リビアの大量破壊兵器完全廃棄とその背景

国際安全保障第37巻第2号
リビアの大量破壊兵器完全廃棄とその背景
木村修三
(神戸大学)

 ※ https://www.jstage.jst.go.jp/article/kokusaianzenhosho/37/2/37_69/_pdf という文献を、手持ちソフトでテキスト変換した。一部「意味不明」な個所があるが、適宜「脳内変換」してくれ。

『はじめに
2003年12月19日、リビア⑴政府は大要次のような声明を発表した。

① 冷戦期の緊張状態の下でリビアは、中東及びアフリカを大量破壊兵器の
存在しない地域にするよう提唱した。
② しかしどの国からも肯定的反応が得られなかったため、リビアはやむを
得ず防衛能力の増強に努めた。
③ リビアの専門家たちは、この分野におけるリビアの活動に関して米英の
専門家たちと話し合いを行った。
④ リビアの専門家たちは米英の専門家たちに対し、国際的に禁じられた兵
器の生産につながる可能性がある物質•設備・計画を提示した。
⑤ この話し合いにより、リビアは自発的にこれらの物質・設備•計画を完
全に廃棄することを決定した。
⑥ 同時にリビアは、自国のミサイルを「ミサイル技術管理体制」(MTCR)
の基準に合致するよう制限することを決定した。
⑦ リビアはこれらの措置に透明性を持たせるため、直ちに国際査察を受け
入れる。
⑧ リビアは国際原子力機関(IAEA)との間に追加議定書を締結し、また化
学兵器禁止条約を批准する。
⑨ リビア政府は、軍備競争がリビアの国益や地域の安全に資することなく、
世界の平和と安全に対するリビアの願いにも反するものと信じる。
⑩ リビアは中東諸国をはじめとするすべての国が、いっさいの例外や二重
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基準を設けずにリビアのこの措置を踏襲することを希望する⑵。

リビアが密かに化学兵器や核兵器の開発を行っているのではないかという疑
惑は国際社会で早くからささやかれ、とくに米国は強い疑いを抱いていた。米
国がリビアを「ならず者国家」と決めつけて制裁の対象としたのは、リビアが
極端な反米的姿勢に基づき数々のテロ行為に関わってきたことに加えて、密か
に大量破壊兵器の開発•製造を行っているに違いないという疑惑があったから
である。

もっともリビアは、一貫してその疑惑を否定してきた。

例えば、上記の廃棄
声明の1年足らず前の2003年1月、米紙『ワシントン・ポスト』とのインタビュー
でムアンマル・アル•カダフィ(Muammar Al Qadthafi)⑶大佐は、「リビアが大
量破壊兵器を持つと考えるのは馬鹿げている」と述べた⑴。カダフィの次男で有
力な後継者と目されるセイフ•アルイスラム・カダフィ(Saif Aleslam Qadthafi)
もまた、米国の中東政策専門誌の2003年春季号に寄せた論文のなかで、「リビア
は核兵器不拡散条約(NPT)を一貫して遵守してきた」と強調した⑸。

ところがリビアは、僅か1年前まで全面否定していた大量破壊兵器の開発・製
造計画を一転して認め、その完全廃棄に踏み切ったのである。

リビアが廃棄声
明を発表したのと同じ日、ジョージ・W・ブッシュ(George W. Bush)米大統
領とブレア(Tony Blair)英首相もそれぞれ声明を発表し、リビアの最高指導者
カダフィ大佐が同国の大量破壊兵器の開発・製造計画を完全に廃棄すること、
またその廃棄を検証するため即時・無条件に国際査察を受け入れることを確約
した旨を明らかにして、リビアのこの決断を褒め称えた⑹。

リビアがこのように政策を一転させた背後には、いったい何があったのであ
ろうか。本稿ではそれを探ることにするが、その前にまず、リビアがどのよう
にして大量破壊兵器の開発•製造を行ってきたのか、それにはどのような背景
があったのかを見ることにしたい。

I特異なイデオロギーに基づく体制と政策

1独立から特異な革命体制の確立へ

(1)独立後の貧困と社会不安

1912年イタリアによって植民地とされたリビアは、サヌーシー派⑺の指導者
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でキレナイカの首長でもあったイドリス(Muhammad Idris al-Sanusi)国王が統
治する「リビア連合王国」として、51年に独立した。

しかし独立当初のリビア
は、1人当たり国民所得が50ドル以下という、世界の最貧国にすぎなかった。


の最貧国を経済的に支えていたのは、国際機関からの援助のほか、米英がりビ
アに置いた軍事基地の見返りとして供与する援助金などであった。

1959年に米企業エッソ(エクソンの子会社)がキレナイ力で大油田を発見し
て以降、リビア領内で有力な油田が次々と発見され、61年からは石油輸出が開
始された。63年、国王は連邦制を廃して国名を「リビア王国」に変えたが、統
治の実態は旧態依然たるもので汚職•腐敗がはびこり、石油収入が国民生活の
ために使われることもなく、貧困と社会不安が後を絶たなかった⑻。

(2) 「9月革命」とナショナリズムの高揚

1969年9月1日、カダフィ大尉(当時27歳)を中心とする軍の若手将校グルー
プがイドリス国王の外遊時を狙ってクーデターを起こし、さしたる抵抗も受け
ずに政治権力の奪取に成功して革命指導評議会(Revolutionary Command Coun-
cil: RCC)を設立し、これを国権の最高機関とした。

RCCは国名を「リビア•ア
ラブ共和国」と改め、カダフィを大佐に昇格させて軍の最高司令官とした。

革命政権は何よりも国家の独立性の確立をめざし、リビアにある外国軍基地
の即時全面撤去及びイタリア人資産の接収を求めるとともに、外国の石油会社
に石油利権契約の改定を要求した。

これにより英軍基地は70年3月に、また米軍
基地は70年6月に撤去され、イタリア人資産は70年10月に接収された。

また、
外国の石油会社は利権契約をリビアに有利に変更することを迫られ、その後多
くが国有化された⑼。

(3) 「第三の普遍理論」と『緑の書』

革命の指導者カダフィは1973年5月、資本主義や共産主義に代わる「第三の普
遍理論」なるものを提唱した。

それは資本主義による労働者搾取と共産主義に
よる階級闘争のいずれをも否定し、また議会制民主主義や政党政治を拒否して、
人民の直接参加に基づく新たな政治体制を構築するという理論である。

その理
論を体系化するものとして、カダフィは75年から78年にかけ、3章よりなる『緑
の書』を著した的。

この理論に基づき、人民は総計230余の人民会議に分かれて所属し、立法その
他の決定に直接参加し、決定の基本事項の執行は、基本人民会議が選出した書
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記局からなる人民委員会が担当するという制度が作り出された。

77年には国名
を「大リビア・アラブ社会主義ジャマーヒーリア」と変え、在外の大使館を「人
民事務所」と改称した。

2既存の国際秩序に挑戦する外交路線

(1) 裏切られたアラブ統一への期待

「第三の普遍理論」に基づく対外路線としてカダフィは、何よりもパン・ア
ラビズム(アラブの統一)に情熱を燃やした。カダフィによれば、アラブが低
開発の状態にあるのは、長期にわたるトルコの支配とその後の西欧帝国主義の
支配とによって、民族がばらばらに分断され、それが別々の国家として固定化
された故である。したがって既存の国家の枠を取り払って統一することが、ア
ラブ民族発展の鍵であると彼は主張した

この信念に基づきカダフィは、エジプト、アルジェリア、モロッコ、スーダ
ン、シリア、チュニジアといった近隣のアラブの国々に次々と国家の統合を呼
びかけた。

しかし、これらの国の指導者たちは、「アラブは一つ」というスロー
ガンにはリップサービスを行いつつも、実際の国家統合には反対で、カダフィ
の呼びかけにも冷淡な反応しか示さなかった。

