中国が安保理ネット生中継に反対 北朝鮮会合、隠蔽と米批判

中国が安保理ネット生中継に反対 北朝鮮会合、隠蔽と米批判
https://www.47news.jp/world/9074346.html

 ※ 今日は、こんな所で…。

『【ニューヨーク共同】米国とアルバニアは17日、国連安全保障理事会で北朝鮮の人権状況を協議する非公式会合を開催した。米政府高官によると、中国の反対で会合はインターネット中継されなかった。米国のトーマスグリーンフィールド国連大使は名指しを避けながら「北朝鮮の残虐行為を隠蔽しようとしている」と批判した。

 会合は安保理の全15理事国が同意すればネットで生中継される。中国の代表は「会合は建設的でなく、対立を激化させ、無責任だ。ネット中継は国連の資源の無駄遣いになる」と反論した。

 2014年に家族と脱北した女性は会合で、親友の父が処刑され、親友も政治犯収容所に連行されたなどと証言した。』

国連安保理 北朝鮮の人権状況話し合う非公式会合で非難の応酬

国連安保理 北朝鮮の人権状況話し合う非公式会合で非難の応酬
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230318/k10014012281000.html

『国連の安全保障理事会では、北朝鮮の人権状況を話し合う会合が開かれ、アメリカや日本などから、北朝鮮は人権状況の改善に使うべき資金を核・ミサイル開発に使っていると非難する意見が相次ぎました。

一方、中国は緊張や対立につながりかねない議論は建設的ではないとして、アメリカを非難しました。

北朝鮮の人権状況を話し合う安保理の非公式会合は、日本と韓国が共同で提案して17日、ニューヨークの国連本部でおよそ70か国が参加して開かれました。

はじめに、会議を主催したアメリカのトーマスグリーンフィールド国連大使が、「北朝鮮は、国民の人権よりも大量破壊兵器の追求を優先している。栄養よりも弾薬を、人々よりもミサイルを優先させている」と述べ、各国からも、北朝鮮が人権状況の改善に使うべき資金を核・ミサイル開発に充てていると非難する意見が相次ぎました。

また日本の石兼国連大使は北朝鮮による拉致被害者に言及し、「彼らは未来を奪われ、家族は引き裂かれた。拉致は、国の主権に関わる重大な問題であり、間違いなく国際社会の平和と安全に対する脅威だ」と訴えました。

一方、中国の代表は今回の会合は朝鮮半島の緊張や対立につながりかねず建設的ではないと主張し、「現在の朝鮮半島の状況は、特定の国がこれまでの対話の成果を顧みず、繰り返し政策を変更した結果によるものだ。制裁などで圧力を加えることは問題の解決に役立たない」と述べ、アメリカを非難しました。

米国連大使 “拉致問題の早期解決に協力”

アメリカのトーマスグリーンフィールド国連大使はNHKの単独インタビューに応じ、「60か国以上から北朝鮮による人権侵害の問題に安保理が取り組むよう求める書簡が届いた。きょうの会合は、北朝鮮の人権問題を前面に押し出す機会となった」と述べ、意義を強調しました。

そして拉致問題について「わたしたちは日本や韓国とともに、この不幸な状況を解決するため、圧力を強化する必要がある」と述べ、拉致問題の早期解決に向け引き続き協力していく考えを示しました。

また会合では、北朝鮮が人権状況の改善に使うべき資金を核・ミサイル開発に充てていると非難する声が相次ぎ、トーマスグリーンフィールド国連大使は、北朝鮮が16日、ICBM級のミサイルを日本海に向けて発射したことについて、「安保理は発射を非難する公開の会合を開く必要がある。ICBMの発射に対処するため近日中に会合を要請する」と述べ、近く安保理の緊急会合を要請することを明らかにしました。

石兼国連大使「拉致問題 国際社会の関心つなぎとめたい」

北朝鮮の人権状況を話し合う国連安全保障理事会の会合の後、日本の石兼国連大使は記者団に対し「会合にはおよそ70か国が参加し30か国近くが発言した。北朝鮮の人権問題に対する国際社会の関心を反映していると受け止めている。われわれとしては北朝鮮の人権問題、そして最重要課題である拉致問題について、国際社会の関心をしっかりとつなぎとめ、解決につなげていきたい」と述べました。

また北朝鮮が16日にICBM級のミサイルを日本海に向けて発射したことについて「安保理の場で議論することが必要だ。いまその準備や働きかけを行っている」と述べ、緊急会合の開催に向け調整を進めていることを明らかにしました。』

実は一番痛いところを突かれたか、「台湾に侵攻したら共産党幹部とその親族の財産に制裁」の米法案に習近平政権ブチ切れ会見

実は一番痛いところを突かれたか、「台湾に侵攻したら共産党幹部とその親族の財産に制裁」の米法案に習近平政権ブチ切れ会見
https://news.yahoo.co.jp/articles/058d4e9c0dc76fdbd7338ee0ebde73dba36ab29f?page=1

『米中国交回復以来の「きつい」警告

Photo by gettyimages

 今月6日、中国の習近平主席は共産党政治局常務委員の王滬寧・蔡奇氏らを率いて開催中の政治協商会議の経済界関連の分科会に出席し、「重要講話」を行った。

【画像】中国で、まさか「長江が干上がった」…!

 その中で彼は、中国の置かれている国際環境を語る文脈において、「米国を頭とする西側諸国はわが国に対して全方位的な封じ込めや包囲、抑圧を行い、わが国の発展に未曾有の厳しい試練を与えている」と、注目の対米批判発言を行なった。

 それまでには、習主席自身は米国のことを名指して批判することはほとんどない。昨年8月のペロシ訪台や今年2月の「気球撃墜事件」に際しても習主席はいっさい発言せずに、対米批判はもっぱら中国外務省のレベルで行われた。しかし今回、政治協商会議という公の場で、習氏が自ら対米名指し批判を行うのはまさに異例のことである。

 習主席の対米発言の翌日の7日、中国の秦剛外務大臣(外交部部長)は全人代関連の記者会見を行い、1時間50分に渡って14の質問に答えたが、米中関係・台湾問題・インド太平洋戦略・一帶一路について語る場面では彼は終始一貫、米国を名指して批判した。

 その中でも特に注目すべきなのは以下の発言である。

 「米国が中米関係にガードレールを設置して衝突してはいけないというが、もし米国側がブレーキを踏まないで誤った道に従って暴走すれば、いくら多くのガードレールがあっても脱線と横転を防止できないため、必然的に衝突と対抗に陥るだろう。その災難的な結果の責任を誰が負うのだろうか」と。

 この秦剛対米発言はおそらく、米中国交樹立以来の両国関係史上、中国外相が米国に対して行った最も激しい批判であると思う。「衝突と対抗」や「災難的な結果」という際どい言葉を発した秦外相は明らかに、米国に対してこの上なく強い警告を行い、ある意味での「最終通告」を行ったとも理解できよう。

しかし何のため? 気球問題ではない

 しかしよく考えてみれば、米国のQUADなどの中国に対する戦略的封じ込めや台湾支援、そして中国への先端技術禁輸などは、この数年間ずっと継続されており、別に今、始まったことではない。どうして今、習主席-秦外相のラインは突如、これほどの対米批判・警告を発すこととなったのだろうか。

 原因の1つは、2月初旬に起きた中国の偵察気球が米軍によって撃墜された事件にあると考えられる。中国軍による外交妨害工作の可能性もあったが、結果的には習政権の対米改善外交が中断し挫折したことは、2月15日公開の「中国軍が偵察気球で『米中関係改善潰し』に暗躍…習近平政権、実は内部分裂?」で指摘した通りである。

 秦外相は前述の記者会見でもやはり、「気球事件」を取り上げて米国を厳しく批判した。しかしそれだけでは、秦外相が発した米国への「最終通告」の真意は解釈しきれない。

 実際、気球撃墜事件が起きた当時、秦外相は一切発言せずに対米批判を避け、関係改善に余地を残したはずだが、今になって全面的な米国批判に踏み切ったのは一体なぜか。そして、「米国側がブレーキを踏まないで誤った道に従って暴走すれば」という彼の対米批判発言に出た「暴走」という言葉は一体何を指しているのか。』

『「台湾紛争抑制法案」米下院で可決

 実は、この秦剛発言の1週間前の2月28日、米連邦議会下院金融委員会は台湾に関する3つの法案を圧倒的な多数で可決した。「台湾紛争抑制法案」「台湾保護法案」「台湾差別禁止法案」の3つである。いずれも中国の台湾抑圧に抗して台湾を支援し、中国の台湾侵攻を抑制するための法案であるが、その中で特に注目すべきなのは、「台湾紛争抑制法案(Taiwan Conflict Deterrence Act)」である。

 というのはこの本案には、米国財務省に中国共産党幹部とその親族たちの在米資産の調査を求める条項と、米国金融機構に対し中共幹部と親族に金融サービスを提供することを禁じる条項が含まれているからである。

 アメリカンボイスの中国語Webが報じたところによると、法案の提出者である下院議員フレンチ・ヒル氏は、その意図について「法案は中国共産党に次のことを知らせようとしている。台湾を危険に晒し出したら、彼らの財産状況が中国公衆の知るところとなり、彼らとその親族は厳しい金融制裁を受けるのであろう」と語っているという。

 つまり、この「台湾紛争抑制法案」が成立すれば、中国共産党政権が台湾侵攻に踏み切った場合、共産党幹部とその親族たちの米国での隠し資産が白日の元に公開されてしまうだけでなく、その資産が制裁の対象となって凍結・没収される可能性もあるのである。そして、これを持って中国共産党の台湾侵攻を阻止する狙いの法案であろう。
アキレス腱を狙う

 もちろんそれは、中国共産党に対して大変な威力のある「戦争阻止法案」となろう。共産党政権を支える高官たちの大半(もっといえばほとんど)が米国に隠し資産を持っていることは「公開の秘密」でもある。それが米国の法律によって凍結・没収される危険性が生じてくると、共産党幹部集団にとっての死活問題となるからである。

 2021年7月26日、中国の謝鋒外務次官は中国の天津でシャーマン米国務副長官と会談したが、その中で謝外務次官は、「やめて欲しいことのリスト」を米国側に手渡したことは明るみになっている。

 そしてリストの筆頭にあるのは、実は「中国共産党員とその親族に対する入国ビザの制限」とのことである。共産党の幹部たちは米国に「虎の子」の財産を持ち、彼らと彼らの親族の米国入国に対する制限は政権全体にとっての大問題となっているからこそ、それは米国に「やめてほしいこと」のリストの筆頭に上がったわけであるが、このことは逆に、中国共産党政権のアキレス腱がどこにあるのかを暴露している。

 したがって、前述の「台湾紛争抑制法案」が米国の国内法として成立すれば、中国共産党政権の高官たちは、自分たちの財産を守るために習主席の企む「台湾併合戦争」を、全力を挙げて妨害し、阻止しなければならない。それはまさしく「法案」の狙うところである。』

『反応を見る限り効果的な法案

 もちろんそれでは習主席と習政権は大変窮地に立たされることとなる。法案が法律として成立した後で台湾併合戦争を強行すれば、軍幹部を含めた共産党政権の幹部集団のほぼ全員を敵に回してしまうし、彼らによる様々な形での妨害を受けることも予想される。極端の場合、幹部たちの集団的反乱を招く可能性もある。

 しかし台湾併合をそのまま断念してしまえば、習主席にとっては歴史的な大敗退であって自らの権威失墜と政権の弱体化を招きかねない。まさに「進も地獄退くも地獄」なのである。

 だからこそ、前述の法案が米国議会下院の金融委員会で可決された直後から、習主席自身と秦外相は激しい言葉で異例の対米批判し、「米国側がブレーキを踏まないで誤った道に従って暴走すれば、(米中関係は)必然的に衝突と対抗に陥る」との前代未聞の警告まで秦外相の口から吐かれたのである。

 彼がここでいう米国側の「暴走」とは、まさに「台湾紛争抑制法案」の金融委員会可決と今後の法律化への動きであると理解できよう。

 今後、米国議会(下院・上院)においてこの法案が審議に上がって可決・成立する可能性は非常に高いと思われるが、それを何とか阻止したいのは今の習近平政権の本音であろう。しかしそれでは、台湾侵攻に関する習近平政権の最大のアキレス腱の一つが目に見える形で暴露された訳である。

 今後、米国だけでなくEU・日本が歩調を合わせて、中国共産党政権が台湾侵攻を敢行した場合、共産党と親族の在外資産の凍結・没収を法的に定めてそれを高らかに宣言しておけば、それは間違いなく、台湾併合戦争の発動を阻止するための抑止力となるのであろう。

関連記事『習近平、ついに“自滅”か…アメリカの論文が予想した中国「大崩壊」の末路』もぜひあわせてお読みください。

石 平(評論家)』

地政学と日本の大戦略

地政学と日本の大戦略
https://www.kokuminkaikan.jp/chair/lecture/fCnQxZz8

 ※ 「地政学」とは、畢竟、「応用の学」である…。

 ※ 「大理論」のみを学習・理解したところで、あまり役には立たない…。

 ※ 日々の「世界情勢」に当てはめ・応用してみることでしか、その「学」の鍛錬・深化をはかることができない…。

 ※ この「論考」も、その一つの「試み」でしかない…。

 ※ ただ、「パワー」と「マネー」の混同の戒めは、噛みしめておくべきだろう…。

『第1015回武藤記念講座要旨 2016年4月2日(土)
講師:キヤノングローバル戦略研究所研究主幹 宮家邦彦氏

はじめに

第一章「地政学リスクとは何か? 」

第1節 「乱用されている地政学リスクという言葉」
第2節「分からないことは地政学リスクとするエコノミスト達」
第3節「地政学により国際情勢を分析する「前提」」

第二章「ヨーロッパ・ロシア・中東の地政学的脆弱性」

第1節「NATOの拡大と民族主義の台頭」
第2節 「ロシアの地政学的脆弱性」
第3節「イラク(メソポタミア)の地政学的脆弱性」

第三章「中国の地政学的脆弱性」

第1節「中国の膨張と縮小の変遷」
第2節 「中国の海洋戦略」
第3節「南シナ海での米中対立」

終章「地政学から見た日本の大戦略 」

第1節「米国による抑止力の限界」
第2節 「海洋国家大英帝国に見習うべき日本」
第3節「島国同盟の発展を」

「質疑応答」

はじめに

私は父の事業を継ぐため、10年ほど前に外交官の職を辞した。それまではパワー(権力)の立場にあったが、実業界はお金の社会である。お金は見えるし、数えられるし、貯めておくことが出来る。一方パワーは見えないし、数えられないし、貯めることも出来ない。政治家はパワーが見えないから、選挙でお金をあれほど使うのではないか。もしパワーが見えるものならば、国内選挙は百戦百勝であろう。一方私は外交官として国際政治のパワーの動きを27年間追ってきたが、本日は、私がどのように「パワー」の動きで国際関係を見ようとしているかをお話したい。

第一章「地政学リスクとは何か? 」

第1節 「乱用されている地政学リスクという言葉」

有力紙が、北朝鮮の水爆実験と核ミサイル発射、及びニューヨークと上海の株式の暴落までも地政学リスクと解説しているが、前者は核拡散のリスクであり、後者は市場リスクである。又年初のサウジアラビアとイランの国交断絶も宗派対立であり、地政学リスクではない。

米国大統領予備選挙におけるトランプ現象も地政学リスクではない。トランプ氏は米国の「光と影」の「影」を代表している。冷戦は資本主義の勝利に終わったが、社会主義の影響を受けた修正資本主義により、富の再分配と社会福祉政策が進められた。然しその結果政府の肥大化と非効率を招き、市場原理主義に回帰したので、勝ち組と負け組の格差が拡がるところとなった。トランプ氏は「白人・男性・ブルーカラー・低学歴」の各有権者層のワシントンのエスタブリッシュメントに対する「格差にへの怒り」を代弁し、普通の人ならば、口が裂けても言えない「女性蔑視と人種差別」発言を繰り返している。このワシントンに対する不満は民主党のサンダース氏の支持にも表れている。然しこのままいけば、共和党は分裂し、民主党のクリントン氏を利することになろうが、それは大統領選挙だけでなく、米国政治の「地殻変動」を引き起こすことになるだろう。

さらに風刺漫画で知られるフランスの政治週刊紙「シャルリー・エブド」のパリの本社がイスラムの風刺画で襲撃を受けた事件、及び過日のブリュッセル空港の爆破事件はテロのリスクである。ベルギーはいい意味では自由のある国であるが、テロ対策は出来ておらず、「ヨーロッパの9.11」の危機が到来したといえる。

第2節「分からないことは地政学リスクとするエコノミスト達」

自ら理解できないので、例えば原油の価格が暴落しているのは、米国とサウジアラビアの陰謀であるとする「陰謀論」を語る人がいる。然し、そもそもエネルギーの値段は平時にはマーケットメカニズム、有事には政治的に決まるものであり、今は平時であるので、米国のシェール革命による需給関係で決まるのである。その他、説明できないリスクに対して「運命論」を弄ぶ人、先を読めないので事後に「結果論」しか言わない人、そしてパワーの源泉はマネーであると主張して「経済合理性」と「地政学的利益」を区別しないエコノミスト達がいる。何故エコノミストに地政学が分からないのか、それは、エコノミストはパワーとマネーの区別が分からないからである。

第3節「地政学により国際情勢を分析する「前提」」

私は地政学により、国際情勢を五つの「前提」で分析している。うち三つの前提は「パワー」に関するものである。それらは第一に「地政学の「地」は、地理(山、川、海、島)のことであり、国家のパワーと脅威は、地理に依存する」、第二に「パワーが空白・真空状態になったときには、新たな矛盾と紛争を生むことである。即ちパワーは見えないが動くものであり、パワーがなくなって真空になったところへは、周りにあるパワーがあらたに入って来る。そしてその時には銃声がして戦争が始まる可能性が高い」、第三に「パワーは複雑な現象であり、二国間、地域、グローバルに因数分解できる。それらの因数は三つの同心円で表され、各々ベクトルを有しており、通常はそれらのベクトルはあさっての方向を向いているが、三つのベクトルの方向が一直線になったとき、パワーは動くと考える」

あと二つの前提の一つは「経済合理性を優先しないこと」である。これはある意味で上の三つを超えて大切である。例えばロシアのクリミヤ併合は経済合理性では説明できない。原油安でロシア経済は苦しい中で、国際法違反で世界中から経済制裁を受けるかもしれないのに併合したのは、経済合理性を超える「地政学的利益」のメリットを考えたからである。即ちその国の将来を考え、カントリーリスクを守るのに必要であるのならば、経済的合理性を考えず、地政学的利益を考えるべきである。

そしてもう一つは、人類は7~80億人もいるが、この世の森羅万象がすべて分かる筈はないと割り切り、分からなくなった時には、「視点を180度転換して見る」ことである。それは地図を逆さまにすると、見えないことが見えて来るのと同じである。

第二章「ヨーロッパ・ロシア・中東の地政学的脆弱性」

第1節「NATOの拡大と民族主義の台頭」

バルト三国、ワルシャワ条約機構のメンバーだったポーランド、チェコ、スロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアの加入によりNATOは拡大した。その結果NATOの勢力がロシアに迫ったので、ウクライナ、クリミヤの問題はロシアにとってはお金の問題でなく、上述の通り地政学的利益としての安全保障の問題であった。又ヨーロッパでは、スコットランドはイギリスから独立しようとしたし、イギリスではEU離脱か残留かの国民投票が行われる予定であり、パリではイスラム移民排斥のデモが激しく、ドイツではネオナチが台頭、そしてハンガリーではシリアの難民出て行けと騒いでいる。その結果欧州では、欧州議会の選挙結果もそうであったが、極右政党が躍進している。冷戦時代は、米ソの厳しい対立の中で民族主義は封じ込められていたが、冷戦後、民族主義が息を吹き返し、移民と難民の受入反対、テロなどの醜い争いが復活したのである。

第2節 「ロシアの地政学的脆弱性」

ロシアの脅威は、三方からとなる。東にウラル山脈、南にコーカサス山脈、西にカルパティア山脈の三つの山脈に囲まれた東ヨーロッパ平原は、メソポタミアほどには平たんではないにせよ、広大な面積を有する。そこでは歴史上、西からはバイキングとナポレオン、南からはムスリム、東からは、モンゴル族とフン族が、自然の要塞がないモスクワを常に脅かしたのであった。然しメソポタミア人は殺されたが、ロシア人は戦ったのであった。即ち自然要塞のないロシアは敵が入って来る前に、彼らの土地を奪って緩衝地帯にすればよいと考え、15世紀から緩衝地帯を必要以上に拡大して、大国をつくりあげたのであった。然しながら、これは征服された民族にとっては、侵略されたことになり、よいことではなかったことも確かである。一方厳寒で人口希少であり、力の真空地帯となっている極東ロシアには中国不法移民が侵入している現実がある。

第3節「イラク(メソポタミア)の地政学的脆弱性」

イラクの南の石油積出港バスラの標高は4メートルであるが、1千キロメートル離れた首都バクダットの標高は32メートルであるので、イラクは、ほとんどまっ平の平原で、強い敵に対して無防備である。歴史上、その平地を目指して、北の高地からはトルコ(オスマントルコはこの地域を何百年も支配)、東の高地からはイランが攻め込み(ペルシャ・アケメネス朝とササン朝で合計千年以上この地域を支配)、南からは食い詰めた遊牧民ベドウィンが度々侵入、西は、今はシリアであるが、ギリシャ・ローマ時代にはアレクサンダー大王がインドまでの東方遠征の途中で攻め込んで来たのであった。即ちイラクは古来、言葉は悪いが「煮ても焼いても食えない」隣国からの侵略と殺戮の十字路としての「地政学的脆弱性」を有するのである。

さらに最近では、2001年の同時多発テロ後、アフガニスタンに続き米国は2003年にイラクに侵攻した。イラクは内戦状態となり、ベトナム以来の米兵の戦死者に米国内の厭戦気分が高まり、オバマ大統領は2011年までにイラク撤退を決意し、かつ実行した。そしてその米国の不介入主義で「パワーの真空」が生じたのである。アラブの春で中央政府が弱体化している折、その真空を埋めたのは、南半分はシーア派のイランのイスラム革命防衛隊、北半分はイスラム国であった。

第三章「中国の地政学的脆弱性」

第1節「中国の膨張と縮小の変遷」

紀元前2世紀の前漢の時代から現在までの2100年間の「漢族」の領土の膨張と縮小の歴史は、東西南北の蛮族(東夷、西戎、南蛮、北狄)との攻防の歴史であった。5/6世紀の南北朝の時代までは、漢族は万里の長城を隔てて北の匈奴と鮮卑等の蛮族と相対していたが、唐時代の8世紀後半には、中原から中央アジアに抜ける回廊が北は「ウイグル」、南は「チベット」にはさみこまれていた。これはまさに、その当時の中国の地政学的脆弱性を表している。唐の滅亡後宋となったが、宋はやがて女真族の「金」に北半分を支配され、13世紀にはモンゴル族の「元」が中国全域を支配した。14世紀に漢族の明が復活するも、西方はウイグルとチベットが勢力を拡大しており、元に比べれば支配領域は小さかった。17世紀には満州族が「後金」を経て「清」を建国して、ウイグルとチベットを含む中国全域を支配、やがてロシアが南下してウラジオストックを取り、日本も満州を占領した。

以上中国の漢族の国の大きさは、周りの蛮族との力関係で決まり、周りが強くなれば小さくなり、周りが弱くなれば大きくなつた。一方現在の中国の国境には、どのような蛮族がいるのか。先ず北の蛮族はロシアである。然し、ロシアと中国は1960/70年代に路線対立していた頃には仲が悪かったが、現在ロシアは味方ではないかもしれないが敵ではない。内モンゴル、チベット、ウイグルは掌中に収めたし、インドはヒマラヤ山脈が横たわり脅威ではない。ベトナムとは抗争を歴史的に繰り返して来たが、1979年のベトナムが勝利した中越戦争以来、陸地では戦いを交えていない。従って中国の陸上の国境は安定しており、地政学上脆弱ではない。

