※ 久々で見たな…。
※ うろ覚えだったが、調べてみると、だいぶ記憶と違っていた…。
※ 「すべては、忘却の彼方(かなた)へ。」だ…。
※ 人生、そんなモンだ…。
『Microsoft Windows 3.x(マイクロソフト ウィンドウズ 3.x)は、MS-DOSを拡張する16ビットオペレーティング環境(Operating Environment:)[注 1]。主なバージョンとして1990年に発売された「Windows 3.0」と、1991年に発売された改良版「Windows 3.1」がある。
その他、マルチメディアに対応した「Windows 3.0 with Multimedia Extensions (Windows MME)」を一部機種で展開するなど、幾度かのマイナーバージョンアップが行われている。英語版ではネットワークをサポートする「Windows for Workgroup(Windows3.1ベース)」も発売されている。また追加モジュールとして32ビットアプリケーションを動作させるための「Win32s」、画像表示を高速化するための「WinG」、AVI形式の動画を再生するための「Video for Windows」、LANに接続するための「LAN Manager」、インターネットやメールをするための「Internet Explorer(16ビット版)」がある。
MS-DOS環境から起動させるため、事前にMS-DOSシステムをコンピュータ上で動作させておく必要がある。しかし、Windows 3.1以前はMS-DOSの拡張製品としてそれぞれが別々に販売されたため、MS-DOSは別途購入する必要がある。 』
『機能
Windows 2.x (Windows 2.11, Windows/386 2.11) の後継となるWindows 3.0は、ユーザーインターフェイスの大幅な改良とIntel 80286や80386プロセッサのメモリ管理機能を有効活用する技術的な改善が行われた。
グラフィカルユーザインタフェース (GUI) 機能を持ち複数のタスクを同時実行できるマルチタスクが可能なことが利点であった。
しかし、1つのWindowsプログラムがCPUを占有してしまいほかのプログラムが止まってしまうこともあった(ノンプリエンプティブ)[6]。
Windows/386ではMS-DOS用のテキストモードプログラムは全画面を占有し、ショートカットキーで画面を切り替える仕様となっていたが、Windows 3.0ではウィンドウ内で動作させることができ、旧来のプログラムも擬似マルチタスクとして利用できるようになった[7]。
しかし、家庭向け市場では多くのゲームやエンターテイメントソフトがMS-DOSへの直接アクセスを必要としていたため、あまり恩恵を受けられなかった[8]。
Windows 2.xはメニューやウィンドウ枠での非常に限られた色しか使うことができなかったが、Windows 3.xのアイコンやグラフィックはEGAやVGAモードで16色を完全にサポート。256色VGAモードやMCGAモードが初めてサポートされた。
また、ディスプレイ出力に使用するカラーパレットはディスプレイドライバが管理し、アプリケーション毎には論理的なカラーパレットが用意されたことで、アプリケーション側はカラーパレットの状態や制限を気にする必要がなくなった[9]。
MS-DOSウィンドウ(ファイルマネージャ・プログラムランチャー機能)は、アイコンベースの「プログラムマネージャ」と一覧ベースの「ファイルマネージャ」に置き換えられた。前バージョンではアプレットとなっていた「コントロールパネル」はAppleのClassic Mac OSと類似のものに作り替えられた[10]。
いくつか簡単なアプリケーションも同梱された。テキストエディタのメモ帳、文書作成ソフトのライト(後のワードパッド)、一連のキー操作やマウス操作をマクロとして記録して後で実行できる「レコーダー」、ペイント、電卓など。ゲームはWindows 3.0ではリバーシに加えてソリティアが搭載された[10][注 2]、Windows 3.1ではソリティア・マインスイーパが付属[注 3]。
Windows 3.0に搭載されたプロテクトモードやエンハンスドモードはDOSアプリケーションで行われていた方法より簡単に、より多くのメモリをWindowsアプリケーションで使えるようになった。
Windows 3.0ではリアルモード(8086相当CPUの機能を利用)、スタンダードモード(80286相当CPUの機能を利用)、386エンハンスドモード(i386相当CPUの機能を利用)があり[11]、通常は自動で適切なモードを選択するが、/r(リアルモード)、/s(「スタンダード」286プロテクトモード)、/3(386エンハンスドプロテクトモード)といったスイッチを使って特定のモードで起動することもできた[12]。
