「人の話を最後まで聞く」は、人間関係の奥義。
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※ 『人の話を聞く事は胆力の提示である』…。よくよく噛みしめておこう…。
※ 『人間、どうしてもバイオリズムなどもあって「ちょっと言い過ぎる」ような場面が時にある。』…。
※ 「バイオリズム」などと言う「高級なもの」じゃないが、メンタル的に不調で、ちょっと「失敗した」経験を最近したんで、語っておく…。
※ 月イチくらいで、かかりつけ医に診てもらっている…。それで、最近も行ったんだが、新たな薬の処方を受けた…。
※ そしたら、一粒飲んだだけで、「強烈な眠気(ねむけ)に襲われた」…。車の運転なんか、止めた方がいいレベルの眠気だった…。
※ それで、その旨すぐに連絡したら、「飲むのは、止めてくれ。」と言われた…。「分かりました。」と答えて、指示に従った…。
※ しかし、頭のボーっとした状態は、ほぼ一日中続いたんだよ…。
※ そういう頭の状態、精神状態で、あることがあって、「コールセンター」に問い合わせた…。
※ 普段だったら、「しごく穏当に」応対するんだが、そういうメンタル不調状態だったんで、つい「言を、荒げて」しまった…。
※ まだまだ、オレも「人間修行」「精神修養」が足らんのよ…。
※ それでも、すぐに気づいて、終わり際に「丁重に」フォローは、入れといた…。スマンかったな、お嬢さん…。まだまだ、「修行」が足りんのよ…。
※ そっち方面でも、「昨日の我に、今日は」勝たんとな…。
『仕事における悩み事の一位は人間関係だという。
一口に人間関係といっても色々あるが、今日は他人とうまくやっていくという観点から役立ちそうな話をしてみようかと思う。
否定から入るコミュニケーションが普通だった若い頃
のっけから恐縮だが、若い頃の僕はかなりコミュニケーションに難を抱えていたように思う。
このコミュニケーション障害がどこに起因していたかだが、原因の一つに就労前は”否定から入るコミュニケーション”割とが許されていたというのはあると思う。
学生時代のコミュニケーション作法は真剣勝負であった。
そもそも気心がある程度しれた相手としかコミュしないという事もあったとは思うが、人を認めるという作法がそこにはほぼなく、むしろ相手をdisる事が普通であった。
例えば相手が何か主張しはじめたら
「それはおかしい」
「でも、こういう事もいえるんじゃない?」
という反論が提示される場面が多く、それをキッカケにロジカルや知力でもっての殴り合いがスタートする事もしばしばあった。
進学校の生徒や医学生は一般的には高い知性を有している。
若く、プライドの塊のような彼らは兎に角鼻っ柱が強く、強烈な自己主張を提示する事が集団の中で埋没しない為にも許されるという側面があった。
このような会話に時にイラッとさせられたり険悪なムードを通り越して絶縁状態へと発展する事も多々あった。
だが、それはそれでまあ「合う人と合わない人がいる。仕方がない」と皆で諦めていた。
人の世は過ちで満ち溢れているが、それでも社会はちゃんと成立している
正直…僕はかなり長い間これを一般的な会話のお作法だと思っていたのだが、働き始めてから「これだと駄目だ」という事を幾度となく痛感するようになった。
若い医者にとにかくありがちな事の1つに、頭ごなしに患者さんやコメディカル含む同僚を説教にも近い態度でもって批判してしまう事がある。
必ずしも悪気があってそうしている訳ではないのだけど、こういう高慢な態度からは適切なコミュニケーションはまず発生しない。
正しいか正しくないかでいえば…正論をぶちまけている側にも一定の理はある。
だが、それは若さ故に真剣勝負を繰り広げる事が許された学生時代限定の行いだったと考えた方が遥かに建設的で、この態度を社会人以降にもなって続けるのはあまりにも分が悪い。
いくらやっている事が正しかろうが…社会をキチンと回せていない時点で駄目なのだ。
間違っていようが社会がキチンと回ることこそが肝心で、そういう意味では”過ち”は時に”正論”を超えるのである。
間違っていても、社会を回せている時点でエラい
医者に限らず、世の中の多くの事は正しいか・正しくないかという観点のみからは成立しえない。
人間、身体にめちゃくちゃ悪くても酒を飲んだ後で〆にラーメンを食べてしまうように、良くないムーブメントだって社会生活の大切な一要因である。
合ってるとか間違っているのかの前に、キチンと社会を回す事こそが肝心だ。
どんなに正しい行いでも社会が回らないのなら、その正しさは社会を回せないという時点で過ちにすら劣る産物でしかない。
清濁併せ呑むというフレーズがあるが、社会というのは本当にこの清濁併せ呑むという感覚がとてつもなく大切だ。
