オーデル・ナイセ線

オーデル・ナイセ線
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%82%BB%E7%B7%9A

『オーデル・ナイセ線(オーデル・ナイセせん、ドイツ語: Oder-Neiße-Grenze)は、現在のドイツ連邦共和国とポーランド共和国の国境線。オーデル川とその支流のナイセ川によって構成される[1]。』

『歴史

建国時代の中世ポーランド

オーデル・ナイセ線は、1945年のポツダム会談により、第二次世界大戦後のドイツ・ポーランドの暫定的な国境として設定された。それ以前のドイツ・ポーランドの国境は、歴史的なプロイセンとポーランドの国境が適用されており、オーデル・ナイセ線よりもずっと東側にあった(参照:ポーランド分割による各国の獲得領土)。

中世フランク王国の時代にはエルベ・ザーレ川付近が境となり、以東、現在のブランデンブルク州やザクセン州付近まで、スラヴ系のソルブ人が住んでいた。カール大帝らによるエルベ以東遠征以降、13世紀頃まではおよそオーデル・ナイセ線付近がドイツ(神聖ローマ帝国)とポーランド王国の国境であった。この一帯のシレジア地方では17世紀までポーランド王家であるピャスト家の分家が諸侯として支配したが(シロンスク公国群)、13世紀にモンゴル帝国軍が襲来し一帯を荒廃させて撤退すると、疎開から戻ってきたポーランド人住民だけでは戦後の復興のために人手が足りず、西方のドイツ、フランス、オランダなどから多くの移民が招かれた。そのうち特に多かったのはドイツ人で、各地で次第にドイツ語が優勢となっていった。17世紀に最後のピャスト家の侯が死亡すると、シレジアはオーストリアのハプスブルク家に相続された。その後、この地方は18世紀中頃のシュレージエン戦争の結果、プロイセン王国の手に渡った。以後1945年にナチス・ドイツが第二次世界大戦に敗北するまでは、ドイツの一地方と認識されていた。この地域では統計においては「ドイツ人」が多かったものの、実はそのうちの多くは俗に「シレジア人」「ポメラニア人」「マズーリア人」などと呼ばれる、ポーランド人やチェコ人の家系が近世から徐々に母語を西スラヴ語からドイツ語に変えることで文化がドイツ化した土着のスラヴ系の人々で、彼らは統計においてはドイツ人とみなされ、第一次世界大戦後に国家の帰属を問うために行われた住民投票でも、母語のドイツ語が国語であるドイツを選んだ。

ポツダム会談で新しい国境線をオーデル・ナイセ線に設定したのは、

ポーランドをそれまでより西側に移し、ポーランド・ソビエト戦争後に調印されたリガ講和条約によりポーランド領とされた白ロシアとウクライナの西側(ナチスのポーランド侵攻に呼応してソ連軍が侵略・不法領有した領土のほとんど)を、引き続きソ連領として存続するのを正当化させること
スターリンの歴史観によると、中世から近代にかけての各国家の発展は王侯貴族やブルジョワがプロレタリアートの意向を無視して行ったもので、無効であるため、ポーランドはまずは10世紀の建国時に設定された国境を持つべきであること
オーデル川と西ナイセ川に国境線を引くことでドイツ・ポーランド間の国境線が最短になるため、将来に両国で戦争となった場合は、他に国境線がある場合に比べるとポーランドの防衛が容易であること
ドイツ系住民の少ないポーランドを作ることで将来の民族紛争の種をなくすこと

などが目的であった。結果として第二次世界大戦前後で比較すると、ポーランドは国土全体が西側に移ったような形となった。

影響

オーデル・ナイセ線以東の旧ドイツ領土
ポーランドへの影響

ポーランドにとってこの国境線設定は

第二次世界大戦期にポーランドのユダヤ人がナチスによって絶滅させられるか、戦後はアメリカ合衆国やイスラエルに亡命するなどして、ほぼ完全に国内から居なくなってしまったこと
この地域に住んでいたドイツ人が、ほとんど難民という形でドイツに移住してしまったこと(ドイツ人追放)
旧ポーランド東部の喪失領土のポーランド人のほとんどが新領有国のソ連によって、逆にポーランド新領土に強制移住させられ、多くがオーデル・ナイセ線付近の「回復領」の復興のためにこの地域へ移住したこと
正教徒が優勢な東スラヴのロシア人・ベラルーシ人・ウクライナ人を、かつての東部領土とともに切り離したこと

などから、新生ポーランドはカトリックやポーランド人の民族的・文化的均質性が極めて高い国家になった。

ドイツへの影響

ドイツにとっては

近世から近代にかけてドイツ人地域の統合を牽引したプロイセン王国の故地であり、中欧の大国ドイツ帝国に君臨したホーエンツォレルン家揺籃の地でもある東プロイセンなど、歴史的なプロイセン地域の大半を失ってしまったこと。
ドイツ騎士団の活躍に端を発した中世以来の東方植民によって、当地に数百年もの間にわたってドイツ系住民が定住していたこと

から、極めて喪失感が強かった。

決定以後

この国境線は「暫定的なもの」として定められたものであるが、ソビエト連邦がポツダム会談を通じて衛星国であるポーランド人民共和国とドイツ民主共和国(東ドイツ)に押し付けたものであった。従ってポーランドおよび東ドイツには拒否という選択肢はあり得ず、東ドイツ成立後の1950年7月6日にポーランド人民共和国とドイツ民主共和国との間でズゴジェレツ条約が締結され、この2カ国間では受け入れられることになった。

アメリカ合衆国国務長官ジェームズ・F・バーンズが1946年9月6日にシュトゥットガルトで行った演説『ドイツ政策の見直し』では、「合衆国は、これらの国境線をポーランドに有利な形で見直すことを支持する」としつつも、「ポーランドに割譲される地域の範囲は、最終解決が得られた際に決定されねばならない」と、オーデル・ナイセ線が最終解決ではない含みを持つ見解を述べたため、西ドイツのアメリカに対する支持を高める一方で、アメリカとポーランドとの関係悪化を招いた。

東ドイツがこのラインを認めた一方で、「ドイツ連邦共和国(西ドイツ)がこのラインを「ドイツ」とポーランドの国境として受け入れるか?」という問題が残っていた。1950年代から1960年代の西ドイツは共産主義者の支配するドイツ民主共和国を承認せず、これと国交のある国とは外交関係を結ばないという政策(ハルシュタイン原則)を採っていた。このため当初は交渉にすらならなかった。ハルシュタイン原則は1969年に放棄され、翌1970年12月7日に締結されたワルシャワ条約(ワルシャワ条約機構とは無関係)によって、西ドイツとポーランドの国交が結ばれると、この条約の中で「オーデル・ナイセ線が事実上の独波国境である」ことが確認された。野党のCDU/CSUはこの条約の内容(国境線と共産主義ポーランドの承認)を批判して全国的な議論となったが、紆余曲折の末にドイツ連邦議会は1972年5月17日にこの条約を批准した。

さらに1972年12月に締結され、東西ドイツが相互の主権を確認し合った東西ドイツ基本条約の中でも、改めて「ドイツ」とポーランドの国境がオーデル・ナイセ線であることが確認されて、この国境が確立された。

最終解決

国境線

1990年のドイツ再統一の直前である6月12日に、旧西ドイツとポーランドの間で改めて国境線として確認され、再統一直後の同年11月14日に統一ドイツとポーランドとの間で国境線の最終確認条約(ドイツ・ポーランド国境条約)が締結された。その内容は以下の通りである。

1950年7月6日に旧東ドイツとポーランドとの間で締結されたズゴジェレツ条約により定められた国境線を、正式な国境線として再確認
以後、両国間の国境線は一切変更しない
以後、どちらの国家も領土の変更を一切要求しない

ドイツとポーランドの歴史的国境線問題は、このようにして法的かつ最終的に整理された。
旧住民の個人財産

裁判に至る経緯

条約では、個人財産の扱いは触れられていないため、オーデル・ナイセ線以東でポーランドの共産主義化により国家に没収された個人財産を取り返すべきだと主張するドイツ人が存在する(主要な政治家ではエドムント・シュトイバー、クラウス・キンケルなどがその立場を取っていた。政党別ではキリスト教社会同盟に支持者が多い)。被追放者たちはドイツ政府からそれまでに喪失財産に関する補償金は受け取っている。ドイツ、ポーランド両政府は公式に「請求権問題は解決済み」の立場を取っていたが、これについて厳密に法的な処理が成されていないと解釈する者もおり、それによると請求権の行使が認められる余地が残されているとされ、両国間の政治問題となっていた。これはドイツ政府が法的処理を行うと、ドイツ人追放者から請求権の肩代わりによる財産補償請求が行われるのを恐れての結果とも考えられた。ドイツ人追放者の最大の団体である追放者連盟のエーリカ・シュタインバッハ議長はドイツ政府に、追放者財産の請求権を法的に処理するよう要求していたが、2009年時点でドイツ議会・政府において法的処理に向かう具体的な動きはなかった。この問題は、ドイツ人による財産返還請求に反発したポーランド議会が2004年9月にドイツを相手取った「戦争被害賠償請求決議」を行うなど、21世紀に入っても両国関係に影を落とし続けた。

また2005年11月に『デア・シュピーゲル』誌が発表した世論調査結果によると、ポーランド人の61%が、ドイツ政府が戦前にドイツ領だった地域を取り戻そうとしているか、あるいはその補償を求めてくるのではないかと考え、また41%は追放されたドイツ人の各団体の目的は失った個人財産の返還あるいはその補償にあるのではないかという危惧が示されるなど[2][3]、被追放ドイツ人の財産請求に関する法的処理を先延ばしし続けるドイツ政府に対し、多くのポーランド人が強い不信感を抱いていた。

欧州人権裁判所の判断による解決の確認

2006年12月、会員数約1000人といわれていたが、実際の会員数はそこまで多いのかまったく不明な「プロイセン信託」という組織の会員23人が原告となり[4]、欧州人権裁判所に財産返還を求めて提訴し、ドイツ・ポーランド関係は日本のメディアによって「戦後最悪」とセンセーショナルに報じられた[5]。

しかし2008年10月10日に欧州人権裁判所は、

1994(出典となったドイツの公共国際放送局ドイチェ・ヴェレの記事の原文ママ、1944年の間違い)年10月19日より行われたいわゆる「ドイツ人追放」はソビエト連邦によるものであり、この「ドイツ人追放」についてポーランドには一切責任はない
ポーランドとドイツがヨーロッパ人権協約を批准したのはドイツ人追放の後のことであり、(この協約に基づいて設立された)当裁判所は今回の請求を審査する立場にない
ドイツ人住民の元の場所への再移住、ドイツ人住民が没収された財産の返還、原告の失った財産の補償、といったことのための法律をポーランドが作る責務はまったくない

