トルコの国情とエネルギー事情

トルコの国情とエネルギー事情
https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_14-07-04-02.html

ATOMICA_14-07-04-02.pdf/ATOMICA_14-07-04-02.pdf

 ※ 上記URLで、DLすると取得できる。

 ※ 今日は、こんな所で…。

『<概要>

 トルコ共和国の国内エネルギー資源は、無煙炭、褐炭(リグナイト)、石油、天然ガス、水力である。石炭の賦存量は87億トンと推定され、発電や鉄鋼、セメント製造に使われているが、炭質は全般的に悪く、一次エネルギーの大半を海外に依存している。

従って、経済活動の活発化に伴う電力需要を賄うため、石油、天然ガスなどの輸入は年々増加し、2013年のエネルギー自給率は27.8%と低く、電力の安定供給が重要な課題となっている。

また、トルコはEU加盟を目指して電力市場改革を行うとともに、EU型の電力自由化を進めている。トルコは地理的に、豊富な石油、天然ガスなどエネルギー資源を抱える中東諸国やロシアと、消費地であるヨーロッパ諸国との中継地として、きわめて重要な立場を有する。』

改めて、プーチンがウクライナ侵略に狂った経緯をみる

北の国から猫と二人で想う事 livedoor版:改めて、プーチンがウクライナ侵略に狂った経緯をみる
https://nappi11.livedoor.blog/archives/5409133.html

『ウクライナに異常なまでの覚悟と執念を見せるプーチンの頭にある「完全体のロシア」とは一体何なのだろう?軍事侵攻が始まった2日後の2022年2月26日、そのヒントとなる、戦勝を祝う大本営発表文書がロシア国営通信から「誤配信」された。

「ロシアの侵攻と新世界の到来」(Наступление России и нового мира)と題されたその記事は、すぐに削除されたが、今もなおSNS上で拡散し続けている。参照翻訳記事 参照記事 以下は文書の概要。ウクライナ全土制圧が完了した前提で用意されていた、勝利宣言である。

071「新しい世界が目の前で生まれつつある。ロシアのウクライナでの軍事作戦は新しい時代を開いた(中略)ロシアは自身の一体性を回復しつつある──1991年の悲劇(ソ連崩壊)、我々の歴史における恐ろしい破局、その歴史の不自然な逸脱は克服されたのだ。、
、そう、大きな犠牲を払って、そう、実際の内戦という悲劇的な出来事を通して、、、

しかし、反ロシアとしてのウクライナは、もはや存在しない。ロシアは、ロシア世界、ロシア人、つまりヴェリコロス人(великороссов:Great Russians:モスクワを中心とする地域に分布)、ベラルーシ人、小ロシア人(筆者:Little Russians:ウクライナ、コサック人の蔑称で使われた事もある)の総体を一つにすることによって、その歴史的全体性を回復したのだ。

(左は帝政ロシア時代の国旗、ソ連崩壊後、1992年からのロシア国旗でもある) Novorossiya_2021_map_c_1参考:The nationalism in Putin’s Russia プーチン政権の帝国的ナショナリズムとロシア民族主義 *右の図は、2022年2月のウクライナ侵攻時、プーチンの構想したNovorossiya (Confederation 併合)=New Russiaを目指したとされる地域。クリミアはすでに2014年事実上併合済みで、東部では、ドネツク、ルハンスク州の一部2か所で親露派人民共和国が分離独立の闘争を今も継続しDonetsk People’s Republic (DPR) and the Luhansk People’s Republic (LPR)、今は露軍がその前線に居る。参照記事 参照記事

ウラジーミル・プーチン氏は、ウクライナの問題を後世に残さないという選択をしたことで、誇張なしに、歴史的な責任を負った、、

(それは)常に分裂した国家のコンプレックスであり、国家の屈辱のコンプレックスである。

ロシア家がまずその基礎の一部(キエフ)を失い、次に二つの国家の存在と折り合いをつけなければならなかったとき、もはや一つではなく、二つの民族の存在があった。

ウクライナを取り戻すこと、つまりロシアに戻すことは、10年を経るごとに難しくなっていくだろう。欧米によるウクライナの地政学的・軍事的支配が完全に固まれば、ロシアへの返還はまったく不可能となる–そのためには大西洋圏と戦わなければならない。今、この問題は解決した。ウクライナはロシアに戻ったのだ。」以上抜粋、編集
3b4c5b1-12putin、、、

あくまでも、ウクライナ全土制圧が成功した仮定で書かれたものだ。分かりにくい文章だが、簡単に言えば、プーチンは、ロシアが民族的、地政学的に分裂しているとの認識から、それが我慢できず、期を逸するとウクライナが欧米に完全に取り込まれてしまうと急いだ結果の侵略だった。

そこには独立国家ウクライナの主権や意思、国際法への尊重や配慮は全く無い。

すべては一方的なプーチンの偏狭な民族主義、復古主義、今の自分にしかできないという強迫観念、被害妄想から決断された侵略だった。

手こずった今は、目的遂行のために核使用までほのめかし、敢えて軍事的孤立を選択した。過去ブログ:2023年2月プーチンには最早、正常な歴史認識も無い  』

トルコの地震一覧

トルコの地震一覧
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%81%AE%E5%9C%B0%E9%9C%87%E4%B8%80%E8%A6%A7

『トルコの地震一覧(トルコのじしんいちらん)は、トルコにおける地震の年表である。トルコで発生した歴史地震を含む主な地震の記録を年表形式で記載する。

解説

テクトニクス的に、トルコはユーラシアプレート、アフリカプレート、アラビアプレートが複雑に衝突している大陸衝突(英語版)の活発な地域である。国の大部分は北アナトリア断層と東アナトリア断層という二つの横ずれ断層に囲まれた小さなアナトリアプレートの上にある。国の西側はエーゲ海の南西に広がっていくヘレニックアーク(英語版)に起因する伸張テクトニクス(英語版)帯の影響を受ける。東側は、ザグロス衝上造山帯?(en:Zagros fold and thrust belt)の西端にある。

地震の一覧

この一覧は未完成です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。』

トルコ沿岸での地震の背景 ~防災意識向上への取り組み~

トルコ沿岸での地震の背景 ~防災意識向上への取り組み~
https://www.jamstec.go.jp/j/pr/topics/column-20201105/

『 2020/11/05
地震 津波

海域地震火山部門 地震津波予測研究開発センター
山本 揚二朗 研究員

目次

トルコ沿岸で地震・津波が発生
どんな地震だったか?
被害拡大の一因は建物の耐震性
トルコは地震大国
防災・減災に向けた取り組み

トルコ沿岸で地震・津波が発生

2020年10月30日、ギリシャ・トルコ国境付近のエーゲ海にて、マグニチュード7.0(1)の地震が発生し、日本のニュースでも大きく取り上げられています。

この地震と、その後の津波により被災されました方々に心よりお見舞い申し上げます。また、救護・復旧活動に携わる皆様に敬意を表しますとともに、より一人でも多くの方が救われ、一刻も早く平穏な日常を取り戻されるよう、お祈り申し上げます。
どんな地震だったか?

アメリカ地質調査所(USGS)の発表によると、この震源の深さは21km、エーゲ海プレート内で発生したと推定されています。

10/30震源位置
図1.2020年10月30日の震源位置(黄色の星)(1)と、その周囲のプレート分布(2, 3)と。

このプレートの周囲には、アナトリアプレート、ユーラシアプレート、アフリカプレートが存在します(2)(図1)。

また、今回の地震は、南北方向に引張軸を持つ正断層型 (図2)と推定されています(1)。これは、エーゲ海プレートが南北方向に引っ張られる応力場 (地層にかかる力)であること(4)を反映したものと考えられます。
断層の種類との関係
図2.断層にかかる力と断層の種類との関係(5)。今回の地震は正断層で、青矢印が南北方向に向いている場合に対応する。(出典)地震調査研究推進本部ホームページより

今回のマグニチュード7.0の地震波形は、面積が40km×20km程度で、最大5m程度の地震時滑りをもつ断層モデルによって説明することができます(1)。
被害拡大の一因は建物の耐震性

震源の近くにはトルコ第3の都市イズミル市があり、地震とそれに伴う津波によって建物の倒壊や浸水、船舶の流出など甚大な被害が出ています。

今回の地震で計測された最大震度は国際メルカリ震度階でⅧであり、計算方法が異なるために一概には比較できませんが、日本の気象庁による震度に換算すると5強程度です。しかし、建物の耐震性の低さが原因 で、日本と比較した場合に、地震規模に比べて被害が大きくなる傾向があり、今回の地震でもその実態が改めて浮き彫りとなってしまいました。
トルコは地震大国

ユーラシアプレートを固定して、プレートの相互運動 をみてみると、西からエーゲ海プレートが南向き、アナトリア断層は西向き、東側でアラビアプレートが北向きに運動している様子がわかります(6)(図3)。
プレートの相対運動の向きと大きさ
図3.ユーラシアプレートに対する、エーゲ海プレート、アナトリアプレート、アラビアプレート、およびアフリカプレートの相対運動の向きと大きさ (6)。

この動きの大きさは、エーゲ海プレートの南向き成分が最も大きく、大局的には、エーゲ海プレートが南に動くために、動いた箇所を穴埋めするために、アナトリアプレートが西向きに動いているという解釈ができます。

ちなみに、アナトリアプレートの西向きの動きを担う北アナトリア断層では、M7級の地震が東から西へドミノのように順番に多数発生してきたことが知られています(3, 7)。そして、トルコ第1の都市イスタンブールに近いマルマラ海直下の部分が、現在、地震空白域となっていて、今後の発生が危惧されています(図4)。このように、トルコも日本と同様の地震大国なのです。

地震発生域拡大図

図4.今回の地震の位置と北アナトリア断層との関係。北アナトリア断層における1900年以降のマグニチュード7以上の地震発生域を拡大図で示す(7)。点線部分が200年以上マグニチュード7以上の地震が起きていない地震空白域となっている。

防災・減災に向けた取り組み

JAMSTEC では、マルマラ海沿岸地域の防災意識を高め,地震・津波に強い街作りを促す研究活動を2012年から2018年まで実施してきました。(JICA-JIST によるマルマラ海域の地震・津波災害軽減とトルコの防災教育、研究代表:金田義行)(8)。

海底地震計

現在も、JAMSTEC海域地震火山部門では、トルコ・ボアヂチ大学と共同で、マルマラ海における北アナトリア断層地震調査を実施しています。

これらの共同研究により、これまで不明であったマルマラ海域における北アナトリア断層の形状や固着の強さが明らかになり、イスタンブールを対象とした地震被害予測推定の精度向上に役立てられています。

今後も、トルコにおける地震発生場の理解とそれにもとづく防災意識向上への貢献を目指して、より広い視野で共同研究を進めていく計画です 。

研究者7名

参考文献
(1)USGS web site: https://earthquake.usgs.gov/earthquakes/eventpage/us7000c7y0/executive
(2)Birds, 2003, Geochemistry Geophysics Geosystems, https://doi.org/10.1029/2001GC000252
(3)Yamamoto et al., 2020, Tectonophysics, https://doi.org/10.1016/j.tecto.2020.228568
(4) Brun et al., 2016, Canadian Journal of Earth Science, https://doi.org/10.1139/cjes-2015-0203
(5)地震調査研究推進本部: https://www.jishin.go.jp/materials/
(6) Reilinger et al., 2006, Journal of Geophysical Research Solid Earth, https://doi.org/10.1029/2005JB004051
(7)Yamamoto et al.,2017, Journal of Geophysical Research Solid Earth, https://doi.org/10.1002/2016JB013608
(8) SATREPS web site: https://www.jst.go.jp/global/kadai/h2408_turkey.html 』

黒田清隆は明治の初めに米国を鉄道で横断してみて、鉄道網が整備されていれば鎮台や屯田兵は少なくしてもいいのだと確信できた。

黒田清隆は明治の初めに米国を鉄道で横断してみて、鉄道網が整備されていれば鎮台や屯田兵は少なくしてもいいのだと確信できた。
https://st2019.site/?p=20838

『※黒田清隆は明治の初めに米国を鉄道で横断してみて、鉄道網が整備されていれば鎮台や屯田兵は少なくしてもいいのだと確信できた。

ところが日本の場合、2つの大問題がたちはだかる。ひとつは、本州の策源から満洲・沿海州まで1本の鉄道で連接することができない。途中で「汽船海送区間」と「鉄道空白荒野」「無橋河」がいくつも挟まるのだ。

この条件でプロイセン式の動員速度を実現することは不可能だった。

さらに朝鮮政府も支那政府も、日本軍が満州まで急速にかけつけるための鉄道の敷設や運用に、協力する気が無かった。戦前の時代でも、他国の主権領土内に軍用鉄道を維持することは、どの先進大国にとっても、難題だらけであった。

けっきょく日本は、満洲に達する鉄道を確実に監理するために、朝鮮を併合する必要があり、また満洲事変も起こさねばならなくなった。

しかもそこまでしてもなお、半島や満洲に数個師団を常駐させねばならない負担は、解消されなかったのである。

その戦前の日本の苦労に比べたなら、ウクライナの現状は天国だ。軍用鉄道を敷いてやるから土地を出せといえば、今のウクライナ政府はよろこんで出す。そこに標準軌の複線貨物鉄道を敷いてやれ。これなら日本政府もすぐに協力を約束できるはずだ。

電化の必要はない。機関車はもちろん、ディーゼルに限る。理想的には、ディーゼルで発電する電気機関車だ。これだと客車もつなぎやすいから。

さらにターミナル駅からは、「軽便鉄道」を四通八達させること。その動力は石炭でいい。ハイテクの低公害ボイラーが可能なことを見せつけてやれ。エネルギーを自給できないウクライナの復興は、最も省エネの陸上輸送手段である、鉄道によるべし。』

ルーマニアの地理

ルーマニアの地理
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%81%AE%E5%9C%B0%E7%90%86

『本項では、ルーマニアの地理について解説する。

238,397k㎡の面積をもつルーマニアは、ヨーロッパで12番目に大きい国である。黒海沿岸の東南ヨーロッパにあり、北極と赤道の中間点にあるほか、ヨーロッパ最西端である大西洋岸と最東端のウラル山脈からも等距離である。国境の延長は3,195kmに及び、東をモルドバとウクライナ、南をブルガリア、西をセルビアとハンガリーに接する。また、南東部には、245kmにわたって、大西洋へとつながる黒海の海岸線がある。

歴史

ルーマニアには、現在こそ行政区画に反映されていないものの、伝統的にいくつかの地方に分割される。

ルーマニアの地形、行政区分を示した地図。グレーの文字は歴史的な地域名(Țara Româneascăはワラキアを指す)

ドブロジャは、東端にある地域で、北上するドナウ川から黒海沿岸まで延びている。

モルダヴィアは、東カルパティア山脈から、モルドバとウクライナの国境にあるプルト川にかけて広がっている。

ワラキアは、トランシルヴァニアアルプス山脈の南からブルガリアの国境にかけて広がり、オルト川より西側はオルテニア、東側はムンテニアに細分される。ムンテニアとドブロジャの間にはドナウ川が流れる。

中西部はトランシルヴァニアとして知られ、弧状に広がるカルパティア山脈によって、北西部のマラムレシュ地方と隔てられる。西側でハンガリーと接するクリシュナ地方、ハンガリーやセルビアと接する南西部のバナト地方といったカルパティア山脈西側の地域では、ハンガリー人、ドイツ人、セルビア人など少数派の民族が最も集中している。

現在のルーマニアの国境線は、比較的最近になって定まったものである。第一次世界大戦が勃発した際、ルーマニアの領土はワラキア、モルダヴィア、ドブロジャのみであった。これらの地域は古王国(レガット)と呼ばれ、19世紀中頃にオスマン帝国が崩壊したことによって領土となった。第一次世界大戦が終わると、ルーマニアはトランシルヴァニアやバナトを獲得する。第二次世界大戦中には再び領土の一部が失われるが、戦後回復している。これらの地域の統合により、東ヨーロッパのルーマニア語を話す人々のうち85%が領内に収まったが、同時に多くのハンガリー人居住地域が含まれることになった。ハンガリーもルーマニアもこうした領土を自国のものだと認識していたため、領土問題は定期的に表面化した。また、ソ連とルーマニアの国境の歴史的妥当性についても議論の的となってきた。ルーマニア語話者の多いブコヴィナやベッサラビアは、第二次世界大戦終結後からソ連が崩壊するまでソ連領となっており、その後は領土を受け継いだウクライナやモルドバの一部となっている。この問題は解決に至っていないが、1989年以降のルーマニアは領有権を主張していない。

ルーマニアは現在、41の県と特別な権限をもつブカレスト市に分割されている。詳細は「ルーマニアの県」を参照されたい。

地形

ルーマニアの自然地形[1]
カルパティア山脈を示した地図
ルーマニアと近隣諸国の地質図

ファガラシュ山脈はルーマニアで最も標高が高い

ルーマニアの自然地形は、山地(23%)、平地(39%)、丘陵(35%)に大別される。カルパティア山脈では標高2,500mを超える高地が広がる一方、ドナウ・デルタでは海抜数メートルの低地が広がるなど、国土は変化に富んでいる[1]。

カルパティア山脈は、国土の中央部を弧状に1,000km以上にわたって延びており、面積は71,000k㎡にも及ぶ。標高は低級・中級の山々が連なり、幅は100kmもない。縦横の峡谷によって山脈は細かく分断されており、いくつかの主要な河川もここから流れ出ている。谷が多いことと、標高2,256mまで峠道が延びていることから、カルパティア山脈は他のヨーロッパの山脈と比べると、障壁が少ないといえる。また、浸食が進んでいることも特徴で、こうした場所では比較的標高の高い場所に台地が広がり、1,200mを超えるような場所にも集落が存在する。

ルーマニア国内のカルパティア山脈は、東カルパティア山脈、南カルパティア山脈(トランシルヴァニアアルプス山脈)、西ルーマニアカルパティア山脈の3つに分けられ、それぞれ特徴をもっている。東カルパティア山脈は、北西から南東にかけて延びており、平行に並ぶ3つの尾根で構成される。西端は死火山地帯で、多くの円錐状の地形や噴火口跡が残されている。山脈内には盆地が多く、そのうち最大規模の盆地内にはブラショヴがある。盆地は重要な鉱業・産業の中心で、農業も盛んな地域となっている。また、森林が多いのも特徴で、国内の32%ほどを占めているほか、金や銀などの鉱床も存在し、湧き出るミネラルウォーターは数多くの健康リゾートで利用されている。

標高2,216mのブチェジ山脈にあるスフィンクス形の岩。高さは8m、幅は12mある

南カルパティア山脈には、モルドベアヌ山(2,544m)やネゴイウ山(2,535m)の高山があり、150以上の氷河湖が存在する。広い草地や森林が広がっているが、大きな盆地や鉱山資源は少ない。標高の高い地域では、雨や風によって岩が浸食され、スフィンクスや老女に見える岩が知られている。また、この地域には、ローマ時代に山脈越えの道がつくられ、現在でも跡が残っている。数多くの峠や、オルト川、ジウ川、ドナウ川によって形成された谷が存在し、そこを道路や鉄道が横断している。

西ルーマニアカルパティア山脈は、3つの山脈のなかでは最も標高が低く、多くの低地によって分断されている。この山脈は、通行が容易く、防御もしやすいことから、かつてより「門」としての機能を果たしている。最も有名な例は、ドナウ川の「鉄門」である。人口が最も集中している山脈でもあり、北端に位置するアプセニ山脈には、標高の最も高い集落がみられる。

カルパティア山脈の描く弧の内部には、波状に平地と低い丘が連続するトランシルヴァニア高原があり、国内最大の台地となっている。ここは一大穀倉地帯であるのと同時に、メタンガスや塩の産地ともなっている。カルパティア山脈の南側から東側にかけては、外カルパティアと呼ばれる地域が広がっており、標高396mから1,006mまで起伏が多い。また、これらの高地の西側には、やや標高の低い西部丘陵地帯が存在する。ルーマニアの起伏地形はさらに外側にも広がり、外カルパティアの南にはゲティック台地、東部の外カルパティアとプルト川の間にはモルダヴィア台地、南東部のドナウ川と黒海の間にはドブロジャ台地が存在する。外カルパティアと各台地の間は定住に適しており、果実、ブドウの栽培、農業が行われているほか、褐炭や天然ガスが大量に埋蔵している。

カルパティア山脈の高地の両側、南部と西部には平地が広がっている。このうち南部の低ドナウ平野は、オルト川によって東西に二分される。東側はワラキア平原、西側はオルテニア平原(西部平原)である。これらの平地は肥沃なチェルノーゼム土壌となっており、ルーマニア最大の農業地帯である。広範囲にわたって灌漑が行われ、ドナウ川の氾濫原にある湿地帯では、堤防建設と排水を実施してさらなる耕作地を生み出している。

ドブロジャの北端にあるドナウ・デルタは、ルーマニアで最も標高の低い地域である。デルタは沼地、葦の浮島、砂地で構成され、3,000km近くを流れてきたドナウ川は、ここで3本に分流して黒海に注ぐ。ドナウ・デルタは、ルーマニアの漁業の中心地で、葦は繊維として用いられる。また、渡り鳥など希少動物や植物が生息しており、自然保護区に指定されている。

「ルーマニアの保護地域(英語版)」も参照

水理

トランシルヴァニアのトゥルダ峡谷を流れるハシュダテ川

河川

ドナウ川は、バジアシュの南西でルーマニアに入り、流路全体の約40%にあたる1,075kmにわたって国内を流れる。ほとんどがルーマニア南端の国境となっており、この川を境にセルビアやブルガリアと接する。ルーマニア国内の河川のほぼすべてが直接または間接的なドナウ川の支流であり、ドナウ川の総流量の40%近くがルーマニアで合流する。代表的な支流として、ムレシュ川、オルト川、プルト川、シレト川、ヤロミツァ川、ソメシュ川、アルジェシュ川が挙げられる。オルト川は、ルーマニア国内のみで完結する河川としては最長で、615kmある。

ルーマニアの河川の多くは、カルパティア山脈から東、西、南に流れている。川の水は降水と雪解け水によって成り立っているため、流量の変化が激しく、時折洪水も発生する。ルーマニア東部ではシレト川、プルト川、西部ではハンガリー領内のティサ川をそれぞれ経由した後、ドナウ川に注ぐのに対し、南部では直接ドナウ川に流れ込む。

ドナウ川はルーマニアでは重要な役割を担っており、交通だけでなく、水力発電にも用いられる。ヨーロッパ最大の水力発電所は、カルパティア山脈を通過するドナウ川が形成する峡谷、鉄門に存在する。また、国内外問わず貨物輸送の経路としても用いられている。河口付近のドナウ・デルタは水深が浅いため、船が航行できるのはブライラの港までとなっている。ドナウ川の利用に関する大きな課題は、国内の主要な産業地域から離れており、内陸交通の場として十分に活かしきれないことである。また、湿地帯や洪水の時期には航行できなくなることもある。

湖沼

ルーマニアには3,500を超える湖が存在する。最大のものは、511k㎡の面積をもつラジム湖である。

気候
ケッペンの気候区分でみるルーマニアの地図

ルーマニアはヨーロッパ大陸の南東部に位置しており、温暖な気候と大陸性気候の境目にある。気候条件は地形によって影響を受けている。カルパティア山脈は、大西洋からの気団の障害となるため、西部や中部では、冬は暖かく、降雨の多い海洋性気候の影響が限定されている。同時に北側にある広大なウクライナの平原から来る、非常に寒く雨の少ない大陸性気候の影響も和らげている。最南東部では、地中海の影響で暖かく、海洋性の気候がみられる。年間平均気温は南部で11℃、北部で8℃である。首都ブカレストでは、1月の最低気温が-29℃、7月の最高気温が29℃となり、平均気温は1月が-3℃、7月が23℃である。全国的に降水はあるが、西部から東部へ、山地から平野部へ行くにつれ少なくなる。一部の山岳地帯では、毎年1,010mmを超える降水量があり、年間平均はトランシルヴァニア中部で635mm、モルダヴィアのヤシで521mmであるのに対し、黒海沿岸のコンスタンツァでは381mmまで減少する。

季節ごとの特徴として、冬は寒く曇りがちで、頻繁に雪や霧となる。夏は晴れることが多いが、にわか雨や雷雨も多発する。冬は一般的に11月から3月までで、春は短くすぐに夏に入る。夏は5月から8月まで続き、秋は9月から11月と長い。1月の平均気温は1.1℃、7月の平均気温は20.6℃である。史上最高気温は、1951年8月10日に南東部で観測された44.5℃、最低気温は1942年1月24日に中部で観測された-38.5℃である。

位置

ヨーロッパ南東部に位置し、黒海、ドナウ川を国境とする。中央部にはカルパティア山脈が横切る。バルカン半島、モルドバ、ウクライナ間の交通の通過点となっている。

大まかな位置座標

北緯46度00分 東経25度00分

ルーマニアの極地

北端(北緯48度15分 東経26度42分): ホロディシュテア - ボトシャニ県の村、ウクライナとの国境
南端(北緯43度37分 東経25度23分): ジムニチャ - テレオルマン県の町、ブルガリアとの国境
西端(北緯46度07分 東経20度15分): ベバ・ベケ - ティミシュ県の村、ハンガリー、セルビアとの国境
東端(北緯45度09分 東経29度41分): スリナ - トゥルチャ県の町、ドナウ・デルタ内

面積

全体: 238,391平方キロメートル (92,043 sq mi)
陸地: 231,231平方キロメートル (89,279 sq mi)
水地: 7,160平方キロメートル (2,760 sq mi)

国境

総延長: 3,149.9km
各国境の長さ: ブルガリア(631km)、ハンガリー (448km)、モルドバ (681km)、セルビア (546km)、ウクライナ (649km)

海岸線・領海

総延長: 245km
国境問題: ズミイヌイ島
排他的経済水域: 面積23,627k㎡

地勢

トゥルダ岩塩坑

最高・最低地点

最低地点: 黒海 (0m)
最高地点: モルドベアヌ山 (2,544m)

天然資源

石油(埋蔵量は減少傾向)、木材、天然ガス、石炭、鉄鋼、塩、耕作地、水力発電

土地利用(1993年推計)

耕作可能地: 41%
永続的な農地: 3%
永続的な牧草地: 21%
森林: 29%
その他: 6%

灌漑地域(1993年推計)

31,020km

自然災害

地震は南部、南西部に多い。地形や気候が要因で土砂災害も発生する。

環境

主な環境問題

土壌浸食、南部の産業排水による水質・大気汚染、ドナウ・デルタの湿地汚染

国際的な合意領域

大気汚染、南極条約、生物多様性、気候変動、砂漠化、絶滅危惧種、環境改変、有害廃棄物、海洋法、核実験禁止、オゾン層保全、船舶による汚染、湿地

署名しているが批准に至っていない領域

残留性有機汚染物質、環境保護に関する南極条約議定書、京都議定書(気候変動)』

ユーゴスラビア

ユーゴスラビア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%B4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%93%E3%82%A2

 ※ まず、バルカン半島の地理と歴史を、押さえておこう…。

 ※ コソボ紛争は、そういうものの「派生」として、生じている…。

『ユーゴスラビア(セルビア・クロアチア語: Jugoslavija/Југославија)は、かつて南東ヨーロッパのバルカン半島地域に存在した、南スラヴ人を主体に合同して成立した国家の枠組みである。

国名の「ユーゴスラビア」は「南スラヴ人の国」であり[1]、こう名乗っていたのは1929年から2003年までの期間であるが、実質的な枠組みとしては1918年に建国されたセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国に始まり、2006年6月にモンテネグロの独立で解体されたセルビア・モンテネグロまでを系譜とする。戦前は全人口の4分の3が農民であったが、1945年の第二次世界大戦後はチトーによって、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国となり、1948年にソ連率いるコミンフォルムから追放されるまで、ソ連型の社会主義建設に専念した。追放された後は労働者自主管理型の分権的な社会主義が生み出し、外交政策の非同盟主義への転換とともに「(ユーゴスラビア)独自の社会主義」の二本柱となった[1]。また、その間に国名や国家体制、国土の領域についてはいくつかの変遷が存在する(#国名参照)。

なお、ユーゴスラビアの名は解体後においても政治的事情により、構成国のひとつであった北マケドニアが現在の国名に改名する2019年までの間、同国の国際連合等における公式呼称であった「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」として残存していた。

国家の多様性から『七つの国境[注釈 1]、六つの共和国[注釈 2]、五つの民族[注釈 3]、四つの言語[注釈 4]、三つの宗教[注釈 5]、二つの文字[注釈 6]、一つの国家』と形容される[1][2][3]。

詳細は「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国#多様性を内包した国家」を参照 』

『概要

首都はベオグラード。1918年にセルビア王国を主体としたセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(セルブ=クロアート=スロヴェーヌ王国)として成立。1929年にユーゴスラビア王国に改名されたが、1941年にナチス・ドイツを中心とする枢軸国の侵攻によって全土を制圧され、以後枢軸国各国による分割占領や傀儡政権を介した間接統治が実施された。その間はヨシップ・ブロズ・チトー率いるパルチザンを中心とする抵抗運動が続き、枢軸国が敗戦した1945年からはパルチザンが設置したユーゴスラビア民主連邦が正式なユーゴスラビア政府となり社会主義体制が確立され、ユーゴスラビア民主連邦はユーゴスラビア連邦人民共和国に改称された[注釈 7]。そして1963年、ユーゴスラビア連邦人民共和国はユーゴスラビア社会主義連邦共和国に改称された。

