チャーチルと近衛・東条 明暗分けた組織力とスピード感 太平洋戦争開戦80年(下) 戸部良一・防衛大名誉教授に聞く
https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXZQOLM071FF007122021000000/?n_cid=TPRN0016
※ 『「チャーチルが最初に手掛けたのが『国防大臣』を新設し、自らが就任したことです。国防省は存在しないので大臣というポストを設けただけです。政治優位の立場から政略と軍略を統合させる狙いでした」
「国防相の下には帝国(陸軍)参謀総長、海軍軍令部長、空軍参謀総長の3人から成る三軍幕僚長委員会を直属させました。この委員会は毎年400回以上開催しました。1日に2回開くこともあったわけです。特に42年には573回に達しました。下部スタッフ組織として作戦、情報、兵站(へいたん)と3つの三軍統合委員会も設けられていました。軍中央のトップのみならず中堅幕僚層でも統一化が進み、チャーチルを補佐したわけです」
「戦時内閣は首相を含む数人で構成しました。ただ英歴史家のA・J・Pテイラーは『戦時内閣がなにかを始めることはめったになく、チャーチルの意見を退けることはもっと稀(まれ)だった』と記しています。チャーチルは『討論による独裁者』とも言われました」』
※ 『 ――日本は軍事面での「統帥権」が政治権力から分離され、首相でも軍部を指揮することはできず、陸軍大臣でも参謀本部の作戦計画にはタッチできないシステムでした。
「日中戦争を戦う第1次近衛内閣(37~39年)は政・軍略統合の必要性を痛感していました。また以前から、内閣制度の改革が検討されてました。内閣を首相と陸海軍大臣を含む少数の国務大臣のみで構成し、内閣直属の新たなスタッフ機構で首相の指導力を強化しようという構想でした」
「この計画の実現には抜本的な法改正が必要になります。結局、近衛内閣では企画院と内閣情報部の新設だけで終わりました。非常時における組織改革の急所が、日英の認識は驚くほど似通っていました。しかし非常時だから今断行するのか、非常時だから事態が少し収まるのを待って改正するかで行動様式は全く違いました」』
※ こういうところにも、彼我の差異があったわけだ…。
※ そういうことの「反省」もあってか、「日本国憲法」においては、「大臣の横並び制」を止めて、「内閣総理大臣が、他の大臣の任免権を持つ」という制度に改めたわけだ…。
※ まあ、「組織」や「制度」を、「生かすも殺すも、人次第…。」ということだ…。


『太平洋戦争開戦から80年たった。米英と日本との格差は、軍事力や経済・産業力だけではなく、日本は組織力の点でも後れを取っていたとの研究が進んでいる。防衛大学校の戸部良一・名誉教授は「英国ではチャーチル首相の決定が、政治と軍事の統合を基盤とし政治優位でなされるようシステム化されていた。日本もそうした政軍統合の戦争指導体制が整備されていなかった」と指摘する。英チャーチルと同時期の近衛文麿、東条英機両首相との違いを追った。非常時にリーダーシップを機能的に発揮させるにはどういう組織が必要か。現代企業の組織運営にもヒントになりそうだ。
「討論による独裁者」チャーチル 政略と軍略を統合
戸部良一・防衛大名誉教授は「英国ではチャーチル首相が『国防大臣』を新設した」と指摘する。
――チャーチルが英国首相に就任したのは1940年5月でした。前年9月に勃発した第2次世界大戦はドイツ有利に展開し、英の同盟国であるフランスの降伏直前に、国のかじ取りを任されました。
「チャーチルが最初に手掛けたのが『国防大臣』を新設し、自らが就任したことです。国防省は存在しないので大臣というポストを設けただけです。政治優位の立場から政略と軍略を統合させる狙いでした」
「国防相の下には帝国(陸軍)参謀総長、海軍軍令部長、空軍参謀総長の3人から成る三軍幕僚長委員会を直属させました。この委員会は毎年400回以上開催しました。1日に2回開くこともあったわけです。特に42年には573回に達しました。下部スタッフ組織として作戦、情報、兵站(へいたん)と3つの三軍統合委員会も設けられていました。軍中央のトップのみならず中堅幕僚層でも統一化が進み、チャーチルを補佐したわけです」
「戦時内閣は首相を含む数人で構成しました。ただ英歴史家のA・J・Pテイラーは『戦時内閣がなにかを始めることはめったになく、チャーチルの意見を退けることはもっと稀(まれ)だった』と記しています。チャーチルは『討論による独裁者』とも言われました」
――チャーチルへの大変な権力集中です。成熟した多元的民主主義と評価される英国でよく可能でしたね。
「英国には第1次世界大戦の前半を担当したアスキス内閣(08~16年)時の苦い教訓がありました。問題に直面するたびにそれを担当する委員会を立ち上げたため、会議が多くなりすぎてスピード感ある決定・実行ができなかったのです。チャーチルは独裁的な権力を手中にしましたが、戦時のみとの暗黙の了解がありました」