との決定を下し、請求を棄却した[4]。すなわち、国境線や領土主権のみならず、この判決によりポーランドから追放されたドイツ人の「個人財産」に関する問題が、以前からすでに法的かつ最終的に解決していた事実が確認されたのである。

なお、この判決に関してポーランドのドナルド・トゥスク首相は「ポーランドとドイツの双方にとって有益な判決であり、この問題は最終的に解決した」、ドイツのアンゲラ・メルケル首相は「ドイツ政府はこれまで、原告であるプロイセン信託の請求権には正当性がまったくないと主張してきたが、ついにその主張が認められた」、ドイツのフランク=ヴァルター・シュタインマイアー外相は「ドイツとポーランドの間に第二次世界大戦から続くような財産に関する問題は一切残っていないというベルリン政府の見解が、この判決で確認されたのだ」と、それぞれ歓迎する言葉を述べた[4][6]。 』

カリブ海地域

カリブ海地域
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%83%96%E6%B5%B7%E5%9C%B0%E5%9F%9F

 ※ なるほど…。

 ※ こういう「プレート」の上に、乗っかっているんだな…。

 ※ 「ハイチ大地震」も、3.11と同様の、「プレート境界型」だったわけだ…。

『カリブ海地域(カリブかいちいき、英語: The Caribbean、スペイン語: Caribe、オランダ語: Nl-Caraiben.ogg Caraiben[ヘルプ/ファイル]、カリブ・ヒンドゥスターニー語: ???????? (Kairibiyana); フランス語: Caraibe ないし Antilles)は、カリブ海と、その海域の島々(カリブ海域内の島々や、カリブ海と北大西洋の境界を成す島々)、周辺海域から構成されている。カリブ海地域はメキシコ湾と北アメリカ大陸の南東、中央アメリカの東、南アメリカ大陸の北に位置している。日本語ではカリブ地域、あるいはこの地域にある国を総称してカリブ諸国とも呼ばれる。

この地方の大部分はカリブプレート上にあり、域内には700以上の島嶼、岩礁、キー(サンゴ礁上の低い島)などがある(カリブ海地域の島の一覧(英語版))。島々の多くは島弧を形成して、カリブ海のと東渕と北縁となっている[3]。カリブ海地域の島々は、北側の大アンティル諸島と、南および東側の小アンティル諸島(リーワード・アンティル諸島を含む) から成り、大アンティル諸島やカリブ海より北に位置するバハマ諸島(バハマからタークス・カイコス諸島に至る範囲)をも含んだ、より広い範囲を指す表現としての西インド諸島の一部となっている。広い意味では、大陸の一部であるベリーズ、ベネズエラ、ガイアナ、スリナム、フランス領ギアナもカリブ海地域に含める場合がある。

地政学的には、カリブ海地域の島々は北アメリカの下位区分 (subregion) と見なされることが多く[4][5][6][7][8]、合わせて30の主権国家、海外県、属領から成っている。1954年12月15日から2010年10月10日まで、5つの統治体から成るオランダ領アンティルと称されたオランダ属領があった[9]。また、1958年1月3日から1962年5月31日まで、イギリス属領であった英語圏の領域が構成した、西インド連邦と称された短命な自治国が存在していた。クリケット西インド諸島代表は、その後も、これら諸国の多くを代表して編成され続けている。 』

『様々な定義

カリブ海地域の地図

「カリブの」を意味する英語の単語「Caribbean」は、様々な含意で使われることがある。おもな使い方は、地理的、政治的な意味である。しかし、この言葉でさす対象は拡張され、奴隷、ヨーロッパによるアメリカの植民地化、プランテーションの仕組みなどと、文化的、歴史的に強く結び付いた周辺の領域まで包含することがある。

国連による世界地理区分において、カリブ海地域はアメリカ州の一部と位置づけられている。

自然地理学的には、カリブ海地域はカリブ海を取り巻く列島を中心とする地域である。北側では、メキシコ湾、フロリダ海峡、そして、東側から北東側に広がる北大西洋と隣接している。南側は南アメリカ大陸の海岸線によって区切られている。

政治的には、この地方で形成された社会経済的グループをおもに意味することがある。例えば、カリブ共同体 (CARICOM) と称する貿易ブロックには、南アメリカのガイアナ協同共和国やスリナム共和国、中央アメリカのベリーズも正式な加盟国として参加している。大西洋上のバミューダ諸島とタークス・カイコス諸島は、準加盟となっており、バハマ国は加盟国となっている。

また、カリブ諸国連合 (ACS) には、カリブ海地域と周辺にあるほとんどすべての国・地域が参加し、さらに、太平洋にしか面していないエルサルバドルも加盟している。ACSによれば、加盟国の総人口は2億2700万人に達するという[15]。』

『地理、地質、気候
カリブプレート

カリブ海地域の地理と気候は、多様である。この地方の一部の島々では、火山に由来しない平坦な土地しかない。こうした島々の例としては、アルバ(ごく小規模な火山地形がある)、バルバドス、ボネール島、ケイマン諸島、セント・クロイ島、バハマ諸島、アンティグア島などがある。他方では、起伏が大きい山稜が聳える、キューバ、イスパニョーラ島、プエルトリコ、ジャマイカ、ドミニカ島、モントセラト、サバ島、セントクリストファー島(セントキッツ島)、セントルシア、セント・トーマス島、セント・ジョン島、トルトラ島、グレナダ、セントビンセント島、グアドループ、マルティニーク、トリニダード・トバゴなどの島々もある。
ベネズエラ領ロス・ロケス諸島(スペイン語版)のカーヨ・デ・アグア (Cayo de Agua)。

大アンティル諸島と小アンティル諸島の範囲の定義も、異なった形で行なわれることがしばしばある。ヴァージン諸島は、プエルトリコの島棚に連なる浅堆上にあるため、しばしば大アンティル諸島の側に入れられる。小アンティル諸島という用語は、列島を指して用いられることがよくあり、グレナダを含み、トリニダード・トバゴやリーワード・アンティル諸島を除外して用いられる。

この地域の気候は熱帯気候であるが、降水量は標高や、島の大きさ、海流などとの関係で多様である。例えば、小アンティル諸島のABC諸島は、打ち寄せる冷涼な湧昇流によって乾燥している。湿潤な貿易風が定常的に東から吹くため、山がちな島々では熱帯雨林と半砂漠に気候が分かれている。時々吹く北西風は、冬季に北寄りの島々に影響を与える。カリブ海地域は、一年を通して日照に恵まれるが、季節は乾季と雨季に判れ、一年の前半よりも後半の6ヵ月のほうが湿潤である。

カリブ海には、豊富な回遊性の魚の群れや、亀などがおり、サンゴ礁の形成も進んでいる。大西洋とカリブ海の縁、プエルトリコ島のすぐ北側に位置するプエルトリコ海溝は、大西洋全域の中でも最も水深が深い場所である[16]。

カリブ海地域は、しばしばハリケーンに見舞われるが、通常は、グレナダより北側、バルバドスより西側が襲われることが多い。おもなハリケーン・ベルトは、カリブ海東部のバルバドス島の北西側まで伸びている

カリブ海地域には、カリブ海と太平洋を結ぶパナマ運河経由の主要な航路がいくつも通っている。
ジャユヤ(英語版)の山の上から眺めたプエルトリコの南海岸。
ベネズエラ領マルガリータ島のプエルト・クルス・ビーチ (Puerto Cruz beach)。
コロンビア領サンアンドレス島。
グレナダのセントジョージズにあるグランド・アンセ・ビーチ (Grand Anse beach)。
グアドループの山地にある、教会の墓地。
おもな島、群島

大アンティル諸島

バハマの旗 バハマ
 キューバ
イスパニョーラ島
    ハイチの旗 ハイチ
    ドミニカ共和国の旗 ドミニカ共和国
ジャマイカの旗 ジャマイカ
ケイマン諸島の旗 ケイマン諸島(イギリス領)
タークス・カイコス諸島の旗 タークス・カイコス諸島(イギリス領)
プエルトリコの旗 プエルトリコ (アメリカ合衆国領コモンウェルス)

小アンティル諸島

リーワード諸島
    アメリカ領ヴァージン諸島の旗 アメリカ領ヴァージン諸島(アメリカ合衆国領)
        セント・クロイ島
        セント・トーマス島
        セント・ジョン島
        ウォーター島
    イギリス領ヴァージン諸島の旗 イギリス領ヴァージン諸島(イギリス領)
        トルトラ島
        ヴァージン・ゴルダ島
        アネガダ島
        ヨスト・ヴァン・ダイク島
    アンギラの旗 アンギラ(イギリス領)
    アンティグア・バーブーダの旗 アンティグア・バーブーダ
        アンティグア島
        バーブーダ島
        レドンダ島
    セント・マーチン島 - 政治的には以下の2つの領域に分かれている。
        Flag of France.svg サン・マルタン(フランス領)
        シント・マールテンの旗 シント・マールテン(オランダ領)
    サバ島の旗 サバ島(オランダ領ボネール、シント・ユースタティウスおよびサバの一部)
    シント・ユースタティウス島の旗 シント・ユースタティウス島(オランダ領ボネール、シント・ユースタティウスおよびサバの一部)
    Flag of Saint Barthelemy (local).svg サン・バルテルミー (フランス領アンティル)
    セントクリストファー・ネイビスの旗 セントクリストファー・ネイビス
        セントクリストファー島(セント・キッツ島)
        ネイビス島
    モントセラトの旗 モントセラト(イギリス領)
    グアドループの旗 グアドループ(フランス領アンティル)
        レ・サント諸島
        マリー・ガラント島
        ラ・デジラード島
ウィンドワード諸島
    ドミニカ国の旗 ドミニカ国
    マルティニークの旗 マルティニーク(フランス領アンティル)
    セントルシアの旗 セントルシア
    セントビンセント・グレナディーンの旗 セントビンセント・グレナディーン
        セントビンセント島
        グレナディーン諸島
    グレナダの旗 グレナダ
        グレナダ
        カリアク島・プティトマルティニーク島
バルバドスの旗 バルバドス
トリニダード・トバゴの旗 トリニダード・トバゴ
    トバゴ島
    トリニダード島
リーワード・アンティル諸島
    オランダ領アンティルの旗 アンティル
        アルバの旗 アルバ(オランダ王国領)
        キュラソーの旗 キュラソー(オランダ王国領)
    ボネール島の旗 ボネール島(オランダ領ボネール、シント・ユースタティウスおよびサバの一部)』

ミャンマー東部の港湾構想が再始動 資金難で開発難航も

ミャンマー東部の港湾構想が再始動 資金難で開発難航も
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM12BSB0S2A810C2000000/