陸からの脅威がないのに、中国はなぜ膨大な軍事費を使い、沢山の空母とミサイルを保有しようとしているのか、それは、海からの脅威に備えているからである。 即ち今の中国で、「最も豊かであるが、最も脆弱な地域」は天津から香港までの太平洋岸である。そしてその富を支えるのに何が必要か、普通は「ヒト、技術、カネ、資源、エネルギー」である。然しその内中国が持っているのはヒトだけである。その他は海から来るからである。何故海から来るのか、それは伝統的に海上輸送コストの方が陸上輸送コストより安いからである(だから海が栄えるのであるが)。そしてその海の輸送ルートを邪魔しているのは日米同盟であると彼らは見ているのである。

第2節 「中国の海洋戦略」

中国人民解放軍が、軍事戦略の「パワー」を展開するための目標ラインとして「第一列島線」と「第二列島線」がある。 第一列島線は、九州鹿児島を起点に南下、沖縄、台湾を内側に取り込み、フィリピン、ボルネオ島の西側を通り、南シナ海をほとんどすべて支配しようとするものである。そこは日本のシーレーンと「ガチンコ」するが、中国は「第一列島線の内側は中国の海であるので、入って来ないで欲しい。入って来るのならば仁義を切ってください。そして仁義を切るのならば政治的譲歩をして下さい」と言っているのである。さらに20X0年までには 小笠原からグアム、サイパン、パプアニューギニアに至る第二列島線の内側も中国の海としようとしている。それは「米国は、台湾、朝鮮、日本から出て行ってハワイに帰って下さい。太平洋は広いので二国で分けましょう」と言おうとしているのである。従ってふたつの列島線により、中国は公海における航行の自由を事実上否定し、西太平洋の力による「現状変更」を画しているのである。

第3節「南シナ海での米中対立」

米国は、フィリピンに本土以外で最大のクラーク空軍基地とスービック海軍基地を有していたが、1991年のピナトゥボ山の大爆発を契機に、フィリピン国内で反米の基地反対闘争が起こり、上院で継続使用が拒否されて、同年11月米軍は両基地から撤退した。然し、戦略上の要衝であるこの地域において、駐留アメリカ軍の軍事的抑止力を失った結果、「巨大なパワーの真空」が生まれ、地政学上の「脆弱」が生じたのであった。そして案の定中国は、米軍が撤退して数か月後の1992年に「領海法」を制定して、東シナ海、南シナ海の領有を宣言し、現在の南沙諸島(スプラトリー諸島)と西沙諸島 (パラセル諸島)の人工島造成につながっていくことになるのである。2014年5月には西沙諸島に中国は巨大なオイル・リグ(石油掘削装置)を持ち込み、ベトナムと一騒動があり、2015年の5月には米国は南沙諸島の人工島造成の映像を世界に明らかにしたが、中国は聞く耳を持たなかったので、10月には人工島の12カイリ以内にイージス艦を航行させて厳重抗議したのであった。一方フィリピンは上記オイル・リグ騒動の前の2014年4月米国との新しい軍事協定で、1)米比同盟による「国防協力」の強化 2)米軍の「巡回型プレゼンス」の強化 3)フィリピン国軍の「最低限防衛能力」の確立が約束された。
終章「地政学から見た日本の大戦略 」

第1節「米国による抑止力の限界」

米海軍は空母11隻と海兵隊のヘリ空母8隻を、世界の海に配置して警戒している。そもそも通常軍隊の部隊は3の倍数で保有されている。海軍においても一隻は戦っており、二隻目は次に戦う準備、そして三隻目は戦いを終えて修理と休養と訓練を行うローテーションを組んでいる。従って保有する空母11隻の内、実際戦っているのは4隻だけである(勿論非常の場合それ以上に使えるが、「継戦能力」が落ちる)。東アジアは、空母1隻とヘリ空母1隻体制である。然し中東とアジアの危機が同時に訪れた場合、米国は中東に空母2隻を派遣するであろう。なぜならば、日本は、自国のエネルギーを確保するためにせよ、中東のホルムス海峡で米軍の代わりに戦う能力と設備を有しないからである。その結果南シナ海と東シナ海が空になることが心配される。新安保法制が必要な所以である。尚東日本大震災の時は、(義務でなく友情で行われた)「トモダチ作戦」で空母2隻とヘリ空母1隻が派遣されたのであった。このような体制は朝鮮半島有事の時以外ありえないだろう。

第2節 「海洋国家大英帝国に見習うべき日本」

小さな海洋国家からすれば、魑魅魍魎が住むとも言える強大な大陸国家群と対抗するためには、第一に大陸国家間のバランス・オブ・パワー(勢力均衡)を維持することが大切である。即ちその内の一つの国家が強くなって大陸を支配し、力が余って、ナポレオンのフランス、ヒットラーのドイツのように島国を攻めてくる覇権国家ができないようにすることである。第二に大陸との健全な距離を保ち、大陸に深入りしないことである。深入りした白村江の戦い、秀吉の朝鮮出兵、日韓併合等は国力を消耗するだけだった。第三に資源がない島国としては、シーレーンを確保して自由貿易と加工貿易に生きることが大切である。

以上3点はイギリスの「特許」とも言えるが、日本の英国との島国同盟である「日英同盟」は大成功であった。即ち日本は英国と組んで、ユーラシア大陸の大国ロシアと中国のバランスを維持し、すでに大陸へ進出してはいたが、大陸との健全な距離を維持し、イギリス海軍を使ってロシア海軍を牽制し、シーレーンを維持して自由貿易で栄え、かつ民主主義を導入出来たのであった。その大成功を一番妬んだのは日英同盟を潰しにかかった米国であった。そして戦略的間違いは、日本と共通の利益がない大陸国家ドイツとイタリアと三国同盟を結んだことであった。全然島国と関係ない、あの同盟が失敗の始まりであり、すべてを失ったのであった。

第3節「島国同盟の発展を」

ところが日本はその失敗による敗戦後、「日英同盟」に次ぐ、第二「島国同盟」としての「日米同盟」を結んだのであった。なぜならば米国は大陸国家でなくて世界一の島国であり、日米同盟はこの島国同盟により、ユーラシア大陸のソ連共産党と中国共産党のバランス、南北朝鮮のバランスを維持出来たのである。即ち日米同盟のお蔭で大陸に入って行く必要がなくなり、米国第七艦隊のお蔭で中東までのシーレーンを確保出来、自由貿易により経済発展して、民主主義を回復出来たのである。中国がどのような政治を行うかに対しては、彼ら次第であり、我々の問題ではない。我々の問題は中国により我々のシーレーンの自由航行が阻害されるのを防ぐことである。

今や、パワーに限界のある米国は、ヨーロッパ、中東、アジアに気を配らねばならないので、第二「島国同盟」だけで足りないと考えるべきである。島国同盟を拡充して第三「島国同盟」として、米国に次ぐ世界第二の島国オーストラリアとの同盟も有効であろう。インドネシア、フィリピンも考えられるが、インドは島でなく亜大陸であり、島国同盟には適さないのではないか。 

「質疑応答」

「質問1」

オーストラリアとの第三「島国同盟」の話だが、党内クーデターで首相交代があり、又南シナ海で海洋進出を強める中国をけん制するため、米海兵隊の駐留先の一つとなっている北部のダーウィンで、中国企業が99年間の港の長期リース契約を結んだことに波紋が広がっているが、オーストラリアを味方にして大丈夫か?

「回 答」  

オーストラリアの国益を考えれば中国を全く無視はできないのだろう。問題はそのバランスをどう取るかである。中国が国際ルールを破り続けるならば、やがてオーストラリアも目が醒めるだろう。又党内クーデターと言うが民主主義のルールに則っている筈である。一方軍事上は沖縄とダーウィンとグアムから南シナ海は等距離にあるので、「南シナ海の現状を維持する」との戦略的視点からはダーウィンは重要な拠点であり、米国はおおいに困惑しているだろう。然し中国が米軍の基地を見たいというのならば、見せてやればよいし、問題は中国がそこに軍事基地を作るかであるが、それはありえないだろう。勿論無視はできないし、けしからんと思うが、それを事実として受け止めていかざるをえない。尚なぜ沖縄からダーウィンとグアムへ分散するかであるが、沖縄はすでに中国のミサイルの射程範囲に入っており、防衛基地を分散することが必要であるからだ。

「質問2」

ロシアは北方4島に基地を建設している。4島は返還される可能性はあるのか?

「回 答」  

ロシアのプーチンがヨーロッパの陸上でやっていることと、中国がアジアの海上でやっていることは基本的に同じであり、醜いナショナリズムを追求している。そして醜いナショナリズムと帝国主義のDNAが合体するとモンスターになるのである。日本は両国と個別に交渉するのではなくて、ロシアと中国を同列において、G7との協調により、「力による現状の変更は認めない」と主張するべきである。北方四島は、よい漁場であると言うだけでなく、米国に対する原子力潜水艦の隠れ家として軍事戦略上重要な基地であるので、容易には返してくれないだろう。いますぐやっても半分も帰って来ないだろう。然しチャンスはありうる。私が待っているのは、中国がロシアにとって戦略的脅威になるときである。このときはロシアが対日戦略を変更して、外交革命をやり、関係改善を求めてくる時であろう。それは1972年ソ連が中国にとって強大な国になったとき、中国が米国・日本両国と関係改善を図ったのと同じである。但しそれはあと30年後か100年後かは定かではないが。

「質問3」

韓国での買い物で円は通じたが、なぜだろうか。

「回 答」  

韓国で円は通じるのは有難い。但しこちらはウォンでもらっても困るが、向こうは円でもらって大歓迎だろう。韓国は不幸な歴史があった。反日が、国内政治的に意味があることがあったし、これからも政治家レベルではなくならないだろうが、民衆レベル、経済レベルでは、相互依存はものすごく進んでいるのである。

「質問4」

朝鮮半島は中国が奪取してしまうのではないか、北朝鮮を抑えるには中国の力が必要である。北朝鮮は核を持っていても、叩き潰される恐怖心があるのではないか、又朝鮮半島は日本の防衛にどのような意味を持つのか。

「回 答」

朝鮮半島は地政学的に脆弱である。朝鮮半島は小さな半島であり、東側は山岳地帯であり、使えるのは西側だけである。朝鮮の人は不幸な民族であると言わざるを得ない。なぜならば中国、満州、日本に囲まれていたが、さらにロシア、米国にも関与されることになり、朝鮮半島の人達にとっては、そのような狭いところへ攻めて来られたら中国のように上海から重慶に逃げる如く「戦略的重心」が存しないのである。

よって朝鮮の外交は、面従腹背、バランス外交にならざるをえなかったのである。日本が併合する前の李氏朝鮮時代も、ロシア、日本、中国がいて、独立派がいてバランスを取ろうとしたがバランスはとれなかったのである。冷戦時代は特別の時代だった。一度攻めてきたことのある、又何をするかわからない北朝鮮が怖かった。よって米韓同盟に日米同盟をプラスして、「韓米日」同盟を基軸外交としたのであった。然し冷戦の時代は終わったので、北朝鮮はもう怖くないと考えているだろう。米韓が本気で戦ったら数週間で勝つだろうが、その数週間の間に何万発もの砲弾が雨あられと降ってきて、ソウルは火の海となるであろう。その結果は韓国経済の終わりとなるだろう。然しそのような馬鹿なことをする筈がなく、戦いは起こらないだろう。即ち韓国は戦わない、米国も戦わず、日本は戦う気はなく蚊帳の外である。

一方中国は北朝鮮がなくなるより、あった方がよいと考えるだろう。何故ならば、北朝鮮はバッファーであるからだ。中国とすれば、もし統一韓国、統一朝鮮半島になるならば、自由で市場経済が行われ、米軍が駐留し潜在的に反中で核兵器を持つかもしれない国と直接国境を接することは、絶対に避けたいだろう。だから必死で北朝鮮を維持しようとするだろう。中国は北朝鮮の生命維持装置を握っているのである。然し現在は当事者間で奇妙なバランスが出来ており、三代目の最高指導者、34歳の金正恩は足許を見て、やりたい放題をやっている。

「 以上は、宮家邦彦氏の講演を國民會館が要約・編集したものであり、文章の全責任は当會館が負うものである。」』

地政学と国際政治、その理論:アメリカ海軍を軸にして

地政学と国際政治、その理論:アメリカ海軍を軸にして
http://hiramayoihi.com/yh_ronbun_senryaku_5.htm

『はじめに

 国際関係を理解するのには色々の尺度があるが、 歴史的尺度と地理的尺度とい尺度も有効な尺度の一つであるように思われる。歴史的尺度が有効なのは幾多の経験や試練が人の性格を形成するように、 国家もその長い歴史の中で試練を受け、 その性格を形成して行くからである。従って、ある国家の歴史という過去の軌跡を綿密にたどると、 そこにおのずとその国家・民族の習癖、 価値観から行動の基準や範囲が判り、その国家・民族の今後の行動が予測し得るからである(1)。

 さらに、 国際関係を考えるもう一つの尺度に「地政学」という地理的尺度があるが、 この地理的尺度がかってゲオポリテック(Geopolitik)と呼ばれ、 その理論がナチス・ドイツや旧日本帝国の世界侵略の一翼を担い第2次世界大戦の遠因となったことから、 一部の学者には「地政学は学問ではない」と今日これをタブー視する人が多い。

しかし、 一国の置かれた地理的条件がその国の国家政策、 特に対外政策に大きな影響を及ぼすことは「外交は地形なり」との言葉の通り、 地政学は国際関係や国家戦略を考究する場合、欠かすことができない重要な要素である。

 地政学を飾る代表的な陸の理論家としては、 自国の発展のためには周辺諸国を支配下に入れてもやむをえないと「生存圏(レーベンスラウムーLebensraum)」思想を全面に、 自国の領土拡大を正当化する理論を展開したドイツの地理学者カール・ハウスホーファー(Karl Haus-hofer)、 海の代表的地政学者として制海権の確立が国家発展の鍵であると論じたマハン(Alfred Thayer Mahan)が有名である。

その後これら理論を発展させ歴史は海上権力と陸上権力との闘争だと解釈し、「ハートランド(Hartland)を制したものが世界を制する」と主張したマッキンダー(Halford Mackinder 1861-1947)、 ハートランドを押えるランドパワーと海洋を制する シーパワーの対立とみるのは物事を簡素化し過ぎると批判し、 「リムランド(Rimland)を制するものが世界を 制する」と主張したスパイクスマン(Nicholas J. Spykman 1893ー1943)などが出現した。

本論ではこれら地政学の理論の概要とその理論が国際政治に及した影響について、 海洋地政学者マハンの理論が日米関 係に与えた影響について考えてみたい。

1 地政学の歴史と理論

(1)大陸地政学の発生と発展

 地政学の正確な起源や創始者には諸説があるが、 地理的位置と国際政治との関係を最初に論じたのはドイツの哲学者カント(Immanuel Kant)であった。しかし、 最初に地政学を体系的に構築したのは同じドイツの地理学者フリードリッヒ・ラッツエル(Friedrich Ratzel, 1844-1904)で、 ラッツェルは1897年に出版した『政治地理学(Politishe Geogtaphie)}においてドイツ民族の生存権思想を唱えたが、 この理論が植民地拡大政策を強行していたビスマルク(Otto E. L. F. von Bismarch 1815ー1898)の政策の根拠として利用された(2)。

国家の政治上の力は、 その国家の領域の広さに依存する。 国家の領域は文化の浸 透とともに拡大する。 すなわち自国の文化を他国の領土内に広めると、 その地域 が自国の領域に加わって行く。
国家は生命を持つた組織体であり、 成長に必要なエネルギーを与え続けなければ 衰弱しやがて死滅する。 国家はその生命力に応じこれを維持するために生存権(Lebensraum)を確保しようとするので国境は流動的となる。
地球上には大国を一つしか受け入れる余積がない。 

 次いで、 この理論をさらに体系化したのがスェーデンの地理学者チェレン(Rudolf Kjellen 1864-1922)であったが、 チェレンは初めて「地理と国家の関係」ということに地政学(Geopolitik)という言葉を導入し次のように論じた(3)。

国家は生きた組織体であり、 その生命は国民、 文化、政府、 経済及び土地に依存 する。 

国家の性格のうち最も重要なのは力である。 法は力がなければ維持できないので、 国家生存のために力は法より重要である。 

海洋に分散している帝国(イギリス)の力は、 やがて統合された大陸帝国に移り、 その結果大陸国家が最終的には海洋をも制するに至る。 

ヨーロッパ、 アジア、アフリカに数個の超大国が興隆する。 

国家にとって自給自足できることは重要な条件である。 そのため国家は自らの生 存発展に必要な物資を支配下に入れる権利がある。
国家が強国となるためには次の三つの条件が必要である。

(1)領域が広いこと。
(2)移動の自由を有すること。
(3)内部の結束が堅いこと。 

 この理論が普墺、 普仏戦争に勝ち大国となった当時のドイツの指導者に歓迎された。次いで、 この理論を発展させヒトラー(Adolf Hitler)の政策を理論的に支えたのがミュヘン大学の地理学の教授、 軍事科学部長であったカール・ハウスホーファー(Karl Haushofer 1869-1946)元陸軍少将であった。 ハウスホーファーは国家間の生存競争は地球上の生活空間を求める競争である。 国家が発展的生存を維持するためにはエネルギーが必要であり、 そのエネルギーを獲得するのに必要な領域 ー 領土としての生存圏と自給自足のため資源などを「経済的に支配する地域」が必要であると総合地域(Panregion)の概念を導入し、 世界はやがて次に示す4つの総合地域に総合されると主張した(4)。

アメリカが支配する汎アメリカ総合地域
日本が支配する汎アジア総合地域
ドイツが支配する汎ユーラフリカ総合地域
ソ連が支配する汎ロシア総合地域 

この大陸国家の地政学であるラッツェル、 チェレンやホーファーの理論を整理すると、 「国家は生きた組織体」であり「必要なエネルギーを与え続けなければ衰弱し死滅する」。

衰弱し死滅したくなければ「武力で阻害要因を排除しなければならない」。

必要なエネルギーを取得するため「生存発展に必要な物資を、 その支配下に入れる」のは成長する国家の権利である。

ドイツは「ヨーロッパに於ける大国」であり将来「ヨーロッパ、アフリカ及び西アジアに跨る大国」になる宿命を持っ成長する国家である。

さらに「地球上には大国を一つだけしか容れる余積がない」のだから、 ドイツは世界の大国になるべきであり、 もし、 なれなければドイツが大国に吸収されてしまう。

成長する国家ドイツを阻害する要素を排除するために武力を使うことも、 成長発展に必要な物資を支配下に入れることも国家の権利として認められるというものであった。

そして、 この理論がドイツのポーランド侵攻となり、 日本の満州・中国侵略となり、 さらにこの汎アジア総合地域の概念が後に大東亜共栄圏となったのであった。

2 海洋地政学の誕生と発達

 海洋地政学者を代表するのはマハンで、 マハンは17世紀から18世紀に至る世界の海戦史を研究し、1890年に『海上権力史論(The Influence of Sea Power upon History, 1787-1888)』を出版し、 海上通商路の支配が国家に富をもたらすと、 海上権力(Sea-Power)が国家繁栄の必須の条件であると主張した(5)。

そして、 このマハンの理論がアメリカの国家政策や海軍政策に甚大な影響を及ぼし、 アメリカの海外領土拡張に大きな影響を与えた。

マハンが海上権力(Sea Pawer)を隆盛させる条件として挙げたのは
①国家の地理的位置、 地形的構成(天産物と気候を含む)。
②領土の広さ。
③人口の多寡。
④国民の性質。
⑤政府の性質の5項目であったが(6)、

この項目は今日に至るまで海上権力隆盛の要件として地政学的考察の基礎をなしてきた。
マハンのシーパワーの5つの条件をチェレンの「国家が強国となるための条件」と比べると、 チェレンの第1条件の「領域が広いこと」はマハンの第1条件の「国家の地理的位置、 地形的要素」、 第2条件の「領土の広さ」、 第3条件の「人口の多寡」に含まれるであろう。チェレンの第2条件の「移動の自由を有すること」はマハンの5つの条件の中にはない。

しかし、 マハンの第1条件の「国家の地理的位置」がこれに該当するであろう。海洋国家として発展するには長い海岸線を持ち、 多くの海上交通路が集束することが基本的な要件であるからである。 チェレンの第3条件の「内部の結束が堅いこと」はマハンの第4条件「国民の性質」、 第5条件「政府の性格」に相当するであろう。

 マハンは生産力の増大が海外市場(植民地)を必要とし製品と市場を結ぶため海運業が育ち、この海外市場と商船隊を保護するのに海軍が必要であると海軍を位置づけ、 商船隊や漁船隊、 それを擁護する海軍とその活動を支える港や造船所などをシーパワー(海上権力)と規定し、 シーパワーが国家に繁栄と富をもたらし世界の歴史をコントロールすると論じた(7)。

このマハンの海上交通路を確保し海上権力を確立し、 海洋を支配する国家が世界の富を制するとアメリカに大海軍力を建設させた。

しかし、 当時の軍艦は蒸気推進であったため、 石炭と水を三日から四日毎に補給しなければならないという制約があった。 このため強調されのが基地(給炭所)で、 この太平洋を横断するために必要な基地をめぐって日米間に多くの問題を生起させたが、 海洋地政学者マハンの対日観や日米関係に与えた影響については第2部で論じたい。

3 総合地政学の誕生と発展

(1)マッキンダーの理論

 イギリスの地理学者マッキンダーは1904年1月25日、 王立地理学協会で行った「歴史の地理的な展開軸(The Geographic Pivot of History)」という題名の講演で、 海上権力を保有した国家の繁栄が永久的であるとの保証はない。

逆に陸上権力を保有する大陸国家が発展し単一支配のもとに海上権力と陸上権力を統合し、 無敵の支配権を全世界に広げるであろうと、 海洋力と大陸力との関係で世界政治を捕え、 マハンの海上権力説では陸地に関する要素が不充分であるとし、 地球は大陸と海洋から成り立ち、 その大陸の3分の2を占め、 人口の8分の7が住んでいるユラシア大陸を「世界島」と名付けた。

 そして、 この世界島の中央部でシーパワーの力が及ばないユーラシア北部を「ハートランド(Heartland)」と名ずけ、 さらにハートランドの外側に2組の三日月型地帯(Crescent)を設定し、 ハートランドの外側にあり海上権力の及ぶ大陸周辺の地域、 すなわち西ヨーロッパ、 インド、 中国などを内側三日月型地帯(Inner Marginal Crescent)と呼び、 その外方に海を隔てて点在するイギリス、 日本、 東インド諸島、 オーストラリアなどを外側三日月型地帯(Outer or Insular Crescent)と名付けた。

そして、 いまでこそハートランドは未開発であるが、 やがて陸上交通や産業が発展し内陸にエネルギーが蓄積され、 ここを根拠としたランドパワーが現在沿岸地域におよんでいるシーパワーを駆逐し、 やがてはシーパワーを圧倒するであろうと主張した(8)。

マッキンダーによる区分(出典:前掲、 川野60頁)

その後、 1918年末に出版された『デモクラシーの理想と現実(Democratic Idea and Realty)』において「東欧を制するものはハーランドを制し、 ハーランドを制するものは世界島を制し世界島を制するものは全世界を制する」と、 ドイツが再び力を蓄えロシアを征服し、 またはこれと提携してハートランドの主人公となり世界を制することのないよう予防措置を講ずべきであり、 東欧を一手に支配する強国の出現を決して許してはならない。

ドイツが再び強国となることができないよう措置すべきであるとベルサイユ講和会議代表に警告した。

(2)スパイクマンの理論

 アメリカの地政学者スパイクマンはマッキンダーより32才若く、 マッキンダーやハウスホーファーの影響を受けたが特異な「リムランド(Rimland)」理論を唱えて出現した。