386エンハンスドモードではやや動作が重くなり、実用的には486以上のマシンパワーを必要とした[13]。 』
『プロテクトモードの恩恵
WindowsはWindows 3.0のスタンダードモードおよびエンハンスドモードからプロテクトモードが本格的にサポートされた。
厳密には、WindowsはWindows/386からプロテクトモードを利用しているが、このバージョンでは内部的に80386で導入された機能をプロテクトモードで使用し、アプリケーションには仮想86モードを提供するというものであり、EMS対応MS-DOSアプリケーションと同様に実行プログラムを数百KBという限られたスペースに収まるよう作る必要があった[7]。
またEMSはバンク切り替えがあるため、その切り替え作業にかかる時間だけ低速になる。
特に大規模なアプリケーションはほぼ常時バンク切り替えを繰り返すために低速だった[7]。
これがWindows 3.xのスタンダードモードとエンハンスドモードは、Windowsの大半のモジュールがプロテクトモードで動作する16ビットのコードで構成され、アプリケーション(WIN16アプリケーション)もプロテクトモードで動作する16ビットのコードで構成されるように変更された。
さらにエンハンスドモードでは、80386で導入されたメモリ管理機能をプロテクトモードで動作するシステムのコードに実装し、IA-32のページングを利用した仮想記憶もサポートし、実メモリ以上のメモリをアプリケーションが確保できるようになった。
また Windows 用のデバイスドライバとして、80386で導入された機能をプロテクトモードで活用した VxD デバイスドライバもサポートされた。
従来のWindowsは常にメモリが不足気味だったが、3.0からのプロテクトモードをサポートした結果、Windows自身とそのアプリケーションは、(コンベンショナルメモリ)+(EMS)よりも高速で大量のメモリを使用可能なプロテクトメモリを利用可能になった[14]。
そのため、MS-DOSではメモリ不足から実現不可能だった大型アプリケーションも、Windows用に開発されるようになった。 』
『ユーザーインターフェイス
GUIはマイクロソフトがIBMと共同開発していたOS/2 1.2のプレゼンテーション・マネージャと類似の外観をしている。
ウィンドウのメニューバーとパネル本体という構成やダイアログボックスなど、IBMが提唱したSystems Application ArchitectureのCommon User Access (CUA) におおむね準拠している。
しかし、シフトキーとマウスを組み合わせた操作はCUAでの規定に反しており完全準拠ではない[15]。このデザインはアップルより同社が開発したClassic Mac OSのルック・アンド・フィールを盗用したとしてWindows 2.xとともに著作権侵害が指摘されたが、裁判ではアップルの訴えは退けられ、後に両者は和解した(詳細はWindows 2.0#アップルとの法的抗争を参照)。
ウィンドウ
一番右上(タイトルバーの右端)のボタン[▲]は最大化(全画面表示)のボタンで、既に最大化している場合はウィンドウ表示に戻すボタン(上下に▲と▼が並んだ[◆]状のボタン)が表示される。その隣のボタン[▼]は最小化(タスクアイコン化)のボタンである。Windows 95以降でのウインドウを閉じる[×]に相当するボタンは存在しない。
終了はタイトルバー左上の[-]ボタン(コントロールメニューボックス)やメニューバーからのプルダウンメニューから行えるが、左上の[-]そのものをダブルクリックすることでも終了する[16]。MS-DOSボックスの場合はメニューバーやタイトルバーから終了させることはできず、コマンドプロンプトでEXITと入力する必要がある[注 4][17]。また、エンハンストモードであればControl-Alt-Deleteでアクティブなウィンドウの強制終了が行える。
ポインティング 当時はまだマウスは推奨であって必須ではなかった[18]。セットアップ時にマウス無し(使用しない)を選択することもでき、Windowsの主要システム自体はキーボードだけでも操作できるようになっていた[注 5]。ただし実際にはGUIである以上はマウス前提で作られたアプリケーションが少なくなく、Windows 95以降はマウスが必須になっている。 なお右クリックによる操作はアプリケーション側で対応している場合にのみ有効であり、Windowsを操作する上では特別な意味合いを持っていなかった[6]。Windows標準付属のアプリケーションとしてはペイントブラシやマインスイーパが右クリックを活用できる[注 2]。