 ※ ヤンゴンが、正確には海に面しておらず、河口港しか持たないとは、知らんかった…。

 ※ 地図見ると、何となく「海岸線」沿いに位置している感じなんで、漠然と「海港」を持つものだと思っていた…。

 ※ 実際に地図見ると、海洋からの防御には優れていそうだが、大量の物資を運搬する「物流」には、不向きの「港」のようだ…。

 ※ これだからな…。

 ※ 「地理と歴史の力」の解明をめざす者としては、まだまだ「未熟者」だな…。

『ミャンマー軍事政権が東部モン州の大規模港湾の開発に動いている。同州政府は8月上旬、国営紙を通じ「空港と港湾を建設する予定地を決めた」と発表した。クーデターで転覆された国民民主連盟(NLD)政権の構想を再始動した格好だ。ただ外国の投資や援助は見込みにくく、開発資金を確保できるかが課題だ。

モン州政府の発表によると、港湾の建設予定地は州都モーラミャインから南方約40キロメートルのムドン郡区。主要河川のタンルウィン川の河口にあたる。付近には新たな国際空港も整備する計画で、開発面積は合計約1900ヘクタールに達する。今回の発表に先立ち、5月には国軍の統制下にある運輸・通信省港湾局が事業性調査を行う事業者の入札手続きを開始した。

クーデターで全権を掌握したミンアウンフライン国軍総司令官は2021年6月にモン州を訪問した際に、国際空港や大規模港湾を開発する必要性に言及し「海産物の輸出に役立つ」と述べていた。

NLD政権もモン州での港湾開発を提唱していた。20年7月、当時国家顧問としてNLD政権を率いていたアウンサンスーチー氏は、日本企業向けのオンラインセミナーで同州に新たに経済特区を設ける方針を発表した。日本の支援で15年に開業したヤンゴン近郊のティラワ経済特区、中国が主導する西部ラカイン州のチャウピュー経済特区などに続き、4カ所目の特区となるはずだった。

ミャンマーは海に面した大型港がない弱みを抱える。海上貿易の中心であるヤンゴン港は河川港で大型船が入港できない。モン州はミャンマーの最大都市ヤンゴンからタイとラオスを経てベトナムのダナンに至る「東西経済回廊」の通過点にあたる。タイとの国境にも近い物流の結節点だ。

スーチー氏自ら日本向けのセミナーで発表したことから、日本政府の援助や日系企業の投資を期待したのは明らかだった。そもそも、中国主導で開発する予定のチャウピュー港に次いで将来開発すべき大規模港湾の候補地を調べ、モーラミャイン周辺を有力候補として提案したのも日本だ。新港開発には「数百億円規模」(開発コンサルタント)の投資が必要となるが、財源には円借款を活用することが想定されていた。

軍事政権が今回明かした構想はこの時の案をほぼ引き継ぎ、新空港の整備を加えたものとみられる。外国投資が細り外貨の確保が難しくなるなか、ミンアウンフライン氏は輸入を抑制し国産化を進める「輸入代替工業化」を目標に掲げている。

だが、国軍主導の体制が続く限り、日本政府が前面に出て港湾開発に乗り出す可能性は極めて低い。日本政府は暴力の即時停止や政治犯の解放を求め、新規の政府開発援助(ODA)供与を凍結している。外交関係者は「(ミャンマー側が)勝手に言っていることだ」と突き放す。

実現するとすれば中国が関与するケースだが、中国は広域経済圏構想「一帯一路」のもと中国国境からヤンゴンやチャウピューまで結ぶ運輸インフラの開発に注力しており、脇道にそれるモン州には大きな関心を払っていない。ミンアウンフライン氏の意を受けて発表した空港や港湾の開発構想だが、資金調達が実現するかどうかは不透明だ。

(ヤンゴン=新田裕一)』

インドシナ半島

インドシナ半島
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%B7%E3%83%8A%E5%8D%8A%E5%B3%B6

 ※ リムランドだから、ハートランドの支配をもくろむ勢力と、それを阻もうとする勢力が激突する場所となる…。

 ※ 半島だから、ランドパワーとシーパワーが激突する場所となる…。

 ※ おまけに、ハートランド内部での中ロの勢力争いの対象ともなる…。

 ※ さらには、「山岳」部分を抱えるから、「たこ壺」化した少数民族との紛争も生じることになる…。

 ※ ある意味、強力に「統制する」必要があるから、独裁化しやすい構造があるんだ…。

『インドシナ半島(インドシナはんとう、印度支那半島、フランス語: la Peninsule indochinoise、中国語: 中南半?)は、中国の南、インド亜大陸の東にある東南アジアの半島である。ベトナム語では Ban ??o ?ong D??ng(東洋半島、チュハン:半島東洋)である。』

『概要

この地域はインドシナ(仏: Indochine)と呼ばれ、インドと中国(支那)に挟まれている地理特徴からフランスによって名付けられた。具体的には、ベトナム、ラオス、カンボジアの3ヶ国に加え、タイとミャンマー両国のマレー半島の部分を除く地域がインドシナと呼ばれる。ただし、マレー半島をも含めてインドシナ半島やインドシナと呼ぶ場合もある。一方、フランスから「インドシナ」という場合などには、旧仏領インドシナ地域のみを指していることがある。ベトナムではこの地域を、西洋に対して、アジアの中心であるという意味も含めて、「インドシナ」ではなく「?ong D??ng(東洋)」と呼んでいる。このような「狭義のインドシナ」については、仏領インドシナを参照。このフランス領インドシナ旧構成3国と英領インドシナであったミャンマーをインドシナ4国(CLMV)という場合もある。

歴史

英仏による進出 ベトナム、ラオス、カンボジアの3ヶ国(狭義のインドシナ)はかつてフランス領インドシナだった。フランスが英国とのブラッシーの戦いで敗北してインドから撤退、植民地政策をインドシナに向けたため、ベトナムとの戦争で保護国化、カンボジアとラオスはタイから宗主権を委譲されて保護国、植民地化した。一方、インドを植民地化した英国はインドに近いミャンマーをインド植民地に併合(のちにビルマ植民地に分離)した。

日本による介入

一時、日本はフレンチインディア(フランス領インドシナ)と英領インドシナ(ミャンマー)を占領して、日本保護下で半独立国としてベトナム皇帝・カンボジア王・ラオス王による君主制とし、ビルマでは英国が王を追放して直轄植民地としたことから君主制にせず、総統を元首とする共和制とした(いずれも日本後押しの傀儡政権とみられ、現政権は連続性を認めていない)。4か国はラオスとミャンマーが微少に国境を接するだけであったことから、英仏衝突の弊害は軽度で済んだようである。

日本介入時のインドシナ諸国

ベトナム帝国
カンボジア王国 (1954年-1970年)
ラオス王国
ビルマ国

独立~現在

その後、4か国は日本が戦争に敗れると英仏から独立するが、ベトナム・ラオスは共産主義政権、カンボジア・ミャンマーは共産主義の影響を受けたことがあるとして、「インドシナ4国」(4か国の頭文字からCLMV)と総称される。

これらの国々は未加盟の東ティモールを除けば、東南アジアでは東南アジア諸国連合への加盟は最後発にあたる。

タイはこれらインドシナ4国に三方を囲まれているが、英仏によるインドシナ4国介入の影響から植民地化は免れ、政治・経済上などでインドシナ諸国と呼ぶ場合は含まれない(マレーシアを含めた最広義のインドシナには含まれる)。

2021年、ビルマで軍事クーデターが勃発して政権が変わり、構成4国すべてが再び独裁国家となった。

民族

インドシナ半島と周囲国
1770年代の古地図

古くからバンチェン、ホアビン、ドンソンなどの先史文化が栄え、インド文明や中国文明の影響を受けたカンボジア人、タイ人、ビルマ人、ベトナム人や数多くの少数民族が住居する。

形成

半島の東側は南シナ海、西側はベンガル湾に面する。東部にはアンナン山脈、西部にはアラカン山脈があり、その間をメコン川、チャオプラヤー川、エーヤワディー川などが北から南へ流れ、下流地域では広大な三角州を形成している。

備考

一部の旅行会社等がインドシナに含まれる「シナ」を差別用語だとして、インドシナを英語における呼称に準じてインドチャイナと呼びかえる(書き換える)動きがある。韓国では実際に、中国との国交正常化後、「インドシナ」から「インドチャイナ」に言い換えている。なお、北朝鮮では、「インディアチナ」と呼んでいる。しかしインドシナが差別的文脈で使われる事例は皆無のため、この動きは一般化していない。

中国では、日本向けの言語月刊誌『人民中国』などで、東シナ海や南シナ海については、東中国海や南中国海としていたが、インドシナはそのままカタカナで表記されていた。中国では最近まで、「印度支那半島」がごく普通に用いられていた。しかし現在は、中国の南にあるという意味で、中南半島が推奨されている。 』

〔イラク、関連情報2〕

バグダード における年間の気候および平均気象
https://ja.weatherspark.com/y/103217/%E3%83%90%E3%82%B0%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%89%E3%80%81%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E5%B9%B4%E9%96%93%E3%81%AE%E5%B9%B3%E5%9D%87%E7%9A%84%E3%81%AA%E6%B0%97%E5%80%99

『 バグダードでは、夏はうだるように暑く、乾燥状態、快晴、冬は寒く、乾燥状態、ほぼ晴れです。 1 年を通して、気温は 5°Cから 45°Cに変化しますが、1°C 未満または 48°C を超えることは滅多にありません。

砂浜/プール点によると、年間でサマーアクティビティのためにバグダードを訪問する最適な時期は4月下旬から5月下旬まで、9月中旬から10月中旬までです。 』

〔イラク、関連情報1〕

雑学から知るユーフラテス・チグリス川。メソポタミア文明を生んだ偉大な川
https://seiwanishida.com/archives/13759

『2つの川なくしてメソポタミア文明なし

ユーフラテス川とチグリス川は主に現在のイラクに位置する。2つの川の源流はトルコにあり、シリア、イラクへと流れている。2つの川はイラク南部の町クルナで合流し、ペルシャ湾へと流れ込む。

チグリス川は全長1,900キロで、うち1,290キロがイラクを流れている。ユーフラテス川は全長2,800キロで、うち1,015キロがイラクを流れている。

ユーフラテス川とチグリス川の場所

メソポタミア文明が興ったのも、この2つの川ゆえである。メソポタミアは、古代ギリシャ語で「川の間の土地」を意味する。

ここで言う川がチグリス、ユーフラテス川である。この2つの川に挟まれた場所、メソポタミアで文明が興ったので、メソポタミア文明と呼ばれているのである。

日本のような、成熟した便利な社会に住んでいると、普段の生活で川のことを考えることは、ほぼないだろう。せいぜい、台風や大雨の時に川が増水して、氾濫しないかを心配するぐらいである。