このため、アラブ諸国の指導者
たちに裏切られたと感じたカダフィは、次第にアラブ諸国の既存の体制と距離
を置く過激なグループに接近し、支援を行うようになった。

(2) 共産主義と欧米の政策への拒否反応

カダフィは共産主義を、イスラム及びアラブ民族主義と相容れない無神論の
イデオロギーであるとしてしりぞけた。

アラブ急進派に対するソ連や中国の支
援については一定の評価を与えつつも、リビア国内では共産主義分子ないしは
それに同調する勢力の存在をいっさい認めず、これらを徹底的に弾圧した。

他方、カダフィは欧米諸国が第三世界、とくに中東アフリカの問題に介入す
るのを、新植民地主義の動きとして激しく批判した。

カダフィにとってとくに
許せないのはイスラエルの存在であり、それによって同じアラブであるパレス
チナ人が難民生活を余儀なくされ、あるいは占領状態に置かれていることであっ
た。それゆえ、外交•経済・軍事のあら冷る面でイスラエルを支えている米国
の中東政策を厳しく批判した。

同時にカダフィは、イスラエルのパレスチナ占領が続いている状況の下でイ
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スラエルと和解し、それによって米国にすり寄ったエジプトのサダト(Anwar al-
Sadat)大統領やパレスチナ解放機構(PLO)のアラファト(YasirArafat)議長
をも厳しく批判した。

リビアが、アブ・二ダール(Abu Nidal)一派やパレスチ
ナ解放人民戦線•総司令部派(PFLP-GC)といったパレスチナの超過激派を支
援し、彼らに資金や訓練基地などを提供したのは、こうした理由による的。

(3)パン・アフリカニズム

カダフィは、アラブ統一への期待がアラブ諸国の既存の指導者たちによって
裏切られたと感じたことから、リビアはアフリカの一部であるという意識をよ
り強く持っようになった。

カダフィのアフリカ政策の重点は、アフリカに対す
る欧米諸国やイスラエルの影響力を極力排除しつつ、アフリカの統一を図るこ
とにあった。

このため、アフリカで植民地主義勢力や人種主義政権と戦う民族
解放戦線を積極的に支援し、また親米的政権と争う反体制派に支援を与えたほ
か、アフリカ国家間の紛争あるいは内戦にもしばしば介入した。

アフリカ諸国の指導者のなかには、アフリカにおける反植民地主義、反人種
主義及びアフリカ統一のために積極的に活動するカダフィの行動に好意的反応
を示す者も少なくなかった。

これは、アラブ諸国の指導者の多くがカダフィの
行動に拒否反応を示したのと対照的である。

後で見るように、リビアは米国や
国連から厳しい経済制裁を受けることになるが、アフリカ諸国のなかには、対
リビア制裁に反対ないし消極的な国が少なくなかった叩。

I!米欧との関係悪化とテロへの関わり

1悪化の一途をたどった対米関係

(1)分水嶺となった第4次中東戦争

1969年にリビアで革命が起こった際、米国はあまり懸念を持たなかった。な
ぜなら、革命政権が共産主義への反対を明確に表明したからである。カダフィ
が民族主義を高揚して米軍基地の撤去を求めた際にも、米国は比較的すんなり
とそれに応じた。核抑止戦略の中心が大陸間弾道ミサイル(ICBM)や潜水艦発
射弾道ミサイル(SLBM)へと移ったため、リビアに置かれた空軍基地はもはや
かってのような重要性を持たなくなったからである。

しかし、73年の第4次中東戦争(十月戦争)を契機に、リビアと米国との関係
は悪化の一途をたどった。

この戦争でアラブ側が石油戦略を発動したのとほぼ
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2009年9月
時を同じくして、リビアは米系石油会社の国有化を断行した。

革命直後に力ダ
フィが国有化はしないと約束していたにもかかわらず、である皿。

さらに73年
10月11日、リビアはシルテ湾への領海宣言を行ったが、米国は74年2月11日、
同湾は公海であってリビアの領海宣言は断じて認められないという声明を発表
した。これ以降、シルテ湾ではたびたび両国間で小規模な軍事衝突が繰り返さ
れることになる。

(2)米大使館の炎上と関係の険悪化

1979年12月2日、トリポリの米大使館がリビアの群集に襲撃されて炎上した。

米側に死傷者は出なかったが、リビア当局は群集の動きを抑えるのに有効な手
段を講じなかった。

この事件は明らかに、前の月、テヘランの米大使館がイラ
ンの群集に襲われて多数の館員が人質とされた事件の影響を受けたものと見ら
れた。

カーター (Jimmy Carter)米大統領は同月後半に作成した「テロ支援国家」
のリストにリビアを加え、80年5月には在トリポリ米大使館の閉鎖を命じた。


らに米政府は81年5月、ワシントンにある「リビア人民事務所」(大使館)の閉
鎖を求めた。同事務所が在米のリビア反体制派に対する暗殺計画を企図したと
いう理由からである小)。

1981年8月19日、シルテ湾を航海中の米空母ニミッツから発進した2機のF-14
戦闘機に対し、リビア空軍の2機のSU-22がミサイルを発射した。

リビア側のミ
サイルは命中しなかったが、米軍機は直ちに反撃してSU-22を2機とも撃墜し
た。さらに81年11月には、スーダンのハルトウームで米大使館が主催したダン
スパーティ会場のスピーカーの中から爆発物が発見されたが、米側はこれをリ
ビアの諜報員が仕掛けたものとして、レーガン(Ronald Reagan)大統領は81年
12月10日、米国民のリビアへの渡航を禁止した地)。

2相次ぐテロ事件と米軍による報復爆撃

(1)フレチャー事件とベルリンのディスコ爆破事件

1984年4月17日、ロンドンのリビア人民事務所(大使館)周辺で行われた在
英リビア反体制派グループのデモに対し、リビア人民事務所から銃撃が加えら
れ、デモの警備に当たっていた英国の婦人警官イボンヌ・フレチャー(Yvonne
Fletcher)が銃弾に当たって死亡したほか、デモ参加者11人が負傷した。英国政
府は銃撃犯の引渡しを求めたが、リビア側が拒否したため外交関係は断絶され、
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4月27日にはリビアの外交官が出国した。その中に銃撃犯と思われる者も含まれ
ていたが、外交特権により英側が取調べを行うことはできなかった⑰。

1986年4月5日、西ベルリンのディスコ「ラ・ベル」(LaBelle)で爆発事件が
起き、2人の米軍人を含む3人が死亡し、200人以上が負傷した。レーガン米大統
領は4月9日の記者会見で、「リビアの秘密諜報員が爆薬を仕掛けた疑いが濃厚で
ある」と発表した的。同月15日、この事件に対する報復として、100機を超える
米軍機がリビアのトリポリ及びベンガジの両市を空爆した。

この空爆によりリ
ビアの民間人70人が犠牲となった。とくにトリポリ郊外の軍司令部内にあった
カダフィ大佐の住居がピンポイント攻撃を受けて家屋は崩壊し、同大佐の幼い
養女が犠牲となった㈣。

(2) ロッカビー事件とUTA機爆破事件

1988年12月21日、ロンドン発ニューヨーク行きの米パンナム旅客機103便が
英国スコットランドのロッカビーの上空で爆発し、乗客244人、乗員15人が死亡
したほか、ロッカビーの住民11人が巻き添えをくって死亡するという事件が起
こった。

犠牲者の3分の2は米国人であり、次いで多いのが英国人の44人であっ
た。

そこで米英両国の捜査当局が全力を上げて調査した結果、セミテックス爆
弾を包んだ衣類の残7宰などから、リビア諜報機関員2人が米軍のリビア空爆に対
する報復として仕掛けたものと断定し、その引渡しをリビアに要求した。

しか
しリビアがこれを拒否したため、米英は問題を国連安保理に付託した伽。

1989年9月19日、コンゴ共和国のブラザビルからンジャメナ(チャド共和国)
を経由してパリへ向かうフランスUTA旅客機772便が、ニジェール共和国のテレ
ネ砂漠上空で爆発し、乗客・乗員171人が全員死亡するという事件が起こった。