スパイクスマンは世界はランドパーとシーパワーが対立するという単純なものではなく、 ハートランドの周辺地帯でハートランドの力の基礎となり、 かつシーパワーの影響が及んでいる地域、 すなわちランドパワーとシーパワーの接触している地域をリムランドと呼称し、 このリムランドが地政学的には重要である。

特にリムランドに位置する日本やイギリスは東アジアまたは西ヨーロッパの西側にあり政治軍事上に重要であり、 ヨーロッパ大陸が一大強国に支配されるのを防止するにはハートランド周辺諸国(リムランド地帯の国々)と共同し、 ハートランドの勢力拡張を防ぐべきであるとし、 マッキンダーの警句を修正し「世界を制する者はハートランドを制するもの」でなく、 「リムランドを制するものはユーラシアを制し、 ユーラシアを制するものは世界を制す」と主張した(9)。

アメリカはマハンの『海上権力史論』によって第1次世界大戦でドイツ、 第2次世界大戦で日本とドイツを破り
世界第1の海軍国となり、その海洋力によって一時世界に君臨した。

しかし、 第2次世界大戦が終わると大陸国家のソ連が台頭し、 マツキンダーのハートランド理論はドイツの代わりにソ連が主人公となった他は彼の予言どおり実現したかにみえた。

ソ連は巨大な外向力をもって着々と内側三日月型地帯をその勢力下に収め、 次いでアフリカなどの外側三日月型地帯にも及んだ。

 ソ連は東欧を制してマッキンダーの警句の第1段を達成し、 第2段の世界島(World Island)の支配に乗り出し、 ユーラシアのリムランドはアメリカの強力な支援がなければソ連の手に入りつつあった時に出現したのがスパイクマンの理論であり、 それを実現したのが「ソ連封じ込め政策」であった。

しかし、 その後もソ連は一時的ではあったがリムランドにある中国やアフガニスタンを影響下に収め、 海洋超大国アメリカは力を失い、 海洋一国支配の歴史に幕が閉じられたかに見えた。
                                                                   スパイクスマンのリムランド(出展:前掲、 河野、 60頁)

 しかし、 大陸国家ソ連は安価大量の物資を運び得る海洋国経済的には有無相通ずる国際分業と国際貿易による相互依存関係で結び付く海洋国家群に対し、 その地理的欠陥から経済的に破綻してしまった。

そして、 現在、 海上交通路(Sea Line of Communication)はシーレイン(Sea Lane)と呼称は変更されたが、 その原理である海洋を制した国家が世界を制するというマハンの理論の勝利は確定したかに見える。

しかし、 これら大陸地政学と海洋地政学の中間理論を唱えたスパイクマンの「リムランドを制するものはユーラシアを制し、 ユーラシアを制するものは世界を制する」という折衷論からみた今後の国際情勢はどのように変動するのであろうか。

また、 これらリムランドに住むアジアやアラブの住民の意向や主権を無視した西欧のパワーバランス理論や価値観のみを念頭に置いた既存の理論が、 科学技術の発展などにより今後どのような展開を示すであろうか。

本論ではこれらの問題を基盤とし、 リムランドに生存する日本の国際的スタンスや対応について考えてみたい。

Ⅱ海洋地政学の日米関係への影響

 ハウスホーファーに代表されるドイツの地政学は侵略的で自国本位のものであったが、 大陸国家ドイツの地政学がなぜ侵略的になったのであろうか。

それは大陸国家は陸続きのため常に異民族に犯され国家や民族の生存が熾烈なことにあった。

大陸国家にとって国境線周辺の地形、 政経中枢の位置、 国土の広さや人口、 生産、 資源、 交通路などの地理的条件は国土防衛上のみならず国家の生存発展のためにも極めて重要な要素であったが、 特にヨーッパ大陸の中央に位置するドイツは常にフランス・スエーデン・ロシア・オーストリアなどの大国の勢力争いの際には戦場とされ多くの災害を蒙り、 その生存は苦難の連続で国家として独立し得たのは19世紀の後半に入ってからであった。

しかもドイツが統一された時にはヨーツパの大国は海外に多くの植民地を保有し、 植民地からの搾取によって本国の富強を誇っていた。 このような国家安全の欠如がドイツにアウスホーファーに代表される侵略的地政学者を生んだのであった。

 一方、海洋国家は海洋の持つ隔離性から他国の影響が及び難く国内の団結も容易で、 海上交通を維持し制海権を握っていれば貿易によって国家の発展生存に必要な資源を取得することができた。

制海権を握るためには強力な海軍が必要ではあったが、 資源獲得に必要な海上交通の安全を確保するに必要な拠点を支配下に置ければ資源を取得できるので、 他国の領土を直接占領し支配する必要はなかった。

むしろ外国を強力な支配下に置くことは政治的・軍事的に無駄な国力を消耗するとの思想から、 海上交通路を扼する要地を支配下に置くだけで十分であった。

このためイギリスはジブラルタル、マルタ、スエズ、アデン、カルカッタ、シンガポール、 香港、 威海衛などを比較的限定された地点を直接的に支配し背後地は間接的支配下に置く政策を基本としてきた。

このように海洋国家の奉ずる海洋地政学派の理論は大陸地政学派の理論に比べ領土的関心は低く、 もっぱら資源を争奪する地域と製品を販売する地域の支配(間接的)と海上交通論を維持するために緊要な地理的に価値ある要地の直接的支配に限られていた。

しかし、 この海洋地政学の理論でさえも太平洋をめぐる日米関係をみれば、 地政学が「余りにも政治的に利用されてきた」ため学問ではないと言われ、 アメリカにおいてマハンを地政学者と規定することを忌避する傾向があるのも理解できるであろう。

以下、 今後の日本のありかたを論ずるに先立ち、 最初に代表的海洋知性学者マハンの理論や、 第二次大戦前に日本が唱えた南進などの歴史を検討し、 今後の日本のあり方を地政学および歴史的事実などから考えてみたい。

1 ハワイ併合前後

 マハンは1890年に書いた『海上権力史論』でシーパワーが国家に繁栄と富をもたらすと制海権確立の重要性を論じたが、 前述の通り当時の軍艦は蒸気推進であったため石炭と水を3日から4日毎に補給しなければならないという制約があった。

このためマハンは1890年8月に『アトランティック・マンスリー』誌に掲載された「合衆国海外に目を転ず」では今後いかなる外国にもサンフランシスコから3000マイル以内に給炭地を獲得させてはならないと論じたが(10)、 1896年末に積極的外交を掲げた共和党のマッキンレー(William Mackinley) が大統領となり、 日本が1200名の移民が上陸を拒否されたため巡洋艦浪速(艦長黒田帯刀)を再びハワイに送ると、 マハンは翌年5月には、 海軍次官に栄進したローズヴェルト(Theodore Roosevelt 後の第26代大統領)に、ハワイを直ちに併合すべきであり、 太平洋戦隊には大西洋艦隊よりも有能で積極的な指揮官を配置すべきであると進言し、 太平洋戦隊司令官にサンチャゴ攻撃などで積極性を発揮したベーカー(Albert A.Barker)提督を任命された(14)。

そして、 1997年6月15日には米布併合条約が調印された。

 1898年(明治31年)に米西戦争が起きるとアメリカ国内にはフィリピンの併合について独立宣言や憲法の精神に反する。 フィリピンを併合すれば大西洋と太平洋に2つの艦隊が必要となり、 さらにヨーロッパ列強との紛争に巻き込まれるなどとの反対論があり、 マハンも最初はフィリピン併合には消極的であったが、 未開のフィリピン人を文明化するのは神から与えられた「明白な義務(Manifest Destiny)」である、 フィリピンは東洋へ発展する前進基地として必要であるなどの併合論が勝ち同年12月に併合されてしまった。

そして、 この併合がマハンがシーパワーを構成する「第3の重要な要素」と規定した植民地をアメリカに獲得させた(18)。  

 一方、 ハワイ併合をめぐる日米の対立がスペインとの戦争中に日本にハワイを占領されるとし、 アメリカに最初の対日戦争計画(Contiengency Plan for Operation in Case of War with Japan)を立案させた。

しかし、 当時のアメリカ海軍は艦隊主力を大西洋に配備していたため、 この計画では艦隊を太平洋に回航する前にハワイ諸島やアリュシャン列島を、 また状況によってはピュジェット・サンド湾(シアトル南部)を占領されると見積もらざるを得なかった(19)。

この解決策はパナマ運河の建設であり、 その通行の自由の確保であった。

さらに、 米西戦争後の「布哇ノ合併、 比島ノ割譲等ガ一層巴奈馬運河領有ノ理由ヲ強メ」た。

このような情勢の変化にアメリカは1850年に自ら提案し関係諸国と「中米ノ地ヲ占領セズ。 植民セス又現在中米ノ地ニ有スル保護権ヲ以テ運河ノ中立ヲ犯サザルコト」を協定したクレートン・ブルワー条約を無視し、 1903年11月にコロンビア上院が運河地帯の租借を拒否すると、 パナマ地方の住民を扇動しコロンビアからの分離独立運動を起こさせた。

そして、 アメリカは砲艦ナッシュビル(Nashville)など4隻の軍艦と海兵隊を送って分離独立派を支援した。

ナッシュビルがコロンに入港した2日後には分離独立宣言が発せられ、 翌6日にはアメリカ政府が独立を承認、 その2週間後にはパナマ暫定政府と一時金1000万ドル、 年間租借金25万ドルで運河地帯を永久に租借する運河条約を締結した。

そして、 さらに翌年4月には元海軍作戦部長ウォーカ(John Walker)中将をパナマ運河会社に派遣し、 陸軍は総督を送り運河地帯を陸軍の管轄下に置いた(20)。

3 日露戦争前後

 パナマ運河の建設を開始しフィリピン、ハワイ、グアムを併合し太平洋横断の中継基地を確保したアメリカが中国市場への進出を企てた時には、 中国はすでにヨーロッパ列強や日本により分割がほぼ完了していた。

遅れて参入したアメリカに許される方法は平和的商業的進出しかなかった。

国務長官のジョン・ヘイは1899年9月に門戸開放・機会均等などの門戸開放宣言を列国に提唱した。

しかし、 この「オープ・ドアー政策」に対する列国の反応は冷たいものであった(21)。

特に問題はロシアの南下で、 このロシアの南下を阻止するためにアメリカ海軍部内には日英米の三海軍国が同盟すべきであるとの意見さえ公式に表明されていた(22)。

しかし、 日本海軍が日本海海戦でアメリカの予想を上回る大勝をおさめ、 さらに戦後の不景気からアメリカ西岸に移民が急速に増加すると日米関係は一転した。

 ロシアの脅威が消えると日本は太平洋における唯一の仮想敵国とされ、 1909年にはホマー・リー『無智の勇気(翻訳の書名:日米必戦論)』が出版された。

ホマー・リーはアメリカの過去20年にわたる日本に対する人種差別という「累積したる不正」に対し日本は報復するであろう。

「太平洋の地図を案ずるに、 日本が将来戦争をもって其地位を堅固ならしめ其主権を確立せんが為めに戦う国は、 米国以外にこれあらざるなり」。 「日本は太平洋上の貿易航路のいずれの部分にも、 戦いを開きて常に3日以内の航海で2個以上の離れたる根拠地に達することができる。

(中略)12の軍事的三角形の中には10日以内に日本海軍の10分の7を石炭、 供給品および病院船の不足なく、 また何ら海上の障害を感ぜずに艦隊を集中できない点は一つもない。

また太平洋のいかなる地点に集合しても日本艦隊は3日以内に海軍根拠地の何れかに到着することができる」。

このような地理的有利性のため日本は開戦4週間後に20万、4ケ月後に50万、 10ケ月後に100万余の兵力を送り、 ハワイ、フィリピンからアラスカ、ワシントン、カリホルニア州などのロッキー山脈以東を総て占領するであろうと日本の脅威を過大に扇動し軍備増強を訴えた(23)。

このような国内の排日ムードを利用し海軍主義者のローズヴエェルト大統領は、 日本がアメリカと戦争するなどということを思い止まらせるためには力を示すべきであるとの口実で、戦艦一六隻からなるホワイト・フリートを東京湾に送った。

とはいえアメリカ艦隊はバランスに欠け、 これら艦隊に石炭を補給する給炭船は8隻しかなく、 49隻をイギリスやノルウエーなどから用船しなければならなかった(24)。

太平洋横断作戦を基本とするアメリカ海軍にとり大きな障害となったのが日米間に横たわる太平洋の広がりであり、 対日作戦の成否は「いかに決戦が行われる戦場に修理を完了し充分に補給された部隊を適時に展開するか」の補給問題、 すなわち太平洋横断に必要な基地群の問題であった。

1868年にミッドウェー島を、 1898年にウェーキ島を、 1899年にはドイツと争ってサモア諸島のチュチュイラ島を領有し、 1903年からはミッドウェー島を海軍省の管轄下に置いた。

しかし、 ホワイト・フリートも完成し国民の海軍に対する関心は低下し、 議会の賛同を得ることはできなかった。

この冷却した海軍増強熱を再び高めたのが第一次世界大戦の勃発でありパナマ運河の開通であり、 さらに日本軍の南洋群島の占領であった。

1911年にメイヤー(George von L. Meyer)海軍長官にグアムの要塞化はハワイやフィリピンの安全保障に必要であるというだけでなく、 日本をもコントロールできると進言していたマハンは(25)、 第一次大戦が勃発し日本がドイツに最後通牒を発すると8月18日にローズベルト元大統領に日本のドイツ領南洋群島の占領は英米関係に重大な影響を及ぼすだけでなく、 カナダやオーストラリアなどの自治領にも重大な影響を及ぼすことをイギリスに警告すべきであると進言した(26)。

また、 マハンの論評を支持する共和党からは「米国は茲に改めて支那領土保全と門戸解放主義を固執することを確認す。 又米国は太平洋及びオセアニア海上各島嶼の現状変更に対し等閑視せざることを茲に新たに決議す」との決議案が提出された(27)。

 しかし、 第1次世界大戦勃発4ケ月後にマハンは没し、 また日本海軍には南洋群島を占領されてしまった。

この占領が日米戦争時にはフィリピン、グアムが緒戦で占領されフィリピン救援作戦を困難とするとの危機感を高めた。

議会は基地問題を諮問するために1916年にはヘルム委員会を、 1923年にはロッドマン委員会を設置した。

さらに1936年にはハウランド島とベィカー島の領有を宣言し、 1938年2月にはイギリスと領有めぐり抗争中のカントン島とエンダベリー島を共同管理とするなど、 太平洋横断基地網の整備を進めた。しかし、 それ以西には日本が支配する南洋群島がアメリカ艦隊の進路を扼していた。

4 戦間期(第1・2次大戦間)

 マハンの教議に従って太平洋を横断する海上交通路を確立しようとするアメリカ海軍にとり、 南洋群島の日本の委任統治領化は大きな打撃であった。

クーンッ(Edward Coontz)作戦部長は対日作戦には太平洋を横断する艦隊が南洋群島を基地とする日本海軍の潜水艦・航空機により邀撃されるという不利な条件があり、 大西洋では対英3対4の劣勢でも英国を阻止できるが太平洋では太平洋横断作戦には補給部隊を護衛する兵力も必要であり対日兵力は1.5倍が必要であると主張し、 さらに海軍諮問委員会(General Board)は2倍の兵力が必要であると主張した(28)。

このおゆな海軍の要求を受けたヒューズ(Charles E. Hughes)国務長官はワシントン会議において主力艦の対日保有比率5対3を主張し強引に実現した。

また、 中継基地を失ったアメリカ海軍は対策として艦隊とともに多数の補給艦、 工作艦、 給弾艦を艦隊とともに前進させる移動基地構想を案出した。

 そしてアメリカ海軍は1922年5月の陸海軍統合会議でワシントン条約第19条の「太平洋の軍備現状維持」は移動性基地には適用されないとの解釈を承認させ(29)、 1924年に完成の対日戦争計画(Orenge Plan)に固定基地の代替えとして多数の補給船・給油船・工作船・弾薬船・病院船・移動ドックなどを整備するという「移動性根拠地計画 別紙F(Mobile Base Project-Appendix F)」を加えた(30)。

しかし問題は膨大な補給量であった。 燃料が石炭から石油に変換されて問題は一歩前進したかに見えた。

とはいえ武器の多様化・近代化が補給量を増大させ1925年1月に太平洋艦隊が作成した対日戦争計画では、 戦艦などの大型戦闘艦25隻、 その他の戦闘艦艇303隻、 兵員輸送船39隻、 輸送船128隻、 タンカー・石炭輸送船など248隻など総計551隻を必要とするという問題を提示した(31)。

輸送量の増大は航空時代を迎え日本の南洋群島を基地とする陸上航空兵力に対抗する航空兵力を展開するには、 各種機材や燃料、 飛行支援施設、 部品などを含めれば日本海軍の5倍から10倍の物資を運ばなければならないという新らしい問題を生起させた(32)。

さらに洋上での武器弾薬や物資の移載が困難なことから、 これらの移載は太平洋に散在する珊瑚礁を利用しなければならなかったが、 これらはいずれも日本の統治下にあった。

 この問題の解決策として海兵隊のエリス中佐(Earl H.Ells)が1921年6月にパラオ、トラック、ペリリューなど艦隊の中継基地となる島嶼を逐次占領しつつ太平洋を横断するミクロネシア前進基地構想を立案した(33)。

ガリポリ作戦の失敗大戦後の植民地独立、 民族自決等の世界的風潮から海外基地や居留民保護を任務とする海兵隊の存続が問題となり、 兵力削減に直面した海兵隊はその存続を南洋群島に求めた。

海兵隊は総力を挙げてこの構想の実現と海兵隊の必要性を訴え理解を求めた。

そして1924年に完成し初めて大統領の決済を得た3軍統合のオレンジ計画(対日戦争作戦計画)にアメリカ海兵隊は、  「制海権の確立は全アメリカ艦隊を収容できる前進基地を、西太平洋に設置できる か否かにかかっている(著者傍線)。

西太平洋で米国が勝つためには、 日本の支配下にある島々及びフィリピン諸島にある総ての港の支配が必要である(34)」とフィリピン救援作戦とともにミクロネシア飛石作戦を併記させることに成功した。

また1922年2月には海兵隊司令官レジュン(John Archer Lejeune)が「対日戦争の場合にハワイ・マニラ間に中継基地がなく、そのうえグアムが緒戦に占領されることは極めて深刻でありハワイ・マニラ間の島嶼の占領およびグアム再占領のため、即応性のある強襲上陸作戦可能な遠征部隊を整備すべきである。

 ワシントン条約により艦艇の保有は制限されたが艦隊に付属し艦隊を支援する海兵隊は同条約の制限外にある」との覚書を陸海軍統合幕僚会議に提出し承認させた。

そして、 翌1923年には海兵隊自体が南洋群島奪取を主目的とする強襲上陸作戦を行う遠征海兵隊(Marine Corps Expeditionary Force)に改編され(35)、 1922年末には海兵隊の兵力が1万6085名から2万595名に増員された。

存在理由を得た海兵隊は1925年4月には遠征海兵隊3000人を投入し、 南洋群島への上陸を想定した「アロハ演習」をハワイで行い、 上陸用舟艇の開発や戦術の改善に努め、 また海兵隊学校のカリキュラムも上陸作戦重視に改訂するなど対日戦争を想定した部隊への変質と改善が進め、 1935年には艦隊付属の小型旅団規模の艦隊海兵隊をサンヂエゴに誕生させたのであった(36)。

1 拙論「風土と戦争」上下(『波涛』第29・30号、 1980年7月・9月)。同 「国民性及び国家間の連係度解明に関 するアプローチ法」(『波涛』第8号、1977年)。
 同 「特攻隊をめぐる日米の対応 – 国民性の視点から」(『波涛』第106号、 1993年)。
2 川野 収『地政学入門』(原書房、 1981年)24-26頁。
3 同上、 32-33頁。
4 同上、 40頁。
5 Walter La Feber, The New Empire – An Interpretation of American Expansion, 1860-1898 (Ithaca:Cronell University Press, 12963), pp.91-93.
6 Alfred Thayer Mahan, The Influence of Sea Power upon History, 1660-1783(Boston:Little Brown,    1890), pp.28-87.尾崎悦雄訳『海上権力史論』(水交会、 ) 頁。
7 Ibid., p.71, 138.
8 前掲、 曽村、 29-33頁。
9 築土
10 Alfred Thayer Mahan,“United States Looking Outward”,The Inters in America in Sea Power:Present  and Future(Boston:Little Brown, 1897).
11 Letter Mahan to Editor of the New York Times(30 January 1893), Robert Seager Ⅱ and Doris D.   Maguire, eds., Letters and Papers of Alfred Thayer Mahan, 3 vols.(Annapolis:U.S.Naval Institute Press,  1975), Vol Ⅰ, p.119.
12 Lts. Mahan to Roosevelt(6 May 1897), Letters and Papers, op.cit., 2-506. 麻田貞雄訳・解説『アメリカ  古典文学 8 アルフレッド・T・マハン』(研究社,1980年) 31頁。
13 Henry F.Pringle, Theodore Roosevelt(New York:Harcourt Brace, 1931), p.120.14 Robert Seager Ⅱ,   Aflred Thayer Mahan:The Man and His Letters(Annapolis:Naval Institute Press, 1977), p.358
15 The Interest, op.cit., p.31.麻田
16 Mahan, “A Twenty Century Outlook”, The Interest, op.cit., pp.235-237.
17 Philip A. Crowl, “Alfred Thayer Mahan:The Naval Historian”, Peter Paret,eds.,Makers of Strategy:From  Machivelli to Nuclear Age(Princeton:Princeton University Press, 1941),p.465.(海軍戦史研究家アルフレ ット・セイヤー・マハン」 (防衛大学校「戦略・戦術研究会訳『現代戦略思想の系譜 – マキャヴェリから各時 代 まで』(ダイヤモンド社、 19 89年)408頁。
18 Seager Ⅱ, op.cit., p. 416.
19 Michael Vlahos, “The Naval War College and Origins of War Plan against
 Japan”,Naval War College Review, vol.33,No.4(July -August, 1980),pp.24-26.20 外務省欧米局編「秘 太 平洋問題参考資料 巴奈馬運河問題(資料番号319-2Fa22)」防衛大学校蔵、 4-16頁。
21 角田順『満州問題と国防方針 – 明治後期における国防環境の変動』(原書房、 1959 年)183頁。
22 Michael, op.cit., p.25.
23 ホーマー・リー『日米必戦論 原題名 無智の勇気』望月小太郎訳(英文通信社、 1911 年)47頁。
24 Edward Miller, Orange Plan:The U.S.Strategy to Defeat Japan, 1897-1945(Annapolis:U.S.Naval Institue  Press, 1991), p .
25 Lts Mahan to George L.Meyer(21 Apr.1911),Letters and Papers,op.cit.,3-399 -404.26 Lts Mahan to   Roosevelt(18 Aug. 1914), Ibid., p.3-601-602.
27 竹内重利「世界大戦初期の米国の状況」(有終会編『戦余薫 懐旧録 世界大戦之巻』第 3輯 上(海軍有 終会、 1928年)23頁。
28 ウイリアム・R・ブレステッド「アメリカ海軍とオレンジ作戦計画」麻田貞雄訳・斎藤 真他編『ワシントン体制 と日米関係』(東京大学出版会、 1978年)421頁。
29 Kenneth J.Cliford, Progress and Purpose:A Developmental History of theUnited States Marine Corps, 1900-1970(Washngton:Historical Division, U.S. Marine Corps, 1973), pp.29-30.
30 Orange Plan、 移動基地計画
31 Miller, op.cit., p.128, Table 11.1 Number of Ships in Naval Expeditionary Force to Far East, (Jan. 1915).
32 Ibid.,pp.32-33.
33 海兵隊の発展と対日戦争計画については拙論「戦間期の日米関係(Ⅰ) ミクロネシア と米国海兵隊」(『政治経済史学』第256号、 1987年8月)を参照。
34 前掲、 ブレステッド、 426-427頁。
35 Edwin H. Simmons, The United States Marines 1775 – 1975(New York:Viking
Press,1976), p.125.
36 Allan R. Millet, Semper Didelis:The History of the United Stated Marines
Corps(New York:Macmillan, 1980), p.326ー337.』

カール・ハウスホーファーとドイツの地政学

空間•社会•地理思想22号,29-43頁,2019年
Space, Society and Geographical Thought
カール・ハウスホーファーとドイツの地政学
クリスティアン・W・シュパング・ (高木 彰彦・・訳)
Christian W. Spang (Akihiko TAKAGI)
Karl E. Haushofer, Geopolitics of Germany, Zeitschrift fUr Geopolitik and Pan-ideas (Haushofer, 1931),
entries for The Encyclopedia of New Geopolitics, 2018
Translation permitted by the auther and Maruzen Publishing Co., Ltd.
I.カール・ハウスホーファー

 ※ 例によって、テキスト変換した。「脳内変換」、よろしく…。

 ※ 地政学に興味のある人は、読んどいた方がいい…。

 ※ 特に、英米(それに影響を受けてる、日)においては、ハウスホファーは、「ナチス協力者(それも、相当な誤解のようだが)」とのレッテル貼りにより、「タブー視」されているんで、こういう論説は、「貴重」だ…。

 ※ 一言で言えば、「ランドパワーの地政学」ということだろうな…。

 ※ 逆に言えば、マッキンダー、スパイクマンの系譜は、「シーパワーの地政学」ということになろう…。

『 1.家庭環境と軍人としてのキャリア

1869年ミュンヘンに生まれたカール・ハウスホー
ファー Karl Haushoferは,学者や芸術家の家系に恵
まれた家庭に育った.彼の二人の祖父,マックス・
ハウスホーファーMax Haushoferとカール・N・フ
ラースKarlN. Frassはともに教授であり,伯父のカー
ル・フォン・ハウスホーファー Karl von Haushoferも
教授だった.彼の父,マックス・H・ハウスホーファー
Max H. Haushoferはミュンヘン高等技術学校(今日の
ミュンヘン工科大学)の政治経済学の教授で議員で
もあり,学術的著作のみならず文学作品でも著名な
作家であった.

