東南アジアの王朝史

東南アジアの王朝史
http://myasia.world.coocan.jp/OhtyoShi.htm

『(1) はじめに

 東南アジアには、アンコールワット、バガン、ボロブドール、アユタヤ、スコータイ、チャンパなど多数の遺跡がある。これらの遺跡を造った王朝の栄枯盛衰について考察する。 

(2) 海のシルクロードによる東南アジアでの国家形成

 紀元前後になると、インド人の航海者たちは、地中海地方の国が買い上げてくれる黄金、香料などを得るために、モンスーンを利用して東南アジアの群島部(現在のインドネシア、マレーシア)に来航していた。

 一方、中国人商人は、絹や黄金を持って、東南アジアを経て南インドに向かい、帰りには宝石やガラス製品を持ち帰った。

 このため、南インド、ベンガル湾、マラッカ海峡、インドシナ半島の湾岸に沿って海のシルクロードが完成していた。

<8世紀から9世紀頃の東南アジア>

 インド、東南アジア及び中国を結ぶ海上交易ルート(海のシルクロード)の途中に位置する現在のベトナム南部に、各地の港湾都市の連合体のようなチャンパ(2世紀末~17世紀)が興った。

 7世紀頃になると、東南アジアに来航したインド人航海者たちは、帰航のため又は中国に向かうためのモンスーンの時期が到来するまで、東南アジアに滞在する必要があった。
このため、居住用の設備、食料、物品の入手や、自分たちを警護してもらう目的で、現地の首長たちと結びついた。

 そのうち、富や武力などの支配力に抜きんでた首長が現れ、ついに、インドネシアのジャワ島にシャイレーンドラ朝(750年~832年)が成立した。

 シャイレーンドラ朝はジャワ島に大乗仏教の遺跡であるボロブドゥールを建造した。

 また、7世紀頃になると、帆船(ダウ)が大型化したため、インド人航行者は中国の絹織物などを求めて、マラッカ海峡を通過し、中国に向かうようになった。

 このため、マラッカ海峡の周辺のところどころに、モンスーン待ち、物産の集積、真水の補給などの要求を満たす機能を備えた都市国家が誕生した。

 このようにして、インドネシアのスマトラ島に、海のシルクロードの中継基地としての役割を担うシュリヴィジャヤ王国(7世紀半ば~9世紀)が登場した。

 なお、シャイレーンドラ朝とシュリヴィジャヤとの関係については、同一の国家であるか異なる国家であるかよく分からない。

(3) 中国南部からインドシナ半島にかけての民族の大移動

 7世紀頃から、中国の南部の人口が増加したため、中国南部に住んでいた、クメール人、ヴィエトナム人、ビルマ人、タイ系諸族の人々が、民族毎に時代を異にしながら南下した。

前アンコール朝(~802年)

 クメール人は、チャンパサック地方(現在のラオス南部でワット・プー遺跡の近く)に国家を建てたが、統一と分裂が繰り返された。
 
ピュー人国家(~832年)

 ビルマ人は、多数の村落を造り、村毎に精霊信仰「ナッ」を祀っていた。多数の村落をまとめ上げた王は、ポッパ山にナッ信仰の総本山を建てたが、832年頃に消滅した。

<11世紀頃の東南アジア>

(4) 群島部の衰退

 中国において勢力を誇っていた随・唐帝国が907年に滅び、中国が分裂すると、海のシルクロードを航行する船が減少したため、港湾都市国家は衰え始めた。

 そこに、926年ムラピ火山が大噴火を起こしたので、ジャワ島にあったシュリヴィジャヤ王国は完全に崩壊した。また、ボロブドールも19世紀まで火山灰の下に眠る。

(5) 半島部の繁栄

ヴィエトナム(李朝)
(1009年~1225年)

 中国南部から南下してきたヴィエトナム人は、中国の影響下で国家を存続させていたが、李朝は中国から独立した安定王朝を築いた。

バガン朝(1044年~1299年)

 9世紀前半にピュー人国家が忽然と消滅した後、ビルマ族による最初の統一国家であるバガン朝が興った。

 バガン朝は、王都バガンにおいて極めて多数のパゴダ(仏塔)と寺院を建てた。

アンコール朝の勃興及び隆盛
(802年~1432年)

 ジャヤバルマン2世は、802年に群雄割拠状態の国内を統一してシェムリアップ近郊のアンコールに王朝を興した。

 アンコール朝の歴代の王は、勢力範囲をインドシナ半島(現在のカンボジア、タイ及びラオス南部)に拡げると共に、アンコール・ワットやアンコール・トムなどの寺院を次々に建設した。

<13世紀頃の東南アジア>

(6) 半島部における栄枯盛衰

 アンコール朝の衰退

 アンコール朝は、雨期にメコン川を流れてくる多量の水をトンレサップ湖及び巨大な貯水池に貯えると共に、灌漑用水路網を完成させたため、この周辺では1年に3回も田植えができたので繁栄した。

 灌漑とは、泥土を含む水が土壌を再生させる働きであるが、シェムリアップ近傍は高低差が少ないため、多量の沈殿物が貯水池や灌漑用水路に堆積してしまう。

 このため、堆積された沈殿物を取り除く保守作業が必要になるが、年月の経過と共に多量の沈殿物が堆積し、ついに貯水池や灌漑用水路の保守作業ができなくなって、アンコール朝は衰退していく。

スコータイ朝
(1220年~1438年)

 アンコール朝の勢力が衰えると、現在のタイ国領内では、タイ系民族がスコータイを占拠して、タイ人最初の国家であるスコータイ朝を興した。

<14世紀頃の東南アジア>

(7) 半島部における大変動
 13世紀後半になると、中国の元朝(モンゴル)がインドシナ半島に対して数回にわたって軍事行動を起こした。

 ヴィエトナムは持ちこたえたが、多数のパゴダや寺院の建設により財政が疲弊していたバゴン朝は滅ぼされてしまった。

 アユタヤ朝
(1351年~1767年)

 現在のタイ国領内では、元軍の攻撃を受けたスコータイ朝が衰退し、代わりにアユタヤ朝が興った。

 アユタヤ朝は、チャオプラヤー川など河川の交通の要衝に建国されたため、貿易を通じて繁栄し、1432年には、ついにアンコール王朝を壊滅させた。』

インドの地理

インドの地理
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E5%9C%B0%E7%90%86

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
NoFonti.svg

この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2021年6月)

インドの地理(インドのちり)は多様性に富み、その景色も冠雪した山岳地帯・砂漠・平野・雨林・丘陵・高原とさまざまである。インドはゴンドワナ大陸のインド=オーストラリアプレートの北側が分離移動したインドプレート上に位置するインド亜大陸のほぼ全域を占める。インドの陸地はほとんどがインド洋に突き出した南アジアの半島上にあり、南西をアラビア海に、南東をベンガル湾に区切られて7000kmの海岸線をもつ。

北インド・中央インドはほぼ全域に肥沃なヒンドゥスターン平野が広がり、南インドのほぼ全域はデカン高原が占める。国土の西部には岩と砂のタール砂漠があり、東部と北東部の国境地帯は峻険なヒマラヤ山脈が占める。インドが主張するインド最高点はパキスタンと係争中のカシミール地方にあるK2峰(標高8,611m)である。確定した領土の最高点はカンチェンジュンガ峰(同8,598m)である。気候は南端の赤道地帯からヒマラヤの高山地帯まで多様性に富む。

インドは北西部でパキスタンやアフガニスタンと国境で接し[注釈 1]、北部では中華人民共和国・ブータン・ネパール、東部ではミャンマーと国境を接し、バングラデシュはインドの西ベンガル州と国境を画する。インド南方の島嶼国家のスリランカ・モルジブ・インドネシアとは領海を接する。スリランカは狭いポーク海峡とマンナル湾でインドと隔てられる。インドは28の州と7の連邦直轄地に分割される。この行政区画は地理的条件より言語や民族による境界に根ざしている。

位置と領域
「en:Extreme points of India」も参照

カンニヤークマリはインド本土の最南端である。

インドは北緯8度4分-37度6分、東経68度7分-97度25分に位置する[1]。陸地総面積3,287,263平方kmは世界第7位である[2]。国土の北端から南端までの距離は3,214km、東端から西端までは2,993kmである。国境線は総延長15,200km、海岸線は同7,517kmである[3]。

インド本土は南東側をベンガル湾、南側をインド洋、南西側をアラビア海に囲まれる。コモリン岬はインド半島の最南端にあり、ここで細くなった陸地はインド洋に消える。インド領の最南端はベンガル湾に浮かぶアンダマン・ニコバル諸島のインディラ岬である[3]。インドの領海は領土が確定した基線から12海里である[4]。

領土と行政区

詳細は「インドの地方行政区画」を参照

インドは28州と7連邦直轄地に分割され、州はさらに県に細分化される。各州は選挙による議会制の政府をもつが、連邦直轄地は連邦政府が指名した知事が統治する。

インドとパキスタンはジャンムー・カシミール州の領有を主張し、それぞれ一部を統治している。インドはまた中国が実効支配するアクサイチンというラダックの一部地域の領有も主張している。一方中国は、インドのアルナーチャル・プラデーシュ州の主権を主張している。

表話編歴

インドの旗 インドの地方行政区画
地形学上の領域

地形学上インドは次の7地域に分類される。

カラコルム山脈、東西のヒマラヤ山脈など北部山岳地帯
ヒンドゥスターン平野
タール砂漠
中央高地とデカン高原
東海岸
西海岸
領海と島嶼部[3]

山岳
シッキムにあるヒマラヤ山脈は世界最高峰

ヒマラヤ山脈・ヒンドゥークシュ山脈・パトカイ山脈が一繋がりとなった弧状の褶曲山脈でユーラシア大陸から区切られた地域がインド亜大陸である。この山岳地帯は、ゴンドワナ大陸の一部が分離したインドプレートが移動してユーラシアプレートに衝突してはじまった造山運動により、中生代末から更新世(50万年前)にかけて形成されてきた。この山脈に連なる世界の最高峰級の山々は冷たい季節風を遮断し、モンスーンを生じてインドの気候を特徴付けている。この山地を水源地とする河川は肥沃なヒンドゥスターン平野を流れる。 生物地理学者はこの山地を、ユーラシアのほぼ全域にわたる温帯 旧北区と、インド亜大陸から東南アジア・インドネシアへと続く熱帯・亜熱帯インドマラヤ区という2大生態圏の境界とみなしている。歴史上この山脈は侵入者にとって障壁であった。

インドには最高点の標高が1,000mを超える山脈が次のように8つある。ヒマラヤ山脈は唯一万年雪を頂く。

アラーヴァリー山脈
東ガーツ山脈
ヒマラヤ山脈
パトカイ山脈
ヴィンディヤ山脈
西ガーツ山脈 (またはサーヤドリ山脈)
サトプラ山脈
カラコルム山脈

ヒマラヤ山脈には世界最高峰級の山々が連なる[5]。この山脈はインド北東部で隣国との国境となる。またヒマラヤ山脈は世界でもっとも新しい山脈にあたる。西はジャンムー・カシミール州から東はアルナーチャル・プラデーシュ州に至り、50万平方kmの地域で標高が2,500mを超える[5]。ヒマチャル・プラデーシュ州・ウッタルアーカンド州・シッキム州では行政区域のほとんどがこの山域にあるといってよい。ヒマラヤ山脈には標高7,000mを超える峰が多数あり、雪線はシッキム地方の6,000mからカシミール地方の3,000m位までと幅がある。確定したインド領の最高峰はシッキム州と隣国ネパールの国境にあるカンチェンジュンガである。ヒマラヤ山脈の峰の多くが万年雪を冠している。

シワリク丘陵あるいは小ヒマラヤは、ヒマラヤ山脈のインド側最前衛に中低山が連なったものである。ほとんどが岩稜で山稜としては新しいため、雨季には崖崩れが頻発する。在印ヨーロッパ人の避暑地はこの一帯に多い。山麓では亜熱帯気候だが高度が上がると高山気候になる。

インド東部のミャンマー国境にはパトカイ山脈(またはPurvanchal)がある。この山脈はヒマラヤと同じ造山活動で形成された。パトカイ山脈は円錐形の峰と急斜面、および深い谷が特徴である。この山脈はヒマラヤほどの高度はない。パトカイ山脈はPatkai-Bum、Garo–Khasi–Jaintia、Lushai hillsという3つの中・低山帯からなる。このうちGaro–Khasi山脈はメーガーラヤ州内にあり、モンスーンが吹き上げる南斜面のチェラプンジは世界でもっとも年間降水量が多いことで知られる[6]。

インド中央に連なるヴィンディヤ山脈

ヴィンディヤ山脈はインド中部にある総延長1,050kmの中低山帯で、山峰の平均標高は約3,000フィート(=914.4m)である[5](最高1113m)。この山脈は古アラーヴァリー山脈を造った残滓で形成されたといわれる。この山脈は 北インドと南インドの地理的境界になる。山脈はグジャラート州の東部マディヤ・プラデーシュ州との州境付近から隆起して東漸し、ガンジス川流域のミルザプール付近で消滅する。

サトプラ山脈はインド中部にある低山帯である。グジャラート州東部のアラビア海岸地方からマハーラーシュトラ州、マディヤ・プラデーシュ州を横断してチャッティースガル州で終わる。総延長は約900km、標高1,000mを超える峰は多数ある[5]。北を流れるナルマダ川と南を流れるタプティ川が縁取る山域は細長い三角形をしている[7]。この山脈と北側のヴィンディヤ山脈は並走しており、東西に走るこの2つの山脈が北のヒンドゥスターン平野と南のデカン高原の境界になっている。ナルマダ川はサトプラ山脈とヴィンディヤ山脈に挟まれた最深部を流れ、サトプラ山脈の北斜面を洗い流して西のアラビア海へと注ぎ込む。

アラーヴァリー山脈はインド西部のラージャスターン州を北東から南西に横断し、総延長は約500kmである。デリー近くのハリヤーナー州が北東端となりこの辺で山脈は途切れて低い独立峰や岩稜になる。最高峰は山脈のほぼ南西端でグジャラート州との州境付近にあるアブー山(標高1722m)である。この山脈はアラヴァリ=デリー造山運動と呼ばれる先カンブリア時代の地殻変動で生じたインド最古の山脈である。北西側のマルワルセグメントと南東側のブンデルカンドセグメントという、先史時代のセグメント2つがこの山脈で結合してインド剛塊を形成する。

インドにある山脈、高原、丘陵

西ガーツ山脈(またはサーヤドリ山脈)はデカン高原の西縁に沿い、海岸線をわずかに残して高原地帯とアラビア海の境界をなす。グジャラート州とマハーラーシュトラ州の州境に近いタプティ川の左岸(南側)がこの山脈の北端であり、マハーラーシュトラ州、ゴア州、カルナータカ州、ケーララ州、タミル・ナードゥ州を南下してインド半島の最南端に達する。総延長は約1,600kmである[7]。平均標高は約1,000mで[7]、ケーララ州のカルダモン丘陵にあるアナイムディ山が最高峰(標高2,695m)である。この山脈はアラビア海とベンガル湾へ流入する河川を分ける分水界である。

東ガーツ山脈はインド南部にあり、ゴーダーヴァリ川・マハーナディー川(英語版)・クリシュナ川・カヴェリ川という四つの河川によって寸断され不連続である。この山脈は、北は西ベンガル州からオリッサ州・アーンドラプラデーシュ州を経て南はタミル・ナードゥ州まで、ベンガル湾の海岸線に沿って連なる。西ガーツ山脈ほど標高は高くないが、1,000mを超える峰は複数ある[7]。西ガーツ山脈と東ガーツ山脈はタミル・ナードゥ州のニルギリ丘陵で合流する。

ヒンドゥスターン平野

詳細は「ヒンドゥスターン平野」を参照

ヒンドゥスターン平野

ヒンドゥスターン平野はインダス川、ガンジス川、ブラフマプトラ川の3水系が生んだ広大な沖積地である。 それぞれヒンドゥークシュ山脈やヒマラヤ山脈に平行に流れ、西はジャンムー・カシミール州、東はアッサム州を源流にしてパンジャーブ州、ハリヤーナー州、ラージャスターン州の一部、ウッタル・プラデーシュ州、ビハール州、ジャールカンド州、西ベンガル州を貫流する。この平野の面積は約70万平方kmで、幅は数百キロメートルである。この水系を構成する主要河川はガンジス川、インダス川とその支流、ビアス川、ヤムナー川、ゴマティ川(英語版)、ラーヴィー川(英語版)、チャンバル川、サトレジ川、チェナブ川である。

この大平野を4地域に分割することもある。

ババール・ベルトはヒマラヤ山麓に続く一帯で、河川流によって上流から運ばれた巨礫・中礫からなるこの地帯の間隙率は非常に高く河川は伏流水になる。ババール・ベルトは通常幅が狭く7-15kmである。
テライ・ベルトは、ババール・ベルトのすぐ下流で比較的新しい沖積土からなる。ここで伏流水は地上に現れる。この地域は湿度が非常に高く密林になっている。一年を通じて雨量が多く野生生物の楽園である。
バンガール・ベルトは比較的古い沖積土が形成した台地である。ヒンドゥスターン平野ではラテライトの堆積物に覆われている。
カダール・ベルトはバンガール・ベルトの下流の低地帯である。河川が運んだ沖積土でできたもの。

ヒンドゥスターンベルトは多数の河川が運ぶシルトが堆積した、世界でもっとも広大な沖積平野である。平野は平坦で樹木が少なく運河による灌漑が容易である。この地域は地下水も豊富である。

この平野は世界でもっとも集約的に農業がおこなわれる地域である。主要作物は米や小麦で輪作をおこなう。その他トウモロコシ、サトウキビ、綿花の栽培も多い。またこの平野は世界で最も人口密度が高い地域にランクされる。

タール砂漠

詳細は「タール砂漠」を参照
ラージャスターンにあるジャイサルメールはタール砂漠の中心に位置する。

タール砂漠は大インド砂漠とも呼ばれ、インド西部にある熱砂漠である。パンジャーブ州、ハリヤーナー州、ラージャスターン州、グジャラート州の4州にまたがり、総面積は約208,110平方キロメートルである。このうち61%はラージャスターン州にある。砂漠は国境を越えてパキスタンまで続き、チョリスタン砂漠とよばれる。砂漠は最西端の一部地域では砂の砂漠だが残りの地域では岩だらけである。

タール砂漠の成り立ちはよくわかっていない。ある地質学者は砂漠の歴史を4千年から1万年と見積もっているが、別の者はこの地域の不毛化はもっと昔に遡るという。この地域の温度差は極端で夏は摂氏45度以上、冬は氷点下になる。年間降雨量は最西端で120mm、東部で375mmである。降雨の少なさが目立つが、この一帯はそもそもベンガル湾のモンスーン(南西風)の通り道ではない。アラビア海からの南西風もアラーヴァリー山脈に遮られて沙漠に降雨をもたらさない。

不毛な地域の土壌は砂地かローム質である。その硬度や深度は地形によってさまざまである。低地のローム層は比重が大きく、粘土・炭酸カルシウム・石膏などからなる硬盤があろう。人口密度が低いためインドの他地域と比べると人口が与える環境への影響は少ない。

中央高地

中央高地は西部のマールワ高原・南部のデカン高原(インド半島の大半を占める)・東方ジャールカンド州一帯のチョーター・ナーグプル高原の3高原で構成される。

デカン高原の衛星写真

デカン高原は大きな三角形をしており、北辺はヴィンディヤ山脈、東西端はそれぞれ東ガーツ山脈・西ガーツ山脈である。総面積は190万平方km、ほぼ平坦で標高は300m-600mである[8]。 『デカン』の名称はサンスクリット語で『南』を意味するdakshina に由来する。高原は西から東に緩く傾斜しており、ゴーダーヴァリ川・クリシュナ川・カヴェリ川・ナルマダ川などの河川がある。この高原は両ガーツ山脈の風下になるため半乾燥地帯である。植生は一部に落葉広葉樹林があるが、ほぼ全域を針葉低木林が覆う。夏の気候は暑く冬は暖かい。 チョーター・ナーグプル高原はインド東部の高原でジャールカンド州のほぼ全域とオリッサ州、ビハール州、チャッティースガル州の一部にまたがる。チョーター・ナーグプル高原の総面積は約65,000平方kmであるが、これを地域別(県と州都に対応)にラーンチー・ハザーリーバーグ・コーダルマーという3高原に細分化する。このうちラーンチー高原はもっとも広く、平均海抜は700mほどである。ほぼ全域がチョーター・ナーグプル乾燥落葉樹林という森林に覆われている。この高原は各種鉱物や石炭の埋蔵量が多い。 大インド半島に次いで大きな半島はグジャラート州のカティアーワール半島である。

東海岸

東海岸平野は東ガーツ山脈とベンガル湾に挟まれた細長い平野で、南はタミル・ナードゥ州から北は西ベンガル州まで広がる。マハーナディー川、ゴーダーヴァリ川、カヴェリ川、クリシュナ川などの河川の三角州はこの平野に大きな面積を占める。この地域はモンスーンの北東風と南西風の影響を受けて雨が多く、年間降雨量は1,000mm-3,000mmである。平野の幅は場所により異なるが100km-130kmである[9]。 平野は次の6地域に分類することができる。マハーナディーデルタ地帯、アーンドラプラデーシュ南部平野、クリシュナ・ゴーダーヴァリデルタ地帯、カーニャクマーリ海岸、コロマンデル海岸、砂浜海岸。

西海岸

インド西海岸にあるゴアの海岸線

西海岸平野は西ガーツ山脈とアラビア海に挟まれた狭い地域である。北はグジャラート州から始まり、マハーラーシュトラ州、ゴア州、カルナータカ州、ケーララ州を縦断する。幅は場所によるが50km-100kmである。 小河川と沼沢が多く氾濫しやすい。西ガーツ山脈を水源地にアラビア海に流れる河川は流速が高く、一年を通じて水量が豊富である。河川が急流であるため三角州ではなく三角江ができやすい。アラビア海に流入する主要河川にはタプティ川・ナルマダ川・マンドヴィ川・ズアーリ川などがある。 この海岸は3地域で名称が違う。北部マハーラーシュトラ州とゴア州ではコンカン海岸、中部カルナータカ州ではカナラ海岸、南部ケーララ州ではマラバール海岸とよばれる。落葉樹が多いことはこの地域の植生の特徴である。マラバール海岸にはマラバール海岸湿潤林という珍しい生態圏がある。

島嶼

インドはラッカディブ諸島とアンダマン・ニコバル諸島という2島嶼を領有する。いずれもインド連邦政府が連邦直轄地として統治する。

ラッカディブ諸島は、ケーララ州の沖合200km-300kmのアラビア海に浮かぶ。12の環礁・3の珊瑚礁・5の小島からなる。このうち10島は有人である。アンダマン・ニコバル諸島は、北緯6度-14度、東経92度-94度に位置する[10]。

ミャンマーの海岸から近いベンガル湾に572島が点在する。コルカタから1,255km、ミャンマーの首都ヤンゴンから約500kmであり、至近のミャンマー領の島まで193kmである[10]。

アンダマン諸島は、352kmの範囲に点在する204の群島である。ニコバル諸島は、アンダマン諸島の南に点在する22の島で総面積は1,841平方kmである。最高点はThullier山で標高642mである。インド最南端のインディラ岬は、このニコバル諸島にあり、インドネシアのスマトラ島まで189kmである。

インド半島の海岸に近い島で、主要なものは旧ポルトガル領のディーウ島、ムンバイ市街がありインド最大の人口を擁するサーシュティー島、ボンベイ港のエレファンタ島、アーンドラプラデーシュ州のシュリーハリコータ砂洲島がある。アッサム州のマジュリ島は、ブラフマプトラ川に浮かぶ巨大な中州である。

河川

詳細は「en:Rivers of India」および「インドの河川の一覧」を参照
インドにおける河川

インドの主要河川は次の3分水界を水源地にする[7]。

ヒマラヤ山脈・カラコルム山脈
ヴィンディヤ山脈・サトプラ山脈
西ガーツ山脈

ヒマラヤ水系は氷河の融解水で年間を通じて水流がある。他の2水系はモンスーン次第で乾季には流量が極端に減少する。 12の河川を主要河川と分類し、その総流域面積は2,528,000平方km以上になる[7]。 ヒマラヤからジャンムー・カシミール州を経てパキスタンへと流れるのはインダス川とその支流のビアス川・チェナブ川・ラーヴィー川・サトレジ川・ジェラム川である[11]。

ガンジス・ブラフマプトラ・メガナ水系の流域面積は1,100,000平方kmでインド最大である[7]。ガンジス川の源流はウッタラーカンド州のガンゴトリ氷河で[11]、ヒンドゥスターン平野を南東へ流れたあとバングラデシュに入る[7]。ヤムナー川とゴマティ川もヒマラヤ西部にはじまりヒンドゥスターン平野でガンジス川に合流する[7]。ガンジス川の別の支流ブラフマプトラ川は水源地のチベットからインド最東端のアルナーチャル・プラデーシュ州に流入する。その後西に方向を変えバングラデシュでガンジス川に合流する[7]。 ガンジス川のもうひとつの支流チャンバル川はヴィンディヤ・サトプラ分水界を水源に東へ流れる。この分水界から西に流れるのはナルマダ川とタプティ川であり、グジャラート州でアラビア海に流入する。東から西にアラビア海へと流れる河川水系はインドの河川の総流量の10%である。

西ガーツ山脈はデカン高原を流れるすべての河川の水源地である。主要河川はマハーナディー河口三角州を形成するマハーナディー川、ゴーダーヴァリ川、クリシュナ川、カヴェリ川などで、すべてベンガル湾に流入する。その総流量はインド全域の20%を占める[11]。

ベンガル北西部を潤すタプティ川
水域

主要な湾にはグジャラート州の東西にカンバト湾とカッチ湾が、タミル・ナードゥ州にマンナル湾がある。海峡にはインドとスリランカを隔てるポーク海峡、アンダマン諸島とニコバル諸島を隔てるテンディグリー海峡、アラビア海のラッカディブ諸島とアミンディヴィ諸島を隔てるナインディグリー海峡がある。岬にはインド半島の最南端コモリン岬(Kanniya kumari)、インド領の最南端インディラ岬、その他スリランカに近いラームセトゥ(ラーマの橋)、コロマンデル海岸のカヴェリ川河口デルタのカリメレ岬(Kodikkari)がある。アラビア海はインド半島の西に、ベンガル湾はインド半島の東に、インド洋はインド半島の南にあたる。 小規模な海域にはラッカディブ海やアンダマン海がある。珊瑚礁はアンダマン・ニコバル諸島、マンナル湾、ラッカディブ諸島、カッチ湾の4海域にみられる[12]。 主要な湖沼には、オリッサ州にあるインド最大の塩水湖チルカ湖、アーンドラプラデーシュ州のKolleru湖、マニプル州のLoktak湖、ジャンムー・カシミール州のダル湖、ラージャスターン州のSambhar湖、ケーララ州のSasthamkotta湖がある。

湿地帯

湿地帯は水系と陸系の中間的存在で、地下水位が高く地表が薄ら水に覆われている[13]。海岸線にあっては海波による侵食や土壌流出を防ぐ働きがあるので、熱帯性の暴風雨による破滅的被害を和らげる緩衝帯になる。インドの湿原生態系は冷涼性から乾燥性まで、またジャンムー・カシミール州のラダック地方からインド半島の高温高湿のものまで幅広く分布している。湿地帯のほとんどは直接・間接に河川と関係がある。1987年には政府湿原保護計画を策定し、71の湿原を保護対象に指定した[13]。 マングローブ林は三角江や小河川、沼沢地など汽水域となるインドの海岸線のいたるところで見られる。インドのマングローブ林は総面積4,461kmで世界のマングローブ林の7%を占める[14]。アンダマン・ニコバル諸島やガンジス河口のスンダルバンデルタ、カッチ湾、マハーナディー川、ゴーダーヴァリ川、クリシュナ川の河口デルタ地帯をはじめ、マハーラーシュトラ州、カルナータカ州、ケーララ州では広大なマングローブ林が見られる[12]。 確認された湿地帯の多くはその全域または一部が保護区や国立公園に指定された。

シュンドルボン

インドとバングラデシュに広がるガンジス川デルタ
詳細は「シュンドルボン」を参照

シュンドルボンの河口デルタは世界最大のマングローブ林である。ガンジス川の河口にあり、バングラデシュからインドの西ベンガル州に亘って広がる。バングラデシュ側とインド側でそれぞれシュンドルボンとシュンドルボン国立公園としてユネスコの世界遺産に登録されているが、もとは一続きの密林である。スンダルバンは潮汐の水路となる汽水域と干潟、小島からなるマングローブ林であり、生態系の観察には最適である。 この一帯は豊かな動物相で知られる。有名なベンガルトラのほか鳥やヘビの種類は多く、ワニやシカも生息する。現在ベンガルトラは約400頭、シカは約3万頭が生息すると推計されている。
カッチ湿地

詳細は「カッチ湿地(英語版)」を参照

カッチ湿地(Rann of Kutch)はグジャラート州とシンド州(パキスタン)にまたがる大汽水沼沢である。その名称にあるrannはヒンディー語で『汽水沼沢』を意味する。総面積は27,900平方kmである[15]。 この一帯はもともとアラビア海底で、地殻変動により隆起して広大な汽水干潟になったらしいが、その後徐々にシルトが流入して通年干潟は姿を消した。現在、モンスーンの季節には膝の深さほどに水が溢れる沼沢地と化し、モンスーンの季節が終わると乾燥した土壌が現れる。

土壌

インドの土壌は、沖積土、黒土、赤土、ラテライト土、森林土、乾燥砂漠土、アルカリ塩土、泥炭有機土の8種類に分類される[16][17]。このうちはじめの4種類が国土の80%を覆う。沖積土はインドでもっともふんだんに見られるが[17]、これは数々の河川が運ぶシルトが細粒化したものである[17]。沖積土は肥沃だが腐植土(有機土)や窒素が少ない[17]。この土壌はひろくパンジャーブ地方からアッサム渓谷に至る大平野でみられる。

黒土はマハーラーシュトラ州、グジャラート州、マディヤ・プラデーシュ州のデカン洪水玄武岩地帯によくみられる[18]。粘土の含有率が高く保水力に優れる[17]。この特性から乾燥地農業に適し綿花や亜麻仁などが栽培される。

赤土は鉄分を多く含有し、タミル・ナードゥ州・カルナータカ高原・アーンドラ高原にみられる[18]。アラーヴァリー山脈からチョーター・ナーグプル高原に至る高地帯では赤土がよく見られる。窒素・リン・腐植土(有機土)に乏しい[17][18]。

ラテライト土は激しい降雨に見舞われる熱帯地方で形成される。激しい降雨が土壌表層の水溶性物質を洗い流すと、土壌中の鉄やアルミニウムの水酸化反応が進行してケイ酸が少ない赤色土壌が出現する。この土壌は西ガーツ山脈地域、東ガーツ山脈地域、北東州の高地など降水量が多い地域に見られる。 森林土はヒマラヤ山脈、西ガーツ山脈、東ガーツ山脈など山岳地帯の斜面に見られる。落葉や腐植土などに由来する有機質に富む。ここでは茶やコーヒーが栽培される。

気候

詳細は「インドの気候(英語版)」を参照
「en:Climatic Regions of India」も参照

地理的に広大で地形も多様であるためインドの気候を一般化することはできない。ケッペンの気候区分によれば、インドは6つの気候区分で分割される。西部の乾燥砂漠気候、北部の高山性ツンドラ氷河気候、さらに南西部や島嶼部の雨林を涵養する湿潤熱帯気候まで幅広い。各地にそれぞれ局地的気候がある。国家的単位では次のような四季がある。冬(1-2月)、夏(3-5月)、モンスーン(または雨季:6-9月)、モンスーン明け(10月-12月)[11]。モンスーン以外の季節を乾季とみることもできる。

インドの地理や地質は気候に大きく影響しているが、これは北のヒマラヤ山脈や北西のタール砂漠に顕著に見られる。厳寒期に中央アジアから南下する季節風はヒマラヤ山脈に遮られ、北インドに吹き降ろす頃には暖まり冬の寒さは厳しくない。夏には同じ事情でインドは暑くなる。北回帰線がインドの中央部を通過するが、気候的には国全体が熱帯地方とみるものもある。

インド各地の平均気温

インドのほぼ全域で3月から5月は夏になる。内陸では日中の最高気温が40℃を超える。海岸部では30℃を超えて湿度が高い。タール砂漠では気温が45℃を超える。 夏に続いて南西モンスーンがインドのほぼ全域に雨を降らせる。雨雲はタール砂漠にできる低気圧がもたらす。ケララ海岸を季節風が渡る時がモンスーン入りとされ、例年6月1日頃になる。南西モンスーンはベンガル湾風とアラビア海風の二つに分類される。ベンガル湾風は北上すると6月上旬頃にはインド北東部に吹き始める。そしてデリーが雨季に入るのは例年6月29日頃である。アラビア海風が北上すると西ガーツ山脈の西側斜面に大量の雨を降らせる。7月上旬にはインドのほぼ全域が雨季に入る。 北インドでは8月、ケーララ州では10月にはモンスーンは終了する。モンスーン後の短い期間は穏やかな天気が続く。北部では11月に冬が始まる。 冬は北インドでは11月、南インドでは12月下旬にはじまる。インド半島の冬は、日中暖かく夜間は涼しい。北へ行くほど気温は下がる。平野の一部では氷点下になることがある。この時期北インドでは霧がかかりやすい。 インドのこれまでの最高気温は1955年にラージャスターン州アルワルで記録された50.6℃である。最低気温はカシミール州で記録された-45℃である。近年オリッサ州で計測されたという55℃はインドの気象当局により疑問が呈されている。

地質年代

詳細は「インドの地質(英語版)」を参照
インドの地質学的区分 更新世以降に形成(黄緑)、第三紀に形成(黄)、中生代白亜紀末から新生代第三紀初期に及ぶデカントラップ(薄紫)、先カンブリア代を主とし一部が二畳紀と三畳紀に由来するゴンドワナ地域とビンドヤ山地(濃緑)、先カンブリア代に形成(紫)

ヒマラヤ山脈はインド=オーストラリアプレートの一部とユーラシアプレートが衝突した結果生じたものである。この衝突は現在も進行中で山脈は毎年1cm隆起し続けている。インドには地質学的年代の全時代にわたる地層が見られるが大部分の基盤となるのは25億年前に出来た片麻岩と花崗岩で、この時はパンゲアの一部としてアフリカ大陸にあった。1億6千万年前のジュラ紀にパンゲアの分裂でゴンドワナ大陸が生じ、1億2千5百万年前の白亜紀にインド亜大陸がマダガスカルと共に分裂、9千万年前にさらにマダガスカルから分裂し北上移動を始め、1千万年前にはほぼ現在位置に達したとプレートテクトニクスは推定する。 インドの地質を形成年代によって分類すると以下のようになる[19]。 先カンブリア時代のクダッパ・ヴィンディヤ系地層の形成は東部・南部州に広くみられる。この時代の地層は西部・中央州にもわずかにみられる[19]。 古生代のカンブリア紀・オルドビス紀・シルル紀・デボン紀に形成された地層はジャンムー・カシミール州やヒマチャルプラデーシュ州のヒマラヤ山脈西部にみられる[19]。 石炭紀・ペルム紀および中生代三畳紀・ジュラ紀の地層はヒマラヤ山脈西部で見られる。ジュラ系地層はラージャスターン州でもみられる。 デカントラップはデカン高原で総面積50万平方kmを占める溶岩台地で、中生代白亜紀以後の火山活動と地塊運動により形成された[19]。トラップの土壌は黒色で農耕に適している。 新生代第三紀の地層はマニプール州とナガランド州の一部とアルナーチャル・プラデーシュ州のヒマラヤベルト地帯で見ることができる。白亜系はインド中部のヴィンディヤ山脈とヒンドゥスターン平野の一部でみられる[19]。 このゴンドワナ系地層はヴィンディヤ山脈とサトプラ山脈に挟まれたナルマダ川流域でもみられる。始新世の地層はヒマラヤ山脈西部とアッサム州でみられる。漸新世の地層はグジャラート州のカッチ地方とアッサム州でみられる[19]。 更新世の地層はインド中央部でみられる。鉱物資源に恵まれ褐炭、鉄鉱石、マグネシウム、ボーキサイトが豊富である。アンダマン・ニコバル諸島はこの時代の火山活動で形成されたと考えられている[19]。

天然資源

インドは天然資源に恵まれている。国土の56%が耕作可能であるほか、地下資源も石炭(世界第4位の埋蔵量)、鉄鉱石、マンガン、雲母、ボーキサイト、チタン鉱石、クロム、天然ガス、ダイアモンド、石油、石灰石などがある[20]。ケーララ州の海岸沿いにはトリウム鉱脈があるが、採算ベースに見合う世界のトリウム資源の24%を埋蔵する[21]。 石油はマハーラーシュトラ州とグジャラート州の沖合で生産されており、ラージャスターン州とアッサム州で油田が確認されているが、国内需要の40%を満たすのみである。アーンドラプラデーシュ州の沖合では天然ガス田が相次いで発見されている。アーンドラプラデーシュ州にはウラン鉱が、カルナータカ州には金鉱がある。

自然災害

詳細は「en:Natural disasters in India」を参照
「en:Drought in India」も参照
インドにおける自然災害

インドでは自然災害により多くの人命と財産が失われてきた。旱魃・突発的洪水・サイクロン・崖崩れ・集中豪雨による土砂崩れ・豪雪が脅威である。これ以外には夏に頻発する砂塵嵐があるが、これは北部で発生して南部まで移動しながら乾燥地方の砂塵を大量に撒き散らし、北インドを中心に深刻な被害を与える[22]。霰もインド各地で発生し、収穫前のコメやコムギに深刻な打撃となる。 小ヒマラヤでは地滑りが多発する。この地域の山稜は地質が新しく不安定であるため地滑りしやすい。西ガーツ山脈の一部地域でも地滑りが多発する。カシミール州・ヒマチャルプラデーシュ州・シッキム州では崖崩れが発生しやすい。洪水はインドでもっともよく知られた自然災害である。モンスーンの南西風が大量の雨をもたらし、 ブラフマプトラ川や他の河川が急激に増水しては頻繁に流域にあふれ出し、付近一帯を水没させる。洪水は天然の灌漑と土壌の肥沃化をいう恩恵をもたらすが、千を超える生命と数百万人の住居を奪う一面もある。季節外れの豪雨も災害を起こし農作物に被害を与える[23][24]。洪水はインドのほぼ全域で発生し、インド中央部では鉄砲水や集中豪雨などがここ数十年間で増加傾向にあるが、これは偶然にも気温の上昇と軌を一にしている。一方ほどよい雨を降らせる気圧配置の頻度は低下しており、平均年間降水量にはあまり変化がない[25]。 赤道低圧帯で発生するサイクロンは海岸地方に大きな被害をもたらす。サイクロンの大雨・高潮・強風により被災地はしばしば孤立し救援や補給を断たれる。北インド洋では4月から12月がサイクロンの季節で、5月から11月にかけて活動が活発化する[26]。例年、風速63km/h(17.5m/s)以上のサイクロンが約8個発生し、うち約2個が風速117km/h(32.5m/s)以上の強いサイクロンに発達する。毎年のように勢力の強い(カテゴリー3以上)サイクロンが発生するが[26][27]、被害や死亡者数では1999年10月29日にオリッサ州を襲った超大型のサイクロンは20世紀末の四半世紀で最悪のものである。 インドの農業は農業用水をモンスーンに大きく依存している。インドの一部地域ではモンスーンの異常で水が不足すると、穀物収穫量が平年を下回る。マハーラーシュトラ州の南部と東部、カルナータカ州北部、アーンドラ・プラデーシュ州、オリッサ州、グジャラート州、ラージャスターン州など旱魃が頻発する地域では収量減少もしばしば起きる。過去に旱魃は周期的に起こりたびたびインドは大規模飢饉に襲われた。1770年のベンガル飢饉では旱魃地帯の人口の3分の1、1876年-1877年飢饉では500万人以上、1899年の飢饉で450万人以上、1943年のベンガル飢饉では500万人以上が飢餓とこれに起因する病気で死亡した[28][29]。 インドの地震多発地帯を調査した結果、地球表面のプレート運動がヒマラヤベルトや北東インドで毎年のように発生する地震の原因であることがわかった。インドの気象当局はインド全域を地震の危険度(頻度・強度)別に分類し、この地域を最も危険度が高い『第V地域』に分類した。またグジャラート州のカッチ地方やマハーラーシュトラ州のコイナ付近を危険度が高い『第IV地域』に分類した。その他の地域の地震発生の危険度は中ないし低程度である[30]。 2004年のスマトラ沖地震による津波はアンダマン・ニコバル諸島とインド東海岸を襲い、推計1万人の死者を出した。 火山はすべてアンダマン諸島にある。活火山はバレン島にひとつあり、2005年5月に噴火した。その他ナルコンダム山という休火山、バラタン島の泥火山がある。

関連項目
ウィキメディア・コモンズには、インドの地理に関連するカテゴリがあります。
India 78.40398E 20.74980N.jpg
プロジェクト 南アジア
Portal:地理
ポータル 地理

en:Extreme points of India
インドの地質(英語版)
インドの気候(英語版)
en:Ecoregions of India
en:National parks of India
en:Regions of India
インド亜大陸
en:European Digital Archive on Soil Maps of the World』

ザンベジ川

ザンベジ川
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%83%99%E3%82%B8%E5%B7%9D

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ザンベジ川
Zambezi, Zambesi, Zambeze
River
Zambezi River at junction of Namibia, Zambia, Zimbabwe & Botswana.jpg
ナミビア、ザンビア、ジンバブエ、ボツワナの国境の接点付近を流れるザンベジ川
愛称: besi
国 ザンビアの旗 ザンビア, コンゴ民主共和国, アンゴラの旗 アンゴラ, ナミビアの旗 ナミビア, ボツワナの旗 ボツワナ, ジンバブエの旗 ジンバブエ, モザンビークの旗 モザンビーク, マラウイの旗 マラウイ, タンザニアの旗 タンザニア
源流

  • 所在地 ムウィニルンガ(英語版), ザンビア
  • 標高 1,500m (4,921ft)
  • 座標 南緯11度22分11秒 東経24度18分30秒
    合流地 インド洋
  • 所在地 モザンビーク
  • 座標 南緯18度34分14秒 東経36度28分13秒座標: 南緯18度34分14秒 東経36度28分13秒
    長さ 2,574km (1,599mi)
    流域 1,390,000 km² (536,682 sq mi) [1][2]
    流量
  • 平均 3,400 m3/s (120,070 cu ft/s) [1][2]
    Zambezi.svg

ザンビア北西部ザンベジ近郊でのザンベジ川

ジンバブエ共和国内の主な考古遺跡と川の位置図。インゴンベ=イレデの町と初期のモノモタパ王国は、ザンベジ川を利用した交易が繁栄の契機となった。

ウィキメディア・コモンズには、ザンベジ川に関連するメディアがあります。

ザンベジ川(ザンベジがわ、Zambezi River)は、アフリカ南部を流れインド洋に注ぐ河川である。全長は2,750キロメートル、2,736キロメートル、2,740キロメートル、2,470キロメートル[3]。ナイル川、コンゴ川、ニジェール川に次ぐアフリカで4番目の長さの川である。

地理

ザンビア北部に源を発し、アンゴラ、ザンビア、ナミビアと流れた後ザンビアとジンバブエ国境を流れ、モザンビークに入りインド洋のモザンビーク海峡に注ぐ。途中には世界三大瀑布の一つ、ヴィクトリア滝があり、ほかにチャヴマ滝(英語版)(Chavuma)、ンゴニェ滝(Ngonye)もある。

支流

主な支流はカフエ川(英語版)、ルアングワ川およびマラウイ湖を水源とするシーレ川などがある。

生物相

上流域はカラハリ砂漠の周縁部を流れる。氾濫原にはシロアカシア、ギニアシジギウム(英語版)などの河畔林およびDiplorhynchus(英語版)属の低木林とパルミラヤシ属(英語版)、ザンビアチーク(英語版)、アンゴラカリン(英語版)などの森林が分布しており、ライオン、オグロヌーなどの動物が生息している[4]。ヴィクトリア滝を過ぎると、中流域一帯にはイチジク属のFicus sur(英語版)、オリーブ(Olea europaea subsp. cuspidata(英語版))、Trichilia emetica(英語版)、セネガルヤシ(英語版)、Ilex mitis(英語版)、アカテツ科、マホガニー、アカシア、バオバブなどの植物が生え、アフリカゾウ、アフリカスイギュウ、ライオン、ヒョウ、クロサイ、カバ、キリン、シマウマ、レイヨウ、イボイノシシ、ヒヒ、サル、ハイエナ、チーター、ナイルワニ、ハヤブサ類、タカ類、ナベコウ、サギ類、ミナミベニハチクイ(英語版)などが多く生息している[5][6]。河口に近い沖積平野の三角州にはマングローブ、熱帯草原、ヤシ林、湿地などが広がり、周辺の海域を含む一帯にアフリカスイギュウ、アフリカゾウ、カバ、ライオン、ヒョウ、モモイロペリカン、コシベニペリカン、サギ類、フラミンゴ、シラサギ、サンショクウミワシ、コウノトリ類、オニアジサシ、ホオカザリヅル、ホオジロカンムリヅル、ハンドウイルカ類、ウスイロイルカ類、魚類、貝類などが生息している[7]。

ザンビア西部にあるバロツェ氾濫原(英語版)[4]、ジンバブエのビクトリアの滝国立公園[5]とマナ・プールズ国立公園[6]およびモザンビークの河口部にあるザンベジ川の三角州[7]はラムサール条約登録地である。
交通

大型船は河口からモザンビークのテテまで航行可能だが、そこから上流はカボラ・バッサ(英語版)の急流に阻まれ、遡上は不可能である。中流・上流域は急流が多く、カヌーや丸木舟を除き航行はほぼできない。

橋梁

ザンベジ川には、チニンギ(英語版)、ヴィクトリア滝(ヴィクトリアフォールズ橋)、チルンド(英語版)(チルンド橋)、テテ(サモラ・マチェル橋(英語版))の4箇所にしか橋が架かっていない。

河川施設

流域には水力発電所が2つある。一つはカリバダムでザンビアとジンバブエに、もう一つはカオラ・バッサダム(英語版)で南アフリカに電力を供給している。カリバダムによってせき止められて出来たダム湖であるカリバ湖は、世界最大の人造湖である。

ザンベジ川の怪物魚

ザンベジ川には怪物魚がいると言われ、釣り人が川に引きずり込まれる事件が次々と報告されている。その姿は地元の人の説明では「蛇のような魚」だという。その魚の名は「ソロモンフィッシュ」とも「マズンダ」ともいわれ、場所によっては名前が様々である。

特に有力な説として、カリバダムのカリバ湖周辺に巨大魚が棲みついているらしく、そこでは「ヴンドゥー」というナマズの一種で体長は最大のもので3メートルとも5メートルともいわれているが定かではない。イギリスの生物学者・釣り師であるジェレミー・ウェイドが自身の番組『怪物魚を追え!』にてヴンドゥー(英語版)を釣り上げた[8]。』

カースト

カースト
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88

 ※ 今日は、こんな所で…。

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
スペイン植民地におけるカーストを描いた図。この語がインドのヴァルナとジャーティにも使われるようになった
差別
形態
属性
社会的
宗教的(英語版)
人種/国籍(英語版)
表現
政策
対抗措置
関連項目

表話編歴

インド哲学 – インド発祥の宗教
ヒンドゥー教
Om symbol.svg
基本教義
神々
聖典
法典・律法経
学派
宗派
人物
修行・礼拝
関連用語
一覧

ポータルポータル

表話編歴

カースト(英語: Caste[注釈 1])とは、ヒンドゥー教における身分制度(ヴァルナとジャーティ、ヴァルナ・ジャーティ制)を指すポルトガル語・英語だが[1]、インドでは、現在も「カースト」でなく「ヴァルナとジャーティ」と呼ぶ[2]。本来はヒンドゥーの教えに基づく区分であるが、インドではヒンドゥー以外の宗教でも、カーストの意識を持つ者がいる[3][4]。ヒエラルキー。

紀元前13世紀頃に、インド亜大陸を征服したアーリア人が、先住民を肌の色で差別したことからバラモン教の枠組みがつくられ、その後、バラモン(僧侶)・クシャトリヤ(軍人)・ヴァイシャ(商人)・シュードラ(隷属民)の4つの身分に大きく分けられるヴァルナとして定着した。さらに世襲の職業に基づく現実の内婚集団であるジャーティへと細分化され、親の身分が子へと引き継がれていく。今生の者は、前世の業の報いによりその身分のもとに生まれ、生涯役目を全うすることによって来世の福が保証されるという、徹底した宿命観を篤く信仰している[5]。

法的規定

インドでは、1950年に制定されたインド憲法の17条により、不可触民を意味する差別用語は禁止、カースト全体についてもカーストによる差別の禁止も明記している。またインド憲法第341条により、大統領令で州もしくはその一部ごとに指定された諸カースト(不可触民)の総称として、公式にスケジュールド・カースト(指定カースト)と呼ぶ。留保制度により、公共機関や施設が一定割合(平均15 – 18%)で優先的雇用機会を与えられ、学校入学や奨学金制度にも適用される。制度改善に取り組むものの、現在でもカーストはヒンドゥー社会に深く根付いている[2]。

なお、インドの憲法が禁止しているのは、あくまでカーストを理由にした「差別行為」であり、カーストそのものは禁止対象ではない。このため、現在でもカーストは制度として、人々の間で受け継がれている[6]。

「カースト」名称の形成

語源

カーストという単語はもとポルトガル語で「血統」を表す語「カスタ」(casta) である。ラテン語の「カストゥス」(castus)(純粋なもの、混ざってはならないもの。転じて純血)に起源を持つ[1]。

植民地主義における呼称

第2階級クシャトリヤの子孫であるラージプート戦士集団(1876年)

15世紀にポルトガル人がインド現地の身分制度であるヴァルナとジャーティを同一視して「カースト」と呼んだ[2]。そのため、「カースト」は歴史的に脈々と存在したというよりも、植民地時代後期の特に20世紀において「構築」または「捏造されたもの」ともいわれる[7]。インドの植民地化については「イギリス領インド帝国」を参照。

植民地の支配層のイギリス人は、インド土着の制度が悪しき野蛮な慣習であるとあげつらうことで、文明化による植民地支配を正当化しようとした[7]。ベテイユは「インド社会が確たる階層社会だという議論は、帝国支配の絶頂期に確立された」と指摘している[7]。インド伝統の制度であるヴァルナとジャーティの制度体系は流動的でもあり、固定的な不平等や構造というより、運用原則とでもいうべきもので、伝統制度にはたとえば異議申し立ての余地なども残されていた[7]。ダークス、インデン、オハンロンらによれば「カースト制度」はむしろイギリス人の植民地支配の欲望によって創造されてきたものと主張している[7]。またこのような植民地主義によって、カーストは「人種」「人種差別」とも混同されていったといわれる[7]。

ホカートは、カーストと認定された「ジャーティ」は、実際には非常に弾力的で、あらゆる類の共通の出自を指し示しうるものと指摘している[7]。

カーストに対応するインド在来の概念としては、ヴァルナとジャーティがある。外来の概念であるカーストがインド社会の枠組みのなかに取り込まれたとき、家系、血統、親族組織、職能集団、商家の同族集団、同業者の集団、隣保組織、友愛的なサークル、宗教集団、宗派組織、派閥など、さまざまな意味内容の範疇が取り込まれ、概念の膨張がみられた。

ヴァルナ・ジャーティ制

日本国内において、カースト制を、インド在来の用語であるヴァルナ・ジャーティ制という名称で置き換えようという提案もあるが、藤井毅は、ヴァルナがジャーティを包摂するという見方に反対しており、近現代のインドにおいて、カーストおよびカースト制が既にそれ自体としての意味を持ってしまった以上、これを容易に他の語に置換すべきでないとしている[1]。

インドにおけるカースト:ヴァルナ

ヒンドゥー社会の原理

「ヴァルナ (種姓)」を参照
ヒンドゥー教の儀式であるヤジナ。炎の中に供物が投げ入れられている(南インド)
バラモン(インドネシア、バリ島)

カーストは一般に基本的な分類(ヴァルナ – varṇa)が4つあるが、その中には非常に細かい定義があり、結果として非常に多くのジャーティその他のカーストが存在している。カーストは身分や職業を規定する。カーストは親から受け継がれるだけであり、誕生後にカーストの変更はできない。ただし、現在の人生の結果によっては次の生で高いカーストに上がれる。現在のカーストは過去生の結果であるから、受け入れて人生のテーマを生きるべきだとされる。カーストとは、ヒンドゥー教の根本的世界観である輪廻転生(サンサーラ)観によって基盤を強化されている社会原理といえる[2]。

一方、アーリア文化の登場以前の先住民の信仰文化も残存しており、ヒンドゥーカーストは必ずしも究極の自己規定でも、また唯一の行動基準であったわけでもないという指摘もある[8]。

ヴァルナの枠組み

ブラフミン(サンスクリットでブラーフマナ、音写して婆羅門〔バラモン〕)
    神聖な職に就けたり、儀式を行える。ブラフマンと同様の力を持つと言われる。「司祭」とも翻訳される。

クシャトリヤ
    王や貴族など武力や政治力を持つ。「王族」「戦士」とも翻訳される。

ヴァイシャ
    製造業などに就ける。「市民」とも翻訳される。

シュードラ(スードラ)
    古代では、一般的に人が忌避する職業にしか就けなかったが、時代の変遷とともに中世頃には、ヴァイシャおよびシュードラの両ヴァルナと職業の関係に変化が生じ、ヴァイシャは売買を、シュードラは農牧業や手工業など生産に従事する広汎な「大衆」を指すようになった。「労働者」とも翻訳される。

ヴァルナを持たない人びと

    ヴァルナに属さない人びと(アウト・カースト)もおり、アチュートという。「不可触民(アンタッチャブル)」とも翻訳される。不可触賎民は「指定カースト」ともいわれる。1億人もの人々がアチュートとして、インド国内に暮らしている。彼ら自身は、自分たちのことを「ダリット」 (Dalit) と呼ぶ。ダリットとは壊された民 (Broken People) という意味で、近年ではダリットの人権を求める動きが顕著となっている。

歴史

発祥
「ヴァルナ (種姓)」を参照

アーリア人がカースト制度のヴァルナ (種姓)を作った理由は既にかなり研究されている。制度発足時は「純血アーリア人」「混血アーリア人」「原住民」程度の分類であったとされ、「混血アーリア人」を混血度によって1 – 2階層程度に分けたため、全体で3 – 4の階層を設定した[9]。その後アーリア人はこの政策を宗教に組み入れ、ヴァルナに制度として確立させた。海外の著名な社会学者、人類学者や歴史家はカーストの人種起源を否定している[10]。

他宗教とのかかわり

仏教

紀元前5世紀の仏教の開祖であるゴータマ・シッダッタ(釈迦)は、カースト制度に強く反対して一時的に勢力をもつことができたが、5世紀以後に勢力を失っていったため、カースト制度がさらにヒンドゥー教の教義として大きな力をつけていき、イスラム教の勃興などから13世紀にはインドから仏教がほぼ姿を消し[5]、カースト制度は社会的に強い意味を持つようになった。

インドの仏教は、衰退していく過程でヒンドゥー教の一部として取り込まれた。仏教の開祖の釈迦はヴィシュヌ神の生まれ変わりの一人であるとされ、彼は「人々を混乱させるためにやってきた」ことになっている。その衰退の過程で、仏教徒はヒンドゥー教の最下位のカーストに取り込まれていったと言われる。それは、彼らがヒンドゥーの庇護の下に生活をすることを避けられなかったためである。

インド独立後の1956年より、インド仏教復興運動によって50万人の不可触民らが仏教へと改宗し、仏教徒はインドにおいて一定の社会的勢力として復活している[5]。

キリスト教

イエズス会がインドでキリスト教を布教した際は、方便としてカーストを取り込んだ。宣教師らは、それぞれの布教対象者をカースト毎で分け合い、上位カーストに対する布教担当者はイエズス会内部でも上位者、下位カーストに対する布教担当者は下位者とみせかける演技を行った。

イスラム教

ムガル帝国におけるイスラム教の経済力と政治力や武力による発展のなかで、ヒンドゥー教からの改宗者が多かったのは、下位のカーストから抜け出し、自由になるのが目的でもあった。

大英帝国の植民地支配時代

大英帝国の植民地以前のインドは、伝統の制度であるヴァルナとジャーティの制度体系は流動的でもあり、固定的な不平等や構造というより、運用原則とでもいうべきもので、伝統制度にはたとえば異議申し立ての余地なども残されていたが、イギリスの植民地支配によって、インド社会のカースト化が進行した。

イギリス領インド帝国の権力はヴァルナの序列化の調停役を果たしたのであり、国勢調査報告者や地誌はジャーティの序列にしばしば言及し、また、司法は序列の証明となる慣行を登録して、随時、裁可を与えていた。このように、序列化を広く社会的に押し広げていく要因の一つには植民地支配があった[1]。

しかし、他方では、近代化とともにカースト制批判も強まって、1919年のインド統治法では不可触民にも議席が与えられた[11]。

イギリス人を支配階級に戴くにあたって、欧米諸国の外国人を上級カースト出身者と同等に扱う慣習が生じた。これは後のインド独立時において、カーストによる差別を憲法で禁止する大きな要因となった。