しかし、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は1980年代後半の不況によって各構成国による自治・独立要求が高まり、1991年から2001年まで続いたユーゴスラビア紛争により解体された。その後も連邦に留まったセルビア共和国とモンテネグロ共和国により1992年にユーゴスラビア連邦共和国が結成されたものの、2003年には緩やかな国家連合に移行し、国名をセルビア・モンテネグロに改称したため、ユーゴスラビアの名を冠する国家は無くなった。この国も2006年にモンテネグロが独立を宣言、その後間もなくセルビアも独立を宣言し国家連合は解消、完全消滅となった。

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の6つの構成共和国はそれぞれ独立し、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、北マケドニアとなっている。また、セルビア国内の自治州であったコソボは2008年にセルビアからの独立を宣言した。コソボを承認している国は2015年8月の時点で国連加盟193か国のうち110か国であり[4]、セルビアをはじめとするコソボの独立を承認していない国々からは依然コソボはセルビアの自治州と見なされている。

バルカン半島に位置し、北西にイタリア、オーストリア、北東にハンガリー、東にルーマニア、ブルガリア、南にギリシア、南西にアルバニアと国境を接し、西ではアドリア海に面していた。

国名

ユーゴスラビアはスロベニア語、およびセルビア・クロアチア語のラテン文字表記でJugoslavija、キリル文字表記でЈУГОСЛАВИЈА(スロベニア語: [juɡɔˈslàːʋija]、セルビア・クロアチア語: [juɡǒslaːʋija, juɡoslâʋija])。

日本語での表記はユーゴスラビアもしくはユーゴスラヴィアである。しばしばユーゴと略される。過去にはユーゴースラヴィアという表記が使われていた[5]。

ユーゴスラビアは「南スラヴ人の土地」を意味し、南スラヴ人の独立と統一を求めるユーゴスラヴ運動に由来している。国家の名称としては、1918年のセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国の成立の頃より通称として用いられていたが、アレクサンダル1世統治時代の1929年に、これを正式な国名としてユーゴスラビア王国と改称された。

国名の変遷

1918年 - セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国
1929年 - ユーゴスラビア王国
1943年 - ユーゴスラビア民主連邦
1946年 - ユーゴスラビア連邦人民共和国
1963年 - ユーゴスラビア社会主義連邦共和国
1992年 - ユーゴスラビア連邦共和国
2003年2月5日 - セルビア・モンテネグロ独立、ユーゴスラビアの国名が消滅。

歴史

王国の成立
詳細は「ユーゴスラビア王国」を参照
ユーゴスラビア王国の国旗

第一次世界大戦中、汎スラヴ主義を掲げてオーストリアと戦ったセルビアはコルフ宣言を発表し、戦後のバルカン地域の枠組みとして既に独立していたセルビア、モンテネグロに併せてオーストリア・ハンガリー帝国内のクロアチア、スロベニアを合わせた南スラヴ人王国の設立を目指すことを表明した。

1918年に第一次世界大戦が終了しオーストリア・ハンガリー帝国が解体されるとクロアチア、スロベニアもオーストリア・ハンガリー帝国の枠組みから脱却して南スラヴ人王国の構想に加わり「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(1929年にユーゴスラビア王国へ改称)」が成立した。

憲法制定までの暫定的な臨時政府は、セルビア人によって運営された。また、1920年の制憲議会選挙によって成立したニコラ・パシッチ内閣(急進党・民主党連立)は、セルビア人主導の中央集権的な政治体制を目指しており、分権的・連邦主義的な政治体制を望むクロアチア共和農民党などの非セルビア人勢力と対立した。結局、パシッチは旧セルビア王国憲法を土台とした「ヴィドヴダン憲法」を制定した。こうしてセルビア人主導の中央集権化が進められ、歴代首相や陸海軍大臣、官僚の多くはセルビア人で占められたため、クロアチア人などの不満は大きなものとなった。1928年、クロアチア農民党(共和農民党から改称)のスティエパン・ラディッチが暗殺されたことは政治的混乱を深めさせ、1929年10月3日には国王アレクサンダルが憲法を停止して独裁制を布告し、ユーゴスラビア王国と国号を変更した。

国王アレクサンダル1世

国王アレクサンダルは、中央集権化を進めるとともに、「ユーゴスラビア」という単位での国民統合を企図した。ヴィドヴダン憲法で定められていた33の地方行政区(オブラスト)を再編し、歴史的経緯などによらない自然の河川などによって画定された9つの州(バノヴィナ)を配置した。

1931年に新憲法を布告し、中央集権主義と国王独裁を強めた。このため、連邦制・地方自治を求めるクロアチア人の不満はいっそう高まることになった。1934年、国王アレクサンダルがフランス外相とともにマルセイユで暗殺され、ペータル2世が即位した。この暗殺は、クロアチアの民族主義組織ウスタシャや、マケドニアの民族主義組織・内部マケドニア革命組織によるものと考えられている。

アレクサンダル暗殺後はクロアチアの要求をある程度受け入れる方針に転換し、1939年にはクロアチア人の自治権を大幅に認めクロアチア自治州を設立させることで妥協が成立した。しかし、クロアチア自治州の中にも多くのセルビア人が住む一方、自治州の外にもクロアチア人は多く住んでいること、またその他の民族も自治州の内外に分断されたり、自民族の自治が認められないことから多くの不満が起こり、結局この妥協はユーゴスラビア内の矛盾を拡大しただけで終わった。一方、クロアチア人による民族主義グループのウスタシャは、クロアチア自治州の成立だけでは満足せず、更にクロアチアの完全独立を目指し、この妥協を否定し非難した。

第二次世界大戦
Axis occupation of Yugoslavia, 1941-43.png
Axis occupation of Yugoslavia, 1943-44.png

ドイツの伸張と同国への経済依存度の高さから、ユーゴスラビア王国政府はドイツへの追従やむなしとして、1941年3月25日には日独伊三国軍事同盟に加盟した。しかし、これに反対しユーゴスラビアの中立を求める国軍は、3月26日から27日夜にかけてクーデターを起こし、親独政権は崩壊した。新政権は中立政策を表明し、三国同盟への加盟を維持すると表明する一方で、同盟としての協力義務を実質的に破棄し、中立色を明確にした。

同年4月5日、ユーゴスラビアはソ連との間で友好不可侵協定に調印した[6]が、 翌4月6日朝にはドイツ国防軍がイタリア王国、ハンガリー、ブルガリア等の同盟国と共にユーゴスラビア侵攻を開始[7]。 4月17日、ユーゴスラビアはドイツ軍に無条件降伏の申し入れを行い、全戦線にわたり戦闘を停止した[8]。

ドイツはユーゴスラビアを分割占領し、クロアチア地域ではウスタシャを新しい地域の為政者として承認し、同盟を結んだ。その他のユーゴスラビアの領土の一部はハンガリー、ブルガリア、イタリアへと引き渡され、残されたセルビア地域には、ドイツ軍が軍政を敷くと共に、ミラン・ネディッチ将軍率いる親独傀儡政権「セルビア救国政府」を樹立させた。

ウスタシャはドイツの支援を受けてユーゴスラビアを解体し、クロアチア独立国を成立させた。クロアチア人はセルビア人への復讐を始め、ヤセノヴァツなどの強制収容所にセルビア人を連行して虐殺した。

ドイツに侵攻されたユーゴスラビア王国政府はイギリスのロンドンに亡命政権を樹立し、ユーゴスラビア王国軍で主流だったセルビア人将校を中心としたチェトニックを組織してドイツ軍に対抗した。しかし旧来のユーゴスラビア王国内の矛盾を内包したチェトニックは士気が低く、クロアチア人を虐殺するなどしたため、セルビア人以外の広範な支持を広げることが無かった。代わってドイツに対する抵抗運動をリードしたのは、後にユーゴスラビア社会主義連邦共和国大統領に就任するヨシップ・ブロズ・チトー(ティトー)の率いるパルチザンだった。パルチザンはドイツ軍に対して粘り強く抵抗し、ソ連軍の力を東欧の国で唯一借りず、ユーゴスラビアの自力での解放を成し遂げた。

連邦人民共和国の成立

詳細は「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」を参照
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の国旗

大戦中の1943年に成立したユーゴスラビア民主連邦は社会主義を標榜し、新たな国家体制の構築に奔走した。戦後、自力でユーゴスラビアの解放に成功したチトーは王の帰国を拒否し、ロンドンの亡命政権を否認、ユーゴスラビア連邦人民共和国の成立を宣言した。戦後の政権党となったユーゴスラビア共産党(1952年にユーゴスラビア共産主義者同盟と改称)は、1948年にチトーがヨシフ・スターリンと対立してコミンフォルムを追放されて以降、ソ連の支配から外れ、独自の路線を歩むことになる。ユーゴスラビアは、アメリカが戦後のヨーロッパ再建とソ連への対抗策として打ち出したマーシャル・プランを受け入れる姿勢を取り[9]、東ヨーロッパ諸国を衛星国として取り込もうとしていたソ連と対立した。ソ連と対立したため、東ヨーロッパの軍事同盟であるワルシャワ条約機構に加盟せず、1953年にはギリシャやトルコとの間で集団的自衛権を明記した軍事協定バルカン三国同盟(英語版)を結んで北大西洋条約機構と事実上間接的な同盟国となる。社会主義国でありながら1950年代は米国の相互防衛援助法(英語版)の対象となってM47パットン、M4中戦車、M36ジャクソン、M18駆逐戦車、M3軽戦車、M8装甲車、M3装甲車、M7自走砲、M32 戦車回収車、M25戦車運搬車、GMC CCKW、M3ハーフトラック、M4トラクター、デ・ハビランド モスキート、P-47、F-86、F-84、T-33など大量の西側の兵器を米英から供与され[10][11]、1960年代にはスターリン批判でニキータ・フルシチョフが指導者になったソ連と和解して東側の軍事支援も得た。その中立的な立場から国際連合緊急軍[12] など国際連合平和維持活動にも積極的に参加し、冷戦下における安全保障策として非同盟運動(Non-Alignment Movement, NAM)を始めるなど独自の路線を打ち出した。その一方、ソ連から侵攻されることを念頭に置いて兵器の国産化に力を入れ、特殊潜航艇 なども開発した。ユーゴスラビア連邦軍とは別個に地域防衛軍を配置し、武器も配備した。地域防衛軍や武器は、後のユーゴスラビア紛争で利用され、武力衝突が拡大する原因となった。

社会主義建設において、ソ連との違いを打ち出す必要に迫られた結果生み出されたのが、ユーゴスラビア独自の社会主義政策とも言うべき自主管理社会主義である。これは生産手段をソ連流の国有にするのではなく、社会有にし、経済面の分権化を促し、各企業の労働者によって経営面での決定が行われるシステムだった。このため、ユーゴスラビアでは各企業の労働組合によって社長の求人が行われる、他のシステムとは全く逆の現象が起こった。この自主管理社会主義は、必然的に市場を必要とした。そのため、地域間の経済格差を拡大させ、これが後にユーゴスラビア紛争の原因の一つとなった。加えて、市場経済の完全な導入には踏み切れなかったため、不完全な形での市場の発達が経済成長に悪影響を及ぼす矛盾も内包していた。

第二のユーゴスラビアはスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの6つの共和国と、セルビア共和国内のヴォイヴォディナとコソボの2つの自治州によって構成され、各地域には一定の自治権が認められた。これらの地域からなるユーゴスラビアは多民族国家であり、その統治の難しさは後に「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」と表現された。

詳細は「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国#多様性を内包した国家」を参照

このような国で戦後の長期間にわたって平和が続いたことは、チトーのバランス感覚とカリスマ性によるところが大きいとも言われる。1963年には国号をユーゴスラビア社会主義連邦共和国に改称。1974年には6共和国と2自治州を完全に同等の立場に置いた新しい憲法が施行された。

1980年にチトーが死去すると各地から不満が噴出した。同年にコソボで独立を求める運動が起こった。スロベニアは、地理的に西ヨーロッパに近いため経済的に最も成功していたが、1980年代中ごろから、南側の共和国や自治州がスロベニアの経済成長の足を引っ張っているとして、分離の気運が高まった。クロアチア人は政府がセルビアに牛耳られていると不満が高まり、セルビア人は自分達の権限が押さえ込まれすぎているとして不満だった。経済的な成長が遅れている地域は「社会主義でないこと」、経済的に発展している地域は「完全に自由化されていないこと」に対して不満があった。

東欧革命が起こって東欧の共産主義政権が一掃されると、ユーゴスラビア共産主義者同盟も一党支配を断念し、1990年に自由選挙を実施した。その結果、各共和国にはいずれも民族色の強い政権が樹立された。セルビアではスロボダン・ミロシェヴィッチ率いるセルビア民族中心主義勢力が台頭した。クロアチアではフラニョ・トゥジマン率いる民族主義政党・クロアチア民主同盟が議会の3分の2を占め、ボスニア・ヘルツェゴビナでも主要3民族それぞれの民族主義政党によって議会の大半が占められた。また、モンテネグロ、およびコソボ自治州とヴォイヴォディナ自治州では、「反官憲革命」と呼ばれるミロシェヴィッチ派のクーデターが起こされ、実質的にミロシェヴィッチの支配下となっていた。1990年から翌1991年にかけて、スロベニアとクロアチアは連邦の権限を極力制限し各共和国に大幅な自治権を認める、実質的な国家連合への移行を求める改革を提案したが、ミロシェヴィッチが支配するセルビアとモンテネグロなどはこれに反発し、対立が深まった。

崩壊

詳細は「ユーゴスラビアの崩壊(英語版)」を参照
「ユーゴスラビア紛争」も参照
1991年以降の旧ユーゴスラビアの変遷

1991年6月、スロベニア・クロアチア両共和国はユーゴスラビアからの独立を宣言した。ドイツのハンス=ディートリヒ・ゲンシャー外務大臣は同年9月4日に欧州共同体内の合意形成を待たずに両国を国家承認することが戦争を防ぐと主張して、フランスやオランダ、スペインなど他の加盟国やイギリス、アメリカ、ギリシャの反対を押しきって承認表明した。そしてデンマークとベルギーのみにしか理解されなかったまま12月23日に単独承認したことでユーゴスラビア破滅の切っ掛けをつくった。フランク・ウンバッハ(ドイツ語版)はドイツに引っ張られたECの加盟国らの対応を批判して、ユーゴ連邦はEUの理念の達成のための犠牲となったと述べている[13]。

セルビアが主導するユーゴスラビア連邦軍とスロベニアとの間に十日間戦争、クロアチアとの間にクロアチア紛争が勃発し、ユーゴスラビア紛争が始まった。十日間戦争は極めて短期間で終結したものの、クロアチア紛争は長期化し泥沼状態に陥った。1992年4月には、3月のボスニア・ヘルツェゴビナの独立宣言をきっかけに、同国内で独立に反対するセルビア人と賛成派のクロアチア人・ボシュニャク人(ムスリム人)の対立が軍事衝突に発展し、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が起こった。同国はセルビア人・クロアチア人・ボシュニャク人の混住がかなり進行していたため状況はさらに深刻で、セルビア、クロアチア両国が介入したこともあって戦闘は更に泥沼化した。

連邦共和国の成立

詳細は「ユーゴスラビア連邦共和国」を参照

1992年4月28日に、連邦に留まっていた2つの共和国、セルビア共和国とモンテネグロ共和国によって人民民主主義、社会主義を放棄した「ユーゴスラビア連邦共和国」(通称・新ユーゴ)の設立が宣言された。

クロアチア紛争、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は国連の調停やNATOの介入によって、1995年のデイトン合意によって漸く終結をみた。しかし、セルビアからの分離運動を行うアルバニア人武装勢力の間では、武力闘争によるテロ活動が強まった。また、ボスニアやクロアチアなどの旧紛争地域で発生したセルビア人難民のコソボ自治区への殖民をセルビアが推進したことも、アルバニア人の反発を招いた。1998年には、過激派のコソボ解放軍(KLA)と、鎮圧に乗り出したユーゴスラビア軍との間にコソボ紛争が発生した。紛争に介入したNATO軍による空爆などを経て、1999年に和平協定に基づきユーゴスラビア軍はコソボから撤退した。コソボには国際連合コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)が設置され、セルビアによる行政権は排除された。ミロシェヴィッチは大統領の座を追われ、ハーグの旧ユーゴスラビア国際刑事法廷(ICTY)に引き渡されたが、判決が下される前に死亡した。
一方、その人口規模の小ささから独立を選択せず、一旦はセルビアとの連邦を選択したモンテネグロでも、セルビアに対する不満が高まった。人口比が反映された議会、政府は完全にセルビアによって運営されることになり、この間モンテネグロはセルビアと共に国際社会からの経済的制裁、政治的な制裁を受けることになった。これに対しての不満がモンテネグロ独立運動の端緒となった。モンテネグロは過去の経験からコソボ紛争に対してはセルビアに協力しない方針をとり、むしろアルバニア人を積極的に保護するなどして、国際社会に対してセルビアとの差異を強調した。紛争終結後は通貨、関税、軍事指揮系統、外交機関などを連邦政府から独立させ独立への外堀を埋めていった。これに対して欧州連合はモンテネグロの独立がヨーロッパ地域の安定化に必ずしも寄与しないとする方針を示し、セルビアとモンテネグロに対して一定期間の執行猶予期間を設けることを提示した。両共和国は欧州連合の提案を受け入れ、2003年2月5日にセルビアとモンテネグロからなるユーゴスラビア連邦共和国は解体され、ゆるやかな共同国家となる「セルビア・モンテネグロ」が誕生した。セルビア・モンテネグロはモンテネグロの独立を向こう3年間凍結することを条件として共同国家の弱体化、出来うる限りのセルビアとモンテネグロの対等な政治システムを提示したが、モンテネグロは共同国家の運営に対して協力的でなく、独立を諦める気配を見せようとしなかった。

このため欧州連合は、投票率50%以上賛成55%以上という条件でモンテネグロの独立を問う国民投票の実施を認めた。2006年5月23日に国民投票が行われ、欧州連合の示す条件をクリアしたため、同年6月3日にモンテネグロは連合を解消して独立を宣言した。これをセルビア側も承認し、欧州連合がモンテネグロを国家承認したため、モンテネグロの独立が確定した。

これにより、ユーゴスラビアを構成していた六つの共和国がすべて独立し、完全に崩壊した。

ユーゴスラビアの変遷

[表示]
指導者
王国

すべてカラジョルジェヴィチ家。

ペータル1世(1918年-1921年セルブ・クロアート・スロヴェーヌ王)
アレクサンダル1世(1921年-1929年セルブ・クロアート・スロヴェーヌ王、1929年-1934年ユーゴスラビア王)
ペータル2世(1934年-1941年ユーゴスラビア王、1941年-1945年枢軸国の侵略によりロンドン亡命)

共産主義者同盟

ヨシップ・ブロズ・チトー(ティトー)(1939年3月-1980年5月4日)
    ブランコ・ミクリッチ(クロアチア出身、1978年10月19日 - 1979年10月23日)代理
    ステヴァン・ドロニスキ(ヴォイヴォディナ出身、1979年10月23日 - 1980年5月4日)代理
ステヴァン・ドロニスキ(ヴォイヴォディナ出身、1980年5月4日 - 1980年10月20日)
ラザル・モイソフ(マケドニア出身、1980年10月20日-1981年10月20日)
ドゥシャン・ドラゴサヴァツ(クロアチア出身、1981年10月20日-1982年6月29日)
ミティア・リビチッチ(スロヴェニア出身、1982年6月29日-1983年6月30日)
ドラゴスラヴ・マルコヴィッチ(セルビア出身、1983年6月30日-1984年6月26日)
アリ・シュクリヤ(コソヴォ出身、1984年6月26日-1985年6月25日)
ヴィドイェ・ジャルコヴィチ(モンテネグロ出身、1985年6月25日-1986年6月26日)
ミランコ・レノヴィツァ(ボスニア・ヘルツェゴビナ出身、1986年6月26日-1987年6月30日)
ボシュコ・クルニッチ(ヴォイヴォディナ出身、1987年6月30日-1988年6月30日)
スティペ・シュヴァル(クロアチア出身、1988年6月30日-1989年6月30日)
ミラン・パンチェフスキ(マケドニア出身、1989年6月30日-1990年6月30日)

連邦人民共和国・社会主義連邦共和国

イヴァン・リヴァル(1945年12月29日 - 1953年1月14日)
ヨシップ・ブロズ・ティトー(1953年1月14日 - 1980年5月4日)1963年から終身大統領
ラザル・コリシェヴスキ(1980年5月4日 - 1980年5月15日)
ツヴィイェチン・ミヤトヴィッチ(1980年5月15日 - 1981年5月15日)
セルゲイ・クライゲル(1981年5月15日 - 1982年5月15日)
ペータル・スタンボリッチ(1982年5月15日 - 1983年5月15日)
ミカ・シュピリャク(1983年5月15日 - 1984年5月15日)
ヴェセリン・ジュラノヴィッチ(1984年5月15日 - 1985年5月15日)
ラドヴァン・ヴライコヴィッチ(1985年5月15日 - 1986年5月15日)
シナン・ハサニ(1986年5月15日 - 1987年5月15日)
ラザル・モイソフ(1987年5月15日 - 1988年5月15日)
ライフ・ディスダレヴィッチ(1988年5月15日 - 1989年5月15日)
ヤネス・ドルノウシェク(1989年5月15日 - 1990年5月15日)
ボリサヴ・ヨヴィッチ(1990年5月15日 - 1991年5月15日)
スティエパン・メシッチ(1991年6月30日 - 1991年10月3日)
    ブランコ・コスティッチ(1991年10月3日 - 1992年6月15日)代理

連邦共和国

ドブリツァ・チョシッチ(1992年6月15日 - 1993年6月1日)
    ミロシュ・ラドゥロヴィッチ(1993年6月1日 - 1993年6月25日)代理
ゾラン・リリッチ(1993年6月25日 - 1997年6月25日)
    スルジャ・ボジョヴィッチ(1997年6月25日 - 1997年7月23日)代理
スロボダン・ミロシェヴィッチ(1997年7月23日 - 2000年10月7日)
ヴォイスラヴ・コシュトニツァ(2000年10月7日 - 2003年3月7日)

政治

1918年から1941年まではカラジョルジェヴィチ家による王制。

1945年以降はユーゴスラビア共産主義者同盟による一党独裁。ただし地理的に西ヨーロッパに近いことや、ソ連及びその衛星国と政治体制を差別化する必要があったことから、比較的自由な政治的な発言は許される風土があったとされる。

1989年にユーゴスラビア共産主義者同盟は一党独裁を放棄し、複数政党制の導入を決定した。翌1990年に実施された自由選挙ではセルビアとモンテネグロを除いて非ユーゴスラビア共産主義者同盟系の民族主義的色彩が非常に強い政治グループが政権を獲得した。
地方行政区分

「ユーゴスラビアの構成体一覧」も参照。
1918年-1941年
詳細は「ユーゴスラビア王国の地方行政区分」を参照

1929年、中央集権化政策の一環としてそれまでの33州(Oblast)を改編して10の州(banovina)を設けた。1939年、ツヴェトコヴィッチ=マチェク合意に基づき、サヴァ州、プリモリェ州全域とヴルバス州、ドリナ州の一部をクロアチア自治州として設定した。

ドラヴァ州(Dravska banovina)
サヴァ州(Savska banovina)
プリモリェ州(Primorska banovina)
ヴルバス州(Vrbaska banovina)
ドナウ州(Dunavska banovina)
ドリナ州(Drinska banovina)
モラヴァ州(Moravska banovina)
ゼタ州(Zetska banovina)
ヴァルダル州(Vardarska banovina)
ベオグラード市(Grad Beograd、パンチェヴォおよびゼムンを含む)

1945年-1990年
スロベニア
社会主義共和国
クロアチア
社会主義共和国
ボスニア・ヘルツェゴビナ
社会主義共和国
モンテネグロ
社会主義
共和国
マケドニア
社会主義
共和国
セルビア
社会主義共和国
ヴォイヴォディナ
社会主義
自治州
コソボ
社会主義
自治州
詳細は「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の地方行政区分」を参照

1945年以降は社会主義体制が敷かれ、民族、あるいは地域ごとの共和国からなる連邦制をとった。1974年には憲法を改正し、セルビア共和国の一部であるヴォイヴォディナ自治州とコソボ自治州を、各共和国とほぼ同等の地位へと昇格させた。

スロベニア社会主義共和国
クロアチア社会主義共和国
マケドニア社会主義共和国
ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国
セルビア社会主義共和国
    ヴォイヴォディナ社会主義自治州
    コソボ社会主義自治州
モンテネグロ社会主義共和国

1990年以降

1990年に初めて多党制が導入され、自由選挙が行われた。連邦の構成共和国で社会主義政策を放棄し、連邦からの離脱を望む勢力が伸び、ほどなくユーゴスラビアから独立していった。この過程で一連のユーゴスラビア紛争が起こった。

スロベニア共和国(1991年6月に独立を宣言し、スロベニア共和国となった)
クロアチア共和国(1991年6月に独立を宣言し、クロアチア共和国となった)
マケドニア共和国(1991年に独立を宣言、1992年3月に完全独立し、マケドニア共和国となった。2019年に北マケドニア共和国に改称)
ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国(1992年3月に独立を宣言し、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国となった。その後内戦に突入し、1995年12月和平に調印)
セルビア共和国(2003年に「セルビア・モンテネグロ」として共同国家を維持、2006年モンテネグロ共和国の独立に伴って独立し、セルビア共和国となった)
    ヴォイヴォディナ自治州(セルビア共和国のヴォイヴォディナ自治州となっている)
    コソボ・メトヒヤ自治州(2008年2月17日に独立を宣言し、コソボ共和国となった)
モンテネグロ共和国(2003年、「セルビア・モンテネグロ」として共同国家を維持、2006年分離独立しモンテネグロとなった)

地理
河川

ドナウ川
サヴァ川
モラヴァ川
ヴァルダル川
ドリナ川
ウナ川
ネレトヴァ川

山脈

ディナル・アルプス

経済

1980年代の末期まで、ユーゴスラビアではソ連や他の社会主義国家とは一線を画した経済方式を導入しており、この経済方式を自主管理方式と呼んだ。ユーゴスラビアでは生産手段である、工場や工業機械の他に、経営方針も労働者によって管理されるものとされ、その範囲内で経営責任者が労働者によって募集されるということもよくあった。

また西側資本の受け入れにも積極的であり、西ドイツ(当時)のスニーカーメーカーだったアディダス社などがユーゴスラビアに工場を構えていた。

通貨はユーゴスラビア・ディナール

国民

セルビア人、クロアチア人が多数。このほかに自らの共和国を持つ存在としてスロベニア人、モンテネグロ人、マケドニア人があった。ボシュニャク人も独自の共和国としてボスニア・ヘルツェゴビナを持っていたが、同共和国内にはセルビア人・クロアチア人も多く居住しており、ボシュニャク人の人口は過半数に達しなかった。さらにセルビア国内に、アルバニア人のために南部にコソボ自治州が、ハンガリー人のために北部にヴォイヴォディナ自治州が設けられた。イタリア人も少数ながら一定の人口を擁していた。これらの民族のいずれも、ユーゴスラビアで過半数を占めることはなかった。ユーゴスラビアが存在した約70年近くの間にこれらの民族の間での混血が進み、自らを「ユーゴスラビア人」であると名乗る者もあった。

宗教は、スロベニア人・クロアチア人は主にカトリック、セルビア人・モンテネグロ人・マケドニア人は主に正教会、ボシュニャク人は主にイスラームである。第二のユーゴスラビアにおいては、ボシュニャク人という呼称に代えてムスリム人という呼称が使用され、現在もそのように自称する人々もいる。

言語はセルビア・クロアチア語、スロベニア語、マケドニア語であった。セルビア・クロアチア語は連邦解体に伴ってクロアチア語、セルビア語、ボスニア語の3言語に分かれたものの、相互の差異は小さく、互いの意思疎通が可能である。また、スロベニアやマケドニア、コソボなど、セルビア・クロアチア諸語が優勢ではない地域でも、セルビア・クロアチア語は共通語として広く通用し、ユーゴスラビア解体前に教育を受けた、一定の年齢以上の者はほとんどがセルビア・クロアチア語を解することができる。また、セルビア・クロアチア語はラテン文字とキリル文字二つの正書法があったが、ユーゴスラビアではこれら二つの文字は等しく扱われていた。

文化
スポーツ
詳細は「ユーゴスラビアのスポーツ」を参照

サッカー

サッカーの強豪国のうちの一つだった。ワールドカップには1930年の第1回から出場している。ワールドカップでの最高成績は1930年および1962年の4位である。ヨーロッパ選手権では1960年大会、1968年大会での準優勝がある。年齢別の大会では1987年のワールドユースでの優勝がある。

