オデッサ
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※ 「歴史」のみを、ざっと紹介する。
『歴史
建設以前
オデッサ、およびその周辺にはキンメリア人、サルマタイ人、スキタイ人、ギリシア人、スラヴ人が居住していた[14]。オデッサが位置する場所にはタタール人によってカチベイ(ロシア語版)という集落が形成され、15世紀にオスマン帝国によってカチベイの跡地に建設されたハジベイという集落がオデッサの直接の起源にあたる[7][15]。1764年にハジベイにエニ・ドゥニア要塞が建設された[7]。
露土戦争の過程で1789年にロシア帝国はハジベイを占領し、1792年に締結されたヤシ条約によって正式にロシア領に編入された。露土戦争に従軍した海軍中将ホセ・デ・リバス(英語版)、オランダ人技師デ・ヴォラン(英語版)らは皇帝エカチェリーナ2世にハジベイに港を建設することを進言し、1794年から港の建設が開始される[16]。1795年にハジベイは「オデッサ」に改称される[7][8]。
ロシア帝国時代
トーマス・ローレンスによるリシュリュー公爵の肖像画
1905年に撮影されたポチョムキン号
エカチェリーナ2世の死後に帝位に就いたパーヴェル1世はリバスを首都ペテルブルクに召還し、オデッサに与えられていた補助金と特権が廃止される。パーヴェル1世の跡を継いだアレクサンドル1世はオデッサの経営に関心を示し、1803年にフランス人アルマン・エマニュエル・リシュリューをオデッサの長官に任命した[17]。また、移民の誘致と並行して、貿易の振興に必要な港湾施設の整備、税制の優遇政策が実施された[18]。リシュリューの下でオデッサは劇的に発展し、1803年当時9,000人だった人口は1813年の時点で35,000人に増加し、1804年に2,340,000ルーブルだった輸出総額は1813年には8,860,000ルーブルに増加する[19]。1812年8月から1814年2月にかけてオデッサでペストが流行し、人口の2割程度が死亡したと推定されている[20]。1814年9月にリシュリューはオデッサ長官の職を辞し、フランスに帰国した。
1819年にオデッサは自由貿易港に定められ、1823年にノヴォロシア総督に就任したミハイル・セミョーノヴィチ・ヴォロンツォフの下で自由貿易港となったオデッサは飛躍的な発展を遂げる[21]。ヴォロンツォフは経済の振興以外に文化事業、慈善事業にも力を注ぎ、彼の在任中に考古学博物館、救貧院、孤児院、聾盲学校が設立され、有力紙となる『オデッサ報知』が創刊される[22]。雨後の筍に例えられる急速な発展を遂げたオデッサは「幼年期を持たない都市」とも呼ばれ、19世紀後半に入った後にも成長は続く[23]。
また、ペテルブルクからの追放処分を受けていた詩人アレクサンドル・プーシキンは、オデッサ滞在中の一時期ヴォロンツォフに仕えていた。プーシキンとヴォロンツォフの妻は恋仲になり、ヴォロンツォヴァ夫人がプーシキンに贈ったヘブライ文字が刻まれた指輪はオデッサに伝説を残した[24]。
プーシキンが指輪を持ち帰ったにもかかわらず、指輪はオデッサに残されていると信じられ、指輪がオデッサを守護し続けていると言われている[24]。
1853年から1856年にかけてのクリミア戦争においてオデッサも戦渦に巻き込まれ、1854年に4月10日にイギリス・フランス合同艦隊の砲撃によって死傷者が出、ヴォロンツォフ宮殿などの建築物も被害を被った[23]。
砲撃を受けてもオデッサは抵抗を続け、防御を突破できなかった合同艦隊はやむなく退却する[23]。クリミア戦争時にイギリスのフリゲート艦から奪取した大砲は海並木通りに置かれ、当時の記憶をとどめている[23]。
19世紀末にオデッサはペテルブルク、モスクワ、ワルシャワに次ぐロシア帝国第四の都市に発展し[5]、ペテルブルクに次ぐ貿易港となる[7]。
1865年に鉄道が開通し、オデッサ大学の前身であるノヴォロシア大学が開校した。生活用水の需要を満たすために1873年にドニエストル川の水を汲み上げる設備が建設され、翌1874年に大規模な下水道が完成する[25]。上下水道の整備、市当局による環境・衛生状態の調査によりオデッサはロシアを代表する衛生的な都市として知られるようになる[26]。
1875年にロシア初の労働者の政治組織とされる南ロシア労働者同盟がオデッサで結成され、1900年にはロシア社会民主労働党オデッサ委員会が設立された[27]。