カースト差別撤廃運動

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、アーリヤ・サマージやブラフモ・サマージなど、カースト差別撤廃を謳うヒンドゥー教改革運動が生まれた。

アーリア人に征服されたドラヴィダ民族というアイデンティティーから「非バラモン運動」が正義党(南インド自由党)などによって展開した[12]。1925年には非バラモン運動には限界があるとしてラーマスワーミ・ナーイッカルが先住民族であるドラヴィダ民族は自尊すべきであるという自尊運動をはじめ、カースト制を否定した[12]。

こうした運動はキリスト教の影響下にてカースト差別撤廃を謳ったが、それが唯一の目的というわけでもなかったため、一過性に終わったが、今日のカーストの排除及び廃絶につながっていった。

現代の状況

都市部では、カーストの意識も曖昧になってきており、ヒンドゥー教徒ながらも自分の属するカーストを知らない人すらもいるが、農村部ではカーストの意識が根強く残り、その意識は北インドよりも南インドで強い。アチュートの人々にヒンドゥー教から抜け出したり、他の宗教に改宗を勧めたりする人々や運動もある。[要出典]

職業とカースト

武人階級クシャトリアの肖像画
(1835年)

火葬場で働くアンタッチャブルの少年(2015年、ネパール・パシュパティナートにて)
庶民階級ヴァイシャ(1873年)

農業は全てのジャーティに開かれており、したがって、様々なジャーティが様々な形で農業に参加する。種や会社では「カースト」関連の詳細を書類上、欄でさえなくなっていて、法律上も禁止されている。また1970年代以降の都市化、近代化、産業化の急速な進展は職業選択の自由の拡大をもたらし、近代的な工場は様々なジャーティによって担われる。 ここでは世襲的職業の継承というジャーティの機能の一つは、すでに成り立たなくなってきている。

カーストや指定部族を対象とした留保制度・「リザベーション・システム」は、インド憲法にも明確に規定され、インドの行政機関が指定したカーストと指定部族を対象として、教育機関への入学の優先枠が設けられている。国営企業職員の優先就職枠、議会の議席、公務員と、1950年では20%だったものが、93年には49.5%にまで引き上げられた。優遇の対象外の人は、これは逆差別だと反対している。

インド陸軍は、兵士をカーストや信仰する宗教、出身地域別に27以上の連隊として編成している。これは、それぞれの社会集団で団結させ、連隊間の競争意識を高める目的がある[13]。

一方、民間ではタタ財閥やリライアンス財閥等が、インド・ダリット商工会議所 (DICCI) を支援している。

近代産業における新たな差別問題

近代工業における職業選択の自由権は、特に情報技術(IT)産業においてめざましい。電気とパソコンさえあれば誰でもチャンスを得られるため、カーストを問わず門戸を開いている[14]。1970年代には既にアメリカ・シリコンバレーにてインド人ソフトウェア技術者が活躍し、1980年代にはインド本土においてもアメリカ企業の下請け業を安価で引き受け始め、1990年代初頭には、インドが自由主義経済を解放したことにより、それは著しく飛躍を遂げた[15]。

しかし、アメリカにて活躍するインド人IT技術者の間においては、現地にて従事するインド人労働者のおよそ3人に2人がカースト差別を受けていることが2018年、アメリカを拠点とするダリット組織「エクティラボ」の調査にて判明されている[16]。また2020年には、ネットワーク機器大手シスコシステムズにて、上位カースト出身者2名の上司により下位カースト出身のエンジニアが昇進を阻まれたとの訴訟問題へと発展している[17]。これを受けて大手テクノロジー企業Appleは、業界に先んじてカースト差別禁止を就業規則に明示した。またアメリカでは、教育機関においてもカリフォルニア州立大学イーストベイにてカースト差別が問題視されたことにより、同大学およびハーバード大学等複数教育機関が、カースト差別を禁止とした。さらに2023年3月には、カリフォルニア州においてカーストに基づく差別を禁止とする最初の州にするための法案「SB 403」が提出された[16]。

インド本国においても、2000年代半ばに行われた、ベンガルール市にて従事するソフトウェア技術者へのヒアリング調査によると、調査対象者132人のうち、実に48%がバラモン出身者であり、再生族と呼ばれる上位カーストにあたるバラモン・クシャトリア・ヴァイシャを包括すると、その割合は71%に上ることが判明されている。また対象者の親の学歴は、父親の80%、母親の56%が大卒以上であり、技術者の36%がインド5大都市にあたるデリー、ムンバイ、コルカタ、チェンナイ、ベンガルール出身とされ、29%がマイスールやプネーなど2級地の出身[注釈 2]であり、農村出身者はわずか5%であることがわかった[16]。

研究者の指摘では、技術者らが留保制度に強く反発しているという事実から[注釈 3]IT産業内部にて出身カーストを問うことを嫌悪する風潮が根強く、正確なデータはほとんど掌握されていない[15]。

しかし、インド人創業者による有名IT企業の多くが、バラモンなどのカースト上位創業者である実情もあり[15]、「IT産業は等しく能力主義で、下剋上ができる」という世間のイメージ通りであるとは言い難い。
選挙とカースト

保守的な農村地帯であるパンジャブ州では、国会議員選挙に、大地主と、カースト制度廃止運動家が立候補した場合、大地主が勝ってしまうという。現世で大地主に奉仕すれば、来世では良いカーストに生まれ変われると信じられているからである。このように1950年のインド憲法施行による共和国成立によるカースト全廃後もカーストは生き残っており、それがインド経済発展の妨げになっているという声もインド国内にて聞かれる。

児童とカースト

児童労働問題やストリートチルドレン問題は、インドにおいては解決が早急に求められるまでになっている。ダリットの子供は、寺院売春を強制されていると国際連合人権委員会では報告されている[18]。児童労働従事者やストリートチルドレンの大半は、下級カースト出身者が圧倒的に多い一方、児童労働雇用者は上級カースト出身で、教育のある富裕層が大半である、と報告される。

子供を売春や重労働に従事させ逮捕されても、逮捕された雇用者が上級カースト出身者であったがために無罪判決を受けたり、起訴猶予や不起訴といった形で起訴すらもされない、インド国内の刑務所内の受刑者の大半が、下級カースト出身者で占められているという報告もある。1990年代後半、インド政府は児童労働の禁止やストリートチルドレンの保護政策を実行し、2006年10月、児童の家事労働従事が禁止された。

結婚とカースト

インド憲法上、異カースト同士の結婚も認められているが、ヒンドゥー教徒の結婚は、同じカーストか、近いカースト内での結婚が好ましいとされ、見合い結婚が多い。逆に、恋愛結婚・異カースト同士の結婚は増えつつあるとはいえ、現在も一部の大都市でしか見ることができない。

ダヘーズなどのヒンドゥー教の慣習も残っている。ダヘーズとは花婿料(嫁の持参金)として、花婿側へ支払われる金銭を指すが、金額が少ない場合、殺害事件に発展することもある[19]。1961年にダヘーズは法律では禁止されているが、風習として残っている[19]。
自殺とカースト

元々カーストは親から受け継がれるだけであり、生まれた後にカーストは変えられないがために、現在の人生の結果によって次の生で高いカーストに上がるしかなく、現在のカーストは過去の生の結果であるから、受け入れて人生のテーマを生きる以外に無い、とされる。

だがこれは、現代インド、特に南部にて下級カースト出身者の自殺者数の増加要因になっている。教育のある下級カースト出身者が自殺を選ぶ、というジレンマが発生しているわけだが、信教の自由や教育の充実も側面にあるため、インド人の思想の根幹にカーストを置くことができない、という事実を示唆しているとも言える。

カースト制の影響は、ヒンドゥー教とカーストの結び付きが強いためインドの社会の根幹を形成しているが、現代インドではカーストの否定がインド社会の基礎になっている、というインドのヒンドゥー教徒から見た矛盾も発生している。自殺の問題についてインド政府の対応は、後手に回っているのが実情である。[要出典]

改宗問題

改宗してヒンドゥー教徒になることは可能であり歓迎される。しかし他の宗教から改宗した場合は、最下位カーストのシュードラにしか入ることができない。生まれ変わりがその基本的な考えとして強くあり、努力により次の生で上のカーストに生まれることが勧められる。現在最下位のカーストに属する人々は、何らかの必要性や圧力により、ヒンドゥー教に取り込まれた人々の子孫が多い。

ヒンドゥー教から他宗教へ改宗することによって、カースト制度から解放されることもあり、1981年にミーナークシプラム村で不可触民が、抗議の意味も含めてイスラム教に改宗した[12]。また、ジャイナ教やシク教やゾロアスター教では、現実的な影響力や力により、その社会的地位が決まり、ヒンドゥー制度から解放されているため、カースト上位でない富裕層に支持されている。

しかし近年、イスラムとヒンドゥー・ナショナリズムの勢力争いが激化し、1993年には衝突やテロ事件も起こるようになり、1998年の爆弾テロ事件では56名が死亡した[12]。

こうしたことを背景に、タミル・ナードゥ州でカースト制根絶を訴えてきた全インド・アンナー・ドラヴィダ進歩連盟(AIADMK)は2002年、不可触民がキリスト教やイスラム教に改宗することを禁止する強制改宗禁止法を制定した[12]。

その後、2006年にドラヴィダ進歩連盟(DMK)が、タミル・ナードゥ州で政権を掌握すると、強制改宗禁止法は廃止された[12]。

また、現代インドにおける仏教の復興は、カースト差別の否定が主な原動力となっている。ヒンドゥー・ナショナリズムの限界が露呈していく一方で、ビームラーオ・ラームジー・アンベードカルの支持勢力が拡大し、アンベードカルが提唱した「ダリット」(被差別者)というアイデンティティが獲得されてもいる[12]。

なおインドでは、ヒンドゥー以外の宗教でも、カーストの意識を持つ者がいるので、ヒンドゥー教徒でない事が、必ずしもカースト否定を意味するわけではない[3][4]。

その他の世界のカースト
「en:Caste」も参照

ミャンマー

カレン族(ヤンゴン)

ミャンマーに住むカレン族は、タイ王国との国境地帯に居住する民族である。彼らは、キリスト教宣教師やイギリス植民地政府らによって下位カースト人口(low-caste people)や汚れた民(dirty-feeders)として扱われたとしている[20]。

ネパール

ネパール・パシュパティナート火葬場で働く隠亡の男性(隠亡はカーストではアンタッチャブルに分類される)

ネパールではヒンドゥー教徒が多く、インドと同様、伝統的にカースト制度を有していた。しかし、ネパールの多数派であるパルバテ・ヒンドゥーの伝えるカーストは、インドのものとは若干異なる。また、ネパールの少数民族のネワールやマデシもまた独特のカースト制度を持つ。ネパールのカーストは現地の民族の生活と深く結びついている為に複雑であり、2015年のネパール大地震では、上位カーストの家や邸宅は真っ先に建て替えられ、下位カーストの家が後回しにされたという報告もある[注釈 4][21]。

ネパールでは、1854年のムルキー・アイン法によってカースト制度が導入された[22]。上級カーストはインド・アーリア系のバフン、次にチェトリ、第三位にモンゴロイド系のマトワリ、不浄階層としてナチュネ(ダリット)がある[22]。

ネパール内戦を戦ったネパールのマオイストの主力は、山岳地帯のマトワリといわれる[22]。

ネパールのダリット「カミ」は、寺院に入ることや共同の井戸から水を飲むことなどが禁止されている[23]。

バリ島

詳細は「バリ・ヒンドゥー」を参照

マジャパヒト王国の領域

インドネシアではイスラム教が多数を占めるが、かつてはクディリ王国やマジャパヒト王国など、ヒンドゥー教を奉じる国家が栄えていた。その伝統を今に受け継ぐバリ島などでは、仏教やイスラム教、土着の信仰の影響を受けて変質したバリ・ヒンドゥーと共に、独特のカーストが伝えられている。

バリのカーストで特徴的なのは、いわゆる不可触民に相当する身分が無いことである。元々、バリ島では身分差が曖昧であり、オランダの植民地支配が始まり、徴税のためにカーストを整備するまで、カーストそのものの区別が曖昧な状態であった[24]。

ヤジディ教

中東のクルド人の一部で信じられているヤジディ教は、改宗を禁じ、輪廻転生を信じ、厳しいカースト制を持っている宗教である。ヤジディ教のルーツは、数千年前のインドに遡るとする見解がある[25]。

国連人権委員会とカースト差別問題

2001年9月3日、南アフリカのダーバンで開かれた国連反人種主義差別撤廃世界会議 (UNWCAR)NGOフォーラム宣言においては、主要議題の一つとして、南アジアのダリット、日本の被差別部落民、ナイジェリアのオス人・オル人、セネガルのグリオット人などのカースト制度が扱われたが、最終文書には盛り込まれなかった[18]。

2002年の国際連合人種差別撤廃委員会における会合で、一般的勧告29『世系に基づく差別』が策定され、インドのカースト差別を含む差別が、国際人権法にいわれるところの人種差別の一つであることが明記された。2007年には中央大学法科大学院の横田洋三とソウル大学女性研究所の鄭鎮星が、国連人権擁護促進小委員会にて『職業と世系に基づく差別[26]』に関する特別報告を行い、バングラデシュ、ネパールの実態とともに、差別撤廃のための指針が提示された[27]。

2011年、ユニセフは差別の形態の一つとしてカーストを挙げ、低いカーストに生まれたことで世界の2億5千万人が差別を受けていると推計している[28]。 』

ネパールのカースト制の形成についての一考察

ネパール
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB

ネパールのカースト制の形成についての一考察
飯 島 正
https://core.ac.uk/download/72778858.pdf

『はじめに

ネパールに滞在していると、インドの場合と同様に、人々の生活の各般にわたってカースト制に深く根ざして
いると考えられる生活慣行に直面することが多い。上層カーストの者は特定のカーストに属する者からの水を飲
まないとか、カーストの優劣を主張して特定カーストの者との食事共同を拒否するということも、各階層にわた
ってよく起ることであると聞く。何回かのネパール訪問で、各地を歩き、各層の人々に接する機会を得、カース
卜制に由来すると思われる多くの事態に直面し、それに関する見聞を広めることができた。しかし、その時点で
はネパールのカースト制形成の歴史をたどるという研究に着手することは考えていなかった。筆者がネパールの
カースト制の問題に取り組む直接の契機となったのは、亜細亜大学アジア研究所の「ネパールの近代化に関す総
—53——
合的研究」をテーマとする研究プロジェクトチームの発足であった。同チームは主題に対して人文、社会、自然
の諸科学にわたる各領域からの学際的協力体制でアプローチすることを意図したもので、ー九七六年三—四月に
行われた第一回の現地研究の成果の一部を、共同研究者と共に「ネパールの土地制度と土地改革」と題して、同
研究所紀要第三号(ー九七六年)に報告した。

これはネパールの諸王朝を経て歴史的に形成された伝統的な土地制
度と、ー九五一年のいわゆる「王政復古」後に実施された土地改革に関して論述したものであった。

ネパールの
土地制度は一四世紀のマツラ王朝時代に導入されたカースト制度と密接不可分に関連して形成されたものと考え
られるので、この小論ではネパールにおけるカースト制に視点を集約し,て、その形成の過程を明らかにしようと
•試みたものである、

しかし、ネパールのカースト制も導入の歴史をたどると、インド五千年の歴史とバラモン教、
ヒンズー教の発展の過程にまで関連し、先学の造詣に学びつつ論を進めたが、その成果は甚だ心もとないものと
なった。大方諸賢の御叱声を賜りたくあえて公表した次第である。

ネパ|ルの自然環境と人種的構成

インドとチベットとの間に位置し、東西に細長いー四万平方キロメートルの国土に、約ー二00万の人々が住
むネパールは、地形的、気候的な自然環境がきわめて複雑であり、長い歴史の過程でこの国土に移り住んだ人々
の人種的、言語的、宗教的な構成もまた多様である。

地形的にはネパールの国土はインドと国境を接する標高ー〇〇メートル前後のffi地から八〇〇〇>!トルをこ
——54—
不パールのカースト制の形成についての一考察
すヒマラヤ山脈までの標高差があり、この標高差と夏のインド方面からの南西モンス—ンと冬のチベット方面か
らの二つのモンスーンとにより、気候区分も亜熱帯から温帯、亜寒帯、寒帯へと多様な変化を示している。

この
ような自然環境に対応して人々が生活する地域は、一般に南から北にほぼ垂直的に、タライ、山地、高山地の三
っに区分される。
タライ地域はインドとの国境のガンジス平原から平均標高一五〇〇メートルのシワリーク(SIWALIK) 丘陵南
側までの間に約二〇—四五キロメートルの幅で東西にのびているタライ(TARAI)と、シワリーク丘陵と標高三
000 メートル前後のマハバーラト(MAHABHRAT)山脈との間の盆地である内部タライ(INNER T ARAI)とから
なる。

タライの平均標高は二〇〇メートル前後であり、内部タライの標高六〇〇>!トル以下の地域がこれに含
まれる。年間降水量はタライ一四〇〇ミリ、内部タライ一七〇〇—二四〇〇ミリ前後で、ともに亜熱帯性気候で
ある。

国土面積の二三%、総人口の三七•六%を占め、インド型の水田稲作を中心とする農業地域である。

山地地域はマハバーラト山脈からヒマラヤ山脈に接するネパールの中央部で、これには標高の高い内部タライ
の一部も含み、平均標高は六〇〇—ニ〇〇〇メートル前後で、国土の四四・一 %、人口の五二•五%を占めてい
る。

地形的には多くの丘陵、盆地、渓谷が複雑に入り組んでおり、気候的には標高差による変化があり、ーーー〇
〇メートル以下は亜熱帯、ニ〇〇〇メートルまでが暖温帯である。

夏の南西モンスーンによる雨量も多く、亜熱
帯ではネパール型の水田稲作、暖温帯では水田稲作とトウモロコシなどを主作とする農業地域である。

この地域
は地味も豊かで農耕に適しており、人間の生活の場としても他地域より快適であり、ネパール人の生活の主要な
場となってきた。古くから政治、経済、文化の中心となったカトマンズ盆地やポカラ盆地もこの地域に含まれる。

—55—

高山地地域は山地地域の北側からヒマラヤ山脈、チベット高原の南縁をなす地域までを含んでいる。ヒマラヤ
山脈の北側には内部ヒマラヤ(inner Himalayas)と呼ばれる二四五〇〇〇メートルの谷間があるが、東
部ネパールではヒマラヤ山脈の分水嶺と国境が大体一致している。

しかし西部ではネパールの領土がヒマラヤの
主嶺をこえてチベット高原の一部にまで及んでいる。ヒマラヤの南側は南西モンスーンによる降水量は多いが、
気候的には標高差により大体二000 —二五〇〇メートルが温帯、ニ五〇〇|三〇〇〇メートルが冷温帯、三〇
〇〇—五五〇〇メートルが亜寒帯で、それ以上が雪線で寒帯となる。

したがって農業の形態も標高が上るにつれ
て耕種型から牧畜型に移行する。

温帯ではトウモロコシ、シコクビエ、ソバ、室、大麦などの雑穀を、冷温帯
では小麦、大麦、ソバ、バレイショなどを栽培し、それに高度が二〇〇〇・メートルをこえると水牛に代ってヤク
と、ヒマラヤ牛とヤクとの交配種であるゾー (DS)が農耕、乳用および物資運搬用に飼育され、さらに三二〇〇
メートル位までには山羊が多く、それ以上の高度で羊が多く飼育される。

内部ヒマラヤおよび三〇〇〇 —五〇〇〇>!トルのチベット高原では南西モンスーンによる雨量が少ない乾燥
地帯であり、夏が短かく冷涼なので大麦、小麦、ソバ(ダッタンソバ)、バレイショなどが栽培されるが、ヤク、
羊、山羊、ゾーなどのチベット的な牧畜に重点がおかれている。

高山地地域は万年雪をいただく高山があり、農業および牧畜のための自然的条件も厳しいので、国土の三二・
九%の面積を占めているが、人口は九•九%にすぎない。

このような地理的な位置と自然的条件により、ネパールの人種的、言語的、宗教的な構成には、隣接のインド
およびチベットからの影響が色濃く反映されており、これら二つの文化圏からネパールに住みついた人々は異つ
-56—
ネパールのカースト制の形成についての一考察
た生活様式をもっており、しかもネパールの交通不便な自然条件に制約されて、かなり地域別、高度別ないしは
山系、河系別に孤立的な生活圏を維持してきた傾向が強い。

例えばインド系とみられるネパール人の生活圏の上
限は稲作の上限である標高二〇〇〇メートルまでの暖温帯とほぼー致し、それ以上の高度になるとチベット系と
みられる諸部族のチベット高原的な牧畜型を主体とする農業に重点が移行する。

また、これら両圏系および原住
民とみられる諸部族が、複雑に入り組んだ生活圏をもっている山地地域では、ヒマラヤ前山山脈の山系、河系別
に分布し、さらに傾斜面別に異った部族が分布していることがある。

それゆえ、次にこれらの諸部族の地理的分
布状況をみることにしよう。

インドと国境を接するタライ地域には、隣接するインドのビハール(Bihar)州やウッタル•プラデシュC
TTAR ・PRADESH)州と同様の生活様式、言語をもった多<.のインド系ネパIル人が住んでおり、ヒンズー教カ
—スト社会を形成している。

ネパールの総人口のーニ%がマイティリ語(MAITHFIJ、六・ー %がボジプリ語
(BHOJPURI)、四・八%がアワド語(AWADHI)を話すが、そのうち東部タライの人口の五ー %がマイティり語、二六

  • 一%がボジプリ語、四・一%がアワド語を話し、中・西部タライの人口の九〇%と極西部タライの人口の三一
    2)
    •八%がアワド語を話すと報告されている。

タライ平原にはこの他にインド系ネパール人でもなく山地民でもな
いネパールの原住民とみられるタルー (THARU)族が、極西部タライを中心にタライ全地域に分布し、農業、狩
猟などに従事している。

モンゴロイド系で、独自の生活様式をもち他の部族との接触の少ないタルー族は、ネパ
—ルの諸部族の中で皮膚の色が最も黒いということもあり、ネパールのカースト社会からは低くみられている。

ネパールでタルー語を話すものは四・三%であり、そのうちの六二・八%が極西部タライ、五•九%が中・西部
-57—
(3)
タライ、四・〇%が東部タライに住んでおり、タルー族の人口は五〇万人前後と推定されている。

タライ地域、とりわけタルー族の生活圏のような森林地帯はマラリヤ、フィラリヤなどのような悪疫が猛威を
ふるい、容易に人々をよせつけなかったが、ー九五〇年代に国連WHOおよびアメリカの援助でマラリヤ撲滅対
策を講じて以来、山地民のタライ地域への入植者が増加している。

特に「山からタライへ」のスローガンのもと
に政府が入植事業を推進したこともあり、政府の援助で計画的に入植したところでは道路、学校、病院なども整
備され、ネパールで初めての協同組合が設立され、同国では珍しいカースト制度をのりこえた社会.をつくってい
(4)
るといわれる。

山地地域には多くの部族が分布している。この地域に住む人々はネパール語でパハリヤ(PAHARIYA)と総称さ
れ、パハリヤ・グループのもっとも大きな民族集団がネパール的ヒンズー教徒であり、人種的には多くの部族を
包摂し、カースト社会を形成している。

ネパールのヒンズー教徒の力}ストはインドのカーストに比較すると中
間カーストが少なく、山地地域の村落でも、上層カーストとアウトカースト的な下層カーストからなっている。

上層カーストはブラーマンのネパール口語訛といわれるバウン(BAHUN)、クシャトリヤと同じチェトリ(CHHE
TRI)、クシャトリャ格のタクール(Thakur)などであり山地地域では主に農耕に従事している。現王家はタク
—ルのシハヤ(SHAH)氏族出身である。下層カーストを構成するのはカミ(Kami—鍛冶職)、ダマイ(DAMAII仕
立職)、サルキ(SARKI—皮革、木工職)などの職人カーストである。

このヒンズー教徒カースト集団は山地地域を
中心に全国的に分布している。国教であるヒンズー教徒はネパールの人口の八九•四%とされており、ヒンズー
教徒社会の言語を母体とするネパール語(Nepali)を使用するものは、ー九七一年人口センサスの母語別人口で
-58—
ネパールのカースト制の形成についての一考察
は全人口の五二・五%の六〇六万人であった。

ヒンズ}教徒カーストを構成するものがネパール最大の民族集団
である。

山地地域にはこの他に、東から西にリンブー族(L1MBU)、ライ族(RAI)、スンワル族(SUNWAR)、マガール族
(MAGAR)、ネワtル族(NEWAR)、タマン族(TAMANG)、グルンK(GURUNG)、タカリI族、THAKALI)、などのネ
パール土着民とみられる山地諸部族が、一般にネパール的ヒンズー教徒よりも標高の高いところに分布している。

ネパール東部のアルン(Arun)川の東、タムール(TAMOR)川流域の山地にリンブー族、その西側アルン川以
西、ドウード・コシ(DUDH—KOSI)川流域にかけてライ族、その西のタンバ・コシ(TAMBAIKOSI)川流域にス
(5)
ンワル族が分布している。

ネパ–ルの神話、伝説やインドの「マヌの法典」(第十章、四五)にもキラータ(Kira,
TA)という部族が登場するが、それがネパールのどの部族にあたるかは不明である。しかしネパールで現在キラ
ンティ(KIRANTI)と呼ばれるものにリンブー族、ライ族が含まれている。ライ族もリンブ族もキパット(KIPAT)
と呼ばれる共同体的土地所有の形態をとり、それがシャハ王朝による全国統一の際も土地制度として容認されて
きた。

リンブー族、ライ族、スンワル族はともにチベット・ビルマ語系のリンブー語、ライ諸語、スンワル語を
使用し、その母語別人口はリンブー語、一七万人、ライ諸語、二三万人、スンワル語、二万人であった。

宗教的に
はリンブー族もライ族もそれぞれ固有の土着信仰をもっているが、仏教、ヒンズー教0影響も強く受けている。

スンワル族はラマ教とヒンズー教の双方の影響を受けており、後者が増加しているといわれる。

ネパール中部のカトマンズ盆地を中心にネワール族、その周辺から北方山地にかけてタマン族、その西からア
ンナプルナ(Annapurna) 連峰にかけてグルン族、アンナプルヂとダウラギリ(DHAULAGIRI)両峰の谷間である
——59一
タコ}ラ(THAKOLA)地方にタカリー族、さらに力リ•ガンダキ(KAL1—GANDAKI)川流域から西部ネパールに
かけてマガール族およびその他の少数部族が分布している。

ネワール族はネパールの歴史の過程において常に政治、経済、文化の中心であったカトマンズ盆地とその周辺
に住み、諸王朝の変遷、チベット、インドの両文化の影響を受けつつも独自の文化を維持してきた。

ネワール族
の母語はチベット•ビルマ語系のネワールZEMRI)語であるが、その文字はデヴァナガリ(ネパール語、サンス
クリットと同じ)で、それを話すものは全人口の四%、約三八万人と推定されている。

宗教は仏教徒とヒンズー教徒
とに分けられるが、両宗教はかなり融合して共存している。

ネワール族はかってネワ}ル文化を開花させ、現在
のカトマンズ、バドガオン、パタンにみられる寺院、宮殿などの建設の担い手となり、国外にも工芸技術で進出
した歴史をもっているので農業のほかに工芸、商業その他の各方面に進出しており、ネワール社会にはブラーマ
ンから清掃夫(HALHLU)にいたる二六のカーストがあるといわれるが、カースト間の蕾も或る程度認められて
(6)
いる。

タマン族、グルン族、タカリ・・族、マガール族の母語であるタマン語、グルン語、タカリ・・語、マガール語も
共にチベット・ビルマ語系の語群に属し、人種的にはモンゴロイド的特徴をもっている。
そのうえ、各部族はそ
れぞれ独自の、しかも山地地域の諸部族に共通するシャーマニズム的な土着信仰とラマ教、ヒンズ}教などと重
層信仰をしており、これらの諸部族の起源はかなり近縁の関係にあるものと考えられている。

これらの部族のう
ち人口五六万のタマン族、一七万のグルン族、二九万のマガール族が主として農業に従事しているのに対して、
人口わずかに数千のタカリー族は農耕牧畜も営むが商業活動で知られる部族である。

かつてはインドとチベット
—60—
ネパールのカースト制の形成についての一考察
との中間点にあって商業に従事し、チベットとの貿易を掌握して、チベット側から牧畜生産物、岩塩などを輸入
し、ネパール側から穀類、油、紙、布、食器などを輸出していた。

タカリー族の商法はネワール族の「小商人的」
■ (7)
な方式と対比して、「問屋商人的」であり、欧米の近代資本主義的なセンスに通ずるものがあったといわれる。


かしチベットとの貿易が閉鎖され、タカリー族の商業活動も大きな転換を余儀なくされている。

高山地地域に住むのはネパールでボティ(BHOTE)またはボティヤ(BHOTIYA)と呼ばれるチベット系ネパール
人が中心となる。高山地地域でも標高二〇〇〇—二五00 メ|トルの温帯までは、前記のようなネパール土着の諸
部族が定着しているが、それより標高の高い冷温帯以上の地域はいわゆるボティ族と呼ばれる人々の生活圏となる。

ヒマラヤ登山の補助者として有名なシェルパ族(SHmRPA) •は東部ネパールのドウード•コシ川の上流、エベレ
スト山麓付近の高山地地域を中心に生活圏をもっているチベット系の部族である。シェルパ族の生活圏の下限は
標高二五〇〇>1トル前後でライ族、タマン族などと接している。シェルパということの意味がチベツト語のS,
HARVA (東方の人)すなわち首都であったラサ(L HASA)より東に住む人々ということに由来し、最初に定着し
たソル•クンブー (SOLU—KHUMBU)もSHAR—KHUMBUに由来するといわれるように、シェルパ族は言語、
(8) 3
文化、宗教などの各方面でチベット的な生活様式をとどめている。

その使用するシェルパ語(SHERPALI)もチベ
ットの一方言であり、シェルパ族のほとんどはラマ教徒である。

また、シェルパ族のほかにヒマラヤ山脈の北側やチベット高原のネパール領でヤク、ゾー、羊などの遊牧ない
しは放牧的な飼育をし、短い夏を利用して大麦、小麦、ダッタンソバ、バレイショなどの農耕に従事するチベッ
卜人がいる。シェルパ族をふくめてチベット語を話すボテ族の人口は約八万人である。
—61—

このようにみてくるとネパールでは、標高の低いタライ地域にインド系ネパール人、ついで山地地域ではネパ
—ル的ヒンズー教徒グループ、それより高標高地にネパール土着の諸部族が東西に分布し、冷温帯以上にボティ族
というように、かなり截然と部族的に垂直的な分布をして、それぞれの生活圏を形成している。

とはいえ、これ
らの諸部族がすべて孤立的な生活圏を形成しているわけではなく、諸部族の混住は各地に存在する。

ヒンズー教
がネパールに伝えられ、ヒンズー教徒のカースト社会が形成されるにつれて、これとのかかわりをもつ部族も多
くなってきた。

とりわけイスラム勢力のインド侵入により、難をのがれてラージプート系の貴族、武士階層とい
われるもの達がネパールに入って定着し、やがて諸部族を従えて西部ネパールから中部ネパールにかけて多くの
土侯国をつくる。

これらの土侯の中で全国を統一したのがゴルカ土侯であった現シャハ王朝である。シふ八王朝
の成立と同時にヒンズー教が国教と定められた。全国統一後は家臣、土侯などに封土が行われ、十九世紀
中葉から約一世紀のラナ・(一 Rana)将軍家による治世下では、その一族に連なる者などに荘園的なビルタMIR,
\ (9)
TA)の交付が盛んに行われた。

このような過程でヒンズー教徒はさらに各地の諸部族の生活圏に入り、農業を生
業とするバウン、チェトリ、タク–ルは各村落段階で地主ないしは富農となり、下層の職人カーストとともにヒン
ズー教徒のカースト社会を形成し、本来カースト社会の枠外にある諸部族の構成員も、ヒンズー教徒カーストと
の関連で、上層カーストと下層職人カーストとの中間的な存在として位置づけられるようになったものと考えら
れる。

現在、ネパールの多くの地域で、少数の上層カーストと職人カーストおよび諸部族との混成で村落を構成してい
いるケースがみられるのは、このような経過をたどったものであろう。
—62—
ネパールのカースト制の形成についての一考察

では次に、ネパールのカースト制度の形成に大きな影響を与えたと考えられるインドにおけるカースト制の形
成の過程をたどることにしよう。

インドにおけるカ|スト制の形成

インドにおけるカースト制は、インド亜大陸へのアーリア人の侵入、その先住民のドラヴィダ系諸種族の征服、
定着、統治の長い歴史の過程で形成された社会構造と、その社会生活に深く根ざしていたバラモン教、ヒンズ—
教の体系化と密接に関連して形成されたものであろう。

中央アジアで牧畜生活をしていた種族あるいは西アジアの狩猟民族であったともいわれるアーリア人が、イン
ド亜大陸へ最初に移動を開始したのは紀元前二000年頃といわれる。この時点でモヘンジョ・ダー ロ (MOHE,
NoDARO)やハラッパー (HARAPPA)その他の遺跡が示すようにインダス河流域とその周辺の広範な地域に、整
然とした都市計画による舗装道路、排水施設、食糧倉庫や強固な城壁を持つ都市国家を建設し、諸都市間を結ぶ
商業、交通網をもったインダス文明がすでに開花していたと考えられている。

インダス文明はモヘンジョ・ダー
口やハラッパーなどの遺跡、出土品からその年代は紀元前三〇〇〇年から二〇〇〇年前後と推定されている。し
かし、インダス文明についてはいまだに解明されていない部分が多く、この文明の担い手となったのはどの種族
であり、どのような要因で崩壊したかについても不明な点が多いが、その後この地域に侵入したアーリア人に
よる最古の文献であるリグ・ヴェーダ (RGVEDA) の記述により、先住民がドラヴィダ語系種族とムンダー語
—63 一
を使用するコール族などであり、またアーリア人の先住民との戦記に多くの都市城塞、堡塁を攻撃した記述が
あるので「インド•アーリアン人の侵入がインダス文明を滅亡に導いた直接の原因であったことを暗示するかと
(10)
考えられる」とされている。

紀元前二〇〇〇年頃から、いくたびかにわたってインド亜大陸に侵入したアーリア人が、先住民族と戦い征服
しつつ版図を拡大し、紀元前一五〇〇年頃にはパンジャーブ地方に定着して農耕牧畜の生活を確立し、さらに紀
元前一〇〇〇年頃にはガンジス河流域に進出して、やがてアヨーディヤー、ラージャグリハ、シュラーヴァステ
イー、ヴァイシャーリーなどに都市国家を建設していった。

或る時は異民族と戦い、また或る時はアーリア人が
互に覇を競い、王が王を従えて「諸王の王」すなわち帝国の統治者となった。

紀元前六世紀頃になるとガンジス
河流域を中心に「一六王国」があったといわれるが、これらの王国はマガダ国(王都はラージャグリハからパータ
リプトラに)、コーサラ国(アヨーディヤ—J アヴァンティ国(ウッジャイン)、ヴァツァ国(コ”・サンビー)の四国
に統合される。

これらの四大国のなかでもマガダ国が強大になる。その間、紀元前六世紀から五世紀にかけてペル
シアのアケメネス朝の軍がインダス河流域に侵入し、ガンダーラ地方も支配下にいれ、さらに紀元前四世紀には
マケド・ニアのアレキサンドロス王もアケメネス帝国の征服を目的にインドに遠征 箭三二七—三二五年)するなど
外部勢力のインド亜大陸への侵入があった。

しかし、マガダ国マウリヤ朝の開祖チャンドラグプタ王(CANDRA,
GUPTA)(前三ニー年即位)は西北インドからギリシャの勢力を一掃して、王国の版図をヒマラヤ山脈からベンガ
ル地方にまで拡大し、さらに、その孫アショカ(aoo’oka)王(前二六八年即位)は東南インドのカリンガ国(現在
のオリッサ地方)を征服して、北インドから南インドにおよぶ古代インドの一大帝国が形成された。
——64——
ネパールのカースト制の形成についての一考察

このような歴史のプロセスでアーリア人を中心とする古代インドの社会Bgや人々の生活を律するバラモン教
の諸聖典の体系化が行われた。

アーリア人がインドに定着するようになったときに、すでに自らの司祭、予言者を持ち、種々の祭式と神学的
(n)
な神聖な伝承をもっていたといわれる。

それがインドにおけるアーリア人の歴史の進展とともに累積され、®大
な文献に集大成された。これがヴェーダ(VEDA)である。

「知る」を意味するヴィツド(VID)を語根とするヴェー
ダは知識、 とりわけ宗教的な神聖なる知識を意味し、 その知識を集成した聖典の総称となった。

したがってヴェ
—ダ文献は神々の讃歌から歌詠、祭式儀礼、叙事詩、叙情詩などにおよぶ広範な内容をもっており、最古の文献
といわれるリグ・ヴェーダは、そこに記述されている事柄からみて紀元前一五〇〇年—ニー〇〇年頃にパンジャ
(2)
—ブで作られたものと推定されている。

このような広範な内容をもつヴェーダ文献は、基本的には宗教文献であり、祭式に関連して発展してきたもの
であるから、祭式儀礼を分担する祭官の職分により、㈠リグ・ヴェーダ (KGVADA)は讃歌の集成で、神々を祭
場に招き、讃誦する祭官ホートリ(HOTR)に属し、㈡サーマ・ヴェーダ (SAMAVEDA) はリグ•ヴェーダの詩
節を旋律にのせて歌詠をするウドガートリ(UDGATR)祭官に、㈢ヤジュル・ヴェーダ (YACRVEDA)は祭祀実
務を担当し、供物を神に捧げる祭官アドヴァリウ(ADHVARYU)に、さらに、後に第四ヴェーダの地位を得た除
災、招福などの呪法に関する、㈣アタルヴァ•ヴェーダ (ATHARVAVEDA) は祭式儀礼全般を統轄するブラフ
マン(brahman)祭官に属するもの、という四種に分類される。

これらの各ヴェーダを構成する要素は、次の四部門に分けられる。
—65—

㈠はサンヒタ} (SAM HIT A)と呼ばれる各ヴェーダの基本部分で、マントラ(MANTRA) —讃歌、歌詠、祭詞、
呪法の集録であり、a常、ヴェーダという場合、このサンヒター(本集)を指す。

㈡はブラIフマナ(BRAHMANA)で、第一部門に付随する文献であり、祭式に関する規定のヴィディ(VIDHI)
と、祭式の神学的解釈を主とするアルダ・ヴァーダ(ARTHAVADA)とに区分される。

㈢のアーラニアカ(ARANYAKA)は秘密の祭式や教義を説くもので、人里を避け、森林の中で伝授されるべきも
のとされる文献である。

㈣のウパニシャッド(UPAN栃AD)は宇宙万有にわたる哲学的文献であり、ヴェーダの最後の部分を形成する
ので、別名をヴェーダーンタ(Vedanta)と呼ばれる。

またこれらの文献がシュルティ 希RUTI)、すなわち天啓の書—リシ仙)が神秘的霊感によって、感
得した天の啓示の聖典であるのに対して聖賢の叙述であるスムリティ(SMRTI)と呼ばれる文献がある。六種の
ヴェーダの補助文献や、インドの二大叙事詩マハーバーラタ(MAHABARTA)とラーマーヤナ(.RAMAYA-ZA)、マ
r2)
ヌの法典 (manu,smkti)、ヤージュニヤヴァルキアの法典(yajnavalkyfsmfti)などがある。

インド亜大陸でのアーリア人の定着生活が進むにつれてアーリア人の社会での職能上の分業も進み、リグ・ヴ
エーダ末期の讃歌には四階級の分化についての表現がでてくる。プルシャ(原人)の歌(一〇・九〇)の「ーー、
プルシャを切り分かちたるとき、いくばくの部分に分割したりしや。その口は何に、その両腕は何になれるや。
その両腿は何と呼ばるるや。」、「ーニ、そのロはブラーフマナ(バラモン・祭官階級)となりき。その両腕はラー
ジャーー ア (王侯 ・武人階級) となされたり、 その両腿はすなわちヴァイシア (庶民階級)、両足よりシュードラ (奴
—66—
不パールのカースト制の形成についての一考察

(4)
婢階級)を生じたり。」とある。
ヴェーダ讃歌の叙述がそのまま史実に照応するものと考えることはできないとしても、アーリア人の内部に政
治を司り軍隊を統卒する王侯貴族、祭祀、祭式を執行する祭官、農業牧畜、工芸などに従事する庶民という社会
的な分業が進み、さらに、これらに仕える被征服者やこれと通婚した者などによる奴婢という社会的な区分が進
み、それに血統、家系の保持という目的とあいまって、リグ・ヴェーダ末期には、すでにブラーフマナ、ラージ
ャ-ーア(後のクシャトリア)、ヴァイシア、シュードラという階級の分化がかなり進んでいたとみることができよ
う。

インド古代社会において階級に相当する名称は「色」を意味するヴァルナ(VARNA)であり、「皮膚の色」の白
いインド・アーリア人と、アーリア人と戦った黒色低鼻でリグ・ヴェーダでダーサ(DASA|悪魔、野蛮人、後に奴
»を意味する言葉となる)と呼ばれた先住民とを区別し、それゆえブラーフマナ、ラージャニア、ヴァイシアの三
(15)
階級とシュードラ階級とは当初から一線を画する階級観念から出発したものと考えられている。

他方、前記の四
階級は明らかに職能的な類別でもあるので、古代インド社会における社会構成の階級的類型を示すヴァルナ制は、
征服者、被征服者という人種的な要因あるいは種姓の区別が根底にある職能的階級区分により形成されたものと
いえよう。

その後、インド・アーリア人の定着生活が進み生活領域が一層拡大されるにつれて、アーリア人と先住民との
混血や、四ヴァルナ間の雑婚が増加するようになると種姓をあらわすヴァルナとは別に、本来「出生」を意味し、
バラモン教の諸聖典では正当でない結婚による出生を意味するジャーティ(JATI)が雑種カーストを表わす言葉
——67—
として使用されるようになり、このヴァルナといわれる部分とジャーティといわれる部分との複合によってイン
(6)
ドのカースト制が成立したものと考えられている。

このようにインドのカースト制は征服、被征服によるヴァルナの区別とヴァルナ相互の雑婚によるジャーティ
という血統的区別の上に、宗教的な貴賤、浄、不浄、禁忌や職業的な区別とその世襲化などの諸要因と、社会経
済の発展にともなう職業の分化によるカーストの細分化が進み、その後三〇〇〇にもおよぶ副カーストが存在す
るといわれるようになったものと考えられる。

それゆえにインドのカースト制の著しい特色は族内婚を厳守する
という原則である。

前述のようにヴァルナ制もジャーティ制も血統、家系の保持という目的から出発したもので
あり、いかなる者も同一のカースト内で配偶者を選択しなければなちない。

その場合、同じゴートラOOTRA—
共同家族)内とサピンダ(SAP-ZPA—父系では七代、母系では五代以内の親族)間では結婚できないので配偶者の選
択の範囲はさらに限定される。

このような同一カーストでの族内婚のうえに、各カーストの職業を世襲する義務
があり、また、カースト間の交際や食事などに関する多くの禁忌を成立させている。

しかしながら、古代インド社会ではカ・-スト制も後に完成されたような厳格なものではなく、カースト間の雑
婚も多く、職業の世襲制もゆるやかなものであったと考えられる。

前述のように、紀元前四世紀に古代インドの一大帝国を形成したマウリア王朝時代の社会構成について、中村
元氏は「人間の共同行動の諸様式についてみるに、当時の人々はカーストによる結合形式を示していない。イン
ドの社会は古来バラモン・クシャトリャ・ヴァイシア・シュードラという四つの階級の区別が確立していると従
来一般に信ぜられている。

しかしそれは現在残っているバラモン教の文献にもとづいて、そのように考えるので
-68—
ネパールのカースト制の形成についての一考察
あって、アショカ王詔勅をはじめマウリヤ王朝時代の、年代のほヾ判明した諸碑文によってみると、四姓制®
(7)
の片鱗さえも認められない。

故に四姓の制度はマウリヤ王朝時代には公には行われていなかった。」とされている。

さらに当時の文献「カウティリヤ実利論」(ARTHA或STRA)とギリシャ人メガステネース(MEGASTHENES)の
「インド見聞記」における職業、階級についての記述を比較検討される。

「カウティリヤ実利論」はマウリヤ朝の
開祖チャンドラグプタ王の宰相であったチャーナキヤ(CANAKYA別名をカウティリャKAUTFYA)の著作である
とされる政治、経済に関する書であり、メガステネースはギリシャの大使としてチャンドラグプタ王の宮廷に派
遣され、王都パ}タリプトラ(現パトナ)に滞在した。

その体験から記された「インド見聞記—インド誌」の断片
がギリシャ、ローマの他の著作に引用された資料として残されている。

メガステネースの伝えるインドの階級は
哲人、農夫、牧人、職人と小売商、戦士、監察官、顧問官(高級官吏)の七種類であり、各職業間に厳重な区別、
疎隔がありカーストの観念に近いものであることを述べ、しかもインド人はすべて自由人であり奴Bなるものは
存在しないとしており、バラモン教一般で認める四姓(種姓)と一致しない。

第一の哲人はバラモン(brahma,
•ZA)、シャモン(SRAMANA)に相当するが、第二の農夫、第三の牧人、第四の職人と小売商人階級についてはバ
ラモン教文献の中の一つの階級に比定することはできない。

「実利論」ではヴァイシアの職業として農耕(KRSI)牧
畜(PASUPALYA)と商業(VANIJA)があげられ、シュードラの職業に実業(VARTTA)と手工業(KARU)と遊芸
(KUりLAVAKARMAN)とがあり、実業は耕作、牧畜、商業にはヴァイシアもシュードラとも従事しているのである
から、メガステネースの一つの階級をヴァイシアやシュードラに、さらに第五の戦士、第六の監察官、第七の顧問
官の階級もバラモン教の一つのカーストに比定することはできない。

メガステネ}スの記述に対応して七種類を
—69—
まとめているインドの文献は見当らないとし、それに近いものとして、メガステネース以前、したがってマウリ
ヤ王朝以前の社会的事実を反映していると考えられる佛典スッタ二パータ(SUTTAMPATA)にある次の職業をあ
げておられる。農夫(KASSAKA)、職人(SIPPIKA)、商人)、傭人(PESSIKA)、盗賊(CORA)、武 士 (YO,
dhahva)、祭官(YZAKA)、王(RAJAN)である。中村氏はこれとメガステネースの区分を比較し、スッターーパー
タの農夫は農夫と牧人に、職人と商人は職人と小売商に、武士は戦士、祭官は哲人にそれぞれ対応し、傭人は統
一国家の特殊任務をもった傭人であり、盗賊を職業の如くみるのは奇異であるが、マウリヤ王朝成立以前の社会
的混乱を反映しており、それまで支配階級であった王族が同王朝成立後、高級官吏に転化したものとみている。

しかし、パータリプトラに駐在してバラモンとも交り、その教説を聞いていたのは疑いない事実と考えられる
メガステネースが、バラモンの伝統的な四姓説を述べないで、前述のような全く別種の階級区分を記し、再生族
とシュードラの区別、アーリア人と«民の区別にも言及していない。

それらのことから「マウリヤ王朝時代には
四姓の制度は公(国家的)には認められていなかった。:•ただし、バラモンは依然として四姓制度の観念を固守
していたと思われる。だからマウリヤ王朝の統一的官僚国家が崩壊して、徐々に世襲的階位を重んずる国家が成
18″)
立するにつれて、バラモン教の四姓の観念も次第に社会的に復活するに至った。」との見解を示されている。

他方、バラモン教、ヒンズー教の聖典ではその後、カーストの観念とその規制はますます強化されてくる。


元前二〇〇年—紀元後二〇〇年頃に作られ、ジャスティティ・マッラ王がネパールにカースト制を導入する際に
依拠した、とされる「マヌの法典」ではそれが極めて厳格に規定されている。

インドで法典という場合のダルマ
(dharma)すなわち法というのは今日の法律という観念よりも広義であり、それには宗教、道徳、習慣をも包含
-70-
不パールのカースト制の形成についての一考察
するものであった。全篇ニー章、ーー六八四条からなる「マヌの法典」も宇宙万物の創造から、アーリア人がー
生を通じて行うべき種々の儀式(ーニ浄法)、民法、刑法的規定、種姓の義務や讀罪などにおよび、最後に輪廻、
業界、解脱に至るという広範な内容をもったサンスクリット語韻文で書かれた法典である。

人類の始祖マヌの託
宣に基づいて聖賢が叙述したという形式をとる同法典では、四種姓の義務および職業を次のように定めている。

「バラモン、クシャトリャ、ヴァイシャ、シュードラに、各々業(義務)を定めたり、バラモンには(ヴェーダの)
教授と学習、自己又は他人のための行祭、布施を興え、又受くることを定めたり、クシャトリャには、人民の保
護、施與、供犠、(ヴェ—ダの)学習、及び感覚的対象に対する無執着を指定せり。ヴァイシャには牧畜、施與、
供犠’ヴェーダの)学習、商業、金銭の貸與、及び土地の耕作を指定せり。されど主宰神は、これらの(他の)三
(9)
種姓に甘んじて奉仕すべき唯一の職能を、シュードラに命じたり。」(第一章、八七—九一)。

しかも上位の三階級は
再生族 (DVIJA)すなわちバラモンについて入法し、ヴェーダを学んで第二の誕生をするのに対して、第四のシュ
—ドラは一生のものであり、第五の種姓はない、と規定している(第十章四)。

一生のものであるシュードラ階級
はヴェーダの学習も、読誦をぬすみ聞くことも許されない。「シュードラに教訓を與うること勿れ。或は残食を、
或は神に供えられたる(食物の残余)を與うる勿れ。(かかる者に)法を説く勿れ。誓戒を課す勿れ。なんとなれば
(シュードラに)法を説き、或は誓戒を命じたる者はそのシュードラと共にアサンヴリタと呼ばるる地獄に堕つ
(M)
ればなり。」(第四章、ハ〇—八ー)と規定している。

このように同法典は四階級の区分を明確にし、結婚、職業を
はじめ人生全般にわたって、前述のようにアーリア人がその生涯を通じて遵守すべき義務や諸行為に関する法体
系として集大成された。
-71-

このようなバラモン教の諸文献にみられるヴァルナ(種姓)を中心とするカーストの観念に、さらに出生に由
来するジャーティの要素に職業的区別をも加えたカースト制が、広くインド社会の各層各般に定着するようにな
るのは、その後のヒンズー教の拾頭とヒンズー諸王朝の登場によるものであろう。

前述のようにアーリア人がインドに定着するようになったとき、司祭者をもち、数々の祭式や神学的な伝承を
もっていたといわれる。

その宗教観は自然界の構成要素、現象、その背後にあると想定される支配力を神格化し
て崇拝の対象としたものであったが、神話の発達とともに、自然現象で想定された神々が擬人化され、リグ•ヴェー
(幻)
ダに登場、天、空、海の三界に配分された神々の数は三十三とも三千三百三十九ともされている。

これらの神々
の讃歌と祭式を主体に発展してきたのがバラモン教である。その後、アーリア人の定着、先住民との接触が拡
大し、両者間の雑婚による人口が増加するにつれて、アーリア的文化と先住民のドラヴィダ的文化との混合
(SYNCRETISM)が進み、この混合の過程では、インドの歴史家コーサンビーが述べているように「スカンダやガ
ネーシャがシヴァの息子となったように、神々の複雑な家が形成され:::神と神の結婚の背後には異なった神々
を信仰する人々の間の結婚の制度がおこなわれていたし、それ以前に、別々でそのうえ対立していた崇拝者たち
が社会的に融合することがなければ、神々の結婚は不可能であったろうし、そして新しいジャーティ•カースト
は結合した社会における経済的地位とほぼ一致する身分が与えられた。」といわれる相互の文化的、社会的変容を
もたらすことになった。

アーリア的文化の要素が先住民の信仰、風俗習慣と混合し、融合する長い歴史の過程
で、バラモン教は「およそ一般に宗教的といわれる一切のものを包容して、深遠な哲理を説く体系から最も原始
(3)
的とみなされる素朴な庶物崇拝までのあらゆる相を」包摂するヒンズー教へと発展した。
—12—
不パールのカースト制の形成についての一考察

ヒンズー教の聖典プラーナ(PURANA)の最も古いものは西暦二七五年頃であるといわれるが、その後、十三世
紀の初頭にイスラム王朝が誕生し、次々にインドを席捲する以前に、インド各地に成立したヒンズー王国の身分
制度と密接不可分に結びついて、カースト制がより一層複雑に固定されたと考えられる。
以上のような形成のプロセスをたどったインドのカースト制が、どのような経路でネパールに導入されたかは
明らかでない。

恐らくヒンズー教のネパールへのかなり緩慢な伝播でカトマンズ盆地に勢力を伸長し、次いでイ
スラム勢力のインド侵入に難を逃れてヒンズー教徒がネパール各地に入り、諸部族を支配下におさめて王侯とな
り、現在の版図に全国を統一してヒンズー王国を成立させるという歴史の過程で形成されたものであろう。

ネパールへのカースト制の導入とその形成

釈迦牟尼生誕の地(LUMBINI)として世に知られるネパールには、インドのアショカ王が建立したといわれる
石柱>SOKA PFLAR- LUMB2)や仏舎利塔 (ASOKA STUPAS-PATAN)その他数多くの遺跡や古い寺院が各
地にのこされており、古い文化をしのばせる。

カトマンズ盆地はヒマラヤ連峰南側の前山山脈にかこまれ、標高ニニ〇〇メートル前後の高度に位置し、土地
肥沃で古くから栄え、多くの王朝が盛衰の歴史をかさねたと伝えられている。十四世紀の末以降に書かれたとい
われるネパールの王統年代記であるバムサバリ(VAMgAVALI)は数種類あり、これらの資料をもとに書かれたネ
パール史にはゴパル (GOPAL)、グプタ(Gupta)、アヒール(AHS1)、キラータ(KIRATA)などの諸王朝の名があ
-73—
げられ、ネパールという名がこれに由来するといわれるネ・ム二(NE MUNI) 開祖のグプタ王朝時代やインド平
(25)
原から来たアヒール王朝の支配、さらに東から来てこれを征服したキラータ王朝時代の王統が記されている。

その後に続くものとして釈迦の在世の頃、北インドで覇を競っていたリッチャヴィ(LICHHVI)族やマッラ(M,
ALLA)族と同名の王朝が登場する。しかし史実によって実証.される最古の王朝はリッチャヴィ王朝以降である。

ガンジス川流域の中流左岸のヴァイシャリー(VAIgALLVESALI)に国都をおいたリッチャヴィ族は、インドの文
献では常にクシ・ヤトリヤ族と見なされ、バラモン教には好意的ではなく、反バラモン教的立場をとる仏教やジャ
(26)
イナ教を保護したといわれる。釈迦も国都ヴァイシャリーを訪れている。結局、ヴァイシャリーはマガダ国に征
(7)
服されることになる。

しかしリツチャヴィ族は存続し、紀元四世紀に至っても非常な尊敬を博していたという。こ
のリッチャヴィの一族がネパールに入って興した王家がネパールのリッチャヴィ王朝とされるが、その関連は明
らかでない。

バムサバリではリッチャヴィ王朝第二ー代の王とされ、四六四—五〇五年頃王位にあったマーナ・デーバ(M>1
NA deva)王の治世下でネパール最初の銅貨が鋳造され、同王の名を記した碑文も存在している。同王はヒンズ
(8)
—教徒であったが、仏教にも深い敬意を示したといわれる。

また、六世紀後半から七世紀初頭にかけて在位し、教育の普及、文芸の興降に力を注いだといわれるアムシュ
•バルマン(AMSHU VARMAN)王についても、七世紀に同地を訪れた唐僧玄奘は「大唐西域記」の中で「尼波羅
国は周囲四千余里で、雪山の山中にある。•:•:貨幣は赤銅銭を使用している。•••:•邪教正法を兼ねて信じ、加藍
と天祠とは垣根を接し軒隈を連ねている。僧徒は二千余人、大小の二乗を兼ねて学習している。外道の異学をす
-74—
ネパールのカースト制の形成についての一考察
るものは、その数が分からない。王は刹帝利で栗|¢姿種である。

その志学は清らかに高く、もっぱら仏法を信じ
¢ ( 9 )
ている。近い代に窟輸伐摩と号する王があった。」(第七巻第五節)と記されている。

このアムシュ•バルマン王は
王女ブリクティ(BHRIKUTI)を、当時チベットで強大な勢力をもっていたソン・ツァン・ガンポHSRONGレA,
NGGAMPO)王に嫁がせている。その後ガンポ王には中国の玄宗皇帝の文成公王(WEN CHENG)王女が第二王
(9
妃となった。

この二人の王妃がチベットに仏教を広めるのに力となった。

リッチャヴィ王朝の崩壊後、カトマンズ盆地の覇権を競う諸勢力を平定してニーー世紀から一八世紀中葉まで強力
な王国を建設し、ネパール文代史上に輝かしいネワール(NEWAR)文化を開花させたのはマッラ王朝であった。

マッラ王朝歴代の王の中で、政治、経済、社会、文化の各分野で後世に大きな影響を与えることになる諸改革を行
ったのは、ニ二ハ-年からニニ九四年頃まで王位にあった同王朝第七代のジャスティティ・マッラdAYASHTrn,
MALLA)王であった。