シェル
Windows 3.xで標準のシェルは後述のプログラムマネージャというメニューソフトに相当する機能を持つプログラムランチャーだった。また、設定を変更することにより、ファイルマネージャやそれ以外(コマンドプロンプトやNorton Desktopなどのサードパーティー製シェルソフトなど)の特定のアプリケーションをシェルに指定することも可能である。
なお、プログラムマネージャ・ファイルマネージャともに、親画面の中で子画面を複数開くことができた (MDI)。
プログラムマネージャ
プログラムの起動は原則としてプログラムマネージャから行う。プログラムマネージャはプログラムを表す「アイコン」およびアイコンを分類する「グループ」を画面に表示するためのプログラムであり、アイコンをダブルクリックすることでプログラムを起動することができた。ただし、プログラムマネージャ上のアイコン(およびグループ)とディスク上のファイル(およびディレクトリ)との間には対応関係が無く、後のエクスプローラーのようにファイルを操作する機能は統合されていない[6]。
ファイルマネージャ ファイル操作は、Windows 2.x以前のシェルだった「MS-DOSウィンドウ」に似たファイルマネージャというプログラムで行う。
ファイルのダブルクリックでプログラムを直接実行することもでき、拡張子によるアプリケーションの関連付けもファイルマネージャ上で行うことができる。
Windows 2.xでMS-DOSアプリケーションを実行するにはPIFファイル(情報ファイル)にあらかじめ実行環境を設定する必要があったが、Windows 3.0ではPIFファイルがなくても標準設定で実行するようになった[19]。
MS-DOSウィンドウはファイル名が羅列されるだけであったが、ファイルマネージャでは画面左に現在開いているディレクトリの位置を示すディレクトリツリーが表示され、画面右には項目名とその種類を示す小さなアイコンが一覧表示されるようになった[9]。
プログラムマネージャやデスクトップのタスク(後述)と違って「大きなアイコン」を表示する機能は無い。また、ファイルの種類毎にアイコンが用意されたWindows 95以降と異なり[20]、ファイルマネージャでは自身の持つ数種類のアイコンしか表示できなかった。 ファイルマネージャには2000年以上の年表示が文字化けするという不具合があったが、後に2000年問題対応版がマイクロソフトから配布された[21]。
デスクトップ
デスクトップ[注 6]の領域には実行中のプログラムを最小化したときのアイコンが表示される[16]。Windows 95以降でのタスクバーに相当する場所であった。
Windows 2.xからの変更点として、画像や模様を背景として飾ることができるようになった。デスクトップをダブルクリックするとタスクマネージャに似た画面を呼び出すことができた。』
『マルチメディア(※ 省略)』
『ネットワーク / インターネット
Windows 3.0、3.1では、標準でネットワーク (LAN) 機能自体が搭載されておらず、LAN Manager ClientなどDOSベースのネットワーク機能に頼っていた。
LAN Manager ClientはWindows NT ServerのCD-ROMなどに収録され、TCP/IPやNetBEUI、NetWare互換プロトコルなどのプロトコルが使えた。
また、Windows for Workgroups (WfW) 3.1はWindows 3.1にWindowsベースでのネットワーク機能を付加するアドオンとして発表、販売された。ただし、この段階ではネットワークプロトコルとしてNetBEUIかNetWare互換プロトコルしか選択できなかった。
その後、WfW 3.11が完全なWindows製品として発売され、このWfW3.11向けにTCP/IPプロトコル用ドライバも提供された[30]。
WfWの日本語版は発売されなかったため、日本のユーザーが手軽にネットワークを組むにはWindows 3.1との互換性に乏しく高性能パソコンを要求するWindows NTを購入するか、Windows 95の登場を待つしかなかった[31]。
日本では1994年時点で個人ユーザーにインターネット接続サービスを提供するISPがIIJと富士通(InfoWeb、1999年にニフティへ統合)の2社しか存在せず、まだ黎明期にあった。
1995年に入るとISPは10社以上になり、インターネットを取り扱った参考書も急増した。
