なぜ日本の情報機関は世界に劣るのか 歴史から見る

なぜ日本の情報機関は世界に劣るのか 歴史から見る
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/29257

 ※ 今日は、こんな所で…。

 ※ kindle版が出ている…。

 ※ kindle版のサンプル本をDLして、そこからキャプチャした画像を、貼っておく…。

 ※ ざっと目次を見たが、参考になりそうだったので、購入した(kindle版)。

 ※ ただし、kindle版と言っても、kindle端末で読むわけではない…。

 ※ kindle for PCソフトで、もっぱらディスプレイで読む。

 ※ ちょっと、気になる事項は、直ぐにググったりできるから、しごく便利だ…。

 ※ kindle端末の方は、引き出しに入ってる…。充電切れで、死んだ状態で…。悲しげに、パッテリー切れの表示を出しながらな…。

『インテリジェンスという言葉に接する時、どんなイメージが浮かぶだろうか。スパイ映画やサスペンス小説での情報合戦を連想される向きも多いだろう。本書『日本インテリジェンス史―旧日本軍から公安、内調、NSCまで』(中公新書)によると、国家の安全保障に寄与して政策決定を支援する機能を持つのがインテリジェンスの本質である。こうした基礎概念の確認を含めて、日本のインテリジェンスを深く考える本である。戦後史の中で日本のインテリジェンスにおける議論がどのような道をたどってきたのかを丹念に記している。
(AlexLinch/gettyimages)

世界情勢とともに変わる日本のインテリジェンス

 本書を一読すると、日本のインテリジェンス・コミュニティの模索は、戦後すぐから始まっていることがわかる。旧軍出身者が連合国軍総司令部(GHQ)参謀第二部(G2)に協力する形で米国に近づいていくが、真の動機は旧陸軍の復活だった。

 G2の支援を受けて、有末精三・元陸軍中将らが暗躍する様子が示される。著者はこう記す。
 有末らは表面上、G2に協力していたものの、その本心は日本軍の再建にあり、利用できるものは何でも利用する方針のようであった。そのためG2と競合関係にあったCIAは、有吉らの情報は不正確で役に立たず、組織も中国に浸透されていると警告を発していた。

 その後、マッカーサーの退任や関係者の異動で米側の支援がなくなると、こうした動きも立ちゆかなくなる。一方でGHQは日本国内の共産主義活動に関心があり、G2が日本国内の共産主義活動の調査に並々ならぬ意欲を示していたことが本書に記される。そうした中で、吉田茂政権の下で公安調査庁ができる。

 当初の任務はソ連から引き揚げてくる日本人の調査で、京都の舞鶴に拠点を設け、調査官が聞き取り調査を行うというものであった。当時は少なからぬ日本人がソ連への協力を誓約させられて帰国してきたので、そのようなソ連側協力者の選別と、ソ連国内の状況、特に軍事や経済に関する情報を収集したようである。これが公安調査庁の活動の原点となった。

 その後も吉田茂と盟友の緒方竹虎が日本のインテリジェンスに並々ならぬ関心を持ち、中央情報機構を作ろうと試みる。そこには世界的な動きがあった。著者はこう記す。
 当時の世界的な潮流は、東西冷戦を戦い抜くために、政治指導者に直結する独立した中央情報機関の設置にあった。

 米国では1947年に大統領傘下の組織として中央情報庁(CIA)が創設されている。同じ敗戦国のドイツでも、1946年には元独軍の情報将校ラインハルト・ゲーレン率いるゲーレン機関が設置されていた。そうなると、日本政府内にも独立した情報機関が構想されたのは自然の成り行きであろう。』

『こうした時勢を受けて、49年春頃に設置されたのがZ機関で、日本国内で反共的な秘密工作を行うようになった。さらにZ機関の長だった米陸軍中佐のジャック・キャノンから米CIAのような政治指導者直属の情報機関の設置を薦められたこともあり、「日本版CIA」調査室が設置される。

 しかしこうした動きがありながら、当時のインテリジェンス・コミュニティ構想は他国並みには発展しなかった。なぜなら組織が各省出身者の「寄り合い所帯」であり、官庁間の争いが先鋭化していたためである。その後、「日本版CIA」調査室は内閣調査室(内調)となり、内閣のための情報組織という色彩が強くなる。

浮き彫りになる根本的な問題

 そうした中で冷戦期は日本がサンフランシスコ講和会議で独立し、防衛庁・自衛隊が発足して再軍備を果たすと、警察がインテリジェンスの中心になっていく。ソ連を始めとする共産圏の情報収集やソ連から帰国してくる引揚者の聞き取りなどを行い、他省庁との情報共有も行うようになる。しかし、秘密保護法制やスパイ防止法などは整備がなされないままで、旧ソ連のスパイが日本で情報戦を展開するなど、重要な情報が流出する結果を招いている。

 76年9月の旧ソ連の戦闘機「ミグ25」が北海道の函館空港に強行着陸し、パイロットのヴィクトル・ベレンコ中尉が米国に亡命する事件が起きる。一定の年代以上の人の中には「ベレンコ中尉亡命事件」として記憶している人も多いだろう。当初は地元の北海道警が対応を行い、本来すぐに対応すべき航空自衛隊が関与するのは後になってからである。著者はこう指摘する。
 ベレンコ事件は警察が国内事件として処理していた。日本における対外情報機関の空白と、軍事情報の領域を警察がカバーするという特殊性を際立たせるものになった。

 その後、83年9月に起きた大韓航空機撃墜事件の際にも、日本側が通信傍受を行い、その内容を米国側に提供したにもかかわらず米国側が主導して発表し、しかもそれが発表のわずか1時間前に伝達されるという日本の立場をないがしろにされるような事例も起きている。これについて著者はこう分析する。
 冷戦期における日本のインテリジェンスの根本的な問題は、日米同盟の下で日本が独自の外交・安全保障政策をとる必要性がなかったことと、さらに構造的な問題として日本のインテリジェンス・コミュニティが米国の安全保障政策に組み込まれていたことである。冷戦期の日本のインテリジェンスは、米国の下請けとして機能してきたといえる。

 さらにこうも指摘する。

 冷戦期の日本のインテリジェンス・コミュニティは、他国のように、恒常的に政治指導者の政治判断に有益な情報を提供できていなかった。また政治指導者の側もインテリジェンスにあまり期待していなかったのではないだろうか。その根本的な原因はやはり内調の規模や権限があまりにも限定されており、有益な情報活動が行えなかったことだろう。』
『必要性高まる情報機関へのリテラシー

 こうした経緯から、情報機関の重要性が認識された結果、その後平成、令和と時代を経る中で、政府はインテリジェンス・コミュニティの整備を行ってきた。そして第二次安倍晋三政権での特定秘密保護法や国際テロ情報収集ユニットの整備につながる。

 著者があとがきで記すように、日本のインテリジェンス・コミュニティの形成過程を歴史的に踏まえた書物はこれまでなかった中で、本書は詳細な調査や関係者への取材を重ねて丁寧にまとめられている。情報機関に関する日本国民のリテラシーを向上させてくれる貴重な力作であり、公務員や企業関係者も含めて必読の一冊である。』

元海将が海自幹部に特定秘密を漏えいさせた「目的」…防衛省、OBの情報発信を牽制

元海将が海自幹部に特定秘密を漏えいさせた「目的」…防衛省、OBの情報発信を牽制
https://biz-journal.jp/2022/12/post_330329.html

 ※ 今日は、こんな所で…。

『元自衛艦隊司令官・元海将が、情報(インテリジェンス)担当の上級現役士官に何の目的でブリーフィングを頼んだのか――。

 海上自衛隊の酒井良・海上幕僚長(海幕長)は26日、防衛省で開かれた緊急会見で、安全保障上の特定秘密が漏えいしたと発表した。防衛省は同日、元海自情報業務群司令で、現・海自幹部学校に所属する井上高志一等海佐を懲戒免職とした。特定秘密保護法では、政府が安全保障に関わる情報のうち「外交」「防衛」「スパイ防止」「テロ防止」の4分野で特に秘匿する必要があるものを指定する。漏えい情報は同法に抵触したという。

 会見によると、井上元一佐は2020年3月、自衛艦隊司令官を務めた元海将に“日本の安全保障情勢に関するブリーフィング”を実施。その際、防衛省が収集した情報や自衛隊の運用に関する情報のうち“特定秘密にあたるもの”を漏らしたのだという。内容は特定秘密なので不明。

 ブリーフィングは、元海将が井上元一佐らに依頼し、20年2~3月に計3回実施されたという。同年3月に漏えいの疑いに関する情報提供があり、防衛省が調査していたのだという。酒井海幕長は「元海将から外部への漏えいは確認されていない」とした。

原因は現役士官の情報保全意識の欠如?

 酒井海幕長は、特定秘密漏えいの原因に関し次のように説明した。

「井上一佐は情報業務に4年余りの経験を有し、情報業務に関する知識経験は豊富にある。一等海佐、情報部隊の指揮官という観点からも強い情報保全意識を求められております。

 元自衛艦隊司令官が特定情報などにアクセスする権限を有していないことも認識しており、自分が漏えいした情報が特定情報に該当することも認識しております。これらの条件がそろいながらも、情報漏えいをしてしまったということは、井上一佐の情報保全意識、順法精神の欠如が一番の大きな原因、背景であろうと考えおります」(発言ママ、以下同)

 また、酒井海幕長はOBと現役自衛官の“情報交換”について次のように説明した。

「OB、特に自衛隊の要職等に就かれた方は相当の見識・経験などをお持ちになっております。退職された後に、ある程度自由な立場で防衛政策、海上自衛隊の政策についてご発言いただくことは海上自衛隊にとりましても有益と考えております。

 他方、今回の事案のような、現役の“秘”の情報を取り扱うことのできる隊員との接点やその情報に関しましては、アクセス権がないという認識を十分にお持ちいただいて、そのうえでの現役自衛官へのサポート、ご支援などいただければ一番良い関係になろうかと思っております。

 また現役自衛官にとりましても、OBとなる退職自衛官のお力を得ながらも、OBに対して開示できる情報がどういうものか、しっかり認識しながら、逆にOBに迷惑をかけることがないように、しっかり現役とOBの間の線引きをつけることが大事だろうと思っております」
ブリーフィングは何のために行われたのか

 井上元一佐とこの元海将の間には強い信頼関係があったともいう。しかし、「信頼関係」があったというのは、部外者であるOBに現役上級士官がブリーフィングする理由になるのだろうか。別の海上自衛隊OBは語る。

「上下関係が絶対の組織ですから、退職後も隊内で築かれた人間関係は続きます。入隊時の先輩後輩、退職時の階級はもちろん、同期であっても“どちらが先任か”は意識され続けるものです。ただ個人的な付き合いをしていて、“秘”に触れるような案件の説明を、寄りにもよって情報担当士官に特別に求めるということは、まずありえません。後輩と世間話をしているのとは訳が違います。つまり元海将に、当時の海自の現況について現役の人間にブリーフィングしてもらう必要があったのは間違いないでしょう」

 では、OBが現役自衛官からのブリーフィングを必要とする時とは、どのようなケースが考えられ得るのか。

「マスコミから専門的なインタビュー取材を受けた時か、どこかの講演会に呼ばれた時でしょうね。マスコミや聴衆に対しては、“秘”にあたる部分を端折ってしゃべらない。けれど、“秘”の部分も含めて現役自衛官から話を聞いておくということは、いかにもありえそうな話だと思います」

 政府は今月、来年度予算案に「敵基地攻撃能力」として活用する米国製巡航ミサイル「トマホーク」の購入費用を計上した。その矢先の不祥事発覚だ。酒井海幕長の会見でも、「特定秘密漏えいが米国からの武器調達に与える影響」や「同盟国に対する日本の信義への影響」を指摘する質問も出た。

 一方で今回の事案の発表と処分で、海自OBの言論やメディアへの露出が委縮することを危惧する指摘も挙がっていた。

「米国からの武器調達は、いろいろな意味で繊細さが求められます。海自ではかつてイージス艦情報の機密漏えい事件が発覚し、米国製最新鋭ステルス制空戦闘機F‐22の空自導入計画に深刻な影響を与えた経緯があります。

 海自だけではありませんが、元高官で講演会やマスコミに露出する方も最近増えているイメージがあります。現役自衛官に対する綱紀粛正はもちろん、今回の処分は防衛省による自衛隊OBに対する“けん制球”としての意義も大きいと思います」(前述の海自OB)

(文=Business Journal編集部)

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官房副長官室の靴音 首相官邸の転機支えた古川貞二郎氏

官房副長官室の靴音 首相官邸の転機支えた古川貞二郎氏
編集委員 清水 真人
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD141ZV0U2A011C2000000/

