空間•社会•地理思想22号,29-43頁,2019年
Space, Society and Geographical Thought
カール・ハウスホーファーとドイツの地政学
クリスティアン・W・シュパング・ (高木 彰彦・・訳)
Christian W. Spang (Akihiko TAKAGI)
Karl E. Haushofer, Geopolitics of Germany, Zeitschrift fUr Geopolitik and Pan-ideas (Haushofer, 1931),
entries for The Encyclopedia of New Geopolitics, 2018
Translation permitted by the auther and Maruzen Publishing Co., Ltd.
I.カール・ハウスホーファー
※ 例によって、テキスト変換した。「脳内変換」、よろしく…。
※ 地政学に興味のある人は、読んどいた方がいい…。
※ 特に、英米(それに影響を受けてる、日)においては、ハウスホファーは、「ナチス協力者(それも、相当な誤解のようだが)」とのレッテル貼りにより、「タブー視」されているんで、こういう論説は、「貴重」だ…。
※ 一言で言えば、「ランドパワーの地政学」ということだろうな…。
※ 逆に言えば、マッキンダー、スパイクマンの系譜は、「シーパワーの地政学」ということになろう…。
『 1.家庭環境と軍人としてのキャリア
1869年ミュンヘンに生まれたカール・ハウスホー
ファー Karl Haushoferは,学者や芸術家の家系に恵
まれた家庭に育った.彼の二人の祖父,マックス・
ハウスホーファーMax Haushoferとカール・N・フ
ラースKarlN. Frassはともに教授であり,伯父のカー
ル・フォン・ハウスホーファー Karl von Haushoferも
教授だった.彼の父,マックス・H・ハウスホーファー
Max H. Haushoferはミュンヘン高等技術学校(今日の
ミュンヘン工科大学)の政治経済学の教授で議員で
もあり,学術的著作のみならず文学作品でも著名な
作家であった.
こうした家系にもかかわらず,カール・ハウス
ホーファーは,1887年に(ドイツ帝国から)半独立的
な王立バイエルン軍に入隊した.ハウスホーファー
は,最初はバイエルン陸軍士官学校(1888/89年)に
通い,その後王立バイエルン砲兵・工兵学校(1890-
92年)に進み,最終的にバイエルン陸軍大学校に進
学した(1895-98年).これらの学校はいずれもミュ
ンヘンにあった.陸軍大学校での教官としての在職
期間(1904-07年)も加えると,ハウスホーファーは,
その陸軍軍人としてのキャリアの最初の20年を教育
機関で過ごしたことになる.
1907年はハウスホーファーにとって大きな転機
となった.1月27日に,彼は突然バイエルン陸軍大
学校を辞め,ミュンヘンから350kmほど離れたバイ
エルン・プファルツ(宮廷領)のランダウにあった,
バイエルン第三師団の参謀へと転身したのである.
その年の4月9日に父が亡くなった時,ハウスホー
・ 大東文化大学
*・ 九州大学
ファーは住み慣れた土地を離れて生活を変えようと
決意した.
ランダウから離れるため,彼は日本への
軍事オブザーバーのポストに応募した.バイエルン
人武官が日本に初めて派遣された理由は,1904/5年
の日露戦争に日本が勝ったからだった.
ドイツ帝国
とバイエルン王国はしばらくの間戦争を経験してい
なかったため,日本がどのようにしてロシアに勝つ
ことが出来たのかを,軍が知りたがっていたのだ.
1907年6月24日に駐日軍事オブザーバーに選ばれた
ことを知らされると,その後五ケ月も経たないうち
に,彼の人生は天地がひっくり返るほどの混乱に
陥った.
いくらかの日本語を学び,日本で役立ちそうなも
のを西欧の言語で読んだあと,彼は妻マルタMartha
(1896年に結婚)とともに東アジアへと旅立ったが,
幼い二人の息子アルプレヒトAlbrecht (1903年生ま
れ)とハインツHeinz (1906年生まれ)は同行しなかっ
た.
1908年10月から1909年2月にかけて,夫妻はイ
タリアを出港し,スエズ運河を経由してセイロン(現
スリランカ)とインドに到着した.ここで夫妻は,
シンガポール,香港,上海での待ち時間も含めて8
週間ほど滞在した後,日本に到着した.その後,ハ
ウスホーファーは,1909年2月から1910年6月までの
16ヶ月を東アジアで過ごした.
この間に夫妻は日本国内をくまなく旅行しただけ
でなく,朝鮮,中国,満州にも出かけた.健康上の
問題から,京都にあった第16師団での業務を9ヶ月
に縮めて,1910年の梅雨の時期になる前にシベリア
縦貫鉄道経由でドイツに帰国した.
ハウスホーファーは日本に短期間しか滞在しな
かったにも関わらず,当時多くいた他の外国人訪問
者よりも多くの見識を得ることができたのには様々
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クリスティアン・W・シュパング
な理由がある.
第一に,彼は東アジアへの旅行以前
および旅行中に入念な準備を行っていた.第二に,
彼は日本当局に登録されていなかったため,最初の
数ヶ月間,日本国内を隠密に歩き回ることができた.
第三に,夫妻は日本人教師から日本語を学んだが,
この教師も旅行に同行したのだった.第四に,夫妻
は西洋人仲間と交わるのではなく,できるだけ日本
人との交流を深めようとした.
その結果,ハウスホー
ファーは日本滞在中,直接的および間接的に,後に
重要となる関係を築くことができた.主な人物を挙
げれば,駐独公使および外務相を務めた青木周蔵と
その家族,陸軍軍人で1930年代に影響力のある政治
家となった菊池武夫,後に日・独の学術関係で役割
を果たすことになるフリードリッヒ・マクシミリア
ン・トラウツFriedrich Maximilian Trautzなどがいた.
さらに,ハウスホーファーを受け入れた日本の
人々は,他の外国人には閉鎖的だったのに対して,
彼には開放的だった.こうした礼儀正しい扱いの理
由は,多くの日本人武官や医学生が数十年にわたっ
てバイエルンに留学してきたにも関わらず,バイエ
ルンからは誰も日本に来ていなかったためである.
したがって,ハウスホーファーが,東京で天皇が主
催した観桜会や観菊会,さらには天長節祝賀行事に
も招待されたのは偶然の一致ではなかった.
バイエルンに戻ってから,ハウスホーファーは第
一次世界大戦での戦闘を最後に兵役を終えた.この
間,彼は陸軍大佐に昇進し,1919年末に退役した際
には陸軍少将に昇進していた.
2.研究者としてのキャリア:1913-44年
先に述べたように,健康上の問題があったため,
ハウスホーファーは,第一次世界大戦前には通常の
軍務から離れていた.彼は長い休養期間を数多くの
論文の執筆に費やした.彼の最初の著作は『大日本
——大日本帝国の軍事力,世界的地位と将来に関す
る考察』(Dai Nihon, Betrachtungen uber G~^^^^,Japa^
Wehrkraft, Weltstellung und Zukunft)だった.
妻の発案
と援助で,彼はルードウィッヒ・マクシミリアン大
学ミュンヘン(LMU)から「日本と日本周辺地域の地
理的発展におけるドイツの関与,および戦争と国防
政策の影響を通じてのその促進」というテーマで学
位を取得した.
ハウスホーファーは,こよなく愛したバイエルン
陸軍大学校の校長として任期を全うすることを夢
見ていたが,同校は第一次世界大戦後には存続し
なかった.
代わりに,49歳の老大佐は腰を落ち着け
て大学教授資格ハビリタツイオン論文を書き上げ,
1919年秋にはLMUの地理学科で教え始めた.
名誉
教授にすぎない身分で,ハウスホーファーは研究室
を与えられず,学科の運営にも関わらなかった.
に
もかかわらず,学生の間での彼の評判は年ごとに増
していった.退役陸軍少将として,事実上年金で生
活していたハウスホーファーにとって,こうした立
場は理想的だった.
というのも,この地位は彼に学
問的な信頼性を与えるとともに,十分な研究,出版,
その他の活動の自由を与えたからである.
ナチスが
政権をとった後,ハウスホーファーは,LMUの他
の何人かとともに,名誉教授ではなく教授と呼ばれ
る権利を得た.