同王は諸制度の改革にあたって北インドおよび南インドなどから、それぞれ専門分野の異
なる五人の学者を招いて意見を聴取して、カースト制の導入、刑法の改正、課税、販売、抵当基準としての田畑、
(1)
家屋の等級決定などに着手した。

リッチャヴィ王朝支配後の混沌としたカトマンズ盆地を平定したマッラ王朝の当時は、この盆地には部族、宗教
の異なる様々な人が住み、それにインドから入ってきたカースト制が混在し、ネパールは社会的にも、宗教的に
も不安定な状態であった。このような状況を背景にジャスティティ・マッラ王は種々の階層と職業の人々の地位
(2)
と機能を明確にするため、学者の意見をいれ、マヌの法典に依拠して国民を六四の階層に分けたといわれる。

この六四階層の区分についてイギリスのD ・ライトへDaniel Wright) は、サンスクリットとネワール語の
——75—
混合したパルバティヤ(PARBATIYA)による文献からの翻訳などをもとに、一八七七年に公刊した「ネパール史」
(3)
でこれを記述している。

またイタリアのL •ペテチ(Luciano PETECH)もー九五八年刊行の「ネパール中世史」
(4)
でこの区分について記述している。

両者の資料を比較したのが第一表である。後者による階層と英訳の配列は、
前者の逆であるがほぼ重複しているので階層区分の項目は一本化し、両者による英訳は原文のまま掲載した。

ライトの文献ではこの六四の階層区分について、ブラーマンはパンチャガウダ (PANCHAGAUDA ••・北インドから
の)とパンチャドラヴィダ(PANCHADRAVIDA:・南インドからの)二つに分けられ、それぞれが多くの分枝階層をも
つ五つの副カーストをもっていると述べ、これらのカーストについては、ネパールで現在知られていないと注釈
をつけている。

ネワール族の婦人とブラーマンの混血であるジャイシイ・ブラーマン(JAISI BRAMAN)すなわち
アーチャーリー (ACHARYA)、バイダ (BAIDA)、シレスタ(SRESHTHA)、ダイバギアOAIVAGYA) の四つの階層
は、アーチャーリーが三階層に、バイダが四階層に、シレスタはアーチャーリーの三階層とダイバギアの四階層
に許されたと同様に、ブラーマン的衣服をまとうことを許された十の階層を含む多くの階層に分けられた。

ここ
に述べられているジャイシー ・ブラーマンは、純粋なブラーマンとブラーマンより低いカーストの婦人との間に
生れたブラーマンの意味で用いられたものと考えられる。

ネワール族のカーストでアーチャーリー、バイダ、シ
レスタ、ダイバギアはヴァイシャである。シュードラ(SUDRA)は三二階層に分けられたジャプー (JYAPU)と四
階層に分けられたクマール (KUMHAL) の三六の階層であった。

この場合のジャプーは農村社会又はカトマンズ
のネワールの副カーストであり、クマールは陶器製作所に雇われているネワールの副カーストであろう。最後に
前記のシュードラの三六階層とは別にポージャー ・カースト(PODHYA CASTE)は四階層であったと述べている
-76—
ネパールのカースト制の形成についての一考察
が、これはカトマンズにおけるネワール族の最低の副カーストであり、清掃夫、糞尿運搬夫、葬式場夫、死刑執
行夫である。

これを最後に別にあげているのは、アウトカースト的な賤民階層とみなしたものであろう。

六四の階層をこのように説明したうえで、ライト文献では、上位の四つの階層の者はポージャ}やチャルマカ
1ラのような低位階層の者の手からの水を飲むことを禁じられ、また上位階/■の婦人が低位階aの男子と結ばれ
『5)
た場合、その婦人は男子の階層に格下げされたと述べている。

第一表に見られるようにライトの場合は各階層について英訳された部分が少なかったが、ペテチによって、か
(6)
なりその空白が埋められている。

それでもなお不明な部分がある。このような空白はD •R •レグミが指摘する
ように、原文にカースト名についての文字のスペリングの誤りがあって判別できないのに加えて、多くのカース
卜が当時のままには継承されていないので、オリジナリティの失なわれたカ}スト名に該当する文字の探求を困
難にしている。

このような部分があるにしても、その階層区分の内容を示す貴重な葺である。

ジャスティティ・マッラ王は、その顧問であった学者の進言により、インドの法典に依拠して、六四の階層区分を
実施したとされているが、その内容はインド的なヴァルナ制とジャーティ制の観念を基本とする階層区分といえ
よう。

すでに述べたように、リッチャヴィ、マッラの両王朝はともにインドから入ったアーリア系の王朝で、そ
の支配領域は現在のネパールの版図ではなく、カトマンズ盆地とその周辺であり、この地域の先住民は主にネワ
—ル族であった。ネワール族の起源を南インドとする説、ヒマラヤの北からとするもの、キランティとリッチャヴ
イの結合した種族とする説などがあるが、ネワール族の多くは歴史時代以前にカトマンズ盆地に入ってきたと考
えられているネパール土着といえる種族である。

ネワール族はカトマンズ盆地での長い歴史の過程で形成された
一Z7—
階層社会をもっていたと考えられる。カトマンズ盆地にはインドからの仏教、ヒンズー教が入り、リッチャヴィ王
朝時代の初期には仏教徒が多く、その後次第にヒンズー教の影響が強くなってきたが両宗教は共存し、社会秩序
も安定していた。

マッラ王朝時代になって北インドから多くのブラーマン、クシャトリヤ、シュードラが入って
きてヒンズー教の影響力が一層強くなってきた。

国内的には新王朝の成立もあり社会的にも宗教的にも不安定で
あり、対外的にはイスラムのインド支配がネパールのヒンズー社会に強い衝撃を与えた。
このような背景から強
力な社会秩序を維持するための諸改革がジャスティティ•マッラ王によって実施されたが、その政策原理はマヌの法
典に依拠したといわれることが示すように、ヒンズー教徒中心のものであったと考えられる。

同王による階層区
分の実施にあたつ.ては、前述のような国内的、対外的背景があるので、ネパールの現実に適合しない古典的四カ
(7)
—スト制は強調しないで、インドで副カーストと呼ばれるものを単に区分して羅列したものとする見解もある。

事実この区分は職業別の配分が主体であり、上位階層についても本来はカーストではない(59)サチーブ、(60)マント
ウリー、(62)レーカック、(63)ブッパ、(64)ドウウィジのような官職名もカーストとして区分されているような混乱も
見られる。

しかし、最上位にあるアーリア系のブラーマン・カーストと、ブラーマンと低位階層の婦人との混血
であるジャイシイ・ブラーマンとを厳然と区別しているように、基本的にはアーリア系のヴァルナ制を主体とす
るヒンズー教中心のカースト制であることには変りはない。

人口で圧倒的多数のネワール族をこのカースト制の
枠内に再編しようとした当時の政治的、社会的状況がこのような階層区分を生むことになったものと考えられる。

またこの階層区分の背景には、職業を固定化するために国民が従事している職業、あるいは従事すべき職業を
•階層別に区分したものであり、国王は国民の社会における義務と、もしもあるカーストがその伝統的な職業をお
-78—
ネパールのカースト制の形成についての一考察
(8)
ろそかにした場合は刑罰に処するということを強調するために創り出したものとする見解もある。

ジャスティティ・マッラ王による前記のようなカースト制の導入の内容については、さらに十八世紀のはじめ
に書かれたジャティヤマーラー (JAT1YAMALA)にも記されており、それによると階層はライトの文献の場合より
(9)
も増加し、ハーーに区分されている。増加した主なものはアーチャリー、バイダ、シレスタなどの副カーストであ
•(〇)
り、これらは,ライト文献における六四カーストの計上の際には省略されたものであるとみなされている。

ジャスティティ・マッラ王の孫ヤクシャ•マッラ(YAKSHYA MALr 1428 — 1482 )王の死後、王国は分裂し、
バドガオン&HADGAUN 又はBHAKTAPURE)、カトマンズ 、KATHMANDU 又はKANTIPURE)、パタン (PATAN又はL,
ALITPURE)に王都をおいて分離独立した。カトマンズとバドガオンの距離はー〇キロメートル程であり、カト
マンズとパタンは数キロメートルである。それ以来十八世紀中頃までカトマンズ盆地にはマッラ王朝の三王国が
併存することになった。

マッラ王朝の支配力はカトマンズ盆地を中心とするものであり、地方には多くの土侯国があった。当時ネパー
(41)
ルにはチョービシ・ラジャ(CHAUBIS1 RAJA)、バイシ・ラジャ(BA1SI RAJA)と呼ばれる四六の土侯国に分割さ
れており、また、タライその他の地域にも土侯国があった。

これらの土侯の多くはイスラムのインド支配から逃
れてヒマラヤ地域に移住してきたヒンズー教徒の武士階級であり、それぞれの地域の先住民を従えて土侯となっ
たもので、それらの土侯の中で最も大きな勢力となったのがゴルカ(GORKHA) 土侯であり、インドのラージプー
卜(Rajput)族の出身であったとされる現シャ八王朝の祖先である。

ラージプート族はカニャークブジャ(KANYAKUBJA別名カナウジ KANAUJ)に王都をおいたハルシャ(HARSA)王
-79—
の帝国が崩壊後、七世紀中葉から十二世紀にイスラム勢が北インドを支配するまで、インド各地に王国を樹立し、
ラージプート時代を築いた種族である。

しかし、この種族の起源は必ずしも明らかではなく、五世紀頃インドに
入った中央アジア系のグルジャラOURJARA)族、エフタル(EPHTALIJE)族などの系統であるとか、インド先住
民族の系統とかの諸説があるが、武力にすぐれ、自らをラージ・プトラ(王の子の意味)と称し、強力な武力で領
域を拡大して王国を建設し、次第にインドの社会で武士階級すなわちクシャトリヤとみなされるようになったも
のとみられている。

このラージプート族の王国はイスラム軍との戦に敗れ、このうち難を逃れてネパールに入り、
西部地域に勢力を拡大し、さらに中部山岳の諸部族を支配下におさめ、マッラ王朝の本拠であるカトマンズ盆地
に攻め入るようになったといわれている。

一七六八年、カトマンズ盆地のカトマンズ、バドガオン、パタンの三王都を攻め、マッラ王朝を倒し、翌六九
年、王都をカトマンズに移し、現シャハ王朝の開祖となったプリティビ・ナラヤン・シャハ(PRITHW NARAY,
AN shah)王により、ヒンズー教が国教と定められ、ネパールは文字通りのヒンズー王国となり、国王は「シバ
神の化身」とされるようになった。

カトマンズ盆地平定後、同王朝は和戦両様の構えで国土の統一をはかり、東
部のライ、リンブー族などの支配地域を平定し、西部の各土侯を支配下におさめ、さらに、一八一四年にはネパ
—ルからインドに進出して各地を占領してイギリX勢と衝突しネパ.-ル•イギリス戦争(NEPAL-BRmsH war)
いわゆるゴルカ戦争となった。ー八一六年に停戦し、セゴーリ条約(SUGAULI treaty)により今日のネパール
の版図が決定した。

現シャハ王朝成立後、今日まで約二世紀の統治のうち、一八四六年から一九五一年までの約一世紀は、日本の
-80-
ネパールのカースト制の形成についての一考察
徳川将軍家と似た世襲制の首相マハラジャ(maharaja)が支配していた。

ー九世紀初頭からシャハ王朝の宮廷
内で首相の地位をめぐって政争が続き、ついに一八四六年、王宮内の国王謁見の場である「コート」に集った
要人五五名がジ・ン・バハドウル•ラナ(Jang Bahadur Rana)の兵によって殺される「コートの大虐殺」
(THE K〇TE massacre)事件となった。

対抗者を粛清したジャン•バハドウルは国王を王宮に軟禁して首相に
就任し、以後一九五一年のいわゆる「王政復古」まで政治の実権はラナー族が掌握する専制政治となった。

このような経過をたどったシャハ王朝のもとで、ネパールのカ.-スト制が、マッラ王朝以降どのようになった
かは極めて注目されるところとなった。

ネパールのカースト制についての研究は、一八一六年の「セゴ}リ条約」締結直後、外国人として初めてネパ
—ルに駐在したイギリスの外交官ホジソン(Brian Houghton Hodgson)をはじめ、D ・ライト、s・レヴィ(S,
ylvain LEVI)、フユ}ラ・ハイメンドレフ 、CHRISTOPH <oz furer,haimendorf)、l ・ペテチ(Luciano PE,
TECH)などネパールの歴史や社会、さらにはネワール族や諸種族の言語、宗教などを研究した外国人の研究成果
により次第に明らかになってきた。

このような成果をもとにネパールの歴史家D・R •レミグは、時の経過、使
用される用語の変遷などを整理し、ネパールのカーストおよび副カーストの伝統的職業および諸カーストの宗教
(2)
的行事を担当する僧職をヒンズー教のブラーマンと仏教のグーバ(GUVA)に区分した詳細な一覧表にまとめてい
る。

またこの一覧表にも関連する資料であるが、ペテチはネパールのカースト制についてはヒンズー教徒と仏教
徒を区別してみることも重要であり、特にそれは上位階層のヒンズー教徒集団と低位階層の仏教徒集団と低位階
層の仏教徒に二分されるとし、さらに古典的な四種姓によるカーストの区分はネパールの現実には必ずしも妥当
-81-
するものではないとしながらも、理論的に同国の諸カーストが古典的な区分のどれに該当するかという分類をし
て、第二表のような階層区分を試みている。

ペテチも十四世紀にジャスティティ・マッラ王によってネパールに導入されたカースト制が、その後現代まで
どのように継承されたかについてふれ、それは時代の経過により今日では現実的に認められていないものもある
けれども、その一般的な枠組と内部精神は今日も同じである。

職業とカーストの関係も今日の状況の下で徐々変
化してきているが、一つのカーストの伝統的な職業は依然として大部分がそのカースト構成員によって占められ
(43)
ていると述べている。

このような詳細なカーストの区分があるが、今日のネパールのカースト制は、カトマンズ盆地における主とし
てネワール族の副カーストを除くと、基本的にはブラーマン階層であるバウンと、クシャトリャ階層のチェトリ
および本来はクシャトリヤ階層であり、クシャトリャ格とみなされるタク—、ルなどの上層カーストと、シュ~・ドラ
階層であるカミ、ダマイ、サルキなどの下層職人カーストによって構成され、その中間にネワールなどの諸部族
が位置づけされているといえよう。

またネワール族のカーストに関しては、C -αツサー(COLIN Rosser)が、第三表に示したようなブラーマ
(4)
ンから清掃夫に至るまでの階層区分を発表している。

これによるとカトマンズ盆地に住むネワール族三万七三一
五戸(ニニ万五七九八人)のうち、四二%が農民階層であるジャプーで占められ、陶工のクマ以下の職人などの
一・ハ階層は全戸数の約ーー〇%であり、シレスタとウレイが約二六%、最上層の僧職にあるものがー ー%という構
成になっている。
—82—

以上のようなカースト制に関連して、ネパールでは異カースト間の通婚や飲料水などをも含む社会的接触につ
(45)
いての差別が依然として厳格であることをL •ペテチも指摘しており、D • R •レグミも前記の一覧表の中で、
洗濯夫であるドービヤア(DHUBYA)以下の階層は不可触賤民ではないが、彼等の触れた水は穢れており、上層カ
}ストのものは彼等の手になる水を飲めないし、彼等は上層力–ストの家の一階以上にあがることができない。
(46)

ポーまたはポレ(PPPORE)以下は不可触賤民であるとしている。

ネパールのカースト制に関する数多くの実証的研究の成果が報告されているが、東京農業大学ネパール農業調
察査隊(隊長 栗田匡一、隊員、島田輝男、島田淳子)も、ー九六四年、約七ヶ月にわたってマンダン地区の農業調
『 査をした際に、同地区内のマハデウ・スターン•パンチャヤート(MAHADEW STHAN PANCHAYAT)のカースト構
“成と、それに関連する生活慣行についての調査結果を「ネパール国マンダン地区農業調査報告」(海外技術協力事業団、
つ 昭和四十年)に収録している。
頒 同調査の対象となったマンダン地区はカトマンズの北東約四〇キロメートル、スンコシ(SUN KOSI)の上流で

IJOあるチャッ・コーラ(CHHA KHOrA)の流域にある山村である。同地区のほぼ中央をチャッ・コーラが西北高地
$
W から東南へ貫流し、これにアシ・コーラ>SHI KHOLA)とボクシ・コーラ(BOKUSI KHOLA)が西より東流して
*-チャッ・コーラに合流しており、カトマンズ盆地とは峠を境に河系を異にしている。

マンダン地区の北と東には
。 ラムサレ・テユムキイ山rAMSAR thomki LEKH)とマンダン山(MANDAN LEKH)がチャコ・ーラに併行し、西
心 と南にはチャンプール山(CHAINPUR LEKH)、ドディ二丘陵(DHODINIBESI、海抜九九〇メートル)とコテン山(KOT,

ENG LEKH、海抜ー、ー〇〇メートル)が横たわっており、マンダン地区内のマンダン山は海抜ー、ー 00メートル
——83——
(マンダン山の最高峰は一五九八メートル)である。これらの諸丘陵にかこまれてチャッ・コーラ流域に海抜七五
五メートルの盆地がある。

マンダン地区の住民は以前はこれらの丘陵の山頂稜線にのみ住み、低地のべシーには全く部落がなかった。ネ
パールでは河川、峡谷に沿って亜熱帯的気候が入り込んでおり、海抜一 〇〇〇メートル前後までの河川沿い低地
はマラリヤの発生地であり、それを避けて住民は山頂稜線地帯に住居を構えていたからである。

同地区内でも村
落によっては山頂付近に居住し、肥沃な耕地と牧草のある低地には家畜管理舎を意味するガート(GHOT)を建て、
早朝、家畜を追ってガートに下り、夕方山頂に帰るという生活形態をとっていたところもあり、ガートでは脱穀
調整などの作業も行っていた。

それが第二次大戦後、マラリヤなどの疫病撲滅が進むにつれてガートを本居とし、
本居をガートとするケースがみられ、部落をあげて移動するところもあり、低地に居住移動する戸数も増加してお
(47)
り、ベシーにある部落は極めて新しく、ー九六四年の調査時点では、まだ移動期であると報告されている。

このような自然環境に位置するマンダン地区はカトマンズとヒマラヤ山脈とのほぼ中間にあり、地理的にも文
化的にもカトマンズ盆地と山岳地域との接点をなす地域といえる。

しかも、中国の援助によるカトマンズとチベ
ット国境を結ぶ道路がー九六六年に完成し、同地区内を通過している。

この道路の開»がこの地区の人々の生活
形態に多くの点で変化をもたらしていると想定されるので、その意味からも一九六四年の調査記録は貴重である。

第四表は同調査の報告書第五表から抜^して作成したものである。マハデウ・スターン•パンチャヤートには各村
落から選出された九名の委員がおり、パンチャヤートの資料は各委員から提出されたものであり、各委員が担当し
ている諸村落を一括して、その委員の氏名をとって管区と仮称している。各委員の同調査に対する協力関係に差
一 84—
ネパールのカースト制の形成について•の一考察
があり、ー、二の委員は中途で調査に異議を唱えるなどの事態もあり、若干不明な点があることが指摘されてい
る。

各村落の戸数、人口、カーストについては同調査隊が各戸調査に等しい調査をした数字であるが、村落境界
がパンチャヤート委員や村落民によって異なる場合があり、不鮮明であったこと、居住移動により居住村落の決定
が村落民でも確認できないことなどがあり、そのうえ祭日、農繁期などにあたり調査できなかった村落のあった
ことが付記されている。

そのためパンチャヤート提出数字と調査隊の調査した数字に相違があることを注意する必
要がある。このように調査できなくて不明な村落があるとはいえ、山また山の山頂や谷間に五九の村落が点在す
る同パンチャヤートの地形ときびしい気象条件を考えると、その労苦は想像を絶するものがある。

パンチャヤート提出の数字によると同パンチャヤートは六三二戸、人口三二四七人であり、五九の村落からな
っている。

同パンチャヤートの社会構成はネパールの上層カーストを占めるバウン、チェトリ、タクールとアウト・カー
スト的な下層カー ストとみられるカミ (鍛冶職)、 サルキ(皮革加工職)、ダマイ(仕立職)とカトマンズ盆地に住
民の多いネワールや山岳部族のタマン、マガール、ダヌワールなどの諸部族からなっている。

前述したようにマ
ハデウ・スターン•パンチャヤートのあるマンダン地区は地理的にも文化的にもカトマンズ盆地とヒマラヤ地域と
の接点をなす位置にあり、同パンチャヤートの社会構成もネパールのヒンズー教徒の上層カーストであるバウン、
チェトリ、タクールと下層の職業カーストと、その中間的な地位を占めるとみなされているネワール族や言語の
系列ではネワール語と同じくチベット・ビルマ語系に属する山地民であるタマン族、マガール族、ダヌワール族
など・の混成で村落を構成しており、大きな村落で単一構成なのはジュディ・ガウン(GUD1 GAUN)とコテン(KOT,
-85—
ENG)の両村落だけであり、それは共にタマン族である。

この他に、表中にあるマハール (MAHAR) シババクタ
I (SIBABAKUTI)はネワール族の副カーストであり、ハ マール・ジョギ} (HOMMOLOGI)は自からブラーマンと
称するヨーガ僧である。サニャシ (SANNYASL SANYESHI)はバウン、チェトリのカ1ストから離脱した階層と
みられる。ネパールではバウン、チェトリで出家し、鮮黄色の僧衣をまとって托鉢僧(SADHU MENDICANTS)と
なり修業中の者が結婚した場合、その子孫は父母の去ったカースト社会に復帰することが認められなくてサニャ
(48)
シと呼ばれ、ギリ(G1RI)、プリ(PURI)、バハラティ(BHARATI)などの家名を付けたといわれる。

ここでのサニ
ヤシとギリはそれに該当するものと考えられる。また同パンチャヤート提出の資料にボティ(BHOTE)とあるが、
これはチベット人を意味するネパール語であり、タマン族、マガール族などのチベット系山地民にも用いられ、
さらに時にはこれらの山地民に対する蔑称として用いられることもある。

しかし、第四表中、⑴のラリバハドウ
ル・タマン管区では、タマン族出身の同氏がボティ四六戸と報告しているのは、それがタマン族であることが明ら
かであり、また同委員によるバウン、チェトリ、タクールの区分が明確ではない。

同パンチャヤート管内ではバウン、チェトリ、タクールもその他の諸族も農耕に従事しており、その土地利用
状況を示したのが第五表である。

水田には稲作と裏作に小麦、畑には陸稲、トウモロコシ’シコクビエ(KODO)
甘^CKHU)、小麦、ソバ、大豆、落花生などが栽培される。

家畜はヒンズーカーストの慣行からバウンは牛(雌、・去勢牡)、水牛(雌)、山羊(雌、去勢牡)のみを飼育し、
チェトリ、タクールはそれに加えて鶏を飼育する。タマン、マガール、ネワールなどはチェトリ、タクールの飼
育家畜に加えて去勢水牛も飼育する。カミ、ダマイ、サルキは豚も飼育するが、豚については洋種はバウン以外の
-86—
ネパールのカースト制の形成についての一考察
他の階層でも飼育し、去勢牛は農耕のみに利用し、去勢水牛と山羊は犠牲に供せられる肉用であるといわれる。

このような純然たる農耕社会においてカミ、ダマイ、サルキなどの職人カーストの果す役割と生活条件につい
て、同調査報告は次のような事実を明らかにしている。

鍛冶職であるカミは鉄製農具の製作と修理をする。各農家がどのカミと契約するかは自由であり、契約期間は
一年である。製造、修理に必要な鉄材は需要者の負担で、報酬は穀物で支払われる。報酬額は、製造、修理の農具
数によって決まるのではなくて、契約農家の家族数によって決定する方法である。

同報告の事例によると、男女
老幼五名の一農家と契約したカミは、向う一年間当該農家の農具の製造、修理を必要に応じて行なう。その代償
として稲(もみ)、トウモロコシ、シコクビエの何れかで一人当り、ーパティ(ーパティPATH一は約四•三六リッ
トル)、合計五パティを収穫後に支払われる仕組である。

どの穀物で支払うかについては慣行があり、稲、トウモ
ロコシ、シコクビエの順序である。すなわち稲を栽培している農家は必ず稲もみで、トウモロコシ、シコクビエ
しか栽培していない場合はトウモロコシを、シコクビエのみ栽培の場合はシコクビエでということになる。

ダマイの仕事は衣服の仕立と修理であり、契約の内容、支払方法はカミの場合と全く同様である。ダマイと契
約した家では衣服がどんなに破れても、綻びても決して各自の家の者が手を加えることをしない。実際には新調
が中心で修理をすることは殆んどないようである。仕事はダマイが手動ミシンを持参して各家を訪問して庭先で
^9る0
皮革の加工をするサルキの場合は前二者と異なり現物納制のようなー定の規準がなく、をれぞれのケースに応
じて報酬額を決定するといわれる。
-87—

理髪、剃髪は下層職人カーストの仕事ではなくてネワール族がこれに従事しており、一年契約の現物納制をとつ
ている。しかし、女子は理髪師にかからないので家族数は男子だけで計算する。理髪師がネワ}ル族であるため、
カミ、ダマイ、サルキなどの下層職人カーストに属する者は契約することができないので、各自が相互にしなけ
ればならない。

マハデウ・スターン•パンチャヤートでも下層職人カーストは不可触賤民的な地位におかれていた
わけである。

しかし、このような状況におかれたマハデウ・スターン•パンチャヤート管内でも、カトマンズとチベット国境
とを結ぶ道路の開通後、カトマンズと同管内の人的、物的交流が容易になり、数多い事例ではないが農業収入と
出稼による農外収入とにより自分の耕作している小作地を地主であるバウンから買取って自作化しつつあるタマ
ン族の事例もある。このような同パンチャヤート管内のその後の変化については別の機会に報告したい。

おわりに

以上でネパールにおけるカースト制の形成の過程をみてきたが、ネパールのカースト制はその導入の歴史が示
すように、インドのカースト制がネパール的土壌の中で変容したものであり、さらに導入後の歴史的、社会的諸
条件の推移により変容しつつ現在のような内容になったものと考えられる。

このようにして形成されたカースト制が、ネパールの村落共同体の構造、とりわけ土地所有、耕作関係などの
土地制度にどのようなかかわりがあるかを解明することが今後の課題となる。今後多くの研究者の研究成果と実
証的研究の積みかさねによりこれを明らかにしたいと考えている。

—88—
ネパールのカースト制の形成についての一考察
第一表 ジャヤスティティ・マッラ(JAYASTHITI MALLA)王
による階層区分
区 分 DANIEL WRIGHTの英訳 LUCIANO PETECHの英訳
(1)チャルマカール CHARMAKARA WORKERS IN LEATHER
¢2)マーターンギー MATANGI WORKERS IN LEAT- HER ELEPHANT DRIVER
(3)ニオギー NIYOGI SERVANT ( ?)
(4)ラジャク RAJ AKA DYER AND CLEANER
(5)ドビー DHOBI WASHERMEN LAUNDRYMAN
(6)クシャトウラカール KSHATRIKARA ?
¢7) ローハーカール LOHAKARA BLACKSMITH
(8)クンダカール KUNDAKARA IVORY CARVER
(9)ナディーチェーデー NADICHHEDI CUTTER OF UMBILICAL CORD ( ?)
(10)タンデュカール TANDUKARA WEAVER
(11)ダーンヤマーリ— PHANYAMARI ?
¢12)バディー BADI ?
(13)キラータ KIRATA HUNTER
¢14)マーンサビクリー MANSABIKRI BUTCHERS BUTCHER
(15)マーリー MALI GARDENERS GARDENER
(16)ビヤンジャナカール BYANJ ANAKARA COOKS ( ?) SAUCE-MAKER PROBABLY THE SAME
(17)マンデューラ MANDHURA AS THE MODERN MA- NANDHAR, OIL PRESSER
¢18)ナティジブ NATIJI VA ACTOR WHO LIVES BY PROSTITUTING HIS WIFE
(19)スラービジア SURABIJA ?
(20)チトウラカール CHITRAKARA PAINTERS PAINTER
(21)ガイネ GAYANA MUSICIANS AND SI- NGERS SINGER
(22)バタオーニ BATHAHOM ?
—89—
¢23)ナーテヤワラダー NATEBARUDA (24) スルパカール SURPPAKARA (25) ビマリー BIMARI (26) タンカダーリー TANKADHARI ¢27)タヨルタ TAYORUTA ¢28)カンジカール KANJIKARA (29) バラヤチャンチュ BHAYALACHANCHU (30) ゴーパク GOPAKA (31iタームラカール TAMRAKARA (32Iスバルナカール SUVARNAKARA (33)カーンサヤカール KANSYAKARA ¢34)カールニック KARNIKA (35) トウラーダッル TULADHARA (36) クンバッカール KUMBHAKARA (37) クシェトウラカール KSHETRAKARA (38Iスリンカリ SRINKHARI ¢39)タクシャク TAKSHAKA (40) ダ-‘ルカール DARUKARA ¢41)リーピーク LEPIKA 幽ナーピック NAPIKA (43) バーリック BHARIKA (44) シイピカール SILPIKARA ¢45)マリカー-ル MARTKARA (46) チッチャック CHICHHAKA (47) スーピック SUPIKA COOKS ¢ ?) COWHERDS COPPERSMITHS GOLDSMITHS BELLMAKERS WEIGHERS POTTERS LAND-MEASURERS ? ? ? WORKERS AT THE MINT ? ? ? COWMEN BRONZESMITHS GOLDSMITHS ALLOYS FOUNDER AND BELL CASTERS WEAVER WEIGHER POTTER LAND SURVEYORS ? CARPENTERS WOOD CARVERS WORKER IN STUCCO BARBERS BEARERS CRAFTSMEN CONFECTIONER ? COOKS
—90—
ネパールのカースト制の形成についての一考察
(48) サージカール SAJAKARA (49) スリチャンテー SRICHANTE ¢50)アーラム alama ¢51)ダイバギア DAIVAGYA (52>ガニック GANIKA (53)ジョーティシャ JYOTISHA S4)グラハチンタク GRAHACHINTAKA (55)アーチャーリー AchArya (56Iデーバチンタ DEVA-CHINTA (57) プージタ PUJITA (58) アマーテヤ AMATYA (59) サチーブ SACHIVA (60) マントウリー MANTRI ¢61)カーヤスタッ KAYASTHA ¢63 レーカック LEKHAKA (63}ブッパ、ラージヾ、ナレンドラ、 チェトリー BHUPA. RAJA. NARENDRA、 CHHETRI (64)ドウウィジ、ビプラ、ブラーマン DWIJA、BIPRA、BRAHMANA DIFFERENT KINDS OF ASTROLOGERS STATE OFFICIALS IN OLDEN TIMES WRITERS TAILORS ? ? ASTROLOGERS PRIEST,TEACHER AND SACRIFICATOR OF THE HINDU NEWARS SPECIALITY UNKNOWN THE OFFICIATING PRI ESTS IN THE SAIVA TEMPLES MINISTERS PRIVY COUNCILLORS STATE OFFICIALS SCRIBES SCRIBES ROYAL FAMILY, ARISTO -CRACY AND MILITAR- Y CLASS
(出典)(DDANIEL WRIGHT, HISTORY OF NEPAL, 1877, REP. 1972,
KATHMANDU, PP.185-186〇
(2)LUCIANO PETECH, MEDIAEVAL HISTORY OF NEPAL, 1958, ROME,
PP.181-183〇
—91—
き 5 N IIクラス ー MAHAJU (AMATYA)o 旧王朝時代の大臣名である。 PRADHANAUGA. 届聽齢号精辱驚議’磨した容命”球 PRADHAN• 以前はNOBLEMENの一般的称号であった。 MULA OR MURMI. 旧時代の官職名。 RAJBHANDARI OR BHANNI \ 〇切!吟嗚聘界^^£あ MASKE (MAKHI) )つ甘か、コル力王朝下では協められなか Iクラス 一部分はOLD ROYAL FA- THAKURI MILYの子孫である〇 ヴァイシャ(VAlSYA)階級 ネパールでこの名称は使用されI ない。 ! クシャトリャ(KSATRIYA)階級 理論的には、次のヒンズーカース 卜はクシャトリヤとすべきであ る。1768年おでROYAL FAM- ILY のみTHAKUR!のカースト 名でクシャトリヤとして認めら れていた。現在は純粋なTHA・ KURIは存在しないので、ネパ ールにはクシャトリヤなたい。 1 DEVA BRAHMAN (FAMILY PRIEST) この三つは社会的には同格で 2 BHATTA BRAHMAN あるが、相互間で通婚するこ (TEMPLE PRIEST) とはない。 3 JHA OR TIRAHUTIYA BRAHAMAN (TEMPLE PRIEST) W (MVWHVHH)人ヘー J 畢 鄭 (OQNIH) 1
HIクラス BAGAとSESYAの間の混合カーストである。 MTYFD C A SESYA又はSESY°はネワールのヒンズー教徒の上 M1A也Uしい13.位カーストであり、ブラーマンとより低位カ一ストとの 間の子孫であり、BAGA又はBAGHAはSESYAの父とより低位カーストの婦人との間の 『孫で共{こ母班涼に入ったもので、この混合のカーストはSRESTHAとの通婚はできない。 11 ^rAtua 理論的には上位 bKEblHA-母のカーストに KAYASTHA, WRITERS. NIKH,PAINTERS OF RELIGIOUS IMAGES. LAKHAY,PERSON AL ATTENDANTS. 1 VAJRACRYA OR LEARNED MONKS. (FAMILY GUBBAJU. PRIESTS) 2 SAKYABHIKSU OR SIMPLE MONKS•この多く は金 1 BANRE 銀細工師である。・ 仏教徒集団(BUDDHIST) 1
£。 VHIS3HS | WLg コ1 諭
®u»27w (LUCIANO PETECH)^・バ蜀尤メニーW㊀Aー利ア謹
—92—
ネパールのカースト制の形成についての一考察
ヾ‘ ij 1
Iクラス UDAY OR URAY これには通婚しない7グループがある。 1 KASAR,WORKERS IN METAL. 2 LOHANKARMI STONECUTTERS. 3 SIKARMI CARPENTERS. 4 THAMBAI, WORKERS IN COPPER, BRONZE AND ZINC. 5 AWAL, TILERS. 6 MADDIKARMI, BAKERS. 7 TULADHAR, WEIGHT-MAKERS. IIクラス JYAPU, CULTIVATORS. HIクラス このグループは社会的には同一レベルとみ ]SALMI OR MANAN-られているか相互に通婚しないし、また dh/r,or?ginally uday, JYAPU とも通婚しない。 OIL-PRESSERS,ENGINEERS AND MERCHANTS- 2 NAU, BARBERS. 3 KAU, BLACKSMITHS. 4 CHIPA DYERS. /時には彼等は自身をtandukArと呼ぶ(マ R VTJJTC A DAT AMIT17I7M ツラ王の区分 55 )、また、KHUSA の SUB-C- 1 5 KHUSA, PALANKEEN ASTEのーっであるMUSAは現在ではバドカ’ -BEARERS. !オンの2 – 3家族である。 6 PUM OR CITRAKAR, PAINTERS. 7 GATUH OR MALI, GARDENERS. 田刀-つ 乙のSUB-SECTIONの一つにBALAMI. ・ドクフス CARRIERSがある。 1 1 PUTUVAR.DALI, CARRIERS. 2 TEPAY,CULTIVATORS OF VEGETABLE GARDENS | AND CHIEFLY OF THE PALUNG GRASS.
—93 一
(圧海)LUCIANO PETECH-MEDIAEVAL HISTORY OF
NEPAL- ROM-1958- PP ・186| 189
不可触暢 (INTOUCHABLES)階級・
!1 NAY, BUTCHERS. 2 KUSLE OR JOGI, このSUB — SECTIDNの一つに TAILORS AND TEMPLE DHOM か> あるが、KUSLE は彼 MUSICIANS. 等を下位のもとと考えている。 3 P〇, FISHERMEN AND ネワール語では時にはDEQLA PRIESTS IN THE とも呼ばれる。 TEMPLES ON THE BANKS OF THE RIVERS. 4 had Ahhrit (これについてのL^PETECHの説明 4 hakahuku, はないが、d.R.REGMIは最低の階層 よりもなお低位とみられる道路などの 清掃夫であるとしている。なおREGMI は POJC は poria,chyAmkhala HArAHURU の三つをUNTOUCHA BLE CASTESとして分類している’ 本文参照) 5 CAMKHALA,SWEEPERS•遂翳光・皿山は同格と わ/よミ4し[い&>〇 6 KULU,LEATHER WORKERS• ネノヾールのDRUM作りで、 靴は作らない。 1 3 DUIN,ORIGINALLY THEY 現在ではBALAMI とは全く 別個 BELONGED TO THE BALAMI•である。 1 4 PULPUL OR FULU, HEARSE-BEARERS. I 5 TATTI,VENDORS OF NECESSARIES 1 FOR FUNERAL CEREMONIES. 6 SAGAN, LAUNDRYMEN.缶&?む、高讀誤£;/ 1 ンの数家族に限られて・いる。
—94—
ネパールのカースト制の形成についての一考察
第三表 ネワール族のカースト(NEWAR CASTES)
カー ス ト 伝 統 的 職 業 戸 数 比率(%)
デオブラーマン 1 DEO BRAHMAN FAMILY PRIESTS 165 0.5
バッタ ブラーマン 2 BHATTA BRAHMAN TEMPLE PRIESTS 50 0.1
ジァブラーマン 3 JHA BRAMAN 150 0.4
グバジュ バレ 4 GUBHAJU, BARE FAMILY PRIESTS, GOLD AN- 3,700 10.0
シレスタ セシャ 5 SHRESTHA(SHESHYA) D SILVER SMITHS MERCHANTS 8,100 21.4
ウレイ(ウダス) 6 URAY (UDHAS) MERCHANTS AND CRAFTS- 1,700 5.0
ジャプー 7 JYAPU MEN FARMERS 15,800 42.0
クマ 8 KUMA POTTERS 1,150 3.1
シャイ?•— 9 SAYMI OILPRESSERS 1,370 3.6
クシャ 10 KHUSA PALANQIN BEARERS 300 0.8
11 NAU BARBERS 410 1.1
カウ 12 KAU BLACKSMITHS 300 0.8
バア 13 BHA FUNERAL DUTIES 150 0.4
ガテユ 14 GATHU GARDENERS 470 1.3
テペ 15 TEPE CULTIVATORS 150 0.4
プンム 16 PUM PAINTERS 170 0.5
7・ユヒム 17 DUHIM CARRIERS 130 0.4
バラミ 18 BALAMI FIELDWORKERS 50 0.1
プル 19 PULU FUNERAL TORCH BEARERS 100 0.3
チャパ 20 CIPA DYERS 430 1.2
ジオギ 21 JOG1 MUSICIANS AND TAILORS 550 1.5
ナーイ 22 NAY BUTCHERS AND MUSICIANS 1,050 2.8
クル 23 KULU DRUM-MAKERS 70 0.2
ポレ 24 PORE FISHERMEN AND SWEEPERS 500 1.3
チャミ 25 CHAMI SWEEPERS 250 0.7
ハルル 26 HALAHULU SWEEPERS 50 0.1
ネワール族の総人口、225,798人 計37,315 100
(出典)COLIN ROSSER, SOCIAL MOBILITY IN THE NEWAR CASTE
SYSTEM, IN CHRISTOPH VON FURER-HAIMENDORF, ED. , CASTE AND
KIN IN NEPAL, INDIA AND CEYLON, LONDON, 1966. PP. 85-86.
—95一
第四表、マハデウ・スターン・‘パンチャヤー
卜のカースト構成
村 落 名 戸数 人口 カースト(JATI)
¢1) LALBAHADUR TAMAN管区 58 187 ボティ¢6)、カミ⑹、タクール(6)
1 ティン・ピプレ TIN PIPURE 26 109 バウン(2)、タマン¢22)、カミ(2)
2 バラ BARA 8 29 バウン⑵、タマン⑹
3 タディ・カミン TADI KAMIG. 7 32 カミ(7)
4 ガイリ GAIRI
5 コテン KOTENG 32 187 タクール(8)、タマン(24)
6 ボッテ・ガウン BHOTE GAUN
7 ターロー •コテン TARO KOTENG 5 19 タクー ノレ(3)、チェトリ(2)
⑵ JANBAHADUR DANUWAR管区 47 318 パウン⑴、タクール(3)、チェ トリ{2)、 ダヌ!? ール<3切、 カミ(2) 8 ドッディ二 D H 0 D IN I 8 50 パウン(1)、タクーノレ(5)、チェトリ(2) 9 カルカ ・ KAR KA 1 6 チェトリ⑴ 10 サトウパテタール SATPATETAR 5 25 バウン⑴、チェトリ(2)、ネワール(2) 11 ラプタンタール LAPTANTAR 2 26 バウン⑴、ネワール(1) 12 マスロ・ジュディ・ガウン MASLO JUDI G AUN 12 73 ダヌワール(12) 13 アプタール・ジュディ・ガウン APT AL JUDI GAUN 32 162 ダヌワール(32) 14 パダ ガウン PADA GAUN 11 56 ダヌワール(9)、カミ(2) ¢3) HARIGOPAL SHRESTA 管区 78 424 バウン、チェトリ、ネワール、ギリ、 サヌヤシ、ダヌワール、ダマイ 15 ランサ~ル・トウムカ LAMS AR THUMKA 22 142 バウン(19)、チェトリ(3) 16 ジャガールプール JAGARPUR il 72 ダヌワール(1D 17 ボッティ・ノレムティ BHOTE RUMTI 4 20 ダヌワール(4) 18 バヌガール BANUGAR 2 13 ダヌワール(2) 19 ヒウンヮ・パティ HIUWA PATI 16 47 ネワール(15)、チェトリ(1) 20 マハデウ ・スターン MAHADEW STHAN 19 113 サヌヤシ(3)、ダヌワール(16) 21 マノ、デウ ・ペディ MAHADEW PEDI 12 84 バウン(2)、ネワール(7)、ダマイ(3) 22 カルティケチイダール KARTEKECHDAR 2 7 バウン(1)、ネワール(1) —96— ネパールのカースト制の形成についての一考察 (4) NANDA PRASAD PAULER管区 114 561 バウン、タクール、チェトリ、ネワ ール、ボティ、カミ、ダマイ、サルキ 23 ダルマタール DARMATAR 6 26 バウン(3)、チェトリ(2)、タマン(1) 24 25 グラインタール GRAINTAR トウムキ THUMKI 7 29 バウン(4)、タクール(1)、ネワール(2) 26 カメレ KAMELE 1 4 タクール(1) 27 28 29 ラクレ LAKURE バトウムニ•サブコタ BATMUNI SABKOTA ダイタール•パウレル DHAITAR PAULER 1 7 タクール(1) 30 ダイタール•サブコタ DHAITAR SABKOTA 7 22 バウン(7) 31 32 カメレコット KAMEREKOT カタルパカ KATALPAKA 3 21 タマン⑴、カミ⑵ 33 34 35 ドウディ DUDE アプガリ APUGARI ラエレ RAELE 2 15 タマン(2) 36 37 クンタ・ベーシー KUNTA BESI トウムキー・ガウン THUMKI GAUN 10 56 バウン(9)、チェトリ(1) 38 ジダリ・ポカリ JIDARI POKARI 7 32 バウン(7) ⑸ 39 40 41 42 43 44 GANANATH UPADHYA 管区 ガッシ GHASI デウラリ DEURARI サルキー・ガウン SARKI GAUN ダリンチャウル DARINCHOUR チャウル CHOUR デアリ・ガウン DEALI GAUN 86 7 415 25 バウン(51)、チxトリ(3)、サルキ(32) C6) 45 PURUNABAHADUR BISI CHETRI管区 ガイリ 54 286 バウン⑹、チェトリ(10)、ダマイ⑴ カミ⑴、ボティ(36) —97— 46 47 ガハテ GAHATE ボッテ・ガウン BHOTE GAUN ⑺ 48 49 KASINATH SHRESTA 管区 パウワ PAUWA パウワ・ガイリ PAUWA GAIRI 48 308 50 ダマイ・ガウン DAMAI GAUN 11 75 ダマイ(11) (8) 51 52 KEDARNATH SABKOTA 管区 マイダン MAIDAN ジャミールコット 70 372 バウン(35)、タクール(4)、チxトリ(20) ネワール(35)、カミ(8)、ダマイ(1)、 サルキ(3)、ボティ(40) これは(9)のJ. SHRESTA管区と 合併した数である。 53 JAMIRKOT ウパラディ・ランタール UPALADI RANITAR 5 27 ハマールジョギ(3)、シババクター ⑴、チェトリ⑴ 54 ランタール RANITAR 27 133 バウン(18)、チェトリ(1)、ネワール⑻ 55 シウリニタール SIURINITAR 13 63 バウン(1)、タクール(3)、チェトリ⑼ ⑼ 56 57 58 JEEWBHAKT SHRESTA 管区 ジャミールコット・ガイリ JAMIRKOT GAIRI サノ •マイダン SANO MAIDAN ディスワールタール DESWALTAR 76 376 上記¢8)参照 チェトリ(9)、タクール(1)、マガール (8)、カミ(11)、ダマイ(1)、サルキ(3) 59 アプタール APUTAR 1 3 ネワール(1) PANCHAYAT提出資料 合 計 632 3,247 男子1,689名、女子(1,558名) (出典) 海外技術協力事業団「ネパール国マンダン地区農業調査報告」昭和40年 18-25ページの第5表から作成。 —98— ネパールのカースト制の形成についての一考察 第五表 マハデウ・スターン•パンチャヤートの土地利用状況 区 分 面 積(ヘクタール) 水 田 400 畑 地 800 草 地 800 森 林 1,200 荒 蕪 地 400 そ の 他 200 合 計 3,800 (出典) 海外技術協力事業団「ネパール国マンダン地区農業調査報告」昭和40年、 28ページから。 —99— 注 1) ネパールの農業形態および地域区分については、島田輝男「ネパールの農業構造についての一考察」「アジア研究 所紀要」第二号、亜細亜大学アジア研究所、ー九七五年を参照。 (2) Frederich h・ gaige-Regionalism and National Unity in Nepal・ University of Cal FORNIA PRESS-1975- R IP TABLE 3・ MAJOR LANGUAGES SPOKEN IN THE TARAL (3) IBID;R16. (4) 島田輝男、前掲書、二三八頁。 (5) 田辺繁子訳「マヌの法典」、岩波文庫、昭和二八年、三一五頁。 (6) Dor Bahadur bist>people of Nepal” Kathmandu-1967- pp・18—23・
(7) 飯島茂「ネパールの農業と土地制度」、アジア経済研究所、ー九六一年、二〇—ニー頁。
(8) Dor Bahadur Bist>or cn\ p・160・
(9) ビルタの交付とビルタ制の形成については、拙稿「ネパールの土地制度と土地改革」「アジア研究所紀要』第三号、
亜細亜大学アジア研究所、一九七六年を参照。
(10) 岩本裕「インド史」、修道社、昭和四六年、四二頁。
(11) 前掲書、四三頁。
(12) D・ u- Kosambl The culture and civilization of ancient India in historical outline”
londoz1965・(コンサンビー著、山崎利男訳「インド古代史』、岩波書店、昭和四一年、ー〇六— ー 〇七頁。)
(13) ヴェーダに関する諸文献については辻直四郎著「インド文明の曙—ヴェーダとウバーーシャッドー」、岩波新書、ー
九六七年を参照。
(14) 前掲書、九七頁。
(15) 前掲書、一四— 一五頁。
-100-
ネパールのカースト制の形成についての一考察
(16) 岩本裕、前掲書、二八—二九頁。
(17) 中村元「インド古代史」上、中村元選集、第五巻、昭和三八年、五六三—五六四頁、五七〇頁。
(18) 前掲書、五七七頁。
(19) 田辺繁子、前掲訳書、三六—三七頁。
(20) 前掲書、ニニ頁。
(21) 中村元「インド思想史」、岩波全書、ー九七七年、七—九頁。
(22) コーサンビー、前掲書、二六〇頁。
(23) 岩本裕、前掲書、四八頁。
(24) 中村元、前掲「インド思想史」、一六七— 一六八頁。
(25) Daniel WRIGHT-History of Nepal-1972 (FIRST E9 1877)-KATHMANDU\972- pp・107— 109・
(26) 中村元 前掲「インド古代史」上、二五五—二五六頁。
(27) 前掲書、二七三頁。
(28) Rishkesh shah>h eroes and bufders of Nepal- Oxforo University press- 1970-p・ 35.
(29) 玄奘「大唐西域記」、水谷直成訳、中国古典文学大系ニ二、平凡社、昭和四六年版、二四〇頁。
(30) RlSHlKESH shah>OR err・ PR 39I4P
(31) LR Arian and T.RDHUNGYAL-A New History of Nepal-Kathmandu- 1975-r 50.
(32) IBID: R 51・
(33) Daniel wrighhor cit・ pr 1851186・
(34) Luciano P etech-Mediaeval History of NEPArROME-1958 – pp・1811183・
(35) Daniel Wright・ op・ cm pr 1861187・
(36) D・ RRmGML Medieval NEPArpart l 1965″ Kathmandu- r 643・
(37) Luciano petech- op・ cm P181・
-101-
(38) DMRegml or cm p, 642・
() 55: PR 647 —650•
(如)S5: p. 64
() Mahesh Candra Regml Astudy in Nepali Economic HistorhNew Delhl 197LPP2—
() d,rregml op. Cm pp・ 666—677・
() Luciano PETECH- op cm p 189,
() Colin Rosser Social Mobility in the Newar Caste systemn Christoph von fure,
Haimendorf\ Ed・ Caste and KN in NEPArINDIA and Ceylon London” 196pp 85r8G
() Luciano petech\ or cm p 18
() dorregml op・ cm pp 676—67
() 東京農業大学ネパール農業調査隊「ネパール国マンダン地区農業調査報告」、海外技術協力事業団、昭和四十年、
二七頁 、
() Dor Bahadur BisTa” op cm p
-102—

ペルシア

ペルシア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%A2

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

曖昧さ回避 ペルージャの古名については「ペルシア (ペルージャの古名)」をご覧ください。
曖昧さ回避 「ペルシャ」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ペルシャ (曖昧さ回避)」をご覧ください。
現在のイラン全土とファールス地方
イランの歴史
イランの歴史

イランの先史時代(英語版)
原エラム
エラム
ジーロフト文化(英語版)
マンナエ
メディア王国
ペルシア帝国
アケメネス朝
セレウコス朝
アルサケス朝
サーサーン朝
イスラームの征服
ウマイヤ朝
アッバース朝
ターヒル朝
サッファール朝
サーマーン朝
ズィヤール朝
ブワイフ朝 ガズナ朝
セルジューク朝 ゴール朝
ホラズム・シャー朝
イルハン朝
ムザッファル朝 ティムール朝
黒羊朝 白羊朝
サファヴィー朝
アフシャール朝
ザンド朝
ガージャール朝
パフラヴィー朝
イスラーム共和国

ペルシア、ペルシャ(ギリシア語: Περσ?α[注釈 1])は、現在のイランを表すヨーロッパ側の古名である。漢名は波斯(はし)・波斯国(はしこく)。波斯と書いてペルシャ、ペルシヤと読ませることもある[1]。イランの主要民族・主要言語の名称でもある。

概要

古代ペルシア人は「パールサ」(????????)を自称していた。それを古代ギリシャ人が「ペルシス」と発音するようになり、さらにラテン語で「ペルシア」となった[2]。

かつてイランに対する外国からの呼び名として「ペルシア」が用いられたが、1935年3月21日に「イラン」に改めるよう諸外国に要請したものの混乱が見られ、1959年、研究者らの主張によりイランとペルシアは代替可能な名称と定めた。その後1979年のイラン・イスラーム革命によってイスラーム共和国の名を用いる一方、国名はイランと定められた。

イランの主要民族・主要言語は現在もペルシア人・ペルシア語と呼ばれている。なお、イラン人・イラン語はペルシア人・ペルシア語とは示す範囲が異なり、代替可能ではない。
歴史的には、古代ペルシアのパールサ地方 Parsa のこと。語源は騎馬者を意味するパールス Pars。ギリシャ語ではペルシス(Π?ρσι? Persis)と呼ばれ、現代イランでファールス地方にあたる。

ペルシアに相当する日本語や諸外国で表記される語は、現代のペルシア語ではイラン、またはパールサの現代形のファールスと呼ばれている語である。たとえばペルシア語をファールス語に相当する現代のペルシア語ファールスィー(ペルシア語: ?????? f?rsi)と呼ぶ。

また、この地に興ったペルシア帝国と呼ばれる諸王朝も指す。ただし、同じ地に興ったパルティア(アルシャク朝)はペルシアとは語源的に無関係である。

イランの文化や特産物に対する呼び名としても使われる。

ペルシアの王朝

アケメネス朝の領域

アケメネス朝の領域
アルサケス朝の領域

アルサケス朝の領域
サーサーン朝の領域

サーサーン朝の領域
ティムール朝の領域

ティムール朝の領域
サファビー朝の領域

サファビー朝の領域 』

イラン系民族

イラン系民族
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3%E7%B3%BB%E6%B0%91%E6%97%8F

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

イラン系民族Iranian languages distribution.png
総人口
104?106 百万[1]
居住地域
イラン、イラン高原, アナトリア, 南アジア西部, 中央アジア, カフカス .
言語
印欧語族イラン語派
宗教
イスラム教が大勢

イラン系民族(イランけいみんぞく、Iranian peoples)とは、インド・ヨーロッパ語族イラン語派の言語を話す民族の総称である。

イラン祖語はインド・ヨーロッパ語族の下位言語として中央アジアにおいて起元前2千年紀に誕生したと考えられる[2][3]。紀元前1000年紀に分布が最大になった時には、イラン系民族の分布範囲はイラン高原を超えて西はハンガリー平原、東はオルドス平原に至るユーラシア・ステップ全域に及んだ[4] 。

当時は西イラン語群系のペルシャ帝国が古代史において覇権を握っており、文化的に大きな影響を残した。東イラン語群系の遊牧民はステップの騎馬文化やシルクロードにおいて大きな役割を果たした[2]。古代のイラン系民族にはアラン人、バクトリア人、ダアイ、マッサゲタイ、en:Medes、ホラズム、パルティア、サカ族、サルマタイ、スキタイ、ソグド人などが含まれる。

紀元後1000年までに、イラン系民族の分布域は、スラヴ系民族、ラテン系民族、ゲルマン系民族、アラブ系民族、テュルク系民族、モンゴル系民族、チベット系民族の拡大にとって代わられるかたちで減少していき、多くはスラヴ化した[5][6][7][8] 。現在のイラン系民族はバロチ族、クルド人、ロル族、オセット人、タート人、パシュトゥーン人、パミール人、ペルシャ人、タジク人などが含まれる。現在の分布域はイラン高原からコーカサス、新疆にかけてである[9] 。

遺伝子

イラン系民族に関連するY染色体ハプログループとしてR-Z94が想定される。 』

コソボ

コソボ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%BD%E3%83%9C

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曖昧さ回避 この項目では、ヨーロッパの国家について説明しています。その他の用法については「コソボ (曖昧さ回避)」をご覧ください。

コソボ共和国
Republika e Kosovës(アルバニア語)
Република Косово(セルビア語)
コソボの国旗 コソボの国章
(国旗) (国章)
国の標語:不明
国歌:ヨーロッパ
0:58
コソボの位置
公用語 アルバニア語、セルビア語
首都 プリシュティナ
最大の都市 プリシュティナ

政府
    大統領     ヴィヨサ・オスマニ[1][2]
    首相     アルビン・クルティ 
面積
    総計     10,887km2(暫定166位)
    水面積率     不明 
人口
    総計(2013年)     1,847,708人(暫定145位)
    人口密度     169.72人/km2 
GDP(自国通貨表示)
    合計(2018年)     67億2,600万[3]ユーロ (€) 
GDP(MER)
    合計(2018年)     79億4,700万[3]ドル(146位)
    1人あたり     xxxドル
GDP(PPP)
    合計(2018年)     209億1,200万[3]ドル(145位)
    1人あたり     11,664ドル

独立宣言    2008年2月17日
通貨     ユーロ (€)(EUR)
時間帯     UTC+1 (DST:+2)
ISO 3166-1     XK / XKX (暫定)
ccTLD     .xk (非公式)
国際電話番号     381および383(公式)。携帯電話では377および386も使用
参照/en:Telephone numbers in Kosovo

コソボ・メトヒヤ自治州
Krahina Autonome e Kosovës dhe Metohisë
Аутономна Покрајина Косово и Метохиja
Autonomna Pokrajina Kosovo i Metohija
Kosovo and Metohija in Serbia.svg

セルビア内でのコソボ・メトヒヤ自治州の位置。
Map of Serbia (Kosovo and Metohija).PNG
公用語    アルバニア語、セルビア語
州都    プリシュティナ
州知事    スルジャン・ペトコヴィッチ[4]
自治州・自治体共同体
議長(英語版)    Радован Ничић
面積    10,887 km²
人口
(2011年国勢調査)    不明(セルビア[5])
1,739,825人(コソボ共和国[6])
改組
(SAPコソボより)    1990年9月28日
セルビアの統治権排除
(UNMIK開始)    1999年6月10日
コソボ議会が独立宣言    2008年2月17日
ISO 3166-2:RS    RS-KM

