争研究学部博士課程修了
配偶者 東野篤子
学問
研究分野 現代欧州政治、国際安全保障、核政策
研究機関 慶應義塾大学
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鶴岡 路人(つるおか みちと、1975年 – )は、日本の国際政治学者。慶應義塾大学総合政策学部准教授。現代欧州政治、国際安全保障、核政策などを専門とする。

筑波大学人文社会系教授の東野篤子は妻[1][2]。

来歴

東京都出身。1998年3月、慶應義塾大学法学部政治学科卒業。同年8月から2000年5月までジョージタウン大学大学院へ交換留学。2001年3月、慶應義塾大学大学院法学研究科修士課程修了。2005年9月、ロンドン大学キングス・カレッジ大学院戦争研究学部博士課程修了[3]。

2011年1月、東京財団政策研究所の主任研究員に就任。2011年4月、防衛省防衛研究所の主任研究官に就任[3]。2017年4月、慶應義塾大学総合政策学部准教授に就任[3]。

2018年から2021年にかけて笹川平和財団の公式サイトに、NATOやEU、対露関係など、国際政治に関する論文を寄稿した[4]。2021年6月からは新潮社のフォーサイトに、国際安全保障に関する論文を寄稿している[5]。

2022年3月8日、BS日テレの『深層NEWS』で防衛研究所の高橋杉雄防衛政策研究室長とロシアのウクライナへの侵攻について議論した際、「ウクライナが抵抗し続ける意思がある限り、(世界各国が)武器の供与を含めて支援を続けていく必要がある」と述べた[6]。

著書・編書

田中俊郎、小久保康之、鶴岡路人編『EUの国際政治―域内政治秩序と対外関係の動態』慶應義塾大学出版会、2007年12月15日。ISBN 978-4-7664-1448-6。

鶴岡路人『EU離脱─イギリスとヨーロッパの地殻変動』筑摩書房〈ちくま新書〉、2020年2月5日。ISBN 978-4-480-07287-0。

鶴岡路人『欧州戦争としてのウクライナ侵攻』新潮社〈新潮選書〉、2023年2月22日。ISBN 978-4-10-603895-2。』

ispace、民間初の月面着陸に失敗 通信回復せず

ispace、民間初の月面着陸に失敗 通信回復せず
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC248480U3A420C2000000/

『宇宙スタートアップのispace(アイスペース)は26日、月面着陸船の月への着陸について、「通信の回復が見込まれず、完了が困難と判断した」と発表した。世界で民間初との期待があった月着陸は失敗した。着陸時に機体に何らかの異常が発生した可能性がある。
着陸船は2022年12月に米スペースXのロケットで打ち上げられ、宇宙空間を4カ月半航行して月に到着した。26日午前0時40分ごろ、月面から高度約100キロメートルの位置で着陸態勢に入った。順調に進めば着陸開始から1時間後の午前1時40分ごろに着陸する予定だった。

アイスペースによると、着陸直前までは着陸船との通信は確認できていたという。ただその後は着陸船との通信が途絶えていた。都内の管制室で通信の確立を試みてきたが断念した。月面着陸は軟着陸が最大のハードルとされる。着陸船が月面に衝突して故障した可能性もある。着陸船には宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発した小型ロボットなど、7つの荷物を搭載していた。

【関連記事】

・ispace、月面着陸船と通信途絶える
・ispace、月面着陸へのポイント図解 』

与謝蕪村

与謝蕪村
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8E%E8%AC%9D%E8%95%AA%E6%9D%91

 ※ 今日は、こんな所で…。

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

与謝 蕪村
Yosa Buson.jpg
与謝蕪村(呉春作)
誕生 1716年
日本の旗 日本・摂津国東成郡毛馬村
(現:大阪府大阪市都島区毛馬町)
死没 1784年1月17日
日本の旗 日本・山城国
(現:京都府京都市下京区)
職業 俳人、画家
代表作 鳶鴉図
Portal.svg ウィキポータル 文学
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与謝 蕪村(與謝 蕪村、よさ ぶそん、よさの ぶそん 享保元年(1716年) – 天明3年12月25日(1784年1月17日))は、江戸時代中期の日本の俳人、文人画(南画)家。本姓は谷口、あるいは谷。「蕪村」は号で、名は信章。通称寅。「蕪村」とは中国の詩人陶淵明の詩『帰去来辞』に由来すると考えられている。俳号は蕪村以外では「宰鳥」「夜半亭(二世)」があり、画号は「春星」「謝寅(しゃいん)」など複数ある。

鳶鴉図(重要文化財) 紙本着色 北村美術館蔵[1]

経歴

摂津国東成郡毛馬村(けまむら)(現:大阪府大阪市都島区毛馬町)に生まれた[2]。京都府与謝野町(旧丹後国)の谷口家には、げんという女性が大坂に奉公に出て主人との間にできた子供が蕪村とする伝承と、げんの墓が残る。同町にある施薬寺には、幼少の蕪村を一時預かり、後年、丹後に戻った蕪村が礼として屏風絵を贈ったと口伝されている[3]。

20歳の頃、江戸に下り、早野巴人(はやの はじん〔夜半亭宋阿(やはんてい そうあ)〕)に師事して俳諧を学ぶ。日本橋石町「時の鐘」辺の師の寓居に住まいした。このときは宰鳥と号していた。俳諧の祖・松永貞徳から始まり、俳句を作ることへの強い憧れを見る。しかし江戸の俳壇は低俗化していた。

象潟地震で隆起する以前の、象潟の様子が描かれた屏風。芭蕉は「象潟や雨に西施がねぶの花」という句を詠んだ。

寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと下総国結城(現:茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、敬い慕う松尾芭蕉の行脚生活に憧れてその足跡を辿り、僧の姿に身を変えて東北地方を周遊した。絵を宿代の代わりに置いて旅をする。それは、40歳を超えて花開く蕪村の修行時代だった。その際の手記で寛保4年(1744年)に雁宕の娘婿で下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)の佐藤露鳩(さとう ろきゅう)宅に居寓した際に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で初めて蕪村を号した。

その後、丹後に滞在した。天橋立に近い宮津にある見性寺の住職・触誉芳雲(俳号:竹渓)に招かれたもので、同地の俳人(真照寺住職の鷺十、無縁寺住職の両巴ら)と交流。『はしだてや』という草稿を残した。宮津市と、母の郷里で幼少期を過ごしたと目される与謝野町には蕪村が描いた絵が複数残る(徐福を画題とした施薬寺所蔵『方士求不老父子薬図屏風』、江西寺所蔵『風竹図屏風』)。一方で、与謝野町の里人にせがまれて描いた絵の出来に後悔して、施薬寺に集めて燃やしてしまったとの伝承もある[3]。

42歳の頃に京都に居を構え、与謝を名乗るようになる。母親が丹後与謝の出身だから名乗ったという説もあるが定かではない。45歳頃に結婚して一人娘くのを儲けた。51歳には妻子を京都に残して讃岐に赴き、多くの作品を手掛ける[4]。再び京都に戻った後、島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には夜半亭二世に推戴されている。

現在の京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明、68歳の生涯を閉じた。死因は従来、重症下痢症と診られていたが、最近の調査で心筋梗塞であったとされている[5]。

辞世の句は「しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり」。墓所は京都市左京区一乗寺の金福寺(こんぷくじ)。

与謝蕪村の生誕地・句碑(大阪市都島区)

与謝蕪村の生誕地・句碑(大阪市都島区)
与謝蕪村邸宅跡・終焉の地(京都市下京区)

与謝蕪村邸宅跡・終焉の地(京都市下京区)
与謝蕪村の墓(京都市左京区)

与謝蕪村の墓(京都市左京区)

作家論
蕪村筆 俳画 自画賛(岩くらの狂女恋せよほととぎす)
蕪村筆『柳陰漁夫図』

松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人であり、江戸俳諧中興の祖といわれる。また、俳画の大成者でもある。写実的で絵画的な発句を得意とした。独創性を失った当時の俳諧を憂い「蕉風回帰」を唱え、絵画用語である「離俗論」を句に適用した天明調の俳諧を確立させた中心的な人物である。

絵は独学であったと推測されている[3]。

後世からの評価

俳人としての蕪村の評価が確立するのは、明治期の正岡子規『俳人蕪村』、子規・内藤鳴雪たちの『蕪村句集講義』、昭和前期の萩原朔太郎『郷愁の詩人・与謝蕪村』[6]まで待たなければならなかった。

旧暦12月25日は「蕪村忌」。関連の俳句を多く詠んだ。

蕪村忌に呉春が画きし蕪かな 正岡子規
蕪村忌の心游ぶや京丹後 青木月斗

2015年10月14日、天理大学附属天理図書館が『夜半亭蕪村句集』の発見を発表した。1903句のうち未知の俳句212句を収録[7]。

与謝野町は「蕪村顕彰全国俳句大会」を2012年から開いている[3]。
俳諧の主な編著

蕪村七部集

    (其雪影、明烏、一夜四歌仙、続明烏、桃李、五車反古、花鳥篇、続一夜四歌仙)

明烏
夜半楽
新花摘(俳文集)など。

作品

俳句

春の海 終日(※ひねもす)のたりのたり哉

柳散り清水涸れ石処々

鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな ※ 『鳥羽殿とは鳥羽上皇を指し、何らかの事件が起こり(鳥羽上皇の死)、洛中から洛外の鳥羽殿へ武士たちが折からの強風の中、馬を走らせているただならぬ様子が描かれています。』

花いばら故郷の路に似たるかな

不二ひとつうづみのこして若葉かな

牡丹散りて打かさなりぬ二三片

夏河を越すうれしさよ手に草履

ゆく春やおもたき琵琶の抱心

易水にねぶか流るゝ寒かな

月天心貧しき町を通りけり

さみだれや大河を前に家二軒

菜の花や月は東に日は西に

笛の音に波もよりくる須磨の秋

涼しさや鐘をはなるゝかねの声

稲妻や波もてゆへる秋津しま

ところてん逆しまに銀河三千尺

古庭に茶筌花さく椿かな

ちりて後おもかげにたつぼたん哉

あま酒の地獄もちかし箱根山

鰒汁の宿赤々と燈しけり ※ 鰒汁→ふぐ汁

二村に質屋一軒冬こだち

御火焚や霜うつくしき京の町

寒月や門なき寺の天高し

さくら散苗代水や星月夜

住吉に天満神のむめ咲ぬ

秋の夜や古き書読む南良法師

朝霧や村千軒の市の音

休み日や鶏なく村の夏木立

帰る雁田ごとの月の曇る夜に

うつつなきつまみ心の胡蝶かな

雪月花つゐに三世の契かな ※ 『師弟の縁は前世、現世、来世にわたる深い因縁でつながっているということをいう。師は三世の契り』

朝顔や一輪深き淵の色

絵画

『夜色楼台図』(国宝)
『十宜図』のうち『宜暁図』(国宝)

山水図(出光美術館)六曲一双 重要文化財 1763年
十便十宜図(川端康成記念会)画帖 国宝 1771年 池大雅との競作。蕪村は十宜図を描く。
紅白梅図(角屋もてなしの文化美術館)襖4面、四曲屏風一隻 重要文化財
蘇鉄図(香川・妙法寺)四曲屏風一双(もと襖) 重要文化財
山野行楽図(東京国立博物館)六曲一双 重要文化財
竹溪訪隠図(個人蔵)掛幅 重要文化財
奥の細道図巻(京都国立博物館)巻子本2巻 重要文化財 1778年
野ざらし紀行図(個人蔵)六曲一隻 重要文化財
奥の細道図屏風(山形美術館)六曲一隻 重要文化財 1779年
奥の細道画巻(逸翁美術館)巻子本2巻 重要文化財 1779年
新緑杜鵑図(文化庁)掛幅 重要文化財
竹林茅屋・柳蔭騎路図(個人蔵)六曲一双 重要文化財
春光晴雨図(個人蔵)掛幅 重要文化財
鳶烏図(北村美術館)掛幅(双幅) 重要文化財
峨嵋露頂図(法人蔵)巻子 重要文化財
夜色楼台図(個人蔵)掛幅 国宝
富嶽列松図(愛知県美術館)掛幅 重要文化財
柳堤渡水・丘辺行楽図(ボストン美術館)六曲一双 紙本墨画淡彩
蜀桟道図(シンガポールの会社) 1778年

上記の他に、蕪村の俳諧の門弟でパトロンでもあった寺村百池の家に伝わった絵画、短冊、書状等の遺品一括が「与謝蕪村関係資料」として重要文化財に指定されている(1987年指定、文化庁保管)。
画集

近年刊の図版本

『蕪村全集 第6巻 絵画・遺墨』(佐々木丞平ほか編、講談社、1998年)
『水墨画の巨匠 第12巻 蕪村』(早川聞多・芳賀徹編、講談社、1994年)
『与謝蕪村 新潮日本美術文庫9』 河野元昭解説(新潮社、1996年)- 入門書
『蕪村 放浪する文人』 佐々木丞平・佐々木正子ほか解説(新潮社〈とんぼの本〉、2009年)- 入門書
『与謝蕪村 画俳ふたつの道の達人』(藤田真一[8]監修、平凡社〈別冊太陽 日本のこころ〉、2012年)

展覧会図録

『蕪村 その二つの旅』(佐々木丞平・佐々木正子監修、朝日新聞社編、東京都江戸東京博物館、2001年2月~3月ほか)
『与謝蕪村 翔けめぐる創意』(辻惟雄ほか、MIHO MUSEUM、2008年3月~6月)
『蕪村 没後220年』(逸翁美術館+柿衛文庫編、思文閣出版、2003年)
『与謝蕪村 「ぎこちない」を芸術にした画家』(府中市美術館編、東京美術、2021年)

全集

『蕪村全集』(全9巻、尾形仂・丸山一彦ほか編)は、講談社で1992年5月より刊行開始、(後半2巻が遅れ)17年かけ2009年9月に完結[9]。

『第1巻 発句』 初回配本
『第2巻 句集・句稿・句会稿』
『第3巻 連句』
『第4巻 俳詩・俳文』
『第5巻 書簡』
『第6巻 絵画・遺墨』
『第7巻 編著・追善』
『第8巻 関係俳書』
『第9巻 年譜・資料』 最終回配本

刊行句集

『蕪村句集講義』平凡社東洋文庫(全3巻)、佐藤勝明校注、2010-11年
『蕪村全句集』藤田真一・清登典子編、おうふう、2000年
『與謝蕪村句集』永田書房、1991年

文庫作品集

『蕪村俳句集』 尾形仂校注、岩波文庫、1989年[10]
『蕪村書簡集』 大谷篤蔵・藤田真一校注、岩波文庫、1992年
『蕪村句集 現代語訳付』 玉城司訳・校注、角川ソフィア文庫、2011年
『蕪村文集』 藤田真一校注、岩波文庫、2016年

関連項目
ウィキクォートに与謝蕪村に関する引用句集があります。
ウィキメディア・コモンズには、与謝蕪村に関連するメディアがあります。

俳人の一覧
彭城百川
松村呉春
紀楳亭
円山応挙
上田秋成
岡田利兵衞 - 柿衞文庫を設立した。
佐藤春夫 - 蕪村『春風馬堤曲』を翻案したレーゼシナリオ『春風馬堤図譜』を著した[11]。
蕪村公園 - 2009年に大阪市都島区に開業した公園。』

古庭(ふるにわ)に鶯(うぐいす)啼(な)きぬ日もすがら ― 蕪村

古庭(ふるにわ)に鶯(うぐいす)啼(な)きぬ日もすがら ― 蕪村
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b09617/