けれども、川というのは、人間の生活に大きな恵みを与えてくれるということが、メソポタミアの例を見るとよくわかる。

紀元前4,500年前には、人類最初の文明を作ったと言われるシュメール人たちが、川から水をひいて農業を営む技術を習得していた。これにより、川の周辺だけでなく広い場所で農業が可能となった。

広大な農地からは、大麦や小麦などの穀物が取れた。シュメール人は、大麦を使って世界最古のビールを作っていた人々である。

安定した食料が手に入ると、人口も増えやすい。余った穀物で交易を行うこともできる。シュメールの人々は、すでにアラビア半島の国々と交易をしていた。川は食生活を豊かにしただけではなく、交易や移動面でも大きな役割を果たした。

シュメール人たちは、こうした穀物を元に、メソポタミアにはない木材や金属、宝石などを輸入して、神殿などを作った。

食料が十分に確保でき、交易により様々な資材を手に入れることで、社会が形成され、その中から権力者が生まれ、やがて国となる。こうしてメソポタミアには、数々の古代都市が生まれたのである。

メソポタミアの古代都市を見てみると、ちょうど川の近くに点在していることがわかる。それは、現在のイラクの都市も同じだ。都市が川の恩恵を受けて発達したことを示している。

これは何もイラクやメソポタミアだけに限ったことではない。中国は黄河、インダスはインダス川、エジプトはナイル川と他の文明も同じである。

一方で、シリアやサウジアラビアに近い場所は砂漠が広がり、不毛地帯となっている。イラク国土の約半分が、そうした砂漠地帯である。

イラク都市地図
イラクの地図。都市が川に沿って位置しているのがわかる。地図はMDSより引用

国土の半分が砂漠で、おまけにイラクでは雨がほとんど降らない。夏になると、日中の気温が50度近くになることもある。農業をやるには不向きな土地と思いきや、イラクの食卓は実に色鮮やかである。

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それもユーフラテス、チグリス川のおかげである。雨が十分に降らずとも、こうした川の水をひいて農業をすることができる。イラクの農地面積は、日本のそれに匹敵するとも言われている。

メソポタミアの川の恵み

川の水をめぐる問題

かつては古代文明も栄えて、メソポタミアの人々は万々歳だっただろう。けれども、現代のイラクではちょっと事情が異なる。

ユーフラテス、チグリス川の源流に近いトルコやシリアが、巨大なダムを作って水をせき止めたり、大規模な農業開発を始めたことで、イラクへ流れてくる水の量がかなり減っているのだ。その量は、年間にして3分の1にも減ったと言う。

イラクは過去20年間に、2つの戦争を経験している。クウェートにイラクが侵攻して始まった1990年の湾岸戦争と、アメリカに「アイツ、大量破壊兵器持ってんじゃね?」とイチャモンをつけられ、2003年に始まったイラク戦争である。

いずれの戦争でも、下水処理場が破壊されたり、経済制裁で浄水装置が輸入されなくなるなどして、イラク国内のインフラに大きなダメージを与えた。

イラク戦争後には、サダムフセイン政権が崩壊し、魑魅魍魎たちがのさばり国内ではテロが多発している。戦後復興どころではなく、破壊されたインフラはほとんど元に戻っていない。

チグリス、ユーフラテス川の水が減る一方で、汚れた下水はそのまま川へ垂れ流しになる。水を浄化するシステムも整っていない。その結果、川の汚染レベルが上がった。イラク戦争後には汚染水が原因で、コレラや腸チフスで亡くなる人が急増したという。

こうしてみると、川の水がいかに人々の生活に影響を与えているかが分かる。
2つの川の合流地点

トルコから始まったチグリス、ユーフラテス川は、イラクの南部クルナで合流する。イラン国境に近い場所だ。2つの川は「シャットルアラブ」と呼ばれる1つの川になり、ペルシャ湾へとそそぎこむ。

シャット・アル・アラブ_ユーフラテスとチグリス川の合流地点
ユーフラテスとチグリス川の合流地点。市民の憩いの場になっている。

この合流地点から車で1時間ほどの場所には、広大な湿原地帯が存在する。チグリス、ユーフラテス川は、トルコやイラク北部の山岳地帯の雪解け水が流れ込み、古代より洪水が頻繁に起こった。

聖書に出てくる「ノアの箱船」の話も、このメソポタミアの洪水にインスパイアを受けたとされる。

何度も洪水が起こることで、できたのがこの湿原地帯である。中東=砂漠、というイメージには程遠く、この湿原ではラクダでは水牛がのっそりと歩いている。

沼地には背の高い大葦が生えており、人々はその間をマシューフと呼ばれる小舟で移動する。彼らが住むのは、湿原に浮かぶ葦で作った家である。これらの光景は、バビロニアやシュメールの時代から変わらない。

イラクの沼地のアラブ人

湿原を小舟で移動する人々。湿原は独自の生態系を作り出し、ここにしか生息しない固有種もいる。

残念ながら、こうしたほのぼのとした光景も、今では失われつつある。

サダムフセイン政権時に、反政府ゲリラの温床とされ、湿原の水が大幅に抜かれてしまったのである。アマゾンで言うところの、森林破壊である。

これにより湿原の生態系が壊れてしまっただけでなく、多くの沼地のアラブ人が、「この場所には住めん!」と湿原を去ってしまった。湿原の面積は小さくなり、あたりには干上がった土地が残るだけだ。

湿原を下って、さらに南下するとイラク第3の都市バスラがある。ここはかつて、中東のヴェニスと呼ばれた場所だ。街中をいく運河に浮かぶ小舟、まさしくイタリアのヴェニスさながらの光景が広がっていた。

しかし、現在の川の汚染レベルはひどいものであった。水の色は灰色になり、大量のゴミが浮いている。川からは異臭が発生しており、本気でえづきそうになったほどだ。中東のヴェニスは、もはやどこにもない。

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バスラうらぶれ観光。中東のヴェニスと呼ばれた場所は今

かつては、古代文明を生み出したほど雄大な川であったチグリス、ユーフラテス川。けれども、川の”恩恵”を受けられなくなった今、そこにはあるのは発展ではない。陰鬱な人々の暮らしである。』

ポーランド、ドイツに183兆円賠償請求へ 大戦中の損害

ポーランド、ドイツに183兆円賠償請求へ 大戦中の損害
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB021580S2A900C2000000/

『【ベルリン=共同】ポーランド政府は1日、第2次大戦中のナチス・ドイツの侵攻と占領による損害は約6兆2200億ズロチ(約183兆円)に上るとの試算を発表した。ドイツ政府に賠償交渉を求める。

83年前の1939年9月1日にナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、第2次大戦が始まった。45年の終戦までにポーランドでは約600万人が犠牲になったとされる。

欧州メディアによると、ポーランドは2015年に愛国主義的な保守与党「法と正義(PiS)」が政権を取って以降、ドイツに対する賠償請求論を主張。ドイツ政府はポーランドが1953年に賠償請求を放棄したため請求権は消滅したとの立場で、賠償問題は解決済みだとの姿勢を崩していない。

ポーランド政府はワルシャワでの会合で、39年から45年にかけての戦争被害に関する報告書を公表した。PiSのカチンスキ党首は「ドイツは甚大な損害をもたらした」と訴え、賠償金を受け取るまで「長く困難なプロセス」になるだろうと述べた。

【関連記事】

・アウシュビッツで過去謝罪 メルケル独首相、初訪問(2019年掲載)
・なぜドイツは謝るのか 苦悩と葛藤の戦後70年(2015年掲載)』

ベネズエラ

ベネズエラ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%8D%E3%82%BA%E3%82%A8%E3%83%A9

 ※ 今日は、こんなところで…。

『ベネズエラ・ボリバル共和国[3](ベネズエラ・ボリバルきょうわこく、スペイン語: República Bolivariana de Venezuela)、通称ベネズエラは、南アメリカ大陸北部に位置する連邦共和制国家。東にガイアナ、西にコロンビア、南にブラジルと国境を接し、北はカリブ海、大西洋に面する。首都はカラカスである。

コロンビアと共に北アンデスの国家であるが、自らをカリブ海世界の一員であると捉えることも多い。ベネズエラ海岸の向こうには、オランダ王国のABC諸島(キュラソー島など)、トリニダード・トバゴといったカリブ海諸国が存在する。ガイアナとは、現在ガイアナ領のグアヤナ・エセキバを巡って、19世紀から領土問題を抱えている。南アメリカ大陸でも指折りの自然の宝庫として知られている。原油埋蔵量は3008億バレルと推測され世界最大と言われているが、近年は2006年から始まった米国の制裁により、原油生産は低落している[4]。加えて石油輸出収入に依存して、他産業育成など構造改革や石油産業自体への投資を長年怠ってきた「資源の呪い」により、2010年代以降は経済危機と政治の混乱が続いている[5]。 』

『国名

詳細は「ベネズエラの語源」および「es:Etimología de Venezuela」を参照
アメリゴ・ヴェスプッチ。

正式名称は、República Bolivariana de Venezuela。通称 Venezuela [beneˈswela](ベネスエラ)。

公式の英語表記は Bolivarian Republic of Venezuela。通称 Venezuela [ˌvɛnəˈzweɪlə] (ヴェネズエイラ)。

日本語の表記は、ベネズエラ・ボリバル共和国[3]。スペイン語を音写すると、レプブリカ・ボリバリアーナ・デ・ベネスエラとなる。通称、ベネズエラ。英語発音のヴェネズエラ、スペイン語発音のベネスエラという表記もある。漢字表記では委内瑞拉, 花尼日羅, 部根重良, 分額兌拉と記される。

ベネスエラ(Venezuela)という名の由来には諸説があり、一つはイタリアのヴェネツィアに由来するというものである。1499年この地を訪れた探検者、アロンソ・デ・オヘダ(スペイン語版、英語版)とアメリゴ・ヴェスプッチが、マラカイボ湖畔のグアヒーラ半島に並び建つインディヘナたちの水上村落を、水の都ヴェネツィアに見立て、イタリア語で「ちっぽけなヴェネツィア」(”Venezuola”)と命名した事によるとされている。

もう一つは、ヴェスプッチとオヘダの水夫だったマルティン・フェルナンデス・デ・エンシソ(スペイン語版、英語版)が著作の”Summa de Geografía”で、彼等が出会った当地に居住していたインディヘナが当地を”Veneciuela”と呼んでいると言及しており、そこから派生して”Venezuela”になったとする説であり[6]、この説によるとベネスエラという国名は土着の言葉に由来することになる。どちらの説が正しいかという論争は絶えないものの、現在一般的な説として人々に信じられている説は前者である。