しかしWindows 3.1標準ではネットワーク機能は搭載されていないため、市販のInternet CHAMELEON(ネットマネージジャパン、19800円)といったダイヤルアップ接続ツール(ダイヤラー、メーラー、FTPクライアントなどをまとめたパッケージ)を購入するか、パソコン通信を通じてTrumpet Winsockといったツールを揃えていく必要があった。
ウェブブラウザにはNCSA Mosaicやその後に登場してすぐに標準となったNetscape Navigatorが使われた。[32]
Windows 95と同時発売のMicrosoft Plus!に同梱されたウェブブラウザ「Internet Explorer」は1996年4月にWindows 3.1対応の16ビット版が公開され[33]、これにはメーラーのOutlook Express(16ビット版)やダイヤラーなどが添付されていた。
インターネットの閲覧やメールの送受信はInternet Explorer添付のダイヤラーを使ったダイヤルアップの他、LAN Manager Clientをインストールしてある場合やWfWではLAN経由でも可能である。
ただし、Internet Explorer標準添付のダイヤラーはPC/AT互換機用のため、PC-9800シリーズでダイヤルアップ接続する場合は市販ソフトなどを別途用意する必要があった[34]。 』
※ ということで、Win95以前では、まだMacの方が、ネットやるには一日の長があった…。
※ オレも、この頃は、PowerMac+56Kモデム+Netscape Navigatorでネットに接続していた…。
※ 電話回線使った、従量制の接続環境なんで、やたら「電話代」がかかった記憶がある…。
『設定ファイル
各プログラムの設定は、それぞれのプログラムが持つiniという拡張子が付けられたファイル、もしくはwin.iniやsystem.iniなどのWindowsのシステムファイルで行っていた。
Windowsそのものの設定もwin.iniとsystem.iniで行っていた。
これらはテキストファイルであり、標準で付属するシステムエディタ (sysedit) などのテキストエディタで編集を行うことができた。
また、設定変更ミスや諸々のトラブルからWindowsが起動しなくなっても、MS-DOS環境からテキストエディタを使ってwin.iniやsystem.iniの中身を修正して復旧することができた。
これらの設定内容はマイクロソフトが監修した解説書『Windows 3.1 リソースキット』で公開された[35]。Windows 3.1の登録情報データベース(後のレジストリ)は、ファイルマネージャで開くファイルのフォーマットとアプリケーションとの関連付けやOLE情報に使用されるのみであった[36]。
メモリ容量の最大値
Windows 3.0やWindows 3.1では32ビット386プロテクトモードではなく16ビット286プロテクトモードで動作していたため、標準構成では64KBセグメント・メモリモデルを使用するようになっていた。(※ いわゆる、「MS-DOSにおける”64Kの壁”」)
しかし、32ビットCPUではプログラマーはより大きなメモリポインタにアクセスして、プログラム・セグメントをどんな大きさにも拡張することができた(セグメント・ディスクリプタが24ビットであるため最大サイズは16MBに制限されている)。
当時のWindows APIファンクションは16ビットであったため、それらは32ビットポインタを使用できず、コードに32ビット命令を含んでいてもDOSと同様に64KBセグメントでOS呼び出しを行うプログラムコードの一部を配置する必要があった[37][38]。
このため、理論上は4GBのメモリ空間を使用できる386以上のCPUであっても、Windows 3.0は合計16MBのメモリにしかアクセスできない。
Windows 3.1では16MBの制限はなくなり、理論的には最大4GBのメモリを使用できる(現実的な上限は256MB)[39]。ただし、先述のとおり1つのプログラムが使用できるメモリは最大16MBである。
32ビットへの限定的な対応
Windows NTの登場による32ビットOSへの移行を促す意味もあり、Win32sというドライバ/APIがマイクロソフトから供給された。
これはWindows 3.1の386エンハンスドモード上で動作する32bitプログラムのためのドライバ/APIであり(WinNTのAPIであるWin32のサブセットなのでWin32s[要出典])、これによりアプリケーションをWindows 95やWindows NTと共通の32ビットコードでWindows 3.1に供給することが可能になり[40]、初期の32ビットアプリケーションの開発を多少容易にした。