コソボ共和国[7](コソボきょうわこく、アルバニア語: Republika e Kosovës)は、バルカン半島中部の内陸部に位置する国家。北東をセルビア、南東を北マケドニア、南西をアルバニア、北西をモンテネグロに囲まれている。略称KOS[8]。国際連合(UN)には未加盟であるが、2016年7月時点で113の国連加盟国が国家として承認している。

概説

面積は1万887平方キロメートル(日本の岐阜県に相当)。国民の9割以上はアルバニア人で、他にセルビア人などが暮らす。人口は約180万人で、その3分の1は首都プリシュティナに集まっていると推定されている[7]。

かつてはユーゴスラビアのセルビアに属する自治州の一つで、2008年2月17日にコソボ議会が独立を宣言した。2016年7月現在、国連加盟国の内、113か国がコソボの独立を承認した[9]。独立を承認していない国は、セルビア領土の一部(コソボ・メトヒヤ自治州)とみなしている。

鉱物資源が豊かであり、大麦、小麦、タバコ、トウモロコシなどもとれる[8]。

呼称

「コソボ」という地名は、ブルガリア語でクロウタドリを意味する「コス」(ブルガリア語: Кос / Kos)に由来している。アルバニア語ではKosovaもしくはKosovë、セルビア語のキリル文字表記ではКосово、ラテン文字表記ではKosovoである。

特にセルビア人の間で、この地域の西部はメトヒヤ(セルビア語: Метохија / Metohija)と呼ばれており、この地域全体を指す呼称としては「コソボとメトヒヤ」(セルビア語: Косово и Метохија / Kosovo i Metohija、コソヴォ・イ・メトヒヤ)が使われている。他方、アルバニア人の間ではメトヒヤの名前は使われず、この地域全体を指してコソヴァと呼ぶ。

2008年2月に独立を宣言した際の憲法上の国名は、アルバニア語でRepublika e Kosovës、セルビア語でРепублика Косово / Republika Kosovoである。その他の言語での表記としては、英語ではRepublic of Kosovo、トルコ語ではKosova Cumhuriyeti、ボスニア語ではRepublika Kosovoである。日本語表記はコソボ共和国、通称コソボである。コソヴォとも表記する。アルバニア語名に沿ったコソバないしコソヴァという表記はあまり使用されていない。

セルビアは、コソボを自国の一部と規定しており、コソボ・メトヒヤ自治州(セルビア語: Аутономна Покрајина Косово и Метохија / Autonomna Pokrajina Kosovo i Metohija)と呼んでいる。コソボの独立を承認していない国々は、コソボを国連の管理下にあるセルビアの一部として取り扱っている。

歴史

詳細は「コソボの歴史」を参照

紀元前3世紀〜紀元前1世紀頃のダルダニア王国(黄色)

6-7世紀以前のコソボの歴史は、現在でもあまり明らかではない。6-7世紀以前には、古代トラキア人やイリュリア人が住んでいたといわれている。古代トラキア人は多くの氏族に分かれており、そのうちのコソボの地域に住んでいたある氏族は、ダルダニア人と呼ばれた。このため、この地方は当時ダルダニア(英語版)(Dardania)と呼ばれていた。

ブルガリア帝国の進出

東ヨーロッパから侵入したスラヴ人の定住に続いて、6-7世紀以降には、古ブルガリアからブルガール人(現在のブルガリア人の祖先)がやってきて、ダルダニアを征服した。681年にアスパルフによって建国された、ブルガール人を主体とする第一次ブルガリア帝国は、やがてこの地方をその支配下に置くようになった。ブルガリア帝国ではブルガール人とスラヴ人の融合が進み、現在のブルガリア人の祖となった。コソボや隣のマケドニアの地域はブルガリア帝国の重要な一部だった。

セルビア王国成立

12-13世紀、セルビア人の居住地域は、諸侯により群雄割拠される状態が続いていた。こうした中から台頭したセルビア人の指導者ステファン・ネマニャは、コソボを含む現在の南部セルビア地方を中心としてセルビア諸侯国を統一し、セルビア王国を建国した。これが現代においても、セルビア人がコソボを「セルビア建国の地」として特別視する理由である。

オスマン帝国との戦い

オスマン帝国がバルカン半島を征服しようとした時、セルビア人は自分たちの土地を守るために戦い抜き、最終的に「コソボの戦い」へ至った。

コソボの戦いで、セルビア人はオスマン帝国の4万人の兵士と激しく戦い、オスマン帝国の皇帝ムラト1世を殺すことに成功した。

皇子バヤズィト1世は、コソボの戦いの中で新皇帝となった。最後の戦いが行われた平原には、ムラト1世の墓地が今でも残されている。

結局オスマン帝国に敗北し、セルビアの貴族も、指導者のセルビア侯ラザル・フレベリャノヴィチも全て殺された。それ以来バルカン半島のほとんどはオスマン帝国に征服され、5世紀もの間自分たちの国を持つことができなかった。

オスマン帝国の支配

コソボの地で初のセルビア人の統一王国が誕生したことと、コソボの戦いでの敗北によってセルビアは最終的にオスマン帝国に併呑されるに至ったことから、セルビア人からはコソボは重要な土地とみなされている。コソボの戦いは伝説化され、民族的悲劇として後世に語り継がれることとなった。

オスマン帝国1875〜1878年のコソボ行政区(黄色)

コソボの最も多くの人口をアルバニア人が占めるようになったのは、17世紀後半から18世紀前半にかけて、オーストリア皇帝の呼びかけに応じ、ペーチのセルビア正教総主教に率いられたセルビア正教徒がドナウ川対岸へ移住したことが背景にあるとされる。これを受けてオスマン帝国側は、アルバニア人ムスリムをコソボに入植させていった。

民族意識の高揚

19世紀に入りアルバニア人の民族意識が高揚してくると、4つの県、サンジャク・プリズレン(ギリシア語版、英語版)、サンジャク・ディブラ(ギリシア語版、英語版)、サンジャク・スコピオン(ギリシア語版、英語版)、サンジャク・ニシュ(ギリシア語版、英語版)をひとつにまとめたプリズレン・ヴィライェト(英語版)(1871年 – 1877年)が設置され、すぐにコソヴァ・ヴィライェト(トルコ語版、英語版)(1877年 – 1913年)となった。1878年にはコソボの都市プリズレンで民族主義者の団体「プリズレン連盟」(アルバニア国民連盟)が結成され、民族運動が展開された。

20世紀初頭のバルカン戦争後、1912年にアルバニアの独立が宣言されると、その国土にコソボも組み込まれた。

しかし、列強が介入した1913年の国境画定でコソボはアルバニア国土から削られ、セルビア王国に組み込まれる。第一次世界大戦中はオーストリア・ハンガリー帝国、ブルガリア王国の占領下にあった。

ユーゴスラビア王国成立

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国時代の行政区分

第一次世界大戦後に成立したユーゴスラビア王国は、第二次世界大戦ではナチス・ドイツやファシスト・イタリアなど枢軸国の侵攻を受けた。

コソボにあたる領域はブルガリア王国とアルバニア王国の一部に併合された。

戦後、第二のユーゴとなるユーゴスラビア連邦人民共和国が成立すると、コソボ一帯はアルバニア人が多数を占めていたことから、1946年にセルビア共和国内の自治州(コソボ・メトヒヤ自治州)とされた。これがコソボとセルビアの行政的な境となって今日に至っている。

1950年代になるとコソボ独立運動が展開されるようになり、ユーゴ政府は独立運動を抑えつつ、1964年に民族分権化政策によってコソボ・メトヒヤ自治州をコソボ自治州に改称した。

1968年、自治権拡大を求めるアルバニア人の暴動が発生し、1974年のユーゴスラビア連邦の憲法改正により、コソボ自治州はコソボ社会主義自治州に改組され自治権も連邦構成共和国並みに拡大された。しかし、アルバニア人は更なる自治権拡大を目指し、一方でコソボをセルビアの一部と見なすセルビア人の民族主義者は自治権拡大に苛立ちを強めた。この双方の利害対立が、チトー大統領の死後大きく表面化することとなる。

独立運動

端緒

1981年の3月から4月にかけてプリシュティナのアルバニア人学生が抗議活動を開始し、6都市で2万人が参加するコソボ抗議活動に膨れ上がったが、ユーゴスラビア政府に厳しく弾圧された。

1982年、スイスに在住していたアルバニア人が「コソボ共和国社会主義運動」という左翼的な組織を設立した。彼らの目的はコソボをユーゴスラビアから分離し、独立した国を創ることだった。

1980年代にこの組織は世界中に分散しているアルバニア人を集め、水面下でネットワークを張り巡らし、武装勢力を結成している。

この組織を大きくするために左翼ばかりでなく、イスラーム原理主義やアルバニア国粋主義もイデオロギーとして掲げた。そして彼らは組織の名前を「コソボ解放軍」(アルバニア語名: UÇK、英語名: KLA)と改名した。

1989年に東欧革命が起きて、ソビエト連邦を中心とする東欧社会主義ブロックが崩壊すると、ソ連と一線を画していたユーゴスラビアでも各民族のナショナリズムが高まった。

セルビア人の民族主義者でセルビア大統領のスロボダン・ミロシェヴィッチは、ユーゴスラビアの各共和国が対等の立場を持つ体制を改め、セルビア人によるヘゲモニーを確立することを目指していた。

ミロシェヴィッチはセルビア内の自治州だったコソボ、ヴォイヴォディナの両社会主義自治州の自治権を大幅に減らし、コソボ・メトヒヤ自治州へと改称した。

コソボ解放軍の実力行使

コソボ解放軍から没収された銃器(1999年)

コソボ紛争

詳細は「コソボ紛争」を参照

実質的にはセルビア人が主導しており、コソボの独立を阻止したいユーゴスラビア政府は、クロアチア紛争、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争により大量に発生したセルビア人難民の居住地としてコソボを指定した。

この結果、コソボの民族バランスは大きくセルビア人側が増えることになった。

これに対して、コソボのアルバニア人指導者イブラヒム・ルゴヴァの非暴力主義に対し、アルバニア人から懐疑的な意見が出されるようになった。

デイトン合意によってクロアチア、ボスニア紛争が一旦落ち着いた後の1990年代後半に入ると、軍事闘争によるセルビアからの独立を主張するコソボ解放軍が影響力を強めた。

一方、隣国のアルバニアは1997年に全国的な規模で拡大したネズミ講が破綻して、社会的な混乱に陥っていた。

このような情勢で、コソボ解放軍は混乱したアルバニアに自由に出入りし、セルビア側の追っ手を回避。戻って来る時にはアルバニア国内で流出した武器やアルバニアでリクルートした兵士を伴って来た。

コソボ解放軍の指導者の一人で、後に首相となったハシム・サチは、アルバニア領内で兵員と武器を調達する活動をしていた。

翌1998年になると、セルビアとしてもコソボのゲリラ活動に対して対応をせざるを得なくなってきた。

セルビアは大規模なゲリラ掃討作戦を展開し、セルビア警察特殊部隊によってコソボ解放軍幹部が暗殺されるなど、コソボ全土にわたって武力衝突が拡大することになった。これがコソボ紛争の始まりである。

国際連合コソボ暫定行政ミッションの始まり

戦闘員ではないアルバニア人が攻撃を受け、多くのアルバニア人が隣接する北マケドニアやアルバニア、モンテネグロなどに流出し、再びセルビア側の「非人道的行為」がクローズアップされるようになった。

国連や欧州連合(EU)は、セルビアとコソボの間に立って調停活動を行うことになった。
1999年3月からは、北大西洋条約機構(NATO)が国際世論に押されて、セルビアに対する大規模な空爆を実施するに至った(アライド・フォース作戦)。

この空爆は約3カ月続き、国際社会からの圧力に対抗しきれなくなったセルビアはコソボからの撤退を開始。翌年までに全てのユーゴスラビア連邦軍を撤退させた。

これによってコソボはセルビア政府からの実効支配から完全に脱することになった。

代わって国連の暫定統治機構である国際連合コソボ暫定行政ミッション(United Nations Interim Administration Mission in Kosovo、UNMIK)が置かれ、軍事部門としてNATO主体の国際部隊 (KFOR) が駐留を開始した。

それ以降、主にセルビア系住民が多数を占める限られた一部の地域と一部の出先機関を除いて、ユーゴスラビア政府やそれを継承したセルビア・モンテネグロ(2003-2006年)、セルビア(2006年-)による実効支配は及んでいない。

しかし、セルビア側が撤退してUNMIKの管理下に入った後も、コソボ解放軍の元構成員によって非アルバニア人に対する殺害や拉致、人身売買が行われたり、何者かによって爆発物が仕掛けられたりといった迫害を受けており、人権が守られているとは言えない。

加えて、多くのセルビア正教会の聖堂が破壊され、迫害を恐れた非アルバニア人がコソボを後にする事例が多く発生している[要出典]。

コソボ紛争は2020年代にもコソボの内政や国際関係に影を落としている。コソボ大統領だったハシム・サチが2020年11月に辞任したのは、オランダのデン・ハーグに設置されているコソボ紛争の戦争犯罪を裁く特別法廷で訴追が確定したためである[2]。

地位問題

詳細は「コソボ地位問題」を参照

1991年に行われたコソボの独立宣言を国際的に承認した国は、同じアルバニア人が住む隣国アルバニアしか存在しなかった。

このためコソボの独立は国際的に承認を得たものとは認識されず、あくまでも「セルビアの自治州」であるというのが国際的な建前になっていた。

一方で1999年のコソボ紛争以降、コソボがセルビアの実効支配から完全に脱していた。したがってコソボは1999年以降、「独立国ではないものの、他の国の支配下にあるものでもない」という非常に微妙な地位に留め置かれていた。

現状で微妙な地位に置かれているコソボを将来的にどのような地位に置くか、という議論がコソボの地位に関する問題だった。

コソボの独立

2007年の11月の選挙では、コソボのセルビアからの即時独立を主張するハシム・サチ率いるコソボ民主党が第一党となり、翌2008年にはサチが首相に選出された。

主にアルバニア系住民に支持されたサチが率いるコソボ暫定政府は、独立の方針を強く訴えた。

地位問題において欧州連合(EU)とアメリカ合衆国の支持を得たコソボは、2008年2月のセルビア大統領選挙の確定以降における独立の方針を明確化し、2008年2月17日、コソボ自治州議会はセルビアからの独立宣言を採択した。また同時に「国旗」が発表された[10]。4月に議会で批准されたコソボ憲法は、6月15日から正式に発効した。

セルビアの反発

この独立宣言に対して、セルビアでは大きな反発が起こり、2月17日未明から首都ベオグラードやノヴィ・サドで、米国大使館や米系商店、当時のEU議長国だったスロベニア系商店への投石騒動が起きた[11][12]。この他にも、迫害を恐れてコソボを脱出したセルビア人住民が出ていると伝えられている[13]。

コソボの承認

国家承認のプロセスについては、独立宣言の翌日の2月18日にアメリカ政府が承認を公表し、ヨーロッパの国連安保理常任理事国であるイギリス、フランスも同日に承認している。ドイツが2月20日に承認した[14]。

一方でEU加盟国を個々に見た場合、国内に民族問題を抱えるスペインやキプロス、スロバキア、ルーマニア、ギリシャなどは独立承認に慎重な姿勢を示している国もある[15]。このためEUによる機関承認は見送られている[16]。

同じスラブ人として歴史的にセルビアと繋がりが深いうえに米欧と一線を画すロシア連邦や、少数民族の独立運動を多く抱える中華人民共和国も同様だった。

その後、独立宣言が打ち出された当初には即座に承認しなかった国々にも承認が広まった[17]。

セルビアの周辺国では、2008年3月にクロアチア、ハンガリーそしてブルガリアがコソボの独立を承認した。

コソボの独立に際して、大アルバニア主義の拡大が憂慮されていた中、2008年10月には大アルバニア主義の利害国で国内に一定数のアルバニア人を抱えるモンテネグロと、マケドニア紛争の当事国である北マケドニアがコソボを承認した[18]。

人口の3割以上をセルビア人が占めるモンテネグロでは激しい反発が起こり、首都ポドゴリツァでは大規模な抗議集会が行われた[19]。

その一方で、セルビア政府はコソボの分離独立を「永遠に認めない」と明言しており、2008年の国連総会では、同国の要請を受けて国際司法裁判所に独立の是非の判断を求めた。
ロシアもコソボの独立をセルビア政府の合意なしには承認しない意向で[20]、中国もこれに同調しており、国連安全保障理事会で拒否権を持つ両国の反対により、国際連合安全保障理事会での承認は困難となっている。

またインドやスペインなどの少数民族の独立運動の問題を抱えている国々も承認しない意向を表明している。「大アルバニア」の利害国としては、ギリシャが承認を行っていない。

日本は2008年3月18日、コソボを国家として承認。2009年2月25日、外交関係を開設した[21]。

独立承認国

コソボを国家承認している国

詳細は「コソボ地位問題」を参照

2016年7月時点で、コソボはアメリカ合衆国、イギリス、ドイツ、フランス、日本など113か国から承認を受けている[22]。一方で、セルビアをはじめ、ロシア、中国、スペイン、キプロス、ギリシャ、ルーマニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、スロバキア、ジョージア、ウクライナ、ブラジル、アルゼンチン、チリ、インド、インドネシア、南アフリカなどが承認していない。

2010年7月22日には、国際司法裁判所がコソボのセルビアからの独立宣言を「国際法違反にはあたらない」と判断した[23]。国際司法裁判所の判断は勧告的意見とされ、法的な拘束力はないものの、承認するか否かを決めかねていた国際社会には大きな判断材料になると同時に、民族自決を掲げる少数民族の分離独立に大きな影響を与えるとされる[24]。

独立を承認している国・地域一覧

ヨーロッパ

アルバニアの旗 アルバニア (2008年2月18日)
フランスの旗 フランス (2008年2月18日)
イギリスの旗 イギリス (2008年2月18日)
 ラトビア (2008年2月20日)
ドイツの旗 ドイツ (2008年2月20日)
 エストニア (2008年2月21日)
イタリアの旗 イタリア (2008年2月21日)
 デンマーク (2008年2月21日)
ルクセンブルクの旗 ルクセンブルク (2008年2月21日)
ベルギーの旗 ベルギー (2008年2月24日)
ポーランドの旗 ポーランド (2008年2月26日)
スイスの旗 スイス (2008年2月27日)
 オーストリア (2008年2月28日)
アイルランドの旗 アイルランド (2008年2月29日)
 スウェーデン (2008年3月4日)
オランダの旗 オランダ (2008年3月4日)
アイスランドの旗 アイスランド (2008年3月5日)
スロベニアの旗 スロベニア (2008年3月5日)
 フィンランド (2008年3月7日)
モナコの旗 モナコ (2008年3月19日)
 ハンガリー (2008年3月19日)
クロアチアの旗 クロアチア (2008年3月19日)
 ブルガリア (2008年3月20日)
リヒテンシュタインの旗 リヒテンシュタイン (2008年3月25日)
 ノルウェー (2008年3月28日)
 リトアニア (2008年5月6日)
サンマリノの旗 サンマリノ (2008年5月12日)
 チェコ (2008年5月21日)
マルタの旗 マルタ (2008年8月22日)
ポルトガルの旗 ポルトガル (2008年10月7日)
モンテネグロの旗 モンテネグロ (2008年10月9日)
北マケドニア共和国の旗 北マケドニア (2008年10月9日)
Flag of the Order of St. John (various).svg マルタ騎士団 (2009年6月1日)
アンドラの旗 アンドラ (2011年6月8日)

アジア

トルコの旗 トルコ (2008年2月18日)
アフガニスタンの旗 アフガニスタン (2008年2月18日)
中華民国の旗 中華民国(台湾) (2008年2月19日)
日本の旗 日本 (2008年3月18日)
大韓民国の旗 韓国 (2008年3月28日)
アラブ首長国連邦の旗 UAE (2008年10月14日)
マレーシアの旗 マレーシア (2008年10月30日)
モルディブの旗 モルディブ (2009年2月19日)
サウジアラビアの旗 サウジアラビア (2009年4月20日)
バーレーンの旗 バーレーン (2009年5月19日)
ヨルダンの旗 ヨルダン (2009年7月7日)
カタールの旗 カタール (2011年1月7日)
オマーンの旗 オマーン (2011年2月4日)
クウェートの旗 クウェート (2011年10月11日)
ブルネイの旗 ブルネイ (2012年4月25日)
東ティモールの旗 東ティモール (2012年9月20日)
パキスタンの旗 パキスタン (2012年12月24日)
イエメンの旗 イエメン (2013年6月11日)
タイ王国の旗 タイ (2013年9月24日)
シンガポールの旗 シンガポール (2016年12月1日)
バングラデシュの旗 バングラデシュ (2017年2月27日)
イスラエルの旗 イスラエル (2020年8月4日)

アメリカ州

コスタリカの旗 コスタリカ (2008年2月18日)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 (2008年2月18日)
ペルーの旗 ペルー (2008年2月22日)
カナダの旗 カナダ (2008年3月18日)
 コロンビア (2008年8月4日)
ベリーズの旗 ベリーズ (2008年8月7日)
パナマの旗 パナマ (2009年1月16日)
ドミニカ共和国の旗 ドミニカ共和国 (2009年7月10日)
ホンジュラスの旗 ホンジュラス (2010年9月3日)
セントルシアの旗 セントルシア (2011年8月19日)
ハイチの旗 ハイチ (2012年2月10日)
セントクリストファー・ネイビスの旗 セントクリストファー・ネイビス (2012年11月28日)
ドミニカ国の旗 ドミニカ国 (2012年12月11日-2018年11月2日)
ガイアナの旗 ガイアナ (2013年3月16日)
エルサルバドルの旗 エルサルバドル (2013年6月29日)
グレナダの旗 グレナダ (2013年9月25日-2018年11月4日)
アンティグア・バーブーダの旗 アンティグア・バーブーダ (2015年5月20日)
ベリーズの旗 ベリーズ (2016年4月30日)
スリナムの旗 スリナム (2016年7月8日-2017年10月27日)
バルバドスの旗 バルバドス (2018年3月9日)
 コロンビア (2019年3月9日)

アフリカ

セネガルの旗 セネガル (2008年2月18日-2020年3月2日)
ブルキナファソの旗 ブルキナファソ (2008年4月23日)
リベリアの旗 リベリア (2008年5月30日)
シエラレオネの旗 シエラレオネ (2008年6月11日)
ガンビアの旗 ガンビア (2009年4月7日)
コモロの旗 コモロ連合 (2009年5月14日-2018年11月1日)
マラウイの旗 マラウイ (2009年12月14日)
モーリタニアの旗 モーリタニア (2010年1月12日)
エスワティニの旗 エスワティニ (2010年4月12日)
ジブチの旗 ジブチ (2010年5月8日)
ソマリアの旗 ソマリア (2010年5月19日)
ギニアビサウの旗 ギニアビサウ (2011年1月10日)
中央アフリカ共和国の旗 中央アフリカ (2011年7月22日-2019年7月19日)
ギニアの旗 ギニア (2011年8月12日)
ニジェールの旗 ニジェール (2011年8月15日)
ベナンの旗 ベナン (2011年8月18日)
ガボンの旗 ガボン (2011年9月15日)
コートジボワールの旗 コートジボワール (2011年9月16日)
ガーナの旗 ガーナ (2012年1月23日-2019年11月7日)
チャドの旗 チャド (2012年6月1日)
ブルンジの旗 ブルンジ (2012年10月16日-2018年2月15日)
タンザニアの旗 タンザニア (2013年5月29日
 エジプト (2013年6月26日)
リビアの旗 リビア (2013年9月25日)
レソトの旗 レソト (2014年2月11日-2018年10月16日)
トーゴの旗 トーゴ (2014年7月11日-2019年6月28日)
ガンビアの旗 ガンビア (2016年9月23日)
マダガスカルの旗 マダガスカル (2017年10月24日-2018年11月7日)
ギニアビサウの旗 ギニアビサウ (2018年7月19日)

オセアニア
※コソボ共和国はパプアニューギニアとは2018年7月6日まで、ソロモン諸島とは2018年11月まで、パラオとは2019年1月まで、ナウルとは2019年11月まで外交関係を持っていた。

オーストラリアの旗 オーストラリア (2008年2月19日)
マーシャル諸島の旗 マーシャル諸島 (2008年4月17日)
ナウルの旗 ナウル (2008年4月23日-2019年11月13日)
サモアの旗 サモア (2008年9月15日)
ミクロネシア連邦の旗 ミクロネシア (2008年12月5日)
パラオの旗 パラオ (2009年3月6日-2019年1月17日)
ニュージーランドの旗 ニュージーランド (2009年11月9日)
バヌアツの旗 バヌアツ (2010年4月28日)
キリバスの旗 キリバス (2010年10月21日)
ツバルの旗 ツバル (2010年11月18日)
パプアニューギニアの旗 パプアニューギニア (2012年10月3日-2018年7月6日)
フィジーの旗 フィジー (2012年11月19日)
トンガの旗 トンガ (2014年1月15日)
ソロモン諸島の旗 ソロモン諸島 (2014年8月13日-2018年11月28日)
クック諸島の旗 クック諸島 (2015年5月18日)
ニウエの旗 ニウエ (2015年6月23日)

国際関係

詳細は「コソボの国際関係(英語版)」を参照

独立を宣言して以降、コソボは上記のような承認国の拡大と国際機関への加盟を追求してきた。

ハシム・サチ大統領はセルビアとの関係正常化と、欧州連合や北大西洋条約機構への加盟を希望すると表明している[25]。

前述のように、セルビアはコソボの独立を認めていないが、近年ではセルビア系住民が多数派を占めるコソボ北部とアルバニア系住民が多数派を占めるセルビア南部を交換し、両国の関係正常化を目指すといった動きを見せており、全くの没交渉ではない[26]。

EUの仲介などにより、コソボ北部のセルビア人保護などについて交渉や政府間合意を行っている。2020年には、米国の仲介で21年ぶりの空路再開で合意した[27]。

詳細は「セルビアとコソボの関係」を参照

アルバニア人を主体とし、公用語の一つとしてアルバニア語を共有するアルバニアとは特別な関係にある。アルバニアは1992年にコソボ共和国が独立を宣言した際、独立を承認した数少ない国の一つであった。2008年2月にコソボが独立を宣言した際にも最初に同国の独立を承認した国の一つである。

詳細は「アルバニアとコソボの関係(英語版)」を参照

日本との関係

詳細は「日本とコソボの関係」を参照
駐日コソボ大使館
詳細は「駐日コソボ大使館」を参照

住所:東京都港区西新橋三丁目13-7 VORT虎ノ門サウスビル10階
アクセス:東京メトロ日比谷線虎ノ門ヒルズ駅

コソボ大使館が入居するビル

コソボ大使館が入居するビル
コソボ大使館は10F

コソボ大使館は10F

地方行政区画

コソボの郡

詳細は「コソボの郡」および「コソボの都市の一覧」を参照

コソボは全体で7つの郡(ラヨーニ (Rajoni) / オクルグ (Okrug) )に分けられている。1999年にUNMIKの保護下に入った後の2000年に、UNMIKによってセルビア統治時代の5郡から7郡へと再編された。それぞれの郡の下には、コソボで最小の行政区画である基礎自治体(コムーナ (Komuna) / オプシュティナ (Opština) )が置かれ、全国で30の基礎自治体がある。

経済

首都プリシュティナ
詳細は「コソボの経済(英語版)」を参照

通貨はユーロが使われているが、欧州中央銀行(ECB)と正式な導入協定を結んではいない。

2018年の国内総生産(GDP)は約79億ドルであり[3]、経済的にはヨーロッパの後進地域である。主要産業は農業で、土地が肥沃な盆地部では大麦、小麦、トウモロコシ、タバコが生産される。

鉱物資源が豊かで、トレプチャの亜鉛鉱山はヨーロッパでも最大級の規模を誇る。

その他にも石炭、銀、アンチモン、鉄、ボーキサイト、クロムなどが産出される。石炭のうち褐炭が豊富で、それを燃やす火力発電が電力の95%を賄う[28]。このため電力料金はヨーロッパで最も安い水準だが、設備の老朽化などにより停電が多く、大気汚染が深刻であり、温室効果ガスである二酸化炭素の排出削減も困難な現実がある[28]。

2011年時点でGDP成長率は5%程度であるが、貧しい者も多く、ヨーロッパの最貧国の1つである。

失業率は3割とヨーロッパ最悪の水準。特に若者では6割にも達しており、犯罪や国外移民、さらに中東へ渡ってのテロ組織「ISIL」参加などの問題を生んでいる[29]。国連の調査では、2013年時点でGDPの16%が、国外に住む国民縁者からの送金である。自分達の稼ぎでは生活が成り立たない者も多く、全世帯の25%は、この国外からの送金に頼って生活している[30]。

インターネットは普及途上で、ホームページすら持たない企業も多い[31]。

政治

プリシュティナの政府ビル
詳細は「コソボの政治(英語版)」を参照

国連安保理決議1244により国際連合コソボ暫定行政ミッション (UNMIK) の暫定統治下にあり、出入国管理、国境警備も当初はUNMIKが行っていた。UNMIKの下にコソボ住民による暫定自治諸機構(Provisional Institutions of Self Government、PISG)が2001年から置かれている。

独立後は国連コソボ暫定行政ミッションに代わって、EUを中心に組織される文民行政団「国際文民事務所」を派遣し、一定の行政的役割を担わせる意向をEUが示している[32]。ただし、安保理決議によって派遣されている国連コソボ暫定行政ミッションを撤退または大幅に縮小させるには安保理の決議を経る必要があるとの見解もあり、独立そのものに慎重な姿勢を示しているロシアの承認を得る必要がある。

2008年2月、コソボは独立を宣言した。前述のように、コソボの独立を承認するか否かの対応は国により異なるが、UNMIKの役割は大幅に縮小され、警察・関税・司法の分野における任務をEUのCFSPミッション(European Union Rule of Law Mission in Kosovo、EULEX)が引き継いだ。

議会

詳細は「コソボ議会」を参照

1院制(定数120名)[21]
構成(2019年10月選挙。
任期4年) 政党(会派)名 議席数
自己決定運動 29議席
コソボ民主同盟 28議席
コソボ民主党 24議席
コソボ未来連合 13議席
セルビア人統一候補 10議席
少数民族グループ 10議席
諸派 6議席
「コソボの政党(英語版)」も参照
軍事

コソボ独自の軍事力として、治安軍を有している。
詳細は「コソボ治安軍」および「コソボ防護隊」を参照

またコソボ紛争終結に伴い、北大西洋条約機構(NATO)加盟国を主体とするKFOR(コソボ治安維持部隊)が駐留している。

コソボ議会は2018年12月14日、治安軍を軍に昇格させる法律を成立させた。アメリカ合衆国のドナルド・トランプ政権による支持を背景としている。これに対して中国の支持を背景とするセルビアとセルビアを支援するロシア連邦は反発し、地域の不安定化を懸念するNATOや欧州連合(EU)も批判的である[33]。

ユーゴスラビアやセルビアへの武力抵抗を担った組織については「コソボ解放軍」を参照。

住民

アルバニア人の子供(プリシュティナにて)
詳細は「コソボの人口統計(英語版)」を参照

民族構成は以下の通りである。

アルバニア人: 92%
セルビア人: 4%
ボシュニャク人およびゴーラ人: 2%
トルコ人: 1%
ロマ: 1%

オスマン帝国時代の統治により、コソボのアルバニア人の比率は高かった。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争後にセルビアがコソボの分離運動を抑えるために、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で難民となったセルビア人をコソボに入植させた。

これによって一時的にコソボ内のセルビア人の割合は高くなったが、逆にアルバニア人の反感を招き、本格的な紛争に発展した。

コソボ紛争により、コソボ内のセルビア人は約20万人がコソボ外に国内避難民として退去、紛争終了後も治安問題、就職困難などの理由で難民帰還はほとんど進んでいない。

現在、セルビア人はミトロヴィツァ市北側をはじめコソボの北部に多く住んでいる他、中・南部にもセルビア人が住む居住地が飛地状に点在している。

コソボの独立を良しとしないセルビア系住民は、2008年6月28日に独自議会の設立を宣言した。北部のセルビア人はコソボの統合に反対しセルビアから行政サービスを受けていたが、2013年のコソボ・セルビア間の合意を受けて同年に実施されたコソボの統一地方選挙に紛争後初めて参加した[21]。

このコソボ・セルビア間合意により、ミトロヴィツァなど北部のセルビア人居住地域でも、セルビア共和国が管轄していた警察・司法権限がコソボ側へ移されている。EU加盟を目指すセルビア政府の外交政策が影響しているとみられるが、コソボ内のセルビア人には「見捨てられる」との懸念が強まっている[34]。

言語

コソボの公用語はアルバニア語とセルビア語で、法律は英語でも翻訳版が作られている[35]。大多数を占めるアルバニア人はアルバニア語を使い、日常生活ではアルバニア語の2大方言のうちの、地続きのアルバニア北部で使われるゲグ方言に分類される言葉を使う。
宗教

「コソボの宗教(英語版)」を参照

アルバニア人住民の大半がイスラム教を信仰している。ローマ・カトリック信者も存在する。セルビア人住民はセルビア正教を信仰している。

婚姻

婚姻の際には、婚姻前の姓を保持する(夫婦別姓)、配偶者の姓への改姓(夫婦同姓)、複合姓より選択できる[36]。

スポーツ

詳細は「コソボのスポーツ(英語版)」を参照
「オリンピックのコソボ選手団」も参照

サッカー

詳細は「コソボのサッカー(英語版)」を参照

コソボ国内ではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、1945年にサッカーリーグのライファイゼン・スーペルリーガが創設されている。コソボサッカー連盟(FFK)は、2015年と2016年にUEFAとFIFAにそれぞれ加盟を果たしている。サッカーコソボ代表は、FIFAワールドカップ予選には2018年大会・予選から参加しており、2022年大会・予選もグループ最下位で敗退し本大会への出場の夢は未だ叶っていない。

著名な出身者
詳細は「コソボ人の一覧」を参照』

オデッサ

オデッサ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%B5

 ※ 「歴史」のみを、ざっと紹介する。

『歴史

建設以前

オデッサ、およびその周辺にはキンメリア人、サルマタイ人、スキタイ人、ギリシア人、スラヴ人が居住していた[14]。オデッサが位置する場所にはタタール人によってカチベイ(ロシア語版)という集落が形成され、15世紀にオスマン帝国によってカチベイの跡地に建設されたハジベイという集落がオデッサの直接の起源にあたる[7][15]。1764年にハジベイにエニ・ドゥニア要塞が建設された[7]。

露土戦争の過程で1789年にロシア帝国はハジベイを占領し、1792年に締結されたヤシ条約によって正式にロシア領に編入された。露土戦争に従軍した海軍中将ホセ・デ・リバス(英語版)、オランダ人技師デ・ヴォラン(英語版)らは皇帝エカチェリーナ2世にハジベイに港を建設することを進言し、1794年から港の建設が開始される[16]。1795年にハジベイは「オデッサ」に改称される[7][8]。

ロシア帝国時代

トーマス・ローレンスによるリシュリュー公爵の肖像画
1905年に撮影されたポチョムキン号

エカチェリーナ2世の死後に帝位に就いたパーヴェル1世はリバスを首都ペテルブルクに召還し、オデッサに与えられていた補助金と特権が廃止される。パーヴェル1世の跡を継いだアレクサンドル1世はオデッサの経営に関心を示し、1803年にフランス人アルマン・エマニュエル・リシュリューをオデッサの長官に任命した[17]。また、移民の誘致と並行して、貿易の振興に必要な港湾施設の整備、税制の優遇政策が実施された[18]。リシュリューの下でオデッサは劇的に発展し、1803年当時9,000人だった人口は1813年の時点で35,000人に増加し、1804年に2,340,000ルーブルだった輸出総額は1813年には8,860,000ルーブルに増加する[19]。1812年8月から1814年2月にかけてオデッサでペストが流行し、人口の2割程度が死亡したと推定されている[20]。1814年9月にリシュリューはオデッサ長官の職を辞し、フランスに帰国した。

1819年にオデッサは自由貿易港に定められ、1823年にノヴォロシア総督に就任したミハイル・セミョーノヴィチ・ヴォロンツォフの下で自由貿易港となったオデッサは飛躍的な発展を遂げる[21]。ヴォロンツォフは経済の振興以外に文化事業、慈善事業にも力を注ぎ、彼の在任中に考古学博物館、救貧院、孤児院、聾盲学校が設立され、有力紙となる『オデッサ報知』が創刊される[22]。雨後の筍に例えられる急速な発展を遂げたオデッサは「幼年期を持たない都市」とも呼ばれ、19世紀後半に入った後にも成長は続く[23]。

また、ペテルブルクからの追放処分を受けていた詩人アレクサンドル・プーシキンは、オデッサ滞在中の一時期ヴォロンツォフに仕えていた。プーシキンとヴォロンツォフの妻は恋仲になり、ヴォロンツォヴァ夫人がプーシキンに贈ったヘブライ文字が刻まれた指輪はオデッサに伝説を残した[24]。

プーシキンが指輪を持ち帰ったにもかかわらず、指輪はオデッサに残されていると信じられ、指輪がオデッサを守護し続けていると言われている[24]。

1853年から1856年にかけてのクリミア戦争においてオデッサも戦渦に巻き込まれ、1854年に4月10日にイギリス・フランス合同艦隊の砲撃によって死傷者が出、ヴォロンツォフ宮殿などの建築物も被害を被った[23]。

砲撃を受けてもオデッサは抵抗を続け、防御を突破できなかった合同艦隊はやむなく退却する[23]。クリミア戦争時にイギリスのフリゲート艦から奪取した大砲は海並木通りに置かれ、当時の記憶をとどめている[23]。

19世紀末にオデッサはペテルブルク、モスクワ、ワルシャワに次ぐロシア帝国第四の都市に発展し[5]、ペテルブルクに次ぐ貿易港となる[7]。

1865年に鉄道が開通し、オデッサ大学の前身であるノヴォロシア大学が開校した。生活用水の需要を満たすために1873年にドニエストル川の水を汲み上げる設備が建設され、翌1874年に大規模な下水道が完成する[25]。上下水道の整備、市当局による環境・衛生状態の調査によりオデッサはロシアを代表する衛生的な都市として知られるようになる[26]。

1875年にロシア初の労働者の政治組織とされる南ロシア労働者同盟がオデッサで結成され、1900年にはロシア社会民主労働党オデッサ委員会が設立された[27]。

1905年から1907年にかけてのロシア第一革命ではオデッサは革命運動の一拠点となり、1905年6月には水兵による反乱が起きたポチョムキン号が入港する。

革命後に町は落ち着きを取り戻し、穀物輸出と工業生産が上向きを見せ始めた[27]。1914年に第一次世界大戦が勃発した後、オスマン帝国によってダーダネルス海峡が封鎖されたためにオデッサの対外貿易は停止し、町は爆撃を受ける[27]。

ソビエト連邦時代

1917年の二月革命後のオデッサには臨時政府、ソビエト権力、ラーダなどのウクライナ民族派が並立し、それらの勢力に外国の干渉軍も加わって支配権を争った。

1918年1月にソビエト政権が支配権を握るが、3月から11月にかけてドイツ・オーストリア軍がオデッサを占領した。

ウクライナ民族派のディレクトーリヤの支配を経て、1919年4月までイギリス・フランス連合軍の占領下に置かれる。

1919年8月から1920年2月まで反革命勢力のアントーン・デニーキンがオデッサを制圧するが、デニーキンはソビエト軍に破れ、1920年2月7日にオデッサにソビエト政権が樹立された。

二月革命からソビエト政権の樹立に至るまでの騒乱はオデッサの経済に大きな痛手を与え、町の建築物の4分の1が破壊されたと言われている[28]。

1914年当時のオデッサは630,000人の人口を擁していたがボリシェヴィキ政権を避けて多くの人間がロシア国外に脱出し、さらに1921年から1922年にかけての大飢饉が町の衰退をより進め、1924年に人口は324,000人に減少していた[28]。

ソビエト連邦時代にオデッサはウクライナ・ソビエト社会主義共和国オデッサ州の州都に定められる。

第二次世界大戦期においては、1941年8月5日にドイツ・ルーマニア軍がオデッサを攻撃し、2か月以上の戦闘の末にソ連軍はセヴァストポリに撤退した(オデッサの戦い (1941年))。

1941年10月16日から1944年4月10日までオデッサはナチス・ドイツ、ルーマニア連合軍の占領下に置かれ、複雑に入り組んだ地下の石灰岩の採掘跡を拠点としてパルチザン活動が行われた[29]。

第二次世界大戦中にオデッサの多くの建物が破壊され、280,000に及ぶ人間が虐殺・連行されたが、犠牲者の多くはユダヤ人だった[30]。ドイツ軍に対するオデッサ市民の抵抗を顕彰され、戦後町は英雄都市の称号を与えられた。

オデッサの工業は第二次世界大戦後も成長し、1970年代には新しい港湾施設が建設された[30]。1970年代後半に人口は1,000,000人に達し、ソ連時代末期の1989年には1,115,000の人口を擁していた[30]。

オデッサの戦いにおいて構築されたバリケード

オデッサの戦いにおいて構築されたバリケード
ソビエト連邦期に発行された「英雄都市」オデッサの切手

ルーマニア陸軍, オデッサ

ウクライナ独立後

ソビエト連邦崩壊後のオデッサには一時的に経済的に困窮した時期が訪れる[31]。2000年3月にオデッサの商業活動を振興するため、約140年ぶりに自由貿易港に指定された[31]。
2014年の親ロシア派騒乱では、オデッサでも暴力の伴う衝突が起こった。

2014年5月2日の衝突事件では親ウクライナ派と親ロシア派との間で42人の死者が出た。抗議中に4人が殺害され、火炎瓶の投げ合いによって労働組合庁舎に火がついたことで少なくとも32人の労働組合員が死亡した[32][33]。2014年の9月から12月の間に行われた調査では、オデッサ市民にロシアへの編入を支持する者はいなかった[34]。

2021年8月、旧ソ連の独裁者ヨシフ・スターリンによる「大粛清」の犠牲者とみられる数千人の遺骨がオデッサで発見された。これらの遺骨について、国立記憶研究所の地方館長を務めるセルギー・グツァリュク(Sergiy Gutsalyuk)は、国家保安委員会(KGB)の前身かつスターリンの秘密警察として知られた内務人民委員部(NKVD)が1930年代に処刑した人々のものではないかとみている[35]。

ロシアによる侵攻が始まった2022年7月には、オデーサ(オデッサ)でロシア皇帝エカテリーナ2世の像を撤去してゲイポルノ俳優のビリー・ヘリントンの像を立てるよう要求する署名に2万5000人以上が署名した[36]。ロシアの国営テレビはこの署名運動やウクライナでの「ガチムチ」の流行を「米欧に洗脳された染まったウクライナ市民の異常な価値観」として批判している[37]。 』

アルナーチャル・プラデーシュ州

アルナーチャル・プラデーシュ州
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%87%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A5%E5%B7%9E

『アルナーチャル・プラデーシュ州(アルナーチャル・プラデーシュしゅう、ヒンディー語:अरुणाचल प्रदेश 英語: Arunachal Pradesh)は、主にヒマラヤ山脈東部の中国、インドの国境紛争地帯において、インドが実効支配している領域に設置された州。

地理

ほぼ北海道の面積に等しい。南はアッサム州、東はミャンマー、北は中華人民共和国(チベット自治区)、西はブータンと接する。現在中華人民共和国政府はこの州の大半の領有を主張して蔵南地区と呼んでおり、名目上、西蔵自治区ロカ市のツォナ・ゾン(錯那県)、ルンツェ・ゾン(隆子県)、ニャンティ市のメトク・ゾン(墨脱県)、ザユル・ゾン(察隅県)などの各ゾンに分割して帰属させている。

地方行政区分

詳細は「アルナーチャル・プラデーシュ州の県(英語版)」を参照
アルナーチャル・プラデーシュ州の行政区分

アンジャウ県(英語版) (Anjaw District)
チャンラン県(英語版) (Changlang District)
東カメン県(英語版) (East Kameng)
東シアン県(英語版) (East Siang)
クルン・クマイ県(英語版) (Kurung Kumey)
ローヒト県(英語版) (Lohit District)
低ディバン谷県(英語版) (Lower Dibang Valley)
低スバンシリ県(英語版) (Lower Subansiri)
パプム・パレ県(英語版) (Papum Pare) - 州都イーターナガルの所在地
タワン県 (Tawang District)
ティラプ県(英語版) (Tirap District)
上ディバン谷県(英語版) (Upper Dibang Valley)
上スバンシリ県(英語版) (Upper Subansiri)
上シアン県(英語版) (Upper Siang)
西カメン県(英語版) (West Kameng)
西シアン県(英語版) (West Siang)

歴史

「7姉妹州」も参照

この州が位置する地方がインドの管轄下となり、中国との国境紛争地帯となった発端は、1910年代半ばに開催されたシムラ会議と、ここで提示されたシムラ協定にさかのぼる。
シムラ会議の背景とシムラ協定

1922年の国境線

辛亥革命によって同君連合としての政体で君臨していた清朝が滅亡し、その遺領の再編が問題になった際、チベットとモンゴルの民族政権は、「文殊皇帝」(=清朝の皇帝)が退陣した結果、その支配下にあった中国、チベット、モンゴルなどの諸国はそれぞれ対等、別個の国家となったという立場をとり、チベット、モンゴルの二国がそれぞれ独立国家として国際承認を受けることを目指し、国際社会への働きかけに着手した。

一方、漢人共和主義者たちは、自分たちがつくる共和国を、単に漢人の土地のみを国土とする漢人国家とはせず、清朝に臣属していた諸民族の分布領域を枠組とする中国を設定し、自身の共和政権を、その「中国」の「中央政府」と位置づける立場をとり、チベット、モンゴルの民族政権の服属を目指してそれぞれと戦火を交えた。

この紛争を調停するべく、モンゴルにはロシア、チベットにはイギリスが後ろ盾となって開催されたのが、シムラ会議(1913年-1914年)、キャフタ会議(1915年5月15日)である。

この二つの会議では、チベット、モンゴルを独立国家としては承認せず、中華民国の宗主権下で完全な内政自治を行使するにとどめること、チベットの青海、西康部分、モンゴルの内蒙古部分は中国政府の統治下におかれ、チベットとモンゴルの両民族政権はそれぞれの国土の中核部分(チベットは西蔵部分、モンゴルは外蒙古部分)だけを管轄すること、などを骨子とする協定案が、それぞれまとめられた。

1911年に辛亥革命を経て清朝の主権が弱体化したことを契機としてモンゴルで独立運動が高揚し、モンゴルのハルハ地方(外蒙古)の諸王公はロシア帝国の力を頼って清からの独立を決意し、1912年に新たにモンゴル国(ボグド・ハーン政権)が成立した。

1913年-1914年のシムラ会議では、ガンデンポタン(=チベット政府)が内政自治権を行使する領域の境界について合意が成らず、シムラ条約の批准(1914年)はイギリス、チベットの2者のみの参加にとどまった。

チベットと中国(北京政府)の紛争を調停したシムラ会議で、イギリスの全権をつとめたマクマホン卿は英領インドのアッサム地方とチベットとの境界をチベット側に受諾させた。これがマクマホンラインである。

以後もチベットと中国との間では、しばしば戦火を交える緊張状態が続く。

1915年のキャフタ会議では、中国(北京政府)、ロシア帝国、モンゴル国(ボグド・ハーン政権)がキャフタ協定を調印、批准して、以後この協定にもとづく安定した関係が築かれた。

マクマホンラインに対する中国の対応と中印国境紛争

マクマホンラインはチベット系住民の分布領域の境界より相当北方に位置するヒマラヤの嶺線付近に引かれた実効支配線である。

このことから、チベットを中国の一部分だと主張する中華民国の歴代政権、中華人民共和国政府ともこのラインを中国とインドとの国境として承認することを拒否、1959~1960年にかけては、インドと中華人民共和国政府の間で武力衝突が勃発するに至っている(詳細は中印国境紛争を参照)。

この紛争では、東西の紛争地帯でいずれも中国軍がインド軍を圧倒、中国は、西部紛争地域(アクサイチン地区)では自身が主張する領域に実効支配を確立する一方、東部紛争地域では、一時的には全域を確保しながら、一方的にマクマホンライン以北へ撤兵した。

アルナーチャル・プラデーシュ州の成立

インドは1954年以来、この地方を東北辺境地区(英語版)として管理してきたが、中国との武力衝突以後、この地域に対する実効支配をより強固にする政策を取ってきた。

インフラの整備につとめ、学校教育もヒンドゥー語に加えて英語も重要な科目と位置づけた。

1987年にはこの地にアルナーチャル・プラデーシュ州を設け、現在に至っている。

一方で習近平政権は中国固有の領土と主張して、蔵南地区(南チベット地区)に変えた。 』

イラン系民族

イラン系民族
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3%E7%B3%BB%E6%B0%91%E6%97%8F

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

イラン系民族Iranian languages distribution.png
総人口
104–106 百万[1]
居住地域
イラン、イラン高原, アナトリア, 南アジア西部, 中央アジア, カフカス .
言語
印欧語族イラン語派
宗教
イスラム教が大勢

イラン系民族(イランけいみんぞく、Iranian peoples)とは、インド・ヨーロッパ語族イラン語派の言語を話す民族の総称である。

イラン祖語はインド・ヨーロッパ語族の下位言語として中央アジアにおいて起元前2千年紀に誕生したと考えられる[2][3]。紀元前1000年紀に分布が最大になった時には、イラン系民族の分布範囲はイラン高原を超えて西はハンガリー平原、東はオルドス平原に至るユーラシア・ステップ全域に及んだ[4] 。

当時は西イラン語群系のペルシャ帝国が古代史において覇権を握っており、文化的に大きな影響を残した。東イラン語群系の遊牧民はステップの騎馬文化やシルクロードにおいて大きな役割を果たした[2]。古代のイラン系民族にはアラン人、バクトリア人、ダアイ、マッサゲタイ、en:Medes、ホラズム、パルティア、サカ族、サルマタイ、スキタイ、ソグド人などが含まれる。

紀元後1000年までに、イラン系民族の分布域は、スラヴ系民族、ラテン系民族、ゲルマン系民族、アラブ系民族、テュルク系民族、モンゴル系民族、チベット系民族の拡大にとって代わられるかたちで減少していき、多くはスラヴ化した[5][6][7][8] 。

現在のイラン系民族はバロチ族、クルド人、ロル族、オセット人、タート人、パシュトゥーン人、パミール人、ペルシャ人、タジク人などが含まれる。現在の分布域はイラン高原からコーカサス、新疆にかけてである[9] 。

遺伝子
イラン系民族に関連するY染色体ハプログループとしてR-Z94が想定される。 』

チリ(再掲)

チリ(再掲)
https://http476386114.com/2022/05/06/%e3%83%81%e3%83%aa/

チリ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%AA

 ※ 画像は、別のサイト(※ 「チリの地理(英文)」だったかな…。)から収集した。

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

曖昧さ回避 「チリ」のその他の用法については「チリ (曖昧さ回避)」をご覧ください。

チリ共和国
República de Chile
チリの国旗 チリの国章
(国旗) (国章)
国の標語:Por la razón o la fuerza
(スペイン語:理性によって、または力によって)
国歌:Himno Nacional de Chile(スペイン語)
チリの国歌
2:03
チリの位置
公用語 スペイン語(チリスペイン語)
首都 サンティアゴ[注記 1]
最大の都市 サンティアゴ

政府
    大統領     ガブリエル・ボリッチ
    元老院議長     フアン・アントニオ・コロマ・コレア(スペイン語版)
    代議院議長    ヴラド・ミロシェヴィッチ(スペイン語版)
面積
    総計     756,950km2(37位)
    水面積率     1.1% 
人口
    総計(2020年)     1911万6000[1]人(61位)
    人口密度     25.7[1]人/km2 
GDP(自国通貨表示)
    合計(2020年)     200兆2764億4100万[2]チリ・ペソ 
GDP(MER)
    合計(2020年)     2528億2100万[2]ドル(46位)
    1人あたり     12,992.976[2]ドル
GDP(PPP)
    合計(2020年)     4546億200万[2]ドル(43位)
    1人あたり     23,362.885[2]ドル

独立    スペインより
1818年2月12日
通貨     チリ・ペソ(CLP)
時間帯     UTC-3、-4、-6 (DST:-3、-5)
ISO 3166-1     CL / CHL
ccTLD     .cl
国際電話番号     56

    ^ 立法府(国会)はバルパライソ。

チリ共和国(チリきょうわこく、スペイン語: República de Chile)、通称チリは、南アメリカ大陸南西部に位置する共和制国家。国土はアンデス山脈西側で南北に細長く、東にアルゼンチン、北東にボリビア、北にペルーと隣接する。西は南太平洋、南はフエゴ島を挟んでドレーク海峡に面している。首都はサンティアゴ。アルゼンチンとともに南アメリカ最南端に位置し、国土の大部分がコーノ・スールの域内に収まる。太平洋上に浮かぶフアン・フェルナンデス諸島や、サン・フェリクス島、サン・アンブロシオ島およびポリネシアのサラ・イ・ゴメス島、パスクア島(イースター島)などの離島も領有しており、さらにアルゼンチンやイギリスなどと同様に「チリ領南極」として125万平方キロメートルにも及ぶ南極の領有権を主張している[3](「南極における領有権主張の一覧」参照)。OECD諸国の中で貧困率と経済格差は最も大きい[4]。

国名

1600年ごろのラ・プラタ地方の地図。「Chili」「Chicas」と表記されている。

正式名称はRepública de Chile(レプブリカ・デ・チレ)。通称 Chile(チーレ [ˈt͡siːle]],或いはシーレ[ʃiːle])。公式の英語表記はRepublic of Chile。通称 Chile(チリ /ˈʧɪl(i)/。

日本語の表記はチリ共和国。通称チリ。かつては「チリー」と表記されていたこともあった[5]。漢字表記は智利。日本語での初出は、西川如見『増補華夷通商考』(1708年、宝永5年)に「チイカ」として紹介されるものとされる[6]。その後の江戸時代の文献では、谷川士清『倭訓栞』、斎藤彦麻呂『傍廂』が、それぞれ「智加」という漢字表記を用いている。

国名の由来は諸説ある。植民地時代初期は「Chili」と表記されていたが、17世紀のスペイン人史家ディエゴ・デ・ロサーレス(英語版)によると、インカ人によるアコンカグアにある渓谷の呼称で、元は15世紀にインカ帝国に征服される前、同地を支配していた先住民ピクンチェ族(スペイン語版、英語版)の族長、「ティリ(Tili)」から転じたものとされている。このほか、先住民の言葉で「地の果て」「カモメ」[7]、ケチュア語で「寒い」を意味する「Chiri」、「雪」もしくは「地上最深の場所」を意味する「Tchili」、マプチェ族の言葉で同地に生息する鳥の鳴き声を表す擬音語「cheele-cheele」に由来するなどの説がある[8][9]。

歴史

詳細は「チリの歴史」を参照

チリは1818年にスペインより独立した。1990年のピノチェト軍事独裁政権崩壊後は、ラテンアメリカでは最も経済・生活水準が安定し、政治や労働でも最高度の自由を保っているとされてきたが、21世紀以降は国民の所得格差・不平等、教育への公的予算は中南米でも下位[10]となるなどの諸問題も抱えている。

政治

詳細は「チリの政治(英語版)」を参照
チリ大統領府、モネーダ宮殿
バルパライソの国民議会

政治制度は大統領を元首とする共和制国家であり、三権分立を旨とする議会制民主主義を採用している。行政は大統領を長とする。大統領は4年任期で選挙により選ばれ、2期連続で就任することはできない。内閣の閣僚は大統領が任命する。2006年1月15日に社会党のミシェル・バチェレが大統領に就任した。これはチリ史上初の女性大統領である[11]。2008年現在のチリ憲法は、アウグスト・ピノチェトを最高権力者とする軍政下に制定された1980年憲法である。特徴としては、大統領の権力が強められ、また国政への軍の最高司令官の参加が制度化された。しかし、1988年のピノチェト大統領の信任を問う国民投票に敗北したあと、憲法に対して大統領の権力を弱め、軍部の発言力を抑えるような修正がなされた。憲法の民主的な改正に関する議論は継続され、2005年に再改正された。2022年には制憲議会より大きな政府を志向する新憲法案が提示されたが、9月4日の国民投票で賛成が38%にとどまり否決された[12]。

立法は、両院制であり、議会はバルパライソに所在する。上院は43議席であり、一般投票により選出され、任期は8年。2005年までそのほかに国家安全保障委員会や司法機関、共和国大統領、前大統領などが11名を任命する制度があったが、憲法改正によりこの11議席は廃止された。下院は120議席であり、任期は4年。法案が採択されるには、両院および拒否権を持つ共和国大統領の承認を得なければならない。また両者ともに法案を提議することができるが、これを施行する権限は大統領にしかない点が問題とされている。

司法の最高機関は最高裁判所である。憲法に関する判断は憲法裁判所が行い、憲法に反すると考えられた法律を差し止めることができる。

チリにも公権力の腐敗・汚職がないわけではないが、それは恒常的なものではなく、世界の「透明度」の高い国の上位30か国以内に過去10年間連続してランクづけされており、2017年度のトランスペアレンシー・インターナショナル(TI)による世界腐敗認識指数では26位[13]とウルグアイに次いでラテンアメリカで2番目であった。ラテンアメリカ諸国の中では腐敗しておらず、比較的しっかりした法治国家だと認識されている[14]。