国名中の「ボリバル」とは、ラテンアメリカの解放者・シモン・ボリバル(シモン・ボリーバルとも表記する)のことである[3]。 』

『歴史
詳細は「ベネズエラの歴史」を参照
先コロンブス期

ヨーロッパ人がこの地を訪れる前、この地にはアラワク人とカリブ人と狩猟と農耕を行うインディヘナが居住していた。タワンティンスーユ(インカ帝国)の権威は及ばなかったが、コロンビアのムイスカ人の影響を受けていた。この地から多くの人間がカリブ海諸島に航海していった。
スペイン植民地時代
「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」、「スペインによるベネズエラの征服(スペイン語版)」、および「マラカパナの戦い(スペイン語版)」も参照
スペイン人に立ち向かったインディオの首長、グアイカイプーロの像。ウゴ・チャベス政権によって大々的に再評価がなされた。

ヨーロッパ人が今のベネズエラと接触するのは1498年のクリストファー・コロンブスによる第3回航海が初めてである。翌1499年にはスペイン人のアロンソ・デ・オヘダ(スペイン語版、英語版)とイタリア人のアメリゴ・ヴェスプッチが内陸部を探検している。その後スペイン人によって1526年にクマナが建設され、先住民の首長グアイカイプーロとの戦いの最中の1567年にディエゴ・デ・ロサーダ(スペイン語版、英語版)によってサンティアゴ・デ・レオン・デ・カラカスが建設された。植民地化当初はヌエバ・エスパーニャ副王領の一部として、イスパニョーラ島のサント・ドミンゴのアウディエンシアに所属していたが、1739年にはヌエバ・グラナダ副王領の一部となり、1777年にはベネズエラ総督領(スペイン語版、英語版)に昇格した。植民地時代のベネズエラ経済はプランテーション制農業からのカカオ輸出に依存しており、クリオーリョ支配層は更なる自由貿易を望むようになった。ベネズエラはアルゼンチンと共にスペイン植民地体制の辺境だったために独立に有利な状況が整い、やがて後のラテンアメリカ独立運動の主導的立場を担うことになった。
独立戦争
「近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立」も参照
最初の独立指導者フランシスコ・デ・ミランダ。
「解放者」「迷宮の将軍」シモン・ボリバル、スペインから南アメリカの五共和国を独立に導いた軍人、政治家、思想家、革命家。

1789年のフランス革命によりヨーロッパの政局が混乱し、19世紀にナポレオン戦争がスペインに波及するとインディアス植民地は大きく影響受けた。インディアス植民地各地のクリオーリョ達は独立を企図し、ベネズエラでも1806年にはフランシスコ・デ・ミランダによる反乱が起きた。この反乱は鎮圧されたが、1808年ホセ1世がスペイン王に即位すると、それに対する住民蜂起を契機にスペイン独立戦争が勃発、インディアス植民地はホセ1世への忠誠を拒否し、独立の気運は抑えがたいものになって行った。1810年にはカラカス市参事会がベネズエラ総督を追放。翌年1811年にはシモン・ボリバルとミランダらがベネズエラ第一共和国(英語版)(1810年 – 1812年)を樹立した。しかし、王党派の介入とカラカス地震によってベネズエラは混乱し、共和国は崩壊した。この時の大地震によってカラカス市の2/3が崩壊した[7]。

ボリバルは不屈の意志で独立闘争を展開し、1816年には亡命先のジャマイカから『ジャマイカ書簡』を著した。何度かのベネズエラ潜入失敗の後、ヌエバ・グラナダ人の独立指導者フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデルらの協力を得てヌエバ・グラナダのサンタフェ・デ・ボゴタを解放すると、1819年にはベネズエラとヌエバ・グラナダからなる大コロンビア(Gran Colombia)を結成した。その後解放軍は1821年にカラボボの戦い (1821年)(英語版)でスペイン軍を破り、ここでベネズエラの最終的な独立が確定した。ボリバルはその後エクアドル、ペルー、アルト・ペルー方面の解放に向かい、1824年にアントニオ・ホセ・デ・スクレ将軍の率いる解放軍がアヤクーチョの戦い(英語版)に勝利して全インディアス植民地の最終的独立を勝ち取り、ボリバルは新たに独立したボリビア共和国の初代大統領となった。しかし、留守を預かっていたコロンビアの大統領サンタンデルとの関係が悪化し、コロンビアに帰国し、帰国した後もコロンビアの政局は安定せず、1830年には「エクアドル」(キトとグアヤキルとクエンカが連合して赤道共和国を名乗った)とともにカウディーリョ、ホセ・アントニオ・パエス(英語版)の指導するベネズエラはコロンビアから脱退し、完全に独立した。翌1831年にコロンビアの独裁者、ラファエル・ウルダネータが失脚するとコロンビアは崩壊し、以降この地域を統一しようとする動きはなくなった。

内戦と軍事独裁の時代

アントニオ・グスマン・ブランコ(英語版)将軍。

独立後、旧ボリバル派は排除され、商業資本家が支持する保守党による支配が続いたが、1840年に大土地所有者を支持基盤とする自由党が結成された。保守党が中央集権を唱え、自由党が連邦制を叫び、両者は対立し、ついに1858年、3月革命(スペイン語版)が勃発し、連邦戦争(スペイン語版)(内戦:1859年 – 1863年)に発展した。内戦は1863年に連邦主義者の勝利のうちに終結。自由党が政権を担うことになった。しかし、自由党は失政を重ね、1870年に保守系のアントニオ・グスマン・ブランコ(英語版)が政権を握った。ブランコは18年間を独裁者として統治し、この時期に鉄道の建設、コーヒーモノカルチャー経済の形成、国家の世俗化などが進んだが、1888年のパリ外遊中にクーデターにより失脚した。

グスマンの失脚後、ベネズエラは再び不安定な状態に陥るが1899年にはアンデスのタチラ州出身のシプリアーノ・カストロが政権に就き、1908年まで独裁を行った。1908年にカストロの腹心だったフアン・ビセンテ・ゴメスがクーデターを起こすと、以降1935年までのゴメス将軍の軍事独裁政権が続いた。ゴメス治下の1914年にマラカイボで世界最大級の油田が発見され、ベネズエラは一気に貧しい農業国から石油収入のみを基盤にした南米の地域先進国となっていった。しかし、ゴメス将軍は「アンデスの暴君」と呼ばれるほどの苛烈な統治を敷き、「1928年の世代」を中心とする国内の自由主義者の反発が強まることになった。

1935年にゴメスは死去したが、死後もゴメス派の軍人により軍政が継続された。

1945年10月18日には青年将校と民主行動党(英語版)による軍事クーデター(ベネズエラ・クーデター (1945年)(英語版))が起こり、軍政は崩壊し、民主行動党と青年将校が協力するエル・トリエニオ・アデコ体制(英語版)が確立した。19日には民主行動党の創設者であるロムロ・ベタンクール(英語版)が大統領に就任した。

1947年には新憲法が発布され、1948年2月の選挙により国民的文学者のロムロ・ガジェーゴス(英語版)政権が誕生するが、ガジェーゴス政権もそれまで民主行動党に協力していた青年将校によって軍事クーデター(ベネズエラ・クーデター (1948年)(英語版))で打倒された。その後、1952年から青年将校の一人だったマルコス・ペレス・ヒメネス(英語版)将軍による独裁下ではベネズエラは原油高によって西半球で経済的には最も繁栄する国にまでなるも、ヒメネスは1958年にバブル経済の崩壊に伴う債務危機で失脚することになった[8]。

ベネデモクラシア

「民主化の父」ロムロ・ベタンクール(英語版)。2度大統領になり、民主体制を確立したが、1945年のエル・トリエニオ・アデコ体制はその後の軍事クーデター、1958年に確立されたプント・フィホ体制も後の政治的不安定化の要因となった。

ヒメネス失脚後、民主行動党とキリスト教社会党(英語版)(コペイ党)、民主共和国ユニオン(英語版)の間でプント・フィホ協定(英語版)と呼ばれる密約が成立し、左翼勢力の排除と政府ポストの各党への割り当てが確約され、この協定は新たな民主体制の基礎となった[9]。

1959年には民主的な選挙の結果、民主行動党のロムロ・ベタンクールが再び大統領に就任した。ベタンクールは、1930年代にコスタリカ共産党の指導者だった経歴を持つが[10]反共主義者に転向しており、米州機構から非民主的な国家を排除するベタンクール・ドクトリンを打ち出してドミニカ共和国のラファエル・トルヒーヨ政権や、キューバのフィデル・カストロ政権と敵対した。これに反発した左翼ゲリラ(キューバ革命に影響を受けており、キューバに直接支援されていた)が山岳部で蜂起した。一方で農地改革やサウジアラビアとともに石油輸出国機構(OPEC)の結成なども行った。ベタンクールは、左翼ゲリラと戦うも鎮圧することは出来ず、1964年に退陣した。ベタンクール政権はベネズエラ史上初めて民主的に選ばれ、任期を全うすることが出来た政権となった。

1969年にはゲリラへの恩赦を公約にキリスト教社会党(英語版)(コペイ党)のラファエル・カルデラ(英語版)政権が発足した。反乱は治まり、キューバを初めとする東側諸国との関係改善も行われた。続いて1974年には民主行動党のカルロス・アンドレス・ペレス政権が成立した。オイルショックの影響による原油高によりベネズエラは「サウジ・ベネズエラ」と呼ばれるほど大いに潤う[11]。ラテンアメリカの指導的な地位を確立しようと努めてラテンアメリカ経済機構の設立にも尽力した。

カラカソ (Caracazo)

ところが、1980年代を通して豊富な原油や天然資源により莫大な貿易利益がありながら貧富の格差、累積債務が増大しプント・フィホ体制の腐敗が明らかになっていった。1989年2月27日には低所得者層によりカラカス暴動(英語版)(カラカソ)が発生した[12]。この暴動で非武装の群集に対して軍が発砲し、多くの犠牲者を出すなど世情不安が続いた。1992年には空挺部隊のウゴ・チャベス中佐が政治改革を求めてクーデター未遂事件を起こした。翌1993年には不正蓄財によりペレスが辞任し、キリスト教社会党(コペイ党)からカルデラが再び大統領に就任した。しかし、ポプリスモ政策を取ろうとしたカルデラの貧困層、中間層への対策は失敗に終わった。

チャベス政権

1999年に「第五共和国運動」から1992年のクーデターの首謀者、ウゴ・チャベスが大統領に就任した[12]。1958年代に成立したプント・フィホ体制から排除された貧困層から支持を受け、反米・ボリバル主義とポプリスモを掲げたチャベスにより、同年12月には国名が「ベネズエラ・ボリバル共和国」に改称された。

