第3節 北アフリカにおける「人の移動」をめぐる複合的問題
小林周
https://www2.jiia.or.jp/pdf/research/R01_Global_Risk/05-03-kobayashi.pdf
※ .txt変換した。


『(1) はじめに一地中海の「向こう側」
本稿では、中東・北アフリカ諸国の一部において武力紛争や政治変動の連鎖によって国
家機構が脆弱になり、それに伴って国境管理が揺らぎ、移民・難民やテロ、組織犯罪といっ
た越境的な問題が交錯している状況を分析する。また、特に北アフリカ地域では「人の移
動(migration)1」と安全保障問題が深く交差していることから、移民・難民問題の解決の
ためには複合的なアプローチが必要であることを指摘する。
2010年末からの「アラブの春」を契機として、中東・アフリカから欧州を目指す人の移
動は激増した。これにより、「欧州難民危機」、つまり大量の移民や難民が欧州連合(European
Union: EU)諸国に押し寄せ、欧州域内で対応しきれず、政治的•社会的な混乱•変革が発
生する状況や、移動の途上で多くの人命が失われる状況が発生した2。
この問題については「欧州を目指して地中海を越える移民、その過程で脅かされる人命、
押し寄せる移民を受け入れ切れない欧州諸国」という構図から語られがちである3。しか
し、地中海沿岸にたどり着く移民がどこを出発地・経由地として欧州に渡航し(渡航を試
み)、また彼らの移動にどのような主体が関与しているのか、という点を理解しなければ、
問題の全体像は見えてこない。また、移動する人々の出身国、目的国、経由国は様々であり、
問題解決のためには複合的なアプローチが必要となる。
(2) 中央ルートが抱える問題ーリビア情勢のインパクト
中東・アフリカから欧州に至る移動のルートには、①北アフリカからイタリアやマルタ
を目指す中央ルート、②トルコからギリシャやキプロスを目指す東部ルート、③モロッコ
からスペインの飛び地セウタやジブラルタル海峡を目指す西部ルートの3つがある。
「人の移動」をめぐる問題について検討する上では、中央ルート、特にリビアから地中海
を越えるルートに注目する必要がある。その第一の理由は、移動中の死者数の多さである。
国際移住機関(International Organization for Migration: IOM)による地中海を渡る移民の死
者数を見ると、中央ルートが突出している。なお、このデータは確認された死者のみであり、
未確認の死者や地中海沿岸にたどり着く以前に内陸部で死亡した者を含めると、その数は
さらに上昇するとみられる40
中央ルートが重要である第二の理由は、リビア周辺で「人の移動」をめぐる問題にテロ
や越境犯罪といった問題が交錯し、人道・安全保障上の脅威となっているためである。リ
ビアでは、移民が民兵組織や犯罪組織によって拘束され、「奴隷」として売買された挙句に
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第5章 拡大する移民•難民問題と中東
図1地中海を渡る移民の死者数(ルート別)
口中央ルート ロ東部ルート[□西部ルート
(出所)IOM5
強制労働を課せられる事例が報告されている6。保護者の付き添いもないままに移動する未
成年は、渡航中の強制労働、暴力、性的搾取の危険にさらされ続ける。また、金銭の乏し
い移動者が、渡航斡旋の代金として強制的に臓器を摘出される事例もある7。移動中の死亡、
病気や負傷、食料や水の欠乏といったリスクは指摘するまでもない。
2017年以降、EUの国境管理や移民政策の厳格化を背景として欧州に渡る移民の数は減
少している一方で、移民・難民を取り巻く環境は悪化していると指摘される。地中海を越
えて欧州に入る移動だけでなく、欧州を目指して中東・アフリカ諸国を移動する人々、彼
らを取り巻く政治的・社会的環境を射程に入れなければ、北アフリカにおける「人の移動」
をめぐる問題の全体像はみえてこない8。
(3)人の移動をめぐる問題の複合性
北アフリカでは、紛争、テロ・過激主義、低開発、食糧危機、気候変動、国家による統
治の脆弱化などが絡み合うことで移民や難民が発生し、人の移動がさらなる混乱や衝突を
発生させている。つまり、移民・難民問題は、この地域が抱える複合的な問題の一端でし
かないことを認識すべきである。
国家による統治の脆弱化と国境管理の破綻について検討する上では、「非統治空間
(ungoverned spaces)Jという概念が有効である。「非統治空間」とは、中央政府による統治
がおよばず、政府による法執行や治安維持が十分になされない地理空間と定義される10。
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第3節 北アフリカにおける「人の移動」をめぐる複合的問題
図2中東•アフリカから欧州を目指す移民の中央ルート
英国外務・英連邦省は、国家が物理的な領域支配能力(physical territory)および明確な主
権や統治(effective state sovereignty and control)を部分的にでも喪失した状況、また国家機
関や法の支配が、完全に、もしくはほとんど機能していない環境において「非統治空間」
が発生すると述べている11。