1960年代以降、ユーゴスラビアが国際的なタイトルに最も近づいたのはドラガン・ストイコビッチ、デヤン・サビチェビッチ、ロベルト・プロシネチキ、ズボニミール・ボバン、スレチコ・カタネッツ、ダルコ・パンチェフを擁した1980年代後半になってからで、監督はイビチャ・オシムだった。1990年5月13日には国内リーグのディナモ・ザグレブ対レッドスター・ベオグラード戦で試合開始前から暴動が発生するなど民族対立が持ち込まれて混乱を来たし、代表チームの結束も危ぶまれたものの、1990 FIFAワールドカップでは準々決勝で一人少ないながらも優勝候補だったアルゼンチンに120分間でドロー。PKで敗退したものの、1992年のヨーロッパ選手権の優勝候補に推す者が後を絶たないほど強烈な印象を残していった。

しかし一方でユーゴスラビアの解体が進んでおり、1991年までに行われたヨーロッパ選手権予選を勝ち上がったものの、同年スロベニアとクロアチアがユーゴスラビアを離脱。更に本大会直前になってボスニア・ヘルツェゴビナもユーゴスラビアを離脱。ユーゴスラビア連邦軍がサラエヴォに侵攻するにあたって監督のイビチャ・オシムが辞任。国連はユーゴスラビアに対しての制裁を決定し、これに呼応してFIFA、UEFAはユーゴスラビア代表の国際大会からの締め出しを決定。既に開催国であるスウェーデン入りしていたユーゴスラビア代表は帰国し、ユーゴスラビアの解体とともにユーゴスラビア代表も解体してしまった。この大会の優勝はユーゴスラビアに代わって出場したデンマークだった。ユーゴスラビアの経歴と記録はユーゴスラビア連邦共和国→セルビア・モンテネグロ→セルビアが引き継いでいる。

旧ユーゴスラビア構成諸国家にも、強豪としてのユーゴスラビアの伝統は継承されている。1998 FIFAワールドカップではユーゴスラビア連邦共和国とクロアチアが出場し、特にクロアチアは3位に入る活躍を果たした。またサッカーが盛んとはいえないスロベニアも2000年のヨーロッパ選手権本大会、2002 FIFAワールドカップと続けて本大会に出場しこれも大いに世界を驚かせた。さらに2014 FIFAワールドカップではボスニア・ヘルツェゴビナも本大会初出場を果たし、2018 FIFAワールドカップではクロアチアが準優勝し、さらに大きな驚きを呼んだ。こうしたユーゴスラビアの強さの秘密の一つとしてサッカーをアカデミックに捉える試みが行われたことが上げられる。大学の講座の一つとしてサッカーのコーチングが教えられており、旧ユーゴスラビア出身の監督の多くはこれらの修士号や博士号を持っている場合が多い。また、旧ユーゴスラビア諸国出身のサッカー監督は極めて多いと言える。

オリンピック

サッカー以外でもユーゴスラビアはスポーツ強国として知られ、近代オリンピックの重要な参加国となった。夏季オリンピックには建国後最初の大会になる1920年のアントワープオリンピックから参加した(前身のセルビア王国としては1912年のストックホルムオリンピックで初参加)。1924年のパリオリンピックではレオン・シュツケリが男子体操の個人総合と種目別の鉄棒で、同国初のメダルとして金メダル2個を獲得した。

第二次世界大戦後もオリンピックへの参加を続け、1984年には社会主義国初となる冬季オリンピックとして、招致活動で札幌市を抑えてサラエボオリンピックを開催した。この大会ではユーレ・フランコがアルペンスキーの男子大回転で銀メダルを獲得し、同国初の冬季メダリストとなった。また、同年に行われ、ソ連や東ヨーロッパ諸国が集団ボイコットを行ったロサンゼルスオリンピックにも参加した。この時のメダル獲得総数18個(金7銀4銅7)がユーゴスラビアのベストリザルトで、その次の1988年ソウルオリンピックでも12個(金3銀4銅5)のメダルを獲得した。

有力種目はハンドボールと水球だった。男子ハンドボールはオリンピック種目に復活した1972年のミュンヘンオリンピックで金メダルを獲得し、その後もメダル争いの常連となった。男子水球はロサンゼルス・ソウル両大会で2連覇を達成し、ハンガリーと並ぶ世界最高峰の実力を見せつけた。

しかし、オリンピック活動も各共和国の独立運動の影響を受けた。1992年のバルセロナオリンピックは、男子サッカーのヨーロッパ選手権と同様、ユーゴスラビアとの文化・スポーツ交流を禁じる国連の制裁対象となった。独立した各共和国の参加は認められたが、ユーゴスラビアの参加は不可能となった。ただし、国際オリンピック委員会(IOC)は救済措置を検討し、個人種目に限ってユーゴスラビア国籍の選手を「個人参加」として五輪旗とオリンピック賛歌の下で戦うことを認めた。この個人参加選手は射撃で銀1銅2の計3個のメダルを獲得した。また、多くの選手がユーゴスラビアを離れたために競技力の低下が顕著となり、特に冬季大会では主力選手がみなスロベニアに所属したため、1994年リレハンメルオリンピックへの参加を見送った。内戦や空爆でスポーツ施設も多く被害を受け、経済制裁によってそのメンテナンスも難しくなった。

ユーゴスラビアは1996年アトランタオリンピックで正式メンバーとしてオリンピックに復帰し(金1銀1銅2で計4個のメダル)、2000年シドニーオリンピックがユーゴスラビアとして最後の参加となった。この大会では男子バレーボールの金メダルなど、合計3個(金1銀1銅1)のメダルを獲得した。

脚注
[脚注の使い方]
注釈

^ イタリア、オーストリア、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、ギリシャ、アルバニア
^ スロベニア、クロアチア、セルビア(ボイボディナ、コソボの2自治州が含まれる)、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、マケドニア
^ スロベニア人、クロアチア人、セルビア人、マケドニア人、イスラム人(ユーゴスラビア内ムスリム)。 また、アルバニア人も多く、彼らのほとんどはコソボ自治州に住む。
^ スロベニア語、クロアチア語、セルビア語、マケドニア語
^ カトリック、正教、イスラム教。 宗教はスロベニア、クロアチアらほとんどカトリック信者、ボスニア・ヘルツェゴビナ(40%以上)やコソボ(80%以上)では多数のイスラム教徒がおり、セルビアとモンテネグロ、マケドニアでは圧倒的に正教の信者が多い。
^ ラテン文字とキリル文字
^ ユーゴスラビア連邦人民共和国の国家規模は(社会主義国の連邦として)ソ連に次ぐものであった。

出典

^ a b c 第2版,世界大百科事典内言及, 日本大百科全書(ニッポニカ),精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,百科事典マイペディア,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,世界大百科事典. “ユーゴスラビアとは” (日本語). コトバンク. 2022年3月8日閲覧。
^ “特集 西バルカン地域 多民族社会の平和を目指して(1/4ページ) | 広報誌・パンフレット・マンガ | JICAについて - JICA”. www.jica.go.jp. 2021年4月29日閲覧。
^ “映画『灼熱』 公式サイト” (日本語). www.magichour.co.jp. 2022年3月8日閲覧。
^ KosovaThanksYou コソボ独立を承認した国の一覧
^ 〔備考〕外交関係の回復に関する書簡について
^ ユーゴ、ソ連と友好不可侵協定調印『東京日日新聞』昭和16年4月7日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p387 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
^ ドイツ軍、ユーゴ・ギリシャへ侵入(『東京日日新聞』昭和16年4月7日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p387
^ ユーゴ全軍が無条件降伏(『東京日日新聞』昭和16年4月19日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p388
^ W. A. Brown & R. Opie, American Foreign Assistance, 1953
^ Sherman Register - Yugoslavia
^ Yugoslav Air Force Combat Aircraft: 1953 to 1979 – The Jet Age I (US & Soviet Aircraft)
^ United Nations Photo: Yugoslav General Visits UN Emergency Force
^ “旧ユーゴ内戦と国際社会” 2017年7月11日閲覧。

参考文献

柴宜弘『新版世界各国史(18) バルカン史』山川出版社
ディミトリ・ジョルジェヴィチ『バルカン近代史』刀水書房
柴宜弘『図説 バルカンの歴史』河出書房新社
スティーヴン・クリソルド『ユーゴスラヴィア史』恒文社
柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』岩波書店
ミーシャ・グレニー『ユーゴスラビアの崩壊』白水社
徳永彰作『モザイク国家 ユーゴスラビアの悲劇』筑摩書房
千田善『ユーゴ紛争 多民族・モザイク国家の悲劇』講談社
千田善『ユーゴ紛争はなぜ長期化したか 悲劇を大きくさせた欧米諸国の責任』勁草書房
マイケル・イグナティエフ『軽い帝国 ボスニア、コソボ、アフガニスタンにおける国家建設』風行社
最上敏樹『人道的介入 正義の武力行使はあるか』岩波書店
高木徹『ドキュメント 戦争広告代理店』講談社

関連項目

ユーゴスラビア関係記事の一覧
    ユーゴスラビア紛争
    ボスニア紛争
    セルビア・モンテネグロ
    ユーゴスラビア共産主義者同盟
    ユーゴスラビア人
    ユーゴスラビア辞書協会百科事典
バルカン半島の歴史
ヨーロッパ史
アンダーグラウンド (映画)
石の花 (坂口尚の漫画)
さよなら妖精 (米澤穂信)
ユーゴスラビア (小惑星)(ユーゴスラビアに因んで命名された小惑星)
ロヴロ・フォン・マタチッチ
ユーゴノスタルギヤ: 無くなったユーゴスラビアに対する懐古感情。
ユーゴスラビアの政治犯(英語版)

外部リンク

最後の国王ペータル2世の皇太子アレクサンダル・カラジョルジェヴィチの公式ウェブサイト(英語)
The Weight of Chains (2010) - ユーゴスラビア解体を招いたアメリカ、EUの介入を暴いたカナダのドキュメンタリー映画
旧ユーゴスラビア - NHK for School
『ユーゴスラビア』 - コトバンク

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ユーゴスラビア汎スラヴ主義かつてバルカンに存在した国家過去の国際連合加盟国

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国境を越える「民族」 : アウスジードラー問題の歴史的経緯

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 ※ それと、「ドイツ国民」の「被害者意識」と「加害者意識」の混在…、なんて話にもつながってくることだろう…。

 ※ ロシアは、「巧みに」そういう「ドイツ国民の意識・認知構造」に働きかけて、操っている…、という情報も、見たぞ…。

国境を越える「民族」 : アウスジードラー問題の歴史的経緯
著者
佐藤 成基
出版者
法政大学社会学部学会
雑誌名
社会志林

54

1
ページ
19-49
発行年
2007-07
URL
http://doi.org/10.15002/00021040
19

1. アウスジードラー理解への視点
    −在外同胞問題としてのアウスジードラー−

ドイツ連邦共和国は建国から1990年代初頭までのあいだ,東欧(ないし中東欧)からやって来 た人間を,当人が「ドイツ人」であるという理由により,当人およびその祖先がかつて一度もドイ ツ国籍を取得したことがなかった場合ですら無条件で受け入れ,国籍を付与してきた。この政策に
より,戦後継続的に400万人以上の「ドイツ人」が東欧からドイツ連邦共和国にやってきた(表1
参照)。1988年以後,その数は急激に増加し,世間の注目を浴びることになった。彼らを総称して
「アウスジードラーAussiedler」と呼んでいる。連邦共和国のこのアウスジードラー政策により, 東欧からの「ドイツ人」移民は,アウスジードラーという資格によって,外国人労働者や庇護権請 求者等の他の移民集団と比較して大幅に有利な待遇を受けることになった。

これまでアウスジードラーは,外国人労働者や庇護権請求者とセットで「ドイツの移民問題」と いう枠組みで理解されることが多かった
1
。そのような枠組みから見ると,「民族帰属」を認定され た「ドイツ人」に対する優遇は突出して見える。

そのため,ドイツのアウスジードラー政策を, 「血統」や「文化」を重視する「エスニック(エスノ文化的)」なナショナリズムの象徴であるとか, ナチス時代の「民族政策」への回帰であるとか,あるいはドイツの非「西欧」的な特殊性を示す現象であるなどと批判的ないしは文化宿命論的にとらえる解釈が,ドイツ国内・国外を問わず少なくなかった。

しかしこのような見方をすると,アウスジードラー問題が負っている固有の歴史的経緯,すなわ ち,なぜアウスジードラー政策が採用され,それがどのような形で継続されてきたのかという側面 への視点が失われてしまう。

確かにアウスジードラー政策において,ナチスの民族政策を想起させる「民族帰属」という概念を,「ドイツ人」の認定基準として用いている。だが,その点だけをとりあげて,戦後から1990年代初頭まで続いた(その後改訂されながらも現在までも継続している)
アウスジードラー政策の特徴を決定付けてしまうのは単純に過ぎる。

そこで本論文では,アウスジードラー問題を「移民問題」という観点からではなく,在外同胞と
4 4 4 4 4
国境を越える「民族」
―アウスジードラー問題の歴史的経緯―
佐 藤 成 基
1
例えばその理解の仕方は,ドイツの代表的な移民研究者クラウス・バーデの1994年の著作『外国人,
アウスジードラー,庇護』(Bade 1994)の題名の中に表わされている。
20

(表1)1950 年以来のアウスジードラー統計(連邦行政局)

旧ソ連邦 ポーランド
旧チェコ
スロバキア
ハンガリー ルーマニア
旧ユーゴ
スラヴィア
その他 計
1950 0 31,761 13,308 3 13 179 2,233 47,497
1951 1,721 10,791 3,524 157 1,031 3,668 3,873 24,765
1952 63 194 146 30 26 3,407 9,503 13,369
1953 0 147 63 15 15 7,972 7,198 15,410
1954 18 664 128 43 8 9,481 5,082 15,424
1955 154 860 184 98 44 11,839 2,609 15,788
1956 1,016 15,674 954 160 176 7,314 6,051 31,345
1957 923 98,290 762 2,193 384 5,130 6,264 113,946
1958 4,122 117,550 692 1,194 1,383 4,703 2,584 132,228
1959 5,563 16,252 600 507 374 3,819 1,335 28,450
1960 3,272 7,739 1,394 319 2,124 3,308 1,013 19,169
1961 345 9,303 1,207 194 3,303 2,053 756 17,161
1962 894 9,657 1,228 264 1,675 2,003 694 16,415
1963 209 9,522 973 286 1,321 2,543 629 15,483
1964 234 13,611 2,712 387 818 2,331 749 20,842
1965 366 14,644 3,210 724 2,715 2,195 488 24,342
1966 1,245 17,315 5,925 608 609 2,078 413 28,193
1967 1,092 10,856 11,628 316 440 1,881 262 26,475
1968 598 8,435 11,854 303 614 1,391 202 23,397
1969 316 9,536 15,602 414 2,675 1,325 171 30,039
1970 342 5,624 4,702 517 6,519 1,372 368 19,444
1971 1,145 25,241 2,337 519 2,848 1,159 388 33,637
1972 3,420 13,482 894 520 4,374 884 321 23,895
1973 4,493 8,903 525 440 7,577 783 342 23,063
1974 6,541 7,825 378 423 8,484 646 210 24,507
1975 5,985 7,040 516 277 5,077 419 343 19,657
1976 9,704 29,364 849 233 3,766 313 173 44,402
1977 9,274 32,857 612 189 10,989 237 93 54,251
1978 8,455 36,102 904 269 12,120 202 71 58,123
1979 7,226 36,274 1,058 370 9,663 190 106 54,887
1980 6,954 26,637 1,733 591 15,767 287 102 52,071
1981 3,773 50,983 1,629 667 12,031 234 138 69,455
1982 2,071 30,355 1,776 589 12,972 213 194 48,170
1983 1,447 19,121 1,176 458 15,501 137 85 37,925
1984 913 17,455 963 286 16,553 190 99 36,459
1985 460 22,075 757 485 14,924 191 76 38,968
1986 753 27,188 882 584 13,130 182 69 42,788
1987 14,488 48,423 835 581 13,994 156 46 78,523
1988 47,572 140,226 949 763 12,902 223 38 202,673
1989 98,134 250,340 2,027 1,618 23,387 1,469 80 377,055
1990 147,950 133,872 1,708 1,336 111,150 961 96 397,073
1991 147,320 40,129 927 952 32,178 450 39 221,995
1992 195,576 17,742 460 354 16,146 199 88 230,565
1993 207,347 5,431 134 37 5,811 120 8 218,888
1994 213,214 2,440 97 40 6,615 182 3 222,591
1995 209,409 1,677 62 43 6,519 178 10 217,898
1996 172,181 1,175 14 14 4,284 77 6 177,751
1997 131,895 687 8 18 1,777 34 0 134,419
1998 101,550 488 16 4 1,005 14 3 103,080
1999 103,599 428 11 4 855 19 0 104,916
2000 94,558 484 18 2 547 0 6 95,615
2001 97,434 623 22 2 380 17 6 98,484
2002 90,587 553 13 3 256 4 0 91,416
2003 72,289 444 2 5 137 8 0 72,885
2004 58,728 278 3 0 76 8 0 59,093
2005 35,396 80 4 3 39 0 0 35,522
総  計 2,334,334 1,444,847 105,095 21,411 430,101 90,378 55,716 4,481,882

典拠:連邦内務省ホームページ(http://www.bmi.bund.de)"Aussiedlerstatistik seit 1950" をもとに作成
21
国境を越える「民族」
いう「民族問題」の観点
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
から考察してみたい。

確かにアウスジードラーが現象として移民の一種で
あることには間違いはない。だが彼らは移民であると同時に,というよりもそれ以前に,ドイツ連 邦共和国にとっての在外同胞(つまり「在外ドイツ人Auslandsdeutsche」)なのである

2

このことがアウスジードラーに対し,その他の移民とは異なった歴史的負荷を与えている。

国家の境界線の外にいながら,同一の「ネーション(民族)」(それがどのように定義されるにせ よ)に帰属する「同胞」。これが在外同胞である。在外同胞は,同一の「ネーション」の成員でありながら国境外に散在している。それは,西欧,アメリカ,日本などでは問題になることは少ないが,イスラエル,ギリシャ,朝鮮,東欧地域の諸ネーションなどでは重要な「民族問題」である。

より一般的な視点
4 4 4 4 4 4
から,「民族問題」を国家とネーションとの不一致に伴う問題
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

と捉えるとするならば,在外同胞問題は,民族マイノリティ問題とともに「民族(ネーション)問題」の二大テーマを構成することになるだろう

3
。民族マイノリティが国境内における国家とネーションとの不一致
であるとすれば,在外同胞は国境外における国家とネーションの不一致である
4

ドイツでは,その統一国家の建国(1871年)以来,国境外に多くの在外ドイツ人を抱えてきた。

彼らは,その時々の政治的・社会的状況の中で,様々に理解され,誤解され(時に見過ごされ,忘れられ),テーマ化され,様々な政治的関心の下に道具化されてきた。

また,ドイツのネーション概念それ自体も,在外ドイツ人問題との関わりを通じて形成されてきたという面がある。

ドイツ史を見ると,国家によって領土的に区切られたネーション概念のほかに,それとは連動しつつも独立
した非国家的ないし超国家的なネーション概念
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
が,様々な形で「想像」されてきた
5

その過程に
おいて,在外ドイツ人問題への関与が少なからぬ役割を果たしてきた。戦後連邦共和国のアウスジードラー問題は,このような在外ドイツ人の歴史,さらにはドイツのネーション概念形成史の文脈の中で捉えて行く必要がある。

2
アウスジードラーを在外マイノリティ問題と関連で分析した研究としてオーリガーとミュンツのもの
(Ohliger and Münz 2002)がある。本報告はこの論考から大きな示唆を得ている。

だが,この分析も「マイノリティから移民へ」という転換が主題であり,アウスジードラー問題そのものを「民族」の問題と捉える視点が一貫しているわけではない。
3
ナショナリズムにおける在外同胞問題,さらには国家を超えたナショナルな関係性の重要性を指摘したのはロジャース・ブルーベイカーであった(Brubaker 1996)。彼は,「民族化する国家」「民族マイノリテ
ィ」とならんで「外部の民族的故郷」からなる,民族問題の「三項関係」を指摘している。
4

アーネスト・ゲルナーによる有名なナショナリズムの定義によれば,「ナショナリズムとは,第一義的に,政治的な単位とナショナル(民族的)な単位が一致しなければならないと主張する政治的原理である」
(Gellner 1983: 1=2000: 1)。

この表現を借りて言うならば,民族政策とは,政治的な単位とナショナルな
(民族的な)単位を一致させるための具体的な方策ということになるだろう。

そこで問題となるのが,領土内の異民族である民族マイノリティと領土外の民族同胞である在外同胞である。
5

言うまでもなく,その歴史はフィヒテやヘルダーにまで遡る。フリードリッヒ・マイネッケは,国家の基盤を持たない統一以前のドイツのネーション概念を「文化ネーション」と呼んだ(Meinecke 1919)。

ブルーベイカーは,統一以後のドイツのネーションの自己理解においても,やはり国家的な概念よりも 「エスノ文化的」な概念の方が優位していると論じている(Brubaker 1992=2005)。
22

しかしまたアウスジードラー問題は,戦後に固有のものでもある。既存国境外のドイツ人を受け入れるアウスジードラー政策は,第二次大戦終結前後,東欧のドイツ人が被った「追放」と呼ばれ る歴史的事件と不可分に結びついている。

「追放」とは,1400万人以上のドイツ人が戦争による避難やその後の強制移住政策の被害にあった出来事である
6

「追放」は1950年にいちおうの終結を見た。しかしドイツ連邦共和国(当時の「西ドイツ」)は,「追放」が終わったあとも,「被追放者」の受け入れを続けるための法体制を構築した。アウスジードラー政策の起源はここにある。

また,その後のアウスジードラー政策は,ドイツ連邦共和国が「追放」という歴史的事件とその帰結に対して,また「追放」犠牲者である「被追放者」に対して,どのように対峙し,対処するのかという問題と不可分の関係にあった。

「追放」はドイツ連邦共和国に対し,「被追放者」たちが東方で受けた被害に対する補償や救済の要求,「故郷」を守りたい(できれば帰還したい)という願望,「故郷」(戦後は社会主義国家群の下に置かれた)に依然残されたドイツ人マイノリティなど,国境を
4 4 4
超える「民族」
4 4 4 4 4 4 4
の諸問題を,それ以前の在外ドイツ人問題とは異なった形でつきつけたのである。

アウスジードラー政策は,これらの問題と関連させつつ,さらにそれを国際政治上の文脈の中に置きつつ理解してかなければならない。

それは1960年代からドイツにやってくる外国人労働者や,
1980年代末に急増する庇護権請求者がもたらす問題とは,当然その歴史的文脈を異にしているのである。

本論文では,まず在外ドイツ人がドイツ建国以来ドイツ本国(政府や社会)においてどう理解され,テーマ化されてきたのかを,アウスジードラー問題の「前史」として簡単に回顧したあと,本題である戦後の「アウスジードラー」概念の形成とその展開に沿って論じていきたい。

最後に,
1990年以後明らかになってきたアウスジードラー終結への方向性が,国境を越える「民族」としてドイツ・ネーションの終焉を意味するのか否かを検討する。

2. アウスジードラー前史
    −ドイツ統一以後の在外ドイツ人問題−
7
(1)帝政ドイツの時代

1871年に統一されたドイツ帝国は,オーストリアのドイツ人を含む大量のドイツ人,ヘルダー やフィヒテ的にドイツ語を母語とする人間という意味でのドイツ人を外部に残すことになった。

特にハプスブルク帝国やロシア帝国内には,多くのドイツ人居住地域があり,それらが皆ドイツ帝国の外に残されたことになる。これをもって「在外ドイツ人問題の起源」とすることもできるが,それがナショナリスト的なアナクロニズムに陥るということにも注意をする必要がある。

というのは,帝政ドイツ時代,エルンスト・ハーセなど,「全ドイツ協会」や 「ドイツ学校協会」 などに所属す
6
「追放」についてはBeer(2004)を参照せよ。
7
この章での論述は,筆者が以前に公刊した論文(佐藤 1999; 佐藤 2000)に依拠している。
23
国境を越える「民族」
る一部の「全ドイツ」派知識人
8

を除いて,これら東欧の在外ドイツ人に対する社会的な関心は低く,
ビスマルクを初めとする政治指導者も,外交関係への配慮から,在外ドイツ人問題には介入しないというスタンスをとっていたからである。

帝政ドイツ時代のドイツのネーションは,主流としては国境内に限定された「国家的ネーション」として形成されたと見ることができるだろう(Schieder
1961)。

純粋血統主義の原理を確立した1913年の帝国国籍法は,「エスノ文化的」 と特徴づけられることが多いが(Brubaker 1992=2005),あくまでも国家の領土内の住民(そこには非ドイツ民族も含まれるが)の国籍の血統主義を確立したにとどまり,東欧に住む民族的ドイツ人は問題にされていない。

東欧からのドイツ人移民に国籍を付与する戦後連邦共和国の国籍政策は,1913年の国籍法と はなんら直接のつながりは持たないのである
9

確かに,国籍法をめぐる帝国議会の討論を見ると,
「在外ドイツ人」 という概念が頻出するが,この 「在外ドイツ人」 とは,当時の海外植民地に移住したドイツ国籍保持者(あるいは,かつての保持者)のことを主として意味していた。

それまでの国籍法では,国外に10年以上居住すると自動的に国籍を喪失する規定になっていたため,海外植民地に移住したドイツ人の中には国籍を喪失したり,これから喪失する可能性の高い者が多く存在したのである。政府や政治家たちは,それを「世界政策」の時代に適合しないものとして問題にしたのである
10

その関連で,血統主義の国籍法により 「ドイツ民族Volkstum」 の結合の強化が称揚
されることも多かった。しかし,国籍を一度も持ったことのない「民族帰属」のみのドイツ人に, 国籍を付与するということが考えられていたわけではなかった。

(2)ヴァイマル共和国からナチス時代へ

第一次大戦後,在外ドイツ人問題の構図は大きく変化する。その要因は大きく言って三つある。
8
ハーセは,『ナショナルな国家としてドイツ帝国 Das Kaiserreich als Nationalstaat』(Hasse 1905)とい
う著作の中で,国外にドイツ民族の一部を排除,国内に非ドイツ民族を包摂しているという点において,
ドイツ帝国がナショナルな国家として「未完結 unvollendet」であると規定している。この議論の中では,
ドイツの「ネーション」(ないし「民族 Volk」)は国家とは別の実体として理解されている。また,全ド
イツ協会の「全ドイツ的活動」については,Alldeutscher Verband(1910)を参照せよ。
9

この点に関しては,専門家の間でも誤解が多いように思われる。例えば,他の点では優れたナショナリズム史研究である伊藤定良(伊藤 2002)による理解がその典型である。

「ドイツを「真の国民国家」につくり替えるためには,「在外ドイツ人」(「民族的ドイツ人」)にドイツ市民権を与えねばならないのである。

こうして彼ら[全ドイツ派]の要求は1913年の国籍法に結晶した。それは市民権を「血縁共同体」として定義し,「在外ドイツ人」に開かれ,帝国内の移住者に対しては排他的であった」(Ibid.: 178)と伊藤
は述べている。

だが,1913年の国籍法は中東欧の「民族的ドイツ人」(この概念はナチス時代に多用され たものだが)に「開かれていた」わけではなく,また「全ドイツ派」がもった政治的影響力も限られたものであって,決して彼らの要求がそのまま国籍法に「結晶」したわけではない。

「エスニック」な移民政策であるアウスジードラー政策は,同じく「エスニック」な(つまり血統主義的な)国籍規定を確定した1913年の帝国国籍法と連続しているという誤った理解に基づくものであり,ドイツの「エスニックな特殊性」を前提においた理解がうみだす弊害の一つである。
24

第一は,敗戦によってドイツが東方の領土を喪失したことである。

これによって,東欧の新興国家の下に在外ドイツ人が新たに発生しただけでなく,それが戦後ドイツの国境修正運動とも関連していくようになる。賠償金の負担軽減と並んで,国境修正はヴァイマル共和国時代のドイツ政府の大きな外交上の目標だった。

第二に,ハプスブルク帝国が解体し,代わって多くの国民国家が新たに建国されたことにより,東欧の在外ドイツ人の多くが,そこにおける民族マイノリティの地位に転落したということである。彼らは新たに「国民化」を目指す新興国家のもとで,差別や同化の圧力 にさらされることになる。

第三に,戦後のパリ講和会議や新たに設立された国際機関の国際連盟な
どの場において,「民族自決」や 「民族マイノリティの権利」 の概念が国際的(ヨーロッパ内での)な規範として広まっていくということである。

しかし敗戦国のドイツでは,この原則が適応されず(オーストリアのドイツ人の「結合」の決議も却下された),しかもマイノリティとなった在外ドイツ人たちも,「民族的」な権利を阻害されることになる。

こうして,戦後の在外ドイツ人問題は,ドイツの国境修正運動とマイノリティの権利主張運動とに連動していくことになるのである。

ドイツ人は,当時のヨーロッパにおいて最大のマイノリティ集団であった。

ナチスが対外拡大を始める直前の1937年段階で,オーストリアとドイツ以外の東欧,南東欧に約850万のドイツ人が存在したとされている(Münz and Ohliger 1998: 156)。

