戦争経験により実現した戦後復興と高度経済成長
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/30077
『日本が戦争へ突き進んでいった道筋は、政治や軍事だけでは語れない。世界恐慌に伴う不況、ブロック経済、都市と地方の格差、高まる社会不安と繰り返されるテロ……当時の経済の動きを振り返れば、なぜ日本人が戦争を望んだのかが見えてくる。
第4回で見たように日本は太平洋戦争の結果多くの国富と人命、そして領土を失った。しかし戦後日本はそれをプラスに転じることで、復興、そして高度成長を遂げることになる。
大正時代に植民地を不要とするいわゆる「小日本主義」に基づく主張をし(第2回連載『格差への不満を原動力に日本が突き進んだ「大日本主義」』参照)、その後ブロック経済も批判した石橋湛山は太平洋戦争末期、敗戦後を考えることを大蔵大臣に提案した。その結果、大蔵省内に「戦時経済特別調査室」が設置され、石橋のほか経済学者や金融関係者が委員となり「戦後」の日本や国際秩序の研究を行った(その資料は近年、名古屋大学で発見されている)。
委員間での議論の中で石橋は、領土を失うことはその領土を維持する負担から解放されることでもあり、戦後の日本は朝鮮や台湾を失い本土のみになったとしても、国内開発に力を入れ、また国際秩序において世界に自由な貿易が復活すればそれを利用して十分発展できると主張した。委員だった経済学者の中山伊知郎(のち一橋大学学長)は戦後、石橋の先見の明に脱帽している。
石橋は終戦直後の『東洋経済新報』社論においても、領土が削減されても日本の発展には障害とはならず、科学精神に徹すれば「いかなる悪条件の下にも、更生日本の前途は洋々たるものあること必然だ」と断言し、その後も引き続き国民を鼓舞した。
一方、大東亜省調査課で電力および工業全般を担当していた大来佐武郎(のち日本経済研究センター理事長、外務大臣)は、1943年頃から日本の敗戦を予期して戦後の日本経済再建の問題を考えるようになる。大来は東大電気工学科の後輩の後藤誉之助(のち経済企画庁調査課長として経済白書の執筆に関与)に協力を求め、当時東北に疎開していた石橋湛山や元関東軍参謀の石原莞爾にも相談したうえで終戦後を考える研究会を組織する。
終戦により大東亜省が解体されると大来らは外務省に移り、研究会は外務省特別調査委員会として活動を行った。これは外務省の非公式な委員会であったが、官僚や財界人のほか、前述の中山伊知郎や、有沢広巳や大内兵衛(両者とものち法政大学総長)、脇村義太郎(のち日本学士院院長)、山田盛太郎(のち東京大学経済学部長)、宇野弘蔵(のち東京大学社会科学研究所教授)、東畑精一(のちアジア経済研究所所長)、都留重人(のち一橋大学学長)といった経済学者が立場を超えて参加して熱心に議論し、大来と後藤が会の実際の運営を行った。
外務省特別調査委員会は1946年3月にその研究結果を冊子『日本経済再建の基本問題』(以下『基本問題』)にまとめる。『基本問題』では敗戦により多大な被害が生じ、さらに戦後は現物による賠償負担(冷戦の進行によりかなり軽減されたが)に加えて食糧不安、多くの失業人口の発生、インフレの昂進などの困難が生じていることが挙げられ、日本の直面する課題が極めて深刻であることが詳しく説明されている。』
『ただ、こうした困難の中でも戦争は「幾多の貴重な教訓と日本民族の将来に対する贈物をも残した」とされている。日本は戦時経済によって機械類を自給する能力を達成し、大量の技術者、徴用工、その他重工業労働者が養成された。また計画経済の経験と訓練を積んだこと、軍事費や植民地経営の諸費用の負担がなくなったことも有利となる条件であり、そして戦後の民主主義は責任を自覚する持つ国民の増大によって生産力を向上させるだろうと期待されている。