フランス当局が捜査した結果、リビア諜報機関による犯行であると認定し、リ
ビア諜報機関の副長官を含む4人に対して国際逮捕状を発したこのようにし
て1980年代半ば以降、リビアと米国及び英仏との関係は悪化の一途をたどっ
た。

3リビアに対する制裁の実施と強化

(1)米国による制裁

米国はリビアに対し、1973年の武器売却規制以来、20以上の制裁措置をとつ
てきた。すでに見たように79年、トリポリの米大使館がリビアの群集に襲われ
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て焼かれた直後にカーター政権はリビアを「テロ支援国家」のリストに加え、
直接・間接の経済援助の停止、国際機関からのリビアに対する金融支援への反
対などの措置をとった。

レーガン政権時代に入ると対リビア制裁はさらに厳しくなり、81年にはりビ
アへの渡航禁止、82年にはリビア原油の輸入禁止及び石油•ガス関連技術のリ
ビアへの輸出禁止を定めた。

米リビア関係が最も険悪化したのは86年で、この
年には包括的経済制裁措置と在米リビア資産の凍結が実施された。その後口ッ
カビー事件の解決が長引く過程で米議会でもリビアに対する強硬意見が高まり、
96年には「イラン・リビア制裁法」(Iran and Libya Sanctions Act: ILSA)が制定
された(22)。

(2) 欧州連合(EU)による制裁

1984年のフレチャー事件により英国とリビアとの外交関係は断絶され、それ
は99年まで続いた。フランスとリビアの関係はUTA機爆破事件で悪化し、91年
10月、フランス司法当局は4人のリビア人に国際逮捕状を発し、翌12月にはり
ビアに対する要求事項を国連事務総長にも送付した。

こうした動きのなか、86年4月に欧州外相理事会はリビアに対する武器輸出禁
止及び外交•領事関係の縮小決議を採択した。また93年には、国連制裁を実施
するために限定的な禁輸と旅行制限に関する決議を採択した囲。

(3) 先進国サミットの声明及び国連による制裁

1986年5月に開かれた東京サミットでは「国際テロリズムに関する声明」が採
択されたが、その中でリビアを名指しで非難し、武器輸出禁止や外交関係の縮
小などの措置が明記された(測。

91年にはフランス、米国及び英国の司法当局が、
UTA機爆破及びロッカビー事件にリビアの諜報機関員が関与したものとし、フ
ランスはリビア人4人に国際逮捕状を発出し、米英はリビアに容疑者の引渡しを
求めた。しかしリビアがこれに応じなかったことから、米英仏3国は91年12月
20日、リビアに対する要求事項を国連事務総長に送付した。

これを受けて国連安保理は92年1月21日、決議731を全会一致で採択した。こ
の決議はリビアに対し、ロッカビー事件及びUTA機事件に関する米英仏3国の要
求を履行するよう求めるものであった。その要求とはすなわち、ロッカビー事
件に関しては、①容疑者の引渡しとリビア当局の責任の受諾、②犯罪に関する
すべての情報の開示、③適切な補償の支払い、であり、またUTA機事件に関し
~ 76 –
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ては、①真実を明らかにするためにすべての記録及び物証へのアクセスの促進、
②関係者への接触や証人へのアクセスの促進、③リビア当局の捜査への協力の
保証、であった(如。

この安保理決議731に対しリビアは、「リビアの国家主権を侵害しない方法」
でならば協力する用意があるとし、容疑者の「自由意思」によるならばマルタ
または他のアラブの国での裁判を許容するということをほのめかした。また、
補償の支払いに関しても、容疑者が支払えない場合はリビア政府が支払いを補
償することもあり得るという、ある程度前向きと受け取れる発言を行った1:26)。L
かしその後、実際には決議に従おうとしなかったことから、国連安保理ではさ
らに二つの制裁決議が採択された。

すなわち92年3月31日、安保理は賛成10か国、棄権5か国(カーボベルデ、
中国、インド、モロッコ、ジンバブエ)で決議748を探択した。その内容は、リ
ビアに遅滞なく決議731の履行を求めるとともに、リビアがそれを履行したと安
保理が認めるまでの間、国連憲章第7章に基づき、すべての国に対し、①リビア
を離発着する航空機の離着陸許可禁止、②リビアへの航空機及び航空機部品の
供給禁止、③リビアへの武器等の輸出及び軍事援助の禁止、④リビアとの外交・
領事関係の制限、を行うよう求めるものであった”。

安保理決議748の採択後リビアは、ロッカビー事件容疑者の中立国への引渡し
について交渉を行う用意があると述べ、またUTA機事件についてはフランスか
らの捜査官の受入れを表明した。しかし、それにもかかわらず事態が進展しな
かったことから、93年11月11日、安保理は再度、決議883を賛成11か国、棄権
4か国(中国、ジブチ、モロッコ、パキスタン)で採択した。その内容は、リビ
アの在外資産の凍結や石油輸送機器の禁輸といった、制裁措置をいっそう強化
するものであった伽。

H(リビアによる大量破壊兵器の開発と廃棄

1 生物•化学兵器及び弾道ミサイル

(1)化学兵器の製造と使用の疑い

リビアは1971年に25年のジュネーブ議定書を批准した。同議定書は、「窒息性
ガス、毒性ガスまたはこれらに類するガス及びこれらと類似のすべての液体、
物質または考案」並びに「細菌学的戦争手段」の戦争における使用を禁じたも
一 77 —
2009年9月
のである。

他方、97年4月に発効した化学兵器禁止条約(CWC)に関しリビア
は、イスラエルが核兵器不拡散条約(NPT)に未加盟であることに抗議するとい
う理由から、他の幾つかのアラブの国とともに署名を拒んだ。

リビアは1980年代後半から90年代初めにかけ、西欧及びアジアの多くの企業
から技術を導入してラブタ、セブハ及びタルーナに密かに化学兵器製造施設を
建設した。そのなかでも最大のものは「技術センターJと呼ばれたラブタの複
合施設で、それはイラクの化学兵器計画に関わってきたイラク人専門家イフサ
ン・バルボウティ(Ihsan Barbouty)の協力を得て建設された。そこには表向き
は製薬工場とされた各種の有毒ガス製造工場のほか、有毒ガスを装着する砲弾
の製造工場などが建設された¢の。

86年から87年にかけて米政府の専門家は、リビアが隣国チャドへの軍事介入
で化学兵器を使用したのではないかという疑いを持ち、チャド軍にガス・マス
クの提供を行った髄。しかし、リビアはそれを否定し、その後の分析でも実際に
使用されたという確たる証拠は見出せなかった的。

(2) 化学兵器のストックと廃棄

2003年12月の大量破壊兵器廃棄声明の後、リビアは2004年1月6日に化学兵器
禁止条約に署名し、同年2月5日に批准した。その後リビア政府が化学兵器禁止
機関(opcw)に対して行った申告及び同機関による現地査察によって、①マス
タード・ガス23トン、②約3,500発のガス装着用砲弾及び爆弾、③神経ガスの素
材となる化学物質1,300トンなどのストックの存在が明らかとなった。

ただし、
毒ガス装着済みの砲弾や爆弾は存在しなかったという的。

その後opcwの査察官たちは、リビアが申告したストックは完全に破壊され
たことを確認した。OPCWのファータ—(Rogelio Pfirter)事務局長は、「化学兵
器禁止条約を完全に遵守しようとするリビアの行動は、われわれを勇気づける
ものである」と高く評価する声明を発表した囲。

(3) 低水準にあった生物兵器の開発

リビアは1982年1月19日に生物兵器禁止条約に署名し、同日批准を了した。
しかし、同条約は確たる検証手段を欠くことから、真に条約を遵守しているか
どうかを検証することは困難であった。こうした状況の下、1980年代から90年
代にかけてリビアは密かに生物兵器の開発を行っているのではないかという疑
惑が各方面から持たれた。とくにタミンヒントに建設された「保健研究セン
—78 —
国際安全保障第37巻第2号
ター」や「微生物学研究所」などが疑惑の中心であった牌。