完璧な人間などこの世に居ないのだから、生きるということは許すという事と同義でもある。
だから人を許せるような人間を目指そう。
己の内なるアスペ心を爆発させて、他人の欠点や不満をあげつらう人間をやっても誰もついてきてはくれない。
正しさはある面では正義だが、それは万能ではない。
間違いであろうが社会を回せるのなら、間違いを許せるという事は時には正しさを超えるのだ。
人の話を最後まで聞けるというだけでも、強い
このように時に過ちを許せるという事が社会を回していくにあたっては肝心なのだが、それでもどうしても意見が対立する事や相手の意見を許容できない時というのはある。
例えば会社で管理職などにつかれている方で、部下が会社の方針にたてついてきた時があったとしよう。
この時「お前が正しい」というのは微妙だし、かといって頭ごなしに否定するのも冒頭の若き医大生の会話と同質である。
僕はずっと長い間、この難問をどう処理すればいいのかがわからなかった。
だが、最近になって実は会話の基本中の基本でもある「人の話を最後まで黙って聞く」という事が意外と効くという事に気がついた。
人は受け止めてもらえるだけでも、かなり満足する
繰り返しになるが、完璧な人間などこの世にはいない。
人間、どうしてもバイオリズムなどもあって「ちょっと言い過ぎる」ような場面が時にある。
だが、そういう時でも会話を止められずに最後までキチンと自分の意見を聞いてもらえると、意外と途中で冷静になれたりする。
会話を途中で遮られて意見を否定されると、頭の中は余計にヒートアップする。
だが腹の中を最後までぶちまけて、その上で相手が
「あなたの言いたいことはこういう事ですか?」
と自分の言っている事を相手にキチンと冷静に聞いてもらえたりすると、人は結構シラフに戻れる。
人の話を聞く事は胆力の提示である
人の話を最後まで黙って聞けるという胆力を示されると、多くの人は相手に尊厳のようなものを抱いてしまう。
逆に言えば、相手がどんなに凄かろうが、自分の話を全くといっていいほど聞かない相手を人は決して対等にはみない。
この手の人物は「確かにアイツの言ってる事は正しいかもしれないけどさ…」といった枕詞をつけて、ほぼ間違いなく受け入れられない。
基本中の基本でもある人の話を黙って聞くという事の本質は「俺にはお前を受け入れる胆力がちゃんとあるぞ」という態度の表出だ。
このような大きな態度を示せる人物は”器が大きい”という形容詞でもって称賛される事があるが、その器の大きさというのは実はたった数分程度の違いでしかない。
たった数分。その時間を我慢して相手に向き合えるというだけなのだが、こんな言葉にすればシンプル極まりない行いですら多くの人はできないままに人生を終えてしまう。
人の道とは実に奥深い。人間力は瞬きほどの時間ですら差が出るのである。
相手をキチンと受け止めた人の意見は、肯定も否定もちゃんと届く
こうやって相手を1人の人間として受け止めているよという態度さえ示すことができるのなら、その後に続く言葉は肯定でも否定でもちゃんと相手には届く。
「あなたはそう思うのね。けど私はそう思わない」
このように意見が完全に食い違ったとしても、お互いの間に人と人としての対等な関係がベースとしてあるのなら、経験上ではだいたいの場合において意見は落ちるところにちゃんと落ちる。
この落とし所をちゃんと作れるというのが人間関係では本当に肝心で、仮に相手が100%間違った意見を言っていたとしても「つかれていたんでしょ?じゃあ仕方がないよね」と歩み寄る余地を作ってもらえたりすると、拗れた案件ですらストンと落ちたりもする。
実は管理職に必要な能力がこの「落とし所をちゃんと作ってあげる能力」だ。プレイヤーとしてのエレガントな仕事さばきだとか、尋常ではない生産力だとかは現場では非常に重宝される能力だが、人をとりまとめる地位にいる人にとってはさほど肝心なものではない。
よく物凄く仕事はできるけど、管理職としては全然駄目だという人がいるけれど、そういう人は他人を”許す”能力に欠けている事が多い。
正論という切れ味のいい武器だけで戦っていて、落とし所を作るという柔らかさの必要性を認知していない。
この手の人物が管理職になると、現場はたいてい疲弊してしまう。
仕事はできるのに、人の気持ちが全然わからないと言われるタイプの管理職は部下とキチンとコミュニケーションをしていない。
自分は100%正しく、相手は100%間違っているという立ち振舞いは、仮にそれが本当にそうであったとしてもコミュニケーションではない。
人を管理するのに、なにも難しい人心掌握術などを使用する必要はない。
正しい・正しくないというフィルターを外し、間違いを時に必要な多様性として捉え、他人とコミュニケーションをする。
こういう胆力ある立ち振る舞いを、私達は身にまとわなくてはいけないのである。』