こうした家系にもかかわらず,カール・ハウス
ホーファーは,1887年に(ドイツ帝国から)半独立的
な王立バイエルン軍に入隊した.ハウスホーファー
は,最初はバイエルン陸軍士官学校(1888/89年)に
通い,その後王立バイエルン砲兵・工兵学校(1890-
92年)に進み,最終的にバイエルン陸軍大学校に進
学した(1895-98年).これらの学校はいずれもミュ
ンヘンにあった.陸軍大学校での教官としての在職
期間(1904-07年)も加えると,ハウスホーファーは,
その陸軍軍人としてのキャリアの最初の20年を教育
機関で過ごしたことになる.

1907年はハウスホーファーにとって大きな転機
となった.1月27日に,彼は突然バイエルン陸軍大
学校を辞め,ミュンヘンから350kmほど離れたバイ
エルン・プファルツ(宮廷領)のランダウにあった,
バイエルン第三師団の参謀へと転身したのである.

その年の4月9日に父が亡くなった時,ハウスホー
・ 大東文化大学
*・ 九州大学
ファーは住み慣れた土地を離れて生活を変えようと
決意した.

ランダウから離れるため,彼は日本への
軍事オブザーバーのポストに応募した.バイエルン
人武官が日本に初めて派遣された理由は,1904/5年
の日露戦争に日本が勝ったからだった.

ドイツ帝国
とバイエルン王国はしばらくの間戦争を経験してい
なかったため,日本がどのようにしてロシアに勝つ
ことが出来たのかを,軍が知りたがっていたのだ.

1907年6月24日に駐日軍事オブザーバーに選ばれた
ことを知らされると,その後五ケ月も経たないうち
に,彼の人生は天地がひっくり返るほどの混乱に
陥った.

いくらかの日本語を学び,日本で役立ちそうなも
のを西欧の言語で読んだあと,彼は妻マルタMartha
(1896年に結婚)とともに東アジアへと旅立ったが,
幼い二人の息子アルプレヒトAlbrecht (1903年生ま
れ)とハインツHeinz (1906年生まれ)は同行しなかっ
た.

1908年10月から1909年2月にかけて,夫妻はイ
タリアを出港し,スエズ運河を経由してセイロン(現
スリランカ)とインドに到着した.ここで夫妻は,
シンガポール,香港,上海での待ち時間も含めて8
週間ほど滞在した後,日本に到着した.その後,ハ
ウスホーファーは,1909年2月から1910年6月までの
16ヶ月を東アジアで過ごした.

この間に夫妻は日本国内をくまなく旅行しただけ
でなく,朝鮮,中国,満州にも出かけた.健康上の
問題から,京都にあった第16師団での業務を9ヶ月
に縮めて,1910年の梅雨の時期になる前にシベリア
縦貫鉄道経由でドイツに帰国した.

ハウスホーファーは日本に短期間しか滞在しな
かったにも関わらず,当時多くいた他の外国人訪問
者よりも多くの見識を得ることができたのには様々
30
クリスティアン・W・シュパング
な理由がある.

第一に,彼は東アジアへの旅行以前
および旅行中に入念な準備を行っていた.第二に,
彼は日本当局に登録されていなかったため,最初の
数ヶ月間,日本国内を隠密に歩き回ることができた.
第三に,夫妻は日本人教師から日本語を学んだが,
この教師も旅行に同行したのだった.第四に,夫妻
は西洋人仲間と交わるのではなく,できるだけ日本
人との交流を深めようとした.

その結果,ハウスホー
ファーは日本滞在中,直接的および間接的に,後に
重要となる関係を築くことができた.主な人物を挙
げれば,駐独公使および外務相を務めた青木周蔵と
その家族,陸軍軍人で1930年代に影響力のある政治
家となった菊池武夫,後に日・独の学術関係で役割
を果たすことになるフリードリッヒ・マクシミリア
ン・トラウツFriedrich Maximilian Trautzなどがいた.

さらに,ハウスホーファーを受け入れた日本の
人々は,他の外国人には閉鎖的だったのに対して,
彼には開放的だった.こうした礼儀正しい扱いの理
由は,多くの日本人武官や医学生が数十年にわたっ
てバイエルンに留学してきたにも関わらず,バイエ
ルンからは誰も日本に来ていなかったためである.

したがって,ハウスホーファーが,東京で天皇が主
催した観桜会や観菊会,さらには天長節祝賀行事に
も招待されたのは偶然の一致ではなかった.

バイエルンに戻ってから,ハウスホーファーは第
一次世界大戦での戦闘を最後に兵役を終えた.この
間,彼は陸軍大佐に昇進し,1919年末に退役した際
には陸軍少将に昇進していた.

2.研究者としてのキャリア:1913-44年

先に述べたように,健康上の問題があったため,
ハウスホーファーは,第一次世界大戦前には通常の
軍務から離れていた.彼は長い休養期間を数多くの
論文の執筆に費やした.彼の最初の著作は『大日本
——大日本帝国の軍事力,世界的地位と将来に関す
る考察』(Dai Nihon, Betrachtungen uber G~^^^^,Japa^
Wehrkraft, Weltstellung und Zukunft)だった.

妻の発案
と援助で,彼はルードウィッヒ・マクシミリアン大
学ミュンヘン(LMU)から「日本と日本周辺地域の地
理的発展におけるドイツの関与,および戦争と国防
政策の影響を通じてのその促進」というテーマで学
位を取得した.

ハウスホーファーは,こよなく愛したバイエルン
陸軍大学校の校長として任期を全うすることを夢
見ていたが,同校は第一次世界大戦後には存続し
なかった.

代わりに,49歳の老大佐は腰を落ち着け
て大学教授資格ハビリタツイオン論文を書き上げ,
1919年秋にはLMUの地理学科で教え始めた.

名誉
教授にすぎない身分で,ハウスホーファーは研究室
を与えられず,学科の運営にも関わらなかった.


もかかわらず,学生の間での彼の評判は年ごとに増
していった.退役陸軍少将として,事実上年金で生
活していたハウスホーファーにとって,こうした立
場は理想的だった.

というのも,この地位は彼に学
問的な信頼性を与えるとともに,十分な研究,出版,
その他の活動の自由を与えたからである.

ナチスが
政権をとった後,ハウスホーファーは,LMUの他
の何人かとともに,名誉教授ではなく教授と呼ばれ
る権利を得た.

日本および大平洋に関する著作で,ドイツ人の極
東専門家の一人としての地位を獲得した1920年代
前半に,ハウスホーファーは,初の地政学月刊誌
で世界的に悪名高い『ゲオポリティク』Zeitschrift fur
Geopolitik (fp)誌を刊行し,1924年から1944年ま
で共同ないしは単独で編集者を務めた.

今日のバイ
エルン放送の前身の放送局で,1925年から1931年ま
でと,1933年から1939年まで毎月1回放送された,「世
界政治講座」Weltpolitischer Monatsberichtという名の
世界事象に関する解説講座とともに,本誌によって
彼の名はドイツおよび国外において著名なものと
なった.

1920年代以降,ハウスホーファーは東アジアを
越えて自らの研究範囲を広げ,国境問題,防衛問
題,海外ドイツ人事情,ライン川など,他の事象に
関しても出版するようになった.

彼はさまざまな短
編の伝記物も刊行した.にもかかわらず,彼の論文
の3分の2と著書の2分の1はアジアないしは大平洋を
扱ったものであった.

ハウスホーファー «600以上
もの論文,総説,死亡記事,入門書と,3ダースも
の著書を刊行したという事実からすれば,彼は確か
に同時代の最も精力的な出版家だった.

3.カール・ハウスホーファーの地政学概念

ハウスホーファーは東アジアでの滞在以来,い
わゆる大陸横断的ブロック概念を普及させた.


ルフォード・マッキンダー HalfOrd Mackinderの著名
な,1904年のハートランド理論を知っていなくと
も,彼は大概そうしただろう.

何年か後に,ハウス
ホーファーはマッキンダーについて知り,ロシアと
ドイツの協力の大きな可能性について,彼の世界観
とマッキンダーのそれが重なっていたことを悟った
が,それが望ましいのか(ハウスホーファー),望
カール・ハウスホーファーとドイツの地政学
31
ましくないのか(マッキンダー)という問題になる
と,意見が異なっていた.

ハウスホーファーの地政
学概念のもうひとつの源は,ホーマー・リー Homer
Leaの著書『サクソンの時代』(The Day of the Saxon,
1912)だろう.

その基本的な主題がハウスホーファー
の大陸横断的ブロックに近いからである.

にもかか
わらず,『大日本』の参考文献には,マッキンダーも
リーもハウスホーファーによって言及されていな
い.

第一次世界大戦後になって,ハウスホーファー
は二人やマハンなど他の西欧起源の概念について引
用するようになる.

第一次世界大戦前に刊行された『大日本』におい
て,ハウスホーファーは,ベルリン,ウィーン,サ
ンクト・ペテルブルク,東京という4つの皇帝同盟
を示唆した.

後にハウスホーファーは,ソ連および
日本を伴った独伊同盟を呼びかけた.

モスクワの共
産主義体制との密接な協力を積極的に支持するのは
不適切とみなされていた時期にあって,ハウスホー
ファーは,ドイツは理想的には日本と足並みをそろ
えつつ,アングロ・サクソンの優位性に対抗して,
「持たざる者」の連合という植民地勢力に対抗する中
国およびインドと連携すべきと主張した.こうして,
少なくとも敵は同じままだった.

これを踏まえると,ハウスホーファーが,ゲオポ
リティク誌の編集仲間であるエーリッヒ•オプスト
Erich Obstとは異なって,かつてのドイツ植民地の
返還要求には反対だったことは驚くべきことではな
い.

彼は,アフリカはドイツが大国に返り咲く資産
としては遠すぎると考えていた.

また,ハウスホー
ファーは,a)ドイツが何を要求しようとも,かって
の植民地を受け取ることはなく,b)すでに第一次世
界大戦で確証されたように,何らかの紛争の場合に
も,海外領土を守ることはできないことを,十分に
理解できるほど現実主義的だった.

さらに,ハウス
ホーファーは,当時一般的だった人種主義者ではな
かったものの,彼にとって,アフリカ人がヨーロッ
パ人と同じだと認めるのは困難だった.

しかし,中
国人,インド人,日本人については,彼はそうした
問題は持っていなかった.

ハウスホーファーがしばしば言及したよく知られ
た概念に「汎概念」ないしは「汎地域」がある.

最もよ
く知られているのは『汎概念の地政学』(Geopolitik
derPan-Ideen,1931)で,彼は互いに矛盾することも
あるさまざまな汎概念について述べた.

同書はナ
チが政権を握る前に刊行されたため,ハウスホー
ファーは,理想的には「汎アジア主義」などのように
大陸的スケールでの領域的特徴に依拠する「汎概念」
が,「汎ドイツ主義」や「汎スラブ主義」のような,人
種に基づいたものよりも説得力があると主張するこ
とができた.

興味深いことに,1931年になると,彼
はモスクワをベースにした概念として汎アジア主義
を解釈するようになった.

彼によれば,米国は二つ
の対立する汎概念,すなわち,大陸的概念である汎
アメリカ主義と,海洋的な概念である汎大平洋主義
とに従うのだ.

米国が主導する「汎アメリカ」,ドイ
ツとイタリアが支配する「ユーラフリカ」,日本が指
導する「汎アジア」,ソビエトが支配する「ユーラシ
ア」という,世界が三つないし四つに区分されると
主張する,ハウスホーファーの幅広い理解は解釈の
しすぎだと述べておきたい.

ハウスホーファーがよく述べたもう一つの重要な
地政学的概念は,西欧諸国からそれほど多くの関心
を持たれなかったし,1945年以降も,今日でさえも
そうだ.

気候的および(農業)文化的な類似性に基づ
いて,ハウスホーファーは,モンスーン地域を地政
学的な統合単位としてしばしば言及した.

こうして,
権力,歴史,社会(一例を挙げるならインドのカー
スト制度のような),宗教といった重要な違いがみ
られるにも関わらず,南アジア(インド)と東南アジ
ア(マラヤ)のさまざまな英国植民地,仏領インドシ
ナ,オランダ領東インドが,(半植民地的な)中国,
独立国であるシャム(タイ)と日本といった沿岸諸国
とともに,一つの地政学的実体としてまとめられた
(Spang 2013: 354-357).

こうしたモンスーン地域の
地政的近接性という概念は,1930年代半ば頃から日
本で注目され,「大東亜共栄圏」を白人が支持するも
のとして解釈された(Spang 2013: 496-621, 630-631,
722).

大陸横断的ブロックという彼の考えは,1913年に
刊行された『大日本』にすでに認められたが,ドイツ
学派地政学を打ち立てようとするハウスホーファー
の強い熱意は,ドイツ帝国の崩壊とヴェルサイユ条
約とによって生み出された.

その多くの著作,ゲオ
ポリティク誌,ラジオ講座で,彼は大衆を教育する
と同時に,責任ある地位の政治家たちを手助けして
大国としてのドイツを再興するための最良の意思決
定を行おうとした.

ハウスホーファーによれば,そ
れはロシア/ソ連と日本との密接な協力によって可
能になるものだった.

「東方における生存圏」と無遠
慮に言うのではなく,ハウスホーファーによるドイ
ツの主張は,あらゆる民族に対して利用可能な空間
の「公正な」配分のための需要に基づいていた.
32
クリスティアン・W・シュパング

4.ナチとの関係

ハウスホーファーは,1933-41年の間ナチ党の副
総統だったルドルフ・ヘスRudolf Hessには,1919
年に初めて会った.

それは,彼の部下だった将校
のマックス•ホフヴェーバーMax Hofweberがへス
を連れてきた時だった.

後にヘスは,アドルフ・
ヒトラー Adolf Hitlerのために働くようになる前に,
ハウスホーファーの指導でしばらくの間研究を行っ
た.

25歳も年齢が離れていたにもかかわらず,ハウ
スホーファーとヘスは非常に親密で二人の友情はよ
く知られていた.

マルタ・ハウスホーファーの父が
(洗礼を施された)ユダヤ人だったという事実にもか
かわらず,1941年まで,ヘスは友人の家族を守り続
けたのだ.

ニュルンベルクで1935年から38年まで4
回開かれた著名な党大会で,ハウスホーファーはへ
スの主賓だったため,ナチ党指導者の間では有名な
人物となった.ヒトラー,ハインリッヒ・ヒムラー
Heinrich Himmler,ヨアヒム・フォン・リッベントロッ
プJoachim von Ribbentropやその他のナチ党指導者た
ちは,ハウスホーファーとその地政学概念を知って
いたが,彼が決してナチ党員にはならなかったとい
う事実は知らなかった.

ナチ体制に対するハウスホーファーの協力は,
1919年時の国境を越えたドイツ人の生存のために働
きたいという彼の義務感に基づいていた.

この点に
ついて,ハウスホーファーが党員ではなかったにも
関わらず,ドイツアカデミー(Deutsche Akademie,
DA)の共同設立者となり,初期ナチ時代(1934-37)
にはこの組織の会長を務めたことは指摘すべきだ
ろう・

同じ時期に彼は,民族ドイツ評議会(Volks-
deutscher Rat, VR,1933-35)にも関わった.これは,
1938年末から1942年秋まで「在外全ドイツ民族同盟」
(Volksbund fur das Deutschtum im Ausland, VDA) の
「指導者」となった組織である.

これら全ての組織に
共通するのは,1919年時の国境を越えたドイツ人の
生存を支持しようとしたことである.

これは民主制
時代を通じて正当な課題であり,ナチスはこうした
努力をさらに積み重ねて,「血と土 Blut und Bodenj
のイデオロギーや「東方における生存圏Lebensraum
im Ostenjの要求へと結びつけたのだった(Jacobsen
1979-I: 188-201, 279-331).

ハウスホーファーの考えがヒトラーに直接届いた
のは1920年代半ばで,この将来の指導者とヘスが
1924年の大半を刑務所で過ごしていた時期であっ
た.

ここで,ヘスは私的秘書の役割を果たし,ヒト
ラーは『わが闘争』(Meinに做ガ)を執筆したのであ
る.

ハウスホーファーがランズベルク刑務所を何度
も訪れ,クラウゼヴィッツやラッツェルの本だけで
なく,『大日本』など日本に関する自著も持ち込んだ
ことはよく知られている.

また,彼はゲオポリティ
ク誌の創刊号もへスとヒトラーに送った.『わが闘
争』下巻の第14章は生存圏の問題を扱っている.


トラーの著書のこの部分が直接的•間接的にハウス
ホーファーの影響を受けていることは一般に認めら
れていることだ.

同書の出版直後に,ヒトラーはエ
ルンスト・ハンフシュテングルErnst Hanfstaenglに
ドイツにとって日本が重要だと語っているが,この
考えはヒトラーがハウスホーファーから得たものに
違いない.

こうして,この地政学者が,日本および
生存圏という問題に関して,ヒトラーの初期の態
度に影響を与えたという強いヒントがある(Spang
2013: 385-393).

1933年以降,ハウスホーファーはへスとリッベン
トロップと接触し,独日関係の強化に努めた.

1934
年4月にハウスホーファーの私邸で行われたへスと
日本海軍のドイツ駐在武官だった遠藤喜一との秘密
裏の会合は,ナチスのトップとドイツにおける日本
側代表者との相互理解に向けた重要な一歩だった.

さらに,リッベントロップと彼の部下は,ハウスホー
ファーの日本に対する積極的な見方と大陸横断的ブ
ロック概念に影響されたと言われている.

リッベン
トロップの半公的事務所である,いわゆるリッベン
トロップ機関Dienststelleの東アジア部門の長官を,
1935-38年の間務めたヘルマン・フォン・ラウマー
Hermann von Raumer博士は,日本とソ連との結びっ
きを同時に改善しようと努めた.

彼はゲオポリティ
ク誌に寄稿し,ハウスホーファーと手紙を交わした.
さらに,ソ連とオープンに向き合うよりも,共産主
義インターナショナル(コミンテルン)に対抗して,
1935-36年に議論した双務協定を目指すという考え
を持っていたのは,ラウマーに他ならない.

この考
えは,見かけ上は,ソ連と地政学的な意味での「口
シア」とを区別するハウスホーファーの考えを反映
するものだった(Spang 2013: 429-433).

ナチ・ドイツの対外政策を外部から眺めると,
ハウスホーファーの大陸横断的ブロック概念は,
1935/36年から1941年にかけて,すなわち,1936年
の反コミンテルン条約と1941年6月のソ連への攻撃
との間にかけての日本とソ連との関係を築くための
基本的なガイドラインのように見える.

しかしなが
ら,1939年のヒトラー・スターリン条約(独ソ不可
侵条約)が日本に衝撃を与えたことを忘れてはなら
ない•日本の親ドイツ的態度は,西側諸国だけでな
くソ連も共通の敵であるということに強く依拠して
カール・ハウスホーファーとドイツの地政学
33
いたからだ.

ヒトラー・スターリン条約の締結から
数週間後,ドイツ外務省にはハウスホーファーを日
本大使にと考える人々がいた.これは,ドイツ・
ロシア・日本の協力体制が必要だというハウスホー
ファーの主張を,彼らがよく認識していたことを示
すものであり,日本に対して,ナチ・ソビエト条約
の「地政学的必然性」を彼に説明させようと予定して
いたことは明らかである.