「チャーチルは軍人と議論するとき、英議会でのディベート方式を持ち込み、とことん軍幹部を質問攻めにしました。最後は音を上げて恨み言を記した将軍の日記も残されています。ただチャーチルは納得すれば、問い詰めた軍人の意見を採用します。また『Action this day』がチャーチルの原則でした。英国の機能的な戦争指導体制を実見して、米国も後に取り入れました。統合参謀長会議を設立し、その下部組織に三軍統合委員会のシステムを作り上げました」』
『「陸海軍共同作戦の最高指導部」 日本は実現できず
――日本は軍事面での「統帥権」が政治権力から分離され、首相でも軍部を指揮することはできず、陸軍大臣でも参謀本部の作戦計画にはタッチできないシステムでした。
「日中戦争を戦う第1次近衛内閣(37~39年)は政・軍略統合の必要性を痛感していました。また以前から、内閣制度の改革が検討されてました。内閣を首相と陸海軍大臣を含む少数の国務大臣のみで構成し、内閣直属の新たなスタッフ機構で首相の指導力を強化しようという構想でした」
「この計画の実現には抜本的な法改正が必要になります。結局、近衛内閣では企画院と内閣情報部の新設だけで終わりました。非常時における組織改革の急所が、日英の認識は驚くほど似通っていました。しかし非常時だから今断行するのか、非常時だから事態が少し収まるのを待って改正するかで行動様式は全く違いました」
「37年に近衛内閣は、日露戦争後初めての『大本営』を設置しました。英国の三軍幕僚長委員会と三軍統合委員会に相当します。しかし文民の首相は入れません。日常業務は陸海軍ともそれぞれの役所でこなし、大本営の会議は大部分が報告で終わったとされます。山本五十六・海軍次官(当時)が期待した『陸海軍共同作戦の最高指導部』は最後まで実現しませんでした。軍と政府との情報交換の場として、大本営政府連絡会議が設けられましたが、政略と軍事戦略の統合はなされませんでした」
「40年の第2次近衛内閣(~41年)発足とともに、休眠状態だった大本営政府連絡会議(当初は連絡懇談会)が復活します。週1回以上のペースで開かれ、対米外交の調整、独ソ戦への対応、インドシナ南部への進駐などが政府と軍部の間で討議されました。それでも軍首脳を上から指揮するチャーチルのリーダーシップとは大変な差がありました」
「続く東条首相兼陸相(41~44年)は、内閣の成立直後から、ほぼ毎日のように連絡会議を開き、開戦から退陣までにも約120回行いました。世界情勢の分析から国内の戦争指導要綱、東南アジア諸地域への独立指導など多岐にわたりました。他方、船舶の徴用と補塡、油槽船の陸海軍への配分、造船計画をどうするかといった議題も頻出し、東条ですら陸海軍の作戦計画を指導できたわけではありません。最後は権力集中の批判を覚悟で参謀総長まで兼務しましたが、政府と軍部の事務作業が効率的に改善された程度で終わりました」
近衛・東条に欠けていたもの
――日本のリーダーは組織上のルールに縛られてリーダーシップを発揮できなかったのでしょうか。
「ひとつの組織をどう運営するかは、トップのリーダーシップの資質・覚悟にかかっていたと言えます。近衛は『首相になりたくなかった』リーダーでした。五摂家筆頭の名門出身で、常に首相候補に挙がりながら天皇から就任を要請されながら辞退した時もありました。昭和期の首相としてトップクラスの知性の持ち主で、稀に見る聞き上手でもありました。多くの優秀なブレーンが周囲に集まりましたが、近衛本人には権力を維持、活用する意思に欠けた面がありました」
「東条は『首相になる準備がなかった』リーダーでした。軍事官僚としては優秀で昭和天皇への忠誠心も篤(あつ)く、天皇にも信頼されました。しかし自分を育て支えてくれた旧来型の組織システムを変革することはできませんでした」』
『多元的な権威主義の日本 独裁を許さず
――チャーチルも数々の政治的失敗を繰り返しました。第1次世界大戦の海相としてガリポリ攻略戦で惨敗し、後の財務相で金本位制復帰のタイミングに失敗しました。「王冠を賭けた恋」ではエドワード8世を支持し世論の反発を招きました。若手時代には将来の首相候補ナンバーワンだったチャーチルも30年代後半には「終わった政治家」とみられていました。
「ただ権力への意欲は失いませんでした。プライベートでは絵描きで玄人はだし、レンガ積みも職人組合に加盟していたほどの腕前だったとされます。政治の世界で挫折したとき、そうした政治以外の世界を持っていたことがチャーチルを支えたとも言われています」
――現在の「働き方改革」のヒントにもなりそうです。ただチャーチルは戦後体制を決める米英ソのポツダム会談中(45年)の総選挙で大敗しました。
「多元的な権威主義の日本は独裁を許しませんでした。一方、多元的な民主主義体制の英国は期限付きの独裁を許容しました。歴史の皮肉のようなものを感じさせられます」
(聞き手は松本治人)』