血の日曜日事件 (リトアニア)

血の日曜日事件 (リトアニア)
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曖昧さ回避 この項目では、1991年にリトアニアで発生した血の日曜日事件について説明しています。その他の用法については「血の日曜日事件」をご覧ください。
リトアニアの国旗を手に、ソ連軍の戦車の前に立ちはだかるリトアニア市民(1991年1月13日)

ヴィリニュスのテレビ塔近くに立つ事件の記念碑

血の日曜日事件(ちのにちようびじけん、リトアニア語: Sausio įvykiai)とは、ソビエト連邦の崩壊直前の1991年1月、独立運動が高まるリトアニアにソ連軍が侵攻し、リトアニアの民間人が死傷した事件を指す[1]。欧米メディアが「血の日曜日」(Bloody Sunday)と報じたことから、日本でも「血の日曜日事件」と呼ばれるようになった。しかし、リトアニアではこの名称は知られておらず、「1月事件」あるいは「1月13日事件」と呼ばれる。

事件の経緯

第二次世界大戦初期の1940年、リトアニアとラトビア、エストニアは、ナチス・ドイツと東欧分割の密約を結んだソ連の軍事的圧力を受けて併合された(バルト諸国占領)。

戦後、独立運動は抑圧されてきたものの、リトアニア人はリトアニア語や独自の文化を守るよう努めた[2]。

1980年代後半からソ連の最高指導者ミハイル・ゴルバチョフによって開始された改革政策(ペレストロイカ、グラスノスチ)下、独立回復を求める国民の声が高まった。

1988年6月には民族戦線であるサユディスが結成され、1990年3月には、ヴィータウタス・ランズベルギス率いるリトアニア共和国最高会議はソ連からの独立を宣言するに至った[2]。こうした動きは連邦維持を主張するソ連共産党の保守派や軍部を刺激した。

事態の推移

1991年1月12日(土曜日)の夜、ソ連軍部隊の戦車がリトアニアの首都ヴィリニュスの重要拠点の占拠に向かった。これに対してリトアニアの市民は最高会議の建物やテレビ塔の周りに集まり、人間の盾を作った[3]。

戦車がテレビ塔に到着した後、13日早朝にソ連兵がテレビ塔を守ろうとしていた非武装の民間人に発砲[3]。13人が殺害され、ほかに現場に居合わせた1人が心臓発作を起こして死亡した。

そのほか、一部のソ連兵が同じソ連兵に発砲し、兵士1人が死亡した[4]。ソ連横断の特別番組取材の途中、たまたま居合わせた日本テレビのクルーはただちに取材・撮影に入った[2]。その回想によると、非武装のリトアニア市民は、ソ連軍戦車部隊に対して「帰れ」「リトアニア」「ファシスト」などと叫んで抵抗の意志を示した[2]。

事件後

1月15日、犠牲者の国葬が行われた。この事件が契機となりリトアニア政府は態度を硬化、リトアニア独立革命へとつながっていく。

現在、事件現場となったテレビ塔の近くに記念碑が建てられている。

事件時にソ連軍戦車部隊にいたユーリー・メリが2014年3月、リトアニアで逮捕された。2013年6月に逮捕許可が出ていたことを知らずに、リトアニアの西隣にあるロシア連邦の飛び地カリーニングラード州から買い物などのため何度かリトアニア入りしていたという。早期釈放を求めるロシアに対して、リトアニアは「人道に対する罪に時効はない」と主張し、対立が続いている[5]。

日テレのクルーが撮影した事件映像は1991年3月放映の『感動!そして発見!ソ連横断4万キロ~激動編~』の一部として放映され、日本民間放送連盟テレビ報道部門最優秀賞を受賞したほか、ウクライナ出身の映画監督セルゲイ・ロズニツァがリトアニア独立革命を描いたドキュメンタリー映画『ミスター・ランズベルギス』にも使用された[2]。 』