 ※ 「あのように、オレも、日もすがら啼き続けるぞ。」という決意表明だったのだろう…。

 ※ さりとて、「血を吐くまで啼き続ける」とされる、「ホトトギス」と違って、「春を告げる」とされる、ウグイスであるので、どこか「のんびり」とした風情も、漂っている…。

 ※ 「そんなに、気張りなさんな。」…、という声も、聞こえて来そうな感じでもある…。

 ※ 鳴き声自体、「ホーホケキョ(法法華経)」だしな…。

『文化 環境・自然・生物 暮らし 2023.04.23

深沢 了子 【Profile】
俳句は、複数の作者が集まって作る連歌・俳諧から派生したものだ。参加者へのあいさつの気持ちを込めて、季節の話題を詠み込んだ「発句(ほっく)」が独立して、17文字の定型詩となった。世界一短い詩・俳句の魅力に迫るべく、1年間にわたってそのオリジンである古典俳諧から、日本の季節感、日本人の原風景を読み解いていく。第17回の季題は「うぐいす」。

古庭(ふるにわ)に鶯(うぐいす)啼(な)きぬ日もすがら 蕪村
(1744年、『寛保四年歳旦帳』(かんぽうよねんさいたんちょう)所収)

蕪村のこの句は、一見とても単純です。「古びた庭でうぐいすが終日さえずっている」。
「古庭」は古い屋敷の庭で、きっと梅の古木が今を盛りと花を付けているのでしょう。そこで日がな一日鶯が鳴いているという穏やかな春の日の情景です。

この句は蕪村が初めて編集した『寛保四年歳旦帳』という本に収められています。そして、初めて「蕪村」の俳号を使った句でもあります。それまでは「宰鳥(宰町)」(さいちょう)と名乗っていました。

面白いことにこの本は宰鳥の鶏の句で始まり、蕪村の鶯の句で終わります。古い号と新しい号で鳥を詠み分け、遊び心いっぱいに蕪村号のお披露目をしたわけです。そうしたこだわりのある本に載せられた句ですから、単純な景色の句と読むだけでは不十分でしょう。
句の背景にあるのは、芭蕉の有名な「古池や蛙飛びこむ水の音」句だと思われます。「古池の蛙」を「古庭の鶯」に変えたのです。蛙と鶯は、『古今集』の仮名序(かなじょ)に歌を詠む生き物として「花に鳴く鶯、水に住む蛙」とセットで記され、いわば対になる動物でした。新しい号での最初の句に、蕪村は芭蕉への敬意を込めたのです。終日鳴き続ける鶯は、句を唱え続けようという蕪村の俳諧に対する決意表明であったのかもしれません。

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深沢 了子FUKASAWA Noriko経歴・執筆一覧を見る

聖心女子大学現代教養学部教授。蕪村を中心とした俳諧を研究。1965年横浜市生まれ。東京大学大学院博士課程単位取得退学。博士(文学)。鶴見大学助教授、聖心女子大学准教授を経て現職。著書に『近世中期の上方俳壇』(和泉書院、2001年)。深沢眞二氏との共著に『芭蕉・蕪村 春夏秋冬を詠む 春夏編・秋冬編』(三弥井書店、2016年)、『宗因先生こんにちは:夫婦で「宗因千句」注釈(上)』(和泉書院、2019年)など。』

科学者の国会が「軍事研究を行わない」と決議

科学者の国会が「軍事研究を行わない」と決議
https://www.natureasia.com/ja-jp/ndigest/v14/n5/%E7%A7%91%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%81%AE%E5%9B%BD%E4%BC%9A%E3%81%8C%E3%80%8C%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%82%92%E8%A1%8C%E3%82%8F%E3%81%AA%E3%81%84%E3%80%8D%E3%81%A8%E6%B1%BA%E8%AD%B0/85148

 ※ だったら、「日本国民」が納税した「税金」を、使うなよ…。

 ※ 自分たちで募金・集金して、「財団」でも設立して、好きなようにやったらいい…。

 ※ 「日本国民」の納税した税金を使う限り、「日本国民」の「ご意向」から、全く乖離するということは、許されない…。

 ※ 特に、現下の「安全保障環境」において、何を寝言を言っているんだ、という感じだ…。

 ※ まあ、2017年の話しではあるが…。

 ※ しかし、その後、「見解を変更した」という話しは、聞かない…。

 ※ 依然として、こういう立場なんだろう…。

『Nature ダイジェスト Vol. 14 No. 5 DOI: 10.1038/ndigest.2017.170508

日本学術会議は、戦後維持してきた軍事研究拒否の声明を継承すると決定した。軍事研究に対する同組織の立場表明は50年ぶりだ。

日本の科学者の代表機関である日本学術会議は、2017年3月24日、「軍事目的のための科学研究を行わない」とする過去2回の声明の継承を決定した。

科学者が戦争協力したことへの反省から、同会議は1950年と67年に戦争と軍事目的の研究を拒否する声明を決議した。1950年の声明は、世界的に有名な「ラッセル・アインシュタイン宣言」より5年早い。科学のあり方と平和への決意を世界に先駆けて示したのだ。だが近年の防衛省による研究助成制度創設などを受け、同会議は安全保障との関わり方を探るために2016年6月から過去の声明の見直しを検討してきた。

学術の健全な発展には、研究の自主性・自律性、研究成果の公開性が担保される必要がある。だが、特定秘密保護法や、防衛装備庁の安全保障技術研究推進制度はそれを危うくする。新声明は、軍事的安全保障研究は学問の自由および学術の発展を阻害する懸念があるとし、これを拒否する姿勢を改めて確認した形となった。加えて、安全保障技術研究推進制度について、「政府による研究への介入が著しく、問題が多い」と述べ、大学などに研究の適切性を審査する制度の設置を望むとした。なお、声明は通例どおり幹事会で決議されたが、新声明の影響力から4月の総会での採決を求める意見もあった。

デュアルユース問題

科学や技術には、デュアルユース(軍民両用)可能なものがある。例えば、ロボットや防毒マスクは、軍事だけでなく災害時にも有用だ。一方で、科学や技術が大量破壊兵器へ悪用されてきた過去がある。また、科学者の意図を離れて軍事に転用される可能性もある。
同会議は2013年1月に「科学者の行動規範」を改訂してデュアルユースに関する項目を加えている。科学者は悪用される可能性を認識し、社会に許容される適切な手段と方法で研究実施と成果公表を行うように、とある。

では、「悪用」は何を想定したらよいのだろう。例えば、生命の機能の一端を解明するどんな研究も、将来、大量破壊兵器につながる可能性がないと断定できないのではないだろうか。

科学は善にも悪にも使うことができる故に、それを扱う科学者は特別の責務を負うと、今日のさまざまな科学者憲章の原型である世界科学労働者連盟の科学者憲章に記されている。また、悪用を防ぐために最善を尽くさねばならないとし、具体的に、戦争準備や大量破壊兵器開発の阻止を掲げている。つまり科学者の責務とは、社会の問題を科学で解決し戦争を防ぐことにある、ということではなかろうか。

ラッセル・アインシュタイン宣言

人類という種の一員として考えてほしい。哲学者バートランド・ラッセルは1955年7月9日、物理学者アルベルト・アインシュタインをはじめとする著名科学者ら計11名の連名で、核兵器廃絶を世界に呼び掛けた。湯川秀樹(ゆかわ・ひでき)もその1人だ。

端緒となったのは、1954年のビキニ環礁水爆実験であった。第五福竜丸の乗組員が被曝し、その灰を分析した物理学者の西脇安(にしわき・やすし)が、既知の原子爆弾では生じ得ない放射性物質を検出したことを英国の物理学者ジョセフ・ロートブラットに伝えた。ロートブラットは、これが水素の熱核反応を利用した新型の爆弾で、その威力が大都市を破壊するレベルに達していることを突き止め、ラッセルに知らせたのである。大量破壊兵器の開発が進み戦争に使われれば人類は存続できない。危機感を持ったラッセルは、科学者と共同で声明文を作成することを思いつき、アインシュタインに連絡を取ったのだった。

ラッセル・アインシュタイン宣言を受け、1957年8月、核兵器廃絶をはじめとする科学と社会の諸問題に取り組む組織「パグウォッシュ会議」が設立される(日本でも物理学者の湯川秀樹と朝永振一郎(ともなが・しんいちろう)が中心となり、同年10月に日本パグウォッシュ会議が設立)。同組織は1995年にノーベル平和賞を受賞した。

(編集部)』

学術会議の会員選考 政府 “改正案 今国会への提出見送りへ”

学術会議の会員選考 政府 “改正案 今国会への提出見送りへ”
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230420/k10014043901000.html

『日本学術会議の会員の選び方などを見直す法律の改正案について、政府は、学術会議側の理解を得るため協議を続けたいとして、今の国会への提出を見送る方針を固めました。
政府は、日本学術会議の透明性を高めるため、会員の選考に意見を述べる第三者委員会を設けることなどを盛り込んだ日本学術会議法の改正案を、今の国会に提出することを目指していて、今月17日に開かれた学術会議の総会には、担当者が出席し、改正案の具体的な内容を説明しました。

しかし会員からは「政府の意向が影響することが危惧される」などと改正に反対する意見が相次ぎ、学術会議は、政府に対し、今の国会への提出をいったん思いとどまるべきだなどとする勧告を出しました。

これも踏まえ政府は、このまま改正案を閣議決定すれば学術界との間に決定的な決裂を招くおそれがあり、学術会議側の理解を得るため協議を続けたいとして、今の国会への提出を見送る方針を固めました。

政府は、20日夕方、岸田総理大臣と学術会議を所管する後藤経済再生担当大臣が協議して、この方針を最終的に決定する見通しです。』

世中(よのなか)よ蝶々(ちょうちょう)とまれかくもあれ

世中(よのなか)よ蝶々(ちょうちょう)とまれかくもあれ ― 宗因
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b09616/

『文化 環境・自然・生物 暮らし 2023.04.16

深沢 眞二 【Profile】
俳句は、複数の作者が集まって作る連歌・俳諧から派生したものだ。参加者へのあいさつの気持ちを込めて、季節の話題を詠み込んだ「発句(ほっく)」が独立して、17文字の定型詩となった。世界一短い詩・俳句の魅力に迫るべく、1年間にわたってそのオリジンである古典俳諧から、日本の季節感、日本人の原風景を読み解いていく。第16回の季題は「蝶々」。

世中(よのなか)よ蝶々(ちょうちょう)とまれかくもあれ 宗因
(1676年作)

「とまれかくもあれ」は「ともあれ、かくもあれ」を縮めた表現で、「ともかくとして」といった意味です。「世中よ、とまれかくもあれ」であれば、「世の中はともかくとして」です。その文脈に「蝶々」をほうり込んで、「蝶々止まれ」の言い回しを挟みました。「蝶々止まれ」は現代の童謡でも「ちょうちょうちょうちょう菜の葉にとまれ」と使われていますね。つまり「とまれ」の部分が掛け言葉なのです。この句をダイレクトに訳すと、「世の中のものごとはともかく置いておくとして、蝶々止まれ」となります。

発想の背景には、一般に「胡蝶の夢」と呼ばれる寓話があります。中国古代の思想書『荘子(そうじ)』に語られている話で、著者の荘周(そうしゅう)が夢の中で蝶になり、夢から覚めて人間に戻ったけれど、自分が本当は蝶々なのか人間なのか分からなくなったというものです。宗因は、「世の中のもろもろの問題は深く考えなくったっていいじゃない。蝶々みたいに遊んで暮らそうよ。人間の姿をしているのと蝶々になって飛んでいるのと、どっちが本当でどっちが夢だか分かりゃしないんだから。ほら、蝶々、この指に止まんなよ。おまえは誰の夢の中の蝶々かな」と言っているのでしょう。

宗因は、1605年生まれ1682年没の連歌師・俳諧師です。この句は、俳諧の門人の惟中(いちゅう)に与えた文章「荘子像賛(そうじぞうさん)」の結びの発句でした。

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俳句

深沢 眞二FUKASAWA Shinji経歴・執筆一覧を見る

日本古典文学研究者。連歌俳諧や芭蕉を主な研究対象としている。1960年、山梨県甲府市生まれ。京都大学大学院文学部博士課程単位取得退学。博士(文学)。元・和光大学表現学部教授。著書に『風雅と笑い 芭蕉叢考』(清文堂出版、2004年)、『旅する俳諧師 芭蕉叢考 二』(同、2015年)、『連句の教室 ことばを付けて遊ぶ』(平凡社、2013年)、『芭蕉のあそび』(岩波書店、2022年)など。深沢了子氏との共著に『芭蕉・蕪村 春夏秋冬を詠む 春夏編・秋冬編』(三弥井書店、2016年)、『宗因先生こんにちは:夫婦で「宗因千句」注釈(上)』(和泉書院、2019年)など。』

中島精也

中島精也
https://www.m2j.co.jp/seminar/2669/contents より

『1972年横浜国立大学経済学部卒業後、伊藤忠商事に入社。

調査部エコノミスト、為替証券部為替エコノミスト、秘書部丹羽会長(※ 丹羽宇一郎)付として
経済財政諮問会議を担当、伊藤忠商事チーフエコノミストを経て現職。

これまで日本経済研究センター出向、ドイツifo経済研究所客員研究員(ミュンヘン駐在)、
九州大学大学院非常勤講師、長崎大学非常勤講師、関東学院大学非常勤講師を歴任。
日本経済新聞(夕刊)コラム「十字路」を21年間執筆。』

両方に髭(ひげ)がある也(なり)猫の妻

両方に髭(ひげ)がある也(なり)猫の妻
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b09615/

 ※ 『両方に髭(ひげ)がある也(なり)』…。確かに…。

 ※ 今日は、こんな所で…。

『 深沢 了子 【Profile】

俳句は、複数の作者が集まって作る連歌・俳諧から派生したものだ。参加者へのあいさつの気持ちを込めて、季節の話題を詠み込んだ「発句(ほっく)」が独立して、17文字の定型詩となった。世界一短い詩・俳句の魅力に迫るべく、1年間にわたってそのオリジンである古典俳諧から、日本の季節感、日本人の原風景を読み解いていく。第15回の季題は「猫の妻」。

両方に髭(ひげ)がある也(なり)猫の妻 来山(らいざん)
(『いまみや草』所収)

春に発情期を迎えた猫の句は、現在「恋猫」や「猫の恋」という季語を使って詠まれることが多いようですが、古典俳諧ではその他に「猫の妻・夫」も使われます。どちらも読み方は「ねこのつま」。雌雄で使い分けていたかどうかは曖昧なのですが、来山の句は雌猫にも髭があることに改めて気が付いたのでしょう。「恋する猫には雄にも雌にも髭があって見分けが付かない」。言われてみれば当然、けれどもなんだかおかしい句です。「猫の恋」の句では、何日もさまよってやつれるさまやそのひたむきさ、声のうるささを詠むことが多いのですが、その定番を外しています。

作者の来山(1654~1716)は大阪の人気俳人でした。

文章も巧みで、この句にも付記があります。「猫の雌雄は簡単には見分けがたい。恵比須様と大黒様は夫婦だと信じ込んでいる尼さんがいた。言って聞かせても納得しない。両方に髭のある句のついでにふと思い出してここに書いておく」。この文章もじわじわと面白い。恵比須様と大黒様は確かに髭も体型も似ています。出典の『いまみや草』は来山の没後に門人たちが編集した句文集で、残念ながらこの句の成立年時は不明です。

優れた感性とユーモアの持ち主である来山は、分かりやすい言葉で繊細、あるいは豪放な句を作りました。代表作に透き通った白魚が泳ぐ様子をとらえた「白魚やさながらうごく水の色」(『続いま宮草』)があります。』

週刊金曜日

週刊金曜日
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E9%87%91%E6%9B%9C%E6%97%A5

