もしかしたら、ホモ・サピエンスが繁栄したのは、憎む事が得意だったから?

もしかしたら、ホモ・サピエンスが繁栄したのは、憎む事が得意だったから?
http://blog.livedoor.jp/goldentail/archives/31403661.html

『今の人類のホモ・サピエンスは、ヒト属の中で唯一生き残った種です。実は、3万年~5万年前までは、ヒト属の種というのは、何種類もいました。ネアンデルタール人とか、ジャワ原人とか、北京原人とか、世界中に分布していたわけです。それぞれ、歴史上に存在していた期間も長く、少なくても種として数十万年は命脈を保っていて、それぞれ火を使い、道具を使い、衣服を作り、薬草を使うなど、一通り、ヒトが行う事は、どの種でもできていました。つまり、文明的な優劣は無かったという事です。

ホモ・サピエンスと較べて、体格が良かったり、脳の容積が大きかったり、俊敏だったり、生物としての優位性も高い種もいて、普通に考えたら、彼らの方が生き残りそうな気がします。しかし、最終的に生き残ったのは、ホモ・サピエンスであり、他の種は、恐らく我々の祖先に皆殺しにされました。その違いが何かという事について、最近、ある仮説が出ています。

その内容が、「我々、ホモ・サピエンスが、概念というモノを発明し、それによって他人を憎む事に優れていたから、生き残れた」というものです。まず、類人猿の群れの様子を観察すると判るのですが、カリスマ持ちや、生物として優れた体格に恵まれたリーダーが統率できる群れの限界は、150頭ほどと言われています。それ以上になると、群れは分裂して、小集団に分かれます。リーダーを選ぶ時に、直接、挑戦者とボスが対峙して、優越性を他に示して納得させ、集団としての規律を保つ限界が、この辺りが限界なんですね。

昔のギリシャで、直接民主制を行えた限界が、都市国家単位だったのと似ています。国家を構成する全員が、合議で国の運営を決めるという方法では、その集団の数的な限界が出て来るのです。言葉によるコミュニケーションが、発達していなかった原人と言われる段階では、その限界は類人猿とさほどの差は無かったはずで、個のスペックとして優れていても、集団を構成する限界点があったので、数千人とか数万人の単位でまとまる事は不可能だったのです。つまり、他集団と戦闘になった時に、まとまれる数に限界があったという事です。

この概念とは何かというと、抽象化した神とか悪魔とか、自分達の存在以外の強力な存在を創造して、それを旗印にまとまる事ができるという事です。判り易いところでいうと、宗教戦争のようなものですね。おのおの、自分が信じる「正しい神」を御旗に立てて、戦って、多くの場合、相手を皆殺しにする事で、正当性を証明します。信じるものは何でも良いのですが、直接的な優越者の威嚇行為以外の事で、集団として纏まれるには、まず概念を頭の中に描ける能力が必要です。そして、この抽象化というのは、言葉に、目の前で起きている事を仲間に伝える以上の力を与えます。

天敵が目視できて、仲間に「注意しろ」という合図が決まっているのは、言語コミュニケーションの最も初期段階のものですが、抽象化ができると、これに時間と空間的な幅が出てきます。天敵の出現する場所、時間、行動の癖などを、パターンとして認識し、これを、経験という形で周りに伝える事ができます。つまり、同時に見ているもの以外の知識を、言葉で説明する事ができるのです。それが、共有されると、その集団の知恵として、生き残る技術として使う事ができます。

さらにリーダーを決める時、群れとして纏まる時に、リーダーが挑戦者と戦って負かすのを直接目撃しなくても、リーダーの示す指導者としてのカリスマを認識して、それに対して忠誠を尽くすという事ができるようになります。この場合、群れの構成は、万でも数十万でも可能です。また、戦闘をする時だけ、まとまって、他の場合は解体するなど、フレキシブルに群れを構成する事も必要です。つまり、この能力が、個体としての能力が劣っていたホモ・サピエンスが、他のヒト属を滅ぼして、唯一生き残った原因ではないかという事です。

それと、同時に、我々が互いに憎む能力に秀でていたので、「唯一の種」として生き残れたという話が別にあります。というのは、概念化できるという事は、罪とか悪というものを、概念として捉えて、それを理由に相容れない他部族を滅ぼす事が、抵抗無くできるという事でもあるからです。その場合、力に劣る側は、常に皆殺しにされます。もしくは、完全に同化されて、その部族の文化は滅ぼされます。概念の戦いになると、妥協するという事を知らなくなるので、物理的にでも、同化した結果にせよ、相手が存在し続ける事は許さないんですね。多くの宗教戦争が、最も残虐な結果に終わっている事からみても、これは実証されていると言えるかも知れません。

相手の存在を徹底的に許さないからこそ、犬とか猫のように、様々な種類が同時に存在する事無く、せいぜいが環境による肌の違いくらいの、極めて均質的なホモ・サピエンスという種だけが、生き残ったという事ですね。そして、憎む能力という事ですが、考古学で分析技術が発達する事で、集落の中で、今まで戦士として他部族との戦いで死亡したものが墓に葬られていたと考えられていたのですが、明らかに外傷の残る骨を分析すると、同族間の争いで殺されるケースが多かった事が判っています。つまり、農業を覚えて、食糧事情が良くなり、大きな集落を構成しても飢餓の心配が無くなると、その集落の中で争いを作り出して、場合によっては殺し合っていた事が判明しています。

これを、言ってしまえば、「憎む事に優れていたから、種として生き残れた」という事です。文明が発達して、外敵に対する脅威が後退すると、同じ部落の中で、争いの種を見つけて、戦う事で適者生存を急速に発達させてきたという事です。その過程では、謀略で相談する事もあるし、示し合わせて、集団で襲う事もあるでしょう。そういう真意を隠した駆け引きは、皮肉な事に、より一層、言語能力の抽象化に磨きをかけます。極端な話、「部族の未来の為」とかいう理由で、害悪と見なされる人物を殺すとか、そういう事も起こるわけです。動機に関わらず、客観的に相手を害する感情を「憎しみ」と呼ぶならば、それに秀でているからこそ、文明が急速に発達し、多方面に分化していき、複雑な社会構造を持つまでに発展したと言える事になります。

まぁ、こう考えると、身も蓋も無いのですが、この世から戦争を無くすなんて事は、もしかしたら、我々ホモ・サピエンスの最大の武器を捨てる事になるかも知れません。とりあえず、すぐに戦争を起こす事が、悪い事であるという共通認識が広がると、LGBTQとか人種とか宗教とか、あらゆるネタで、インターネットに接続している人は、喜々として争っているじゃないですか。多様性が大事とか言っている人が、剥き出しの憎しみで罵詈雑言を対立する相手に浴びせているのを見ると、「ああ、この人達は、堂々と憎しむ相手を探しているんだなぁ」と感じます。そして、「異なる存在を許さない」というのは、憎しみの源泉であり、物凄いパワーを生みます。そうした争いから、実は文明の発展というのは、ブーストされる面があって、大規模な戦争によって、科学技術がジャンプして発展するのは、残念ながら客観的な事実です。

こういうのは、思考実験的な捉え方であり、真実は違うのかも知れません。まぁ、聞いてて楽しい話じゃないですしね。最近、ネットで知識を漁っていて、なんか首肯できる話だったので、自分なりにまとめてみました。』