1990年代にリビアでは、イラクの生物兵器の専門家たちの協力を得て、炭痩
菌やボツリヌス菌を装着する爆弾や砲弾の製造プロジェクトが開始された。し
かしリビアの科学技術水準及び工業水準がきわめて低かったために、これらの
研究やプロジェクトは予期した成果を挙げるには程遠く、2003年以降リビアを
現地査察した米英の専門家たちは、リビアの生物兵器開発は予想よりも遥かに
低い水準で、実際に毒素菌が装着された爆弾・砲弾は全く存在しないことを確
認した(新。

(4)弾道ミサイル

リビアが保有する弾道ミサイルは、旧ソ連から導入したスカッドB(射程300
キロ メートル、投射重量79キログラム)と北朝鮮から導入したスカッドC(射程
600キロ メートル、投射重量700キログラム)である。

そのほかリビアは、「ア
ル・ファタハ」と称する射程500ないし700キロメートルのミサイルを国内で開
発する計画を立てて実行に移そうとしたが、リビアの工業水準の低さと厳しい
経済制裁のために結局は完成できなかった囲。

リビアは2003年12月の大量破壊兵器廃棄声明に基づき、MTCRの基準を超え
るミサイル、すなわち射程300キロメートル、投射重量500キログラムを超える
ミサイルをすべて廃棄することを決定した。これにより、北朝鮮から導入した
スカッドCはすべて廃棄され、またスカッドBについても、より射程の短い防御
用ミサイルへの転換が行われた°”。

2密かなる核兵器開発へ努力

(1)ソ連の協力による核研究センターの設立

リビアの核兵器開発とその廃棄について詳細な分析を行ったロンドン大学キ
ングス・カレッジのウィン•ボウェン(WynQ.Bowen)によれば、リビアの核
兵器開発の過程は大きく三つの時期に分けられるという的。

第1は1969年から81
年までの時期で、この時期にリビアは、表向き核の平和利用を目的として外国
から基礎的技術のほか、実験用原子炉とその関連施設や核燃料などを導入する
ために力を注いだ。

リビアは王制時代の68年7月、NPTに署名したが、イスラエルが未署名である
という理由から、批准しなかった。カダフィの権力奪取から4年後の73年、リビ
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アは原子力の平和利用推進を表向きの目的として「原子力エネルギー機構」
(AEE)という組織を設立し、米、仏、アルゼンチン、ブラジル、インドなど多
くの国に原子力分野での協力を要請した。しかし、どの国もそれには応じなかっ
た。カダフィ政権の特異な攻撃的対外政策に加え、「アラブはイスラエルの核兵
器に対抗して核兵器を持つべきだ」と公然と述べていたことが、核拡散への不
安を招いたからである例。

そこでリビアが接近したのはソ連であった。カダフィは共産主義を厳しく批
判しながらも、欧米との関係が悪化したためソ連に依存せざるを得なかったの
である。

75年、リビアはソ連との間に原子力協力協定を結び、ソ連の協力によっ
て「タジョウラ核研究センターJ (Tajoura Nuclear Research Center: TNRC)を
設立した。これがリビアの核開発の中心となったが、そこにはソ連の協力にょ
り10 メガワットのIRT実験炉と関連する研究施設•実験施設などが建設され
た(仙。

なお、ソ連はリビアに協力する前提として、リビアがNPTを批准し、IAEAと
保障措置協定を結ぶことを求めたため、リビアは75年5月にNPTを批准し、80
年7月に保障措置協定を締結した。

タジョウラのIRT実験炉にはソ連から核燃料
の濃縮ウランが供給され、81年4月に臨界に達した。

なお、リビアは78年から
81年にかけニジェールから],587トンのウランを輸入し、そのうち約450トンを
密かにパキスタンに再輸出したといわれる血。

(2)プルトニウム抽出とウラン濃縮の初期的活動

ボウェンのいう、リビアの核開発過程における第2の時期は1981年から95年
までで、この時期にリビアは核兵器開発をめざし、密かにプルトニウム抽出と
ウラン濃縮の初期的活動に取り組んだ。

まず、プルトニウムについては84年か
ら90年にかけ、IRT炉から出るウラン酸化物およびウラン金属から抽出を試みた
が、IRT炉があまりに小さいため、抽出できたプルトニウムはごく少量にすぎ
ず、とうてい核兵器製造に結びつくものではなかったW。

ウラン濃縮に関しては、まず86年に日本から輸入したモジュール型のウラン
転換設備を用いてウラン転換活動を試みようとしたが、実際には全く成果が上
がらなかったという。

もっとも実験室レベルでは、ニジェールから輸入したイ
エローケーキを用いてごく少量の転換に成功したといわれる。

他方、82年から
92年にかけTNRCでは、ドイツの技術者が持ち込んだ遠心分離装置を用いてウラ
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国際安全保障第37巻第2号
ン濃縮の実験も試みられたが、ほとんど成果は上がらなかったという的。

(3)核の闇市場を通じて活動を活発化

リビアとパキスタンのカーン(Abdul Qadeer Khan)博士との接触は1980年代
半ばにすでに始まっていたが、リビアがカーン博士の築いた核の闇市場のネッ
トワークに大幅に依存して核兵器開発活動を活発化するのは1995年以降であ
る。それゆえボウェンは、95年から2003年までをリビアの核兵器開発過程にお
ける第3の時期としてとらえる叫。

リビアは97年、カーンのネットワークからまずL-1型と呼ばれる遠心分離装置
(パキスタンのP-1型)を輸入して濃縮実験を開始したが、実験が初めて成功し
たのは2000年10月であったといわれる。

2000年9月、リビアはより進んだL-2型
(パキスタンのP-2型)遠心分離機1万台とそれを組み立てて操作するために必要
なさまざまな素材•器具・装置などを発注した。

カーンのネットワークは、ド
イッ、イタリア、日本、リヒティンシュタイン、マレーシア、パキスタン、韓
国、シンガポール、南アフリカ、スペイン、スイス、トルコ、アラブ首長国連
邦などのさまざまな企業からこれらを調達してリビアに送り届ける仲介役を果
たした。もっとも、リビアに実際に届いたL-2型遠心分離機そのものはわずか2
台にすぎなかったという㈤。

2001年暮れから2002年初めにかけリビアは、カーン博士から核兵器の各種部
品についての設計図を入手したが、これらの図面にはそれらの組み立て方につ
いての説明が手書きで書き添えられていた。

しかし、受けとったリビア側の専
門家のレベルがきわめて低かったために、これらの図面が実際にどの程度役立
つものであるかを検討することもなかったという<46)〇

米英の諜報機関は、カーンのネットワークとリビアとの関係を2000年からす
でに察知していた。

2003年9月、マレーシアの工場から搬出された遠心分離装置
関連部品は、ドバイの港でドイツ国旗を掲げた輸送船、BBCチャイナ号に積み
変えられてリビアに向かった。

しかし、ずっとその動きを追跡していた米当局
は10月4日、イタリア当局とともに同船に対しイタリアのタラノ港に寄港する
よう指示し、遠心分離装置関連部品を押収することに成功した

これは長期に
わたる諜報活動の成果であったが、ブッシュ政権は2003年5月に打ち出した「核
拡散防止構想」(Proliferation Security Initiative: PSI)がさっそく効果を発揮した
ものとして発表した。
-81-
2009年9月

(4)核兵器開発関連物資•設備の完全廃棄

2004年1月、核兵器の設計図関連資料及び約5万5千ポンドに及ぶ核兵器開発
関連物資•設備はすべて米国へ空輸された。

そのなかには、コンテナー数両分
の六フッ化ウラン、パキスタンから輸入された2台のL-2型遠心分離機、それに
関連するさまざまな設備•部品などが含まれていた爾。米国政府は、2005年5月、
リビアの核兵器開発計画に関連した物資•設備は完全に除去され、それに関連
した活動も完全に停止されたことを確認した物。