日本および大平洋に関する著作で,ドイツ人の極
東専門家の一人としての地位を獲得した1920年代
前半に,ハウスホーファーは,初の地政学月刊誌
で世界的に悪名高い『ゲオポリティク』Zeitschrift fur
Geopolitik (fp)誌を刊行し,1924年から1944年ま
で共同ないしは単独で編集者を務めた.
今日のバイ
エルン放送の前身の放送局で,1925年から1931年ま
でと,1933年から1939年まで毎月1回放送された,「世
界政治講座」Weltpolitischer Monatsberichtという名の
世界事象に関する解説講座とともに,本誌によって
彼の名はドイツおよび国外において著名なものと
なった.
1920年代以降,ハウスホーファーは東アジアを
越えて自らの研究範囲を広げ,国境問題,防衛問
題,海外ドイツ人事情,ライン川など,他の事象に
関しても出版するようになった.
彼はさまざまな短
編の伝記物も刊行した.にもかかわらず,彼の論文
の3分の2と著書の2分の1はアジアないしは大平洋を
扱ったものであった.
ハウスホーファー «600以上
もの論文,総説,死亡記事,入門書と,3ダースも
の著書を刊行したという事実からすれば,彼は確か
に同時代の最も精力的な出版家だった.
3.カール・ハウスホーファーの地政学概念
ハウスホーファーは東アジアでの滞在以来,い
わゆる大陸横断的ブロック概念を普及させた.
ハ
ルフォード・マッキンダー HalfOrd Mackinderの著名
な,1904年のハートランド理論を知っていなくと
も,彼は大概そうしただろう.
何年か後に,ハウス
ホーファーはマッキンダーについて知り,ロシアと
ドイツの協力の大きな可能性について,彼の世界観
とマッキンダーのそれが重なっていたことを悟った
が,それが望ましいのか(ハウスホーファー),望
カール・ハウスホーファーとドイツの地政学
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ましくないのか(マッキンダー)という問題になる
と,意見が異なっていた.
ハウスホーファーの地政
学概念のもうひとつの源は,ホーマー・リー Homer
Leaの著書『サクソンの時代』(The Day of the Saxon,
1912)だろう.
その基本的な主題がハウスホーファー
の大陸横断的ブロックに近いからである.
にもかか
わらず,『大日本』の参考文献には,マッキンダーも
リーもハウスホーファーによって言及されていな
い.
第一次世界大戦後になって,ハウスホーファー
は二人やマハンなど他の西欧起源の概念について引
用するようになる.
第一次世界大戦前に刊行された『大日本』におい
て,ハウスホーファーは,ベルリン,ウィーン,サ
ンクト・ペテルブルク,東京という4つの皇帝同盟
を示唆した.
後にハウスホーファーは,ソ連および
日本を伴った独伊同盟を呼びかけた.
モスクワの共
産主義体制との密接な協力を積極的に支持するのは
不適切とみなされていた時期にあって,ハウスホー
ファーは,ドイツは理想的には日本と足並みをそろ
えつつ,アングロ・サクソンの優位性に対抗して,
「持たざる者」の連合という植民地勢力に対抗する中
国およびインドと連携すべきと主張した.こうして,
少なくとも敵は同じままだった.
これを踏まえると,ハウスホーファーが,ゲオポ
リティク誌の編集仲間であるエーリッヒ•オプスト
Erich Obstとは異なって,かつてのドイツ植民地の
返還要求には反対だったことは驚くべきことではな
い.
彼は,アフリカはドイツが大国に返り咲く資産
としては遠すぎると考えていた.
また,ハウスホー
ファーは,a)ドイツが何を要求しようとも,かって
の植民地を受け取ることはなく,b)すでに第一次世
界大戦で確証されたように,何らかの紛争の場合に
も,海外領土を守ることはできないことを,十分に
理解できるほど現実主義的だった.
さらに,ハウス
ホーファーは,当時一般的だった人種主義者ではな
かったものの,彼にとって,アフリカ人がヨーロッ
パ人と同じだと認めるのは困難だった.
しかし,中
国人,インド人,日本人については,彼はそうした
問題は持っていなかった.
ハウスホーファーがしばしば言及したよく知られ
た概念に「汎概念」ないしは「汎地域」がある.
最もよ
く知られているのは『汎概念の地政学』(Geopolitik
derPan-Ideen,1931)で,彼は互いに矛盾することも
あるさまざまな汎概念について述べた.
同書はナ
チが政権を握る前に刊行されたため,ハウスホー
ファーは,理想的には「汎アジア主義」などのように
大陸的スケールでの領域的特徴に依拠する「汎概念」
が,「汎ドイツ主義」や「汎スラブ主義」のような,人
種に基づいたものよりも説得力があると主張するこ
とができた.
興味深いことに,1931年になると,彼
はモスクワをベースにした概念として汎アジア主義
を解釈するようになった.
彼によれば,米国は二つ
の対立する汎概念,すなわち,大陸的概念である汎
アメリカ主義と,海洋的な概念である汎大平洋主義
とに従うのだ.
米国が主導する「汎アメリカ」,ドイ
ツとイタリアが支配する「ユーラフリカ」,日本が指
導する「汎アジア」,ソビエトが支配する「ユーラシ
ア」という,世界が三つないし四つに区分されると
主張する,ハウスホーファーの幅広い理解は解釈の
しすぎだと述べておきたい.
ハウスホーファーがよく述べたもう一つの重要な
地政学的概念は,西欧諸国からそれほど多くの関心
を持たれなかったし,1945年以降も,今日でさえも
そうだ.
気候的および(農業)文化的な類似性に基づ
いて,ハウスホーファーは,モンスーン地域を地政
学的な統合単位としてしばしば言及した.
こうして,
権力,歴史,社会(一例を挙げるならインドのカー
スト制度のような),宗教といった重要な違いがみ
られるにも関わらず,南アジア(インド)と東南アジ
ア(マラヤ)のさまざまな英国植民地,仏領インドシ
ナ,オランダ領東インドが,(半植民地的な)中国,
独立国であるシャム(タイ)と日本といった沿岸諸国
とともに,一つの地政学的実体としてまとめられた
(Spang 2013: 354-357).
こうしたモンスーン地域の
地政的近接性という概念は,1930年代半ば頃から日
本で注目され,「大東亜共栄圏」を白人が支持するも
のとして解釈された(Spang 2013: 496-621, 630-631,
722).
大陸横断的ブロックという彼の考えは,1913年に
刊行された『大日本』にすでに認められたが,ドイツ
学派地政学を打ち立てようとするハウスホーファー
の強い熱意は,ドイツ帝国の崩壊とヴェルサイユ条
約とによって生み出された.
その多くの著作,ゲオ
ポリティク誌,ラジオ講座で,彼は大衆を教育する
と同時に,責任ある地位の政治家たちを手助けして
大国としてのドイツを再興するための最良の意思決
定を行おうとした.
ハウスホーファーによれば,そ
れはロシア/ソ連と日本との密接な協力によって可
能になるものだった.
「東方における生存圏」と無遠
慮に言うのではなく,ハウスホーファーによるドイ
ツの主張は,あらゆる民族に対して利用可能な空間
の「公正な」配分のための需要に基づいていた.
32
クリスティアン・W・シュパング
4.ナチとの関係
ハウスホーファーは,1933-41年の間ナチ党の副
総統だったルドルフ・ヘスRudolf Hessには,1919
年に初めて会った.
それは,彼の部下だった将校
のマックス•ホフヴェーバーMax Hofweberがへス
を連れてきた時だった.
後にヘスは,アドルフ・
ヒトラー Adolf Hitlerのために働くようになる前に,
ハウスホーファーの指導でしばらくの間研究を行っ
た.
25歳も年齢が離れていたにもかかわらず,ハウ
スホーファーとヘスは非常に親密で二人の友情はよ
く知られていた.
マルタ・ハウスホーファーの父が
(洗礼を施された)ユダヤ人だったという事実にもか
かわらず,1941年まで,ヘスは友人の家族を守り続
けたのだ.
ニュルンベルクで1935年から38年まで4
回開かれた著名な党大会で,ハウスホーファーはへ
スの主賓だったため,ナチ党指導者の間では有名な
人物となった.ヒトラー,ハインリッヒ・ヒムラー
Heinrich Himmler,ヨアヒム・フォン・リッベントロッ
プJoachim von Ribbentropやその他のナチ党指導者た
ちは,ハウスホーファーとその地政学概念を知って
いたが,彼が決してナチ党員にはならなかったとい
う事実は知らなかった.