『もうすぐ古川貞二郎元官房副長官(享年87)の四十九日を迎える。厚生事務次官を経て、首相官邸の実務の要で官僚機構のトップに立つ官房副長官(事務担当)を歴代2番目に長い8年7カ月務めた。5人の首相に仕え、21世紀初頭の中央省庁再編と官邸主導への転換期を黒子として支えた「官僚の中の官僚」。何を語り残したのか。

「真っすぐ立っているか」自問自答

ダダン、ダダン、ダダン――。官邸の官房副長官室で訪問者が途切れて1人になると、古川氏はしばしば立ち上がり、両足で床をこう踏み鳴らした。時の首相を支えつつ霞が関を統率する自分が「果たして大地に真っすぐ立っているだろうか」と「公平と中立」を自問自答する年月だった。1995年2月から2003年9月まで村山富市、橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗、小泉純一郎の各首相に仕えた。

橋本内閣が1996年から取り組み、経済財政諮問会議の創設などで官邸機能を強化した省庁再編。古川氏は構想から制度設計を経て2001年の実施まで見届けた。現官邸の建設計画にも深く関わり、小泉内閣で02年に使用を始めた際には自ら「入居」を果たした。今や当たり前となった官邸主導への過渡期に汗をかいた副長官だった。

「政権には終わりがあるが、内閣には終わりがない。君らはこれから時の首相にお仕えするが、そのような内閣の一員だと言うことを心して仕事をしてほしい」
古川氏(写真中央)の就任早々、地下鉄サリン事件など社会を揺るがす出来事が相次いだ(1995年4月、「サリン問題対策関係省庁連絡会議」の初会合でのあいさつ、総理府)

元厚労官僚の香取照幸上智大教授は01年5月、小泉内閣で官邸に常駐する内閣参事官として辞令を交付された際、古川氏からこう訓示を受けた。首相が代わっても、内閣の行政に休みはなく、終わりもない。古川氏は別の場で「私は5人の首相に仕えることを通じ、国家や国民に仕える意識が強かった。いわば国家国民党だ」とも語った。

香取氏は旧厚生省でも仕えた古川氏を「ニコニコして優しい好々爺(こうこうや)と見られがちだったが、内に秘めた感情の起伏は激しいものがあった。芯が強く、筋を通す人。今どきの官僚とは違う古武士のようなたたずまいだった」と振り返る。

元民主党参院議員の松井孝治慶応大教授。1990年代半ば、官邸で内閣副参事官として首相の演説の起草を担当した。古川氏に原案を報告すると「超多忙なのに『ここはどういう意味か』『私はこう考える』と青年のように熱く、真剣に議論していただいた」と懐かしむ。古川氏が説いたこんな「官邸官僚としての吏道」も胸に刻む。

「官邸スタッフに呼ぶ官僚は、口が堅いことと我慢強いことが絶対条件だ。我々は黒子なのだから、オレがオレがと功名心にはやる人間は絶対に採ってはいけない」

「政と官」の不安定さ危ぶむ

官房副長官は、官邸で首相、官房長官に次ぐ要職だ。定員3人のうち2人は首相に近い衆参両院議員が登用され、国会対策などの政務を受け持つ。残る1人が事務担当だ。霞が関の重要人事や政策調整ににらみをきかせ、皇室や最高裁との窓口も担う。厚生、自治、警察など旧内務省系の事務次官経験者が就くのが長年の慣行となってきた。「霞が関のドン」や「次官の中の次官」と呼ばれるが、2つの顔をあわせ持つ。

一つは首相が任命する政治任用職として官邸の意向を霞が関に浸透させ、官僚のサボタージュや面従腹背に目を光らせる「政の使用人」。もう一つは行政の中立・公平性を逸脱しかねない首相の軽率な政治判断や、官僚人事への行きすぎた介入をやんわりいさめる「官の防波堤」だ。政と官のつなぎ役として難しいバランスを問われる。

第2次安倍内閣から菅義偉内閣までを支え、事務担当の官房副長官として史上最長の在任期間となった杉田和博氏(2021年、首相官邸)

第2次安倍晋三内閣から史上最長の8年9カ月、官房副長官に在任したのが警察庁警備局長や内閣危機管理監などを歴任した杉田和博氏だ。2017年8月以降は内閣人事局長も兼務し、各府省の幹部人事を差配した。「安倍一強」を強力に支え、政治任用色が濃くなった。岸田文雄内閣では元警察庁長官の栗生俊一氏が副長官を務める。

「平成の30年、政治主導や官邸主導が強化されたのは事実だ。それは政治改革や橋本行革があったからというより、時代の変化と大いに関係がある。日本経済が右肩上がりではなくなり、新たな成長が生まれない中でも国民の新たなニーズに対応する制度改正、法改正を進めねばならなかった。政治でなければできない力仕事だった」

古川氏は21年5月、御厨貴東大名誉教授(日本政治史)との対談でこう振り返った。一般財団法人「創発プラットフォーム」のウェブサイトで動画を見られる。「高度成長期の果実の配分に向いていた」縦割り行政と官僚制が、官邸主導への転換で変容を迫られたのは時代の必然だとしたうえで、政官関係の不安定さもこう危ぶんだ。

「官僚は専門家集団として政治主導をサポートする役割がはっきりしてきた。社会が複雑で多様化し、グローバル化も進んでいくのでスピードが要求され、縦割り行政では対応しきれない。官邸がリーダーシップをとらないとまとまらず、強くなるのは当たり前だ。ただ、各省もそこに参加させなければいけない。官邸一強は問題だ」

「安定的な皇位継承の確保」訴え

「政と官は対立するものではなく、車の両輪なので、役割分担が大事だ」と説いた古川氏。平成の統治構造改革の行きすぎを3点挙げ、政官関係の再検討を求めた。

第1は国会の政府委員制度廃止だ。かつては局長級の官僚を政府委員に任命し、閣僚の求めで幅広く答弁に当たらせていた。これが低調な審議を招き、政策決定が官主導になる一因だとして2001年に廃止された。行政の細目を答弁する官僚は「政府参考人」として残したものの、古川氏は「官僚は誇りと緊張感を失った。近年は細部まで閣僚が答えがちで、事務方はその資料などの準備に忙殺される一方だ」と警告した。

第2は事務次官等会議の廃止だ。閣議案件を前日のこの会議で事前承認する慣行だったが、09年に民主党政権が官主導の象徴として廃止した。古川氏は「政府部内の調整の完了を確認していたにすぎず、官主導とは誤解だ。一堂に会した各次官に官邸の方針を伝え、情報を共有する場だった」と嘆いた。その後は改めて次官連絡会議が設けられているが「以前と同じ機能は発揮できていない」と納得していなかった。

第3は内閣人事局による各府省幹部人事の一元管理だ。古川氏は「人事でも縦割り是正は良いが、選考基準などが何も示されていない」と官僚側の萎縮や官邸への忖度(そんたく)を憂えていた。見直し策として、人事局に対するご意見番となる「監視委員会」や「賢人会議」の設置を要請。人事局長も政治色が強まる官房副長官の兼務をやめ、より中立・公平な立場の人材を任期5年程度で長期在任させるよう唱えた。

古川氏は官房副長官(事務担当)を当時最長の8年7カ月務めた(㊨が古川氏、㊥は政務担当の官房副長官だった安倍晋三氏。2003年9月25日、そろって退任時の様子)

晩年の古川氏が「心残りがある」と危機感を示したのが、象徴天皇制の将来だ。皇族数の減少が続く中、安定的な皇位継承を確保するための具体策の検討を急ぐよう訴え続けた。副長官退任後、小泉内閣で「皇室典範に関する有識者会議」に参画し、長子優先で女性・女系天皇も認める05年の報告書をまとめるのに尽力した一人だった。

男系男子による皇位継承を重視した安倍元首相とは距離が遠かった。古川氏は「長期安定政権なら、自分はこうするという案を示して国民の前で議論し、国民の理解を得て決めてほしい。何もしないことが最も無責任だ」と漏らしていた。だが、安倍氏は退陣して非業の死を遂げ、古川氏も逝った。国会での議論は進んでいない。』

茂田宏

茂田宏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%82%E7%94%B0%E5%AE%8F

『茂田 宏(しげた ひろし、1942年(昭和17年)6月13日[1] – )は、日本の外交官。1999年から2002年までイスラエル駐箚特命全権大使。 』

『経歴・人物

1942年(昭和17年)朝鮮生まれ。1965年(昭和40年)東京大学中退、外務省に入省する。ハーバード大学留学を経て、1967年度には、外務省在ソ連邦日本国大使館とソ連邦対外文化連絡国家委員会の合意に基づき、松井啓及び宮鍋幟らとモスクワ大学派遣研究員を務めた[2]。

外務省欧亜局ソヴィエト連邦課長、1992年(平成4年)駐露公使、1996年(平成8年)外務省国際情報局長、総理府国際平和協力本部事務局長を経て、1999年(平成11年)8月、駐イスラエル大使。2002年から2004年まで、テロ対策担当大使も務めた[3]。退官後は、東京大学、拓殖大学、同志社女子大学で客員教授として活動するかたわら、2006年(平成18年)7月、日本財団特別顧問、2007年(平成19年)10月1日から2013年(平成25年)まで、北方領土問題対策協会理事(非常勤)なども務めている[4]。

2017年(平成29年)秋の叙勲で瑞宝中綬章を受章。

岡崎久彦亡き後の岡崎研究所の運営を引き受けている[5]。

同期

加藤良三(駐米大使・外務審議官・総合外交政策局長・アジア局長・プロ野球コミッショナー)
折田正樹(駐英大使・北米局長・条約局長)
津守滋(00年駐ミャンマー大使・98年駐クウェート大使)
田中克之(駐メキシコ大使・中南米局長)
木谷隆(駐ペルー大使)
小西正樹(駐マレーシア大使・国連大使)
佐藤裕美(駐コートジボワール大使)
佐々木高久(駐ナイジェリア大使)
朝海和夫(欧州連合大使・国際社会協力部長)
河村武和(欧州連合大使・儀典長)
内田富夫(00年駐スウェーデン大使・95年駐シリア大使)
松井啓(01年駐ナイジェリア大使・98年駐ブルガリア大使・93年初代駐カザフスタン大使)
竹中繁雄(03年査察担当大使・99年駐トルコ大使・97年法務省入国管理局長・93年駐バングラデシュ大使)

著作

編著

『日露(ソ連)基本文書・資料集』(ラヂオプレス/RPプリンティング、2003年4月、BB21007410) ISBN 978-4947638007

翻訳

『米ソ核軍縮交渉』(サイマル出版会、1990年4月) ISBN 978-4377308402
『ペンタゴン報告書:中華人民共和国の軍事力 2009年版』(国際情報センター、2009年7月) ISBN 978-4990474102
『インテリジェンス 機密から政策へ』(慶應義塾大学出版会、2011年5月) ISBN 978-4766418262
『戦後の誕生 テヘラン・ヤルタ・ポツダム会談全議事録』 ISBN 978-4120055096

    (小西正樹・倉井高志・川端一郎共編訳、中央公論新社、2022年3月)

脚注

^ 『読売年鑑 2016年版』(読売新聞東京本社、2016年)p.192
^ 「国際文化交流の現状 」外務省
^ (日本語) “慶應義塾大学出版会”. 慶應義塾大学出版会. 2014年3月27日閲覧。
^ (日本語) “平成19年10月1日時点における役員名簿”. 北方領土問題対策協会. 2014年3月27日閲覧。
^ 所長紹介 NPO岡崎研究所

外部リンク

(日本語)強気のプーチンが涙したロシア大統領選 新政権の今後の課題、対日政策を読む(ダイアモンドオンライン特別リポート)』

岡崎久彦

岡崎久彦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%B4%8E%E4%B9%85%E5%BD%A6

『岡崎 久彦(おかざき ひさひこ、1930年(昭和5年)4月8日[1] – 2014年(平成26年)10月26日[2])は、日本の外交官、評論家。サウジアラビアとタイ王国で特命全権大使を歴任し、また外務省で情報調査局長を務めた。祖父の岡崎邦輔は、陸奥宗光の従弟にあたる。 』

『人物

関東州・大連生まれ[1][2]。白金小学校、府立高等学校を経て、東京大学法学部に進んだ。東大法学部在学中に外交官試験合格する[3]。大学を中退し、外務省に入省[4]。八木秀次によれば、岡崎は卒業証書は小学校のものしか持っておらず、その後は大学まですべて「飛び級」だったという[5]。岡崎邦輔は祖父。

外務省ではケンブリッジ大学での英語研修を皮切りに、在外で在フィリピン大使館、在フランス大使館、在米国大使館、在韓国大使館に駐在し、本省では国際連合局に勤務する。課長就任後は、調査企画部の分析課長、調査課長、調査室長、さらに調査企画部長、情報調査局長と、情報部門の幹部を歴任する。駐タイ大使を経て1992年に退官。外交評論家として活動する。