各地のドイツ人マイノリティは団体を結成し,自らの文化的・言語的権利が認められず,ホスト国家の中で差別され 「民族の権利」 が侵害されて
いることについて抗議を行い,国際連盟に対しても盛んに陳情書を提出している(Pieper 1974;
Fink 1972)。

また,ドイツ国内でも,失地回復運動との関連で在外ドイツ人の問題についての公共
的関心が高まり,在外ドイツ人を支援する運動が行なわれるようになる(Jaworski 1978)。ドイツ
学校協会から発展した「在外ドイツ民族協会 Verein für Deutschtum im Ausland」は,そのメンバ
ーを劇的に増加させた。在外ドイツ人を扱った研究(「東方研究」 と呼ばれる)も発達し,多くの
著作も出版された(Burleigh 1988)。

そのような中で,「ドイツ民族 Volkstum」の姿を,国境を越えたもの,超国家的なものとして理
解することが一般的になっていった。その一例として地理学者アルブレヒト・ペンクが描いた「民
族・文化領土 Volks- und Kulturboden」の地図を紹介しおこう。これは1925年に出版されたもので
ある(Herb 1997: 57)。そこにはドイツの「文化領土」「民族領土」が,ヴァイマル共和国の国境
線を越えたものとして描かれている(図参照)。このような地図は,当時のヴァイマル共和国の国
10
例えば,帝国国籍法修正案を帝国議会で紹介している内務大臣のハンス・デルブリュックの演説などを
参照せよ(RT 13/13: 249-250)。そこで彼は,「この法律は,われわれが植民地や保護領を所有していな
い時代に公布されています。状況の変化に合わせて,今皆さんに紹介するこの法律案は,特定の条件で,
保護領において直接的帝国帰属を得ることを許可しています。……皆さん,ドイツ帝国はかつてとは異な
った利害関心を持っています。自らに繋がれていたものは,今や海を越えて出かけていくのです。移民の
理由も,大部分,かつてとは別のものになっています。今日出かけていくものは,経済的・政治的に祖国
から自らを切り離すためにそうするのではないのです。経済的・政治的に祖国のために奉仕するがために
出かけていくのです」と述べている。
25

国境を越える「民族」

境が「ヴェルサイユの命令」によって作り出された不当なものであるという一般的な認識とともに,
国境修正につながる政治的な意味合いも強く持っていた
11

「ドイツの民族・文化領土の地図」(Herb 1997: 57より転写)

このように,ヴァイマル時代に広まってきた「民族」概念を,政治的に利用したのがナチスであ
った。ナチスの対外拡大は,オーストリア,ズデーテンラント,ポーランド西部というように,
「民族自決」の論理で正当化されるような在外ドイツ人居住地域を皮切り
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
に進められている。特に
前二者関しては,イギリスなどの西欧諸国も,「民族自決」の原理から承認せざるを得なかったの
である。ポーランドにおいては,「民族リスト」を作成して,民族的にドイツ人と見なせる住民を
集団帰化させた(後述)。また,帝国の範囲外のソ連,バルト諸国,ルーマニアなどから合計で約
90万人のドイツ人を「帝国への帰還」の名の下にドイツ帝国内に集団移住させ(Hürter 2006: 41),
代わりに大量の非ドイツ人住民を国外に強制移住させるか虐殺するという方法によって,「帝国」
と「民族共同体」とを一致
4 4
させることを目指したのであった。
11
1926年にはこのような新たな地理学的概念を基にした地図作成に従事する「ドイツ民族・文化領土財団」
が組織され,政府からの研究委託や支援を受けていた(Herb 1997: 65-75; Burleigh 1988: 25-26)。そこに
は,ヴェルサイユ条約によってつくられた第一次大戦後の国境がドイツにとって不当なものであるという
認識が反映されている。
26

3.アウスジードラー概念の発生
    −「追放」とアウスジードラー−

(1)領土喪失と「追放」

ナチスドイツの敗戦により,在外ドイツ人問題の構図は,再び劇的に変化する。敗戦の結果ドイ
ツは,戦前の領土の約四分の一にあたる東方領土(オーデル=ナイセ線以東の領土)を喪失し,東
欧からは大量のドイツ人が強制移住させられた(表2を参照)。一般に「追放Vertreibung」と呼ば
れる強制移住は,最初はソ連軍の侵攻による避難民の発生に始まり,最終的には連合国のポツダム
協定第13条に基づく組織的大量移住政策へと発展した。結果的に,1950年までに,東方領土から
ソ連,ユーゴスラビアにかけて広がる東欧一帯から,1200万人以上のドイツ人(国籍を持つもの
も持たぬものも含めて)がオーデル=ナイセ以西の占領地区に移住することになる。また,その過
程で約200万人が死亡したと言われている。「アウスジードラー」は,この「追放」の歴史と不可
分の関係にある。本節では,その関係をやや詳しく考察していくこととする。

(2)被追放者受け入れのための法的整備

追放されたドイツ人(これを「被追放者 Vertriebene」と呼ぶ)の約3分の2にあたる約800万
人が西側占領地域(後の連邦共和国)に移住した(表2参照)。1950年当時,連邦共和国の住民の
約16.5%が(Beer 2004: 24),この被追放者であった。被追放者の中には,すでにドイツ国籍を保
持したものもいたが,保持していないものも少なくなかった。ドイツ連邦共和国は既存の国籍法
(1913年のもの)を維持したまま,これらドイツ人被追放者を国内に法的に編入するための法整備
を行うこととなる
12

その被追放者編入のための法整備の基本にあたるものとして,先ず連邦共和国の憲法に当たる基
本法の第116条1項をあげておかなければならない。ここでのポイントは,国籍法によるドイツ国
籍保持者とは別の概念
4 4 4 4
として,「ドイツ人 Deutscher」なる概念が導入されているということであ
る。この条文が,これが戦後長くアウスジードラーを受け入れるための,究極的な法的根拠となっ
ていく。

第116条
( 1) 基 本 法 の 意 味 に お け る ド イ ツ 人 と は, 他 の 法 的 規 定 を 条 件 と し て, ド イ ツ 国 籍
Staatsangehörigkeitを持つか,あるいはドイツ人の民族帰属 Volkszugehörigkeit をもち難民か被追放者
12
1913年の帝国国籍法が維持されたのは,ドイツの国家的分裂は平和条約締結の時には解消され,国家的
一体性が回復されるはずのものであり,連邦共和国はそれまでの間の暫定的な国家であるという(建国当
初は広く受け入れられていた)前提からである。しばしば誤解されているように,「血統主義への固執」
からではない。連邦共和国の暫定的性格については,基本法前文に明確な記載がある。連邦共和国は統一
後しばらく経った1999年まで,連邦共和国自身の
4 4 4 4 4 4 4 4
国籍法を持たなかった。
27
国境を越える「民族」

(表2)1950年段階における連邦被追放者法で定義された意味での被追放者の総数
A. 喪失した領土
1)

との故郷被追放者数
/ B. 故郷被追放者で
ない被追放者数
受け入れ国(地域)ごとの被追放者数
総 数 連邦共和国
民主共和国
と東ベルリン
オーストリア
西欧諸国と
海外
(1000)(%)(1000)(%)(1000)(%)(1000)(%)(1000)(%)
A. 故郷被追放者
2)
ドイツ東方領土 6980 54.7 4380 54.1 2600 63.4 − − − −
自由都市ダンツィヒ 290 2.3 220 2.7 70 1.7 − − − −
ポーランド 690 5.4 410 5.1 265 6.5 10 2.3 5 4.2
チェコスロバキア 3000 23.5 1900 23.4 850 20.7 200 46.5 50 41.6
バルト諸国 170 1.3 110 1.3 50 1.2 − − 10 8.3
ソヴィエト連邦
3)
100 0.8 70 0.9 5 0.1 − − 25 20.8
ハンガリー 210 1.6 175 2.2 10 0.2 20 4.7 5 4.2
ルーマニア 250 2.0 145 1.8 60 1.5 40 9.3 5 4.2
ユーゴスラヴィア 399 2.4 150 1.8 35 0.9 100 23.3 15 12.5
オーストリア 80 0.6 70 0.9 10 0.2 − − − −
他のヨーロッパ 135 1.1 70 0.9 15 0.4 50 11.6 − −
海外 20 0.2 15 0.2 5 0.1 − − − −
小 計 12225 95.9 7715 95.3 3975 96.9 420 97.7 115 95.8
B. 被追放者
4)
525 4.1 385 4.7 125 3.1 10 2.3 5 4.2
総 計 12750 100 8100 100 4100 100 430 100 120 100
1) 国,国の一部,1937年12月31日の国境線内の地域。
2) 連邦被追放者法第二条の意味における故郷被追放者,すなわち追放されて来た領土に1937年12月31
日時点あるいはそれ以前に居住地を持っていた者。連邦被追放者法第15条第2段落第1項の規定によ
り,故郷被追放者は被追放者証明書Aを所持している。
3) 西部ポーランドから追放されたロシアドイツ人「行政移住者」(戦争末期に帝国軍撤退と共にソ連か
ら西部ポーランドに移住させられたロシアドイツ人)は,ソヴィエト連邦からの故郷被追放者と見な
される。ただし,連邦被追放法第2条の定義に従えば,彼らは故郷被追放者ではない。後にやって来
たロシアドイツ人アウスジードラーは法律的にも故郷被追放者であり数量的にも圧倒的に多いが,彼
らのことを考慮に入れて,「行政移住者」 を故郷被追放者と見なしたのである。
4) 連邦被追放者第1条の意味での被追放者,すなわち居住地が連邦被追放者第2条での故郷被追放者と
して認知できる条件を満たさない者。法律上の意味で「故郷喪失なき被追放者」とされる者は,第15
条第2段落第2項に従って被追放者証明書Bを所持する。
典拠:Reichling(1986: 59, 61)をもとに作成
28
あるいはその配偶者や子孫として1937年12月31日時点でのドイツ帝国の領土に受け入れられた者のこ
とである。(BGBl 1/1949)
ここで「ドイツ人」は,①ドイツ国籍保持者と② 「ドイツ民族帰属」保持者で難民か被追放者と
してドイツ国内に受け入れられたもの(「1937年のドイツ帝国」とは,戦後も存続していると想定
されている統一のドイツ国家のことを指している)の二種類であることが分かる。つまり「ドイツ
人」はドイツ国籍を超えた
4 4 4
概念なのである。 ②のカテゴリーを一般に「地位上のドイツ人
Statusdeutsche」と呼ぶ。この「地位上のドイツ人」としてドイツ国内(実際上は連邦共和国内)
に受けいれられた者には自動的にドイツ国籍が与えられる。
ここに,問題の「民族帰属」という概念が登場している。しかしこれは,決してナチス時代への
ノスタルジーから採用されたわけではない。これは,大量に流れ込んでくる(基本法制定時にはま
だ「追放」は終わっていなかった)大量の難民・移住者たち(1950年までに800万人を超える)を
法的に編入するための緊急の法的措置として,いわば機会主義的
4 4 4 4 4
に採用されたものと言える。「追
放」の憂き目を見たドイツ人は,必ずしもドイツ国籍保持者だけではない。国籍の有無に関わらず,
東方においては,民族的に「ドイツ人」であるという理由で「追放」の被害にあったのである。連
邦共和国は彼ら全員を戦後「国民」として受け入れるための法的整備を,喫緊に必要としたわけで
ある。
そこで重要になるのが「難民あるいは被追放者として」という語句である。戦後の連邦和国は,
単にドイツの「民族帰属」を持っているからというだけで
4 4 4
自動的に国民として受け入れる「純粋エ
スノ文化的」な国家ではない。連邦共和国が受け入れるのは,「追放」されたドイツ人
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
だけである。
だから,オーストリア,スイス,ルクセンブルク,あるいはアルザスなどのドイツ語住民が,ある
いはアメリカのドイツ系アメリカ人が,その「民族帰属」が主張できるからといって(彼らがそう
主張しようと思えば主張できるだけの理由は,十分に立つと考えられるが),連邦共和国に「ドイ
ツ人」として受け入れられることはないのである。それは,彼らが「難民あるいは被追放者」では
ないからである。
「難民あるいは被追放者」を総称して「被追放者」と呼ぶ。それでは,いったい誰が「被追放
者」なのか。それを法的に規定したのが1953年の「連邦被追放者法」である。連邦共和国は,こ
の法によって「被追放者」概念を規定し,空襲被害者などと共に,戦争被害者として「負担均衡」
という被害保障政策を,国家をあげて行っていくことになる
13

連邦被追放者法は,その冒頭の第1条で「被追放者」を次のように定義している。
13
「負担均衡Lastenausgleich」とは,国民が戦争で喪失した財産やその他の被害に対する補償政策である。
残された財産に税をかけることによってその費用とした。戦争被害を国民全体で「均衡に負担する」とい
う意味の政策である。被追放者は,その負担均衡政策の中心的な補償対象であった。
29
国境を越える「民族」

第1条 被追放者
(1) 被追放者とは,ドイツ国籍保持者あるいはドイツ民族帰属保持者として,差し当たり外国の行政
下にある東方領土に,または1937年12月31日時点でのドイツ帝国国境の外部にある領土におい
て居住地を持ち,その居住地を第二次大戦と関連して追放の結果,特に駆逐や避難により失った
者のことである。いくつかの居住地がある場合には,その当事者の個人としての生活状況に決定
的であった居住地でなければならない。戦争のために,第1文で示された領土に居住地を移住し
た場合に関しては,その者が戦争の後この領土に継続的に定住しようとしていたという事情にお
いてのみ被追放者である。

(2) 被追放者とは(また),ドイツの国籍保持者あるいはドイツ民族帰属保持者として,以下のよう
な者である。
1.1933年1月30日以後,政治的信念,人種,信仰,世界観を理由にその者を脅かしたり,そ
の者に対して行使された国民社会主義の暴力措置の故に,第1段落で示された領土を去り,ドイ
ツ帝国外部に居住地を得た者。
2.第二次大戦中締結された国家間条約を理由にドイツ外部の領土から移住させられた者,ある
いは同時期にドイツの行政機関の措置を理由に,ドイツ陸軍に占領された領土から移住させられ
た者。(移住者Umsiedler)
3.全般的な追放措置が終結したあと,差し当たり外国の行政下にあるドイツ東方領土,ダンツ
ィヒ,エストニア,ラトヴィア,リトアニア,ソヴィエト連邦,ポーランド,チェコスロヴァキ
ア,ハンガリー,ルーマニア,ブルガリア,ユーゴスラヴィア,あるいはアルバニアを離れた
(または離れる)者。ただし1945年5月8日以後に初めてここの領土に居住地を定めた者を除外
する。(アウスジードラー)
4.居住地は持たないが,第1段落に示した領土に継続的に仕事あるいは職業を営んでいて,追
放の結果その活動をやめざるを得なかった者。

(3) 被追放者とはまた,自らはドイツ国籍保持者あるいはドイツ民族帰属保持者ではないが,被追放
者の配偶者として第1段落に示された領域において居住地を失った者を言う。(BGBl 22/1953)
(引用部分の下線は引用者によるもの。以下同様。)
「アウスジードラー」という概念が最初に登場するのはここである((2)3)。それによれば,
アウスジードラーとは「被追放者」の下位概念
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
なのである。ただし,直接「追放」が行われていた
時期にそれを経験した人々のことではない。実質的に「追放」が終わった1950年以後に,「追放」
が行われた領域から移住してくる人々のことなのである。被追放者法の第7条で,「追放」以後に
生まれた被追放者の子供も被追放者の地位を得られることが規定されているので,アウスジードラ
ーの地位が取得できる者の範囲も,直接の「追放」経験者世代を超えて継承されることになる。
こうして,基本法第116条と被追放者法第1条の規定により,連邦共和国では,東欧に居住する
在外ドイツ人を「ドイツ人」として受け入れるアウスジードラー政策が可能になったわけである。
また,この体制は連邦共和国がオーデル=ナイセ線以東の東欧諸地域に対し,「全ドイツ民族」
30
の名の下に関わることのできる法的な前提となった。連邦政府は,国内に800万以上も存在する被
追放者の利益を代弁するという立場から,被追放者の保護・援助を任務とする「被追放者省」を設
置し,「追放」の歴史を公式に記録し,被追放者の「故郷権」さえ支持した
14
。また,連邦政府は
東方領土を含む「追放」が行なわれた全地域におけるドイツ人に対する「保護義務」をもつものと
された。このように連邦政府は,「追放」という歴史への関わりを立脚点として,オーデル=ナイ
セ線を越えて東方に広がる「全ドイツ民族」へのコミットメントを続けることになったのである
15

4. 冷戦下でのアウスジードラー問題

(1)アウスジードラーと反共主義 − 「追放」 概念の解釈転換−

実際の「追放」が終わったとされる1950年以後も,東欧諸国からのアウスジードラーの流れは
続いた。1950年代の段階で,その多くは戦後の「追放」の混乱期に離れ離れになった妻や子供が
連邦共和国にいる夫や親・親類を求めて移住したり,戦後に捕虜や強制労働につかされていた者が
連邦共和国に移住して生活している家族のもとに戻ったりするケースであった。連邦共和国ではそ
れを,ドイツ赤十字の活動を通じて,「家族再会 Familienzusammenführung」という問題の枠組み
において処理していた。しかし東欧の社会主義諸国は,しばしばそのような被追放者家族の「再
会」のために出国を希望するドイツ人の移動を制限した。残留ドイツ人の出国問題は,連邦共和国
とソ連を始めとする東欧社会主義諸国とのあいだの外交交渉のテーマの一つであった。
スターリンの死後,1956年から58年にかけての「雪解け」の時代は,ソ連やポーランドにおい
てドイツ人出国制限を大きく緩和している。それはアウスジードラーの統計に如実に表れている。
例えばポーランドからのアウスジードラーの数は,1955年の860人から1958年の117,550人へと劇
的に増大している。しかし「雪解け」ムードが終わると1960年には7,739人へと激減している(表
1参照)。このようにアウスジードラーの動向は,東欧社会主義国との関係に大きく左右された。
しかし1950年代から60年代にかけて,アウスジードラーそれ自体が政治的な争点になったとい
うケースは余り多くはない。アウスジードラーは毎年,1957年から58年のあいだを除き,ほぼコ
ンスタントに2万人前後来ていたが,それだけが独立して政治的な論争のテーマとされたことはな
かったといってよいであろう。やはりこの時代の東方政策(東欧諸国との外交政策)の主たる問題
は,オーデル=ナイセ線の承認や被追放者の帰還をめぐるものだった。連邦共和国ではそれらは,
「全ドイツ民族」の「自決権」や「故郷権」の問題,さらには将来のドイツ統一に関する問題の枠
組みの中で議論されていた
16
。「ポーランドの行政下に残留するドイツ人」や「追放が行われた領
14

しかしそのような東欧諸国に対する「全ドイツ」の名による介入は,東欧諸国から「修正主義」「報復 

主義」の名で批判された。そのようななか連邦政府は,被追放者の「故郷権」を露骨に主張することは,
外交的配慮から困難になっていた。詳しくは佐藤(2006)を参照。
15
なお,オーデル=ナイセ線は事実上のドイツ国家(ドイツ連邦共和国)の国境線だが,ドイツ連邦共和
国がこれを正式の国境線と見なしたのは,1990年になってからである。詳しくは佐藤(2006)第9章を参照。
31
国境を越える「民族」

域に残留するドイツ人」に関する言及はしばしばなされたが,それも「全ドイツ」に関わる諸問題
のもとに一括して扱われる傾向が強かった。

しかしヨーロッパの冷戦体制が定着し,ドイツの分裂も既成事実化してくると,当初はあくまで
「追放」の直接的な延長で考えられていたアウスジードラーについて,新たな理解の仕方が発生し
てくる。アウスジードラーは,社会主義圏国から「自由」を求めて連邦共和国に移住を求めるドイ
ツ人として見なされるようになっていくのである。

社会主義諸国に残留したドイツ人は,財産を没収されただけでなく母語を使用する権利も奪われ,
ドイツ人であることによって差別されている。しかもドイツ人に対して当然認められている移動の
自由も奪われ,出国を申請が却下されることが少なくないばかりか,申請することによって逆に当
局からの嫌がらせを受けることもある。そのような自由と権利を奪われた状況。それが「追放」の
もたらした帰結であると見なされた。アウスジードラーは,そのような苦境から逃れ,「自由なド
イツ」へと移動してくるドイツ人のことであると見なされるようになる。

アウスジードラーが,
「追放」が事実上終結した後も「被追放者」としての資格で受け入れられ続けたことの背後には,
このような冷戦下におけるアウスジードラー理解の転換があった。このような「追放」概念の解釈
4 4 4 4 4 4 4 4 4
転換
4 4
の背景には,当時の連邦共和国の反共主義があったことは間違いない。

戦争直後から連邦共和国では,「追放」の非人道性や法的不当性が繰り返し問題にされてきた。
被追放者に対する積極的な支援や保護政策も,そのことと関係していた。しかし今や,社会主義諸
国における残留ドイツ人の「人間的苦境」(BT-Ds 3/2807)が,「追放」がもたらした「ドイツ人
の運命」と見なされるようになった
17

。例えば,次のようなラインホルト・レースの発言は,こう
した冷戦期のアウスジードラー観をよく表わしている
18

[東方領土]でのドイツ人たちは,外国にいる囚人なのです。その国家は彼らの土地を占拠し,何年に
も渡って彼らの言語を,彼らにとってそこでドイツ人でいられる唯一のものである言語を,話すことを
禁じているのです。ドイツ人アウスジードラーがドイツ語で歓迎の言葉を聞いたとき,どれほど筆舌に
尽くしがたい感動でいるかを,一度でも見た人ならば,そこで生活する人々にとって,同じ民族から励
ましの言葉を聞くことがどのような意味を持つかがわかるでしょう。(BT 5/160: 8355)
16
1960年代前半頃まで,「全ドイツの統一」と言えば,「1937年時点のドイツ」の国境線における統一が
一般には意味されていた。ここにはオーデル=ナイセ以東の東方領土が含まれている。詳しくは佐藤
(2006)第3章を参照。
17
この時代,東欧に残留するドイツ人について集中的に言及した数少ない議会文書として,「ヤークシュ
文書」がある。これは,連邦議会外務委員会に設置されたヴェンツェル・ヤークシュを座長とする「ヤー
クシュ小委員会」が,1961年6月に連邦議会に提出した,東欧諸国の国交正常化に向けての諸問題に関
する報告書(通称 「ヤークシュ報告」)である(BT-Ds 3/2807)。この報告書は,社会主義諸国との外交
関係を結ぶことに余って,残留ドイツ人の状況は改善されるだろうと論じている。ヤークシュは,被追放
者連盟の代表であり,社会民主党所属の議員であった。詳しくは佐藤(2006)第4章を参照。
18
1968年3月14日の連邦議会より。ここで発言しているライホルト・レースは,当時の被追放者連盟の
会長で社会民主党の議員であった。
32

(2) 「新東方政策」とアウスジードラー問題

1969年10月にブラント政権が誕生し,いわゆる「新東方政策」が進められていく中,アウスジ
ードラー問題のとらえられ方はさらに変化していく。そのきっかけは,ブラント政権がポーランド
とのワルシャワ条約に向けての外交交渉の中で,残留ドイツ人の出国の自由に関する問題を「人道
的問題」としてとりあげるようになったことにある。ワルシャワ条約は,連邦共和国建国以来の東
方政策上の大問題だったオーデル=ナイセ線を承認するというものだった。ブラント政権は,この
条約が連邦共和国のポーランドに対する一方的譲歩であるという批判をかわすため,この「人道的
問題」における「成果」を国境線承認の代価として提示しようとしたのである(Bingen 1998:
142)。野党に回ったキリスト教民主/社会同盟の主流派は,オーデル=ナイセ線の承認に強く反発
していた。また与党の社会民主党と自由民主党の中にも,この国境線を認めることに反対する勢力
が存在していた。そのため,オーデル=ナイセ線承認を規定したワルシャワ条約を連邦議会で批准
するには,野党の一部穏健派の支持を取り付ける必要があった。そのような中,アウスジードラー
問題でのポーランドからの譲歩は,ワルシャワ条約交渉の双方向性を示す一つの有効な材料を提供
しえたのである。
外務大臣のヴァルター・シェールは,ワルシャワ条約締結直前の1970年12月3日の『シュトゥ
ットガルト新聞』への寄稿の中で,次のように書いている。
ポーランド側が,われわれにとって決定的に重要な人間的負担軽減に関する領域において譲歩する用意
があることに,十分な確証を得ない限り,われわれはこの条約を締結することにはならない。この問題
は最初からワルシャワ交渉の重要なテーマなのである。(Bingen 1998: 142における引用)
シェールは,その「人間的負担軽減」として,残留ドイツ人の「家族再会」の問題とともに,ポ
ーランドにおける彼らの「民族集団権」の問題あげる。後者の問題での成果を得ることは現段階で
は難しいが,前者の問題に関しては成果をあげることができた。そうシェールは論じている。
その「成果」の具体的現われが,ポーランド政府が公表した『人道的問題(家族再会問題)の解
決に関するポーランド人民共和国政府からドイツ連邦政府に対する情報』(通称『情報』)という文
書である。この文書は,ワルシャワ政府がポーランド国内に「ドイツの民族帰属」を持った人々が
「若干の数eine gewissene Zahl」存在し,彼らがその民族帰属ゆえに出国を希望していること,そ
してドイツへの出国を許可できる基準にかなうドイツ人が「数万人einige Zehntansend」存在する
ことを認めている。そして,全体として,ポーランド政府がドイツ人の出国について前向きの姿勢
を示したものであった(DDF 6: 543)。これは,ポーランド政府がそれまで国内のドイツ民族の存
在を否定してきたことに比べると,大きな変化であった。
だが,このような外交交渉の経緯は,かえって反対派からの批判の材料を提供してしまうことに
なる
19
。条約反対派は,この『情報』に記された出国許可の基準に適合するドイツ人の数をとりあ
げた。『情報』には「数万」だったが,長らくアウスジードラーの出国事業に関わってきたドイツ
33
国境を越える「民族」
赤十字の調査によれば,ポーランドから出国を希望しているドイツ人の数は28万人とされていた
からである(Miszczak 1993: 81-83)。さらにポーランドに住む残留ドイツ人の総数はさらに多いも
のとされていた。反対派はこの数字のギャップを問題にした。ポーランド政府は,ドイツ人の数を
低く見積もることにより,ドイツ人の出国の自由を依然として制限しているものと解釈されたので
ある。
例えば,エアリッヒ・メンデは次のように述べている。この政治家は,オーバーシュレージエン
出身の被追放者であり,シェールの前の自由民主党の党首でありながら,ブラント政権の東方政策
に反対してキリスト教民主同盟に移籍していた。
ドイツとポーランドとの条約とその交渉における文書,それはわれわれの手元にあるものですが,この
文書においては移住を申請するであろう人間は数万人と述べられています。しかしこの期間,約30万
人が確認されたのです。ドイツおよび国際的な観察者の推計に寄れば,シュレージエン,東プロイセン,
ポンメルン,西プロイセンには,ドイツ民族であると信じている人間がおよそ150万にいるそうです。
……ここで問われるのは次の問題です。連邦政府は,ドイツ東方領土において移住の許可を得られない
人々
  (キリスト教民主/社会同盟からの野次:嫌がらせだ!)
よって統治に留まらなければならない人々に対する配慮や保護の義務に関し,いかに対処するのでしょ
うか。(BT 6/172: 9988-9989)
このようにアウスジードラー問題は,ワルシャワ条約締結・批准をめぐる政治過程の中で,オー
デル=ナイセ線承認を進める連邦政府と与党に対する批判の材料として取り上げられるようになる
のである。
ブラント政権が進める「新東方政策」は,オーデル=ナイセ線の承認をめぐって国内の世論を二
分することになった。一方はブランと政権を支持し,社会主義国との関係を正常化し,ポーランド
の西側国境を認めていこうという左派・リベラル的立場である。もう一つは,それに反対する立場
である。キリスト教民主同盟/社会同盟を中心とする保守派は,被追放者からなる諸団体(被追放
者連盟のもとに糾合されている)の支持を受けつつ,ブラント政権の東方政策と鋭く対立するよう
になった。そしてアウスジードラー問題は,この国内の党派対立の中で,一つの政治的テーマとし
て浮上したのである。
19
「新東方政策」をきっかけに,東方領土問題をめぐる争点は,単に国境線問題プロパーだけでなく,ア
ウスジードラー問題,残留ドイツ人問題,被追放者の権利問題などの,国境線の設定・変更に伴う「属人
的」な問題へと分化した。詳しくは佐藤(2006)第6章,第7章を参照せよ。
34