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曖昧さ回避 「FRIDAY (雑誌)」あるいは「欽ちゃんの週刊欽曜日」とは異なります。
週刊金曜日
The Weekly Friday
ジャンル 時事政治
刊行頻度 週刊
発売国 日本の旗 日本
言語 日本語
定価 600円
出版社 株式会社金曜日
発行人 植村隆
刊行期間 1993年 – 現在
ウェブサイト http://www.kinyobi.co.jp/
特記事項 直販誌
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『金曜日』(きんようび、通称週刊金曜日)は[注釈 1]、株式会社金曜日が発行する主に政治・社会・環境問題を扱う週刊誌。

創刊当初の1993年に5万3000部だった定期購読部数は、2018年時点で1万3000部となっている[1]。なお、講談社が発行する写真週刊誌「フライデー」とは無関係である。
概要

1993年(平成5年)、編集委員が中心となり読者から出資を募り創刊された。「スポンサーや広告主に阿らずに市民の立場から主張できるジャーナリズム、権力を監視し物申せるジャーナリズム」を目指し、また、休刊した『朝日ジャーナル』の思潮を受け継ぐとしている[注釈 2]。「日本で唯一の、タブーなき硬派な総合週刊誌」を標榜し、反戦・人権・環境問題など市民運動・市民活動の支援、体制批判を主に扱っている。憲法改正論議では一貫して護憲の立場を取っている。

読者から出資を受ける理由については、経営者の(広告主への配慮という)編集方針により原稿をボツにされることが度々あった本多をはじめとするジャーナリストの経験を踏まえ、「広告に依存しない自由なメディアを作りたい」という動機によるものである[注釈 3]。

創刊当初には、部数が増えたら価格の引き下げを検討するとのことだったが、価格は500円のまま一度も変わらない[注釈 4]。

誌名の名付け親は久野収。1936年(昭和11年)に久野と中井正一らが発行した週刊『土曜日』と、フランス人民戦線の雑誌『Vendredi(金曜日)』にちなむ[2]。
誌面構成

毎号、全体のおよそ3分の1が特集記事や単発記事で、残りの誌面は連載記事や投書欄にあてられている。ただし、連載記事の種類は多いが、多くは毎号連載されるわけではなく(不定期連載・隔週連載・月1回連載)、複数の執筆者が交代で執筆する連載も多い(たとえば政治コラムは毎号掲載されるが、国会議員秘書・ジャーナリスト・大学教授・新聞記者の4者が交代で執筆している)。このため、毎号必ずお気に入りの執筆者の文章が読めるとは限らない。

投書欄は毎号8通前後の投書が掲載されている。定期購読者が主体であるため、創刊からしばらくは投書欄が雑誌の巻頭にあった。他に、市民運動や読者会(読んだ感想を話し合う)の紹介などを投稿できるコーナーもある。

論調

「権力は腐敗する、絶対的権力は絶対に腐敗する」(ジョン・アクトンの言葉)という前提に立ち、「だから監視が必要であり、そのためにジャーナリズムは存在する」と主張している雑誌である。政治性向としては急進左派であり、中日新聞よりも左寄りに位置する。したがって、与党(自公連立政権であろうが非自民政権であろうが関係ない)や政府や財界など体制批判をする記事が多い。近隣諸国の中では日本の政界・財界と深い関係を持つアメリカ合衆国を批判する記事が目立つが、チェチェン紛争などに絡むロシアの人権問題や覇権主義、「人体の不思議展」の疑惑など中国の人権問題、中国共産党の独裁と腐敗に言及した記事もある。

左派政党や市民団体関係者がしばしば寄稿し、また日本や韓国の左派勢力に対しては好意的な論評が比較的多い。また、日本共産党などを批判する記事も少なからずあり[3]、週刊金曜日16周年記念号の看板ルポで「創価学会の失われた一〇年」として、公明党と創価学会の問題点を取り上げるなど、互いに非難合戦に陥りがちな共産党と創価学会陣営の両方に批判的な論調である。民主党に対する批判も以前から散見され、また民主党の後継政党である民進党はあくまで保守政党という立場を取ってきたが、民主党政権発足後は批判しつつも、自民党政権に比べ相対的に評価し政策提言を行う記事が増えていた。2017年に結成された立憲民主党に対しては概ね肯定的であるが、2018年京都府知事選挙をめぐる同党の対応には批判的であった[4]。先述の通り護憲の立場を取るため憲法改正論議には批判的で、北朝鮮への経済制裁についても批判的記事が多い。

最近では反米左派と反米保守の共闘として、西部邁や小林よしのりらが誌上に登場することもあった。2005年の第44回総選挙での野党大敗後は、民主党などを含む保守勢力との共闘を肯定する記事も増えている。

2008年の創刊15周年集会では、ポスターにドラクロワの「民衆を導く自由の女神」のトリコロールを日の丸に置き換えたパロディを用いたが、この際日の丸を肯定的に用いたことに強い批判が寄せられた。また、天皇制廃止論の立場からの論説がしばしばみられ、保守派だけでなく天皇に好意的な左派、あるいは天皇や皇族自身の言動も批判対象にしばしばされる。

2009年4月8日、「貧困とテロ、クーデター」と題する『月刊日本』との共同講演会を開催した[5]。派遣切りなどの貧困労働者問題を中心に論じたものである。

なお、れいわ新選組・山本太郎にも肯定的な論調を示している。山本太郎に関しては本格的な政治活動を始めた2011年から活動を取材してきたという[6]。

販売方法

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この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2016年7月)

販売は原則的に定期購読契約を募った上での直送制を採っているが、大都市の一部大型書店で店頭販売も行っている。定期購読中での中途解約に返金しない方針が不評だったため、購読料を月単位で指定口座から自動引き落としにする定期購読コースも新設された[注釈 5]。現在は行っていないが、ごみ問題への対応から配送する雑誌は包装せず、表紙と裏表紙を接着剤で張り合わせた“袋とじ”で配送していた時期もあった。 また、有志によりコミックマーケットに於いてサークル参加し頒布と言う名の販売も行われた。

このほか、部数が低迷しているのは知名度が低いからであるとして、多くの人に読んでもらうことを目的に、公立図書館に定期購読してもらうよう読者に呼びかけ始めたのは2000年代に入ってからである。ただ、利用者が少ないことを理由に購読をやめる図書館も散見される[要出典]。この現状に対し、図書館が所蔵する『週刊金曜日』をもっと借りるよう読者に促す意見が投書欄に掲載されたりもした[要出典]。

読者会

週刊金曜日の読者が集い、誌面を使っての学習や、その時々のトピックについて自由に議論する「読者会」が全国各地で結成されている[7]。
注目を集めた記事・スクープ
買ってはいけないシリーズ

1999年5月、食の安全性に関するコラムを書籍化。200万部を超えるベストセラーとなった。
詳細は「買ってはいけない」を参照

批判を受けた記事・不祥事

天皇イラスト掲載拒否

週刊金曜日の1997年11月14日号の天野恵一の投稿「『天皇行事』のオリンピック 象徴天皇は〝国家元首〟か?『長野五輪は誰のため』」の掲載に際して、貝原浩のイラスト「オリンピックの『お言葉』で先祖還りを世界に宣する元首アキヒト『ファシズムは繰り返す』」[注釈 6]を掲載しようとしたところ、

今の天皇は平和主義者と右翼は言っていてあまり重きを置いていないが、前天皇については右翼も重きを置いている
天皇にもプライバシーがある。それを侵害してはいけない。今回はそのケースではないが、侮辱もあってはいけない。今回はその侮辱にあたる
今回の企画は、天皇を正面から攻撃したものではない。面倒になることを避けたい。

などを理由に掲載を拒否した[8]。

GoHoo記事の盗用・無断転載

誤報検証サイト「GoHoo」を運営する日本報道検証機構が「金曜日」側に週刊金曜日の特集記事と単行本で産経新聞の報道を批判するために自社記事の盗用されたことを抗議したため、2017年11月17日発売の同日号で「お詫び」を掲載した。 日本報道機構は22日午後に(1)盗用の原因と再発防止策の不明確(2)盗用指摘3か月経過後も初版本販売(3)執筆者は謝罪せずに「金曜日」の常連執筆者の継続など問題三点を談話で指摘して、「これらの対応をみるとメディアとしての責任を果たしたとは到底言えず、誠に遺憾であります」と批判した。J-CASTニュース編集部は他メディア批判記事で盗用が発覚するのは極めて異例だと報じ、入手した単行本の初版には出典明記さえされていなかったことを明かした。週刊金曜日は2005年にも自社と配信契約の無い共同通信と時事通信の記事の無断使用に謝罪記事を掲載していた[9]。
沿革

1993年7月-10月、創刊準備号として『月刊金曜日』という名称の月刊誌を発行。編集委員は石牟礼道子、井上ひさし、久野収、筑紫哲也、本多勝一。『月刊金曜日』は、7月号から10月号まで計4号発行される。初代編集長・発行人は和多田進。

1993年11月、創刊。創刊号より椎名誠が編集委員に参加。
1994年-1995年、社内不祥事による和多田の急な辞任により、編集長・発行人は本多が引き継ぐ。この後、石牟礼と井上が編集委員を辞任。本多の編集後記のよると、石牟礼はもともと金曜日創刊の最初の段階だけ手伝うという約束で編集委員を引き受けていたという。これに対し井上は、(路線の対立かどうかは定かではないが)本多が編集長に就任して以降、誌上に登場することはほとんどなくなっていた。その後、佐高信と落合恵子が編集委員に参加。
1995年-1997年、編集長は本多
1996年、副編集長(デスク)として松尾信之が入社
1997-2001年、編集長は松尾信之
2001年、編集長は松尾からデスクの黒川宣之に交代。発行人は本多から黒川に交代。
1999年、久野収死去。
2000年、辛淑玉が編集委員に参加。
2000年-2002年、編集長が朝日新聞OBの岡田幹治に交代。同性愛者に関する掲載記事の表現が誌上で論争となり、辛が編集委員を辞任。
2004年、編集長が岡田から元『サンデー毎日』編集長の北村肇に交代。
2005年、石坂啓が編集委員に参加。また外部のライターが時事通信と共同通信の配信記事を盗用していた件で同年10月4日に両社に文書で謝罪した。黒川、2期6年の任期満了で発行人を退任(再々任を認めない社の方針に従う)。後任に佐高。
2007年12月、椎名誠が編集委員を辞任。雨宮処凛が編集委員に参加。
2008年11月、筑紫哲也死去。
2009年1月、宇都宮健児、中島岳志、田中優子が編集委員に参加。
2010年10月、佐高が発行人を退任し、北村が新発行人に就任。編集長には前副編集長の平井康嗣が2016年10月まで就任。
2016年11月、小林和子が編集長に就任。(発行人は北村のまま)
2018年9月、植村隆が代表取締役社長兼発行人に就任。(北村は任期満了で退任)[10][1]
2021年11月、文聖姫(元朝鮮新報記者)が編集長に就任。28年続く同誌で在日コリアンが編集長になったのは今回が初めて。任期は3年、中間評価もある[11]。

編集委員
現任の編集委員

本多勝一
佐高信
想田和弘
崔善愛
雨宮処凛
宇都宮健児
田中優子
中島岳志

過去の編集委員

石牟礼道子
井上ひさし
久野収
椎名誠
筑紫哲也
辛淑玉

歴代編集長

和多田進(発行人も兼任・晩聲社創立者)
本多勝一(発行人も兼任・元朝日新聞社会部員のジャーナリスト)
松尾信之(元『日刊ゲンダイ』ニュース部長・元『日刊アスカ』編集局長)
黒川宣之(元朝日新聞論説副主幹) 先代発行人
岡田幹治(元朝日新聞経済部員)
北村肇(新聞労連兼毎日労組元委員長・元『サンデー毎日』編集長)
平井康嗣(初の生え抜き編集長)
小林和子
文聖姫(元朝鮮新報記者)[12] 』

報道と原発 記者クラブの虎の尾踏んだ小西議員と鉢呂経産相

報道と原発 記者クラブの虎の尾踏んだ小西議員と鉢呂経産相
https://tanakaryusaku.jp/2023/04/00028615

『小西ひろゆき議員が「サル発言」で参院憲法調査会の野党筆頭理事を更迭された件で、ジャーナリストのKEITARO(@keitarou1212)氏が、「既視感がある」とツイートしている。

 既視感とは—

 原発事故から間もない福島県を視察した鉢呂吉雄経産相が記者会見で「死の街のようだった」と表現したことが、問題発言として書き立てられ、辞任に追い込まれた。

 ところが、福島の知人に聞くと「鉢呂さんはよく言ってくれた。実際人が住めなくなっているのだから」。マスコミ報道とはウラハラに鉢呂氏のコメントを評価していた。2011年8月のことだ。

 鉢呂経産相の辞任記者会見に行くと、記者クラブは勝ち誇った雰囲気だった。田中は、ヤクザ言葉で鉢呂氏を攻め立てた時事通信の記者を、ドヤシつけた。

 当時のもようは音声と画像も残っているので御覧頂きたい。

 電力会社から多額の広告料をもらい、慰安旅行にまで連れて行ってもらっているマスコミにとって、原発に慎重な鉢呂大臣は追い落とさねばならない存在だったのだ。

辞任会見する鉢呂経産相。無念なのだろうか。表情はうつろだった。=2011年9月、経産省記者会見室 撮影:田中龍作=

 小西議員は、安倍政権時に放送局に圧力をかけることを可能にする企てがあったことを示す総務省文書の存在を暴露した。

 官邸による報道機関への圧力を白日の下に晒したのだが、新聞テレビにとっては有難迷惑だった。

 新聞社は軽減税率の適用で政府に助けてもらい、テレビ局は超格安の電波使用料と新規参入の阻止で、政府の庇護下にある。

 政府にオンブにダッコされている新聞テレビが政府を批判できる訳がないのだ。

 圧力の中心にいた高市元総務相に対して及び腰だったマスコミは、サル発言を機に小西議員を攻め立てるようになった。今やメディアスクラム状態となっている。

 鉢呂経産相(当時)と小西議員は、記者クラブメディアの虎の尾を踏んだのである。

     ~終わり~ 』

矢野顕子

矢野顕子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E9%87%8E%E9%A1%95%E5%AD%90

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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出典検索?: “矢野顕子” ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2014年9月)

矢野 顕子
出生名 鈴木 顕子
別名 鈴木晶子(ペンネーム)
生誕 1955年2月13日(68歳)
日本の旗 日本・東京都
出身地 日本の旗 日本・青森県青森市
学歴 青山学院高等部中退

ジャンル ジャズ
ポップ
テクノポップ
職業 シンガーソングライター
エッセイスト
担当楽器 ボーカル
ピアノ
キーボード
活動期間 1974年 –
レーベル 日本フォノグラム(1976年 – 1979年)
ジャパンレコード(1980年 – 1983年)
徳間ジャパン(1983年 – 1985年)
MIDI(1986年 – 1989年)
Epic/Sony Records(1991年 – 2003年)
ヤマハミュージックコミュニケーションズ(2004年 – 2013年)
SPEEDSTAR RECORDS(2013年 – )
事務所 ニューフレンズ
ソニー・ミュージックアーティスツ
共同作業者 ザリバ(1974年)
オリエンタル・エクスプレス(1976年 – 1977年)
KYLYN(1979年)
YMO(1979年 – 1980年)
矢野顕子グループ(アンソニー・ジャクソン、クリフ・アーモンド)(1996年 – 2007年)
THE HAMMONDS(1997年)
矢野顕子×上原ひろみ(2004年 – )
yanokami(2007年 – )
矢野顕子トリオ(ウィル・リー、クリストファー・パーカー)(2009年 – )
やもり(2010年 – )
公式サイト https://www.akikoyano.com/