こうした分析から『基本問題』の後半では農村向け工業生産を振興し、労働力が豊富で資源不足の日本では労働集約的な工業を世界分業の観点からも発展させていくこと、国際的分業をしつつ同時に国内資源の開発利用を目指す必要があるとされる。
「結語」では人口過剰を解決するために外国への移民が必要であるにしても、まず民主的な政治の再建と国土の徹底的開発に努力を払い、それによって日本の信用を回復することが必要であり、その後に「公正なる主張を為し得る資格」が与えられるとされている。
復興の鍵となった「傾斜生産方式」
こうした分析と提言を行った『基本問題』は直接政府の政策にそれを反映させるために作成されたものではないが、日本に対する賠償軽減・重工業の必要性を訴える資料としてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に提出され一定の影響を与えたともいわれる。また戦争の被害の大きさを認めつつ戦争によってもたらされた肯定的な面にも目を向けた『基本問題』は、経済政策に関わる担当者を勇気づけるものでもあった。
他方、現実の日本経済は戦争で多くの国富が失われた上に輸入もGHQにより制限され、国内資源と過去のストックだけに依存する極めて厳しい状態が続いていた。1946年5月の第一次吉田茂内閣成立後、同年夏から秋にかけて吉田を囲む私的ブレーン集団「昼飯会」ができる。昼飯会は有沢広巳、中山伊知郎、東畑精一、大来佐武郎、茅誠司(物理学者、のち東大総長)、農相の和田博雄、そして吉田の側近の白洲次郎などから構成され、時事問題を議論した。
有沢や大来らの間では産業の基盤となる石炭に優先的に(傾斜させて)資源を割りあて、石炭の増産と鉄鋼の増産を交互に繰り返すことで経済全体の拡大再生産を進める構想が考えられた。これは後に「傾斜生産方式」と呼ばれる。有沢によれば、傾斜生産の発想は、戦時中に各国の経済抗戦力を分析した秋丸機関(陸軍省戦争経済研究班)で抗戦力測定を行った経験から来たものであった。
1946年7月末に吉田首相はマッカーサー司令官に日本経済の危機を訴え、マッカーサーは日本経済復興のための資材緊急輸入を許可すると回答し、これにより具体的な緊急輸入品目に関する交渉が続けられた。有沢・大来らは、重油を緊急輸入すればそれを鉄鋼生産に回し、それを基に傾斜生産すれば石炭増産が可能とする自分たちの構想を昼飯会で吉田に理解させた。
石炭増産のため1946年11月に吉田の私的諮問機関である石炭小委員会(委員長は有沢)が発足する。石炭小委員会は炭鉱への資材の優先配分、3000万トンの石炭生産の前提条件である労働意欲向上のための諸政策、国民の協力を得るための諸施策などを盛り込んだ「石炭対策中間報告」をまとめ、これに基本的に沿った内容が閣議決定され1947年初頭から傾斜生産方式が実施された。
近年の経済史研究では傾斜生産方式の効果には否定的だが、実は傾斜生産方式は「日本人が日本国内の資源を用いて自助努力により経済再建する」という形でGHQの信用を得て、本当に必要な重油の輸入を求めるためのレトリックであり、またそれを大々的に宣伝することで国民の労働意欲を引き出し、その意味で効果的であった。』
『重油の緊急輸入と米国のEROA(占領地域経済復興資金)によって原材料輸入に対する援助が始まったことにより1948年から生産は回復していくが、同時にインフレも進む。一方で冷戦の進行により米国にとってアジアにおける資本主義の拠点としての日本の重要性は増していた。また放漫財政とみなされた日本に米国が経済援助を行うことには米国国民の不満もあり、日本経済を自立させながらソ連に対抗する拠点にすることが急務となっていた。