ヒトラー・スターリン条
約(1939),三国同盟(1940),日ソ中立条約(1941)の
組み合わせは大陸横断的ブロックをもたらしたもの
の,ヒトラーがスターリンと戦った「バルバロッサ
作戦」は,ヒトラーという指導者が,戦時下でさえも,
戦略的な地政学概念より,反共産主義イデオロギー
と人種主義(反セム主義と反スラブ主義)という考え
を確信していたことを示すものである.
全般的に言えば,ハウスホーファーは,1924年に,
地政学とヴェルサイユ条約に対する共通の修正主義
という斬新さに基づいて,若き日のヒトラーに影響
を与えたのは明らかだ.後に,人種主義,とりわけ
反セム主義が第三帝国の内外の政策の推進力となっ
たとき,ハウスホーファーの地政学は,ヒトラーと
いう指導者の,ソ連に対する現実的で攻撃的な意図
にとって有用なカムフラージュとして以外,もはや
関心を引かなかった.
ハウスホーファーの観点からすれば,事態は全く
異なって見えた.陸軍少将で名誉教授である彼は,
1920年代の好戦的で洗練されていない下士官を見下
したのに対して,1930年代における対外政策の成功
によって,ヒトラーは自らをドイツが必要とする真
の指導者だと確信するようになった.ドイツ軍がプ
ラハに押し入り,その後ポーランドを攻撃したとき,
ハウスホーファーは,こうした動きの賢明さを疑い
始めるようになったが,1941年に第三帝国がソ連を
攻撃し米国との戦争を宣言するに至ると,最終的に
ヒトラーが間違った方向に進んでいると確信した.
彼の息子のアルプレヒトとは異なって,その軍事的
背景から,このコースが間違っていると確信しても,
ハウスホーファーは最高指導者に対して陰謀を企む
ことができなかった.代わりに,彼の家族とりわけ
半分ユダヤ人の妻を守るために,ハウスホーファー
は晩年の著書においてヒトラーとドイツ軍を讃え続
けた.
5.第二次世界大戦中の米国における反ハウスホー
ファープロパガンダ
戦争中の英米における刊行物において,ハウス
ホーファーは,たびたび,きわめて影響力の大きい
人物として描かれた.こうした見方は,連合軍の反
ドイツ地政学の成立を強く促すものとなった.ハウ
スホーファーは対極者として理解されたのだった.
数年の間は,議論が正しいか否かは問題ではなかっ
た.こうした状況にあって,「千人ものナチ科学者」
を擁する「地政学研究所」がミュンヘンにあるという
フレデリック・ソンダーンFrederic Sonder nの主張は
誤った見方である(Sondern1941).以来,「地政学
研究所」という間違った考えがアメリカ人(およびイ
ギリス人)によるハウスホーファーとドイツ地政学
の見方に強く影響してきた.今日でさえも,ブリタ
ニカウェブ百科事典では,ハウスホーファーが,実
際には存在しなかった研究所の所長として描かれて
いる.戦争中のプロパガンダの極端な例は,「ヒト
ラーの帝国への計画」という1942年の映画に見られ
る.その映画では,ナレーターが次のように述べる。
…今日の時代にあって最も奇妙で(最も)重要な
人物の一人である・・・カール・E・ハウスホーファー
博士,ドイツアカデミーの会長,ドイツ国防軍の陸
軍少将,ナチの世界征服計画の首謀者によって•••
描かれた,膨大な征服計画.•••ハウスホーファー
のミュンヘン研究所は高度に組織化された世界的
な諜報体系の中枢である.•••9千人もの工作員の
懸命な業務によって,•••ハウスホーファーは,こ
の世の土地と人々について集められた,最も漏洩
防止されるべき,地理的•政治的•戦略的な知識
の一つと信じられているものを••・集めた•そして,
こうした情報に基づいて,彼は地政学という科学
ないしは「空間の軍事的支配」を••・基礎づけたの
だ・
「破滅への計画一ハウスホーファーによるナチ
の世界支配のための計画」というタイトルの映画
(1944)も同様な主張をし,ハウスホーファー,ヘ
ス,その他の人物を擬人化した役者を用いていた.
ヨーロッパ戦線での勝利の日,すなわち,ナチス・
ドイツが無条件降伏した日の米国の新聞には,ヒト
ラーの戦争をハウスホーファーと直接結びつけた記
事を見出すことができる.例えば,「アドルフ・ヒ
トラーはどのように勝ち,帝国を失ったか?」とい
う見出しで,ピッツバーグ・サンテレグラフ紙は,
ナチの拡大のさまざまな段階を示す一連の地図を示
し,1945年5月8日の読者に対して以下のように説明
する.「ハウスホーファー教授と地政学協会の世界
征服計画は,まず隣国の膨大な資源を手に入れるこ
とから始まった.ナチ・ドイツ(ハートランド)がそ
34
クリスティアン・W・シュパング
れらの獲得を企んだ順序が示される」•
それゆえ,米国政府の職員が,第二次大戦後に,
76歳でひ弱なハウスホーファーを何度も尋問した
が,ナチの戦争努力ないしは人道に反する犯罪に対
する彼の関与の十分な証拠を見出せなかった.ハウ
スホーファーのドラマの最後の舞台は1946年3月10
日である.それは,ドイツの敗戦に夢砕かれ,自ら
の地政学観のほとんどを否定され,ナチによって息
子のアルプレヒト(1944年7月のヒトラー暗殺計画に
関わった)を殺害された,カール・ハウスホーファー
が妻とともに命を絶った日だ.
今日においてもなお,米国人のハウスホーファー
観は1940年代の著作に歪められている.この傾向は
ハウスホーファーに関する最近の多くの著作におい
てもなお認められる(Herwig 2016).『コロンビア百
科事典』第6版(2001-05)を見ても明らかで,ウィキ
ペディアの英語版のカール・ハウスホーファーの項
目を見てもそうである.引用文献の多くが戦争中な
いしは戦後間もない頃に出版されたものなのだ.
II,ドイツの地政学
1.19世紀における歴史的背景
19世紀後半に展開した産業革命,帝国主義,(社会)
ダーウィ二ズム,科学的法則の重要性の高まりは,
(ドイツの)地政学の創設者の全てに強い影響を与え
た.1900年頃,フリードリッヒ・ラッツェルFried-
rich Ratzelやルドルフ・チェレーンRudolf Kjellenの
ような研究者たちはそうした法則を見出そうとし,
国家の行動を説明できる全体系を打ち立てようとし
た.世界をそのような視点から眺めながら,気候学
や地質学といった科学的法則に支配される分野か
ら,人類地理学や政治地理学のような人文学に基づ
く分野へと広がる,幅広い下位分野をもつ地理学は,
そうした努力の理想的な土台に見えた.
とはいえ,科学においては諸法則が作用するにし
ても,政治と密接に結びついた分野においては滅多
に作用することはない.初期の地政学者たちは世界
を説明しようとすると同時に,将来を予測しようと
するか,少なくとも,母国の指導者たちを助けて「正
しい」方向に導こうとした.このように,多くの地
政学者たちは,「地政学的法則」の構築が必要とされ
るほどには客観的ではなかった.アルフレッド・
マハンやハルフォード・マッキンダーのような英米
の著者たちがアングロ・サクソン的な観点で世界
を眺めたのに対して,小牧実繁のような日本の地
政学者たちは断固とした日本的見方を抱いていた
し,フリードリッヒ・ラッツェルやカール・ハウス
ホーファーはドイツ人の視点から見ていた.地政学
のこうした側面は,ピーター・J・ティラー Peter J.
Taylorが,「地政学の場合,その著作から,常に著
者の国民性を極めて容易に認めることができる」と,
的確に述べている.(Taylor 1993: 53).
このように述べてくると,ドイツ地政学の特異性
を理解しようとするなら,こうした歴史的環境を考
慮せねばならないことは明らかである.19世紀後半
のドイツの歴史は統一(戦争)とアフリカおよびア
ジアにおける植民地の獲得に特徴づけられており,
ラッツェルの決定論的な「成長空間の法則」と歩をー
にしていた.国家を,成長ないしは衰退する生命体
とみなす有機体的国家論と結びついた,ラッツェル
の「法則」は,19世紀半ばを反映するものだった.に
もかかわらず,積極的な考えは世紀末の悲観的ムー
ドとは相容れなかった.1900年頃には,世界の全て
の土地が取得されたため,「容易に」領土を増やすこ
とができる空間はなくなり,地政学的「閉所恐怖症」
感が広く漂っていた.
2.刺激となった世界大戦の敗戦
こうした一般的状況に加えて,第一次世界大戦の
敗北,とりわけ全植民地と西部領土(アルザス・ロ
レーヌとマルメディ・オイペン),北部領土(シュレ
スウィヒの一部),北東部領土(ダンツィヒおよびメ
メル)および南東部領土(ポズナニ,西プロイセン,
上シレジア,フルチーン地域)の喪失とが,ドイツ
では熱い論争となった.数多くの地理学者たちが
失った領土を描いた膨大な地図を作成し,直接ない
しは間接的に,この論争に加わった.敗戦を戦争に
批判的な左翼主義者のせいにする,誤った「背後の
ー突き」伝説DolchstoBlegendeが広く受容されたこと
と結びついて,この論争はドイツにおける失地回復
的な雰囲気を生み出した.こうした状況において,
政治的左翼と袂を分かった少数のドイツ人たちが,
ワイマール共和国のために熱狂的になったことに加
えて,新たな民主的政府が戦争犯罪条項(231条)を
持つヴェルサイユ条約に調印せねばならなかったと
いう事実が,民主主義への訴えをさらに弱めること
になった.西側諸国に対する憎悪と失地回復主義が
当時の雰囲気であり,極端なナショナリズムと地政
学とを養う理想的な前提条件であった.
カール・ハウスホーファーとドイツの地政学
35

  1. カール・E ・ハウスホーファーとドイツ地政学
    ドイツ地政学の父としばしば呼ばれるカール・ハ
    ウスホーファーは,1887年から1918/19年まで30年
    間にわたって軍務に就いた後,1919年から1939年ま
    で,ミュンヘンのルードヴィッヒ・マクシミリアン
    大学で地政学,政治地理学,国防研究を教えた.彼
    は第一次世界大戦前ないしは戦争中にラッツェルと
    チェレーンとを見出し(そして彼らの考えに魅惑さ
    れた)たものの,地政学という用語を積極的に用い
    始めるまでにはしばらく時間がかかった.1920年と
    1922年に,彼はそれほど重要でない2本の論文を書
    いた.その後,1923年と1924年はドイツ地政学にとつ
    て大躍進の年となった.第一に,ハウスホーファー
    はジョセフ・メルツJosef Marzとともに,1923年に『民
    族自決の地政学に向けて』Zur Geopolitik der Selbst-
    bestimmungを出版した.第二に,その年の夏に,彼
    は初めて大学の講義名に「地政学」という用語を用い
    た.この授業を教えながら,彼は新雑誌『ゲオポリ
    ティク』創刊号の準備に追われており,同誌は1924
    年の1月に刊行された.最後に,この年にハウスホー
    ファーは,彼の最も影響力のある著書となった『大
    平洋地政学』Geopolitik des Pazfischen Ozeansを出版
    した.
  2. ゲオポリティク誌の他の代表的人物
    リヒャルト・ヘニッヒRichard Hennigはそれほど
    知られてはいないものの,ゲオポリティク誌の代表
    的な論客であり,気候学および交通研究を専門とし
    ていた.彼の観点は,チェレーンの有機体的国家
    論に基づいており,地理的決定論につながったが,
    「政治的発展の25 %までが地理によって説明できる」
    と主張したカール・ハウスホーファーの有名な主張
    よりもなお顕著な地理的決定論だった.ヘニッヒが
    1928年に『地政学一生命体としての国家の研究^Geo-
    politik. Die Lehre vom Staat als Lebewesen を刊行した
    とき,彼の見方はそれほど議論を巻き起こさなかっ
    たが,その後,レオ・ケルホルツLeo Korholzとの
    共著で,ナチが政権を取った2年目に刊行した『地政
    学入門^Einfuhrung in die Geopolitikという著書は,彼
    の「地理的唯物論」と人種的思考の欠如という点で論
    争を巻き起こした.同書は,クルト・フォーヴィン
    ケルKurt VOwinkelが強く支持していた,人種研究と
    地政学を統合しようとしたナチ指向的な「地政学研
    究グループ(Arbeitsgemeischaft fur Geopolitik)」から
    厳しく批判された.
    エヴァルド・バンゼEwald Banseは『ゲオポリティ
    ク』誌の編集メンバー以外のドイツ人地政学者で,
    1933年にナチ党NSDA Pに加わった.バンゼは地理
    学を国防研究と結びつけようとして,カール・ハウ
    スホーファーやオスカー・フォン・ニーダーマイヤー
    Oskar von Niedermayerとともに,「国防地政学Wehr-
    geopolitikjという下位分野を構築し先導した.バン
    ゼの著書『第一次世界大戦中の空間と大衆一国防教
    義に関する考察』Raum und Volk im Weltkriege: Gedan-
    ken uber eine nationale Wehrlehre が刊行されたのは,
    ハウスホーファーの『国防地政学』Wehr-Geopolitik
    (1941年までに5回も版を重ねた)と同じ年で,ワイ
    マール共和国末期の1932年だった.バンゼの著書は
    ハウスホーファーのものほど評判は良くなかったも
    のの,米国では大きな反響を呼び,1934年には『ド
    イツによる戦争の準備—ナチによる国防の理論』
    Germany Prepares for War: A Nazi Theory of “National
    Defense”というセンセーショナルなタイトルで刊行
    された.同書に関する議論は,英米両国の多くの
    人々が,バンゼ,ハウスホーファー,国防地政学を
    事実上初めて知ることとなった.ハウスホーファー
    とニーダーマイヤーが第一次世界大戦中に従軍して
    戦ったのに対して,バンゼは従軍地質学者として
    1917/18年に帝国軍に入隊した.バンゼの実戦経験
    の無さを根拠に,ハウスホーファーは『国防地政学』
    の創設者であるバンゼの主張を真面目に取り合おう
    とはせず,1930年代半ばに,多少の舌戦を繰り広げ
    たに止まった.1930年代には,国防地政学以外にも,
    地法学 geo-jurisprudence,地哲学 geo-philosophy,地
    心理学geo-psychology,地医学geomedicineなど,さ
    まざまな地政学の分野が生み出された(Spang 2013:
    250-256).
    バンゼ,ハウスホーファー,ヘニッヒ,そして,
    (この3人に比べれば影響力は少なかった)ニーダー
    マイヤー以外にも,ここでは,ゲオポリティク誌の
    創刊と編集に関わった二人の地理学者/地政学者を
    簡単に紹介しておきたい.彼らがドイツ地政学の発
    展に大きな役割を果たしたからである.エーリッヒ・
    オプストErich Obstとオットー・マウルOtto Maullは
    1931年まで編集委員会でカール・ハウスホーファー
    に密接に協力した.オプストは同誌の共同創設者で
    もある.二人は,同誌にナチの支持を得ようとする,
    発行人クルト・フォーヴィンケルの新しい編集方針
    に反対した.オプストは,実際には,1933年に「ア
    ドルフ・ヒトラーと国家社会主義的国家に対する
    ドイツ大学・高校教員の忠誠誓約」に署名し,アフ
    リカ・植民地研究という,政治的にはそれほど過激
    ではないテーマに専念した.オットー・マウルの場
    合は,ゲオポリティク誌の編集委員会から離れたこ
    36
    クリスティアン・W・シュパング
    とが,地政学を捨てたことを意味はしなかった.逆
    に,彼は幅広い著作活動を展開し,ゲオポリティク
    誌においてと同様,『地理学@Erdkunde誌においても,
    アメリカの事象に関する地政学的レポートBerichter-
    stattungを書き続けた.彼は2冊の関連する著書を刊
    行した.一つは1936年に刊行された『地政学の本質』
    Das Wesen der Geopolitik で,もう一冊は1940年に刊
    行された,『地誌学と地政学@ Ldnderkunde und Geo-
    politik を副題とする米国に関する本であった.
  3. ゲオポリティク誌とナチスー「血と土」の問題
    ゲオポリティク誌は,最初は,ヴェルサイユ条約
    に反対する手段として,多くの保守主義者や国家社
    会主義者から歓迎されたものの,のちに,党の強硬
    派からは,ヘニッヒ(ある程度はハウスホーファー
    も)のような人々は半ば反動的だとみなされた.そ
    れは,彼らが地理,すなわち土地(Boden)を重視し
    て政治的発展を説明することが,人種(血Blut)の影
    響を限定すると思われたからだ.破壊的(反セム主
    義)で「統合的な」(ニーチェの言う「超人」としての
    アーリア人種)人種主義で全てを包括するナチのス
    ローガンである「血と土Blut und Boden」の重要性を
    考慮に入れると,こうした地政学に対する否定的な
    見方は,ナチ体制が権力に止まり続ける限り,より
    影響力を持つようになった(Bassin1987).
  4. 枢軸諸国におけるドイツ地政学の積極的受容
    第二次世界大戦前,大戦中,大戦後を通じて,
    ドイツの地政学は英米において極めて否定的に受
    け止められた.こうしたアングロ ・サクソンの戦争
    中のプロパガンダは主にハウスホーファーと彼の見
    解に焦点が当てられていたため,これについては,
    ハウスホーファーに関する前章の「5.」(pp. 33-34)を
    参照してほしい.逆に,イタリアや日本では,ドイ
    ツの地政学,とりわけ,ハウスホーファーの考えは
    かなり積極的に受け入れられた.ハウスホーファー
    はイタリアをたびたび訪れたが,そこでは,ゲオポ
    リティク誌の姉妹誌である『ジオポリティカ』Geopo-
    litica誌が1939-1942年の間刊行されていた.日本で
    も『ゲオポリティク』誌はよく読まれ,数多くの大
    学および図書館で購読されていた.1930年代半ば
    以降,ハウスホーファーの著書の何冊かが翻訳さ
    れ,1941年には日本地政学協会が設立されて,協
    会によって『地政学』誌(1942-44)が刊行された.こ
    の協会と雑誌は日本の地政学の東京学派の中心と
    なった(Spang 2013: 547-656).これに対して,小
    牧実繁の指導下にあった日本地政学の京都学派は
    ドイツ流の地政学とは距離を置き,代わりに当時
    の皇道主義というイデオロギーに基づいた日本独
    自の地政学を打ち立てようとした(Spang 2013: 656-
    711).
    7.ドイツにおける戦後の展開
    1945年以降 地政学という用語がドイツでは全く
    のタブーとなってしまったと言われるが,これは真
    実ではない.西ドイツの代表的保守主義者で首相を
    務めたコンラート・アデナウアーKonrad Adenauer
    のような政治指導者は,この用語の使用を控えたも
    のの,西ドイツの研究者の中には,ハウスホーファー
    の『ゲオポリティク』誌を復刊させた者もいたのであ
    る.新ゲオポリティク誌が1951年から1968年まで刊
    行されたにもかかわらず,こうした努力は,売り上
    げ部数においても影響力においても成功したとはい
    えなかった.逆に,東ドイツおよびソ連においては,
    「地政学」という用語は,「米国帝国主義」および西ド
    イツで活性化したネオ・ナチズムに対する冷戦初期
    のレトリックとして,1950年代に用いられた.ドイ
    ツ語に翻訳されたユーリ・N・セミョー ノフJuri N.
    Semjonovの著書(Semjonov1955)や,ドイツ社会主
    義統一党中央委員会から支持を受けていた,ギユン
    ター・ヘイデンGunter Heydenの著書(Heyden1955)
    は明らかにそれを示している.
    後に,とりわけ,西ドイツのいわゆる「歴史家論
    争Historikerstreitj (1986-88) ホロコーストの特
    異性と,ドイツ史のいわゆる「特有の道Sonderweg」
    に関わる西ドイツの歴史家たちの論争-におい
    て,地政学という用語がしばしば,反動的ないしは
    タカ派的とみなされたことから,この用語に対す
    る一抹の不安があったにもかかわらず,ドイツ生
    まれのヘンリー・キッシンジャー Henry Kissingerや
    ポーランド生まれのズビグネフ・ブレジンスキー
    Zbigniew Brzezinskiといった米国の政治家によって
    この用語がたびたび使われたことで,西ドイツでも
    地政学に対する関心が高まった.
    東西ドイツの統一とヨーロッパ内外の政治状況の
    変化によって,ドイツにおける「地政学」という用語
    に対するアプローチそのものは変化した.今日,地
    政学はしばしば用いられるものの,その多くはカー
    ル・ハウスホーファーや第三帝国についてほとんど
    触れることはない.
    カール・ハウスホーファーとドイツの地政学
    37
    表1 ゲオポリティク誌の編集委員と編集協力者,1924-44年
    氏名/年 1924 1925 1926 1927 1928 1929 1930 1931 1932 | 1933 | 1934 1935-39 1940-44
    ゲオポリティク誌 カール・ハウスホーファー 0 0 0 0 0 0 0 0
    オブスト 0 0 0 0 0 0 0 0
    ラウテンザッハ △ 0 0 0 0 △ △ △ △ △ △
    ターマー △
    マウル 0 〇 0 0 0 0 0
    世界政治・経済雑誌 バール 0 △ 0 △ 0 △
    ヴィーデンフェルト 一 △一 △ 一 △ [ △ ] △
    ヘルマン 0 0 △ △ △
    ゲオポリティク誌 ヴォーウィンケル 0
    アルブレヒト・ハウスホーファー △ 1 △ 1 △ △
    ◎は単独編集者,〇は共同編集者,△は編集協力者
    III,ゲオポリティク誌
  5. ゲオポリティク誌の創刊と編集者孤立主義と介
    入主義
    1924-44年の間刊行され(戦後も1951-68年の間刊
    行された)『ゲオポリティク』誌は,世界で最初の「地
    政学」を冠した定期(似非)学術雑誌である.カール・
    E・ハウスホーファーとエーリッヒ・オプストを共
    同編集者として創刊された.若き編集者クルト・
    フォーヴィンケルは1931年と1950年代前半に共同編
    集者を務め,新旧雑誌を結びつける役割を果たした.
    戦間期および戦争中には,ドイツ内外で多大な関心
    を集めたため,本誌の創刊がドイツ学派地政学の開
    始とされる.
    表1を見れば,ハウスホーファーが旧雑誌の主導
    者であることは明白だが,他の人物も1934/39年ま
    で同誌の刊行に関わっていた.
  6. 転機と内輪もめ
    編集者•編集協力者の変化,出版方針および内容
    に基づくと,ゲオポリティク誌の刊行は3つの時期
    1924-31年,1932-44年,1951-68年)ないしは4つの
    時期(1924-31年,1931-39年,1940-44年,1951-68年)
    に区分できる.これらの区分とは必ずしも一致し
    ないが,これら以外に重要な転機が3つある.まず
    192?年で,この年にゲオポリティク誌は,それまで
    は独立した世界(経済)情勢専門誌だった『世界政治・
    経済雑誌』(Weltpolitik und Weltwirtschaft, W&W)と
    合併した.次いで1934年および35年には,ヘルマン・
    ラウテンザッハHerrmann Lautensachと二人の編集協
    力者が引退した.そして1939年にはアルプレヒト・
    ハウスホーファーがゲオポリティク誌の編集協力者
    を辞めた.
    多数の地理学者および地政学者の中で,エーリッ
    ヒ・オプスト,ヘルマン・ラウテンザッハ,オットー・
    マウル,アルプレヒト・ハウスホーファーが,最も
    長きにわたってカール・ハウスホーファーの共同編
    集者を務めた.192?年から34年までの間は,アル
    フレート・バールAlfred Ballとアルトウル・バール
    Arthur Ball,クルト・ヴィーデンフェルトKurt Wie-
    denfeld,ゲルハルト・ヘルマンGerhard Herrmannが,
    ゲオポリティク誌の世界政治•経済雑誌部門の共同
    編集者ないしは協力者を務めた.主に経済的な理由
    で,この合併はフォーヴィンケルによって進められ
    たが,著名な(国際的)著者や読者を集めるのに役立
    ち,1920年代後半にはゲオポリティク誌の評判を高
    めることとなった(Hepple 2008).他方で,この合
    併はドイツ学派地政学の論を待たない代弁者とし
    ての本誌の性格をいくぶん弱めることにもなった
    (Harbeck 1963: 22-2?).
    こうした展開は,元々ゲオポリティク誌を政治地
    理学者の雑誌として創刊しようとしたオプストやマ
    ウルとフォーヴィンケルとの間に深刻な対立を引き
    起こした(Natter 2003: 193-195).彼らは地政学を政
    治地理学の実践的な応用とみなしていたが,フォー
    ヴィンケルは政治学に近いものと理解していた.異
    例の軍事・学術的背景をもつカール・ハウスホー
    ファーは中間の方向を進もうとした.これが,他の
    編集者たちが去った後も彼がただ一人で懸命に編集
    作業を行った理由である.
    なお,戦争中におけるゲオポリティク誌最後の刊
    行となった21巻5/6(9/12月号,1944)は,『自由学派
    雑誌』Zeitschrift Schule der Freiheitと戦時共同で刊行
    された.つまり,ゲオポリティク誌は,経済学者オッ
    トー・ラウテンバツハOtto Lautenbachの雑誌と強制
    的に合併させられたのである.
    3.出版部数
    1929年の世界恐慌とともに生じた内部対立によつ
    て,ゲオポリティク誌は廃刊の危機に陥った.1928
    年には毎月4,000部に達していた出版数は,1930年
    代初期には2,500部に減少した.その後1937年には,
    出版部数は4,000部まで回復し,1939年には6,000部
    38
    クリスティアン・W・シュパング
    に迫った.戦争中には,毎月9,500部が印刷され,
    そのうち30%が海軍ないしは戦場の兵士たちに送ら
    れた.こうした出版部数の増減は,各号のページ数
    にも反映されている.1928年には1,000ページを超
    えていたのに対して,1934年には800ページに減少
    した.193?年には再び1,000ページに達し,1939年
    には900ページに減少し,戦争中には600ページに減
    少した.1943年春以降には隔月刊となり,ページ数
    も年間で350ページまで減少した.1944年に刊行さ
    れた最後の5冊は250ページに満たなかった(Spang
    2013: 243).
    全体的には,ゲオポリティク誌は1924年から44年
    までの間におよそ百万部印刷されたと思われる.戦
    前には,およそ25%が大学,図書館,海外の読者に
    送られていた(Harbeck 1963: 15-16).ドイツ国内の
    図書館に配布されていたことから,定期購読者数は
    出版部数よりはるかに多かったと思われ,戦前と戦
    中の時期には,ゲオポリティク誌が地政学的思考の
    普及に重要な役割を果たしていた.
  7. ゲオポリティク誌のナチ化
    ゲオポリティク誌の展開に話を戻すと,1931/32
    年に重要な変化が生じた.オプストとマウルが編集
    委員会から去ったのである.同誌に対するナチの支
    持をさらに高めようとしたクルト・フォーヴィンケ
    ルの意向に反対したためである.オプストは,ハウ
    スホーファーの世界観やソ連との同盟の可能性な
    いしは願望においても意見が異なっており(Dostal
    2016: 51-37),編集委員を辞めてからは地政学分野
    との関わりもほぼ無くなった.これに対してマウル
    は,他の雑誌において地政学との関わりを持ち続け
    た.ラウテンザッハは,1938年までゲオポリティク
    誌の編集協力者に止まり,さまざまな論文を刊行し
    続けた.カール・ハウスホーファー単独の編集体制
    となってからは,同誌に対する国家社会主義的イデ
    オロギーの影響力が強まった.これは,1932年に設
    立されたナチを強く志向する人種主義的な「地政学
    研究グループ(Arbeitsgemeinschaft fur Geopolitik)」に
    深く関与していたフォーヴィンケルによって推し進
    められたものだった.こうして,当初は保守的で失
    地回復主義的だったゲオポリティク誌は,ナチが政
    権を獲得するまさに直前に国家社会主義的傾向を強
    く持つようになったのである(Harbeck 1963: 29-4?).
  8. カール・ハウスホーファーとゲオポリティク誌
    カール・ハウスホーファーがゲオポリティク誌
    で公表された主張に関してどれほど支配的だったの
    かという問いをめぐっては,これまでにも論争が
    あった(Sprengel 1996: 18-19. Spang 2013: 239-240).
    「月報Berichterstattung」というジャンルでは,ハウ
    スホーファーらがアジアと太平洋,オプストがヨー
    ロッパとアフリカ,マウル(のちにアルプレヒト・
    ハウスホーファー)がアメリカと大西洋を担当して
    いたが,このジャンルを除くとカール・ハウスホー
    ファーの寄稿は6.5%にしか過ぎないけれども,こ
    れを含めると18%にまで高まるのである.こうし
    て,ゲオポリティク誌において刊行された記事の
    うち6本に1本がカール・ハウスホーファーによって
    執筆され,彼は同誌の最も卓越した著者であった.
    このことは,同誌においてアジア関連の記事が卓
    越したことの現れでもある(Spang 2013:174. Dostal
    2016: 53-64). 1938/39年までは,ヒトラーの対外政
    策の成功を根拠として,(当時のドイツの保守主義
    者とともに)カール・ハウスホーファーはナチを支
    持した.この好例はゲオポリティク誌にも見られる.
    「1936年3月29日の地政学の主張Stimme der Geopoli-
    tik zum 29. Marz 1936j (ZfGp 1936: 24?)および「1938
    年の地政学的収穫感謝祭! Geopolitischer Erntedank
    1938!j (ZfGp 1938: 781-782)を参照されたい.第二
    次世界大戦開始後,ハウスホーファーは,その論説
    「収穫Herbsten?j (ZfGp 1939: 741-743)において,英
    国政府を非難した.のちに彼は,「世界像解明の責
    務 Verpflichtung zum klaren Weltbildj (ZfGp 1943: 1-7)
    を寄稿して,ドイツ人大衆の戦意を高めた.
    6.1945年以降のゲオポリティク誌
    戦後に復刊したゲオポリティク誌は,ドイツの地
    政学的思考の傑出した代弁者としてのかつての地位
    を超えることは決してなかった.最近の研究によれ
    ば,西ドイツ時代のゲオポリティク誌は,1956年の
    編集体制の変化によって,二つの時期に区分され
    る.戦後最初の編集長はカール・ハインツ・プフェ
    ファー Karl Heinz Pfefferで,彼は熱心なナチ党員で
    あり,ベルリン大学海外研究学部の前学部長だっ
    た.1956年にロルフ・ヒンダーRolf Hinderが編集長
    を引き継ぎ,ゲオポリティク誌と『共同社会と政治
    学』Gemeinschaft und Politik誌を合併した.この最後
    の合併号は,ボンにあった地社会学•政治学研究所
    によって刊行された.プフェファーの受動的な方針
    とは異なり,ヒンターは積極的に自らの課題を押し
    進め,西ドイツにとって,政治的には中立的な「第
    三の道」の議論を展開した.冷戦下で,コンラート・
    カール・ハウスホーファーとドイツの地政学
    39
    アデナウアー首相による親西側,反共産主義,保守
    的政策の社会にあっては,ゲオポリティク誌の評判
    は高まるはずがなく,1968年にはついに廃刊となっ
    た.
    IV汎地域
  9. 「汎概念」vs•「汎地域」
    カール・E・ハウスホーファーがその著書『汎概
    念の地政学』Geopolitik der Pan-Ideenを1931年に刊行
    したとき,「地域」ではなく「概念」としたのは偶然の
    一致ではない.「汎地域」が明白な地理的特徴に基づ
    く地政学用語を示すのに対して,「汎概念」は幅広い
    意味を持ち,具体的な地理的基礎を欠くのがしばし
    ばである.その著書のまえがき(p.5)において,ハ
    ウスホーファーはほとんどの汎概念は単なる「空中
    楼閣LuftschlOsser」に過ぎないと明確に記している.
    ハウスホーファーが同書で述べる「汎概念」は,それ
    までにすでに存在していたものだ.したがって,ハ
    ウスホーファーがこの用語を創出したとする,幅広
    い見方は言い過ぎだろう(Parker 1998: 33,123).に
    もかかわらず,『汎概念の地政学』はこうした考えを
    要約し比較しようとした最初のものである.
  10. ドイツ地政学の転換点としての1931年
    あらゆる点で,本書のタイミングは重要だっ
    た.1928年5月の選挙で惨敗(2.6%)した後,ナチ党
    (NSDAP)の得票率は1930年9月の選挙では18.3%に
    達し,帝国議会Reichstagで第2党になった.この成
    功はドイツ地政学には悪影響を与えた.というのも,
    ゲオポリティク誌の発行者だったクルト・フォー
    ヴィンケルがより一層「国家社会主義者」へ,すなわ
    ち,人種主義者へと突き進んだのに対して,他の編
    集者たちがこれに反対し,エーリッヒ・オプストと
    オットー・マウルが,1931年に編集委員会を去った
    からである.1932年からは,ハウスホーファーが唯
    ーの編集者として発行を続けたという事実は,必ず
    しも彼がフォーヴィンケルの路線を支持していたこ
    とを意味するわけではない.実際,ハウスホーファー
    はナチ党の党員にはならなかったのだ.
  11. 土台としての人種vs•地理
    『汎概念の地政学』において,ハウスホーファーは
    人種に基づく「汎概念」を述べることは稀だった.「汎
    ゲルマン主義」や「汎スラブ主義」のような影響力の
    ある概念でさえも扱われることはなかった.それゆ
    え,彼の本は,1931/32年のドイツ地政学における
    人種主義的傾向に対しては間接的声明とみなされう
    る.こうして,同書がフォーヴィンケルではなく別
    の発行者から出版されたことは驚くにあたらない.
    概して,ハウスホーファーは,汎概念の将来性に関
    しては,むしろ懐疑的だった.彼はヨーロッパ中心
    の国際連盟を世界大の国際問題を解決するために即
    席に創られたものとみなしていたため,汎地域が将
    来の発展において国際連盟と個々の国家との間でー
    種の調停者になるかもしれないという希望を表明し
    ていた(Haushofer 1931:15, 83, 90).
    4.世界地図の区分
    ハウスホーファーは,異なる汎概念の多くが対立
    する事例として米国を示している.彼によれば,こ
    れら異なる汎概念は,汎アメリカ主義という大陸
    的概念と汎太平洋主義という海洋的概念とを同時
    に支えるものだった.度重なる彼の主張によれば,
    多くの汎概念は重なり合い,互いに矛盾している
    (Haushofer 1931: 8,84).したがって,米国を頂点と
    する汎アメリカ,ドイツとイタリアの支配下にある
    ユーラフリカ,日本の指導下にある汎アジア,ソビ
    エトの支配下にあるユーラシアといった,世界を三
    つないしは四つに区分する擁護者として,ハウス
    ホーファーが幅広く理解されたのは,少なくとも
    1930年代初期においては明らかに誤りであること
    を,こうした矛盾が示しているように思われる.彼
    の著書『汎概念の地政学』のどこにも,ハウスホー
    ファーがそうした世界の地域区分を熱心に主張した
    ことは見当たらない.
    彼の著書(Haushofer 1931:9)にある全ての地図の
    中で最も一般的なものは,世界を五つのブロックと
    どこにも区分されない「自由な」国々とに区分したも
    のである.しかし,そのキャプションには,その
    地図がリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー
    Richard Coudenhove-Kalergiによる汎ヨーロッパ連合
    概念——第二次世界大戦後に,今日のヨーロッパ連
    合の先駆けの一つとしてたびたび理解されてきた
    ——に基づくものだと書かれている.それにもかか
    わらず,1931年には,ハウスホーファーは,何百万
    人もの人々の民族自決に背き,潜在的に戦争の原
    因となるものとして,この概念を批判したのであ
    る(Haushofbr 1931: 10).その地図が示すのは,(1)
    40
    クリスティアン・W・シュパング
    汎ヨーロッパ(英国以外のヨーロッパの植民地を含
    む),(2)汎アメリカ(カナダを除く),(3)大英帝国,
    (4)ロシア/ソ連,(5)「東アジア」(中国,朝鮮,
    日本を含むもので,何らかの汎概念は明示されてい
    ない)である.これら五つのブロック以外に,トルコ,
    イラン,アフガニスタン,エチオピア,タイが独立
    諸国として示されている.
  12. ゲオポリティク誌と世界の区分
    ゲオポリティク誌がさまざまな用語を用いたとい
    うだけで,同誌のアウトラインが「汎ヨーロッパ,
    汎アメリカ,汎アジアという地球の三区分」という
    ハウスホーファーの考えを固めたという主張(〇’
    Loughlin 1994:193)も誤りである.同誌は,その論
    文を区別するのに「汎」という接頭語の付いた表現を
    決して用いなかった.実際,ゲオポリティク誌は,
    共同編集者であるエーリッヒ・オプスト,カール・
    ハウスホーファー,オットー・マウルによるレポー
    卜を, 元々は, 「旧世界地域」,「インド•太平洋世
    界」,「大西洋世界」という形で区分した.1925年には,
    オプストが自らの報告を(「旧世界」に替えて)「ヨー
    ロッパとアフリカ」に変更し,マウルの報告も「アメ
    リカの半球」に集約された.いくつかの変更がみら
    れたのち,1932年から1939年までの大半の報告は以
    下のように区分された.アルプレヒト・ハウスホー
    ファーによる「大西洋世界地域」と彼の父による「イ
    ンド・太平洋地域」とである.
  13. 大陸横断的ブロック
    ハウスホーファーが最も気に入っていた理論は,
    ドイツ,ロシア/ソ連,日本を束ねた,大陸横断的
    ブロックという概念で,世界を三つ,四つないしは
    五つのブロックへと区分するものとはいくぶん異な
    る.彼はこの考えを東アジアから戻った直後に初め
    て図式化しており,マッキンダーの理論とハウス
    ホーファーとの直接的な結びつきという想定は歴史
    家による産物のようだ.のちに,ハウスホーファー
    はマッキンダーのハートランド理論を知り,ロシ
    ァ・ドイツ関係の重要性という点で,自らの世界観
    とマッキンダーのそれとが重なることを理解したも
    のの,ベルリンとサンクト・ペテルブルクないしは
    後のモスクワとの協力(ハウスホーファー)か否か
    (マッキンダー)のいずれが望ましいのかという問題
    になると見解を異にした.
    もしハウスホーファーの心の中に,何らかの世界
    の大区分があったとすれば,一方には(フランスも
    含めた)アングロ・アメリカという「持つ」国々の線
    に沿ったものがあり,他方には,「持たざる」国々が
    あった.こうして,世界においてより大きな役割を
    願うドイツの主張を反西欧的脱植民地主義の主張と
    結びつけることを可能にしたのである.
    7.汎アジア主義
    1931年に,ハウスホーファーは,汎アジア主義を,
    モスクワを基礎とする概念,すなわち,アジアを統
    合して共産主義拡大の手段とする,共産主義体制の
    試みとして理解した.これは,汎アジア主義の特異
    な解釈として述べるべきである.というのも,彼は
    汎アジア主義を米国指導下の汎太平洋主義の主たる
    敵と見ていたからだ.ある意味では,ハウスホー
    ファーは,後の冷戦の対立を汎概念に基づいて予測
    していたことになる.ここに,アルフレッド・マハ
    ンとハルフォード・マッキンダーの対立,すなわち,
    ランドパワー(ソ連)とシーパワー(米国)の対立を
    見ることができる.彼は,1930年代前半までに両国
    が国際連盟に加盟しなかった理由の一つは,何らか
    の国際干渉を認めたがらないことにある,すなわち,
    両国の汎概念の対立が理由だとまで主張したのであ
    る(Haushofer 1931: 78).
    最近,汎アジア主義の歴史が多くの出版物で話
    題になっているが(Saaler-Koschmann 2007, Saaler-
    Szpilman 2011, Weber 2018),その多く は,19 世紀末
    ないしは20世紀初期にまで遡って,東アジア共同
    体に関する中国と日本との協力に焦点を当ててい
    る.この分野で積極的に活動しているスヴェン・
    サーラーSven Saalerは,2007年の著作『近代日本の
    歴史における汎アジア主義』Pan-Asianism in Modern
    Japanese Historyの序文(pp. 2-3)で,次のように述べ
    ている.
    「汎アジァイデオロギーは,「日本人の」アイデン
    ティティの創造過程と同様,近代日本の対外政策
    のどこにでもある諸力の一つであった.••・それは
    日本政府の「現実主義的な」対外政策に対するアン
    チテーゼとしてのイデオロギーへと進展した■••.
    初期の汎アジア主義の著作には,•••日本のアジア
    との共同性を強調するとともに,アジアの人々と
    国々を統一して西洋の進出から守ることを目的と
    していた.」
    この引用は二つのことを示している.第一に,汎
    概念がハウスホーファーの1931年の著書よりもはる
    カール・ハウスホーファーとドイツの地政学
    41
    かに古いという以前からの主張を支持するものだと
    いうこと•第二に,この引用が汎概念の別の側面を
    述べていることである.これらの大半は積極的なも
    ので,統合的な側面を有していた.その反面,消極
    的なものもあり,大半の汎概念は他者に向けられて
    いた.上に引用した事例のように,「他者」とは西洋
    の植民勢力である.それゆえ,19世紀および20世紀
    初期の汎アジア主義には二つの重要なルーツがあ
    る.一つは統一意識であり,二つ目は共通の敵に立
    ち向かう意識である.
    8.おわりに
    以上をまとめると,ハウスホーファーの汎概念の
    地政学とは,実はすでに何十年にもわたって構築さ
    れてきた考えの記述と評価に過ぎないことを繰り返
    さねばならない.このことは誤りを認めるのではな
    く,世界を揺るぎのない三つないしは四つに区分す
    るという提唱者としての,しばしば繰り返されてき
    たハウスホーファーの見方である.