チャベスは、国名変更、石油資源国有化、キューバとの交流など反米路線を掲げた。これにより、2002年にはアメリカの中央情報局(CIA)の援助・支援の下に軍部親米派のクーデターでいったん失脚したが、全国的な国民のデモの激化[12]、ラテンアメリカ諸国の抗議によって再び政権に復帰し、わずか3日間でクーデターは失敗に終わった。米国は諦めず、ブッシュ政権は2006年にベネズエラに対して武器輸出の禁止措置をとった[13]。さらに、麻薬取引を理由に個人制裁も発動し、2005年以降少なくとも22人のベネズエラ人と27企業を制裁対象とした。

こうした経緯もあり、チャベス大統領は反米的なキューバ、ボリビア、エクアドル、ニカラグア、中華人民共和国、ロシア、イランと関係を強化し、友好的な関係を維持している。また、ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体や南米諸国連合、米州ボリバル同盟、南米銀行の設立を主導して中南米の結束を図った。

一方で、隣国である親米国のコロンビアとはかねてから関係が悪く、2009年7月には外交関係を凍結してベネズエラ軍の軍備増強を発表し、両国間の緊張が高まっている(アンデス危機)。2010年7月22日にはコロンビアとの国交を断絶し、国境に「全面的非常態勢」を敷くよう軍への命令が出され[14]、3週間後の8月11日には国交回復で合意した[15] が、依然として不安定な状況が続いている[16]。

ベネズエラにおいては、富裕層の所有メディアにより反チャベス的な内容のものが報道されることが多かった[17]。チャベス政権成立以降、チャベス大統領に批判的な放送局が閉鎖に追いやられたりするなど独裁色が強められた。これは失敗に終わった2002年のクーデターを支持した放送局のオーナーたちに対する報復だとの見方もある[18]。なお、チャベス派からのメディア発信も行われており、『こんにちは大統領』のようなテレビ番組も放送されていた[17]。チャベスはワシントン・コンセンサスを否定し、反市場原理主義、反新自由主義を鮮明に掲げ、富の偏在・格差の縮小など国民の大多数に及んだ貧困層の底上げ政策が中心で『21世紀の社会主義』を掲げていた。しかしながら、チャベス政権以前の旧体制派である財界との対立による経済の低迷や相変わらず深刻な格差・貧困問題、特に治安の悪化は深刻な社会問題となっており、それらを解決できないまま、2013年3月5日、チャベスはガンのため没した。

マドゥロ政権時代

詳細は「ベネズエラ危機」を参照

チャベス体制を引き継いだ大統領ニコラス・マドゥロ

チャベスの死後、その腹心であった副大統領のニコラス・マドゥロが政権を継承した。国際的な原油価格の低下と価格統制の失敗により、前政権時代から進行していたインフレーションは悪化し、企業や野党勢力のサボタージュも継続するなどマドゥロ政権下においても政情不安は続いた。マドゥロはチャベス時代の反米路線と社会主義路線を踏襲して企業と敵対し、また野党と激しく対立した。

2015年12月6日、総選挙において野党・民主統一会議を中心とした右派連合[19] が勝利を収め、過半数の議席を獲得した。ただし大統領の任期は2019年まで続き、仮に弾劾などが行われたとしても第一副大統領が昇格するためベネズエラ統一社会党が引き続き政権与党となる[19]。

反マドゥロ政権の野党が三分の二(167議席中112議席)を占めたことで以降国民議会を使った立法行為が不可能となったマドゥロ政権は、自身の影響下にある最高裁判所(スペイン語版)を使って国民議会の立法権を制限する様々な手段を打つようになった。例えば国民議会が可決させた法律を大統領が「違憲判断のため」として最高裁に送り、最高裁に違憲判断を出させて立法を無効化する方法である。2016年1月から4月に国民議会が可決させた5つの法案は全て最高裁に送られ、そのうち4つが「違憲」として無効化されている[20]。また最高裁はアマソナス州選出の3人の野党議員に「不正選挙があった」として公務就任権を認めず、2016年7月にこの3人が国民議会で宣誓すると最高裁は「最高裁の決定を尊重しない限り国民議会は法的有効性をもたない」と宣言。以降マドゥロ政権はこの「3人問題」を理由に国民議会を無視して最高裁に立法権を代行させるようになった。予算案も国民議会ではなく最高裁に提出して承認させている[20]。

2016年4月、大統領の任期が後半に入った事を踏まえ、野党は憲法に規定されている任期途中での大統領罷免を求める国民投票の実施を宣言、10月に国民投票の第一条件となる1%の有権者の署名が与野党共同運営の選挙管理委員会に提出された。この署名に死亡者や有権者登録されていない人物の署名が含まれていた事が与党側から問題視され[19]、選挙委員会と野党は再発防止を約束して手続きを再開したが、10月20日に7州の裁判所は「身分証明書の窃盗事件と関連がある」として手続き停止を命令した[19]。一連の騒動で与党と野党に続き、司法と議会の対立も鮮明となった。

2017年3月29日、最高裁判所は「不正選挙に基いた議会」「侮辱罪にあたる状態が続く議会の手続きは無効である」との司法判断を下し、立法権も最高裁判所に付与する異例の事態となった[21]。この決定を与党側は歓迎したが[21]、野党や南米諸国をはじめとする米州機構のみならず[22]、最高検察庁のルイサ・オルテガ・ディアス(英語版)検事総長など政府要人からも懸念や批判が相次いだ[23]。マドゥロは国家安全保障委員会の決定として最高裁に再考を促し、最高裁の判断は撤回された[22]。

2017年4月以降、反政府デモとそれに対する鎮圧が頻発しており、非政府組織「ベネズエラ社会紛争観測所」の集計で死者は80人を超えている[24]。デモは継続的に続けられており、7月8日で100日間連続となった[25]。政府支持派の暴動も発生し、群集が国会に突入して反政府派の議員らを議会に閉じ込める事件も起きている[26]。政府側と野党側デモの衝突は激化の一途を辿り、4月27日に民主統一会議議長で正義第一党の党首エンリケ・カプリレス・ラドンスキーは早期選挙の実施を要求した[27]。

制憲議会成立

マドゥロは野党連合民主統一会議の早期再選挙の要求を却下し、代わりに憲法の修正による改革を提案した[28]。しかし制憲プロセスが憲法違反である疑いがある上、制憲議会選挙が「一人一票の原則」を無視し、通常の1票に加えてマドゥロが指名した労組や学生組織など7つの社会セクターに所属する者に2票を与えるという前例のない与党有利の選挙制度になっていたことから野党に強い反発を巻き起こした。このような選挙に立候補することは恣意的な選挙制度を有効と認めることになるため、全野党が立候補せず、選挙をボイコットした[20]。

2017年7月31日、制憲議会 (Asamblea Nacional Constituyente) の議会選挙が実施、野党候補がボイコットした事で全候補が与党から出馬、政権に対する「信任投票」と位置付けられ[29]、街頭での衝突も内戦寸前の状態に陥っている[29]。軍や警察は政府側を支持して行動しており、民間人と警官・兵士の側の双方に死者が発生した。同日深夜、マドゥロは統一社会党が全議席を占める制憲議会の成立を宣言した[30]。宣言において国民議会の廃止を行う意向も示しており[31]、制憲議会のロドリゲス議長も右派連合は「裁きを受けるだろう」として旧議会の廃止を示唆、ベネズエラは事実上の一党独裁体制へ移行しつつある[32]。

2017年8月2日、レオポルド・ロペス、アントニオ・レデスマ(スペイン語版)ら野党連合の主要政治家が軍に連行された[33][34]。8月3日、反政府派に転じているオルテガ・ディアス検事総長は検察庁に不正選挙に関する捜査命令を出したが[35]、これに対して軍が検察庁を包囲下に置いた[36]。8月5日、ベネズエラ最高裁判所(英語版)はオルテガを検事総長から解任する決定を下し[36]、制憲議会もオルテガが深刻な職権乱用により起訴された事を発表した[37]。8月18日、制憲議会は国民議会から立法権などの権限を剥奪したと宣言した[38]。

反発の激化

ニコラス・マドゥロとフアン・グアイド
ベネズエラ
中立宣言した国
発言がない国
グアイドを承認した国
国民議会支持を表明した国
マドゥロを承認した国
詳細は「2019年の大統領騒乱(英語版)」を参照

2018年5月21日の大統領選挙(スペイン語版)は、選挙前に有力野党政治家の選挙権がはく奪されたうえで行われたため、マドゥロ再選の「出来レース」状態となり、主要野党はそれに反発して選挙をボイコットした。マドゥロ政権は国際選挙監視団の査察を拒否して国民の投票を監視し、マドゥロに投票しなかった者は食糧配給を止めるなど、なりふり構わぬ選挙戦を展開した[39]。西側諸国やブラジルなどはこの選挙を批判し、欧米や日本などは2019年1月10日の大統領就任式の出席を拒否した[40]、選挙の正当性を否定される形となった。その後もインフレーションなど経済的な混乱は加速した。

2019年1月10日にマドゥロは2期目の大統領就任式を行ったが、首都カラカス市内でもデモが活発に行われるようになり死者も発生[41]。1月23日には国民議会議長フアン・グアイドが昨年の大統領選挙は憲法違反で無効と主張し、1月10日をもってベネズエラは大統領が不在となったので、憲法233条に従って国民議会議長である自分が暫定大統領になったことを宣言した[39]。

体制転覆を目指す米国のドナルド・トランプ大統領は、「マドゥロの政権は正統ではない。ベネズエラにおいて唯一正統なのは国会である」として、グアイドの暫定大統領就任を直ちに承認した。これに対抗して1月24日にマドゥロ政権は「アメリカ合衆国と国交断絶する」と発表したが、アメリカ合衆国連邦政府は「グアイド政権を通じて、ベネズエラとの外交関係を維持する」としている[42]。

その後、アメリカに続く形で西側諸国が続々とグアイド暫定大統領就任を支持表明した。日本国政府はしばらくの間グアイドの承認を保留してきたが、2019年2月19日に「ベネズエラ政府に対して大統領選挙の早期実施を求めてきたにもかかわらず、いまだに行われていない」として「グアイド暫定大統領を明確に支持する」との意向を表明した[43]。

反発がありながらも、実際のところベネズエラでは引き続きマドゥロが軍部の支持を確保して実効支配している。またロシア、中国、北朝鮮、イラン、キューバ、トルコ、シリア、パレスチナ、ボリビアなど反米主義的な国家群からは、2期目就任の承認を受けている[44][45]。二つの政権が対立する形となった[44][46]。

2019年2月2日には、マドゥロの退陣を求める大規模デモ活動がベネズエラ全土で執り行われ、この中で、グアイドが「デモ参加者に発砲するのをやめてほしい。それだけでなく、ベネズエラの再建にかかわってほしい」として、ベネズエラ軍に対する呼びかけを行った[47]。一方のマドゥロ側でも政権支持を目的とした集会が行われ「立法府が再び合法化されることに同意する」と訴えた上で、2020年に行われることになっている国会議員の選挙を前倒しすることを提案した[47]。