ピノチェト軍事独裁から民政移管した1990年以降の中道左派と中道右派の政権交代の下で、医療・教育・福祉予算を抑える新自由主義路線が維持されてきた[15]。

国際関係

詳細は「チリの国際関係(英語版)」を参照
チリと外交関係を有する諸国の一覧図

独立直後からチリは隣国のペルー、ボリビアに干渉を行ってきた。1836年から1839年までの連合戦争ではペルー・ボリビア連合に終始敵対し、これを崩壊させるのに大きな役割を果たした。その後、1879年にアタカマの硝石資源を巡ってペルー、ボリビア両国に宣戦布告し、この太平洋戦争によって両国から領土を得た。その影響でボリビアは現在でも国交がない。

19世紀を通してチリは経済的にはイギリスと、文化的にはフランスと関係が深かった。この時期にチリ海軍はイギリスの、法や教育はフランスの[16][17][18]、陸軍はプロイセンの影響を強く受けた。

1973年のクーデターにより、チリは軍事政権による人権侵害などのために国際的孤立に陥ったが、民政移管した1990年以来、チリは国際的孤立から復活した。2010年、チリはOECDの31番目の公式加盟国になった。

軍政期の1983年に長年緊張関係が続いており、何度も戦争直前にまで陥った隣国アルゼンチンがラウル・アルフォンシン政権の下でチリとの歴史的な和解を進めてピクトン島、レノックス島、ヌエバ島のチリ領有を認めると、パタゴニアをめぐってのチリの領土問題は解決した。また、太平洋戦争以来続いたペルーとの緊張も収まりつつある。しかし、太平洋戦争で併合したアントファガスタを返還するように求めるボリビアとの緊張はいまだに続いている。

なお、チリはイギリス、アルゼンチンと同様に南極大陸の一部に対して領有権(チリ領南極)を主張している。

2009年3月27、28日の両日、中部の都市ビニャデルマルで欧米(スペイン、イギリス、ノルウェーの首相、アメリカの副大統領)[19]と南米(ブラジル、チリ、アルゼンチン、ウルグアイの大統領)の8か国による首脳会議が開かれた。首脳らは同会議を「進歩派首脳会議」と呼んでいる[20]。会議は、4月20日にロンドンで開かれる第2回20か国・地域首脳会合(G20金融サミット)に向けた意見調整を目的に行われた。各首脳は新たな世界秩序の形成に向けた展望を論議した。同会議は最終宣言を発表した。

日本との関係

詳細は「日本とチリの関係」を参照

1897年に日本チリ修好通商条約が締結され、同年9月25日に外交関係を樹立。太平洋戦争末期の1945年4月11日にチリが対日宣戦布告し断交するものの、サンフランシスコ講和条約締結後の1952年10月17日に外交関係を再開した[21]。

日本とチリは日本・チリ経済連携協定(2007年9月3日発効)を締結している。また、ともに環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定(CPTPP, TPP11協定)の署名国である[22]。ただし、チリは国内手続が遅れ、2022年12月23日に国内手続きの完了を通報したため、CPTPPはチリについては2023年2月21日に発効する[23]。
「在チリ日本国大使館」および「駐日チリ大使館」も参照

軍事

詳細は「チリ軍」を参照
チリ陸軍の装備するレオパルド戦車
チリ海軍のフリゲート艦アルミランテ・ブランコ・エンカラダ (FF-15)

チリの大統領は軍隊の指揮権を有し、軍は国防相と大統領の統制を受けている。また、チリでは徴兵制が実施され、国民は2年間の兵役の義務を有している。陸海空三軍のほかに憲兵(カラビネーロス)が存在し[24][25]、規模は4万人ほどである。また、チリはブラジルに続いて南アメリカで2番目に大きな軍事予算を組んでいる。

伝統的にチリの軍隊は、「軍は憲法の番人である」として、他のラテンアメリカ諸国より政治に介入する頻度は比較的大きくなかったが、アジェンデがスト解決のために軍人を利用し始めたことから崩れ始め、1973年のピノチェト将軍らによるチリ・クーデターにより崩された[26]。その後、軍政期に軍はコンドル作戦や「汚い戦争」などを遂行し、自国民や近隣諸国の反体制派市民の拷問、殺害に携わったが、1990年の民政移管後は、それなりの規模と発言力を保ちながら国民との和解が進められた[27]。

陸軍

チリ陸軍は兵員4万5,000人を有し、サンティアゴに司令部がある。6つの軍管区に分けられ、ランカグアに飛行旅団が、コリナに特殊部隊の司令部がある。チリ陸軍はラテンアメリカでも最も整備され、専門的かつ技術革新の進んだ軍隊の一つである。

海軍

チリ海軍は海兵隊2,300人を含む兵員2万3,000人を有している。29隻の艦艇を有するが、水上戦闘艦艇は内8隻のフリゲートのみである。水上艦隊の母港はバルパライソにある。海軍は輸送と警戒にあたる航空機を保有しているが、戦闘機や爆撃機は有していない。4隻の潜水艦を運用し、潜水艦の基地はタルカワノにある。

空軍

チリ空軍は兵員1万2,500人を有し、それぞれイキケ、アントファガスタ、サンティアゴ、プエルト・モント、プンタ・アレーナスに5つの飛行旅団を置いている。空軍は南極のキング・ジョージ島の基地でも活動している。2006年にF-16が14機、2007年にも14機導入された。なお空軍は、軍政期は警察とともに反軍政派だった。

カラビネーロス

1973年9月の軍事クーデターに参加後、チリ国家警察(カラビネーロス・デ・チレ)は国防省と一体化した。民政移管後に、警察の実質的な指揮権は内務省の下に置かれたが、国防省の名目的指揮下に置かれたままとなった。40,964人[28]の男女が法の執行、交通整理、麻薬鎮圧、国境の管理、対テロ作戦などの任務にチリ国内で従事する。

地方行政区分

詳細は「チリの地方行政区分」を参照

チリは、州監督官(Intendente)を長とする16の州(Region)に分けられる。州はさらにいくつかの県(Provincia)に分割され、それぞれに県知事(Gobernador provincial)が置かれる。県はさらに市町村(Comunas)に分けられ、市(町、村)長がいる[29]。監督官と知事は大統領により任命され、市(町、村)長は一般投票により選ばれる。

1974年に各州には北から南へ順にローマ数字が割り当てられた。しかし首都州は例外的に頭文字のRMとされたこと、またその後に新設された州には位置に関係なく割り振られたことから、当初の意義を失い2018年2月に廃止された[30]。
チリの16州

旧番号 日本語表記 スペイン語表記 州都
XV アリカ・イ・パリナコータ州の旗 アリカ・イ・パリナコータ州 Región de Arica y Parinacota アリカ
I タラパカ州の旗 タラパカ州 Región de Tarapacá イキケ
II アントファガスタ州の旗 アントファガスタ州 Región de Antofagasta アントファガスタ
III アタカマ州の旗 アタカマ州 Región de Atacama コピアポ
IV コキンボ州の旗 コキンボ州 Región de Coquimbo ラ・セレナ
V バルパライソ州の旗 バルパライソ州 Región de Valparaíso バルパライソ
RM 首都州(チリ)の旗 首都州 Región Metropolitana de Santiago サンティアゴ・デ・チレ
VI リベルタドール・ベルナルド・オイギンス州の旗 リベルタドール・ベルナルド・オイギンス州 Región del Libertador General Bernardo O’Higgins ランカグア
VII マウレ州の旗 マウレ州 Región del Maule タルカ
XVI ニュブレ州 Región de Ñuble チヤン
VIII ビオビオ州の旗 ビオビオ州 Región del Biobío コンセプシオン
IX ラ・アラウカニア州の旗 ラ・アラウカニア州 Región de la Araucanía テムコ
XIV ロス・リオス州の旗 ロス・リオス州 Región de Los Ríos バルディビア
X ロス・ラゴス州の旗 ロス・ラゴス州 Región de Los Lagos プエルト・モント
XI アイセン・デル・ヘネラル・カルロス・イバニェス・デル・カンポ州の旗 アイセン・デル・ヘネラル・カルロス・イバニェス・デル・カンポ州 Región Aisén del General Carlos Ibáñez del Campo コイアイケ
XII マガジャネス・イ・デ・ラ・アンタルティカ・チレーナ州の旗 マガジャネス・イ・デ・ラ・アンタルティカ・チレーナ州 Región de Magallanes y de la Antártica Chilena プンタ・アレーナス
主要都市
詳細は「チリの都市の一覧」を参照

主要な都市はサンティアゴ(首都)、バルパライソがある。
地理
チリの地図
地形図
パリナコータ火山
チリ富士と呼ばれる南部のオソルノ山
トーレス・デル・パイネ国立公園
ビーグル水道の氷河
南部の氷河
詳細は「チリの地理(スペイン語版、英語版)」を参照

西部の太平洋との海岸線、東部のアンデス山脈、北部のアタカマ砂漠によって囲まれた国土は南北に細長く、北から南までの総延長は約4,300キロメートルに及ぶ。海岸線に沿ったペルー・チリ海溝では過去にしばしば超巨大地震(チリ地震)が発生して、太平洋対岸にあたる日本の三陸海岸等の環太平洋全域に津波で大きな被害が起きてきた歴史がある(→チリ地震 (1960年))。また、ペルー・チリ海溝に沿う形でプジェウエ=コルドン・カウジェ火山群などの活発な活火山を多数擁している。

北部の砂漠地帯(Norte Grande)では年間を通してほとんど雨が降らない。銅など鉱物資源に富む。ラ・セレナの南から地中海性気候の渓谷地域(Norte Chico)となり、チリの主要輸出品目の一つであるブドウなどの果物の栽培や、最近輸出量が増えてきたワインの生産に適している。19世紀後半から発展した歴史を有するこの国の主要地域であり、人口と農産物が集中する。Zona Central。バルディビアからプエルト・モントまでの南部地域(Zona Sur)は森林地帯の続く牧畜に適した湖水地方であり、火山地域である。年間を通して雨が多い。南緯40度以南(Zona Austral)にはパタゴニアと呼ばれ、沿海部は典型的なフィヨルド地形が形成されている。マゼラン海峡を越えて南にはフエゴ島が存在し、島の西半分がチリ領となっている。南極大陸の125万平方キロメートルの領有権を主張するが(チリ領南極)、南極条約で棚上げとなっている。チリはポリネシアにも領土を有し、サラ・イ・ゴメス島、ロビンソン・クルーソー島とチリ本土から西に3,700キロメートルほど離れてラパ・ヌイ(イースター島)が存在する。最高地点はアンデス山脈のオホス・デル・サラード山の海抜6,893メートル。チリの対蹠地は北・中部が中華人民共和国、南部はモンゴル国、最南部はロシアのシベリアである。
気候
詳細は「チリの気候(英語版)」を参照

気候は幅広く、太平洋上に浮かぶラパ・ヌイ島(パスクア島、イースター島)の亜熱帯から、国土の北3分の1を占め、世界で最も乾燥した砂漠とされるアタカマ砂漠、中央部の肥沃な渓谷地域、そして元々は森林に覆われていた湿度は高いが寒い南部、ツンドラ気候が広がる最南部のパタゴニア地方に大きく分けられる。

チリは南北に大変長細い国であるため、北の方から順に砂漠気候、ステップ気候、地中海性気候、西岸海洋性気候、ツンドラ気候と気候が違っている(南半球であるため亜寒帯は存在しない)。寒流であるペルー海流の影響により、北部でもあまり気温は上がらない。また寒流は西岸砂漠の成因であり、アタカマ砂漠は世界で降水量が最も少ない地域となっている。
時間帯

チリ本土ではUTC-4(マガジャネス・イ・デ・ラ・アンタルティカ・チレーナ州はUTC-3)だが、パスクア島ではUTC-6となっている。また、マガジャネス・イ・デ・ラ・アンタルティカ・チレーナ州を除いて夏時間を実施している。
治安
詳細は「チリにおける犯罪(英語版)」を参照

チリは中南米の国の中では治安が良い国とされてきたが、2013年以降は悪化傾向にあり、貧富の格差の拡大も相まって地方にも犯罪が波及しつつある。そのため防犯意識を持って行動する必要があるとされる[31]。
経済
詳細は「チリの経済(英語版)」を参照

2021年のチリの名目GDPは、世界44位であり、3,167.70億USドルである[32]。チリのGDPは、2000年代から大幅に成長しており、4倍以上の著しい伸び率が見られる[33]。2022年9月時点では、経済活動指数の変動も少なく、国民の生活は比較的安定している[34]。しかし、失業率は7.9%と未だに高い水準であり、日本の3倍以上にもなる[35]。
首都サンティアゴ・デ・チレの景観。サンティアゴ・デ・チレはチリ最大の都市であり、南米有数の世界都市である。

アジア太平洋経済協力(APEC)に加盟しており、メルコスール準加盟国であるゆえに南米共同体にも加盟している。また、ブラジルやアルゼンチンなどともにラテンアメリカで最も工業化された国の一つであり、域内ではベネズエラ、アルゼンチン、ブラジル、メキシコとともに中進国とされ、2007年からOECD加盟に向けて交渉を進め、2010年5月7日に加盟を果たした。

経済はほとんど輸出により成り立っている[36]。輸出品目の第2位は農業関連製品で、第1位は以前より世界一の生産量を誇る銅である。1970年代初頭は輸出品の70%を銅が占めていたが、現在は40%とその重要度は低下している。最近では、各地で産出される良質なワイン、サーモン、木材パルプの輸出が始められた[37]。

チリ北部の主要産業は鉱業であるが、南部には大規模な農業、酪農がある。バルパライソといった主要港のある中央部にはサービス業と工業が集中している。チリのサービス業部門は大きく、世界で最も自由化され先端をいく通信インフラが整っている。1990年代のにわか景気では、毎年7 – 12%の経済成長を記録したが、1997年のアジア通貨危機以降は、年3%にまで落ち着いた。

近年、欧州連合(EU)、アメリカ合衆国、カナダ、メキシコ、韓国などと自由貿易協定を結んでいる。日本のほかカナダ、メキシコやニュージーランド、オーストラリア、シンガポールなど一部の東南アジア諸国とはともにTPP11署名国である[22]。
第一次産業
色と面積で示したチリの輸出品目(2009年)
農業
「チリの農業(英語版)」を参照

農業では、果樹類の生産が特筆される。16世紀からポトシ市場向けにワインの原材料としてぶどうが広く生産されている。1970年代には過剰生産とワインの品質低下がたたって、一時生産量が低迷したが、ワインの品質改良などの地道な努力が功を奏し、1990年代以降は再び生産量を増やしている。日本のワイン輸入量の国別シェアで、フランスなど南欧諸国を上回り首位となっている(2018年)[38]。 農業従事者は、2005年にはチリの労働者の13.2%を占めている。
ウアッソとトウモロコシ畑(1940年)

チリの主な農産物は、穀物であるオート麦、トウモロコシ、小麦、果物 – 桃、リンゴ、ナシやブドウと野菜ニンニク、タマネギ、アスパラガスと豆などである。果物や野菜の輸出は、アジアと欧州市場である。
林業
「チリの林業(英語版)」を参照

林業については、国土の2割が森林となっており木材生産が盛んに行われてきたが、1980年代以降、アメリカ合衆国や日本の業者が進出し、パルプ用の木材チップの生産を飛躍的に高めた。南部のパタゴニア地方を中心とした原生林での生産が有望視されているが、無秩序に近い環境破壊を訴える自然保護団体も存在し、先住民マプーチェ人をはじめとする現地の住民も無軌道な乱伐に反対している。
水産業

近年では、チリはノルウェーとともにサケの世界有数の輸出国となっている。 漁業については、東太平洋がアンチョビなどの好漁場であり、古くから活発に漁業が営まれてきた。気候や地形の類似点から、北半球のサケ類の移植が進められたが、自然放流により再生産を図る計画は失敗。しかし、代わりに始まったサケ類の養殖事業は大成功を収め、2005年には世界のサケ類の養殖生産高の3分の1、約60万トンを誇る規模(世界第2位)となっている。
鉱業
「チリの鉱業(英語版)」を参照

鉱業については、地下資源、特に金属鉱物資源に恵まれている。2003年時点で、銅の採掘量は世界一であり、490万トンに達する。これは世界シェアの36.0%に相当する。銀は1,250トンであり、世界第6位、シェア6.7%である。金の世界シェアも1.5%である。このほか、亜鉛、鉄、鉛を産出する。

金属以外の無機鉱物資源では、ヨウ素、硫黄、塩、カリ塩、リン鉱石が有望であり、リン鉱石以外は世界シェア1%を上回る。有機鉱物資源も見られるが、規模は小さい。たとえば、石炭の産出量は43万トンに留まる。19世紀に火薬の原料として世界最大の産出量があったアタカマ砂漠のチリ硝石は20世紀に入ると化学製品に押され役目が終わった。
硝石労働者
チュキカマタは露天掘りで世界最大の鉱山である。

チリのアントファガスタ州タフレタルでアメリカ大陸最古の酸化鉄採掘が始まった[39][40]。北部鉱山チャニャルシヨでは銀・硝石と連続する石炭採掘がチリ経済を主要な役割へと導いた。[41][42]

鉱業は、国内15地域のうち13地域で存在し、25種類の製品を産する。特にタラパカ、アントファガスタ、アタカマ地域の主要な経済活動であり、コキンボ、バルパライソ、オヒギンス地域でも非常に重要である。マガヤネス地域では石油生産が重要である。

主な製品は銅で、世界の36%を供給する世界最大の生産国であり、世界の銅埋蔵量の28%を占めている。チリの輸出の30%を占める銅鉱山アカウントは1970年には60%以上をカバーしていた。世界最大の銅会社、国営コデルコは、チュキカマタ、エルテニエンテで世界最大の露天掘りおよび地下の主要鉱床で操業している。

鉄、モリブデン、硝石、銀 – 金のような他の資源開発も重要である。2012年に、鉱物の世界生産の37%がこの国に集中しており、さらにリチウムの世界埋蔵量の21.9%が存在する。ラピスラズリは、チリ北部コムバルバラ地域に原石が豊富に存在すると1984年に宣言された貴重な装飾用の石である。
観光
「チリの観光地(英語版)」を参照
アタカマ塩原

近年、観光業も成長を続けている。南部の森林地帯の荒々しい美しさ、北部のアタカマ砂漠の広漠とした風景、5月から9月にかけてのアンデス山脈のスキーシーズンが観光客を惹きつけている。また、パタゴニアや、モアイなどの独自の観光資源を持つラパ・ヌイ島(イースター島)も観光地としての人気がある。その他にはビーニャ・デル・マルなどのビーチ・リゾートも存在するが、寒流であるペルー海流(フンボルト海流)の影響のため、チリの海は海水浴には適していない[43]。

観光は、2005年にこの部門は国のGDPの1.33%に相当し、15億ドル以上を生成して13.6%増加した1990年代半ば以降、チリの主要な経済資源の一つとなっている。海外での観光振興では、チリは2012年に合計600万ドルの資金を投資した[44]。

観光客が本土への全ての訪問の1.8%に達したとき、世界観光機関(WTO)によると[45]、チリのラテン語圏の外国人観光客のための政策は2010年に始まったという[46]。その年、国は1,636万ドルの売上高を挙げ、観光客は276万人に達した。これらの訪問者のほとんどは、アルゼンチンや大陸の国から来た人々であった[47]。しかし近年の最大の成長は、主にドイツなどのヨーロッパからの訪問者に対応したことである。2011年第1四半期中に、その年の終わりまでに合計306万人となった前年同期比9.2%の増加を表す104万人以上の観光客が来訪した。一方では、合計372万人のチリ人が、2011年に他の国を訪問した[48]。
起業

チリは、COVID-19流行前の2019年、GEM(Global Entrepreneurship Monitor)の研究における総合起業活動指数®(TEA)が世界1位である[49]。チリ政府は、2010年よりStart-Up Chileを設立し、2021年には、資金提供や資金調達プラットフォームを設立し、[50]スタートアップを試みる企業への支援を行っている。しかし、事業の休業や廃業も多くみられる。革新的な世界のスタートアップ100社が選出された「テクノロジー・パイオニア・コミュニティ2022」では、チリ発のスタートアップとして、ホームとグロバル66の2社が選出された。チリからは継続的に選出されており、今後の成長が期待される[51]。
インフラ
エネルギー
「チリのエネルギー(英語版)」を参照

チリでは、再生可能資源があまり多くないため化石燃料に依存しており、その価格と国際情勢に大きく左右される。2010年には、消費量の30%に相当する日量10640バレルの石油を南部で生産し、残りは輸入された。
ビオビオ州のラルコー水力発電所

また、国内で消費される天然ガスの約53%が輸入されている。推計によると、2009年の消費量、28.4億立方メートルの47.53パーセントに相当する13.5億立方メートルが輸入された。 2000年代のを通して、アルゼンチンはパイプラインを介して主要な輸入元であったが、2009年にキンテロ港に液化天然ガス(LNG)ターミナルが開設され、輸入元を世界中に多様化している。

チリでは、ノルテグランデ、電力中央相互接続システム、電力システム、アイセン電力システム、マガジャネスの相互接続システムの4つの電力システムがある。2008年には電力生産は、主に火力発電により、次に水力発電によって生成され、6万280ギガワット時であったと推定される。また、818ギガワット時は、アルゼンチン北部から電気を輸入する計画があったが、実際に輸入されたのは2009年であった。水力発電の発電量が少ないのは、ダムの建設による環境や生態系の破壊を防止するために、政府は水力埋蔵量の20%未満に抑えている。

チリの最初の水力発電は、トーマス・エジソンによって設計され、1896年にロタに建てられた南米で2番目の水力発電所であるチビリンゴ水力発電所である。

現時点では原子力発電所はないものの、2006年には原子力エネルギーの安全な使用の技術的実現可能性についての議論が始まった。再生可能な資源の候補としては、風力発電、地熱、潮力、太陽光、太陽熱などがある。
電気通信
アンデスを望むエンテルタワー
「チリの通信(英語版)」を参照

チリは、本島と南極基地を含め、国土の多くをカバーする通信システムを持っている。1968年にはエンテルチリ社が所有する、ラテンアメリカで最初の南極衛星通信地球局が稼働した[52]。

2012年には327.6万の固定電話回線と2,413万の携帯電話加入者がいる[53][54]。チリは2009年、携帯電話100%普及率を達成した第三のラテンアメリカの国となった[55]。また、ネットブック、スマートフォン、タブレット-含む人あたりのモバイルブロードバンドサービスの消費量は、OECD平均に等しかった[56]。この現象は、他の要因の中で自由な競争、MVNOの市場参入や番号ポータビリティを保護するための政策が愛用した。

2010年の人間開発指数によれば、チリは100人あたり32.5のインターネットユーザーがいる[57]。

1987年に国別トップレベルドメイン「.cl」が登録され、1993年に最初のラテンアメリカのWebサーバがチリに設置された[58][59]。

世界は2011年にソーシャルネットワークに多くの時間を捧げた[60]。2013年には総人口の66.5%のインターネット普及率であり[61][62]、ブロードバンド普及率は、ラテンアメリカ中で最高であった。

2014年に国内でのインターネットとの統合は、ラテンアメリカでもっとも大きかった[63]。
交通
アルトゥーロ・メリノ・ベニテス国際空港
サンティアゴ地下鉄
詳細は「チリの交通(英語版)」を参照
航空
「チリの空港の一覧」を参照

フラッグ・キャリアである、LATAM チリが、イースター島を含むチリ国内のみならず、ヨーロッパやオセアニア、北アメリカなど世界各国への路線網を築いている。ハブ空港はアルトゥーロ・メリノ・ベニテス国際空港で、多くの外国航空会社も乗り入れている。
鉄道
「チリの鉄道」を参照

細長い国土を縦に貫く「チリ縦貫鉄道」と、そこから分かれてアンデス山脈や太平洋側の町を結ぶ「支線」が国内の鉄道を構成している。詳細はチリの鉄道を参照。

チリ国鉄が後述の近郊電車のほか、サンティアゴと中部のタルカ・チリャンの間に中距離電車を、コンセプシオンやテムコの間に季節運行の夜行列車を走らせている。南部のプエルトモントを発着する夜行列車は「車両の老朽化」を理由として、2003年に運行が休止された。

サンティアゴ大都市圏にはメトロトレン(スペイン語版)と呼ばれる近郊電車が運行されているほか、サンティアゴの都心にはフランスの協力で建設された5路線の地下鉄(メトロ=Metro)があり、さらに数年以内には2路線の開通が予定されている。渋滞の影響を受けない交通機関として信頼されている。

また、バルパライソと郊外のビニャ・デル・マールの間にはMervalと呼ばれる近郊電車が、コンセプシオンとその近郊の間にはビオトレン(スペイン語版)と呼ばれる近郊電車が運行されている。

鉄道による貨物輸送も盛んであり、特に鉱石や木材、水産物などの運搬に重宝されている。
道路

サンティアゴ近郊には高速道路網があるほか、パンアメリカンハイウェイが国内を通っており、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスや、ペルーの首都リマとの間を結んでいる。
国民
詳細は「チリの人口統計(英語版)」を参照

独立直後の1830年にようやく100万人を越えたチリの人口は、1960年のセンサスでは737万4,115人、1970年のセンサスでは888万4,768人、1983年年央推計では約1,168万人となった。
人口
詳細は「チリ人」を参照
1835年から2050年までのチリの人口グラフ(INE)
2015年のチリ人口ピラミッド
バルパライソ港付近の住宅街
チリのポロチーム

チリの人口は約1,750万人ほどであり[64]、1990年代から出生率の低下とともに人口増加率は低くなっている。2050年までには人口2,020万人に達すると見積もられている。国民の85%が都市部に居住し、そのうち40%が大サンティアゴ都市圏に居住している。

チリの国民は約95%がヨーロッパ系の白人もしくはメスティーソであり[65][66]、人口の52.7%[67]が純粋な白人であり、44.1%がメスティーソとなっている[68]。

そのほか、インディヘナとしては、パスクア島(イースター島)にはポリネシア系の、北部のアンデス山岳地帯にはケチュア人やアイマラ人など、南部ビオビオ川以南の森林地帯にはマプーチェ人が、その他にはピクンチェ人、ウイリンチェ人、アタカメーニョ人、ディアグイタ人、ペウエンチェ人などが、クリストファー・コロンブスの到来以前より居住しており、こうしたインディヘナを合わせると全人口の5%ほどになる。また、きわめて少数であるが、植民地時代に連れて来られた黒人奴隷の子孫としてアフリカ系チリ人が存在するが、チリの黒人は人口の1%に満たない。

ヨーロッパからの移住は19世紀に加速した。特に南部のマプーチェ人の土地がアラウカニア制圧作戦により国家に併合されると、隣国のアルゼンチンやブラジルほどの規模ではないが、スペインやバスク地方(バスク系チリ人)、クロアチア、イタリア、ドイツ、フランス、パレスチナ(パレスチナ系チリ人)などから移民が導入され、東ヨーロッパとアイルランド(アイルランド系チリ人)からも少数が移住した。日本からの集団移民は行われておらず、移住したペルーやボリビアなどから再移住した日系チリ人がごく少数存在するのみである。
言語
詳細は「チリの言語(英語版)」を参照

チリの公用語はスペイン語(チリ・スペイン語とチロエ・スペイン語)であり、日常生活でも広く使われている。そのほかにはインディヘナによってマプーチェ語や、ケチュア語、アイマラ語、ラパ・ヌイ語、ウイリンチェ語などが話されており、植民地時代にマプーチェ人はアラウカナイゼーションを進めたため、マプーチェ語はチリ最大の非公用語言語となっている。また、移民のコミュニティ内でドイツ語やイタリア語やクロアチア語が話されることもある。
宗教
詳細は「チリの宗教(英語版)」を参照
チロエの教会群(世界遺産)

チリは伝統的にローマ・カトリックの国だったが、2002年のセンサスによればカトリックは国民の70%ほどとなっており、福音派、またはプロテスタントが15%、エホバの証人が1%、末日聖徒イエス・キリスト教会が0.9%、ユダヤ教が0.1%、その他が4.4%、無宗教が8.3%、ムスリムと正教はそれぞれ0.1%以下である[69]。

コピアポ鉱山落盤事故では閉じ込められた作業員が、聖書と十字架像を所望したり、聖書をもとに作られた映画が地上から提供されるなど、国民の間ではキリスト教が深く根付いていることが伺える。
婚姻

通常、婚姻によって改姓することはない(夫婦別姓)。社交上「de+夫の姓」を追加した複合姓を用いることもあるが、一般的ではなくなりつつある[70]。
保健

平均寿命は78.8歳と先進国並み[71]。ユニバーサルヘルスケアが達成され、医療支出の33%が自己負担である[71]。
「チリの医療(英語版)」も参照
教育
詳細は「チリの教育(英語版)」を参照
チリの学生

チリの教育は、2009年の教育法(LGE)によって支配される。

19世紀にフランスとドイツの制度を参考に近代的教育制度が確立された。6歳から13歳までの8年間の初等教育と前期中等教育が無償の義務教育期間となり、その後4年間の後期中等教育を経て高等教育への道が開ける。

識字率は約96.4%[72]であり、これはアルゼンチン、ウルグアイ、キューバと共にラテンアメリカでもっとも高い部類に入る。

代表的な高等教育機関としては、チリ大学(1738年、1842年)、サンティアゴ・デ・チレ大学(1848年)、チリ・カトリック大学(1888年)などが挙げられる。
文化
詳細は「チリの文化(英語版)」を参照
ガブリエラ・ミストラル
パブロ・ネルーダ

スペイン人による征服以前のチリの文化はインカ帝国とマプーチェ人によるものが主流だったが、スペインによる征服後はスペイン人の文化的影響を強く受けた。19世紀初頭の独立後にはエリート層が憧れを抱いたイギリス、フランスをはじめとするヨーロッパ諸国の文化の影響を受けた。また、19世紀後半のドイツ移民の影響により、特に南部のバルディビアやプエルト・モントにはドイツのバイエルン地方の文化の影響が強い。また、ウアッソという独自の農村的文化アイデンティティを表す表象が存在する[73][74][75][76][77]。
食文化
詳細は「チリ料理」を参照
チョッリヤナ

チリ料理はスペイン植民地時代の料理に伝統を持つ。トマト、ジャガイモ、トウモロコシ、牛肉、羊肉が使われ、長い海岸線を有するために大海産国であることもあって魚介類を使う料理も多い。

代表的なチリ料理としてはカルネラ、カルボナーダ、アサード、クラント、ウミータ、パステル・デ・チョクロ、エンパナーダなどが挙げられる。北部のかつてペルー領だった地域ではセビッチェが食べられることもある[78]。

チリはワインの大生産国として知られ、チリワインはアジェンデ政権末期に品質を落としたものの、高い品質で知られる。ワインの他の地酒としてはチチャやピスコ・デ・チレが挙げられる。また、南部ではアルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ブラジル南部などと同様にマテ茶を飲む習慣がある。
文学
詳細は「チリ文学」および「ラテンアメリカ文学」を参照

チリは大衆的伝統の中で多くの詩人を生み出してきた[79]。これはチリの文学者の持つ長い歴史に相応して重要なことであり、特に詩の分野において傑出した人物としてはニカノル・パラ、ビセンテ・ウイドブロ、ホルヘ・テイジエール、エンリケ・リン、ゴンサロ・ロハス、パブロ・デ・ロカが挙げられ、ガブリエラ・ミストラルとパブロ・ネルーダはノーベル文学賞を[80]、ミストラルは1945年に、ネルーダは1971年にそれぞれ受賞した。

小説の分野で代表的な作家としては、フランシスコ・コロアネ、マヌエル・ロハス、ホセ・ドノソ、ルイス・セプルベダ、ロベルト・ボラーニョ、イサベル・アジェンデ、ホルヘ・エドワーズ、ゴンサロ・ロハス、マルセラ・パスなどが挙げられる。ホルヘ・エドワーズは1999年に、ゴンサロ・ロハスは2003年にセルバンテス賞を受賞した。マルセラ・パスはパペルーチョと呼ばれる児童文学の作家である[81][82][83]。
音楽
詳細は「チリの音楽(英語版)」および「ラテン音楽」を参照

チリのフォルクローレにおいてはクエッカと呼ばれるリズムが中央部で発達し[84]、そのほかに北部のケチュア人、アイマラ人にはワイニョなどが、南部のマプーチェ人や、パスクア島のポリネシア系住民にも独自のフォルクローレが存在する。

1960年代前半に特に活躍したフォルクローレグループとしてはロス・デ・ラモンが挙げられる。1960年代後半からは政治と強く結びついたフォルクローレ、ヌエバ・カンシオンが流行した。ビオレータ・パラ、ビクトル・ハラ、インティ・イリマニ、イジャプー、キラパジュンなどが活躍していたが、1973年のクーデター後に軍事政権によって音楽家が殺害・拷問・追放されるとヌエバ・カンシオンは衰退することになった。

2009年12月5日、首都サンティアゴ・デ・チレでハラの葬儀が催され、数万人の市民が参加した。1973年当時、ピノチェト軍事独裁政府の弾圧によってハラの葬儀を公式に開催することができなかった。死後36年を経て公式の葬儀が行われ、バチェレ政権の閣僚や政党幹部らも参加した。

ポピュラー音楽においては、ロックは60年代に中産階級によって始められ、軍政期を通してインカ・ロックなどの形態で独自の発達をたどることになった。その後、80年代に軍事政権の言論弾圧が一時期弱まると[85]、ロックはフォルクローレよりも盛んになり、チリ・ロックはメキシコなどのラテンアメリカ市場でも成功するミュージシャンを生み出している。代表的なミュージシャンとしてはロス・ジョッカーズ、ロス・トレス、ロス・プリシオネロス、ロス・ブンケルス、ラ・レイ、クダイなどが挙げられる。フォルクローレに独自のプログレッシヴ・ロック的な風味を加えたバンド「Los Jaivas」は国外でも高く評価されており、1960年代後半にデビューして以来、現在も現役で活動している[86]。
映画
詳細は「チリの映画(英語版)」を参照

チリ出身の著名な映像作家としては、『戒厳令下チリ潜入記』『サンディーノ』のミゲル・リティン、『クリムト』(2006)のラウル・ルイス、ボリス・ケルシア、アレハンドロ・ホドロフスキー(チリ出身)などが挙げられる。
世界遺産
詳細は「チリの世界遺産」を参照

チリ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件存在する[87][88]。

ラパ・ヌイ国立公園 - (1995年、文化遺産)

ラパ・ヌイ国立公園 - (1995年、文化遺産)
チロエの教会群 - (2000年、文化遺産)

チロエの教会群 - (2000年、文化遺産)
バルパライソの海港都市の歴史的街並み - (2003年、文化遺産)

バルパライソの海港都市の歴史的街並み - (2003年、文化遺産)
ハンバーストーンとサンタ・ラウラの硝石工場群 - (2005年、文化遺産)

ハンバーストーンとサンタ・ラウラの硝石工場群 - (2005年、文化遺産)
スウェルの鉱山都市 - (2006年、文化遺産)

スウェルの鉱山都市 - (2006年、文化遺産)
アンデスの道路網カパック・ニャン - (2014年、文化遺産)

アンデスの道路網カパック・ニャン - (2014年、文化遺産)

祝祭日
詳細は「チリの祝日(英語版)」を参照
日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月1日 新年(元日) Año Nuevo
3月〜4月 聖金曜日 Viernes Santo 移動祝日、復活祭前の金曜日
3月〜4月 聖土曜日 Sábado Santo 移動祝日、復活祭前の土曜日
3月〜4月 復活祭 Pascua de Resurrección 移動祝日
5月1日 メーデー Día del Trabajador
5月21日 海軍記念日 Combate Naval de Iquique
6月 聖体の祭日 Corpus Christi 移動祝日
6月29日 教皇ヨハネ・パウロ2世表敬記念日 San Pedro y San Pablo
8月15日 聖母被昇天祭 Asunción de la Virgen
9月18日 独立記念日 Primera Junta Nacional de Gobierno
9月19日 陸軍記念日 Día de las Glorias del Ejército
10月12日 アメリカ大陸発見の日(コロンの日) Descubrimiento de América
11月1日 諸聖人の日 Día de todos los Santos
12月8日 無原罪の聖母 Inmaculada Concepción
12月25日 クリスマス Navidad, Pascua
スポーツ
詳細は「チリのスポーツ(英語版)」を参照
「オリンピックのチリ選手団」も参照
サッカー
詳細は「チリのサッカー(英語版)」を参照
サッカーチリ代表のアルトゥーロ・ビダル (2017年)

チリ国内でも他のラテンアメリカ諸国と同様に、サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。サッカーは19世紀にイギリス人によってチリにもたらされ、1933年にはプロリーグのプリメーラ・ディビシオンが創設された。主なクラブとしては、コロコロ、コブレロア、ウニオン・エスパニョーラ、ウニベルシダ・デ・チレ、ウニベルシダ・カトリカなどが挙げられる。欧州のビッグクラブで活躍した選手には、アレクシス・サンチェスやクラウディオ・ブラーボ、アルトゥーロ・ビダルがいる[89]。

チリサッカー連盟(FFC)によって構成されるサッカーチリ代表は、FIFAワールドカップには自国開催となった1962年大会で3位に輝いている。さらに1998年大会に出場した際には、「4チーム制によるグループリーグを3引き分け(0勝で勝ち点3)で突破し、決勝トーナメントに進出する」という珍しい記録をもつ。これは「8グループ、上位2チーム勝ち上がり」の1998年大会以降では初であり、現在まで唯一のケースとなっている。

チリ代表は近年コパ・アメリカでの躍進も著しく、2015年大会で初優勝を果たすと[90]、翌年に行われた「100周年記念大会」であるコパ・アメリカ・センテナリオでも、リオネル・メッシのいるアルゼンチン代表を決勝で破って優勝し、大会連覇を達成した。また、FIFAコンフェデレーションズカップの2017年大会では、決勝に進出したがドイツ代表に0-1で敗れ準優勝となった。
科学技術
詳細は「チリの科学技術(英語版)」を参照

多数の科学刊行物によると、チリは2011年時点、ラテンアメリカで4位、世界で38位の科学的特許を持つ。また南極に4つの通年運用拠点、夏の間活動する8つの一時的な拠点を所有している。
パラナル天文台

天体観測においては、パラナル天文台、世界最先端の国際共同利用施設であるALMA、世界最大級の国際共同利用施設であるラ・シヤ天文台など12のステーションがあり、世界の天文観測施設の40%が集中している。しかし、ラスカンパナス天文台での巨大マゼラン望遠鏡やパチョン山での大型シノプティック・サーベイ望遠鏡の建設決定、OWL望遠鏡計画におけるE-ELTの建設決定、ALMAの拡大などにより、今後数十年で世界全体の約70%へと拡大する見込みである。
国の象徴
コピウエの花

チリの紋章には、国の動物であるコンドル(Vultur gryphus、山岳地帯に棲む大型の鳥)とアンデスジカ(Hippocamelus bisulcus、絶滅が危惧されている尾部の白い鹿)が描かれている。これらは国の標語である「理性によって、または力によって」とも関連がある。

国花はコピウエであり、この花は南部の森林地帯に自生している。
著名な出身者
詳細は「チリ人の一覧」を参照』

日本人はインカ・マヤ・アステカを理解していない!

日本人はインカ・マヤ・アステカを理解していない!古代文明の違いを調査!
http://osusumegeorge.seesaa.net/article/448414935.html

『2017年03月27日

インカ・マヤ・アステカと聞いてどんなイメージを持ちますか?何となくですが時代や場所など答えられますか?そんな3つを今回は比較してみました。同じような文明と捉えがちですが、場所も時代も違います。知っているようで知らない古代文明を調査です!

高学歴芸能人(東大卒や京大卒といった)が出演するクイズ番組で、難しい漢字や、日本・ヨーロッパの歴史問題などを次々に回答するなか、急にインカ・マヤ・アステカの問題となると沈黙していたのです。ただ地図での位置を答えるのだけなのに!!

たまたまその地域を学んだ経験があった私は、高学歴芸能人でもわからないのかっと落胆。人の知識は偏ったものですが、おそらく受験でもあまり関係がなく、スルーされてきた地域なのかなっと感じています。

そこで「インカ・マヤ・アステカ」の違いを調査してみました!
細かなところでも違いがあり、調べれば調べるほど面白かったです。

◆中南米って広いんです。

マチュピチュってマヤ文明ですよね~っとか、よく聞きます・・・
世界遺産好きの日本人ですら、中米も南米もひとくくりなのです。
※マチュピチュは南米のインカに関連した遺跡と言われています。

距離的な事を言えば、ヨーロッパと中東を同じにするぐらい違いがあります。それでもインカ・マヤ・アステカは同じだと認識されてしまうことが多いのです。でも場所はぜんぜん違いますから~!

・インカ帝国

南アメリカのアンデス山脈一帯に広がるエリアで、アルゼンチン、ボリビア、チリ、コロンビア、エクアドル、ペルーに広がっています。世界遺産のマチュピチュでも有名です!
Inca-expansion640.jpg
https://en.wikipedia.org/wiki/Inca_Empire

・マヤ文明

中米に広がり、メキシコ、グアテマラ、ホンジュラス、エルサルバドル、ベリーズに広がります。メキシコのチェチェンイツァーが有名ですね。
Mayamap640.jpg
https://en.wikipedia.org/wiki/Maya_civilization

・アステカ

アステカは、現在のメキシコシティーを中心に広い範囲に広がります。現在のメキシコシティーの地下に遺跡が埋まっているそうですよ~!
aztec2321-640.jpg
http://www.ancient.eu/Aztec_Civilization/

◆時代が違いすぎます!

インカ・マヤ・アステカを中南米の代表的な文明として一律に紹介されますが、時代がかなり違います。

・マヤ文明

マヤ文明は、約紀元前2000年前後からスペイン人到来の1600年代までマヤの王国がユカタン半島に点在していたそうです。ちなみにマヤの人たち(マヤ諸語を話す人)は現在にも多く生きています。この長い歴史の全体を含めてマヤ文明と呼ばれています。地域も太平洋岸からカリブ海側に及びかなり環境的にも違いがあります。
マヤ・チェチェンイツァ640.jpg

・アステカ

時代は、紀元後1350年からスペイン人の到来までとなります。同じ中米の隣接するマヤ文明と比べると大変短い期間となります。もちろんその前には、違う国家が栄えていろいろな文化の影響を受けながらアステカが発展しています。民族は、ナワ語を話すメシカ族が主となりアステカを担って発展していったそうで、マヤと近い地域と言っても民族的にも違いがあります。
astec640.jpg

・インカ帝国

スペイン人が到来する直前の時代は15世紀~16世紀と期間も短いのです。民族はクスコ地方の集団と考えられているそうで、広い範囲を統一した帝国としても広く知られてみます。ちなみにこの南米からかなりの量の金がスペインを通じてヨーロッパに渡ったことから、黄金伝説なんかにも通じているようですよ。
inca-bm640.jpg
http://www.britishmuseum.org/

インカとアステカというのは、その地域における文明の最近のお話で、スペイン人が到来により崩壊するまでに活躍した帝国的なものを指しています。しかしマヤ文明は、中米のユカタン半島の長い歴史をすべて総括するもので、他のインカやアステカとはかなり時代的な範囲が異なっているというのです!!

◆特徴で見るインカ・マヤ・アステカ!

当然ながら、地域も時代も違う『インカ・マヤ・アステカ』なので、その文化的な特徴も違ってくるのです。ここでは少しだけご紹介です。

・文字があるのはマヤ文明!?

マヤ文明の文字は、一見すると絵文字で意味が分かりにくいですが、実はこれ日本語とよく似た表音・表語文字でいわゆる「ひらがな」・「漢字」の組合せなのです。それだけしっかりとした文字体系が完成していたのがマヤ文明です。
マヤ文字640.jpg

しかしインカなどを見ると、キープと呼ばれる縄で数字を表していたものはあるものの、文字らしい文字はなく、アステカでも絵文字はありますが、マヤ程の完成度ではなかったそうです。ちなみによく、「信じるか信じないかはあなた次第です!」的な話などで、先ほど紹介したアステカの石板の画像をマヤ文明の物のように説明されますが、これはアステカのもので、その点でも変な誤認がありますね。

雑誌ムーとかならきっとこんなミスはなく、無限の可能性を示してくれるでしょうが、なぜかテレビとなると変に決まった説しか唱えないので変な感じになっちゃうんですよね~。残念。

・インカ帝国は統一国家!?

インカ帝国のすごい所は、初めに説明した地図の範囲を統一していたところです。その仕組みも強固なもので、行政官がおかれるなど各地域の管理が行き届いていたようです。現在にも残るインカ道なんてのもその証拠の一つなのかもしれません。「全ての道はローマに通ず」でしたっけ?そんな感じでインカでも交通を充実させ統治の重要な役割となっていたのです!

ちなみにマヤ文明では、ユカタン半島の地域全体が統一されるようなこともなく、比較的各地域で都市国家的な形で分散して統治されていました。またアステカは、統一国家とよく言われるのですが、アステカによる統治は三国同盟により広がった範囲となります。もちろんアステカは中心的な存在であったことは間違いありません。また範囲としても広いものの、歯抜けのような状態で、貢納を主として関係を気づいていたようです。
マチュピチュ640.jpg
(whc.unesco.org/en/documents/121298 © Silvan Rehfeld)

・農耕に優れたアステカ

アステカは、チナンパという湖沼に人口の畑を作るという大事業を成し遂げているのです。杭を打ち、アシなどの草を引き詰め、そして湖底の栄養分のある土を盛ることで大地を作りあげ、生産性がよい畑ができるそうです。こういった部分でアステカは世界的にも特徴的な農耕技術をもっていました。食料の確保は重要ですから、アステカが大きく発展した一つの要因なのかもしれません。

マヤのティカル遺跡では、大河がないことから巨大な貯水を行っています。またインカでも段々畑は発展していますが、チナンパという考えはなかったようです。それぞれ何かに秀でているという部分があるようですね~。
astec-Camas_chinampas640.jpg
https://en.wikipedia.org/wiki/Chinampa

◆やっぱり似ている?似てない?

ヨーロッパの人からしたら、中国と日本はかなり似ているといわれるでしょうし、そういう意味では、中南米をひとくくりに認識してしまうのもわかります。しかし実際には結構違いがありますよね。

私も印象や思い込みではなく、知っていると思っている事、知らないことをさらに積極的に、このサイトを通じて考えていきたいと思っています!!できれば広く、深くですが、とりあえず広く浅くから・・・・。

それではまた楽しい話題でお会いしましょう~~~ 』

メキシコ古代文明年表
http://www.ai-l.jp/HtMexico/mexchronicle.pdf

ヴァイキング

ヴァイキング
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曖昧さ回避 この項目では、かつてスカンディナヴィアやバルト海沿岸に存在した武装船団について説明しています。その他の用法については「ヴァイキング (曖昧さ回避)」をご覧ください。
曖昧さ回避 「バイキング」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ヴァイキング (曖昧さ回避)」をご覧ください。
Question book-4.svg

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: “ヴァイキング” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年3月)
ヴァイキングの著名な戦闘 : スヴォルドの海戦を描いた絵画

ヴァイキング(英: Viking、典: viking、独: Wikinger)とは、ヴァイキング時代(Viking Age、800年 – 1050年)と呼ばれる約250年間に西ヨーロッパ沿海部を侵略したスカンディナヴィア、バルト海沿岸地域の武装集団を指す言葉。

通俗的には、ヴァイキングは角のある兜を被った海賊や略奪を働く戦士であるとされるが、このイメージは後世の想像の影響が強く、実際には略奪を専業としていたのではなく交易民でもあり、故地においては農民であり漁民であった。

各地に進出し、北ヨーロッパの歴史に大きな影響を残したが、次第に各地に土着してゆくとともに海上の民としての性格を失い、13世紀までには、殆どのヴァイキングは消滅した。
名称

ヴァイキングという呼称の語源は古ノルド語: víkingr(氷語: víkingur、フィヨルドから来たもの)。古ノルド語: vík(氷語: vík)は湾、入り江、フィヨルドを意味する。スカンジナビア半島一帯に点在するフィヨルドのことをヴィークと呼んだため、その「ヴィークの人々」を指して「ヴァイキング」と呼ぶようになったと考えられている。後の研究の進展により、ヴァイキングは「その時代にスカンディナヴィア半島、バルト海沿岸に住んでいた人々全体」を指す言葉に変容した。そういった観点からはノルマン人とも呼ばれる。

また、『サーガ』や『エッダ』などに「ヴァイキングに行く」という表現がみられるところから「探検」「航海」「略奪」などを意味するのではないかという解釈がある[1]。
背景

彼らは北方系ゲルマン人で、9世紀に入って侵略などを活発化させた。どうして彼等が域外へと進出したのかについては下記のような学説がある。
現在の説

ヴァイキングによる拡大と侵攻は中世温暖期(10世紀 – 14世紀)にはじまり、小氷河期(14世紀半ば – 19世紀半ば)に収束しているが、その直接的なきっかけは不明であり、いくつかの説が存在する。
キリスト教と宗教的対立

ヴァイキング時代の始まりとされるリンディスファーンの蹂躙は、カール大帝によるザクセン戦争、すなわちキリスト教徒による異教徒に対する戦争と時期を同じくする。歴史家のRudolf SimekとBruno Dumézilはヴァイキングによる攻撃は同社会におけるキリスト教の広まりに対する反撃ではないかと位置付けている[要出典]。Rudolf Simek教授は『初期のヴァイキングの活動がカール大帝の統治時代と時を同じくするのは偶然ではない』と分析する。カール大帝はキリスト教を掲げ、侵攻と拡大を繰り返しており、スカンディナビアにおけるその脅威は想像できる。また、キリスト教の浸透はスカンディナヴィアにおいて問題化していてノルウェーではそれが原因で1世紀に渡り深刻な対立が生じていた。通商・貿易面では、スカンディナヴィア人はキリスト教徒による不平等な条件の押しつけで苦しんでいたことが判明している。名誉を重んじ、名誉が汚された場合は近隣を襲撃することを厭わない文化において、上記のような原因で外国を襲撃することは考えられる[要出典]。
技術的優位性からの富を求めた侵略

ヴァイキングは通商・貿易を業としていた民族である。そのため、ヴァイキングは中世ヨーロッパが未だ暗黒時代とされる頃から、東アジア・中東とも交流を行い、航海術だけではなく、地理的な知識・工業的な技術・軍事的な技術も周辺のヨーロッパ諸国を凌駕するようになった。その結果、富を求め近隣諸国を侵略していったとされるものである。
その他の説

人口の過剰を原因とする説がある。寒冷な気候のため土地の生産性はきわめて低く、食料不足が生じたとされる。山がちのノルウェーでは狭小なフィヨルドに平地は少ないため海上に乗り出すしかなく、デンマークでは平坦地はあったが土地自体が狭かった。スウェーデンは広い平坦地が広がっていたが集村を形成できないほど土地は貧しく、北はツンドラ地帯だった。このため豊かな北欧域外への略奪、交易、移住が活発になったという仮説である。しかし、生産性が低く土地が貧しいのなら出生率が上がるとは考えにくく、今では否定的に捉えられている。
人口過剰説として、中世の温暖期も原因とされることがある。温暖化により北欧の土地の生産性が上がったが、出生率がそれを上回って上昇したため、域外へ進出することを招いたという説である。
大陸ヨーロッパではゲルマン民族移動など民族大移動の真っ只中であり、弱体化したヨーロッパに南下して付け入ったという説もある。
能力を理由とする説もある。ヴァイキングの航海技術が卓抜だったため(後述)、他の民族は対抗できなかったというものである。

風俗
史実に近い形で描かれたヴァイキング。ただしここに描かれている人物はノヴゴロド公リューリクであり、半伝説的な人物である事には留意されたい。

ヴァイキング戦士の格好は、同時代の西欧の騎士と同様の、頭部を覆う兜とチェーンメイルが一般的であった。丸盾と大型の戦斧が、ヴァイキングの装備の特徴となる。

ノルウェーの10世紀の遺跡から出土した兜は、目の周りに眼鏡状の覆いがついていたが、角状の装飾品は見当たらない。むしろ同時代の西欧の騎士の兜が、動物や怪物を模した付加的な意匠を施す例があったのに対し、ヴァイキングの兜は付加的な意匠は乏しいと言える。

族長クラスは膝下までのチェーンメイルを身につけたが、一般のヴァイキングは膝上20cm程度のものを身につけていた。ヴァイキングとノルマン人の定義には曖昧なものがあり厳密な区分ができないが、ヴァイキングのチェーンメイルは黒鉄色、ノルマン人のチェーンメイルは銀白色、といった区分をする場合があり、アイルランド語ではヴァイキング・ノルマン人を「ロッホランナッホ (Lochlannach)」、つまり「白と黒」と呼んでいた。

ノルマン人と呼ばれる時代には、水滴状で鼻を防御する突起のついた兜が普及した。一体形成で意匠はさらに単純なものとなり、ノルマン・ヘルムと呼ばれた。これはノルマン人以外の西欧の騎士の間にも普及し、初期十字軍の騎士の一般的な装備ともなっている。

ステレオタイプ

ステレオタイプなヴァイキング

一般に、角のついた兜と毛皮のベスト、といった服装が、ヴァイキングの服装のステレオタイプとして知られている[2]。しかしこれは史実ではなく、当時のヴァイキングの遺跡からはこのような兜は出土していない[3]。角のついた兜は、古代ローマ時代にローマと敵対したケルト人の風俗が、後世になってヴァイキングの風俗として訛伝されたものである。なおかつケルト人は数多くの部族に分かれていた集団であり、兜の意匠は様々であり、角のついた兜はその中の一種類に過ぎず、さらに兜を被る事ができたのは一部の部族長クラスに限られる。

ヴァイキングは広く金髪であると言うイメージを持たれている。実際には多くのヴァイキングは茶色い髪を持ち、スカンディナヴィア出身者以外の遺伝子の影響も大きく、血統内にはアジアや南欧由来の遺伝子も存在した[4]。

オーセベリ船
(ヴァイキング船博物館、オスロ)
詳細は「ヴァイキング船」を参照

ヴァイキングは「ロングシップ」と呼ばれる喫水の浅く、細長い舟を操った。ロングシップは外洋では帆走もできたが、多数のオールによって漕ぐこともでき、水深の浅い河川にでも侵入できた。また陸上では舟を引っ張って移動することもあり、ヴァイキングがどこを襲撃するかを予想するのは難しかった。まさに神出鬼没といえる。このため、アングロ・サクソン人諸王国や大陸のフランク王国も手の打ちようがなく、ヴァイキングの襲撃を阻止することはできず、甚大な被害を受けることになる。戦闘に主に用いられた[要出典]ロングシップのほか、戦闘にも貿易にも使用できたと考えられているクナールなど、ヴァイキングは何種類かの船を併用していた[5]。

ヴァイキング船については、オスロ市ビグドイ地区にあるヴァイキング船博物館、およびデンマークのロスキレにあるヴァイキング船博物館が中心となって研究がおこなわれている。また、ヴァイキングには、船を副葬にする慣習(船葬墓)があり、ノルウェー・ヴェストフォル県トンスベルグ近郊のオーセベリ農場の墳丘墓で見つかったオーセベリ船や、[要出典]同じくノルウェーのヴェストフォル県サンデフィヨルドのゴクスタ墳丘で見つかったゴクスタ船など、いくつかの船が完全な形で発掘され、ヴァイキング船の研究に大きな役割を果たした[6]。オスロのヴァイキング船博物館には、オーセベリ船およびゴクスタ船、トゥーネ船が展示されている。
商業
ヴァイキングの航海 緑色はヴァイキングの居住地(植民地)、青線は経路、数字は到達年。黒海やカスピ海、北アメリカ大陸のニューファンドランド島にも到達している

ヴァイキングは通常の商業も活発に行っており、ユトランド半島東岸のヘーゼビューや、スウェーデンのビルカは商業拠点として栄えた。ビルカからの交易ルートは、例えばブリテン諸島、イベリア半島、イタリア半島、バルカン半島、ヨーロッパロシア、北アフリカに達した。9世紀のイスラム・ディレム銀貨がバルト海のゴトランド島から大量に発掘されるなど、西アジアへの交易路はルーシの地を経て東ローマ帝国やイスラム帝国へと出る、いわゆるヴァリャーグからギリシアへの道によって東方世界とつながっており、コンスタンティノープルとの貿易も、ヴァイキングの通商路である。この事実から、ヴァイキングたちにとっても航海の主たる目的は交易であり、略奪の方がむしろ例外的なものだったと考えられる。
歴史
リンデスファーン修道院の廃墟

西暦700年代末頃からヴァイキング集団はブリテン諸島やフリースラントへの略奪を始めたが、この頃には季節の終わりには故郷へと戻っていた。

本格的なヴァイキングの時代が始まるのは、793年の北部イングランドのリンデスファーン修道院襲撃からとされる[7][8]。以後、795年にはヘブリディーズ諸島のアイオナ修道院を略奪し、北海沿岸を襲撃していくようになった。だが、9世紀半ばからは西ヨーロッパに越冬地を設営して、さらなる略奪作戦のための基地とするようになった。いくつかの場合、これらの越冬地は永続的な定住地となっていった。

中世初期の文献資料は、ヴァイキングに敵意を持つ西欧人の記した記録や伝承記が多い。中世の西欧人にとってノルマン人(ヴァイキング)とペスト(黒死病)は二大脅威だったのである[1]。

793年、ノルマン人と思われる一団によって、ブリテン島東岸のリンディスファーン修道院が襲撃された。このことは「アングロ・サクソン年代記」に記されており、西ヨーロッパの記録に記された最初のヴァイキングの襲撃とみなされている。