矢野 顕子(やの あきこ、女性、1955年〈昭和30年〉2月13日 – )は、日本のシンガーソングライター。

アメリカ合衆国ニューヨーク州在住。

経歴

東京都に生まれる。幼少期を青森県で過ごす。青山学院高等部中退。

矢野は幅広い音楽性と鋭い感性を持ち、独創的な唄い手・演奏家・作・編曲家でもあるために、その音楽は奇矯な印象を与えることもあるが、老若男女問わず幅広い支持を集めている。

自身も世代やジャンルにこだわらない幅広い趣向を見せUNICORNの「すばらしい日々」や、ELLEGARDENの「右手」をカバーしたり、The Smashing Pumpkinsのファンで自身のライブにて同バンドの曲をピアノで演奏するなどしている。山下達郎は矢野を「歌詞に最も食べ物が良く出てくる作詞家である」と評した。

アメリカ合衆国在住であり、日本国外のミュージシャンとのセッションも多くこなしている。とりわけ、アンソニー・ジャクソン(ベース)、クリフ・アーモンド(ドラムス)とは、1996年以来キーボード・トリオである、通称「さとがえるトリオ」または「矢野顕子グループ」を組み定期的に活動しているほか(現在は中断)、「akiko」レコーディング・メンバーのマーク・リーボウ(ギター)、および「矢野顕子トリオ」としてウィル・リー(ベース)、クリストファー・パーカー(ドラムス)とも、日米で共演を重ねている。そのほか、マンハッタン・トランスファーのメンバー、ジャニス・シーゲルとの交流が深い。トーマス・ドルビーとはレコーディングを見学中に気にいられて急きょコーラスとして参加、後にリリースされた曲では歌詞の中でも登場することとなった。「She Blinded Me With Science 」(1982年)の歌詞で、”Good heavens Miss Sakamoto – you’re beautiful!”と歌われているのがそれである。2008年にリリースしたアルバム、「akiko」のプロデューサーは、2009年にグラミー賞を獲得したT・ボーン・バーネット。

デビューのきっかけになった青山ロブロイのオーナーの遠藤瓔子には厳しくしつけられたと語っている。1980年代後半から1990年代前半に、月刊カドカワで「月刊アッコちゃん」を連載していた。さまざまなインタビューにおいて「日本の若い音楽家はもっと技術を磨くべきだ」という信条を披露している。

人物

「矢野」の姓はデビュー当時に矢野誠と婚姻関係にあったため、当時の本名を芸名に使い、それが世に知れ渡ったために離婚後も使っている。

2人の子供の母親。前夫との間にできた長男は客室乗務員。歌手の坂本美雨は再婚相手の坂本龍一との間に生まれた長女。歌手としてデビューした坂本美雨について、「(iTunes Storeのダウンロード数では)絶対負けたくない」としている。

医師であった母方の祖父は、ロシア人の父親と日本人の母親との間に生まれた人物で、三陸沖地震や関東大震災の際の医療活動にも従事したという[1]。

2015年7月に、娘の美雨が長女を出産した際、前年秋に長男に第1子が誕生していたことを公表した。

エピソード

ホンネなのか、辛辣なのか、1981年4月の雑誌インタビューで、1979年のYMOの世界ツアー参加に対して、「毎日おんなじ人たちばっかり顔を合わせて、毎日おんなじことしなくちゃいけない。もうスケジュール表見ただけで疲れそう。旅自体キライだから、ウチでゴロゴロしている方がいいです」等と[2]、長い不遇の後、1981年にようやく「春咲小紅」が大ヒットすると、口も滑らかになり、「”私はあの人に恋したけどダメでした”とか”今日はメシがまずくてどーのこーの”とか歌われるとね、別にオマエの繰り言なんかどうでもいいヨって言いたくなるよね。でも繰り言ばかりでできちゃうスタイルもあるのよね。吉田拓郎みたいにさ。でも私はあれはやりたくない。なぜなら聴きたくないからだってのがあるからね。吉田拓郎はその点において一流だと思うのね。そういう繰り言をアピールする点で、たいへんな才能だと思う。中島みゆきサンみたいにさ、トロトロ自分の中のいろんな姿を歌の中に織り込んでいって、人の共感を得るってのも、すばらしい才能なのね。特に男と女とかさ。でも私は、あんなの作れたらいいナと思うけど、別に歌いたくないナって思う。じゃあ自分で歌いたい歌ってどういうのかっていうとさ、”今日は暑い、涼しくなりたい”とかさ、”水が飲みたい”とか、それがいいと思うのね。だからやってるだけ。ラブソングだったら思いっきりラブソングがいいと思うのね。いつかやろうと思うけどさ、もっとうまい人がいっぱいいるからね。だったらユーミン聴いてるほうがいい、大貫妙子さん聴いてるほうがいいって思うじゃない。それは自分に向いてないと、自分を見てるわけよ。オフコースすてきだナと思っても、オフコースと同じことは、私できないもんね。『ごはんができたよ』も現実みたいだけど、ホントは夢なんですよ」等と同業者を批判した[2]。

略歴

出生 – 1955年

1955年、東京生まれ。
    医師である父の開業に伴い、3歳で青森に転居。中学まで青森市で過ごす。青森明の星高等学校付属ピアノ教室でピアノを習い始める。鍵盤にカミソリを立てて演奏するという厳しいレッスンだったという。
    既にこの頃から「その日起きた楽しかったこと」などを、即興のピアノと歌で表現していたほか、発表会では既定の曲を即興でアレンジすることもあったという。
    ザ・ゴールデン・カップスのファンになり、しばしば当時居住していた青森から、彼らがデビュー以来出演していた横浜市本牧のバー「ゴールデン・カップ」まで見物に行っていたという。
    中学生のころから父親に連れられてジャズ喫茶に通う。独学でジャズを弾くようになる[3]。
1971年 - 軽音楽部に憧れて単身上京し青山学院高等部に入学。
    ジャズをやるため軽音楽部に入部したものの、部ではロックばかりだったので落胆する。このとき組んでいたバンドのメンバーには、後に作曲家となる渡辺俊幸がいた[4][5]。この軽音楽部の先輩の紹介でレストランのピアノ演奏の仕事を始める。帰宅が深夜になるため高校を中退。心配した父親が知人である安部譲二の家に居候させる。ピアノ弾きとして売れっ子になり、安部と当時の妻であった遠藤瓔子が経営するジャズクラブ「青山ロブロイ」にも出演する[3]。これが業界人の間で評判になり、筒美京平らに声をかけられる。
1973年 - ファースト・アルバム発売を前提に、細野晴臣、林立夫らキャラメル・ママ(のちティン・パン・アレー)の主要メンバーと共にスタジオ録音を行う。結局アルバムは発売されず、一部の録音がアルバム『JAPANESE GIRL』、『いろはにこんぺいとう』、および1996年発売のベスト・アルバム『ひとつだけ/the very best of 矢野顕子』に収録された。この頃からスタジオ・ミュージシャン(キーボード・コーラス)として、アグネス・チャン、荒井由実、吉田美奈子などさまざまなアーティストのレコーディングに参加。
1974年 - バンド「ザリバ」名義で、トリオレコードよりシングル『或る日』をリリース。筒美京平が作曲、矢野誠がアレンジを担当。
    デビュー当時18歳。レコード会社は矢野にしか興味が無かったので、シングル1枚を発売しただけですぐに解散となる。
    長男の妊娠を機に矢野誠と結婚。当時19歳。
1975年 - 小坂忠に対し、「鈴木晶子」名義で楽曲提供[注釈 1]。
1976年 - デビュー・アルバム『JAPANESE GIRL』を発表。
    デビュー作ではA面で米国のバンド、リトル・フィートをバックに迎え、B面であがた森魚、細野晴臣、鈴木茂、駒沢裕城、ムーンライダーズの面々と共演。自作曲のほか、故郷青森の民謡と歌謡曲を矢野顕子流にアレンジしている。アメリカ録音では、リトル・フィートのリーダー、ローウェル・ジョージは矢野の音楽のレベルに対して自分達が十分サポートしきれなかったことをプロデューサーに泣きながら詫び、ギャラを受け取らなかった[6]。
1977年
    4月より1年間、NHKのAMラジオ番組「若いこだま」のラジオパーソナリティを担当。
    8月発売のセカンド・アルバム『いろはにこんぺいとう』において、シンセサイザー・プログラマーに松武秀樹が参加。
        翌年には次作『ト・キ・メ・キ』でも松武が参加し、さらに矢野、松武ともどもイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)にサポート・メンバーとして参加することになる。
        矢野はその後坂本龍一、ジェフ・ボヴァ、レイ・ハラカミらと電子音楽に傾倒していく。
1978年
    9月26日、「ト・キ・メ・キ」ツアーにYMOのメンバー3人が参加。YMOメンバーとの共同作業を開始する。
1979年
    矢野誠と離婚。
    ライブ・アルバム『東京は夜の7時』発表。ジャケット写真は長男の風太(当時4歳)である。アルバム収録曲「カタルン・カララン」の作詞は、矢野・菊地まみ・風太の3名の共作となっている。
    KYLYN BAND(渡辺香津美主宰)やカクトウギ・セッション(坂本龍一主宰)、YMOの第1回ワールドツアーに参加。

1980年 – 1989年

1980年
    3月から産休に入り、5月に長女美雨誕生。7月には加藤和彦のレコーディングのためベルリンに行く。YMOの国内ツアーには参加せず、10月からの第2回ワールドツアーに帯同する。
    10月発売のアルバム『ごはんができたよ』からジャパンレコード(現・徳間ジャパンコミュニケーションズ)に移籍。このアルバムは、YMOのメンバーが全面的にバッキングしたLP2枚組の大作である。
1981年 - カネボウ化粧品のCMソングに起用されたシングル『春咲小紅』が、オリコンシングルチャート最高5位となるヒット。
    矢野の作品はシングルヒットとは殆ど無縁で、この曲以後、1990年にドラマ『やっぱり猫が好き』のオープニングテーマだった「David」が発売されるまでは、オリコンシングルチャートに登場することはなかった。
1982年
    坂本龍一と正式に結婚。
    糸井重里の発案で、中断期をはさみながらピアノ1台あればどこへでもライヴに赴くという「出前コンサート」をスタートする。時期により形態は異なるが、スタッフはマネジメントとサウンドエンジニアのみ、個人でも招聘することができ、若年者と高齢者は入場料が無料となったこともある。
    5月、「ヘンタイよいこバンド」のライブで、忌野清志郎と共演。
1983年
    4-5月、「わたしのにゃんこ」が、NHK「みんなのうた」で放映される。
    ムーンライダーズのドラマー、かしぶち哲郎のアルバム『リラのホテル』を共同制作。かしぶちのツアーにも参加。
1984年 - アルバム『オーエス オーエス』発売。収録曲の「ラーメンたべたい」が、1994年に詩の教材として高校国語の教科書に掲載される。
1985年 - 高橋悠治のピアノによるクラシック歌曲集『BROOCH』を自主制作盤として発売。
1986年
    レコード・デビュー10周年。
    2月発売のアルバム『峠のわが家』より、自らも設立に関与したレコード会社、ミディに移籍。
    5月より、雑誌「月刊カドカワ」において、コラム「月刊アッコちゃん」の連載を開始(- 1997年)。
1987年 - 「グラノーラ・ツアー」を最後に、「矢野顕子解散宣言」にて音楽活動を一旦終了し、翌年より1年間の育児休暇に入る。
1989年 - パット・メセニーらニューヨークのジャズ・ミュージシャンとのコラボレーションを機に活動を再開し、アルバム『WELCOME BACK』を発売。

1990年 – 1999年

1990年 - 一家でアメリカニューヨーク州へ移住し、活動の拠点とする。
1991年 - アルバム『LOVE LIFE』よりEpic/Sonyへ移籍。
1992年 - アルバム『SUPER FOLK SONG』発売。弾き語りシリーズの第一弾。これに伴い、ドキュメンタリーフィルム『SUPER FOLK SONG - ピアノが愛した女。』上映。坂本龍一との別居が報じられる。
1994年
    アサヒ飲料烏龍茶CMに出演。小林薫と共演。
    ネスレ「ブライト」のCMに宮沢和史とともに出演。使用楽曲は『二人のハーモニー』。
1995年 - アルバム『Piano Nightly』制作のため、ウィーン郊外の城にピアノを持ち込みレコーディング。「ピアノ・ナイトリィ・ツアー」では託児所つきコンサートを行った。
1996年
    レコード・デビュー20周年。
    年末の「さとがえるコンサート」をスタート。アンソニー・ジャクソン、クリフ・アーモンドと通称「さとがえるトリオ」または「矢野顕子グループ」(Blue Note東京公演での名称)結成。
    映画『モスラ』の挿入曲の作曲を担当[4]。小林恵、山口紗弥加が歌唱。映画への書き下ろし作品提供は初。音楽担当は、高校時代にバンドを組んでいた渡辺俊幸であった[4]。
1997年 - ジェフ・ボヴァとのユニット「THE HAMMONDS」結成。日米でアルバムを発表。
1998年 - 「出前コンサート」再開。
1999年 - スタジオジブリの映画『ホーホケキョ となりの山田くん』の音楽を手がけ、藤原先生役で声を担当。- 織部賞を受賞。

2000年 – 2009年

2000年 - 大貫妙子・鈴木慶一・宮沢和史・奥田民生と「Beautiful Songs」コンサートを全国8カ所で行う。ライブ・アルバム『LIVE Beautiful Songs』も発売。
2002年
    NHK「みんなのうた」にて、坂本美雨と『くまんばちがとんできた』を共演。
    「FUJI ROCK FESTIVAL」「RISING SUN ROCK FESTIVAL」に、忌野清志郎との共演で初出演。
2003年
    アニメ映画『あたしンち』の主題歌を担当。
    この年から、ブルーノート東京での出演を開始。
2004年
    アルバム『ホントのきもち』よりヤマハミュージックコミュニケーションズに移籍。同アルバムにてくるりの岸田繁やレイ・ハラカミとのコラボレーションによる楽曲なども発表。
2005年
    デビュー以来初のオフィシャルファンクラブ「The gathering」を開設。会報などの紙媒体の発行は行っておらず、インターネット上でのファンクラブであり、矢野が毎月ニューヨークの名所を映像で紹介するコーナーや、月2回のコンサートのストリーム配信等を行っている。
    映画『誰がために』の劇中音楽全てを担当。また、花王の消臭剤「リセッシュ」のCMソングの歌唱を担当。
    11月23日 - 銀座のApple Store で ライブイベントを開き、話題となった。ARENAmac.ASCII24
    そのほか、マイラ・カルマン作の絵本『しょうぼうていハーヴィ ニューヨークをまもる』を翻訳。
    ジブリ美術館で上映されている映画『やどさがし』、『水グモもんもん』で声優として出演。
2006年
    レコード・デビュー30周年。「さとがえるコンサート」10周年。ベスト・アルバム『いままでのやのあきこ』をリリース。
    アルバム『はじめてのやのあきこ』にて槇原敬之・小田和正・YUKI・井上陽水・忌野清志郎・上原ひろみと共演。
    レイ・ハラカミと共演で「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」に初出演。「FUJI ROCK FESTIVAL」「RISING SUN ROCK FESTIVAL」に再出演。
    8月 - 坂本龍一と14年に亘る別居の末、協議離婚が成立。
    8月 - 病床に伏したレコーディング・エンジニア、吉野金次のために「吉野金次の復帰を願う緊急コンサート」を細野晴臣らと共に実施。のちにDVD『音楽のちから』も発売。
2007年
    レイ・ハラカミとのユニット、yanokamiとしての本格始動開始。デビュー・アルバム『yanokami』を、8月8日ヤマハミュージックコミュニケーションズからリリース。
2008年
    yanokamiとしてのデビュー・アルバムの英語版、『yanokamick』を3月12日にリリース。 yanokamiとしてシンガポールのMosaic Music Festivalに出演。
    3月21日、デビュー・アルバム『JAPANESE GIRL』のリメイクをライブにて敢行。のちにiTunes配信の形で発売。
    8月1日から3日の間、ギタリスト、マーク・リーボウと一緒に、ブルーノート東京に出演。15日には「RISING SUN ROCK FESTIVAL」に再出演した。
    10月にはT・ボーン・バーネットのプロデュースによるアルバム、『akiko』をリリース。
    河口湖ステラシアターでは、森山良子と共演を果たす。
    映画『崖の上のポニョ』では、声優として「ポニョの妹」を担当。
2009年
    大阪サンケイホールブリーゼにて、岡林信康、細美武士、清水ミチコをゲストに迎えたリサイタルを開催。
    7月12日には、上原ひろみとのデュオで、North Sea Jazz Festival(オランダ・ロッテルダム)に初出演。
    8月にはブルーノート東京にて、ウィル・リー、クリス・パーカーとのトリオで出演。
    9月4日には、東京JAZZフェスティバルにも、「矢野顕子 x 上原ひろみ」として出演。
    9月22日に開催される、くるりのイベント、「京都音博2009」に出演。