また、ファイルシステムにおいてはBIOSを介した16ビットディスクアクセスが基本的に用いられていたものの、Windows 3.1の386エンハンスドモードでは常設スワップファイルに対してのみ32ビットでのアクセスが可能となった。
さらに、Windows for Workgroups 3.11では完全な32ビットディスクアクセスが実現され、ディスクアクセスを高速化させることを可能にした[41]。 』
『Windows 3.1へのアップグレード(※ 省略)
Windows 3.1から新しいバージョンへのアップグレード(※ 省略)』
『開発とリリース(※ 省略)』
『反響(※ 一部省略)
売れ行きと評価
Windows 3.0
日本においてWindows 3.0は米国ほど広がりを見せなかった。要因として以下の問題が挙がった。
一太郎などWindows 3.0にネイティブに対応するソフトウェアがまだ十分に出揃っていなかった。[73]
当時の日本ではPC-9800シリーズがパソコン市場の50%以上を占めていた。英語版では複数のDOSアプリケーションをウィンドウで並べ、従来の資産も有効に活用できることをセールスポイントにしていたが、PC-9800シリーズ版では旧バージョンと同様に全画面での排他利用しかできなかった。そのため、販売店側も販促デモの展示にあたってウィンドウ表示を活用することに苦慮した。[73]
Windows上でDOSアプリケーションを使用するにはPIFエディタであらかじめ環境設定を行う必要があったが、MS-DOSのメモリ管理は複雑化しており、初心者には難しい作業であった。多くのソフトウェアメーカーは設定方法を公開したが、ロータスやアスキーなどサポートの都合から設定方法を公開しないメーカーも存在した。[74]
PC-9800シリーズを含め、Windowsを快適に動作させるために必要なハードウェアを揃えるとなると多額な投資が必要になった。[73]
スティーブ・バルマー(当時、マイクロソフト上級副社長)も翌1992年の来日記者会見にて同様の見解を示した。
当社のパソコンOS「ウィンドウズ」が日本市場で米国ほど売れていないのは、日米の市場構造が違うことが原因である。ハードウェアの互換性の問題やハードの価格が高いことなどだ。このほか、漢字変換やOSのハードへの搭載サービスなど様々な問題の解決がウィンドウズ普及の前提となる。
?スティーブ・バルマー。「マイクロソフト副社長、日本出荷は予定通り―ウィンドウズNT、来年中。」『日経産業新聞』1992年10月13日、6面の引用文より。
PC-9800シリーズ版の発売当初は受注に生産が追いつかない状況が続いた。これについて日本電気は、受注が予想を上回っているためメディアやマニュアルの生産が追いついていないことを説明した[75]。これに対してソフトハウスの間では「機種の違いで画面に現れるフォント(書体)が異なったり、印刷が狂うなどの不具合を見つけて出荷を止めているのでは。」という推測が流れた[73]。
日本IBMのDOS/V版はMS-DOSアプリケーションの複数ウィンドウ表示に対応していたが、PC-9800シリーズ対応ソフトが約1万本であったことに比べ、1990年に発売されたばかりのDOS/Vに対応するアプリケーションは約200本と少なく、こちらも旧資産の継承という訴求材料だけでは不十分であった[76]。 』
『Windows 3.1
日本のPC国内出荷台数(青線)と出荷額(赤線)(JEITA調べ)
Windows 3.1に対する雑誌の反応は使い勝手や信頼性が向上したという好意的なものであった。米国のPC Magazine誌はレビュー記事に「UAE(修復不可能なアプリケーションエラー)の終わり、新しい印刷エンジン、賢くなったSMARTDriveなど。マイクロソフトはWindowsを安定した豊かな環境にするために磨きをかけた。」という序文を付け[77]、日本の日経パソコン誌は「ドラマチックな変化はないものの、信頼性が低い、処理速度が遅いなど、Windows 3.0での不満点を改良した。」と評した[78]。