ナチ体制に対するハウスホーファーの協力は,
1919年時の国境を越えたドイツ人の生存のために働
きたいという彼の義務感に基づいていた.
この点に
ついて,ハウスホーファーが党員ではなかったにも
関わらず,ドイツアカデミー(Deutsche Akademie,
DA)の共同設立者となり,初期ナチ時代(1934-37)
にはこの組織の会長を務めたことは指摘すべきだ
ろう・
同じ時期に彼は,民族ドイツ評議会(Volks-
deutscher Rat, VR,1933-35)にも関わった.これは,
1938年末から1942年秋まで「在外全ドイツ民族同盟」
(Volksbund fur das Deutschtum im Ausland, VDA) の
「指導者」となった組織である.
これら全ての組織に
共通するのは,1919年時の国境を越えたドイツ人の
生存を支持しようとしたことである.
これは民主制
時代を通じて正当な課題であり,ナチスはこうした
努力をさらに積み重ねて,「血と土 Blut und Bodenj
のイデオロギーや「東方における生存圏Lebensraum
im Ostenjの要求へと結びつけたのだった(Jacobsen
1979-I: 188-201, 279-331).
ハウスホーファーの考えがヒトラーに直接届いた
のは1920年代半ばで,この将来の指導者とヘスが
1924年の大半を刑務所で過ごしていた時期であっ
た.
ここで,ヘスは私的秘書の役割を果たし,ヒト
ラーは『わが闘争』(Meinに做ガ)を執筆したのであ
る.
ハウスホーファーがランズベルク刑務所を何度
も訪れ,クラウゼヴィッツやラッツェルの本だけで
なく,『大日本』など日本に関する自著も持ち込んだ
ことはよく知られている.
また,彼はゲオポリティ
ク誌の創刊号もへスとヒトラーに送った.『わが闘
争』下巻の第14章は生存圏の問題を扱っている.
ヒ
トラーの著書のこの部分が直接的•間接的にハウス
ホーファーの影響を受けていることは一般に認めら
れていることだ.
同書の出版直後に,ヒトラーはエ
ルンスト・ハンフシュテングルErnst Hanfstaenglに
ドイツにとって日本が重要だと語っているが,この
考えはヒトラーがハウスホーファーから得たものに
違いない.
こうして,この地政学者が,日本および
生存圏という問題に関して,ヒトラーの初期の態
度に影響を与えたという強いヒントがある(Spang
2013: 385-393).
1933年以降,ハウスホーファーはへスとリッベン
トロップと接触し,独日関係の強化に努めた.
1934
年4月にハウスホーファーの私邸で行われたへスと
日本海軍のドイツ駐在武官だった遠藤喜一との秘密
裏の会合は,ナチスのトップとドイツにおける日本
側代表者との相互理解に向けた重要な一歩だった.
さらに,リッベントロップと彼の部下は,ハウスホー
ファーの日本に対する積極的な見方と大陸横断的ブ
ロック概念に影響されたと言われている.
リッベン
トロップの半公的事務所である,いわゆるリッベン
トロップ機関Dienststelleの東アジア部門の長官を,
1935-38年の間務めたヘルマン・フォン・ラウマー
Hermann von Raumer博士は,日本とソ連との結びっ
きを同時に改善しようと努めた.
彼はゲオポリティ
ク誌に寄稿し,ハウスホーファーと手紙を交わした.
さらに,ソ連とオープンに向き合うよりも,共産主
義インターナショナル(コミンテルン)に対抗して,
1935-36年に議論した双務協定を目指すという考え
を持っていたのは,ラウマーに他ならない.
この考
えは,見かけ上は,ソ連と地政学的な意味での「口
シア」とを区別するハウスホーファーの考えを反映
するものだった(Spang 2013: 429-433).
ナチ・ドイツの対外政策を外部から眺めると,
ハウスホーファーの大陸横断的ブロック概念は,
1935/36年から1941年にかけて,すなわち,1936年
の反コミンテルン条約と1941年6月のソ連への攻撃
との間にかけての日本とソ連との関係を築くための
基本的なガイドラインのように見える.
しかしなが
ら,1939年のヒトラー・スターリン条約(独ソ不可
侵条約)が日本に衝撃を与えたことを忘れてはなら
ない•日本の親ドイツ的態度は,西側諸国だけでな
くソ連も共通の敵であるということに強く依拠して
カール・ハウスホーファーとドイツの地政学
33
いたからだ.
ヒトラー・スターリン条約の締結から
数週間後,ドイツ外務省にはハウスホーファーを日
本大使にと考える人々がいた.これは,ドイツ・
ロシア・日本の協力体制が必要だというハウスホー
ファーの主張を,彼らがよく認識していたことを示
すものであり,日本に対して,ナチ・ソビエト条約
の「地政学的必然性」を彼に説明させようと予定して
いたことは明らかである.
ヒトラー・スターリン条
約(1939),三国同盟(1940),日ソ中立条約(1941)の
組み合わせは大陸横断的ブロックをもたらしたもの
の,ヒトラーがスターリンと戦った「バルバロッサ
作戦」は,ヒトラーという指導者が,戦時下でさえも,
戦略的な地政学概念より,反共産主義イデオロギー
と人種主義(反セム主義と反スラブ主義)という考え
を確信していたことを示すものである.
全般的に言えば,ハウスホーファーは,1924年に,
地政学とヴェルサイユ条約に対する共通の修正主義
という斬新さに基づいて,若き日のヒトラーに影響
を与えたのは明らかだ.後に,人種主義,とりわけ
反セム主義が第三帝国の内外の政策の推進力となっ
たとき,ハウスホーファーの地政学は,ヒトラーと
いう指導者の,ソ連に対する現実的で攻撃的な意図
にとって有用なカムフラージュとして以外,もはや
関心を引かなかった.
ハウスホーファーの観点からすれば,事態は全く
異なって見えた.陸軍少将で名誉教授である彼は,
1920年代の好戦的で洗練されていない下士官を見下
したのに対して,1930年代における対外政策の成功
によって,ヒトラーは自らをドイツが必要とする真
の指導者だと確信するようになった.ドイツ軍がプ
ラハに押し入り,その後ポーランドを攻撃したとき,
ハウスホーファーは,こうした動きの賢明さを疑い
始めるようになったが,1941年に第三帝国がソ連を
攻撃し米国との戦争を宣言するに至ると,最終的に
ヒトラーが間違った方向に進んでいると確信した.
彼の息子のアルプレヒトとは異なって,その軍事的
背景から,このコースが間違っていると確信しても,
ハウスホーファーは最高指導者に対して陰謀を企む
ことができなかった.代わりに,彼の家族とりわけ
半分ユダヤ人の妻を守るために,ハウスホーファー
は晩年の著書においてヒトラーとドイツ軍を讃え続
けた.
5.第二次世界大戦中の米国における反ハウスホー
ファープロパガンダ
戦争中の英米における刊行物において,ハウス
ホーファーは,たびたび,きわめて影響力の大きい
人物として描かれた.こうした見方は,連合軍の反
ドイツ地政学の成立を強く促すものとなった.ハウ
スホーファーは対極者として理解されたのだった.
数年の間は,議論が正しいか否かは問題ではなかっ
た.こうした状況にあって,「千人ものナチ科学者」
を擁する「地政学研究所」がミュンヘンにあるという
フレデリック・ソンダーンFrederic Sonder nの主張は
誤った見方である(Sondern1941).以来,「地政学
研究所」という間違った考えがアメリカ人(およびイ
ギリス人)によるハウスホーファーとドイツ地政学
の見方に強く影響してきた.今日でさえも,ブリタ
ニカウェブ百科事典では,ハウスホーファーが,実
際には存在しなかった研究所の所長として描かれて
いる.戦争中のプロパガンダの極端な例は,「ヒト
ラーの帝国への計画」という1942年の映画に見られ
る.その映画では,ナレーターが次のように述べる。
…今日の時代にあって最も奇妙で(最も)重要な
人物の一人である・・・カール・E・ハウスホーファー
博士,ドイツアカデミーの会長,ドイツ国防軍の陸
軍少将,ナチの世界征服計画の首謀者によって•••
描かれた,膨大な征服計画.•••ハウスホーファー
のミュンヘン研究所は高度に組織化された世界的
な諜報体系の中枢である.•••9千人もの工作員の
懸命な業務によって,•••ハウスホーファーは,こ
の世の土地と人々について集められた,最も漏洩
防止されるべき,地理的•政治的•戦略的な知識
の一つと信じられているものを••・集めた•そして,
こうした情報に基づいて,彼は地政学という科学
ないしは「空間の軍事的支配」を••・基礎づけたの
だ・
「破滅への計画一ハウスホーファーによるナチ
の世界支配のための計画」というタイトルの映画
(1944)も同様な主張をし,ハウスホーファー,ヘ
ス,その他の人物を擬人化した役者を用いていた.