1905年から1907年にかけてのロシア第一革命ではオデッサは革命運動の一拠点となり、1905年6月には水兵による反乱が起きたポチョムキン号が入港する。
革命後に町は落ち着きを取り戻し、穀物輸出と工業生産が上向きを見せ始めた[27]。1914年に第一次世界大戦が勃発した後、オスマン帝国によってダーダネルス海峡が封鎖されたためにオデッサの対外貿易は停止し、町は爆撃を受ける[27]。
ソビエト連邦時代
1917年の二月革命後のオデッサには臨時政府、ソビエト権力、ラーダなどのウクライナ民族派が並立し、それらの勢力に外国の干渉軍も加わって支配権を争った。
1918年1月にソビエト政権が支配権を握るが、3月から11月にかけてドイツ・オーストリア軍がオデッサを占領した。
ウクライナ民族派のディレクトーリヤの支配を経て、1919年4月までイギリス・フランス連合軍の占領下に置かれる。
1919年8月から1920年2月まで反革命勢力のアントーン・デニーキンがオデッサを制圧するが、デニーキンはソビエト軍に破れ、1920年2月7日にオデッサにソビエト政権が樹立された。
二月革命からソビエト政権の樹立に至るまでの騒乱はオデッサの経済に大きな痛手を与え、町の建築物の4分の1が破壊されたと言われている[28]。
1914年当時のオデッサは630,000人の人口を擁していたがボリシェヴィキ政権を避けて多くの人間がロシア国外に脱出し、さらに1921年から1922年にかけての大飢饉が町の衰退をより進め、1924年に人口は324,000人に減少していた[28]。
ソビエト連邦時代にオデッサはウクライナ・ソビエト社会主義共和国オデッサ州の州都に定められる。
第二次世界大戦期においては、1941年8月5日にドイツ・ルーマニア軍がオデッサを攻撃し、2か月以上の戦闘の末にソ連軍はセヴァストポリに撤退した(オデッサの戦い (1941年))。
1941年10月16日から1944年4月10日までオデッサはナチス・ドイツ、ルーマニア連合軍の占領下に置かれ、複雑に入り組んだ地下の石灰岩の採掘跡を拠点としてパルチザン活動が行われた[29]。
第二次世界大戦中にオデッサの多くの建物が破壊され、280,000に及ぶ人間が虐殺・連行されたが、犠牲者の多くはユダヤ人だった[30]。ドイツ軍に対するオデッサ市民の抵抗を顕彰され、戦後町は英雄都市の称号を与えられた。
オデッサの工業は第二次世界大戦後も成長し、1970年代には新しい港湾施設が建設された[30]。1970年代後半に人口は1,000,000人に達し、ソ連時代末期の1989年には1,115,000の人口を擁していた[30]。
オデッサの戦いにおいて構築されたバリケード
オデッサの戦いにおいて構築されたバリケード
ソビエト連邦期に発行された「英雄都市」オデッサの切手
ルーマニア陸軍, オデッサ
ウクライナ独立後
ソビエト連邦崩壊後のオデッサには一時的に経済的に困窮した時期が訪れる[31]。2000年3月にオデッサの商業活動を振興するため、約140年ぶりに自由貿易港に指定された[31]。
2014年の親ロシア派騒乱では、オデッサでも暴力の伴う衝突が起こった。
2014年5月2日の衝突事件では親ウクライナ派と親ロシア派との間で42人の死者が出た。抗議中に4人が殺害され、火炎瓶の投げ合いによって労働組合庁舎に火がついたことで少なくとも32人の労働組合員が死亡した[32][33]。2014年の9月から12月の間に行われた調査では、オデッサ市民にロシアへの編入を支持する者はいなかった[34]。
2021年8月、旧ソ連の独裁者ヨシフ・スターリンによる「大粛清」の犠牲者とみられる数千人の遺骨がオデッサで発見された。これらの遺骨について、国立記憶研究所の地方館長を務めるセルギー・グツァリュク(Sergiy Gutsalyuk)は、国家保安委員会(KGB)の前身かつスターリンの秘密警察として知られた内務人民委員部(NKVD)が1930年代に処刑した人々のものではないかとみている[35]。
ロシアによる侵攻が始まった2022年7月には、オデーサ(オデッサ)でロシア皇帝エカテリーナ2世の像を撤去してゲイポルノ俳優のビリー・ヘリントンの像を立てるよう要求する署名に2万5000人以上が署名した[36]。ロシアの国営テレビはこの署名運動やウクライナでの「ガチムチ」の流行を「米欧に洗脳された染まったウクライナ市民の異常な価値観」として批判している[37]。 』