ヴァイキングは、9世紀にフェロー諸島、次いでアイスランドを発見した。そしてアイスランドからグリーンランド、アメリカ大陸(ニューファンドランド島と推測される)へ進出した。彼らはまた、ヨーロッパの沿岸や川を通って渡り歩く優れた商人であったことから、グリーンランドを北端にして南はロシアの内陸河川を航行してイスタンブールに進出していった。

ヴァイキングは海岸線を伝い、現在のフランスやオランダにあたる地をしばしば攻撃した。デーン人は、834年にフランク王国を襲撃、843年にはロワール川の河口に近いナントを襲った[1]。10世紀に入るとパリがヴァイキングにより包囲され、ロワール川流域も荒廃した。10世紀初め、ヴァイキングの一首領ロロが西フランクを襲撃しない見返りとして、シャルル3世によってキリスト教への改宗と領土防衛を条件に、フランス北西部のセーヌ川流域に領土を封じられた[9]。これがノルマンディー公国の始まりである(なお、ロロの子孫で西フランク(フランス)王の臣下でもあったウィリアム1世がのちにイングランドに侵攻し、ノルマン朝を開いている。これが1066年のノルマン・コンクエストである)。

ヴァイキングの西欧への侵入は当初は略奪目的が少なくなかったものの、9世紀末以降は、ロロの例にみられるごとく定住化の傾向が顕著になる。これは、ヴァイキングの故郷であるデンマーク一帯に統一権力形勢の動きが起こることと連関があり、故国で志をえない有力者が部下とともに移住するケースとみられる[10]。
各国での歴史
デンマークおよびノルウェー
デーンロウ:黄色の部分
ヴァイキングの入植地オーフス再現モデル

アングロ・サクソンの史料においては、デンマークから来たヴァイキングはデーン人 (Daner, Dane) と呼ばれ[11]、ヴァイキングの代名詞となった。また、ノルウェーのヴァイキングは、ノース人 (Norsemen, Norse) と呼ばれる。この2国は主に西方に広がる北海方面へと進出した。

804年、フランク王国のカール大帝はザクセンを併合し、これによりフランクとデンマークは国境を接することとなった。これに危機感を抱いたデンマーク王ゴズフレズは、スラヴ人の商業都市レリクを808年に滅ぼして商人を自らの商業都市であるヘーゼビューへと移住させ、以後ヘーゼビューはデンマークの商業中心となっていった。その後、810年にはフランク王国の北端となったフリースラントへと侵攻している。次代のヘミングの代には一時和平が成立したものの、834年にはフリース人の商業中心であるドレスタットを襲撃し、以後フランク王国北岸への攻撃を強めていく。841年には、フランク王ロタール1世はデンマークの二人の首長、ロリクとハラルドにワルヘレン島やフリースラントなどを与え、懐柔を試みる。ロリクはこの時、ノルマン侯国をドレスタットを中心として建設し、数十年ほど国を維持する[12]。しかし、デーン人の南進は収まらず、さらにフランク王国自体が王位争いにより3分割されるに及んで、ヴァイキングの活動はさらに活発になった。

840年代にはロワール川河口やナント、ブルターニュを襲い、850年代にはジブラルタル海峡を回って地中海にまで進出し、イタリア半島やローヌ川流域を襲撃している。863年にはドレスタットを3たび襲撃し、この襲撃をもってドレスタットは完全に衰退する。

セーヌ川 (Seine) 河口に大軍の集結地を作り、そこから繰り返し北フランス各地へと出撃した。851年にはイングランド本土へ侵攻して東部イングランドを蹂躙し、865年にはふたたびイングランドに来襲してノーサンブリアからイースト・アングリア一帯を占領し、さらにイングランド南部をうかがった。これに対し、ウェセックス王国のアルフレッド大王は877年にデーン人を撃退し、翌878年のウェドモーアの和議によってイングランドは北東部と南西部に二分され、南西部をウェセックス王国が、北東部をデーン人の領域(デーンロウ)とすることが取り決められた。これ以後、150年にわたってイングランドの歴史はアングロサクソン諸王国とヴァイキングの闘争に支配される。911年にはセーヌ河の「ノースマン」(北の人=ヴァイキング)は首長ロロの下に恒久的に定住し、ノルマンディー公国を形成することになる。

ヴァイキングはノルマン人とも言われるが、ノルマン人が居住したことからノルマンディーという地名が生まれた[11]。後世の歴史学的用語としてはともかく、当代においてはノルマンディー公国以降のヴァイキングがノルマン人と呼ばれる[注釈 1]。[要出典]

ノルマンディー公国成立後も、デーン人の進出は続いた。11世紀のデンマーク王族カヌートは父がヴァイキングを先祖とするデーン人で母が西スラヴのポーランド人の王族であるがイングランドとデンマークを結ぶ北海帝国の主となり、カヌート大王(在位1016年 – 1035年)と呼ばれる。しかしその後、1035年にカヌートが死去するとすぐにこの帝国にはほころびが生じ、1042年にはエドワード懺悔王がイングランド王位に就く。しかし彼の死後、ノルマンディー公ギョームは1066年にアングロサクソン・イングランドを征服(ノルマン・コンクエスト)し、ノルマン王朝を築いた。

一方、地中海中央部のイタリア半島南部においては、999年ごろより聖地巡礼の帰路に立ち寄ったノルマン人たちが傭兵としてとどまり、ビザンツ帝国領や諸侯領のいりまじっていた南イタリアで徐々に勢力を拡大していく。こうしたなか、ノルマンディーの騎士ロベール・ギスカールは1059年、プッリャ公となり、やがて南イタリアを統一し、1071年には東ローマ帝国の拠点だったバーリを攻略。(ノルマン・東ローマ戦争)さらに1076年までに、当時イスラム勢力の支配下にあったシチリアを占領し、ノルマン朝(オートヴィル朝)を開いた。1130年にはルッジェーロ2世が王位につき、シチリア王国が成立した(ノルマン人による南イタリア征服)。

イタリアに渡ったノルマン人のうち、ターラント公ボエモンは、第一次十字軍に参加し、1098年にアンティオキア公国を建国した。
ノース人の北方進出
インゴールヴル・アルナルソン
シンクヴェトリルのアルシング開催地
ランス・オ・メドーの家

ノース人はまた、独自に北方へと進出していた。8世紀にはオークニー諸島やシェトランド諸島、9世紀にはフェロー諸島やヘブリディーズ諸島、東アイルランドに進出した。ノース人のヨーロッパ航路は、オークニー諸島・シェトランド諸島からアイルランド海峡を経て南下するものが主だった。9世紀半ばごろには、拠点としてアイルランド東岸にダブリンが建設された。

フローキ・ビリガルズソンらの航海によってアイスランドの存在が知られると、874年には、インゴールヴル・アルナルソンがアイスランドへと入植し、レイキャヴィークに農場を開いた。彼はアイスランド最初の植民者であるとされる。これ以降、ノルウェーからの移住者が続々とアイスランドにやってきて入植していった。これらの入植は、やがて『植民の書』と呼ばれる書物にまとめられた。930年、アイスランド各地のシング(民会)の代表がシンクヴェトリルへと集結し、全島議会アルシングを開催し、以降毎夏開催されるようになった。

985年に赤毛のエイリークがグリーンランドを発見し、ここでもただちに入植がはじまった。その息子レイフ・エリクソンは北アメリカにまで航海し、そこをヴィンランドと命名した。1000年のことである(ノース人によるアメリカ大陸の植民地化)。この後もヴィンランドへは数度航海が試みられ、ソルフィン・カルルセフニは再到達に成功している。1960年にはカナダのニューファンドランドにあるランス・オ・メドーでノース人の入植地跡が発見され、この到達が事実であることが確認された。これらの航海は、『グリーンランド人のサガ』および『赤毛のエイリークのサガ』というふたつのサガによって語り継がれ、この二つのサガを総称してヴィンランド・サガとも呼ばれる。しかし、このヴィンランド植民の試みは、スクレーリングと彼らの呼んだ先住民との対立によって潰え、ランス・オ・メドーも数年で放棄された。グリーンランドも数世紀植民地を維持したものの、寒冷化による食糧事情の悪化によって1430年前後に壊滅し、グリーンランド以西の植民地活動は最終的には失敗に終わった。

なお、開拓者の消滅後もデンマーク=ノルウェー王国は、グリーンランドを自国の領有地であると考え続け、18世紀以降、この島に対するデンマークの領有権主張の始まりとなった(デンマークによるアメリカ大陸の植民地化)。またノルウェー人も、20世紀初頭に「赤毛のエイリークの土地」と呼んでグリーンランドの領有権を主張していたが、現在、グリーンランドはデンマークの自治領となっている。
スウェーデン
地図中の青線(バルト海上の紫線を含む)が「ヴァリャーグからギリシアへの道」を示す

スウェーデンのヴァイキングは、しばしばスヴェア人と呼ばれる。北方ドイツやフィンランド、東スラヴ地域へも進出した。東スラヴの地へ初期の進出は、8世紀後半から9世紀半ばにかけてあったとされる都市国家群のルーシ・カガン国の建国であった(国家群の民族構成には、ノース人の他、バルト人、スラヴ人、フィン人、テュルク系民族も含まれている)。彼らはフランク王国の「サンベルタン年代記」などでノース人、あるいはスウェーデン人であったと伝えられている。このルーシ・カガン国が最期、発展してキエフ・ルーシとなったのか、あるいは単にキエフ・ルーシに吸収されたのかは不明である。また、リューリクがノヴゴロド公国で新しい公朝を立てたといわれているが、この論争はゲルマニスト・スラヴィスト間の対立として知られ、とくに『ルーシ年代記』にみられる「ルーシ」の同定、さらに「ルーシ」が国家形成で果たした役割をどう評価するかが論点となっている。ただし、現代では反ノルマン説は根拠に乏しいとして否定されている(反ノルマン説を提起するのは、多数の東欧の歴史家である。この問題は、史実的な問題というよりも政治的な問題である)。また、ノルマン人がルーシ国家の創設に深く関わっていたのは事実である。さらに、リガ湾やフィンランド湾に流れ込む河川を遡り、9世紀にはバルト海と黒海を結ぶ陸上ルートを支配するようになった。彼らは東ローマ帝国の都コンスタンティノープルにまで姿を現している(839年頃)。このルートは直接イスラム世界へとつながるものであり、フランク王国経由ルートにかわりこのバルト海ルートが一時スカンディナヴィアと東方世界とをつないでいた[13]。伝説的な要素も含む『原初年代記』によれば、882年にはドニエプル川を南下し、リューリクの息子イーゴリが、オレグを後見人にキエフ大公国を建国。彼らはヴァリャーグと呼ばれる。またサガ(スノッリ・ストゥルルソン「ヘイムスクリングラ」)やリンベルトによる聖人伝「聖アンスガールの生涯」によると、9世紀のスウェーデンのエリク王(族王)の時代には、エストニアとクールラント(今のラトヴィアの一部)を支配していたが、それを失ったらしい。なお、スウェーデン・ヴァイキングには、フィン人も参加していたとフィンランドでは主張されているが、史実的な裏付けはない。
フリースラント
詳細は「:en:Viking raids in the Rhineland」を参照

この時期においてフリースラントといえば、現在のブルッヘからユトランド半島西岸までの領域を指す。この領域はフリースラント・フランク戦争の影響で徐々にフランク人の勢力下に入りつつあったが、フランク人らによるキリスト教化政策や文化的同化政策はうまく進んでいなかった。それ故にしばしばフリースラントの住民ら自身がヴァイキングとして周辺を荒らしまわることもあった。

 それと同時期に、フリースラントの諸都市が北欧のヴァイキングに襲撃され始める。ヴァイキングらはフリースラント北部のen: Wieringen地域に拠点を構えることが多かった。またヴァイキングの首長がフリジア公などと名乗りフリースラントを実質的に支配下に置くこともあった。
後裔国家

ルーシ原初年代記によるとリューリクとその息子たちは東スラヴの各部族に要請されて一帯の統率者となり、860年から880年にかけてノヴゴロド公国やキエフ大公国に新しい公朝を立てた。ただし、これは伝承的色彩の濃い史料に基づいており、リューリクが果たして本当に実在したヴァイキングだったのかを含めて、15世紀まで不確実性が残るが、いずれにせよ、この一帯に定住したヴァイキングは次第にスラヴ人に同化して消滅していった。ルーシでは、スラヴ人君主ながら親スカンディナヴィア政策を取ったキエフ大公ウラジーミル1世までがヴァリャーグ人時代であったと言える(ノルウェー・ヴァイキングであるオーラヴ・トリグヴァソンや後にノルマン・コンクエストに関わるハーラル3世が親衛隊としてキエフ大公国に仕えた他、ルーシにおける半伝説的存在であったリューリクを高祖とするリューリク朝が東スラヴ人の国家ではあったものの、1598年まで存在していたなどの影響が残った)。リューリクは、862年にラドガを自分の都と定めたが、ヴァイキングたちにとってもラドガは東方の拠点の一つでもあり、ラドガの周囲にはリューリク及びその後継者たちのものとされる陵墓も現存する。990年代にノルウェー・ヴァイキングのエイリーク・ハーコナルソンがラドガ湖を襲い、ラドガの街に火をかけたことがサガに記されているほか、11世紀にスウェーデン王女とノヴゴロド公ヤロスラフ1世が結婚した時の条件として王女のいとこのスウェーデン貴族にラドガの支配を任じたことが年代記とサガに記されている。また、ラドガの発掘品からもラドガが次第にヴァリャーグの街となっていったことが確認でき、少なくとも二人のスウェーデン王(ステンキルとインゲ1世)が青少年期をラドガで過ごしている。しかし12世紀以降、ラドガはノヴゴロド公国(ノヴゴロド共和国)の所有する、交易のための死活的に重要な前哨地となり、さらに正教会の教会と要塞が建てられ、北欧との関係は薄れていった。

ノルウェー人の築いた植民地は、アイスランドの植民の成功を除き、全て13世紀から16世紀までに、北欧本国からの連絡が途絶えてしまったとされる。しかしその後も僅かながらの「白いエスキモー」、「金髪のエスキモー」に遭遇したと言う、船乗りたちの話が北欧に伝えられたのである。しかしヴァイキングの活動は急速に失われつつあった。

こうして初期のヴァイキングの自由、そして独立した精神は失われてしまったのである。海賊、交易民的な性格を失っていったヴァイキングは、次第にノルマン人と呼ばれる頻度が多くなっていく。

イングランド、ノルマンディー、シチリア、あるいは東方に向かったヴァイキング・ノルマン人たちは、その地に根付き、王となり、貴族となった。やがてノルマン人としてのアイディンティティを喪失し、現地に同化していった。

一方でヴァイキングの故地たる北欧においても、徐々に強固な国家形成がなされていき、その住民たちも、デーン人、スヴェア人、ノース人、アイスランド人へと、それぞれの国家の国民、民族として分離していく。

こうして、13世紀までには、殆どのヴァイキング・ノルマン人は消滅していく事になる。

考古学者による研究では、ヴァイキングの内、ノルウェー人の祖先は主にアイルランド、アイスランド、グリーンランドへ、スウェーデン人の祖先はバルト諸国へ、デンマーク人の祖先はスコットランド、イングランドへ移住したとされる[14]。
戦い

バイキングの襲撃と戦術
バイキングの装備(英語版)

タイムライン

詳細は「fr:Chronologie des invasions vikings」を参照

対バイキング

ブルフ(英語版)(イギリスの対バイキング用要塞群)

著名人物

ヨムスヴァイキング - バルト海のヨムスボルグを本拠地とするバイキング
ノルウェー王オーラヴ1世 - キリスト教化していく転機を作った。
ラグナル・ロズブローク - 大異教軍を率いイギリスやフランス(パリ包囲戦)を襲った。
ビルカの女性ヴァイキング戦士
骨なしのイーヴァル(英語版)
エギル・スカラグリームスソン
赤毛のエイリーク
のっぽのトルケル
ハールヴダン・ラグナルスソン
剛勇のビョルン
シグヴァルディ

関連作品・ジャンル
詳細は「Category:ヴァイキング時代を舞台とした作品」を参照

上述の通り、角兜・毛皮のベストなどの、史実と異なるヴァイキングのステレオタイプの風俗が採用されている作品が多い。

漫画

緋色い剣(あかいつるぎ) - あずみ椋による、北欧伝説をもとにヴァイキングの活動を描いている(1986年~1993年)。
獅子の如く(1994年~2001年)- あずみ椋による『トリュッグヴィの息子オーラーヴル王のサガ』の翻案。この作者には、ヴァイキングをモデルに以下の漫画がある。
    ディース…!(1987年)
    神の槍(1996年)
    北欧伝説(1987年・1993年)
    戦士の宴(1983年)
    月光は銀の矢のごとく(1987年)
    天涯宮殿(1988年)
ヴィンランド・サガ - 『月刊アフタヌーン』で連載中の幸村誠による歴史漫画。2017年4月21日現在19巻。11世紀のヴァイキングの生き様を描いている。

映像

ヴァイキング - 1957年製作のアメリカ映画。カーク・ダグラス主演。ヴァイキングとイングランド王との抗争を描く。
小さなバイキングビッケ - ルーネル・ヨンソン原作の1974年4月3日 - 1975年9月24日にフジテレビ系で放送されたテレビアニメ作品。角つき兜という欧米のヴァイキングのステレオタイプな印象を、日本に定着させた。
ヴァイキングサーガ - 1995年製作のアメリカ映画。舞台は古代アイスランド。ノルウェーから移住してきたヴァイキングの子孫達の物語。
ヒックとドラゴン - 2010年のアメリカの3Dアニメ映画。
ヴァイキング・サーガ - 2013年製作のイギリス映画。793年のリンディスファーン修道院襲撃事件が題材。
ヴァイキング 〜海の覇者たち〜 - TVシリーズとして2013年からカナダやアメリカで初公開されている。
バイキング - 8世紀のノルハイムを舞台とした2016年から2020年のノルウェーのコメディドラマ。

ゲーム

The Fury of the Norsemen: Micro history 4 - メーカーMetagaming、デザイナーK. Hendryxの1980年のゲーム。10 - 11世紀前後に活発に活動した、北欧のヴァイキングたちが蛮族として登場する戦略級 - 作戦級のウォーゲームは色々とあるが、非常に珍しい(おそらく唯一の)ヴァイキングのその襲撃行動そのものをシミュレートした作品。
アサシン クリード ヴァルハラ - ヴァイキングの侵攻が活発だった9世紀ヨーロッパを舞台としたゲーム。主人公のエイヴォルが属する戦士団がヴァイキングである他、ゲーム内でヴァイキングの装備、文化や建築が再現されている。

その他

スカンジナビア航空は、創設以来の伝統として、保有する航空機一機ずつに全て "○○ Viking" とヴァイキングの英雄の名を愛称として名づけており、北欧の民族としての誇りを強調する形を取っている。
ウップヘリーアー(英語版) - 1890年代からシェトランド諸島で行われているヴァイキングの伝統を称える火祭り[15]。
日本の飲食店では、食べ放題メニューがしばしば「バイキング」と呼ばれる。これは北欧の食べ放題メニューであるスモーガスボードを日本に導入した際、日本人には馴染みが無い言葉で発音もしにくい事から「北欧といえばバイキング」という連想で命名されたものである[16]。
ノースマン 導かれし復讐者 - 2022年製作のアメリカ映画。10世紀のアイスランドを舞台に、ヴァイキングの王子アムレートが、父親を殺した叔父に復讐を誓う。

読書案内

日本語で記述された基本的な文献を出版年の新しい順に並べた。

市川定春と怪兵隊『幻の戦士たち』新紀元社、2011年。ISBN 978-4775309421。
角谷英則『ヴァイキング時代(諸文明の起源9)』京都大学学術出版会〈学術選書〉、2006年。ISBN 978-4-87698-809-9。
ラーション, マッツ・G.『悲劇のヴァイキング遠征 東方探検家イングヴァールの足跡1036-1041』荒川明久訳、新宿書房、2004年12月。ISBN 978-4-88008-324-7。
熊野聰『ヴァイキングの経済学』山川出版社、2003年。ISBN 4-634-49130-3。
黒川祐次『物語 ウクライナの歴史』中公新書、2002年。ISBN 4-12-101655-6。
ファーバー, G.『ノルマン民族の謎 海賊ヴァイキングの足跡』片岡哲史、戸叶勝也訳、アリアドネ企画〈アリアドネ古代史スペクタクル 5〉、2001年11月。ISBN 978-4-384-02690-0。
クラーク, H.、アンブロシアーニ, B.『ヴァイキングと都市』熊野聰監修、角谷英則訳、東海大学出版会、2001年。ISBN 978-4-486-01531-4。
ヒースマン姿子『ヴァイキングの考古学』同成社、2000年。ISBN 4-88621-210-7。
ベイティ, コーリン他 著、グラハム=キャンベル, ジェームス 編『ヴァイキングの世界』熊野聰監修、ヒースマン姿子他訳、朝倉書店〈図説世界文化地理大百科〉、1999年5月。ISBN 978-4-254-16656-9。
伏島正義『スウェーデン中世社会の研究』刀水書房、1998年。ISBN 4-88708-223-1。
ハストルプ, K.(デンマーク語版) 編『北欧の自然と生業』熊野聰、清水育男、早野勝巳訳、東海大学出版会〈北欧社会の基層と構造 2〉、1996年5月。ISBN 978-4-486-01361-7。
アルムグレン, B. (スウェーデン語版) 編『図説ヴァイキングの歴史』蔵持不三也訳、原書房、1990年6月。ISBN 978-4-562-02101-7。
熊野聰『北欧初期社会の研究』未來社、1986年。ISBN 4-624-11102-8。
熊野聰『北の農民ヴァイキング』平凡社、1983年。ISBN 4-582-47407-1。』

資源の呪い

資源の呪い
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%87%E6%BA%90%E3%81%AE%E5%91%AA%E3%81%84

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

資源の呪い(しげんののろい、英: resource curse)とは、鉱物や石油など非再生の自然資源が豊富な地域における経済用語である。こうした地域では、資源の豊富さに反比例して工業化や経済成長が資源の少ない国よりも遅いとされる。このことから豊富さの逆説 (paradox of plenty) ともいう。

この仮説はいくつかの異なった論拠からきている。オランダ病としても知られる、天然資源の輸出により製造業が衰退し、失業率が高まる現象もその理由の一つに入っている。また、国際的な天然資源の相場価格の不安定さがこれらの地域経済に直接に影響を及ぼすため、不安定な経済体制になってしまっていることもその要因の一つである。

この資源の呪いは、資源の豊富な国に必ず見られる現象というわけではないが、多くの国について当てはまっているとされる[1][2]。

概要

天然資源は経済に関して祝福というよりむしろ呪いだとする考え方は、1980年代から注目され始めた。用語として初めて用られたのは、1993年にリチャード・アウティの「資源の呪いという命題 (resource curse thesis)」である。直感に反して、資源の豊富な国々で資源を経済成長の推進のために使うことがいかにできていないか、そしてそうした国々は資源が豊富でない国よりも経済成長しにくいということについて述べられている[3]。

この問題については多数の研究があり、その一つは、ジェフリー・サックスとアンドリュー・ワーナーによるもので、自然資源の豊富さと、貧しい経済成長の関係を示している[4]。

自然資源の豊富さと経済成長とのつながりの無さは、石油産出国の例に見ることができる。1965年から1998年のOPEC諸国の一人あたりGNP成長率は、年平均で1.3%ほど減少している。一方その他の世界の国々は毎年平均で2.2%の成長を遂げている[5]。

経済成長が進まない原因

豊富な資源が経済発展に結びつかない原因として、イギリスの経済学者リチャード・アウティは以下のような事例があるとした。

・資源に依存し、他の産業が育たない。
・資源確保の為過度な開発が進み、土地が荒廃する。
・資源確保をめぐる内戦や政治腐敗の進行
・資源の富が宗主国に吸収される。

紛争リスク

「戦争#戦争の原因」、「紛争鉱物」、および「紛争ダイヤモンド」を参照

ある国のGDPのうち一番大きな割合を占める輸出品について、輸出額の占有率が5%程度ならばその国で紛争が起きるリスクは6%ほどだが、25%になると紛争が起きるリスクが33%まで上昇するという研究がある[6][7]。

資源の呪いから抜け出す動き

このような傾向に陥らないよう、資源国ではそれを回避する政策が取られている。例えばカザフスタンではソブリン・ウエルス・ファンドを設立し、資源から得た富を積極的に投資に回し、資源に依存しない収入源としている。このような動きは、ノルウェーやモーリタニア、イランでも行われているが、一方でベネズエラやナウル等では未だに資源に依存したモノカルチャー経済となっており、脱却が課題となっている。』

ナゴルノ・カラバフの歴史

ナゴルノ・カラバフの歴史
https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%98%D1%81%D1%82%D0%BE%D1%80%D0%B8%D1%8F_%D0%9D%D0%B0%D0%B3%D0%BE%D1%80%D0%BD%D0%BE%D0%B3%D0%BE_%D0%9A%D0%B0%D1%80%D0%B0%D0%B1%D0%B0%D1%85%D0%B0

 ※ 今日は、こんな所で…。

『(※ 原文は、ロシア語。翻訳は、Microsoft Edge翻訳)

ウィキペディアから、無料の百科事典
ナゴルノ・カラバフの歴史

ダディヴァンク1.JPG
先史時代
アジフ洞窟 • シュシャ洞窟 • タグラー洞窟
コジャリ・ガダベイ文化 クロ・アラク文化

上世
ウラルトゥ
、アルメニア(サトラップ)、イェルバンディド、
大アルメニア(アルツァフ)、

白人アルバニア
中世
バグラティッド アルメニア
ハチェン公国
ニュータイムズ
アルツァフ解放闘争(1724-1731)
カシャタグ メリクストヴォ カラバフ ベグラーベグストヴォ

メリクドム ハムシー
カラバフ ハン国
XIX—XX
グリスタン平和条約
エリザヴェトポリ州
アルメニア第一共和国 アゼルバイジャン民主共和国 アルメニア・アゼルバイジャン戦争
山岳

アルメニア共和国 アゼルバイジャンSSR(NKAO)
カラバフ紛争
ナゴルノ・カラバフ共和国
、 アゼルバイジャン

P • O • R

ナゴルノカラバフ地域についての最初の書面による言及は、ウラルトゥ王国(紀元前VIII-VII世紀)の源に言及しています。土着の人口は、主に非インドヨーロッパ起源のさまざまな部族でした。この地域のアルメニア化の年代測定についてはさまざまな意見が表明されていますが、ほとんどの研究者は、このプロセスが387年のアルメニアの最初の分割の前に大規模な性格を帯びたことに同意しています。

紀元前2世紀の初めからアルメニアの分割まで、現代のナゴルノカラバフ(古代の作家のオルキステン)の領土は大アルメニアの一部でした。アナニアシラカツィ(VII世紀)の「アルメニア地理」では、アルツァフはその10番目の州(ナハン)としてリストされています。

387年、クロアラクの合流点(アルツァフとウティックの地域)は、アルメニアの王子様の家族の支配下にとどまり、強いアルメニアの影響を維持しながら、ペルシャから白人のアルバニアの家臣に譲渡されました。多民族のアルバニア王国は705年にアラブ人によって破壊されました。

822年、独立したアルメニアのハチェン公国がアルツァフで宣言されました。884年、ハチェンの支配者たちは、アルメニアの独立を宣言し、アルメニアの王を宣言したアショットIバグラトゥニの権威を認めました。

1045年に中央集権的なアルメニア国家が失われた後、ハチェン公国は何世紀にもわたってアルメニアの支配が維持された地域の<>つであり続けました。

中世後期に、情報筋は、アラクスとクラの間の平野に現れ、そこで座りがちなアルメニア人とイスラム教徒の人口と混ざり合い、「カラバフ」という名前を付けたトルコ人の遊牧民に言及し始めます。遊牧民は平野で冬を過ごし、夏には高地の牧草地に移動しました。この順序はXX世紀まで維持されました。ナゴルノ・カラバフのチュルク系遊牧民は、オスマン帝国支配の短期間の1593年と1727年の国勢調査に記録されています。クルド人の部族は、ナゴルノ・カラバフのアルメニア支配者とアルメニアの主要な領土との関係を弱めるために、1600年頃にナゴルノ・カラバフとザンゲズールの間に位置する地域にペルシャ当局によって再定住しました。

XV世紀には、ハチェンはトルコのカラコユンル州とアクコユンル州の一部であり、XVI世紀の初めにサファヴィー朝の一部となりました。XVI-XVII世紀に、ハチェン公国は1つの小さな所有物 – メリクドムに分割されました。XVIII世紀半ばまで存在していたカムサのメリクドムは、現代までアルメニアの国民国家構造の最後の中心地となりました[<>]。

彼らの独立を失ったので、メリクドムはカラバフ・ハナテの一部となりました。カナーテの形成に伴い、チュルク族のカラバフへの移住、そして逆にそこからのアルメニア人の移住が激化した。ヴァランダの旧アルメニアメリクドムの中心部に、アルメニアとチュルクの人口が混在する大きな飛び地、シュシャ市が現れました。

1813年、1804 – 1813年のロシア – ペルシャ戦争の終わりに、ロシア – イラン平和条約が調印され、それはロシアの支配下でのカラバフ・ハナテの移行を認めた。1822年、カラバフ・ハナテは廃止され、ロシア帝国のカラバフ州に変わりました。1840年、カラバフ州はカスピ海のシュシャ地区に改名されました。1846年以来、シュシャ地区はシャマキ州の一部であり(1859年にバクーに改名されました)、1867年以来、エリザヴェトポル州の一部でした。

カラバフ・ハナテがロシアに併合された後、多くの地元のイスラム教徒がペルシャに移住しました。この期間中、逆移住の流れもありましたが、ペルシャからのアルメニア人移民は主に旧ナヒチェヴァンとエリバン・ハナテの領土に定住しました。1828年、700のアルメニア人家族がカラバフに再定住し、300家族が帰国し、残りの大部分はペストの流行で亡くなりました。ナゴルノカラバフ(現在のマルタケルト地域)では、イランの都市マラギからの入植者が同じ名前の村を設立しました。将来的には、カラバフには重要な再定住はありませんでした。

XIX世紀の間に、シュシャはトランスコーカサス地方で2番目に大きな都市になりました。都市の人口は主に世紀の半ばまでにその過半数を占め始めたアルメニア人のために増加しました。この期間中、シュシャではカーペットとシルクの生産と貿易が盛んになり、XIX世紀の終わりまでに、シュシャはアゼルバイジャン[3]とトランスコーカサスアルメニア[<>]文化の主要な中心地の<>つになりました。

XX世紀の初めは大規模な民族紛争によって特徴づけられました。1905年240月のアルメニア – タタール虐殺の間に、血まみれの衝突がシュシャで起こりました、その間に318の家、カンダミロフ劇場は燃やされました、そして、<>人が殺されました。当時の衝突は、カラバフとザンゲズルのすべての地域を混合人口でカバーしていました。

1917年の22月の革命後、カラバフは、他のトランスコーカサス地方と同様に、最初は連合のトランスコーカサス委員会とそれによって召集されたトランスコーカサス地方のセイムに従属していました。1918年<>月<>日、トランスコーカサス地方のセイムは、トランスコーカサス地方を独立したトランスコーカサス地方民主連邦共和国と宣言し、<>月末にアルメニア、アゼルバイジャン、グルジアの別々の州に分割されました。

1918年の前半、ナゴルノカラバフのアルメニア人とイスラム教徒は比較的平和に暮らしていました。ティフリスのトランスコーカサス委員会とセイムの名目上の権力を認めて、ナゴルノ・カラバフは事実上独立しており、民族間評議会によって統治されていました。このバランスは、トルコのトランスコーカサス地方侵攻、トランスコーカサス連邦の崩壊、そして<>つの独立国家の創設まで維持されました。

28年1918月1918日、トランスコーカサス地方のSejmのイスラム教徒の派閥のメンバーはアゼルバイジャンの独立を宣言しました。アゼルバイジャン民主共和国は、カラバフとザンゲズルの混合人口の地域を含む、ロシア帝国の旧バクー州とエリザヴェトポリ州の領土を主張しました。1919年の終わりに、第一次世界大戦でトルコが降伏した後、イギリスの軍事任務がシュシャに到着し、15年の初めに、アゼルバイジャンの駐屯地がシュシャとカラバフの他の多くの集落に現れました。1919年<>月<>日、イギリス軍司令部は、アゼルバイジャン政府によって任命されたホスロフベイスルタノフをカラバフとザンゲズルの総督として承認しました。<>月、カラバフの第<>回アルメニア人会議は、アゼルバイジャンからの圧力の下で、そしてイギリス軍の今後の避難とアルメニアが実質的な援助を提供できないことに関連して、パリ講和会議での問題の最終解決までナゴルノ・カラバフのアゼルバイジャンの管轄権を認めた

1920年11月末、ナゴルノカラバフで反アゼルバイジャン蜂起が始まりました。アルメニアの将校が率いるアルメニアの武装分遣隊は、シュシャ、ハンケンディ、アスケラン、タルタルなどのアゼルバイジャンの駐屯地を同時に攻撃した。 蜂起は敗北に終わり、結局アゼルバイジャン軍はシュシャとその周辺の支配を取り戻すことができたが、ナゴルノ・カラバフの田舎での戦闘はアゼルバイジャンのソビエト化まで続いた。<>月、アゼルバイジャンでソビエト権力が確立された後、カラバフは赤軍の第<>軍の部隊によって占領されました。

1920 – 1921年にカラバフで<>つの反ソビエト蜂起がありました – <>つはアルメニア人ともう<>人はアゼルバイジャン人です。

5年1921月1923日、RCPの白人局(b)のプレナムで、ナゴルノカラバフをアゼルバイジャンSSR内に残し、幅広い地域自治権を与えることが決定されました。シュシャ市は地域の行政の中心地として設立されました。1937年、ナゴルノカラバフ自治区(AONK)がアゼルバイジャンSSRの一部としてナゴルノカラバフのアルメニア人居住地域から形成され、行政センターは後にステパナケルトと改名されたハンケンディ村に移されました。<>年、AONKはナゴルノカラバフ自治区(NKAO)に変わりました。

1928年のソビエト連邦の地図上のナゴルノカラバフ(AOHK)
ソビエト時代、アルメニアSSRの指導部は、ナゴルノ・カラバフをその構成に移すという問題を繰り返し提起しました。アルメニアとアゼルバイジャンでの国民運動の急激な増加を背景に、ペレストロイカ(1987-1988)の年の間に、共同体間の紛争はより深刻になりました。1988年<>月から<>月までに、両共和国の住民の大多数がこの紛争に巻き込まれ、それは実際にはナゴルノ – カラバフの地域問題の枠組みを超えて成長し、開かれた民族間対立に変わりました。

1991年から1994年にかけて、この対立はナゴルノ – カラバフといくつかの隣接地域の支配のための大規模な軍事作戦につながりました。5年1994月<>日、休戦と停戦に関するビシュケク議定書が、アルメニアと自称ナゴルノカラバフ共和国(NKR)、アゼルバイジャンとの間で署名されました。

武力紛争の結果は、その「凍結」とアゼルバイジャンからのNKRの実際の独立でした。旧ナゴルノカラバフ自治区の領土の92.5%といわゆる「セキュリティゾーン」(自治区に行政的に従属していないが、その領土を取り巻く地域)は、NKRの管理下に置かれました。紛争は、この地域に大きな民族的変化をもたらしました。ここに住むすべてのアゼルバイジャン人とクルド人は、敵対行為に覆われた地域から逃げました。アルメニアの支配区域外に住むほとんどすべてのアルメニア人はアゼルバイジャンを去り、ほとんどすべてのアゼルバイジャン人はアルメニアを去った。

2020年、長年の不安定な停戦の後、当事者間で武力紛争が発生し、<>か月半続きました。その結果、停戦声明が調印され、「NKRセキュリティゾーン」(ラチン回廊を除く)全体と旧ナゴルノカラバフ自治区の領土の大部分(シュシャ市を含む)がアゼルバイジャンの支配下に置かれ、ロシアの平和維持軍が残りのゾーンに導入されました。

コンテンツ
1 古代から紀元前1世紀まで。
2 紀元前1世紀のクラの右岸の人口
3 グレートアルメニア。紀元前387世紀–西暦<>年
4 白人アルバニア
5 アルメニア首長国連邦
6 中世。X-XVI世紀のハチェン公国
7 サファヴィー朝の支配。カラバフベグラーベクストヴォ。XVI-XVIII世紀
7.1 ハムサのメリクドム
8 カラバフ・ハン国
9 ロシア帝国の支配下にあるカラバフ。1822-1918年
10 1918-1919年の出来事
11 1920年春のアルメニア – アゼルバイジャン戦争
12 ナゴルノ・カラバフ自治区の設立
13 ソビエト時代
14 カラバフ紛争。1987-1991
15 カラバフ戦争。1992-1994
16 ナゴルノ・カラバフ共和国
17 第二次カラバフ戦争
18 国際楽器
19 コメント
20 筆記
21 文学
22 センチメートル。同様
23 外部リンク

古代から紀元前1世紀まで。

ナゴルノカラバフの領土でネアンデルタール人の最も古い証拠は、旧石器時代(アジフ/アゾフ洞窟)にまでさかのぼります。

カラバフの領土の銅(より正確には銅石)時代は、紀元前VI-V世紀の変わり目に始まりました。同時に、牛の繁殖と原始的な鍬の養殖、そして泥レンガで作られた住居のある小さな集落が広がりました。青銅器時代初期(紀元前III-II千年紀)には、この地域には、まだ比較的広く石器(斧、インサート)を使用していたクロアラク文化の保因者が住んでいました。それらは、青銅器時代後期と鉄器時代初期のコジャリ – ガダベイ文化(紀元前XIII-VII世紀)の代表者に置き換えられました。 コジャリ近くの古墳の4つで、アッシリアの王アダドニラリ5世[6] [1000]の名前の瑪瑙ビーズが発見され、I. I.メシュチャニノフによれば、トランスコーカサスの文化と古代メソポタミアの中心との接触を証明しています[<>]。紀元前<>年頃、カラバフだけでなく、地域全体で、彼らは鉄の入手方法と鉄の道具の作り方を学びました。

紀元前1世紀のクラの右岸の人口

紀元前V-IV世紀のコーカサスの民族地図 出典 – 『世界史』第2巻、M.、1956年
カルディ神は彼の武器(?)で(キャンペーンで)行進し、彼はアルクキニの国を打ち負かしました。サルドゥリは言う:私は(キャンペーンに)出発し(そして)アルクキニの国を征服した。ウルテヒニの国にたどり着きました(?

  • アルギシュティ7世の息子サルドゥリ<>世の碑文[<>]
    ツォヴァク(旧ザガル)の村で見つかったサルドゥリ8世王(紀元前VIII世紀)のウラルティアの楔形文字の碑文は、セバン湖の南東に位置するウルテケまたはウルテヒニの国に言及しています[9] [10]。アルメニアの作家によると、この地名は後の形の「オルキステン」(ギリシャ語:Ὀρχιστηνή)と「アルツァフ」(アルメニア語:「アルツァフ」)のプロトタイプです。 Արցախ)[11][<>]。

セヴァンの東海岸、後のアルツァフの領土では、ピルアイニの国も言及されており、その名前はヒッタイト・ルウィの神ピルアの名前に対応し、そこからこの地域の初期人口の一部がアナトリアのグループの言語を話しました[12]。

ウラルトゥのアルギシュティ13世王(紀元前VIII-VII世紀)の治世中のシシアンからの楔形文字の碑文は、イタリアの泌尿器学者ミリオサルヴィーニが現代のステパナケルトの場所にローカライズしたアムシャの街に言及しています[14]。サルヴィーニによれば、碑文はウラルトゥが現在のナゴルノ・カラバフに向かって前進したことを示している[<>]。

紀元前VI世紀に、この地域はメディアによって征服され、その後アケメネス朝の支配下に置かれました[15]。

R. Husenが指摘しているように、アルツァフとウティクの土着の人口は主に非インド・ヨーロッパ語族起源の部族であり、メディアとアケメネス朝の長い支配の間に、イラン語を話す部族もこの地域に定住しました[16]。古代の作家のデータに基づくイラン百科事典は、アルメニア人のクラ川のほとりへの移住は紀元前VII世紀には早くも起こったと主張している[17]。

現代のアルメニアの歴史家は、古代アルメニアの歴史家モヴセス・コレナツィに言及し、ウティク地域はイェルヴァンド200世の治世の終わり(紀元前18年頃)にアルメニア王国の一部であったと報告しました。[19][18]、カラバフのアルメニア化の始まりを紀元前IV世紀にさかのぼる[19][20][21][22][23]この視点の存在の可能性はR.フッセンによって認められ、これらの領土はおそらくイェルヴァンディドアルメニアの一部であったと述べた[24].以前の作品では、R. Huysenは、アルツァフとウティクの土着の人口の部分的なアルメニア化を、アルメニアの王Artashes Iによる紀元前25世紀の征服後のこれらの地域の大アルメニアへの参入の期間にさかのぼりました。彼の意見では、Artashesによって征服されたクラの右岸が当時アルメニア人であったと信じる理由はなく、古代史の問題についてはコレナツィに細心の注意を払って言及する必要があります[<>]。フランスの歴史家で白人の学者であるジャンピエールマヘは、紀元前IV世紀をクラの右岸のアルメニア化が始まった日と呼んでいます[<>]。

R.フーセンによるイェルヴァンドゥニ王朝(紀元前IV-II世紀)の治世中の大アルメニア[23]
イェルヴァンディドアルメニア(紀元前IV-III世紀)の国境についてはさまざまな見方があります。多くの西洋の作家は、紀元前26世紀までアルメニアの東の国境をアラクとセバン湖の谷に制限しています[27] [28] [387]。ロシアのオリエンタリストV.F.ミノルスキーは、クラ川の南の領土を白人 – アルバニア起源の部族によって占められているが、アルメニア人によって捕らえられ、アルメニア化されたと特徴づけた。これらの領土は、29年にビザンチウムとペルシャの間でアルメニアが分割された後にのみ、アルバニアの支配者の支配に戻った[<>]。

ソビエトのオリエンタリストはまた、それを大アルメニアの時代に帰して、クラの右岸のアルメニア化のプロセスの後の年代測定に固執した。紀元前30世紀にクラの右岸が大アルメニアに侵入したS. T. Yeremyantは、地元住民は西暦IV-VI世紀までにアルメニア化され[31]、この地域が白人アルバニアに併合された時点で、アルツァフの人口はすでに完全にアルメニア人であると信じていました[32]。K. V. Treverによると、シャク人、ウティ人、ガルガル・アルバニア人が住んでいたクラ川の右岸は、紀元前33世紀にアルタシュ387世によって占領され[34]、VII世紀にはアルツァフとウティクの大部分がすでにアルメニア化されていた[35]。A. P. Novoseltsevは、アルバニアと国境を接するアルメニアの地域の地元の多部族人口の一部は、アルメニアの政治的覇権の期間中、<>年に分裂するまでの古代末期のアルメニア化であると信じていました[<>]。ノボセルツェフは、VII-IX世紀がこのプロセスに特に積極的であると考えています[<>]。

この地域の古代人口の話題は、アゼルバイジャンとアルメニアの両方で修正主義的な解釈を受けました。一方では、多くのアルメニア人の歴史家は、クラの右岸の関連するアルバニア人(白人)の人口についての伝統的な見方に反して、この地域は紀元前VI世紀からアルメニアの一部であったと主張したため、アルメニア人はそこで最も古い民族グループでした[36]。次に、アゼルバイジャンの歴史学者の多くは、アゼルバイジャンの歴史学の「普遍的なトルコ化」に沿って、白人のアルバニアに住む部族はもともとチュルク起源であると宣言しています[37]。

グレートアルメニア。紀元前387世紀–西暦<>年
センチメートル。他を見る: 大アルメニア

紀元前II-I世紀のトランスコーカサス、「世界史」、T.2、1956年

遅くとも、紀元前387世紀の初めから西暦38年の大アルメニアの分割まで、約39世紀の間、現代のナゴルノカラバフの領土はアルメニア国家の一部でした[32]。アルツァフが最初にアルメニアの一部になったのはいつかは正確にはわかっていません[40]。K.トレバーによれば、シャク、ウティ、ガルガース-アルバニア人が住んでいたクラの右岸は、紀元前41世紀にアルタシュ32世によって占領されました[42]。クラ川沿いの大アルメニアの国境が出現した時点では、白人アルバニアの状態はまだ存在していませんでした:それはIIの終わり[43]または紀元前I世紀の半ばにさえ生じたと考えられています[43] [4]。A.ノボセルツェフは、紀元前44世紀から西暦<>世紀-ストラボン、プトレマイオス、プリニー長老、ディオカッシウス、プルタルコスなどの古代の情報源を分析し、アルツァフが大アルメニアに属していることと、クラ川に沿ったこの州の北東の国境の通過の兆候のみを見つけます[<>]。古代ギリシャの地理学者で歴史家のストラボンは、「オルキステナ」の形でこの地域に言及しています[<>]。R. Huysenは、この名前が「Artsakhene」という形式の歪みである可能性があることを認めています[<>]。紀元前<>世紀半ば(ポンペイのキャンペーンの時代)の情報源に基づいて、ストラボンはオルチステナを「騎手の数が最も多いアルメニアの地域」として特徴付けました(「地理」、XI、XIV、<>)[<>]。

2005年に遺跡が発見され、ティグラナケルトがアルツァフのティグラン大王によって建てられた都市を特定するアルメニアの考古学者によると、城塞の遺跡、V-VI世紀のキリスト教大聖堂の遺跡、アルメニアで見つかったものと同様の何百ものオブジェクトがそこで発見されました。この都市は紀元前45世紀からXIII-XIV世紀まで存在していました[<>]。

それにもかかわらず、古代におけるArtsakhの所属は、XX世紀の半ば以来、激しい議論の対象となっています。アゼルバイジャンの学者(Z. Buniatov、続いてI. Aliyevなど)は、古代の作家の報告は「不正確」であり、Artsakhは常にアルメニアの一部ではなく、アルメニアと白人のアルバニアの間で手から手へと渡された、あるいは永久にアルバニアの一部になったという理論を提唱した。この理論の反対者は、それを歴史を改ざんするキャンペーンの一部と見なしており、彼らによれば、ソビエト時代からアゼルバイジャンで行われてきました[46]。

ウィストン1736.jpg
L’Arménie majeure dressée sur les auteurs arméniens et divisée en 16 grandes provinces.1788.C.jpg
グレートアルメニアの地図、1869年.jpg
アルメニア,1907.jpg
大アルメニアの地図上のアルツァフ、1736年、ロンドン 大アルメニアの地図上のアルツァフ、1788年、フランス 大アルメニアの地図(ベルリン版、1869年) 古代西アジアの古地図、1907年

47世紀の初めに、アルメニアの啓蒙者である聖グレゴリーは、アルメニアの文化と教会生活の主要な中心地の<>つとなったアルツァフにアマラス修道院を設立しました。同じ修道院にすぐに、異教徒によってアルバニアで殺されたイルミネーターの孫である別の聖グレゴリーが埋葬されました[<>]。

「要塞化されたガヴァル・アルツァフ」は、360年代にアルメニアの王アルシャク48世に反抗した多くの地域でファウスト・ブザンドによって言及されています。彼は敗北し、司令官ムシェグ・マミコニャンによって服従した[<>]。

アルツァフティグラナケルトと同一視されるアグダム市の近くの古代および中世の都市の遺跡は、紀元前49世紀に大アルメニアティグラン<>世の王によって、またはティグラン<>世の治世中に建てられました<>
ゾラナマクによれば、アルツァフは皇帝軍に1000人の兵士を配備することになっていた。

アナニアシラカツィ(VII世紀)の「アルメニア地理」では、アルツァフは大アルメニアの12番目の州(ナハン)としてリストされており、南から北に50のガバール(地区)に分かれています[<>]:

パルサカンク(パルズヴナック、アラク川のほとりに沿って)、
ミウス・アバンド(アマラスの修道院でした)、
ムハンク、
ピアンク(ティグラナケルトと現在のアグダムの反対側)、
ハージランク、
メッツアランク、
ベルダゾール、
メッツクエンク、
ヴァイクニク(現在のケルバジャール地区)、
コグト(後のグリスタン、ソビエト時代-シャフミャノフスキー地区)、
クスティ、
パーンズ。
(こちらの地図をご覧ください)。

しかし、アナニアスの時までに彼は「アルメニアから引き裂かれた」とも述べています[50]。

アルツァフの北東にはウティック県が広がり、西にはシュニク県が広がっていました。

白人アルバニア

センチメートル。参照:白人アルバニア

387年にイランとローマ帝国の間でアルメニアが分割された後、アルツァフとウティクの地域はアルバニアに組み込まれました[29] [51] [52]。VII世紀のシラカツィの作者によると、「…アルバニア人はアルメニア人から地域を引き裂いた:シカシェン、ガードマン、コルト、ザベ、そしてアラクとクール川の合流点の前に横たわっているさらに20の地域」[50]。フナラケルトからアラクとクラの合流点までのクラの右岸の地域の併合により、その境界は大幅に拡大しました[53]。アルバニア自体がイランに提出した[54]。「世界史」が指摘しているように、これらの地域におけるアルメニアの影響は、大アルメニアにかなり長く存在していたため、特に強かった[55]。

56世紀半ばに首都がカバラからパルタフに移された後、アルバニアでは新しいキリスト教文化が栄えましたが、それは本質的にアルメニア人でした[<>]。<>世紀の終わりまでに、アルバニアの王ヴァチャガン<>世はキリスト教の地位を強化するように設計された政策を追求し、教会の建設を主導し、学校を設立しました。アルツァフは、ゾロアスター教を根絶するための措置を講じた最初の地域の<>つでした。Artsakhは、VI世紀初頭のトランスコーカサス地方での北コーカサス地方の人々の侵入に関連しても言及されています。

VI世紀の終わりに、アルツァフの北、ウティカのガードマン地方に、ペルシャ起源のミフラニード王朝が定住しました。アルメニアの環境に入ると、ミフラーン朝はすぐにアルメニア化されました[57][58]。

アルバニアは多民族王国でした[38] [59]。アルバニアの部族とアルメニア人はクラの右岸に住んでいて[60]、グルジアの部族は北西部に住んでいました。VII-VIII世紀の変わり目に、ステパノスシュネツィはアルメニア語のアルツァフ方言の存在について報告しました[61] [62] [63]:

また、/すべき/彼らの言語のすべての限界方言(զբառսնեերականս)を知っている必要があります(զքոլեզուիդ)、コルチャイとハットと第4アルメニアとスペルスキーとシュニとアルツァフ(զՍիւնին、եւզԱրցախայինն)、そして中部と中央部だけでなく、/そしてこれらの方言/は多様化と歴史に適しています

アルバニア王国は461年にペルシャ人によって廃止され、510年に回復して再清算され、630年に再び回復し、最終的に705年にアラブ人によって破壊されました。

VI世紀の半ばに、アルバニア(アグヴァン)カトリック教徒が結成されました[64]。705年、アルバニアのカトリック教徒はアルメニア教会と連合を結び、ついにその一部となった[65] [66] [67] [通信1]。

アルメニア首長国連邦

センチメートル。アルメニア首長国連邦も参照

651年、アルメニアの司令官テオドロス・ルシュトゥニは、アルメニア、ジョージア、アルバニアの自治王子としての承認と引き換えに、アラブカリフ制の宗主権を自発的に認めました[68]。アルメニアは首長またはワリによって統治され、その本部はドヴィン(アラブの情報源ではダビル)にありましたが、その役割は防衛と徴税の問題に限定されていました。ほとんどの場合、国は地元のアルメニアの王子ナカラルによって統治されていました。公式には、州は701年から705年のカリフアブドアルマリクの治世中に設立されました。アラヌスはアルミニウスの副王領の一部となった[40] [60]。アルメニア首長国連邦(アルミニア)は4つの地域に分けられた[69]:

アルミニア1位-アラン、アルシサジャン、シルヴァン、デルベント
アルミニア2位 – ユルザン(イベリア)
アルミニア3位–アルメニア北部および南東部
アルミニア4位–アルメニア南西部

ルシュトゥニ王朝は実際にアルメニアを統治し、アラブ人に敬意を表して、アルツァフの政権はルシュトゥニの力を認めたミフラニー朝の王子様の家族の手に委ねられていました。822年、ミフラーン朝の最後の代表者が殺害され[70][71][72]、アランシャヒク朝の旧アルメニア王朝の支配が再び回復した[71]。K.ボスワースは、シェキのアルメニアの王子、サール・スムバティアンが「アランに対する彼の力を拡大した」と述べた[72]。アラビア語の情報源では、後者はサール・イブン・サンバット・アル・アルマーニの形で言及されることがありました[73]。V.シュニレルマンによれば、アランシャヒクの主権は山岳地帯にのみ限られていた[71]。アルツァフはアラブカリフに対する一般的なアルメニアの蜂起に参加しました。852年にメソポタミアに強制送還されたアルメニアの王子の中で、アットタバリはハチェンの王子アダルナルセイブンイシャクアルハシニに言及しました[74]。

ほとんどの専門家が指摘しているように[60]、中世にアルメニア人が住むナゴルノカラバフの領土に広がった地名「アグヴァンク」(アルアンク、アグバニア、アルバニア、アラン)は、古代白人のアルバニアと同一とは見なされません。科学者によると、この時までにアルツァフは間違いなくアルメニアの地域であり、「アルバニア」または「アルバニア」という用語には民族的な内容はなく、単なる歴史的遺物でした[35]。エデッサのマシューは、彼の時代のアルバニアは「ディープアルメニア」と呼ばれていたと述べた[75]。V.シュニレルマンが書いているように、たとえば、生き残った用語「アルバニア教会」は、教会の伝統の保守主義の結果にすぎませんでした[36]。A.ノボセルツェフは、IX世紀以来、アルメニアの情報源の「アルバン人の国」は、アルメニア教会の階層の76つであるアルヴァンカトリコスの管轄の地理的境界のみを示していたと述べています[77]。V.シュニレルマンとS.ユシュコフは、モフセス・カガンカトヴァツィによる「アグヴァンクの国」はもはや元の白人アルバニアと同一ではなかったと信じています[78] [2]。「アルバニアの王子」[Comm 79]と称されることもある地元の支配者は、すべての歴史的資料で彼らの民族性をアルメニア人として特定しました[<>]。

中世。X-XVI世紀のハチェン公国
主な記事: ハチェン公国
センチメートル。他を見る: ハサン・ジャラリャン、ドピヤン
ガンザザール – 2017月17 – <>.JPG
ダディヴァンク修道院 2017 11.jpg
ガンザサル(1216-1238)とダディヴァンク(1214)のアルメニア修道院
ベルドからダビルへの道はアルメニア人の土地を通り、これらすべての都市はアシャットの息子であるサンバト王国にあります

  • イスタクリ、X世紀[80]

IX-X世紀の変わり目に現代のカラバフの山岳地帯で、アルメニア人[81][82][83][71][84][85][86][87]ハチェン公国が形成されました。地名の最初の言及はX世紀にさかのぼります[82](アルメニア語のルートkhach – cross[88]から)。IX世紀の初めから、ミフラニド王朝の崩壊後、支配的なシュニ王朝の住居はメッツアランク地域のハチェンの要塞にありました。この種の権力が広大な地域全体に広がったため、メッツアランクとアルツァフの残りの部分の両方が徐々にハチェンと呼ばれるようになりました[89]。ハチェン公国の最初の支配者であるR.ホイセンは、「アルメニア高地の南東斜面にある山岳国全体」を支配したアトルネルセックを検討しています[90]。X世紀の初めに、彼らはアルメニアのバグラティッドの家臣になりました[71] [91]。ハチェンはビザンチンの情報源でも言及されています。「儀式について」という本によると、コンスタンティンポルフィロゲニトゥス皇帝の下で、ハチェンの王子たち、および50世紀の他のアルメニアの王子へのビザンチンの公式の手紙は、「アルメニア」(古代ギリシャ語。 ‘Άρχων τοΰ Χατζιένης)[92][93]。X-XI世紀の変わり目に、この地域は再びシャヒンシャーガギクIによってアルメニアに従属しました[<>]。

1045年、ビザンチン人はアルメニア王国を破壊し、1064年から1071年にかけて、アルメニアはセルジュク朝に征服されました。ブリタニカ百科事典とロシアの専門家が指摘したように、ハチェンはアルメニアの支配がこれらの条件下で維持された数少ない場所の84つであり続けました[94] [95]。アルメニアの軍事および教会機関はここで生き残り、教育が発展した[89]。モンゴル、トルコ、サファヴィー朝の支配のその後の時代に、ハチェンはアルメニアの政治的実体と自治としての彼の地位を維持しました[96]。これは中世の数字によっても実現されました。保存されたハチェン公国について言えば[97][98]、たとえば、傑出した中世アルメニアの歴史家で法学者のムヒタル・ゴシュは、アルメニアの国家を回復することを夢見ていた[<>]。

エラミテの治世中、アルメニア王国は長い間ついに証言録取され、すべてを奪われたイシュハンの残党は散らばり、国中をさまよい、お互いに従うことを拒否した。特にアルツァフの国の難攻不落の要塞に住んでいた人々[99]。

XI世紀から、東トランスコーカサスのいくつかの波がセルジュークオグズと他のチュルク族によって侵略されました。クラとアラクの間の平坦な土地(ミルスコ-カラバフ平野)に定住したチュルク族の一部は、その後、地元のイラン人と白人の人口と混ざり合い、将来のアゼルバイジャン民族グループの基礎を形成しました[100]。