外務省在職中から執筆活動を行い、外務省の論客として知られた。1977年、長坂覚[6]のペンネームで著した『隣の国で考えたこと』で日本エッセイストクラブ賞受賞。 1981年、『国家と情報』でサントリー学芸賞を受賞。1995年、第11回正論大賞受賞[7]。“アングロサクソンとの協調こそが日本の国益とアジアの平和につながる”と一貫して主張。また、自ら本を出すなど気功に傾倒していた。また、祖父が陸奥宗光の従弟にあたる政党政治家ということから「陸奥宗光」などでは戦前デモクラシーに関しても多く取り上げている。

イラク戦争では、開戦前の2003年2月19日に採択した日本国際フォーラムの「イラク問題について米国の立場と行動を支持する声明」に名を連ねていた。3月19日の開戦後、米国をいち早く支持した小泉首相を絶賛し、「日本が唯一指針とすべき事は、評論家的な善悪是非の論ではなく、日本の国家と国民の安全と繁栄である。」と主張した[8]。また、著書の中で「極東軍事裁判以来、歴史を論じる時には歴史的事件の当事者の善悪、責任を論じるのが習慣のようになっているが、そんなことばかりしていると是非の論争にこだわって歴史の真実を見失ってしまう恐れがある。歴史は流れであり、その流れの中で戦争も平和も起こる」と述べている[9]。

安保騒動後に全日本学生自治会総連合(全学連)で反対運動をしていた人間と話した際「お前たちのような教育のある人間がどうしてああいうことをするんだ。大学に行っているインテリがどうして安保反対など言うんだ」と聞いて「あの時の雰囲気がわからない人に話してもわかりませんよ」と返され「雰囲気とは何だ。お前インテリだろう。雰囲気だけで動くのか」と問い詰めたことがあるという[10]。

新しい歴史教科書をつくる会賛同者(のち日本教育再生機構顧問)、日本李登輝友の会副会長、歴史事実委員会会員を務める等の政治運動でも知られた。

「何十年の経験を誇るプロでも、一年間情勢の変化から目をそらしていると、その一年情勢をフォローしてきた駆け出しの現場の人間より判断が劣ることがある。」[11]とする一方で、米英などのイラク戦争を支持した東大教授の田中明彦、北岡伸一の発言を受けて、「昔は重大な国際的国内的政治問題が起こると、新聞は社会面に東大の政治学の教授の意見を掲載し、国民は「ああ、そういうことなのか」と啓発されたものである。その後、東大法学部は長い間左傾して権威を失墜して、誰もその発言を顧みなくなっていたが、そういう時代も終わっている。本来なら、この二教授の発言でこの論争は決着している」[12]とも述べている。

2012年秋の叙勲で瑞宝重光章受章[13]。同年9月に行われた自由民主党総裁選挙の際は、「安倍晋三総理大臣を求める民間人有志の会」発起人に名を連ねた[14]。

核拡散防止条約調印後の1969年2月に、外務省の課長級(当時分析課長だった本人、国際資料室の鈴木孝、調査課長村田良平)が西ドイツ外務省のエゴン・バール政策企画部長、ペア・フィッシャー参事官、クラウス・ブレヒ参事官を箱根の旅館に招いて、核保有の可能性を探る非公式会合に参加。

2014年10月26日、東京都内の病院で死去[2]。84歳没。死因は非公表。夫人によると敗血症から来る肺機能の低下が致命的だったという[15]。叙従三位[16]。岡崎が多く寄稿した産経新聞ではその訃報を10月28日付朝刊の一面に掲載し、五面掲載の評伝では文化部編集委員・桑原聡が「エレガントなサムライ」「教えを請いたくなるようなオーラがあった」と評した[17]。

略歴

岡崎久彦の遺著『国際情勢判断・半世紀』巻末に略年譜が収録されている。[4]

学歴

1930年 関東州・大連生まれ
1949年 府立高等学校卒業、東京大学法学部入学
1953年 ケンブリッジ大学経済学部入学
1954年 同卒業
1956年 同大学院経済学研究科修士課程修了

職歴

1952年 外交官試験に合格して外務省入省(欧米局第三課)
1953年 英語研修(ケンブリッジ大学)
1956年 国際協力局第一課
1958年 国際連合局政治課
1960年 在フィリピン大使館三等書記官
1962年 在フランス日本国大使館二等書記官
1965年 国際連合局政治課
1966年 大臣官房国際資料部資料課長
1967年 同分析課長
1969年 同調査課長
1971年 在米国大使館参事官
1973年 在大韓民国日本国大使館参事官
1976年 中近東アフリカ局外務参事官
1978年 防衛庁参事官(国際関係担当)
1981年 在アメリカ合衆国日本国大使館公使(ハーバード大学研究員)
1982年 調査企画部長
1984年 情報調査局長(初代)、駐サウジアラビア日本国特命全権大使(10月-)
1988年 駐タイ日本国特命大使
1992年 外務省退官
2002年 岡崎研究所創設
2007年 安倍晋三首相の日本の集団的自衛権保持の可能性について考える私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」有識者委員(4月- 会は2008年6月24日の最終報告書提出で解散するが2013年の第二次安倍内閣で再結成、この時も委員に就任[18])

同期

村田良平(駐独大使、駐米大使、外務事務次官)
大木浩(環境大臣、環境庁長官、自民党参議院議員、ホノルル総領事)
松村正義(帝京大学教授、ニューヨーク領事)

退官後の主な役職

博報堂特別顧問
千代田化工建設特別顧問
松下政経塾顧問
防衛法学会顧問
日本教育再生機構顧問
上野学園理事
國語問題協議會理事
国際経済政策調査会理事
日本財団評議員
博報児童教育振興会評議員
中東調査会評議員
日本国際フォーラム評議員
日本戦略研究フォーラム副理事長
国際生命情報科学会特別顧問
平河総合戦略研究所相談役

歴史認識
靖国神社
遊就館

2006年8月24日の産経新聞朝刊「正論」欄に「遊就館から未熟な反米史観を廃せ」と題した記事を掲載[19]。この記事で、遊就館の展示説明の論理性を求めている。主張の内容は遊就館の展示中にある、「アメリカが不況の脱却のために資源の乏しい日本を経済制裁により戦争に追い込み、これによりアメリカ経済は回復した」という旨の主張が不適切だというものである。また、この発言の影響から靖国神社は反米的な展示物の多数を一掃し、日本兵の手紙などに展示物を置き換えた。アメリカに関する記述以外(日中戦争・韓国・台湾植民地支配等)については記述内容を訂正しなかった(ただし、2012年の著書「二十一世紀をいかに生き抜くか」P162では、「支那事変の原因としてコミンテルンの反日工作しか記述がなかったので日本の北支工作を追加した」「たった四文字の追加ではあったが歴史の正しい認識に寄与したとひそかに自負している」と述べている)。

2006年8月25日の産経新聞記事によると、遊就館は同年4月より展示の当該部分の修正を検討し、7月から内容の見直し作業に入ったとしている[20]。この動きについて岡崎は、「早急に良心的な対応をしていただき感動している」とコメントしている[20]。
アメリカ下院国際関係委員会委員長であるヘンリー・ハイド(英語版)共和党議員も2006年9月14日の同委員会公聴会で遊就館の展示内容を日本を西洋帝国主義からの解放者のように教えるものとして批判している[21]。ラントス筆頭委員は、日本国首相による靖国神社参拝の中止を求めた[22]。同下院委員会(ハイド委員長)は前日の2006年9月13日にも、慰安婦問題対日決議を採択している[23]。

西尾幹二は、委員長発言を「岡崎久彦が「正論」コラムで先走って書いたテーマとぴったり一致している。やっぱりアメリカの悪意ある対日非難に彼が口裏を合わせ、同一歩調をとっていたというのはただの憶測ではなく、ほぼ事実であったことがあらためて確認されたといってよいだろう[24]」と「媚米反日[24]」として批判している。
「富田メモ」

富田メモについて、「本物であるはずがない」「昭和史の基礎的な知識があれば(富田メモに)信憑性があると考えるはずがない」と主張している。[25]死後に出版された回顧録では、1.昭和天皇は「ですます」調の言葉は使わない、2.昭和63年頃の証言だけで、その前の証言が何十年、一切ないのも不自然、3.千代の富士が連勝を続けていた昭和63年の七月場所か九月場所の頃、(相撲が大好きな昭和天皇が)「もう相撲はご覧になっていない」と宮内庁の人間に聞いたことから、あの頃の証言の記録は少し怪しい、ことを根拠として挙げている。[26]
慰安婦

慰安婦問題に関するアメリカ下院での決議案に異を唱えている。慰安婦は売春婦であったが、性奴隷・性的搾取などは事実でないと考え、歴史事実委員会名義でワシントン・ポストに掲載された反論のための全面広告「THE FACTS」にも賛同者として名を連ねた。
2007年5月14日の産経新聞朝刊「正論」欄への寄稿において、「慰安婦制度が女性の尊厳を傷つける人権違反の行為であったことに謝罪するのが正しいというのが昨今の道徳的基準である」と述べた[27]。

歴史教科書

西尾幹二が『新しい歴史教科書』に記したアメリカ批判の文章を当人に無断で削り、親米色に替えたことはつとに知られる。『中央公論』『Voice』で岡崎は第二版で完成の域に達したのは自分の削除のおかげだ、というような自画自賛のことばを、海外にまで伝わるように列ねた[28]。

小林よしのりは、岡崎の第二版『新しい歴史教科書』書きかえを厳しく批判し、その中でも、原爆投下が「日本のせい」というアメリカの言い分に近づけた内容に変質していることを指摘している[29]。

西尾幹二は初版と第二版を対照し、岡崎の記述が「不自然なまでにアメリカの立場に立っている」という。
語録

古来、軍事バランスなくして戦略はあり得ません。相手の方が明らかに強い時、同じ位で戦ってみなければどっちが勝つかわからない時、相手の方が明らかに弱い時、それぞれの場合で戦略戦術が異なってくるのは、子供でもわかる話です[30]。
国際情勢判断というものは、客観的な事実の認識であって、そんなに伸び縮みがきくものではない[31]。
日本をとりまく国際情勢の力関係を考えれば、ソ連と米国という二つの強大な力を持つ国の間にあって、しかも戦略的に高い重要性を有する日本のような国にとっては、生存と平和を維持するためだけでも、どちらかの力と協力し、他の力を抑止する以外に方法がない[32]。
アメリカの世論というものは二十世紀の国際政治における与件と考えるべきものです[33]。
私の戦略論は、日本が置かれている客観的な状況の中で、いかにして日本民族の安全と繁栄を維持するかということであって、それを考える側の個人的な経験や主観は、これとは全く無関係な話[34]。
戦略が良ければ、戦術の失敗は挽回できますが、戦略が悪いと戦術的に成功すればするほど傷が深くなります[35]。
全ての戦略の基礎には、良質の情報と正確な情勢判断があります[35]。
米国と協力しようとしまいと、それは日本が自然権を行使できる自然体の国家となれば、自分で国益に基づいて判断することです。そして結論は日米同盟の維持となることは十分想定できます。それなのに、自分で自分の手を縛っておきながら、自らを責めず、よその国-日本の重要な同盟国-に恨み言を言い、楯ついてみせて主体性を求めるという惨めなことになっているのが現状です[35]。
1980年という年を採って、この段階で、中国、韓国、日本のメディアをみても、現在のような歴史認識問題や過去の謝罪問題など出てきてはいない[36]。
日米は一体となって交渉に当たるべきだ。(北朝鮮について)[37]。