    1) 本稿は,丸善出版から刊行予定の『現代地政学事典』のた
    めにシュパング氏が英語で執筆した,「カール・ハウス
    ホーファー」「ドイツの地政学」「ゲオポリティク誌」「汎
    地域」の4項目のオリジナル原稿を,高木が日本語に翻訳
    して一つにまとめたものである.
    訳者あとがき
    本稿は,クリスティアン・W・シュパングChris-
    tian Wilhelm Spang氏によって書かれた「カール・ハ
    ウスホーファー」「ドイツの地政学」「ゲオポリティ
    ク誌」「汎地域」の,4つの原稿を「カール・ハウスホー
    ファーとドイツの地政学」という表題としてまとめ
    たものである.これら4つの原稿は,もともと丸善
    出版から刊行予定の『現代地政学事典』の4つの項目
    のために英語で執筆されたものである.
    同事典の編集者である訳者(高木)が,シュパング
    氏によって書かれた英語のオリジナル原稿を,事典
    の項目のフォーマット(2頁ないしは4頁)に和訳する
    作業を行ったものの,オリジナル原稿のボリューム
    が大きく,事典の制限字数内にまとめようとすると,
    大幅な要約となってしまい,オリジナル原稿に書か
    れた貴重な内容が無駄になってしまうという懸念が
    生じた.そこで,訳者は,4原稿を「カール・ハウス
    ホーファーとドイツの地政学」という表題で一つの
    論文としてまとめ,その翻訳を本誌に掲載してみよ
    うと思い立った.シュパング氏と丸善出版にこの企
    画を打診したところ,いずれも快諾されたため,こ
    うして翻訳論文として掲載することができた.これ
    ら4項目はもともと別個の項目として執筆されたも
    のであるため,ひとつにまとめると,内容的な重な
    りが目立つし,論文構成も必ずしも統一のとれたも
    のにはなっていない.こうした不具合があるとはい
    え,オリジナル原稿が持つ貴重な内容を失うことな
    くこうして掲載できるメリットの方を訳者は優先し
    たしだいである.
    シュパング氏によれば,同氏は1968年ドイツ生ま
    れ,エアランゲン大学とフライブルク大学(この間
    ダブリン大学に1年間留学)で近現代史,中世史また
    は英語学をそれぞれ学んだ後,フライブルク大学の
    大学院に進み,1997年に「ナチスの日本像とその形
    成におけるカール・ハウスホーファーの役割」の研
    究で修上の学位を取得した.さらに,同大学院の博
    上課程に進学して「ハウスホーファーと日本」の研究
    により,2009年に博上の学位を取得した.この学位
    論文は,『ハウスホーファーと日本』(Karl Hausho
    fer und Japan. Die Rezeption seiner geopolitischen
    Theorien in der deutschen und japanischen Politik)
    として2013年に刊行された.この間,1998年に来
    日し,東京大学歴史学研究室に研究生として滞在し
    た後,2000年10月から2006年3月まで国際基督教大
    学アジア文化研究所の研究助手,2009年4月〜2012
    年3月には筑波大学外国語センター准教授,2012年4
    月〜2016年3月には大東文化大学准教授,2016年4月
    には教授に昇任し現在に至っている.
    なお,著者のシュパング氏による翻訳論文が故石
    井素介氏の翻訳により,本誌第6号(2001)に「カール・
    ハウスホーファーと日本の地政学」(pp. 2-21)とし
    て掲載されている.併せてお読みいただければ幸い
    である.
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習近平政権の統治方針の何が危険なのか

習近平政権の統治方針の何が危険なのか
https://nappi11.livedoor.blog/archives/5418993.html

『最近の中央大学文学部准教授・及川淳子(じゅんこ)氏:右 の『教科書から紐解く「習近平思想」』が目を引いた。記事になった「中国共産党の「紅色」を断固守る決意を示した習近平の本音」から抜粋、編集した。
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習近平は2023年3月13日に開催された全人代第1回会議の閉会式で演説し、「強国の建設、民族の復興という壮大な目標は、人々を鼓舞し、奮い立たせる」と強調した。

演説では「強国」について12回も言及があり、第3期習近平政権を特徴づけるキーワードとなった。

習近平は今回の全人代で国家主席に再任され、名実ともに党・軍・国家の頂点に君臨し続ける体制を保持することとなった。
5年前の全人代で憲法を改正し、国家主席は2期10年までとしていた任期制限を撤廃したことによって、3期目の政権運営が実現可能になったからだ。

習近平の名を冠した政治理念は中国共産党の党規約と中華人民共和国憲法にも明記され、党と国家の重要思想として位置づけられている。

党員の思想教育のみならず学校教育の現場でも徹底されており、小学校の1年生から必修科目として学ぶための教科書まである。 

「習近平法治思想」、「習近平強軍思想」、「習近平外交思想」、「習近平新聞思想」など、これまでに次々と公開された党の文献を概観すると、「習近平思想」の本質とは、つまるところ「強国思想」と換言できるだろう。

筆者がこのように指摘する根拠は、「社会主義現代化強国」にある。

習近平政権は、中華人民共和国の建国から100周年にあたる2049年までに「社会主義現代化強国」の建設を全面的に実現する目標を掲げている。

閉会式の習近平は、「社会主義現代化強国を全面的に建設し、中華民族の偉大なる復興を全面的に推進することは、全党と全国人民の中心的な任務である。

強国の建設、民族の復興というバトンは、歴史的に我々の世代に渡されたのだ」と発言した。また、「中国式現代化建設の推進を加速させなければならず、(中略)強国の建設、民族の復興の推進のために、我々世代のしかるべき貢献を果たさなければならない」と強調した。
FireShot Webpage Screenshot #700 –

‘中国共産党の「紅色」を断習近平は現体制を「新時代」と位置づけ、新たな時代に「社会主義現代化強国」を建設するという国家目標を掲げて、その道筋を「中国式現代化」と称している。「中国式現代化は、」から始まる5つの段落の冒頭部分を挙げると、右の様になる。

対立や分断が進む国際情勢を鑑みれば、習近平政権が掲げる統治理念が中国国内のみならず国際社会にも波及し得るか否かという問題は、「価値」をめぐる対立のさらなる激化を想起させる。

習近平政権は、国際社会に広く共有されている民主・自由・平等・法治・人権などの「普遍的価値」は欧米が主導する西側の価値観だと痛烈に批判している。中国国内で思想や言論の統制、弾圧が著しく強化されている背景には、中国共産党が警戒する「普遍的価値」の影響力を徹底的に排除するという狙いがある。

習近平政権発足後は「普遍的価値」に対する統制が強化され、さらには「普遍的価値」に対する挑戦も見られるようになった。国内においては中国共産党が定めた「社会主義の核心的価値観」の思想教育を徹底し、国際社会に対しては中国が主導する「全人類共通の価値」を強調するという戦略である。

「社会主義の核心的価値観」とは、国家・社会・公民の価値基準を一体化することを狙いとして定められたもので、FireShot Webpage Screenshot #701 – ‘中国共産「習近平新時代中国特色社会主義思想」の重要な構成要素である。

2012年第18回党大会で提起され、習近平政権下の10年来はこの思想教育が徹底されている。  「社会主義の核心的価値観」の具体的内容は、右のとおりだ。

一見すれば、「社会主義の核心的価値観」に挙げられている「民主」や「自由」などは、「普遍的価値」と共通するように思われるが、中国で語られるのは「中国式の民主」、「中国式の自由」という点に留意する必要がある。

さらに言えば、国際社会では「全人類共通の価値」を尊重するが、各国内では国情にあわせた統治を尊重し、権威主義体制や全体主義的独裁体制なども内政干渉しないという中国共産党の企図がある点も指摘しておきたい。

習近平政権は、「中国式現代化」によって「社会主義現代化強国」の建設を目指すだけでなく、国際秩序の再構築まで視野に入れた「人類文明の新形態」を構想している。これは、習近平政権の覇権主義的な国際戦略として見ることもできるが、筆者はむしろ危機感の裏返しだと考えている。