(3)ワルシャワ条約以後のアウスジードラー問題

1970年12月のワルシャワ条約締結の直後,予想されていたようにポーランドからのアウスジー
ドラーの数は急激に増大した。1970には5624人であったものが,その1年後の1971年には25,241
人と5倍に増大した。しかしその後,ワルシャワ条約の連邦議会批准にあわせたかのようにアウス
ジードラーの数は減少の一途をたどった。1971年には13,482人,1973年には8,903人,1974年には
7,825人となった。
このような,あまりに恣意的なアウスジードラーの数の減少は,国境承認に消極的な保守派から
は格好の批判の材料となった。例えば,キリスト教民主同盟/民主同盟の議員団長カール・カルス
テンスは,以下のようにアウスジードラー問題をとりあげた。
そこ[=ポーランド政府の行政下]に生活するドイツ人で15回も出国申請を行い,毎回拒否されてい
るケースがいくつもあるということです。さらに悪いことには,移住の申請をした人たちの多くが,申
請を出した後彼らや彼らの家族がすぐさま嫌がらせにあっているのです。正しく理解された緊張緩和の
一部として,ポーランドにいるドイツ人の人間的負担緩和や自由がいっそう実現されることを,われわ
れは緊急に望むものです。(1973年9月13日,BT 7/48: 2748)
1956年から1970年までの間,年平均2万2千人のドイツ人アウスジードラーがポーランドからドイツ連
邦共和国に来ていました。1974年は6000人になるでしょう。
  (ドレッガー議員(キリスト教民主同盟):信じられないことだ!)
そして現在,連邦政府はアウスジードラー問題をポーランドの補償要求との取引材料と見なしているの
です。……皆さん,1970年のワルシャワ条約でオーデル=ナイセ線に関するポーランドの要求に応え
ておきながら,そのための唯一の条件であるポーランドからのドイツ人の移住 Aussiedlung を実際に期
待できるだけ保証することのできない政治とは,いったいなんなのでしょうか。(1974年11月6日,BT
7/127: 8533)
このように当時のドイツでは,アウスジードラーを単なる移民の問題ではなく,ポーランドに残
留するドイツ人(彼らは在外ドイツ人ではあるが,連邦共和国の国内法の立場から見ればドイツ国
籍保持者である)の自由や権利の問題として捉える議論が一般的であった。つまり,アウスジード
ラー問題は「ドイツ人」の権利にかかわる問題であった。この段階において,アウスジードラーが,
例えば当時発生していた外国人労働者(ガストアルバイター)と同列に論じられるというケースは
見られなかった。保守政党や被追放者諸団体が問題としていたのは,アウスジードラーの数の低下
であって,それがポーランド残留ドイツ人の権利を保護する立場にある連邦共和国が,その義務を
果たしていないということ,すなわち連邦政府の東方政策の失策の指標として理解されたのである
(上の引用では,アウスジードーラーがポーランドの戦争被害への補償要求への取引材料として用
いられていることが批判されている)。
35
国境を越える「民族」

ブラントの後を継いだヘルムート・シュミットは,このような批判を回避するために,1975年
の協定でポーランドにドイツ人出国許可に関する合意を,経済支援とセットで認めさせることにな
る。東方領土に対するドイツの権利要求に対して一貫して冷淡だったシュミットでさえ,アウスジ
ードラー問題に関する保守派からの批判には答えざるを得なかったのである。1975年のドイツ=
ポーランド協定に付随して作成された『出国関連文書』では,ポーランド政府が四年間で12万人
から12万5千人の出国者を許可するとされていた(DDF 8: 452-453)。この数字は,ドイツ赤十字
の28万よりは少ないものの,出国許可の可能性のあるものが「数万人」としていた1970年の『情
報』と比べると,大きな前進であった
20
。連邦政府は,ドイツ赤十字の出している数字とのギャッ
プについても,この後のポーランドとの関係改善の中で解決できる問題であるという立場をとった。
外務大臣のハンス=ディートリッヒ・ゲンシャーは連邦参議院で,政府にとってのアウスジードラ
ー問題の重要性を次のように強調した。
ドイツ赤十字の資料によれば,少なくとも28万人のドイツ人がまだドイツ連邦共和国への出国を希望
しています。連邦政府の確信するところによれば,この問題についての安定的な規定が,ドイツ=ポー
ランドの関係の長期にわたる良い形態のための重要な前提になります。それゆえ,連邦政府が過去にも
常に出国者数の増大に努力し,申請者に対する不利な扱いに対して抗議してきたことは当然でしょう。
それゆえ,連邦政府が近年ポーランド政府と両国の関係の永続的な改善をめぐって交渉してきた際,こ
の問題はわれわれの努力の中核に位置するものでした。(BR 425: 310)
実際に,この協定以後,ポーランドからのアウスジードラーの数は顕著に増大し,1976年には
29,364人,その後も1987年まで毎年2万から3万人のアウスジードラーが連邦共和国に移住してき
たのである。

5.アウスジードラーの終結へ 向けて
    ―東欧の民主化とドイツ「再統一」のインパクト―
前節で述べたように,冷戦下において,法的には「被追放者」の下位概念として規定されたアウ
スジードラーは,社会主義圏での非民主的で抑圧的な政治体制の犠牲者と見なされるようになった。
20
この協定ではまた,連邦政府がポーランドに対し,3年間で10億円の融資を2.5%の利率で行なうこと
も合意された。野党は,アウスジードラー問題を経済融資と結びつけることに対し,「人道的問題」を経
済取引の対象としているとして批判した。しかし,このように社会主義国がドイツ人アウスジードラーの
出国許可を経済援助を引き出す取引材料とした例はこれだけではない。ルーマニアとの間には,よりに露
骨な「人身売買」的合意を結んでいる。1978年,連邦政府はルーマニアと協定を結び,ルーマニアが毎
年12200人のアウスジードラーの出国を許可する代わりに,一人当たり8000ドイツマルクの支払いを約束
したのである(Wagner 2000: 137)
36

そして1970年代以後,アウスジードラー問題は東方政策の改善度をはかるバロメーターとしてテ
ーマ化された。野党は連邦政府の東方政策を批判する材料として,与党は政府の東方政策の成功を
証明する材料として,それぞれアウスジードラー問題をとりあげた。その中で一貫して前提にされ
ていたことは,社会主義圏に残留したドイツ人が経験している「人間的苦境」や「人道上の問題」
が戦争直後の「追放」の帰結であり,彼らの生活状況を改善することは連邦政府の義務であるとす
る考え方であった。

しかしアウスジードラー問題は,1980年代末から始まる東欧の民主化,社会主義体制の解体,
ドイツの「再統一」という大きな政治・社会変動の中で,再びその意味を大きく変化させる。そし
て,1990年代に入ると,アウスジードラーという地位そのものが終結に向かうことが確実となっ
たのである。ここではその過程を,①1980年代後半の社会主義圏民主化に伴うアウスジードラー
の急増, ②社会主義圏の解体とドイツ「再統一」がアウスジードラーの意味にもたらしたインパク
トという二つの段階に分けて考察する。

(1)東欧の民主化とアウスジードラーの急増

1988年以後のアウスジードラーの急増は,おそらく誰もが予期しえぬものであった。その予想
外の急増は,それまでは一般的な世論や政治の場ではあまり注目されてこなかったアウスジードラ
ーに対する関心を著しく高めた。
しかし当時,増大したのはアウスジードラーだけではなかった。社会主義圏からの庇護権請求者
の数も増大した。その中で,すでに連邦共和国国内に在住していた外国人労働者とともに,アウス
ジードラーは同じ「移民」の枠組みで捉えられるようになる。
「移民問題」の枠組みの中で見ると,アウスジードラーは際立った存在であった。彼らがその
「民族帰属」を証明できれば,単に「ドイツ人」として国籍を自動的に付与されるというだけでは
ない。住宅援助,職業支援,言語教育,年金支払など,他の移民よりも手厚い社会的援助を得るこ
とができたのである(IDDO 7/1989)。連邦政府はアウスジードラーの受け入れと統合を「国民的
な義務」であるとして,その援助政策のための財源を増額した。しかしそれは,急増するアウスジ
ードラーは,州政府と連邦政府にとって,極めて高いコストの負担を強いることになった。その結
果,アウスジードラーの「エスニック」な特権それ自体が問題視されるようにもなってきた
21

エスニックな基準でアウスジードラーを特別扱いすることは,単に人権と言う普遍的基準から見
て公正性を欠き,世論からの批判を買ったばかりではない
22
。「ドイツ人の下でのドイツ人」とし
て生活することを求めてやってくるアウスジードラーたちが表象する「ドイツ民族Deutschtum」
概念は,すでに「克服」されたはずのナチス時代の,「フェルキッシュ」な民族政策を想起させる
ものでもあった(Bade 1994: 161)。しかも,アウスジードラーが実際には十分なドイツ語力を持
21
ミュンツとオーリガーは,「1988年以前,アウスジードラーは西ドイツの政治,社会,世論からほとん
ど注目されてこなかった。しかし1988年からの大量移住は,エスニックな特権をもった移民に関する論
争へとつながった」と述べている(Münz und Ohliger 2001: 383)。
37
国境を越える「民族」

たず,文化的には他の外国人移民とほとんど変わらなかったこと(彼らはしばしば「ロシア人」
「ポーランド人」と見なされ,庇護権請求者と同じく,ネオナチ的極右排外主義の攻撃の対象にす
らなっていた)は,その「民族帰属」による認定基準の虚構性を浮き彫りにしていた。アウスジー
ドラーは結局,「経済難民」と変わらないだろうということで,「フォルクスヴァーゲンドイツ人
Volkswagendeutsche」という揶揄も使われた。

アウスジードラーとナチス民族政策との連想は,アウスジードラー(特にポーランドからの)の
「民族帰属」地位認定の実務手続きにおいて,実際にナチス時代の記録が頻繁に用いられたことと
も関係していた。ナチス占領時代のポーランドでは,集団帰化政策の際「民族リストVolksliste」
が作成され,4つに分類して「ドイツ民族」が登録されていた。その「第3類」には「ドイツ化可
能」とされた多くのポーランド人が登録されていた
23

戦後ポーランド人として問題なく生活して
いたこれら元「第3類」のポーランド人たちが,1980年代後半に自分たちのドイツ民族帰属を主
張して,アウスジードラーの申請を行ったのである。ナチス時代の「第3類」の登録は,彼らの民
族帰属を証明する有力な証拠となった(S 52/1989: 50-58, 1989年12月25日)
24

彼らはその「民族
帰属」を証明できれば,「基本法の意味でのドイツ人」であると認定され,ドイツ国籍を取得でき
ることになるわけである。
このようなナチス時代の文書や記録の利用は,しばしばメディアでスキャンらダラスに報道され
た。例えば週刊誌『シュピーゲル』は,「ナチス時代の記録は,[アウスジードラー]申請者,官庁,
裁判所が疑いもなく利用する,あまりにも価値の高い文書になっている」と述べ,あるポーランド
からのアウスジードラー申請者が,「SSの嫁として相応しくない」と記したナチス時代の書類が見
つかったために,申請が許可されなかった例をレポートしている(S 43/1989: 103-108, 1989年10
22
『シュピーゲル』誌は次のような報道をしている。
アウグスブルクの社会局係官のジークハルト・シュラム(社会民主党)は,「このような何十億も
つぎ込まれた特権が世論からの恨みを買ってる」のだから,連邦政府は「アウスジードラーにかえ
って迷惑をかかている」のだと非難している。シュラムは言う「われわれは全ての必要な人々に好
都合な住宅を必要としているのであって,特定の集団にだけそれを必要としているのではない。」
(S 34/1988: 58,1988年8月22日)
23
これは,元来ドイツ民族だったが長いポーランド化の結果ほとんどポーランド化したドイツ人という意
味であり,よって「再ドイツ化」も可能であるという意味である。なお,この「民族リスト」は,第1類
は「戦前にドイツ民族への帰属を積極的に公言していた者」,第2類は「積極的な民族的ドイツ人ではな
いがドイツ民族を明白に保持していた者」,第3類は「ポーランド民族とのつながりを持ったドイツ起源
の人間で,ドイツ民族に再帰させうる前提のある者」,第4類は「ポーランド民族に吸収されドイツ人に
敵対的だった者」の4種の「ドイツ民族」概念から構成されていた(Urban 2000: 22)。通過収容所にお
ける行政手続上の「ガイドライン」にも,ポーランド東部からのアウスジードラーの「民族帰属」の基準
の一つして,「民族リスト」の登録があげられている(Liesner 1988: 71)。
24
集団帰化政策により,彼らには「取り消し中の国籍 Staatsangehörigkeit auf Widerruf」が与えられてい
た。戦後ポーランド国籍を得た彼らは,すでにナチス時代の「取り消し中の国籍」を失ってはいたが,民
族帰属の証拠としては有力と見なされたわけである。
38
月23日)。このような報道は,アウスジードラーとナチス時代の民族概念との連想を強め,結果と
して一般世論のアウスジードラーへの懐疑を強めるものであった。
そのような中で,のアウスジードラー受け入れ政策に対し批判的な意見が広がった。特に社会民
主党が政権を握る州政府からは,アウスジードラーを制限すべきという声が上がっていた。その理
由の大きなものは財政問題,住宅問題,労働問題などであったが,アウスジードラー政策がナチス
時代の民族政策を想起させるというシンボリックな面がもつ意味も少なくなかった。しばしばアウ
スジードラー政策は,ナチス時代の「帝国への帰還 Heim ins Reich」政策の再来と見なされたので
ある。
例えば,ザールラントの州政府首相であり,社会民主党の中では左派として知られるオスカー・
ラフォンテーヌ(現在は「左派党」の代表)は,「ドイツ民族妄想 Deutschtümelei」という言葉を
用いてアウスジードラー政策を批判している。そのようなラフォンテーヌの批判は,アウスジード
ラーに対する「差別的」で「デマゴーグ的」な言辞として連邦議会でも問題にされている。そこで
ラフォンテーヌは,次のように弁明する(1988年10月26日の連邦議会)。
連邦共和国で外国人嫌いを掻き立てようとするものは,ドイツ語を話せもしないアウスジードラーに対
する躊躇感を強めてもいるのです。これは,一方で外国人嫌いの波をうまく利用できると考え,また同
時にアウスジードラーの移住に向けて強力な宣伝をしようとしているものにとっては,ディレンマなの
です。……隣人愛への義務ないし連帯,あるいは禁じられた制限のない啓蒙思想の遺産の有効性を認め
ることによってのみ,このディレンマから脱却することができるのです。人道性 Menschlichkeit への
義務が先ず最初になければなりません。それは不可分なもので,隣人愛への義務と同じく,古き国家機
構の境界によって制限されるものではないのです。最近私は,このことについて何度もはっきりさせて
きましたし,誇張されたドイツ民族妄想 ―『デューデン』の辞書によれば,「ドイツ民族
Deutschtum の押し付けがましい強調」なのだそうですが―について警告を発してきたのです。人間
としてのわが隣人 unsere Mitmenschen のための援助対策は,その隣人がわれわれの援助をどれだけ必
要としているのかに応じて行っていかなければならない。私はそう主張してきました。(BT 11/102:
7005)
それに対し,当時の政権与党であるキリスト教民主同盟のゲルスターは「ドイツ人アウスジード
ラーは,基本法第16条の意味においてドイツ人なのであり,無条件でドイツ国民なのです」(Ibid.:
7004)と述べ,ドイツ人,ドイツ国民としての基本的権利は保障されるべきであると主張している。
そして,庇護権請求者とアウスジードラーを同列に論じるのは誤りであることを強調した。
政府や与党(特に保守のキリスト教民主同盟,キリスト教社会同盟)はアウスジードラー政策を
維持するため,第二次大戦と「追放」がドイツ人にもたらした被害を指摘し,「追放」の影響をい
まだに被っているアウスジードラーを保護するのは「ドイツの義務」であるという立場を堅持した。
しかし,アウスジードラー政策の時代錯誤性は広く世論で認知されるようなり,政治家や専門家の
39
国境を越える「民族」
間では,アウスジードラーの制限のみならず,その基盤となっている戦後の被追放者の受け入れ体
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
制それ自体
4 4 4 4 4
を見直すべきだと言う声も高まっていった
25

(2)社会主義圏の解体と「戦後時代」の終結

社会主義圏の解体はアウスジードラーをめぐる状況に大きな変化をもたらした。それまでアウス
ジードラー受け入れの前提であった社会主義圏の自由や権利の抑圧という状況が解消したのである。
連邦共和国では,そのような社会主義圏の「人間的苦境」を「追放圧力Vertreibungsdruck」
26
が継
続しているものととらえ,その前提の下で,アウスジードラーの認定基準としてあえて「被追放
者」であることの証明を求めることをしてこなかった。社会主義圏で生活しているということが,
自動的に「追放圧力」の下にあるものとみなされた。しかし社会主義圏の自由化・民主化の展開は,
「追放圧力」というそれまでのアウスジードラー受け入れの自明の前提を揺るがすことになった。
そうなると,アウスジードラーの受け入れを続ける必然性も揺らいでくることになる。
社会主義圏の解体にともなう「追放圧力」解消は,しばしば「戦後時代 Nachkriegszeitの終結」
とみなされた。「戦後時代」とは,「戦争の帰結 Kriegsfolgen」としての「追放」の圧力が継続され
た時代であった。今やその圧力が急激に消滅の方向に向かいつつある。そのような中,被追放者受
け入れを規定してきた連邦被追放者法を改正しようというこのような動きが促進されることになる。
ベルリンの壁が崩壊してから数ヵ月後の1990年初めには,早くも当時野党の立場にあった社会
民主党の側で,「被追放者」という地位の付与を終わらせるべく連邦被追放者法を改正すべきとい
う主張が高まってきた。1990年1月には連邦議会で「被追放者の地位の新規付与を終わらせる」
ための法律案が社会民主党から提出された。この提案は否決されている(BT-Ds 11/631; BT
11/197)。だが連邦政府も,東欧における政治変動が,もはやこれまで同様にアウスジードラー概
念を維持し得なくなっていることは認識していた。政府はアウスジードラー受け入れの手続き変更
に関して規定した「アウスジードラー受け入れ法」
27
を提出したが(1990年4月25日連邦議会可決),
興味深いのはその法案に書かれた「根拠」の中で,東欧での政治的変化が,「追放圧力」を和らげ
ていることを明確に認めていることである。これは,アウスジードラー概念終止へ向けての一つの
転換点になっている。
25
『シュピーゲル』誌は,次のように被追放者法を問題視している。
[民族帰属ゆえに受け入れると言う]被追放者法の基本は,ハンブルクの国家法教授ヘルムート・
リットシュティークによればナチス時代の民族政策の継続であり,それが東方からの貧しい難民の
流入の原因になっている。フィクション抜きで言えば,仮にアウスジードラーが今日でもなお,祖
父母のドイツ民族への帰属意識ゆえに故郷から追放されているとしても,彼らはこの地では哀れな
庇護権請求者の法的地位しか持たないはずである。(S 3/1990: 79,1990年1月15日)
26
「追放圧力」という概念は,アウスジードラー受け入れの行政手続き上一般に用いられた概念で,行政
裁判所の判決文などにも用いられている(Liesner 1988: 97-107)。
27
この法律は,アウスジードラーがその出身地でアウスジードラー申請を行うことを可能にした法律であ
る。
40
アウスジードラーの出身地域Aussiedlungsgebieteにおける変化した実状は,連邦被追放者法の意味での
アウスジードラーの数を減少させている。一般に言って,ハンガリーやユーゴスラビアからのドイツ国
籍保持者,ドイツ民族籍保持者においては,もはや追放圧力を受けていない。彼らはそこで,マイノリ
ティとしての権利を保持しているか,何年も前からその国を離れることが可能であった[=つまり出国
の自由が何年も前から保証されていたという意味]かのどちらかである。(BR-Ds 222/90)
ここで連邦政府は,ハンガリーとユーゴスラビアには,もはや「追放圧力」が存在していないこ
とを認めた。この法案の審議の過程で,社会民主党議員は,この点に関する連邦政府の態度の変化
を評価しつつも,まだ不足があるとして批判している。同党のヘンマーレは,以下のように述べる。
法案の根拠の中で,連邦政府は,ハンガリーとユーゴスラヴィアではもはや追放圧力はないと確言して
います。それは,連邦被追放者法に述べられている他の国,特にポーランドとチェコスロヴァキアにも
当てはまります。それゆえわれわれは,連邦被追放者法を終わらせるという[従来の]提案を堅持しま
す。あなた方の提案は第一歩に過ぎないものです。(BT 11/206: 16192)
「被追放者」という地位で特権的な移民として入国してくるアウスジードラーという存在に,な
るべく早く終止符を打ちたい社会民主党議員と,制限を加えつつもアウスジードラーという地位は
保持したい政府与党の立場とが対立していることが,ここに示されている。
ドイツが統一を果たした後,1991年の2月1日の連邦議会では,社会民主党のペンナーは,連
邦被追放者法に加え,被追放者という地位の究極的根拠となっている基本法第116条の改訂にまで
触れるようになる。
第一に,基本法116条は,ドイツ連邦共和国の国家領土に限定されます。第二に,地位上のドイツ人
[=本論文3(1)参照]の概念は削除されます。……第四に,被追放者法は,被追放者の地位を,こ
れまで連邦共和国領域内に移住することが不可能であった民族帰属保持者だけに付与されるべく限定す
べく改訂されます。(BT 12/7: 232)
社会民主党の考えは,被追放者の地位は(つまり今後のアウスジードラーは),これまで移動の
自由が認められていなかった一部の民族帰属保持者を例外として,原則的に廃止していくというも
のであった。それに対し,内務大臣でキリスト教民主同盟の有力政治家であるショイブレは,次の
ように反論している。
連立政権では,基本法第116条には改訂を加えないということを決めました。……われわれが特別な義
務を負っている全ドイツ人に対して扉は開いておきます。(Ibid: 231)
41
国境を越える「民族」
「被追放者」が言及されている基本法第116条は,戦争と「追放」に由来する「全ドイツ人」に
対する連邦共和国の「特別の義務」を保持するために,残しておく必要があるとショイブレは述べ
る。これは保守派に典型的なアウスジードラーの解釈である。
だが,被追放者法の改訂は,もはや時間の問題となっていた
28
。政府と与党にとっても,アウス
ジードラー政策をこれまでのように続行できないことは明らかだった。問題は,アウスジードラー
政策にどのような形で「終止符」を打つのかであった。
被追放者法の根本的改訂は,1992年11月に可決された法律(「戦争の帰結清算法 Kriegsfolgenbereinigungsgesetz」)によって実現された
29
。「被追放者」の地位をなるべく削減したい社会民主党に
対し,「追放」への言及をなるべく残したいキリスト教民主/社会同盟。多くの法律がそうである
ように,この法律もこのような与野党の双方の立場の妥協的形態となっている。結果として,この
法律によりアウスジードラーの終結への道は確実になったが,アウスジードラー受け入れそれ自体
は継続されるというものとなった。しかし「アウスジードラー」の法的地位は大きく変わった。
1993年1月から施行されたこの法律により,これまでの「アウスジードラー」は停止され,代
わって新たに「遅発アウスジードラーSpätaussiedler」なる概念が公式に導入された。法律施行以
後のアウスジードラーは,原則的に「遅発アウスジードラー」として入国してくるものとなった。
さらに,その「遅発アウスジードラー」の地位も,1993年1月1日以後に生まれた者には適用さ
れないこととなった。これにより,長期的に見れば,アウスジードラーという地位そのものに終止
符が打たれたことになる。同法提案の際の「根拠」には,この法律が「戦後時代の終わり」を意味
することが明言されている。
ドイツ統一の実現とともに,ドイツとポーランドの国境の国際法的確定とともに,そして四カ国とポー
ランドとの条約とともに,戦後時代は終わりを迎えた。このことはポーランド共和国,旧ソ連の共和国,
その他の中東欧諸国に住むドイツ国籍保持者,ドイツ民族帰属保持者の受け入れを,変化した現状を考
慮に入れた法的基礎の上に置くという目的に向けて修正することを必要にしている。そこで次のことを
考慮に入れなければならない。これらの諸国には依然として何百万ものドイツ人が生活しており,その
生活の基礎は第二次大戦の最中およびその結果,暴力的な移住,追放政策,離散と抑圧により破壊され,
28
連邦参議院では,連邦政府が被追放者法の改訂に躊躇していることを非難する決議も採択されている。
1991年12月19日の決議文は次のようになっていた。
連邦政府は,戦争の帰結終結法の中で,アウスジードラーの特権的な移住を,戦後の終結と追放圧
力の消滅の後,まもなく終結させるための規定に至らなければならないことに,明らかに困難を抱
いている。連邦参議院は,そうした規定を,将来の移民政策の中へと取り込むためにも喫緊に必要
であると考える。(BR-Ds 754/91)
29
以下,この法律の理解に関しては,(Juncker 2001)(Delfs 1993)(Wolf 1993: 4-20)(DOD 3/36, 1993:
1-2)を参照した。また改訂連邦被追放者法の法律文は http://www.juris.de から採ることができる。
42
その帰結は現在の社会的・国家的な構造の変化によってもなお乗り越えられてはいないということを。
これらのドイツ人たちに対し,ドイツ連邦共和国は引き続き特別な義務を担っている。(BT-Ds
12/3212: 19)
この文は「戦後時代の終わり」とともに,「追放」の帰結が依然として消滅してはいないことも
また明言している。そして,連邦共和国は引き続きアウスジードラーを「遅発アウスジードラー」
として受け入れることとなる。だが遅発アウスジードラー(連邦被追放者法第4条での規定)は被
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
追放者の下位概念としてのアウスジードラー(同第1条(2)3)ではもはやない
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
。大きな違いは,
旧ソ連地域以外から来る者は,必ず 「ドイツ民族帰属が理由で不利に扱われた」 ことの証明を,自
ら示さなければならないということである。かつてのような,集合的な 「追放圧力の継続」 の存在
は,旧ソ連地域のみに認められていた。このような法規定の改訂は,当然旧ソ連以外の地域からの
アウスジードラーの流入を,大幅に減少させる結果となる。
この法律をきっかけに,アウスジードラーの数は顕著な減少に向かう。この法律が施行される前
に,与野党で年間のアウスジードラーの受け入れ人数を約20万人と決めたことも大きかった。
その後1996年から,「民族帰属」 の証明としてのドイツ語テストの導入があり,アウスジードラ
ーの数は益々減少の一途をたどった。2000年には,ドイツ語テスト受験者の約半分が不合格にな
ってアウスジードラーの資格を得られなくなっている
30
。こうして,2000年には約9万5千人いた
アウスジードラーも,2005年には3万5千強にまで減っているのである。
このようにアウスジードラー受け入れは,終止符に向けて軟着陸していくように見える。振り返
ってみれば,アウスジードラー受け入れの起源は戦後東欧ドイツ人の 「追放」 にあった。「追放」
とアウスジードラーの大量流入は,人口学的な意味で東欧在外ドイツ人の大民族移動(暴力や強制
を伴った)を意味していた
31
。これが,建国以来様々な形で問題になってきた在外ドイツ人問題を
「解決」したことになったのだろうか
32
。ドイツは,在外同胞問題のない,「西欧」 型の,「完結し
たネーション・ステート」 へと変貌したのか。一見そうにも見える。だが,その前にもう一点検討
しておかねばならない問題がある。民族マイノリティとしての在外ドイツ人
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
の問題である。
30
被追放者連盟のHPによる(http://www.bund-der-vertriebenen.de/infopool/spaetauss2.php3)。
31
被追放者諸団体のリーダーやそれに近い学者の中には,このドイツ人の強制移住を「民族浄化」という
挑発的な語で表現するものもいる。もちろん,ユーゴスラヴィアでの 「民族浄化」 との連想を意図したも
のである。だが,その含意はどうあれ,戦後の追放とそれに続くアウスジードラーの移住で,東欧の在外
ドイツ人が大規模に「一掃」されたことは確かである。また,現在ドイツでは,「追放」の問題を,より
一般的に「純粋な民族国家」形成を目的とした大規模民族移動政策との関連で理解しようという研究も行
われている。例えばBeer(2004a)を参照せよ。
32
実際,戦争末期イギリスの首相チャーチルは,東欧での民族紛争の火種を除去するという観点から,ド
イツ人移住政策の必要性を考えていた(Beer 2004)。となると,このチャーチルの目論見は,戦後60年以
上たってその結果にたどり着いたと言えるかもしれない。
43
国境を越える「民族」
6.在外ドイツ人マイノリティの問題
社会主義圏における民主化の動きは,残留するドイツ人マイノリティの生活や権利の状況も向上
させた。ドイツ人マイノリティの文化的活動の自由も出てきた。ポーランドにように,それまでド
イツ人マイノリティの存在を公的に認めていなかった国でも,その存在が認められるようになった。
彼らの西側諸国に対する出国制限も著しく緩和された。そのような中,連邦政府の政治家も,在外
ドイツ人との接触をもつ機会も増えていく。また,政府間交渉で,ドイツ人マイノリティの権利問
題が取り上げられることも多くなってきた。例えばポーランド政府は,1989年11月に,コールと
の会談の中で国内のドイツ人マイノリティの権利保護を約束したのである。ドイツ人マイノリティ
の権利は,1991年6月に締結されたドイツ=ポーランド善隣有効協力条約においても規定される
ことになる
33