ヨーロッパ戦線での勝利の日,すなわち,ナチス・
ドイツが無条件降伏した日の米国の新聞には,ヒト
ラーの戦争をハウスホーファーと直接結びつけた記
事を見出すことができる.例えば,「アドルフ・ヒ
トラーはどのように勝ち,帝国を失ったか?」とい
う見出しで,ピッツバーグ・サンテレグラフ紙は,
ナチの拡大のさまざまな段階を示す一連の地図を示
し,1945年5月8日の読者に対して以下のように説明
する.「ハウスホーファー教授と地政学協会の世界
征服計画は,まず隣国の膨大な資源を手に入れるこ
とから始まった.ナチ・ドイツ(ハートランド)がそ
34
クリスティアン・W・シュパング
れらの獲得を企んだ順序が示される」•
それゆえ,米国政府の職員が,第二次大戦後に,
76歳でひ弱なハウスホーファーを何度も尋問した
が,ナチの戦争努力ないしは人道に反する犯罪に対
する彼の関与の十分な証拠を見出せなかった.ハウ
スホーファーのドラマの最後の舞台は1946年3月10
日である.それは,ドイツの敗戦に夢砕かれ,自ら
の地政学観のほとんどを否定され,ナチによって息
子のアルプレヒト(1944年7月のヒトラー暗殺計画に
関わった)を殺害された,カール・ハウスホーファー
が妻とともに命を絶った日だ.
今日においてもなお,米国人のハウスホーファー
観は1940年代の著作に歪められている.この傾向は
ハウスホーファーに関する最近の多くの著作におい
てもなお認められる(Herwig 2016).『コロンビア百
科事典』第6版(2001-05)を見ても明らかで,ウィキ
ペディアの英語版のカール・ハウスホーファーの項
目を見てもそうである.引用文献の多くが戦争中な
いしは戦後間もない頃に出版されたものなのだ.
II,ドイツの地政学
1.19世紀における歴史的背景
19世紀後半に展開した産業革命,帝国主義,(社会)
ダーウィ二ズム,科学的法則の重要性の高まりは,
(ドイツの)地政学の創設者の全てに強い影響を与え
た.1900年頃,フリードリッヒ・ラッツェルFried-
rich Ratzelやルドルフ・チェレーンRudolf Kjellenの
ような研究者たちはそうした法則を見出そうとし,
国家の行動を説明できる全体系を打ち立てようとし
た.世界をそのような視点から眺めながら,気候学
や地質学といった科学的法則に支配される分野か
ら,人類地理学や政治地理学のような人文学に基づ
く分野へと広がる,幅広い下位分野をもつ地理学は,
そうした努力の理想的な土台に見えた.
とはいえ,科学においては諸法則が作用するにし
ても,政治と密接に結びついた分野においては滅多
に作用することはない.初期の地政学者たちは世界
を説明しようとすると同時に,将来を予測しようと
するか,少なくとも,母国の指導者たちを助けて「正
しい」方向に導こうとした.このように,多くの地
政学者たちは,「地政学的法則」の構築が必要とされ
るほどには客観的ではなかった.アルフレッド・
マハンやハルフォード・マッキンダーのような英米
の著者たちがアングロ・サクソン的な観点で世界
を眺めたのに対して,小牧実繁のような日本の地
政学者たちは断固とした日本的見方を抱いていた
し,フリードリッヒ・ラッツェルやカール・ハウス
ホーファーはドイツ人の視点から見ていた.地政学
のこうした側面は,ピーター・J・ティラー Peter J.
Taylorが,「地政学の場合,その著作から,常に著
者の国民性を極めて容易に認めることができる」と,
的確に述べている.(Taylor 1993: 53).
このように述べてくると,ドイツ地政学の特異性
を理解しようとするなら,こうした歴史的環境を考
慮せねばならないことは明らかである.19世紀後半
のドイツの歴史は統一(戦争)とアフリカおよびア
ジアにおける植民地の獲得に特徴づけられており,
ラッツェルの決定論的な「成長空間の法則」と歩をー
にしていた.国家を,成長ないしは衰退する生命体
とみなす有機体的国家論と結びついた,ラッツェル
の「法則」は,19世紀半ばを反映するものだった.に
もかかわらず,積極的な考えは世紀末の悲観的ムー
ドとは相容れなかった.1900年頃には,世界の全て
の土地が取得されたため,「容易に」領土を増やすこ
とができる空間はなくなり,地政学的「閉所恐怖症」
感が広く漂っていた.
2.刺激となった世界大戦の敗戦
こうした一般的状況に加えて,第一次世界大戦の
敗北,とりわけ全植民地と西部領土(アルザス・ロ
レーヌとマルメディ・オイペン),北部領土(シュレ
スウィヒの一部),北東部領土(ダンツィヒおよびメ
メル)および南東部領土(ポズナニ,西プロイセン,
上シレジア,フルチーン地域)の喪失とが,ドイツ
では熱い論争となった.数多くの地理学者たちが
失った領土を描いた膨大な地図を作成し,直接ない
しは間接的に,この論争に加わった.敗戦を戦争に
批判的な左翼主義者のせいにする,誤った「背後の
ー突き」伝説DolchstoBlegendeが広く受容されたこと
と結びついて,この論争はドイツにおける失地回復
的な雰囲気を生み出した.こうした状況において,
政治的左翼と袂を分かった少数のドイツ人たちが,
ワイマール共和国のために熱狂的になったことに加
えて,新たな民主的政府が戦争犯罪条項(231条)を
持つヴェルサイユ条約に調印せねばならなかったと
いう事実が,民主主義への訴えをさらに弱めること
になった.西側諸国に対する憎悪と失地回復主義が
当時の雰囲気であり,極端なナショナリズムと地政
学とを養う理想的な前提条件であった.
カール・ハウスホーファーとドイツの地政学
35
- カール・E ・ハウスホーファーとドイツ地政学
ドイツ地政学の父としばしば呼ばれるカール・ハ
ウスホーファーは,1887年から1918/19年まで30年
間にわたって軍務に就いた後,1919年から1939年ま
で,ミュンヘンのルードヴィッヒ・マクシミリアン
大学で地政学,政治地理学,国防研究を教えた.彼
は第一次世界大戦前ないしは戦争中にラッツェルと
チェレーンとを見出し(そして彼らの考えに魅惑さ
れた)たものの,地政学という用語を積極的に用い
始めるまでにはしばらく時間がかかった.1920年と
1922年に,彼はそれほど重要でない2本の論文を書
いた.その後,1923年と1924年はドイツ地政学にとつ
て大躍進の年となった.第一に,ハウスホーファー
はジョセフ・メルツJosef Marzとともに,1923年に『民
族自決の地政学に向けて』Zur Geopolitik der Selbst-
bestimmungを出版した.第二に,その年の夏に,彼
は初めて大学の講義名に「地政学」という用語を用い
た.この授業を教えながら,彼は新雑誌『ゲオポリ
ティク』創刊号の準備に追われており,同誌は1924
年の1月に刊行された.最後に,この年にハウスホー
ファーは,彼の最も影響力のある著書となった『大
平洋地政学』Geopolitik des Pazfischen Ozeansを出版
した. - ゲオポリティク誌の他の代表的人物
リヒャルト・ヘニッヒRichard Hennigはそれほど
知られてはいないものの,ゲオポリティク誌の代表
的な論客であり,気候学および交通研究を専門とし
ていた.彼の観点は,チェレーンの有機体的国家
論に基づいており,地理的決定論につながったが,
「政治的発展の25 %までが地理によって説明できる」
と主張したカール・ハウスホーファーの有名な主張
よりもなお顕著な地理的決定論だった.ヘニッヒが
1928年に『地政学一生命体としての国家の研究^Geo-
politik. Die Lehre vom Staat als Lebewesen を刊行した
とき,彼の見方はそれほど議論を巻き起こさなかっ
たが,その後,レオ・ケルホルツLeo Korholzとの
共著で,ナチが政権を取った2年目に刊行した『地政
学入門^Einfuhrung in die Geopolitikという著書は,彼
の「地理的唯物論」と人種的思考の欠如という点で論
争を巻き起こした.同書は,クルト・フォーヴィン
ケルKurt VOwinkelが強く支持していた,人種研究と
地政学を統合しようとしたナチ指向的な「地政学研
究グループ(Arbeitsgemeischaft fur Geopolitik)」から
厳しく批判された.