2010年 – 2019年

2010年
    約10年ぶりとなる弾き語りアルバム『音楽堂』を発売。
    森山良子とユニット「やもり」を結成。アルバム『あなたと歌おう』発売。
2011年
    3月27日、ニューヨーク市内で行われた、ジョン・ゾーンの呼び掛けによる東日本大震災被災者の支援を訴えるチャリティ・コンサートに、オノ・ヨーコらと共に参加。5月17日にはウィル・リー主催のものにも参加。
    6月4日 - 矢野が歌を担当した揖保乃糸CM放送開始。
    9月公開の映画『監督失格』(平野勝之監督)において、主題歌『しあわせなバカタレ』など6曲を担当。
    9月3日・4日、東京芸術大学の学生とのコラボレーション企画、「やの屋」実施。
    9月9日、上原ひろみと東京・昭和女子大学人見記念講堂にてレコーディング・ライブを実施、11月にライブ・アルバム『Get Together ?LIVE IN TOKYO?』発売。12月の「さとがえるコンサート」でも上原と共演。
2012年
    5月3日・4日 - フリーライブイベント「TOKYO M.A.P.S」(六本木ヒルズ)のオーガナイザーを務める。
    12月 - 「さとがえるコンサート」にて、清水ミチコと共演。
2013年
    8月 - シングル『リラックマのわたし』よりSPEEDSTAR RECORDSに移籍。
2014年
    4月 - レーベル移籍後初となるアルバム『飛ばしていくよ』を発表。
2015年
    12月 - 「さとがえるコンサート」にて、TIN PAN(細野晴臣、鈴木茂、林立夫)と共演。
2016年
    3月-4月 - 活動40周年記念「第1弾“ふたりでジャンボリー”」として、石川さゆり、上妻宏光、清水ミチコ、奥田民生、森山良子、大貫妙子と共演。
2019年
    上妻宏光とのコラボユニット「やのとあがつま」を始動[7][8]。

2020年 –

2020年
    3月4日 - 「やのとあがつま」のアルバム『Asteroid and Butterfly』をリリース[7][8]。
    3月6日 - テレビアニメ『大家さんと僕』(3月2日 - 6日放送、NHK総合)の主題歌を担当。同タイトルの書き下ろし楽曲を配信[9][10]。

ディスコグラフィ
シングル
発売日 タイトル 規格品番 チャート 備考
オリコン
[11]
日本フォノグラム
1st 1977年 いろはにこんぺいとう FW-2004 (7inch) – –
2nd 1977年 行け柳田 FW-2005 (7inch) – –
ジャパンレコード→徳間ジャパン
3rd 1980年 ごはんができたよ JAS-3 (7inch) – –
4th 1981年2月1日 春咲小紅 JAS-2001 (7inch) 5位 2004年江崎グリコの企画でCD発売 (AR-G205)
5th 1981年6月1日 ただいま JAS-2008 (7inch) – –
6th 1981年11月25日 あしたこそ、あなた JAS-2018 (7inch) – –
キャニオンレコード
7th 1982年 ごめんなさい Oh Yeah 6G0014 (7inch) – –
徳間ジャパン
8th 1983年 わたしのにゃんこ JAS-2042 (7inch) – –
9th 1984年8月5日 ラーメンたべたい JAS-14 (7inch) – –
MIDI
10th 1985年 愛がたりない MIS-14 (7inch) – –
11th 1987年11月21日 花のように MIS-21 (7inch) – –
12th 1990年10月21日 David MDDS-52 (8cmCD) 88位 –
Epic Records
13th 1992年1月22日 BAKABON ESDB-3262 (8cmCD) – –
14th 1992年6月1日 SUPER FOLK SONG ESDB-3308 (8cmCD) – –
15th 1993年5月1日 CHILDREN IN THE SUMMER ESDB-3376 (8cmCD) – –
16th 1994年5月1日 すばらしい日々 ESDB-3469 (8cmCD) 79位 –
17th 1994年7月1日 夢のヒヨコ ESDB-3492 (8cmCD) – –
18th 1994年9月7日 愛があれば? [LOVE CAN’T BE BLIND] ESDB-3516 (8cmCD) – –
19th 1995年10月21日 想い出の散歩道 ESDB-3625 (8cmCD) – –
20th 1996年7月21日 春咲小紅/ひとつだけ ESDB-3700/1 (8cmCD×2) – –
21st 1997年5月1日 クリームシチュー [The Stew] ESDB-3752 (8cmCD) – –
1997年10月1日 ESDB-3789 (8cmCD) – –
MIDI
22nd 1998年3月25日 Home Sweet Home MDDS-72 (8cmCD) – –
徳間ジャパン
23rd 1998年4月22日 丘を越えて TKDA-71363 (8cmCD) – –
Epic Records
24th 1999年5月21日 GIRLFRIENDS FOREVER ESCB-1982 (CD) – –
25th 1999年7月1日 ひとりぼっちはやめた ESDB-3914 (8cmCD) 92位 –
26th 2002年3月5日 Dreaming Girl ESCL-2297 (CD) – –
27th 2003年12月3日 あたしンち ESCL-2468 (CCCD) – –
ヤマハミュージックコミュニケーションズ
28th 2006年2月1日 PRESTO YCCW-30006 (CD+DVD) 99位 –

  • 2011年8月30日 しあわせなバカタレ 配信限定 – –
    スタジオジブリ
  • 2012年3月18日 コニャラの歌 配信限定 – –
    SPEEDSTAR RECORDS (Victor Entertainment)
    29th 2013年8月7日 リラックマのわたし NZS-712 (CD) – –
    HMV Record Shop
    30th 2015年9月5日 Tong Poo HR7S004 (7inch) – –
    SPEEDSTAR RECORDS (JVCKENWOOD Victor Entertainment)
  • 2017年6月23日 Soft Landing 配信限定 – –
  • 2020年3月6日 大家さんと僕 配信限定 – –
    非売品シングル 女、キラキラ。男、そわそわ。(1979年、ams。規格品番:ams-2121)
    amsミドリヤ旭川店開業時のイメージソング。
    詳細は西武百貨店#コマーシャルソングを参照。

非売品ソノシート

『赤ちゃんのおしり』(1983年、日本プロクターアンドギャンブル、規格番号E-6879)
    当時パンパースを2箱買うともらえた『赤ちゃんの絵本』に付いていたソノシート収録。パンパースCMソング。作詞:糸井重里/作曲:坂本龍一。1989年発売の『On the Air』で初CD化。1995年の『愛がたりない』にも収録。作曲した坂本龍一の「Works I-TV/CM』や『Works II-TV/Inst.』※にも収録。※インストバージョンで収録。

参加楽曲

ザリバ

或る日(1974年、トリオレコード)B面 / こわれた時計のように
    ソロデビュー前に活動していたバンド唯一のシングル。バンドはシングル発売直後に解散した。

THE BOOM&矢野顕子

それだけでうれしい(1992年5月2日、Sony Records)

矢野顕子&宮沢和史

二人のハーモニー (1995年5月1日、Epic)c/w カラオケ3バージョン ※オリコン25位
二人のハーモニー (2020年6月3日、MHKL-28、GT) B面:カラオケ~お二人で~※7インチ再発盤

矢野顕子&坂本美雨

くまんばちがとんできた(2002年11月20日、Epic)c/w (instrumental)

矢野顕子&大貫妙子

横顔(2018年7月4日)
    配信限定シングル。大貫が以前発売したアルバム「ミニヨン (mignonne)」に収録されていた楽曲。アサヒビール「アサヒグランマイルド」のCMソングに起用された。

アルバム
オリジナル・アルバム
発売日 タイトル 規格品番 チャート 備考
オリコン
[12]
日本フォノグラム
1st 1976年7月25日 JAPANESE GIRL FW-5012 (LP) 35位 1977年LP再発 (S-7034)
1988年10月25日CD再発 (25JC-342)
1992年12月21日CD再発 (TKCA-30754)
1994年5月25日CD再発 (TKCA-70371)
1998年5月13日LP再発 (TKJA-10026)
2002年10月23日CD再発 (TKCA-72459)
2011年11月23日CD再発 (MDCL-1518)
2nd 1977年8月5日 いろはにこんぺいとう S-7019 (LP) 35位 1992年12月21日CD再発 (TKCA-30756)
1994年5月25日CD再発 (TKCA-70373)
1998年5月13日LP再発 (TKCA-10028)
2002年10月23日CD再発 (TKCA-72461)
2011年11月23日CD再発 (MDCL-1520)
3rd 1978年9月5日 ト・キ・メ・キ S-7049 (LP) 46位 1994年5月25日CD再発 (TKCA-70374)
1998年5月13日LP再発 (TKJA-10029)
2002年10月23日CD再発 (TKCA-72462)
2011年11月23日CD再発 (MDCL-1521)
徳間ジャパン
4th 1980年10月1日 ごはんができたよ JAL-1001/2 (2LP) 31位 1982年CD発売 (35JC-1)
1986年CD再発 (MDCZ-1134)
1986年CD再発 (MID-3001)
1986年LP再発 (MIL-3001/2)
1989年11月12日CD再発 (MD32-1057)
1993年9月21日CD再発 (MDCL-1250)
2015年11月25日SHM-CD発売 (MDCL-5039)
40J-1 (CT)
5th 1981年5月1日 ただいま。 JAL-7 (LP) 20位 1985年CD発売 (35JC-118)
1986年LP再発 (MDCZ-1132)
1986年9月5日CD再発 (MID-2005)
1991年8月21日CD再発 (MDC7-1074)
1993年9月21日CD再発 (MDCL-1251)
2016年4月6日SHM-CD発売 (MDCL-5040)
28J-6 (CT)
6th 1982年6月25日 愛がなくちゃね。 JAL-1801 (LP) 29位 1985年CD発売 (35JC-127)
1986年CD再発 (MDCZ-1133)
1986年CD再発 (MID-2006)
1986年LP再発 (MIL-2006)
1988年CD再発 (MDC7-1075)
1991年8月21日CD再発 (MDC7-1075)
1993年9月21日CD再発 (MDCL-1252)
2016年4月6日SHM-CD発売 (MDCL-5041)
20J-2 (CT)
7th 1984年6月25日 オーエス オーエス 28JAL-10 (LP)
28JALS-10 (7inch) 23位 1986年CD再発 (MID-2007)
1986年LP再発 (MIL-2007)
1991年8月21日CD再発 (MDC7-1076)
1993年9月21日CD再発 (MDCL-1253)
2016年9月7日SHM-CD発売 (MDCL-5042)
2019年11月27日LP発売(MHJL-120)(ソニー)
28J-105 (CT)
38JC-101 (CD)
やのミュージック
8th 1985年6月 BROOCH MDR-1/4 (4×7inch) 57位 シングル4枚組形態の自主制作盤
1986年9月5日LP発売 (MIL-1018)
1991年3月21日CD発売 (MDC7-1018)
1991年9月21日CD発売 (MDCL-1255)
2016年9月7日SHM-CD発売 (MDCL-5043)
MIDI
9th 1986年2月21日 峠のわが家 MIL-1011 (LP) 20位 1986年CD再発 (MDCZ-1135)
1988年CD再発 (MDC7-1011)
1990年12月21日CD再発 (MDC7-1011)
1993年9月21日CD再発 (MDCL-1254)
2013年12月25日SHM-CD発売 (MDCL-5019/20)
2019年11月27日LP発売(MHJL-121)(ソニー)
MIT-1011 (CT)
35MD-1011 (CD)
10th 1987年11月21日 GRANOLA MIL-1034 (LP) 36位 1991年3月21日CD再発 (MDC7-1034)
1993年CD再発 (MDCZ-1231)
1993年9月21日CD再発 (MDCL-1256)
2013年12月25日SHM-CD発売 (MDCL-5024)
MIT-1034 (CT)
35MD-1034 (CD)
11th 1989年4月21日 WELCOME BACK MIT-1048 (CT) 27位 1993年9月21日CD再発 (MDCL-1258)
2015年5月27日SHM-CD発売 (MDCL-5038)
32MD-1048 (CD)
Epic Records
12th 1991年10月25日 LOVE LIFE ESCB-1255 (CD) 21位 2013年4月10日Blu-spec CD発売 (MHCL-30074)
13th 1992年6月1日 SUPER FOLK SONG ESCB-1294 (CD) 10位 ピアノ弾き語り作品

2013年4月10日Blu-spec CD発売 (MHCL-30075) 2019年11月20日LP発売(MHJL-14)
14th 1993年6月2日 LOVE IS HERE ESCB-1403 (CD) 12位 2013年4月10日Blu-spec CD発売 (MHCL-30077)
15th 1994年10月1日 ELEPHANT HOTEL ESCB-1523 (CD) 16位 2013年4月10日Blu-spec CD発売 (MHCL-30079)
16th 1995年10月21日 Piano Nightly ESCB-1677 (CD) 21位 ピアノ弾き語り作品

2013年4月10日Blu-spec CD発売 (MHCL-30078)
17th 1997年7月1日 Oui Oui ESCB-1816 (CD) 21位 2013年4月10日Blu-spec CD発売 (MHCL-30079)
18th 1999年8月4日 Go Girl ESCB-2006 (CD) – 2013年4月10日Blu-spec CD発売 (MHCL-30080)
19th 2000年11月1日 Home Girl Journey ESCB-2181 (CD) – ピアノ弾き語り作品

2013年4月10日Blu-spec CD発売 (MHCL-30081)
ESGB-302 (SACD)
20th 2002年3月20日 reverb ESCL-2302 (CD) – 2013年4月10日Blu-spec CD発売 (MHCL-30082)
ESGL-308 (SACD)
ヤマハミュージックコミュニケーションズ
21st 2004年10月27日 ホントのきもち YCCW-10009 (CD) – 2015年11月25日LP発売 (YCJW-10006)
YCCW-10011 (SACD)
22nd 2008年10月22日 akiko YCCW-10089 (CD) 28位 2015年11月25日LP発売 (YCJW-10007)
23rd 2010年2月10日 音楽堂 YCCW-10108 (CD) 30位 ピアノ弾き語り作品