著書
単著

『緊張緩和外交』(日本国際問題研究所、1971年)
『隣の国で考えたこと』(長坂覚名義、日本経済新聞社、1977年/中公文庫、1983年)
    改題新版『なぜ、日本人は韓国人が嫌いなのか』(ワック、2006年)
『国家と情報――日本の外交戦略を求めて』(文藝春秋、1980年、新版2000年/文春文庫、1984年)
『戦略的思考とは何か』(中央公論社〈中公新書〉、1983年、改版2019年)
『情報・戦略論ノート』(PHP研究所、1984年/PHP文庫、1988年)
『米・中・ソの戦略構想と日本の羅針盤』(野田経済研究所、1985年)
『陸奥宗光 (上・下)』(PHP研究所、1987~1988年/PHP文庫、1990年)
『歴史と戦略について――情報・戦略論ノートPart2』(PHP研究所、1990年)
『繁栄と衰退と――オランダ史に日本が見える』(文藝春秋、1991年/文春文庫、1999年/土曜社、2016年)
『新しいアジアへの大戦略――日本発展のビジョン』(読売新聞社、1993年)
『国際情勢の見方』(新潮社、1994年)
『悔恨の世紀から希望の世紀へ』(PHP研究所、1994年)
『国際情勢判断――歴史の教訓・戦略の哲学』(PHP研究所、1996年)
『国家は誰が守るのか』(徳間書店、1997年)
『なぜ気功は効くのか』(海竜社、2000年/PHP文庫、2003年)
シリーズ『外交官とその時代』(PHP研究所、1998~2002年/PHP文庫、2003年)
    小村壽太郎 新装版2009年
    陸奥宗光 新装版2010年
    幣原喜重郎
    重光葵・東郷茂徳
    吉田茂
『岡崎久彦自選集(1)アジアの中の日本』(徳間文庫 教養シリーズ、1998年)
『―(2)新「戦略的思考」 アングロ・サクソンとロシアの狭間で』(徳間文庫 教養シリーズ、1998年)
『自分の国を愛するということ――21世紀の日本の戦略的進路』(海竜社、1999年)
『情勢判断の鉄則――21世紀の世界と日本の選択』(PHP研究所、1999年)
『日本外交の分水嶺――日米韓体制が築くアジアの平和』(PHP研究所、2000年)
『日本は希望の新世紀を迎えられるか――悔恨の20世紀を越えて』(廣済堂出版、2000年)
『アジアにも半世紀の平和を――情報戦略論ノート1999‐2000』(PHP研究所、2001年)
『岡崎久彦の情報戦略のすべて』(PHP研究所、2002年)
『百年の遺産――日本の近代外交史73話』(産経新聞ニュースサービス、2002年/扶桑社文庫、2005年)
『日本外交の情報戦略』(PHP新書、2003年)
『どこで日本人の歴史観は歪んだのか』(海竜社、2003年)
『教養のすすめ――明治の知の巨人に学ぶ』(青春出版社、2005年)
『国家戦略からみた靖国問題――日本外交の正念場』(PHP新書、2005年)
『この国を守るための外交戦略』(PHP新書、2007年)
『台湾問題は日本問題』(海竜社、2008年)
『真の保守とは何か』(PHP新書、2010年)
『明治の外交力――陸奥宗光の『蹇蹇録』に学ぶ』(海竜社、2011年)
『二十一世紀をいかに生き抜くか――近代国際政治の潮流と日本』(PHP研究所、2012年)
『国際情勢判断 半世紀』(岡崎研究所編、育鵬社、2015年)。遺著

共著

(佐藤誠三郎・西村繁樹)『日米同盟と日本の戦略――アメリカを見誤ってはならない』(PHP研究所、1991年)ISBN 978-4569532295
(藤井昭彦・横田順子)『クーデターの政治学――政治の天才の国タイ』(中央公論社[中公新書]、1993年)ISBN 978-4121011497
(中嶋嶺雄)『日本にアジア戦略はあるのか――幻想の中国・有事の極東』(PHP研究所、1996年)ISBN 978-4569554181
(渡部昇一)『賢者は歴史に学ぶ――日本が「尊敬される国」となるために』(クレスト社、1997年/ザ・マサダ、2000年9月)ISBN 978-4877120528/ISBN 978-4883970353
    『尊敬される国民 品格ある国家』(ワック、2002年)ISBN 978-4898315101
(西岡力・渡辺利夫・小島朋之・田久保忠衛/取材構成・稲垣武)
    『アジアは油断大敵!-北朝鮮、香港、中国…動乱のシナリオを読む』(PHP研究所、1997年9月)ISBN 978-4569556796
(青木盛久)『人質-ペルー日本大使公邸の126日』(クレスト社、1997年9月)ISBN 978-4877120597
(長谷川慶太郎)『中国発の危機と日本――見えてきた中国の危うい未来』(徳間書店, 1998年)ISBN 978-4198608385
(ウィリアム・ペリー・小此木政夫・アレクサンドル・パノフ・朱建栄・康仁徳・ゴードン・フレーク)
    『北朝鮮とペリー報告-暴発は止められるか』(読売新聞社、1999年11月)ISBN 978-4643990461
(佐藤誠三郎)『日本の失敗と成功――近代160年の教訓』(扶桑社、2000年/扶桑社文庫、2003年)ISBN 978-4594029173/ISBN 978-4594041168
(渡部昇一)『国のつくり方――明治維新人物学』(致知出版社、2000年)ISBN 978-4884745929
(渡辺利夫・江畑謙介・中嶋嶺雄・小島朋之)
    『「台湾問題」の先にある日本の危機――緊急提言田中真紀子外相に捧ぐ』(ビジネス社、2001年)ISBN 978-4828409276
(渡部昇一・猪木正道・唐津一・西尾幹二・竹村健一・三浦朱門・西部邁・堺屋太一・加藤寛・田久保忠衛・曽野綾子・小堀桂一郎・石原慎太郎・上坂冬子)
    『日本の正論-21世紀日本人への伝言』(産経新聞ニュースサービス、2001年7月)ISBN 978-4594032166
(長谷川慶太郎・野口雅昭・達増拓也・柿沢弘治)『外務省の掟-徹底検証!外務省なんていらない』(ビジネス社、2001年10月)ISBN 978-4828409504
(阿川尚之)『対論・日本とアメリカ』(廣済堂出版、2002年)ISBN 978-4331508367
(古森義久)『アメリカン・ショック――日本に残された時間は、あと2年!』(ビジネス社、2002年)ISBN 978-4828409962
(安倍晋三)『この国を守る決意』(扶桑社、2004年)ISBN 978-4594043315
(渡部昇一)『明治の教訓 日本の気骨-明治維新人物学』(致知出版社、2005年7月)ISBN 978-4884747213
(上坂冬子・半藤一利・坂本多加雄・中西輝政・秦郁彦・伊原吉之助・御厨貴・松本健一・櫻田淳・小堀桂一郎・三浦朱門・入江隆則)
    『運命の十年-柳条湖から真珠湾へ』(産経新聞ニュースサービス、2002年/扶桑社文庫、2005年)ISBN 978-4594034948/ISBN 978-4594050337
(船井幸雄)『気の力』(海竜社、2006年)ISBN 978-4759309331
(屋山太郎)『靖国問題と中国』(海竜社、2006年)ISBN 978-4759309386
(堺屋太一・渡部昇一・松田尚士)『こんな日本に誰がした』(2006年12月)ISBN 978-4594052850
(中西輝政)『国家の叡智――決断できないリーダーが国を過つ』(ビジネス社、2007年)ISBN 978-4828413655
(長谷川三千子)『【激論】日本の民主主義に将来はあるか』(海竜社、2012年)
(岡崎久彦・蔡焜燦・遠藤浩一・藍川由美・福田逸・高島俊男・桶谷秀昭・稲田朋美・鷲尾英一郎・小堀桂一郎・笹原宏之・松本徹・市村真一・早川聞多・土田龍太郎)
    『今昔秀歌百撰』(特定非営利活動法人文字文化協會、2012年)
(北岡伸一・坂本多加雄)『日本人の歴史観――黒船来航から集団的自衛権まで』(文春新書、2015年9月)

編著

『歴史の教訓――日本外交・失敗の本質と21世紀の国家戦略』(PHP研究所、2005年)ISBN 978-4569643113

共編著

(猪口孝・粕谷一希・小島明)『文明としてのアメリカ(5)「アメリカの世紀」の盛衰』(日本経済新聞社、1984年)ISBN 978-4532093556

訳書

ハミルトン・フィッシュ『日米・開戦の悲劇――誰が第二次大戦を招いたのか』(PHP研究所、1985年/PHP文庫、1992年)ISBN 978-4569214870/ISBN 978-4569565163
ヘンリー・A・キッシンジャー『外交 (上・下)』(監訳・解説、日本経済新聞社、1996年)ISBN 978-4532161897/ISBN 978-4532161903 』

日本政策投資銀行

日本政策投資銀行
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%94%BF%E7%AD%96%E6%8A%95%E8%B3%87%E9%8A%80%E8%A1%8C

『株式会社日本政策投資銀行(にっぽんせいさくとうしぎんこう、英称:Development Bank of Japan Inc.、略称:DBJ、または政投銀)は、株式会社日本政策投資銀行法に基づき設立された、財務省所管の特殊会社、日本の政策金融機関である。

前身は、復興金融金庫、日本開発銀行、北海道東北開発公庫、(旧)日本政策投資銀行であり、今日は民営化されている。 同じく2008年10月1日に設立された株式会社日本政策金融公庫(JFC、旧・国民生活金融公庫、農林漁業金融公庫、中小企業金融公庫)とは、全く別の法人である。 』

『概要

旧本店ビル

出資と融資を一体的に行う手法その他高度な金融上の手法を用いることにより、長期の事業資金に係る投融資機能を発揮し、長期の事業資金を必要とする顧客に対する資金供給の円滑化及び金融機能の高度化に寄与することを事業目的とする[1][注 2]。 資金の流れを「官から民」に移し経済を活性化する政策金融改革の一環で、2008年(平成20年)10月1日に、特殊法人の日本政策投資銀行(旧DBJ)を解散し、特殊会社たる株式会社日本政策投資銀行(新DBJ)として新たに発足した(旧DBJの全財産の出資により新DBJが設立され、新DBJ設立と同時に旧DBJは割当を受けた新DBJ全株式を政府に無償譲渡し、旧DBJは解散)。

旧日本政策投資銀行との差異

資金調達において、預金の受け入れや民間企業からの借り入れが可能となった。

完全民営化

当初は、2012年(平成24年)~2014年(平成26年)を目途に、日本国政府保有株式の全てを処分し完全民営化する予定であった。しかし2008年(平成20年)からの世界金融危機および、2011年(平成23年)に発生した東日本大震災の災害復旧に対応するため、政策金融機関に対する日本国政府の関与を維持する方向での見直しが行われた。

まず、2009年の株式会社日本政策投資銀行法の一部を改正する法律(平成21年法律第67号)により、完全民営化の時期が2012年(平成24年)4月1日から5~7年後に延期された。その後、2011年(平成23年)に施行された東日本大震災に対処するための特別の財政援助及び助成に関する法律(平成23年法律第40号)において、2015年(平成27年)4月1日から5~7年後を目途に完全民営化するものとされた。また、政府は、2014年度(平成26年度)末を目途として、日本国政府による株式保有のありかたを含めたDBJの組織等を見直すこととなり、それまでの間、DBJの株式を処分しないと定められている[2]。

ただし、簡素で効率的な政府を実現するための行政改革の推進に関する法律(平成十八年法律第四十七号)六条により「日本政策投資銀行は、完全民営化するもの」とされており、同法を所管する内閣官房では定期的に同銀行に対するヒアリングを実施している。 』

『業務内容

投融資一体型の特色ある金融サービスを提供している。

融資部門:中長期融資、仕組み金融(ストラクチャードファイナンス等)、劣後融資等の提供
    評価認証型融資(DBJ環境格付、DBJ BCM格付、DBJ健康経営格付)
    DBJ Green Building認証
投資部門:リスクマネー(メザニンファイナンス、エクイティ)の提供
コンサルティング/アドバイザリー部門:仕組み金融のアレンジャー、M&Aのアドバイザー、産業調査機能や環境・技術評価等のノウハウの提供

平成27年DBJ法改正により、危機対応業務が義務付けられ、特定投資業務が創設された。

プロジェクト・ファイナンス、PFI、事業再生、ベンチャー、産学官連携、国際協力、社会・環境活動など、政策性が高いプロジェクトを支援するための融資や投資が基本となる。また、旧北海道東北開発公庫の業務を引き継いでいる経緯より、投融資枠の一部が「北東枠」として設けられ、主に北海道・東北地域への投融資に向けられている。[要出典]

投融資例

1998年 中山共同発電株式会社 - 日本初のプロジェクトファイナンス(旧三和銀行と共同幹事)
2002年 株式会社ダイエー - 当時の主力取引行などと共に「企業債権ファンド」を組織し、100億円の融資を実行する。
2003年 株式会社ペンシル - 知的財産権担保融資として、ポータルサイト「髪ナビ!」[1]を担保とする日本初の融資を受ける。
2010年 不動産市場安定化ファンドに対するメザニンローン 』

『沿革
組織の変遷

1947年(昭和22年)1月 - 復興金融金庫設立。初代理事長に伊藤謙二が就任[3][4]。
1951年(昭和26年)4月20日 - 日本開発銀行法(1951年3月31日公布、1952年1月16日全面施行)に基づき、当時の大蔵大臣・池田勇人によって日本開発銀行が設立される。復興金融金庫(1951年12月26日復興金融金庫解散・業務引継令公布(政令))の貸付債権を承継(池田勇人#講和・独立後の政権運営)。5月15日開業。開銀は恒常的に外債を発行した。
1952年(昭和27年)8月30日 - 電源開発に49億5000万円出資。9月14日見返資金特別会計の債権を承継(8月30日同政令公布)。
1954年(昭和29年)4月15日 - 日本航空のチェース・ナショナル銀行からの借入れを外貨保証。
1956年(昭和31年)6月 - 北海道開発公庫法に基づき、北海道開発公庫が設立される。
1957年(昭和32年) - 法改正により、北海道開発公庫から北海道東北開発公庫に改組。
1967年(昭和42年)2月1日 - 日産自動車に40億円を貸付、体制金融の第1号。