エヴァルド・バンゼEwald Banseは『ゲオポリティ
ク』誌の編集メンバー以外のドイツ人地政学者で,
1933年にナチ党NSDA Pに加わった.バンゼは地理
学を国防研究と結びつけようとして,カール・ハウ
スホーファーやオスカー・フォン・ニーダーマイヤー
Oskar von Niedermayerとともに,「国防地政学Wehr-
geopolitikjという下位分野を構築し先導した.バン
ゼの著書『第一次世界大戦中の空間と大衆一国防教
義に関する考察』Raum und Volk im Weltkriege: Gedan-
ken uber eine nationale Wehrlehre が刊行されたのは,
ハウスホーファーの『国防地政学』Wehr-Geopolitik
(1941年までに5回も版を重ねた)と同じ年で,ワイ
マール共和国末期の1932年だった.バンゼの著書は
ハウスホーファーのものほど評判は良くなかったも
のの,米国では大きな反響を呼び,1934年には『ド
イツによる戦争の準備—ナチによる国防の理論』
Germany Prepares for War: A Nazi Theory of “National
Defense”というセンセーショナルなタイトルで刊行
された.同書に関する議論は,英米両国の多くの
人々が,バンゼ,ハウスホーファー,国防地政学を
事実上初めて知ることとなった.ハウスホーファー
とニーダーマイヤーが第一次世界大戦中に従軍して
戦ったのに対して,バンゼは従軍地質学者として
1917/18年に帝国軍に入隊した.バンゼの実戦経験
の無さを根拠に,ハウスホーファーは『国防地政学』
の創設者であるバンゼの主張を真面目に取り合おう
とはせず,1930年代半ばに,多少の舌戦を繰り広げ
たに止まった.1930年代には,国防地政学以外にも,
地法学 geo-jurisprudence,地哲学 geo-philosophy,地
心理学geo-psychology,地医学geomedicineなど,さ
まざまな地政学の分野が生み出された(Spang 2013:
250-256).
バンゼ,ハウスホーファー,ヘニッヒ,そして,
(この3人に比べれば影響力は少なかった)ニーダー
マイヤー以外にも,ここでは,ゲオポリティク誌の
創刊と編集に関わった二人の地理学者/地政学者を
簡単に紹介しておきたい.彼らがドイツ地政学の発
展に大きな役割を果たしたからである.エーリッヒ・
オプストErich Obstとオットー・マウルOtto Maullは
1931年まで編集委員会でカール・ハウスホーファー
に密接に協力した.オプストは同誌の共同創設者で
もある.二人は,同誌にナチの支持を得ようとする,
発行人クルト・フォーヴィンケルの新しい編集方針
に反対した.オプストは,実際には,1933年に「ア
ドルフ・ヒトラーと国家社会主義的国家に対する
ドイツ大学・高校教員の忠誠誓約」に署名し,アフ
リカ・植民地研究という,政治的にはそれほど過激
ではないテーマに専念した.オットー・マウルの場
合は,ゲオポリティク誌の編集委員会から離れたこ
36
クリスティアン・W・シュパング
とが,地政学を捨てたことを意味はしなかった.逆
に,彼は幅広い著作活動を展開し,ゲオポリティク
誌においてと同様,『地理学@Erdkunde誌においても,
アメリカの事象に関する地政学的レポートBerichter-
stattungを書き続けた.彼は2冊の関連する著書を刊
行した.一つは1936年に刊行された『地政学の本質』
Das Wesen der Geopolitik で,もう一冊は1940年に刊
行された,『地誌学と地政学@ Ldnderkunde und Geo-
politik を副題とする米国に関する本であった. - ゲオポリティク誌とナチスー「血と土」の問題
ゲオポリティク誌は,最初は,ヴェルサイユ条約
に反対する手段として,多くの保守主義者や国家社
会主義者から歓迎されたものの,のちに,党の強硬
派からは,ヘニッヒ(ある程度はハウスホーファー
も)のような人々は半ば反動的だとみなされた.そ
れは,彼らが地理,すなわち土地(Boden)を重視し
て政治的発展を説明することが,人種(血Blut)の影
響を限定すると思われたからだ.破壊的(反セム主
義)で「統合的な」(ニーチェの言う「超人」としての
アーリア人種)人種主義で全てを包括するナチのス
ローガンである「血と土Blut und Boden」の重要性を
考慮に入れると,こうした地政学に対する否定的な
見方は,ナチ体制が権力に止まり続ける限り,より
影響力を持つようになった(Bassin1987). - 枢軸諸国におけるドイツ地政学の積極的受容
第二次世界大戦前,大戦中,大戦後を通じて,
ドイツの地政学は英米において極めて否定的に受
け止められた.こうしたアングロ ・サクソンの戦争
中のプロパガンダは主にハウスホーファーと彼の見
解に焦点が当てられていたため,これについては,
ハウスホーファーに関する前章の「5.」(pp. 33-34)を
参照してほしい.逆に,イタリアや日本では,ドイ
ツの地政学,とりわけ,ハウスホーファーの考えは
かなり積極的に受け入れられた.ハウスホーファー
はイタリアをたびたび訪れたが,そこでは,ゲオポ
リティク誌の姉妹誌である『ジオポリティカ』Geopo-
litica誌が1939-1942年の間刊行されていた.日本で
も『ゲオポリティク』誌はよく読まれ,数多くの大
学および図書館で購読されていた.1930年代半ば
以降,ハウスホーファーの著書の何冊かが翻訳さ
れ,1941年には日本地政学協会が設立されて,協
会によって『地政学』誌(1942-44)が刊行された.こ
の協会と雑誌は日本の地政学の東京学派の中心と
なった(Spang 2013: 547-656).これに対して,小
牧実繁の指導下にあった日本地政学の京都学派は
ドイツ流の地政学とは距離を置き,代わりに当時
の皇道主義というイデオロギーに基づいた日本独
自の地政学を打ち立てようとした(Spang 2013: 656-
711).
7.ドイツにおける戦後の展開
1945年以降 地政学という用語がドイツでは全く
のタブーとなってしまったと言われるが,これは真
実ではない.西ドイツの代表的保守主義者で首相を
務めたコンラート・アデナウアーKonrad Adenauer
のような政治指導者は,この用語の使用を控えたも
のの,西ドイツの研究者の中には,ハウスホーファー
の『ゲオポリティク』誌を復刊させた者もいたのであ
る.新ゲオポリティク誌が1951年から1968年まで刊
行されたにもかかわらず,こうした努力は,売り上
げ部数においても影響力においても成功したとはい
えなかった.逆に,東ドイツおよびソ連においては,
「地政学」という用語は,「米国帝国主義」および西ド
イツで活性化したネオ・ナチズムに対する冷戦初期
のレトリックとして,1950年代に用いられた.ドイ
ツ語に翻訳されたユーリ・N・セミョー ノフJuri N.
Semjonovの著書(Semjonov1955)や,ドイツ社会主
義統一党中央委員会から支持を受けていた,ギユン
ター・ヘイデンGunter Heydenの著書(Heyden1955)
は明らかにそれを示している.