2015年11月25日LP発売 (YCJW-10004)
SPEEDSTAR RECORDS (Victor Entertainment)
24th 2014年3月26日 飛ばしていくよ VICL-64141 (CD) 34位 2014年8月15日LP発売 (JSLP-038)
25th 2015年9月16日 Welcome to Jupiter VICL-64413 (CD) 28位 2015年9月16日LP発売 (HRLP-010)
VIZL-873 (2CD)
26th 2017年11月29日 Soft Landing VIZL-1280 (CD+DVD) ピアノ弾き語り作品
VICL-64817 (CD)
27th 2018年11月28日 ふたりぼっちで行こう VIZL-1435 (CD+DVD+BOOK)
VICL-65046 (CD)
28th 2021年8月25日 音楽はおくりもの VIZL-1833(CD+DVD) 2021年8月25日LP発売(VIJL-60245)
VICL-65453 (CD)
ライブ・アルバム
発売日 タイトル 規格品番 チャート 備考
オリコン
[12]
日本フォノグラム
1st 1976年12月5日 長月 神無月 S-7001 (LP) 60位 1992年12月21日CD発売 (TKCA-30755)
1994年5月25日CD再発 (TKCA-70372)
1998年5月13日LP再発 (TKJA-10027)
2002年10月23日CD再発 (TKCA-72460)
2011年11月23日SHM-CD発売 (MDCL-1519)
2nd 1979年4月25日 東京は夜の7時 S-7081 (LP) – 1994年5月25日CD発売 (TKCA-70375)
1998年5月13日LP発売 (TKJA-10030)
2002年10月23日CD再発 (TKCA-72463)
2011年11月23日SHM-CD発売 (MDCL-1522)
MIDI
3rd 1988年5月21日 グッド・イーブニング・トウキョウ MIL-1039 (LP) 30位 1993年3月1日CD再発 (MDCL-1039)
1993年9月21日CD再発 (MDCL-1257)
32MD-1039 (CD)
4th 1994年7月21日 出前コンサート MDCL-1280 (CD) – –
Epic Records
5th 2000年6月21日 TWILIGHT
?the“LIVE”best of Akiko Yano? ESCB-2139 (CD) 84位 –
ヤマハミュージックコミュニケーションズ
6th 2008年9月24日 JAPANESE GIRL
-Piano Solo Live 2008- 配信限定 – 2014年11月26日CD発売 (YCCW-10244)
7th 2012年8月8日 荒野の呼び声 -東京録音- YCCW-10175 (CD) 79位 –
SPEEDSTAR RECORDS(JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)
8th 2015年8月26日 飛ばしていくよ Piano Solo Live 2015 配信限定 – –
ベスト/コンピレーション
発売日 タイトル 規格品番 チャート 備考
オリコン
[12]
徳間ジャパン
1982年 FROM JAPAN TO JAPAN JAL-1802 (LP) – 1999年6月9日CD発売 (MDCL-1347)
やのミュージック
1988年 HOME MUSIC MCD-6 (CD) – 通販限定[13]
1988年 やのミュージック – 初期アルバム5枚+特典1枚のボックスセット
MIDI
1989年1月1日 HOME MUSIC II MIT-1045 (CT) 90位 1993年3月1日CD発売 (MDCL-1045)
徳間ジャパン
1989年7月25日 あそこのアッコちゃん 25JC-410 – –
1990年11月25日 コレクション1(1976~79) TKCA-30168 (5CD) – 初期アルバム5枚のボックスセット[14]
MIDI
1990年12月1日 矢野顕子コレクション MDCZ-1131/8 (8CD) – アルバム8枚のボックスセット[15]
1992年9月21日 On the Air MDC8-1185 (CD) 88位 –
1993年5月21日 矢野顕子コレクション(1980~1989) MDCZ-1225/34 (10CD) – 1980年-1989年のアルバム9枚+ボーナスCDのボックスセット[16][17]
1995年1月21日 愛がたりない MDCL-1286 (CD) – アルバム未収録曲のコンピレーション(『矢野顕子コレクション(1980~1989)』のボーナスCDを単品発売したもの)[18][19]
Consipio Records
1995年 YOHJI YAMAMOTO COLLECTION
MUSIC THE SHOW Vol.3 COCD-9210 (CD) – –
Epic Records
1996年9月23日 ひとつだけ
the very best of 矢野顕子 ESCB-1776 (CD) 7位 –
2003年10月1日 ピヤノアキコ。
?the best of solo piano songs? ESCL-10004 (SACD) – –
Sony Music Direct
2006年8月23日 いままでのやのあきこ MHCL-874/6 (CD+DVD) 97位 –
SPEEDSTAR RECORDS (Victor Entertainment)
2016年11月30日 矢野山脈 VICL-64624/6(3CD) 24位 –
VIZL-1035 (4CD+DVD)
その他アルバム
発売日 タイトル 規格品番 チャート 備考
オリコン
[12]
徳間ジャパン
サントラ 1999年7月1日 ホーホケキョとなりの山田くん
スペシャル・サウンドトラック
?よし、ジブリと一緒に作るぞ!? TKCA-71639 (CD) – –
ホーホケキョとなりの山田くん
オリジナル・フル・サウンドトラック
?家内安全は、世界の願い。? TKCA-71635 (2CD) – –
ジェネオン
サントラ 2005年10月13日 誰がために
オリジナルサウンドトラック GNCL-7002 (CD) – –
ヤマハミュージックコミュニケーションズ
ミニ 2006年3月8日 はじめてのやのあきこ YCCW-10021 (CD) 42位 2015年7月29日にLP発売 (YCJW-10002)
カバー 2013年2月6日 矢野顕子、忌野清志郎を歌う YCCW-10192 (CD) 34位 2015年7月29日にLP発売 (YCJW-10002)
参加アルバム
発売日 タイトル 規格品番 チャート 備考
オリコン
[12]
DENON
カバー 1979年 QUEEN SONGS SX-7031 (LP) – 「矢野誠 featuring 矢野顕子」名義
1993年8月21日CD発売 (MDCL-1238)
東芝EMI
朗読 1993年2月3日 雪のひとひら TOCT-6917/8 (2CD) – 矢野とピーター・ガブリエルによる朗読作品
1998年11月6日CD再発 (TOCT-10522/3)
Epic Records
ミニ 1997年7月1日 life behind TV (JAPANESE VERSION) ESCB-1824 (CD) – Jeff Bovaとのユニット「THE HAMMONDS」名義
life behind TV (ENGLISH VERSION) ESCB-1823 (CD) –
東芝EMI
ライブ 2000年10月18日 LIVE Beautiful Songs TOCT-24456/7 (2CD) – 矢野、大貫妙子、奥田民生、鈴木慶一、宮沢和史によるアルバム
ヤマハミュージックコミュニケーションズ
オリジナル 2007年8月8日 yanokami YCCW-10034 (CD) 24位 レイ・ハラカミとのユニット「yanokami」名義
2008年3月12日 yanokamick
-yanokami English version- YCCW-10045 (CD) 234位 「yanokami」名義
2010年7月14日 あなたと歌おう YCCW-10116 (CD) 83位 森山良子とのユニット「やもり」名義
Universal Music Classic
ライブ 2011年11月23日 Get Together ?LIVE IN TOKYO? UCCT-1233 (CD) 22位 「矢野顕子×上原ひろみ」名義
UCCT-9022 (SHMCD+DVD)
ヤマハミュージックコミュニケーションズ
オリジナル 2011年12月14日 遠くは近い YCCW-10163 (CD) 58位 「yanokami」名義
インスト 遠くは近い -reprise- YCCW-10164 (CD) 134位
SPEEDSTAR RECORDS (Victor Entertainment)
ライブ 2015年3月18日 さとがえるコンサート VICL-64318/9 (2CD) 32位 「矢野顕子+TIN PAN」名義
VIZL-803 (2CD+BD)
2016年4月6日 矢野顕子+TIN PAN PART II
さとがえるコンサート VICL-64561/2 (2CD) 27位 「矢野顕子+TIN PAN」名義
VIZL-954 (2CD+BD)
Universal Music Classic
ライブ 2017年3月8日 ラーメンな女たち -LIVE IN TOKYO- UCCO-1171 (SHM-CD) 17位 「矢野顕子×上原ひろみ」名義
UCCO-8011 (SHM-CD+DVD)
収録アルバム

三浦光紀の仕事(2012年12月5日、ベルウッド・レコード) - 三浦光紀のプロデュースしたレコードからのコンピレーション。矢野については『JAPANESE GIRL』等からの選曲。Disc 4は矢野顕子によるカバー集。

海外盤

AKIKO YANO(1990年、NONESUCH)
    ROBERT HURWITZとJOHN ZORNの選曲によるコンピレーション
LOVE LIFE(1993年、NONESUCH)
PIANO NIGHTLY(1996年、NONESUCH)

映像作品

yano akiko 1984 オーエス オーエス Live(1984年、やのミュージック)
BROOCH(1986年、ソニー)
出前コンサート(1987年、やのミュージック)
WELCOME BACK(1990年12月1日、MIDI)8枚組ボックスセット「矢野顕子コレクション」の特典ビデオ
SUPER FOLK SONG ?ピアノが愛した女?(1992年、坂西伊作監督)
    アルバム「SUPER FOLK SONG」のレコーディングを追ったドキュメンタリー映画
矢野顕子S席コンサート(1994年、Epic)
TWILIGHT ?the“LIVE”best of Akiko Yano?(2000年6月21日、Epic)
ライブ・ピヤノアキコ。(2003年10月1日、Epic)
音楽のちから ?吉野金次の復帰を願う緊急コンサート(2007年4月25日、グリーンドア)
    細野晴臣&東京シャイネス・オールスターズ、ゆず、友部正人、大貫妙子、佐野元春との共同名義。
akiko -Live 2008-(2009年10月21日、YMC)
Two Jupiters(2016年4月6日、ビクターエンタテインメント)

映画
出演作

TOKYO MELODY(1984年、エリザベス・レナード監督)坂本龍一のドキュメンタリーに出演。
SUPER FOLK SONG ?ピアノが愛した女?(1992年、坂西伊作監督)自身のドキュメンタリー。
ホーホケキョとなりの山田くん(1999年、高畑勲監督)声優として出演。
ザ・ゴールデン・カップス ワンモアタイム(2004年、サン・マー・メン監督)ドキュメンタリー。インタビュー出演。
やどさがし(2006年、宮崎駿監督) 三鷹の森ジブリ美術館用短編アニメ。声優として出演。
崖の上のポニョ(2008年、宮崎駿監督) 声優として出演。
忌野清志郎 ナニワ・サリバン・ショー?感度サイコー!!!? (2011年、鈴木剛[要曖昧さ回避]監督) 忌野清志郎のドキュメンタリーに出演。
やの屋 - 藝大生×矢野顕子 希望の作り方 (2011年、平野勝之監督) 自ら参画したイベントのドキュメンタリー。

音楽担当作

悶絶!!どんでん返し(1977年、神代辰巳監督)劇中で「あんたがたどこさ」「金太郎」が使用される
モスラ(1996年、米田興弘監督)挿入歌「祈りの歌」「モスラレオ」の作曲
大安に仏滅!?(1998年、和泉聖治監督)主題歌に「Home Sweet Home」が採用
卓球温泉(1998年、山川元監督)主題歌に「丘を越えて」が採用
ホーホケキョとなりの山田くん(1999年、高畑勲監督)音楽監督
あたしンち(2003年、やすみ哲夫監督)主題歌「あたしンち」を担当
誰がために(2005年、日向寺太郎監督)音楽監督
監督失格(2011年、平野勝之監督)音楽監督
しあわせのパン(2012年、三島有紀子監督)主題歌に「ひとつだけ」(『はじめてのやのあきこ』収録の、忌野清志郎とのデュエット・バージョン)が採用
すーちゃん まいちゃん さわ子さん(2013年、御法川修監督)劇中歌に「PRAYER」が採用
体脂肪計タニタの社員食堂(2013年、李闘士男監督)主題歌「さあ、召しあがれ」を担当
ワイド!スクランブル(テレビ朝日系)2014年4月1日 - 2018年3月30日の4年間、番組テーマ曲に「ごはんとおかず」を起用

テレビ番組

新NY者(新ニューヨーカー)#28矢野顕子 アッコちゃんと5台のピアノ(1989年5月31日、CX)
ピアノ・ナイトリィ?矢野顕子とピアノの3夜(1996年7月29日 - 31日、NHK BS2)
SONGS(2008年11月5日、2010年9月22日、NHK)
佐野元春のザ・ソングライターズ(2009年9月5日、12日、NHK教育)
旅のチカラ「"私のピアノ”が生まれた町へ?矢野顕子 ドイツ・ハンブルク?」(2013年3月1日、NHK BSプレミアム)

書籍

家庭版 アッコちゃん(1989年4月 角川書店)ISBN 4-04-883235-2
アッコちゃんスタイルブック(1991年11月 角川書店)ISBN 4-04-883306-5
月刊アッコちゃん〈峠のわが家編〉角川文庫(1994年1月 角川書店)
月刊アッコちゃん〈2〉愛をつれて会いに行こう 角川文庫(1994年7月 角川書店)
愛は海山越えて―月刊アッコちゃん〈3〉角川文庫(1994年11月 角川書店)
きょうも一日楽しかった 角川文庫(1996年7月 角川書店)
街を歩けばいいことに当たる 角川文庫(1997年8月 角川書店)
愛について考える毎日 角川文庫(1998年5月 角川書店)
しょうぼうていハーヴィ ニューヨークをまもる(翻訳、マイラ・カルマン原著、2004年12月 リトル・ドッグ・プレス)
えがおのつくりかた all about 矢野顕子(2006年11月 オレンジページ)ISBN 978-4-87303-474-4
せかいでいちばんあたまのいいいぬ ピートがっこうへいく(翻訳、マイラ・カルマン原著、2007年10月 リトル・ドッグ・プレス)
「ユリイカ 詩と批評 臨時増刊号-総特集 矢野顕子-ピアノが愛した女。…矢野顕子の40年」2017年2月号、青土社。作品論