2011年のリビア内戦以降、過激派テロ組織や犯罪組織は、リビア周辺諸国の国境監視能
力の低下と国境周辺における「非統治空間」の発生を背景として、越境的な移動・輸送経
路を構築した12。また、サブサハラ・アフリカ諸国から欧州を目指す多くの移民が、地中
海への「玄関口」として国境監視の緩いリビアに流入した。現在は、地中海の中央部(イ
タリアおよびマルタ周辺)を通過する移民のほとんどが、リビアを経由するとみられてい
る。
リビアへの密入国が容易であることは、移民の問題と同時にテロ動向にも大きな影響を
与えている。リビアにおける「イスラーム国(Islamic State: IS)」の最盛期(2016年前半)
には、戦闘員の70パーセントが外国人であったとされる。外国人戦闘員の多くは地中海
側や沿岸部からではなく、南部の国境を越えて潜入していた13。構成員の出身国は、北・
西アフリカ諸国の他、湾岸諸国、南・西アジア諸国が確認されている。ISへの加入を目指
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第5章 拡大する移民•難民問題と中東
してリビアに入国した者だけではなく、元々リビア国内にいた移民労働者が加入する例も
あった14〇
さらに、移動するのは人間だけではなく、武器やドラッグ、密輸品も移民と同時に輸送
され、リージョナル、グローバルな脅威となっている。例えば、携行式地対空ミサイル
(Man-portable air-defense systems: MANPADS)については、2011年の内戦によってリビア
から5千〜1万発が中東•アフリカ諸国へ拡散したとみられている15。
2015年6月に発表された「EU戦略レビュー(EU Strategic Review) Jは、「非統治空間」
が国家や地域の不安定化の要因となり、政治暴力や紛争•テロと重なって人の移動を加速
させていると述べる。そのため、特にアフリカにおいては、「開発・治安•移民の問題に対
する統合的な取り組み(development-security-migration nexus)Jが重要だと指摘している16。
欧州の移民関連機関や各国政府は、地中海周辺での国境警備活動に加えて、中東・アフリ
カ諸国に対して非正規移動への対策や国境管理の改善のための技術指導•資材提供、地中
海沿岸での捜索•救助活動といった支援を強化している。
⑷おわりに
本稿では、リビアを中心とした北アフリカ周辺における人の移動をめぐる問題の複合性
とその安全保障上の課題について分析した。
北アフリカ周辺では、域内諸国の政府機能や治安維持の脆弱化によって国境周辺に「非
統治空間」が発生し、ヒト(移民・過激派)やモノ(銃火器・ドラッグ)の越境移動が増
加した。しかし、政治変動や紛争により各国政府には国境警備に割く余力がなく、国際機
関の支援も困難な状況で、今後も移民・難民をめぐる人道状況の悪化が懸念される。
歴史的にみれば、地中海とサハラ砂漠南縁を結ぶ移動の経路は、数世紀にわたり、移民、
商人、放牧民、民族集団など様々な主体によって構築されてきた。他方で、2011年以降の
移民・難民の増加は地域情勢の変化やグローバル化と重なった新たな現象であり、組織犯
罪やテロと連動して地域の政治•治安情勢を不安定化させていることも確かである。また、
地中海やサハラ砂漠を越える途中で多くの人命が失われている事実も軽視されるべきでは
ない。
本稿で示してきた移民•難民をめぐる問題は、地中海沿岸での「水際」の移民対策や国
境警備活動だけで対処しきれるものではなく、根本的には移民の送り出し国・経由国の安
定化や経済開発に向けた支援が必要となる。また、「人の移動」とテロや組織犯罪、武力紛
争といった問題が連動していることから、国際安全保障の観点から問題を分析し、対応し
ていくことの意義も高まっている。今後も国際社会による包括的・持続的な取り組みが求
められていくだろう。
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第3節 北アフリカにおける「人の移動」をめぐる複合的問題
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ー注ー
人の移動における「正規(合法)・非正規(違法)」「移民・難民・避難民」といった分類は自明かつ固
定的なものではないが、本稿では議論をぶらさないために、「人の移動」および「移民•難民問題」と
いう語を用いて分析を進める。墓田桂「「難民問題」の複合性」『国際問題』№.662 (日本国際問題研究所、
2017 年 6 月」5-16 頁 や IOM, Key Migration Terms などを参照。
墓田桂『難民問題』(中央公論新社,2016年);遠藤乾『欧州複合危機』(中央公論新社,2016年)31-32頁。
Douglas Murray, The Strange Death of Europe: Immigration, Identity, Islam, Bloomsbury Publishing, 2017;
UNHCR, “The Sea Route to Europe: the Mediterranean Passage in the Age of Refugees,” July 1,2015 ,
accessed on January 15, 2020.