後に,とりわけ,西ドイツのいわゆる「歴史家論
争Historikerstreitj (1986-88) ホロコーストの特
異性と,ドイツ史のいわゆる「特有の道Sonderweg」
に関わる西ドイツの歴史家たちの論争-におい
て,地政学という用語がしばしば,反動的ないしは
タカ派的とみなされたことから,この用語に対す
る一抹の不安があったにもかかわらず,ドイツ生
まれのヘンリー・キッシンジャー Henry Kissingerや
ポーランド生まれのズビグネフ・ブレジンスキー
Zbigniew Brzezinskiといった米国の政治家によって
この用語がたびたび使われたことで,西ドイツでも
地政学に対する関心が高まった.
東西ドイツの統一とヨーロッパ内外の政治状況の
変化によって,ドイツにおける「地政学」という用語
に対するアプローチそのものは変化した.今日,地
政学はしばしば用いられるものの,その多くはカー
ル・ハウスホーファーや第三帝国についてほとんど
触れることはない.
カール・ハウスホーファーとドイツの地政学
37
表1 ゲオポリティク誌の編集委員と編集協力者,1924-44年
氏名/年 1924 1925 1926 1927 1928 1929 1930 1931 1932 | 1933 | 1934 1935-39 1940-44
ゲオポリティク誌 カール・ハウスホーファー 0 0 0 0 0 0 0 0
オブスト 0 0 0 0 0 0 0 0
ラウテンザッハ △ 0 0 0 0 △ △ △ △ △ △
ターマー △
マウル 0 〇 0 0 0 0 0
世界政治・経済雑誌 バール 0 △ 0 △ 0 △
ヴィーデンフェルト 一 △一 △ 一 △ [ △ ] △
ヘルマン 0 0 △ △ △
ゲオポリティク誌 ヴォーウィンケル 0
アルブレヒト・ハウスホーファー △ 1 △ 1 △ △
◎は単独編集者,〇は共同編集者,△は編集協力者
III,ゲオポリティク誌 - ゲオポリティク誌の創刊と編集者孤立主義と介
入主義
1924-44年の間刊行され(戦後も1951-68年の間刊
行された)『ゲオポリティク』誌は,世界で最初の「地
政学」を冠した定期(似非)学術雑誌である.カール・
E・ハウスホーファーとエーリッヒ・オプストを共
同編集者として創刊された.若き編集者クルト・
フォーヴィンケルは1931年と1950年代前半に共同編
集者を務め,新旧雑誌を結びつける役割を果たした.
戦間期および戦争中には,ドイツ内外で多大な関心
を集めたため,本誌の創刊がドイツ学派地政学の開
始とされる.
表1を見れば,ハウスホーファーが旧雑誌の主導
者であることは明白だが,他の人物も1934/39年ま
で同誌の刊行に関わっていた. - 転機と内輪もめ
編集者•編集協力者の変化,出版方針および内容
に基づくと,ゲオポリティク誌の刊行は3つの時期
1924-31年,1932-44年,1951-68年)ないしは4つの
時期(1924-31年,1931-39年,1940-44年,1951-68年)
に区分できる.これらの区分とは必ずしも一致し
ないが,これら以外に重要な転機が3つある.まず
192?年で,この年にゲオポリティク誌は,それまで
は独立した世界(経済)情勢専門誌だった『世界政治・
経済雑誌』(Weltpolitik und Weltwirtschaft, W&W)と
合併した.次いで1934年および35年には,ヘルマン・
ラウテンザッハHerrmann Lautensachと二人の編集協
力者が引退した.そして1939年にはアルプレヒト・
ハウスホーファーがゲオポリティク誌の編集協力者
を辞めた.
多数の地理学者および地政学者の中で,エーリッ
ヒ・オプスト,ヘルマン・ラウテンザッハ,オットー・
マウル,アルプレヒト・ハウスホーファーが,最も
長きにわたってカール・ハウスホーファーの共同編
集者を務めた.192?年から34年までの間は,アル
フレート・バールAlfred Ballとアルトウル・バール
Arthur Ball,クルト・ヴィーデンフェルトKurt Wie-
denfeld,ゲルハルト・ヘルマンGerhard Herrmannが,
ゲオポリティク誌の世界政治•経済雑誌部門の共同
編集者ないしは協力者を務めた.主に経済的な理由
で,この合併はフォーヴィンケルによって進められ
たが,著名な(国際的)著者や読者を集めるのに役立
ち,1920年代後半にはゲオポリティク誌の評判を高
めることとなった(Hepple 2008).他方で,この合
併はドイツ学派地政学の論を待たない代弁者とし
ての本誌の性格をいくぶん弱めることにもなった
(Harbeck 1963: 22-2?).
こうした展開は,元々ゲオポリティク誌を政治地
理学者の雑誌として創刊しようとしたオプストやマ
ウルとフォーヴィンケルとの間に深刻な対立を引き
起こした(Natter 2003: 193-195).彼らは地政学を政
治地理学の実践的な応用とみなしていたが,フォー
ヴィンケルは政治学に近いものと理解していた.異
例の軍事・学術的背景をもつカール・ハウスホー
ファーは中間の方向を進もうとした.これが,他の
編集者たちが去った後も彼がただ一人で懸命に編集
作業を行った理由である.
なお,戦争中におけるゲオポリティク誌最後の刊
行となった21巻5/6(9/12月号,1944)は,『自由学派
雑誌』Zeitschrift Schule der Freiheitと戦時共同で刊行
された.つまり,ゲオポリティク誌は,経済学者オッ
トー・ラウテンバツハOtto Lautenbachの雑誌と強制
的に合併させられたのである.
3.出版部数
1929年の世界恐慌とともに生じた内部対立によつ
て,ゲオポリティク誌は廃刊の危機に陥った.1928
年には毎月4,000部に達していた出版数は,1930年
代初期には2,500部に減少した.その後1937年には,
出版部数は4,000部まで回復し,1939年には6,000部
38
クリスティアン・W・シュパング
に迫った.戦争中には,毎月9,500部が印刷され,
そのうち30%が海軍ないしは戦場の兵士たちに送ら
れた.こうした出版部数の増減は,各号のページ数
にも反映されている.1928年には1,000ページを超
えていたのに対して,1934年には800ページに減少
した.193?年には再び1,000ページに達し,1939年
には900ページに減少し,戦争中には600ページに減
少した.1943年春以降には隔月刊となり,ページ数
も年間で350ページまで減少した.1944年に刊行さ
れた最後の5冊は250ページに満たなかった(Spang
2013: 243).
全体的には,ゲオポリティク誌は1924年から44年
までの間におよそ百万部印刷されたと思われる.戦
前には,およそ25%が大学,図書館,海外の読者に
送られていた(Harbeck 1963: 15-16).ドイツ国内の
図書館に配布されていたことから,定期購読者数は
出版部数よりはるかに多かったと思われ,戦前と戦
中の時期には,ゲオポリティク誌が地政学的思考の
普及に重要な役割を果たしていた. - ゲオポリティク誌のナチ化
ゲオポリティク誌の展開に話を戻すと,1931/32
年に重要な変化が生じた.オプストとマウルが編集
委員会から去ったのである.同誌に対するナチの支
持をさらに高めようとしたクルト・フォーヴィンケ
ルの意向に反対したためである.オプストは,ハウ
スホーファーの世界観やソ連との同盟の可能性な
いしは願望においても意見が異なっており(Dostal
2016: 51-37),編集委員を辞めてからは地政学分野
との関わりもほぼ無くなった.これに対してマウル
は,他の雑誌において地政学との関わりを持ち続け
た.ラウテンザッハは,1938年までゲオポリティク
誌の編集協力者に止まり,さまざまな論文を刊行し
続けた.カール・ハウスホーファー単独の編集体制
となってからは,同誌に対する国家社会主義的イデ
オロギーの影響力が強まった.これは,1932年に設
立されたナチを強く志向する人種主義的な「地政学
研究グループ(Arbeitsgemeinschaft fur Geopolitik)」に
深く関与していたフォーヴィンケルによって推し進
められたものだった.こうして,当初は保守的で失
地回復主義的だったゲオポリティク誌は,ナチが政
権を獲得するまさに直前に国家社会主義的傾向を強
く持つようになったのである(Harbeck 1963: 29-4?). - カール・ハウスホーファーとゲオポリティク誌
カール・ハウスホーファーがゲオポリティク誌
で公表された主張に関してどれほど支配的だったの
かという問いをめぐっては,これまでにも論争が
あった(Sprengel 1996: 18-19. Spang 2013: 239-240).