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この節の加筆が望まれています。

1999年(平成11年)
    6月11日 - 日本政策投資銀行法(平成11年法律第73号)公布。同日施行。
    10月1日 - 日本開発銀行及び北海道東北開発公庫の一切の権利義務を承継し、日本政策投資銀行設立(これに伴い日本開発銀行及び北海道東北開発公庫がそれぞれ解散)。
2007年(平成19年)6月13日 - 株式会社日本政策投資銀行法(平成19年法律第85号)公布。同日施行。
2008年(平成20年)
    10月1日 - 特殊法人の日本政策投資銀行を解散し、特殊会社たる株式会社日本政策投資銀行設立。
    12月 - シンガポール事務所を現地法人化し、DBJ Singapore Limited設立。
2009年(平成21年)6月 - ロンドン事務所を現地法人化し、DBJ Europe Limited設立。
2012年(平成24年) - 大手町フィナンシャルシティ完成に伴い、本店移転。

拠点・関連
拠点

本店(東京)
北海道支店(札幌)
東北支店(仙台)
新潟支店(新潟)
北陸支店(金沢)
東海支店(名古屋)
関西支店(大阪)
中国支店(広島)
四国支店(高松)
九州支店(福岡)
南九州支店(鹿児島)
函館事務所
釧路事務所
青森事務所
富山事務所
松江事務所
岡山事務所
松山事務所
大分事務所
ニューヨーク駐在員事務所

関係会社

連結子会社

株式会社日本経済研究所
株式会社価値総合研究所
DBJ証券株式会社
DBJ事業投資株式会社
DBJキャピタル株式会社
DBJアセットマネジメント株式会社
DBJ Singapore Limited(シンガポール)
DBJ Europe Limited(ロンドン)
DBJ投資アドバイザリー株式会社
DBJリアルエステート株式会社
政投銀投資諮詢(北京)有限公司

その他11社。

持分法適用関連会社

その他20社。

関連財団

一般財団法人日本経済研究所 』

(※ その他は、省略。)

「長期視点で経済改革」 米識者に聞く安倍氏の功績

「長期視点で経済改革」 米識者に聞く安倍氏の功績
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN08FIA0Y2A700C2000000/

 ※ アベノミクスの「三本の矢」とは、

 1、長期金利の引き下げ(金融政策 → お金を借りやすくして、経済活動を活性化する)

 2、成長が見込まれる分野に、公共事業予算を厚く配分する(財政政策 → 民間が参入して来やすくして、新規事業の立ち上げを促進する)

 3、構造改革(これまでのしがらみ・行きがかりから、ガチガチの規制がなされているものを、「規制緩和」して、新規事業が可能なようにする)

 という構想だった…。

 しかし、現実には

 1 → 日銀が頑張って、「異次元緩和」を続けたが、「マイナス成長」からの「脱却」が、精一杯のところで、「リフレ(2%程度の物価上昇)」状態までには、もっていけなかった…。そこへ持って来て、ウクライナ事態に起因するエネルギー価格・食料価格の上昇が襲って来て、海外中央銀行との「金利差」に起因する「円安」も重なって、「悪いインフレ」に見舞われそうになっている…。

 2 → 最初のうちこそ、それなりに「予算が潤沢についた」が、いつのまにか「尻すぼみ」になって、「元の木阿弥」の「均衡・緊縮」財政に戻ってしまった…。
 財務省の「財政健全化にも、ご配慮願います。」の声が、通ったんだろう…。

 3 → 「規制緩和」の意欲はあったが、現実には困難だった…。

 幼保一体化(幼稚園は、文科省管轄で、保育園は厚労省管轄というのを止めて、一元化した仕組みを作る)、獣医師をもっと増やす(加計学園スキャンダルで、ポシャった)、諸悪の根源とされる電波免許制に入札制度を導入するべく「電波オークション」を実施する案も、いつの間にか尻すぼみとなった…。
 菅さんが、強力に旗を振った、「ケータイ・スマホ料金値下げ」がやや実現したくらいか…。
 カジノを含むIRも、ワイロ取った国会議員が出たりして、世論の非難を浴びた…。
 
 まあ、そういう感じか…。

『8日に死去した安倍晋三元首相の経済政策「アベノミクス」の評価について、米国の識者に聞いた。

高い伝達能力で国民に安心感

日本経済に詳しいコロンビア大のデービッド・ワインスタイン教授

デービッド・ワインスタイン氏(コロンビア大教授)

「アベノミクス」を非常に効果的な政策にした理由のひとつに、安倍晋三元首相の伝達能力がある。3つの目標を明確にし、日本の抱える問題をあぶりだすとともに、道筋を明示することで国民にある種の楽観を与えた。安倍氏は多くの卓越した経済学者と交流し、自身が学び、政策に生かした。アベノミクスは単なるスローガンではなく、注意深い経済的な分析から生まれた。

金融政策について、日本はデフレの収束へ対策が打てていないと批判されてきた。安倍氏が2度目の首相に就任後すぐ、日銀総裁に黒田東彦氏を指名したことは重要な分岐点だ。期待通りの物価上昇率とはならなかったが、長年苦しんできたマイナス圏からは抜け出した。

財政政策については消費税の扱いも含め非常に難しいかじ取りを迫られた。財政危機を懸念する声も上がったが、そうならなかった。3本目の矢(成長戦略)は最も重要かつ難しい目標だった。構造改革はひとつの政策では終わらないからだ。女性活躍が経済を活性化させる「ウーマノミクス」は機能したと思う。内閣にも多くの女性を起用した。

初めて安倍氏と面会したのは、1度目の首相辞任後すぐだったと記憶している。うまく物事を回せなかったことを振り返る率直さに驚いた。次はもっとよい仕事をしようと学んでいた。

第2次政権下で面会した際、安倍氏は「いかに迅速に国を変えられるかには限界がある」と打ち明けた。改革を推し進めたいが、急ぎすぎることもできない。選挙で負けてしまうからだ。彼は一夜にして日本を変えるのではなく、規制改革などを通じて長期視点で変えたいと考えた。

安倍氏がいなくなることは、海外の投資家に大きな影響は及ぼさないとみている。既に首相の座を退いており、安倍氏の政策による恩恵を享受しているためだ。日本の政治が世界各国と比べて極めて安定していることも理解している。

今の日本を取り巻く環境は安倍氏の首相在任中と大きく変わった。深刻なエネルギー危機に見舞われている。安倍政権時代、経済安全保障は今ほど重要な問題ではなかった。ロシアや中国、北朝鮮と日本の近隣諸国の環境は厳しさを増す。こうした課題への対処が岸田文雄政権の重要な部分を占めるだろう。

(聞き手はニューヨーク=大島有美子)

【関連記事】「日米同盟を強固に」 米識者に聞く安倍氏の功績

自由貿易の推進、日本への認識変えた

ピーターソン国際経済研究所のアダム・ポーゼン所長

アダム・ポーゼン氏(米ピーターソン国際経済研究所所長)

アベノミクスは実に画期的な政策だった。安倍氏は民主的に選ばれた指導者が多様な利害関係者に対し短期的に反応するのではなく、長期的な視点に立って政策を展開することで再選を勝ち取れることを実証した。人々の日本に対する認識も変わった。米国や英国など他の高所得の民主主義国家が外に目を向けることで何が可能かを示したという意味でも、並外れた変化をもたらした。

人口減の問題を抱える日本にとって、女性の才能を生かし、労働参加を進める「ウーマノミクス」は最良の方法だった。包括的・先進的環太平洋経済連携協定(CPTPP)を通じて農業をはじめとする産業を開放し、日本が他国との結びつきを強めたのも大きな成果だ。経済外交では米国との同盟関係を強化しつつ、中国とも経済的に敵対することがないようにする強力なリバランスに動いた。

積極的な財政・金融政策でデフレから(物価が上昇に向かう)リフレに導くというコミットメントもあった。これは完全に成功したとは言いがたい。ただ、もしそれまでと同じ政策を続けていれば日本経済はもっと悪くなっていただろう。安倍政権時に進んだ円安については、日本の物価上昇や経済に与える影響は小さく、それは今の円安局面でも証明されている。

安倍氏の死去で影響が大きいのは金融政策だろう。首相在任時は黒田東彦総裁と関係を築き、首相辞任後も緩和姿勢を後押ししてきたが、黒田氏は来春に退任する。岸田文雄首相は新しい総裁や政策委員を任命する際に金融政策の方向性を変えるチャンスを持つが、あまり極端に政策を変えるべきではない。日銀が今の政策を続ければ、おそらく日本は2%のインフレ目標を達成できるだろう。

財政政策はあまり変わらないとみるが、変化は可能だ。米国ではケネディ大統領が暗殺されたあと、後任のジョンソン大統領は積極的な財政政策や公民権政策をとり、自らの政治課題を推進した。

安倍政権以後のここ10年を振り返ると、日本の経済状況は他の先進国と比べ良かった。国内総生産(GDP)の変動は小さく、失業率は低く、デフレは進まなかった。ただ改善の余地も大いにある。働く女性をさらに平等にし、日本への海外投資を増やし、企業統治を改善する。CPTPPで他国をリードし、留学生や外国人労働者の受け入れも進めるべきだ。

(聞き手はニューヨーク=斉藤雄太)

女性の地位向上、政策で道筋

サード・アロー・ストラテジーズ創業者のトレイシー・ゴパール氏

トレイシー・ゴパール氏(コンサルタント会社サード・アロー・ストラテジーズ創業者) 日本の企業統治やダイバーシティー(多様性)向上のために私が代表を務める団体は、安倍晋三元首相が進めた経済政策の柱である「3本の矢」にあやかって名付けた。サード・アロー(3番目の矢)の中心は女性の地位向上だ。

企業の取締役や幹部への女性の登用は、2020年時点でも日本政府が定めた目標に達していない。しかし、企業の幹部や女性社員と話すたびに、日本でも着実に改革が進んでいることがわかる。日本企業のダイバーシティーは大きく改善し、ペースは年々速まっている。安倍元首相による3つの矢の政策が目標達成への道筋を作った。

ESG(環境・社会・企業統治)の向上を通じて日本企業の価値を高めようという我々の活動を説明する際には、必ず安倍氏の政策に言及する。私のライフワークは安倍氏の提唱した改革の中身を推進することで成り立っているといえる。安倍氏の政策が今も生きており、日本経済の活性化につながっていると信じている。

(聞き手はニューヨーク=伴百江)』

海上保安庁

海上保安庁
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E4%B8%8A%E4%BF%9D%E5%AE%89%E5%BA%81

 ※ 長いので、ポイントと思われる部分だけを抜粋して、紹介する。

 ※ 興味のある人は、自分で読んで。

『海上保安庁の性格

海上保安庁法第25条[11]の条文で、海上保安庁は軍隊ではないことが明確に規定されている。そのため、シンボルマーク・記章類・制服等は軍隊色をイメージしないものが取り入れられるよう配慮されている。巡視船艇の船舶自体の運航体制は、民間船舶とほぼ同様であり、海上保安業務等は残りの乗組員(職員)により執行される。また停泊中は数名の当直を残し船内もしくは宿舎等で待機する。

しかし、世界的に海軍と沿岸警備隊は共通する部分が多く、制服のデザインも類似しているため他国の沿岸警備隊に準じた制服を採用している日本の海上保安庁も実際には、海上自衛隊を含む各国海軍の軍服に類似しており、世界的に見た場合、一般的に主権を行使できる国境警備隊・沿岸警備隊は「準軍事組織」と認知されるため、海外の報道や資料では、海上保安庁を「準軍事組織」として扱っている場合もある。また、かつて海上保安庁などの統合目的で創設された保安庁への移行時期には、内部組織の海上警備隊(沿岸警備隊)が短期間ながら準軍事組織として存在した[注釈 1]。

なお、海上における準軍事組織とは、国際法(国連海洋法条約)の観点から軍艦が定義されており、乗組員についても階級と名簿が必要である[21]。また、海上保安官の階級は船舶に乗り込む行政職員として船長・航海士・機関長・通信士・甲板員(英語版)・主計員などの職責・職務の範囲を示す船員制度に近く[注釈 2]、このことからも海上保安庁が準軍事組織であるとは言い難く、資料などによる「準軍事組織」としての扱いは日本の国内事情や法体制などがあまり知られていないことによる。 』

『海上自衛隊との関係

海上保安庁は海上の安全および、治安の確保を図ることを任務とする国土交通省(旧運輸省)の機関(外局)である。一方、国外の艦艇に対応する任務は行政上別系統である防衛省の特別の機関である海上自衛隊が担当しており、船舶に対する任務を海上保安庁が担う[23]。海上自衛隊は防衛大臣による海上警備行動の発令によって初めて洋上の警備行動が取れる[24]。

海上保安庁は第二次世界大戦終戦前までの高等商船学校出身の旧海軍予備士官が中核を担い1948年(昭和23年)5月設立されたのに対し、海上自衛隊の前身・海上警備隊は海軍兵学校出身の旧海軍正規士官が中核を担って海上保安庁内に1952年(昭和27年)4月設置された。