スーダンやエジプトからリビア東部を経由する移民ルートにおいて、2014年から2016年の間に少なく
とも1,200人以上が地中海沿岸への到達以前に死亡した可能性が高いと報告されている。Colin Sollitt,
“Forgotten Fatalities: the Number of Migrant Deaths Before Reaching the Mediterranean,” Regional Mixed
Migration Secretariat, June 27, 2016 , accessed on January 15, 2020.
IOM, Missing Migrants Project https://missingmigrants.iom.int/region/mediterranean, accessed on December 5,
2019.
Nima Elbagir, Raja Razek, Alex Platt and Bryony Jones, “People for Sale: Where Lives are Auctioned for $400,”
CNN, November 14, 2017 https://edition.cnn.com/2017/11/14/africa/libya-migrant-auctions/index.html,
accessed on January 15, 2020; IOM, “IOM Learns of ‘Slave Market’ Conditions Endangering Migrants in North
Africa,” April 11, 2017 , accessed on January 15, 2020.
Alex Forsyth, “Meeting an Organ Trafficker Who Preys on Syrian Refugees,” BBC, April 25, 2017.
小林周「リビアにおける『非統治空間』の発生——交錯する過激主義組織と人口移動」『反グローバリ
ズム再考 国際経済秩序を揺るがす危機要因の研究ーグローバルリスク研究会』(日本国際問題研究
所、2018年4月)63-76頁;小林周「中東•アフリカからの非正規移動とEUの外交•安全保障政策」『国
際安全保障』第46巻4号(2019年3月)32-47頁。
Medecins Sans Frontieres, “Trading in suffering: detention, exploitation and abuse in Libya,” December 23,
2019 , accessed on January 23, 2020.
小林周「リビアにおける『非統治空間』をめぐる問題とハイブリッド・ガバナンスの可能性」『KEIO
SFC Journal』Vol.18, No.1(慶應義塾大学湘南藤沢学会、2018年9月)256-273頁。
ただし英国外務・英連邦省は、「非統治空間」という用語の使用についてかなりの留保をつけてお
り、その存在を自明のものとすることはできないという立場を取っている。Foreign and Commonwealth
Office, “The Link between ‘Ungoverned Spaces’ and Terrorism: Myth or Reality?,” March 23, 2015 , accessed on January 15, 2020.
Mark Shaw, Fiona Mangan, “Illicit Trafficking and Libya’s Transition,” Peaceworks, Vol. 96, United States
Institute of Peace, April 2014;小林「リビアにおける『非統治空間』の発生」。
Human Rights Watch, “We Feel We are Cursed: Life under ISIS in Sirte, Libya,” May 2016.
小林周「リビアにおける『非統治空間』の発生」63-76頁。
Daryl Kimball, “MANPADS at a Glance,” Fact Sheets & Briefs, Arms Control Association, March 2013
https://www.armscontrol.org/factsheets/manpads, accessed on January 15, 2020; Andrew J. Shapiro,
“Remarks: Addressing the Challenge of MANPADS Proliferation,” U.S. State Department, February 2, 2012
https://2009-2017.state.gov/t/pm/rls/rm/183097.htm, accessed on January 15, 2020.
EU, “Strategic Review – The European Union in a changing global environment,” June 25, 2015.
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