2019年2月20日、マドゥロ政権は、オランダ王国に属するアルバ、キュラソーとの海路を遮断したと発表。翌21日には「ベネズエラに人道危機は存在しない」「領土侵害を防ぐ」と称してブラジルとの国境を封鎖すると表明した[48]。コロンビアとの国境封鎖の指示も行われていたが、2月23日にはグアイド側はこれを無視して国境沿いで人道支援の受け入れ式典を開催。この時点で50か国から暫定大統領として承認を受けたグアイドに対し、コロンビア、チリ、パラグアイの各大統領も受け入れ式典へ参加して支援を表明した[49]。

4月30日にグアイドが離反兵士らに自宅軟禁から救出されたレオポルド・ロペスとともにビデオメッセージを出し、軍に決起を呼び掛けた。これにより反マドゥロ派の軍人たちが催涙ガスなどで鎮圧にあたるマドゥロ政権側と衝突した[50]。その後ベネズエラ各地で衝突が発生した[51]。マドゥロ政権側はこれを「クーデター」と非難し[50]、「クーデターは失敗に終わった」と主張している[51]。一方、アメリカ政府は「アメリカはグアイド氏を暫定大統領だと考えており、明らかにクーデターではない。グアイド氏側による勇敢な行動だ」としてグアイドの行動を支持表明した[52](2019年ベネズエラ蜂起未遂(英語版))。

2020年5月2日、アメリカの民間軍事会社「シルバーコープUSA」および反体制派の志願兵によるマドゥロ政権転覆計画が実行されたが、事前に察知したベネズエラ当局によって早期に鎮圧された[53][54]。マドゥロ政権はシルバーコープUSAがグアイドと支援協力関係にあったとして批判したが、グアイドはこれを否定している[55](ギデオン作戦 (2020年)(英語版))。

2020年6月、最高裁判所が全国選挙評議会メンバーを決定し、野党人事に介入した。12月、主要野党はボイコットを表明中で国会の選挙(英語版)が実施され、マドゥロ派が圧勝し、新たな国会議長としてホルヘ・ロドリゲス(英語版)が選出された[56]。欧州連合、アメリカはこの選挙結果を認めていないが、欧州連合はグアイドが議長・議員職を失ったことを理由に「暫定大統領」の承認を取り下げた。一方でアメリカのトランプ政権は、引き続きグアイドを暫定大統領と認めることを表明[57]。2021年1月に米国大統領に就任したジョー・バイデンも、グアイドを暫定大統領として引き続き認めるとしている[58][59]。

ここまで、米国など西側諸国が中心となってベネズエラに強力な経済制裁を科して体制転覆を目指しているが、実現はしていない。狙い通り、経済基盤である原油生産・輸出は激減したが、ベネズエラ政府は違法な採掘から麻薬密売までのさまざまな違法ビジネスに手を出したり、政権側の富豪に経済の一部を開放したりして、国内支持基盤を固めた。さらに、米国の金融システムに依存していないイランや中国、ロシアといった国々とも連携することで、制裁を出し抜いた[60][13]。市民の生活難は続いているが、マドゥロの支持率は一定を保ち、逆に反政府の諸外国が推すグアイドと野党の支持率は汚職問題などで低下してきている[61][62]。

2022年、欧米によるロシアへの経済制裁と世界的インフレーションにより原油価格が高騰すると、米国はベネズエラ産原油の禁輸措置緩和の可能性を示した[63]。
ベネズエラ難民問題
ベネズエラ難民と抱き合う暫定大統領フアン・グアイドとアメリカのマイク・ペンス副大統領(2019年2月25日コロンビア・ボゴタ)

長らく反米左翼政権が続いたベネズエラでは、2015年に政治的迫害などを理由に、アメリカ合衆国へ亡命申請したベネズエラ人は5,605人である。2016年には14,700人を超え、2017年にはさらに更新することが確実視されている[64]。

さらに経済危機で、ベネズエラ難民の数は急増していった。国際連合によれば、2018年11月までに国外へ逃れたベネズエラ難民は300万人を超え、この数はベネズエラ国民の1割に相当する[65]。

2018年9月4日、エクアドルの首都キトで中南米諸国がベネズエラ難民対策の国際会合を開いた。有効な対策はまとめられなかったものの、「キト宣言」を発表し、ベネズエラ難民を「十分に受け入れる」と明記した[66]。

最も受け入れている国は、隣国のコロンビアであり、2019年2月現在110万人を超えるベネズエラ難民を受け入れている[67]。しかし北部の町ククタでは施設に収容しきれないベネズエラ人が路上にあふれており、ベネズエラ人による犯罪が社会問題になっている[66]。

ほかにもペルーに50万6000人、チリに28万8000人、エクアドルに22万1000人、アルゼンチンに13万人、ブラジルに9万6000人のベネズエラ難民が流出している(いずれも2019年2月時)[67]。ブラジルでは、ベネズエラ難民のテントを襲撃する運動が発生しており、治安悪化の原因になっている[66][68]。2019年6月7日に国連難民高等弁務官事務所が発表した難民と国外移住者数は約400万人としており、過去7カ月間で100万人増加する驚異的なペースとなった[69]。

ベネズエラ政府は、難民の存在自体を認めておらず、頭を抱える南米諸国になんら協力しない状態が続いている[66]。』

『地理
詳細は「ベネズエラの地理」および「en:Geography of Venezuela」を参照
ベネズエラの地形図
世界で最も高い滝、サルト・アンヘル。
ラ・グラン・サバナのパノラマ。

北にカリブ海に面し、コロンビア、ブラジル、ガイアナに接する。中央部のジャングルをコロンビアからオリノコ川が流れている。北西部には南米最大の湖、マラカイボ湖が存在する。コロンビアから続くオリノコ川流域の平原部をリャノと呼び、国土の主要部はコロンビアのオリエンタル山脈を通してアンデス山脈が延びてきており、国内最高峰はメリダ山脈に位置する海抜4978mのボリバル山である。なお、南米大陸に位置してはいるが、国土は全て赤道以北、すなわち北半球に位置している。

国土はマラカイボ湖を囲むマラカイボ低地、西部から北部に広がるベネズエラ高原、オリノコ川流域平原のリャノ(スペイン語で平野を意味する)、そしてギアナ高地の四つの主要地域に分けられ、ベネズエラ高原はさらに中央高地、北東高地、セゴビア高原、メリダ山脈の四つの地域に分かれる。国土北部の海岸沿いをラ・コスタ山脈が東西に連なり、東部にはアラヤ半島、パリア半島が存在し、アラヤ半島沖にマルガリータ島が存在する。国土の80%がオリノコ川の流域であり、平らな大草原が広がっている。この草原地帯のリャノが国土の35%(380,000平方kmで、ほぼ日本の国土と同じ)、グアヤナ高地が国土の45%を占めるものの、人口の圧倒的な部分は北方の海岸線沿いのマラカイボ低地とベネズエラ高原に集中し、ベネズエラの多くの都市や村落は標高800m-1300mの人間が住むのに適した気候の谷間に存在する。

熱帯のため、雨季と乾季の区分がはっきりし、12月から4月が夏(ベラーノ)と呼ばれ、5月から11月が冬(インビエルノ)となり、6月から7月にかけて「サン・フアンの夏」と呼ばれる中だるみの季節が存在し、夏は乾季に、冬は雨季に相当する。カリブ海側は乾燥しており、カラカスの外港ラ・グアイラでは年間降水量が280mmしかない。リャノはサバナ (地理)が広がっており、サバナ気候であるゆえに乾季は完全に乾燥し、雨季は洪水となるため牧畜ぐらいの生産活動しかできず、こうした気候が屈強なリャネーロや、ホローポなどの文化を生み出した。

現在のベネズエラ政府は、ベネズエラの国土を海域、島嶼部、西北沿岸部、中北沿岸部、東北沿岸部、アンデス地方、リャノ地方、オリノコ川デルタ地方、アマゾン地方、グアヤナ地方という10の地理区分に分けて扱っている。

ヌエバ・エスパルタ州、マルガリータ島のビーチ 』

『国民
詳細は「ベネズエラ人」を参照
民族
ベネズエラの民族構成[122]
Demografia de Venezuela.jpg
メスティーソ 49.9%
クリオーリョ 42.2%
ムラート 3.5%
インディヘナ 2.7%
黒人 1%
アジア系 0.9%
高地オリノコに住むインディヘナの部族、ヤノマミ人の子どもたち。

ベネズエラ人は多くの人種と民族が合流して生まれており、現在も移民が流入し続けている。先住民はインディヘナのカリブ人、アラワク人などが住んでいたが、現在先住民の社会を維持しているのはアマゾンの密林の中に住む少数である。白人は植民地時代のスペイン人が主で、当時は植民地社会の上層部にあった。独立後は他のヨーロッパ諸国からの移民も増え、近年では中南米諸国、特に隣国コロンビアからの、難民に近いような移民が多い。最近は政治的な理由により富裕層や中間層が国外へ流出している。また、不況や社会不安、就職難により、大学などで高度な教育を受けた移民2世以降が移民1世の母国に多く流出している。

アフリカ系ベネズエラ人は植民地時代に奴隷としてつれてこられた人々の子孫である。アジア系は他より少ないが、独立後に移民した華僑(中国系)がおり、小商店主として成功した者が多い。しかし、南米の国の中で日本からの移民はかなり少ない方であり、日系ベネズエラ人の人口は現在では800人程とウルグアイの日系人の倍程度である。

世代を重ねて混血が進んだため、人種集団をはっきり区分することはできない。人種別統計は長くとられておらず、そうした調査も実施されていない。しかし、北米、日本、欧州では各国の研究者が独自に調査した構成比が出回っている。それによれば、メスティーソ67%、ヨーロッパ系21%、アフリカ系10%、インド系2%とされる。ベネズエラ人の主流の意識は自らをメスティーソとし、ベネズエラをメスティーソの国とするものである。

そして現実社会では他のラテンアメリカ諸国と同じように上流階級が白人で占められている。当然のことだが白人が他人種より上にあるという関係が個人間でなりたつわけではなく、下層の白人も中流の黒人もいる。インディヘナはスリア州やオリノコ川南部に多く居住している。
移民

主な移民の出身地としては、イタリア、スペイン、ドイツ、ポルトガル、シリア、レバノン、インド、パキスタン、中国、日本、コロンビア、チリ、ドミニカ共和国、エクアドルなど。1940年代から1950年代にかけてヨーロッパからの移民ブームがあり、1950年から1958年までの間に、ポルトガル人を中心に実に45万人の移民が流入した。特に有名なドイツ系の入植地としてコロニア・トバール(英語版)が挙げられる。
人口