マイクロソフト日本法人は自社のWindows対応ソフトの売り込みを強化し、Windowsの普及を推進した。例えば、表計算ソフトのExcel 4.0は1993年5月に98000円から58000円へと40%の値下げ。6月25日から他社の日本語文書作成ソフトを使用しているユーザーを対象に、58000円のWord 5.0を25000円で販売する「乗り換え・アップグレード・サービス」を開始した。これは1993年4月に発売された一太郎 Ver.5(4年ぶりとなる新バージョン)に対抗したものと思われた[79]。同日にWordとExcelをセットにした、日本語版で最初のバージョンとなるMicrosoft Officeを発売[80]。翌1994年2月のOffice 1.5発表までに8万本を出荷し[81]、1994年後半になると月20万本ペースの出荷になる[82]。オフィスソフト市場におけるマイクロソフトのシェアは急拡大することになった。
Windows 3.1のマルチメディア機能は個人市場の開拓を促し、ExcelやOfficeは企業にWindowsの導入を促した[83]。
後年の評価としては、日本でのWindows 3.1はWindowsがパソコンユーザーに受け入れられた期間であったものの、パソコンが本当に一般に普及し始めたのはWindows 95からとされている[84][85]。しかしWindows 3.1の広がりは、日本メーカーの国内向けパソコンを独自開発から世界標準のPC/AT互換機に転換させ、「鎖国状態」を解消したことで競争力が上がり、パソコンの低価格化が進んだことで普及を後押しすることになった[84][86]。 』
『OS/2とIBMとの対立(※省略)』
『日本でのPC/AT互換機市場
PC-9800シリーズと日本国内PC本体出荷台数(1990年から1998年)
折りしも発売時期がDOS/Vの登場とマニア間で起きたDOS/Vブームが重なったこともあり、日本でのIBM PC/AT互換機市場の形成に大いに貢献した。
1991年当時、日本でのパーソナルコンピュータ (PC) 市場は国内メーカーで市場をほぼ独占していた。さらに言えばNECのPC-9800シリーズで寡占状態にあった。PC/AT互換機は世界中で販売されるため開発コストは日本市場でしか販売できない国内専用製品と比べ物にならないほど安価だったが[94]、日本語という障壁のため参入できない状態にあった。NECの製品展開は同社のオフィスコンピュータ(オフコン)などとの兼ね合いから同時期のPC/AT互換機よりも低い性能レベルに据え置かれ、価格も引き下げられなかった[要出典]。しかし、安価かつ高性能なPC/AT互換機で日本語が扱え国産PCとも共通のアプリケーションが利用できるWindowsの事実上の完成により、国内におけるPC/AT互換機市場は1994年にかけて急拡大することになった[20]。NECも同社のPC向けにWindowsを提供していたが、MS-DOS環境において存在していたアプリケーションの優位性が失われる結果となった。
DOS/V版Windows 3.0では、標準VGAでも640480/16色表示が可能で当時の主力機NECのPC-9800シリーズの640 400/16色を上回っていたうえ、当時すでにほとんどのDOS/V機ではSVGAモードを備えていた(もしくはグラフィック回路が拡張ボードとして独立しており交換が容易だった)ことから、市販のドライバで800600の高解像度をWindowsから利用することができた[95]。一部の英語版ディスプレイドライバではさらに高解像度・多色(640 480/256色、800600/256色、1024 768/16色など)のGUI表示を行うためのパッチファイルや英語版ドライバで日本語表示を行う DDD (Display Dispatch Driver) が販売されて上級ユーザを中心にPC-9800シリーズよりもハードウェア価格が安くて高性能なPC/AT互換機を求めるケースが増え、市場が立ち上がり始めた。[96][97]
次のDOS/V版Windows 3.1では多くの英語版ディスプレイドライバを直接使用しても高解像度・多色のGUI表示ができるようになる。また発売にあわせてTVCMも放映され、本木雅弘が「Windows!」を連呼するというインパクトのあるもので[98]、国内においてWindowsの名前を広く知らしめたことにより、PC-9800シリーズにこだわる必要がないというユーザーが増えていった。日本語版Windows 3.1からアウトラインフォント TrueType および、マイクロソフト版においてはかな漢字変換ソフト Microsoft IME が標準として採用され[注 8]、各アーキテクチャ向けにて相違があった日本語の入出力環境の統一を図った。[99][100][101][102]さらにPCパーツ店による組み立てPCや外国のPCメーカーによるこの組み合わせでの新規参入も相次ぎ、市場ニーズがPC/AT互換機へシフトするきっかけとなる。 次に買いたいパソコン(日経パソコン1993年5月調べ)