IVリビアの政策転換の理由と経緯

1 リビアの政策転換をめぐるさまざまな見解

(1)リビアの公式見解

カダフィ、その息子のセイフ•アルイスラム・カダフィ、そしてカダフィに
近いリビア政府の要人たちが、大量破壊兵器廃棄に踏み切った理由をいろいろ
と述べた

なかで共通するのは、大量破壊兵器の開発と所有がもはやリビアの国
益、とくに安全保障上の利益にそぐわなくなった、ということである。

それは
冒頭に挙げたリビア政府の廃棄声明にも盛られている。廃棄声明後の2004年3
月、アフリカ連合における演説の中でカダフィは、「リビアの安全は核兵器から
はもたらされない。核兵器は、それを持つ国にとっても危険なだけである」と
強調した価。

セイフ・アルイスラム・カダフィは、2004年3月10日付のアラブ紙『アル・
ハヤト』に次のように述べた。

「リビアは三つの理由から廃棄を決定した。第1
は西側が代償として約束した政治的・経済的•文化的•軍事的利得がきわめて
大きかったこと。第2はリビアが歩んできた道が西側と問題を抱えて危険だった
こと。第3の、最も重要な理由は、リビアはイスラエルとの戦争に備えて大量破
壊兵器開発を行ってきたのだが、パレスチナ人の50年に及ぶ武装闘争が何もも
たらさず、むしろ交渉によって和解が達成されたことから、こうした兵器の不
要なことが明白となったことである牌」。

リビアはまた、廃棄決定が外部からの脅しに屈して行われたのではなく、あ
<まで自発的な決定であることを強調する。それは廃棄声明にも現れているが、
とくに米国のネオコンの主張に反駁するため力説されるようである。さら・にリ
ビアは、その決定が冷戦終結という国際環境の劇的変化に対応した全般的な政
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国際安全保障第37巻第2号
策転換の一環であることをも指摘する。

2004年4月にブラッセルを訪問したカダ
フィは、「リビアはかって第三世界の解放運動の先頭に立ったが、いまや全世界
の平和運動の先頭に立つことを決意した。廃棄決定はその第一歩である」と述
べた(52)。

(2) 英国政府の見解

英国政府は、数年にわたって行われてきた外交と交渉の役割を強調する。


レア首相は2003年12月19日の声明の中で、「リビアの廃棄決定は、大量破壊兵
器拡散の問題が粘り強い話し合いと関与によって取り組むことができ、また責
任ある国際機関によってフォローできる問題であることを示した。それはまた、
国々が自発的かつ平和的に計画を放棄できるものであることを示した」と述べ
た缶)。

ストロー (jack Straw)外相も、「英国は6、7年前からリビアと話し合い
を行ってきたのであり、イラクにおける軍事行動とリビアの廃棄決定との間に
は直接的な関係はない」と述べた囲。

(3) 対立する米国内の見解

米国のブッシュ政権は、外交の果たした役割を認めながらも、大統領自身が
打ち出した「拡散対抗戦略」(Counter-Proliferation Strategy)の効果を大いに強調
した。

例えば2004年秋の大統領選挙に際し、民主党のケリ—(John Kerry)大統
領候補と行ったテレビ討論の中で、ブッシュ大統領は次のように述べた。

「(イ
ラクへの)軍事力行使は、率直に言って全世界に良い影響を与えた。リビアを
見るがよい。リビアはわれわれにとって脅威であったが、米国がブッシュ・ド
クトリンに基づき軍事力を行使するのを目の当たりにして、いまや平和的にそ
の兵器計画を解体するに至った⑸」。

チェイニー (Dick Cheney)副大統領もまた2004年秋、民主党のエドワーズ
(John Edwards)副大統領候補と行ったテレビ討論において、「われわれがサダ
ム・フセイン(Saddam Hussein)を捕らえたわずか5日後に、カダフィはすべて
の核開発計画を放棄することを申し出てきた。リビアのこの譲歩はイラク戦争
の大きな副産物のひとつである」と強調した

ネオコンと呼ばれる人々の多くは、イラク戦争のこうした「デモンストレー
ション効果」を喧伝したが、これに対しては米国内でも多くの反論があった。

例えばクリントン政権時代の1999年から2000年までリビアとの秘密交渉に当
たったインディク(Martin Indyk)元国務次官補は、「リビアの大量破壊兵器廃
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2009年9月
棄にはイラク戦争は全く必要なかった」と主張した”。

またブッシュ政権内部
でも、アーミテージ(Richard Armitage)国務副長官は、「サダム・フセインの
逮捕はリビアの譲歩とは直接の関係はない」と述べ、ネオコンの主張を否定し
た岡。

2 リビアの国内情勢の変化とカダフィの軌道修正

(1) 独裁体制を支えた石油収入

リビア原油の確認埋蔵量は約415億バーレル(2007年末)で、世界第7位に相
当するという。

しかも国土の60パーセントはまだ探査が行われておらず、確認
埋蔵量は今後いっそう増えることが見込まれる。

米エネルギー省の試算では、
増える埋蔵量は760億バーレルにも達する可能性があるという例。

しかもリビア
には、湾岸の産油国と比べて二つの大きな利点がある。

そのひとつは、リビア
の原油が製油所の求める品質の良い軽質油であること、

もうひとつは湾岸産油
国と比べてヨーロッパへの距離がきわめて近いことである。

このため、リビア
原油の85パーセントは欧州連合向けに輸出され、とりわけドイツ、イタリア、
スペインが最大の輸入国で、欧州連合全体が輸入するリビア原油の約75パーセ
ントはこの3国が占めてきた®1>。

1970年代、リビアの石油収入は急激に増大し、75年から79年まで経済成長率
は年率10パーセントを上回った。

原油価格の上昇により、79年から80年までの
1年間だけで国際収支黒字は150億ドルにも達した。

すでに見たように、革命後
カダフィが作り上げた特異な独裁体制の下で、経済は社会主義的な中央指令型
の運営が行われ、それにともなうさまざまな非効率や汚職•腐敗が随所に見ら
れた。

それにもかかわらずカダフィ体制が国民の支持を調達できたのは、巨額
の石油収入を利して多面的なばら撒き政策が行われたからである。

70年代から
80年代にかけ、すべてのリビア国民は住宅、健康保険、食料、水及び電気の安
定的供給を保障された。政府は国民が自動車を買う場合、月賦の利子の補助ま
で行ったという町。

(2) 経済不安と体制への不満の高まり

しかし、1980年代末に始まった経済不振は、90年代に入ると急速に悪化し
た。原油価格が安値水準をたどったのに加え、社会主義的な国営中心の経済運
営のまずさ、そしてリビアに対する経済制裁が相乗効果を及ぼし、経済は急速
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国際安全保障第37巻第2号
に落ち込んだ。

1993年にリビアの国内総生産(GDP)は前年比30パーセントも
低下し、92年から98年までの経済成長率は年率0.8パーセントにすぎなかった。
94年には失業率が30パーセント、インフレ率が50パーセントにも達したとい

リビア政府の歳入の75パーセントは石油収入に依存していたが、この時期の
石油収入は70年代の最盛期に比べて半分近くに落ち込んだ。

原油価格の低迷の
ほか、老朽化した石油生産関連の施設•設備を経済制裁のために近代化できず、
また新たな油井の開発もできなかったからである。

リビアの石油産業の基礎が
主に米国企業の技術によって作り上げられたものであるため、米国による厳し
い禁輸措置がリビアの石油産業に及ぼしたダメージは大きかった。

経済不安が高まるにつれて、カダフィ体制に対する国内の不満も高まり、さ
まざまな反体制グループが活動を活発化させた。

軍内部にも不満が高まり、93
年にはクーデター計画が発覚し、約2,000人の兵士の逮捕と上級軍人6人の処刑
が行われた知)。

「ムスリム同胞団」(Muslim Brotherhood)の動きもカダフィ体制
にとっては脅威であった。

というのは、経済悪化が進むにっれて、同胞団が行
うイスラム的な相互扶助活動が社会の下層の人々に魅力を与え、その分だけカ
ダフィ体制の吸引力を低下させることになったからである。