そのような文脈の中で,ドイツ政府は,アウスジードラーの認定条件を制限していくのと並行し
て,在外ドイツ人マイノリティの現地での生活環境を向上させるための援助活動を政府が行うよう
になっていく。それはまた,東欧からのアウスジードラー申請者の数を減らすためにも有効と考え
られた。このような傾向は,ドイツ「再統一」以後強まっていく。内務省は,入国したアウスジー
ドラーの統合と並び,「出身地である領土において,ドイツ人たちの生活条件を,文化,社会,経
済領域における多種多様な施策によって改善し,彼らに継続的な生活の見込みが開けるようにする
こと」をアウスジードラー政策の政策目標に掲げるようになる(IDDA 18/1990: 1)。また,この政
策はヨーロッパにおける 「マイノリティの保護Minderheitenschutz」(CSCEや欧州評議会など)の
法的枠組みを基礎として目指されるようになっていく。1991年1月30日,第二期政権成立直後,ヘ
ルムート・コール首相は政府声明演説で,「統一されたドイツにとって,民族マイノリティの保護
は特別な課題となります」 と述べたあと,次のように在外ドイツ人問題をとりあげている。
ここで問題になりますのは―私はこのことをこのことを強調したいのですが―何よりもまずわれわ
れドイツ人,中央ヨーロッパ,南東ヨーロッパ,そしてソ連に暮らしているドイツ人同胞たちのことな
のです。われわれは,彼らが出身国からの出国を唯一の逃げ口とみなしてしまうことを望んではいませ
ん。われわれは,彼らが自分が生まれた故郷において,自分たちのために,そして子供たちのために再
び安全な将来を見つけ出すことを望んでいるのです。それには,彼らが自分たちの言語,歴史,伝統を
守り,自由に宗教活動のできる権利と機会を持つことが,そして彼らの生活環境が改善されることが前
提となります。連邦政府は,問題となる諸国との間との二国間協定の中で,この問題を書き込んでいき
ます。(BT 12/5: 88)
33
ポーランドとの関係においてドイツ人マイノリティの問題をテーマ化しえたことの理由の一つは,ドイ
ツ連邦共和国がオーデル=ナイセ線を国境として最終承認したことである。これにより,それまで国境修
正要求の手段として用いられがちだったドイツ人マイノリティ問題が,両国の間で以前よりもオープンに
論じられるようになったのである。詳しくは佐藤(2006)第9章を参照。
44
また,前に論じた 「戦争の帰結清算法」 の 「根拠」 でも,前に5(2)の項で引用した部分の直
後に,以下のような文章が来る。
連邦政府は,アウスジードラー出身地の領土に生活しているドイツ国籍保持者,ドイツ民族帰属保持者
を援助し,彼らの文化的を擁護するという目的を,何年も前から追求してきた。彼らは,将来への見込
みが開かれるような条件の下で生活できていなければならない。かつての東側ブロック諸国の民主化と
経済的変動の過程は,そのような対策を貫徹することを容易にしている。この過程が,その対策を今ま
で以上の規模で貫徹することを,今初めて可能にしたのである。これらの諸国における経済的変動とド
イツ連邦共和国の援助は,ドイツ人マイノリティの生活状況の向上につながることになりうる。それが
最終的には,ドイツ連邦共和国へのアウスジードラーの波を終わらせることになるだろう。(BT-Ds
12/3212)
この法案をめぐる連邦議会の討論では,野党の社会民主党議員も「出国移民の原因をできる限り
除去する」という観点から,ドイツ人マイノリティに対する援助対策を支持している(BT 12/107:
9147)。つまり,在外ドイツ人マイノリティ援助に関しては,与野党の間で合意がほぼ成立してい
たのである。
コールが前出の演説の中で述べていたように,連邦政府による東欧のドイツ人マイノリティの援
助政策は,東欧諸国との二国間条約で規定され,ドイツ語教育,ドイツ語メディア,企業活動や農
業,インフラ整備,医療,ドイツ人団体や集会所などへの資金,人材,技術の援助などが行われる
ようになる(Wolff 2000: 194-200; Delfs 1993: 9-10)。ポーランド人マイノリティへの援助の金額だ
けを見ても,1989年には830万ドイツマルクから1994年には3320万ドイツマルクへと急増している
(BT-Ds 13/1036)。援助が特に集中していたのが,ロシアにおけるドイツ人マイノリティであった。
1996年に東欧のドイツ人マイノリティに対する全支援額の約60%にあたる9千万ドイツマルクが,
ロシアのドイツ人マイノリティに支払われていた(Wolff 2000: 197)。1990年代のアウスジードラ
ーの大部分がロシアから来ていることを考えれば,当然の処置であっただろう。
1995年以後,ドイツに流入するアウスジードラーの数は急激に減少してく。1997年に内務省は
それを,ドイツ人マイノリティの現地での生活が定着した結果であるとして歓迎する姿勢を示して
いる(IDDA 88/1997: 2)。アウスジードラーの減少が,政府の在外ドイツ人マイノリティ援助の成
果と見なされたのである。
しかしその後,政府からの在外マイノリティへの財政援助からは手を引くようになる。例えば,
内務省による在外マイノリティ保護のための費用は,1998年の1億2500万マルク(約7200万ユー
ロ)から2005年には2100万ユーロへと減額されている(DOD 8/2005)。社会民主党/緑の党政権
の方針は,在外マイノリティは,ドイツ文化は維持しつつも現地国家の国民として生活していくべ
きであるという姿勢であり,内政干渉とも受け取られかねない在外マイノリティ支援からは距離を
置こうとしていたように見える。
45
国境を越える「民族」
だが,地域や民間レベルでの在外ドイツ人マイノリティの文化保護活動は続いている。特に最近,
ヨーロッパという枠組みにおいて,民族マイノリティの保護が一つのテーマとして浮上してきてい
る。1993年のEUのいわゆる「コペンハーゲン基準」や,欧州評議会のいくつかの合意文書が,民
族マイノリティの保護を規定している。西欧諸国において,このテーマはそれほどの関心を引いて
いないようだが,EUが東方へと拡大していくのに比例して,民族マイノリティの保護というテー
マは,これまで以上に重要なテーマになっていく可能性はある
34

被追放者諸団体は,この在外ドイツ人マイノリティ問題に一貫して積極的な関与を続けてきた。
被追放者諸団体はかつてオーデル=ナイセ線の承認に強硬に反対し,また現在に至るまで 「追放」
の不正に対して強い非難の声を上げてきた集団であり,「領土修正主義」 として批判的に語られる
ことの多い集団である。特にポーランドでの評判は悪い。しかし1990年の国境最終確定の前後から,
被追放者諸団体は在外ドイツ人マイノリティ問題を重要な活動の場とし,ポーランドを始めとする
東欧諸国の在外ドイツ人との交流を深めつつ,国境を越えた 「東方のドイツ」 の歴史と記憶(それ
は彼らの 「故郷」 の歴史と記憶でもある)を喚起しようとしている(Salzborn 2001)。
また,在外ドイツ人問題と並べて注目すべきは,ドイツ国内での「東方のドイツ」に関する博物
館,展示,出版,研究施設などへの援助の増大である。被追放者の「故郷」の文化伝統の保存や学
術研究の推進は,連邦被追放者法第96条で規定されたものであり,すでに長い歴史があるが,そ
の援助額は1980年代末から増大し,1982年に年間約400万マルクであったものが,1994年には4700
万マルクに増額されている(BT-Ds 12/2311)。社会民主党・緑の党連立政権の下,この「東方の
ドイツ」の文化保存活動に対する援助も減額される。しかしこの政権は,活動の「専門化」と「ネ
ットワーク」の強化を提案し,特に東プロイセン,シュレージエン,ジーベンビュルゲン等と言っ
た東欧のドイツ人定住地域ごとの文化や歴史を展示した博物館の「強化」に力を入れるとされた
(BT-Ds 15/2967)。
現在,アウスジードラーは終結に向かいつつある。だが,在外ドイツ人マイノリティ問題や「東
方のドイツ」の文化保存の問題として,「国境を越える民族」としてのドイツのネーションはまだ
終結していないのである。アウスジードラーの終止をもってドイツが「西欧」型の,「完結したネ
ーション・ステート」になったと判断するのは,いまだ時期尚早のように思われる
35

34
現在の在外ドイツ人マイノリティの数について,確定的な数字はない。被追放者連盟の推計では,ロシ
アに80万,カザフスタンに35万,ポーランドに30万から50万,ハンガリーに20万,ルーマニアに8万,
チェコに10万となっている。総計で183万から203万人の在外ドイツ人ということになる(http://www.
bund-der-vertriebenen.de/infopool/dt-minderheiten.php3)。連邦内務省の推計では,ロシアに70万,カザ
フスタンに35万,ポーランドに40万,総計で150万から200万人の在外ドイツ人マイノリティが存在する
とされている(http://www.bmi.bund.de/cln_012/nn_122688/sid_90F0FFC389894859661FEFFA3E6E569
C/Internet/Content/Common/Lexikon/M/Minderheiten__deutsche__Id__19916__de.html)。おそらく彼ら
の中には状況に応じて機会主義的に民族帰属を変えることのできる人も多いので,数字を正確に確定する
のは,事実上困難であろう。
46
結 語
    −国境を越える「民族」の将来−
本報告では,アウスジードラー問題が移民問題としてだけではなく,在外ドイツ人問題の一変異
として,すなわちドイツの国境を越える「ネーション」問題の枠組み
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
の中で理解する必要があるこ
とを論じてきた。そのような枠組みで見ると,アウスジードラー受け入れの終止は,在外ドイツ人
問題の消滅
4 4
ではなく,変容
4 4
に過ぎないことが分かる。現に連邦共和国は,アウスジードラーの終止
に向かう方向性を打ち出すと同時に,在外ドイツ人マイノリティの援助策に乗り出していた。この
二つの政策には,不可分のつながりがある。
しかし戦後ドイツ人の「追放」と,その後のアウスジードラーの流れは,ドイツ人の人口学的分
布の状態に劇的な変化をもたらしたことも否定できない。戦間期には900万人近くいたドイツ人マ
イノリティも,現在は150万人にまで減少した。国境を越える「民族」(あるいは,ディアスポラ
民族)としてのポテンシャリティは,数量的に確実に縮小している。しかしながら,在外ドイツ人
マイノリティや「東方のドイツ」文化は,戦後の「追放」の歴史の記憶と共に,依然としてドイツ
の「ネーション」をめぐる問題の一角をなしている。この国境を越えたドイツの「ネーション」の
問題が,周辺諸国・諸民族との対立の火種になるのか,あるいはヨーロッパ諸民族の「架け橋」に
なるのか(連邦政府や被追放者諸団体は後者の面を強調するのだが),今後の展開を見ていかなけ
ればならない。
追記:この論文は,2006年11月26日に法政大学大学院付置ヨーロッパ研究所の研究報告会で配布した報
告資料に大幅な加筆修正を加えたものである。なお,本論文での研究にあたっては,平成18年度日本学術
振興会科学研究費補助金(基盤研究(C))(課題番号:18530406)の援助を受けた。
35
他方で,フランス型の出生地主義の要素を多く取り入れた1999年のドイツ国籍法改訂は,ドイツが,
政治的原理による「西欧型」の「完結したネーション・ステート」に変貌していることを示している。筆
者は,それがドイツのネーションの変容の主たる流れであることを否定しない。だがそれと並行して,国
境を越えた,「未完結」なネーションの伝統は,今もなお消滅してはいない。
47
国境を越える「民族」
参考文献
(インターネットからの引用・参照は脚注に直接記載した)
【一次資料】
BGBl=Bundesgesetzblatt[連邦法律公報]
BR=Verhandelngen des Deutschen Bundesrates: Stenographische Berichte, 1.- Sitzung[ドイツ連邦参議院議
事録]
BR-Ds=Verhandelngen des Deutschen Bundesrates: Drucksache, 1-[ドイツ連邦参議院議事資料]
BT=Verhandelngen des Deutschen Bundestages: Stenographische Berichte, 1.- Wahlperiode/1.- Sitzung[ドイ
ツ連邦議会議事録]
BT-Ds=Verhandelngen des Deutschen Bundestages: Drucksache, 1.- Wahlperiode/1-[ドイツ連邦議会議事資
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〔ドイツの領土の変遷〕

北方領土問題の本質と対応 その12 大戦時の同盟国ドイツに学ぶこと
https://kirashuji.com/s/message/?p=303

『北方領土問題シリーズ第12弾です。

前回の第11弾では、平和条約締結ができなくても、4島の主権を主張し続ける選択肢と一部の島の主権を放棄することになるが、ロシア側が受け入れる可能性のある現実的選択肢を提示させてもらいました。

今回は、第二次世界大戦時、日本の同盟国であったドイツの戦後対応に学ぶべきことについてお伝えします。尚、下記するドイツの歴史については、東京大学名誉教授の坂井榮八郎先生(歴史学者、専門は西洋近代史、ドイツ史)の著書や講演録(1991年の学士会会報790号)を参考にしています。

1.東西統一に当たり固有の領土を永久放棄したドイツ

(1)現代ドイツが、現在のポーランドや東ドイツを領土とするプロシアから起こった国であることを考慮すると、1990年の東西ドイツ統一の際、ドイツは、日本でいえば奈良・京都ともいえるオーデル川、ナイセ川(オーデル・ナイセ線)以東の「プロシア以来の固有の領土」(プロイセンの東半分)をポーランドに永久に永久割譲しています。

(2)もう少し正確に解説すれば、第二次世界大戦後は東ドイツもポーランドも事実上ソ連の支配下におかれました。そのため、ソ連の意向のまま、ソ連・ポーランド間の国境とポーランド・東ドイツ間の国境は、現在に至る国境線で固定されました。この国境線固定により、ポーランドの固有の領土ともいえる同国の東の領土はソ連領となりました(現在のベラルーシの西側の領土に当たる)。

(3)当時の西ドイツは、東ドイツとポーランドの国境線となっていたオーデル・ナイセ線以東の、プロシア以来の固有の領土がポーランド領になっている状況を受け入れませんでした。

(4)しかし、何としても東西統一を実現したい西ドイツ(政府と国民)と東ドイツの国民は、ベルリンの壁崩壊後、大決断の上、「ドイツ・ポーランド国境条約」を締結し、オーデル・ナイセ線以東の固有の領土を永久放棄することにより、ポーランド、ソ連はじめ、関係諸国から東西統一の了解を得たのです。

この説明だけで理解しづらいと思いますので、ドイツ領土の変遷を示した地図、および、ドイツ・ポーランド国境条約の地図を含む詳細を以下のとおりご参照願います。

2.第二次世界大戦後のドイツ人の苦難

1985年に開催された「ナチス・ドイツ敗戦40周年記念日」において、当時の西ドイツのワイツゼッカー大統領が、世界中の人々に感銘をあたえた有名な演説を行います。

この演説の奥深さを理解するためには、第二次世界大戦直後のドイツ人が難民として味わった苦難の歴史を知る必要があります。

(1)ドイツは第二次世界大戦中のある時期、欧州全域を占領下においていました。敗戦後、特に東欧に住んでいたドイツ人は着の身着のまま即時追放ということになります。追放されたのは、ドイツ人だけではなく、ソ連がポーランド領東部を併合したことにより。そこに住んでいたポーランド人が追い出され、そのポーランド人が今度はドイツ人を追い出すという玉突き現象が生じたのです。
(2)このポーランド地域や、チュコ、ハンガリー、その他の地域を追われて難民化したドイツ人は1800万人です。第二次世界大戦後の世界全体の難民が3000万人といわれていますので、その2/3がドイツ人ということになります。また、東西統一前の東ドイツの人口が1600万人ですから、そのすさまじさがご理解戴けると思います。そして、この追放の過程で300万人が犠牲(死亡)になっています。
(3)ナチスの占領地における統治はあまりにも残虐でしたので、レジスタンス運動に代表されるナチスへの抵抗はすさまじく、ドイツの敗戦が濃厚となってからは、ドイツ人が倍返しで仕返しされるという悲惨な状況でした。
(4)ちなみに、ドイツは第二次世界大戦中に780万人(軍人400万人、民間人380万人)、ソ連は独ソ戦の影響で2000万人、ユダヤ人はホロコーストの影響で500万人、ポーランドは420万人、日本は310万人が犠牲になっています。
(5)独ソ不可侵条約を破ってドイツがソ連に侵攻したことにより、2000万人の犠牲が出ていることは、ソ連の日ソ中立条約を破っての対日参戦や日本降伏後の北方領土の占領、実効支配が許されるものではありませんが、北方領土問題を議論する際には頭に入れておくべき事実です。

3.世界中に感銘を与え、ドイツ国民の心を打ったワイツゼッカー大統領の演説

1985年のナチス・ドイツ敗戦40周年記念日に、ワイツゼッカー大統領がおこなった演説の有名な一節を下記します。

(1)「過去を忘れる国民は未来をもたない」

(2)「戦後のドイツ難民の苦難は到底言葉には尽くせないけれども、その苦難の原因は、ドイツが戦争に負けたことにあるのではなく、ドイツが戦争を始めたことにある。このことを取り違えないでほしい」

(3)「今まで我々は国境をめぐって血を流してきた。しかし、これからの国境は諸国民をわけ隔てるものではなく、諸国民をつなぐ架け橋にならなければならない」

以上、ドイツの第二次世界大戦後の対応はいかがでしたか。

シリーズ第5弾で共有させてもらったように「北方4島は日本の固有の領土」であることは間違いがありません。しかし、大戦時の同盟国であったドイツは、その固有の領土、それも歴史的に心臓部にあたる領土を戦争の結果として失いました。そして、その固有の領土を永久放棄することにより、悲願の東西統一を成し遂げました。ポーランドは歴史的に何度か世界地図から消えることがありました。歴史的にはどこが固有の領土かわかりません。
世界の歴史を見る限り、「固有の領土」論は残念ながら説得力を持たないことがおわかり戴けると思います。
ドイツがそうであるように、固有の領土である北方4島を第二次世界大戦の結果、失ってしまった、という認識を持つことは、多くの批判を受けるかもしれません。しかし、歴史を含めて世界を見渡せば、それが冷徹な現実なのです。

またまた長くなりましたので、シリーズの最終回にあたる第13弾は次回にさせてもらいます。

吉良州司』

吉良州司
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E8%89%AF%E5%B7%9E%E5%8F%B8

『吉良 州司(きら しゅうじ、1958年3月16日 – )は、日本の政治家。衆議院議員(6期)、院内会派「有志の会」代表。

外務副大臣(野田第3次改造内閣)、外務大臣政務官(鳩山由紀夫内閣・菅直人内閣)、衆議院北朝鮮による拉致問題等に関する特別委員長等を務めた。 』

豆満江

豆満江
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%86%E6%BA%80%E6%B1%9F

『豆満江(とまんこう、ずまんこう、ト(ゥ)マンカン、ト(ゥ)マンガン[1][2]、朝鮮語: 두만강、中国語: 图们江、ロシア語: Туманная)は、中朝国境の白頭山(中国名は長白山)に源を発し、中華人民共和国(中国)、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、ロシアの国境地帯を東へ流れ日本海に注ぐ、全長約500kmの国際河川である。

豆満江は朝鮮での呼称で、韓国と北朝鮮に於いての違いはない。語源は「万」を意味する満州語「トゥメン」であり、満州語ではトゥメン・ウラ(ᡨᡠᠮᡝᠨ
ᡠᠯᠠ[注 1])と称する。

中国では中国語も朝鮮語も図們江[注 2](Túmenjiāngトゥーメンジャン)と表記する。

日本においては、朝鮮語の두만(トゥマン)と日本語の江(こう)をあわせてなまった「とまんこう」という慣用読みが広く使われている。 』

『概説

李氏朝鮮時代、世宗は高麗時代から続いた女真の侵入に備え、崔潤徳らに命じて豆満江流域を開拓し、西北四郡(中国語版)(閭延・慈城・茂昌・虞芮)を設置した。爾来、豆満江は歴史的に中国と朝鮮半島を分ける国境線となっており、北岸は中国吉林省延辺朝鮮族自治州、南岸は北朝鮮咸鏡北道である。

北朝鮮を脱出する難民(脱北者)が越境する地帯として知られ、朝鮮人民軍の厳重な監視下に置かれている。豆満江河口付近で中国領は途絶え、ロシア領ハサンとなるが、中国とロシアの国境は1997年に画定した。

1990年7月に中国長春市で開かれた国際会議での吉林省副秘書長丁士晟の提案を受け[3][4]、国連開発計画(UNDP)の主導で豆満江開発計画が進められており、中国は豆満江下流の琿春市を国境開放都市に指定して琿春辺境経済合作区とし、北朝鮮は羅津・先鋒(現・羅先特別市)を自由経済貿易地帯(経済特区)に指定して開発を進めている。

豆満江河口付近の北朝鮮側には北朝鮮の鉄道とロシアのシベリア鉄道を繋ぐ「豆満江駅」がある。かつては、両国間の鉄道は軌間が異なるため、ここで旅客列車では台車の交換、貨物列車では荷の積み替えが行われたが、四線軌条が施条され、直通運転が可能になっている。

中国の図們江出海権をめぐって

1860年、北京条約を締結。清はウスリー川以東、図們江より北の土地をロシアに割譲(現在の沿海州)。清は日本海への出海権を失う。

1886年7月4日、中露両国が琿春議定書を締結。図們江河口から国境の距離を15キロと決め、中国は図們江河口までの出海権を獲得。15キロ地点に土(T)界碑を立てる。交渉にあたった呉大澂は中国で「民族英雄」と評価される。

1938年7月~8月、図們江河口の満ソ国境で張鼓峰事件。 事件以後、図們江が機雷封鎖されたので船舶の航行が途絶える。

1985年、吉林省対ソ貿易展開F・S研究プロジェクトチームを設立。東北師範大学や吉林省社会科学院が中心で、図們江地域を主に研究。「図們江出海権の利用は根拠があり可能」と結論。86年に「国際協議を通じて出海権回復すべき」という報告を行う。

1987年3月、中国の国務院国家科学技術委員会と国家海洋局は図們江出海権調査チームを吉林省に派遣。「わが国の図們江出海権回復についての建議」をまとめる。

1989年2月、図們江航行権及び日本海政治経済情勢セミナーが開かれる。吉林省と国家海洋局の共同主催。

1989年、北朝鮮は中国の船舶が日本海へ出る権利を口頭で認めた(といわれる)。

1990年5月27日・28日、中国は図們江河口第1次試験航行を行う。52年ぶりに航路を回復。22名の専門家、技術者が参加。

1990年7月16日~18日、北東アジア経済技術発展国際シンポジウムが長春で開かれる。ハワイイースト・ウエスト・センターと中国アジア太平洋研究会の合同主催。吉林省政府副秘書長の丁士晟教授の「黄金の三角地帯」という論文をもとに、中国側代表者から図們江地域開発を提案。この案は中国船舶の日本海への出海権をどう回復するかを検討する中から生まれた。後に国連開発計画が重点案件として取り上げる。

1990年12月4日、中国の船が図們江を下って日本海に出る権利を北朝鮮が認めたため、中国は半世紀ぶりに日本海側に港を持つことになったと朝日新聞が報道。

1991年3月、国連開発計画(UNDP)は、図們江流域開発を第5次国連開発事業計画(92年~96年)に決定。

1991年5月16日、中ソ両国が「中ソ東段辺境協議」(東部国境協定)に署名。中国の国旗を掲げた船舶が自由に図們江を航行する可能性が開ける。

1991年6月3日~14日 中国は図們江河口第2次試験航行を行う。

1995年3月28日 中国が北朝鮮に対して図們江河口における日本海への出海権回復を何度か求めるも、北朝鮮が断固拒否していると韓国日報が報道。

関連項目

中朝国境
露朝国境
鴨緑江 - 北朝鮮・中国国境を流れるもう一つの河川
朝鮮・ロシア友情橋
図們江大橋
脱北
北朝鮮
難民 』

「恥の壁」撤去命令 富裕層と貧困層の地区分断―ペルー

「恥の壁」撤去命令 富裕層と貧困層の地区分断―ペルー
https://www.jiji.com/jc/article?k=2022123100068&g=int

『【リマAFP時事】南米ペルーの憲法裁判所は、首都リマの富裕層と貧困層の居住地区を隔てる通称「恥の壁」の撤去を命じた。グティエレス判事は29日(※ 2022年12月29日)、同国のRPPラジオに「差別的な壁だ。(撤去命令は)判事全員が一致して決定した」と説明した。

〔写真特集〕米国とメキシコの国境

 壁は長さ10キロ。最も高い部分で2メートルを超え、上部に鉄条網が取り付けられている場所もある。最初に建てられたのは1980年代で、極左ゲリラ「センデロ・ルミノソ(輝く道)」の富裕層地侵入を防ぐのが目的だった。』

ラチン回廊

ラチン回廊
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%81%E3%83%B3%E5%9B%9E%E5%BB%8A

『ラチン回廊(ラチンかいろう、アルメニア語: Լաչինի միջանցք、アゼルバイジャン語: Laçın dəhlizi、ロシア語: Лачинский коридор)は、アルメニアとナゴルノ・カラバフを結ぶ回廊地帯。法的にはアゼルバイジャン領内であるが、ナゴルノ・カラバフ戦争の結果、現在はアルツァフ共和国が実効支配している。

2005年9月18日の国際連合に対する声明の中で、アゼルバイジャンのエルマル・メメディヤロフ外務大臣は「アゼルバイジャンのナゴルノ・カラバフ地域に居住するアルメニア人とアルメニアの交信の問題と、ナヒチェヴァン自治共和国に居住するアゼルバイジャン人とアゼルバイジャンの他の地域との交信の問題である。我々は、まずはこの地域の双方向の安全を多国籍軍によって確保することで、このいわゆる『ラチン回廊』いわば『平和の道』と呼ぶ地域を利用するよう提案する」[1]と表明している。

2020年ナゴルノ・カラバフ紛争の結果、ラチン回廊のあるカシャタグ地区(英語版)(アゼルバイジャンの行政区画ではラチン県に属する)はアゼルバイジャンに返還されることとなったが、ラチン回廊の通行権はロシア陸軍第15独立親衛自動車化狙撃旅団とロシア連邦保安庁(FSB)国境警備隊の管理下に置かれることになった[2][3][4][5]。 』

3D地図で世界の人口分布を示した「Population Mountains」では見えなかったものが見えてくる

3D地図で世界の人口分布を示した「Population Mountains」では見えなかったものが見えてくる
https://gigazine.net/news/20181213-population-mountains/

『世界中の都市の人口分布を3Dで地図上に表示することで、それぞれの都市の特徴を一目でわかるようにした「Population Mountains」をジャーナリストのMatt Danielsさんが公開しました。人口分布に山のようななだらかな傾斜がある都市や、ビルのように分布の差がはっきりしている都市などがあからさまにわかり、それぞれの都市の問題点と合わせると、非常に興味深いものとなっています。

Population Mountains
https://pudding.cool/2018/12/3d-cities-story/index.html

上記ページにアクセスすると、まず以下のような地図が表示されます。地図上では赤色の濃さが人口の多さを示しており、1つのドットが100万平方メートルを意味し、ドットの色が濃いほど人口が多いとのこと。画面左上にカナダのトロント、海岸線沿いに左からワシントン D.C.、フィラデルフィア、ニューヨーク、ボストンと並んでいます。特にニューヨークの赤が鮮やかで、100万平方メートルあたり6000人以上の人が住んでいる場所が多いことがわかります。ウェブページの画面をスクロールしていくと……

今度は地図が3Dマップに。ドットの高さも100万平方メートルあたりの人口を表現しており、ニューヨークの「山」の傾斜が特に急になっていることが見てとれます。平面的な色分けでは分かりづらかった人口密度が直感的にわかるようになっていました。

3Dマップを世界地図のスケールで見てみるとこんな感じ。

3Dで人口分布をみると、人口がどのように集中しているかは都市によってさまざまであることがわかります。例えばアメリカのサンフランシスコ、ロサンゼルス、サンディエゴには、「中心」を持った独立した山がきれいに並ぶ印象ですが……

インドネシア・ジャワ島は、ジャカルタやバンドンに人口の集中が見られるものの、島全体に人口が分布しています。

さらに、フランスのパリを見るとこんな感じ。左側の地図は右側の地図を拡大したものになっています。パリは「頂点」がはっきりしており、傾斜が急な山になっています。郊外にも人が住んでいますが、人が住んでいない地域もはっきりしています。

一方、イギリスのロンドンは比較的なだらかな山になっており、パリに比べて四方に人が住んでいます。

シンガポールの場合は山というよりも立ち並ぶ高層ビルのような形状。シンガポールが都市計画の成功例として挙げられる一方で、その近郊にあるクアラルンプールも過去十数年で人口が急速に増加しました。

2001年頃から急成長しだした都市の1つとして数えられるコンゴ民主共和国のキンシャサは、地図が突出。これは交通網が発達しておらず、ヨーロッパの郊外化された都市とは異なり、周辺地域から都心部へのアクセスが難しいためだとみられています。

アンゴラの首都ルアンダは世界一物価が高いといわれる街。ルアンダも中心地とそれ以外の街で人口分布の差がはっきりしています。なお、ルアンダでは2030年までに人口が1210万人に到達するといわれています。

キンシャサやルアンダに比べて、ナイジェリアのラゴスは周辺に都市が広がっています。ラゴスは2100年までに世界最大の都市になると見られています。

インドは国全体が赤く染まっていました。

特にバンガロールには赤色の塊が見えますが、これはバンガロールが「インドのシリコンバレー」と呼ばれ、大学と研究所が集中しているため。ただしバンガロールの急成長は計画されたものではなく、汚染が問題になり、病気も増加し、バンガロールから離れる人も増えているそうです。バンガロールの繁栄は今後続かないという見方もされています。