1949年2月には財政金融引き締め政策である「ドッジ・ライン」が実施され、国内補助金と米国からの援助を打ち切ることで日本経済の自立が目指される。日本はインフレが収まる一方で不況になるが、1950年に朝鮮戦争が勃発すると米軍など国連軍向けの特殊需要(朝鮮特需)が急増し、経済は本格的に復興に向かった。
1952年にサンフランシスコ講和条約が発効して日本は独立を回復し、1950年代前半の日本は国内の消費の増加により概ね景気は好調な状態が続く。ただ、景気上昇による輸入増加で国際収支が赤字へと転じ、そのために金融引き締めと緊縮財政が実施されることが繰り返され(国際収支の天井)、経済成長の制約ともなった。
敗戦により解消された日本の二つの「貧乏」
一方、ブロック経済の進展が第二次世界大戦を引き起こしたという反省の上に作られた戦後のブレトン・ウッズ体制(国際通貨基金<IMF>や関税貿易一般協定<GATT>を基軸とした自由貿易体制)への復帰は日本にとって大きなメリットをもたらした。国内を見ると、『基本問題』でも取り上げられていた戦争・敗戦のプラスの面は確かに経済に好影響を与えた。財閥解体により各産業分野での独占・寡占がなくなり、各企業は戦時期の遅れを取り戻すために盛んに新技術の開発や海外からの技術導入をして競争し生産性が向上した。
そして農地改革や財閥解体・戦後のインフレにより所得格差が小さくなり、多くの中間層が生まれた。さらに戦後はベビーブームによって若年人口が急増し、彼・彼女らが1960年ころに労働力人口と同時に消費主体となり消費も増加していった。日本経済が成長する準備は1950年代後半には整い、それが高度経済成長の原動力となっていく。
第1回で紹介したように、河上肇は「日本の貧乏」と「貧乏な日本」の解消の鍵を総力戦体制に見出したが、実際にはそうした問題を戦争によって直接解決することはできなかった。ただ、今回紹介したように、戦争の体験と戦争による内外の変化をプラスに転じることにより、「日本の貧乏」と「貧乏な日本」は解消に向かっていった。
戦後80年近くが過ぎ、現在の日本では再び貧富の格差が拡大し、また他の先進国や新興国と比べて日本の国際的地位は低下しつつあり、「日本の貧乏」と「貧乏な日本」が改めて問題となっている。さらに現在は世界的にも社会の分断が進んで国際秩序も危機に瀕しており、「新たな戦前」とも言われる状況となっている。
国内および国際的な格差とそれへの関心の高まりが社会を不安定化させ戦争を引き起こしていった歴史を繰り返さないためにも、そして国内外の変化を前向きにとらえそれをプラスに転じていくためにも、歴史を振り返りそこから学ぶことが必要である。今回の連載がその役に立てば幸いである。
参考文献
筒井清忠編『昭和史講義【戦後文化篇】上』ちくま新書
名古屋大学大学院経済学研究科附属国際経済政策研究センター情報資料室『荒木光太郎文書解説目録 増補改訂版』
牧野邦昭「石橋湛山に学ぶ国際協調の意義 理念支える制度の設計肝要(経済教室)」日本経済新聞2022年8月15日朝刊
『Wedge』では、第一次世界大戦と第二次世界大戦の狭間である「戦間期」を振り返る企画「歴史は繰り返す」を連載しております。『Wedge』2022年6月号の同連載では、本稿筆者の牧野邦昭氏による寄稿『テロと戦争への道を拓いた大正日本経済のグローバル化』を掲載しております。
『Wedge』2021年9月号で「真珠湾攻撃から80年 明日を拓く昭和史論」を特集しております。
80年前の1941年、日本は太平洋戦争へと突入した。当時の軍部の意思決定、情報や兵站を軽視する姿勢、メディアが果たした役割を紐解くと、令和の日本と二重写しになる。国家の〝漂流〟が続く今だからこそ昭和史から学び、日本の明日を拓くときだ。
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