同胞団よりもさら
に過激なイスラム集団、「イスラム解放党」(Islamic Liberation Party) s「リビア・
イスラム戦闘集団」(Libyan Islamic Fighting Group)、「リビア殉教者運動」(Libya
Martyrs5 Movement)などは、より激しい反政府運動を展開し、95年8月には力
ダフィ暗殺未遂事件が起こった。

ベンガジがこれらの反政府運動の拠点であっ
たが、95年から98年まで軍隊を動員してこれらの動きを抑圧する過程で、約600
人の死者が出たといわれる個。

(3)カダフィの軌道修正とバック・チャネル外交

こうした状況のなかでカダフィは、従来の軌道を修正して西側とくに米国と
の関係を改善し、それにより国際的孤立から脱して局面を打開しようと図った。

1991年12月、リビア政府がテロリズム活動に関わる組織との関係を絶つ旨の宣
言をしたのは、その最初のジェスチャーであった岡。

1992年には、密かに米国
の2人の要人を通じて米政府にメッセージの伝達を依頼するという、いわゆる
バック・チャネル(裏口)外交を始動させた。その要人とは、ハート(Gary Hart)
元上院議員(コロラド州選出・民主党)とロジャーズ(William Rogers)元国務
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2009年9月
次官(フォード政権時代)の2人だが、そのいきさつは次のようである。

ハート議員は92年2月、ギリシャ旅行中にリビアの要人から接触を受け、
ジョージ・H-W ・ブッシュ(George H.W. Bush)政権へカダフィのメッセージ
を伝達するよう依頼された。

しかし米国務省はハート元議員に対し、リビアが
パンナム機問題で米国の要求に応えるまでは話し合いには応じないとの意向を
伝えた。

そこでハート元議員は92年3月にリビアを訪れ、ホスト役を務めたりビ
ア諜報機関の長ムーサ・クーサ(MusaKusa)に対し、ロッカビー事件に関する
米側の要求に応じるよう説いたという瞞。

他方、92年1月、カダフィと親密な関係を持つリビア系米国人ブフレス
(Mohammed Bukhres)の依頼を受けてリビアを訪問したロジャーズ元次官は、
カダフィと面談し、ロッカビー事件の容疑者引渡しのほか、テロリズムとの訣
別、大量破壊兵器に関する国際査察の受け入れなどの意図表明が、米国がりビ
アと話し合いを行うための前提だと説いたといわれる岡。

3 テロ関連問題解決への努力と秘密交渉の進展

(1)ロッカビー事件容疑者の引渡しと国連制裁の停止

バック・チャネル外交を通じ、米国との関係改善には何よりもテロ関連問題
の解決が不可欠だと認識したリビアは、なんとかリビアの国家的威信を損なわ
ない形で解決を図りたいと考えた。

他方、米国は1995年3月、リビアからの石油
禁輸を含む制裁強化決議案を国連安保理に提案しようと試みたが、ヨーロッパ
諸国の強い反対から断念せざるを得なかった。

ヨーロッパ諸国の多くは、石油
をリビアに依存しているばかりでなく、リビアをあまり追い詰めれば、カダフィ
体制に代わって過激なイスラム主義勢力が権力を握るのではないかと恐れたの
である。

アラブやアフリカの国々も制裁の強化には概して反対で、公然と制裁
破りをする国も増えてきた岡。

98年8月24日、米英は、ロッカビー事件の容疑者をオランダの旧米軍基地内
に設置する法廷でスコットランド法の下に裁くという妥協案を提案した。

この
妥協案の背後には、97年9月のロシアの打開工作、さらには97年10月の南アフ
リカ・マンデラ(Nelson Mandela)大統領、サウジアラビアの駐米大使バンダル・
ビン・スルタン(Bandaru bin Sultan)王子などの調停の働きかけがあった。


の妥協案をリビアにのませるため、国連安保理は98年8月28日、「リビアがこれ
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国際安全保障第37巻第2号
を受け入れて容疑者がオランダの法廷に到着し、かつリビア政府がUTA機爆破
事件に関してフランス司法当局を満足させたと国連事務総長が報告した時には、
国連制裁を停止する」という趣旨の決議1192を全会一致で採択した伽。

しかし、この裁判がリビアの体制転換に利用されるのではないかとリビア側
が恐れたことから、アナン(Kofi Annan)国連事務総長とマンデラ南アフリカ
大統領は、容疑者に対しては事件以外に関する尋問は行わず、リビアの体制転
換にも利用しないという保証を米英から取り付け、その旨をリビア側に伝えた。

その結果、リビアは99年4月5日、2人の容疑者をオランダに引き渡した。他方、
UTA機事件に関しては、リビアは被害者の遺族、航空会社などに2億1,100フラ
ン(約3,400万ドル)の補償金を支払った。これにより安保理決議1192の条件は
満たされ、99年4月8日、リビアに対する国連の制裁は停止された狗。

(2) ロッカビー事件裁判の進展と秘密交渉の開始

ロッカビー事件の容疑者の引渡しが行われる数年前から、英国はフレチャー
事件の解決をめざして密かにリビアと接触を行っていた。

1999年5月、ロッカ
ビー事件容疑者の引渡しの1か月後に米•英・リビア3国の秘密交渉が開始され
たのは、英リビア間にこうした長期にわたる接触があったからである。

なお、
99年7月にはリビアがフレチャー事件に対する責任を認め、英国とリビアの外交
関係は回復された”。

3国秘密交渉の第1ラウンドは、99年5月から2000年初めまで、サウジアラビ
アのバンダル・ビン•スルタン王子が所有する英国とスイスの邸宅で行われた。

米側首席代表にはインディク国務次官補、リビア側首席代表にはムーサ・クー
サ対外情報局長が就いた。

リビア側はこのラウンドで、大量破壊兵器計画を中
止する意向を伝えてきたが、米側はパンナム機事件の犠牲者の遺族がリビアか
らの補償金支払いを求めて米議会に大きな圧力をかけていたことから、その問
題の解決に優先順位を置いたという(か。

その後秘密交渉は米大統領選挙のため中断され、2001年1月にブッシュ政権が
発足してからも暫くは再開されなかった。

他方、オランダで2000年5月に開始さ
れたロッカビー事件の裁判は2001年1月に結審し、2人の容疑者のうち1人は有
罪で終身刑、1人は無罪の判決が下された。有罪となった1人は控訴したが、2002
年3月には控訴が棄却され、有罪が確定してスコットランドの刑務所に収監され
た”。
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2009年9月

(3) 「テロとの戦い」と秘密交渉の再開

米英との秘密交渉が開始された頃から、リビアの対外政策には明白な変化が
現れた。

それはまず、テロ活動に走る過激なグループと完全に絶縁したことで
ある。

例えばパレスチナの超過激派であるアブ・二ダールのグループは1999年
にリビアから追放されたし、PFLP-GCの訓練基地なども閉鎖された。

それに先
立ち98年には、アル•カイダのグループがリビアで外国人暗殺に関与したとし
て、リビア政府はインターポールを通じてアル・カイダの指導者オサマ・ビン・
ラーディン(Osama bin Laden)に国際逮捕状を発した。

こうして過激なグルー
プと手を切ったリビアは、同じようにテロリスト組織と戦うエジプト政府やヨ
ルダン政府に接近し、またパレスチナのイスラム過激派のテロを非難して自治
政府を積極的に支援する姿勢に転じた物。

2001年9月11日、米国で同時多発テロが起こると、カダフィは直ちに犠牲者
を悼み、テロリストを非難する声明を発表した。

リビア政府はまた、実行犯の
氏名などを含むアル・カイダに関する多くの情報を米国政府に提供した。
ブッ
シュの「テロとの戦い」に同調する姿勢を示したのである。

そしてその翌月か
ら、米・英・リビア3国の秘密交渉が再開された。米側の首席代表には新任のバー
ンズ(William Bums)中東担当国務次官補が就き、リビア側は引き続きムーサ・
クーサ対外情報局長が首席代表を務めた。2001年10月から2003年12月まで6回
に及ぶ会談が行われたこの第2ラウンドの交渉では、米側がリビアに対し、テロ
関連の国連安保理決議の要求が完全に満たされれば国連の制裁は終了するけれ
ども、米国の対リビア制裁は大量破壊兵器の問題が解決されなければ終了しな
い旨を伝えたという㈤。