全人代の演説では、「党の団結と統一を一貫して保ち、党が永遠に変質せず、変色せず、風味が変わらないことを確保し、強国の建設と民族の復興のために強固な保証を提供しなければならない」と強調した。習近平が最も危機感を抱いているのは、「普遍的価値」によって中国共産党の「紅色」が色褪せてしまうことなのだろう。

多様性が尊重され複雑な色彩をもつ国際社会は、中国共産党の「紅色」だけで染められるものではない。

混迷を極める国際情勢のもと、習近平が率いる中国のさらなる影響力の拡大が注目されている。本格始動した第3期習近平政権の行く末について考察する際には、中国共産党の「紅色」の彩度とその変容にも注目していきたい。

、、、、以上を筆者の目でごく簡単に言えば、国際的な価値観とは別に、中国は自分の(共産党の)価値観を内外へ拡散するが、他国から中国への干渉はするなと取れる内容で、勝手な大国主義にしか見えない。

其の為に、ロシアと共に国連での常任理事国としての特権を振り回すのだから始末が悪い。国連改革が言われるのも当然だろう。』

2035年のガソリン車禁止案巡り不支持EU8カ国が協議

2035年のガソリン車禁止案巡り不支持EU8カ国が協議
https://nappi11.livedoor.blog/archives/5418764.html

『【ブリュッセル 3月14日 時事】チェコのクプカ運輸相は2023年3月13日、2035年にガソリン車の新車販売を事実上禁imageshjh止する法案に関し、ドイツやイタリアなど欧州連合(EU)7カ国の交通相と協議したことを明らかにした。

これらの国は法案不支持の立場。

ロイター通信によれば、ドイツのウィッシング交通相はこの日、「法案は早急に変更が必要だ」と述べたという。

クプカ氏によると、協議に参加したのは独伊のほか、ポーランド、ハンガリー、ルーマニア、スロバキア、ポルトガル。

EU加盟国などは2022年、法案に合意した。しかし、加盟国による正式承認の段階になって、一部の国が不支持を表明。手続きが延期されていた。参照記事 過去ブログ:2023年3月2035年のガソリン車禁止案巡り不支持EU8カ国が協議:』

千葉の会場で三菱重工の「かも・そーた」が説明した。

千葉の会場で三菱重工の「かも・そーた」が説明した。
https://st2019.site/?p=20978

『Stew Magnuson 記者による2023-3-16記事「Future Jet Fighter Could Be Held Together With ‘Glue’」。

   千葉の会場で三菱重工の「かも・そーた」が説明した。日英伊共同開発の新戦闘機は、カーボンファイバーとレジンを、特許の黄色い接着剤で固めた外皮になる。』

RAAMがウクライナ戦線でものすごく有効だと諸方面が認めている。

RAAMがウクライナ戦線でものすごく有効だと諸方面が認めている。
https://st2019.site/?p=20978

『Brendan Cole 記者による2023-3-16記事「What Are Ukraine’s RAAM Mine Systems? Equipment Stalling Russian Advances」。

     RAAMがウクライナ戦線でものすごく有効だと諸方面が認めている。
 1980年からある米国製の特殊砲弾なのだが、なぜか今次戦争で株が急上昇した。

 有効なのは道理。こいつはまさに「対ソ戦」のために開発されたスペシャル兵器だったからだ。

 湾岸で、逃げの一手のサダム軍に対して、こいつを使う機会はなかった。タリバンやアルカイダやISは、AFVに乗って攻めかかって来てはくれぬ。けっきょく、いままでずっと、倉庫で眠らせておくしかなかった。それが、露軍の大攻勢という、またとないチャンスにめぐり遭った。待ってましたというやつだ。

 155ミリ砲弾の中から9個の対戦車地雷がバラ撒かれる。その信管は磁気感応式なので、露軍の戦車が踏まずとも、近くを通りかかっただけで起爆する。

 RAAM砲弾は、ふつうの榴弾ほど、遠くへは飛ばせない。レンジは2.5マイルから、10.5マイルの間だ。

 車両が道路上を進退するしかない泥濘期には、退却する敵をこいつで漸減させてやることも可能だ』

バフムト市の防御に任じているT-80の車長いわく。射つタマがほとんど無くなっている、と。

バフムト市の防御に任じているT-80の車長いわく。射つタマがほとんど無くなっている、と。
https://st2019.site/?p=20978

『Thomas Gibbons-Neff, Lara Jakes and Eric Schmitt 記者による2023-3-16記事「Ukraine Burns Through Ammunition in Bakhmut, Putting Future Fights at Risk」。
    バフムト市の防御に任じているT-80の車長いわく。射つタマがほとんど無くなっている、と。

 ※ここでも戦車を野砲代わりに使っているわけである。

 バフムトを防衛中のウクライナ軍の旅団長がフェイスブックに書き込んだ。破滅的に砲弾が足らなくなった。こっちに向かってくる敵のT-90の足を止めることができたが、それにとどめを刺すための砲撃は禁止された。砲弾を節約するためだ。

 ※これは155ミリ榴弾砲だろう。

 ちなみにバフムト戦線は、対峙線の長さが600マイルである。

 ※3月16日の戦地レポートによると、宇軍が、1973年製造のフランス製の迫撃砲を使っているという。

性能は、旧ソ連製の迫撃砲よりはマシという程度。

ところで、WWII中の、さらに古い迫撃砲は、タマが3kmくらいしか飛ばなかったりする。しかし、今のウクライナ戦線では、そのくらいでいいのだ。たとえば迫撃砲のタマを7kmも飛ばしたって、目視観測はとうてい効かず、双眼鏡でも弾着点が分からない。潜入行動ができるFO人材なんて宇軍にいるわけないし、ドローンとの密接な連携がない限り、すべて無駄撃ちとなるだけなのだ。

だったら、3km以内に引き付けて、ハッキリ見える目標だけを射撃させた方がいい。ワグネルを小火器間合いまで近寄せず、1kmから3kmの間合いで出血損耗を強制し続けることができれば、それで露軍は自滅する。思い切って「3km飛ばすだけ」と割り切ってしまうなら、歩兵支援用の重火器も、ずいぶん簡略化できる。硫黄島で使った「噴進砲」みたいな、大口径で短射程のロケット弾を、3Dプリンターで量産できるのだ。

支那事変中の日本兵を最も多数、死傷させた、81~82㎜迫撃砲は、2kmも飛ばぬ重火器だった。しかし、こっちの歩兵は、2kmの距離を一息には躍進できない。だからゲリラ的に使われると、日本軍にはどうしようもなかったのである。

同じことをしてやれ。』

ポリティコによると、EU諸国はすでにウクライナに、35万発の155ミリ砲弾を供給した。

ポリティコによると、EU諸国はすでにウクライナに、35万発の155ミリ砲弾を供給した。
https://st2019.site/?p=20978

『Sanya Mansoor 記者による2023-3-16記事「Why the West Is Getting Nervous About Ammunition Shortages for Ukraine」。

    ポリティコによると、EU諸国はすでにウクライナに、35万発の155ミリ砲弾を供給した。

 しかしNATO事務長のストルテンベルグは警告する。宇軍の砲弾消費ペースは、われわれの製造ペースの数倍にもなっていると。

 EUの対外政策部長のジョセプ・ボレルいわく。露軍は毎日5万発の砲弾を発射している。対する宇軍は6000発から7000発である、と。このギャップはなくさなくてはならない。

 エストニアは呼びかける。EUとNATOは、100万発の砲弾をウクライナに与えるべきだと。

 もと海兵隊のシンクタンク員は言う。陸軍は、もし砲弾が足りなくなったら、低価値目標に対しては砲撃をしないで、高価値目標だけを選んで砲撃するようになる。

 また別なシンクタンク員いわく。WWI中には、各国軍は、局地攻勢の前に数ヵ月をかけて軽便鉄道を前線まで伸ばし、膨大な砲弾をストックする必要があった、と。』

中共は、トルコ経由、およびUAE経由の「抜け荷」ルートを使って、ロシアに対して、火器や防弾装具を売っている。

中共は、トルコ経由、およびUAE経由の「抜け荷」ルートを使って、ロシアに対して、火器や防弾装具を売っている。
https://st2019.site/?p=20978

『Erin Banco and Sarah Anne Aarup 記者による2023-3-16記事「China ships assault weapons and body armor to Russia」。

   POLITICOは、2022-6月~12月の通関記録を調べてつきとめた。中共は、トルコ経由、およびUAE経由の「抜け荷」ルートを使って、ロシアに対して、火器や防弾装具を売っている。

 すでに自動小銃を1000梃供給した。「CQ-A」という、見た目「M16」で、フィリピンやパラグアイにも売った安物銃だが……。

 DJIは、ドローン用のカメラとバッテリーなどを、UAE経由でロシアに納品している。

 12トンを越える量のボディアーマーも、トルコ経由でロシアは受取っている(2022-11月~12月)。

 通関記録をまとめてくれているサイトとしては、「ImportGenius」が役に立つ。

 中共のメーカーは「デュアルユースだ」と強弁することでアメリカの制裁を回避できると思っている節がある。

 ロシアは2022-12に、80トンのボディアーマー(1000万ドル相当)を輸入することに成功している。
 メーカーはトルコの「Ariteks」。
 またロシアは、中共の「Xinxing」社製の防弾着も輸入している。』

朗報! インボイスはボイコットできる

朗報! インボイスはボイコットできる
https://tanakaryusaku.jp/2023/03/00028524

 ※ 『1、ギリギリまで登録しないこと。
2、登録したら取下げる(取下げ可能である)。

 登録者がいなかったら制度として成り立たなくなる。運用できなくなるのだ。』…。

 ※ まあ、「無理筋」だろうな…。

 ※ 「登録者がいなくなる」ほど、「足並み」が揃うとは、思えない…。

 ※ 個人事業主でも、キチンと「複式」の帳簿をつけて、「確定申告」しろよ。

 ※ 今は、各種の「会計ソフト」が、出ている。

 ※ 「どんぶり勘定」が許される時代、じゃ無いんだ…。

 ※ 「納税」は、「国民の義務」だぞ…。

 ※ 『(※ 日本国憲法)第三十条
国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。』

『いよいよ政府は零細事業者を殺しにかかってきたようだ。10月1日から導入されるインボイス制度である。

 息の根を止められそうなのは、年収1千万円以下のフリーランス、演劇、映画、出版、個人タクシーなどだ。私本人も含めて周りはインボイス制度の対象となる人だらけである。

 これまで年収1千万円以下の事業者には消費税の課税が免除されていた。免税事業者という。

 インボイス制度が導入されるとどうなるか。年収1千万以下であろうとも課税事業者登録しなければ、仕事の発注を受けられなくなる可能性が非常に高くなる。新制度により発注先が仕入れ控除できなくなるからだ。

 課税事業者登録すれば、これまで払わなくても済んだ消費税を税務署に払わなければならなくなる。事実上の増税である。

 増税を選ぶか。仕事の発注が来なくなることを選ぶか。年収1千万円以下の零細事業者は究極の選択を迫られることになる。

安藤元衆院議員。税理士だけあって税の仕組みや財務省の手の裡をよく知る。=17日夕、新宿西口 撮影:田中龍作=

  零細事業者はこのまま泣き寝入りしなければならないのか、と諦めかけていたら、山本太郎が「STOPインボイス」を掲げて立ち上がった。

 山本は元自民党衆院議員の安藤裕らと共に17日夕、新宿西口で「STOPインボイス」の街宣活動をした。安藤は税理士でもあり、自民党にいながら消費税の廃止を主張してきた政治家だ。

 諦め絶望する必要はない。インボイスをボイコットできる方法があるのだ。安藤と仲間の神田知宜税理士が作戦を授けてくれた―

1、ギリギリまで登録しないこと。
2、登録したら取下げる(取下げ可能である)。

 登録者がいなかったら制度として成り立たなくなる。運用できなくなるのだ。

 インボイス制度による税収は2800億円。110兆円を超す国家予算から見れば微々たるものである。

 なぜ貧乏人の首を絞めるのか。安藤によれば財務省は免税業者をなくしたいのだ。

《インボイス制度に殺されたくない》。聴衆の目が真剣だ。=17日夕、新宿西口 撮影:田中龍作=

 街宣会場を訪れたフリーランスたちがマイクを握り不安を訴えた―

 声優の女性は「登録制度にすれば個人情報(名前、住所)が洩れ、ストーカー被害につながる」。

 男性俳優は「インボイス制度を考える有志の会」を結成した。「演劇関係者の2割が廃業する恐れがある」。「インボイス登録者には仕事が来るが、登録していなかったら仕事がこない」。

 財務省よ。低所得者層の悲鳴が聞こえるか。

 インボイスの影響で物価があがる。景気も落ち込む。安藤氏は「その先に待っているのは消費税増税だ」と指摘した。

(文中敬称略)

  ~終わり~ 』

春攻勢の準備を急ぐ米国、ウクライナに時間を無駄する余裕はない

春攻勢の準備を急ぐ米国、ウクライナに時間を無駄する余裕はない
https://grandfleet.info/us-related/u-s-rushes-to-prepare-for-spring-offensive-ukraine-cant-afford-to-waste-time/

『米軍は晩春までに始まると予想されるウクライナ軍の春攻勢に向け「急ピッチで装備の移送とウクライナ人の訓練を進めている」と報じられており、米国防長官も「ウクライナに時間を無駄にしているような余裕はない」と危機感は募らせている。

参考:‘Ukraine doesn’t have any time to waste’: U.S. races to prepare Kyiv for spring offensive

ウクライナは最終的な決断を下していないものの春攻勢には2つの選択肢があり、アゾフ海沿いの移動ルート遮断を選択する可能性が高い

米POLITICOは15日「ウクライナは米国が戦略的に重要ではないと判断しているバフムートに兵士と弾薬をつぎ込んだ結果、前線の兵士達は榴弾砲や迫撃砲の弾薬不足を痛感している。米政府関係者は1年に渡る戦いでウクライナ軍は経験豊富な兵士を含む10万人以上が死亡したと推定しており、その大半はバフムートの戦いで発生したものだ」と指摘、米政府関係者はウクライナ軍の弾薬や経験豊富な兵士が減少していることを懸念しているらしい。

出典:Головнокомандувач ЗС України

米国のオースティン国防長官も「ウクライナに時間を無駄にしているような余裕はない」と危機感は募らせており、春攻勢に向けた準備が遅れれば遅れるほどバフムートで兵士と弾薬が消耗されるため「とにかく我々は約束したことを迅速かつ完璧に実行しなければならない。新たな装備を移送して訓練を提供し、スペアパーツやメンテナンスサポートも出来だけ早く届けることが重要だ」と15日のラムシュタイン会議で訴えている。

いつ春攻勢の準備が整うのかは不明だが、どこで春攻勢が始まるのかについて米軍関係者は「まだウクライナは最終的な決断を下していないものの基本的に2つの選択肢があり、ヘルソンから南下してクリミアに入るか、北側から東に移動して南下しロシアの陸橋を断ち切るかだ。ウクライナ軍には守りを固められたドニエプル川を渡河するだけの能力も戦力もないため、前者の選択肢は現実的ではなく後者を選択する可能性が高い」と言及。

出典:管理人作成

つまりザポリージャからドネツク方向に移動、最も守りが手薄な地点を突破して南下、アゾフ海沿いの移動ルート=陸橋を断ち切ってヘルソン州とザポリージャ州の敵を「ロシア本土と陸続きドネツク州と切り離す」という意味で、この選択肢で行くならクリミア大橋の破壊も必須で例の武器が必要になるだろう。

ウクライナ防衛産業協会のイワン・ヴィンニク会長は3月「Vilkha-Mが実戦に投入されている」と明かし注目を集めており、旧ソ連製の多連装ロケットシステム「BM-30」で使用するロケット弾「Vilkha(ヴィルカ/弾頭重量250kg/最大射程70km)」はGPS以外の誘導方式(詳細不明)を採用しているため妨害下でも安定した命中精度を誇り、弾頭重量を減らして射程を130kmまで延長した「Vilkha-M(弾頭重量170kg)」が2022年5月に実戦投入されたらしい。

出典:armyinform.com.ua/CC BY 4.0

Vilkha-Mは約100発ほど生産されているらしいのだが、射程を150kmまで延長した改良型の開発作業も進行中で「アゾフ海方面の反攻作戦に間に合えば良いのだが、、、」と付け加えていた。

射程が200kmほどあれば射点の自由度も広がるのだが、Vilkha-Mの改良型(射程150km)でも下記の地点ならクリミア大橋に届くので、もし「Vilkha-Mの改良型」でクリミア大橋を破壊するつもりならメリトポリもしくはベルジャンシクへの到達が春攻勢の目標になる。
出典:GoogleMap

ただ衛星画像やSNS上にアップされた画像を見る限り、ロシア軍がヘルソン州とザポリージャ州に準備している塹壕、障害物、防御陣地の数と長さは尋常ではなく、道路が交差するポイントにも塹壕と障害物がもれなく用意されているため「ハルキウ州の反撃速度」を再現するのは難しいだろう。

下記のGoogleMap(Brady Africkという方が作成したもの)は衛星画像で確認された塹壕、障害物、防御陣地が落とし込まれたもので、表示に時間がかかるかもしれないが興味がある方は見てみて欲しい。

因みに地図上の赤い点は当該地域を映した衛星写真へのリンクで、塹壕、障害物、防御陣地の数を意味しているものではなく、赤い点と赤い点の間が開いているのは「塹壕が途切れている」という意味ではないので注意してほしい。

関連記事:ウクライナ軍、BM-30で使用する射程100km以上のVilkha-Mを実戦投入
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※アイキャッチ画像の出典:DoD photo by U.S. Navy Petty Officer 2nd Class Alexander Kubitza
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投稿者: 航空万能論GF管理人 米国関連 コメント: 43  』


TKT
2023年 3月 16日

返信 引用 

この二つの選択肢というのは、米軍関係者とやらが勝手に言ってることであり、その他にウクライナ軍には
「能力的にできない、無理なので結局春の攻勢はやらない」
という選択肢もあるでしょう。

米国が戦略的に重要でないと考えているバフムートからも、ウクライナ軍司令部、参謀本部は撤退しないと決めているように、米軍がウクライナ軍に春の攻勢をやれ、と一方的に言ったからといって、本当にウクライナ軍が米軍の言う通りに何でも実行するとは限らないのです。

またウクライナ軍によるクレミンナの奪回が失敗しているように、実行したとしても、
「春のめざめ作戦」
のように阻止される可能性も高いと言えます。ロシア軍はすでに反撃を予想して、クルクスの
「パックフロント」
のような対戦車縦深陣地を前から準備しているのです。NATO各国が少しづつかき集めたレオパルト2戦車は、このロシア軍が時間をかけて準備した対戦車縦深陣地に正面突撃を強行するのでしょうか?

アメリカ軍が編成を急がせた結果、ウクライナ軍に訓練不足の戦車乗員が多ければ、まさにマリアナ沖海戦の
「七面鳥撃ち」
のようにもなりかねません。

それ以前に、バフムトを陥落させたロシア軍が、マリンカやアウディイウカからの攻勢を本格化させて、万が一に突破でもした場合は、ザポロジェにウクライナ軍を集めても、逆に北東から突破したロシア軍に包囲されるような危険もあります。
13 』

『 YK
2023年 3月 16日

返信 引用 

残念ですが海外の戦況情報のサイトでロシアよりのサイトは当然でしょうが、中立だけでなく、比較的西側応援のサイトでさえ、のきなみウクライナの悲劇的な状況を示し始めています。日本の応援サイトはここ以外は異常に偏っていてウクライナ応援ですが・・・ウクライナは夏まで持たないのではないでしょうか・・・。
15 』

『 ななし
2023年 3月 16日

返信 引用 

米政府関係者が行っていることが事実なら、バフムートがあまりにもヴェルダンすぎる…ドイツがあのとき成し得なかったことをロシアがやっているというか
そしてドイツと違ってロシアは多くの兵士が死んでも戦争継続できるという

前からアメリカは反撃重視のスタンスだけど、防御でどれだけ敵を削っても反撃で成功しないとジリ貧だと一番分かってるのがアメリカなんだろうな
3 』

『 霞ヶ浦
2023年 3月 16日

返信 引用 

危惧していたけど世界経済がいよいよヤバくなってきたからタイムリミットができる可能性はある
とりあえず反攻作戦が成功するかどうかが鍵だが難易度はどれも高そうなんだよな
4 』

『 だんだん暖かくなってきました
2023年 3月 17日

返信 引用 

機甲部隊の再建に手間取っているとは言え露軍が戦線に対して兵員密度が不足しかつ地形障害に悩まされ後方での防御工事も進んでいなかった昨年までともうだいぶ様相が違ってきましたから、成功するしないの予言は別にして去年のハルキウ奪還通りとは行かないでしょうね。

反撃までの準備にしては最早遅滞戦闘におけるバフムトでの拘束の意味が政治的な意味しか残っていないというか何故戦線整理に及ばないかもよく分からないです。

東欧諸国は戦車提供に積極的ですが要のG3MBTが雀の涙ですし春季~夏季の攻勢でルハンシク陥落させてロシア本土からの接続解消のような大胆な作戦夢見ますがスバトボ~クレミンナ~スタロビルスク方面で攻撃に出るか各地の突出部の整理ぐらいが現実的かもしれません。
2 』

『 2023年 3月 17日

返信 引用 

もはやアメリカはこれ以上の支援を続ける気はなく、次の攻勢の圧倒的な勝利による戦争終結を模索しているのかもしれませんね。

そんな乾坤一擲の大勝負となりえるのは困難な南部の遮断しかなく、比較的成功の可能性が高いものの戦争終結に結びつかない東部や北東部ではないと。

まあたとえ失敗したとしても全土奪還の希望が潰えて戦意の落ちたウクライナがロシアに対して譲歩したいというなら尊重するという名目も立ちますし、もちろん成功して南部の部隊の全滅が視野に入ってくればさすがにロシアも降伏してくるだろうということで、どちらに転んでも都合はよさそうです。

ウクライナがアメリカの要望に逆らって東部や東北部で反撃に出る可能性もありますが、まあその場合は支援を切られるだけでしょう。
5 』

『 名無しみくす
2023年 3月 17日

返信 引用 

この主題とちょっと外れてしまい申し訳ない。ドローン墜落と関連しての解釈が気になる。これほど敵対的で準戦争行為を取り、ノルドストリームテ口爆破疑惑もあるアメリカのドローンをロシアが公海上で墜落させたのは、国際的にはどう捉えられているのだろうか。

国際法違反は違反として教条主義的にロシア側が批判されるのか、もしくはアメリカは何を言っているのだ?もう戦争やってんだ、黒海に爆装した敵国機を撃墜するのは当然だろ。とアメリカが反感買うのか。

国際情勢の反応を早く知りたい』

誰が書いて誰が読む

誰が書いて誰が読む 山田 祥平
https://pc.watch.impress.co.jp/docs/column/config/1486698.html

『2023年3月18日 06:16

どうせ読むのが機械なら、わざわざ人間が読んで理解しやすい言語生成AIを使う必要はないんじゃないか。対話の相手は誰なのか。そこに将来のヒトの生き方、暮らし方、働き方を支えるコミュニケーションのポイントがあるらしい。人間不在のコミュニケーション時代の幕開けなんだろうか。

イルカのカイルはどこに消えた

 Microsoftがオンラインイベント「The Future of Work with AI」で、AI機能を統合したオフィススイート「Microsoft 365 Copilot」を発表した。

 Officeアプリのユーザーアシストといえば、イルカのカイルを思い出す。これはすでに四半世紀前の話だが、その次元を遙かに超える(はず)の構想が今回のCopilotだ。Copilotは、副操縦士を示す。パイロットの指示に従い、手に入るあらゆる情報を元に、新たな表現を生成する。このときもちろんCopilotは人間、ということになっている。