関連書籍

創作あーちすと NON(のん、2017年3月太田出版)- 対談相手の一人

参加作品

小坂忠 -「つるべ糸」- アルバム『ほうろう』収録(1975年)、作詞・作曲、キーボード。鈴木晶子名義。
あがた森魚 - アルバム『日本少年』(1976年)、コーラス・ピアノ。
鈴木慶一とムーンライダース -「地中海地方の天気予報」- アルバム『火の玉ボーイ』収録(1976年)、作詞・ピアノ。
茶坊主 -「カララン カラタケ 知っている」- アルバム『トゥリー・オブ・ライフ』収録(1976年)、作曲・ボーカル。
渡辺香津美 -「Water Ways Flow Backward Again」- アルバム『KYLYN』(1979年)収録、作曲・ピアノ。
渡辺香津美 -「在広東少年」(作詞・作曲・歌唱・ピアノ)「The River Must Flow」(歌唱・ピアノ)「I'll Be There」(作詞・歌唱・ピアノ)- ライブアルバム『KYLYN LIVE』(1979年)収録。
坂本龍一とカクトウギ・セッション -「スリープ・オン・マイ・ベイビー」- アルバム『サマー・ナーヴス』(1979年)収録、作詞・作曲・歌唱。
イエロー・マジック・オーケストラ - ライブ・アルバム『パブリック・プレッシャー』(1980年)、キーボード・コーラス。
イエロー・マジック・オーケストラ -「KANG TONG BOY」(在広東少年)- ライブ。アルバム『フェイカー・ホリック』(1979年録音、1991年発売)、『ライヴ・アット・武道館1980』(1980年録音、1993年発売)、『ワールド・ツアー1980』(1980年録音、1996年発売)収録。作詞・作曲・キーボード・ボーカル。他の演目についてもキーボード、コーラス。
加藤和彦 - アルバム『うたかたのオペラ』(1980年)、ピアノ・ザイロフォン。
糸井重里 -「SUPER FOLK SONG」「SLEEPING DUCK」- アルバム『ペンギニズム』収録(1980年)、作曲・ピアノ。
坂本龍一 -「かちゃくちゃねえ」「Tell'em to me」- アルバム『左うでの夢』収録(1981年)、作詞・コーラス。
大村憲司 -「Under Heavy Hands And Hammers」(ピアノ)「Far East Man」(コーラス)-『春がいっぱい』(1981年)収録。
加藤和彦 - アルバム『ベル・エキセントリック』(1981年)、ピアノ。
トーマス・ドルビー「Radio Silence」- アルバム『The Golden Age of Wireless 』収録(1982年)、コーラス。
郷ひろみ -「毎日僕を愛して」「独身貴族」- アルバム『比呂魅卿の犯罪』収録(1983年)、作曲・コーラス。
加藤和彦 - アルバム『あの頃、マリー・ローランサン』(1983年)、ピアノ。
かしぶち哲郎 - アルバム『リラのホテル』(1983年)、編曲・歌唱・ピアノ。
かしぶち哲郎 -「ダイアログ」- アルバム『彼女の時』収録(1985年)、デュオ・ボーカル。
高中正義 -「CHINA」(1985年)- アルバム『TRAUMATIC 極東探偵団』収録(1985年)、コーラス。
坂本龍一 -「ステッピン・イントゥ・エイジア」(1986年)、作詞・コーラス。
あがた森魚 -「パール・デコレーションの庭」-『バンドネオンの豹』収録(1987年)作曲・編曲・ボーカル。
小原礼 -『PICARESQUE』(1988年)、ピアノ。
大貫妙子 -「或る晴れた日」- アルバム『PURISSIMA』収録(1988年)、ピアノ。
井上陽水 -「Pi Po Pa」- アルバム『ハンサムボーイ』収録(1990年)、コーラス。
THE BOOM -「釣りに行こう」- シングル(1990年)、編曲・ボーカル。
パット・メセニー -「As a flower blossoms (I am running to you)」- アルバム『Secret Story』収録(1991年)、ゲスト・ボーカル。
佐野元春 - シングル「また明日…」- アルバム『Sweet16』収録(1992年)、コーラス。
トニーニョ・オルタ -「Akiko's Song」- アルバム『FOOT ON THE ROAD』収録(1994年)、ゲスト・ボーカル。
ムーンライダーズ -「ニットキャップマン」- アルバム『Bizzare Music For You』収録(1996年)、ボーカル。
村上秀一 -「青い山脈」- アルバム『Welcome to my Life』収録(1998年)、ボーカル・ピアノ。
テイ・トウワ -「Higher」- アルバム『Sound Museum』収録(1998年)、ボーカル。
チーフタンズ - 「Sake in the Jar」 - アルバム『Tears of Stone』収録(1999年)、ゲスト・ボーカル。
渡辺香津美 - 「Water Ways Flow Backward Again」- アルバム『ONE FOR ALL』(1999年)収録、作曲・ピアノ。
坂本美雨 - 「ひとつだけ」作詞・作曲・歌唱、「DAWN」作詞・作曲 - アルバム『DAWN PINK』(1999年)収録。
ORIGINAL LOVE - 「美貌の都」 - アルバム『踊る太陽』収録(2003年)、ピアノ。
森山良子 -「さとうきび畑」- シングル『涙そうそう』収録(2003年)、ピアノ。
大村憲司 -「Leaving Home」- アルバム『Leaving Home best live tracks II』収録(2003年)、ピアノ。
平井堅 -「大きな古時計」- アルバム『Ken's Bar』収録(2003年)、ピアノ。
くるり - 「Tonight Is The Night」 - アルバム『NIKKI』収録(2005年)、ピアノ。
上原ひろみ -「Green Tea Farm」- アルバム『プレイス・トゥ・ビー』日本盤収録(2009年)、歌唱。
くるり -「Baby I love you」- アルバム『くるり鶏びゅ?と』収録(2009年)、歌唱・ピアノ。
清水ミチコ -「いもむしごろごろ」- アルバム『バッタもん』収録(2009年)、ボーカル・ピアノ。
あがた森魚 - ライブアルバム『あがた森魚とZIPANG BOYZ號の一夜』(2009年)、ボーカル・ピアノ。
ムーンライダーズ - ライブアルバム『moonriders LIVE at MIELPARQUE TOKYO HALL 2011.05.05“火の玉ボーイ コンサート”』(2012年)、ボーカル。
大橋トリオ -「窓」- アルバム『White』収録(2012年)、作詞・ボーカル。
奥田民生 -「野ばら」- アルバム『奥田民生・カバーズ2』収録(2013年)、ボーカル・ピアノ。
ウィル・リー -「1,2,3」- アルバム『Love, Gratitude and Other Distractions』収録(2013年)、ボーカル・ピアノ。
LINDBERG -「GLORY DAYS」- アルバム『LINDBERG TRIBUTE~みんなのリンドバーグ~』 収録(2014年)。

楽曲提供

[icon]

この節の加筆が望まれています。

吉田美奈子 -「かたおもい」- アルバム『FLAPPER』収録(1976年)、作詞・作曲。
石川セリ -「昨日はもう」- アルバム『気まぐれ』収録(1977年)、作曲。
佐藤奈々子 -「パウダー・ゲーム」- アルバム『Kissing Fish』収録(1979年)、作曲。
アグネス・チャン -「ひとつだけ」- アルバム『美しい日々』収録(1979年)、作詞・作曲。
ラジ -「わたしはすてき」- アルバム『Quatre』収録(1979年)、作詞。
MANNA -「Gotanda」- アルバム『Chabako Trick』収録(1979年)、作詞・作曲。
ラジ -「みどりの声」- アルバム『真昼の歩道』収録(1980年)、作詞・作曲。
糸井重里 - 「SUPER FOLK SONG」- 『ペンギニズム』収録(1980年)、作曲。
桜田淳子 -「MY DEAR」ほか - アルバム『MY DEAR』収録(1981年)、作曲。
伊藤つかさ -「私 I Love You」「ともだちへ」- アルバム『さよなら こんにちわ』収録(1982年)、作詞・作曲。
山田邦子 -「借りものの海辺」- アルバム『贅沢者』収録(1982年)、作曲。
松田聖子 -「そよ風のフェイント」- アルバム『Windy Shadow』(1984年)収録、 作曲。
坂本龍一 -「森の人」- アルバム『音楽図鑑』(1984年)収録、作詞。
松田聖子 -「両手の中の海」- アルバム『The 9th Wave』収録(1985年)、作詞・作曲。
高見知佳 -「怒濤の恋愛」(1985年)、作曲。
高橋幸宏 -「仕事を終えたぼくたちは」- アルバム『Once A Fool,...』(1985年)収録、作詞。
小泉今日子 -「マッスル・ピーチ」- アルバム『Flapper』(1985年)収録、作曲。
坂本龍一 -「Ballet Mechanique」「G.T.」- アルバム『未来派野郎』(1986年)収録、作詞。
杉浦幸 -「花のように」- シングル(1987年)、作詞・作曲。
山瀬まみ -「ヒント」- アルバム『親指姫』(1989年)収録、作曲。
巻上公一 -「平成じゃらん節」シングル『平成じゃらん節』収録(1990年)作曲。
薬師丸ひろ子 -「星の王子さま」(1991年)、作曲。
エリアス姉妹(小林恵・山口紗弥加)-「祈りの歌」「モスラレオ」-『モスラ/オリジナルサウンドトラック』(1996年)収録、作曲。
THE BOOM -「夢を見た」- アルバム『TROPICALISM -0°』(1996年)収録、作詞。
松田聖子 -「上海ラヴソング」- シングル(2000年)、作詞。
KinKi Kids -「勇敢な君に」 - アルバム『L album』収録(2013年)、作詞・作曲。
のん -「わたしはベイベー」- アルバム『スーパーヒーローズ』収録(2018年)、作詞・作曲。
MISIA -「希望のうた」(2022年)、作詞・作曲。

CM出演

ネスレ日本 ブライト - 宮沢和史と共演
トヨタ自動車 カローラフィールダーハイブリッド「丘を越えて Aパターン篇」- 木村拓哉(SMAP)、OKAMOTO'S、清水翔太、PUFFYらと共演
タマホーム
さっぽろ地下街 - 「さっぽろ地下街ポイントクラブの歌」提供[20]

脚注
[脚注の使い方]
注釈

^ 「つるべ糸」。アルバム『ほうろう』収録。のちに「やませ(東風)」として自らも収録。

出典

^ 平岡正明『タモリだよ』p.165
^ a b 今井智子「追っかけインタビュー 矢野顕子 『春咲小紅』が大ヒット!いよいよアッコちゃんの時代到来か!?」『シティロード』1981年4月号、エコー企画、9頁。
^ a b “10代、ジャズミュージシャンをひたすら目指して 矢野顕子(前編)”. 朝日新聞デジタル&w (2016年11月24日). 2019年9月30日閲覧。
^ a b c 「インタビュー 渡辺俊幸」 『モスラ』東宝〈東宝SF特撮映画シリーズVOL.11〉、1996年12月21日、43-44頁。ISBN 4-924609-66-8。
^ 「スーパー戦隊制作の裏舞台 渡辺俊幸」 『スーパー戦隊OfficialMook 20世紀 1999 救急戦隊ゴーゴーファイブ』講談社〈講談社シリーズMOOK〉、2018年6月9日、32頁。ISBN 978-4-06-509611-6。
^ 音楽プロデューサー、三浦光紀による発言。映画『SUPER FOLK SONG ピアノが愛した女。』(坂西伊作監督、1992年)
^ a b “やのとあがつま”. 2022年5月2日閲覧。
^ a b “やのとあがつま”. SPEEDSTAR RECORDS. 2022年5月2日閲覧。
^ “総合テレビでアニメ化決定!大家さんと僕”. NHK_PR (2020年2月21日). 2020年2月21日閲覧。
^ “矢野顕子 アニメ「大家さんと僕」主題歌を担当、3/6配信”. Musicman (2020年2月21日). 2020年2月21日閲覧。
^ 矢野顕子のシングル作品 オリコン
^ a b c d e 矢野顕子のアルバム作品 オリコン
^ 矢野顕子『きょうも一日楽しかった』角川書店(角川文庫)、1996年、119頁。ISBN 4-04-192504-5。
^ “矢野顕子 / コレクション1(1976~79) [5CD] [限定]”. CDJournal. 2020年8月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年8月26日閲覧。
^ “矢野顕子コレクション [8CD] [限定]”. CDJournal. 2020年8月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年8月26日閲覧。
^ “ディスコグラフィー 矢野顕子コレクション”. Akiko Yano official website. 2006年10月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年8月26日閲覧。
^ “矢野顕子 / 矢野顕子コレクション(1980~1989) [10CD] [限定]”. CDJournal. 2020年8月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年8月26日閲覧。
^ “ディスコグラフィー 愛がたりない”. Akiko Yano official website. 2006年10月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年8月26日閲覧。
^ “矢野顕子 / 愛がたりない”. CDJournal. 2020年8月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年8月26日閲覧。
^ 2021年(令和3年)12月26日(日曜日) 北海道新聞 朝刊『日曜ナビ』 1面・2面「五感紀行」

関連項目

あがた森魚 - アルバム「JAPANESE GIRL」はあがたの「日本少年」へのアンサーアルバムであるとされるなど、初期の矢野が影響を受けた。
イエロー・マジック・オーケストラ - 矢野が1979年から1980年にかけて、ワールドツアー等でサポートメンバーとして参加した。また矢野のアルバムにおいてはバックバンドを務める。
糸井重里 - 「春咲小紅」以来、矢野作品の多くで作詞を担当するほか、対談なども継続的に行っている。
忌野清志郎 - ライブで共演するなど親交が深かった。「きよしちゃん」(「音楽堂」所収)は忌野へのリスペクト。
ウィル・リー - Will Lee 1970年代より矢野の録音に参加し、2010年代も「ブルーノート」(東京)を拠点に矢野とトリオを組むベーシスト。
エハラマサヒロ - 矢野のモノマネをしている芸人。
大貫妙子 - 1970年代以来の友人であり、互いの作品に参加、楽曲のカヴァーを行う関係である。
大村憲司 - 1970年代末に六本木PIT INN等で共演して以来、矢野のアルバム、ライブに参加したギタリスト。
くるり - アルバム「ホントのきもち」を共同制作したほか、矢野はくるりの曲のカバーを積極的に行っている。
清水ミチコ - 矢野のモノマネをしている芸人。清水自身矢野のファンを自認しており、テレビ・コンサートで共演することもある。
立花ハジメ - 1980年代中盤より、舞台・パッケージのデザインを手掛けるデザイナー。
細野晴臣 - ティン・パン・アレーの時代から親交も深い。「終りの季節」「恋は桃色」などをカバー。
槇原敬之 - NHK-FM「坂本龍一サウンドストリート」のデモテープ特集で矢野が推薦して取り上げて以来、親交も深い。
三浦光紀 - デビューから初期にかけて、矢野を発掘し売り出したエグゼクティブ・プロデューサー。
ムーンライダーズ - 「JAPANESE GIRL」でメンバーがバックバンドを務めて以来の親交がある。
森山良子 - 2010年よりユニット「やもり」結成。
吉野金次 -「JAPANESE GIRL」の頃より矢野の録音に携わる録音技術者。弾き語り作品は吉野の録音が不可欠であるとされる。
レイ・ハラカミ - 2007年よりユニット「yanokami」として活動するエレクトロニカのアーティスト。
上妻宏光 - 2019年よりユニット「やのとあがつま」として活動する津軽三味線奏者。

外部リンク

公式ウェブサイト
矢野顕子所属レコード会社(スピードスター・レコーズ)
旧矢野顕子所属レコード会社(ヤマハミュージックコミュニケーションズ)
旧矢野顕子オフィシャルサイト(ソニーミュージック)
yanokami公式サイト
やもり公式サイト
やのコレ
ほぼ日刊イトイ新聞 『音楽堂』ができるまで。
ほぼ日刊イトイ新聞 矢野顕子について、アッコちゃんと話そう。
ほぼ日刊イトイ新聞 どうぶつの話を、矢野さんと。
ほぼ日刊イトイ新聞 矢野顕子は糸井重里の言葉をどうやって歌にするのか
ほぼ日刊イトイ新聞 私でありすべてである音楽よ、ありがとう。大貫妙子?矢野顕子(2021年)
ほぼ日刊イトイ新聞 矢野顕子さんの 「音楽のみなもと」の話。 (2022年)
矢野顕子 (piyano.akiko) - Facebook
矢野顕子 Akiko Yano (@Yano_Akiko) - Twitter
矢野顕子 - NHK人物録

表話編歴

矢野顕子

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坂本龍一

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イエロー・マジック・オーケストラ

表話編歴

忌野清志郎

表話編歴

Sony Music Artists
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「交流に情熱」坂本龍一さん追悼 中国外務省

「交流に情熱」坂本龍一さん追悼 中国外務省
https://www.jiji.com/jc/article?k=2023040301015&g=int

『2023年04月03日19時01分

【北京時事】中国外務省の毛寧副報道局長は3日の記者会見で、「中日間の人文交流に情熱を傾けてくれた」と坂本龍一さんを追悼した。中国では世代を問わず、坂本さんの知名度は高い。

【写真特集】音楽家 坂本龍一さん~死去71歳、「YMO」~

 坂本さんは映画「ラストエンペラー」の音楽に、中国の楽器「二胡」を取り入れている。毛氏は「中国の要素を含む優秀な音楽作品をたくさん創作し、実際の行動で両国の友好的交流に貢献した」と強調。さらに多くの両国の有識者が坂本さんに続き、友好事業に加わってほしいと述べた。 』