以下は中国の地図。

珠江デルタでは広州市、深セン、香港の人口が突出していますが、中心地の成長にあわせて周囲の人口増加も伺えます。珠江デルタはイギリスの人口はイギリスに匹敵するほどだとのことです。』

クロアチアの地理

クロアチアの地理
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%82%A2%E3%83%81%E3%82%A2%E3%81%AE%E5%9C%B0%E7%90%86

『クロアチアの地理(クロアチアのちり)では、クロアチアの地理について述べる。

クロアチアの位置は中央と南東ヨーロッパの一部、あるいはバルカン半島の一部、ミッテルオイローパ(英語版)の一部と定義される。クロアチアの面積は56,594km2で、 世界で127番目の大きさである。東ではボスニア・ヘルツェゴビナとセルビアに、西ではスロベニアに、北ではハンガリーに、そして南ではアドリア海にそれぞれ接していて、大部分は、緯度において42°Nから47°Nまで、経度において13°Eから20°Eまでに含まれる。クロアチアの12海里の領海は18,981km2を占め、基線の内側にある内水面積は12,498km2である。

アドリア盆地に沿ったカルパチア盆地とディナル・アルプス山脈がクロアチアの地形の大部分を成していて、クロアチアの53.42%は海抜200m以下の低地で覆われている。低地の大部分は北部地方にあって、特にスラヴォニアに多く、カルパチア盆地の一部をなしている。平地には地塁や地溝が点在していて、鮮新世にパンノニア海の水面に島々として現れていたと考えられる。比較的高い標高での土壌の集積はディナル・アルプス山脈でのリカやゴランスカでみられるが、 高地はクロアチアの全地域である程度みられる。 ディナル・アルプス山脈には、クロアチアの最高峰である1,831mのディナラ山があって、この山のようにクロアチアの全ての1,500mより高いほかの山も含まれている。クロアチアのアドリア海に面する海岸線は1777.3kmと長く、1,246の島々とその他の小島が4,058kmにも及ぶ海岸線を取り巻いていて、これは地中海で最も入り組んだ海岸線である。カルスト地形がクロアチアの半分以上を占めていて、特にディナルアルプス山脈で顕著で、沿岸部や島でも同様である。

クロアチアの領地の62%は黒海起源の河川の流域で占められている。国内を流れる最も大きな川は以下の通り:ドナウ川、サヴァ川、ドラーヴァ川、ムール川、クパ川。遺跡がアドリア海起源の河川の流域にはあるが、最も大きな川はネレトヴァ川である。クロアチアの大部分はちょうどいい暑さと湿度であり、温帯気候としてケッペンの気候区分では分類される。月平均気温は-3°Cから18°Cである。クロアチアには、その気候と地形が織りなすヨーロッパ最大の生物多様性から、いくつかのエコリージョンがある。クロアチアには4つの生物地理学による地域の分類があって、海岸沿いの地中海とそれに接している後背地、リカや ゴランスカにあるアルプス山脈、ドラーヴァ川・ドナウ川にそったパンノニア海、そして、遺跡のある大陸性の地域である。クロアチアには444もの自然保護区があって、 総面積の8.5%を占めている。クロアチアでは37,000種もの生物が発見されているが、まだ見つかっていない種も含めれば、合計で50,000から100,000種に上ると推測されている。

2011年の国勢調査によれば、クロアチアの永住者人口は4.29百万人に達している。 人口密度は1平方キロメートルあたり75.8人で、国全体の平均寿命は75.7歳である。国内に住む人々の多くはクロアチア人(89.6%)で、他の少数派民族にはセルビア人(4.5%)とその他21の民族が(それぞれ1%未満)クロアチア国民として認められている。1992年に国が再建されてから、クロアチアは20もの県に分かれ、首都はザグレブである。県はさらに127もの都市と429の自治体に分かれている。クロアチアの平均都市圏人口率は56%で、今なお都市人口の増加と地方人口の減少は続いている。クロアチアの最大都市であり首都はザグレブであって、都市そのものの中の人口は686,568人で、都市圏人口は978,161人である。スプリトとリエカの人口は100,000人以上で、さらに5つの都市で人口が50,000人を超えている。』

『自然地理

地勢
「Category:クロアチアの地形」も参照

クロアチアの大部分は低地であって、記録上では国の53.42%が海抜200メートル (660 ft)以下である。多くの低地は国の北部地域、特にスラヴォニアに多く、パンノニア海の一部をなしている。海抜200 – 500メートル (660 – 1,640 ft)の場所はクロアチアの25.61%を占め、海抜500 and 1,000メートル (1,600 and 3,300 ft)の場所は17.11%を覆っている。さらに、大陸の3.71%が海抜1,000 – 1,500メートル (3,300 – 4,900 ft)であり、たった、0.15%しか海抜1,500メートル (4,900 ft)以上の場所はない。比較的標高の高い場所が最もよく集まっている場所は、ディナル・アルプス山脈のリカや ゴランスカといった地域で見られるが、そのような場所はクロアチア国内全域で、ある程度は見られる。アドリア盆地に沿ったカルパチア盆地とディナル・アルプス山脈は、クロアチアの主な地形となっている。[17]

(※ 以下、省略。)』

『人文地理学

人口動勢

Map with red spot in upper center reflecting Zagreb’s population density of over 1200 people per square kilometer
2011 Croatian 人口密度 (人/km2)
  <30 30-49 50-69 70-89 90-119 120-200 >1200
詳細は「クロアチアの人口動勢」を参照

クロアチアの人口統計学的特徴は、1850年代以降通常10年おきに実施され、様々な統計担当部局により分析が行われる国勢調査を通じて知ることができる。1990年代からはクロアチア統計局 (Croatian Bureau of Statistics) (英語版) が国勢調査を行っており、直近では2011年4月に実施された。その調査によると人口は429万人に達しており、1平方キロメートル辺りの人口密度は75.8人、出生時の平均余命 (平均寿命) は75.7歳だった。人口は1857年の210万人から着実に増加し(2度の世界大戦を除く) 、1991年にはピークの470万人に達した。1991年以降クロアチアの死亡率は継続して出生率を越えており、人口の自然増加率はマイナスである[36]。クロアチアは人口転換 (社会の近代化に伴い、人口の自然増加の形態が変化すること。) の第4または第5段階にある[37]。年齢構成に関しては15歳から64歳のグループが最も多い。平均年齢は41.4歳で、総人口の男女比は女性1に対して男性0.93である[6][38]。

民族による人口構成はほとんどがクロアチア人によって占められており(89.6%) 、その他クロアチア憲法 (Constitution of Croatia) (英語版) により認められたセルビア人 (4.5%) や21の少数民族 (それぞれ1%未満) がいる[6][39]。クロアチアの人口動勢の歴史には下記の重要な変動が刻まれている。すなわち、クロアチア人のこの地域への到着[40]、クロアチア王国 (Kingdom of Croatia、Croatia in the union with Hungary、1102年-1526年、ハンガリー王国支配下で自治が認められていた。) 以降のハンガリー語、ドイツ語話者の増加[41]、ハプスブルク君主国による併合[42]、オスマン帝国による征服[43][44][45]、ヴェネツィア共和国支配下でのイストリア半島、ダルマチア (クロアチアのアドリア海沿岸一帯の地域で、現在のクロアチア共和国の一部。) におけるイタリア語話者の増加[10]などである。オーストリア=ハンガリー帝国崩壊後、ハンガリー人は減少し[46]、同時にドイツ語話者は第二次世界大戦終盤及び戦後にいなくなり[47]、イタリア人も同じ運命をたどった[48]。19世紀後半と20世紀には大規模な経済移民 (Economic migrant) (英語版) が見られた[49]。1940年代、1950年代のユーゴスラビアの人口動勢は国内での移動と共に都市化の影響を受けた。近年のもっとも大規模な異動はユーゴスラビア紛争の結果として発生した、数十万の移民流入である[50][51]。

クロアチア語が公用語であるが、憲法で認められた少数民族の言語もいくつかの地方自治体で公式に使われている[39][52]。クロアチア語は人口の96%に通用する[53]。2009年の調査では、78%のクロアチア人が少なくとも一つの外国語 (一番多いのは英語) の知識を必要としていることが明らかとなった[54]。クロアチアの最大の宗教はカトリック (86.3%) 、ついでギリシア正教 (4.4%) 、イスラム教 (1.5%) である[55]。クロアチアの識字率は98.1%である[3]。15歳以上で学位を取得した割合は2001年以降急速に増加し、2008年には倍増して16.7%に達した[56][57]。GDPの推定4.5%は教育費に使われている[3]。初等及び中等教育はクロアチア語と憲法で認められた少数民族の言語で受けることができる。クロアチアは2010年から国民皆保険制度を採っており、GDPの6.9%をあてている[58]。2011年の平均月収は5,397クーナ (729ユーロ)[59]。2008年に雇用者数が多かったのは卸売業、小売業、製造業、建設業であった。2011年の失業率は17.4%[60]。2004年、クロアチアの世帯所得の中央値は、EU平均値ながら、EU加盟10ヶ国の購買力平価を超えた[61]。2011年の国勢調査では150万世帯が記録され、そのほとんどが自宅を所有していた[6][38]。 』

『政治的地理
詳細は「クロアチアの地域区分」を参照
Division of Croatia into 3 sections, one coastal, one upper left, and one with the rest
クロアチアの地域統計分類単位 (NUTS):
  クロアチア北西部
  クロアチア中央部及び東部
   (パンノニア)
  アドリア海沿岸部

クロアチアは最初中世に「郡 (county) 」の単位により区分された[62]。 区分方法はオスマン帝国による領土の喪失やその領土の回復、さらにはダルマティア、ドゥブロヴニク、イストリアの政治的状況の変化を反映した。伝統的な「郡」による区分は1920年代に廃止され、セルビア、クロアチア、スロベニア王国 (Kingdom of Serbs, Croats and Slovenes) 次いでユーゴスラビア王国がオーブラスチ (Oblast、スラヴ系諸国に設置されている地方行政区分の呼称の1つ。日本語では「州」と訳されることが多い。)、バナヴィナ (banovina) による区分を導入した[63]。共産党支配によるクロアチアは、第2次世界大戦後ユーゴスラビアの一部として元々あった区分を廃止し、主に農村部において市制を導入して約100の自治体に区分した。「郡 (county) 」は1992年に法制化により再導入され、特に1920年代以前の区分に対応する形で変更された。例えば、1918年、クロアチアの「聖イシュトヴァーンの王冠の地 (Lands of the Crown of Saint Stephen) 」はビェロヴァル、ゴスピチ、オグリン、ポジェガ、ブコバル、ヴァラジュディン、オシエクとザグレブの8つの「郡」に分割され、1992年の法制化では同じ領域が14の「郡」に区分された。メジムリェ郡は1920年のトリアノン条約によって割譲された同名の地域に置かれた[64][65]。(1990年のクロアチア憲法は、特に郡の名前や番号を特定することなく、政府の一部としての郡議会 (Chamber of the Counties) (英語版) あるいは郡そのもののために提供された[66]。しかしながら、郡は実際には1992年まで再設置されず[67]、最初の郡議会議員は1993年に選出された[68]。)

1992年に郡が再設置されて以来、クロアチアは20の郡と首都ザグレブに区分されており、ザグレブは郡及び都市としての権限と法的地位を同時に与えられた。(ザグレブ市とザグレブ郡は管理上1997年に分離された[69][70]。) 郡の境界線は設置以来、歴史的理由あるいは市からの要望等の理由で変更されている。直近の改定は2006年で、127の市と429の自治体に区分されている[71]。

EUの地域統計分類単位 (NUTS) によるクロアチアの区分について、それぞれのレベルで行われている。NUTS1レベル (第一種地域統計分類単位) は国全体を1つの単位とし、NUTS2レベルでは中央部及び東部 (パンノニア) 、北西部、アドリア海沿岸部の3つの地域に区分している。北西部には、ザグレブ、クラピナ=ザゴリエ郡、ヴァラジュディン郡、コプリヴニツァ=クリジェヴツィ郡、メジムリェ郡、ザグレブ郡が含まれており、中央部及び東部 (パンノニア)には、ビェロヴァル=ビロゴラ郡、ヴィロヴィティツァ=ポドラヴィナ郡、ポジェガ=スラヴォニア郡、ブロド=ポサヴィナ郡、オシエク=バラニャ郡、ヴコヴァル=スリイェム郡、カルロヴァツ郡、シサク=モスラヴィナ郡等が含まれる[72]。NUTS3レベルでの分類はそれぞれの郡及びザグレブである。NUTSの付随規格である地方行政単位 (LAU、Local administrative unit) (英語版) には2段階ある。LAU1レベルは郡とザグレブ市に対応していてNUTS3と同様であり、LAU2レベルは市及び自治体に対応している[73]。 』

(※ 一部、省略)

アラブ首長国連邦/UAE(世界史の窓)

アラブ首長国連邦/UAE(世界史の窓)
https://www.y-history.net/appendix/wh1703-032_3.html

『1971年、ペルシア湾南岸の複数の首長国がイギリス保護国から独立し、連邦国家を構成した。アラブの産油国として経済的発展が著しい。

産油国として急速に発展

アラブ首長国連邦

ペルシア湾岸諸国 赤字国名は首長国諸国

 中東のペルシア湾の南岸に面した湾岸諸国のひとつ。英文では United Arab Emirates なので略称がUAE。emirate は emir(首長)の治める国の意味。emir はイスラーム世界のアミールのことで、王族や指揮官を意味する。首長国は王政の一種で、その地位は世襲でありクウェートやカタールなどの中東諸国に見られる。アラブ首長国連邦は首長制国家の連合体である。現在は7首長国の連合国家であるが、大統領はアブダビ、副大統領はドバイの首長が世襲的に任命されている。議会もあるが、議院の半数は各首長が選び、半数について2005年にはじめて国民が直接選挙することとなった。
 首都はアブダビ。石油輸出国として経済発展がめざましく、とくに最大の都市ドバイでは、高層ビルラッシュや、大規模な海上リゾートであるパームアイランドの建設など、世界の耳目を集めている。またアラブ連盟の構成国であり、アラブ石油輸出国機構のメンバーである。

湾岸の歴史

 ペルシア湾南岸に位置するこの地域は、7世紀にはイスラーム帝国の領域に入り、次いでオスマン帝国領となった。15世紀末にポルトガルの勢力が伸びてきて、1508年にはホルムズ島に基地を設けてペルシア湾に進出した。ペルシア湾にはついでオランダ人、さらにイギリスが進出し、ポルトガル勢力は次第に後退した。

イギリスの「インドへの道」 

1622年にイギリスはサファヴィー朝イランのアッバース1世と協力してホルムズ島からポルトガルを追い出してバンダーレ=アッバースに基地を設け、さらに1778年ペルシア湾北岸のブーシェルに拠点を置き、「インドへの道」の確保に努めた。油田が発見される前の湾岸地方は、インドやペルシア向けの帆船貿易に従事するか、真珠取りと沿岸漁業を行う漁村が点在するだけだったが、イギリスはインドを統治するための中継地として重視したのだった。

海賊海岸 

イギリスのインド支配ルートの遮断を狙ったナポレオンがエジプトに進出し、さらにアラビア半島のワッハーブ王国と結んでペルシア湾岸(現在のアラブ首長国連邦)の諸部族にイギリスに対する反乱をけしかけた。

彼らはイギリス東インド会社の船舶を盛んに襲撃し、イギリスは彼らをアラブ海賊として恐れ、ペルシア湾岸は「海賊海岸」と言われるようになった。

19世紀初頭、イギリスは海賊行為をとりしまるという名目で、アラブ諸部族の最有力部族であたカワーシム部族の本拠地ラス・アルハイマを砲撃し破壊した。<酒井啓子『<中東>の考え方』2010 講談社現代新書 p.37 などによる>

休戦海岸 

しかし、ナポレオンが没落し、ワッハーブ王国もエジプトに滅ぼされると、イギリスは湾岸地方の部族間の抗争を利用して、一部の部族長と手を結ぶようになった。

1820年、ペルシア湾南岸の諸部族の首長とイギリスの間で「海賊行為停止に関する休戦条約」を締結した。

この結果、湾岸地方は「海賊海岸」から「休戦海岸」と言われるようになった。

湾岸の首長国も独立前は、イギリスと休戦協定を結ん成立した国という意味で「休戦海岸」と言われた。1892年にはイギリスの保護国である「オマーン休戦土侯国」となった。
首長国連邦の成立  

第二次世界大戦後の1968年、イギリスがスエズ以東からの撤退を表明すると独立の動きが活発となり、1971年にアブダビとドバイを中心とする6首長国が連合して「アラブ首長国連邦」として独立した。<牟田口義郎『石油に浮かぶ国』 1965 中公新書 p.27 などによる>

Episode オイルマネーが生んだ都市

 アラブ首長国連邦の都市ドバイは、オイルマネーによって潤い、高層ビルの乱立する巨大都市に急成長したが、1990年代までは乗り換え便のための国際空港があるだけで、さらにそれ以前は小さな寒村にすぎなかった。

高さ800mを越える世界一高い(2010年現在)「ドバイの塔」など、超高層ビルが立ち並び、世界最大級のショッピングモール、雪など降ることのないアラビア半島でスキーを楽しめる東京ドームの半分の面積をもつ人工スキー場さえある。

 ドバイが急速に経済発展を遂げたのは、2001年の9.11同時多発テロの副産物だった。

この事件とその後のアメリカ政権による「イスラーム世界」への攻撃で、欧米とアラブ・イスラーム諸国の関係は悪化、アラブ諸国のオイルマネーは、欧米からの締め出し、衝突のリスクを避けて、欧米諸国に対する投資を手控え、ドバイにつぎ込んだのだった。

さらに2007~8年の石油価格高騰であふれかえったオイルマネーは、中東の湾岸産油国全体にバブル景気をもたらした。

 しかし、2008年のリーマン=ショックに始まった世界的経済危機はドバイを直撃、翌年には「ドバイ・ショック」が起きた。

ドバイ・ショックとは、不落と思われていたドバイ政府系企業の「ドバイ・ワールド」が2009年11月に590億ドルにも上る債務の返済延期を申し出て、ドバイの信用が一気に低下、世界中で株価が下落した事件である。

ドル、ユーロ安が円高をもたらし、日本経済を直撃した。震源地ドバイにも高級マンションの値段が急落するなど、影響が出た。<酒井啓子『<中東>の考え方』2010 講談社現代新書 p.37>

NewS イスラエルと国交樹立

 2020年8月13日、UAEは、イスラエルとの正式な国交を樹立した。

仲介したのはアメリカのトランプ大統領であり、実際に動いたのは大統領の女婿であるクシュナー氏(大統領顧問)であった。

大統領就任以来、支持基盤であるユダヤ系アメリカ人よりの外交施策を進めてきた流れがあり、11月の大統領選挙に向けての成果として宣伝されている。

イスラエルにとってはアラブ世界ではエジプトとヨルダンに次いで3番目の国交樹立となり、イスラエル包囲網の一端が綻んだことを諫言しているであろうが、UAEにとってはどのようなメリットがあるのだろうか。

産油国としてイスラエルとの経済関係が生まれることは大きいと思われるが、ペルシア湾をめぐってイランと対立していることから、イランに対する牽制になることがねらいなのではないかと観測されている。 → アメリカの外交政策 』

サウジアラビア=アラブ首長国連邦国境

サウジアラビア=アラブ首長国連邦国境
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A6%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%93%E3%82%A2%EF%BC%9D%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%96%E9%A6%96%E9%95%B7%E5%9B%BD%E9%80%A3%E9%82%A6%E5%9B%BD%E5%A2%83

『サウジアラビア=アラブ首長国連邦国境は、サウジアラビアとアラブ首長国連邦(UAE)との国境であり、西のペルシャ湾岸から東のオマーンとの三国国境まで、全長457キロメートルに及ぶ[1]。

1974年8月21日にサウジアラビアのジッダで、サウジアラビア国王ファイサルとUAE大統領シャイフ・ザーイドは、両国間の国境を画定するジッダ条約(英語版)に調印した。これにより、長年続いた境界紛争に終止符が打たれたが、UAE側は、条約調印前の口約束と条約の最終的な文章に違いがあり、紛争は解決していないとしている。UAEによると、交渉団に弁護士や技術者、地理学者がいなかったため、1975年になって初めてこの矛盾に気付いたという。UAEはそれ以来、サウジアラビアとの再交渉を試みている[2]。

1974年の条約の条項は、1995年に国連に申し立てられるまで公表されなかった。UAEはこの条約に批准しなかった[3]。

位置

ジッダ条約に規定される国境は、概ね4本の直線で構成されている。国境は、UAE領のラス・グメイス半島のすぐ西にあるスマイラ湾の海岸、北緯24度14分58秒、東経51度35分26秒の地点(a)から始まる。ここから真南に進み、北緯24度07分24秒、東経51度35分26秒の地点(b)に至る。ここから南東方向に進み、北緯26度56分09秒、東経52度34分52秒の地点(c)に至る。ここから東南東方向に進み、北緯22度37分41秒、東経55度08分14秒の地点(d)に至る。ここから北東方向に進み、北緯22度42分02秒、東経55度12分10秒の地点(e)に至る。地点(e)からは、(f)から(l)までの7つの地点を結んで、オマーンとの三国国境に至る[4]。国境は全て砂漠の中であり、一部塩田を横切る。

歴史

歴史的に、アラビア半島南東部のこの地域には明確な国境線がなかった。19世紀、イギリスは、当時「海賊海岸」と呼ばれていたこの地域の7つの首長国と保護条約を結び、いわゆる休戦オマーン(トルーシャル・オマーン)が誕生した。アラビア半島の内陸部には、ゆるやかに組織化されたアラブ人の集団が存在し、時折首長国を形成していたが、その中でも最も有名なのが、サウード家が統治するナジュド及びハサー首長国だった[5]。イギリスとオスマン帝国は、1913年から14年にかけて、「ブルーライン(英語版)」と「バイオレットライン(英語版)」と呼ばれる線で、アラビア半島の勢力範囲を分割した[6][7]。

第一次世界大戦中、イギリスの支援を受けたアラブ反乱により、中東の大部分からオスマン帝国を追い出すことに成功した。その後、イブン・サウードは王国を大幅に拡大し、1932年にサウジアラビア王国を建国した。イブン・サウードは、イギリスとオスマン帝国が画定した国境線を認めず、アラビア東部の後背地の大部分の領有を主張した(いわゆる「ハムザライン」)。

1935年11月25日、イギリス政府関係者はイブン・サウードと会談し、新王国とイギリスの保護領(休戦オマーン)との間の国境線を確定しようとした[8]。しかし、この会談は失敗に終わり、国境問題は未解決のままとなった[9][10]。

ブライミ紛争

詳細は「ブライミ紛争(英語版)」を参照
1974年以前の国境線が描かれたUAEの地図。この地図ではUAEはカタール(左上)と国境を接している。

1949年、イブン・サウードが支配するサウジアラビアと国営石油会社サウジアラムコは、油田の獲得を目指してアブダビ首長国の西部地区(英語版)に侵攻した。イブン・サウードは、オマーンとの国境に位置するアブダビ東部のアル・アインとブライミの支配にも関心を持っていた。これがブライミ紛争(英語版)のきっかけとなった[11]。1952年8月31日、ラアス・タンヌーラ(英語版)のアミールトルキ・ビン・アブドゥラ・アル・オタイシャンが率いるサウジアラビア人衛兵約80人(うち40人は武装)がアブダビ領を横断し、オアシスにある3つのオマーン人の村のうちの1つであるハマサ(英語版)を占拠し、サウジアラビアの東部州の一部であると主張した[12]。

1954年7月30日、この紛争を国際仲裁裁判に付託することが合意された[13]。一方、サウジアラビアは、裁判の根拠となる各部族からの忠誠心の宣言を得るために、賄賂を使った工作を展開していた。 この工作は、アブダビ首長シャイフ・シャフブート(英語版)の弟で、当時アル・アインのワーリーを務めていたザーイド・ビン=スルターン・アール=ナヒヤーンにまで及んだ。ザイードはサウジアラビアから、この地域から得られる石油収入の50%を、その後、新車と4万ルピーの提供を受けた。3度目の接触では4億ルピーが提示され、最後にサウジアラビアのアブドラ・アル・クレイシから3丁のピストルを贈呈したいとの連絡があった[14]。

1955年、ジュネーブで仲裁手続が開始されたが、イギリス人の仲裁人のリーダー・ブラード(英語版)が、サウジアラビアが裁判に影響を与えようとしていることに異議を唱え、辞任したことで破綻した。2人の判事のうち1人が辞任し[15]、判事はもう1人のベルギー大統領のみとなった[16]。

このような協定違反があったため、イギリス政府は1955年10月25日に停戦協定を一方的に破棄し、サウジアラビアが占拠するオアシスを奪還することを決定した。10月25日、休戦オマーン軍(英語版)は速やかにオアシスを占領し、銃撃されて軽傷を負ったサウジ首長ビン・ナミ以下、サウジ軍15名全員を捕らえた[17]。サウジ軍はRAFヴァレッタでシャールジャに向かい、そこから海路でサウジアラビアに向かった。戦闘の大半はサウジ軍の降伏後に行われ、200人ほどのベドウィン軍が召集兵軍に対し激しい抵抗を見せた[15]。この事件の後、イギリスは1935年の「リヤドライン」を若干修正したものを今後の国境として使用することを一方的に表明した。

アラブ首長国連邦の独立

「アラブ首長国連邦の歴史(英語版)」も参照

1971年にアラブ首長国連邦(UAE)が独立宣言した後、サウジアラビアはアブダビ首長国との領土問題を理由にUAEの国家承認を保留し、アブダビを個別の首長国として扱った。1974年、サウジアラビア国王ファイサルはUAE大統領シェイク・ザーイドから、UAEの国家承認を得るためのサウジアラビアの協力を切実に求められ、国境問題をめぐる交渉の開始を要請された。ファイサル国王は、国家の非承認という戦術をアブダビ首長国に対する切り札として利用し、早期に和解をさせた。ファイサル国王は、父のサウードが国王だった時代から外務大臣としてこの問題に関わり、イギリスの高官がアブダビを代表して出席した会議が何度も失敗するのを目の当たりにしてきた。サウジ軍が敗れて強制的に排除されたブライミ紛争の処理は、同国にとっての大きな屈辱であり、復讐するべきであると感じていた。ファイサル国王は、1972年7月にターイフを訪れたUAE代表団に対し、「サウジアラビアはブライミで屈辱を受けたので、自分たちの権利を取り戻さなければならない」と語り、「父や祖父から受け継いだ財産を放棄することはない」と誓った。シェイク・ザーイドは和解に意欲的だったが、サウジアラビアの要求は、アブダビ首長国の広大な土地(いくつかの油田を含む)の併合を主張するという非現実的なものだった[18][19]。

1974年8月21日、シェイク・ザーイドとファイサル国王の間で、アブダビ首長国とサウジアラビアの間の国境線を画定する合意がなされた。サウジアラビアは直ちにUAEの国家承認を宣言し、大使を派遣し、ドバイの連絡事務所を領事館に昇格させた。これにより、UAEは連合体としての地位を強化し、シェイク・ザーイドはUAE大統領としての地位を固めた[18]。

国境紛争

1974年のジッダ条約の締結前後の、サウジアラビアとUAEの国境の違いを示す地図。赤い部分は、ジッダ条約によりUAE領からサウジアラビア領に変更された。

1976年、カタールとUAEは両国間を結ぶ高速道路の建設に合意したが、ジッダ条約でサウジアラビア領となった場所で建設作業をしていた建設会社はサウジアラビアから妨害を受けた。さらにサウジアラビアは、UAEの国境は1976年にハーリド国王が協定を結んで確定したと主張し、UAE領の島であるラス・グマイスに港を建設するために、サウジアラビア系のアイルランドの企業に調査を依頼した。その後、サウジアラビアは1977年に別の条約でラス・グマイスの東20マイルを獲得することに成功し、シェイク・ザーイドに3450万ドルの小切手を渡した。しかし、この条約は国際的には認められなかった[20]。作家のアンソニー・コーデスマン(英語版)によれば、「サウジアラビア政府はアブダビに、湾岸のさらに20マイル東に国境を移すよう強要した」という[21]。

1974年から1980年までの間、カタールとUAEの間にはサウジアラビアによる検問所はなく、両国の国民は1990年代までサウジアラビア政府の干渉を受けずに自由に行き来していた。1990年6月、サウジアラビアによって両国間の陸路が封鎖され、サウジアラビアはアル・シラを通じてサウジアラビア領とUAEを結ぶ新しい道路を開通させ、アブダビとカタールの国境を結ぶ道路を閉鎖した。UAE軍関係者によると、サウジアラビア政府はサウジの部族に金を払ってKhor Al Udaid付近に移転させ、彼らが昔からそこに住んでいたと主張したほか、入口付近に様々な軍事インフラを建設したという[22]。