ヴァフタングタガヴォラズン王子、XIII世紀のミニチュア

1142年に、ヴァフタングサカールハサンクロナヴォリアルの息子はハチェンの宗主国になり、1182年に – 後者のヴァフタングタガヴォラズンの息子になりました。XII世紀の終わりに、ハチェンは101つの地域に分けられました – 下部ハチェン、アテルクと上部ハチェン(皇帝)。XII-XIII世紀の変わり目に、ハチェンはトランスコーカサスアルメニアの他の地域とともに、ザカリア人によってセルジューク朝から解放されました[1214]。XIII世紀の初めに、アテルクの大君主の所有は弱まり、64年にヴァフタングタガヴォラズン王子の死後、彼の土地はアルメニア人によって統治された下ハチェンと上ハチェンに分割されました[102][1216] サール・スムバティアンの子孫の枝であるハサン・ジャラリアンとドピャンの王子王朝。しばらくの間、宗主国はアッパーハチェンに移され、そこでイヴァネとザカレザカリヤノフの姉妹であるドップ王女が統治しましたが、すでに103年に宗主国はハサンジャラルドールに渡されました。彼の同時代人である歴史家のキラコスは、後者を「敬虔で、神を恐れ、謙虚な男、生まれながらのアルメニア人」と表現しました[<>]。

アルメニア人が住んでいた[64] [104] [105]、この地域は1220年から1221年に最初にモンゴルの侵略にさらされました[106]。1236年にこの地域はついに征服された[107]。A.ヤコブソンによれば、「モンゴル・タタールの侵略者への抵抗と彼らに対する闘争は、独立したハチェン公国の歴史全体を埋め尽くした」[83]。アルツァフはチャガタイ・ノヤンに服従した。ハチェンの土地は、ホハナバードの要塞とともに、チュグブガノヤンに直接渡されました[108]。S.チフヴィンスキーは、ホハナバードの要塞で身を強化したハサンジャラルが彼に英雄的な抵抗を示したと述べた。要塞を占領できなかったモンゴル人は、自分自身を家臣として認めたアルメニアの王子と和平を結びました[109]。B.ダシュドンドッグによれば、ハサンジャラルは、他のアルメニアの王子と同様に、モンゴルに従うというアルメニア北東部の最高王子アバグの同様の決定の影響を受けました[110]。それ以来、ハチェンの王子たちの政治的影響力はより強くなった[111]。ロシアの有名な専門家[105] [94]が指摘したように、ハチェンはアルメニアの精神性と国民文化の中心地の112つにもなります。アルメニア建築、ミニチュア絵画、ハチュカルアートが発展しています。この地域は自治を維持し続けています。モンゴルの征服の期間について話すと、XIV世紀初頭の歴史家ゲトゥムは次のように述べています[<>]。

彼らは、ジョージアにあるアブハジア王国と、アルエン(Աղուեն)と呼ばれる地域のアルメニア王国を除いて、アジア全体を征服しました。これらの2つの州だけがサラキノス(サラセン人)に抵抗することができ、彼らに従うことをまったく望んでいなかったので、彼らはサラキノスによって迫害されたすべてのキリスト教徒の避難所になり、ムハンマドの法律に従うことを余儀なくされました。

ハサンジャラルは1261年まで統治し、この地域の主要な修道院であるガンザサールの創設者であり、ハサンジャラリアン王朝の祖先としても知られています。彼はイルカン・フラグに仕えたアルグン・アカの命令で殺された。1250年、皇帝の村のアッパーハチェンで農民運動が勃発しました[113]。

«…それは山と森の間のアクセスが難しい地域(ウィラヤット)です。アランの地区(アグマル)に属しています。アルメニア人がいる(ペルシア語の原文では、人口は「アルメニア人である」[114][103])。アブハジア(ジョージア)の人々は彼らをパディシャタガバーと呼んでいます»

-ペルシャ語の地理学的作業、XIII世紀[103] [87]

XIII-XIV世紀初頭、アッパーハチェンの著名な王子はグリゴールIドピアン、ハサン6世、グリゴール1380世でした。後者の死後、ドピャノフの政治的影響力は弱まった。アッパーハチェンは、ハサン115世王子と彼の<>人の息子が殺されたXIV世紀の終わりにタメルレーンの侵略に大いに苦しんだ。<>年代、トクタミシュカーンはアルツァフ、シュニク、パルスカハイクから数万人のアルメニア人を捕虜にしました[<>]。

平野からクラ川とアラクス川の間の山々までの広大な領土は、チュルク語 – イラン語[116]の名前カラバフ(「黒い庭」)を受け取りました。この名前は、XIV世紀半ばにハムダラ・カズヴィニの「ヌシャット・アル・クルブ」で最初に言及され、V.ミノルスキーによれば、同じ名前の消えたチュルク族に関連している可能性があります[117]。アルメニアの歴史家B.ウルバビアンによって表明された別の見方によると、カラバフという名前はカラバ-「黒い庭」から来ていませんが、チュルク語-アルメニア語起源であり、ワラバウク-「グレートバグク」(東アルメニア王国の名前にちなんで)から形成されていますクティシュバグク)。アメリカの歴史家R.ヒューセンは、そのような語源がありそうだと考えています[118]。

関連する王子様の家の数に関係なく、ハチェン公国は常に統一されているように見え、王朝の支部の1つの宗主権を認識しています。

XV世紀には、ハチェンはトルコのカラコユンル州とアクコユンル州の一部でした。カラ・コユンルとアク・コユンルの支配者は、「アグヴァンクのガンザサールのアルメニア人」の教会権を認めたことが知られています[119]。XIV-XV世紀に、ハサン-ジャラリアンはハチェンで所有権を保持しました[120]。XV世紀、ジャハンシャーの時代、アルメニアの封建領主はアルツァフとシュニクでのみアルメニア地域から支配し続けました。ジャハンシャーは彼らを彼の小地域支援と見なした[121]。カラバフを訪れた最初のヨーロッパ人はドイツ人旅行者ヨハン・シルトベルガーで、1405年にこの地域を訪れ、平野カラバフを次のように説明しました[122]。

私もアルメニアで多くの時間を過ごしました。タメルレーンの死後、私はアルメニアに2つの王国を所有していた彼の息子のところに来ました。Shah-Rohという名前のこの息子は、良い牧草地によって区別されたカラバと呼ばれる大きな平原で冬を過ごしていました。それはチグリスと呼ばれるクール川によって灌漑されており、この川のほとりで最高の絹が集められています。この平野はアルメニアにありますが、それでもアルメニアの村が敬意を払うことを余儀なくされている異教徒に属しています。私はドイツ人だったので、アルメニア人はいつも私をよく扱いました、そして彼らが私たちを呼ぶように、彼らは一般的にドイツ人(ニミッツ)を支持して非常に処分されています。彼らは私に彼らの言語を教え、私に彼らのペイターノスターを与えました»

ハサン – ジャラル王朝はこの期間中に止まらず、XVI-XVIII世紀の後半にその代表はナゴルノ – カラバフの多くの小さな主体性でメリクの称号を保持しました。ハサン・ジャラリャンの家族への特別な重みは、彼らの後援の下にアルメニアの神社、地域の精神的な中心であるガンザサル修道院があったという事実によっても与えられました[120]。

サファヴィー朝の支配。カラバフベグラーベクストヴォ。XVI-XVIII世紀

XVI世紀の初めに、ハチェンはサファヴィー朝の一部となりました。行政上、ハチェン地区はカラバフベグラーベグ(後にカラバフとガンジャハン国)の一部であり、カジャール族のジヤドオグル氏族によって統治されていました[123]。しかし、彼らの権力は主に低地カラバフにまで広がり、その人口はイスラム教徒化され、テュルク化され、アルメニア人が住み続けたナゴルノ・カラバフはアルメニアの支配者の手に残った[120]。I.ペトルシェフスキーは、キジルバシュの支配下で、ハサン・ジャラリアンのアルメニアのメリクはハチェン地区のメリクとしての地位を維持していたと書いている[64]。トルコの公式憲章は、カラバフの山村の人口は「アルメニア人の部族から」[124]と述べた。

カラバフでは、最初のティジュリー(封建的所有物)はヴァランダ(将来のフズリ地域にほぼ対応)とディザック(将来のジャブライル地域)でした。1508-1509年と1510-1511年に、これらのティユルはカラバフのベグラーベクピリベクカジャールに与えられました。XVI世紀の終わりに実施された地籍調査によると、ディザックとヴァランダにはそれぞれ数十と120の村があり、それらは主に地元のアルメニアの支配者によって率いられていました。アルメニアの人口から、キリスト教徒からのように、追加の税金が取られました[125]。それらの年の財政データは、ヴァランダとディザクがアゼルバイジャンの行政州の一部であったことを示しています(この地名の使用に関する記事を参照)[126]。

XVI世紀の間に、カラバフの遊牧民はイギルミ・デルド(125)とオツズ・イキ(1593)の連合で団結しました。これらの1727つの連合は、アゼルバイジャン北部のサファヴィー朝の主要な同盟国でした[127]。カラバフベグラーベクストヴォを短期間征服したオスマン帝国は、ここで1593年と127年の1727つの人口調査(タハリール)を実施し、部族の詳細なリストを提供しました[127]。トルコの歴史家A.S.ビルジリは、<>年の時点でジャラベールの地域を歩き回っていたシリア北部からの移民であるバヤット族について報告しています[<>]。<>年のデータによると、ジャバンシール族はバヤット、ディザック、カシャタグ、ヴァランダ、ハチェンで冬を過ごしました。オツズイキ族は、バヤット、ヴァランダ、インゲルド、ハチェン、ジャラベールで冬を過ごしました。ウスタジュル族のソフル族の支部がハチェンに住んでいました。オツズ・イキ連合の一部であるベガメドリ族は、ジャラベールの近くで農業に従事していた[<>]。

さらに、1727年の国勢調査では、ナゴルノカラバフの多くの座りがちなイスラム教徒の村が記録されています[Comm 3]。それらのほとんどはディザックにありました-スレイマンリ[129]、カルガバザール130、ジュヴァリ[131]、さらに約132の村[133]。ジャラバートのマガルには、イスラム教徒が住むイスラム教徒から、ヴァランダにグラブリの村[134]がありました-アソール[134]、ハジオズ[135]、アブダル[<>]。

ハムサのメリクドム
主な記事: ハムとメリク
シャーアッバスの後、カラバグの独裁的な州は2世紀の間偉大なアルメニア国家から残っていました。現在、5つのメリクが知られています。

— アレクサンドル・スヴォーロフ[136]

カムサのアルメニアのメリクドム、XVII-XVIII世紀の前半

XVI-XVII世紀に、ハチェン公国はアラブのハムサ(アラビア語)から137つの小さな公国 – メリクドム、したがって「カムサ」と呼ばれました – に分割されました。 خمسة, “138”, “95”)。XVIII世紀の後半まで存在していたカムサのメリクドムは、アルメニアの国民国家構造の最後の中心でしたが、カラバフのベグラーベックに依存し、自律的または半自律的な地位を持っていました[139] [140] [141] [84] [142]。イスラム百科事典は、アルメニアの土地でのオスマン帝国-サファヴィー朝の支配の時代に、半自治の封建的所有物がカラバフの山々でさまざまな程度で保存されていたと述べています[<>]。ブリタニカ百科事典によると、同じ時期に、「ナゴルノ・カラバフでは、<>人のアルメニアのメリク(王子)の協会がなんとか自治を維持した」[<>]。これは、順番に、この地域のアルメニアの国民的伝統の保存に貢献しました[<>]。

143つのマリク王朝のうち、ハチェンハサンジャラリアンの支配者だけがアルツァフの先住民であるか、そこから生まれましたが、残りの支配者は他の地域から来ました(その後、Jraberdのメリクダムもアタベキアン家の地元の支配者に渡されました)[<>]。これらは(北から南へ):

同じ名前の要塞に首都を持つグリスタン、またはタリシュ。メリク・ベグレリアンの地元の支配者は、シルヴァンのニジ村出身の「ブラックアボフ」と呼ばれる特定のアボフの子孫であり、単純な男でしたが、アルバニアの王にまでさかのぼる自分の血統を構成しました。彼は有名な強盗を捕まえるためにバルダカーンからこの所持品を受け取りました[144]。
Jraberd[145] – 首都はJraberdの要塞である。それは、妹を不名誉にした地元のカーンの殺害後、1687年にここに逃げたイスラエルの息子であるシュニクメリクイザヤの子孫であるメリクイスラエル人によって支配されました[146]。;
ハチェン、ハサンジャラリアンの古代公国の断片、首都 – ホハナバードの要塞(タルハナバード)。この王朝はまだそこを支配しており、そこからアグヴァンクのカトリコスもやって来ました[147];

アヴェタラノッツの要塞を持つヴァランダ。地元のメリク・シャナザリアンは、シャー・アッバス148世が彼に提供されたサービスのためにメリクを作ったゲガマ・ガヴァルのアルメニアのシャナザールの子孫でした[<>]。メリクス・シャナザリアンは、ナゴルノ・カラバフ先住民であるドピヤン家の支部の<>つでした。
トーの要塞を持つディザック。それは、実際には、グルジア王国のアルメニア人が住む地域であるロリのメリク氏族の分派であったメリク・アバニャン人によって統治されました[149] [150]。ディザックメリクは後にイスラム教に改宗し、アゼルバイジャン化された[151]。

アルメニア修道院[145] エレク・マンクンク、XVI-XVII世紀

XVII世紀の初めまでに、クルド人の部族は、ナゴルノカラバフとザンゲズールの間に位置する地域(アゼルバイジャンの現代のケルバジャール、クバトリー、ラチン地域の領土)にサファヴィー朝当局によって再定住しました。このステップは、ナゴルノ・カラバフのアルメニアの支配者とアルメニアの主要な領土との関係を弱めることを目的としていました。それにもかかわらず、120世紀と<>世紀には、カラバフのアルメニアのメリクドムは、強力な隣人によって考慮されるべき力を構成しました[<>]。

カムサのメリクドムでは、独立したアルメニア国家を再現するという考えが生まれました[120]。この目的のために、イスラエルオリアはヨーロッパに送られ、最初はドイツ皇帝の前に、次にピーター152世の前に、外交的にアルメニアに介入しようとしました[1720]。1722年代の変わり目の出来事 – イランへのアフガニスタン人の侵入、サファヴィッド権力の崩壊、そしてピーター大王(1723-60)のカスピ海のキャンペーンは、すべての希望の実現を約束するようでした。 カムサでのロシアのキャンペーンの開始のニュースで、デビッド・ベックの指揮下にあるアルメニアのメリクとグルジア人の153,<>人の強力な軍隊[<>]がすぐに集まった。しかし、ペルシャのトランスコーカサスへのトルコの侵略はすぐに始まり、ピーター<>世はポルトとのコンスタンティノープル条約を締結することを余儀なくされ、それに従ってスルタンはカスピ海でのロシアの買収を認め、ロシアは西トランスコーカサスに対するスルタンの権利を認めた。

アルメニア語の碑文が付いたグリスタンメリクドムの紋章

トルコの占領(1723-1733)の出来事は、何年にもわたる残忍な荒廃と同時に英雄的な闘争として、ハムサのアルメニア人の記憶に長い間残っていました。アルメニア人はトルコ人との激しい闘争を開始し[154]、この期間中にナゴルノ・カラバフのメリクドムは事実上独立した[84]。要塞キャンプが設立されました。1733年、ナディールの指揮下にあるペルシャ軍の接近に勇気づけられたアルメニア人は、一晩で合意により、冬の宿舎でハムサに駐屯していたトルコ軍を遮断し、セラスキルサラムスタファパシャを殺害した。1734年から1735年にかけて、ナディールはトルコ人から東トランスコーカサス地方を征服しました。ペルシャとオスマン帝国の間の1735年の平和条約の下で、アルメニアとジョージアはペルシャに譲渡されました。

1736年、ムガン草原での会議で、ナディールはシャーに「選出」されました。彼がペルシャの王位を求めている間、サファヴィー朝の家に忠実なガンジャのカーンは彼に反対しました。これに対する罰として、彼らの力を弱めるために王位に身を置いたナディール・シャーは、多くのガージャール人(オツジキ、ジャバンシール、ケビルリ族)をカラバフからホラーサーンに再定住させ、ハムサのメリクに「貴族と庶民の首からガンジャ・カーンへの服従の鎖を捨て、自分たちが彼らから自由であると考え、彼らのすべての請願と要求を直接支配者の名前に送る」ように命じた[150].カムサ全体の頭に、彼はディザックメリクアヴァン(1733年の陰謀の主な主催者)にカーンの称号を付けました[143]。しかし、アヴァンカーンはすぐに亡くなりました。1747年、ナディールシャーは殺されました。彼の死は彼が創設した国家の崩壊とハムサメリクドムの独立の喪失につながりました。

カラバフ・ハン国

主な記事: カラバフ・ハン国
センチメートル。参照:パナ・アリ・カーン、イブラヒム・ハリール・カーン
カラバフ・ハン国は、ナディール・シャー州の崩壊後、1748年にジャバンシール王朝の創設者であるパナ・アリ・カーンによって設立されました。1759年155から、汗国は彼の息子、イブラヒム・ハリール・カーンによって統治されました。

アルメニアのメリクドムがトルコとの戦争での彼らの助けに感謝してナディール・シャーから独立を受けた直後、彼らの支配者は内戦[120]に行き詰まり、20年間の戦争をもたらしました。メリク・ヴァランダ・シャナザールは、敵よりも優位に立とうとして、ジャバンシール・パナ・アリ・カーンのチュルク族の指導者を彼の同盟国として招待しました。1751年、パナアリカーンはナゴルノカラバフの中心部にシュシャ要塞を設立しました150[156]。 カラバフのミルザ・ジャマル・ジャバンシールが彼の「カラバフの歴史」で報告しているように、チュルク人とクルド人の部族の間での地位を確立したパナ・カーンは、「カムサのアルメニアのマガルを征服するために考案された」[157]。アルメニアのメリク間の内戦を利用して、パナはなんとか彼らを征服し、彼らを彼の家臣にしました[158]。パナ・アリ・カーンはシュシャを汗国の首都にしたため、その歴史上初めてナゴルノ・カラバフはチュルク・カーンの支配下に置かれた[120] [142]。

ロシア皇帝アレクサンドル1世によって授与されたカラバフのメフティクリカーンの名誉旗
状況に辞任せず、アルメニアのメリクはロシアとの同盟を求めた。カラバフにセンターを持つアルメニア王国を作るというアイデアが提唱されました[120]。Jraberd、Dizak、Gulistanのメリクは、キャサリン1783世とポチョムキン王子と秘密の関係を結びました。159年、ポチョムキンはキャサリン<>世にロシアの家臣としてカラバフにキリスト教公国の創設に関するプロジェクトを提出しました:「まだV<ウル>と<帝国>V<エリチェスヴォ>の指揮を持っていなかったので、私はイブラヒム・カーン・シュシンスキーについての一般的な-porポチョムキンに決議を与え、彼を従順に近づけました。ここでは、機会があれば、アルメニア人で構成されるその地域が中央政府に与えられ、それを通じて、私を通してアルメニアのメリクに約束された最高のV.I.V.の約束と同様に、キリスト教国家がアジアで更新されるべきであると考えられるべきである」[<>]。

しかし、父親の死後、陰謀について知ったカラバフ・ハナテを統治したイブラヒム・ハリール・カーンは、1784年に敵に対して先制攻撃を開始した[160]-彼は1787人の反抗的なメリクを押収し、それらを彼の弟子に置き換え、ガンザサル修道院を略奪し、カトリコス(後に毒殺された)を刑務所に送った。シュシャ要塞に投獄されていた161人のメリクは、後になんとか逃げ出した。彼らはカルトリ・カヘティ王国の王、イラクリ<>世、そしてトビリシのロシア軍の長、ブルナシェフ大佐に助けを求めた。ロシアとジョージアによる武力介入は、<>年に始まったロシア – トルコ戦争によってのみ防止されました。その後、メリクはイブラヒム・カーンへの引き渡しを恐れて、トビリシからガンジャ、ジャバト・カーンに逃げました。イブラヒム・カーンと敵対していたジャバット・カーンは、彼らを心から受け入れ、カラバフから彼らに出てくる農民の再定住のために土地を割り当てました[<>]。

「カラバフからのベクタタール[通信4]」[162]。G.ガガーリンによる描画。

カラバフ・ハン国の形成に伴い、チュルク族のカラバフへの移住が激化し、逆にそこからのアルメニア人の移住が激化しています。一般的に、イブラヒム・カーンの政策はアルメニア人の大量流出と地域の過疎化につながった[160]。示されているように、アルメニアのヴァランダの中心部に、大きなチュルク語の飛び地、シュシャが現れました。すでにパナクの下で、次の遊牧民社会は「ジョージアと近隣の汗国から移住しました:ピュシアン、カラチャルリ、ジンリン、ダミルチ-ハサンリ、キジル-ハジリン、サフィ-クルド、ボーイ-アフメトリン、サートリ、ケンゲリなど」[163]。一方、「ペルシャ人の復讐を恐れてロシア人に同情したカラバグアルメニア人は、11,000家族の間でロシア、北コーカサス、キズリャルなどに移動しました」[164]。

1795年85月末、アガ・ムハンマド・シャー・ガージャールの33,<>人の強力な軍隊が、ペルシャ・シャーの権威を認めることを拒否したイブラヒム・ハリール・カーンを服従させるためにシュシャの要塞を包囲しました。要塞の包囲は<>日間続いたが、イブラヒム・ハリル自身と彼の宰相である有名な詩人モラ・パナ・ヴァギフが率いる要塞の擁護者、イスラム教徒とアルメニア人の両方の無私の行動のおかげで、アガ・ムハンマド・シャーは要塞を占領できなかった。彼は包囲を解除することを余儀なくされ、<>月にジョージアに行進した。

1797年、アガモハメッドシャーは再びカラバフに侵攻しました。その時までに、カラバフ・ハナテの状況は非常に困難でした:飢饉とペストは国で激怒しました、そして、カラバフの住民のほとんどはパンを求めて他のカナーテに移動することを余儀なくされました。そのような状況では、カラバフカーンが彼の首都の防衛を組織することは困難であり、彼はダゲスタンに逃げなければなりませんでした。しかし、シュシャを占領したアガ・ムハンマド・シャーはすぐに彼自身の使用人によって殺され、指導者なしで残されたペルシャ軍はカラバフを去った。

イランで権力を握ったカジャール王朝との確執で、イブラヒムカーンはロシアの支援を得ようとしました。1805年、ロシア軍によるガンジャの占領後、彼はロシア軍の司令官であるチチアノフ王子とクレクチャイ条約に署名しました。 帝国;第1に、高位のイブラヒム・カーンと彼の相続人と子孫の家は、常にシュシャ・ハン国に保存します。カラバフ・カーンは、2人の息子を人質としてティフリスに送り、敬意を表し(年間8,000チェルボネット)、必要に応じて3人の軍隊を編成することを約束した[165] [79]。

シュシャのゲヴァルアガの上部モスク(XVIII-XIX世紀)(V.V.ヴェレシチャギンによる絵画、1860年)

それにもかかわらず、翌年、シュシャのロシア駐屯地の司令官であるリサネビッチ中佐は、イブラヒム・カーンがペルシャ人に亡命するつもりであると疑って、シュシャ近くのカーンの野営地を攻撃し、カーン自身と彼の人々を殺害し、多くの家族が殺された。21年1806月<>日付けの陸軍大臣S.K.ヴィアズミティノフに対するI.V.グドビッチ伯爵の態度から:

ジョージアの軍隊の司令官、M将軍から受け取った報告によると。ネスヴェタエワは、第17イェーガー連隊が連隊であることを明らかにします。リサネビッチとジョラエフ少佐は、動機もなく、レンジャーの分遣隊で、35人の男性と女性の男性の使用人と1人の妻と3人の幼い子供を除いて、彼と一緒に軍隊を持たないイブラヒムカーンシュシンスキーを攻撃しましたキルギス共和国のこちら側にいました。要塞のない山の上の庭の近くのシュシ、そして彼自身は一発も発射せずに分遣隊に会うためにテントを出ました。しかし、猟師は銃剣で撃ち、叩き始め、そこでイブラヒム・カーンは殺され、彼と一緒にいたすべての財産は攻撃を実行した人々の獲物に行きました[166]。

同日、グドビッチ伯爵は外務大臣のA.Y.バドバーグ男爵に次のように通知しました。

カラバグのカーン、Gen.-Mの報告からわかるように。この重要な事件のすべての状況を密かに偵察したネボルシンは、連隊によって無駄に殺されました。リサネビッチ、調査中の配置について、私はEIVに最も従順なバトンを蒔きます[167]

ロシア当局は、イブラヒムの息子であるメフティクリ・カーンをカラバフ・ハン国の長に据えた。一方、1813年、1804 – 1813年のロシア – ペルシャ戦争の終わりに、ロシア – イランの平和条約がグリスタンのカラバフ要塞で調印され、それはロシアの支配下でのカラバフ・ハナテの移転を認めた。しかし、1822年に、Mehtikuli Khanはペルシャに逃げました、そして、彼はシュシャの州の印章さえ忘れたほど急いでいました[143]。1826年、彼はペルシャ軍と共にカラバフに戻った。新たな戦争が始まった。しかし、ペルシャ人は地元のアルメニア人の積極的な助けを得てロイト大佐のロシア駐屯軍によって必死に守られていたシュシャを連れて行くことができず、最終的に追放されました。

1822年、カラバフ・ハナテは廃止され、ロシア帝国の州に変わりました。州の管理はロシア当局によって任命された司令官に委ねられました。シルヴァン州、シェキ州、タリシュ州とともに、カラバフ州はイスラム教徒の州の軍事地区長が率いるイスラム教徒地区の一部でした[168]。軍管区司令官の住居はシュシャにありました。1840年、カラバフ州はシュシャ地区に改名され、カスピ海地域の一部となりました。1846年以来、シュシャ地区はシャマキ州の一部であり(1859年にバクーに改名されました)、1867年以来、エリザヴェトポル州の一部でした。

ロシア帝国の支配下にあるカラバフ。1822-1918年

カラバフ。コーカサス地方の地図の断片、ESBE

カラバフ・ハン国がロシアに併合された後、多くの地元のイスラム教徒がペルシャに移住しましたが、ペルシャとトルコからのかなりの数のアルメニア人は、ロシア当局の支援を受けて、カラバフを含む新しく併合されたロシアの州に移動しました[169][170]。アルメニア人の東アルメニアへの移住は、ロシア帝国が崩壊するまで続いた。しかし、この運動はカラバフ、特にナゴルノ・カラバフとはほとんど関係がありませんでした。アルメニア人の再定住の問題に関するA. S.グリボエドフの覚書は、「計画の輪の中に」カラバフ「そして彼ら自身の上司がいて、老舗からの特別な力が許されない他の地域」を含めることの不可能性を強調している[169]。それにもかかわらず、1828年に、700のアルメニア人家族がカラバフ、主にプレーンカラバフに再定住しました(「本。アブハジア人…彼はこれらの人々をバルダの名で年代記で知られているアルメニアの古代の首都の遺跡に定住させました」);同時に、300家族が戻ってきて、残りの大部分はペストの流行で亡くなりました[171]。ナゴルノカラバフ(現在のマルタケルト地域)では、イランの都市マラギからの入植者が同じ名前の村を設立しました。将来的には、カラバフには重要な再定住はありませんでした。この問題を詳細に研究したD. I. Ismail-Zadehは次のように述べています。

「本国送還の流れの方向は、主にアルメニア地域の境界内に局在していました。少数のアルメニア人家族だけが隣接するカスピ海地域の国境地域に定住しました。このように、地域内でトルコとイランから移動したアルメニア人の数についてのカスピ海地域の首長の質問に答えて、地方行政はアルメニア人が彼らに委ねられた領土に到着しなかったと報告した。1840年には、カラバフ国境州だけで222人が移住した」と語った[172]。

XIX世紀前半の国勢調査によると、カラバフの全領土の人口の約173分の174(クラ川の河口までの平らな部分とともに)はアルメニア人であり、約8分の21はアゼルバイジャン人でした[5] [3]。アメリカの歴史家J.バーヌティアンが指摘したように、当時の国勢調査によると、アルメニアの人口は主にカラバフの35のマガル(地区)のうち38つに集中しており、そのうち90つはナゴルノカラバフの近代的な領土を構成し、173つはザンゲズルの近代的な領土に含まれています。したがって、カラバフ(アルメニア人)の人口の<>%は、地域全体の領土の<>%に住んでおり、ナゴルノカラバフの絶対多数(<>%以上)を構成しています[<>]。

XX世紀の初めには、カラバフのアルメニア人の絶対数は安定しており、相対的な数は大幅に減少しました:「トランスコーカサス地方の割り当て地の償還に関する覚書」(1912年)と1917年の農業センサスは、同じ170万人を与え、これはすでにカラバフ全体の人口の36%です(平野と山岳地帯の両方)、イスラム教徒(タタール人とクルド人)は62%になりました。これはカラバフから大都市へのアルメニア人の移住によるものです:XX世紀の初めにバクーに住んでいたカラバフアルメニア人はわずか30万人でした。ただし、これらの数字がプレーンカラバフとザンゲズール(シュニク)を含むカラバフ・ハン国全体に当てはまることを忘れないでください。ナゴルノ・カラバフだけでも、1910年代末には165,71人のアルメニア人(4.59%)、25,5人のイスラム教徒(20.7%)が住んでおり、そのうち3,1人がシュシャまたはその周辺に住んでおり、175,1914人のロシア人(167.1%)が住んでいました(他の情報源からのデータはわずかに異なる場合があります)[81]。17年には、8.176千人が将来のナゴルノカラバフ自治区の領土に住んでおり、これは主にナゴルノカラバフのアルメニア人部分に対応し、そのうち<>%がアルメニア人、<>.<>%がアゼルバイジャン人でした[<>]。

ただし、これらのデータはナゴルノカラバフの民族構成に関する完全な情報を提供するものではなく、ナゴルノカラバフの恒久的な人口にのみ関連しています。A. A. Mkrtchyanが指摘しているように、カラバフでは民族国境は実質的にナゴルノ・カラバフとプレーン・カラバフの物理的および地理的境界に対応し、ミル・カラバフ草原の西部郊外を通過しましたが[177]、夏の間、アゼルバイジャンの遊牧民の移住により、民族の国境は消去され、ナゴルノ・カラバフに混合人口の広い帯が形成されました[178].ナゴルノ・カラバフの夏と冬の人口動態の変化は大きかったため、1890年代後半には、カラバフ山脈(ナゴルノ・カラバフの西の国境)、ムロフダグ山脈(ナゴルノ・カラバフの北の国境)、ザンゲズール山脈(ナゴルノ・カラバフの外)、カラバフ高地(将来のナゴルノ・カラバフ自治区の外)などの山に登らなかった低地カラバフのアゼルバイジャン人口の1/30だけが山に登らなかった[179].しかし、A. Yamskovは、遊牧民が季節的に使用される遊牧民の領土の本格的な人口と見なされる権利に関する見解は、現在、ソビエト後の国々と「遠い海外」の国々の両方からのほとんどの著者によって共有されていないと述べています、親アルメニアと親アゼルバイジャンの両方の作品を含む。XIX世紀のロシアトランスコーカサス地方では、この領土は座りがちな人々の所有物にしかなり得ませんでした。同時に、遊牧民の移住は、この地域の民族構成を明確にするだけでなく、1918年に領土紛争が始まったときに、アゼルバイジャン人がナゴルノカラバフをアルメニアに移すことに消極的であることをよりよく理解することを可能にします[180]。

シュシャ出身、アゼルバイジャンの詩人クルシドバヌ・ナタヴァンと子供

XIX世紀の間に、シュシャは比較的大きな中心地になり、トランスコーカサス地方で181番目に大きな都市であり、トビリシとバクーに次ぐトランスコーカサス全体で1850番目に重要な文化の中心地になりました[12]。都市の人口は主に世紀の半ばにその過半数を構成したアルメニア人のために増加しました。1880年には、25,56人がシュシャに住み、5年代初頭に43,2人(そのうち1890.34%がアルメニア人、1916.43%がアゼルバイジャン人)、1920年代に60,47人、<>年に<>,<>人、<>年に<>,<>人、そのうち<>,<>人がアルメニア人でした。
1831年、アルメニア神学校が市内に設立され、1881年に市内に学校が開校するまで、ナゴルノカラバフで唯一の中等教育機関でした。3世紀の後半に、女性の不完全な中等学校(アルメニアの聖職者と政府)が生まれました[1891]。182年の春、劇場が登場しました(アルメニアのG.A.カンダミロフ[183] [183])。劇場は劇「ルザン」で始まりました-女優N.ヤラミシェバ(ヤラミシャン)がタイトルロールでムラトサンの演劇に基づいています。街の演劇生活は力強く発展しました。ヨーロッパのさまざまな都市から演劇グループ、俳優、歌手、ミュージシャンがツアーでシュシャにやって来始め、世紀の終わりまでにシュシャはすでにトランスコーカサス地方の最大の演劇の中心地として名声を享受していました[<>]。

シュシからのアルメニア人、XX世紀の初め。

1906年のカラバフ休戦委員会

シュシャはアゼルバイジャンの音楽文化の中心地の184つとして有名になりました。XIX世紀の初めまでに、ムガマットのシュシャ学校が形成され、それはトランスコーカサス地方だけでなく中東全体で有名になりました[185] [1898]。ここでは、2年にアゼルバイジャン語での最初の音楽公演が上演されました[<>]。

この期間中、カーペットと絹の生産と貿易はシュシャで栄えました。アルメニア人と(大部分は)アゼルバイジャン人の両方が生産に従事していた。貿易はアルメニア人の手に集中していた[186] [187]。XIX世紀の終わりに、Y. Zedgenidzeは、シュシャに存在するすべての種類の手工芸品生産の中で、カーペット織りが製品の量と質の点で188位を占め、カーペットとカーペットの量と質の点で、シュシャはコーカサス全体で第188位にランクされていると述べました[<>]。Zedgenidzeによると、都市の人口のほぼ全体のタタール人(アゼルバイジャン)部分がこの生産に従事していました[<>]。

1889年、アゼルバイジャンの詩人クルシドバヌナタヴァンを犠牲にして、イサの春から給水システムが市内に設置されました[189]。

シュシャは、印刷所が登場した最初のトランスコーカサス地方の都市の1828つでした(1874年)。1920年以来、それはそれ自身の定期刊行物を持っています。150年までに、21タイトルの本と19タイトルの新聞や雑誌が出版され、そのうち2タイトルはアルメニア語、190タイトルはロシア語でした[<>]。

1905年240月のアルメニア – タタール人虐殺の間に、血まみれの衝突が市内で起こり、その間に318軒の家、カンダミロフ劇場が焼かれ、191人が殺されました。当時、衝突はカラバフとザンゲズルのすべての地域を混合人口でカバーしていました[<>]。

1918-1919年の出来事

1918 – 1920年のアルメニア – アゼルバイジャン戦争の原因については、ここを見てください

カラバフでの1918年から1919年の出来事の詳細については、こちらをご覧ください。

センチメートル。参照:アルメニア・アゼルバイジャン戦争(1918–1920)中の民族浄化とポグロム
1917年の1917月の革命後、カラバフは、他のトランスコーカサス地方と同様に、最初は1918年22月に地元の政党の代表によって創設された連合トランスコーカサス委員会に従属していました。<>年<>月、トランスコーカサス地方委員会は、トランスコーカサス地方の立法機関としてトランスコーカサス地方のセイムを召集することを決定しました。<>月<>日、トランスコーカサス地方のセイムは、トランスコーカサス地方を独立したトランスコーカサス民主連邦共和国(ZDFR)と宣言する決議を採択し、<>月末にアルメニア、アゼルバイジャン、グルジアの別々の州に分割されました。

1918年の前半、トランスコーカサス地方全体で民族衝突が起こったという事実にもかかわらず、ナゴルノカラバフのアルメニア人とイスラム教徒は比較的平和に暮らしていました。ティフリスのトランスコーカサス委員会とセイムの名目上の権力を認めて、ナゴルノ・カラバフは事実上独立しており、民族間評議会によって統治されていました。このバランスは、トルコのトランスコーカサス侵攻、トランスコーカサス連邦の崩壊、および192つの独立国家の創設まで維持されました[<>]。

28月193日、トランスコーカサス地方のSejmのイスラム教徒の派閥のメンバーは、会議でアゼルバイジャンの独立を宣言することを決定し、アゼルバイジャンの暫定国民評議会である議会を宣言しました[<>]。新しく創設された州、アゼルバイジャン民主共和国は、カラバフとザンゲズールを含むロシア帝国の旧バクーとエリザヴェトポリ州の領土を主張しました。一方、カラバフとザンゲズルもアルメニアによって主張されました。

アメリカの歴史家リチャード・ホバニシャンは、アルメニアとアゼルバイジャンの両方がこれらの地域に対して十分に根拠のある主張を持っていたと指摘している[194]。

エリザヴェトポル州の山岳地帯を主張するアルメニア共和国は、優勢なアルメニア人人口の存在、宗教と文化の統一によって、これらの領土に対する権利を正当化しました。ナゴルノカラバフはアルメニア高地の東部であり、アゼルバイジャン人が住む平野とは大きく異なります。この山岳地帯はアルメニアの自然の国境であり、アラク渓谷とアララト平原への通路を保護していました。カラバフの喪失は、アルメニアの地理的完全性の破壊を意味するでしょう。戦略的な観点から、高地の喪失は、アルメニアにとってアゼルバイジャンとトルコの間の最後の障壁の撤廃とイランからの孤立を意味しました。歴史的に、これらの地域はアルメニアのアルツァフ、ウティク、シュニクの各州の一部であり、XI世紀の最後のアルメニア王国の崩壊後も、アルメニア国家の残党はここに残っていました。中世後期のナゴルノカラバフの領土では、サファヴィー朝の宗主権の下で自治権を持っていた195つのアルメニアのメリクドムが形成されました[<>]。

アゼルバイジャン側はまた、独自の歴史的、地理的、経済的議論をした。アルメニアのメリクドムには一定の自治権がありましたが、それらはチュルクのカラバフベグラーベクストヴォとカラバフハン国の一部でした。ロシア統治に先立つ何世紀にもわたって、チュルク族がトランスコーカサスを支配していました。エリザヴェトポル州では、アゼルバイジャン人は196つの郡のうち<>つで絶対多数を占め、ナゴルノ・カラバフでさえ、アゼルバイジャン人とクルド人がかなりの少数派を占めていました。アゼルバイジャン側によれば、アルメニア人のコンパクトな居住地域の恣意的な割り当てとアルメニアへの加盟は、地域の地理的、経済的、政治的統一を脅かすでしょう。アゼルバイジャン側は、アルメニア側とは異なり、山岳地帯や平野地域に反対しなかったが、それらを全体として考慮した。<>つの州の間で平野と山岳地帯を分割すると、多くのアゼルバイジャン遊牧民から夏の牧草地が奪われるでしょう。アルメニア側によって提案された解決策-アゼルバイジャンの草原地域での灌漑の組織化、アゼルバイジャン北部の新しい牧草地への移転、または「アルメニア」カラバフの遊牧民による牧草地の使用を規定する特別な州間協定の署名-はアゼルバイジャン側に受け入れられませんでした[<>]。

アルメニアの人口によると、地元のアルメニア軍はなんとか秩序を回復することができました:「束縛されていない人は飼いならされ、強盗は追い払われ、アゼルバイジャンのアルメニア人のスパイ<テキストのように、明らかにアルメニア人はアゼルバイジャンのスパイです>撃たれました。生活は正常に戻り始めた」と語った[197]。

一方、ADR政府は、トルコとソビエトロシアの間のブレスト平和条約の調印後にトランスコーカサス地方に侵入したトルコ軍の助けを借りて、ナゴルノカラバフを征服しようとしました。トルコ軍の司令官であるヌリ・パシャは、ADRの権威を認めるためにカラバフ国民評議会に最後通告を提示したが、20月24〜15日に開催された第<>回カラバフアルメニア人会議はそれを拒否した。<>月<>日、トルコとアゼルバイジャンの合同軍がバクーを占領した。その直後、トルコの大佐ジャミル・ジャビド・ベイの指導の下、トルコ部隊の第<>アゼルバイジャン師団(白人イスラム教徒)がバクーからカラバフに進軍した。

1週間の激しい戦いの後、アルメニアの大きな村カラキシュリャグの住民の抵抗を克服して、トルコ軍はアルメニアのザンゲズールからカラバフを切り離しました。カラバフ人民政府は、軍縮、トルコ軍とアゼルバイジャン軍のシュシャへの通過、およびADRの権威の承認を要求する最後通告を再び提示されました。次に、バクーでのアルメニア人の虐殺について学んだ多くの地元のアルメニアの指導者たちは、カラバフでのこれらの出来事の繰り返しを恐れました。5月8〜192日に開催されたカラバフのアルメニア人の第<>回会議は、トルコの最後通告を採択しました。<>月<>日、ジェミル・ジャビド・ベイとイスマイル・カーン・ジヤトカノフがトルコの部隊をシュシャに連れて行った。オスマン帝国の軍当局はアルメニアの住民に平和と正義を約束したが、シュシャで一週間も過ごすことなく、彼らは地方自治体と一般市民の約<>人の代表者を逮捕し、中央広場に絞首台を建て、地元の自衛隊を武装解除した[<>]。

シュシの崩壊にもかかわらず、ナゴルノカラバフの歴史的なアルメニア地域は、ADRの権威を認めずに抵抗を続けました。198つの地区(ハチェン、ジャバード、ヴァランダ、ディザック)のそれぞれに、第二次世界大戦が終わるまでトルコの部隊を待ち伏せして攻撃した党派の分遣隊がありました。トルコ軍による軍事作戦をナゴルノ・カラバフの奥深くに移そうとする試みは、完全に失敗した[192] [<>]。

31月150日、トルコはエンテンテに降伏しました。その後まもなく、バクーはトムソン少将の指揮下でイギリス軍(イランから到着)に占領され、トムソン少将はバクーの軍事知事を宣言した。しかし、カラバフでは、長い間、ADRの軍隊と部分的に合併したトルコ軍の残党がありました。199月末、アルメニアのアンドラニク将軍は、ADRの内務省によると、ザンゲズールとカラバフの最大40のイスラム教徒の村を破ったザンゲズールに定住した彼の分遣隊とともに、トルコ・アゼルバイジャン軍に対してカラバフに移動しました。彼らからの難民はアグダムに注いだ。カラバフのアルメニア人は、アンドラニクが彼の目標を宣言したアルメニア(「アララト共和国」)との必然的な統一を熱心に待っていました。しかし、シュシャに到着する前に、アンドラニクはイギリスの要請で引き返し、アルメニア軍と住民に「タタール人とトルコ人に対する敵対行為を直ちに停止する」ように命じた[30]。その間、アゼルバイジャンとトルコの部隊の残党はこの地域に残った。略奪、強盗、アルメニアとイスラム教徒の衝突が続いた。力の優位性がアルメニア人の側にあったところでは、彼らはまた、牛のカサカサ音を伴ってイスラム教徒の村を襲撃し、場合によっては殺人を犯しました。トムソン将軍によれば、カラバフ全体で最大10万人から200万人のアルメニア人と<>万人のイスラム教徒が蓄積した膨大な数の難民によって状況は複雑になりました[<>]。

1919年の初めに、ADRで動員が発表され、アゼルバイジャン軍はシュシャ、ハンケンディ、アスケラン、カリャギノ(現在のフズリ)を駐屯させました。

15年1919月201日、イギリス軍司令部は、パリ講和会議で物議を醸している問題が最終的に解決されるまで、アゼルバイジャン政府によって任命されたホスロフ・ベク・スルタノフをカラバフ総督(ザンゲズールと)として承認した[202]、アルメニア人は熱心なアルメノフォベと見なし、バクーでのアルメニア人虐殺の責任者の203人と見なした[<>]。.アゼルバイジャン内務省の報告によると、その主な任務は、「アルメニア運動の闘争と完全な排除、秩序の最終的な確立(…)、地方自治体の組織、難民のための食糧の組織化と彼らへの一般的な援助の提供、難民と先住民の両方の間のエピデミックとの戦いの組織、そして最後に、落ち着いた後、難民の彼らの家に戻る」[<>]。

トムソン将軍自身はスルタノフに対する告発に異議を唱えず、「スルタノフはアゼルバイジャンの代理人として、汎イスラム主義者でありトルコの支持者として彼、将軍に知られている」そして「誰もが彼を憎んでいる」ことに同意した。しかし、エリバンへの訪問中に、彼はアルメニア人に彼の選択を次のように説明しました:「彼は有能で影響力のある男であり、将軍は彼が望むなら、彼に指示が与えられ、彼がそれらを実行するならば、彼はうまく働くことができると決めました。」トムソンはアルメニア人に保証した主なことは、カラバフの難民を助けることができることであり、「彼がこのためにスルタノフ博士の助けを必要とするなら、(…)彼はまだそれをしなければなりませんが、これはこれがタタールの領土であることを意味するものではないと彼は百回言いました」[204]。

わずか205か月後、パリのアルメニア代表団はエリバンに、トムソン将軍はカラバフ問題について彼自身の裁量で行動したのではなく、外務省の指示に従って行動したと報告した。「コーカサスだけでなく、どこでもイギリスが偽装された親イスラム教徒の政策を実施している」そして「カラバフに関するイギリスの決定は、このアルメニア人が住む地域をアゼルバイジャンに移したいという頑固な願望にある」[<>]。

スルタノフの任命に関連して、英国使節団は公式通知を発行し、「英国司令部の同意を得て、ホスロフベク・スルタノフ博士が一時的にザンゲズル、シュシャ、ジヴァンシール、ジャブライル地区の総督に任命された。英国の使節団は、これらの地域が206つまたは別の部隊に属することは平和会議で決定されるべきであることを再確認する必要があると考えています」[<>]。

カラバフ国民評議会は次の答えを出しました:「カラバフアルメニア国民評議会全体は、カラバフのすべての地域のアルメニア軍の指揮官とともに、アゼルバイジャン政府によるカラバフへの総督の任命の事実について話し合った、アルメニアのカラバフはそのような事実に和解できないという結論に達しました。なぜなら、アルメニアの人々は、アゼルバイジャン政府への依存は、それが現れるかもしれないどんな形でも、それ自体では受け入れられないと考えています。 アゼルバイジャン政府がごく最近まで体系的に受けてきた暴力と権利の侵害のおかげで、アルメニア人はその運命をこの政府と結びつけてきました。アルメニアのカラバフが英国の司令部によって従属していない領土として認識されているという事実から、平和会議で問題が解決されるまで、どの州にも、したがって特にアゼルバイジャンに、国民評議会は、英国の総督の任命がアルメニアのカラバフにとって唯一の受け入れられる政府の形態であると考えています。これは、ミッションがイギリスの最高司令部に介入するように求めているものです」[207]。

スルタノフは10年1919月208日にシュシャに到着し、カラバフのアルメニア人の第19回会議がそこに集まり、市長、司教、役人に要求した。しかし、議会は彼らがスルタノフに来ることを禁じた[209]。<>月<>日に採択された議会の決議には、「国籍の自己決定の観点から、カラバフのアルメニア人は近隣の人々の自決権を尊重し、同時にアゼルバイジャン政府がこの原則を踏みにじろうとする試みに断固として抗議する」と書かれているアルメニアのカラバフは、アゼルバイジャンの当局を決して認識しておらず、認識していない」[<>]。

スルタノフ自身が最初に次の計画を立てました:逮捕と追放を通して知識人の「指導者」を無力化し、「アルメニアの貧しい人々の間に不信感をまくために彼らの助けを借りて、英国の任務の役員の支援を求めること(…)彼らの指導者に、アゼルバイジャンへの服従を表明するすべての貧しいアルメニア人に物質的な援助を提供する」[210]。彼はプログラムの最初と部分的に<>番目のポイントをなんとか果たしましたが、アゼルバイジャンの側に大衆を引き付けるという考えは完全に失敗しました。

イギリス軍の前で抗議を続けたアルメニアの指導者たちに、バクーのイギリス軍の司令官、シャテルワース大佐は言った:「アゼルバイジャンとその総督に対するいかなる過剰もイギリスに対する演説であることを警告します。私たちは非常に強いので、あなたに従うように強制することができます」と述べました[211]。トムソン将軍は、アルメニアの抗議行動を、満足のいく復讐心によってのみ動機付けられたものとして却下しました:「アゼルバイジャンの一部のアルメニア人は、英国の占領が復讐の機会ではないことに非常に失望しているのは事実です。彼らは、質問が軍隊ではなく平和会議によって決定されることを受け入れたくありません」[212]。

アルメニア人はまだスルタノフを認めることを断固として拒否したので、チャテルワースは1919年23月末に個人的にシュシャに到着し、カラバフ国民評議会にアゼルバイジャンの権威を認めさせました。213月<>日、カラバフの第<>回アルメニア人会議がシュシャで開催され、シャテルワースのすべての要求を拒否し、「アゼルバイジャンは、トルコがアルメニア人全般、特にカラバフアルメニア人に対して犯した残虐行為の共犯者および共犯者として常に行動してきました。(…)強盗、強盗、殺人、道路上のアルメニア人の狩猟-これはすべて、アゼルバイジャンがその目標を達成するための通常の手段です。決議は「アゼルバイジャンと少なくとも何らかの関係を持ついかなる行政プログラムも容認できない」と宣言した[<>]。

1919年の春が始まると、山の牧草地へのアクセスを確保するという問題が再び生じました。イギリスからの圧力の下で、カラバフのアルメニア人のV議会はタタール人を山に入れることを決定したが、武装しておらず、イギリス人の保護下にあった[214]。後者の条件は満たされず、結果は影響を与えるのに遅くはありませんでした:バクーの英国代表が報告したように、「平原から高地へのタタール人の移動が始まり、戦いはいわゆるタタール人とアルメニア人の国境沿いのさまざまな村で起こりました(…)ザブグを通して、しかしこれまでのところ、攻撃者はタタール人であった牛をめぐって村の間で衝突がありました」[215]。

ホスロフベク・スルタノフ

一方、スルタノフはシュシャに定住し、アルメニアの役人に給与を支払い、ADRの権威を認めたアルメニアの村(主に平野の村)に商品を供給することで権力を強化しようとしました。しかし、彼はこれであまり成功しませんでした。その間、アゼルバイジャン軍はナゴルノ・カラバフ周辺に集中し始めました – それはシュシャを取り囲み、4月216日にアルメニアの位置と都市のアルメニアの部分を占領しようとしました。小競り合いの後、アゼルバイジャン人は撃退され、当事者はイギリスのセポイによって分離され、その保護の下で217日後にアゼルバイジャンの部隊がアルメニア地区に導入され、兵舎を占領した[218] [<>]。アルメニア人の声明によると(特に、目撃者に関して、国民評議会の声明で)、スルタノフはアルメニアの宿舎での虐殺とポグロムを直接命令しました(「あなたはすべてを行うことができますが、家に火をつけないでください。家が必要だ」と言われている[<>]。

シュシャでの出来事と同時に、アゼルバイジャン人はいくつかのアルメニアの村を打ち負かしました。5月700日、スルタンベクスルタノフ(知事の兄弟)が率いる武装した分遣隊が、イギリス人が強調したように、「シュシャのすぐ近くでスルタノフの家を一望できる」ゲイバルの村(アルメニア語:ゲイバルシェン、カイバルケンドとしても知られる)を完全に虐殺した。イギリス人によると、村の11人の住民のうち、87人の男性と216人の女性と子供が生き残った。アルメニアの219つの村のポグロムを止めたアゼルバイジャンの将校は、スルタノフによって罰せられました。これらの事実に基づいて、イギリス軍司令部の代表であるクロターバーグ大佐は、彼の報告の中で、スルタノフを裁判にかけるよう要求した[<>] [<>]。

スルタノフは、暴動の加害者はアルメニア人であり、アルメニア人から都市のタタール人への郵便物や国家機関の移転を阻止しようとし、銃撃戦を始めたと主張した。「残念ながら、アルメニアの村がイスラム教徒の人口に襲われました。村は焼かれたが、死傷者はいなかったようだ」と語った[220]。

これらの国会議員によると、バクーのアルメニア外交官は、一般的な状況を次のように評価しました:「スルタノフは、正規軍に加えて、警察の名の下に地域全体でさまざまな種類の武装強盗ギャングを組織しました。彼らは大胆で傲慢な行動で、単にアスケラン地域のアルメニア人人口を恐怖に陥れました。農民は村の外に出て畑や果樹園を耕作する機会がありません。その結果、「差し迫った飢饉の亡霊は農民を大いに混乱させ」、これは気分の変化を生み出しました:国民評議会は「アゼルバイジャンに譲歩することを決意している」[221]。

このような状況では、イギリスの使節団とアゼルバイジャン政府の代表が参加することになっていたカラバフアルメニア人の第222回会議を招集することが決定されました。議会の任務は、パリで平和会議を招集する前に手口を決定することでした。しかし、英国の使節団とアゼルバイジャン政府の代表が議会の終了後に到着し、交渉は行われなかった。ナゴルノ・カラバフが戦争の際にその独立を守ることができるかどうかを知るために、議会で委員会が設立され、カラバフの人々はこれを行うことができないと結論付けました[<>]。譲歩することにしました。

第12回議会は48月223日にスルタノフへの激しい攻撃で始まりました。その後、スルタノフはシュシャ-エヴラフ高速道路とナゴルノ-カラバフに通じるすべての道路を封鎖するよう命じ、都市のアルメニア部分に銃を向け、最後通告は22時間以内にアゼルバイジャンの権威を認めることを要求した[<>]。アゼルバイジャンからの避難に備えているイギリスの駐屯地がシュシから撤退したという事実を考慮して、アルメニア人は絶望的な状況に陥り、<>月<>日にナゴルノカラバフが「一時的にアゼルバイジャン共和国の国境内にある」と考えると発表した協定を締結しました(パリ講和会議での問題の最終解決まで)。

ドイツの歴史家イェルク・バベロフスキは、224月末までに、スルタノフはついにナゴルノ・カラバフに対する軍事的支配を確立したと述べています。多くのアルメニアの村が総督に従い、忠誠を表明するために彼らの使節を彼に送りました。山道に支柱が設置され、夏の牧草地は警備員によって守られていました[<>]。

オードリー・アルトシュタットによれば、1920年初頭の会議で、カラバフはアゼルバイジャンで認められ[212]、これは、アゼルバイジャンのカラバフとザンゲズルを確認することを提案したアメリカのハスケル大佐、およびナヒチェヴァンがイギリスまたはアメリカ総督の管理下にある中立領土に割り当てられることを提案したコーカサスの連合国調査官による報告の結果であった可能性があります[212].知事は、6人のアルメニア人と225人のイスラム教徒を含む<>人のアルメニア人の助手と顧問を受け取りました。アルメニア人は自治を維持しました。アゼルバイジャンは、平時の州でのみシュシャとハンケンディに駐屯地を維持する権利を持っていました。彼はアルメニア国民評議会の同意がない限り、ナゴルノ・カラバフに軍隊を送ることができなかった。パリ講和会議の決定まで、人口の武装解除は中止された[<>]。

1920年春のアルメニア – アゼルバイジャン戦争

1920年<>月のシュシのアルメニア地区の遺跡
主な記事: アルメニア-アゼルバイジャン戦争(1918–1920)§1920年<>月から<>月の戦争
22年1920月19日、アゼルバイジャンはアルメニアが226月227日にザンゲズールからシュシャ地区への攻撃を開始したと非難し、「道にあるすべてのイスラム教徒の村を根絶し、そのうち228つは最近破壊された」[22] [229]。アルメニアは、その一部として、アゼルバイジャンが戦争の準備をしていると非難し、「アゼルバイジャンはカラバフを武装解除する準備をしており、軍隊を派遣しており、そのために不安の噂を広めている」と述べた[<>]。同じ日、<>月<>日、アゼルバイジャンのアルメニア代表によると、カラバフ・スルタノフ総督は急いでバクーを離れてカラバフに向かい、「ザンゲズールから脅かされているとされる危険を防ぐという口実の下で」ヴァランダとザンジェランに軍隊を派遣した[<>]。

一方、カラバフのアルメニアへの入国を容易にするために、政府がカラバフアルメニア人を助けなかったとして非難されたアルメニアから使者が派遣されました。彼らはカラバフで地元のダシュナクと党派分遣隊ダリ・カザールのリーダーとの接触を確立しました。230月を通して、アルメニアの若者の募集と訓練が続いた[<>]。

19月231日、スルタノフはカラバフのアルメニア国民評議会に、「カラバフの不可分の経済的部分としてのアゼルバイジャンへの最終的な参入」の問題を直ちに解決するよう要求した[232]。アルメニアのデータによると、トルコのハリル・パシャ将軍は軍事顧問としてシュシャに到着した[400]。エリバンのカラバフコミュニティは、彼の情報によると、スルタノフとハリルパシャは「タタール人の大規模なギャングを組織し、アルメニア人の壮大な虐殺が準備されており、その始まりはハンケンディとアグダムであり、アルメニア外務省によると、233人の民間人がそこで殺されたと主張した[234]。通行人は殺され、女性はレイプされ、牛は盗まれます。カラバフのアルメニア人の経済的ボイコットが宣言されました。スルタノフはカラバフの中心部への駐屯地の侵入を要求します:ヴァランダ、セラバート、それによって第<>議会の合意に違反します」[<>]。