坂本一亀

坂本一亀
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E4%B8%80%E4%BA%80

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ポータル 文学

坂本 一亀(さかもと かずき、1921年12月8日 – 2002年9月28日[1])は、日本の編集者。
来歴・人物

福岡県甘木市(現:朝倉市)生まれ。愛称は「ワンカメさん」。

1943年に学徒出陣により、日本大学法文学部国文学科を繰上卒業し入隊。佐賀と満洲の通信隊にいたとされる。敗戦3ヵ月後に復員。故郷に帰り、文学書に読み耽りながら小さな同人誌をやっていたところ、元河出書房社員の眼にとまったのがきっかけとなり、1947年1月に河出書房に入社[1]。1947年7月、待望の編集部に移り、『ドストエフスキー全集』の訳者米川正夫の担当となる。同月、伊藤整、瀬沼茂樹、平野謙の三人を揃えて文芸評論全集を企画。

以後、野間宏『真空地帯』、椎名麟三『赤い孤独者』、三島由紀夫『仮面の告白』、島尾敏雄『贋学生』、高橋和巳『悲の器』など戦後文学の名作を次々と手がけ、純文学編集者として名を馳せた[1]。

1957年、河出は1度目の倒産を経験し、坂本は残務整理にあたる再建要員として残され、河出書房新社が再出発、1962年から1964年まで雑誌『文藝』の編集長。1978年に退社。構想社を設立し、2005年頃まで出版活動を行った。

2002年9月28日に死去[2]。80歳没。

実業家の下村彌一は岳父。音楽家の坂本龍一は長男(一人っ子)で、父のことをインタビュー等で度々語っている(下記の評伝も龍一の発案)。孫の坂本美雨も歌手として活動している。

評伝

田邊園子 『伝説の編集者 坂本一亀とその時代』 作品社、2003年6月/河出文庫、2018年4月』

NHK、未契約者に2倍の受信料「割増金」請求へ

NHK、未契約者に2倍の受信料「割増金」請求へ…憲法違反、テレビ非保有者も徴収
https://biz-journal.jp/2023/03/post_337125.html

 ※ この4月からか…。

 ※ あまり、騒がれることも、無かったな…。

『NHKは4月から、期限内(受信機設置の翌々月の末日)に受信契約をしなかったり、不正に受信料を支払わない人に対し、本来の受信料の2倍の割増金を課す制度を開始する。未払いの受信料も合わせると通常の3倍の支払いを求めることになる。

昨年の放送法改正を受けたものだが、受信契約の解約や受信料免除に不正がある場合や、衛星契約など料金が高い別の契約へ変更した後も正しい契約種別の放送受信契約書を提出しない場合も割増金請求の対象となることから、さまざまな声があがっている。

 NHKの受信料徴収をめぐる動きは大きな転機を迎えている。今年10月からは、NHK総合とEテレを視聴する「地上契約」、BS1やBSプレミアムなどの衛星放送もセットの「衛星契約」の受信料を約1割値下げする。

 その一方、NHKはテレビを保有していない人からも受信料を徴収する動きを加速させている。

すでに現在でも、自宅にテレビを設置していなくてもチューナー内蔵パソコン、ワンセグ対応端末の保有者は受信料を支払わなくてはならないと定められているが、昨年9月の総務省の「公共放送に関する有識者会議」では、テレビを持っていなくてもスマホなどで放送を見る人について「負担を議論していく必要がある」との意見が提起。

NHKは2017年に公表したNHK受信料制度等検討委員会の答申案で、スマホやインターネットの利用者からも受信料を徴収する検討を始めており、テレビ非保有者からも広く徴収する流れが固まりつつある。

 そうしたなかで始まる割増金制度をめぐっては、SNS上で次のようにさまざまな意見が出ている。

<見たい人だけ見られる様にすればいいだけだと思う。わざわざ人件費割いて未払いの家に訪問させるなら「見たい人にはお金を払ってもらう」が一番いい方法>(原文ママ、以下同)

<デジタル時代、未払いには映らなくしたら済む問題では。この情報化時代、NHKが必要か考える方が先ではないかな>

<視聴していないのに視聴料をとる現行法はおかしい。だから皆が口を揃えて言う様に必要な人だけが、受信料を支払うスクランブル化が急務>

<罰則を作るのは自由だが、その前に解約の自由やスクランブルを実現化してからじゃないと駄目でしょ。こんな一方的なお金の稼ぎ方は詐欺だよ。役員報酬を減らし、職員の年収を一般平均に落とし、偏向報道を辞め、スクランブル化の実現と解約の自由を行ってからするべき>

<今の時代、観たい物をお金払って観る時代になりました。NHKも払わない人には映さないようにシステム変更したらいいと思う。なぜ、強制的に支払いさせるのか?昔はそれで通用してましたが今時、有料チャンネルが増えて、観たい物にお金を払う時代になりました。強制的に料金取るのはもはや時代遅れ>

<そもそもテレビを設置すれば強制的に払わないといけないのだから「NHKの価値や受信料制度の意義に共感していただき、納得してお手続きやお支払いをいただく」方針ではないよね。この方針だと納得しない人が払わないと言う選択肢は正しいのに罰則徴収はおかしい>

割増金制度を始める背景

 NHKの「カネあまり」は顕著だ。21年度の受信料収入は6896億円で、毎年平均して1000億円以上の連結事業CF(キャッシュフロー)を生み、22年9月末時点の連結剰余金残高は5000億円を超える。そしてNHK本体は法人税の負担はない。

 そんなNHKは、なぜ割増金制度を始めるのか。『NHK受信料の研究』(新潮新書)の著者で早稲田大学社会科学総合学術院の有馬哲夫教授はいう。

「NHK放送文化研究所の調査によれば、NHK総合チャンネルを1週間に5分以上見ている日本人は54.7%であり、日本人の約半数がNHKを見ていない。NetflixやAmazonプライム・ビデオなど動画配信サービスへの個人の支出が増えるなか、人々の間では『なぜNHKを見ないのに高い受信料を払わされなければならないのか』という不満が高まっている。

そうした不満を和らげる目的もあり、NHKは10月から受信料を値下げするが、その交換条件として政府は事実上の罰則である割増金制度の導入を認めたという構図だ。

 NHKの会長は政府が任命するNHK経営委員会で選任され、政府は事実上、NHKの経営をコントロールできる。なので政府は、言いなりにさせられるNHKを存続させたい一方、世論の反発を避けるためにもNHKの肥大化は困る。そこで、NHKに組織の規模縮小をさせるために受信料を値下げさせる代わりに、割増金の導入を認めたということだ。

 だが、そもそもNHKの受信料は、契約締結の相手方や内容などを自由に選ぶことができるとする憲法第13条に違反しており、また、違反しても効力が生じず処罰もされない訓示規定だ。にもかかわらず事実上の罰則である割増金を国民に課すというのは不適切だ」

 NHKの稲葉延雄会長は「割増金についても、一律に条件に該当するからといって請求するというのではなく、お客様の個別の事情を総合的に勘案しながら運用していくという姿勢にあると聞いております」と話しているが、実際には、どのような運用になると予想されるか。

「総務省は1月、日本放送協会放送受信規約について、これまで受信契約書を『遅滞なく提出』としていたところを『受信機の設置の月の翌々月の末日までに提出』とするNHKの変更案を認可した。だが、NHKは受信契約を結んでいない国民の個人情報を収集することはできないので、誰がいつから受信機を設置しているのかは把握できない。よって、個人が負担すべき割増金を正確に把握できるとは限らず、この制度を全国民にとって公平に運用することは事実上困難だ」

 今後のNHKの行く末について有馬教授はいう。

「政府からNHKへの組織縮小圧力は今後も続くため、設備や人員は徐々に縮小されると思う。ネットで配信すれば、全国に張り巡らされた巨大な放送網を維持するためのコストは必要なくなるので、広告費を取り入れるなどして放送は無料にして、配信のほうは有料で提供すればよい。世界もこの方向に向かっている」

(文=Business Journal編集部、協力=有馬哲夫/早稲田大学社会科学総合学術院教授)
有馬哲夫/早稲田大学社会科学総合学術院教授:取材協力

1953(昭和28)年生まれ。早稲田大学社会科学総合学術院教授(公文書研究)。早稲田大学第一文学部卒業。東北大学大学院文学研究科博士課程単位取得。2016年オックスフォード大学客員教授。著書に『原発・正力・CIA』『日本人はなぜ自虐的になったのか』など。
http://www.f.waseda.jp/tarima/

ニュースサイトで読む: https://biz-journal.jp/2023/03/post_337125.html
Copyright © Business Journal All Rights Reserved.』

陛下の江戸時代の上水道システムビデオ国連で放映

陛下の江戸時代の上水道システムビデオ国連で放映
https://nappi11.livedoor.blog/archives/5420422.html

 ※ 今上の「ライフワーク」である「水の研究」の、成果の一端が、発信されたようだ…。

『米ニューヨークの国連本部で開かれた「第6回国連水と災害に関する特別会合」で2023年21日(日本時間22日朝)、天皇陛下によるビデオ講演「『巡る水』―水循環と社会の発展を考える―」が放映(約20分)された。

陛下は気候変動問題の課題解決には「水循環全体を俯瞰(ふかん)し大局的にとらえ、水、災害、気候変動の課題をつなぎ、総合的に解決していくことが期待されます」と英語で話された。

FireShot Webpage Screenshot #711 – ‘天皇陛下、ビデオで 

水に関する研究をライフワークとする陛下は、江戸時代における東京の上水道システムや洪水対策などを説明。

「近年の気候変動によって水災害や渇水といった現象が頻発するなど水環境の姿が変化してきており、これらへの対応が人類共通の課題」と指摘した。

その上で「人類はその歴史を通して、自然と共に歩み、災害に対応し、水の恩恵を享受してきた」と解説した。

同会合は2013年から隔年で国連本部で開催されている。陛下は即位の行事があった2019年を除いて、これまでに現地で2回、オンラインで1回、ビデオで1回講演している。参照記事』

言っていることではなく、やっていることがその人の正体

上野千鶴子先生が入籍?「おひとりさまだと信じていたのに」と怨嗟の声
https://agora-web.jp/archives/230221195808.html

 ※ 今日は、こんな所で…。

 ※ ビジネス左翼なんて、そんなモン…。

 ※ 昔から、「口舌(くぜつ)の徒」と言って、こういう「舌先三寸」の、口先だけのヤカラを警戒したモンだ…。

 ※ 某政党の元党首の豪邸住まい、某政党の元党首の某「太陽光発電ハウス」豪邸とか、枚挙に暇(いとま)が無い…。

 ※ 親の財産受け継いで、政党立ち上げた、「友愛」の御仁とかも、いたな…。

 ※ 剛腕で鳴らした御仁は、最近、政治塾を「中締め」したと聞いたが…。

『フェミニスト・社会学者で、近年は「おひとりさまの老後」など、おひとりさまの第一人者である上野千鶴子氏が、密かに入籍していたということが明らかになり、あまりに言行不一致がすごいと話題になっています。

“おひとりさまの教祖”上野千鶴子(74)が入籍していた 文春オンライン
https://bunshun.jp/denshiban/articles/b5260 

みんなおひとりさまになろうと言いながら、自らは結婚もしていたというのですから、ビジネスが徹底していると驚嘆の声が上がっています。

「みんな平等に貧しくなろう」と言いながら、自らはタワマン、別荘、BMW生活を送っていたことで有名な上野千鶴子大先生は、「みんなおひとりさまになろう」と言いながら、自らは結婚もしていたらしい。ようは徹底してビジネス左翼だったってわけか。 https://t.co/lKHWf8d9gG

— 飯山陽 Dr. Akari IIYAMA新作『騙されないための中東入門』発売中 (@IiyamaAkari) February 21, 2023

これほど言動不一致の人も珍しいと。

「結婚とはセックス契約」「結婚しているフェミニストは嫌い」「結婚という制度が嫌」のマルクス主義フェミニスト上野千鶴子氏が入籍していたと。これほど卑劣で愚劣な御仁を他にあまり知らない。

“おひとりさまの教祖”上野千鶴子(74)が入籍していた 2023.2.21 週刊文春https://t.co/K7wYDQW5qp

— 吉田康一郎 (@yoshidakoichiro) February 21, 2023

上野千鶴子先生のおひとりさまの説教とは要するに・・・。

上野千鶴子のおひとり様の説教とは要するに

・デブが指導するダイエット
・ハゲが指導する増毛
・反社が説教する社会モラル
・日サロで真っ黒な奴が指導する美白
・回転寿司ペロペロが指導する衛生管理

おひとりさまの教祖”上野千鶴子(74)が入籍していた #週刊文春 https://t.co/lzI8nJWQPL

— May_Roma めいろま 谷本真由美 (@May_Roma) February 21, 2023

あれだけ結婚制度をこきおろしていたのに、イデオロギーよりも実利をとるのはさすがです。

“おひとりさまの教祖”上野千鶴子(74)が入籍していた(週刊文春)https://t.co/PWdO6gBbqo

毎年のように結婚をディスってたのになぁ…w pic.twitter.com/i5BS3WkDfn

— やるお寿司 (@Yaruo2023) February 21, 2023

ヤバイ投資をすすめる情報商材売って、自分はそこに投資してない投資家みたいなもんだという指摘も。

これが本当だったら「他人に独身をすすめて自分は結婚の幸せを手に入れていた」って話になるんで、邪悪ってレベルじゃねぇーぞ。
ヤバイ投資をすすめる情報商材売って、自分はそこに投資してない投資家みたいなもんやん。 https://t.co/kikRx9M0v6

— もへもへ (@gerogeroR) February 21, 2023

残念ながら現代社会は情弱のままでは搾取されてしまいます。

“おひとりさま”をテーマにした本でベストセラーになるヒットをして『平等に貧しくなろう』と提唱していた上野千鶴子氏が、実は密かに入籍していたり、タワマンに住んで高級外車を何台も乗り継いで裕福な生活を満喫しているという現実。情弱は搾取される。恐ろしや… pic.twitter.com/rCcOJz125D

— 水月 (@sui72381132) February 21, 2023

上野先生は「みんな等しく貧しくなりなさい」というのも持論でした。

上野千鶴子氏の情熱大陸で一番印象に残ったのはすごいタワマンの景色と素敵な別荘でした。万国の労働者は等しく貧しくなりなさい。 pic.twitter.com/Nv3OI6YXbu

— ぷろっぷ (@PropTrader88) January 18, 2021

上野先生の学問へのシニカルなスタンスは晩年まで変わらないようです。

「学問のまがい物」。
「あの時代にまがい物を真面目に読んだかいもあり、大学生以降は少しまともな学問を志すことができた」。

辛辣。しかし、実感そのものなのだろう。

それを想像できず、いまだにまがい物をかつぐ者は、呪われるだろう。

— 玉井克哉(Katsuya TAMAI) (@tamai1961) February 21, 2023

一方で、日本の大学の業績評価に疑問の声も上がっていました。

上野千鶴子さんが何と発言しようと勝手ではありますが(ちなみに私は門外漢ながらも上野氏の社会学者としての業績には見るべきものはなかったと評価します)、彼女を正教授として任用し、入学式で式辞を担当させた某有力大学には、業績評価の仕組みがなかったのかという巨大な疑問符を進呈いたします。 https://t.co/wulZPBlCo2

— 斉藤 淳 「1/6新刊発売(SB新書)」💙💛 (@junsaito0529) January 2, 2022

人を判断するときは言ってることよりやっていることを見ましょう。

「おひとりさまの最後」
「おひとりさまの老後」
「平等に貧しくなろう」

言っていることではなく、やっていることがその人の正体#上野千鶴子 https://t.co/0D8wHyLDFV pic.twitter.com/VHxdta80sH

— sayu (@sayu_nt) February 21, 2023 』