「月報Berichterstattung」というジャンルでは,ハウ
スホーファーらがアジアと太平洋,オプストがヨー
ロッパとアフリカ,マウル(のちにアルプレヒト・
ハウスホーファー)がアメリカと大西洋を担当して
いたが,このジャンルを除くとカール・ハウスホー
ファーの寄稿は6.5%にしか過ぎないけれども,こ
れを含めると18%にまで高まるのである.こうし
て,ゲオポリティク誌において刊行された記事の
うち6本に1本がカール・ハウスホーファーによって
執筆され,彼は同誌の最も卓越した著者であった.
このことは,同誌においてアジア関連の記事が卓
越したことの現れでもある(Spang 2013:174. Dostal
2016: 53-64). 1938/39年までは,ヒトラーの対外政
策の成功を根拠として,(当時のドイツの保守主義
者とともに)カール・ハウスホーファーはナチを支
持した.この好例はゲオポリティク誌にも見られる.
「1936年3月29日の地政学の主張Stimme der Geopoli-
tik zum 29. Marz 1936j (ZfGp 1936: 24?)および「1938
年の地政学的収穫感謝祭! Geopolitischer Erntedank
1938!j (ZfGp 1938: 781-782)を参照されたい.第二
次世界大戦開始後,ハウスホーファーは,その論説
「収穫Herbsten?j (ZfGp 1939: 741-743)において,英
国政府を非難した.のちに彼は,「世界像解明の責
務 Verpflichtung zum klaren Weltbildj (ZfGp 1943: 1-7)
を寄稿して,ドイツ人大衆の戦意を高めた.
6.1945年以降のゲオポリティク誌
戦後に復刊したゲオポリティク誌は,ドイツの地
政学的思考の傑出した代弁者としてのかつての地位
を超えることは決してなかった.最近の研究によれ
ば,西ドイツ時代のゲオポリティク誌は,1956年の
編集体制の変化によって,二つの時期に区分され
る.戦後最初の編集長はカール・ハインツ・プフェ
ファー Karl Heinz Pfefferで,彼は熱心なナチ党員で
あり,ベルリン大学海外研究学部の前学部長だっ
た.1956年にロルフ・ヒンダーRolf Hinderが編集長
を引き継ぎ,ゲオポリティク誌と『共同社会と政治
学』Gemeinschaft und Politik誌を合併した.この最後
の合併号は,ボンにあった地社会学•政治学研究所
によって刊行された.プフェファーの受動的な方針
とは異なり,ヒンターは積極的に自らの課題を押し
進め,西ドイツにとって,政治的には中立的な「第
三の道」の議論を展開した.冷戦下で,コンラート・
カール・ハウスホーファーとドイツの地政学
39
アデナウアー首相による親西側,反共産主義,保守
的政策の社会にあっては,ゲオポリティク誌の評判
は高まるはずがなく,1968年にはついに廃刊となっ
た.
IV汎地域 - 「汎概念」vs•「汎地域」
カール・E・ハウスホーファーがその著書『汎概
念の地政学』Geopolitik der Pan-Ideenを1931年に刊行
したとき,「地域」ではなく「概念」としたのは偶然の
一致ではない.「汎地域」が明白な地理的特徴に基づ
く地政学用語を示すのに対して,「汎概念」は幅広い
意味を持ち,具体的な地理的基礎を欠くのがしばし
ばである.その著書のまえがき(p.5)において,ハ
ウスホーファーはほとんどの汎概念は単なる「空中
楼閣LuftschlOsser」に過ぎないと明確に記している.
ハウスホーファーが同書で述べる「汎概念」は,それ
までにすでに存在していたものだ.したがって,ハ
ウスホーファーがこの用語を創出したとする,幅広
い見方は言い過ぎだろう(Parker 1998: 33,123).に
もかかわらず,『汎概念の地政学』はこうした考えを
要約し比較しようとした最初のものである. - ドイツ地政学の転換点としての1931年
あらゆる点で,本書のタイミングは重要だっ
た.1928年5月の選挙で惨敗(2.6%)した後,ナチ党
(NSDAP)の得票率は1930年9月の選挙では18.3%に
達し,帝国議会Reichstagで第2党になった.この成
功はドイツ地政学には悪影響を与えた.というのも,
ゲオポリティク誌の発行者だったクルト・フォー
ヴィンケルがより一層「国家社会主義者」へ,すなわ
ち,人種主義者へと突き進んだのに対して,他の編
集者たちがこれに反対し,エーリッヒ・オプストと
オットー・マウルが,1931年に編集委員会を去った
からである.1932年からは,ハウスホーファーが唯
ーの編集者として発行を続けたという事実は,必ず
しも彼がフォーヴィンケルの路線を支持していたこ
とを意味するわけではない.実際,ハウスホーファー
はナチ党の党員にはならなかったのだ. - 土台としての人種vs•地理
『汎概念の地政学』において,ハウスホーファーは
人種に基づく「汎概念」を述べることは稀だった.「汎
ゲルマン主義」や「汎スラブ主義」のような影響力の
ある概念でさえも扱われることはなかった.それゆ
え,彼の本は,1931/32年のドイツ地政学における
人種主義的傾向に対しては間接的声明とみなされう
る.こうして,同書がフォーヴィンケルではなく別
の発行者から出版されたことは驚くにあたらない.
概して,ハウスホーファーは,汎概念の将来性に関
しては,むしろ懐疑的だった.彼はヨーロッパ中心
の国際連盟を世界大の国際問題を解決するために即
席に創られたものとみなしていたため,汎地域が将
来の発展において国際連盟と個々の国家との間でー
種の調停者になるかもしれないという希望を表明し
ていた(Haushofer 1931:15, 83, 90).
4.世界地図の区分
ハウスホーファーは,異なる汎概念の多くが対立
する事例として米国を示している.彼によれば,こ
れら異なる汎概念は,汎アメリカ主義という大陸
的概念と汎太平洋主義という海洋的概念とを同時
に支えるものだった.度重なる彼の主張によれば,
多くの汎概念は重なり合い,互いに矛盾している
(Haushofer 1931: 8,84).したがって,米国を頂点と
する汎アメリカ,ドイツとイタリアの支配下にある
ユーラフリカ,日本の指導下にある汎アジア,ソビ
エトの支配下にあるユーラシアといった,世界を三
つないしは四つに区分する擁護者として,ハウス
ホーファーが幅広く理解されたのは,少なくとも
1930年代初期においては明らかに誤りであること
を,こうした矛盾が示しているように思われる.彼
の著書『汎概念の地政学』のどこにも,ハウスホー
ファーがそうした世界の地域区分を熱心に主張した
ことは見当たらない.
彼の著書(Haushofer 1931:9)にある全ての地図の
中で最も一般的なものは,世界を五つのブロックと
どこにも区分されない「自由な」国々とに区分したも
のである.しかし,そのキャプションには,その
地図がリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー
Richard Coudenhove-Kalergiによる汎ヨーロッパ連合
概念——第二次世界大戦後に,今日のヨーロッパ連
合の先駆けの一つとしてたびたび理解されてきた
——に基づくものだと書かれている.それにもかか
わらず,1931年には,ハウスホーファーは,何百万
人もの人々の民族自決に背き,潜在的に戦争の原
因となるものとして,この概念を批判したのであ
る(Haushofbr 1931: 10).その地図が示すのは,(1)
40
クリスティアン・W・シュパング
汎ヨーロッパ(英国以外のヨーロッパの植民地を含
む),(2)汎アメリカ(カナダを除く),(3)大英帝国,
(4)ロシア/ソ連,(5)「東アジア」(中国,朝鮮,
日本を含むもので,何らかの汎概念は明示されてい
ない)である.これら五つのブロック以外に,トルコ,
イラン,アフガニスタン,エチオピア,タイが独立
諸国として示されている. - ゲオポリティク誌と世界の区分
ゲオポリティク誌がさまざまな用語を用いたとい
うだけで,同誌のアウトラインが「汎ヨーロッパ,
汎アメリカ,汎アジアという地球の三区分」という
ハウスホーファーの考えを固めたという主張(〇’
Loughlin 1994:193)も誤りである.同誌は,その論
文を区別するのに「汎」という接頭語の付いた表現を
決して用いなかった.実際,ゲオポリティク誌は,
共同編集者であるエーリッヒ・オプスト,カール・
ハウスホーファー,オットー・マウルによるレポー
卜を, 元々は, 「旧世界地域」,「インド•太平洋世
界」,「大西洋世界」という形で区分した.1925年には,
オプストが自らの報告を(「旧世界」に替えて)「ヨー
ロッパとアフリカ」に変更し,マウルの報告も「アメ
リカの半球」に集約された.いくつかの変更がみら
れたのち,1932年から1939年までの大半の報告は以
下のように区分された.アルプレヒト・ハウスホー
ファーによる「大西洋世界地域」と彼の父による「イ
ンド・太平洋地域」とである. - 大陸横断的ブロック
ハウスホーファーが最も気に入っていた理論は,
ドイツ,ロシア/ソ連,日本を束ねた,大陸横断的
ブロックという概念で,世界を三つ,四つないしは
五つのブロックへと区分するものとはいくぶん異な
る.彼はこの考えを東アジアから戻った直後に初め
て図式化しており,マッキンダーの理論とハウス
ホーファーとの直接的な結びつきという想定は歴史
家による産物のようだ.のちに,ハウスホーファー
はマッキンダーのハートランド理論を知り,ロシ
ァ・ドイツ関係の重要性という点で,自らの世界観
とマッキンダーのそれとが重なることを理解したも
のの,ベルリンとサンクト・ペテルブルクないしは
後のモスクワとの協力(ハウスホーファー)か否か
(マッキンダー)のいずれが望ましいのかという問題
になると見解を異にした.