高等商船学校生は卒業時に海軍予備少尉または海軍予備機関少尉に任官され、戦時中召集されると海防艦の艦長、特設艦艇の艦長・艇長、あるいはそれらの艦艇の機関長等として船団護衛、沿岸警備の第一線で活躍した。

終戦後、海上保安庁(高等商船学校出身者)と海上自衛隊(海軍兵学校出身者など)が組織される際には、人事の面において、候補者の出身校や経歴に影響が見られた。

1999年(平成11年)3月23日には能登半島沖不審船事件が発生し、事態が海上保安庁の能力を超えているとして海上自衛隊に初の海上警備行動が発動された。このときの反省を受け事件後に、海上保安庁と海上自衛隊との間で不審船対策についての「共同対処マニュアル」が策定され[25]、戦争中の旧海軍内での立場や受けた仕打ちに端を発して設立時の恨みから長らく続いてきた両者間の疎遠な関係を改善するきっかけとなり、情報連絡体制の強化や両機関合同の訓練が行われるようになった。この時点では上級幹部に至るまで防衛大学校、海上保安大学校出身者が占めるようになっていた。また高速で防弾性に優れ長距離射撃能力が付与された巡視船が建造されるようになった。さらに2001年(平成13年)には海上警備業務における武器使用基準を定めた海上保安庁法第20条第2項の改正が行われ、一定の条件下に限って該船の乗員に危害射撃を加えても海上保安官の違法性が阻却(免責)されるようになった[16]。この改定の直後に九州南西海域工作船事件が発生している。

なお、海上警備行動時には海上自衛隊が海上保安庁の任務を一時的に肩代りするものであるから、海上自衛隊も警察官職務執行法・海上保安庁法を準用して行動する。

海上保安庁が運用する固定翼機の操縦士は海上自衛隊の操縦士を養成する小月教育航空群に委託され、海上自衛隊の隊員に準じた教育を受ける[26]。(回転翼機は海上保安学校で養成)

防衛大臣による指揮

自衛隊法第80条[注釈 3]により、自衛隊の防衛出動や治安出動があった際に特に必要な場合には、内閣総理大臣の命令により防衛大臣の指揮下に組み入れられる可能性がある。これは、初期の海上保安庁(後に海上警備隊を経て海上自衛隊が創設される)の設立モデルとなったアメリカ沿岸警備隊が、戦時にはアメリカ海軍の指揮下に入って軍隊として運用される規定に倣ったものである。

ただし、防衛大臣の指揮下に入った場合でも、その行動範囲や活動権限は特に通常時と変わらない(特に武器の使用については、あくまでも警察官職務執行法に従わなければならない)ことから、あくまでも自衛隊が必要とするところ(自衛隊施設など)への警備を手厚くするよう指示したり、実際の警備行動において自衛隊と海上保安庁の各機関を一元的に指揮し、両者の連携を円滑にする程度に留まるものと思われる。また、「文面を見る限り、自衛隊法第80条は、海上保安庁法第25条[11]と矛盾するのでないか」との指摘もあるが、防衛大臣の海上保安庁に対する指揮は、直接行われるのではなく、海上保安庁長官(文官)に対して(間接的に)行われるに過ぎない[27]。そのため、矛盾しないものと考えられている。

その他の大臣による指揮

海上保安庁長官は海上保安庁法第10条ただし書により「国土交通大臣以外の大臣の所管に属する事務については、各々その大臣の指揮監督を受ける」とされており、例えば、漁業関連の取締りでは農林水産大臣の、出入国関係の取締りでは法務大臣の指揮監督を受ける[28]。 』

尖閣諸島周辺海域における中国海警局に所属する船舶等の動向と我が国の対処

尖閣諸島周辺海域における中国海警局に所属する船舶等の動向と我が国の対処
https://www.kaiho.mlit.go.jp/mission/senkaku/senkaku.html

 ※ まあまあ、「ヌルい」広報・情報発信だな…。

 ※ そこまで、「経済的な利益」を重視するわけだ…。

 ※ 海上保安庁は、国交省の管轄で、国交大臣は公明党の指定席だからな…。

 ※ 万やむを得ない…、というわけだ…。

 ※ 有事勃発の時でも、現行法下では、「軍隊ではないことが明確に規定されている」んで、防衛大臣の直接指揮すら受けない…(防衛大臣→国交大臣→海上保安庁の、間接指揮)、とされているようだしな…。

 ※ そういうことで、「領海侵入」されまくっているわけだ…。

 ※ 「連続侵入は64時間」に及んでも、黙って見ている他は無い…。

 ※ 侵入してきてる中国海警局の艦船は、明確に「準軍事組織」だぞ…。「機関砲」も装備して、来ている…。それを、全くの「丸腰」で、「取り締まり」にかかっているわけだからな…。現場の人達は、「堪ったモンじゃない…。」だろうよ…。

『?2008年5月7日、日本を公式訪問した胡錦濤国家主席と福田康夫総理(肩書きはいずれも当時)は、「戦略的互恵関係」の包括的推進に関する日中共同声明に署名し、日中関係が両国のいずれにとっても最も重要な二国間関係の一つであり、今や日中両国が、アジア太平洋地域及び世界の平和、安定、発展に対し大きな影響力を有し、厳粛な責任を負っているとの認識で一致した。

?しかし、その半年後の同年12月8日、中国公船(中国政府に所属する船舶)2隻が突如として尖閣諸島周辺の我が国領海内に初めて侵入し、度重なる海上保安庁巡視船からの退去要求及び外交ルートを通じた抗議にもかかわらず、同日夕刻までの約9時間にわたり我が国領海内を徘徊・漂泊する事案が発生。中国公船が我が国の主権を侵害する明確な意図をもって航行し、実力によって現状変更を試みるという、尖閣諸島をめぐり従来には見られなかった中国の新たな姿勢が明らかになった。

?2010年9月7日の尖閣諸島周辺の我が国領海内での中国漁船衝突事件以降は、中国公船が従来以上の頻度で尖閣諸島周辺海域を航行するようになり、2011年8月に2隻、2012年3月に1隻、同年7月に4隻による尖閣諸島周辺の我が国領海への侵入事案が発生した。

?また、2012年9月11日に我が国が尖閣諸島のうち3島(魚釣島・北小島・南小島)の民法上の所有権を、民間人から国に移したことを口実として、同月14日以降、中国公船が荒天の日を除きほぼ毎日接続水域に入域するようになり、最近でも、毎月3回程度の頻度で領海侵入を繰り返している(詳細は下記リンク先参照)。2015年12月22日には、外観上、明らかに機関砲を搭載した中国公船による接続水域への入域が初めて確認され、同月26日以降は当該船舶による領海侵入も発生している。事態をエスカレートさせるこうした中国側の行動は我が国として全く容認できるものではなく、領海侵入事案が発生した際には、その都度現場において退去要求を行うとともに、外交ルートを通じて中国政府に対して直ちに厳重に抗議し、即時の退去及び再発防止を強く求めている。なお、2018年7月1日には、中国海警局が人民武装警察部隊に編入されており、こうした中国の動向も引き続き注視していく必要がある。

(外務省ホームページより)』

外務省 海外安全ホームページ|海外安全ホームページを使いこなそう! 感染症危険情報とは?

外務省 海外安全ホームページ|海外安全ホームページを使いこなそう! 感染症危険情報とは?
https://www.anzen.mofa.go.jp/masters/kansen_risk.html

 ※ 海外に観光に出かけるのは、勝手だが、事前にこういうものもキチンと、読んでおいた方がいいぞ…。

 ※ 今日は、こんなところで…。

前に出る経産省、企業と再接近 「官僚たちの夏」は遠く

前に出る経産省、企業と再接近 「官僚たちの夏」は遠く
藤岡昂
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA09AAU0Z00C22A5000000/

『「特にこの2~3年で大きく変わった」と経済産業省の中堅職員は話す。企業との関係のことだ。半導体関連団体の幹部も「少し前まえでは経産省とは距離があった。今はどんどん求心力が高まっている」という。

蓄電池の成長戦略をまとめる4月の会議での萩生田光一経産相の発言は象徴的だった。「これからは国も一歩前にでて、研究開発のみならず、その先の設備投資までしっかりと支援するなど取組を強化する必要がある」。積極投資で世界シェアを高める中国勢や韓国勢を念頭に「今回が最後のチャンスだ」とも述べた。

経済安全保障という考え方が広がり、重要物資や基幹産業を国として保護・育成することが改めて重要になっていることが背景にある。ロシアのウクライナ侵攻という危機も重なる。

半導体などを巡り、中国や欧州連合(EU)、米国なども巨額の財政支援に動く。国内自動車メーカー幹部も「日本だけ民間で戦えと言われても困る」と政策的な後押しが必要と訴える。

第2次世界大戦後、経済産業省の前身である通商産業省は石炭や鉄鋼などの特定産業に重点的にヒト・モノ・カネを投じた。通産省の存在感は絶大だった。

高度経済成長期の通産官僚の姿を描いた城山三郎の小説「官僚たちの夏」の主人公は国内産業の保護育成を優先する。官民が再接近する今の光景とどこか重なる面があるだけに、世相の違いも感じる。官僚を活写するような小説はこれから出てくるだろうか。』

電力危機,こんな電力に誰がした

日刊 アジアのエネルギー最前線 : 電力危機,こんな電力に誰がした,発送電分離の発想を推し進めた経済屋さんのせい – livedoor Blog(ブログ)
http://blog.livedoor.jp/adachihayao/archives/2021478.html

※ 何事も、「プライオリティ」というものがある…。

※ 世の中の、ほぼ全ての「事がら」は、「あちら立てれば、こちら立たず。」という関係にある…。

※ 「電力の安定供給を、重視すれば、コストは犠牲になる。」…。

※ 「コストを重視すれば、電力の安定供給は犠牲になる。」…。

※ そういう中で、「この局面で」「何を重視し、何を捨てて行くのか」…。

※ それを決めて行くのが、「プライオリティ」の決定だ…。

※ むろん、国家政策において、一般論としては、「最大多数(国民)の、最大幸福」ということを目標とすべきだ…。

※ しかし、現実の策としては、「どの方面の国民も、そんなに酷いことにならない線」に落ち着くことが多いだろう…。

『【日刊 アジアのエネルギー最前線】 電力危機,こんな電力に誰がした,発送電分離の発想を推し進めた経済屋さんのせい
http://www.adachihayao.net

2022年6月11日 土曜日 曇かな

今年の夏の電力需給逼迫が懸念され,更に今冬には,関東エリアで需給が破綻することへの現実的な問題が話題となっている,誰がこんな電力にしたのか,池田信夫氏の議論であるが,池田氏は経済学者であり,私達から見れば,経済屋さんが電力のデリバティブ化を目指して自由化を推し進めた,と

池田氏が言っておられるように,電力自由化の本質は発送電分離で,その制度の下では誰でも発電を作ることが出来る,太陽光と共に拡大してきたこの制度は,今問題となっている上海電力の参入も防ぐことは出来なかったわけであるが,この発送電分離の結果,電力会社には,供給責任がなくなった

国も手を出せなかった東京電力が,原発事故の影響もあって,少なくとも長期の需給計画には全く手が出せなくなった,池田氏は将来の需給計画,即ち中長期の電源開発は一体誰が考えているのか,と私達と同じ質問を発しているが,発送電分離の前に分かっていた,経済屋さんの発想が危機を生んだ』

第二次安倍政権で挑んだ日本のインテリジェンス改革

第二次安倍政権で挑んだ日本のインテリジェンス改革
小谷 賢 (日本大学危機管理学部教授)
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/26653

 ※ これは、絶対読んどいた方がいい…。

 ※ 日本国には、表向きは、CIAやMI6みたいな「諜報機関」は、存在しないことになっている…。

 ※ しかし、「裏」においては、それに類するものが存在する…。そして、それは「分散するような形」で存在している…。

 ※ そういうような話しが、語られている…。

『 第二次安倍晋三政権では日本のインテリジェンス分野での改革が大きく進んだ。

 その原点は、2008年2月14日に内閣情報調査室が発表した報告書「官邸における情報機能の強化の方針」にある。これには日本のインテリジェンスについて改善すべき点が多々列挙されているが、その中で特に困難な課題が「対外人的情報収集機能強化」と「秘密保全に関する法制」であった。

 12年12月に成立した第二次安倍政権はこの2つの課題に取り組むことになる。

鍵になった政官のトライアングル

 安倍氏が首相に返り咲くと、町村信孝衆議院議員と北村滋内閣情報官(当時)という政官のトライアングルによって日本のインテリジェンス改革が進んだ。

 このトライアングルで要となったのが、警察官僚で、民主党政権時代に内閣情報官に抜擢された北村氏である。公安警察のキャリアを持つ同氏は、11年から約8年にもわたり情報官を務めた。その間に内閣情報調査室(内調)を中央情報機関として定着させ、さらには安倍政権の政治的原動力を活用してインテリジェンス改革を断行したのである。また、北村氏が首相の信任を得たことによって、インテリジェンス・コミュニティーにおける内調の存在感は、極めて大きなものになった。