4 テロ関連問題の解決から大量破壊兵器廃棄声明へ

(1)ブッシュ政権内部の異論と英国が果たした役割

秘密交渉は再開されたものの、ブッシュ政権内部では交渉の進め方について
さまざまな反対や異論があった。

例えばラムズフェルド(Donald Rumsfeld)国
防長官は、人権問題や民主化の問題も交渉議題に含めるべきだと強く主張した。

またネオコン派のボルトン(JohnBolton)国務次官は、交渉で自分自身が大き
な役割を果たしたいという希望を持っていたが、英国側の意向で交渉からはず
されたという叫
-88 –
国際安全保障第37巻第2号

2002年1月の一般教書演説でブッシュ大統領が打ち出した「悪の枢軸」に、リ
ビアは含まれなかった。これもボルトン国務次官らが含めるよう強く主張した
のに対し、ストロー英外相の意向を受けたパウェル(Colin Powell)国務長官、
ライス(Condoleezza Rice)安全保障問題補佐官らが、リビアとの交渉に悪影響
を与えることを恐れて強く反対したからだという”。

2002年8月、オブライエン(Michael O’Brien)英外務担当閣外相がリビアを訪
問し、リビアと米国との関係正常化のためには、テロ関連問題の完全解決のほ
かに大量破壊兵器問題を解決することが必要であると説いたのし対し、カダフィ
から前向きの返答を得たという物。

(2) テロ関連問題の解決と国連制裁の終了

2002年春以降、ロッカビー事件へのリビアの責任の明確化及び遺族への補償
に関する交渉は、英国の主導の下に進められた。リビア側の交渉担当者は、ムー
サ・クーサ対外情報局長のほか、モハメド・ツワイ(MohammedZwai)駐英大
使、アブデラティ・オバイディ(Abdellati Obadi)駐伊大使で、いずれもカダフィ
の信頼厚い人物であった。

さらにカダフィの息子で「カダフィ国際慈善財団」
理事長でもあるセイフ・アルイスラムが関わってきたことから、交渉は大幅に
進展した。

彼はまた、大量破壊兵器の廃棄についても大きな役割を果たした眺

2003年3月、ロッカビー事件の民事責任に関する合意が成立し、同年8月には
ロッカビー事件に関する補償合意が成立した。リビア側が犠牲者1人当たり1,000
万ドルの補償金を支払うという内容であった。

セイフ•アルイスラムの説明に
よれば、リビア側は、資金27億ドルの「平和基金」なるものを創設し、そこか
らロッカビー事件の犠牲者の遺族に補償金を支払うが、同時に1986年の米軍の
空爆により犠牲となったリビア人の遺族に対しても同基金から補償金を支払う
ということで、国内的に面子を保つ形をとった®»。

これを受けて2003年9月12
日、国連安保理は、リビアに対する制裁を「終了」するという内容の、英国が
提出した決議1503を採択した。リビアに対する国連の制裁が「停止」されてか
ら4年5か月振りのことである。

(3) 大量破壊兵器廃棄決定への最後の詰め

すでに見たように、秘密交渉の場で米国側は、テロ関連問題が解決されて国
連のリビアに対する制裁が終了しても、大量破壊兵器問題が解決されない限り
は米国の対リビア制裁は解除されないということを伝えていた。

それとともに
-89 –
2009年9月
米国は、リビアがこの問題で歩み寄れば、イラクに対して米国が採ったような
体制転換の政策を、リビアに対して採ることはないということを、英国を通じ
て伝えていた。

ただ問題は、カダフィが米国の真意について疑心暗鬼を完全に
は払拭できないでいることであった。

それを払拭するのに最大の役割を果たしたのが、セイフ•アルイスラムであっ
た。1972年生まれというから2002年には30歳にすぎかったセイフ•アルイスラ
ムは、トリポリのアル・ファタハ大学で建築・都市計画を学んだ後オーストリ
アの大学で都市計画の修士号をとり、秘密交渉の第2ラウンドが進行したのと並
行して、2002年からロンドン大学大学院の博士課程に留学し、グローバル・ガ
バナンスの勉強を開始した。

というよりは、留学という名目で秘密交渉のプロ
セスに直接参加し、そこでの感触を通じて父カダフィに大量破壊兵器完全廃棄
への決意を促したのである岡。

すでに見たように、2003年9月、BBCチャイナ号がブッシュ政権のPSIによつ
て捕捉された事件がひとつの大きな転機となったというのが通説であるが、あ
る報道によれば、リビア側が善意の証として故意にこの船についての情報を米
英側に漏らしたのだともいわれる姻。

真偽のほどは不明だが、これがカダフィに
廃棄決定を迫る要因となったことは疑いない。

これを機に、リビアは米英の代
表を現地に招致し、大量破壊兵器開発の現状をすべてさらけ出して、2003年12
月の廃棄声明へと至る。

いずれにせよ、レーガン政権のごく一時期を除き、米英両国がリビアに対し
て体制転換ではなく政策転換の政策を追求し続けたこと、そして交渉の秘密を
長期にわたって維持し続けたことが、自らの政権維持にこだわり、かつ自己の
対外イメージにこだわるカダフィの廃棄決定につながったと思われるのである。


(1) リビアの正式国名は「大リビア・アラブ社会主義ジャマーヒーリア」(英語表記
では The Great Socialist People’s Libyan Arab Jamahiria)であるが、ここでは略称の
リビアを用いる。なお、ジャマーヒーリアとは「人民による共同体制」を意味す
るのだという。