 ここで考えてしまうのは、生成される言語表現が誰のためのものなのかということだ。仮に、近い将来、コミュニケーションが機械同士で行なわれることが新しい当たり前となった時、表現するのは機械であり、その表現を解釈するのも機械ということになる。そこに人間が介在せず、人間は機械が解釈した結果だけを受け取るだけになるのなら、機械と機械の間でかわされる情報のストリームを、わざわざ人間が慣れ親しんでいる自然言語にする必要はないのではないだろうか。となると、自然言語生成AIという存在自体が無意味なものにも思えてくる。

 メールが届き、そこに書かれた内容を解釈したAIが、あらゆる場所のストレージを検索して、必要な情報をピックアップし、それをまとめて返事として相手に送りつける。それを受け取った相手のAIは、饒舌な表現の情報から贅肉をそぎ落とし、ポイントだけを人間に見せる。あるいは、図示するなど、別の表現を生成して披露する。でも、結局、そういうふうに人間に見せても、それを見て反応するのは機械なので、人間が理解する必要はない……、なんてことを繰り返し考えていたら、ちょっと怖くなってしまった。

自動変速車と自動運転車

 Microsoftがやろうとしているのは、人間が人間にしかできないことに専念できるように、機械にもできることを人間がしなくていいようにするということだ。それはそれで素晴らしい取り組みだ。ただ、その反作用として、人間にしかできないことって何だろうという疑問につきまとわれることになる。

 かつてぼくが自動車の運転免許を取ったとき、オートマ車はすでにあったが、免許そのものはマニュアルミッションで取得した。そして、最初に買ったクルマはマニュアルミッションで、助手席に乗せた知り合いから、そんなに頻繁に変速するならオートマにした方がいいと言われた。その次のクルマはオートマを選んだが、同じ知り合いを乗せた時に、そんなに変速するなら、マニュアルミッションにすればいいのにと言われた。

 今になって、そんなことを懐かしく思い出すのだが、結局、2台目以降のクルマはすべてオートマ車を選んできた。たぶん、これから運転免許を取得する層は、自動運転車の洗礼を受けることになるのだろう。万が一のときに備えてマニュアル運転車(マニュアルミッションではなく)を運転できる資格を取ることになるかもしれない。

 ほとんどの場合、人間がギアチェンジするよりも、ずっと上手にギアを切り替えるオートマ車と同様に、人間が運転するよりずっと上手で安全にドライブができるはずの自動運転車は、この先、普通のクルマとなって社会に溶け込んでいくことになる。

 そのあたりの未来は、なんとなく創造できるのだが、AIが人間の知的労働を代わってやってくれるという社会の到来が、どうにもうまく創造できないでいる。

ヒトと生成AIの共存

 それは怖れでもある。機械が全部やってくれるという世界観に対して感じるのは、これからはラクになるという安堵よりも、これから自分は何をすればいいのかという恐怖であったりするわけだ。機械が、と言うからオブラートに包まれるが、コンピュータがというと、ちょっと身構える。

 例えば、こうして書いているコラムの存在意義などなくなってしまう可能性もある。機械が要約すれば数十字で収まるかもしれないことを、何千字も使って書いているのだ。書く方も時間の無駄なら、読む方も時間の無駄だ。百歩譲って、有益なことを書いているのだとしたら、その内容は数十文字でやりとりすればいい。

 もう、小説も無駄ならドラマも映画も無駄、コミックなんて言語道断という世界がやってきたらどうなるのか。そうはならないと言い切れるのだろうか。

 もしかしたら、これから人間が努力して身につけなければならないスキルは、役に立たない情報を生成する能力だけになるかもしれない。役に立たない情報だけが役にたつとう禅問答のような世界観、いわゆる喜怒哀楽にストレートに直結する情報の生成だ。それ以外のことは機械にまかせたほうが、ほとんどの場合うまくいく、かもしれない。

 どうにも「かもしれない」が多い文章で、自分でもいやになってくるのだが、実際問題として、本当に近い将来のことは分からない。かつてOfficeを支えたOfficeアシスタントは、かわいいイルカのカイルがいろいろなことをアシストしてくれたのだが、それが邪魔という声が高まり、消えてしまった。あれは人格的なものをキャラクターに持たせてしまったことが失敗だったようにも思う。もっと無機質なものなら結果は違っていたかもしれない。

 生成AIも同様で、人間が生理的に拒絶する可能性はあるが、手を変え品を変えて無力な人間の前に繰り返し現れて定着していくのだろう。カイルや冴子先生のように、簡単に消えるわけにはいかないというムードさえ感じる。

 検索結果に広告を並べて表示するというビジネスモデルが崩壊しかねない状況に、今、そうはさせまいと懸命に次の一手を考えている人たちもいるはずだ。かと思えば、フィッシングにひっかかる生成AIも出てくる可能性がある。メールを人間の代わりに受け取ったAIが、フィッシングサイトに誘導され、個人情報を伝えたりしたら目も当てられない。人間が見たらウソだとひと目でわかる表現が、機械には理解できないという、それこそ理解不能なことがこれからはどんどん起こることになるだろう。

 それでも機械との共存を目指し、機械の力を借りながらも人間は明日を創る。それは人間だからだ。当たり前のことだ。』

スイス銀行が抱える闇

スイス銀行が抱える闇
https://globalnewsview.org/archives/18334

『ハナフサマユコ Mayuko Hanafusa
2022年4月14日

2022年2月、スイスの銀行大手クレディ・スイスで大規模な内部告発が発生し、ドイツの新聞社南ドイツ新聞に情報が流出した。リークされた情報の中身は30,000人もの顧客の18,000件以上に及ぶ口座リストであり、預金総額は1,000億米ドルを超える。さらに拷問や麻薬取引、マネーロンダリング、汚職、その他重大犯罪に関与していた顧客の存在も明らかとなり、その中には有名な政治家や富裕層が名を連ねていることが判明した。法律上、銀行には、扱う資金が明確で合法的な出所であることを保証する明確な義務がある。そのため本来顧客が犯罪に関与していれば、銀行は取引を一切許可するべきでない。しかし銀行はその義務を果たしてきたとは思えず、一部の口座は現在も開設したままだという怪しい状況だ。

クレディ・スイスはこれまでにも数々のスキャンダルを起こし、何度も罰金を科されてきた。それでも犯罪等によって得られた汚いお金を管理し、利益を獲得し続けてきたのである。なぜこのような状態がまかり通ってきたのだろうか。本記事では、歴史を辿りながらスイスにおける銀行業の実態に迫る。

組織犯罪・汚職報告プロジェクト(OCCRP)のウェブサイト(写真:Hanafusa Mayuko)

目次

金融の中心地としての歴史
犯罪の温床となる訳
今回のリーク
改善へ?
展望

金融の中心地としての歴史

スイスは世界の中でも金融の中心地の1つとして名が挙がる。はじめに、なぜそう認識されるほど銀行業が発展したのか、その歴史を振り返ろう。

遡ること16世紀、ヨーロッパでは各地で宗教改革が行われていた。そのうちの1つであるフランスから、カルヴァン派のユグノーやプロテスタントの難民が、宗教的迫害からの解放を求めてスイスの改革派地域に逃れてきた。難民の中には熟練の職人や商人が多く、彼らは時計製造などの製造業発展に大きく寄与した。そして製品への需要が高まり多くの資本が流入したことで、製造業はスイスにおける経済成長の原動力となっていった。また、宗教戦争が勃発した際スイスは中立を保ったものの、多くのスイス人が傭兵として外国軍に派遣された。その後帰還した傭兵が、派遣先で得た報酬や金品等を安全に保管するために銀行に預けたことによって、さらに多くの資本が流入した。このような資本流入の結果、スイスでは銀行業が発展の道を辿ることとなった。

1713年、ジュネーブ大評議会(※1)にて、銀行家に対して顧客名簿の保管を義務づける一方、市役所の同意がない限り顧客以外の者への情報開示を禁止する法律が制定された。それはフランスの王族たちが、宗派の異なるスイスの銀行と行っていた取引を隠蔽するのを手助けするためであった。この法律制定に伴い、銀行は守秘義務に対する信頼を獲得していく。そうして18世紀後半から19世紀初頭にかけて、市民革命等で政治や社会が混乱する中、ヨーロッパの富裕層は富を蓄える場所を求めてスイスに銀行を設立していった。ここでの銀行はプライベートバンクを意味する。プライベートバンクとは、一定額以上の資産を保有する富裕層の顧客を対象として、資産管理・運用といった総合的なサービスを提供する銀行の形態である。

発展の理由は守秘義務に対する高い信頼性だけではない。スイスは山がちな地形で、金庫の建設に適していた。というのもセキュリティや温度・湿度条件という点において、芸術作品なども含む資産の保管環境として優れていたからだ。また周辺をドイツ等の工業国が囲んでおり、各国市場に向けたサービス提供が可能であった。さらにスイスは1815年にウィーン会議(※2)で永世中立国となり、1848年に連邦国家の成立が認められた。守秘義務に対する高い信頼性に加え、このような地理的条件、そして中立国としての政治的安全性も影響し、金融の中心地へと大きく発展した。

その後はプライベートバンクとしての地位を高めていく。1901年、フランス等で相続税が導入された。スイス銀行はその機会に飛びついて外国資本を呼び込み、フランスの富裕層を惹きつけた。そして次第にスイスはタックスヘイブン(※3)として知られるようになった。スイスはフランスの富裕層にとって絶好の財産の隠し場所となったが、フランス政府にとっては自国の税収減や資本逃避に貢献するスイスへの怒りが高まるばかりだった。そこでフランス警察は、脱税を取り締まることを目的として、1932年にスイス銀行のパリ支店に強制捜査として踏み込んだ。すると、押収したデータから数百人のフランスの富裕層がスイスに秘密口座を持っていることが発覚した。スイスの銀行業界はこの件に対し激怒し、銀行機密を厳しくすることで報復しようと働きかけた。

ドイツでの動きもスイス銀行に影響を与えた。アドルフ・ヒトラー氏が率いるナチス政権は、ユダヤ人を差別し迫害した。それに伴い、ドイツのユダヤ人の多くは、資産の一部を守るために資金をスイスの口座に、貴重品をスイスの貸金庫に預けた。またドイツが中欧や東欧に侵攻してくると、これらの地域に住むユダヤ人も同様に資産を預けた。ところがスイス銀行は、ドイツの政府関係者の資産や彼らがユダヤ人から略奪した金や貴重品をも預かっており、被害者からも加害者からも利益を得ていた。実際に第二次世界戦後、スイス銀行は守秘義務を理由に、ホロコースト(※4)の犠牲者が所有する休眠口座の詳細を公開することに応じず資産を遺族に返却しなかったことが後に問題となった。

銀行機密の必要性を受け、そしてユダヤ人による送金を促進させるために、1934年にスイス政府は銀行法を厳格化した。それは、銀行関係者が外国当局に顧客情報を開示することは犯罪とみなすという内容であった。守秘義務に関する規則をより厳しくしたことで、スイスはプライベートバンクとしての地位を確立していったのである。

クレディ・スイスと刻印された金塊(写真:Marco Verch / CCNULL [CC BY 2.0 DE])

このような状況は戦後も続いた。そして1980年代、スイス銀行は他国からの圧力にさらされるようになった。それはスイスに資産を持つ自国籍の人々から税金を回収しようとしたためである。しかし1984年に行われた、個人情報保護に関する銀行法の緩和を求める国民投票では、投票数の73%を反対票が占め否決された。それ以降もスイスの銀行業務における強い機密保持は伝統として根強く残り、スイスの金融システムは外国の規制当局や税務当局を入り込ませる隙を与えなかった。
犯罪の温床となる訳

顧客の個人情報を徹底して保護する歴史の中で、スイス銀行にはなぜ犯罪等で得られた不正資金が集まるのか。理由を大きく3つに分けて考える。1つ目は秘匿性を利用されるからである。例えば脱税だ。銀行の秘匿性が高いため、外国政府に口座情報共有がされない。また外国側から情報獲得のために捜査することもできない。このような仕組みを利用しスイス銀行に財産を隠すことで脱税をする人が現れるのだ。またマネーロンダリングも同様である。マネーロンダリングとは、犯罪によって得た資産をまるで合法的な手段で得たように見せる行為で、資金洗浄とも呼ばれる。秘匿性が高いことで具体的な取引の流れが見えにくくなるため、資金が合法なものか否か判断し難くなる。

実際に2020年、クレディ・スイスは、ブルガリアのマフィアのためにコカイン取引によるマネーロンダリングを助けたという疑惑に関して、スイスで刑事告発された。クレディ・スイスは、コカインの密輸に関わり有罪判決を受けているブルガリアの元レスラー、エベリン・バネフ氏とその関係者との取引において、スマーフィングを行ったとみている。スマーフィングは、多額の不正資金を預金など取引する際に、報告基準額を超えないよう、少額に分割して取引を複数回行ったり、複数の個人で行ったりするマネーロンダリングの一種の手口である。このようにスイスの金融機関は、秘匿性が高く金銭の流れが見えにくくなることを利用して、犯罪に悪用されやすいのだ。

2つ目は、銀行文化として、犯罪で得られた資産を法律に違反して扱うリスクを取るよう奨励するからだ。収益や銀行員の給料、株主の配当金を最大化するためには、大口の顧客を確保すること及び顧客との関係を継続することが鍵となる。銀行員は厳しい規則に従わなければならないが、それを無視するインセンティブがあるのだ。規則の1つにデューデリジェンスがある。デューデリジェンスとは、顧客がどこから資産を得ているのかをはじめとして顧客を引き受けるリスクを詳細に調査し、評価することである。

スイス紙幣(写真:cosmix / Pixabay)

資産が100万米ドル相当の顧客に対してはデューデリジェンスを非常に徹底しているとされている。しかし、それを上回る超富裕層の口座となると態度が変化すると指摘されている。管理職の者は自身の昇進を求めて威圧的になり、部下に、悪い評価を見て見ぬふりするよう勧めるようだ。銀行員は個人としての刑事責任がほとんど問われないため、犯罪で得られた資産を法律に違反して扱うリスクをとることを優先する場合があるとされている。

3つ目にスイス銀行を監視する体制が不十分であるからだ。スイスには金融セクターの監督機関として金融市場監督機構(FINMA)が存在する。しかしこの機関が有する権力はそれほど強くない。というのも、リスクのある顧客の受け入れに対してFINMAが行えるのは、銀行に警告することくらいである。実際に受け入れるかどうかは最終的に銀行が決めることなので、銀行はリスクをとり続けるのだ。法律上、不正行為に直接関与した場合にのみ、銀行員に制裁を下すことができると決められている。そのためFINMAは銀行員の責任を追及するための証拠集めに苦労し、裁判所は犯罪の責任の所在を銀行員と断定することが困難になる。その結果として「何も知らなかった」という理由で無罪になる事例が多いようだ。

また、課される罰則も弱い。国内外に関わらず悪事が発覚したとしても、銀行が求められる罰金の額は銀行が保有する総資産と比較するとわずかにすぎない。罰則に違法行為に対する強い抑止力がないため、銀行はリスクをとり続ける。銀行はリスクを冒しながら他人の不正な利益から分け前をもらい、その代わりに安全で秘密な財産の隠し場所を提供し、資金をため込むという流れがビジネスモデルとして残存しているのだ。
今回のリーク

では今回のリーク内容は実際どのようなものだったのか、具体的に見ていこう。冒頭でも述べた通り、クレディ・スイスは大規模な内部告発により、ドイツの新聞社に顧客情報が流出した。そして「スイス・シークレット(Suisse Secrets)」と呼ばれるプロジェクトが立ち上げられた。それはドイツの新聞社と組織犯罪・汚職報告プロジェクト(OCCRP)が中心となり、世界中の40以上の報道機関が連携して実施した調査のことである。ただスイス国内の報道機関は参加しなかったという。というのもスイスの銀行法第47条では、スイスのジャーナリストは、プライベートバンクの保有するデータを所持しているだけで刑事訴追、さらに公開しただけで起訴の危険性があるとしているためである。

スイスのチューリッヒに建つクレディ・スイス本社(写真:Roland zh / Wikimedia [CC BY-SA 3.0])

調査の結果、リークされた18,000件以上の口座は、1940年代までさかのぼるものもあったが、3分の2以上は2000年以降に開設されたものであった。しかもその多くは過去10年間も開設されており、一部は現在も開設されている。そして、著名な富裕層や政治家などを初めとして、クレディ・スイスの顧客が重大犯罪に関与していたことも明らかになった。犯罪等で得られた不正資金が預けられていた可能性がある口座には、80億米ドル以上の資産が保有されていたという。比較的最近罪を犯した口座保有者については、2001年に起訴されたセルビア人証券詐欺師、2008年に贈収賄で有罪判決を受けたドイツ企業の社員、フィリピンでの人身売買で2011年に終身刑判決を受けたスウェーデン人がその例である。

今回のリークの影響はクレディ・スイスの信頼性の低下に限らない。欧州議会における最大政党の欧州人民党(EPP)は、欧州連合(EU)のスイスに対する姿勢を見直し、マネーロンダリングを犯すリスクが高い国と認定するかどうかを検討するよう求めた。それはスイスの銀行業界、ひいてはヨーロッパの金融セクターにも負の影響をもたらすとも指摘されている。

改善へ?

前述の通り、第二次世界大戦後、スイス銀行はホロコーストの犠牲者が所有する口座の詳細を公開することに応じず、資産を返却しなかった。その理由は守秘義務であり、死亡診断書を含む書類の提出など、法律で定められた条件を満たせないのであれば口座の詳細を明かせないという態度を示した。ホロコーストという異例の事態を考慮せず、厳格な銀行法に従ったのである。

この問題に対し、世界ユダヤ人会議(WJC)においてスイスがホロコースト犠牲者の預金口座の問題を調査するよう求められたのを機に、その代表者とスイス政府及びスイス銀行間で交渉が行われた。そしてユダヤ人やナチスドイツ政権の財産の保管場所としてスイスがいかに大きな役割を担っていたことが明らかになった。1995年、当時連邦大統領であったカスパー・ヴィリガー氏は、スイスのホロコーストへの加担について、「我が国によるユダヤ人の扱いについて、かなりの罪の重さを感じている」と発言した。これはヨーロッパのユダヤ人に対して、スイスが何らかの形で責任を負うことを公式に認め謝罪する機会となった。そして銀行側がホロコーストの犠牲者と彼らの相続人に対し12億5,000万米ドルの支払いに応じた。

脱税及び租税回避防止に関する取組みに関してOECDが会見を行う様子(写真:OECD Organisation for Economic Co-operation and Development / Flickr [CC BY-NC2.0])

2000年代以降は、金融の透明性を求める声が挙がっている。中でも2007年、銀行大手UBSの銀行員ブラッドリー・ビルケンフェルド氏が、UBSが何千人ものアメリカの富裕層の脱税を手助けしたという情報を自主的にアメリカ当局に提供したことで、状況は一変した。この暴露に対しアメリカはスイスに圧力をかけ、2014年から富裕層の口座保有者の財務秘密を一方的に開示させた。同様のことをEUも行っており、銀行は情報を明らかにしなければ罰則を受けるという義務を負った。

世界各国からスイスが脱税の拠点として認識されるのを防止する策として、2014年にスイスは共通報告基準(CRS)を採択した。CRSとは、口座情報や納税者、報告が必要な金融機関、金融機関が従うべき一般的なデューデリジェンスの手順といった報告基準である。さらに2017年、経済協力開発機構(OECD)は、外国の金融機関に保有する口座を利用した租税回避を防止するために、自動情報交換制度(AEOI)を策定した。AEOIは、金融機関に非居住者の口座がある場合、各国の税務当局を通じ、相手国の政府にその口座情報を報告する制度のことだ。スイスはAEOI導入に署名し、CRSに基づき、また金融口座情報の自動的交換に関する多国間協定(MCAA)の条項に従って、金融情報を他国へ相互提供している。
AEOIに関して、スイス政府は、税務に関する国際自動情報交換に関する条例(AEOIO)及び税務上の国際自動情報交換に関する連邦法(AEOIA)の改正を2021年から発効すると発表した。この改正に伴い、スイスの不動産に投資する外国人に対する監視の目が厳しくなる。不動産のオーナーらは財務情報を共有しなければならず、スイスの金融機関は、税務上有用だと思われる書類の保管義務が課されることになる。しかしデジタル通貨の口座を初めとして、自動的な情報交換の要求事項の対象外となるものもあり、金融の透明性に関する提言すべてがスイス政府に受け入れられたわけではない。また、税収を失っている国の多くはスイスと情報交換に関する合意がまだできていない貧しい国々で、90カ国以上(そのほとんどが低所得国)の富裕層が依然としてスイスの口座に資金を隠している。このシステムの不公平さは、汚職を助長し、低所得国が必要とする税収を奪うことになる。

このように、改善への道を歩んでいるようだが透明性の向上に向けてまだまだ課題は山積みだ。イギリスのNGO団体であるタックス・ジャスティス・ネットワークは、各国の法律や金融システムがどれくらい富裕層の資産隠しや犯罪のマネーロンダリングを可能にするかを指標化し、金融秘密指数として発表している。その金融秘密指数においてスイスは2020年の上位3位を維持している。このことからも、依然としてスイスの銀行機密が高いことは推測できるだろう。

スイスの連邦最高裁判所(写真:Norbert Aepli / Wikimedia [CC BY 3.0])
展望

スイスの銀行業界は大規模な改革を行わなければ、正当な金融機関としての信頼を失うばかりだろう。しかし今回のリークにおいてデータを公開した内部告発者は、銀行が「法的枠組みの中で利益を最大化し、良き資本家であるだけ」であるため、銀行だけが現状を非難されるべきではないと示唆した。すなわち変えるべきなのは犯罪を可能にする法律である。スイス政府が法律を変え、スイス銀行が抱える闇を照らす光となることを願いたい。
※1 スイスは連邦共和制をとっており、複数の州(現在は20の州と6の準州)で構成される。その1つであるジュネーブ州における議会。

※2 オーストリアの首都ウィーンで開催された国際会議。フランス革命やナポレオン戦争後、ヨーロッパの秩序を再建することを目的とした。

※3 課税が完全に免除される或いは著しく軽減される地域で、租税回避地とも呼ばれる。多国籍企業や富裕層は、法人税や源泉徴収税が皆無に等しいタックスヘイブンに資産を移すことで租税を回避する。

※4  第二次世界大戦中、ナチスドイツが実行したユダヤ人大量虐殺のこと。数百万人のユダヤ人を収容所に移送し、そこで特別に開発されたガス施設にて彼らを殺害した。

ライター:Mayuko Hanafusa』

クレディ・スイス、UBSが買収交渉 FT報道

クレディ・スイス、UBSが買収交渉 FT報道
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR1804W0Y3A310C2000000/

『【パリ=北松円香】スイスの金融大手UBSが、経営不振が続く同業のクレディ・スイス・グループに対する買収交渉を進めていることがわかった。17日に英フィナンシャル・タイムズ(FT)が報じた。クレディ・スイスの事業全体あるいは一部を対象として交渉しているという。

FTは関係者の話として、UBSとクレディ・スイスの取締役会が今週末にそれぞれ、買収について検討する予定だと報じた。スイス国立銀行(中央銀行)とスイス金融市場監督機構(FINMA)が買収交渉を後押ししており、米英の当局にも2行の統合がクレディの信用力の崩壊を防ぐための「最善策」であると伝えたという。

スイス中銀は2行に対し、週明けに金融市場の取引が始まる前に明快でわかりやすい合意に至るよう求めているもようだ。

クレディ・スイスは近年不祥事が続いたうえに投資銀行部門が不振で、人員削減や事業分離を伴う経営再建を進めていた。収益の先行きに対する不安感にシリコンバレーバンク(SVB)の破綻による金融市場の動揺が追い打ちをかけ、クレディの株や債券を売却する動きが強まっていた。他の金融機関がクレディとの取引を制限し始めたとも報じられていた。

15日にスイス中銀とFINMAが共同で声明を発表し、必要に応じて資金供給で支援するとしていた。その後もクレディ・スイスの株価は不安定な動きで、市場の不安が払しょくされていないことを示した。』