 北村氏は安倍氏の要望に応える形で、それまで週に1回だった情報官による首相ブリーフィングを週に2回とし、そのうちの1回はインテリジェンス・コミュニティーを構成する、警察庁警備局、防衛省情報本部、外務省国際情報統括官組織、公安調査庁、内閣衛星情報センターなど、それぞれの担当者による首相への直接のブリーフィングという形式をとったのである。この各省庁による首相ブリーフィングのため、定期的に北村氏が中心となって各省庁の情報担当者と会合を持ち、その省庁がどのような情報を首相に報告するのかを調整していたという。

 各省庁からすれば、それまでは内調に情報を上げ、それを間接的に情報官から首相に報告してもらう、という形だったものが、直接首相に報告する機会が与えられることによって、ブリーフィングに対する責任感が増すと同時に、インテリジェンス・コミュニティーの一員であるという自覚も根付いた。

 第二次安倍政権発足から4カ月後、安倍氏は国会において次のように発言している。

 「秘密保護法制については、これは、私は極めて重要な課題だと思っております。海外との情報共有を進めていく、これは、海外とのインテリジェンス・コミュニティーの中において日本はさまざまな情報を手に入れているわけでございますし、また、日米の同盟関係の中においても高度な情報が入ってくるわけでございますが、日本側に、やはり秘密保全に関する法制を整備していないということについて不安を持っている国もあることは事実でございます」

 この発言から安倍氏が、諸外国との情報共有の必要性から秘密保護法制を推進しようとしていたことが理解できる。13年8月には自民党で町村氏を座長とする「党インテリジェンス・秘密保全等検討プロジェクトチーム」が立ち上がり、内調を事務局として法案の作成が行われた。

 ただ、自民党も一枚岩ではなく、法案に反対する声も多く聞かれたという。そうした議員に対して、法案の必要性を説明して回ったのが北村氏であった。そして同年12月6日に「特定秘密の保護に関する法律」が成立している。

『特定秘密保護法の導入によって各行政機関の機密が特別秘密として管理され、アクセスできるのは大臣政務官以上の特別職の政治家と、適正評価をクリアした各省庁の行政官ということに整理されたため、秘密情報の運用面においては大きな改善が見られる。

 クリアランスを持つ行政官は「職務上知る必要性」の原則に基づいて特定秘密にアクセスし、さらに必要があれば「情報共有の必要性」に応じて、他省庁の行政官や上記の政治家と特定秘密を共有するという、欧米諸国では日常的に行われていることが初めて可能となった。また日本と米国、その他友好国との情報共有も進んだのである。

 17年9月、河野太郎外務大臣 (当時)は記者会見で北朝鮮情勢について「諸外国から提供された特定秘密に当たる情報も用いて情勢判断が行われたが、特定秘密保護法がなければわが国と共有されなかったものもあった」と評価している。

テロ情報の収集が平時から可能に

 シリアでジャーナリストの後藤健二氏と軍事コンサルタントの湯川遥菜氏がイスラム国(IS)に拘束され、15年1月に殺害の様子を記録した動画がネット上で公開された事件は日本人に衝撃を与えた。

 これを受けて同年12月8日、外務省総合外交政策局内に国際テロ情報収集ユニット(CTU-J)が設置された。CTU-Jは平時から海外で情報収集や分析活動を行い、現地の治安情報や邦人が危険に巻き込まれないよう防止するための対外情報組織である。また有事には邦人救出の交渉等も担い、18年10月にはシリアで拘束されていた安田純平氏の解放に尽力している。

2015年に設置された国際テロ情報収集ユニット(CTU-J)は、イスラム国(IS)に拘束された邦人の解放に貢献した (AP/AFLO)

 NHKの取材によると、CTU-J設置の舞台裏は次のようなものだったそうだ。

 「『国際テロ情報収集ユニット』の立ち上げの際、組織の実権をどこが握るかをめぐって、外務省と警察庁の間で激しい攻防があった。結局、最終的には、安倍首相や菅義偉官房長官(当時)と関係の深い、北村内閣情報官が主導権を握り、組織のトップのユニット長は、警察庁出身者から出すことに決まった。このときの外務省の恨みはものすごかった。まさにこの瞬間に、この組織が、外務省に籍を置きながら、官邸直轄の組織となることが決まったと言ってもいい」

 CTU-Jはテロ情報に特化した組織であり、外交や経済、安全保障についての情報収集は認められていない。しかし平時に海外で情報を収集し、それを直接官邸に報告できるという点では、対外情報機関としての体裁を整えていると言える。

 北村氏は、「人員を拡充し、大量破壊兵器の不拡散や経済安全保障関連での情報収集も担わせることを検討してもいいでしょう」と語っており、将来的には本格的な対外情報機関への脱皮を期待しているようである。08年に公表された方針は、特定秘密保護法とCTU-Jの設置という形で結実したと言える。』

台湾担当の企画官、外務省が新設へ 22年度から

台湾担当の企画官、外務省が新設へ 22年度から
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA1723Y0X11C21A2000000/

『外務省は2022年度に台湾を巡る課題を扱う企画官ポストを新設する。自民党の17日の外交部会で方針を説明した。台湾情勢の緊張を踏まえて体制を強化する。佐藤正久外交部会長が記者団に明らかにした。

新ポストは中国・モンゴル第一課に置き、沖縄県・尖閣諸島を含む東シナ海情勢も担当する。

佐藤氏は記者団に「安全保障や外交、経済安保で台湾に関する仕事が増えている。大きな一歩だ」と語った。

外務省はすでに海外の人権問題に対処する企画官を22年度に設けると発表している。中国政府による新疆ウイグル自治区での人権侵害などが念頭にある。』

コロナ対策、岸田首相は脱「厚労省」試す 財務省を軸に

コロナ対策、岸田首相は脱「厚労省」試す 財務省を軸に
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA023F10S1A101C2000000/

 ※ 非常に興味深い内容だ…。

 ※ 安部さんの時に、コロナ対策でもたついたのは、厚労省中心で行ったからなのか…。
 ※ それを、菅さんが財務省中心で行って、バンバン、ワクチンを打ちまくったのか…。
 ※ 岸田さんになっても、引き続き財務省が重きをなしていると言うわけか…。

 ※ 当初、相当に「強毒ウイルス」という認識で、厚労省の言うことに重きを置いたが、「それほどでもない…。むしろ、弱毒ウイルスだ…。」という認識となった話しも、興味深い…。

 ※ いずれ、各省庁は、「自省の勢力を伸長しようとして」、陰に陽に「政権中枢に働きかける」ものであることは、確かのようだ…。

『岸田文雄首相は「第6波」対策の全体像のとりまとめ作業で厚生労働省に依存しない手法を試行した。実務で財務省出身の官僚が主軸となった。政策決定で「岸田官邸」が機能するかは来年夏の参院選に向けた政権運営を左右する。

首相は12日、全体像を決めた新型コロナウイルスの対策本部で「まず重要なのは最悪の事態を想定し、次の感染拡大への備えを固めることだ」と語った。

全体像は10月15日に示した「骨格」を基礎に作成した。デルタ型より感染力が2倍程度のウイルスが広がると想定し、入院患者の受け入れを3割増強する内容だ。従来は医療界に配慮して踏み込んでこなかった施策を含む。

「感染力2倍という前提はいいかげんな話だ。専門家の意見を聞いてほしい」。10月26日、厚労省の専門家組織「アドバイザリーボード」(座長・脇田隆字国立感染症研究所所長)で骨格に批判が相次いだ。

感染症の専門家には意見を聞かれずに作られたとの不満がある。骨格作りに厚労省はほとんど関与していない。医療界や専門家の意見に沿って主張しがちな同省が主導していないため、関係者に不満が募る内容となっている。

実務の中心を担ったのは財務省出身の首相秘書官、宇波弘貴氏だった。厚労予算を査定する主計局次長や主計官を長年務め、首相が要望してこのポストに置いた。

財務省がもともと推薦した中山光輝氏と合わせ同省出身の秘書官は2人体制になる。菅政権で置いた厚労省出身の秘書官は採用しなかった。

安倍、菅両政権では首相補佐官だった国土交通省出身の和泉洋人氏が厚労省や同省出身者が室長を務める内閣官房新型コロナウイルス感染症対策推進室を指揮してきた。和泉氏は岸田政権発足に合わせて退任した。

政府の新型コロナ感染症対策分科会(尾身茂会長)も積極的に提言した。経済財政・再生相だった西村康稔氏が政府で専門家の意見を反映させるように動いた。

「厚労省は言うことを聞かないんだろ」。首相は就任前から、同省が首相官邸の意向に沿って動かない印象を抱いていた。

前政権は菅義偉前首相自らが主導したワクチン接種で1日100万回を超えるペースを実現する一方、医療体制の整備は「厚労省の壁」に阻まれた。首相が政権発足時に財務官僚に実務を担わす体制を選んだ背景にある。

首相は11日、首相官邸で菅氏と会い、ワクチンで感染状況が抑えられていると謝意を伝えた。菅氏からは「総理が自分で直接指示しないと役所は動きませんよ」と助言を受けた。首相の頭には菅前政権の教訓がある。

首相が掲げる「新しい資本主義」は分配政策が特徴で、厚労省の所管になる分野が多い。目玉である看護師や介護士、保育士の賃上げは同省だけに任せず、官邸に「公的価格評価検討委員会」を立ち上げた。宇波氏ら「財務官僚」が調整の中核を担う。

政権の看板政策は首相が20年や今年9月の党総裁選で掲げてきた公約が基本になる。公約をつくってきた首相側近の木原誠二官房副長官が政権発足後も政策全般に目配りする。各省庁は木原氏への説明を徹底している。

(秋山裕之)』

『多様な観点からニュースを考える

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鈴木一人
東京大学 公共政策大学院 教授
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分析・考察

感染症対策は当初より、医療の目的である感染拡大防止、最終的にはゼロコロナを目指すことと、緊急事態宣言などの行動制限による経済への負担をどう減らすかということのバランスの中で検討されてきた。

当初は未知のウイルスであり、致死性の高い感染症としての認識が強かったため、医療(厚労省)が優勢に立ったが、第一波の後は政治が優勢となり、経済回復を優先した。

しかし、それが結果的に後手に回り、五輪開催という政治資源をマックスに使ったイベントがあったため、医療(厚労省)が優勢な状況にあった。

岸田政権になり、ワクチン接種も進んだことで、今度は景気回復がアジェンダとなった、ということなのだろう。

2021年11月15日 11:21

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峯岸博
日本経済新聞社 編集委員・論説委員
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ひとこと解説

1990年代半ばに財務省(当時は大蔵省)主計局を取材しました。

かつては長く「官庁の中の官庁」と呼ばれ、内部で外交・内政から野党の審議拒否、調整期間まですべての要素を織りこんで法案など重要案件のスケジュールを組み立てる「国会カレンダー」をつくり、時の自民党政権と連携しながら陰の実力者の地位を不動のものにしていました。財務省出身の首相秘書官も他省庁に比べ実質「格上」でした。

近年は財務省の相対的地位が低下し、安倍政権では経済産業省が力を強めました。

旧大蔵・財務省と縁の深い宏池会政権の久しぶりの誕生によって、コロナ対策に限らず政権内や霞が関の力学に変化が生じる兆しが見えます。

2021年11月15日 9:19』

内閣人事局長に栗生氏

内閣人事局長に栗生氏
https://www.jiji.com/jc/article?k=2021100500015&g=pol

『政府は4日、内閣人事局長に事務担当の栗生俊一官房副長官を充てると発表した。また、同日付で内閣官房参与の人事を決定。飯島勲、今井尚哉、岡部信彦、熊谷亮丸、宮家邦彦、村井純、岡村健司、山崎重孝の8氏をそれぞれ再任した。 』

〔「首相秘書官」、「首相補佐官」とは〕

「首相秘書官」「首相補佐官」どう違う? “影の総理”評の大物も
(2018/5/11(金) 14:20配信)
https://news.yahoo.co.jp/articles/5cb82682457d2dbdd8b0bce97c39c7fc898e988b?page=1

『日本の行政トップは内閣総理大臣(首相)ですが、時に“影の総理”や“総理の懐刀”と呼ばれる人たちがいます。中曽根康弘内閣時代の後藤田正晴官房長官や小泉純一郎内閣での飯島勲首相秘書官らがその人です。

【写真】ニュースでよく聞く「政府」ってそもそも何?