(2) 声明の全文(英訳)はBBC News電子版による 2009年7月1日アクセス。
(3) カダフィの日本語での呼び方や英語での表記方法は人によってさまざまだが、
ここでは外務省のホームページが用いている方式に従った。
—90 —
国際安全保障第37巻第2号
(4) Lally Weymouth, “On Saddam, Lockerbie, Bin Laden and Peace: An Inclusive Interview
with Muammar Gadhafi,” Washington Post,12 January 2003.
(5) Saif Aleslam Qadhafi, “‘Libyan-American Relations,” Middle East Policy, vol.10, no.1
(Spring 2003), pp. 43-44.
⑹ 声明全文はいずれもBBC News電子版による。ブッシュ声明はs ブレア声明は いずれも2009年7月1日アクセス。
(7) アルジェリア出身のムハンマド・ブン・アリ・アッサヌーシー(Muhammad bin
Ali al-Sanusi)により1837年にメッ力で創設され、1840年代以降リビアを中心に北
アフリカに拡大したイスラム神秘主義教団。
(8) 王制時代のリビアについては次を参照。Lisa Anderson, The State and Social Trans-
formation in Tunisia and Libya, 1930-1980 (Princeton: Princeton University Press,1986).
(9) Christopher M. Blanchard, Libya: Background and U.S. Relations (CRS Report for
Congress, November 2008), pp. 2-3.
(10) 第1章が「民主制のもつ問題の解決一人民の権威」(75年)、第2章が「経済問題
の解決一社会主義」(77年)、第3章が「第三の普遍理論の社会的基礎」(78年)で
ある。これらの英訳版は、http://www.mathabanet/gci/theory/gb.htmで読むことが
できる。
(11) Francois Burgad, “Qadhafi’s Ideological Framework,” in Dirk Vandewalle, ed., Qadhafi s
Libya (New York: St. Martin’s Press,1995), p. 52.
(12) Blanchard, Libya: Background and U.S. Relations^ p. 4.
(13) Gawdat Bahgat, Proliferation of Nuclear Weapons in the Middle East (Gainesville:
University Press of Florida, 2007), pp. 135-136.
(14) Ronald Bruce St John, “New Era in American-Libyan Relations,” Middle East Policy,
vol.9, no. 3 (September 2002), p. 86.
(15) Clyde Mark, Libya (CRS Issue Brief fbr Congress, updated May 2005), p. 7.
(16) Ibid., pp. 7-8.
(17) 川西晶大「リビアに対する経済制裁とその帰結」『レファレンス』no. 692(2007
年11月)109頁。
(18) Mark, Libya, p. 8.
(19) Ibid.
(20) 川西「リビアに対する経済制裁とその帰結」111頁。
(21) Yahia H. Zoubir, “The United States and Libya: From Confrontation to Normalization,”
Middle East Policy, vol.13, no. 2 (Summer 2006), p. 49.
(22) Mark, Libya, p. 6
(23) 川西「リビアに対する経済制裁とその帰結」118-120頁。
(24) 「国際テロリズムに関する声明」、外務省『わが外交の近況』(外交青書)昭和61
年版、458-459頁。
(25) UN Doc. A/46/825 S/23306 (31 December 1991)及びUN Doc. A/46/827 S23308 (31
December 1991).
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2009年9月
(26) UN Doc. S/23574 (11 February 1992)及び UN Doc. S/23672 (3 March 1992).
(27) 川西「リビアに対する経済制裁とその帰結」112頁及びBruce W. Jentleson and
Christopher A. Whytock, “Who ‘Won’ Libya? The Force-Diplomacy Debate and Its
Implications for Theory and Policy/International Security, vol.30, no. 3 (Winter 2005/06),
p. 64.
(28) Ibid.
(29) Joshua Sinai, ‘”Libya’s Pursuit of Weapons of Mass Destruction,” Nonproliferation
Review, vol.4, no. 3 (Spring-Summer 1997), p. 94.
(30) Elaine Sciolino, “U.S. Sends 2000 Gas Masks to the Chadians,” New York Times, 25
September 1998.
(31) Joseph Cirincione et al., Deadly Arsenal: Nuclear, Biological and Chemical Threats
(Washington D.C.: Carnegie Endowment for International Peace, 2005), p. 323.
(32) Dany Shoham, “Libya: the first real case of deproliferation in the Middle East?” Disarma-
ment Diplomacy^ no. 77 (May/June 2004), p. 40.
(33) OPCW News 電子版 http://www.opcw.org/news/news-archives/archive/2004/ 2009
年7月10日アクセス。
(34) Shoham, ”Libya: the first real case of deproliferation,” pp. 42-43.
(35) Bahgat, Proliferation of Nuclear Weapons, p.128.
(36) Ibid, pp. 128-129.
(37) Cirincione et al., Deadly Arsenal, p. 324.
(38) Wyn Q. Bowen, Libya and Nuclear Proliferation: Stepping back from the brink, Adelphi
Paper 380 (The International Institute for Strategic Studies, 2006), pp. 9-10.
(39) International Institute for Strategic Studies, Nuclear Programmes in the Middle East,
IISS Strategic Dossier (International Institute for Strategic Studies, 2008), p. 98.
(40) IAEA Report by the Director General, GOV/2008/39, Implementation of the NPT Safe-
guards Agreement in the Socialist People 5 Libyan Arab Jamahiria (12 September 2008),
p. 4.
(41) Anthony Cordesman, Weapons of Mass Destruction in the Middle East (London: Brassey’s,
1991),pp. 151-153.
(42) IISS, Nuclear Programmes in the Middle East, pp. 99-101.
(43) Ibid.
(44) Bowen, Libya and Nuclear Proliferation, pp. 36-43.
(45) IAEA Report by the Director General, GOV/2008/39, pp. 5-6.
(46) IAEA Report by the Director General, GOV/2004/12, 20 February 2004, p. 6.
(47) Bowen, Libya and Nuclear Proliferation, p. 66.
(48) Sharon A. Squassoni and Andrew Feickert, Disarming Libya: Weapons of Mass Destruc-
tion^ CRS Report for Congress, 22 April 2004, p. 4.
(49) Blanchard, Libya: Background and U.S. Relations, p. 34.
(50) Bowen, Libya and Nuclear Proliferation, p. 48.
(51) 藤原和彦「リビアの政策転換ープロセスとWMDプログラム放棄一」『海外事
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国際安全保障 第37巻第2号
情』第52巻第4号(2004年4月)63頁。
(52) Bowen, Libya and Nuclear Proliferation, p. 48.
(53) BBC News 電子版 http://news/bbc.co.uk/l/hi/uk-politics/3336073.stm 2009年7 月
!日アクセス。
(54) Bowen, Libya and Nuclear Proliferation, p. 50.
(55) Jentleson and Whytock, “Who ‘Won’ Libya?” p. 48.
(56) Ibid.
(57) Martin Indyk, “The Iraq War Did Not Force Gaddafi’s Hand,” Financial Times, 9
December 2003.
(58) Flynt Leverett, “Why Libya Gave Up on the Bomb,” New York Times, 23 January 2004.
(59) Blanchard, Libya: Background and U.S. Relations, p. 26.
(60) Ronald Bruce St. John, “Libyan Foreign Policy: Newfound Flexibility,” Orbis, vol.47,
no. 3 (Summer 2003), p. 401.
(61) Lisa Anderson, “Muammar al-Qaddafi: The King of Libya,” Journal of International
Affairs^ vol.54, no. 2 (Spring 2001),p. 516.
(62) Meghan L. O’Sullivan, Shrewd Sanctions: Statecraft and State Sponsors of Terrorism
(Washington D.C.: Brookings Institution, 2003), pp. 203-204, 210-211.
(63) Ray Takeyh, “The Rogue Who Came in from the Cold,” Foreign Affairs, vol.80, no. 3
(May/June 2001),p. 65.
(64) Ray Takeyh, “Qadhafi and the Challenge of Militant Islam,” Washington Quarterly, vol.
21,no. 3 (Summer 1998), pp.165-170.
(65) Stephen D. Collins, “Dissuading State Support of Terrorism: Strikes or Sanctions? An
Analysis Employed Against Libya,” Studies in Conflict and Terrorism, vol.27, no.1
(January-February 2004), p.13.
(66) Ronald Bruce St. John, “Libya is not Iraq: Preemptive Strikes, WMD, and Diplomacy,’*
Middle East Journal, vol.58, no. 3 (Summer 2004), pp. 338-339.
(67) Barbara Slavin, “Libya’s Rehabilitation in Works since Early ’90s,” USA Today, 27 April
2004.
(68) 川西「リビアに対する経済制裁とその帰結」113頁。
(69) 同上、114頁及び、Gentleson and Whytock, uWho ‘Won’ Libya?” pp. 69-70.
(70) Khalil I. Matar and Robert W. Tabit, Lockerbie and Libya: A Study in International
Relations (Jefferson, N.C., McFarland, 2004), pp. 270-272.
(71) Bowen, Libya and Nuclear Proliferation, p. 59.
(72) St. John, “Libya is not Iraq,” pp. 391-392.
(73) Mark, Libya, pp. 4-5.
(74) Bowen, Libya and Nuclear Proliferation^ p. 3 7.
(75) Jentleson and Whytock, “Who “Won’ Libya?” p. 72; Bowen, Libya and Nuclear Prolifera-
tion, p. 61.
(76) Jentleson and Whytock, “Who ‘Won’ Libya?” pp. 72-74.
(77) Ibid.
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2009年9月
(78) George Joffe, “Libya: Who Blinked, and Why,” Current History, no. 673 (May 2004),
p. 223.
(79) Bowen, Libya and Nuclear Proliferation^ p. 62.
(80) Saif Aleslam Qadahfi, “Libya-American Relatios,” pp. 41-42.
(81) Bowen, Libya and Nuclear Proliferation^ pp. 62-63.なお、セイフ・アルイスラムに
ついては次を参照。Yehidit Ronen, “Libya’s Rising Star: Saif aklslam and Succession^^
Middle East Policy, vol.12, no. 3 (Fall 2005), pp. 136-144.
¢82) Stephen Fidler, Mark Husband and Roula Khala£ “Return to the Fold: How Gadhafi Was
Persuaded to Give Up Nuclear Goals,n Financial Times, 27 January 2004.
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