2004年、UAEの外務次官はアメリカ大使に対し、UAEが1974年にジッダ条約に署名したのは「不可抗力」によるものだったと述べた。同年、UAEはサウジアラビアとの国境問題を公に提起し、UAE大統領のハリーファ・ビン・ザーイド・アール・ナヒヤーンはサウジアラビアに対し修正を求めた。サウジアラビアは、ジッダ条約は、海上国境の画定について書かれた第5条を除いて、1974年に確定していると回答した。UAE政府は、ジッダ条約の条文変更をサウジアラビアが認めないことに対する不満を表明した。これは、UAEの前大統領であるシェイク・ザーイドが死去した1か月後に発表されたもので、UAEが国境問題の扱いに満足していないことを示すものである。2004年12月にリヤドを訪れたハリーファ大統領がこの問題を提起したが、解決には至らなかった。

2005年には、国境紛争の再燃が懸念された[23][24]。この年、ハリーファ大統領がカタールを訪問した際に、ドーハとアブダビを結ぶ土手道のプロジェクトが発表されたが、サウジアラビアは、両国の海上国境が明確でないにもかかわらず、この道がサウジアラビアの領海を通過していると抗議した[25]。UAEの外務次官は「サウジの海によってカタールと引き離されることは望んでいない」と述べ、アブダビとカタールを結ぶためには土手道の計画が唯一の希望であることを示唆していた。また、2004年にはUAEとカタールが共同で、カタールがUAEとオマーンにガスを供給するドルフィン・ガス・プロジェクト(英語版)の協定を結んだ。2006年7月、サウジアラビア政府は、このプロジェクトによるパイプラインがサウジアラビアの主張する領海を通過すると主張して抗議した[25]。UAEは2006年にこの紛争を公に再開し、失われた領土があると主張した[26]。
ジッダ条約
詳細は「ジッダ条約(英語版)」を参照

ジッダ条約では、サウジアラビアに対し、カタールの東側にペルシャ湾への出口となるホール・アル・ウダイド(英語版)から東25キロメートルの回廊地帯を認めた[27]。その見返りとして、UAEはアル・アインを含むアル・ブライミー(英語版)地域の6つの村とアル・ザフラ砂漠の大部分を保持することになった[24]。アル・アイン/アル・ブライミーのオアシス地域は9つのオアシスからなるが、その内アル・アイン、アル・ジャヘリ、アル・カタラー、アル・ムワイジ、アル・ヒル、アル・マスディ、アル・ムタレドの7つは現在アブダビの支配下にあり、残りの3つ、ハマサ、サアラ、ブライミは現在オマーンに属している[28]。第3条では、「シェイバー(英語版)・ザララ地区の全ての炭化水素はサウジアラビア王国に帰属するものとみなす」とし、サウジアラビアが同地区全体を探査・開発することを定めていた。第4条では、サウジアラビアとUAEが「それぞれ、相手国の領土内に主に存在する炭化水素田が及ぶ領土の一部で、炭化水素の開発に従事せず、許可しないことを約束する」と規定した[29]。
論点となった条文

1992年、UAEはジッダ条約の条文、特にアブダビ領内にあるザララの20%の土地についての再交渉を希望した。サウジアラビアは1995年に初めて条約の内容を公開し、条約の第3条によりシェイバ油田はサウジアラビアに帰属し、共同開発は行わないと規定されていることを明らかにした[30]。1999年3月に行われたシェイバー油田の落成式には、湾岸協力会議(GCC)各国の石油大臣が参加する中でUAEの石油大臣が出席しなかったが、これはUAEがジッダ条約の条文に長年不満を持っていることを示すためだった[31]。サウジアラビア関係者によると、UAEのザイード大統領の長男のムハンマド・ビン・ザーイド・アール・ナヒヤーンは、2011年3月と4月にサウジアラビアを訪問し、アブダビ領内にあるザララ油田の20%の土地についての和解の希望の意思を伝えた[30]。2011年8月15日、とあるUAE外交官が、UAEはジッダ条約の変更を希望し、主に第3条を変更して、ザララ/シェイバー油田で石油の共有を可能にすることを望んでいると述べたと報じられた。ザーイド大統領は1974年8月、UAEとサウジアラビアが石油を共有することで合意していると信じていたが、条約の条項にはこのことが含まれていなかった[32]。

UAEはまた、「両当事者は、サウジアラビア王国の領土とアラブ首長国連邦の領土との間の海上の国境を可能な限り早く画定する」とした条約の第5条に対しても主張した。UAEによれば、この条項は、1969年のアブダビとカタールの領土協定や、2004年のUAE-カタールのドルフィン・パイプライン協定と矛盾する部分があるため、解決できないという[32]。
UAEは最後に、国際企業が現在の両国の境界を反映した公式地図を作成することを定めた条約の第6条に真っ向から反対した。UAEは、ジッダ条約に準拠していない古い地図を使い続け、2009年までホール・アル・ウダイドとザララ油田の位置をUAE領としていた[32]。2009年8月には、UAE国民がサウジアラビアに入国しようとしたとき、保持していた身分証明書に描かれた地図が旧版のものであることから、国境で追い帰されるという問題が発生した[33]。

ワシントン近東政策研究所(英語版)は、1974年のジッダ条約は、国際法上の有効性に疑問があるとしている。この条約は、それを有効にするための重要なステップである、UAEの連邦国民評議会(立法府)による公表や批准がなされていないためである。また、この条約によりUAEとの国境がなくなることになるカタールは、交渉に参加していない[26]。
関連項目

サウジアラビアとアラブ首長国連邦の関係(英語版)』

イランを怒らせた習近平の発言

イランを怒らせた習近平の発言:イスラムと衝突する中国共産党政権
https://agora-web.jp/archives/221213233634.html

『一人のイスラム教スンニ派の信者が「ユダヤ教徒やキリスト信者とは何とかやっていけるが、絶対一緒にやりたくない相手はシーア派信者だ」と語ったことがある。イスラム教はスンニ派とシーア派に分かれ、前者は多数派だ。具体的には、アラブの盟主サウジアラビアはスンニ派に属し、その中でも戒律が厳しいワッハーブ派だ。少数派の代表はイランだ。

習近平国家主席の発言に怒りを吐露するイランのアミラブドラヒアン外相(2022年12月12日、IRNA通信から)

中国の習近平主席は9日、サウジの首都リヤドで開催された第1回中国・アラブ諸国首脳会談と第1回湾岸協力会議(GCC)首脳会談に出席した。同首脳会談後、公表されたコミュニケによると、アラブ諸国と中国双方は戦略的パートナーの関係を強化することで一致したという。習近平主席は「アラブと中国の新しい歴史が始まった」とその成果を強調した。

その数日後、イランのテヘランから中国に警告ともいえるニュースが流れてきた。イランのホセイン・アミラブドラヒアン外相は12日、中国政府に対し、イラン・イスラム共和国の領土保全を尊重するよう求めるツイッターを更新した。同外相は中国語で「アブムーサ島、レッサートゥンブ島、グレータートゥンブ島の3つの島(Abu Musa, the Lesser Tunb, and the Greater Tunb)はイランの切り離せない部分であり、永遠に祖国に属する」と書いている。

何のことかといえば、習近平国家主席が湾岸協力会議(GCC) 加盟国のアラブ指導者とともに声明を発表し、上記の3島の帰属権問題についてイランとアラブ首長国連邦(UAE)両国が協議するよう促したのだ。その後、イランの外相はIRNA通信を通じて「イランの領土保全を尊重するように」と間接的ながら習近平国家主席に抗議したわけだ。

IRNA通信のイラン外相の発言を読んだとき、先のイスラム教スンニ派信者の話を思い出した。アブラハムから派生したユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3兄弟宗教があるが、イスラム教内のスンニ派とシーア派間の対立はイスラム教とユダヤ教、キリスト教とのそれより根が深いという。

習近平主席はスンニ派の盟主サウジで戦略的には同盟国のイラン(シーア派)にイランが自国の領土を宣言している3島の帰属権について、紛争中のUAEと協議すべきだと受け取られるような発言をしたわけだ。習近平主席は大国意識もあって仲介役を演じたのかもしれないが、イラン側が気分を悪くするどころか、「習近平、何を言うのか」と怒りが沸き上がっても不思議ではない。

例えば、イランが自国領土と宣言しているアブムサ島は、ペルシャ湾東部に浮かぶ島でホルムズ海峡入り口付近にある。UAEも領有権を主張している。島は古代からイランの一部であった。20世紀に入ると、イギリスが支配した後、同国は1968年、島の統治権を放棄。その後、イランが同島を再併合したが、UAEとの間で島の主権問題でこれまで紛争してきた経緯がある。

国営サウジ通信が公表したコミュニケによると、アラブ諸国は台湾をめぐる中国の「一つの中国」原則、香港の統制政策を支持。同時に、人権問題の政治化を拒否することで合意している。

例えば、中国では新疆ウイグル自治区のウイグル人弾圧問題、サウジでは同国の反体制ジャーナリスト、ジャマル・カショギ氏(59)殺人事件で国際社会から激しく批判されてきた。サウジは中国共産党政権と同様、人権分野では大きな問題を抱えている。同国は欧米メディアで人権弾圧を糾弾されるたびに「内政干渉」と反論してきた。中東の盟主サウジと中国共産党政権は人権問題では共同戦線を敷く余地があるわけだ。

中国の王毅外相は昨年3月24日~30日、6カ国の中東(サウジ、トルコ、イラン、UAE、オマーン、バーレーン)を歴訪し、中国と中東諸国との外交関係強化に動き出してきた。

中国は過去、中東諸国との外交関係で躊躇してきたのは、それなりの理由がある。サウジを含む中東はイスラム教という宗教が大きな影響を持つ地域であり、人権問題で共同戦線が出来ても、遅かれ早かれ宗教問題で中国共産党政権と衝突する可能性があるためだ。

例えば、ウイグル自治区のウイグル人の多くはイスラム教徒(主にスンニ派)だ。そのウイグル人への弾圧を中東諸国はいつまでも黙認できないし、中国共産党政権の宗教政策を批判せざるを得なくなるだろう。ちなみに、トルコは中国から逃げてきたウイグル人を受け入れている。

そして今回、習近平主席はサウジを訪問し、そこでイランに対し、同国の島の領土問題でUAEと協議するように助言した。同主席にはシーア派のイラン側が中国側の提案をどのように受け取るか、といった配慮が欠けていたわけだ。アブラハムの3大宗教が広がる中東地域での中国の外交の前には、常に「宗教」というハードルが控えている。

編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2022年12月13日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。
http://blog.livedoor.jp/wien2006/ 』

アブー・ムーサー島
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E5%B3%B6

『アブー・ムーサー島(アブー・ムーサーとう、ペルシア語: ابوموسی‎、アラビア語: أبو موسى‎)は、ペルシャ湾東部に浮かぶ島。面積12平方キロメートル。ホルムズ海峡入り口付近にある、6個の島からなる諸島の一部。イランのホルモズガーン州に属するが、アラブ首長国連邦も領有権を主張している。

島は古代からイランの一部であったが、20世紀初頭になるとイギリスが支配した。イギリスは、後のアラブ首長国連邦領の島々と一緒にアブー・ムーサー島を統治した。

1960年代後半、イギリスは統治権を現在のアラブ首長国連邦の首長国の一つであるシャールジャに渡した。1968年、イギリスが1971年末までにスエズ以東の支配放棄を宣言すると、アラブ首長国連邦の独立の2日前の1971年11月30日にイラン帝国がアブー・ムーサー島を併合した。同年、シャールジャとイランは、「島の主権はアラブ首長国連邦にあるが、イラン軍の島への駐留を認める」ことに合意した。なお、同じくイラン軍に占領された大・小トンブ島について、ラアス・アル=ハイマはイランとの合意を拒否した[1]。

1980年、アラブ首長国連邦は領有権の主張を国連へ訴えた。1992年、イランは島の支配を強め、アラブ首長国連邦が援助している学校、病院、発電所で働く外国人労働者を追放した。 』

黒海の重要性から見たウクライナ戦争と日本海海戦

北の国から猫と二人で想う事 livedoor版:黒海の重要性から見たウクライナ戦争と日本海海戦
https://nappi11.livedoor.blog/archives/5394530.html

『ロシアとウクライナの戦争は、世界の政治に深く影響している。多くの国々と国境を接する黒海で、非常に重要な権力闘争が起きているのだ。ロシアはこの戦争で、黒海での支配権を失い、最大の敗北を喫しようとしている。しかし、なぜ黒海がそれほど重要なのか?なぜロシアは黒海を支配したいのか。

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この問いに答えるには、ロシアの地図が必要だ。ロシアは1700万km2以上の面積を持つ、世界最大の国である。ロシアの北と東は完全に海に覆われている。しかし、ロシアはこれらの港を海上貿易に利用することができません。なぜなら、ロシアは非常に寒冷な気候で、冬になると海が凍結してしまう部分があるからです。ロシアが港を利用するためには、海へのアクセスが必要なのだ。そのために利用できる海は2つある。ひとつはバルト海、もうひとつは黒海である。

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まず、バルト海について見てみよう。バルト海に面しているのは、このような国々である。
スウェーデン、フィンランド、デンマーク、ドイツ、ポーランド、ロシア、エストニア、ラトビア、リトアニアです。この中でNATOに加盟していない国は3つだけです。ロシア、スウェーデン、フィンランドである。

しかし、スウェーデンとフィンランドはNATO加盟に向けた手続きを開始している。この2カ国は、まもなくNATOに加盟すると見られています。その場合、バルト海はNATOの内海となる。ロシアがこの港を通じて軍事活動を行うことはまずあり得ない。この場合、ロシアが使える海は黒海Black Seaしかない!」と。

しかし、ここでもロシアにとっては不利な状況が待っている。ロシアがウクライナに侵攻した大きな理由のひとつは、黒海での支配力を強化することだった。では、この戦争に黒海がどう関係するのか。この疑問は多くの専門家が見落としているが、実は戦争の大きな理由の一つである。

世界の最北端に位置するロシアは、南とつながるために黒海を利用しなければならない。黒海はロシアの工業都市から非常に近い。また、黒海の後背地はかなり広い。

ロシアの船は、地中海諸国、アフリカ、中東、インドに行くには黒海を利用する必要がある。また、ロシアが協力しているイランやシリアに行くにも、ロシアの船は黒海を通らなければならない。しかし、ロシアは非常に重要な障害に直面している。

FireShot Webpage Screenshot #2390 – ‘Black_Sea_map

それを見るために、黒海の地図を少しさかのぼって見てみよう。黒海から出るには、トルコが支配する海峡を通るしかない。黒海から地中海に出るには、ボスポラス海峡Bosphorus straitを渡り、さらにダーダネルス海峡Dardanelles straitを渡る必要がある。かつて、これらの海峡はオスマン帝国Ottoman Empireの支配下にあった。ロシアはこの海峡を攻略するために、何度もオスマン帝国に攻め込んだ。

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そして、第一次世界大戦では、ついにダーダネルス海峡Dardanelles straitで大きな戦いが繰り広げられた。しかし、オスマン帝国軍は歴史的な抵抗を見せ、この戦争(17 February 1915 – 9 January 1916) に勝利することができた。ロシアの計画はまたもや失敗に終わったのである。参照記事

FireShot Webpage Screenshot #2394 – ‘The WORST defeat

これ以前にロシアは1904年~1905年の日露戦争での日本海海戦で日本に敗れている。この時のロシアの第二太平洋船隊2nd Pacific Squadron:バルチック艦隊は、当時ロシア領だったバルト海に面するラトビアLatviaから1904年10月日本海に向かい、出港してから8ヶ月の1905年5月、バルチック艦隊は大韓海峡(※ 日本慣用名:対馬海峡)に到着した。

しかし、英国の妨害でスエズを通れず、アフリカ南端を経由で地球一周の4分の3である3万500kmをぐるりと回ってきたバルチック艦隊は、体力的にも既に力尽きた状態で黄海で第一太平洋船FireShot Webpage Screenshot #2395 – ‘The WORST隊と合流した。当時、当時世界屈指の戦力を誇ったロシア帝国海軍バルチック艦隊を迎え撃ったのが旗艦戦艦「三笠」で連合艦隊の指揮を執った東郷平八郎で、艦隊に対し、「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」とZ旗を掲げて全軍の士気を鼓舞し勝利した。この海戦でのロシアの人的損失は、209 人の士官を含む 5,045 人の兵員に達した。ルーズベルトが米国大統領に就任すると、米国は日露間の仲裁に入った。そして、1ヶ月の時間を要して、1905年9月5日ポーツマス条約が締結され、これにより当時無力だった朝鮮半島は日本の保護、指導圏に入り、日本は領土として南樺太も得た。当時は帝国主義全盛だった。 参照記事

Bosporus現在ロシアはこの海峡の利用をめぐって、トルコと常に対立している。NATOの一員であるトルコは、ロシアの侵略的な政策を阻止するために多大な努力を払っている。この点で、ロシアは非常に深刻な危機に直面している。ロシアの軍艦は、何ヶ月も前からこの海峡を通って黒海に到達しようとし、トルコ政府に対し、艦船の通航を許可するよう大きな圧力をかけた。しかし、トルコ外務省は、これらの船の通航は決して許可されないと述べた。記事と映像  参考:US thanks Turkey for shutting down Black Sea straits for warships、、、、

この記事では指摘していないが、黒海の重要性は独立国家ウクライナにとっても同じで、また、世界の穀物倉庫と呼ばれるウクライナは、EU,中近東、アフリカにとっても食料資源の観点から非常に重要である。

露産天然ガスに注目されがちだが、見方によってはそれ以上に重要な視点であり、ロシアがウクライナの輸出用穀物を略奪し、輸出を妨害した事実からみても単なる地域紛争では無い事は明らかで、大国主義プーチンロシアの一方的軍事侵略が非難される根拠であり、世界にとっても危険な行為なのだ。日本のTVは軍事評論家ばかり担ぎ出すが、国際経済の視点も重視すべきで、首相の談話にも常に織り込むべきだろう。』

カナダの地理と歴史

 ※ カナダの地形図…。

 ※ 全体的に「標高が高い」…。

 ※ カナディアンロッキーの東側、国土の中央部分も「標高200~500メートル」の高地地帯だ…。おそらくこれが、「カナダ楯状地」と呼ばれるものだろう…。

 ※ 農耕どころか、牧畜にも適さないようだ…。

 ※ カナダの気候区分…。ほぼ、「冷帯」だな…。

 ※ カナダの都市の所在マップ…。

カナダの歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%83%80%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

『カナダの歴史(カナダのれきし、英語: History of Canada, フランス語: Histoire du Canada)は、北アメリカ大陸に位置するカナダの歴史について記述したものである。

カナダの起源は17世紀初めにフランス人がセントローレンス川流域に入植したのが始まりである。1763年にイギリス領となり、フランス系住民と先住民がイギリス帝国の支配に組み込まれた。1867年に英連邦制内の自治領となり、1931年に事実上独立国家となった。 』

『前史

カナダの先住民は4万年前の氷期にシベリアからベーリング海峡がまだ陸続きだった頃新大陸に渡ってきたインディアン(モンゴロイド)である。インディアンの時代はカナダ史上、「ファースト・ネイションズ」(First Nations)と呼ばれる。西暦1000年頃には北欧のヴァイキングがアイスランドからニューファンドランド島に到達し、さらに南下したが、ヴァイキングの居住地は永続しなかった。

西欧史上、最初にカナダを「発見」したのはイギリスのヘンリー7世が派遣したイタリア人探検家ジョン・カボットとセントローレンス川を探検したフランス人ジャック・カルティエである(1497年)。当時、大西洋を西北に向かえばアジアに到達する通路があると信じられており、カボットはこの西北航路発見のためニューファンドランド島に到達し、この付近の海域が豊かな漁場であることを知った。この知らせを聞いて、フランスやポルトガルの漁師が大西洋を横断してニューファンドランド沖で漁をするようになったが、イギリスは新世界領有にまだ食指を動かさなかった。
ヌーベルフランス
「フランスによるアメリカ大陸の植民地化」も参照

1526年以降、フランソワ1世が探検家カルティエをしばしばカナダに派遣し、セントローレンス川流域を探検させた。16世紀半ば、この地はフランス領となった。1608年フランスの探検家サミュエル・ド・シャンプランがセントローレンス川中流域に永続的なケベック植民地(現在のケベック・シティ)を創設した。フランスの植民目的はインディアンとの毛皮交易の拠点を作ることで、ルイ13世の宰相リシュリュー枢機卿は1627年、ヌーベルフランス会社を設立し、植民地経営を会社に委ね、同時にカトリック教徒以外の者が植民地に入植することを禁止した。

1642年にはモントリオールにも植民拠点が創設されたが、植民地経営はなかなか発展せず、ルイ14世のもとで植民地再編の任に就いたジャン=バティスト・コルベールはヌーベルフランス会社を廃止して、植民地を王領とした。同年、ケベック・シティ初の市長が選出されている。1672年にはルイ・ド・フロントナク伯爵が知事として赴任し、長年フランスと対立していたイロコイ族と和約した。1674年ラバル司教がケベック植民地に赴任し、聖職者養成のためにケベック・セミナリーを創設した。このセミナリーは北米最古の大学ラヴァル大学に発展する。

1682年ド・ラ・サールがミシシッピ川流域をフランス領と宣言し、1712年、ヌーベルフランスはメキシコ湾にいたるルイジアナ植民地にまで拡大した。しかし、この頃から世界各地で英仏の対立が激化し、英国のアメリカ植民地との間に一連の北米植民地戦争が開始される。この一連の抗争の最後となる七年戦争が勃発するとニューイングランドの英軍はケベックを襲撃し、1759年英仏両軍はアブラハム平原で激突したが、仏軍の大敗に終わり、ケベックは英軍の占領下に置かれた。1763年のパリ条約でフランスはカナダの植民地を放棄し、ケベックは正式に英領となった。これ以後、イギリスはカナダ植民地と称するようになる(ただし、カナダの名称は仏領時代から存在した)

英領カナダ

新たに英国の支配下に入ったフランス系住民は約65,000人に達し、すべてカトリックであった。新教国・英国はこれら新住民をイングランド国教会(アングリカン)に改宗させることもできたが、英国議会はより穏健な政策を取り、1774年ケベック法を制定して、フランス民法典とカトリック教会の存続を容認した。これは今日までケベックにフランス色が残る決定的な役割を果たす。

翌年アメリカ独立戦争が勃発し、アメリカ大陸議会がカナダ住民に革命への参加を呼びかけてきたが、フランス系住民は応じなかった(本国フランスはアメリカ革命軍を支援していたにもかかわらずである)。この年、モンゴメリー将軍率いるアメリカ革命軍はモントリオールを占領し、ケベック市に迫ったが撃退された。

1783年戦争が終結し、アメリカ合衆国が成立すると、アメリカのロイヤリスト(王党派)は国内に残ることを嫌い、ノバスコシアやケベック東部に大挙して移住してきた。ノバスコシアに移住したアメリカ人は35,000人と見られ、新たにニューブラウンズウィック植民地が設置された。またオンタリオ湖西方のセントローレンス川上流部に移住した者は約5,000人で、カナダの人口が増えたため、英国議会はアッパー・カナダ(上カナダ・現在のオンタリオ州)とロウアー・カナダ(下カナダ・現在のケベック州)に分離する措置を取った。

1793年にはアレグサンダー・マッケンジーがロッキー山脈を越えてフレーザー川流域に達する大陸横断に成功し、英領カナダの領域は西方にも拡大していった。1812年の米英戦争が勃発するとカナダは再び米国軍の占領の脅威を受けたが、上カナダにおける米軍の侵攻は撃退された。

1837年に責任政府の樹立を求める暴動(いわゆるカナダ反乱)が発生した。その鎮定後に、時のカナダ総督たる初代ダラム伯爵ジョン・ラムトンの名で、ダラム報告書がまとめられた。[1]同報告書は責任政府樹立の必要性、同政府は総督ではなく植民地議会に対して責任を負う点、隣国同様の連邦制導入が示唆された。[1]その結果、1840年には合同法が制定されて分離していた上・下カナダが中央政府の管理下に置かれ、これ以後はカナダ・ウエストとカナダ・イーストと呼ばれるようになった。

自治領カナダ
Canada provinces evolution.gif

南北戦争後のアメリカが産業革命によって急速に発展を始めると、再びアメリカによるカナダ併合の危機が高まったため、英国議会はカナダを統一するため、1867年英領北アメリカ法を制定し、両カナダやノバスコシア、ニューブラウンズウィックなどを併せた自治領カナダ政府を成立させた。この立法によってカナダは英連邦の下で自治権を有する連邦となり、オタワに連邦首都が置かれた。ただ外交権はまだ付与されなかった。

ジョン・A・マクドナルドが初代連邦首相に就任し、通算19年間在任した。この時代のカナダは新興の意気に燃える発展期であった。1871年にはブリティッシュ・コロンビアも自治領政府に参加し、1885年カナダ太平洋鉄道が完成、大西洋岸と太平洋岸が結ばれた(それまでは米国の大陸横断鉄道を利用するか、海運に頼るしかなかった)。1905年までには西部地域の発展により、ノースウェスト準州からマニトバ州とサスカチュワン州が成立した。

この時期のカナダを代表する職業のひとつに傭兵がある。1853年からのクリミア戦争で活躍した将兵の多くはカナダの出身者であり、またイタリア統一戦争ではバチカンを防衛してサルディニア軍と戦ったのもカナダの義勇兵であり、南北戦争に参加した者も少なくはなく、メキシコ内乱では反乱軍と皇帝軍の両陣営にカナダからの傭兵がいたとさえいわれている。そして、第一次世界大戦が勃発すると、カナダは英連邦の一員として参戦し、6万人のカナダ軍兵士が戦死している。戦後、カナダは1919年のパリ講和会議にも代表を送り、国際連盟にも参加した。これらの実績のうえに、1926年イギリスはカナダに外交権を付与し、英国議会は1931年、英連邦諸国は英国と対等であり、共通の国家元首(英国君主)に対する忠誠心で結びついているだけであると決議した。このウェストミンスター憲章によってカナダは実質的には独立を達成したとされる。

独立国家カナダ

アメリカ合衆国における株価大暴落に端を発する世界恐慌は、カナダにも様々な影響を与えた。当時政権の座にあった自由党は、伝統的な自由放任主義を奉じた。1930年、これに対して積極的な雇用創出を掲げる保守党が政権を獲得し、リチャード・ベネット政権が成立していた。ベネット政権は、合衆国がスムート・ホーリー法を定めて高関税政策をとったのに対抗して、「イギリス帝国」内における経済的連携の強化を図った。こうして、イギリスや諸自治領を招き、いわゆるオタワ会議(帝国経済会議)が開催された。この会議を通じて帝国内での自由貿易圏を形成しようとしたが、当時のイギリスは域外経済との取引拡大も期待していたため、この試みは実を結ばなかった。1935年より、ベネット政権は合衆国にならったカナダ版「ニューディール」を行おうとした。しかし、既に同政権が国民の信頼を失っていたこと、この試みが州権主義の侵害として反発を招いたこと、自由党のマッケンジー・キングへの期待が高まっていたことなどがあり、同年の選挙で保守党が大敗して「ニューディール」は挫折に終わった。

第二次世界大戦では、カナダは英連邦の一員として直ちに参戦し、英国に3個師団を派遣してブリテン島防衛の任務に就かせると共に、カナダ国内に英連邦空軍訓練計画を設立して約12万人の空軍要員を訓練した。1941年には香港防衛のためにカナダ軍3個大隊が派遣されたが、太平洋戦争勃発により日本軍の捕虜となっている。ヨーロッパ戦線ではカナダ軍は1944年のノルマンディー上陸作戦に参加し、その後の作戦でも大きな犠牲を払った。
戦後のカナダは国際連合とNATOに当初から加盟し、朝鮮戦争には2万7000の兵力を派遣した。1952年にはカナダ生まれの総督が初めて任命され、1964年には赤白のカエデの葉の国旗を制定、1965年2月15日に初めて掲揚された。

1965年のモントリオール万博の頃からケベック民族主義の傾向が顕著になり、1969年には英仏両語がカナダの対等な公用語として定められた。1970年にはケベック分離主義者のテロ活動が活発になり、ケベック州労働長官ピエール・ラポルトの誘拐殺害事件が起こった(オクトーバー・クライシス)。ケベック分離主義政党は1976年のケベック州議会選挙に勝利し、1977年にはフランス語をケベック州唯一の公用語と定めて英語の使用を制限した。ケベック分離問題については1980年と1992年に住民投票が行われ、いずれも否決されている。

1982年に英国のカナダ法の改正と、それに続くカナダ憲法の成立により、カナダは真の独立国家としての地位を確立した。

カナダの先住民族であるインディアンやイヌイットの権利も問題となり、カナダ政府は1999年にかれらの自治権を承認した。また1997年の香港返還に前後してバンクーバー周辺では広東語系中国人移民が激増し、1999年には香港からの移民のエイドリアン・クラークソンがカナダ史上初のアジア系総督に就任し、さらにハイチからの移民のミカエル・ジャンが2005年にカナダ史上初のアフリカ系総督に就任した。

2022年、新型コロナウイルスワクチンの接種義務化に抗議するトラック運転手らのデモを取り締まるため、緊急事態法を発動したと発表した、緊急事態法の発動は1988年の制定以来初めて[2]。

脚注
[脚注の使い方]

^ a b ニーアル・ファーガソン (2018年6月10日). 大英帝国の歴史(上),p=194. 中央公論新社
^ “カナダ首相、緊急事態法を初めて発動 コロナ規制への抗議デモ対処で”. (2022年2月15日) 2022年2月27日閲覧。』