もしハウスホーファーの心の中に,何らかの世界
の大区分があったとすれば,一方には(フランスも
含めた)アングロ・アメリカという「持つ」国々の線
に沿ったものがあり,他方には,「持たざる」国々が
あった.こうして,世界においてより大きな役割を
願うドイツの主張を反西欧的脱植民地主義の主張と
結びつけることを可能にしたのである.
7.汎アジア主義
1931年に,ハウスホーファーは,汎アジア主義を,
モスクワを基礎とする概念,すなわち,アジアを統
合して共産主義拡大の手段とする,共産主義体制の
試みとして理解した.これは,汎アジア主義の特異
な解釈として述べるべきである.というのも,彼は
汎アジア主義を米国指導下の汎太平洋主義の主たる
敵と見ていたからだ.ある意味では,ハウスホー
ファーは,後の冷戦の対立を汎概念に基づいて予測
していたことになる.ここに,アルフレッド・マハ
ンとハルフォード・マッキンダーの対立,すなわち,
ランドパワー(ソ連)とシーパワー(米国)の対立を
見ることができる.彼は,1930年代前半までに両国
が国際連盟に加盟しなかった理由の一つは,何らか
の国際干渉を認めたがらないことにある,すなわち,
両国の汎概念の対立が理由だとまで主張したのであ
る(Haushofer 1931: 78).
最近,汎アジア主義の歴史が多くの出版物で話
題になっているが(Saaler-Koschmann 2007, Saaler-
Szpilman 2011, Weber 2018),その多く は,19 世紀末
ないしは20世紀初期にまで遡って,東アジア共同
体に関する中国と日本との協力に焦点を当ててい
る.この分野で積極的に活動しているスヴェン・
サーラーSven Saalerは,2007年の著作『近代日本の
歴史における汎アジア主義』Pan-Asianism in Modern
Japanese Historyの序文(pp. 2-3)で,次のように述べ
ている.
「汎アジァイデオロギーは,「日本人の」アイデン
ティティの創造過程と同様,近代日本の対外政策
のどこにでもある諸力の一つであった.••・それは
日本政府の「現実主義的な」対外政策に対するアン
チテーゼとしてのイデオロギーへと進展した■••.
初期の汎アジア主義の著作には,•••日本のアジア
との共同性を強調するとともに,アジアの人々と
国々を統一して西洋の進出から守ることを目的と
していた.」
この引用は二つのことを示している.第一に,汎
概念がハウスホーファーの1931年の著書よりもはる
カール・ハウスホーファーとドイツの地政学
41
かに古いという以前からの主張を支持するものだと
いうこと•第二に,この引用が汎概念の別の側面を
述べていることである.これらの大半は積極的なも
ので,統合的な側面を有していた.その反面,消極
的なものもあり,大半の汎概念は他者に向けられて
いた.上に引用した事例のように,「他者」とは西洋
の植民勢力である.それゆえ,19世紀および20世紀
初期の汎アジア主義には二つの重要なルーツがあ
る.一つは統一意識であり,二つ目は共通の敵に立
ち向かう意識である.
8.おわりに
以上をまとめると,ハウスホーファーの汎概念の
地政学とは,実はすでに何十年にもわたって構築さ
れてきた考えの記述と評価に過ぎないことを繰り返
さねばならない.このことは誤りを認めるのではな
く,世界を揺るぎのない三つないしは四つに区分す
るという提唱者としての,しばしば繰り返されてき
たハウスホーファーの見方である.
注
1) 本稿は,丸善出版から刊行予定の『現代地政学事典』のた
めにシュパング氏が英語で執筆した,「カール・ハウス
ホーファー」「ドイツの地政学」「ゲオポリティク誌」「汎
地域」の4項目のオリジナル原稿を,高木が日本語に翻訳
して一つにまとめたものである.
訳者あとがき
本稿は,クリスティアン・W・シュパングChris-
tian Wilhelm Spang氏によって書かれた「カール・ハ
ウスホーファー」「ドイツの地政学」「ゲオポリティ
ク誌」「汎地域」の,4つの原稿を「カール・ハウスホー
ファーとドイツの地政学」という表題としてまとめ
たものである.これら4つの原稿は,もともと丸善
出版から刊行予定の『現代地政学事典』の4つの項目
のために英語で執筆されたものである.
同事典の編集者である訳者(高木)が,シュパング
氏によって書かれた英語のオリジナル原稿を,事典
の項目のフォーマット(2頁ないしは4頁)に和訳する
作業を行ったものの,オリジナル原稿のボリューム
が大きく,事典の制限字数内にまとめようとすると,
大幅な要約となってしまい,オリジナル原稿に書か
れた貴重な内容が無駄になってしまうという懸念が
生じた.そこで,訳者は,4原稿を「カール・ハウス
ホーファーとドイツの地政学」という表題で一つの
論文としてまとめ,その翻訳を本誌に掲載してみよ
うと思い立った.シュパング氏と丸善出版にこの企
画を打診したところ,いずれも快諾されたため,こ
うして翻訳論文として掲載することができた.これ
ら4項目はもともと別個の項目として執筆されたも
のであるため,ひとつにまとめると,内容的な重な
りが目立つし,論文構成も必ずしも統一のとれたも
のにはなっていない.こうした不具合があるとはい
え,オリジナル原稿が持つ貴重な内容を失うことな
くこうして掲載できるメリットの方を訳者は優先し
たしだいである.
シュパング氏によれば,同氏は1968年ドイツ生ま
れ,エアランゲン大学とフライブルク大学(この間
ダブリン大学に1年間留学)で近現代史,中世史また
は英語学をそれぞれ学んだ後,フライブルク大学の
大学院に進み,1997年に「ナチスの日本像とその形
成におけるカール・ハウスホーファーの役割」の研
究で修上の学位を取得した.さらに,同大学院の博
上課程に進学して「ハウスホーファーと日本」の研究
により,2009年に博上の学位を取得した.この学位
論文は,『ハウスホーファーと日本』(Karl Hausho
fer und Japan. Die Rezeption seiner geopolitischen
Theorien in der deutschen und japanischen Politik)
として2013年に刊行された.この間,1998年に来
日し,東京大学歴史学研究室に研究生として滞在し
た後,2000年10月から2006年3月まで国際基督教大
学アジア文化研究所の研究助手,2009年4月〜2012
年3月には筑波大学外国語センター准教授,2012年4
月〜2016年3月には大東文化大学准教授,2016年4月
には教授に昇任し現在に至っている.
なお,著者のシュパング氏による翻訳論文が故石
井素介氏の翻訳により,本誌第6号(2001)に「カール・
ハウスホーファーと日本の地政学」(pp. 2-21)とし
て掲載されている.併せてお読みいただければ幸い
である.
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