 いま国会を揺るがしている森友学園や加計学園をめぐる問題でも「首相秘書官」「首相補佐官」が注目されています。国会質疑の中で、今井尚哉(たかや)首相秘書官や和泉洋人首相補佐官、最近では元首相秘書官の柳瀬唯夫氏がニュースで取り沙汰されています。

 首相を支える官邸スタッフにはさまざまな役割の人たちがいます。それぞれどんな権限があって、どんな仕事をしているのでしょうか。

          ◇

 東京都千代田区永田町2丁目。国会議事堂の南西側、東京メトロ溜池山王駅のすぐそばにあり、外堀通りからよく見えるガラス張りの大きな建物が総理大臣官邸(首相官邸)です。

 普段から厳重な警備がされている首相官邸は、首相が仕事をする上での拠点になっており、「内閣官房」という首相を支えるチームも仕事をしています(内閣官房自体は内閣府庁舎と官邸に置かれています)。つまり官邸は、日本の行政府が入っている建物で、行政府の象徴と言ってもいいでしょう。

●内閣官房と内閣府

 よく似た名称の組織なので、混同されることが多いのが「内閣官房」と「内閣府」です。ともに首相主導の政治、内閣機能の強化の実現のために誕生し、組織改編されました。

 内閣府は、2001年に総理府・沖縄開発庁、経済企画庁が統合して生まれました。内閣の重要な政策ごとに内閣官房を支えます。首相を補佐するというよりは、大臣で構成される内閣全体を支えるといった色合いが強いと言えるかもしれません。

 これに対して内閣官房は、総合的な戦略を立案して、首相自身の政治的な決断やリーダーシップを助ける役割を担う組織です。トップはもちろん内閣官房長官です。

 内閣官房は首相のブレーン的な役割、内閣府はその内閣官房の補佐と調整をする部署と考えるとイメージがしやすいかもしれません。今回は、主にこの内閣官房とその中の役職について見ていきます。』

『●首相秘書官

[図]首相を支える主な役職

 首相秘書官は内閣官房の一員で、正式には「内閣総理大臣秘書官」といいます。その名の通り、首相に影のように寄り添って、各種の事務を取り扱い、首相の指示で政府の各部署や与党、各省庁などとの調整に当たる大事な役職です。

 首相秘書官の存在は内閣法第20条で決められ、定数を7人とする国家公務員です(将来的には定数は5人になる見込み)。その内訳は、政務担当秘書官1名、事務担当秘書官6名の計7名で構成されています(あくまで慣例)。

 政務担当秘書官は、一般的に「首席秘書官」と呼ばれることもあります。首相に永年連れ添ってきた国会議員秘書が就くことが多く(近年は官僚からの登用もみられる)、首相秘書官の取りまとめ役としての色合いが強くなっています。大臣である副総理や官房長官を除けば、ある意味、首相に最も近いポジションとも言えます。

 森友学園などをめぐる一連の問題で、キーパーソンとして取り沙汰される今井尚哉氏は、現在、安倍晋三首相の首席秘書官であり、まさにこの役職に就いているということになります。今井氏は経済産業省出身で、第一次安倍内閣では事務担当秘書官を務め、その際に安倍首相と確固たる信頼関係を築いたといわれています。

 加計学園の問題で名前が挙がっている柳瀬唯夫氏(現経済産業審議官)は、第二次安倍内閣で2012年12月に事務担当の首相秘書官に任命されました(2015年8月に退任)。

 首相秘書官は、具体的にどのような業務を担当しているのでしょうか。柳瀬氏は10日の国会での参考人招致の中で、こう答えています。「首相が所掌する政策分野は広い。私(の担当)はイノベーション、成長戦略、TPP、地球環境問題、エネルギー、規制改革など多岐にわたる。それぞれごとに現状や課題について担当の部署などから話を聞き、必要なことは首相に相談し報告する」

 2013年11月に女性初の首相秘書官に就任した山田真貴子氏(2015年7月に退任)も首相官邸のホームページで「情報通信政策、女性登用政策、地域活性化策などを担当するとともに、広報担当として総理官邸の情報発信、記者対応等を担っています」と説明しています。

 ちなみに政務担当である首席秘書官には、今井氏のように首相からの信頼が厚い人物が任命されることが多く、その意味で、首相に強い影響力を持つと評されることがあります。歴代の秘書官の中では、小泉内閣における飯島勲氏(メディア戦略に長け、政務担当秘書官として官邸を束ねる)の当時の政権内での影響力の大きさはよく語られるところです。

 これに対して事務担当秘書官は、基本的に財務省、外務省、警察庁、防衛省、経済産業省から1人ずつ内閣官房に出向する形で役割を担います。出向してくる秘書官は、出身省庁の課長級や局次長級、あるいは審議官級というエリートで、将来の事務次官候補と目されるケースが多いのが特徴です。』

『●首相補佐官

 首相秘書官とよく似た名前の役職として「内閣総理大臣補佐官(首相補佐官)」があります。秘書官と同じく、内閣官房の一員です。基本的には、与党の国会議員がその職に就きます。内閣法第19条に規定されていて、特定の政策の企画や立案に当たる仕事です。定数は5人です。首相補佐官は、首相直属のスタッフとしての色合いが強く、時の政権が取り組む重要な政策や外交防衛問題など高度に専門性の高い政策の立案にも携わります。

 首相秘書官と首相補佐官。どちらの権限が大きいかは、なかなか難しいところです。補佐官が特定の政策立案のスタッフだとすれば、秘書官は省庁間の調整を含めたかなり広範な実務を担っている、まさに首相の秘書としての役割ということができるでしょう。したがって実質的な首相への影響力は首相秘書官の方が大きいと見る人もいます。しかしこれも、首相と秘書官、補佐官の関係性や、国会議員であるか官僚出身か、政治家としてのそれまでのキャリアや人柄などによって変わってくるものでもあります。

●官房長官

 内閣官房長官は、内閣官房の長です。国会議員から選ばれ、閣僚の一員でもあります。「首相の女房役」と呼ばれることもあり、内閣官房の事務全般を取り仕切る役職です。組閣の際、最初に任命される点からも、その重要性が分かります。過去には、中曽根内閣での後藤田正晴氏、橋本龍太郎内閣の梶山静六氏、小渕恵三内閣の野中広務氏らのように“影の総理”と称される大物もいました。

 主な役割としては、内閣のさまざまな案件について、行政の各部署、国会各会派(特に与党)との調整役のほか、内閣の取り扱う重要な事柄や、政府としての公式見解などを発表する「政府報道官」(スポークスマン)としての役割があります。第二次安倍内閣以降は、菅義偉(すが・よしひで)衆院議員がその職に就いています。官房長官経験者が後に首相になるケースも多くあります(鈴木善幸内閣の宮沢喜一氏、竹下登内閣での小渕恵三氏、小泉内閣での福田康夫氏ら)。

 官房長官を補佐する役割としては、内閣官房副長官がいます。特別職国家公務員で、定数は3人です。慣例によって、政策担当として衆院議員と参院議員で2人、事務担当として事務次官経験者などのキャリア官僚から1人が任命されます。』

『●省庁の官房

 実は内閣だけではなく、各省庁にも「官房」と呼ばれる役職があります。省や府、庁、行政委員会と会計検査院に置かれる部局の一つで、各組織の内部管理と行政事務の総合調整を行います。各省庁内の各所と調整を行う役割と考えると分かりやすいでしょう。基本的にキャリア官僚がその職に就きます。
機能強化と首相官邸

 今回、解説している各役職は「首相官邸機能の強化」あるいは「内閣機能の強化」の流れで設置され、その役割が見直されてきた経緯があります。

 官邸機能の強化は、アメリカ大統領府の大統領補佐官制度や、イギリス型の議院内閣制などを手本にされているといわれています。

 そもそも首相官邸では、従来は財務省や総務省、外務省といった中央官庁の役人の力が強かったため、その状況を改めるべく、国民が選挙で選んだ国会議員から選出される首相を筆頭とした官邸機能を強化することを目指しました。また、首相が任命する大臣の集まり、つまり内閣の力を強めて、政治家主導でさまざまな政策を決定し、実行していく狙いがあります。

 こうした方向性が生まれたきっかけは、1995年の阪神大震災で政府の初動対応が遅れたという苦い経験にあります。当時、首相官邸のスタッフは、内閣官房長官、官房副長官を除くと全てが官僚でした。日本の官僚機構は優秀ですが、さまざまな局面で必ずしも即座に判断を下せる組織ではありません。急な事態、不測の事態に機敏に対応するのは、組織の構造や法的な位置づけからして難しいのです。

 特に大災害やテロ、他国からの侵略行為などの非常事態には政治家による政治判断を次々に出していく必要があります。そうした政治家の判断、首相の判断を下しやすいようにする、そうした環境を整備したのが官邸機能の強化です。

         ※      ※

 首相の公式な事務所である首相官邸、そして内閣官房を中心に、さまざまな役割の人たちがチームを組んで、首相を支えています。政治家や政治家の秘書、中央官庁の官僚らがブレーン役、調整役として役割を担っています。こうした視点をもとに国会や政治をとりまくニュースを見ると、より分かりやすくなるでしょう。


■戸桝茂哉(とます・しげや) ライター、時事アナリスト。神奈川大学卒業。衆院議員秘書として活動後、IT企業に就職。地方創生とメディア運営の知見を生かした講演活動や独自視点を交えた政治経済予測を行う 』

首相秘書官に嶋田氏ら8人 安保補佐官は木原副長官兼務

首相秘書官に嶋田氏ら8人 安保補佐官は木原副長官兼務
https://www.jiji.com/jc/article?k=2021100401075&g=pol

『政府は4日、岸田文雄首相の秘書官計8人の人事を決めた。筆頭は嶋田隆・元経済産業事務次官が務める。岸田事務所の山本高義氏を起用し、防衛省出身の中嶋浩一郎氏を留任させる。財務省からは2人を登用し、厚生労働省からは見送った。

与党、岸田内閣の陣容評価 「自信の表れ」「フレッシュ」

 木原誠二官房副長官は国家安全保障担当の首相補佐官を兼務する。その他の首相秘書官は以下の通り。(敬称略)
 宇波弘貴(財務)、荒井勝喜(経産)、中込正志(外務)、中山光輝(財務)、逢阪貴士(警察)。 』

平井氏、デジタル庁への影響否定

平井氏、デジタル庁への影響否定
発足3日目に生みの親、首相辞意
https://nordot.app/806445429529329664?c=39546741839462401

『デジタル庁は発足から3日目に、生みの親である菅義偉首相が退陣の意向を表明する事態に見舞われた。平井卓也デジタル相は、どの内閣でも行政手続きのオンライン化などは重要課題であり、大きな影響はないとの見解を示した。

 退陣の一報は、初代デジタル相に就いた平井氏に対し、報道各社が合同でインタビューする直前に舞い込んだ。平井氏は「お考えがあって決断されたと思う。閣僚として重く受け止めたい」と厳しい表情で語った。

 その上で「国の方針を国会が決めた。政治状況に左右されずに前へ進む。この路線は、いかなる状況になったとしても変わらない」と述べた。』

菅首相の退陣表明で霞が関

「ショック」「明るくなる」 菅首相の退陣表明で霞が関
https://www.jiji.com/jc/article?k=2021090301003&g=pol

『 菅義偉首相の退陣表明を受け、中央省庁の幹部らは「本当にびっくり」「これほど急に政局が動くのは見たことがない」と一様に驚いた。同時に、官房長官から9年近く政権中枢にいた菅氏について「長かった」と弊害を指摘する幹部もいた。
菅首相、延命狙うも万策尽き 頼みの派閥支援望めず―小泉氏進言背中押す

 菅氏は官房長官時代の2019年、電気や農業の利水ダムを水害対策に使う方針を決定。省庁の縦割りを破る施策で、国土交通省幹部は「災害対応に並々ならぬ強い意識を持っていた。馬力があった」。
 50年に温室効果ガスの排出を実質ゼロとする目標を打ち出すなど地球温暖化対策にも意欲的で、環境省幹部は「ショックだ」と肩を落とす。パラリンピック開催中の退陣表明となったが、文部科学省幹部は「(大会を)やり遂げる強い意志があった。感謝している」と話した。
 来年度予算編成作業を本格化させる財務省。幹部は「ぼろぼろになる前に辞任を表明して良かった。体面は保たれたが、政治的な影響力はもうなくなるだろう」。菅氏は成長戦略の具体化策の取りまとめを指示したが、この幹部は「新しいことは次の首相がやるのでは」と話した。
 政府は14年、省庁幹部人事を一元管理する「内閣人事局」を設置。官邸が人事を掌握し、官僚の過度な忖度(そんたく)を生んでいると批判された。ある省幹部は「長かった。同じ人がずっと人事をやっていると好き嫌いが出てくる。霞が関も明るくなるのでは」と語った。
 人事で中央官庁ににらみを利かせてきた菅氏だが、退陣の引き金となったのは自民党役員人事。別の省幹部は「人事で局面を打開してきたのに、人事でだめだった。皮肉な結末だ」。』