25月<>日、ティフリスのフランス軍事ミッションの長であるプデバルは、バクーの状況と計画を次のように概説しました。

1)シュシャでは<ヌリパシャではなく>ハリル<パシャ>。
2)軍隊ではなくギャングのみが戦闘に参加します。
3)すべての責任から解放するために、アルメニア人の最初のステップを待つように厳密に命じられています。
4)タタール人は外国の任務に勝つために非常に慎重かつ巧みに行動する[232]

28年4月1920日から22月235日にかけて、カラバフのアルメニア人の第<>回会議が開催され、スルタノフの「アゼルバイジャンへの最終参入」の要求は拒否されました。議会は、スルタノフを和平協定の多数の違反、国民評議会の許可なしにカラバフに軍隊を導入したこと、アルメニア人の殺害の組織、特に<>月<>日にシュシャ-エヴラフ高速道路で犯された虐殺で非難したハンケンディとアスケランでは、議会の決議で述べられているように、「明白な目標を持つ政府軍とその代理人の手によって、数百人のアルメニア人が根絶され、家が略奪され、財産が盗まれた」[<>].議会の決定に従って、エンテンテの同盟国、<>つのトランスコーカサス地方共和国、およびカラバフの暫定総督の外交および軍事代表は、「出来事の繰り返しにより、ナゴルノ・カラバフのアルメニア人は保護のための適切な手段に目を向けることを余儀なくされるだろう」と知らされた。

8月400日、アルメニアはアゼルバイジャンにメモを送り、「ハンケンディとアグダムのアゼルバイジャン軍部隊が理由もなくアルメニアの民間人の最大233人を非人道的に殺害し、その財産と家屋が略奪された。アグダム-シュシャ道路はアルメニア人に対して閉鎖されており、アルメニア人に対する経済的ボイコットが宣言されている」[<>]。

16月<>日、ADRの外務大臣であるファタリ・カーン・コイスキは、アルメニアの外務大臣に返信メモを送りました。

アゼルバイジャン軍部隊による400人のアルメニア民間人の不当な殴打、彼らの家の破壊、アルメニア人のためのアグダム-シュシャ道路の閉鎖、アルメニア人の経済的ボイコットについてあなたが提供する情報については、私はこのすべての情報が間違っていることを述べる必要があると思います。実際、次のことが起こりました:21月22日、ハンケンディの近くで、殺害され、傷ついたイスラム教徒が森で発見され、そこでハンケンディに駐留している連隊の質問者は彼らの失踪した同志を特定しました。これに基づいて、2月3日、殺害された男の同志とザンゲズールからの難民によって引き起こされた軽微な過剰が起こり、3人のアルメニア人がハンケンディで、4人がアグダムで、236人がコジャリーで殺害されました。総督の緊急措置により、秩序はすぐに回復し、<>人の加害者が拘留され、刑務所に収容され、裁判所によって正式に罰せられます[<>]。

その間、アルメニアの使者は反アゼルバイジャンの蜂起に必要なすべてのものを準備しました。50月上旬、アルメニア人はザンゲズールから237,<>発の弾薬と<>丁の機関銃を受け取った[<>]。

22月23日から<>日の夜、アルメニア軍はアスケランとハンケンディのアゼルバイジャン駐屯地を攻撃した。蜂起は、アゼルバイジャン人が驚かされることを期待して、ノヴルーズの休日と一致するようにタイミングが合わせられました。アルメニア人はなんとかアスケランを占領し、ハンケンディへの攻撃は撃退され、シュシャのアゼルバイジャン駐屯地を攻撃する試みはアルメニアの分遣隊の行動の調整の欠如のため失敗した。報復として、アゼルバイジャン軍と地元住民はシュシのアルメニア部分を打ち負かして燃やし、虐殺を上演した。

主な記事: シュシャ虐殺
反アゼルバイジャン蜂起は失敗した[18]。3月4日、アゼルバイジャン人はアスケランを再占領し、<>月<>日に彼らは以前に囲まれていたシュシャに入った。さらに、アゼルバイジャン軍は、アルメニアの村を越えてナゴルノ・カラバフを征服するために、いくつかの方向に攻撃を開始しました。

アルメニアは敵対行為への関与を公式に否定したが、それは真実ではなかった[238]:実際、13月<>日、「ドロ将軍」(ドラスタマット・カナヤン)の指揮下にあるアルメニア軍がトゥミの村に到着した。

アルメニア全国委員会の兵士
1920年11月、ソビエトロシアの第239軍がアゼルバイジャンに入った。ソビエト軍が南に移動している間、ナゴルノ・カラバフで、アゼルバイジャン軍はアルメニア軍と戦った。ナゴルノ・カラバフ総督のホスロフ・ベク・スルタノフは、政治家として彼が新政府に役立つことを期待して、ソビエト政府の側に立った[<>]。

23月1日、カラバフアルメニア人の第2回会議が開催され、ナゴルノカラバフがアルメニアの不可欠な部分であると宣言されました。議会の最終文書は次のように述べています。 「240.カラバフの第<>回会議を代表して締結されたアゼルバイジャン政府との合意を検討することは、カラバフの平和なアルメニア人人口に対するアゼルバイジャン軍の組織的な攻撃、シュシャと村の人口の絶滅を考慮して、後者によって違反された。 <>.ナゴルノ・カラバフのアルメニア共和国への併合を不可欠な部分として発表すること」[<>]。

26年1920月<>日、アルメニアの新聞「Zhoghovurd」(「人々」)は次のように報告しました。

…カラバフで起こった戦闘の結果、シュシャ市と30以上の村が破壊され略奪され、その結果、25000,28人の難民が現れました。12335月5975日に作成された記録によると、25500人がヴァランダとディザックに収容され、そのうち241人が都市居住者であり、完全に空腹で、裸で服を脱いでいました。難民はハチェン地区とジェヴァンシール地区にも散らばっており、通信違反のため正確な記録はありませんでした。これらの地域では約<>人の難民を数えることができ、適切な公共および民間の建物が占有されています。ヴァランダやディザックでは食糧難が感じられる[<>]。

後で知られるようになったように、1920年の春から、ソビエトロシアを帝国主義エンテンテとの闘いの同盟国と見なしたトルコのケマル主義者の代表は、ソビエトロシアの指導者と接触しました-これらの接触はアゼルバイジャンを通じて確立され、RSFSRの外務人民委員会の報告によると、1920月末に、「彼らの支持者のグループがクーデターと革命的なアゼルバイジャン政府によるロシア軍の招待に貢献した」。26年242月の初めに、RSFSRの外務人民委員会は、アンゴラ(現在)で召集された議長から<>月<>日付けの手紙を受け取りました。アンカラ)トルコ大国民議会ムスタファ・ケマル・パシャは、RSFSRの政府に宛て、ムスタファ・ケマルは、トルコは「すべての抑圧された人々の解放のために帝国主義政府に対してソビエトロシアと一緒に戦うことを約束し、アゼルバイジャン共和国がソビエト国家の輪に入るよう影響を与えることを約束し、コーカサスの帝国主義者との闘争に参加する用意があることを表明し、闘争のためのソビエトロシアの支援を望んでいる」と述べた。 トルコを攻撃した帝国主義の敵に対して」[<>]。

ナゴルノ・カラバフ自治区の設立

詳細については、アルメニア・アゼルバイジャン戦争(1918-1920)§概要を参照してください。 ソビエト権力の確立後の紛争地域

1917年の1920月の革命の数年後、RSFSRのボルシェビキ指導部は崩壊した帝国のかつての国境を回復することを目的とした一連の行動に着手しました。これらの行動の理論的基礎は世界革命の考えでしたが、実際には本当の理由は世界と内戦の間に悪化した経済の依存でした。トランスコーカサス地方は、ソビエトロシアに南洋へのアクセスを提供し、それによってRSFSRの産業のための市場と原材料の供給源を作り出すことができる重要な地域の30つでした。243年<>月、共産主義者への権力の移転の結果として、アゼルバイジャンはソビエト化されたトランスコーカサス地方の最初の共和国であり、その後アルメニアのソビエト化の準備が始まった。オルジョニキーゼの主導で、<>月<>日、カラバフを領土と見なしたソビエトアゼルバイジャンの新政府は、敵対行為の停止とアルメニア人が住むカラバフ州とザンゲズル州のアゼルバイジャンへの移転を要求する最後通告をアルメニアに提示した[<>]。<>月上旬、そのような出来事の順番を予期していなかった不安なカラバフの指導者たちは、セルゴオルジョニキーゼに電報を送りました。

バクーでの革命とムサヴァト政府の転覆のニュースは、アルメニアの農民と労働者、特にザンゲズールとカラバフの農民の間で喜びを引き起こし、今回はソビエトロシアがどこから来たとしても、暴力から彼らを保証する唯一の力であると確信しました。しかし、アゼルバイジャン共和国の最後通告は、アゼルバイジャンのソビエト政府が農民に対する積極的な行動の準備をしていたという警戒感を思わず引き起こしました[243]

電報の最後には、ナゴルノ・カラバフに軍隊を送るのではなく、人口の意志を明確にし、この意志に基づいてカラバフ問題を解決するために中立的なソビエト委員会を派遣するという要求がありました。同様の要求は、アルメニア・オガジャニャント外務大臣の電報に含まれていました。バクーとモスクワに送られた電報は、最大限の譲歩を通じてこの地域への介入を防ぐことを目的としており、この目的のために、アルメニア政府はまた、ソビエトロシアとの隣人関係を確立するために、レヴォンシャントが率いる代表団をモスクワに派遣しました[243]。代表団の途中で、S.オルジョニキーゼの要求は、RSFSRに代わって、24時間以内にアゼルバイジャンの領土からアルメニア軍を撤退させるという要求を受けました。アゼルバイジャンの領土にアルメニア軍がいないことを保証するレヴォン・シャントの電報に対する応答はなかった[244]。

11月、赤軍の第245軍の部隊がカラバフとナヒチェヴァンの領土を占領した[1920]。246年247月末、ソビエト軍の助けを借りてカラバフでのアルメニア武装分遣隊の抵抗はついに抑制された[8] [ソースにない]。アルメニアSSRの科学アカデミーによると、一部のアルメニアのボルシェビキは、「アルメニアでのソビエト権力の勝利後、これらの土地は後者に戻される」という条件で、一時的な措置としてのみこのステップに頼ることが可能であることを発見しました[248]。249月<>日、セルゴオルジョニキーゼはスターリンから、紛争地域をめぐるアルメニアとアゼルバイジャンの紛争での操縦をやめ、トルコとアゼルバイジャンを確実に支援することを要求する電報を受け取り[<>]、電報の終わりに、この決定はレーニンと合意されたと報告された[<>]。

カラバフでは、3月から250月にアルメニアの反政府勢力と戦ったアゼルバイジャンの旧国軍の部隊がまだあり、新政府との関係は緊張していた。11月にはタルタルで第251シェキ騎兵連隊の部隊が蜂起し、<>月上旬にはヌリ・パシャと多くのアゼルバイジャン大佐(ゼイナロフ、ソフィエフなど)の指導の下で他の多くの部隊が反乱を起こした。両方の蜂起は、追加のソビエト軍の到着後に鎮圧された[<>]。第<>軍の部隊は初夏にナゴルノ・カラバフに侵入し、アルメニアのパルチザン分遣隊に対して激しい闘争を繰り広げたアゼルバイジャン軍の残党を追放した[<>]。

10年1920月245日、アルメニア民主共和国とRSFSRの間で合意が締結され、それに従ってソビエト軍は領土問題を平和的に解決することを目的としてカラバフ、ザンゲズール、ナヒチェヴァンを占領した。協定は、ソビエト軍による紛争地域の占領は、アルメニア共和国またはアゼルバイジャンソビエト社会主義共和国のこれらの領土に対する権利の問題を予断しなかったと述べた。この合意によれば、紛争地域の地位は、RSFSRとアルメニア共和国の間の平和条約で確立されることに基づいて平和的に解決されることになっていた[252] [253] [<>]。

29年1920月<>日、ボルシェビキによるアルメニアの占領後、ソビエトの権力がそこで宣言されました。

30月1日、アゼルバイジャン革命委員会の宣言が作成され、同年253月254日にバクーソビエトの会議でナリマノフによって読み上げられました。発表された宣言によると、アゼルバイジャンソビエト共和国はアルメニアと争っているナヒチェヴァンとザンゲズルの領土を放棄し、ナゴルノカラバフの人口は自決権を与えられました[255] [256] [257] [258] [259] [<>] [<>]。同じ日に、V.トリフォノフとの会話の中で、オルジョニキーゼはエレバンの旧政府の転覆と共産主義者への権力の移転について熱心に話しました:

だから、別のソビエト共和国!アルメニア・ソビエト共和国万歳[259]

2月260日、セルゴ・オルジョニキーゼはモスクワに電報を送りました:「レーニンとスターリンの同志に次のことを伝えてください:エリバンでソビエトの力が宣言され、旧政府が排除されたというメッセージがエリバンから受け取られたばかりです…アゼルバイジャンは昨日、ソビエトアルメニアを支持して、ナヒチェヴァン、ザンゲズール、ナゴルノカラバフの移転をすでに宣言している」[261] [262] [245] [263] [<>]。

しかし、紛争学者のアルセン・サパロフが指摘するように、この宣言はセルゴ・オルジョニキーゼからの圧力の下でナリマノフによってなされ、新しく宣言されたアルメニア革命委員会の不安定さを懸念する白人局の政治的必要性を反映しており、どちらの側にも同情していません。サパロフによれば、ナリマノフ自身はこれらの地域を放棄するつもりはなかった[Comm 5][18]。

1920年265月に締結されたRSFSRとアルメニア民主共和国の間の条約は、ザンゲズールに対するアルメニアの主張を認めたが、カラバフとナヒチェヴァンに対する主張は認めなかった[<>]。

一方、ザンゲズール運動に関連し、タルカンとテヴァン・ステパニャンが率いるカラバフで蜂起が勃発した[266]、ザンゲズールのダシュナク指導者、ガレギン・ンジデによって任命された。タルカンはすぐに逮捕されてバクーに送られ、テヴァンは蜂起のリーダーであり続けた。反政府勢力は、彼らが現れたときに逃げたり蜂起の側に行ったりした地元の共産主義者からさえ抵抗に遭遇しなかった[267]。

2年1921月265日、RCPの白人局(b)のプレナムで、S.キーロフが議長を務めるトランスコーカサス地方の代表者の委員会を設立し、白人局のプレナムによる承認のための意見を提出して、トランスコーカサス地方のソビエト共和国間の境界を決定することが決定されました[<>]。

12年1921月245日、RCPの白人局のプレナム(b)は、G.オルジョニキーゼ、F.マハラゼ、N.ナリマノフ、アルミャスニコフなどの存在下で、その決議において、アルメニア政府に、ナゴルノカラバフがアルメニアに属していることを宣言に示すように指示した[268] [19]。. 一週間後の269月265日、新聞「Khourdain Hayastan」は、プレナムの決定に基づいて、ナゴルノ・カラバフとアルメニアの再統一に関するアルメニア人民委員会の次の法令を発表しました:「アゼルバイジャンソビエト社会主義共和国革命委員会の宣言とアルメニアとアゼルバイジャンの社会主義共和国間の合意に基づいて、これからナゴルノ・カラバフはアルメニア・ソビエト社会主義共和国の不可欠な部分であると宣言される」[<>].同時に、ソビエトアルメニア政府はカラバフの臨時全権者としてA.ムラヴィアンを任命しました。ナリマノフは、白人局とエレバンのソビエト政府への電報の中で、この代表のリコールを要求した。O. Altstattによれば、AzCPの中央委員会のメンバー間の会話の記録(b)は、アルメニアにナゴルノ・カラバフを含めることに対するアゼルバイジャンの「同意」について何も知らなかったことを示しています[<>]。

25年1921月410日の委員会の会議で、アルメニアSSRの代表であるA.ベクザディアンは、「モスクワ条約の締結後、アルメニアの状況は、その領土のほぼ半分とすべての経済的資源を失ったため、非常に困難であると見なされるべきです(…)さらに、前回の戦争のおかげで、難民の数は000万人に達し、彼らは収容され、土地を与えられ、平和的な仕事に戻る必要があります。今日、十分な領土がなければ、アルメニアは政治的に独立した単位として存在することはできません。このような状況を考慮すると、アルメニアを支持して近隣の共和国であるアゼルバイジャンとジョージアから領土を削減することが非常に必要であることがわかります。[270]。

4年1921月245日、白人局の拡大会議で、ナゴルノ・カラバフをアルメニアに移管することが決定された[259]。オルジョニキーゼ、ミャスニコフ(ミャスニキアン)、キーロフ、フィガトナーが決議に投票した。N.ナリマノフは抗議し、アゼルバイジャンにとってこの問題が非常に重要であるため、最終決定のためにこの問題をモスクワのRCP中央委員会(b)に移すことを要求した。白人局は、「ナゴルノ・カラバフはアルメニアSSRに含まれるべきであり、国民投票はナゴルノ・カラバフでのみ開催されるべきである」と決定した。カラバフの問題が深刻な意見の相違を引き起こしたという事実を考慮して、RCPの中央委員会の白人局は、それをRCPの中央委員会の最終決定に移す必要があると考えています」[265]。スターリンは会議で話さなかったが、その後彼は自分の立場を表明したようだ[1920]。1921年から271年のソビエトIX会議に対するRSFSRの外務人民委員会の年次報告書では、「<>月に、ソビエトアルメニアに含まれていたナゴルノカラバフについてアゼルバイジャンと協定が締結された」と公式に述べられた[<>]。

最終審問をモスクワに延期するという決定は実施されず、翌日の5月245日、白人局の新しい会議が召集され、ナリマノフは前日の決議の改訂とアゼルバイジャンに有利な問題の解決を求めた[272][<>]。

5年1921月<>日の白人局の決議
会議の結果、以下の決議が採択されました。

イスラム教徒とアルメニア人の間の国家平和の必要性と、アゼルバイジャンとの恒久的なつながりである上下カラバフの経済的結びつきから進んで、ナゴルノ・カラバフはアゼルバイジャンSSR内に残され、自治区の一部であるシュシャ市の行政センター。[253][259][273]

その結果、ナゴルノ・カラバフは、白人局の決定によりアゼルバイジャンSSRの一部として残された[248] [274] [275] [276] [277]。アルメニア共産党中央委員会は、ナゴルノ・カラバフ問題に対するそのような解決策に反対した。16年1921月5日の彼の会議で、彼は1921年<>月<>日の白人局の決定に同意しないと決定しました。

アルセン・サパロフによれば、アゼルバイジャンを支持するスターリンの助言と、わずか18日での白人局の決定のそのような劇的な変化の理由は、ザンゲズールでの反ソビエト運動の敗北にある可能性が最も高い。Nzhdehが率いる反政府勢力がアルメニアのソビエトシステムへの脅威でなくなった後、蜂起を鎮圧するためにカラバフをアルメニアに移したいというボルシェビキの願望の理由は消えた。これを考慮すると、サパロフが指摘しているように、ナリマノフのエネルギーと頑固さ、そしてアルメニアのボルシェビキの反応が鈍くて遅いことを背景に、白人局が現状を維持することを決定し、カラバフをアゼルバイジャンに任せたことは驚くべきことではありませんが、これの代償は自治を確保することでした[<>]。

赤いクルディスタン1930.png
サミュエル・ハンティントンによれば、ソビエト政府が分割された共和国を作るために国境を変更しようとしたため、ナゴルノ・カラバフはアゼルバイジャンに移された[278]。

セルゲイ・レゾフによれば、そのようなステップは、ボルシェビキがトルコと共通の言語を見つけようとする試みによって決定された[275] [権威のない情報源?]。

数年間、この地域の地位は最終的に決定されなかった[279]が、1923年にナゴルノカラバフ自治区(AONK)がアゼルバイジャンSSRの一部としてナゴルノカラバフのアルメニア人が居住する部分から形成され、一連の領土変換を通じて、ラチン回廊の形成によってアルメニア共和国から意図的に分離されました[279] [280] [281] [ソースにはありません]。1937年、AONKはナゴルノカラバフ自治区(NKAO)に変わりました。

ソビエト時代
ソビエトの権力の年の間に、アルメニアのエリートは頑固にこの地域に対するアルメニアの支配を確立しようとしました。この問題は1930年代に提起されましたが、センターによってサポートされていませんでした[282]。中央新聞「イズベスチヤ」は次のように書いています。

ナゴルノ・カラバフ自治区では、バギロフにちなんで名付けられたアゼルバイジャンの集団農場と1月<>日にちなんで名付けられたアルメニアの集団農場がダシュシェンの村に住み、並んで働いています。両方の一団の集団農民は一緒に住んでいます。この友情はソビエトの権力の年の間に形成されました。ツァリズムの政策は、ナゴルノ・カラバフに住む人々の間で国民の争いをまきました。両方の村の住民はまだ血まみれの争いを覚えています。今、これはすべて取り返しのつかないほどなくなっています。写真の中:マグベグリとダシュシェンの村の集団農民の一般的な休日。アゼルバイジャンのサディク・グリエフとアルメニアのアルスタ・アダミャンがバナーで踊る

— [283]。
第二次世界大戦の終わりにスターリンがトルコとソ連の国境を変えようとして失敗した後、アルメニアの指導者たちがトルコのアルメニアに領土を移さないことに気づいた後、共和国の指導部はナゴルノ・カラバフ自治区をアルメニアSSRに加わる問題を提起した[284]。 アゼルバイジャン・バギロフの共産党中央委員会(ボルシェビキ)の第一書記へのメッセージの中で、ソ連人民委員会の副議長であるマレンコフは次のように書いた[285]。

アルメニア共産党中央委員会(ボルシェビキ)の書記であるアルチュノフ同志は、現在アゼルバイジャンSSRの一部であるナゴルノ・カラバフ地域をアルメニアSSRに含める提案を全連合共産党(ボルシェビキ)中央委員会に提出した。

しかし、NKAOの問題に関しては、バギロフの反論と反要求、そしてスターリンの否定的な決定が続いた[284]。 マレンコフに対するバギロフの返事の手紙には、次のテキストが含まれていました[286]:

…ナゴルノ・カラバフ自治区をアルメニアSSRに含めることに反対しませんが、ナゴルノ・カラバフ自治区の一部ですが、主にアゼルバイジャン人が住んでいますが、シュシャ地域をアルメニアSSRに移管することには同意しません。 … 同時に、全連邦共産党中央委員会(ボルシェビキ)の注意を喚起する必要があると考え、ナゴルノ・カラバフ自治区をアルメニアSSRに組み込む問題を検討する際には、アゼルバイジャン共和国に隣接し、主にアゼルバイジャン人が住むアルメニアSSRのアジズベヨフ、ヴェディンスキー、カラバグダル地域もアゼルバイジャンSSRに含める必要があります。 これらの地域の並外れた文化的および経済的後進性を考慮に入れて、アゼルバイジャンへの移転は、人口の物質的および生活条件ならびに文化的および政治的サービスを改善することを可能にするであろう。

ソ連の中央機関の前にナゴルノ・カラバフの問題を提起する試みは1930年、1945年、1965年、1967年および1977年になされたが、それらはすべて抑制された。さらに、当時、そのような試みはカラバフアルメニア人自身の間で常に理解に会うとは限りませんでした。たとえば、ナゴルノカラバフ自治区のハドルト地域の学校の校長が、アルメニアSSRへの自治権の移転を求める請願書の署名の収集を組織することを提案する手紙を受け取ったとき、彼らは彼らを党の地区委員会に連れて行き、この行動の開始者であったエレバンの同僚と「意見の相違を表明した」[287]。

戸籍
アルメニア
アゼルバイジャン人[通信6]。
ロシア
悉く
ナンバリング
%
ナンバリング
%
ナンバリング
%
ナンバリング
%
1926
103 055
89,1
12 592
10,0
596
0,5
125 300
100
1939
132 800
88,0
14 053
9,3
3174
2,1
150 837
100
1959
110 053
84,4
17 995
13,8
1790
1,6
130 406
100
1970
121 068
80,5
27 179
18,1
1310
0,9
150 313
100
1979
123 076
75,9
37 264
23,0
1265
0,8
162 181
100
1989年[288]
145 450
76,9
40 688
21,5
1922
1,0
189 085
100
ナゴルノ カラバフ03.png

1979年の国勢調査によると、ナゴルノ・カラバフ自治区の住民の総数は162,200人で、そのうち123,100人がアルメニア人(75.9%)、アゼルバイジャン人が37,300人(23.0%)でした[289]。したがって、半世紀以内に、ナゴルノ・カラバフのアゼルバイジャンの人口は5倍に増加し、この地域の総人口収支に占める割合(23%から275%)が増加しました[280] [権威のない情報源?]。この事実を指摘し、それを以前のデータと相関させて、アルメニア人はアゼルバイジャンの指導者を「差別と避難の意図的な政策」で非難し、バクーはナヒチェヴァン自治ソビエト社会主義共和国でどのように行われたかをモデルにナゴルノ・カラバフからアルメニア人を完全に追放するつもりであると主張した[290] [<>]。

当局がアゼルバイジャン人に有利な民族バランスを変えることを目的とした意識的な政策を追求したという事実は、アゼルバイジャンSSR共産党中央委員会(1-1969)の第1982書記長であるヘイダル・アリエフ、そして1993年から2003年までアゼルバイジャン大統領。彼は個人的に取ったこの方向での以下の措置をリストしました:周囲のすべてのアゼルバイジャン人が勉強に行ったアゼルバイジャン支部を持つステパナケルトの研究所の開設。アゼルバイジャン人も仕事に送られた靴工場の開設。「これらおよびその他の措置により、私はナゴルノ・カラバフにより多くのアゼルバイジャン人がいることを確実にしようとしました、そしてアルメニア人の数は減少しました」とアリエフは強調しました[291]。

同時に、民族誌学者のアナトリー・ヤムスコフが指摘しているように、「アゼルバイジャン人の移住の規模は、彼らがなじみのない異星人の地域ではなく、歴史的に自分たちのものと考え、本当に馴染みのある地域に移動したという事実によって重要でした。結局のところ、彼らの中には、歴史的なカラバフとアルメニアのこれらの山岳地帯に住む先住民の地元のアゼルバイジャン人の中からすでに親戚がいた人もいれば、祖父や父親から、アルメニアの山村の近くのこれらの地域で行われた以前の先祖代々の夏の遊牧民や遊牧民のルートについて繰り返し聞いていた人もいました移住のために選ばれ、さらに他の人たちは、再定住前に集団または州の農場羊飼いとして繰り返しそこにいました」[292]。

さらに、ヤムスコフによれば、「ナゴルノ・カラバフ自治区とアズ州の多くの隣接地区の農村地域の着実な「アゼルバイジャン化」の理由。SSRとアーム。SSRは、アゼルバイジャン人のより高い自然増加、そして最も重要なことに、都市への農村アゼルバイジャン人のはるかに小さな流出で構成されています」[293]。

この意見は、歴史科学博士のボストリコフ教授[294] [権威のない情報源?]によっても共有されています。

ヤムスコフによれば、「ナゴルノ・カラバフ自治区の住民は、人口の民族構成のこれらの変化を自分の目で見ています。バクーとエレバンはそれらをよく知っています。現在の状況が維持されれば、この傾向は確かに今後15〜20年でさらに発展し、次の世紀の初めに、ナゴルノカラバフのアルメニア人は人口の絶対的に圧倒的多数を構成するのをやめるでしょう。これは、明らかに、主にAzのリーダーシップの立場に基づいています。ソビエト社会主義共和国。したがって、ナゴルノ・カラバフ自治区のアルメニア人人口の割合がこの地域の住民の1980/2に近づき始めた3年代に、アルメニアの知識人は必然的にこの領土をアルメニアと再会させる問題を提起しなければなりませんでした」[293]。人口の民族国家構成を変えるそのような傾向は、(他の要因とともに)カラバフ危機の前提条件の形成において決定的な役割を果たしました[275] [権威のない情報源?]。

カラバフ紛争。1987-1991

主な記事: カラバフ紛争

「民主化」と「グラスノスチ」の政策の発表により、ナゴルノ・カラバフの問題が再び議題になりました。カラバフとアルメニアの再統一を要求するアルメニア人からの個人的および集団的な手紙の波がクレムリンを席巻した。カラバフ自体では、1987年の後半以来、この地域のアルメニアへの併合のための署名を集めるための積極的なキャンペーンが行われてきました。カラバフアルメニア人からの代表団は、CPSUの中央委員会で彼らの事件を「プッシュ」するためにモスクワに送られました。影響力のあるアルメニア人は、海外のカラバフ問題のために積極的にロビー活動を行った[295]。

1987年18月、アゼルバイジャン北部のチャルダクリ村で、アルメニアの住民と地方自治体の間で事件が発生しました。住民は、集団農場の議長を任命するという当局の決定に同意しなかった。その後、彼らは警察に殴打され、抗議して代表団をモスクワに送った。チャルダクリは、ソビエト連邦の296人の元帥の発祥の地としてアルメニア人に知られていました。<>月<>日、チャルダクリでの出来事に関連してエレバンで小さな抗議行動が行われました[<>]。

チャルダクリ事件のニュースはアルメニアで一般的な憤慨を引き起こした。その時までに、環境スローガンの下で始まったエレバンでの集会で、カラバフの話題はますます大きくなりました。「カラバフ」キャンペーンの最も著名なリーダーは、カラバフをテーマにした小説「ハース」の著者である作家ゾリーバラヤンと詩人シルバカプティキヤンでした。ゴルバチョフの経済顧問であるアベル・アガンベギャンは、カラバフをアルメニアに移す必要性についてパリで話しました。アルメニア人はこれを、その考えがソ連の最高指導者の支持を享受しているという合図と見なしました。年末までに、「再統一」(アルメニア語:「再統一」)に関する非公式の国民投票。みあつむ)アルメニアで彼はすでに80万人の署名を与えています。<>月から<>月にかけて、署名付きのこれらの請願書は、CPSUの中央委員会とソ連軍の代表に引き渡されました。

1987年1988月から1987年79月まで、アルメニアSSRのカパンとメグリ地域にコンパクトに住んでいるアゼルバイジャン人はアゼルバイジャンに向けて出発しました。トーマス・デ・ワールは彼の本の中で、1988年79月にカファンからの難民がバクーに到着し、民族間の衝突のために逃げることを余儀なくされたというデータを引用しています[<>]。アラマイス・ババヤン(共産党カパン委員会の第二書記)は、<>年<>月以前にアゼルバイジャン人がカパン地域の領土を去り、<>月のアゼルバイジャン人の出発が「噂と挑発」のために起こったことを「思い出せない」と主張している[<>]。

13年1988月295日、ステパナケルトで最初の会議が開催され、ナゴルノカラバフ自治区のアルメニアへの移転が要求されました。一週間後、数千人が集会を行った[<>]。

「私たちは、アルメニアSSRの最高会議が会議でアルメニアSSRとナゴルノ・カラバフ自治区の再統一の問題について話し合い、前向きな決定を下すことを要求します。」エレバン、1988年夏。

20月40日、ナゴルノカラバフ自治区の人民代議員評議会は、この地域をアルメニアと統合するよう要請する決議(ソ連、アルメニア、アゼルバイジャンの最高ソビエトへの訴えの形で)を採択しました。アルメニア人の行動は、ナゴルノ・カラバフの295,<>人の強力なアゼルバイジャン人からの反応なしには残れなかった。しかし、カラバフ運動の指導者の一人であるイゴール・ムラディアンによれば、彼らはアゼルバイジャンの少数派の運命に興味がなかった[<>]。

ナゴルノ・カラバフ自治区評議会がアゼルバイジャンからの脱退を決定した20月79日以降、アゼルバイジャン難民は殴打の痕跡を残してバクーに到着した[<>]。

22月295日、アスケラン(ステパナケルト-アグダム高速道路のナゴルノカラバフ自治区の国境)の近くで、ナゴルノカラバフの分離に対する抗議を表明するつもりで、狩猟用ライフルで武装したアルメニア人とステパナケルトに移動するアゼルバイジャン人の群衆の間で衝突が起こりました[297] [298]。最初はアゼルバイジャンの警官によって殺されました[295];<>人目はアルメニア人の一人による狩猟用ライフルからのショットによって殺された可能性があります[<>]。

27年1988月25日、ソ連の中央テレビで、副検事総長A.カツセフは殺害された人々の国籍に言及した。次の数時間で、反アルメニアのポグロムがスムガイト市(バクーの北27 km)で始まり、29月299日から300日まで続いた[298] [32] [6]。公式調査では、26人が死亡したと報告されています-100人のアゼルバイジャン人と301人のアルメニア人、アルメニア人の犠牲者の数が<>人を超えるバージョンがあります[<>]。

スムガイトのポグロムはアルメニア国民からの暴力的な反応を引き起こしました:集会はアルメニアで始まり、そこでスムガイトのポグロムを適切に非難し、犠牲者の完全なリストを公開し、ナゴルノカラバフ自治区とアルメニアSSRの再統一について決定を下すよう要求されました。

白雲母のアルメニア人はアゼルバイジャンから脱退するという同胞の決定を積極的に支持し、毎週組織された集会がスルブハルチュン教会の近くのアルメニア墓地で開催され始め、カラバフの同胞の要求を満たし、スムガイトの悲劇の主催者を裁判にかけることを要求しました。

13年1988月<>日、モスクワの芸術家K.ナハペティアンは、M.シャミロフとV.オガジャニャンとともに、集会の最も活発な参加者からモスクワアルメニア人の最初の真剣な組織であるカラバフ委員会を結成し、ナゴルノカラバフを全面的に支援しました。

TASSの報告についてコメントして、プラウダ新聞は次のように書いています。19月<>日にエレバンで集会を組織し、「カラバフ委員会」の会議と呼んだのはこれらの人々でした…あるK.ナハペティアンはストライキ、大規模なハンガーストライキを要求し、アルメニアを「無党派」共和国と宣言することを要求しました…

新聞モスコフスカヤプラウダ[302]は次のように書いています。イベントは午後<>時から数えられ、約<>人のモスクワと訪問アルメニア人がアルメニア人墓地の教会に集まりました。ご存知のように、このような集まりは、今年の春から、より正確には、<>月の初めから、スムガイトでの有名なイベントの後、より頻繁になっています…

1988年の秋、アゼルバイジャンのアルメニア人への攻撃が再開され、アルメニアへの追放が行われました。アルメニアに住むアゼルバイジャン人(ヴァルデニス、マシス、グガルクなど)は、同様の攻撃と強制国外追放を受けました[297][303]。アゼルバイジャンの情報筋は、アルメニアのポグロムで殺されたアゼルバイジャン人の数を216人と呼び、57人の女性、5人の赤ちゃん、18人の異なる年齢の子供を含む。しかし、アルメニアのKGBは、リストに載っているすべての人の運命を追跡したと主張しており、そのほとんどは以前に亡くなっており、ソ連の他の地域に住んでいるなどです。アルメニアのKGBの姿は25人が殺されました(逃げている間に凍った8人は数えません)[304] [305] [305] [306]

ポグロムの結果、1989年の初めまでに、すべてのアゼルバイジャン人とイスラム教徒のクルド人のかなりの部分がアルメニアから逃げ出し、ナゴルノ・カラバフと一部バクーに住む人々を除いて、すべてのアルメニア人がアゼルバイジャンから逃げました。1989年1月、モスクワはナゴルノカラバフ自治区をアゼルバイジャンの支配から部分的に撤退させ、そこに非常事態宣言を導入し、A. I. Volskyが率いる特別管理委員会を設立しました。夏以来、ナゴルノ・カラバフ自治区では絶え間ない武力衝突があり、地域当局はアゼルバイジャンに従わなかった:7月12日、地域評議会はAzSSRからの撤退に関する決議を採択した。エレバンでは、将来のアルメニア大統領レヴォン・テル・ペトロシアンが率いる「カラバフ委員会」のメンバーが逮捕された。その一部として、アルメニア最高評議会とNKAO地域評議会の合同会議は、ナゴルノ・カラバフとアルメニアの統一を宣言した(12月1日)。数日前の1989年11月28日、カラバフはAZSSRの事実上の権限の下で返還されました:特別管理委員会の代わりに、アゼルバイジャン共産党中央委員会(組織委員会)に従属する組織委員会が設立されました。組織委員会の下に、緊急事態地区の司令官事務所が設立されました。1990年1月15日、緊急事態宣言が発令されました。国内軍はナゴルノ・カラバフとシャフミャン地域に導入されました。その瞬間から、アルメニア人によれば、非常事態はアゼルバイジャンのフォーメーションによっても実施され、意識的に(アルメニア人によれば)ナゴルノ・カラバフ自治区のアルメニア人の生活を耐え難いものにしようとしたため、彼らの状況は急激に悪化した。しかし、非常事態は軍事衝突を妨害しませんでした:「非常事態の間、アルメニアのパルチザンは200以上の作戦を実施しました」。アルメニアとアゼルバイジャンの国境ではすでに本当の敵対行為が起こっていました。したがって、アルメニアのデータによると、1990年6月までにアルメニアの「フィダイーン」の数は約10トンでした。彼らは最大20台の装甲車両(装甲兵員輸送車、BRDM)、約100台の雹嵐銃とミサイル発射装置、数十台の迫撃砲、10機以上のヘリコプター(改造された民間人)で武装していました。さらに、内務省の特殊部隊の連隊がアルメニアで結成されました-最初は400人の戦闘機でしたが、後に2700人に成長しました。主にアゼルバイジャン人民戦線(PFA)によって組織されたアゼルバイジャンのフォーメーションも、同等の力を持っていました。

1990年<>月中旬、アルメニア人のポグロムがバクーで起こりました。モスクワは当局が脅かされるまで数日間反応しなかった。それから彼女は介入し、陸軍部隊は残酷にPFAを抑圧し、ムタリボフを権力の座につけた。

1991年17月から79月にかけて、ソビエト軍の部隊はアゼルバイジャン機動隊とともに、強制送還されたアルメニア人の代わりに、カラバフの村を武装解除し、住民をアルメニアに強制的に強制送還する行動(リング作戦)を行った。これにより、22の村が強制送還された[2]。しかし、1991月1991日以降、カラバフでの出来事に対するモスクワの影響はなくなりました。独自の「自衛隊」を創設したカラバフアルメニア人と、当時は警察と機動隊しか自由に使えなかったアゼルバイジャンは、互いに向かい合っていることに気づきました。10年<>月<>日、カラバフアルメニア人は、ソ連の一部としてまだ考えられていた(実際にはもはや存在しなかった)ナゴルノカラバフ共和国の創設を宣言しました。<>年<>月、アゼルバイジャン最高会議はナゴルノ・カラバフ自治区の自治権の廃止に関する決議を採択した。アルメニア人は<>月<>日に独立に関する国民投票を行い(アゼルバイジャン人はそれをボイコットした)、独立国家の創設を公式に宣言した。戦争が始まり、後にアゼルバイジャンとアルメニアの間の戦争にエスカレートしました。

カラバフ戦争。1992-1994

主な記事: カラバフ戦争

1991年末までに、カラバフのアルメニア人は最大6,000人の戦闘機(そのうち3,500人は地元、残りはアルメニアの「フィダイーン」)を持ち、「NKR自衛隊」(後に「NKR防衛軍」)に縮小され、国防委員会に従属しました。これらの部隊は、しばらくの間カラバフに残っていたソ連軍の第88連隊と第366電動ライフル連隊の財産を犠牲にして、彼らの兵器庫を大幅に補充しました。アルメニア人は攻撃を続けます:1月25日、アルメニア人はキルキジャンのステパナケルト郊外の機動隊基地を占領し、2月の前半に、ナゴルノカラバフ自治区の領土にあるほぼすべての民族的にアゼルバイジャンの村を占領します。コジャリ(唯一の飛行場があった場所)とシュシャの大規模な都市型集落だけが、ステパナケルトの集中的な砲撃(グラッド施設を使用)がアゼルバイジャン人の拠点であり続けました。1992年2月26日の夜、アルメニア人はKhojalyを捕らえました – これは戦争におけるアルメニア人の最初の本当に大きな成功でした。成功は悲劇によって影が薄くなりました-カラバフの指導者によって提供された「人道回廊」に沿って去ったコジャリからの難民のアルメニア武装グループによる虐殺(アゼルバイジャンのデータによると、485人が死亡しました)100人以上の女性と子供を含む途中で殺され凍結された人々)。ヒューマン・ライツ・ウォッチは、この出来事を「紛争史上最大の虐殺」と呼んだ。3月初旬にアゼルバイジャン側が(アスケランで)攻撃を開始し、コジャリを奪還する試みは失敗しました。4月10日、アルメニアの村マラガ(マルグシェヴァンの村とともにレニナヴァンの一般村議会の一部)への攻撃中に、約50人がアゼルバイジャンの武装勢力によって殺害されました。アルメニア人の成功とコジャリー虐殺はアゼルバイジャンで政治危機を引き起こし(ムタリボフに対するPFAのパフォーマンス)、それはアルメニア人のさらなる成功に貢献しました:5月8日から9日までのいくつかの攻撃の後、シュシャが占領され、NKRの全領土(旧NKAOとシャフミャン地域)はアルメニア人の支配下にありました。アルメニア軍はラチンに投げ込まれ、NKRをアルメニアから分離した。5月18日までに、NKRとゴリス(アルメニア)からの二重の打撃のおかげで、ラチンは占領され、アルメニアとNKRの間に直接のつながりが確立されました。アルメニア人は戦争が基本的に終わったと信じていました。彼らの観点からは、残ったのは、ハンラー地域のいくつかのアルメニアの村を占領することだけでした(「リング作戦」の間にアルメニアの人口から「クリア」されました)。北方向への計画された攻撃のために、地雷原はすでに除去され始めています。

しかし、A.エルチベイが率いる新しいPFA政府は、どんな犠牲を払ってもカラバフを返還しようとしました。その瞬間に始まったソビエト軍の財産の分割は彼に大量の武器を届け、アルメニア人に対する武装の優位性を確実にしました。したがって、ロシア国防省の指示によれば、第4軍は237両の戦車、325両の装甲兵員輸送車とBRDM、204両の歩兵戦闘車、70両の砲兵マウントをアゼルバイジャンに移送することになっていた。一方、アルメニアは、その領土に駐屯している第7装甲軍から54両の戦車、40両の歩兵戦闘車、50両の大砲しか受け取らなかった[307]。アルメニアの推定によると、アルメニア人はカラバフに8,4人(5,150人のカラバフ人を含む)、30台の装甲車両(60台の戦車を含む)、約12台の砲兵と迫撃砲システムを持っていました。18月000日、アゼルバイジャン人は、アルメニア人にとって予想外に、北方向(シャフミャン地域)に攻撃を開始しました。この地域は405日間占領されました。アルメニアのデータによると、4,9人が難民になり、15人(主に女性、子供、高齢者)が行方不明になりました。シャフミャン地域の占領後、再編成されたアゼルバイジャン軍はマルタケルトを攻撃し、1月3日に占領した。マルタカート地域のかなりの部分を占領したアゼルバイジャン人はサルサン貯水池に到着し、<>月<>日までに<>か月の攻撃の後、前線は安定しました。<>月<>日、アルメニア人は反撃を開始し、マルタケルトの郊外に到着しましたが、<>月初旬にハチェン川に到達したアゼルバイジャン人によって再び投げ返され、NKR領土の最大<>/<>を支配しました。それは戦争におけるアゼルバイジャンの最大の成功の瞬間でした。

カラバフでは、その一部として、非常事態と動員が宣言され、12月18日に45〜<>歳の人々の一般的な動員に変わりました。アルメニアからの援軍は急いでカラバフに移されました。

18月12日、アゼルバイジャン人は新たな攻撃を開始し、マルトゥーニ(南)とシュシャ(カラバフ海嶺を通って、空挺攻撃部隊とマウンテンライフルマンによる)の地域の中心であるラチンの方向に一度に21回の攻撃を加えました。ラチンの方向が主な方向であり、廊下がアゼルバイジャン人の主な目標でした。アゼルバイジャン人はラチン(<> kmの距離)とマルトゥーニに近づきました。しかし、彼らは彼らの目標を達成しませんでした。<>月<>日までに、彼らの攻撃は勢いを失い、反撃を開始したアルメニア人は彼らを元の位置に戻しました。アルメニア人がなんとかラチンを守ることができたという事実は決定的であることが判明しました。

この時までに、アルメニアは順番に、武装と国軍の編成を完了し、その重要な部隊はカラバフに移されました。年末までに、カラバフのアルメニア軍は18,12人のカラバフ人を含む100,190人を数えました。彼らは<>両の戦車と<>両の装甲戦闘車両を持っていました。

15年1993月<>日、アゼルバイジャンは北部戦線(カルディランの方向)で新たな攻撃を開始し、ステパナケルトへの攻撃の出発点を作ろうとしました。アイデアは、アルメニア人の力をマルタカート方向に束縛し、アグダムからの打撃で彼らを遮断することでした。しかし、攻撃は失敗に終わった。これは、アゼルバイジャン軍の春夏の敗北の前奏曲でした。

5月8日、アゼルバイジャン人を防御的な戦いで使い果たしたアルメニア人は攻撃を開始し、同じ日に占領したチャルダラン(マルタケルト方向)を攻撃した。10月25日までに、アゼルバイジャン人は<> km戻されました。 <>月<>日までに、アルメニア人はサルサン貯水池を完全に占領し、マルタケルト-ケルバジャール道路のセクションを支配し、ケルバジャール地域とアゼルバイジャンの他の地域との接続を中断しました。さらに前進してマルタカートを奪還する試みは失敗しました。

アルメニアの攻撃により、ケルバジャール地域は絶望的な立場に置かれ、アルメニア、NKR、およびそれを「本土」に接続する雪に覆われた峠の間の半封鎖に陥りました。27月72日、アルメニア人はケルバジャールを占領するための作戦を開始しました。ストライキは、アルメニア、カラバフ、ラチンの<>つの側面から行われました。攻撃の開始から<>時間以内に、アルメニア人は地域センターを占領しました。住民はヘリコプターで避難するか、峠を通って残され、多くの困難を経験しました。アゼルバイジャンの部隊も峠を通って後退し、雪の中で立ち往生している装備を放棄した。ケルバジャールの占領はアルメニア人の戦略的地位を大幅に改善し、最前線を短縮し、北からのラチンへの脅威を排除し、「回廊」の代わりにNKRとアルメニアの間の強力で信頼できる接続を確立しました。

アゼルバイジャンでは、敗北は新たな政治危機を引き起こし、12月にエルチベイとPFA政府の崩壊とヘイダルアリエフによる彼の交代につながりました。一方、アルメニア人は彼らの成功に基づいて構築しようとしました。アゼルバイジャンの攻撃の記念日である26月<>日、彼らはアグダムとマルタケルトの方向に大規模な攻撃を開始しました。アグダムの方向では、彼らはなんとか小さな成功を収めることができました。しかし、主力を北部戦線に移した後、彼らは<>月<>日にマルタケルトに戻った。

その後、アルメニア軍は再びアグダム方向に移され、42日間の戦闘の後、24月11日の夜にアグダムを占領しました。アルメニア人のさらなる計画は、南方向(フズリへ)に攻撃し、ホラディス地域のイラン国境に到達することでした。南部戦線での攻撃は25月31日に始まりました。23月14日までに、ジャブライルとフズリの地域センターが占領され、その後、再編成のための短い休止の後、アルメニア人はクバトリに対して攻撃を開始し、15月8日に占領しました。26月<>日、アルメニア人はホラディス(イラン国境)を占領し、最終的にザンゲラン地域とアゼルバイジャン人の手に残っているクバトリーとジャブライル地域の一部を遮断した。そこにいたアゼルバイジャン人(軍人と住民)は、アラクを通ってイランに向かった。このように、南部戦線は実質的に排除され、最近まで半包囲されていたカラバフの戦略的位置は劇的に改善されました。アルメニアの攻撃の<>ヶ月の間に、アルメニア人はなんとか<>km²の領土に対する支配を確立することができました。<>月<>日、アゼルバイジャン人は、彼らの立場を回復するための必死の試みで、<>つの方向すべて(フズリ、マルトゥーニ、アグダム、マルタカート、カルバジャール)で攻撃を開始しました。主な打撃は南部で行われました:アゼルバイジャン人は<>月<>日にホラディスを返還し、<>月<>日までにフズリに到着しました。そこで彼らは止められました。

同時に、ケルバジャール方向では、そこに関与した14つの旅団のうち12つがムロフダグの尾根を突破し、701の集落を占領し、マルタカート-ケルバジャール高速道路に到達しました。しかし、<>月<>日、アルメニア人は攻撃を開始し、第<>旅団をはさみで連れて行き、そこから大きな困難と深刻な損失を被って逃げることができました。アゼルバイジャン人は再びムロフダグを越えて押し戻された。

10年1994月4日の夜、アルメニア人は前線の北東部で大規模な攻撃を開始し、それを「テルター作戦」と呼びました。計画は野心的でした:タタール地域のアゼルバイジャン人の防御を突破し、バルダ・エヴラクへの攻撃を展開し、クラとミンゲチャウル貯水池に到達し、南西が以前に遮断されたように、ガンジャとともにアゼルバイジャンの北西全体を遮断しました。そのような大惨事の後、アゼルバイジャンはアルメニアによって規定された条件で和平を結ぶしかないだろうと想定されていました。しかし、アルメニア人の成功は控えめでした:6月中旬までに、308つの村が占領されました。次の6週間、12月<>日まで、<>回の激しい攻撃の結果、アグダムの北とタルタルの西のいくつかの集落が占領されました。これらの出来事は、アルメニア人もアゼルバイジャン人ももはや前進する立場にないことを示した。勢力均衡がありました[<>]。<>月<>日、アゼルバイジャン、NKR、アルメニアの代表は、ロシアの仲介によりビシュケクで停戦協定に署名しました。<>月<>日、この協定は発効しました。

ビシュケク議定書の結果として、アルメニア軍は主にナゴルノ・カラバフ自治区の領土、そしていわゆる「安全地帯」と一致して、領土を支配し続けました。一方、シャフミャン地域とマルタケルトとマルトゥニ地域の一部はアゼルバイジャンの支配下にとどまりました。

ナゴルノ・カラバフ共和国
主な記事: ナゴルノカラバフ共和国

1994年から2020年にNKR当局によって支配された領土(黄色)と1991年の独立宣言中にNKRによって宣言された領土ですが、アゼルバイジャン当局の管理下にとどまりました(緑)。
1992年から2020年まで、ナゴルノカラバフのほとんどは、アルメニア共和国と緊密な関係を維持し、アルメニアドラムを主要な国内通貨として使用する、認識されていないアルツァフ共和国(ナゴルノカラバフ共和国)によって支配されていました。アルメニア当局は、ナゴルノ・カラバフの併合を求める国内勢力から常に圧力を受けています。しかし、アルメニアは国際社会からの非難の反応を恐れて、これに同意しません。アルメニアとナゴルノ・カラバフ共和国の政治生活は密接に関連しています:例えば、1994年から1997年までナゴルノ・カラバフ共和国の大統領であったロバート・コチャリャンは、1997年にアルメニア政府を率い、1998年から2008年<>月までその大統領でした。アルメニア共和国軍は、NKR軍の要員の大多数を構成するNKRとアゼルバイジャン軍の間の連絡線で恒久的なサービスを実施しています。

現時点では、アゼルバイジャンはナゴルノ・カラバフ共和国を紛争当事者の1つとして認めることを拒否しているため、アゼルバイジャンとアルメニアのみが交渉に参加し、ナゴルノ・カラバフ共和国自体に不満を引き起こしています。

アルメニア、アゼルバイジャン、フランス、ロシア、米国の代表は、2001年春にパリとフロリダ州キーウェストで会合しました。会談の詳細は明らかにされていないが、両当事者がアゼルバイジャン中央政府とカラバフ指導部との関係について話し合ったと報じられた[309]。

2年4月2016日から<>日の間に、大規模な武力衝突が起こりました。アルメニア国防省によると、アゼルバイジャン軍は夜にナゴルノ・カラバフ共和国の防衛軍の後部に侵入しようとした。同時に、戦車、大砲、航空機が使用されました。

第二次カラバフ戦争
主な記事: 第二次カラバフ戦争

10年2020月<>日の停戦声明に署名した結果、事実上の支配下にあるNKRの領土(淡いピンク色)
27年2020月1994日、連絡線での敵対行為が激化しました。一方ではナゴルノ・カラバフ共和国(NKR)とアルメニアの武装勢力と他方ではアゼルバイジャンの軍隊との間の新たな激しい紛争の始まりは、310年のカラバフ戦争の終結以来最大かつ最長かつ最も血なまぐさいものでした。アゼルバイジャン軍の攻撃は、装甲車両、大砲、攻撃および偵察UAV、ならびに航空の大規模な使用によって行われた。双方は、軍人と民間人の間で多数の死傷者を報告した。戒厳令と一般的な動員はアルメニアとナゴルノ・カラバフ共和国で宣言されました。戒厳令と部分的な動員がアゼルバイジャンで宣言されました。トルコはアゼルバイジャンに政治的および軍事的支援を提供し、軍事装備(特に攻撃ドローン)を提供し、多くのメディア、顧問、インストラクターによると[311] [240]。戦闘中、NKRによって支配されていた領土のかなりの部分が、旧自治区の領土のかなりの部分を含むアゼルバイジャンの支配下に置かれました。戦争中、アゼルバイジャンは312つの都市、313つの町、314の村を支配しました[315]。北部セクターでは、アゼルバイジャン軍が多くの戦略的高さと集落を支配しました[<>] [<>] [<>]。南部では、アゼルバイジャン軍がイランとの国境に隣接する領土、シュシャ市、ハドルト村を完全に支配しました。

アルメニア、アゼルバイジャン、ロシアの間で10年2020月1日に署名された和平協定は、新たな敵対行為の停止を発表し、アルメニア軍が2020年316月<>日までにアゼルバイジャンのカルバジャール、ラチン、アグダム地域から撤退することを確立しました。この協定には、この地域でのロシアの平和維持活動の展開に関する規定が含まれており、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は、現在の協定で「長期的な解決のための条件を作り出す」つもりであると述べた[<>]。

国際楽器
822年30月1993日の国連安全保障理事会決議3205-第<>回会議で全会一致で採択されました。
853年29月1993日の国連安全保障理事会決議3259 – 第<>回会議で全会一致で採択。
874年14月1993日の国連安全保障理事会決議3292-第<>回会議で全会一致で採択されました。
884年12月1993日の国連安全保障理事会決議3313-第<>回会議で全会一致で採択されました。
欧州評議会議会決議第1416号
国連総会決議62/243「アゼルバイジャンの占領地の状況」(2008)-賛成39票、反対317票、棄権<>票で採択[<>]。
コメント
正式には、1836年まで存在していました。 XIX世紀までアルバニアの古代王国の領土を(教会論的に)支配していたアグヴァンクのカトリコスの住居は、最初はその最後の首都でした-低地カラバフのパルタフ(ベルダー)の街、そして後にXIV世紀から。 -ガンザサール修道院(ナゴルノカラバフのアルメニア人が住むハチェン地域)。 このため、アルメニア教会の伝統では、カラバフはしばしば「アグヴァンク」と呼ばれていました。 見る。 白人アルバニア教会
イギリスのエリザベス女王の末っ子の称号に似ています-「ウェセックス伯爵」は、長い間廃止されたイギリス王国に敬意を表して彼に与えられました。
ナゴルノ・カラバフ自治区はナゴルノ・カラバフの主にアルメニア人が住む地域から作成されたため、ナゴルノ・カラバフ自治区とナゴルノ・カラバフの歴史的および地理的地域の境界は異なっていたことを理解する必要があります[128]。 今日まで残っているリストされた村のそれらは、行政的に旧ナゴルノカラバフ自治区周辺の地区に属しています(たとえば、アグダムまたはフズリ)。
XIX世紀初頭のトランスコーカサスのタタール人はアゼルバイジャン人と呼ばれていました
1920年初めのオルジョニキーゼとナリマノフの間の電話での会話から(正確な日付は不明。 公認会計士IML. F. 64。1. D. 17.L. 66)は、ナリマノフがナゴルノ・カラバフ、ザンゲズール、シャルル・ナヒチェヴァンをアゼルバイジャンの不可欠な部分と見なしており、オルジョニキーゼは以前、RSFSRチチェリンの外務人民委員会に、自治を確保し、アゼルバイジャンが残りの紛争地域から拒否することを条件に、カラバフとザンゲズールを無条件にアゼルバイジャンに併合することを提案していた[264]。
ウェイバックマシンで1926年17月2017日にアーカイブされた<>年のソビエト国勢調査では、彼らは「トルコ人」としてリストされていました。』

カムチャツカ半島のシベルチ火山 大噴火

カムチャツカ半島のシベルチ火山 大噴火
https://nappi11.livedoor.blog/archives/5425278.html

『気象庁によると、2023年4月10日午後10時10分ころ、ロシア・カムチャツカ Kamchatka半島のシベルチ火山 (シベルチ山、Shiveluch volcano、Sopka Shiveluch、Sheveluch.Russian: Шивелуч 標高は3283メートル)で大規模な噴火が発生した。

気象庁はこの噴火で日本への津波の影響があるかどうか調査しているが、11日午前0時現在、海外および国内の観測点で有意な潮位変化は観測されていないという。ただ、場所によっては遅れて津波が到達することもありうるとし、注意を呼びかけている。20210331112122

気象庁によると、噴火は午後11時半現在も続いており、噴煙は高さ5万フィート(約15キロ)を超えて上がっているという。

火山灰が航空機の運航に影響を与える可能性があるため、航空各社に注意を促した。 参照記事 過去ブログ:2022年5月カムチャッカ半島で火山噴火、噴煙15キロ 米国便に遅れも:2019年8月カムチャッカ半島「なぜ噴火が多い?」日本への影響:』