とは言え、まだこの段階ではPC-9800シリーズも強力だった。オープンであるがゆえに規格の統一が今ひとつのOADG規格とその派生製品はこれらのオプション類の利用にPC-98シリーズより手間を要した。当然、日本のパソコン周辺機器メーカーはPC-9821シリーズのWindows3.1用の周辺機器も発売し、量販効果ですぐに値下がりした。企業ユースやゲーム市場では、PC-98用ソフトの互換性を求めるユーザーもまだ相当数存在していた。更に、製造元であるNECやPC-98互換機メーカーであるセイコーエプソンによる価格引き下げなどの対抗策もあり、1995年まで50%のシェアを確保し続けた[20][103][104]。この流れが本格化するのは、機器の相違をデバイス仮想化などの方法によってOS側で吸収したWindows 95以降である。』
※ ということで、「1990年から1998年」の間に、「PC-9800」機は廃れ、「DOS/V」機・PC/AT互換機の時代へと移行して行った…。
※ PC/AT互換機は、その「アーキテクチャ」は、ずっと受け継がれて、現在に至っている…。
※ BTOとか、「PCパーツ」の交換とかが可能なのは、土台となっている「アーキテクチャ」が変わってないからだ…。
『後継バージョンへの移行
1995年8月に発売されたWindows 95はそれまでパソコンに興味を持たなかった人々の関心を集め、個人市場の開拓に成功した。企業でもWindows 95を要望する従業員の声を聞き入れて買い換えを支援する動きが見られた。日経パソコンが1996年2月に日本の企業110社に対して行った調査では、Windows 95の「導入予定あり」が64%、「未定」が42%、「導入予定なし」が4%となった。「Windows 95の導入をどのように進めていくか」の問いに対して、「新規に導入したパソコンを中心に徐々に移行する」が30%となったものの、「既存のパソコンを含めて積極的に切り替える」はわずか8%に留まり、既存環境の移行には慎重な姿勢が見られた。「Windows 95の導入で、特に問題が多かった項目は」の問いに対しては、「MS-DOS対応やWindows 3.1対応ソフトの動作」(39%)、「既存のネットワークやデータベースとの接続」(35%)、「インストール関連」(32%)となった。[105]
マイクロソフトはOffice 95やVisual Basic 4.0など、自社製品のWindows 3.1に対するサポートをまもなく打ち切った。しかし、1996年度にIDCが行ったデスクトップOS選択率の調査では、Windows 95が62.9%、Windows 3.1/3.11が17.4%となり、データクエストが米国の大企業を対象に行った調査では、マイクロソフト社製OS利用者のうち86%がWindows 3.1/3.11を使用していると報告した。あるソフトウェア・エンジニアは「マイクロソフトはまだ多くの3.1が使われていることを把握しているが、早くすべてを移行してそれを忘れることを望んでいる。」とコメントした。[106]
1999年に日経パソコンが日本の企業を中心に行った調査では、Windows 95の使用率が79.7%にのぼり、Windows 3.1の使用率は6.2%となった。[107] 』
『出荷本数の推移
Windows3.0(全世界)
1990年5月22日発売
1990年6月22日 - 40万本[要出典]
1990年12月30日 - 100万本[要出典]
1991年5月 - 300万本以上[108]
1992年4月 - 900万本[91][109]
Windows3.0(日本)
1991年1月23日 - NEC版発売
1991年3月13日 - 日本IBM版発売
1991年5月 - 日本電気版、受注累計6万本[75]
1993年5月 - 44万本[60][110]
Windows3.1(全世界)
1992年4月6日発売 - 受注100万本[109]
初日出荷100万本[111]
1992年4月12日 - 1週間で100万本販売[112]
1993年5月 - 2500万本[113]
1994年1月末 - 4000万本[要出典]
1995年1月 - 6000万本[要出典]
1995年8月 - 1億本[111]
Windows3.1(北米)
1995年5月26日 - 発売から50日で100万本販売[114]
Windows3.1(日本)
1993年5月12日 - 日本電気版発売
1993年5月14日 - 日本電気版、受注6.5万本[113]
1993年5月18日 - マイクロソフト版発売
1993年6月末 - 40万本[110]
1994年5月17日 - 146万本[115]
1995年2月 - 300万本突破[116]
1995年5月末 - 402万本[116] 』