独立直後の1830年にはおよそ80万人ほどだったベネズエラの人口は、20世紀に入ってからも余り増加せずに1920年には推定で200万人ほどだった。しかし、第二次世界大戦後に急速に人口が増加し、1967年には推定900万人、1983年の調査では1639万人となっており、2007年には2600万人を越えた。人口の都市化率は85%であり、73%は北部のカリブ海沿岸100km以内に住んでいる。ただし、国土の約半分を占めるオリノコ川以南には人口の5%しか居住していない。

なお、2010年代のハイパーインフレによる経済的混乱から、2018年の時点で300万人以上が南米各国へ流出したと推測されており、混乱が収まらない限り今後も増加する見込み[123]。
言語
詳細は「ベネズエラの言語」および「en:Languages of Venezuela」を参照

言語はスペイン語(ベネズエラ・スペイン語)が公用語であり、かつ日常生活で最も使われている。31のインディヘナの言葉があり、政府は先住民の言語を通用させる努力を規定しているが、話す人は限られている。その他にも移民によってドイツ語、ポルトガル語、ガリシア語、イタリア語などが話されている。
宗教
詳細は「ベネズエラの宗教」を参照
Monumento a la Chinita.jpg

宗教はローマ・カトリックが76%、プロテスタントが2%、その他が2%である。その他の宗教としてはイスラム教、ユダヤ教など。
教育
詳細は「ベネズエラの教育」および「en:Education in Venezuela」を参照
カラカスの大学都市。

2001年のセンサスによると、ベネズエラの15歳以上の国民の識字率は93.0%であり[124]、ラテンアメリカ域内では中程度の部類に入る。6歳から15歳までの国民を対象に義務教育が行われており、初等教育と前期中等教育は無償である。主な高等教育機関としてはベネズエラ中央大学(1721年)、ロス・アンデス大学(1785年)、カラボボ大学、スリア大学(1891年)、シモン・ボリバル大学(1967年)などが挙げられる。

チャベス政権が推進していた社会政策の一つに「第二次ロビンソン計画」がある。初等教育(6年)の未終了者を対象とし、受講期間は二年。第一回終了式が、2006年8月、首都カラカスで行われ、32万5000人が修了証書を受け取る。修了者は、「リバス計画」(中等教育)や「見つめ直そう計画」などに進むことが出来る。これらの計画の受講中は、奨学金が給付される。

さらに、ベネズエラの教育で特色あるものとしてエル・システマというメソッドで行われる音楽教育が挙げられる。ホセ・アントニオ・アブレウが1975年に始めたもので、主に貧困層の児童を対象に無償で施されるクラシック音楽の教育は、ストリートチルドレンの救済や非行少年の更生に大きな成果を上げてきた。35年以上にわたり歴代の政権も支援をしており、35万人がこの教育を受けている。現在ではボリーバル音楽基金によってシモン・ボリバル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラ、テレサ・カレーニョ・ユース・オーケストラ、児童オーケストラなど200以上もの楽団が運営されており世界的にも高い評価を得ている。また、このシステムで学び指揮者となったグスターボ・ドゥダメルのように国際的に活躍する音楽家も輩出している。 』

(※ その他は、省略)

パンノニア平原

パンノニア平原
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%8E%E3%83%8B%E3%82%A2%E5%B9%B3%E5%8E%9F

『パンノニア平原(パンノニアへいげん)は、カルパチア山脈・アルプス山脈・ディナル・アルプス山脈の尾根に囲まれた、中央ヨーロッパに存在する平原である。現在のハンガリーとスロヴァキアの全領域とオーストリア、 ボスニア・ヘルツェゴビナ、チェコ、クロアチア、ルーマニア、セルビア、スロヴェニア、ウクライナの一部を含む。ドナウ川中流域のほとんどを含む。

北部と東部が山岳地帯であり、中央部がハンガリー大平原、西部が丘陵地帯のドゥナーントゥール地方(古代ローマのパンノニア皇帝属州)である。ドイツ語ではPannonische Tiefebeneまたは、Pannonisches Becken、スロヴァキア語ではPanónska panvaまたはPanónska nížina、ルーマニア語ではCâmpia Panonică、英語ではPannonian Plain と言う。

地形的には盆地であり、カルパチア盆地ともいうが、パンノニアという地域名は現在のハンガリーのドナウ川西岸、すなわちドゥナーントゥール地方の古称であり、実際のカルパチア盆地の西南部、全体の4分の1程度の地域しか指していないため、パンノニア平原をカルパチア盆地全体の呼称とするのは不適切だとの考え方もある。カルパチア盆地は、ハンガリー語では Kárpát-medence [ˈkɑ̈ːrpɑ̈ːtˌmɛdent͡sɛ](カールパート・メデンツェ)、ドイツ語ではKarpaten­becken [kaʀˈpaːtnˌbɛkn](カルパーテンベッケン)、スロヴァキア語ではKarpatská kotlina [ˈkarpatskaːˌkotlina](カルパトスカー・コトリナ)、ルーマニア語ではBazinul Carpați [bazinul.karˈpat͡sʲ](バジヌル・カルパツィ)、英語ではCarpathian Basin [kɑːˈpeɪ̯θiən.ˈbeɪ̯sən](カーペイシャン・ベイスン)と呼ばれる。

1920年のトリアノン条約によるハンガリー王国解体までは、ほぼハンガリー王国の領域と重なっていたためハンガリーではハンガリーから領土の割譲を受けた継承国を刺激しないために専ら「歴史的ハンガリー」(történelmi Magyarország [ˈtörte̝ːnɛlmiˌmɒɟɒrorsɑ̈ːɡ])、すなわち旧「ハンガリー王国」(Magyar Királyság [ˈmɒɟɒrˌkirɑ̈ːjʃɑ̈ːɡ])、「ハンガリー聖冠諸邦」(A Magyar Szent Korona Országai [ɒˈmɒɟɒrˌsɛnːt.koronɒˈorsɑ̈ːɡɒi])、「大ハンガリー」(Nagy-Magyarország [ˈnɒɟˌmɒɟɒrorsɑ̈ːɡ]) の版図を指す場合の婉曲用法として使われることが多い。

1920年のハンガリー王国の領土の分割(トリアノン講和条約)

約1000万年前から約60万年前まではパンノニア海と呼ばれる浅海を形成しており、地盤は厚い海底堆積物の層である。

小ファトラ山地 (ファトラ・タトラ山地)のヴラートナ渓谷 (Vrátna dolina)

小ファトラ山地 (ファトラ・タトラ山地)のヴラートナ渓谷 (Vrátna dolina)
ホルトバージのプスタ(ティサーントゥール地方)

ホルトバージのプスタ(ティサーントゥール地方)

関連項目

パンノニア
パンノニア海
カルパチア山脈
ハンガリー王国 』

カルパティア山脈

カルパティア山脈
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%91%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2%E5%B1%B1%E8%84%88

『カルパティア山脈(カルパティアさんみゃく、またはカルパチア山脈(カルパチアさんみゃく))は、中央ヨーロッパ・東ヨーロッパの山脈である。
カルパティア山脈の衛星写真
カルパティア山脈の位置(カルパティア山脈内)
ゲルラホフスカ山
ゲルラホフスカ山
モルドベアヌ山
モルドベアヌ山
カルパティア山脈

概要

主にスロバキア、ポーランド、ウクライナ、ルーマニアと、周辺のチェコ、ハンガリー、セルビアにまたがっており、全長約1500km。 スロバキアのブラチスラヴァ付近から北東に延び、東、南東へ向きを変えてルーマニア中部のトランシルヴァニアに達し、さらに西、北へと向きを変える。

最高峰はスロバキアの最高峰でもあるゲルラホフスカ山(英語版)(2,655m)[1]。 アルプス・ヒマラヤ造山帯に属する新山系だが、アルプス山脈ほど険しくはない。

岩塩、天然ガス、石油、鉄鉱石、貴金属などを産出する。第一次世界大戦のころオーストリア軍とドイツ軍が冬季にナポレオン張りに山越えを敢行し、ロシアに戦わずして80万の損害を出したことがある。

名称

カルパティアの名の由来については諸説あり、よくわかっていない。古代スラヴ語で「山脈」を意味する語(Chorwat、Chrbat など)に由来するという説は、スラブ人がこの地域に移動する以前の文献にこの語が見える(2世紀のプトレマイオスの『ゲオグラフィア』)ために成立しない。 各国語による呼称は、チェコ語・スロバキア語・ポーランド語で Karpaty、ウクライナ語: Карпати[2]、ルーマニア語: Munţii Carpaţi、英語: Carpathian Mountains または Carpathians など。

日本語では、ときにカルパート山脈ともいう。
カルパティア山脈
(スロヴァキア)

カルパティア山脈
(ポーランド)

カルパティア山脈
(ポーランド)

カルパティア山脈
(ルーマニア)

カルパティア山脈
(ウクライナ)

各部

詳細は「カルパティア山脈の各部(英語版)」を参照
西カルパティア山脈

東カルパティア山脈
南カルパティア山脈
(トランシルヴァニア山脈)

以下の部分には、固有の名称がある。

タトラ山脈

    ビソケタトリ (Vysoké Tatry) とも。
    北西部。チェコ、スロバキア、ポーランドの国境地帯を東西に走る。最高峰はスロヴァキアのゲルラホフスカ山 (Gerlachovský štít, 2663 m)。

ベスキディ山脈(英語版) (Beskydy)

    北東部。スロバキア、ポーランド、ウクライナの国境地帯を北西‐南東に走る。最高峰はポーランド・スロヴァキア国境のバビヤ・グラ (Babia Góra, 1724 m)。

アプセニ山脈(ルーマニア語版、英語版) (Apuseni)

    北部。カルパチア盆地やハンガリー大平原、トランシルヴァニア高原、クリシャナ(英語版)(Crișana)に接する。

トランシルヴァニア山脈

    トランシルヴァニア・アルプス、南カルパティア山脈とも。

    南部。ルーマニア中部を東西に走る。最高峰はモルドヴェアヌ山 (Vârful Moldoveanu, 2544 m)。トランシルヴァニア高原の南縁をなす。

トランシルヴァニア高原

    トランシルヴァニア盆地とも。
    ルーマニア中部でカルパティア山脈南部が凵字型に屈曲した部分に囲まれた、三角形の高原。

なお、西カルパティア山脈、東カルパティア山脈という用語もあるが、山脈が長く屈曲しているため、

ルーマニア部分に着目し、トランシルヴァニア山脈より西が西カルパティア山脈、東が東カルパティア山脈(図)
東西、北西‐南東に延びている部分に着目し、タトラ山脈とベスキディ山脈が西カルパティア山脈、ルーマニア部分が東カルパティア山脈

と、指す範囲は一定しない。』